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光速文芸部[改訂版]

きうり

きうり出版



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  この本はタチヨミ版です。

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       Ah 光のスペクトルの花束を
       Ah 君の窓辺に飾ろう
        (スパイラル・ライフ『20th century flight』)

   一

 宿っているのは一体どんな力だろう。彼の指を見るたびにそう思う。
 かるく眼鏡をかけ直して、改めて彼の手の先を見た。重力、引力、推力、あるいは吸着力。本のページをめくるその指には、確かに何かの力が働いている。紙の一枚一枚を言いなりにするその力は、私にはない。
「どうしたらそんなに速く読めるのかしら」
 思わず問うた。すると高柳たかやなぎくんは読書の姿勢を崩さず、目線だけでこちらを見る。
「速いつもりはないよ」
「速いわよ。もう昨日と違う本じゃない」
「いつもその程度だよ」
「だから速いのよ」
 彼の読む本は一日おきに変わる。二日以上同じタイトルが続くのは、二巻以上の分冊や全集の場合くらいなものだ。
「この場合なにをもってして、読んだ、と言うんだろう」
 彼は顔を上げた。古風で男前なのに、どこか幼さの残る端正な顔立ちだ。黒目がちの瞳は求道者のそれのように深く澄み、そして鋭い。
「そんなの決まってるわ。書かれている文章を最初から最後まで読み、内容を理解する。それが読んだということよ」
「だがそれは、ないものねだりに思える」
「どういう意味」
「そもそも、それを完遂するのは不可能だよ」
「私には無理っていうの?」
 知らず、私の言葉は棘を含む。いつものことだ。
「そうだ。僕にも無理だ」
 返答する彼の口調もまた、いつものように落ち着いている。憎らしいほどだ。
「それができるとしたら……」
「できるとしら?」
 神様くらいじゃないかな、と彼は答えた。

   ☆

 ここは文芸部の部室である。
 私が入部したのが五月。ここ九院高校くいんこうこうに入学し、学園内の空気に体を慣らすのに一か月ほど費やした。そして、そんな「修業期間」もひと息ついた連休明けに、この部室のドアを叩いたのだ。
 この場合、ドアを叩いたというのはただの比喩表現である。文芸部は活動休止状態だった。私の入学とすれ違いに卒業していった部員はそれなりの人数だったそうだが、その後はたった一人で、それが今の三年生の部長である。その人は今は部活動に関心を持っていないらしく、もはや文芸部は廃部を待つだけの状態だった。
 そうした現状は生徒会の役員から教えられた。それでも文芸活動にこだわっていた私は、顧問の緑川先生に相談して手続きを行った。
「これが部室の鍵。ええと片桐かたぎりさんだったな。あの部屋は今日からお前さんの天下だよ。せいぜい活用してくれ」
 せいぜい、という言葉を正しく用いる緑川先生は、まだ若い国語の教師である。もともと私たちの学年を担当しているので話しかけやすく、手続きもスムーズに進んだ。
 先生の言う通り、その日から文芸部の部室は私の「秘密基地」になった。
 部長である三年生の先輩については、顔も名前も分からない。緑川先生は「新入部員があったことは知らせておく」と言っていたが、その後は特になにもない。
