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学園祭[改訂版]

作・きうり
表紙絵・yukke

きうり出版



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  この本はタチヨミ版です。

青春っていうふうにね
だからその、ぴかぴか光っているものじゃないんだけど
僕の場合はその、そういうことが
あんまりあとも光り輝かないから――
     (『あの人に会いたい 色川武大』)


   1

 十五年ぶりに、母校の学園祭に行ってみることにした。
 前夜には、ツイッターできちんと下調べも行った。学園祭のアカウントがあったのだ。それによると、会場に一般客用の駐車場はないとのことで、車は近くのスーパーに停めるしかなさそうだった。車社会の最たるもの、乗用車保有率が上位からウン番目の山形県である。学園祭ひとつに足を運ぶにしても「駐車場所」を無意識に前提せざるを得ない、そういう現象学的な意識が僕ら県民の中にはある。
 日曜の昼前とあって、スーパーの駐車場は大混雑だった。交通整理の人も忙しそうだ。そんな中に紛れ込むようにして車を停めると、僕はまず店内のトイレに入った。運転すると、なぜか小用を済ませたくなる。
 手を洗っていて、指先が震えていることに気付いた。動悸も激しい。
 鏡の中の自分を凝視した。今日は眉は整えたし、髭も完璧に剃られている。散髪も昨日済ませた。鼻毛だって切りそろえられている。まあ僕の顔としては無難な仕上がりだろう。それでもまだ何かが足りない気がして、香水をもっとふりかけてネクタイを締め直したいという誘惑に駆られた。だが辛うじて押し止めた。もたついていると、心の準備に手間取っているのか先延ばしにしたがっているのか自分で自分が分からなくなりそうだ。
 背筋を伸ばしてスーパーを出た。残暑の日差しは強い。
 今日の天気予報は雨だった。だが今のところそれは外れており、学園祭の関係者は胸をなでおろしていることだろう。そしてこの天候では、帰る頃には愛車の中は灼熱地獄と化しているに違いない。
 そう、帰る頃には――。
 果たしてその時、僕はどんな気持ちでいるだろう。
 それはおそらくほんの数時間後のことなのに、想像するだけで不安が押し寄せてくる。その時の自分がどうなっているか想像がつかない。
 歩き出した。何の変哲もない住宅街で、戦場に向かうような気持ちで(言うまでもなく実際に戦場に赴いたことなどないが)、僕は日差しの下を進み始めた。
 十五年ぶりの風景である。息が詰まりそうになった。
 かつて、この道路を幾度となく自転車で通った。生徒会の執行委員をしていた頃は、放課後になると仲間達とここを突っ走り、バイパス沿いのカラオケに行ったものだ。さっき車を停めたスーパーも、よく買い出しに利用した。その頃、僕には友達がたくさんいた。
 もちろん全てが当時のままではない。いくつかの家は、新しく小奇麗になっていた。こうなるともう、元はどんな家だったか思い出すのは不可能だ。自転車屋はまだあった。でも魚屋さんはもうない。何かの用事で母親が学校まで送迎してくれた際、よくその魚屋の筋子を買っていて、そこのは大変うまいからと、冷蔵庫の筋子がなくなるたびに用事を作って僕を送迎してくれたものだった。
 そんなことを思い出した辺りから、脚に力が入らなくなってきた。
 母校の校舎が見えてきたのだ。
「おお……」
 思わず変な声を上げていた。敵地は目前だ。
 だが、門の前に立ったところで、しまったとつぶやいていた。閉鎖されていたのだ。学生時代、登下校時にいつも通っていたこの北側の門――通称「裏門」――は、そういえば学園祭の時には閉鎖する慣わしだった。
 鎮まらない動悸、笑っている膝。僕はしばし立ち尽くす。
 裏門は、鉄製の頑丈な造りだ。格子の向こうには、十五年前と変わらない校舎があった。敷地内はだいぶ整備されたらしく、かつて校舎のすぐそばにあった駐輪場は、今は広々したコンクリ敷きになっている。だが建物自体はあの時のままだ。懐かしさが電流のように体を突き抜けた。
 渡り廊下を数人の女子生徒が通過する。その手には学園祭のパンフらしきものがあった。催し物の場所をチェックするのに余念がない様子で、楽しげにあっという間に駆け抜けていった。
 かすかな喧騒と音楽が聴こえてくる。校舎の向こうの中庭の辺りからだ。今日は確かに学園祭が行なわれている。
 よし、南側へ回ろう。
 表門を目指して、再び歩き出す。


