AIが囲碁界を席巻し、それ以外でニュースになるのは天才少女や七冠のニュースが中心。
そこに小さいながらもシニアを喜ばせるような画期的なニュースが時折紙面を飾ります。
認知機能の維持・向上に囲碁が役立つという研究レポートです。
囲碁はこれまで上達にのみ焦点があてられ、コミュニケーションツールとしての側面がおろそかにされてきた面があります。将棋に比べても、多くの食わず嫌いが存在するのが囲碁の一面でもあるかと思います。
上記の研究が影響してか、介護や認知症カフェといった高齢者関連施設でも囲碁への関心が高まり、囲碁を楽しむ高齢者が増えているようです。
そこで、これまで囲碁を難しいものと諦めていた方達や直接囲碁を趣味にしようとは考えていない施設の職員あるいは自治体の福祉関係職員などに「囲碁とはどんなゲームか」に焦点を当てた入門書を書いてみようというのが本書を書く動機でした。
初版から初心者の方や関係職員の方々に配布し、好評を頂いております。
この際、広く関係者の方々に読んでいただきたく、電子出版することにいたしました。
60歳と言わず、70になっても80になっても始められるのが囲碁というゲームの奥深さです。
この本を通じて多くの方に囲碁への窓が開かれることを願ってやみません。
石橋清人
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囲碁をしないのには各人ごとにそれぞれの異なった理由があるようです。
・ゲームとしての囲碁に興味がない方
・ちょっとやってみて、難しくて(あるいは覚えるのが面倒臭くて)やめた方
・子供や家族がやっているのを横から見ているだけで、やろうとは思わなかった方
・「他に楽しいことがいくらでもあるから、無理して囲碁をしなくても」と考えている方
・「囲碁は高尚で近づきがたい」と考えている方
等々。
そんな方々が、家族や知人など親しい人が楽しんでいる囲碁というゲームについて「ああ、そんなことをしているのか」という程度の知識でも得ることができるならば、囲碁をする人との距離感はぐっと近くなることでしょう。
さて、小さいころに将棋をした方は多いようですが、囲碁をしたという方は将棋に比べるとずいぶん少ないように思われます。将棋の駒の動かし方だけは知っているという方のなんと多いことでしょう。そんなポピュラーな将棋ですが、それでも小さいころの遊びとして封印してしまっているという方もずいぶん多いように思われます。
※囲碁では縦横19の線(19路)が引かれた碁盤で対戦をしますが、初心者向けの教室では理解を助けるために7路、9路、13路といった少し小さめな碁盤で解説や対戦をします。本稿でも説明には9路盤を使用しています。
これに対して囲碁の場合は、小さいころに覚えたら大人になっても継続しているという割合が比較的多いように思われます。
ただ、将棋の道具の普及率は囲碁の道具に比べてはるかに多いという実感があります。
多くの家庭に紙に書いた将棋盤と将棋の駒が詰まった箱がありました。これに比べると碁盤や碁石を目にすることは本当に稀であったという年少の頃の記憶があります。
大人になったときに囲碁や将棋をしなくなる理由は様々あるのでしょうが、社会人になった時の多忙さが特に影響しているのではないでしょうか。
また、子どもが将棋の方に興味を抱く理由には、将棋の駒のキャラクターの多彩さと黒と白しかない碁石の個性の無さの差が影響を与えているものと思われます。また将棋では、一番位の低い歩が金になって活躍するというドラマチックなシーンも子どもたちの心をとらえる大きな要因となっているのではないでしょうか。(将棋の駒は自ら動くことができるが、碁石は動けない…)
本書の趣旨にのっとり、ここからは囲碁の理解を助けるためのいくつかのテーマに分けて説明を進めたいと思います。
(テーマ)
①どんなゲームか
歴史、専門用語、将棋との違い、石と石の関連性(自分の石、相手の石)など
②ルール
③囲碁の学び方
ヨミと判断、手順(打つ順番)、パラダイムシフトなど
