spine
jacket

───────────────────────

房州・保田を愛した
松山吟松庵という人

前田宣明

保田文庫



───────────────────────

松山吟松庵に敬意をこめて、本書を松山文庫におくる。

松山米太郎 号•吟松庵
写真表(提供:松山文庫)
天上より見たる残月庵主の顔貌 時に昭和九年八月二十七日 六十五歳
まともには さすが若しとほこる身も 天よりみればかくれざりけり
写真裏(提供:松山文庫)
提供:松山文庫
米太郎愛用の眼鏡と眼鏡入れ
提供:松山文庫
松山一家(明治三十年八月二十七日撮影)前中央・喜太郎(父) 前左・艶子(母) 前右・下枝(妻) 後左・米太郎(長男) 後右・豊次郎(二男)
提供:松山文庫
米太郎の肖像写真
提供:松山文庫

 目 次

はじめに
発行に寄せて

一章・人物像

松山吟松庵とはいかなる人だったか
膨大な日記『思川』の存在
郷里金沢で育まれた素質

教師時代
近松愛好家・国文学者として

父・喜太郎について
「二世 吟松庵」を名乗る
小堀家当主との出会い

骨董店「吟松庵」再興

吟松庵と交流した人物たち
横井夜雨との交流
益田鈍翁との交流
鈍翁が保田に来た日
川喜田半泥子との交流
北大路魯山人との交流

茶道研究者として

著作『遠州公小伝』について
著作『註解 茶道四祖伝書』について
著作『三冊名物集』について
著作『評註 津田宗及茶湯日記』について

二章・吟松庵と保田

保養地・別荘地としての保田
保田・吉浜海岸の吟松庵邸
吟松庵はなぜ保田を選んだのか
日蔭の茶屋の存在

三章・保田の日々

孤高で素朴な浦人生活
小さな住まい・陸舟庵
現存する陸舟庵

残月庵のこと
田舎家としての残月庵

自作の器に見る吟松庵の茶

四章・鱚ヶ浦別荘人とのかかわり

長岡拡との交流
茨木悟との交流

小泉丹との交流

小泉丹「保田日記」に見る交流

五章・終焉とその後

終焉の日

吟松庵没後の残月庵

六章・松山文庫のこと

三輪家と松山家の関わり

七章・吟松庵の人柄

八章・付録

付録一『保田の家とその人脈』 茨木一郎
付録二『戦後六〇年、サイパンと保田の海』 茨木一郎

付録三『保田行』 三輪英子
付録四『おはようと云ふ心にて写し絵に 見入る我が心悲しかりけり』 松山下枝
付録五 『さびの弁』 松山吟松庵
付録六 『勧茶論』 松山吟松庵

松山吟松庵 略年譜

さいごに

はじめに

 大正六年に保田駅が開業すると、それまでの汽船航路と相まって、保田は房州最北、東京に近い海浜保養地として賑わいを見せていた。この頃から旧保田町には多くの学者や実業家らが別荘や住まいを構えるようになり、昭和九年頃には千葉県内において最も別荘の数が多い町となっていた。
 本書は、大正時代に千葉県保田町(現鋸南町)の吉浜海岸に別荘を構え、後に同地に移住した茶道研究者・松山吟松庵ぎんしょうあんという人物の存在について、地域文化史の視点から現代に紹介するものである。
 吟松庵は、本名を松山米太郎よねたろうといい(以下「米太郎」と記す)、明治時代から昭和戦前期に活躍した国文学者であった。学校教師を勤めた後に古美術骨董茶器商店を商い、晩年は茶道にまつわる古い文献(茶書)の研究者として活躍した。茶においては、自ら茶事を行うことは好まなかったが、著名な茶人の席に招かれた。義太夫節や香道をたしなみ、四十年にわたる日記の中には日常的に歌や句を詠み、随筆も残している。保田の吉浜海岸に移住した後は、朝に晩に富士を望み、茶書の研究に邁進。独楽独学の余生を送った。
 茶道文化史の世界から米太郎の存在をみてみると、明治以来の衰退期から昭和初期の復興期にかけて、茶道文化の発掘と継承に非常に多大な役割を果たした。まさに温故知新の偉業を成し遂げた人であった。本書表紙に使用の陰影「温故知新」は、米太郎が所持した落款印である。米太郎は、日本が世界に誇る「茶」の歴史文化やその精神の保存と継承を、知能的な面から下支えした大功労者と言っても過言ではない。さらに特筆すべきは、米太郎が本格的に茶道研究に入ったのは保田移住後のことである。この事実は保田の地域文化にとっても光があてられて然るべきである。
 かねてより高齢化が進む鋸南町は、一昨年の台風災害をうけ、建物の甚大な被害に加え人口の流出が見られた。大正時代から大戦前にかけての記憶や記録は、また一歩遠のき、その消失に拍車がかかっているのが現状である。同町の一部である保田もその影響は顕著である。このような現在において、本書は在りし日の米太郎の姿を紹介し、ひいては保田の地域文化の一端を今に復興し浮かび上がらせようとするものである。
 本書の制作にあたり、米太郎の子孫で私設図書館「松山文庫」に資料を所蔵する三輪薫氏に全面的な協力を頂いた。
 拙著ながら、保田の地域文化の再発見とその醸成の一端に貢献出来たら本望である。

令和三年三月 前田 宣明

発行に寄せて             

 東京で生まれ育った私や親族たちにとって、保田吉浜の鱚ヶ浦や亀島、大六海岸で遊ぶ夏休みは何よりの楽しみでした。豊かで美しい海中の別世界の存在を教えてくれたのもこの海です。幼少期からこの海に親しんだ息子は現在、海洋調査船での仕事に従事するようになりました。保田吉浜は、私達にとって、曾祖父・松山米太郎(吟松庵)から続くかけがえのない大切な場所なのです。父・誠也に於いては生涯殆ど旅行にも行きませんでしたが、唯一鱚ヶ浦で潜り、海を眺めていることを何よりの幸せと感じていました。
 平成二十六年に親族の松山俊太郎が他界したことを機に、所蔵していた膨大な書籍の一部を管理することとなり、加えて我が家に伝来する三輪家・松山家にまつわる資料や、両家の歴代系譜を整理しました。平成三十年には、先祖の足跡を次世代に伝えるため実家跡に私設の文庫を設け『吟松庵《松山文庫》』と名付けました。
 著者の前田氏は保田吉浜から幾度となく取材に訪れ、その真摯な姿勢と郷土への想いに心を動かされたため、私どものプライベートなものでもある日記等の資料も見て頂くことにしました。本書を通して曾祖父松山吟松庵をより深く知る事ができたのは、子孫としても誠にありがたく喜びに堪えません。今、本書が発行されるに至りひとつの歯車が大きく動き出したような気がしております。著者の前田宣明氏には心より感謝申し上げます。
 松山文庫の開設において、蔵書の選別や搬入のご協力を下さった松山俊太郎の弟子・丹羽様(松山会)に心より感謝いたします。最後に松山文庫の運営について様々なことに尽力してくれた主人にも感謝を。

吟松庵《松山文庫》 三輪 薫

一章・人物像

松山吟松庵とはいかなる人だったか

にこやかに談笑する米太郎(吟松庵)と下枝夫妻(撮影:川喜田半泥子)
提供:松山文庫


 松山米太郎(一八七〇―一九四二、号・吟松庵)は、明治時代後期から昭和戦前期にかけて活躍した東京帝国大学国史科卒の国文学者であった。学者としての仕事を大きく二つに分ければ、一つは米太郎の名で壮年期に手掛けた、浄瑠璃をはじめとした江戸時代の町人文学にまつわる「古典の研究」と復刻。もう一つは、父の死後に「吟松庵」と号して晩年まで手掛けた、茶道にまつわる「古典(茶書)に関する研究」と復刻であった。深い学識に裏打ちされた幾多の著作を残したが、最大の功績は茶道の方面において評された。加賀金沢随一の古道具商の家に生まれ育ったことで培われた鑑識眼と秀でた文才、学識をもって、茶道の文物や歴史文化を総合的に研究した。当時の茶人や研究者にも難解難読であった古典も直ちに読み解くや、解説をつけ世に広く紹介した。米太郎は当時の茶道研究の第一人者であった。
 著作のうち、江戸時代の町人文学に関するものに、『浄瑠璃名作集 上・中・下巻』と『雅文小説集』がある。前者は浄瑠璃成立期からの名作全二十一話を三巻に分けて収録したもので、総ページ数は約二〇〇〇にのぼる。後者は江戸時代に人気を博した読本よみほんと呼ばれる小説作品の源流となる古典的文章六編を収めたもので、両作とも大正十五年に有朋堂書店から発行された。茶書にまつわる著作には、『遠州公小伝』(昭和五)、『註解 茶道四祖伝書』(昭和八)、『三冊名物集』(昭和九)、『宗及茶湯日記』(昭和十二)などがあり、後世の茶道研究史になくてはならない著作を次々と復刻し世に知られた。これら茶書に関する著作については後述する。
 米太郎の著作の特徴は、古典的文章を校訂者として復刻したことと言えるだろう。校訂とは、特定の著作について、底本と異本などの資料を照合し、批判的研究を行って文字や語句の誤りを直す作業である。このため校訂者は、編者や訳者とともに「副次的な著者」とも言われる。著者ですら気づかない間違いや、内容上の間違いや矛盾を見つけ、それを直していくには、批判的な精神に加え、対象となる分野に関する幅広く奥深い知識が求められる。著作物の内容から見ても、米太郎が江戸の町人文学や茶の湯の歴史や文化について博学多識な学者であったことがわかる。
 「吟松庵」とは、もともと加賀金沢で随一の骨董美術茶道具商であった父・松山喜太郎が名乗っていた号である。父を敬愛していた米太郎は、父の逝去を機に吟松庵の号を継ぎ、自ら骨董店主となった。その後次第に茶書研究を深めるや、その学識と目利きから、益田鈍翁や北大路魯山人他、当時の著名な数寄者や茶人から教えを請われるまでの存在となった。


吟松庵松山米太郎翁は茶道衰退の極みにあった明治期に起って、古来の茶書伝書の研究に渉獵しょうりょうに其の半生を捧げた大先覚であった。今日茶道が盛行を極め、茶書文献類が街頭に氾濫するの黄金時代を現出した半面には翁の撓ゆみなき学究と、多年の教学生活に加ふるに父祖伝来の茶道具商としての尊き経験が生んだ所産であったことを挙げられねばならない。町に茶道文献者は数多く見出すを得る。然かしながら文に偏する所謂書く茶人、読む茶人の輩であって、茶人としての透徹した文献学者は翁を措いて指を屈することを躊躇せざるを得ない。翁は後進を誘掖するに甚だ懇切丁寧を極め、多くの若き学究者が翁の膝下に其の教を乞ふもの櫛の歯を引くやうであったと聞く。房州保田町吉濱の残月荘は茶道文献学究の総本山の観があった。

『武者の小路 松山吟松庵翁追悼号』昭和十八年


右は、茶道雑誌『武者小路』が米太郎逝去後に追悼号を刊行した際の緒言である。当時の茶道界における米太郎の存在がいかに偉大であったかよく感じ取れる。

膨大な日記『思川』の存在

 米太郎が公にした著作は、校訂者として古典を復刻したものが主であったため、これらからは米太郎の人物像というものをうかがい知ることは難しい。しかし、米太郎は約四十年にわたりその生涯の日々を日記に綴っていた。松山文庫には、そのうちの大正十五年(一九二六)から没年までの十七年間、全十二巻、罫紙二二〇〇枚にも及ぶ日記が保管されている。日常を克明に記したこの日記は、米太郎の素顔を伝える唯一の書物といえる。この日記は、これまで公表されたことはなく、表紙にはこの日記を窮おうとする者への戒めを記したものもある。しかし、その筆致から後世に自らの生きた足跡を伝えようとする意志が強く感じられる。

吟松庵日記『思川』(全12冊)と愛用の文房具
松山文庫蔵

 米太郎はこの日記を『思川』と名を付けた。「日記でありながら随筆を兼ね、徒然草と同質、土佐日記と同類の随感、往来、旅行紀」であるとし、自らの日記を文芸史上の観点からなぞらえ定義づけている。各年ほぼ毎日の出来事を、小筆を用いた流麗な文字で細叙している。その日の天気、家族の出来事、研究中の物事の覚書、社会批評、書簡のやり取り、風景のスケッチ画、即興的に詠む句や和歌の数々、テーマを持たせた随筆も含まれる。長い日には一日の日記が罫紙四枚を超えることもあり、保田での別荘生活や移住後の日々の出来事などを記している。昭和初期、保田に暮らした文化人との交流や、現在では行われていない大規模な漁法「建干漁」の様子なども記され、当時の地域文化を知る上でも高い資料価値を有する。
 とにかく筆を走らせることが好きだった米太郎は、近松門左衛門が愛用した机に向かっては、朝に夕に愛玩の硯に墨を下ろし、日常を記し尽くすことに徹することでその生涯を書き残そうとしたのであろう。息子・松山亥三雄は「筆をとる前に想いを纏めるようですが、書出したら一気阿成に二間でも三間でも巻紙片手に筆を走らせます」と父の姿を述懐している。
 米太郎は様々な人物と書簡を交わしている。日記の執筆も併せて考えると、一日の内かなりの時間筆を執っていたのではないだろうか。日記『思川』は、松山の文人としての非凡な才能を、濃厚かつ如実に伝えている。父・喜太郎も茶道具商としての五十年間、一生分の見聞を『つれづれの友』として書き残したというが、松山親子の遺伝的ともいえる知性的な特徴を感じ得るところである。

郷里金沢で育まれた素質


 米太郎は、明治三年に石川県金沢の城下町で代々古美術茶道具店を営む商家に生まれた。大名の中で最大の石高を領し「加賀百万石」と称された加賀藩の城下町、金沢である。藩主前田家は、加賀藩の財力が徳川幕府転覆の脅威と警戒されるのを避けようと、代々その財力を茶の湯や工芸・文芸などの振興に惜しみなく費やした。このため金沢は江戸時代の日本を代表する文化の香り高い土地となったのである。加賀藩祖・前田利家は茶道の大成者・千利休や織田有楽に茶の湯を学び、これが加賀藩の茶の湯文化の発端となった。三代藩主・利常は、裏千家の始祖となる仙叟宗室を茶道の指南役として招き、加賀には裏千家茶道が浸透した。さらには京都より茶道具の工芸師を金沢に移り住ませ道具を作らせた。このころより金沢では武家屋敷だけでなく町人宅にも茶室が設けられるようになり、幅広い層に茶の湯が定着していった。自ら学問を好んだ五代・綱紀の時代は加賀の文化工芸の隆盛期となった。綱紀は家臣団にも広く教養を身に付けさせようと、百科事典をつくり、藩内に学問・文芸を奨励。多くの加賀藩士達はその影響を受け、文芸に傾倒していった。豊富な書籍が収蔵された書庫は、江戸幕府の中枢を担った政治家・学者の新井白石から「加賀藩は天下の書府」と称せられている。金沢には茶の湯のみならず、学問においても高い水準の文化が育まれていたことがわかる。加賀の道具商という家庭的境遇に生まれた米太郎は、青年期から父・喜太郎が蔵した数多の名器道具に関する秘本や茶書を耽読していたことで、金沢独自の茶道文化や家業独自のモノに対する価値観、美術、文化、歴史などの複眼的視点を自ずと養っていたのである。

 米太郎は、十三歳で石川県立専門学校(第四高等中学校の前身校)に入学したが数学を好まず退学。その後、新島襄を慕い同氏が創立した京都の同志社英学校に転学した。転学の理由は親類に同社の学生がおり、その人物から新島の人物像を聞き知ったためだという。新島襄は、同志社で「自由」と「良心」によるキリスト教主義教育を行った教育者であった。新島は学生たちに「世の中のため」に生きることの大切さや「社会事業は神の委託事業である」という持論を常日頃から伝えた。その影響から門下生の中から多くの日本の社会事業の草分けとなる人物が多く輩出されている。米太郎もそのような空間に身をおいていたに違いない。しかし、在学中に慕っていた新島襄が逝去すると、米太郎は京都から離れ東京に移居。明治二十三年、東京帝国大学文科大学国史科(現東京大学文学部)に入学した。在学中特に興味を持ったのは浄瑠璃などの江戸時代の町人文学だった。加賀の骨董商家に生まれた米太郎にとって江戸時代の町人文化は親しみやすい領域だったのかもしれない。米太郎が上京した同年、父・喜太郎も金沢から上京している。程なく喜太郎は神田に骨董店を開くが、ここが東京での松山一家の新生活の出発点となった。
 帝国大学在学中の米太郎について、学友であった藤井乙男(国文学者・俳人)は、『武者の小路 松山吟松庵翁追悼号』昭和十八年)のなかで、米太郎の印象を次のように記している。

松山君はその当時から服装、持ち物の好み、態度、物腰が小綺麗で、何となく異彩を放っていた。今から考えてみると、やはり骨董屋さんであった父君の影響を受けて茶人趣味が溢れていたのだろう。(中略)松山君は柔和そうであっても、根が加賀ッぽで内心は強気の方であった。(中略)一旦言い出したらどこまでも押し通す方であった。書生に似合わず自分の部屋の床に十返舎一九の狂歌の軸をかけて悦んだり粋好みの縞の着物をきたり、一寸一風変わっていた。それに肌触りのよい方で、座談が非常に巧みで、何んでもない話でも松山君の口にかかると面白い興味たっぷりな談にして終わる。実に天才的であった。又喉の方も中々うまいものでこれも一寸小耳に挟むとすぐ節をとってしまっていた。その瞬間からもう松山君の隠芸になって終わる。

 米太郎が持つモノに対する美術的な感性や趣味、さらには表現者として人を魅了する一面があったことが伺い知れよう。米太郎の孫・俊太郎が手記した松山家の由来には、祖先は古く謡曲などの芸能に秀でた者であったと記されている。この点も松山家に流れる特殊な血液が為せる技であったのかもしれない。

教師時代

 東京帝国大学を卒業した米太郎は、約二十五年間、中学校や商業学校で教鞭をとった。在職中には広島中学校や京都第一中学校(現京都府立洛北高等学校)、東京の巣鴨眞宗中学校、東京府立第一中学校(現日比谷高校)などの教師を歴任した。大正三年からの五年間は大倉商業学校(現東京経済大学)の教授となったが、五十歳で職を辞した。
 日比谷高校百年史(中巻・一九七九年)には、前身校であった東京府立第一中学校(現日比谷高校)の旧職員として米太郎の名が記されている。同書によると、在職期間は明治三十七年から四十二年の五年間である。在職中の米太郎は、国語と漢文を教えており、同校赴任時代には教え子の中に、後に著名な文豪となる少年・谷崎潤一郎がいた。米太郎は同校同窓会「如蘭会」の会報十四号に当時のことを回想した文章を記している。全文を紹介する。

「生徒職員各其在校時代に於ける交互の個人的追憶談と云った様なものを広く徴集してみたら愉快だらうと思ひます。例へば小生の就職当時谷崎潤一郎君が即題の作文を提出したのを、余に好く出来過て居るのに対して疑を生じ同題の他人の文を剽窃せしならんと憶断して、平然ゼロのマークを付して返したが問題となり、到頭とうとうもう一度やらせて見て呉れと云ふことになり、放課後に同君を教員室に呼び寄せて、折から雨中だったので雨と云ふ題を課して見ると、一時間立たぬ内に作って出したのが、四季の雨を五七調の立派な新体詩に作り上げて出したので、疑団氷釈、ゼロが忽ち百点となって、以来此師弟間の親善を急進せしめたと云ふが如き一例。」

 以来米太郎は、谷崎少年の才能を高く評価し、授業では谷崎の文章を生徒の前で朗読し激賞したという。谷崎が名著『吉野葛』を刊行した際には、扉に「松山先生恵存谷崎・・・」と自著した一冊を贈ったことから交流が再開した。昭和十二年に発行された米太郎の著作『津田宗及茶湯日記』の制作にあたっては、谷崎も同書の刊行後援会の会員となっている。この翌年の昭和十三年十一月十九日には、谷崎が保田の米太郎邸を訪れている。松山文庫には谷崎との書簡が保存されている。
 大正八年、米太郎は二十四年間にわたる教職生活を終えた。もとより正直で血の気の多い性格は、教師としては生徒の人望を集めたが学校当局とは折合わない点も度々あったため、見切りをつけて早期に職を辞したようである。また、辞職する四年前の大正四年に父・喜太郎が逝去しているが、その頃から、父の衣鉢を継ぐべく骨董古美術、茶道全般の領域に興味を移していたのではないかと思われる。

近松愛好家・国文学者として

 米太郎は、帝大在学中のころから近松門左衛門に興味を持ち、教職時代に仕事の傍ら浄瑠璃や近松門左衛門の研究に取り組んだ。二十八歳の頃、京都第一中学校時代には、義太夫節を浄瑠璃三味線方の野澤五助に就いて習うほどであった。大倉商業高校在職中には、著作『浄瑠璃名作集』や『雅文小説集』などの校訂も手掛けている。また、このころの米太郎は、自らの号を「巣林庵」と号しているが、これは、近松の別号・「巣林子(そうりんし)」に影響を受けたものである。
 近松門左衛門といえば、現在もなお世界的な評価を受け、日本演劇史に革新を起こした江戸時代の劇作家として知られる。近松の書いた脚本は、それまで扱われてこなかった町人の悲哀や生き生きとした姿を描いた革新的なもので、これが多くの庶民の心をとらえた。演出においては、義太夫節という大型の三味線を使った演奏を取り入れることで、浄瑠璃に近世的な演劇の要素をもたらした。また、浄瑠璃の演劇性や文芸性をより高いものに発展させた近松は、文筆から演出、構成にいたるまで、総合的な才能を発揮した人物であった。江戸時代の町人文学に興味を抱いた多才な米太郎が、近松の世界観に惹かれたのは当然であったと言える。
 米太郎の近松熱は単なる興味の範疇を越え、いつしか近松ゆかりの実物資料の愛蔵家として世に知られるまでになっていた。米太郎が所有した近松ゆかりの品々を紹介しよう。