   2

(両親が死んだら、あとはいつ死んでもいいさ)
 高校を卒業して間もなく、そんな風に考えることが多くなった。
 自殺願望とかいわゆる希死念慮とかがあったわけではない。とにかく消えてしまいたかった。
 卒業直前の一年間は、精神的な地獄だった。人間関係で失敗したのである。悪いのは全部僕だ。それを整理しないまま大学へ進み就職して今に至っているため、罪悪感と自己嫌悪は十五年間引きずりっぱなしになっている。
 トラウマという言葉も随分安っぽく使われるが、しかしとにかく僕が引きずってきたこの感覚は、一般的な文脈ではまさにトラウマだろう。
 繰り返すが、悪いのは全部僕である。今でも、僕は当時の関係者を嫌っても憎んでもいない。しかし僕は、確実に彼らから嫌われたり疎まれたり呆れられたり憎まれたり蔑まれたりした。
 その結果、卒業しても母校へ足を運びにくくなった。行きたいけど行けない、懐かしい仲間達に会いたいけど会いたくない――そんな奇妙な感覚を抱き続けることになった。
 それが、今回行く気になったのは、恩師との再会がきっかけだった。
 もともと、僕は人とのつながりをそこそこ重んじる性格だ。だから恩師の連絡先はきちんと控えていた。卒業して間もない頃は飲みに行ったこともある。ただ、その後は就職に転職に結婚生活の失敗など、僕の方でごたごたがあったためしばらく音信普通になっていた。気が向いて久しぶりに連絡を取ってみたのは、妻との別居が決まってひと息ついた頃だった。
 恩師と呼べる人は幾人かいる。そのうちの一人、女性のS先生は、数年前に癌の手術を受けたそうだが今も元気だった。さらにK先生という男性の先生を加えて、三人で食事に行った。K先生は今年度から教頭をやっているという。
 で、食事の席でS先生に言われた。
曽我そがも今度、久しぶりに学園祭に来てみたら? あの頃の仲間もきっと来てるわよ」
「あの頃の仲間っていうと、例えば……」
 言われた僕は、さり気ない風を装って尋ねた。すると二人の先生は、逆に「曽我の頃の生徒会のメンバーって誰だっけ?」と聞き返してきたので、当時の生徒会執行委員の名前をいくつか挙げてみた。そのうちの何人かは、名前を口にするだけで緊張した。かつて僕が起こしたトラブルの関係者が含まれている。
「ああ、そいつらならたまに来るな。当時のメンバーのままで集まって、学園祭に来ると必ず挨拶してくるよ」
 そう言ったのはK先生だ。この人は、当時は生徒会執行部を担当していた。
「何か行きにくい事情でもあるの?」
 S先生は悪戯っぽく尋ねてきた。こちらの表情から何かを察したのだろう。そして僕はたぶん、しどろもどろで言い訳じみたことを口にしていたと思う。
「大抵の場合、そんなの本人たちはあんまり気にしてないものよ」
 S先生がまとめると、K先生もそうだな、と頷いた。
 帰りは、S先生を車で送った。まさか曽我の運転する車に乗せてもらう日が来るなんてねえ、と先生は車内で笑っていた。僕も笑った。
 先生を下ろして一人になってから、コンビニの駐車場でしばし物思いにふけった。
 学園祭――。
 この十五年間、それに足を運ぶなんて考えたこともなかった。
 行きたいけど行けない。会いたいけど会いたくない。そういう奇妙な心持ちがありうるのだということを、その夜僕は知った。