④メンタルな側面
壁は自分が作っている
⑤勉強法
置き碁を打って、石の関連性を学ぶ
⑥鑑賞法
⑦その他
先手と後手の差(ハンディのこと)など
囲碁は紀元前に中国で生まれ、遣唐使などを通じて日本に伝わったと考えられています。歴史ドラマなどに登場する武士が囲碁を打つシーンはおなじみでしょう。源氏物語や徒然草など古典にも多く囲碁が登場しますが、囲碁の発展と定着に貢献したのは江戸時代に始まった家元制度でした。本因坊家や安井家などが大名の庇護を受けて技術を競ったことから、この時代に囲碁の技術が格段に進歩し、庶民に広まっていきました。
囲碁を習い始めてまず直面するのが、専門用語の壁です。
将棋の駒を盤に置くとき「指す」と言い、碁石を盤に置くときは「打つ」と言います。「指す」と「打つ」という言葉からくる語感の違いは、将棋と囲碁のゲームとしての相違点を浮かび上がらせているようにも思います。
このほかにも囲碁には特殊な用語がたくさん登場しますが、本稿の読者は囲碁を学ぶことが目的ではないので、必要最低限の用語をその都度説明を加えて紹介いたしましょう。
将棋の駒は一つひとつに名前がついています。そしてその名前ごとに能力・役割が決まっています。将棋を指す人は一つひとつの駒の能力と役割を最大限に発揮するよう駒の采配をするわけです。その昔の軍師のような役を演じるわけですね。
将棋の最終的な目的は相手の王様をとりあげることです。実際にはそこまでゲームでやるわけではありません。王様が逃げられなくなった状態で敗戦を宣言しゲームセットとなります。
これに対して囲碁では、将棋の場合の王様のようなはっきりとした最終目的とすべき相手の石があるわけではありません。白石と黒石しかなく、個々の石の能力・役割に違いはありません。一個の小さな丸い石は四方八方へ影響を及ぼす可能性を持っています。味方の石同士の関連性(又は組み合わせ)、相手の石との関連性において最大の能力を発揮するように打つ(石を配置する)ことができるならば勝率はぐっと上がります。石と石との関連性を学ぶことが囲碁を学ぶことと言っても過言ではないでしょう。
囲碁は陣取りゲームとも言われ、将棋が相手の王様を召し取ることを目的とするように、囲碁においては相手より広い陣地を得る(敷地を囲う)ことを目的とします。どれだけ相手より広いかは問題ではありません。たったの石一個分だけ相手の陣地より広ければ勝ちとなります。縦横19の線が書かれているだけの碁盤の交点(縦の線と横の線が交わった点)に白黒一個ずつ交互に石を置いていき、陣地の広さ(囲った陣地の交点の数)を競うわけです。
上の図で白黒互いの陣地の数を計算してみましょう。
・黒石で囲まれている陣地の交点の数は20。
・白石で囲まれている陣地の交点の数は29。
・白の9目勝ちです。
※真ん中の黒い点は石ではありません。「天元」といわれる碁盤の中心点を示しています。
相手より広く囲おうとすると、境界をめぐってどうしても相手と接触することになります。接触することにより戦いが始まります。
石が接触することであらたなルールが必要になってきます。
その一つが「上下左右を囲まれた石は取られる」です。
一つの石は上下左右に引かれた線の交点の上に置かれていますが、その石に接触している上下左右の交点を全て相手の石に占められると、発展性を奪われ、死に石と見なされて取り上げられ、相手の戦利品となります。(取られた石のことを「アゲハマ」といいます)取り上げられた石はゲームが終了して陣地を数えるとき、相手の陣地を減らすために使うことができます。相手の石を取ることは、自分の陣地を増やすことに役立つとともに、相手の陣地を減らすことにも利用できるので、一個の「アゲハマ」は二個分のプラスの効果をもたらすことになります。
これに対して将棋では、取った相手の駒は自分の手駒(控えの駒)として盤上で有効利用することができ、このことで将棋の戦略性は飛躍的に高まることになります。
囲碁では取り石をゲーム中に再利用することはありません。