 一点目は、帝大入学の年(二十一歳頃)に、洋画家・中丸金峰から得た近松直筆の書簡「妹背海苔の消息」である。この書簡は、近松が一七一六年に記したもので、和歌山県和歌ノ浦の名物「妹背海苔」を贈られたことに対しての礼状である。現物は、米太郎死後、長男の亥三雄が米太郎の教え子であった小説家・谷崎潤一郎に譲り、のちに谷崎から早稲田大学演劇博物館に寄贈され現在に至っている。尚、この資料は同館ホームページ内のデジタルアーカイブ「名品セレクション」で画像とともに紹介されている。
 二点目は、近松の肖像画と近松直筆の辞世の句が書かれた軸である。この画軸との出会いは東京帝国大学を卒業する(二十五歳頃)年の事だった。明治政府で大臣を務めた井上馨(号・世外)の依頼により、東京の豪商・鹿島清兵衛家の道具調査に向かう父・喜太郎に同行し、その調査の中で鹿島家で米太郎自身がこの軸を発見した。その後、画軸は鹿島家から米太郎に贈られたが、この軸の発見は当時の近松研究者らの間で大きな話題となった。
 三点目は、近松が著述のため愛用した折りたたみ式の文机である。米太郎四十歳のとき、東京府立第一中学校在職中に、江戸時代から続く東京の豪商・仙波太郎兵衛家より得たものと言われている。明治時代を代表する小説家・坪内逍遥は、近松研究の第一人者としても知られる。坪内は、大正六年に東京小山町の松山邸に近松関連資料を見に訪れている。この時逍遥は、米太郎が所蔵する近松の肖像画と、近松が所蔵した文机のレプリカを制作する許可を得た。逍遥は文机のレプリカを二脚をつくり自身が使用し、米太郎は逍遥の勧めによって六脚のレプリカを作った。このうちの一脚は米太郎が自蔵し、残りは横井夜雨など同好の人に譲った。米太郎は昭和五年ごろに近松の肖像画と文机を新潟の素封家・保坂潤治に譲渡した。米太郎が自蔵した文机の模造品は、後年孫・俊太郎によって早稲田大学の演劇博物館に寄贈され現在に至っている。同博物館のホームページ内のデジタルアーカイブ「名品セレクション」には、俊太郎が寄贈したこの文机が画像とともに紹介されている。
 四点目は近松が自筆したとされる、鷺の絵が描かれた画賛軸である。この軸についての入手の経緯やその後は不明であるが、松山文庫には米太郎が模写したものが保存されている。おそらく米太郎が本物を誰かに譲った際に作ったものであろう。
 大正十一年に、朝日新聞が『近松二〇〇年祭』を企画し「近松遺物展覧会」を大阪と東京で催したが、米太郎はこの展覧会に、自慢の秘蔵品を出展した。この企画展の目録は、国立国会図書館ホームページ内のデジタルコレクションに『近松遺品及参考品展覧会出品目録 巣林子二百年祭記念』の名で公開されている。米太郎の所蔵の資料も写真入りで紹介されている。
 東京美術学校(現・東京藝術大学)の校長・正木直彦は、日記『十三松堂日記』の昭和五年二月二十一日に、「芝区巴町の松山米太郎の吟松堂」を訪ねたと記している。この訪問は近松門左衛門ゆかりの品を見るためであった。同書には「同家秘蔵の近松門左衛門寿像自賛 同妹背海苔の文 同鷺画賛 同常用文机」とあり「是は何れも有名なるものにて世間に知れ渡るものの真蹟なり」と感想を記している。
 米太郎は、近松ゆかりの品を愛蔵するだけでなく、広く世に紹介すべく学問上でも近松にまつわる仕事に関わっている。例えば『英訳近松傑作集』の著者である宮森麻太郎(東洋大学教授・英文学者)が同書を著すにあたり、近松の戯曲本文を簡略化した下書きを送り手助けをしている。このような仕事に関わったのも、国文学に関する知識と、近松に対する深い理解と自負があってのことであろう。米太郎は、近松研究において無くてはならない存在となり、また国文学の権威者としても知られることになった。

父・喜太郎について

父・喜太郎と母・艶子夫妻
提供:松山文庫

私は加州金澤の生れでありまして、父は素より祖父も曾祖父も詰り数代相続の古物商でございまして、可なり古い商家でありました。處で私の父の二十五歳頃の事です、明治三年といふ年に、前田家が貧民救助の為に、御蔵器をお佛ひになったことがある、父は若手ながら其売立を仰せ付かったのであります

『美術講話集』松山米太郎 (大正十四年・親交研究会)より

明治四十一年八月二日 松島にて 左・米太郎(三十九歳) 右・喜太郎(七十歳)
提供:松山文庫
父・喜太郎が自作した茶杓「むかし」 青柯翁作と記されている
提供:松山文庫


 父・喜太郎から受けた影響は、米太郎の生涯において多大なものであった。父・喜太郎(一八三八―一九一五)は、「青柯せいあ」「吟松庵」と号し、金沢では骨董商組合の役職を勤め、明治二十三年に上京後は益田鈍翁や井上馨といった著名な数寄者の名器売買を取次ぎ、東京の骨董・茶道具業界でも一流の目利きとして知られた。生涯で取り扱った茶器や名器の所蔵者と所有の変遷についてを『青柯手記』『徒然の友(全十二巻)』と題して書き残している。同書には名だたる名器が京阪・金沢・東京を転々したことが明確に記録されているという。特に『徒然の友』は、大正十年から昭和元年にかけて刊行された逸品茶道具の事典『大正名器鑑』(高橋箒庵・編)の編纂にあたり、主要な引用元となったという。
 米太郎の孫・俊太郎が残した手記(松山文庫蔵)には、松山家の由来が記されている。これによると、松山家の先祖は加賀藩祖前田利家に従い鎌倉から金沢に移った人で、はじめ仲買商を営んだが骨董を趣味とするうちにそれを生業とするに至ったという。米太郎の父・喜太郎は、十七歳で病父を養いながら商業に精進、勉強に励み、ついには金沢の古美術鑑定の第一人者となった。喜太郎は苦労の末に一家の礎を築いた人であった。
 父・喜太郎が上京したのは、明治二十三年十二月、五十二歳の時だった。妻・艶子つやこと二男・豊次郎をつれて、神田猿楽町(現神田一丁目)に家六軒を借り骨董店を構えると、ここに、京都同志社英学校を退学した米太郎も東京帝国大学入学のため住みこんでいる。
 上京から数年後、井上馨が東京麻布の内山田(現・六本木五丁目・国際文化会館敷地)に広大な自邸と蔵を構え、方々に置いてあった所有物をここに集め戻すということになった。井上馨は号を世外といい、明治政府で外務卿、外相、蔵相などを歴任した著名な政治家である。喜太郎は知人を介して、井上邸の蔵番として所有物の鑑定と管理とを任されると、喜太郎一家は井上邸との往復の便宜上、東京芝の小山町一番地に(現・港区三田小山町一丁目六番地付近)に居を移した。
 米太郎は、東京帝国大学を卒業後、広島中学に赴任するまでの五年弱を東京で暮らしていたが、この間、著名な数寄者から一目置かれていた父・喜太郎に尊敬の念を抱き、深め始めていたことだろう。また、前述の米太郎が近松の辞世の句が書かれた肖像画幅を発見した功績も、父が井上に依頼された仕事に同行した際の出来事であった。米太郎は、このような経験をともにした父・喜太郎を、偉大な先達としても見ていたにちがいない。

「二世 吟松庵」を名乗る

提供:松山文庫
父・喜太郎の肖像と「二世・吟松庵(米太郎)」による追悼の軸

 父・喜太郎は、大正四年に七十七歳で逝去した。米太郎が大倉商業学校の教授となった翌年のことだった。加賀一流の道具商と知られ、上京後も名器名物を取り扱った父・喜太郎は、一生分約五十年間の見聞記録をまとめた手記『徒然の友』十二巻を遺した。茶道具商として茶の湯の歴史を後世に伝えようとした人物であった。米太郎は、父の逝去に際し、追悼の意を込めて和歌を百首詠んだという。この百首の歌稿の一部は松山文庫に現存している。父の死後、米太郎は、自らを「二世 吟松庵」と名乗ると、自身の学問的研究領域を近世の町人文学から茶の湯の世界に移していった。
 次の画像は、松山文庫に所蔵されている掛け軸を撮影したものである。父・喜太郎の肖像画に米太郎直筆の追悼和歌が添えられ、「二世 吟松庵」と署名されている。これは米太郎が親友の茶人・横井夜雨に依頼して描かせたもので、米太郎が父の号・吟松庵を継承したことをあらわす貴重な資料である。また、昭和五年には金沢出身の洋画家・早田楽斎に依頼して亡き両親の肖像画二枚(松山文庫蔵)も残している。父の没後十五年の節目に作らせたものと思われる。この二枚の肖像画は保田吉浜の別荘の隣家で大工だった川崎茂兵衛氏に額装を依頼し、あらたに別荘として建てた残月庵に掲げていたようである。家業を継がず学者を志した米太郎が、「二世 吟松庵」と名乗ったことは、父の衣鉢を継いで自らも茶の世界に生きようと決意した米太郎の意志の表明であったのだろう。

小堀家当主との出会い


 父の逝去から三年が経った頃、二世・吟松庵たる米太郎をより茶道研究の世界に向かわしめる数奇な出会いが訪れる。それは、茶道小堀遠州流の子孫との出会いであった。


「今から彼是八、九年前も昔のことですが、偶然或友人の紹介で、遠州の末裔たる家元の宗匠小堀宗明という方が、私を訪ねてこられまして、はじめてお目にかかりました。実は遠州の子孫が未だにお出でになるということを知らなかったのでありますが、お目にかかってから、私も谷中の清水町のお宅に行って見ました。處が疑いもなく小堀十世の嫡孫であられまして、家には数多の古記録や(中略)私も紛れもない遠州公の嫡流が此の世にお出でになるという事を知りまして、非常に喜びまして、それから及ばずながら、私が出来る限りにおいてお世話を申し、御親交を続け来りまして今日に及んで居るのでございます」

『美術講話集・小堀遠州に就いて』(大正十五年発行)


 小堀家は茶道の流派遠州流の家元である。米太郎はこの出会いを機に小堀家の顧問となり、茶道にまつわる学識をもって知能的な面から同家を補佐していった。同家の顧問になった事が、米太郎にとって茶の世界と継続的に関わる大きな転機であった。小堀家の顧問となった翌年の大正八年、五十歳で大倉商業学校を退職し、その後は自ら骨董古美術茶道具を扱う店「吟松庵」の主となり、いよいよ茶書の研究に着手していく。

骨董店「吟松庵」再興

 米太郎は、教授職から退いた後、一時的に金沢の能久氏と共に東京の星ケ岡(現東京都千代田区永田町)に骨董店を商った。大正十二年の関東大震災の当日は保田の別荘にいたため自身は被害を受けることはなかったが、すぐさま東京三田小山町(現・港区三田一丁目六番地付近)の本邸に戻った。本邸の無事に胸を撫で下ろしたものの、東京の被害を目の当たりにした米太郎は、前途に不安を覚え、新物を扱う店を芝区巴町(現・港区虎ノ門三丁目)に開店した。甚大な被害を受けた当時においては、骨董のような贅沢品は需要が無いだろうと踏んで金沢から新品の商品を仕入れて販売した。ところが東京の復興は目覚ましく、骨董の需要が殺到し、店の棚にはいつしか純骨董が並ぶようになったため、骨董店を娘婿・三輪六郎とともに営むことにした。ここに先代逝去以来、約十年の時を経て骨董商「吟松庵」が再興されることとなったのである。店主の座右には、先代が道具商として残した約五十年の見聞を記した「徒然の友」が置かれていたことだろう。
 たしかな鑑識眼を具えた骨董店「吟松庵」の店主のもとには、次第に同業者や著名な茶人・数寄者などが訪れるようになり、店の名はいつしか「先生堂」と称されるようになった。親交を結んだ茶人・横井半三郎(号・夜雨)も最初はこの店に客として通いはじめた一人であった。店には、様々な人物が出入りしたが、中でも前山久吉、西脇済三郎、高橋梅園、北大路魯山人などの著名な実業家や茶人、文化人もよく訪れた。
 横井夜雨は「巴町の吟松庵を訪ねて雑談快話三更に及ぶと蕎麦のご馳走になって帰るを常とした。座談の雄で、古を説き、先聖を語り、風流を話して尽くるところを知らない。この間に尊き教をうけしこと測り知られない」と米太郎との触れ合いを書き残している。
 米太郎は日記『思川』の昭和十年一月一日に「昨十二月二十一日をもって余は道具商廃業届を成し六郎新たに骨董商の鑑札を受けたり」と記している。米太郎が骨董商を営んだのは、大正末からのおよそ十年間であり、その後は娘婿の三輪六郎が引き継いだのであった。

吟松庵と交流した人物たち

 骨董美術や古道具に対する鑑識眼と茶の世界について深い学識を持っていた米太郎(吟松庵)は、著名な茶人や数寄者とも交流した。米太郎逝去の翌年に発行された茶道雑誌『武者の小路 松山吟松庵翁追悼号』には、当時の茶道界で活躍した面々による追悼文が納められており、茶道界への影響力・存在感を感じずにはいられない。ここでは米太郎が交流を持った代表的な人物を紹介しよう。

横井夜雨との交流

横井夜雨

 数々の茶人の中でも、お互いを親友と思い親しく交流したのが横井夜雨やう(一八八三―一九四五)である。夜雨は本名を半三郎といい、日本製紙産業の最王手・王子製紙の重役を務めた人物であった。同社社長・藤原暁雲に導かれ茶の湯に親しむようになると、同氏を介して当時の茶の湯界の中心人物であった益田鈍翁とも茶友となった。生前の鈍翁が最後に訪れたのは小田原に構えられた夜雨の茶室であったというから、鈍翁との親交の程が伺える。茶会記や古陶の研究を行い、著作には茶の湯と禅寺の関連や、わび茶の祖・村田珠光について記した『臺子だいすと珠光』などがある。夜雨は、茶道具をも手作りすることを好んだ多才な財界人であった。松山文庫には夜雨から米太郎に宛てられた書簡が保存されている。
 夜雨は、大正十三年頃から骨董店「吟松庵」の客として出入している。一時は、ロシア・樺太・デンマークなどで林業などの仕事をしたが、再び昭和三年に「吟松庵」の門をたたき、茶書に関する教えを受ける間柄となった。以来、米太郎が亡くなるまでの約十四年間多くの書簡を交わし、著作の発行人となるなど米太郎を支える唯一の人物であった。特筆すべきは、益田鈍翁と吟松庵を引き合わせ、両者の取持ちに尽力したことである。米太郎の出世作とも言える『評註 津田宗及茶湯日記』は、益田鈍翁が発案したものであるが、製作に際して設立した刊行後援會の代表者をつとめたのも夜雨であった。

益田鈍翁との交流

 近代を代表的する実業家であり、茶人として「千利休以来の大茶人」と称された益田孝(号・鈍翁)もまた、米太郎と親交を結んだ人である。三井物産創業者の一人で、実業家としては明治維新以降草創期の日本経済を動かし、まさに当時の財界の頂点に立った。鈍翁の本邸は東京品川の御殿山に構えられ、約一万二千坪の敷地には茶室や洋館が建てられた。明治末には小田原市板橋の相模湾を望む丘陵の斜面約三万坪に別邸「掃雲台そううんだい」を造営した。掃雲台には十の茶室が配置され、晩年はここで茶三昧の隠棲生活に入っている。小田原に近代茶人が集まるようになったのは、鈍翁の存在によるものである。

益田鈍翁

 鈍翁は米太郎よりも二十二歳年長であり、父・喜太郎とも旧知であった。このため、鈍翁は米太郎のことを道具商・喜太郎の息子として早くから認識していた。さらに、鈍翁と米太郎の関係においては、両者と親しかった横井夜雨の存在を抜きには語れない。夜雨は二人の人間性かつ個性的魅力を知り得ており、稀有な二人の間を取持つ役割を自覚したからこそ、引き合わせることができたのだろう。
 鈍翁が死去した際に追悼の為に作られた書籍がある。昭和十四年に発行された『大茶人益田鈍翁』である。同書は生前交流のあった人物らによる追悼寄稿文集であるが、その巻頭言を飾ったのは米太郎であった。さらに米太郎は同書に「温情の人」という一文を寄せている。
 元来学者志向で批判性に富んだ性格の米太郎は、当時の実業家などによる茶道の潮流や文化を「俗物的」と捉えていた。米太郎は鈍翁のことを世に最も知られる茶人ながらも茶の本質を解さない悪趣味な人物と評価していたようである。
 鈍翁と米太郎の初対面は、昭和四年保田でのことであった。米太郎が保田にある築数百年の古民家を鈍翁に案内するというもので、横井夜雨が機会を設けた。夜雨は、米太郎が鈍翁に抱く印象を知りながら、敬愛する二人を引き合わせたかったのかもしれない。この日のことについては後述する。
 以来米太郎は東京品川の鈍翁の茶会に呼ばれるなどしたが、依然として鈍翁の振る舞いには良い印象を覚えなかった。米太郎は昭和五年に保田吉浜の別荘の敷地に、近隣から築年約二八〇年の古屋を移築し「残月庵ざんげつあん」とした。時同じくして鈍翁も名古屋から築数百年の古屋を移築し、観濤荘かんとうそうとしている。観濤荘に興味を抱いた米太郎は、夜雨を介して小田原の鈍翁を訪ねることにしたが、この訪問でも鈍翁に対する印象は変わらなかった。米太郎の頑固な性格を感じるところである。ところが、しばらくして、夜雨からある依頼が来た。鈍翁所蔵物の図録編成にあたり、解説一式を引き受けてほしいというものである。これを機に、やがて鈍翁は米太郎個人を客として招く間柄となっていく。
 鈍翁との親交が始まったは昭和八年、鈍翁が米太郎に一通の書簡を送ったことが大きな節目となった。『註解 茶道四祖伝書』を読んだ鈍翁が、感想と感謝状を著者である米太郎に送ったものである。鈍翁から届いた初めての便りであった。そこには、著述の苦労に関する深い理解と同情が記されており、米太郎も研究成果を評価し称える鈍翁の真心に感激したという。なかでも米太郎が最も心打たれたのは、単に米太郎自身を評価するのでなく「今後は現代の茶会を筆記して後世に残してくれ」という内容が記されていた点であった。この一文に触れたことで、それまで抱いていた鈍翁のイメージが大きく変わったのである。米太郎は鈍翁という人物が、世にもてはやされるだけの茶人でなく、茶道の歴史文化を引き受け次世代に繋ぐ素質資格を有するに足る人物と感じ取ったのだろう。以来両者は密接に書を交わし合う間柄となっていった。鈍翁は米太郎のことを「大先生」と呼び、小田原への移住を懇願したが、これに応じず、米太郎は保田での生活を貫いた。二人は月に二、三どは書簡を送り合うほどの間柄で、米太郎が
此頃毎夜の月飽かずとも眺めくらし候、今暁五時海上の月正面低くかかりて赤々と次第に遠山に没する迄を見尽くし、とめ風呂一焚して一浴後富嶽に対し、光悦富士写茶碗にて一服仕り遙かに相州の点を拝し申候。
  安房さがみ浪はいくへにへだつとも 富士を翁のおもかげにして
毎日拝顔の心に候

と送れば、鈍翁は、
安房人は呼べど来らず相模山 うらみてのみもたちわたるかな

と書簡に歌を添え返したという。
 米太郎は年に三、四回は保田から小田原の鈍翁の茶会に呼ばれ出向いている。鈍翁は、昭和十二年四月五日、江戸時代初期に本阿弥光悦によって作られた名器「障子」(光にかざすと透けて見えることが名の由来)を用いて米太郎をもてなしている。鈍翁は、稀代の名物とされるこの器の披露会を設けた。「障子」は床の間に飾って披露されたが、米太郎が来た際には特別に「障子」を用いて茶を点てたという。
 鈍翁は、頻繁に米太郎を小田原に招待するようになったが、米太郎は著作に励むためと言い、誘いを断ることも多々あった。それは少しでも早く新たな著作を世に出すことで鈍翁の気持ちに応えたいとの配慮からでもあった。来れないならば、自らが保田へ出向くとまで言っていた齢八十歳の鈍翁も、度重なる用事に阻まれて保田行きはとうとう実現することはなかった。一時は保田の米太郎邸の近くに自らが一泊ができるほどの草庵を結ぼうと、鈍翁の執事が地所を下見に来ることもあった。
 鈍翁は保田の米太郎に自製の紅茶や甘露、梅、夏には肌掛け冬には綿布団などを贈ったり、さらには、事業に使ってほしいと資金まで贈っている。米太郎は金援を断固拒否したが、鈍翁は「これは君個人に贈るのでなく、君の事業そのものに贈るのである」といい、夜雨からも「義理に悩む金ではない」との一言もあり、受け取っている。茶道文化の継承のために、心を砕き援助を惜しまなかった鈍翁の一端である。
 互いに高齢となった両者は絶えず書簡を交わした。米太郎は鈍翁が綴る行間に涙を流す事さえあったという。鈍翁晩年の頃に小田原の茶会に出席した折、鈍翁本邸の所蔵物を観ながら談笑したことがあった。その時鈍翁は、一幅の仏画の軸を米太郎に見せた。米太郎は、「ああ見事だ」と褒め、鈍翁が「よいでしょうか」と尋ねると、米太郎は「結構ですとも」と返し、鈍翁は嬉しそうな笑みを浮かべたという。その軸は、鈍翁逝去の知らせを受けて、米太郎が夜雨と共に駆け付け飛び込んだ際、床の間に飾られていたものだった。鈍翁は、茶道文化を後世に残す学者として、米太郎(吟松庵)を心から敬愛した。そして自らの先が長くないのを知りながら、会いたい会いたいと思い寄せながら生涯を閉じたのであった。

 米太郎が夜雨に宛てた書簡の中に鈍翁について記したものが多数ある。

米太郎は自邸から望むこの富士の姿に鈍翁を見た
旧米太郎邸付近からの富士山の夕景(二〇二一年筆者撮影)


うれしきは此頃毎朝富士出で、鈍翁と対面いたし候事に御座候。
 鈍翁に逢ひたくならば折々は来てこそ見ませ我庵の富士
 
鈍翁はご承知の如く極めて客ずきの人なり、客なくして一日も孤独の閑境を楽む能はざる人なるべし、客のみならず死ぬ迄殖産の事業を楽まれたり、独善の阿羅漢に非ずして救世済民の菩薩心を以てどこ迄も世と絶縁どころか終始世間との交渉を保たれたり。茶も亦独楽の茶にあらずして接客の茶なり翁は終生茶を以て世と人とのつながりを保たれたりと見るべくや、然らば會て静岡に隠栖せられんとせし事ありとも、そは真の厭世に非ず何かのご都合なりしならむ、小田原の退老も真の隠栖に非ずして人世に於ける一種の清交的社会道場を築かれたりとみて可然歟、要するに翁はどこ迄も世を捨てざりし大乗菩薩の心をもてりといふべし。
 高踏的厭世家は多く失意の人也、世と人とに懲りはてたる人也、翁が高士的清韻に於て欠くるあるが如き果報円満なる成功の人なりしによるはいふ迄もなし。