   3

 そしてやはり、亜季についてきてもらったのは正解だった。スーツ姿の僕は、学園祭ではあまりにも浮いていた。
 スーツを着てきた理由は二つある。ひとつは、よそゆきのお洒落な私服を持っていないということ。もうひとつは、スーツとは勤め人の僕にとって「戦闘服」に他ならないということだ。いわば精神の戦場たるこの学園祭にスーツで臨むことは、僕にとっては至極当然のことだった。
 その場違いさ加減に、ここに至ってようやく気付いたのである。
 あるいは亜季は、こんな空気の読めないイタイ僕を、無意識に哀れんで同行を申し出てくれたのかも知れなかった。
 それにしても――
「こんなに小さかったのか」
 屋内の様子をスマホで撮影しつつ、僕はしみじみと呟いた。それは心からの感慨だった。
 十五年ぶりに校舎へ足を踏み入れた瞬間から、その感覚はあった。今改めて建物の中を散策してみて、それはますますはっきり感じられた。廊下というものはこんなに狭かったのか。教室もこれ程狭かったのか。椅子も机もあまりに小さい。
「図書室はどうですか」
 僕があまりに何度も小さい小さいと繰り返すものだから、亜季は面白がって図書室を指した。そこはさっき見た。
「うん、これも小さいな」
 期待に応えて、シャッターを切っておく。
「部室棟はどうです」
 図書室から少し歩くと渡り廊下がある。そこから二階建ての長屋風の建物が見えた。各部活動の部室が並ぶ、通称「部室棟」だ。これもこじんまりしている。
「こんな小さい世界に生きてたんだな」
 シャッターを切りながらまた言う。聞きようによっては、現在の高校生に対する侮辱だろう。だが亜季は気にする風でもない。
「じゃあその小さい世界で、どんな感じに生きてたんですか」
「どんな感じに、か」
 少し考えてみた。
「勉強も運動もできなかったからね。図書室で本を借りて読む時間があったのが救いだったな。それに文芸部っていう場もありがたかった。ネットなんてまだ一般的じゃなくて、書いた文章を自由に公開できる場所なんてなかったし」
「なんか、聞いてると、そんなにいい高校時代じゃなかったみたい」
 浴衣姿の少女が微笑む。
「考えてみるとそういう結論に落ち着くよ」
 真面目に答えながら気付いた。僕は今、「思い出して」いるのではない。あくまでも「考えて」いるのだった。高校時代の記憶というのはもはや、僕にとっては生き生きと記憶に蘇ってくるものではなく、解釈されてようやく納得できるようなものらしい。
「恋愛はどうだったんですか。トラブルがあって悩んでいたっていうことは、それだけ本気で打ち込んでいたんですよね」
「そう……なんだろうな」
 頷くのがためらわれた。記憶はもう生き生きとは蘇らない。ほんの数分の間に、僕はあの頃のことを自信を持って語れなくなっている。
 次に二号館の二階へと足を踏み入れた。やけに静かだった。パンフレットを見ると、この階では書道部、美術部、写真部、華道部、JRC部、英会話が作品展示をしているらしい。確かに賑やかにはなりそうもないラインナップである。
 それぞれの教室内の作品群を、二人で義理程度に眺めながら歩いた。
「亜季さんはずっとああいう作風なの」
 廊下で、ふと思いついて尋ねた。ずっと僕の話ばかりで、彼女のことを何も聞いていない。さっき部誌で読んだ作品は面白かった。
「はい。あんなのしか書けなくて」
 彼女は独特の表情になる。誇らしさ、照れ臭さ、戸惑いがごっちゃになっている。僕はそういう表情に心当たりがある。素人の物書きが、作品の評価を受けたときのそれだ。ちなみに亜季の作風は、学園ものライトノベルとでも呼べるものだった(僕の中には、ライトノベルといえば学園ものというイメージがあるが)。
「あんなの、なんて言い方をする必要はないよ。文章も絵も上手かった」
「ありがとうございます。でもコンプレックスはありますね。さっき仰ったじゃないですか、ここは小さい世界だ、って」
「うん、言ったけど」
「私まだ未成年だし、大人が出てくる小説なんて書けません。家庭を持ったり、社会に出て働いたり、そんな人たちの心境なんて分かりませんし。それに社会の仕組みとか……」
 分かる気がする。というより、とてもよく分かる。そのジレンマは僕もあったし、今もある。自分の経験したものは一番書きやすいが、そういうものしか書けないのはもどかしい。未経験のものを取材して、まるで自らの経験のように書くということを、多くの物書きはしていると思う。それはとても大変なことだろう。だからこそ、一般社会からある程度隔たった描写が許される学園小説は書きやすいし、ファンタジーやセカイ系の要素も盛り込みやすい。