 私は小説家志望である。出入りも自由、なにをしようと自由という文芸部の部室で、放課後には本を読み、備え付けのワープロで創作を行う日々がしばらく続いた。
 高柳錦司きんじが入部してきたのは、梅雨前線の動向が気になり始めた頃である。
「今日、男子がひとり見学に行くからよろしくな。文芸部を見たいらしい」
 ある日のこと。授業が終わってすぐ、緑川先生が声をかけてきた。それで放課後に待つともなく部室でキーボードを叩いていたところ、やってきたのが彼だった。
「文芸部はこちらですか」
 最初、逆光で顔が見えなかった。だが声とシルエットだけで充分だった。それは学年でも有名な高柳錦司で、私は驚きを悟られないよう努めながら答えた。
「そうよ。ある程度、緑川先生から話は聞いているかしら?」
「ええ。少しは」
「文芸部の現状は見ての通りよ」
 私は席を立たず、顔だけは彼を見ながらキーボードを叩き続けた。失礼な奴と思われたかも知れない。だが意識して邪険にしているわけではなく、自然にこうなってしまうのが私なのだ。
 彼は入口に立ったまま、狭い部室を見回す。
 木造の本棚には、歴代の先輩が置いていった物品がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。古い本、新しい本、埃をかぶった正体不明の書類――。
 天井には蛍光灯が二本。部屋の中央にはテーブルが置かれ、いつも私はそこでワープロを叩いている。
「分かりました。入部します」
 彼は宣言すると室内へ足を踏み入れてきた。部屋の隅に置かれた何脚かのパイプ椅子からおもむろにひとつ手に取り、開くと、テーブルを挟んで私の向かいに置く。彼の指定席が決定した瞬間だった。
 部室は薄暗い。だが初夏の放課後ならば自然光で充分だ。窓から差す日差しが、彼の端正な顔立ちにくっきりと陰影を刻んだ。
「高柳錦司です」
 彼は名乗る。愛想のいい返事というものがなにより下手な私は、無視しているふりをしてキーボードを打ち続けた。――どのみち無視した形になったわけだが。
「片桐優実ゆみさんでしたね。よろしく」
 私の態度など気にする風でもない彼。その時、彼の口元の筋肉がかすかに痙攣したのが分かった。それが彼なりの笑顔だったことに気づいたのは、もう少し時間が経ってからである。
「私のことは緑川先生から?」
「はい。聞きました」
 答えながら彼は立ち上がり、本棚を眺め回した。
「なにか、やりたいことがあれば言って」
 背中に声をかけると、彼は一冊取り出して立ち読みを始める。
「とりあえずこれが読みたい。珍しい本だ」
「それだけ? 手がかからないわね」
「あとはキーボードの使い方を教えてもらえると」
「キーボード?」
「さっき、僕の顔を見ながら叩いていた」
 ブラインドタッチが珍しいのか。だが私のは我流である。さっき彼の顔を見ながら打った文章には、誤字脱字が散見された。
「創作はするの」
「少し。ただ、今までは手書きだったものだから」
「今度読ませて。どんなものを書くの」
「分かりません」
 一瞬、なにを言っているのかと思う。だがそれは大真面目な返答なのだった。書かれたものがどんなものなのかを決めるのは執筆者ではない。読者だ。
「じゃあ言い方を変えるわ。どんなものを書きたいの?」
「人を――」
 ちょうどその時、強い風が起きた。窓から樹木のざわめきが流れ込み、彼の言葉は半ばかき消された。
 彼の丁寧語が消えるまで三日ほどかかった。
 またその三日間は、私自身の動揺を押しとどめるのに必要な期間でもあった。学年内でも有名な美少年・高柳錦司なら私でも知っている。よもやその彼が、毎日テーブルを挟んで向かいに座ることになるとは。考えもしなかった。