 この書簡の文面から米太郎が鈍翁の人間性を高く評価していたことがわかる。

鈍翁が保田に来た日

 鈍翁は昭和四年の春、横井夜雨と白石村治(号・白鷗)、執事らとともに一軒の田舎家を見るために保田に向かった。小田原の自邸に観濤荘を移築したのと同年のことであるから、鈍翁は方々でめぼしい古家がないか探していたものと思われる。鈍翁一行が向かったのは保田大帷子おおかたびらの旧家・醍醐島一郎氏の家であった。そもそもこの家は、保田の生活の中で米太郎が気に入っていたもので、家主・島一郎と親しくなり「この家を譲ってもよい」と言われていた。米太郎は鎌倉時代築ともいわれるこの家を大変気に入り、自ら購入したいと思っていたが、柱の太さや家屋の大きさから、費用がかさむため「手に負えない」と止むなく断念したものであった。そこに、横井夜雨を通じ、鈍翁が「その家を見たい」と言っているとの知らせが入ったのである。米太郎は親友からの願いなら譲ってもよかろうと、保田の醍醐邸に鈍翁一行を案内することにした。
 鈍翁没後の追悼文「温情の人」に、この日の出来事を「鈍翁来保という、おそらく保田始まって以来の最大の珍事が突発した」と米太郎は記している。夜雨には、敬愛する二人の偉人を保田の地で是非とも引き合わせたいという願いがあったようである。結果的に、鈍翁はこの家を買うことはせず、醍醐邸訪問の後は吉浜の米太郎の別荘に行く予定でいたが、鈍翁は所要の為やむなく足早に帰京することとなった。ちなみに、米太郎は翌年に残月庵を自邸に構えているが、これは醍醐家の家屋ではなく、保田・大六の味噌屋・川崎家(屋号・四郎兵衛)で使われていた家屋である。令和二年、筆者が醍醐家の奥様に話を伺ったところ、五十数年前に同家に嫁いできた頃は、まだ茅葺の大きな家に住んでいたが、後に建て替え現在に至っているという。建て替える前の家は、たいへん大きな茅葺の家で、柱に腕を回しても両手がつかないほど太く立派な作りだったという。醍醐島一郎氏は、明治二十四年に東京専門学校(現・早稲田大学)の政学部を出た人物で、琉球人のように髪を結っていた人だったという。米太郎の日記には、島一郎が一時出家していたことが記されており、当時異彩を放った地元の人物であったと思われる。
 鈍翁の来保については米太郎自身も「保田最大の珍事」と記しているが、このことはむしろ米太郎という人物の存在があってこそ「突発した珍事」である。今日、保養地としての保田の歴史を再認識していくにあたり、松山米太郎という別荘人が呼び込んだこの出来事は大変興味深い。

川喜田半泥子との交流

川喜田半泥子


 陶芸家として名高く「東の魯山人、西の半泥子」「昭和の光悦」と称された川喜田 半泥子かわきだはんでいし(一八七八―一九六三)もまた、米太郎(吟松庵)と交流した人物である。年齢は米太郎よりも八歳年下で、松山文庫には米太郎に宛てられた書簡が保存されている。
 三重県津市で代々木綿問屋を営む川喜田家の十五代当主であった半泥子は、銀行頭取や数々の企業の要職を歴任した財界人である一方、陶芸・書画・茶道・俳句・写真・建築など多彩な趣味を持った数寄者でもあった。生涯で残した陶器は約三万点以上と言われ、陶芸、書、画において、いずれも自由奔放で破格な作風が特徴であった。創作においては「素人こそ新鮮な美を創造することができる」という信念を持ち、作ったものはほとんど売ることなく、出来上がったものは友人知人に分け与えた。質素、素朴、遊び心、不完全な物や人を楽しませることを好み、皇族や大臣から近所の農家まで別け隔てなく広い交遊を持った。お茶については流儀を習うことや形式的な作法を好まず、あぐらをかいたまま茶を点てるのが好きだった。生涯の内に名乗った号は多く「無茶法師、半泥子、紺野浦二、泥仏堂、其飯(そのまま)、部田六郎(へたのろくろう)、莫迦耶蘆(ばかやろう)」などがある。
 大正四年、三重県津市の千歳山に軍の兵舎が建てられることを聞いた半泥子は、地域の緑を守るべく敷地四万坪ともいわれる千歳山一帯を購入し、同地に邸宅とロクロ場、陶窯を構え、作陶に打ち込んだ。千歳山には全国の芸術家や茶人、数寄者、文化人、実業家が訪れた。昭和五年には文化事業を支援しようと、その財力で津市に文化財団と文庫を設立している。
 半泥子は昭和十二年の暮に保田吉浜の米太郎邸を訪れているが、以来米太郎が逝去するまでの五年間に百八十通にも及ぶ書簡を交わした。この間半泥子は、自作の茶碗を二度、米太郎に贈っている。半泥子が残月庵を訪れたことは、鱚ヶ浦きすがうら別荘人の小泉丹が残した保田日記の昭和十三年一月四日に、「津、千歳山の喜多村氏、堀佛庵、半泥子、紺野浦二氏の来訪の話などを聞く。」(喜多村とは川喜田のこと。原文ママ)と記されている。小泉丹が米太郎邸に立ち寄ったときの話の内容である。
 半泥子は雑誌『焼きもの趣味』の編集者・鈴木恵一を通じて米太郎に自作の茶碗を贈っている。表面には鉄で二本の松の樹影が描かれた志野焼の作風であった。この器を受け取った米太郎は、後に半泥子に送った礼状の中で、こう詠んでいる。

ほのほのと 松原こしに富士見えて 木の目もさむる 志ののめの空

 届いた器に描かれた二本の松の背後には、富士の山容のような釉薬の模様が付いていたのである。これは半泥子の意図せずのことで、保田の浜辺で日々富士を愛でつつ暮らした米太郎はいたく気に入り、その思いを歌に詠んだのであった。
 昭和十四年九月に米太郎が胃を患い病床につくと、心配した半泥子は、東京に暮らす米太郎の娘婿・三輪六郎に問合せの手紙を書いている。手紙には、「自作の茶碗を贈りたいが、床に伏す吟松庵に喫茶を促すのは体に障るので、贈ることを躊躇したままでいる」との旨が記されていた。三輪六郎からこの知らせを受けた米太郎は、半泥子の配慮に感涙し、その茶碗を「早く見たい」と書簡を出した。半泥子はこれに応じ、自作の茶碗に「磯鰈」(いそがれい)と名付け、すぐさま米太郎に贈ったのである。房州保田の「磯辺」に暮らす米太郎のもとに「急がれ」と洒落を利かせた自作の茶碗であった。米太郎はこれを大に喜び、書簡には次のように記している。

朝から来た小包はカステラの折ばかり アゝ今日も夕暮れかと歎息致居候所 此暗かりに牛の様な男ノッソリ入り来り 津市からのお荷物とさし出すを ひったくり縄からげブツブツ 釘付けカンカン そこら中ごみだらけのうちに お箱を取出し 胸打ち騒ぎつつ蓋裏をかえせば御名鮮やかに磯鰈 さてこそさてこそ前は磯なるあまか屋をおほし召しての御心乎

鰈どのおれもそなたと磯仲間 永々ゐしにつひたとごぶし

 
 ※書簡中の「蜑」の字は「漁師」の意である。米太郎の喜びが伝わってくる。

 病から復帰した米太郎は、昭和十五年五月十日に、妻・下枝とともに千歳山の半泥子邸を訪ね一泊している。本書第一章冒頭の米太郎・下枝夫妻の写真は、この時に半泥子が撮影したものである。千歳山の高台にあるベンチに腰掛けた夫妻が広大な景観を眺めつつ自然な笑顔で談笑しあう、なんとも和やかな写真である。この写真を撮った際のエピソードが面白い。妻・下枝が「私しゃ一句浮かんだが、今日のみは皆我物ぞ千歳山 はどうやいね」と話しかけ、米太郎が「ふん、欲張っとるな、わしなら 貰ふても泣かねばならぬ広さ哉 や」と返す。さらに下枝が「ああ、ほんまにそうや、私もそうやった」と二人顔を見合わせて笑っているところにカメラを手にした半泥子が歩み寄り「そのままそのまま」とシャッターを切ったのであった。
 半泥子は著作『乾山考』を発行したが、その第二十九冊(昭和十八年七月刊)には米太郎の霊前に捧げる旨の献辞が記されているという。

北大路魯山人との交流

北大路魯山人


 画家、陶芸家、美食家、書家として独自の美意識を追求した著名な芸術家・北大路魯山人もまた、米太郎と交流した人物である。波乱万丈な生い立ちから他者と和する事を苦手とし、敵も多かった魯山人であったが、大正時代より骨董店吟松庵には客としてよく訪れた。
 激しい独断専行の性格が災いし、自身が開業し天下一の料亭と称された「星ヶ岡茶寮」から解雇・追放されたことは有名である。米太郎はそんな魯山人と特別な関係を築いた。米太郎の子孫にあたる三輪家には、米太郎が、魯山人の世話人であったという話が伝わっている。米太郎の日記『思川』には魯山人との関係を示す記述が数多く出てくる。
 昭和七年十月一三日。魯山人が発行していた雑誌が米太郎のもとに届く。米太郎は魯山人の文章に多数の誤謬を見つけると、雑誌とともにことごとく正誤を示し苦言を認め返送している。手紙の大意はこうである。

「私は、以前君(魯山人)の事を無学であると公言する人に会った事がある。それほど君には敵が多いのだ。理由は君が書く文章には誤謬が多く、文字の素養が無い事を暴露しているためである。君は人に習うことを嫌い、人の下手に出ることができないが、そのような愚かな行いは良くない。例えば禅の修行においても良き師につかなければ高い境地に達することはできない。君は世間に対し斜に構え、その目には人の姿が映っていないかのようであるが、文学においては君の師となるものは少ないわけではない。君に良心というものが有るのならば、一から学び直すことである。世間に公開する文章は専門家に見てもらうべきである。私はそのことについて君の師となることができるだろう。」

 この手紙を送った二日後、米太郎のもとには魯山人から便りが届いた。先日の書簡に対する感謝の意を添えた自筆の原稿であった。米太郎は届いた原稿その満面に赤字で訂正し、アドバイスを加えて返送したのであった。
 魯山人は米太郎よりも約十一歳年下である。米太郎は、魯山人の傲慢ともいえる性格を、あえて正面から諭したのであろう。そこには厳しさと慈愛を有する人格者、教育者としての良心を垣間見ることができる。
 魯山人が星ヶ岡茶寮を追われ孤独となったのは、この手紙の四年後のことである。その上で、米太郎が魯山人について記したもう一つの文章を紹介しよう。昭和十四年十月に東京銀座で開かれた絵画展「魯山人扇形小品画展」に際して八十名弱の人物がその絵画評を寄せた冊子である。米太郎はこの冊子に「房州 松山吟松庵」と署名し、次のように魯山人の絵画とその精神性について独自の視点で批評している。

「山人が非凡の頭脳の持主で、何でも物の神を掴み得る鋭い霊感を持っているというのが諸大家の一致した批評である。無論同感であるが、其の掴んだ物の神を如実に表現する技倆は数十年間の百錬千磨の功を外にしては求められない境地である事を看過してはならぬ。山人は「幼少から独りで写生し」、現在でも「醉狂の無駄がきに十枚の白紙を九枚迄破棄する」人である。而も自身は「練磨と修業抜きで初めから物にしようとする図々しさを考えさせられる」と告白しているが、是が練磨と修業でなくて何であろう。山人は今や三昧境の怡楽に浸って、自身すら苦修を苦修とも気づかないらしいから、世人も亦山人の軽い態度を見て不思議な天才だとして、「自然の環境に埋まっているから絵の描けるのも寧ろ当然だ」としている。環境で画が描けるものなら、田夫魚樵は皆画かきに成るだろう。私は山人が軽々拈弄の筆端に苦修錬行の血を観る者である。も一ついう、山人は筆と紙で名画をかくのみでない。指と土、刀と石でも画をかき、更に彼の生活全体に絵を画いている。山人得意の書も料理も建築も造庭も亦洗練された一種の絵であるに過ぎない。森羅万象を手本として師匠にしているのであるから、其絵も極て複雑多岐に亘る訳である。」


 この文面からも米太郎が魯山人を深く理解し、その真意を評価し続けた事がわかる。魯山人にとって、米太郎は数少ない理解者であったのではなかっただろうか。魯山人は、若い頃金沢で茶人・細野燕台えんだいの知遇を受け、その才能を開花させた。細野は「金沢最後の文人」として知られ、星ヶ丘茶寮の顧問を務めた。米太郎と同郷かつ同年の生まれであり、関わり合いもあったようである。米太郎にしても、その生き様は一個の文人と言える人である。魯山人は金沢由縁の二人の文人・松山吟松庵と細野燕台に支えられていたと言えないだろうか。
 松山文庫には、魯山人の書簡や書軸が保存されている。その書軸には 萬里無片雲(ばんりへんうんなし)の字句が書かれている。その大意は、見渡す限り雲一つ無い空。心の隅々まで妄想や煩悩がないことを指す禅語である。魯山人はどのような思いでこの書を米太郎に贈ったのであろうか。

茶道研究者として

 武家政権が終わりを告げると、古来より茶道の家元を支援した大名や上級武士や上流の町人がいなくなり、室町時代から連綿と育まれてきた茶道文化は衰退の一途を辿ることとなった。明治の社会には「文明開化」の名の下に西洋化の波が押し寄せ、日本の伝統文化はかえりみられなくなっていった。次第に一般の人々の茶道に対する興味も薄れ、茶道は形骸化していったが、この衰退期においては、茶道を近代社会の国民にふさわしい「教養」へと変革すべく、女子教育への導入が図られるなど、茶道家元を中心に、伝統を絶やさないよう懸命な努力が続けられた。またこの頃には「近代数寄者」といわれる新たな茶道の支援者・擁護者が出現し、茶道文化の復興に寄与した。近代数寄者とは明治中期から昭和初期にかけて存在した茶の湯を趣味とする富裕層のことで、現代に連なる大企業の礎を築いた実業家を中心に、明治維新の功労者、政財、官界の要人、旧大名家の当主や茶の宗匠などの総称である。なかでも当時の日本の経済界を牽引した大実業家・益田鈍翁をはじめ、その茶友たちは、茶道を愛しその文化の復活に力を注いだ。彼らの活動により、茶道文化は活力を取り戻し、茶道人口は次第に増加していった。
 松山米太郎(吟松庵)は、このような茶道衰退の時代において、古い文献を解読し紹介することで学術的な面から茶道文化復興の礎となった学者であった。慶應義塾大学教授で茶書研究者の高橋龍雄(号・梅園)は、米太郎と旧知の仲であった。同氏はこう記している。

吟松庵松山米太郎翁は、余と明治三年生まれの同年齢、しかも茶道の上にても、茶書研究における同趣味を持ち、わけて翁は茶書の古文書を初め、最も難解の文書を容易に読了された点は、けだし国宝的な存在であって、私の友人というよりも、この点に於てはむしろ師友であった。


 さらに、茶道研究者・末宗廣(一八九〇―一九七七)は、学者としての米太郎の態度や人物象をこのように記している。


筆者は吟松庵の学究としての態度に真摯克明、交友文通に於いて謙虚坦懐、さらにその日々の生活に於いては質素且つ活淡寡欲、実に学界、茶道界、稀に見る人なるを識り秘に畏敬尊崇して来たのであった。即ち筆者等の如き後学浅見の者の言に対しても前掲の手紙の如く丁重、謙虚、而もその採る可きは採り、改むべきは改めどこまでも真摯でありメンツにはこだはらず、若しそれ自己の所信と相容れざる時は断乎これを反駁し、時としては是正、指導、 諄々乎として説示の労を惜しまない。それは筆者ならずとも相手が博士であろうが、大学教授であろうが、又富豪政治家ただしは有名ジャーナリストであらうが一向頓着しなかったのである。従って権門に媚びず、金銭に淡白であり妥協的なことは大嫌ひ清濁併呑などといふことの出来ない、直情経行、純一無雑といふのがその真面目であった」(『茶人の研究』昭和五十六年 思文閣 末宗廣著)


 米太郎の古い文献に対する解読力は、人に国宝級とまで言わしめる程の実力であった。そして、学問に対しては、「ならぬ事はならぬ」という厳たる姿勢をはっきりと持っていた。何人にも臆することのない仙人的境地の学者像を感じるところである。

 米太郎は茶道に関する文章や書物を多く残した。昭和十一年から十二年にかけて創元社から刊行された『茶道全書』(全十五巻)には『さびの弁』『利休遠州台子飾伝書』『夜会の習の事』『珠光と臺子の伝来』『長闇堂記』『茶杓小話』『仙茶集』『四大茶会記解題』『君台観左右帳記』の合計九編が収録されている。米太郎の著作の内容は、茶道に関する古典「茶書」に解説を付けたりして復刻したものが多い。茶書には、茶会記(だれがどういう人をどのようにもてなしたか)、名物記(茶器に関する所有者や意匠に関する記録)、聞書や覚書、逸話集などの種類があり、その領域は広い。茶書研究とは、茶書に記されたことを再検証したり、それにまつわることを発掘したり、現在に再提案(翻刻)することである。室町時代以来続く長い茶道の歴史の中で記された書物を解釈しさらにそれを紹介するということは、茶道の歴史や文物全般を扱うということに他ならない。ここでは米太郎(吟松庵)の代表的な四著作を紹介しよう。

著作『遠州公小伝』について

 昭和五年に刊行された自著『遠州公小伝』は、茶道遠州流の始祖・小堀遠州の伝記である。同著が作られた発端は、刊行より十五年ほど前、米太郎が同家の末裔と知り合ったことに遡る。米太郎はこの出会いを機に小堀家の顧問をつとめることになり、遠州会の為に同家元祖の伝記を著したものであった。同書の企画は、益田鈍翁が、遠州流茶道の復興を発起したもので、米太郎の親友であった茶人・実業家の横井夜雨が出版人となって作られた一冊である。同書は国立国会図書館ホームページ上のデジタルコレクションで本文を読む事が出来る。

著作『註解 茶道四祖伝書』について

吟松庵 松山米太郎校註『註解 茶道四祖伝書』 
保田文庫蔵

 昭和八年に刊行された著作に『註解 茶道四祖伝書』がある。同書はもともと江戸時代前期の豪商・茶人であった松屋久重によって書かれた記録書である。その内容は、千利休、古田織部、細川三斎、小堀遠州の四大茶人の言行のほか、桃山から江戸時代初期にかけて発展した「わび茶」とよばれる茶の湯が成立していく過程を伝えるものであり、日本最古の茶会の記録書でもある。
 かねてより秋豊園という出版社が直筆の同書を模刷しようと試みていたが、原文が難解・難読で仕事が進まなかったことをうけ、米太郎が自ら注訳、解説を作ることを志願し、実現したものである。米太郎は、出版社ですら読解に苦しんだこの書物を二か月ほどで解読し解説まで書き上げた。この仕事により、米太郎は茶書研究者・松山吟松庵として名声を上げていった。この本の発行直後、いち早く感想を送ってきた人物が益田鈍翁であった。米太郎にとっては、この一件を機に、鈍翁を意識するようになり、両者の親交のきっかけともなった書である。
 米太郎は同書の前書きで「当時の名流大家風流韻事を伝えるだけでなく、当時の世相を反映する歴史的な資料価値の高いものである」と原文を評している。続いて原著者・松屋久重の丹念かつ事細かな記録の描写に感動しつつ、米太郎自身「後代の研究者に資せんと、大正元年から約二十年にわたり自身の遭遇した茶事や会、風雅一切の見聞を叙述してきた」とも記しており、同書の註訳、解説は学究人生に極めて重要な位置を占めていたことを示している。
 さらには同書に含まれる逸話や茶道における秘伝の内容は、「世間普通の書には求め難い貴重な逸文遺事の金銀殊玉ならざるはない」と述べ、「茶家はもとより、史家も、文学者も、恐らく未発の埋蔵多きに驚かるるであろう事を確信して疑わざる處である」と結んでいる。前書きの署名には「昭和八年三月 遠州流家元顧問 吟松庵 松山米太郎」と書かれている。この本も、国立国会図書館ホームページ上のデジタルコレクションで公開されている。

著作『三冊名物集』について

 昭和九年の『三冊名物集』は、もともと江戸中期に数寄大名として知られた松平乗邑が作った茶器の記録書で、自らの所蔵品や諸大名が所蔵する茶器の名物について、茶器の名前や所持者、購入年月日、寸法などを、彩色図を用いた画期的な記録法で記したものである。茶入の名をはじめ、香炉、花入、茶碗、掛物など、三百数十点の茶道具が記されている。同書は先立って生前の父・喜太郎が写本し補注をつけていたもので、米太郎は父が作ったものを基に、さらに新たな現所有者名と補注を書入れ、復刻したのである。序文には「昭和九年仲春、〈房州保田町吉浜残月荘に於て〉吟松菴主人序」と書かれている。同書の題字は父・喜太郎と関係もあった益田鈍翁によるもので、帝国美術院長の正木直彦も序文を記すなど、そうそうたる顔ぶれが制作に関与している。ちなみに正木直彦は明治から昭和初期の美術行政家で、東京美術学校(現東京藝術大学)の第五代校長を一九〇一年から一九三二年までの長期にわたって務めた。正木直彦は明治末期の十年間、毎夏保田の大行寺に避暑し保田町の史跡や美術品をくまなく調べたことがある。

著作『評註 津田宗及茶湯日記』について

 昭和十二年に出版された米太郎会心の著作『評註 津田宗及茶湯日記』は、多くの茶書研究家に必要とされ、高く評価された米太郎の出世作である。本文は国立国会図書館ホームページ上のデジタルコレクションで閲覧が可能である。益田鈍翁は昭和十年ごろから、横井夜雨とともに、米太郎から「津田宗及茶湯日記」について講義を受けており、同書の制作は、鈍翁が同書を世に出そうと発案したことに由来する。鈍翁は制作にあたり「津田宗及茶湯日記刊行後援會」を設立した。これには当時著名な数寄人や研究者が名を連ね、鈍翁と米太郎いずれにも親交を結んだ横井夜雨がその代表者となっている。鈍翁は雑誌『茶道月報』に、同書が「日本の茶の湯研究の第一人者=松山吟松庵」によるものと紹介している。
 「津田宗及茶湯日記」とは、安土桃山時代の堺の豪商・茶人であった津田宗及が記した茶会記・自伝である。津田宗及は織田信長・豊臣秀吉と親交を持った茶人で、千利休や今井宗久とともに茶湯の天下三宗匠と称された。財界の頂点に立つ実業家で茶人でもあった鈍翁は、宗及が堺の財界の筆頭として優れた手腕を発揮したことや、茶人として信長・秀吉の二人の天下人に評価され親交をもったという人物性に惹かれ、学ぶところありと感じたのであろう。
鈍翁の序文は、次のように記されている。

「宗及日記叙説する所は実に一家の自叙伝にして、また実に当時の活歴史なり。活眼を以て此日記に対すれば興味の躍動するものあるべし。(中略)宗及日記は本邦最古の茶会記録なるが故に、難解なる古言陳語頗る多し。今吟松庵氏の努力によりて、書中の人物器ことごとく明釋を施されたれば、何の準備をも要せずして卒読せらるること闇夜に炬火を獲たるが如し。此刊行に遇へるは余が長生の賜たるを喜ぶと共に、深く松山氏に敬意を表し、敢て之を大方に推奨する所以なり。」

続いて米太郎の同書序文にはこうある。

「宗及日記は又一面に於て、堺と諸国との通商関係を語り、又大阪本願寺や、四国九州の諸大名との政治関係に就て示唆する所が多い。とりわけ織豊二氏との交渉に於ては、正史の未だ尽さざる所を伝えている事柄が少なくない。もし此書の研究に、更に一層の史的考察が加えられるならば、発明するところは、ただ茶道上のみに止まらないであろう。
 余が本書の校訂註解に着手したのは、去る大正十二年の春である(中略)ここに四百年間不世出の茶道文献を世に送る事を得たるは、獨余一身の光栄感激たるのみならず、宗及泉下の霊、また感泣已む能はざるものが有るであろう。恭しく芳名を此書と共に百代に存し、持って深甚の謝意を表す。」