また、味方の石同士が上下左右に接触することで大きなひとかたまりの石となりますが、どんな大きな石のかたまりでも上下左右を全て相手の石に囲まれると取られてしまうのです。
次に囲碁のルールを整理してみましましょう。
囲碁には次のようなルールがあります。
①石は線と線が交わった「交点」に打つ(置く)⇒将棋ではマスの中に置く
②黒白交互に打つ
③石は囲むと取ることができる⇒将棋では相手の駒の場所に自分の駒を進めることによって取ることができる
④打ってはいけない場所(着手禁止点)がある
(着手禁止点の例外や同じ手を繰り返すことがないよう劫(コウ)というルールがある)
⑤白石又は黒石で囲まれた陣地が大きい方(広い方)が勝ち
①と②は覚えるほどのこともなく、④のルールを除けば非常にシンプルなルールであり、いつでもすぐに始められるゲームです。
④のルールは囲碁に特有なものなので、簡単に説明しておきましょう。
③で石は囲まれると取られることを説明いたしましたが、それは上下左右を相手の石に囲まれることによって活力を失ったことによるものです。黒石・白石からみて上下左右の線が出ている場所を「呼吸点」と呼びます。その呼吸点を全てふさがれるわけですから、石の生命力が奪われることになりますね。
そこで④のルールでは、自ら活力を失うような場所に打つことを禁止しています。(着手禁止点)
また、着手禁止点の例外として、相手の石を取ることができるときは打つことが認められています。
ここでついでに着手禁止点の例外の又例外のような「コウ」のルールについても説明しておきましょう。
「コウ」は「劫」とも書き、同じことを繰り返し未来永劫(みらいえいごう)終わらないことからこの名が付いたと言われています。
ゲーム(実戦)にコウが現れると、上級者でも苦労することがあるくらい難しい戦いとなることがあり、ここでは基本的な考え方を述べるにとどめておきましょう。
このように「上下左右を囲むと相手の石を取ることができる」というルールだけでは取ったり取り返したりが繰り返されることになり、まさに未来永劫終わらなくなってしまいます。
(コウのルール)
そこで、このような形になった時は、図2と白に黒石を取られたあとですぐに図3のように黒から白石を取り返すことはできず、その場所以外の場所(AやB以外の場所)に一度打ってからでなければ取り返すことはできない。これが「コウ」のルールです。
つまり2図と3図の間にはどこかほかの場所に黒が一手打ち、白も一手打って、それから3図のようにようやく黒が白石を取り返すことができるのです。
次に図3のように黒が白石を取った時も、次の白はどこか他の場所へ打ってからでなければ、黒石を取り返すことができないのです。
コウのルールは囲碁というゲームを難解にする一因ともなっていますが、コウの存在により戦略性が高まったという面も見逃せません。
コウに対する理解は囲碁の上達にリンクしているといっても過言ではありません。
蛇足ですが、1図で黒がAと打つ(つなぐとも言う)ことや、2図で白がBと打つことなどは取られる形に打っているわけではないのでルール違反にはなりません。
それでは次に、上達のプロセスについても見てみることにしましょう。
どんなゲームも一気に上級者の域までというわけにはいきません。
囲碁のいくつかの入門書では、19路の標準的な碁盤ではなく7路盤、9路盤といった小さな碁盤でルールを学ぶことから始めています。入門者の方々にはルールを学んだ後に石を囲んで取ることを中心としたミニゲームを行い、対戦の面白さを体験していただきます。そののち具体的なゲームの流れ、様々なテクニックなどを学んでいきます。
ゲームの流れは
〇序盤(布石)→中盤(戦いなど)→終盤(ヨセ)→整地→陣地の計算→勝敗の決定
というように進んでいきます。
テクニックは序盤から終盤までの各段階で様々なものがあり、
「定石(序盤での決まった形)」「相手の石を取る技術」「自分の石同士をつなぐ技術」「相手の石の連絡を絶つ(切る)技術」「有利に境界を決める技術(ヨセ)」などについてさらに様々なものがあります。