   ☆

「文章を最初から最後まで読んで、書かれていることを全て理解して、その理解を完全に保ち続けるにはどうすればいいだろう。文章を最初から最後まで丸暗記するしかない。そう僕は思う」
 低く通る声で、高柳くんはゆっくり言った。目はまぶしそうに力がこもっており、本気で考え込んでいるのが分かる。
「だから神様でないと無理だというの?」
「そうだ」
「丸暗記しなくても、核になるものさえ理解できればいいのよ。決まってるじゃない」
「ということは、ポイントになる部分だけを読むということか」
「そうね。……もちろん、ある程度は全体を把握しないとポイントも押さえられないでしょうけど」
 少し譲歩すると、彼は頷く。
「それはその通りだ。――すると、本は二回読んだ方が合理的だという結論になるね。最初はざっと全体を把握して、二回目でポイントを押さえて読む」
「それは苦痛ね」
 全体を把握するために、無駄な部分にも目を通さないといけないなんて。
「だが、空白から読み取れるものなんて無いのだから仕方ないよ。行間にはなにも書かれていない。だけど」
 彼は付け加える。
「全体を把握する程度ならば、解説書を読めばいいという考え方もある。たとえばカントの本をいきなり読むよりも、日本人の書いたカントの解説書のほうが分かりやすいし理解も進む」
「解説書なら、最初からポイントも押さえてくれているでしょうしね」
 皮肉めいた口調になる。だが彼は我が意を得たりとばかりに、そうだよと頷いた。
「それでいいと思う。概要が分かる。ポイントも分かる。あとはなにが必要だろう?」
 皮肉返しかとも思ったが違うらしい。清々しい声音だ。
「でも貴方は、日本人の書いた解説書を読んだだけで、カントのことを知っていると言えるの?」
「言えるよ。読んでいなくともカントの純粋理性批判のことはよく知っている。このことに特に矛盾はない」
「納得できないわ」
「例を挙げよう。僕は黒澤明の作品はほとんど見たことがないし、本人に会ったこともない。だけど世界のクロサワの知識ならある。それをもって、僕が黒澤明のことをまったく知らないという人はいないだろう」
「そうね。矛盾はない……かしら」
「ないと思う。読書について言えば、問題はその本を読んだかどうかではないんだ。その本とどう関わっているかが大事なんだ。読むことも、ひとつの関わり方に過ぎない」
 単調で抑揚のない口調。だがそこにはいつになく熱がこもっていた。毎日向き合っているからこそ分かる微かな情熱だ。
「だから読むのが速いか遅いかは問題にならないよ。好きなものを好きなように読み、好きな知識を得るのが一番いい」
 最後にそう言うと、彼は再び読書に戻る。
 彼の言葉はじわじわと胸に沁みた。心当たりならいくつもある。例えば私はアンパンマンならよく知っているが、アンパンマンの絵本を読んだことはない。
 些細な違いなのだろう。その本を読んだことがある人は、そうでない人よりも、世界の一部についてよりよく知っている。それだけの違いなのだ。
 カントの文章とて、しょせんはカント自身の思想の解説書である。私たちが読んでいるのはどれも解説書なのだ。世界なるものの解説書に過ぎないのである。
 だが。
「貴方の見方では、読書はまるで無間地獄ね。知識を得るためには解説書を読まなければならない。そしてその解説書のために、また別の本を読まなければならない」
「読書の醍醐味だろう。それがいやなら、誰も本は読まないよ」
「どうせ無限地獄なら、もっと速く駆け抜けたいわ」
「なるほど」
 ここで彼は妙に納得していた。不意に本を閉じて腕を組み、背もたれに寄りかかる。
「速さでなければ、密度の問題かな」
「密度?」
「短時間で速く読むか、同じ時間でより多く知識を得るか。このどちらかが可能になればいい」
「どっちも同じじゃない」
「そうだね。だから発想を変えればいい。読書から得られる効果の、その密度を高めればいいんだ。例えば、二十四時間の読書でもって三十時間分の知識獲得を目指すというふうに」
「一日三十時間?」
 苛立った。
「頭がおかしいんじゃない。そんな一日、聞いたことがないわ」
「僕も聞いたことはないよ。だが考えたことはある。それを可能にする方法はないかと」
 いたって大真面目だ。
「そんな方法があるのならハウツー本でも書くことね。馬鹿売れするか笑われるかのどちらかよ」
 私は言う。だが彼はまるで聞こえない様子で考え込んでいた。
 読書の速さにこだわる私である。だが一方で、そんなこだわりは下らないとも思う。
 スポーツ選手たちは、いつか百メートルを一秒で走り抜ける日が来ると信じているだろうか。答えは否だろう。それなのに彼らはなお速くあろうと訓練を続け、無限を分割している。分割して分割して、小数点以下第何位までも分割して、それで喜んでいる。そこまでいくと私にはもう理解できない。
 窓の外で、ちちち、と鳥が鳴いた。
「……鳥のように……なるしかないか」
 彼はそう呟いたようだった。独り言である。
 私は執筆に戻り、彼はずっと考え込んでいた。

   二

 翌日の昼休み、中庭にいる高柳くんを見かけた。彼は倉持芳明(くらもち・よしあき)くんと一緒だった。
 私は図書室におり、本棚の間に立って背表紙を眺めていたところだった。窓越しに二人の姿が見えたのだ。
 九院高校の図書室はれんが造りである。コンクリ製の校舎に接続した、二階建てのれんがの箱だ。新緑の季節になると植物のツタが壁を這い始め、その光景は九院高校の名物でもあるという。
 この日は、窓が少しだけ開いていた。だから、立ち話をしている彼らの声はよく聞こえた。