 鈍翁は同書が完成すると米太郎に金一封を包みねぎらったが、米太郎はこれを拒んだ。同書の販売を引きうけた人物に「金持ちには定価通り、普通の読者には割引、但し学者には只で上げて下さい。とかく学者は貧乏ですからネ」と語ったという。なんとも清貧なエピソードではないか。

 本章では米太郎(吟松庵)の人物像と代表的な著作について述べてきた。米太郎の功績の一端がおわかりいただけただろうか。『茶道四祖伝書』『津田宗及茶湯日記』でも、従来難読難解として不明のまま忘れ去られそうになっていた箇所を、明白に解説し後世に残したということは、米太郎の真骨頂である。

二章・吟松庵と保田

保養地・別荘地としての保田

 
 保田は、房総半島西岸、東京都心から直線距離で南南東に六十キロメートルほどに位置する東京湾に面した地域である。自動車なら都心から高速道路を使って一時間半ほど、鉄路では東京駅から普通電車を乗りついで約二時間で到着する。明治時代以来海水浴地として知られた保田は、昭和戦前期には千葉県を代表する避暑地・別荘地であった。明治二十二年の町村制の施行により、吉浜村、大帷子村、大六村、本郷村、元名村、江月村、小保田村、市井原村、横根村が合併し、平郡保田村が誕生。明治三十年の町制の施行によって保田町となった。約六十年後の昭和三十四年に隣町の勝山町と合併して鋸南町となり、現在に至っている。
 保田の北端には、鋸山が屏風のように横たわる。同山西端の「明鐘岬」は東京湾に険しく岸壁を突き出しており、その山容はまるで人の行き来を拒むかのようである。明治二十年頃に歩道のトンネルができるまでは、この岬には道らしい道もなく交通の難所とされてきた。このような鋸山の「地形的塞き止め効果」により、保田は古くから南房館山方面から続く街道と、外房鴨川方面から続く街道とが突き当たる要所として、また港は房州の玄関口として機能していたのである。一方、鋸山は古刹日本寺を有する景勝地としても知られ、古くから多くの文人が訪れ俳句や詩を残している。
 江戸との海路交流が盛んだったころ、鋸山から切り出された房州石は土木材として広く出回ったし、保田の元名(もとな)で栽培された水仙は船で江戸に出荷され、「元名水仙」と呼ばれ江戸の町に流通した。また、元禄文化の華開く江戸で活躍した絵師・菱川師宣が保田に生まれ育ったというのも、一つの象徴的なエピソードと言えよう。

 明治時代から大正時代にかけて、東京近郊には海浜保養地が形成されるようになった。その発展は近代的な交通手段の整備と密接な関係がある。数々の宰相が別荘や邸宅を構え、「政界の奥座敷」といわれた神奈川県の大磯では、明治二十年に鉄道東海道線の大磯駅が開業したことを契機に、保養・療養の目的で多くの著名人が長期滞在するようになり別荘を建てるようになった。鉄道が神奈川方面へ伸びていった当時、房州にはまだ鉄道は通っておらず、汽船を利用して訪れるのが常であった。
 東京・房州間に貨客船が就航したのは明治十一年のことであった。「房州航路」は、館山町の運送業者が東京魚河岸問屋の協力を得て創立した「安全社」によって運営され、東京の霊岸島と保田や北条などの港とを結んだ。その後、明治十四年ころから同業社の参入がはじまり、貨客船の利用が拡大されていった。
 館山の旅館主人、山崎房吉が明治二十五年に著した『房州避暑案内』(国立国会図書館蔵)には、この頃の保田の様子が記されている。

保田町の鳥瞰図 昭和十一年発行『観光の保田』より 
保田文庫蔵


保田ハ京房間往来ノ汽船就航し長狭郡及ビ夷隅郡南部ノ人必携ノ地ナレバ可ナリニ繁昌シ暑中ノ海水浴ノ人杯モ毎年来遊シ、吉田屋枡屋等ノ旅店ハ申迄モナク(中略)殊二吉浜ノ妙本寺ハ日蓮宗不二派ノ本山ニテ古文書及絵画ノ類多ケレバ好古家ノ先ヅ第一ニ杖ヲ曳ク所ナルベシ

 『房州避暑案内』の記述から、保田は明治中期には海水浴が訪れ繁盛した町であったことがわかる。同じく明治二十年代には、徳富蘇峰や夏目漱石、菅野スガなどが保田を訪れ滞在記を残している。また、当時の保田は軍人らの避暑地、学校の水泳合宿の地としても知られたようである。鋸南町史には明治三十九年の夏、東京の早稲田中学校が妙本寺に来泊、近くの鱚ヶ浦で遊泳を行ったと記されている。

昭和戦前期の保田海岸 賑わう砂浜に立つ憲兵の姿(中央下)が時代を象徴している
提供:江田写真館(江田晃陽撮影)

 大正六年に房州最初の鉄道駅「保田駅」が開業すると、保田は鉄路と海路ふたつの交通手段で東京とつながった。保田駅前には商店がつくられ、別荘も次第に増え町は賑わいを見せていった。大正九年、米太郎が保田に土地を取得したのと同時期に、東京での乗合バス事業で大成功を収めた実業家・志保澤忠三郎が鋸山南麓に広大な敷地の別荘を構えている。また、駆け落ちの末に物理学者・石原純と女流歌人・原阿佐緒が、保田小学校の裏山に洋館を構え移り住んだのが大正十一年の事であった。この頃の保田は、さまざまな文化人が移り住む町となっていた。
 昭和に入ってからも保田の賑わいは増加の一途をたどった。鋸南町史には、昭和八年八月十日現在の東京近郊における主要な避暑地毎の滞在者数が紹介されている。これには、鎌倉一一九三六人、軽井沢七四九三人、逗子七二八三人、保田六六三九人、藤沢五四〇二人、御殿場四六六一人、箱根三三九〇人、熱海三一八七人、南房総では安房北条(館山)四七六〇人、富浦五三二三人、鴨川二〇〇二人などとある。当時の保田は房総半島においても中心的な避暑地であり、東京近郊の避暑先としても広く知れわたっていたことであろう。当時保田町では、観光客に対して「ボルナ、オゴルナ、キラワレルナ」をモットーとし、受け入れ態勢の施設、海水浴場の設備の充実に努めたほか、前年の避暑客に年賀状を送るなど独自の取り組みを展開したり、同時に別荘保有者への課税を他町村よりも安くするなど、住み心地良く長期滞在ができるようにと配慮したりしている。

 夏の浜辺はますます活気づいた。昭和五年には明治製菓が、昭和九年には森永製菓が夏季販売喫茶店「キャンプストア」を開き、海の家やバー、各種イベントを展開。互いに都市部に宣伝を打ち、保田への集客が促され、昼夜を問わず賑わいに拍車がかかっていった。両社は当時内房外房の海岸に多数キャンプストアを展開していたが、これらの大半が学生による運営であったのに対して、保田と北条は直営店舗であったというから、運営に力を入れていたことがわかる。昭和九年十二月には保田観光協会が発足。保田町を避暑海水浴地として、近郊に宣伝・紹介している。海水浴場では、日没後にも海に入れるようにと大きな照明を用いて浜を照らすなど、独創的なアイデアで避暑客をもてなした。これには明治時代以来保田に発電所が存在した事が関連していると思われる。この頃が、戦前期における保田の最盛期である。
 大正時代から昭和初期にかけてピークを見せたこの賑わいは、国内に戦時色が色濃くなった昭和十六年頃を機に衰退した。房総半島は帝都東京を護る要塞地として軍事上の重要な地域となり、時局が進むと旅行自体が制限された。それまでの町の賑わいは戦争によって途絶えてしまった。

 大正時代から、太平洋戦争に突入する昭和十六年までの間に、保田に別荘や居を構えた人物を紹介しよう。最も知られたところでは、大正十一年に、アインシュタインに物理学を学んだ著名な物理学者で歌人でもあった石原純と女流歌人・原阿佐緒とが、駆け落ちの末に保田小学校の裏に洋館「紫花山房」を構え移り住んだことである。これより先には、大六海岸に福岡の炭鉱経営者で大アジア主義の政治団体である玄洋社の中心人物・結城虎五郎が別荘を構えている。この別荘には、同社総帥の頭山満や、日本に亡命していた中国の革命家・孫文や、インドの独立運動家ラス・ビハリ・ボースなどがかくまわれたこともあった。
 明治時代にハワイで新聞「布哇新報」を創刊し、帰朝後に東京で乗合バス事業で大成功を収めた実業家・志保澤忠三郎は、鋸山の南麓に一四〇〇坪の敷地を有する別荘を構え、元名海岸で宿を営んだ。
 また、考古学者で骨董商の伊丹信太郎も、保田に別荘を構え、昭和十七年頃に疎開し保田に暮らしている。江戸時代から続く東京の老舗骨董商に生まれた同氏は、号を揚山といい、俳句や茶も嗜んだ。店の名前は「大元」といい、益田鈍翁や原三渓、団琢磨などの著名な茶人とも親交があった。芝区巴町に骨董屋を営んだ米太郎とも、同じ茶会に呼ばれたり、伊丹が保田の米太郎の別荘を訪ねたりと交流を持った。保田に鉄道が通った大正六年には駅の近くに英語学者・紀太藤一が当時近隣では珍しい総檜造りの二階家を建て、鋸山と海が見渡せる書斎を構え著述生活をするようになった。米太郎の日記には紀太との交流が綴られている。保田南部の鱚ヶ浦海岸には、特に別荘が集中して営まれているが、同地の別荘人については米太郎との関わりとともに後述する。
 米太郎は、明治の末には毎年保田に避暑に来ていたようで、保田に鉄道が開通した三年後に保田・吉浜の海岸に土地を購入し、その後に保田を終の棲家として移住。余生を茶書の研究に捧げ、真珠湾攻撃から約一年後に保田の自邸で逝去した。米太郎はその晩年において、明治以降保養地として発展していく保田の地において、別荘人から移住者へと転じて生き、なおかつその生活を記録として残した稀有な人物であると言えるだろう。

保田・吉浜海岸の吟松庵邸


 米太郎(吟松庵)は、保田の吉浜海岸に別荘を構え後年に移り住んだ。妙本寺の山浦北側、小字を「日蔭」という場所で、現在のスーパーマーケットおどやから国道一二七号を渡った場所である。次の写真は、北側から日蔭の茶屋を撮影した古い絵はがきで、米太郎の家の敷地は写真左から中央にかけて街道沿に竹垣が設けられている部分である。裏山との間の長細い敷地で、広さは約三三〇坪である。家の前には街道を挟んですぐ海であったが、今では大規模な埋め立てにより、写真の様な光景はない。写真を見ると当時のこの辺りは老松の山と海が美しい情景であったことがわかる。ここからは対岸に雄大な富士山を望むことが出来、古来多くの人が足を止め景色を眺めたことであろう。

写真中央に日蔭の茶屋 米太郎の住まいは左端に並ぶ三棟
保田文庫蔵
旧米太郎邸の現在の様子 写真左端は現存する陸舟庵
令和三年二月筆者撮影

 吉浜の笹生正雄氏(昭和五年生)によると、米太郎の家から歩いて一分程の東方の裏山中腹にも米太郎の土地があり、そこには東屋が構えられていたという。同氏は子供の頃に吉浜小学校への登下校の時にもその前を通り、この東屋の付近で幼馴染とよく遊んでいたという。その東屋は草葺の方形屋根で四、五人ほどが座れるコの字型の椅子が据え付けられていたと思い出を語っている。現在この場所には東屋の痕跡はないが、山肌に築かれた石垣だけが当時の面影を残している。
 米太郎は、敷地の大半を大正九年九月に館山の石井永之輔という人物から購入している。館山の石井永之輔は、明治四十年から二年間、安房郡会議員をつとめた人物で、明治四十二年に千葉毎日新聞社が発行した『房総人名辞書』に「明治元年六月安房郡館山町上に生る、つとに明治大学に学び次いで安房郡館山町長須賀株式会社安房実業銀行創立に際しその発起人として斡旋し設立後同行取締役となり勤続現時に至る、また現に安房郡会議員たり、家業として醤油醸造を営み亀甲印を醸出す。嗜好は書画」とある。書画や古美術といった趣味の世界で米太郎との接点があったと考えられなくもないが、これについては推測の域を出ない。

吟松庵はなぜ保田を選んだのか


 米太郎が移住した経緯は、いかなるものだったのだろうか。親交のあった茶人・横井夜雨は『吟翁書翰集』に次のように記している。


鋸山を超ゆると保田の町である。此處へ明治四十七年頃から毎夏避暑して吉濱の日蔭の茶屋に遊ぶを常とした。日興上人建立の妙本寺の裏手で、遠く富士を雲際に望み得て、海波岸を、かむ(原文ママ)の妙音絶えず、此絶景を愛して此土地を買い入れたのが大正九年で、十一年に一屋を建立した。書斎より座して漁すべしとなして陸舟庵と呼んだ。筆者が奥伊豆の谷津の那蘭陀から四百年の古家を小田原へ移築したのを見て、古屋を買って陸舟庵の隣に移した。改作の穴が多いので残穴庵と称したが、さらに残月庵に改めた。


日蔭の茶屋 建物の前は現在の国道127号
保田文庫蔵 大正時代頃発行の絵葉書より

 横井夜雨の記述によると、米太郎が保田に避暑に訪れるようになったのは明治四十七年ころであるという。明治時代は四十五年が最後の年であるため、これを大正三年と解釈すると、米太郎が大倉高等商業学校の教授となった年にあたる。初めて保田を訪れた日の事は不明だが、教授時代の四十四歳前後に避暑に訪れたものだろうか。
 これ以外に米太郎と保田の関わりを探ってみると、明治三十五年から大正二年までの間、教師を勤めた東京府立第一中学校(現・日比谷高校)が一つの可能性として考えられる。日比谷高校の水泳部が発行した『一水会百拾年記念誌 -都立日比谷高校臨海合宿の歴史-』(二〇〇〇:一水会発行)には、明治三十九年と四十年に保田の老舗旅館・松音旅館を宿舎として、約一ヶ月間の「夏季水泳行事」を行ったことが記されている。この合宿は米太郎の在職期間と重なっている。教師であった米太郎がこれに参加していたかどうかは定かでないが、ここに米太郎と保田との関連性を見出すことができよう。いずれにせよ米太郎は、まだ鉄道保田駅が開業する以前、明治四十年代からすでに保田に来ていた。

日蔭の茶屋の存在

 米太郎が好んで訪れた「日蔭の茶屋」は、保田・吉浜の小字「日蔭」の海岸にあった。店名の由来は定かでないが、「日蔭」にある茶屋である。涼し気な店名が情緒を深めている。ちなみに神奈川県葉山町にある「日影茶屋」との関係はない。吉浜の日蔭の茶屋は地元の笹生家(鋳かけ屋)が営んでいた茶店である。明治三十二年発行の観光案内写真集『旅の家つと 第26 房州の巻』(光村写真部)には写真入りで同店が紹介されているため、少なくとも明治後期にはこの地で茶店を営んでいたことがわかる。
 茶屋があった場所は南側に妙本寺の山を背負い、字名のとおりまさに日蔭となっている。現在の国道一二七号の鋸南町中央公民館の入口の向かいにあたる海辺に佇む質素な一軒の茶店であった。米太郎はその隣地に居を構えることになる。

見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮 

 藤原定家が詠んだこの和歌は、千利休の師である武野紹鴎たけのじょうおう以来、「侘茶」の精神を表すものとして知られているが、写真を見れば日蔭の茶屋とその周辺環境は、まさにこの歌の趣が展開されているかのようである。避暑客で賑わう保田の外れにある、質素な茶店の椅子に腰を下ろし、海を見ながら茶を喫する。波音が聞こえる。海の向こうに富士山を望み、足元から北に続く砂浜の先には屏風のようにどっしり構える鋸山の姿が見える。二つの山は一対となり絶景をなしている。米太郎は、この茶屋とその周囲に展開される情景を気に入り、毎夏の避暑では飽き足らず茶屋のすぐ隣に土地を取得し別荘を構えたのである。米太郎はこの地に心を奪われてしまった。

 日蔭の茶屋は、昭和十年三月の裏山の崩壊で建物が壊れ店を閉めたという。米太郎が本格的に保田に移住してから三か月が過ぎた頃で、日記『思川』に崩壊直後の状況が克明に記されている。日蔭の茶屋からほど近い鱚ヶ浦に生まれ育った書家・俳人の川崎守邦氏(昭和元年生)は、幼少期に近所を遊び回るなかで茶屋や米太郎の家の前をよく往来した。同氏は、「保田駅の方の街中は、人が大勢いて店も賑やかだったけれど、吉浜までくれば静かなものでした。日蔭の茶屋では、お茶と駄菓子、鉄砲玉(あめ)などのちょっとした甘いものを売っていて、こじんまりとした駄菓子屋みたいな感じでした。別荘人が来るというより地元の客や、ちょっと立ち寄る人を相手にしていたような、質素な店。ただ景色は最高でしょう。今では埋め立てですっかり見えませんが、当時はすぐ下まで海でしたから。すぐ裏の山が、がけ崩れを起こして店がつぶれてしまったと聞いて、いそいで駆けつけて見に行ったことがあった。・・・」と記憶を語ってくれた。

三章・保田の日々

孤高で素朴な浦人生活

米太郎と下枝夫妻(残月庵にて)
松山文庫提供


 米太郎は大正九年、保田・吉浜海岸の日蔭の茶屋の東隣に土地を取得した。通称太鼓打場と呼ばれる妙本寺の山頂の北面下にあたり、小字名「日蔭」という場所である。大正十一年にまず別荘「陸舟庵」を構えた。昭和五年には近隣に在った当時築二八〇年ほどとされる大きな茅葺古屋を買い自邸内に移築し「残月庵」と称した。両庵は、知人の宿泊や、東京の子や孫が訪れると、海辺の家族別荘としても使われた。妻・下枝と共に本格的に保田に移住したのは、昭和九年十一月二十七日のことで、同日の日記には移住第一日目と記している。
 敷地には松や梅、様々な植物を植え、鉄道を挟んだ裏山には、高台に石垣を配し東屋を建てた。庭苑内の梅林に「白雲塘」、湧水の泉に「松齢泉」、蓮池に「蔵鷺池」、草舎に「残月荘」、望海亭に「陸舟庵」と名付け、自らの理想郷とした。また、裏山の太鼓打場にも「太鼓峯・思峯」などと名付けている。
 地元近隣の川崎や内田といった大工や、土方で石切の網代勇次郎や池田寧といった人たちに自邸内の建物や指物の仕事を出し、親しく付き合った。ある日、炭焼を生業とする貧しい老人が、仕事で訪ねてきた。破れた服とすり切れた履物を身に付けただけの老人だった。話を聞くと、家族には皆先立たれ、全く貧しくなり、世の中は豊かな者と貧しい者にわかれそれらは交わることがないと嘆き、長らく辛い暮らしをしているという。米太郎はこの老人を気の毒に思い、葛湯を作って出し、自分が着ていた服を脱いで老人に譲り、それを見ていた妻・下枝も、毛糸の衣服を老人に与えてやったという。
 また米太郎は、多くの知人と書簡を交わし、よく保田生活の環境の良さを綴っている。読み手には波音の響く海辺の別天地に暮らす米太郎の姿が浮かんだことだろう。月を愛でることが大好きで、中秋の名月の日には、陸舟庵を掃除し、ススキを活けて月の出るのを待ち、月光を浴びながら海辺を散歩した。
 保田・吉浜海岸での米太郎の暮らしは、どのようなものだったのだろうか。横井夜雨は米太郎の生活の様子をこのように記している。


裏傅ひの魚賣を呼び止めて残魚を買ひ、農夫到来の野菜に飽き、野人の来り話する儘に應接して、全く吉濱の浦人生活、清風をいれて太息し、南窓の下に肱を曲げて髙臥し、暁天に梅を見、晩晴れに富士に對した。浴室は四方の窓の桟に四顧の景色を詠じた詩歌を書きつけ、浴中詩歌を朗詠しつつ其景を見るを常とした。

横井夜雨『吟翁書翰集』より

陸舟庵を突然訪ねると床には村上専精博士の『江山無主閑者即是主人』の一行があって、此江山を占有自適する清福を得意かに拝した。又或時は残月庵の席で鈍翁の写真を掛け、常滑新焼の水指、半泥子の茶盌(皿)、町棗(まちなつめ)で茶を饗せられた。

横井夜雨『吟翁の茶会』より

保田に安住して、小田原の鈍翁が是非とも出て来いとの百度の文通にも容易に出ず、松永耳庵の招きにも辞して赴かず、高踏的な残生を此処で終わった。粟田口の善法や堺の一路禅海や、山科のノ貫を保田の昭和の代に見出した気がする。

横井夜雨『吟翁書翰集』より

小さな住まい・陸舟庵

保田・吉浜の海辺に佇む米太郎閑居「陸舟庵」
提供:松山文庫
陸舟庵茶室内での一枚
提供:三輪道代氏

 大正十一年に、米太郎は茶室と六畳二間を配した質素な別荘「陸舟庵」(りくしゅうあん)を構えた。建設の工事を行なったのは隣町勝山の植原信太郎という大工であった。六畳二間は寝室にも食堂にも書斎にも客間にも使われ、夫婦ふたりで閑居するに足りた家であった。西側には細い街道がありその向こうには波打つ磯が広がる。屋内にも波音が響いただろう。「陸舟庵」の名は、居ながらにして「座って漁ができる」ほど海に近いこと、さらに地形が船の形に似ていたことがその名の由来という。この地の場所性が端的に表現された名前である。
 日常は、服装にも無頓着になって身丈に合わないパジャマを注文して、六尺ほどもある茜の杖を引いて、浜辺を流して歩いた。その様子を息子の亥三雄は「昭和の仙人」かのようであったと記している。米太郎の生活は、まさに独楽独学、釣りや散歩、読書に親しみ、気が向けば一ヶ月でも一日中机に向い茶書の研究に没頭した。妻・下枝も茶や文学に親しむ才女であったから、よき伴侶として保田の生活を楽しみ、主人を支えた。健脚な米太郎は、ちょっと散歩に出ると二十キロメートルくらいは平気で一人で歩き、地元の人でも知らないところでもどんどん分け入って人を驚かせたという。朝起きて気が向くや、愛蔵する硯の中から好みのものを選び、水洗いしては墨を下ろして筆を走らせ書に興じたり、様々な人物と書簡を交わしたりした。茶室は人が来たときや独り茶を喫するときに使ったことだろう。写真は、茶室内に座る幼い頃の孫・三輪寛之氏を写したものである。海側の窓辺には丸炉が切られ、自在鉤が垂れているのがわかる。