学びの過程において何割かの入門者は、冒頭に示した理由などを含めて何らかの理由で囲碁から離れてしまうこととなり、興味をもって囲碁を続けることとなった方もどこかで伸び悩むことになり、囲碁を学ぶことを断念することがあります。
ここでは伸び悩みの理由を考えてみましょう。
囲碁の上達は、その学習過程においていくつかの壁を超えることによって実現されていきます。考えるのが面倒という方はともかく、一所懸命やっているがさっぱり上達しないし、その理由もわからないという方は、必ずと言っていいくらいその人独自の壁に突き当たっているように思われます。したがって、その壁をいかに短期に克服できるかが上達のコツと言えます。
ある段階から次の段階に進むには「囲碁とはどんなゲームか」という囲碁に対する理解の程度をより高いレベルにシフトさせていくことが必要です。
例えば「囲碁とは石取りゲームだ」と考えていた方がいたとしましょう。その方は一所懸命相手の石を取ることに集中するあまり、その考え方の範囲内から出ることが難しくなったりします。あるいは「囲碁は陣地を囲むゲームだ」と考えていた方がいたとしましょう。やはりその方も陣地を囲むことに固執したならば、その次の段階に進むことはなかなか困難になることでしょう。
囲碁では部分的な知識や能力よりも総合的な能力が求められます。
より卑近な例としては料理が好例と言えるでしょう。
レシピがあると一応、その料理に似たものはできます。しかし、レシピを見てその通りに作ろうとしてもなかなかおいしい料理はできませんね。おいしい料理は多くの要素が結集して初めて完成します。包丁やまな板などの道具類の使い方、素材と調味料、水加減火加減などがあり、食べてくれる理解者はとりわけ重要な要素です。
ここで強調したいのは、「おいしい料理とはこのようなもの」という理念のようなものがおいしい料理を作ることに重要な役割を果たしているということです。「おいしい料理を作るにはおいしい料理を味わうこと」とさえ言われますね。ある段階で一応の満足はできても、その段階まで行くとさらに新たなテーマが見えてくるという終わりのない探求心が料理の上達を担保しているのだと思います。

囲碁は碁石と碁盤があればいつでも始められるシンプルなゲームですが、上達するにはいくつかの技術が必要となります。
書店で囲碁の本をみますと「布石」「定石」「中盤」「ヨセ」「切る」「つなぐ」「取る」「計算」など、多様な技術を習得するための教本が並べられています。それぞれが効率的に陣地を作るうえで必要なもので、広い碁盤のあらゆる部分ですでに述べた様々な課題が出現します。まさにおいしい料理を作るための諸要素と同じですね。どれか一つだけが優れていてもなかなかおいしい料理にはなりません。
囲碁では部分部分で最良の手を打っても、全体的に見て最良とは言えない(部分の総和は全体ではない)ということが多々あります。
ここで少し専門的なことに触れてみたいと思います。
囲碁の上達にいろいろな技術が必要となるのは言うまでもありませんが、大きく「読み」と「判断」の項目に分けられるように思います。
「読み」は、ある局面から有利に進めるために何手か先まで自分の手と相手の手を読んでいくことで、垂直にドリルで穴をあけるように思考を掘り進めていくようなイメージで、「垂直的思考」と命名しました。
また、「判断」は同様に、ある局面で俯瞰的に盤面を見渡して今後の方針を立てていく、言うならば「水平的思考」と言えるでしょう。
垂直的な思考は、石を取ったり取られたりというような部分的な駆け引きに多く活用され、訓練によってある程度のレベルには達することができると思われますが、水平的な思考は、部分的な対応の正しさを確かめつつ、全体として正しい一手を求めることであり、抽象的な図形把握能力と計算能力を問われることになり、構想力の鍛錬が必要となります。
