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ぼくは知ってる
ドライヤーで飛ばしすぎて 指先ではじきすぎて
君の目は涙を忘れた
紙を切って涙をつくったよ
ほっぺたに貼って眠りなよ
夢のなかでほんものに変わる
……祖父がくれた紙片は私の宝物だ。時々頬にあてる。すると本物の涙が落ちてくる。彼は生涯私に嘘をつかなかった。
私が働いた喫茶店には、燕先生がよくおいでになった。あの時、私はすりつぶされそうな日々を過ごしていた。
「濁りのない水を飲みなさい」
先生は預言のような助言をくれた。私はお孫さんに似ていたらしい。
本屋に先生の遺作が並んだ。ページを開くと、先生の声が聞こえてきた。
鳩にパン屑を与える老人は、私が送った咎めの視線を察知したのだ。
彼はベンチを立ち、私に近づき、紙袋を広げてみせた。
そこにパン屑はなかった。
ふっくらとした実のような言葉がつまっていた。
目の前で言葉が撒かれた。
鳩がついばみ、空へ飛び、雲になって消えた。
兄の文机を片しておりましたら、古びた手紙が出てまいりました。
女性の筆でしたから、開いてはいけない気がして、そのまま火にくべました。
そうしたら、小さな声が立ちのぼりまして、苦いような甘いような匂いを感じました。
ふと枝を見ましたら、燕によく似た形の雲が浮かんでおりました。
儚い宝ものは、兄に届いたのでしょうか。
臨終の近い患者の元に猫が現れるという。
「猫がいたんだよ。静かに座っていた。あの子なら側にいてくれる。向こうへ渡る時、僕はひとりじゃないのだね」
何も知らないはずのT氏が穏やかに話した。
個室を出て暗い廊下にライトを当て、私はナアと鳴いてみた。
白い影が走ったように見えた。
伯母は黒猫を拾ったのだった。
「カラスが恐ろしい風に抗った時だった。黒い色がぼっとり落ちたの。白猫だったこの子がそれを受け取ったの」
しばらくして黒猫は姿を隠し、伯母の銀髪が漆黒に変わった。
もう何日も伯母と連絡が取れない。
彼女の庭に黒いバラが咲いた。
気づいたのは私だけだ。
祖父は黄色の靴下をはいていました。ストライプだったり、ミズタマだったり、淡いものから原色まで、とにかく黄色の靴下。
ひとり暮らしの祖父の家に、ときどき様子を見に行くようになって、洗濯なんかを手伝ようになって、はじめて知ったことでした。それまで、ふしぎと気づかなかった。洋服に色をたくさん使うひとだったから、目立たなかったのかもしれません。靴下だけは黄色で統一していたんですね。もちろん、どうしてなのって尋ねました。そうしたら、逆に聞き返されました。
「イエローからきみはなにを思う?」
イエロー。慎重に言葉を選ぶ祖父が、わざわざイエローと口にしたのですから、祖父にとって、その色は黄ではなく、イエローだったのでしょう。
「レモンとか」
「それから?」
「カレーライス……とか」
「それから?」
「バナナみたいな……あ、マジックオーケストラ、とか。モンキー……とか」
「一服するよ」
とつぜん祖父はソファから立って、外へ出ました。ひまわり柄の、やっぱり黄色い靴下でした。ガレージの前にパイプイスを置いて、ぷかぷかとタバコをやりはじめました。子供や近所のひとが通りかかると、「こんにちは」とか「元気?」とか、なにか声をかけていました。小学生もね、慣れた感じで、あいさつしていくんですね。私がとなりに立っているときのほうが、はずかしそうにして。祖父の暮らしの世界には、小さい子から、学生さんから、おとなまで、いろんなひとが住んでいて、みんななんだか笑ってた気がします。ちょっとはにかんだ笑顔っていう感じ。祖父のつくる世界には、片隅っていうものがなかったな。名無しのひとがいないっていうか。
「ねえおじいちゃん」
「なに?」
「はぐらかしたんでしょ。もしかして、私の答え、いいところいってたんじゃない?」
錆びたパイプイスに座る祖父の、あたまのてっぺんは、ちょっと毛が薄くて、ひよこに似ていました。でも、昔の写真を見たから知っているんですけれど、若い頃はツヤツヤの黒髪で、彫りの深い顔立ちは、なかなかの美男子っていうやつだったんですよね。祖母とふたりで、なんとか岬で撮った写真。そんな彫りの深い顔は、長年の秘密主義に磨かれたおだやかさだけ浮かべていて、私ごときが本心を当てられるはずもありませんでした。祖父はタバコの煙で輪っかを上手に空へ飛ばすだけで。
そのとき答えはわかりませんでしたけれど、〈イエロー〉が祖父にとって秘密にしたい大切なことだったのは、確かだったんです。
祖父の葬儀が終わって、家の片づけをしているときに、大叔母にイエローについて話しました。そうしたら、大叔母はこともなげに答えました
「レモンも、カレーライスも、バナナも、みんな、あなたのおばあちゃんの好きなものよ。イエローマジックオーケストラも。あなた、いい線いきすぎたのね」
2020年3月8日 発行 初版
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