 夏になれば、齢七十になっても海へ出て、数百メートル沖合にまででて悠々と抜き手を返して波間に遊んだ。夜には戸を開け放ち、石で裾を押さえた蚊帳の中で褌ひとつで寝て風邪も引かない丈夫さであった。時折上京した時には最新の映画を鑑賞し、特に西洋の喜劇を好み劇場で高笑いを響かせていたという。豪快な一面である。
 元来うまいものがめっぽう好きな人だったので、食べては書き食べては書き、自身でも「よく身が続くものだ」と呆れるほどであったという。酒は飲まなかったが、日に四度でも五度でも食事をとる異常な健啖家で、著述に夢中になっている時ほどそうであった。諸国名物に詳しい食通で、富山から樽寿司を取り寄せたり、このわたなどは妻と二人で好んだ。濃厚なビーフステーキや鰻、牛すき焼などは最も好物で「うまいのう」「うまいのう」といって箸を進めた。一方でこの健啖ぶりが、胃を患わせ寿命を縮めた原因となってしまった。
 米太郎の家には、親しい地元の人や、かねてから親交のあった鱚ヶ浦の別荘人などが日常的に訪れた。

北側より撮影された陸舟庵 手前の切妻屋根は茶室
保田文庫蔵 古絵葉書より抜粋

 八田円斎や高橋龍雄といった人物も東京からしばしば保田の米太郎を訪ねた。八田円斎(一八六三―一九三六)は、同郷加賀の生まれの指物師・陶芸家である。指物師として父・喜太郎と関わりがあったため、東京・本邸の生活でも日常的な付き合いがあった。円斎は当時東京の茶人によく知られた人物で、年に五、六度は保田の米太郎を訪ね親交を重ねた。高橋龍雄(号・梅園)は、慶應義塾大学教授をつとめた国文学者・茶道研究者である。同氏は毎年春と夏の休みの二回来るのが常で、毎度二晩泊まりで茶書研究や茶道禅道について語りあい、茶を飲み菓子をつまみながら「世の俗学者などの全く判らぬ別天地に遊ぶことを得た」という。また、食べてばかりでは身体に悪いからと、二人は昼に岩井まで往復十キロメートル程海辺を歩いたり、鋸山に登ったり、川流を遡って山深く分け入ったりと、歩きながら談じ、茶器や茶道の精神について語りあった。夜になれば、談話に疲れラジオを聴いたり、米太郎の義太夫や民謡によく耳を傾けた。米太郎の節回しは絶妙で、恍惚として聴き入るほどであったという。

現存する陸舟庵

現存する陸舟庵 
二〇二一年二月撮影
陸舟庵の庭先に佇む苔むした利休灯籠
二〇一六年筆者撮影


 現在、米太郎の住まいがあった場所には貸家とコインランドリーがある。国道から見ると、貸家はコインランドリーの大型看板の背後に位置し、これは陸舟庵を改修したものである。筆者は保養地としての保田の文化史を語る上でも、この建築物の存在は貴重であると考えている。ちなみにすぐ隣にはコインランドリーの建屋があるが、米太郎が移築した残月庵はこの建物とほぼ同じ位置に建っていたものと推測される。現存する陸舟庵は内外ともに増改築されているため、当時の形状とは異なっているようだが、主要な六畳二間の部分と茶室の形状は変わっておらず、庭先に佇む石灯籠と庭石、サルスベリの木に当時の名残を見ることができる。

残月庵のこと

左から茶室・陸舟庵(大正十一年築)・残月庵(昭和五年移築)
米太郎邸内に並ぶの家屋の様子

 残月庵(ざんげつあん)とは、昭和五年三月に米太郎が保田の別荘の敷地内に移築した家屋のことである。この建物は、もともと米太郎の家から南に直線で約六〇〇メートルほどの、大六地区の山間部で古くから味噌屋を営む川崎家(屋号・四郎兵衛)にあった母屋である。米太郎は、日常的に付き合いのある地元の人からこの家の存在を知った。その部材や造りは米太郎好みのもので、家主と交渉の上買い求めたのであった。
 米太郎はこの建物を自邸に移築する際、天井裏にあった最も大きい煤竹を見て驚いた。日記『思川』には「終日木材を運ぶ煤竹の中最も古くして大なるものあり 洗ううち文字を発見せしは一奇と云うべし とうろう とうろう竹 慶安元年戊七月十四日 此竹妙本寺之竹也」と記されている。これらの文字は、刀の先で彫られていた。慶安元年というと、当時からしても二百八十二年前のものとなる。米太郎は、建物の歴史を証明するこの竹の発見をよろこび「この古屋の床柱には無上の材というべし」と大変気に入り、移築後は残月庵の床柱として用いたのであった。

残月庵
『武者小路 松山吟松庵翁追悼号』より

 昭和五年三月二十四日、残月庵の建前式が行われ、米太郎は残月庵の完成を願った。東京では関東大震災からの「帝都復興祭」が盛大に行われた日だった。横井夜雨はこの日のことをこのように記している。

東京は復興祭に賑やかな日に、保田の普請場は青田の蛙や藪鶯の聲に明けくれ、少年の日永く太古の静けさ塵外の思ひがするなかに、大工石屋を相手に吟松庵翁は残月荘の建前をうれしく眺めた。

 穏やかな春の日々の中で完成にむかう残月庵の姿を嬉しく眺めた米太郎の姿が目に浮かぶ。米太郎は風情ある石を選び海から拾ひ上げて、残月庵の柱の基礎石に用いることを楽しんだ。これは吉浜の海を愛した米太郎にとって、まさに野趣あふれる表現の極致といえるだろう。

 残月庵が構えられたころの保田町は、年を追うごとに避暑客の賑わいも増し大盛況となっていった。まさに保養地・観光地として上昇期に入りつつあった頃である。賑わう街から程よく離れた風光明媚な浜辺にはまさに「吟松庵好み」の世界が築き上げられていった。このころの残月庵には米太郎と縁のある鱚ヶ浦の別荘人が訪れたり、米太郎の家族親類も避暑に来遊したりした。残月庵は、米太郎の好みの空間でありながら、客人を招くという応接の場かつ実用的な場として移築されたものと思われる。

残月庵の柿をとる吟松庵夫婦 昭和十六年十一月二十八日描写
松山文庫蔵 

 次の絵は、松山文庫に所蔵される掛け軸の一部である。大きな茅葺屋根の下、玄関に「残月」と掲げた家屋の前で、柿の木に登っているのが米太郎。衣服には「七十二歳」と記している。米太郎が亡くなる約一年前である。籠をあげて柿を拾うのは妻・下枝である。こちらは「六十七歳」で、晩年の夫婦の有り様がほほえましく伝わってくる。古来より夫婦円満の象徴として描かれてきた吉祥画「高砂」の世界に見えてくる。

残月庵で過ごす米太郎(左)と長男・亥三雄(右) 米太郎の背後に床柱の竹が写る
提供:松山文庫

 米太郎は、残月庵を移築した頃から茶道に関する著作を発表しはじめ、茶道研究者としてより広く知られるところとなった。房州保田のはずれにある風光明媚な浜辺に閑居し学究生活をおくった米太郎の存在は、当時の茶道関係者から孤高に思われていたようである。残月庵は、茶道研究者・松山吟松庵の代名詞的な場所として知られ、米太郎没後に発行された茶道雑誌『武者小路 松山吟松庵翁追悼号』には「房州保田吉浜の残月荘は茶道文献学究の総本山の観があった」とまで評されている。
 昭和十二年、米太郎五十九歳の時、大著『評註 津田宗及茶湯日記』が刊行されると、茶道研究者・松山吟松庵の名は広く世に知られるところとなり、遠方から吟松庵邸の門を叩く者が増えはじめた。わざわざ保田まで来る新進の者に対しては、茶道の学術や文化のために懇切に教示した。檜笠をかぶり「海へご案内しましょう」などと言って客人を浜辺に連れ出しては共に歩いた。特に慕って訪れたのは、佐分雄二や、西堀一三といった新進の茶道研究家たちだった。米太郎は各氏と相通じて、指導的立場としての関係を持った。が、訪ねてくる研究者への対応にはかなりの労を執ったようである。一方で親友の横井夜雨への書翰には「何が面白くて此老人に接せられんとにや近来若き人々の寄り来り候は嬉しけれども、閑居の気味薄らぎ老妻も応接にくたびれ申候」などと心情を吐露している。やはり、静かな日々を望んだ米太郎であった。

 保田の米太郎のもとを訪れる人々に、残月庵はどのように映っていたのであろうか。日本の数寄屋造りとモダニズム建築の理念との統合を図った著名な建築家で茶の湯や日本庭園の研究者としても知られる堀口捨己(一八九五―一九八四)は、昭和十八年の『松山先生の死を悼みて』のなかで残月庵を訪ねたときのことを次のように記している。

松山さんに初めてあったのは、二・二六事件の起こった雪の朝、何も知らずに東京を発って保田に訪ねたときであった。(中略)私はその頃新しく見出した信長茶会記の写真を持って、その中の二三ヶ所どうしても読めない所を尋ねにいく所であった。(中略)初めて会った松山さんは雪の降るのに足袋もはかない元気さであった。藁葺の田舎屋の囲炉裏端で、初対面の挨拶もすみ、松山さんは私の取り出した信長茶会記の写真を見て、読み難い所も淀みもなく一気に読み下された。これには全く頭がさがった。その読み難い所というのはこの書を見出した当時、正木(直彦)先生や相見香雨氏、西川一草亭氏、肥後和男氏などと共に頭を集めて読みあぐんだ箇所であった。(中略)私達は胡銅の花瓶が置かれ、慶安何年の年号が刻まれた煤竹の床柱がある六畳の茶室で茶を呼ばれた。

田舎家としての残月庵

 大正から昭和初期にかけて、近代数寄者・茶人の間で「古家」を移築するという行為は多く見られたことであった。生活様式が西洋化し、街の都市化が著しい時代において、茶の湯のかたちを模索した彼らは、田舎の庄屋などで使われたような「古民家」に前時代的な美を見出した。地方に残る旧家を探し出しては、都市の郊外や別荘などに移築し、手を加え、茶室や客間として改修することで時代に相応しい茶の様式を創造しようと試みたのである。このように作られた建築物は「田舎家」と総称される。「田舎家」の建造は都市化した社会における自然回帰への欲求であり、その活動の精神性は大正期より起った工芸家による民芸運動にも通ずる行為とも言えるだろう。
 田舎家の代表格は、益田鈍翁が昭和四年に名古屋近郊から小田原の別邸・掃雲台に移築した「観濤荘かんとうそう」とされる。観濤荘は田の字型に配された八畳四間の中に床の間が据えられた間取りで、茶室としては玄関から続く上下二間の上段を茶席に、下段を寄付として使った。鈍翁はこの家の前に畑を作り、そこで取れた作物を干したり焼いたり、いわば農家の情景を再現することで「在りし日の生活風景」を茶の閑寂な美意識と接続しようと試みたのであった。さらに同時期には横井夜雨が、伊豆の山奥で禰宜の住居として使われていた築四百年相当の家屋を小田原の自邸に移築し「夜雨荘」と名付けた。残月庵が米太郎邸内に移築されたのが昭和五年三月のことであるから、米太郎、夜雨、鈍翁はほぼ同時期に田舎家を自邸内に構えていることになる。

金木家に伝わる米太郎ゆかりの器
金木恭氏蔵

自作の器に見る吟松庵の茶

貝の縁の形状に呼応するように木製の蓋も精密に変形されている。
金木恭氏蔵

 上部の写真は、米太郎(吟松庵)が所有した器で、保田の隣町、勝山の自宅で茶室「双竹庵」を営む金木恭氏宅に伝来するものである。二枚貝の片方を加工し器に見立てたもので、蓋には筆文字で「陸舟庵」と記されている。この器は、同氏の父・金木精一氏が生前に米太郎の写真と共に所有していたものという。金木恭氏はこの器のいわれについて、「父と松山さんが直接かかわりを持っていたかは不明だけれど、父は、池貝庄太郎が吉浜にあった残月庵を勝山の神代荘に移築した時に関係したので、その際に譲り受けたものではないか。」と語る。金木精一氏(一八九八―一九六八)は、麻布獣医畜産学校本科を経て、東京帝国大農学部で解剖学を専攻し大正五年に獣医となり、千葉県議会議員や日本ホルスタイン登録協会会長をなどの要職をつとめ、当時酪農の盛んだった房州における畜産業界の重鎮であった。米太郎が没した翌年の昭和十八年からの三年間は、池貝鉄工所社長・池貝庄太郎が開いた牧場・株式会社神代荘農園の園長と鋸南農学校の講師を兼任しており、残月庵はこの頃に神代荘に移築されている。同氏は後年、美術鑑賞にも興味を寄せ「精牧」と号し、勝山竜島の自邸に茶室「双竹庵」を営んだほか、水彩の絵筆を持ち風景のスケッチを楽しんだという。
 器の形状を見てみると、直径二十センチ程の二枚貝の片方に、金属を用いて縁取りを施し、木製の蓋は貝の縁の形状に合うように精密に加工され、一対となっている。蓋には「陸舟庵」と記されている。保田の生活で使っていたものであろうか。金木恭氏は家に伝わるこの器を持ちながら、「名器といわれる物とは違って、決して豪華さはないかもしれないけれど、貝という身近で質素な材料を工夫して作ることに清貧さや自由さを感じます。この器はずいぶん侘びていて、扱うのはなかなか難しいけれど、お茶というのはこういうものでいいんだというメッセージが感じられて私は素敵に思います。きっと松山さんのお茶のスタイルや精神がこの器に出ているんじゃないかしら」と語った。
 横井夜雨は、『武者の小路 松山吟松庵翁追悼号』の中で、米太郎の茶への親しみ方をこのように語っている。


誰に就いて稽古したといふのではないけれ共、朝夕著述の間茶筅をとり客があれば客に、客なくば独り喫して楽しむ。その手前も所謂肩衝の姿勢が備はつて居り引く手指す手茶杓の往きかひも見事であった。(中略)名器もちの茶に比べると如何様利休流を浦の苫屋で行く手軽な自由さがあって、翁がどこ迄も謙虚で、謙辞をもって拶礼せられる所に深みがあって、赤裸に自らを抛出して懇情を傾けて精一杯のもてなしをして下さるに肝銘したのである。

 
 米太郎が好んだ茶は、茶会というよりも、個人的に茶に親しむかたちだったのかもしれない。千利休は、自身の教えや茶を学ぶものの心構えをわかりやすく和歌の形にした「利休道歌」を残しているが、その中に「茶の湯とは ただ湯をわかし茶をたてて のむばかりなる事と知るべし」という歌があるという。波音響く静かな自邸で、独り茶に親しむ米太郎の姿が目に浮かぶ。

四章・鱚ヶ浦別荘人とのかかわり

古別荘地・鱚ヶ浦の地図
太鼓打場から鱚ヶ浦・真珠島を望む

 米太郎邸から海沿いを南に二分ほど歩くと、鱚ヶ浦という海岸に出る。南北に五百メートルほどの小さな海岸だが、磯馴の松が生え、沖合の島と対岸にそびえる富士山の姿が美しい風光明媚な海岸地である。この界隈は大正時代から昭和戦前期にかけて、実業家や学者らが、好んで別荘を構えた「古別荘地」である。現在も夕暮れには車を止め風景に見入る人が多く、新旧の別荘が混在している。鱚ヶ浦の地形は遠浅で波も静かなため、明治の頃から東京の学生たちに親しまれてきた。鱚ヶ浦で水泳合宿を行ったのは、早稲田中学校、東京府立第五中学校(現・小石川高校)、高千穂学校といった名門校であった。このうち早稲田中学校、東京府立第五中学校は鱚ヶ浦の高台にある古刹で日蓮宗興門派大本山の妙本寺客殿を毎夏合宿所とした。東京府立第五中学校は、昭和四年に同寺境内に「保田寮」を建設し、学生たちは日中に海に出て、夜は寮で寝泊する夏の日々を過ごした。高千穂学校は、これより先大正時代より鱚ヶ浦の南端に寄宿舎を構え水泳合宿を行った。これらの学校の水泳練習では、地元の若い男性が泳ぎの先生となって都会の学生たちに泳ぎを教えることが多く、地元の人々との交流もあった。
 鱚ヶ浦には、大正時代末から昭和初期までの約十年間に、十軒を超える個人別荘が構えられている。特に初期の別荘人は、米太郎との縁から別荘を構えたことがわかっており、どうやらこの地には別荘人にはそれぞれの人脈、人間関係によって新たな別荘人が呼び込まれていったようだ。別荘人の中には地元の子どもの名付け親になった者や、亀ヶ崎沖合の島(通称・真珠島)に渡るための橋を寄付した者もおり、地域とかかわりを持っていた。米太郎も親しい別荘人・小泉丹と一緒に毎年地元の吉浜小学校で行われる習字の会に賞品を贈呈したり、卒業式に参列したりもした。地元の人は別荘主人が不在の間に庭木の手入れなどの世話をしたり、別荘人が来ると差し入れをして訪ねるなどした。このような文化人と地元民との交流は、古別荘地ならではのいち風景であり、固有の地域文化ともいえるだろう。
 本章では、米太郎との交流について多くの記録が残っている三人の別荘人を紹介する。なお、米太郎の日記『思川』にはこの他にも別荘人が幾人も登場する。例えば、漢文学者の村上龍英や東京音楽大学校長をつとめた文部官僚・乗杉嘉壽のりすぎよしひさなどである。
 米太郎が別荘を構えた翌年の大正十二年には、米太郎の妻下枝の姉・三輪よしも鱚ヶ浦に地所を求めた。三輪芳は、東京師範学校(現御茶ノ水女子大学)を卒業した後、様々な師範学校で教鞭をとった。また、これより前には、加賀藩前田家の家老・本多家の子供に対し家庭教師をしていたという。米太郎の孫で、著名なインド学者で幻想文学研究家でもあった松山俊太郎も、幼少期から米太郎邸を訪れ、三輪家や松山の家族、顔なじみの別荘人と共に鱚ヶ浦の海に親しんだ。鱚ヶ浦別荘人の中には、もともと米太郎邸に避暑に来ていたことから、同地を気に入り別荘を構えた人もいる。書簡で保田の環境の良さを自慢していた米太郎と関わりをもった人は、一度は訪れてみたくなったのかもしれない。
 別荘地としての鱚ヶ浦を考える上で、米太郎の存在はその草分けであり、この海岸の美しさを伝えはじめた中心人物であったと言えるだろう。

長岡拡との交流

長岡拡


 長岡拡(ながおかひろむ・一八七八―一九三〇)は、大倉商業学校(現東京経済大学)や東京高等商業学校(現一橋大学)で英語教師を務め、三省堂発行の英語教科書の編集者としても活躍した英語教育者であった。米太郎と長岡は、大正三年からの三年間、同じ時期に大倉商業学校で教授をつとめている。年齢は米太郎のほうが六歳年長だが、京都の同志社英学校に学んだという共通点もある。長岡一家は大正時代より鱚ヶ浦に別荘を借りすごしていたが、大正十二年、同地に土地を取得し、昭和二年頃には自ら別荘を構えた。長岡拡が鱚ヶ浦に別荘を構えたことで、盛岡時代の教え子であった法律学者の小野清一郎(東京帝国大学教授・一九七二年文化勲章受章)もすぐ近くに別荘を構えている。

 長岡は、大正五年に三省堂が発刊した英語教科書『クラウンリーダー』の中心的な製作者であった。この教科書は、明治以来続いていた文法と通弁性を求めた紋切り型の構成から欧米の生活感や心情に接しられるような「読物」としての配慮がなされたもので、発行以来全国各地の中等学校で広く採用され、国民的な教科書となった。外国語を学ぶことで、より日本語のもつ性質を見直し、「東西の文化の理解を豊富にしよう」とする長岡の学問的心情が反映されたものだった。三省堂社長を務めた亀井寅雄は、著書の中で「欠点のない立派な人物であった」と長岡の印象を記している。情熱的で正義感と潔癖感が強く、「汝キリストたれ」を地で行く他人思いの人情家であったという。
 女優・演出家として知られた長岡輝子は、長岡拡の娘である。長岡輝子は、自著『父からの贈りもの』に収録された「房州・鱚ヶ浦の青春」の中で、このように記している。


「震災後、私たちは毎年の夏休みを房州の保田と勝山のあいだにある鱚ヶ浦で過した。亀ヶ崎と呼ぶ秀麗な緑のこんもり繁った島が岸から少し離れたところに浮いているので、ちょうどその島のために海岸が内海になり、紺碧に澄んだ水は湖のようになめらかで、まるで天然のプールのようだった。水平線の向いには大島、城ヶ島が見え、夜になると三崎と観音崎の灯台の火がピカリ、ピカリと明滅する。この海岸線に沿った細い国道は館山、北条へと延びていて反対側は鉄道線路をひかえて山や畑や田圃があって藁葺屋根の農家が点在しており、枇杷や夏蜜柑の山のあいだから瓦を焼く煙が見えた。ここには一軒の店もなく、小さな小学校と妙本寺という日蓮宗の大きなお寺のほかは、農業のかたわら、あわびや磯物をとりにいく住民たちがひっそり住む小さな村だったが、少し足をのばせば右手は保田、左手は勝山と、このへんではちょっとした町があったので日常の買い物もそこで間に合った。父がこの海辺を見つけたのは、大倉商業で国語の先生をしていた松山米太郎先生がすでに「陸舟庵」と名づけてお茶人らしい庵を結んで楽しんでいらしたからだが、毎夏をこの海辺で家を借りて過すうちに、父はその俗っぽさのない美しさに惹かれ、子供たちの健康のためにと、はじめて自分の家を建てることにした。松山先生は一中(現日比谷高校)の先生をしていらしたころから、谷崎潤一郎の作文がずば抜けていたので、谷崎の将来に大いに希望をかけていたとかで、そのころも谷崎と親交を結んでいらした。陸舟庵には有名なお茶人が訪ねて来たり、先生もあちこち招かれては出かけていかれた。私が萩の花の美しさを知ったのもこの陸舟庵である。」


 長岡は別荘を建てた三年後の昭和五年に惜しくも急逝した。長岡が保田の別荘を訪れたのは数少なかったようだが、革のトランクにトルコタバコの「ウエストミンスター」と羊羹と洋書を詰め込んで訪れたという。濃い日本茶とタバコと羊羹を嗜み、朝か夕方には一人海水浴に興じた。それ以外は涼しい風が吹き抜ける座敷で机に向かい、本を読むかペンを走らせるかの毎日だったという。長岡が留学中に妻・栄にあてた手紙にはこう記されている。

「今度帰朝すればもう長く家をあけて一同に別れていることはあるまい。おもしろく旅行をしたり、保田の別荘に行ったりして、家族の幸福を十分に楽しみましょう。」

 米太郎は日記『思川』に長岡との交流を書き残している。例えば、昭和二年四月二十九日には、鉄道で保田に来た長岡を駅で出迎えたことや、又その翌日には、吉浜漁港前の半兵衛という店で大きな平目と伊勢海老五尾を買い、長岡別荘に贈り、午後に長岡が米太郎の家に礼に来たことなど数々ある。
 長岡が急逝した昭和五年七月一日のこと、在京中であった米太郎は胆石で入院中の長岡が危篤との電話を受け、すぐさま病院に向かうと、病室で苦しむ長岡の姿を窓越しに見守った。長岡が亡くなったのはその数時間後だった。亡骸と共に大塚の長岡邸に向かうと、米太郎は葬儀屋の手配一切を行い徹夜で葬儀の準備をした。米太郎は七月五日に行われた告別式に出席し、「参会者凡四五〇人花輪二四五頗る盛会を極む」とその状況を記している。米太郎は、同日の日記の最後に長岡への弔歌を記した。