また、正しい判断のためには、何カ所か打つべき場所があった場合に、「どの様な順番で打っていくのか」が重要となります。順番が異なると結果も全く異なるものとなります。最善の順番を求めることは「垂直的思考」と「水平的思考」の両方を駆使しなければ実現できません。

囲碁のような対戦型ゲームには相手が必要なことは言うまでもありません。どんなゲームも相手との読み比べになることは必至です。相手が何を考えているかがわかれば言うことは無いのですが・・・。
同じぐらいの強さの人同士でも、囲碁を打っている途中で相手と場所を変えて盤面を眺めてみると局面がまったく違った見え方をすることが分かります。つまり相手は自分とは異なった観点から局面を分析している可能性があるということですね。
これまでの自分には見えなかったものが見えるようになることは上達するためのパラダイムシフト(価値観の転換)に必要なことです(すでにあげた「囲碁とはどんなゲームか」の理解のレベルを上げることですね)。ひとつの見方に拘泥せず柔軟に視点を変えてみることも求められているのです。
囲碁を勉強していると壁にぶつかることがあると申し上げましたが、その壁は自分自身が作っていることが多々あると考えられます。負けることを極度に嫌うと、囲碁を打つことが苦しくなり、囲碁から遠ざかる原因にもなってしまいます。勝敗に関わらず楽しむことができなければ、囲碁を覚えることの大きな意味は薄れてしまうでしょう。
「絶対負けない方法は、相手と勝負しないこと」という言葉があります。誰の言葉かは知りませんが、まさに至言なるかなですね。
「上達のプロセス」では上達の一般的なプロセスを述べてきましたが、大人と子どもでは少し事情が異なるようです。本稿ではその目的が囲碁をしない大人を対象としていたわけですが、子どものことについても少しふれてみましょう。
プロになろうとする子どもたちは、小学生の低学年の時にすでに大人の高段者のレベルに達しているのがほとんどです。我々大人からしてみると、何十年もやってもなかなか強くならないのに2、3年であっという間に追い越していってしまうなんて、むなしいかぎりです。これは脳の発達プロセスと大きな関係があるように思われます。専門家ではないので決定的なことは言えませんが、脳の成長過程にあり膨大な記憶量を誇る小学生に、記憶能力が制限され始めて(続けて)いる我々大人を比べること自体無理があるのではないでしょうか。子どものような情報吸収力は無理としても、大人には積み重ねてきた経験と知恵があります。子どもと同じような吸収力に頼った勉強法ではなく、「囲碁とはどんなゲームか」という理論を優先して勉強し、その理論を実現するためにはどのようなテクニックが必要かという補充的な勉強の仕方をすれば、必ずや一定のレベル(アマチュア初段程度)までは上達するものと確信します。何よりも少しずつでも上達していく実感が伴う勉強法が必要とされているのです。
わたしは高齢者への囲碁教室にインストラクターとしてかかわるようになり、その際に料理など他の比喩を多く用いて教えることにしています。小学生などのように難しい「石の生き死に」の問題や定石などの知識を詰め込むような勉強法はむしろ上達への道を遠ざけることになります。比喩を用いることによって驚くほど理解が進むのです。まさに大人の経験と知識をフルに活用しているわけです。
勝ち負けは別にして、NHKの囲碁番組の解説を聞いたり、新聞の囲碁の欄の説明を見て「ああそういうことか」とわかるようになれば、初段に限りなく近づいていること受け合いです。そして「囲碁とはどんなゲームか」という究極の目標を最優先にどこまでも問い続けること。その問いについて見つけ出した答えのレベルで、その人の囲碁の土台が決まります。そのうえで自分の弱点を補うこと。今一番必要なことを発見して、それに集中すること。そしてその部分が全体とどのように関連しているかについて思考をめぐらすこと。これを続けるならば、強くならずにはいないと考えます。
一局の碁は多くは次のような流れで進みます