「まあ、大人の世界を必ず盛り込まなくちゃいけないっていうルールもないんだし、自由に書いていいんじゃないかな」
「読者はそれを認めてくれるでしょうか?」
「分からないよ。人によっては認めてくれるかも知れないし、そうじゃないかも知れない。でもそれは時と場合で違うし、ずっと書き直し続けていれば評価も変わるかも知れない。書く人も、作品も、読む人も、変わっていくものだよ」
「すごい達観してますね」
「もう三十だから」
 そう口にしてから、この受け答えは万能だなと思った。年配の上司などからは「まだまだ若いじゃないか」と言われる、変なマージナルさを含んだ年齢ではあるのだが。
 しばらく、亜季の作品について語り合った。
 彼女には、文学賞を取りたいなどの大きな野心はないらしい。だが人から読まれ、評価をされたいという欲求はあるようだ。彼女の場合、文学賞というのは承認欲求を満たすための選択肢の一つなのだろう。
「曽我さんは文学賞に出したりしたんですか」
「出したよ」
 万年二次選考落ちである。メフィスト賞でも上段で二回(下段は三回)取り上げられるところまでは行った。他にも数え切れないくらい文学賞で落っこちている。
 それら落選作品の中で、自分で勝手に代表作だと思っているのが、イタコの少女が出てくるミステリ小説である。イタコの口寄せで、被害者の霊を呼ぶことができれば便利だろう。だがそのイタコが実は本物ではなく、毎回必死に推理しているのだとしたらどうか? そんな思いつきから書いた。
 最初は軽い連作短編を予定していた。だがこれが僕の性なのだろう、高校時代のトラウマに悩む少年を語り手にした途端に、それは重い青春小説と化してしまった。なおかつ――有栖川有栖風に言えば――作者である僕はよっぽどその作品に思い入れがあったらしく、十数年の間に何度も何度も書き直しては性懲りもなく文学賞に応募し、そのたびに落選した。
 その作品は、いい加減にそろそろ葬って供養してやろうと思い、少し前に電子書籍化している。主人公以外の登場人物を「可愛い女の子」に設定し直し、ラストも変えて、できるだけ明るい内容にした。イラストレーターもライトで愛らしい作風の人に頼んだ。それでも「暗い」という評価は相変わらずたまに聞こえてくる。変えようとしても変えられない、たぶんその辺りが僕の作風なのだろう。
 くどくならない程度に、そんなことを話した。
「そういえば、初めて文学賞に応募したのは中学三年の時だったよ」
「そんなに早く」
 亜季は目を見開いた。
「小説家になろうって中学の時に決めたんだ。でも当時は作品がひとつも完成してなくてね。このままじゃ駄目だ、高校生になる前にひとつだけでも最後まで書き上げようって決心した。で、無理やり書き上げたのを出版社に送ったよ」
「どんな作品でした?」
「一人暮らしの大学生が、アパートの住人と力を合わせて、連続殺人鬼を捕まえる話」
「物騒ですね……」
 即座に言われた。僕自身もそう思う。
 大したテーマもない作品だった。当時はまっていたキングに影響されて「物騒な」サスペンスを書こうと思い立ったのだ(アル中の売れない小説家とか、いかにもなキャラを出したものだ)。ミステリ要素やら恋愛要素やらを盛り込んで、それなりに心血注いだ記憶はある。応募締め切りぎりぎりに、ワープロから感熱紙に印刷したものをそのまんま新潮ミステリー大賞に送り出した。もちろん箸にも棒にもかからず、その賞の選考は、まるで僕が作品を応募した事実などなかったかのように進行していったものだ。
「小説、上手に書けるようになるにはどうすればいいんでしょうか」
「うーん。僕もしょせんアマチュアだからなんとも言えないけど、すぐに思いつくコツは三つ」
「なんとも言えないわりには、結構ありますね」くすりと笑う亜季。「なんですか? その三つって」
「ひとつはたくさん本を読み、たくさんの作品を書くこと」
 これはキングが言っていたことだ。
「それはそうですね」
「それから、書き始めた作品は最後まで完成させること。途中で失敗したと思ってもね」
 これは神坂一の受け売り。
「あー、たまに投げ出しちゃいます」
「そして最後は、他人に読んでもらって感想を聞くこと。それも仲間内だけじゃなくて、できれば不特定多数から」
 これは友人から言われたこと。
「なんか、シンプルですけど納得できます」