五十路より三つを再び重ねても能わぬわざを君はのこしつ
君ひとりその独りにていくばくの才ある人を世におくりけん


 教育者としての長岡の功績(わざ)を讃える米太郎の心情がにじみ出た歌である。長岡が亡くなったあと、別荘は次男・長岡雄二郎夫婦が継ぎ、親類はじめ多くの若者たちが集う大切な家となった。長岡の子どもたちは毎夏鱚ヶ浦で泳ぐたびに、妙本寺に水泳合宿にきていた東京府立第五中学校の子どもたちと顔見知りになっていった。同校の卒業生が水泳授業の助手として妙本寺に泊まりに来ると、しばしば長岡別荘を訪れ、楽しく過ごす間柄ともなった。彼らは海沿いの石垣に腰を下ろし灯台を眺めたり、地元の小学生を集めて星座の説明をしたり、女学生のグループや高等学校のグループ、大学生のグループがそれぞれに交じり合って談笑したりダンスをしたりして夜を過ごした。長岡家の庭には蓄音機の音が流れ海辺に響いていたという。
 長岡輝子は、俳優で演出家の金杉惇郎と、劇団「テアトルコメディ」を主宰し人気を博した。夫婦となった二人の最初の出会いも、金杉が東京府立第五中学校の行事で鱚ヶ浦に来たときの事であった。

茨木悟との交流

茨木悟
提供:茨木千鶴子氏

 茨木悟(いばらきさとる・一九〇〇―一九九四)は、日本の無線技術の開拓者と称された人物であった。アメリカのシカゴ大学に学んだのち、若くして茨木悟研究所を設立。大正十四年四月には東京の芝三田に「三田無線研究所」を創立した。昭和十二年、パリで開催された芸術と技術の博覧会に「全波受信機が組み込まれた電気蓄音機」を出品し、世界各国より出品された六〇〇〇台の中から金メダルを獲得したことで知られる。茨木はアメリカで機械工学などを学び、エジソンと面会したこともあった。
 米太郎との関係は、茨木が会社を設立する際、作業場として東京の小山町の家を借りたことに端を発する。以来茨木は米太郎夫妻と親交をもち続けた。昭和九年、茨木悟は身体の弱かった息子の療養のため、鱚ヶ浦に土地を取得し、その後別荘「吾心庵ごしんあん」を構えた。別荘の名は、米太郎が主の名、「悟」の字にちなんで付けたものという。
 吾心庵を構える前、すでに茨木の子どもたちは毎夏保田、日蔭の米太郎邸に避暑に訪れるのが常であったという。本書巻末に『保田の家とその人脈』と『戦後六十年、サイパンと保田の海』という二つの文章を付録したが、これは茨木悟の長男・茨木一郎氏が別荘にまつわることを記したものである。鱚ヶ浦における人的つながりや情景が記された貴重な文章である。

 筆者は平成三十年に二度ほど茨木悟の二男で同社社長を務めた故・茨木二郎氏に別荘のいわれを伺ったことがある。同氏は、当時の思い出をこのように語った。

「両親は松山のおじいさん(吟松庵)夫婦にかわいがってもらっていました。松山さんの奥さんは、その当時母に「健康のためトマトを食べるのが大切」などと健康談をすることもあり、母は松山の奥さんのことを物知りと慕っていました。松山さんとの関係は、父親が仕事場として松山さんの家を間借りしたのがはじまりでした。父はその後独立して麻布に新しい工場兼自宅を構えて、松山さんの家はそこからも近く、親しくお付き合いした間柄だったんです。うちの別荘は昭和十年の夏前には建てられていて、私は赤ん坊の頃から来ています。別荘の名「吾心庵」は父の名「悟」にかけて松山さんがつけてくれたものです。姉は幼い頃から松山さんの日蔭の家に泊まりに行っていました。松山さんの孫、松山俊太郎さんは東大の文学へ進んだ人で、親の病院は継がずに仏教研究家、梵文学者になった有名な人です。子どもの頃はよく東京の地元でも一緒に遊んだ仲でした。うちの母と長岡さんのお母さんは流派が違ったが、ともに歌詠をやっており、お互いに行き来をしていました。我が家の別荘の茶室で昼間に本を片手に、互いにうなっていたのを覚えています。女優の長岡輝子さんの息子さんもよく鱚ヶ浦に遊びに来ていました。石原裕次郎のような格好の良い人で、何度か混じって遊んだことがありました。いい思い出です。」
 
 松山・茨木両家の交流や、当時の鱚ヶ浦の様子がよくわかる「証言」である。筆者は、夏の蝉の鳴く日に、米太郎から贈られたという座卓と画賛の掛け軸などを見せてもらったが、筆者にとって、松山米太郎にまつわるエピソードを直接聞いたのはこの時が初めてだった。二郎氏は突然お邪魔した筆者に対して、とても親切に対応してくださった。幼い頃から来た鱚ヶ浦の海を故郷のようだとも言っていた。「別荘に来ると前の道を掃除するのを日課にしているんです」と語る姿に、地域を思いやる気持ちが垣間見えた。別荘の前の道を箒で掃除していた姿が印象的で忘れられない。

小泉丹との交流

小泉丹

 小泉丹(こいずみまこと・一八八二―一九五二)は、慶応義塾大学医学部の教授を務め、同学部の寄生虫学教室を主宰した生物学者であった。「医学」と「生物学」の接境分野を学術上の対象としたため、伝染病などの社会疾患や、公衆衛生、予防医学などの分野では医学ジャーナリストとしての一面もあった。非凡な文才を持つ異彩の学者、まさに博覧強記な著述家であった小泉は、数々の雑誌でエッセイから社会批評にいたるまで筆をふるい、多数の著書を発表した。日本に進化論を紹介した一人としても知られる。代表的な著書に『回虫の研究』『眉毛眼上集』『視界』『科学的教養』『生物学巡礼』『進化学経緯』『野口英世』がある。訳書にはラマルクの『動物哲学』、ダーウィンの『種の起源』などがある。
 小泉もまた、米太郎と親交を結んだ人物であった。小泉は、昭和八年に鱚ヶ浦に土地を取得し別荘「滴水居」を構えた。小泉は昭和十年から六年間の保田での滞在を綴った『保田日記』を残しているが、そこには米太郎との日常的な交流が記されている。また、米太郎の日記『思川』にも同日の出来事が記されていることが多く、文才に秀でた両者の日記を読み合わすことで当時の保田の様子が立体的に見えてくる。
 日記『思川』の昭和八年九月五日には、「小泉彼の土地を求むる事に決し万事を委嘱せらる。月明かりに乗じ彼の土地に至り鋸山の眺望如何を試みる」とある。小泉別荘の敷地は米太郎の家から南に歩いて三分ほどの距離にある。後日米太郎は、小泉別荘の登記を代理している事からも、小泉が米太郎にいかに大きな信頼を寄せていたかがわかる。さらに同日の日記には小泉に送った餞別の一句が記されている。



あつかりし夏の名残もつきなくに知って遠き秋の風吹く
山もよし海も猶さらよし浜に君こいづみと我はまつ山


 「よしはま」「こいずみ」「まつやま」の音を掛けた表現に遊び心が溢れている。めぐり行く季節を感じながら、小泉の来保を待ち遠しく思う米太郎の気持ちが熱く伝わってくる。
 小泉は多数の著作を残しているが、その中でも『野口英世』(昭和十四年・岩波書店)は広く読まれた。これは、同郷・会津出身の小泉が記した野口英世の伝記であり、小泉独自の視点で野口の実像を紹介したものである。同書の巻末には野口と小泉がニューヨークで会った時の会話などが記されており、一読の価値がある。米太郎は、昭和十四年十月二十四日の日記『思川』に次のように記している。


「昨今 小泉氏の『野口英世』を読む 叙述整然 丹氏の文才と頭脳のよきを見る夫人へ讃歎の辞を呈し置く 丹君はさる者ありと真に感服す」

現在も別荘として使われている小泉別荘滴水居(昭和九年築)
二〇一七年著者撮影


 批判性に富み、校閲者としても厳しい眼を持って居た米太郎に、その文才と頭脳に感服したと言わしめた小泉であった。米太郎は、小泉よりも十歳年長であったが、お互いに尊敬し合う間柄であったことだろう。

 小泉別荘の向かいには「吉浜小学校」があった。当時の児童数約一八〇人の半農半漁の片田舎の小学校である。同校には子どもたちの習字の課題で「小泉賞」や「松山賞」なるものがあったという。昭和一桁台生まれの地域の高齢者の中にはこれらの賞を記憶している方々がいる。旧米太郎邸の近くに暮らす笹生正雄氏(昭和五年生)は、「吉浜小学校で毎年行われた習字の授業で、小泉先生の賞に選ばれて、賞品の文鎮をもらったことがありました。鉄製のメッキがしてある文鎮で、当時にしてはいいものだったと思います。小泉先生にあったことはなかったけれど、幼心にありがたい先生だなぁと思っていました」と思い出を振り返る。同様の思い出を語る人は数人おり、筆者の祖父もその一人である。
 小泉別荘は「滴水居てきすいきょ」と名付けられており、現在も令孫の夫婦らによって使われている。筆者は祖父の代から五十年来、この別荘の「別荘番」をしている間柄である。日記『思川』の昭和九年四月二十五日には滴水居の上棟式と餅投げが行われた様子が記され、児童らが多数集まり、紙に包まれた銭を競って拾ったとある。同日は夕方から陸舟庵を開放し祝宴を開き、小泉丹・初子夫妻は陸舟庵に一泊している。
 小泉は学者としては厳しい態度を持っていた人物で、人柄は自らを「やかましやのガンコおやじ」といい、慶應義塾大学の学生らには「雷おやじ」などと呼ばれていたという。また、岩波書店が発行した生物学の叢書編纂の仕事をほぼ一人でこなしたことで、岩波書店に関わる知識人から高く評価され、広く知られ、歌人の斎藤茂吉らとも親交があった。小泉の記した随筆の文面からは、ものごとの情味を味わい、アイロニーを好んだ人柄が感じ取れる。台湾での研究やヨーロッパ留学、国際連盟保健部委員など当時の一級の見識を持つ学者でありながら、文章の節々にはどこか「野暮ったさ」を匂わせるのが一つの特徴である。小泉と米太郎の人物像にどこか共通するところを感じるのは筆者だけであろうか。
 小泉丹と松山米太郎という当時一流の学者同士が、田舎の素朴な子どもたちの成長を見守っていたということは、別荘地としての地域文化の一端を捉える上で、特筆すべきエピソードである。

 米太郎は、本章に取り上げた人物以外にも、日記の中で鱚ヶ浦周辺の別荘人について記している。例えば、すでに紹介した東京帝国大学にインド哲学講座を確立し近代仏教学の基礎を作った学者・村上専精の息子で漢文学者の村上龍英や、日本に社会教育を体系的に紹介した文部官僚・教育者の乗杉嘉寿よしひさなどである。

 以上、本章では松山吟松庵との縁から、鱚ヶ浦に別荘を構えた人物について触れてきた。彼ら同士も鱚ヶ浦での地縁を育み交流をしていた。古別荘地・鱚ヶ浦にとって、松山吟松庵は草分け的な存在であった。このことは、保田地域の歴史を捉える上でも大きな意味を持つと言えるだろう。

小泉丹「保田日記」に見る交流

小泉丹が記した保田日記の現物
滴水居蔵

 保田日記(ほたにっき)は、慶應義塾大学医学部教授の小泉丹が鱚ヶ浦の別荘「滴水居てきすいきょ」に滞在した時の出来事を綴った私日記である。滴水居は、現在も小泉丹の令孫らの三家族によって別荘として使われており、保田日記は小泉丹のゆかりの品とともに「滴水居」に大切に保存されている。この日記には昭和十年から昭和十六年までの六年間、二百二十三日分の手記が綴られ、このうち米太郎との交流が確認できるのは八十二日ある。米太郎夫婦と小泉夫婦とは家族ぐるみの付き合いであった。小泉は自身の主宰する慶応義塾大学医学部寄生虫学教室の学生や関係者を頻繁に滴水居に招いたことや、研究室の関係者をつれて米太郎の家を訪れたことも記している。小泉没後に寄生虫学教室と回虫毒の研究、寄生虫予防協会理事を引き継ぎ、後に慶応医学部の七代学部長となった松林久吉もそのうちの一人である。
 保田日記は、日米開戦のおよそ一か月前の昭和十六年十一月六日で終わっている。米太郎はこの日記の最後の日から約一年一ヶ月後にこの世を去ったが、保田日記は米太郎の晩年暮らしぶりや、在りし日の保田に育まれた文化人たちの交流の背景を今に伝える貴重な「郷土資料」の一つと言える。
 次に保田日記の中から米太郎と小泉の交流が確認できる部分を抜粋してみる。

昭和十年 一月二日。
晴。町に買ひ物に行く。心経書写一巻。松山氏夫婦を夜食にまねぐ。酒一合半ばかり、マカロニー、風呂ふき大根、油揚めし。松山老人曰く。マカロニーといふはマカロを煮たものだと思っていたことがあったと、面白い話。

現在の保田交差点から駅方面を写した絵葉書
戦前の保田駅前商店街の様子 保田文庫蔵


昭和十年 三月十五日
晴。午前心経半巻。午后一時すぎ、粕谷君和田から来訪。松山夫婦、余等三人、勇次郎と碁石山に登る。桜七分咲。林間で茶を飲む。粕谷君到来の「めじ」を料理して、松山夫妻と会食。


昭和十年 三月十六日
午后五時から松山家に晩食によばれる。


昭和十年 四月二十一日
今日も晴れ、風少し強く、波頭白くて愉快。山田君と松林君、寄贈の植木を見に勇公と山に行く。正午前、初子来る。午后松山氏を一同にて訪問、お茶一席あり。夕刻、勇公の蛇のはなし、夜松山老夫婦来訪、十一時すぎまで放談。月が清しい。



昭和十年 十月十日
十三日の月がよく出る。松山両老来談。皆で海岸に出る。男女二人で小さい地曳あみをあげている。ごんずい、黒鯛の子、海老など入っている。夜光虫が少しばかり光っている。平和な光景。早く寝る。


昭和十年 十月十ニ日
夜松山氏を訪ねる。「かさご」「せいご」の焼いたのでビールを少し飲む。
海上月明かりが美しい。大きい火をたいて漁をしている舟が二つある。


昭和十一年 十一月十ニ日
十一時半頃松山氏を訪ねて一時間ばかりで帰る。「陸放翁詩鈔」を借りてくる。

昭和十一年 十二月二十七日
松山のおばあさん香のものを持って来てくれる。


昭和十一年 十二月二十八日
今朝も快晴。午前から風呂をわかす。午后、町に出て、焼豆ふ、番茶など買う。松山氏に立寄り、お茶を呼ばれ、金沢のお菓子をよばれ、もち、味噌、汁の実の菜など貰い、干柿、梅の枝も貰って帰る。


昭和十二年 一月二日
午后0時三分両国発。初子と同道。房州にしては寒い。夕刻、蛙の鳴くような声がするので、出てみたら「いそひよ」がベランダに鳴いていた。夜松山氏からラジオをききに来よとよばれる。残月で薪をぼんぼんもやしてよばれる。


昭和十二年 一月三日
松山亥三雄氏夫婦来訪、十一時すぎまで話して帰る。


昭和十二年 一月七日
夜、松山老夫人、孫さん二人をつれて来て、あそぶ。


昭和十二年 三月二十日
午前松山夫婦来訪。和田校長来。習字、評点。午后二時終る。各組男女金賞一人、銀賞二人乃至四人。六年生の下手なること目立つ。一二年生のが面白い。


昭和十二年 三月二十一日
晴れだが風あり。午后松山夫婦にさそわれて、遠足に出かける。大六から佐久間村に入り、勝山にて出て帰る。四時間位。大そう面白い散歩。


昭和十二年 三月二十三日
快晴、対岸はもや。暖かで、本当の春の心地。午前九時から、小学校卒業式。松山氏と参列する。卒業終わって、書き方の授賞式をする。村の顔役十数人、巡査さん、妙本寺の若僧など。寿司と地酒の御馳走あり。十二時頃帰る。午后、初子松山さんをさそうて、裏の山に春菊をとりに行くといふ。同伴する。柴草を刈った跡の周囲に沢山に花が咲いていて愉快。


昭和十二年 十月二十七日
松山のおばあさん午前に来訪。江湾ちんも占拠し、全線大勝利だといふ。
夕食後祝杯をあげようと白鶴一本を携えてラジオをききに行く。祝杯の用意がしてあるといって、ビールを一本のんで飲み酔い、白鶴はぶら下げて帰る。


昭和十二年 十月二十八日
夜七時のニュースをききに松山氏に行く。今回もビールとサイダを一本持参したけれど、夕食に二人で一本飲んだビールに全く酔っていて、飲まずに帰る。


昭和十二年 十月三十日
昼を松山氏で、お寿司をよばれ、二時の汽車で帰る。


昭和十三年 一月四日
夜松山氏を訪問、ラジオを聴く。津、千歳山の喜多村氏、堀佛庵、半泥子、紺野浦二氏の来訪の話などを聞く。


昭和十三年 一月六日
朝食を仕舞ったら十時すぎ。大六神社へ散歩に行く。石金に立寄る。ばあさんの話に、大六さまは戦の守り神さまで、十五人出征して居るがまだ戦傷者もないといふ。途中で松山老夫婦と遇ふ。帰宅したら梅の枝が届けてあった。やがて老夫婦来訪。いろいろと大六神社の話などあり。日露のときには三人ばかり死傷者が出た由。また流行病がない由。神様を粗末にするグループでは病人など多い由。夜松山氏へラジオをききに行き、浪花節がすんで餅を焼いて、よばれる。


昭和十三年 一月九日
夕方、魚を買ひに行き、黒鯛一尾、壺焼きのいも五つ買って帰る。夜松山氏に行く。和風堂の話が出る。端渓の硯を一つ貰ふ。加州の学者で加藤ワタルという人が死ぬまで用いていたものの由。加州一の勇者といはれた人の由。


昭和十三年 三月二十三日
小学校の卒業式。賞品を贈る。今年は、あとまで残るような品という校長さんの希望で、卒業生の分は去年通り硯、五年から二年までは文鎮にした。一年生は帳面。午后、賞品をもらった子どもたちが記念写真。なかなか可愛い児がいる。午前から午后の六時頃まで松山のおばあさん来訪。老人は上京して今日は留守。

児童らと並ぶ米太郎と小泉丹 五列目左端の二人 提供:川崎佐和氏
昭和十三年二十三日 吉浜小学校卒業式


昭和十三年 五月九日
早ひるを食して初子と出かけ松山氏をさそって四人で鹿峯観音に行く。寺の前の高地の松の下でお茶をのみ、菓子を喫する。帰路は鴨川街道に出て帰る。帰宅四時頃。


昭和十三年 九月九日
午后、松山老十徳着用、道具持参にてお茶を御馳走に来らる。


昭和十四年 一月一日
松山氏訪問。夕食の材料の野菜を貰って帰る。益田鈍翁の話いろいろ。


昭和十四年 一月六日
夜、松山氏訪問。昨夜より高橋龍雄老来泊中。両老共に今年七十歳となる。


昭和十四年 三月二十七日
夕方松山氏訪問。細い月、静かな海。海に妙なものが沢山いるといふので見に行く。大きい「うみうし」


昭和十四年 十月十日
先日来、松山老胃淡瘍にて臥床中。案外元気なり。


昭和十四年 十月十二日
午前松山老を見舞ふ。


昭和十四年 十月十四日
夜松山氏へラジオを聞きに行く


昭和十五年 一月七日
午前、ハックスリー訳稿若干。一同で松山氏訪問。午后、勇公来り、武勇談一席、そこへ松山氏老夫婦来訪。碁石山を登り一廻りする。


昭和十五年 一月九日
今日は雪。朝からハラハラと降って美しい。勘七の息子入営出発。お社の式に行って送る。帰りに途に松山氏に立寄る。残月庵で炉に柴をたいて御馳走になる。帰って炉を形づけて焚火をする。けぶたいがよい気持、そとは雪がサンサンと降る。


昭和十五年 三月二十七日
二十五日朝北支三十余日の旅から帰る。今日の小学校の卒業式に来ること不確実であったが、やはり来ることにする。(中略)二十六日朝、初子と潤子と伊勢丹に行き賞品を買ふ。(中略)十時から卒業式。終って賞品授与。午后松山老をよびにやって記念撮影。松山氏に行き、「劉向新序」を借りて来て読み出す。


昭和十五年 三月二十九日
朝ね。入浴。保田に散髪に行く。帰ったら正午。晴、無風。但し沖曇る。大砲の音が一しきりする。軍艦の演習だという。松山老来訪。裏山を散歩する。


昭和十五年 八月十五日
松山氏に立ち寄り帰宅。午后松山老茶器持参にて来訪。栗原孝太郎といふ男作の大茶碗にてお茶の馳走をして帰る。



昭和十六年 十一月四日
終日訳文訂正。夜松山老夫婦来訪。八時半帰る。



 以上小泉と米太郎との交流の様子がよくわかる部分である。米太郎は小泉を夕食やお茶に招き、また、小泉の別荘に孫連れで訪ねたり、時には十徳を着てお茶を振舞いに訪れたりしている。桜の咲く時期には共に裏山に登っては、林のなかで景色を愛でつつ茶を飲んだ。形式的な茶会はあまり好まなかった米太郎にとって、気心の知れた人とのこのような茶会が好みであったのだろう。また、二人で参列した吉浜小学校の卒業式の様子については、当時の学校教育のあり方としても、貴重なひとこまである。米太郎は小泉との談話の中で、鈍翁や半泥子、栗原孝太郎といった茶の湯・美術関係者とのやり取りについても話していたことがわかる。
 保田日記の記述からは、米太郎と小泉が別荘地という非日常的な空間の中で、親交を重ねて生きた様子が見えてくる。
 特に昭和十五年八月十五日の小泉に茶を振舞った茶碗は、米太郎自身が生涯の愛玩品としていたものと思われる。というのは「茶道雑誌武者の小路 松山吟松庵翁追悼号」には栗原孝太郎が保田の米太郎邸に自作の茶碗を持参したことが記され、米太郎はその茶碗を光悦以上の驚くべき名作と気に入り、寝る間も放さずに大事にしたものだという。栗原孝太郎は、明治四年に東京八王子で織物問屋を営んだ豪商・栗原家の長男として生まれた。しかし、商売は親族に任せ、茶の湯、篆刻、弓道、香道、作陶を趣味とし深く探求した。香道は志野流の師範であった。篆刻の理解のために東洋哲学や仏教思想の研究に没頭し、八王子では仏教学者としても知られた。慶應義塾に学んだが先生を殴って中退したというから破天荒な性格だったと思われる。八王子の別荘の庭には楽焼の窯を築き作陶にふけった。雑誌『日本美術工芸』で昭和四十四年に連載された「焼きものに憑かれて」には、栗原と当時弟子であった吉田耕三(後に美術評論家となる)が米太郎邸を訪れた時のことが記されている。