・始めのあいさつ⇒布石(序盤ともいう)⇒中盤(戦い)⇒終盤・ヨセ(実質的なゲームはここで終わる)⇒整地⇒計算⇒終わりのあいさつ
・始めのあいさつ
ゲームを始めるときには「お願いします」と言って互いに頭を下げる。
・布石(序盤ともいう)
広い盤面に設計図を描くように構想を練り、石を配置していくこと。ただ、相手が思うとおりに対応してくるとは言えず、相手の石が想定していない場所に来たときは構想を練り直す。一手一手考えながら次の打つ場所を決めていきます。考えを口に出さず指先で石を置いていく様子から、囲碁のことを「手談」(しゅだん)と言ったりもします。
布石の研究から派生的に生まれてきたのが「定石」(じょうせき)です。将棋の「定跡」と同じように序盤の進行を双方にとって最善の結果が出るように打ち進める“決まった形”のことです。
ただ、定石は隅や辺の部分的なやり取りなので、自分や相手の石の配置との関連性により、最も効率的に働くような定石を選ばなければなりません。
ここに、すでに述べた「囲碁はヨミと判断」の「判断」の側面が表れてくるわけです。また、部分的には正しくても全体からみるとそうとは言えない場合がある。このことからも「部分の総和は全体ではない」と言った意味がご理解いただけるのではないでしょうか。
広い碁盤では隅や辺が囲いやすいと考えられており、布石(序盤)は一般的には四カ所づつある隅や辺を陣地にするように運ばれます。辺や隅は碁盤の外に接しており、碁盤の外から攻められることはないのでそちら側を守る必要もないからです。
19路の大きな碁盤では中央が広いので、中央を陣地にするように作戦を立てることも大いに考えられます。
効率を追求するあまり、少ない手数で大きな陣地を囲おうとすると相手に簡単に自分の陣地に入ってこられる。また、狭すぎると相手に入ってこられる危険性は薄れるが陣地が少なくなってしまう。この間のジレンマを抱えながら一局のゲームは進んでいくのです。
「いかに少ない石数でいかに多くの陣地を作るか」は「言うは易く、行うは難し」なのです。
・中盤
布石が終わると中盤に入ります。
中盤では、バラバラに置かれているように見える布石での配石が有効に働くように、部分的な戦いのテクニックを用います。
・終盤(ヨセ)
終盤は特にヨセ(寄せ)とも言われ、相手の陣地と自分の陣地の境界を有利に決定していきます。ゲーム開始の頃(布石)の一手の価値が数十目に及ぶものもあるのに対して、ヨセでは最終的に一手で1目、2目の差を争います。上達するほどこのヨセの技術が勝敗を左右するようになっていきます。
・整地
ゲームが終了してから、陣地を計算しやすく整地する作業を言います。
ゲームの途中で取った相手の石は相手の陣地に埋め、数えやすいように10目ずつあるいは5目ずつの陣地に整理したりします。
中国のルールでは日本とこの整地の作業と計算が異なりますが、ゲームの結果は同じになります。(微妙な違いはありますが…)
・計算
それぞれ相手の陣地(石で囲まれた空地)の大きさを数え、1目でも大きい方が勝ちとなります。
ここで「ハンディ」のことに触れておきましょう。
囲碁では先に打つ方が有利とされており、その差は経験的に5目から7目位の陣地の差となって結果に表れると言われます。そこで先に打つ方は相手より5目から7目以上陣地が多くなければ勝つことはできないような工夫がされます。アマチュアではゲームの前に黒を持った方が白を持った人にあらかじめ5目から7目の黒石をアゲハマ(取り石)として提供することで調整することがあります。
プロの世界では、対局終了時の陣地の大きさを比較して、有利な黒の方が一定の数以上勝たなければ勝ちとはなりません。つまり不利な白の方にアドバンテージを与えるのです。このハンディのことを「コミ」と言います。現在の日本では6.5目、中国では7.5目となっており、0.5が付いているのは引き分けにならないようにするための工夫です。要するに黒は7目あるいは8目以上勝たなければならないということです。