「それでも僕は万年落選男なんだけどね」
「高校の頃は、先生には読んでもらいましたか」
「うん。部誌を発行した折には、四人くらいには必ず読んでもらってた」
 思い出す。冒頭に挙げたK先生とS先生、それに一年生の時に担任だったM先生。あと部活の顧問の先生だ。だがどの先生も今は亜季の学年を担当していないのだろう、名前を挙げても分からないようだった。この学園は生徒数も職員数も多く、担当学年が違えばもう覚え切れない。亜季は今の文芸部の顧問の先生のことを教えてくれたが、逆に僕の方が知らなかった。
「先生たちには連絡してないんですか? 今日学園祭に行くってことを」
「してないよ。照れ臭いというか……。あと、行かないって言ったからかっこ悪い気がして」
「そんな。連絡すれば喜びますよ!」
 亜季の口調に熱がこもる。その表情を見て、ああこの娘は学園祭を楽しんでいるんだなと思った。
 では僕はどうなのだろう? 今日は確かに楽しい。これを楽しいと言わずしてなんと言おう。文芸部では部誌も買えた。古本市では面白そうな本を何冊か購入した(今、ちょっと重い荷物になっている)。浴衣姿の可愛らしい女子高生が校舎内を案内してくれている。こうして建物内を歩き回り、若い学生たちとすれ違っているだけで活力が湧いてくるようだ。
 そうした楽しさを心の奥底で認められないのは、不安があるからだろう。こうしている間にも、Aや、あの頃の同級生たちといつすれ違うかも知れない。「顔向けができない」「合わせる顔がない」という感覚はこういうのを言うのだ。そしてそれは、
(両親が死んだら、あとはいつ死んでもいいさ)
 高校卒業後に抱くようになった、あの感覚に直結している。
 鬱病の類いではない。ちょっとした絶望感だ。心身が不調だとよくこんな感覚に襲われる。先立つ不孝はしたくないという思いだけが、いつも辛うじて歯止めになっている。
 僕は知っている。今校舎は明るく楽しく彩られている。だが全体から見ればそれはごく一部だ。喧騒から少し外れれば、そこは人っ子ひとりいないただの休日の校舎である。近代以降は学校も病院も一様に監獄と同じ構造になった、と書かれていたのはなんの本だっただろう? 青春時代の楽しい思い出のひとつやふたつ、誰にでもあるだろう。だが思い出が楽しいだけとは限らない。表があれば裏がある。喧騒の裏側は監獄だ。僕はそこに縛り付けられ、思い出すたびに死ぬ程恥ずかしくなるという刑に処され続けている。
 皆が生き生きしている世界と、全てが死に絶える世界――もちろん僕ごときの語る死などに大した重みはない、ただそのようにしか形容できないだけだ――成程、キラキラときらめく爽やかな青春物語も『バトル・ロワイアル』も、僕の中では違和感なく止揚されている。
「――そうかな」
 何拍かの間をおいて返事をすると、亜季は聞き返した。
「思いも寄りませんでしたか?」
「そう……だね。考えてみればそうかも知れないという結論には至るけど」
「理屈っぽいです! 早くメールして下さい!」
「ああ」
 急かされ、慌ててメールアプリをタップした。先生へのメールの話になったら、亜季はやけにいきり立っている。きっと彼女にとって、先生というのは身近で親しみのある存在なのだろう。十数年前の卒業生のトラウマなんて想像もつかないが、学生と先生の絆なら理解できる。きっとそういう娘なのだ。
 というわけで、S先生にこう打ってみた。

  こんにちは。いまお忍びで学園祭に来ています。十数年ぶりです。心が震えますね……。

 実に他愛ない文章である。
 だが、それを何気なく送信している自分に驚いた。「お忍び」であることをどうして自分からアピールするかな。「この話は内緒だってみんなに広めておいてね!」と言うようなものじゃないか。もしS先生が他の先生に知らせたらどうする? 今日、僕の同級生たちがこの学園祭に来ていて、今まさに先生と一緒にいたりしたらどうする?
「すごい顔ですね。おっかなびっくりっていうレベルじゃないです」



  タチヨミ版はここまでとなります。


学園祭[改訂版]

2015年2月16日 発行 初版

著  者:きうり
発  行:きうり出版

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きうり

小説書き。山形県在住。餃子が大好き。
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