五章・終焉とその後

終焉の日


 健脚健啖の米太郎(吟松庵)は、老齢となっても体はすこぶる丈夫であった。しかし、日記『思川』を読むと、昭和十一年四月頃から、胃のあたりに不快感を覚えていた記述が確認できる。元来の健啖ぶりが過ぎ、七十一歳の時には食道の通過障害や胃に潰瘍を患った。食事の量を減らし様子を見ていれば良かったのだが、頑固な米太郎は、節制するどころか暴食を続けたため度々床に伏すようになった。昭和十七年十月中旬に床に就くと以降は衰弱が進んだ。老父の様子を心配した息子で医師の亥三雄は、上京させ東京で治療に専念させようと再三促した。しかし米太郎は、聞き入れるどころかかえって怒る始末だった。それでも亥三雄は根気よく説得を試み、ようやく搬送の手配が整った矢先、昭和十七年十二月二日午後二時過ぎ、保田の自邸で家族に見守られながら七十二歳の生涯を閉じたのであった。死因は胃腸の出血であった。
 茶人・鈴木半茶は、亡くなる一ヶ月ほど前に床に伏し療養をしていた米太郎を見舞いに訪れている。このとき、枕元には米太郎が知人の葬送の様子を描いた「送りの図」が掛けられていたという。瘦せた米太郎は半茶に対し、「古文書茶書の読みにくいものがあったら何時でも送ってください、読んであげます」などと淡々とした態度で話しかけたという。また、亡くなる前日に見舞いに来た里の人に対しては、「大東亜戦の前途も俺には見通が付いたから思い残すことはない」などと語っていたという。
 最期を看取った息子・亥三雄は「少し笑ひかけたやうな如何にも昔の茶人の木像を見るやうな可愛いゝ死に顔でした」とその臨終を書き残し、父の野辺送りの日の様子も克明に書き残している。


 野辺送りの日は前日からの雨模様が午後になると晴上って穏やかな小春日和となりました。午後四時半お棺は大型リヤカーに乗せられて鋸山支脈の山懐に抱かれた火葬場に向かひました。小さな漁村を出外れると爪先登りの斜面になり、一面の菊畑の中の小径を辿るのです。狭い径ですから両側から差交はす黄菊白菊がリヤカーと擦れてお棺の上に散りかゝる有様が丁度自然が投げる祝福の花束のやうに思はれました。折柄父が生前大好きだった満点を彩る夕焼けで刷毛で刷いたやうな雲が刻々と紅紫とりどりに姿と色を変へるさまは荘厳とも何とも云ひやうもなく、小径を辿る私共の心までその色に染むかと思はれました。
 火葬場と云っても名ばかりの粗末なもので、焼夫は半島人一人と云ふ侘しさ、それが全然感情を失くしたやうな男で「老人かね、どうも老人は脂が足りないから薪を澤山使はぬと焼残り易いでね」と云ひました。脂どころか、此の十年来すべての欲、すべての汚を払い落した生き方をした父は余程燃えにくかったのでせう。」


自らが愛した保田の自然に見守られながら旅立った米太郎であった。法号正道院求日温居士。葬儀は身内のみで執り行われ、遺骨は青山墓地に葬られた。

吟松庵没後の残月庵

写真下部のL字形に曲がる道から山の中腹迄が神代荘農園の敷地であった
千葉県立安房高等学校蔵 
勝山移築後の残月庵の拡大図
 

 昭和十七年十二月に松山米太郎(吟松庵)がこの世を去ると、妻・下枝は東京小山町の松山本邸で産婦人科医院を営む息子・亥三雄一家のもとに移り住んだ。主不在となった保田の敷地の大部分と陸舟庵は、昭和二十四年頃、地元の笹生鶴吉氏によって買い取られた。また、敷地の一部は昭和十九年に東京芝区西久保巴町四十二番地の骨董店「松留商店」の主人・米田留治という人物に買い取られた。米田の住所は、米太郎が東京で営んだ骨董店「吟松庵」と同一であることから、生前の米太郎とも関係があったのかもしれない。ちなみに骨董店「松留商店」は現在も同地(港区虎ノ門三丁目)で営業している。米田が買い求めた旧米太郎邸の土地は、後年に鋸南町に寄付された。
 残月庵は、大企業「池貝鉄工所」の社長・池貝勝男(二代目池貝庄太郎)に買い取られ、同氏が保田の隣町、勝山の下佐久間に造営した牧場「神代荘じんだいそう農園」背後の丘に移築された。鋸南町史に紹介されているが、池貝家はもともと鋸南町下佐久間の出身である。動物を愛した池貝勝男は、東京の神代村(現調布市)で営んでいた牧場を郷里に疎開させたのであった。場所は現在東京都立勝山学園がある一帯である。現在、田子コミュニティセンター前の道の傍にある石碑には、道の造営時の寄付者として神代荘の名が刻まれている。また、近隣の小沢牧場の牛舎の一部は当時神代荘で使用されていたものであるという。
 保田の旧米太郎邸から勝山の神代荘への移築作業を実際に行ったのは、保田大六の網代工務店であった。同社先代社長の故・網代孝氏(一九二八―二〇一六)は当時の様子を次のように語っていた。

「私が移築をやったのは戦時中のことでした。残月庵を買い取ったのは、大企業池貝鉄工所の社長、池貝庄太郎で、県会議員をつとめた勝山の金木精一さん(本書三章に詳しい)が仲介していました。残月庵は築三〇〇年くらいの立派な建物だったから、その雰囲気を残したいと、新品の材料を使わないでほしいといわれて、だから地域の古い家を回っては相応の部材と新品とを取り替えてもらいました。材料集めに苦労しました。」

 写真は、現在千葉県立安房高等学校の前身校(鋸南分校)を写したもので、現在は同校の記念館に所蔵されている。この写真の中央に、移築後の残月庵が写っており、残月庵の全貌を写した唯一の貴重な資料である。
 移築された残月庵は戦時中に池貝勝男一家の疎開先として使われた。筆者は、平成三十一年に池貝勝男氏の次男・池貝庄司氏に電話で話を伺ったところ、「小学三年から五年まで、疎開のために父がやっていた神代荘にあった残月庵で生活しました。自給自足のような生活で幼いながら畑をやったりて、毎日はだしで山を下りて勝山小学校に通いました。父は動物を好み洋犬の研究した論文を海外で発表した事もあったようです。残月庵は、柱が黒光りしていて、もともと保田にあったと聞いています。残月庵の中には古い本がたくさん置いてありました。父はお茶はやりませんでしたが、こういう貴重な本はきちんと残していかなければならないと話していました。疎開が終わって東京に引き揚げた後は残月庵がどうなったかは分かりません」と語った。また、筆者は後日池貝氏にこの写真を送付し確認をお願いしたところ、「写真中央に写る家は間違いなく私が住んでいた残月庵です」との返答を頂いた。

 昭和十年生まれの池貝庄司氏が、小学三~五年を過ごしたということであるから、残月庵は少なくとも昭和十九~二十一年の間に池貝一家の疎開家として使われていたことになる。残月庵の移築時期は網代孝氏の戦時中であったという証言を踏まえると、昭和十七年十二月の米太郎没後から翌年昭和十八年頃であったと思われる。

 米太郎の娘・三輪英子が残した手記『保田行』(本書巻末に付録)には移築後の残月庵の事がこう記されている。

今東京の池貝鉄工所主に譲り、氏の故郷勝山に保田の通りに組み立てられ植木も石も什器も父在りし日のままに配置し石の書庫には父の蔵書が納められ永く記念していただくことになっている。

 この手記は、三輪英子が昭和三十年ごろに姉妹である卯野於孝に宛てた手紙である。二代目池貝庄太郎(勝男)が、勝山の神代荘に松山吟松庵ゆかりの建物と蔵書を引き継ぎ、記念しようとしたことが伺われる。しかし、それから約六十五年、現在の同地に残月庵は建っていない。現在同地は後年に別荘として建てられた建築物が廃屋となって点在し、残月庵の建っていた場所は荒れ果てて深い藪林となっている。
 しかし、藪林の地面と土中には、多数の基礎石と門から玄関につながっていたであろう飛び石が点在している。手記『保田行』に記された以降、すなわち昭和三十年以降の残月庵がその後どうなったかは不明であるが、近隣の古老によると、数十年前に大きな茅葺屋根の家屋を地域の人たちで壊したという話を聞いたことがあるという。いずれにせよ、いまも人知れず基礎石と飛び石だけが薮の中に埋もれているのみである。

六章・松山文庫のこと


 松山文庫とは、松山米太郎のひ孫にあたる三輪薫氏が、神奈川県秦野市の自宅で開設している私設図書館である。同文庫の目的は、松山家と三輪家にまつわる伝来資料の保存と継承である。松山家に関しては、米太郎と俊太郎にまつわる資料が中心で、三輪家に関しては、三輪照寛、照路にまつわる資料が保存されている。また、同文庫では、両家の家系図の編纂に取り組んでいる。松山家に関する資料群は、米太郎とその孫の俊太郎が生前に所有しいていた品々で、俊太郎が父・亥三雄から引き継いでいたものであった。が、俊太郎には子供がいなかったため、没後は弟子たちによって「師の遺品の一部」として保管されていた。三輪薫氏は俊太郎の葬儀の喪主をつとめており、俊太郎の弟子から、遺物を引き継ぐこととなったという。このため、松山文庫の所蔵品は、松山俊太郎研究の資料としての性格も有している。
 松山俊太郎(一九三〇―二〇一四)は、女子美術大学教授、国学院大学講師、多摩美術大学講師、美学校講師などを歴任した人物で「インド学者」「幻想文学研究家」などとも紹介される。主著には『蓮と法華経』『綺想礼讃』『蓮の宇宙』『インドを語る』などがある。東京大学文学部印度哲学科で古代インドの文学(サンスクリット文)を専攻したが、サンスクリット語や英語の他、フランス語やアラビア語などにも堪能で、法華経を世界文学として研究した異彩の学者であった。二〇一六年には仏教言論誌『Fukujin ~漬物から憑物まで~』が、同氏の追悼特集号を出している。

三輪家と松山家の関わり


 「松山家」のものがなぜ「三輪家」にあるのか。その理由をもう少し説明すると、米太郎の代につくられた二つの縁故関係によるところが大きい。一つ目は米太郎が三輪家の四女・下枝を娶ったことである。二つ目は、米太郎の長女・英子ひでこが家督を継承するために三輪家に養女に入ったことである。男性の世継ぎがいなかった三輪家にとって、米太郎は頼れる存在であり、米太郎もまた、妻の実家である三輪家の存続発展の存続のために様々な世話をしたのだろう。松山家は二代下った俊太郎の代で途絶えることとなったが、三輪薫氏により「松山文庫」という形をもって、俊太郎旧蔵の先祖の品が然るべき子孫によって継承されることとなったのである。

三輪家・松山家略系図


 三輪家の郷里もまた松山家と同じく石川県金沢である。文化六年(一八〇九)に生まれた三輪照寛は、加賀藩前田兵部家の家老をつとめた。歌道を学び、法制に通じ、安政二年に加賀藩学明倫堂で国学や皇学を教えた。その子で天保八年(一八三七)に生まれた三輪照路は、松山米太郎の妻・下枝の父である。国学に長じ、白山比咩神社の神職を勤めながら加賀国内の教区で神道の宣教講義を行った人である。国学に長じた照路からみて、同郷加賀の骨董商に生まれ、歴史学と文学に長けた米太郎は、娘の結婚相手として足るに値する人物であったのだろう。照路には二男四女の子がいたが、男子らは幼く死去したため、長女・よし(明治元年生まれ)が三輪家を継ぐ事となった。芳は米太郎の義姉にあたり、東京女子高等師範学校(現・御茶ノ水女子大)に学んだのち、師範学校の教師となった。一度結婚し嫁いだが、三輪家の継承のため離縁し、終生独身であった。昭和二年に死去した。
 芳の死後は、三輪家の養女となっていた米太郎の長女・英子がその家督を継いだ。東京音楽学校卒の英子は音楽教師となり、大正十一年より郷里金沢で高等女学校の教師を歴任した。大正十二年に神奈川県に出向となり、小田原町立小田原高等女学校(現・小田原高等学校)、大正十四年には神奈川県立平塚高等女学校(現・平塚江南高等学校)に赴任した。英子は巻末付録の手記『保田行』を記しており、その流麗で美しい文面からも、父・米太郎の血を引いた人物であったと感じられる。英子の夫・六郎は、同志社大学を卒業した後、米太郎に見込まれ、三輪家の婿となり骨董商を生業とした。関東大震災の後には米太郎と共に桜田門近くの東海道沿いに骨董店「吟松庵」を営んだ。骨董店「吟松庵」があったのは、東京芝区西久保巴町四十二番地で、現町名でいえば港区虎ノ門三丁目七番地四号あたりである。現在当地には、骨董「松留商店」がある。松留商店の創業者は前述の石川県松任出身の米田留治という人物で、米太郎没後に保田吉浜の地所の一部を購入した人物である。
 大正十一年に米太郎が保田に別荘陸舟庵を構えると、その翌年には三輪家も近くに土地を求めている。その土地は、鱚ヶ浦のほぼ中央に位置する風景絶佳な敷地で、三輪芳の名義で大正十二年に登記され、昭和十四年に三輪六郎に相続された。さらに六郎は昭和十八年に、東京市淀橋区十三社の勝山駒二郎という人物から、鱚ヶ浦の高台にもう一つ地所を求めている。勝山は『苧環鈔おだまきしょう』という句集を作った俳人と推測される。三輪家はこれらの土地に家屋を構えることはなかったが、地所の購入にあたっては近所に別荘を営んだ米太郎、下枝夫妻の存在が大きかったと思われる。また、地元鱚ヶ浦の川崎佐和氏と笹生きよ氏(故人)は、東京の松山本邸と三輪邸に女中に出ている。松山亥三雄が営む松山病院に住み込んだ川崎佐和氏は「よく三輪家までお遣いを頼まれたり、三輪家には友達のきよちゃんが住んでいたのでよくお話した。多分私たちの親が松山のおじいさん(米太郎)と話をして女中に出すことにしたんでしょう」と当時を振り返っている。

 三輪家にとって、保田の海は思い出の海で、今でも一族をつれて夏には鱚ヶ浦に泳ぎに行くのが楽しみなのだという。その発端は米太郎の別荘が、松山三輪両家に親しまれてきたからである。特に米太郎の孫・三輪誠也氏は、幼少期から、いとこの俊太郎とともに米太郎に可愛がられ、陸舟庵で海水浴にあける日々を楽しんだ。前述の小泉丹保田日記の昭和十二年一月七日に記された松山の孫二人とは幼い両氏のことであろう。誠也は、鱚ヶ浦を思い出の海として生涯愛した。夏になると宿をとり長期滞在して、シュノーケリングを楽しんだ。誠也は三輪一族の中で最も鱚ヶ浦を知り尽くした存在で、ひと夏に二十人ほどの親族が例年鱚ヶ浦で会し、夏の日々を満喫してきたという。
 松山文庫には、米太郎が、幼いころの孫・誠也に宛てた書簡が残されている。ただし、この書簡は本書でこれまで紹介してきたような学者・松山米太郎とはほど遠い「人間・松山米太郎」の素顔が見てとれる。



ターザンノエハ ヨホドヨク 
カケマシタ オジイサマハ 
ウラノ ヤマへ アガッテ 
ターザンハウスノバショヲ 
サガシテオキマシタカラ
ナツニナッタラ フネニノッテ 
ミナデ キナサイ
オバアチャンモ ワン公モ
ミナタノシミニシテ
マッテイマスヨ
ターザンハ ヤマバカリデナク
ウミノナカデモ アソンデイタデショウ ダカラ オジイサンモ
コンナニシテ(抜き手泳ぎの絵)
オヨギヲオシエテアゲマショウ
コワイナンテ イッタッテ
ターザンハ コトバガ ワカラヌカラダメヨ ソノカワリ スコシガマンスルト オサカナノヨウニ オヨゲマス
コンナニタノシイ アソビガ
マッテルノデスカラ
ナツマデ ウント
ガッコウノコトヲ ベンキョウ
シテオクノデス

四月十九日
ホタノ大ターザン カラ
巴町ノ小ターザンドノ

ヒロボウニモ ミチコニモ
ヨロシク
オトウサンニモ オカアサンニモ

 



 昭和十二年四月のある日、保田の米太郎のもとに一通の手紙が届いた。東京に住む当時十歳の孫・三輪誠也からのものだった。手紙には映画「ターザン」に出てくるターザンハウスなどの絵が同封されていた。いずれも誠也が描いた絵だった。前掲の書簡は誠也からの手紙に米太郎が返信したものである。米太郎はこの手紙を書く数日前に東京に行った際、娘の英子と共に映画館で「ターザン」を観た。当日の日記には「好画」だったと感想を記している。孫が好きな映画を自身も鑑賞したうえで、「ターザンの家を保田の家の裏山に作っておくから、夏になったら遊びにおいで、泳ぎを教えてあげるよ」と孫に来訪を促している。クレヨンを使い、なぞなぞのような絵解きの文章で幼い子どもにも楽しく読めるよう、工夫して書かれたこの手紙は、様々な学者や茶人などとやり取りをした流麗達筆な毛筆の書簡とは対照的である。祖父として、愛する幼い孫へのやさしいまなざし、ユーモア、教育者としての心づかいが溢れている。さらに、米太郎の日記には、この書簡を送った後に実際に保田の家の裏にターザンハウスを自ら作ったと記されている。これこそ、松山米太郎の素顔・人間味を表すものであろう。愛情あふれるこの手紙を受け取った孫・誠也は、きっと保田で待つおじいさんの姿を思い描き、ターザンのように保田の海山を駆け回る夏の日々を心待ちにしたことだろう。横浜に住んだ誠也は、横須賀や湘南といった近くの海に泳ぎに行くことはなく、フェリーで東京湾を渡り、生涯鱚ヶ浦で泳ぐことだけを好んだという。誠也は三輪一族二十数人から「鱚ヶ浦の主」と称されるほどであった。妻子や孫、親戚を引き連れて毎年鱚ヶ浦を訪れ、一族の思い出の海としたのである。それもこれも、米太郎が抱いた三輪一族を大切にする気持ち、気づかい、慈愛のあらわれなのであろう。前掲の手紙はその象徴であると言えるだろう。

七章・吟松庵の人柄


 国文学者、茶道研究家、骨董古美術茶器商として知られた松山米太郎(吟松庵)であったが、最大の魅力はその人柄にある。特に茶道の古文献の研究家としての業績は、深い学識と文物に対する批判的な姿勢を基軸に取り組んだ学究活動によるものである。米太郎は、日常生活において世相に対し批判的なまなざしを持っていたことが日記に綴られている。例えば、当時の社会の風潮の中には俗悪なものが多いなどという節がよく出てくる。また、人間関係においては、著名な実業家茶人が値段相応でない品を高値で買ったことに対し、そんなものを買うとは見る目がないなどと指摘した。傲慢な態度から孤立し始めた魯山人に対しては、その行いを正そうと「私を文章の師とせよ」と書簡を送った。電車の吊広告の色使いが低俗だと感じたり、言論誌を見ても、谷崎以外の文章は稚拙だなどと書いている。このように並べてみると、相当なやかましい人に映るのも無理はないのだが、筆者が思うに、米太郎は「ものの本分」や誠実さを大事にした心情の持ち主だったにに違いない。それがゆえ、不誠実なものを嫌い、ある時は批判し、余地のある時は諭し、またある時は自らが糾し、訂正もした。米太郎に備わったこのような気質は、まさに「校訂者」や「教育者」という仕事に必要な精神でなくてなんであろうか。
 米太郎のまなざしは、同時代の人やモノだけでなく過去のそれらにも向けられた。その結果が、最大の業績である一連の茶道古典の註訳書を著作したことであろう。古のことを然るべき形で後世に正しく伝えるということは至難の業であろう。特に自分以外に解読出来る者がいないとなれば尚更である。米太郎は茶道の歴史全体を範疇とするこの難題を、古文書の読解力や、本質を見極める目、文筆能力などにより、後世に残る著作を著し成し遂げたのである。まさに「温故知新」人である。
 一方で米太郎は洒落を好んだ。昭和八年五月、別荘陸舟庵に泥棒が入り、室内にあった品々が盗まれてしまったことがあった。米太郎は日記『思川』に当時の被害の様子を記し、村上専精の書や魯山人の書の他、父の遺品、自作の茶碗などの盗まれた品々の名を列挙している。中には「沢庵花押目貫太刀」などとある。これは、安土桃山時代から江戸時代前期にかけて生きた臨済宗の僧・沢庵宗彭たくあんそうほうが所有した持ち手部分に装飾が施された刀と思われる。盗まれた品のいずれも、米太郎が愛蔵したものだったはずだが、あまり憤慨した様子もなく、最後に一言「いろいろ持っていかれてしまったが、この家の裏山だけは盗られなかった」と結んでいる。米太郎の懐の大きさとユーモアを象徴する一面である。そのうえで、前述した孫・三輪誠也に宛てた手紙は興味深い。泥棒が入っても盗まれることのない裏山は、最愛の孫との遊び場という最も大切なものだった。これが保田を愛し、人を愛した人間・松山米太郎の生の姿である。

八章・付録

 本書の最後に松山米太郎(吟松庵)にまつわる六つの文章を紹介しよう。前の三つは保田にちなんだもの、後の三つは妻・下枝と米太郎が記したものである。あらかじめそれぞれの概要を記す。

・付録一 『保田の家とその人脈』
 茨木悟(第四章に詳述)が、保田・鱚ヶ浦に構えた別荘「吾心庵」と、それにまつわる人間関係について、同氏の長男である故・茨木一郎氏が記したものである。茨木家と松山家、三輪家、さらに別荘近隣の地域との関わりあいが記されている。特に米太郎をはじめ、その他の鱚ヶ浦周辺の別荘地の世話をした、地元の網代勇次郎氏についての記述から、当時別荘というものが地域と隔絶した関係にあったわけではなく、双方共に積極的に関わりを持ったことで営まれていたということがわかる。この文章は、茨木一郎氏の弟、二郎氏(故人)から付録二とともに提供頂いたものである。

・付録二 『戦後六〇年、サイパンと保田の海』
 本文章の著者も、付録一『保田の家とその人脈』を記した茨木一郎氏である。『保田の家とその人脈』では主に別荘にまつわる人間関係を述べているが、『戦後六〇年、サイパンと保田の海』では、同氏が幼少の頃より実際に親しんだ別荘地保田での体験回想録である。別荘人の視点から戦前・戦中の様子が述べられた貴重な資料である。