このコミを増減することによって、ハンディを調整することもできます。
一定以上の力の差がある対局者同士の場合には、対局前に碁盤に下位の相手に決められた場所にあらかじめ石を置かせることによって、ハンディを段階的に大きくすることもできます。(置き碁)
このハンディは二子から九子まで、力の差によって増やすことができます。(それ以上も可)
将棋では上位者が駒を減らすことによってハンディを調整しますが、囲碁では下位者に置き石を増やしてあげることによってハンディを調整しているわけです。
(九子の置き碁の例)
・計算
・終わりのあいさつ
これで一局の碁が終わります。
最後までお読みいただきありがとうございました。
いくらか囲碁への理解に役立てたでしょうか。
終わりに当たり囲碁の文学作品をご紹介したいと思います。
昨今の囲碁ブームには井山名人の国民栄誉賞、少年漫画の「ヒカルの碁」の影響が大きな貢献をしていることは間違いありませんが、本稿では特にシニアの方向けに川端康成作「名人」をご紹介したいと思います。自らも囲碁をたしなんだ川端が、21世本因坊秀哉(しゅうさい)名人の引退後を題材にした、昭和13年という当時の世相における囲碁棋士の真剣勝負の世界をうかがい知ることのできる、囲碁ファンならずとも楽しめる一作です。
本稿をお読みになって囲碁にいくばくかの興味をお持ちいただいた方にはぜひとも読んでいただきたい文芸作品です。
これを機会に囲碁に触れることが多くなることを期待してペンを置きます。
1.囲碁と将棋
囲碁は打ち進めるうちに盤上にどんどん石が増えていき、逆に将棋はどんどん盤上から駒が減っていきます。その結果、囲碁ではそれまでに打たれた石が取られない限りそのまま残り、視覚的にもそれまで自分が打った手を確認することができますが、将棋では、多くの駒が最適の位置を求めて動き回り、ある時点での駒の位置は跡形もなく変化してしまっていることが多いのです。
後悔する手を打った(指した)ときに、囲碁ではその時打った石がそのまま盤上に残っているために、その部分に目がいくたびに後悔の念が沸き起こってくるということも現実に起こってしまいます。
この点将棋の方はどんどん局面が変化していきますので、後悔の局面が盤上に残っていることはほとんどないわけです。将棋をあまり知らない筆者には、将棋はどんどん先へ進んでいくしかない前進あるのみのゲームのように思えるのですが…。
2.囲碁を教える立場から
さて、囲碁を教わる場合、アマ高段者やプロから教わるのが早道かと思いきや、「名プレーヤー、必ずしも名コーチにあらず」ということがあります。
ここからは私見になりますが、囲碁の場合「教えない教育」「自分の頭で考える教育」ということがことさら重要であるように思えます。
「教えない」というと何か意地悪をしているようにも聞こえますが、上達の過程で経験する「伸び悩み」は何度も学習者に訪れます。それにどのように対応するかで上達のスピードは大きく異なることになります。
囲碁では「パラダイムシフト」が重要と本章で述べましたが、「パラダイムシフト」のためには、学習者が自分で学習できることと自分では学習できないことをコーチがしっかりと把握してサポートすることが必要になります。「詰碁」や「定石」「ヨセ」などは十分自己学習が可能です。自分のレベルに合ったものを着実にこなしていくことによって、学習効果は目に見えて上がります。これに対して学習者個人ではなかなかクリヤーすることの難しい分野があります。「大局観」「厚み」「利かし」「アジ」などの抽象的な概念は学習することが難しい分野に入ります。これ等の抽象的な概念に対する理解は上位者に一日の長があります。
ところが身近にいる上位者は、囲碁の考え方の広さを教えず、多く自分の考えを押し付けるという深刻な誤りを犯すことがあります。
コーチの側により柔軟な発想が求められるゆえんです。
2020年3月18日 発行 初版
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