「俺は前日、教室に忘れ物をしていた。それで自転車に乗って学校へ行ったんだ」
 あれは倉持くんの声だろう。目線を向けると、彼が高柳くんに「出題」をしているところだった。長めの髪をかき上げたかと思うと、つたのからまる図書室の外壁へ、おもむろに手をつく。気障な仕草だ。
 高柳くんも身長はあるほうだが、倉持くんはさらに少し高い。でも彼が見下ろすような目つきなのは身長差のせいばかりではない。彼はいつも得意げで、気障で、高慢で、身ぶりは大げさである。
 そして高柳くんは、固く目を閉じて彼の言葉に聞き入っている。見ようによっては、倉持くんに捕まったのが運の尽きと耐え忍んでいるかのようだ。
 同じ制服なのに、二人はなにからなにまで正反対に見える。例えるならば倉持くんはきらびやかな衣装の貴族であり、高柳くんはぼろをまとった求道者だ。
 どうやら倉持くんは、今日も高柳くんに謎かけを行っているらしい。彼らは私が近くにいることに気付かず、問答を続ける。
「それで忘れ物を無事に確保した俺は、また自転車で学校を出ようとした。するとその時、ある先生が駆け寄ってきた。そしてこう聞いてきた。ある女子生徒を見かけなかったかと」
「女子生徒? 行方不明だったのかい」
 高柳くんが聞き返し、その通りだと倉持くんは頷く。
 書き忘れたが、彼らには共通項もいくつかある。その最たるものは、どちらも校内で有名な美男子だという点だろう。そんな二人が顔を近づけて議論している様は幻想的ですらあった。いつものことなのだが。
「その日は冬休みの初日で、女子生徒は補習を受けていた。だが彼女は赤点で補習を受けるのも常習犯なら、教室から脱走するのもいつものこと。だから先生は休み時間にも神経を尖らせていたし、校門でも別の先生が見張っていたほどだ」
「だがどうやら、休み時間の間に脱出したようだね」
「ふん、そういうことだな。しかしだ、その中学校は敷地を高い石塀で囲まれている。グラウンドにも大きなネットがかかっていて、それをよじ上って脱出するのは不可能だ」
 倉持くんは人差し指を立て、「そこで問題」とのたまう。気取った仕草が指先にまで凝縮されている。
「彼女はいかにして姿を消したのか? さあ、解いてもらおうか高柳錦司」
 これが彼の謎かけである。
 倉持くんは、高柳くんと出くわすごとに、こうして何かしら「出題」する。この奇妙な習慣の由来は知らない。だがふざけているのではなく、倉持くんの側には明確なライバル意識があるらしい。
「手がかりは色々と示されているね」
 高柳くんは顎に指先を当て、まぶしそうな表情になった。考え込む時の癖だ。
「季節は冬。雪が積もっている。そして舞台は君の家のすぐ近くの中学校」
「ふふん。今日こそは分かるまい」
 倉持くんは、気障の固まりのような表情で笑うと肩をすくめた。
「だが君の口ぶりからして、その女子生徒がなんらかの方法で学校から脱出したのは間違いないのだろう。すると答えは……」
 彼の呟きに、あれっと私は思う。私はてっきり、その女子生徒はどこかに隠れて脱出のチャンスを伺っていたのではないかと思ったのだが。
 彼は尋ねる。
「今日は、質問はいくつ許されるのかな」
「ひとつだ」
 倉持くんは、答えながら長髪をかき上げた。茶色の長髪に黒縁の眼鏡が彼のトレードマークだ。
「質問には一度だけ答えると約束しよう。もちろん嘘はつかない。ふふん」
「では聞くことは決まっているよ」
「ん、なんだ」
 即座の切り返しで、リズムが微かに崩される。
「脱走したあと、君とデートした時に、その女子生徒が履いていたものは?」
 この質問を受けた時の、倉持くんの表情が見ものだった。目を見開き口が半開きになったのだ。そして無意識にだろう、壁のつたをぐっと握りしめていた。



  タチヨミ版はここまでとなります。


光速文芸部[改訂版]

2020年3月22日 発行 初版

著  者:きうり
発  行:きうり出版

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きうり

名前:きうり 1980年山形県生まれ、同県在住。 自称小説家。 14歳頃から小説の創作を始め、同人活動等を経て今に至る。 電子書籍で『イタコに首ったけ!』『光速文芸部』などの自己出版本を販売。 また、事故災害のルポ等も無料公開中。 『月刊群雛』にも2014年4月号より参加、短編小説を不定期に掲載している。 主なシリーズ作品は「超能力カメラマン内木」「九院高校文芸部」など。 生真面目で要領の悪い怠け者(O型)。 なぜか山形県と秋田県が大好き。 文弱。 夢見がち。 【影響を受けた文筆家】 ・島田荘司 ・スティーヴン・キング ・阿佐田哲也 ・武田泰淳 ・京極夏彦 ・本岡類 ・野中柊 ・高山岩男 ・小浜逸郎 ・自分 【好きな歌手】 ・松倉サオリ(松倉佐織、sue-sue) ・水戸華之介(アンジー)

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