・付録三 『保田行』
 これは、米太郎の長女・三輪英子が、昭和三十年に妹の卯野於孝おこうに宛てた手紙である。両親が亡くなり十三年程の年月が過ぎた頃に、保田を訪れたときの回想録である。在りし日の米太郎邸内の様子や、地域の人々との交流が、あたかも一本の映画を見るかのように展開される美しい文章である。『保田行』の原物は松山文庫に所蔵されている。
 文中には米太郎の親友である松岡恒太郎について記されている。同氏について補足する。松岡家は金沢で幕末期から米仲買業を営んだ商家であり、屋号は「松任屋」といった。明治期以降は株式会社金沢米穀取引所となり財力を増し、金沢の経済を牽引した。松岡恒太郎はこの一族の人である。恒太郎は実業家ながら古美術の鑑識に優れた人物で、早稲田大学在学中には近松門左衛門の研究を行った。恒太郎の父は松岡三次といい、古美術の愛好家・鑑識家としても高く評価された人物であった。米太郎の父・松山喜太郎の手記には、三次との道具の売買の記録が多数残されており、松岡家と松山家が二代にわたり関係があったことがわかる。
 恒太郎と米太郎は、古美術骨董に秀でた父を持ち、学生時代に近松の研究を行ったという、生い立ちや知的志向に共通点をもつ郷里の親友であった。松山文庫には米太郎と恒太郎が交わした書簡やハガキが約四四〇通保存されている。このうち三〇二通は米太郎が恒太郎に送った物で、松岡家から譲り受けたものであるという。

・付録四 『おはようと云ふ心にて写し絵に 見入る我が心悲しかりけり』
 これは、茶道雑誌『武者の小路』の松山吟松庵追悼号に寄稿されたもので、著者は米太郎の妻・下枝である。もともと寄稿時には題名はなく、同誌の編集者が下枝の詠んだ和歌を題とした。文中には保田での夫婦の等身大の暮らしぶりや、長く連れ添った妻から見た米太郎の人間性が記されている。

・付録五 『さびの弁』
 これは、昭和十年に創元社から刊行された、茶道の学術的叢書『茶道全集』(第一巻)に収録された文章で、松山吟松庵の名で著されたものである。米太郎の「さび」に関する考察である。文中では茶道の本質は「寂」(さび)の一文字で表すことができると述べたうえで、寂という言葉に内包される意義や哲学、価値観を多面的に解説していく。文中に挙げられる価値観は、米太郎の保田での暮らしぶりや生き方、人物像に重なる部分を感じるのは筆者だけであろうか。仮名遣いや漢字については原文のとおりに記した。

・付録六 『勧茶論』
 これは、米太郎が大正十五年九月十七日の日記『思川』に「勧茶論かんちゃろん」と題して記した随筆である。当時の米太郎が、世に提案したかった茶への親しみ方と共に、米太郎自身の茶に対するとらえ方が記されている。「茶」そのものの歴史を知る上でも興味深い読み物となっている。仮名遣いや漢字については原文のとおりに掲載した。

付録一

『保田の家とその人脈』 茨木一郎

 松山米太郎は昔の府立一中、今の都立日比谷高校の国語の先生だった。ある生徒の作文があまりに見事だったので不審に思った松山は、その生徒を職員室に呼び、幾つかのテーマを与えて作文させた所、その場でまた見事な文章に仕上げ松山を驚かせた。その生徒が谷崎潤一郎である。父、茨木悟がアメリカ留学から帰り、母スキと結婚して一九二四年に独立し、芝区三田小山町に三田無線電話研究所を興した時、借りた家の大家が松山だった。「無線電話」とは今のラジオの事である。昭和五年一九三〇年、父三〇歳の時、工場が手狭になり現在の麻布仙台坂に土地を買い住居兼工場を建てた。母が基本設計をしたと言われる。
 ある時松山は、古道具屋で茶器を買い、それが津田宗及の大変な掘り出し物だったので、茶器を売って大金を手にし、房州保田海岸に土地を買い古い家を買って現地に移設し、陸舟吟松庵と名付け、妻 下枝(シズエ)と共に隠居した。今は海岸が埋め立てられて「おどや」などが出来たが、当時は道路際が海岸で、朝夕富士を仰ぎ、妙本寺の山影で涼しい結構な隠居所だった。夏には松山一家が海で遊び、私が生まれる頃には茨木家も吟松庵に招かれる様になった。
 松山の長女が三輪英子で、その長男が今も保田に来て魚を突く誠也である。かつて松山が父・悟に「家にもあなたと同年代の不埒な息子が居る」とこぼしたのが、帝大医学部を出て産婦人科医院を開いた亥三雄で、その息子が俊太郎。私の長男悟郎は松山医院で生まれた。
 虚弱だった私を親が案じて別荘地を探し、特許権を売って資金を作り現在の地所を買った。
家を建てたのが麻布の家を手がけた若い棟梁、高橋粂蔵で、単身保田に乗り込み手筈を整える。地元大工との調整に手を貸したのが、吟松庵の世話をしていた網代勇次郎(勇さん)である。
 網代は高橋を試そうと、鋸山山頂の石切り場の目も眩む断崖のヘリを歩く。高橋は顔色一つ変えずに付いて来て二人は意気投合したと言う。ちなみに、松山亥三雄、高橋粂蔵、網代勇次郎と父は同年代である。保田の家は細部を高橋に任せた。高橋は土地の木を有効に使い、四角形でどの部屋も外に面し玄関がない機能的な家を建て、細部を凝って茶室風に仕上げた。天井の模様が各部屋で異なるのが面白い。松山は父「悟」の文字を並べ替え「吾心庵」と名付けてくれた。網代が本職の井戸を掘り、父の考え通り、手押しポンプで井戸水を軒高のタンクに揚げて、風呂場と台所に配管し、素焼き陶器の浄水装置まで付いた水道設備を作った。残念ながら塩気で鉄管が錆びて長持ちせず、結局つるべ井戸とバケツ給水という方式が長く続いた。
 網代は庭に松の苗木を沢山植え、立派な松林が出来たが、後年害虫で全滅した。今の松はその子孫を植え直したものである。網代は日支戦争に出征し、父は慰問袋に氷砂糖をギッシリ詰めて送り、これが網代の命を救ったと言う。大手柄を立てて、金鵄勲章を貰い帰還した。網代の長男、省吾が現在、草刈など、保田の家の維持、管理をしている。
 今、保田の家で一番良く使われる「月見台」は戦後、高橋が保田に二泊して作り上げた物だ。昔、左甚五郎が日光へ行く途中,山で野宿する一夜のための仮小屋を作った例えに似た早業だった。皆、すでに鬼籍に入っているが、吾心庵は高橋が作った、現存する最期の家だと思う。
 写真は松山が父母に宛てた手紙の一部(蝶形模様は巻紙に付いたシミ)。

二〇〇五年七月 茨木 一郎

付録二

『戦後六〇年、サイパンと保田の海』 茨木一郎

 天皇、皇后両陛下がサイパン島を訪れ戦没者の霊にお参りされた。映像で見る限り海岸は風光明媚で激しい戦いの跡は見えない。しかし、ここを米軍に占領されたために日本全土が長距離爆撃機B29の攻撃範囲に入り、本土での地上戦が回避されて終戦に至る。サイパンを守れずに亡くなった方々のお陰で我々が平穏に暮らせたのだと思う。よくぞお参りして下さった。
 戦時中、小~中学生だった私は、千葉県の保田海岸で夏を過ごしたが、東京湾沿いに横須賀、木更津等軍事施設があるので、戦争が始まると房総西線(今の内房線)の客車の海側の窓は木製のブラインドで目隠しされた。昭和十七年になると海岸で遊ぶには成田山のお守りの様な鑑札を着けることが求められた。よそ者の我々は鑑札がないので、土地の人から借りて浜に出た。空母から発進したB25が東京初空襲をした時、編隊が保田上空を通過して、地元の人は友軍機と間違えて手を振ったそうだ。その後はもう、避暑どころではなく、麻布の地で、昼間は飛行機雲を引いてはるか高空を飛ぶB29の編隊を、夜は超低空で侵入して焼夷弾と爆弾をばら撒くB29を見上げていた。(飛行機を見て興奮するのはその頃から?)日本の防空部隊の高射砲隊や飛燕戦闘機群は、後に無力と言われたが、この目で見た限りでは善戦したと思う。昼夜を問わずB29が撃墜されるのを何度も見たのだから。
 終戦直後は旅行そのものが制限されていて、乗車券が買えなかったが、昭和二十一年には解除された。食べ物も碌に無いのに早速保田へ行く。早起きして都電で信濃町に出て、御茶ノ水経由で、千葉駅から汽車に乗る。石炭が粗悪で元々非力な86型蒸気機関車の速度は上がらない。それでも久しぶりに見る沿線の風景は戦争の傷跡も無くのどかだった。戦前、木更津で駅弁を買って貰うと東京湾で採れる小さいイイダコが入っていたのを思い出す。経木箱入りのアイスクリーム、コーヒー牛乳、みんな遠い昔の夢。
 殺伐とした板張り座席の客車に揺られて、家を出てから約五時間かかり保田の家に着いた。
 早速浜に出る、以前は松林だった場所に、幅五メートル、長さ十五メートル程の溝が櫛刃状に何本も掘られていた。特攻潜航艇の基地の跡で、東京湾に進攻する敵艦を狙った様だ。終戦で故意に暴走させたのか、一隻は五キロメートル先の鋸山の砂浜で座礁している。勝山港付近の岩場には、破損した潜航艇が二隻放棄されていた。米軍が来て真っ先に内部を爆破したそうだ。写真は昭和二十四年春に撮影した特攻潜航艇「海龍」で、船首の弾頭が欠落している。人物は弟(左)と従兄弟。残骸は数年後、朝鮮戦争の金ヘン景気で姿を消した。
 戦後六〇年、蒸気機関車は姿を消して、特急電車が二時間足らずで走る。水道が引けて、電話が通じた。基地の跡は立派な舗装道路となり、ハイウエーが延び、アクアラインが開通した。何もかも変わったけれど、保田の海は昔と変わらず、つわもの共の夢を呑みこんで綺麗な水を湛えている。

二〇〇五年七月 茨木 一郎

付録三

『保田行』 三輪英子

 昭和三十年八月二十三日島田氏に伴はれて房州保田へ行った。朝霧に霞む竹芝桟橋を出港したのが午前八時、船の進むにつれ空も晴れて残暑とは云い乍ら焼けつく太陽に懐しい房州の小島や人家が指呼の間に見え初めた。波も静かであった。船も混まず誠に快い船旅であった。
 勝山ですみれ丸に乗り換へ保田に着いた。発着所も魚市場もその付近の家もほこりを浴びて潮風にさらされた木膚が昔のままであった。白く乾いた国道を右折すれば深い入江になっている。その突端が日影茶屋のあったところで保田名所の一つである。此処一帯を吉浜と云ふ。昔は葭が生い茂っていたところからこの名が生れた。
父は吉浜(村の人はヨッシャマ)の景色を愛し里人の素朴を愛して此の地を終焉の地と定めた。(大正九年地所を求め十一年陸舟を建つ)
 この陸舟庵から望む富士、日没、漁り火など四方の展望は実に筆舌に絶するものがある。陸舟庵は父が子供や多くの孫共にも楽しみを分つために建てた家であるから、誠に粗末ではあったが天井を芦で組み丸炉をはめ込んだ茶室もあり六畳二タ間は書斎にも寝室にも食堂にも客間にも使はれた。潮の満ちた日には波が二間ほど隔った岸にまで飛沫をちらす位で、いながらにして魚を漁する事が出来、地所の形が舟の如くであったところから名付けたものである。後の地所は二段に分かれ上の段は数十本の梅林となり正月にはもう蕾も綻び馥郁ふくいくたる香りは通りにまでただよっていた。鶯は鳴き、数知れぬ小鳥は群をなして枝から枝に囀り、五月ともなれば梅の実が熟れて多い時には二人入の風呂桶に二杯以上の収穫があった。下の段には栗・みかん・夏みかん・梨・桜ん坊・泰山木・茶・その木の下には芹・三つ葉・もちくさ・よめな・つくしなど生ひ茂り茶室の左には蓮池があって水蓮も咲き、肉厚く柔い蓮根は東京の知人に贈ってよろこばれた。
 隣の残月庵の庭は妙本寺の山の大木が鬱蒼と覆ひかかり時にはリスが枝を伝って走っているのが見られた。崖には椿・藤・からすうり・あけびも咲いた。山から落ちる清水を溜めてあった。冷たく清らかであった。ころがしてある木にも切り株、腰かけにも毎年二三百個の椎茸が生えた。孟宗の筍もとれた。燈籠にも飛石にもマッ青な苔がついて踏むのが勿体ないほどであった。
前庭には芙蓉・菊・萩・すすき・百日紅さるすべり・柿・いちじく・紫苑・鶏頭など咲き乱れ、秋の月は云わずもがな、すだく虫の音の愛らしく、障子に止まるスイッチョ、窓を明けて寝る蚊帖に二つ三つ蛍が迷い込むこともしばしばである。四季それぞれの趣、得も言はれず。
 残月庵は父が山深く入って旧家を引いて建てたもので、座敷の床柱に使ってある太い竹には五百年以前の年号が彫りつけてあった。柱も板戸もべっ甲の如く栗色にみがき出され一畳程の大炉にはこれ亦古い大きい魚型の自在がかかり、数寄者が垂涎おかざるものであった。
古い家を組み直したので方々に穴あり、初めは残穴庵にせんかとの案もあったが、父の親友故松岡恒太郎氏によって残月と称した。之は今東京の池貝鉄工所主に譲り氏の故郷勝山に保田の通りに組み立てられ、植木も石も什器も父在りし日のままに配置し、石の書庫には父の蔵書が納められ、永く記念していただくことになっている。陸舟庵と千坪余りの地所は土地の人に譲った。
 両庵の前は毎年ボラの立ぶしが見られる。沢山の舟が網を引いて遠巻に浅い岸まで追い込む。数万の中から、網の目を逃れんとはね上がる銀鱗。ホラ貝の合図に四方から集ってくる漁師のおかみさん娘息子など浜はごった返す賑はしさである。カイズ(土地の人はケイズ)とて黒鯛の子を釣るのもここ、海には金波銀波をただよわして太陽が赫々かっかくと沈むとき、相模の山々が墨絵の如く浮き出し冨士の霊峯が紫に紅に染まれば糸を垂る人の影も墨絵のやうに点々と見える。春浅い三月下の磯にて青さ(のり)とる子等のかん高い声も風に乗って聞へてくる。宿かり・うに・人手など波に足なぶらせて磯つたいに集められるのもこの吉浜である。陽炎もゆる浜に引き揚げた舟のかげで網つづる漁夫の骨のたくましさ麦藁帽の蔭からのぞく眼は優しく「お嬢さん!!何日来サシッタカネ」と呼んでいる。
図無いヅネイ(大い)蝦がとれただよ。旦那にハァ上げベェと思って持ってきたダ食ってクラッシェ」と云って漁夫のおかみさんは立派な伊勢えびを提げてくる。
保田へ行くダが買物ネェですかと声をかけてくれる親爺もいた。川で取れた鰻を通りすがりにバスの運転台からポトリと落して旦那ァ。と呼んで行くのもある。私はこの人達の顔を探して一軒一軒のぞくやうにして歩いた。
 母が保田を引き揚げてから九年、その間にこの人達も次々と地上から消して行ったに違いない。両親も逝き三輪の二つの地所も不在地主でとられて保田とは何のつながりもなくなってしまった。あの門のあたりに立って見送る父母に入江の曲り角に立ち止まって大声でサヨナラ!!と手を振った自分も既に命知る年になってしまった。風に消されてとどかぬと知りながら叫んだ サヨナラ!! あの時は私も若かった。
 暮迫る保田駅を午後五時三十分。今もまだ まぶたに残る姿なき父母にサヨナラ サヨナラと云ひつつ帰路についた。思い出はつきない。

付録四

『おはようと云ふ心にて写し絵に 見入る我が心悲しかりけり』
                       松山下枝


四十六年の歳月は長い様でありますが、夢の様に立ちました。自分は金婚に間近き事なれば、それまでは生きねばならぬと申して居りましたが、それも待たずに逝ってしまいました事は誠に残念な事でありました。けれども保田の景色を愛し、最期の十年をここに過しました事は、本人にとりましては心ゆくばかりの満足でしたでしょう。
 先日ふとした事で去年の春、出京療養中用いて居りました電気スタンドの、今は戸棚にしまってあります傘に
 折々に病みて親子の一ツ屋に住むも中々うれしかりけり
 七十の後の命は天にあらすまたく吾子の力なりけり
   七十三歳 吟松庵
とあるのを見付けました。
 此様に思ふて居りましても、少し心地よくなれば保田へ帰ると申しますほど、田舎の静けさを愛していました。世間とも交際をたち、舌切り雀の爺さん婆さんの様な生活をして、野華にあこがれ夕陽をめで、世の栄耀など念頭になく、暇あらば読書に親しみ、他から見れば誠につまらぬ生活の様ですが、私達にとりましては天国の様でありました。時折東京からお客様が来られると、初対面の方であっても、何だか古知の親しきお方の様に自然に思われ、それが又先方様にも気持ちがうつるらしく、如何にも気軽く喜んで帰られました様でした。もし何時何日に訪問すると御通知でもあれば、お待ち受けの用意に心を砕きました。至極気儘な性質で、自分が読みたいから読むと云う風でしたから同じ本を三度でも四度でも読みました。
 少しも世に知られたいとか、認められたいとか云う心がありませなんだ。然し何かお尋ねがあれば一生懸命に調べてお返事をいたしました。私が面倒でないかと申せば人様が俺に勉強させて下さるのだ、と申してよろこんでお返事を書いたものです。若い時より交際は好きな方ではありませなんだが、晩年になりましては人と交際すれば嘘を云はねばならぬ故に余りしたくないと申して居りました。
 誰彼の所へ行ったら似せ物の軸を掛けてとか、屏風を立ててとか申しますゆえに、私がその方の趣味なれば、あなたの知った事でないではありませぬかと申せば、それでも其のお人の人格に障ると申しますゆえに、成程社会的に立派なお方が御自分のお床に贋物を掛けて居られたのではお気の毒なり、又笑止なものだと思ったからだ、では教えてお上げになればと申せば、如何なる名医でも肺患者にあなたは肺病だと云うことが出来ぬが如し、と申して居りました。勿論大した物ではありませんが自分の愛玩品と云う物を持って居りましたが、東京へ来て居る留守中に盗まれてしまいました。中々目のききたる泥棒らしく、主人が大事にして居りました物ばかり取って行きました。丁度二・二六事件の最中にて警察でも手が届かぬらしく、有耶無耶になってしまいました。自分もこれでサッパリした、あんな物でも持って居れば盗まれぬかと気にもかかるが、取られて清々したと申して、それ以来はある物か、又頂く品を大事にしてよろこんで居りました。毎日お茶を頂く折でも、今日はこれにせんか、暫く見なかったからあれにせんかなと楽しみながら可愛がりましたゆえに、下されたお方でも御自分の作品とお気付きにならぬ程、相形を変えて居りましたので、驚き且つこんなにも可愛がって呉れたかとお喜びになりました。何事にも計画とか企てるとか申す事がなく、東京が嫌なら田舎へ行く、勤務がうるさければ止めると云う風で別に蓄があるでもないのにと思われましたが、それでも正直のためか少しも不自由を感ぜずに過ごす事が出来ましたのは、古い言い草の様ではありますが、第一は天道様や皆様のお蔭様だと思います。倅も父の人柄をよろこび、美田のない事をよろこんでさえ居ります、私も清貧に暮した気楽さを喜ぶ者でございます。又今回は皆々様より心からの御弔詞を頂きました事は本人は申すに及ばず、遺族の者の此上なく感謝に堪えぬ所でございます。

付録五

『さびの弁』 松山吟松庵

 茶道の真諦は唯寂の一字に帰する。珠光の謹敬清寂も、利休の和敬清寂も、共に説き得て饒舌に過ぎたるの嫌ひあり。畢竟これ寂、何の謹敬と説き、和敬と説かん。況んや更に清に於てをや。寂の一字を挙ぐれば他は悉く此の裡に摂せられている。多く語るは即ち蛇足であり饒舌である。されどこれ亦一聖一賢が人をして寂中に導くの楷梯であろう。然らば何を以てか寂といふ。浄寂であり寂滅である。空であり無である。既に浄寂空無の境に入らば、人と我と一體、山河大地森羅万象悉く皆我と一ならざるはない。心身脱落といひ大悟徹底といふも、この境を除いては他に寸土をも餘さぬ。いづこに不謹と不和と不敬と不浄とがあろう。而して是に到るの道、ただ座あり禅あるのみである。珠光以来茶人の殆ど悉くが参禅弁道を必としたのは、畢竟寂無の境に徹して開悟の一隻を得んが為であった。今この大寂徹無の弁は暫く措く。
 世に所謂のさび・・は此の寂に帰せんとする行程に在るものの模様をいい、様子を語っているのである。これを人に取りて言はば、灰心滅智の老境こそ即ち人のさび・・・・である。物に就て言はば、廃残鎖損の器、即ち物のさび・・・・である。更に之を時について言はば、今に対して昔、新に対して古は即ち時のさび・・・・である。又これを数に取りて言はば、多に対して少、偶に対して奇は即ち数のさび・・・・である。大小広狭につきて言はば、狭小即ち大小広狭のさび・・・・・・・である。老廃奇古狭小、これ皆さび・・の本色ならざるはない。茶家の老境の人を尚び、廃欠の器を愛し、古へを慕ひ、古きを求め、奇少の数を選んで狭少の室に住する所以、悉くさび・・の本源に発せざるはなき道理を看取するに足るであろう。但し人のさび・・、器のさび・・、未だ必ずしも茶家の愛好を惹くべしとは言はぬ。茶家の愛する所は只さびの妙所に在って存する。等しくこれ古しという。十年も百年も千年も古は即ち古である。されど、人により物により器によりて其の古色に妙所あり、之に達す行程あり、これを過ぐるも不可、これに及ばざるも亦不可。例えばけんこうとの如し。妙所は傾不傾の間に在る。
 今それ伊賀備前信楽等の古器は茶家のさび・・物として珍重措かざる所である。而もさび・・の妙所を得たるは千万器中の唯一器に過ぎぬ。何が故ぞ。工人の技に妙所あり、釉土の調整に妙所あり、窯中の火度に妙所あり、三妙具足して更に古色の妙所に達したるもの是れ即ち妙器である。而して能く之を発するは又実にさび・・の妙所に悟入せる妙人たらざるべからず。この妙器一たび妙人の鑑を経て千萬器の中より選ばれたるが、即ち後世の所謂名器名宝と称する物である。即ち名宝たるに及んでは、一個の瓦器忽ち変じて一堆の黄金と化し去る。これ今も尚、妙人ならざる富者も之に対して千萬金を投じておしまざる所以である。千萬金を吝まざるは、その器の千萬金に値し、若しくは、より以上の価値ありと信ずるが故である。最初妙人の獲たる時は価値なき一個の土器で有ったに過ぎぬ。妙人の認著せるは只その器の有する寂の妙所の価値であり、黄金に換算せる価値ではない。今人の認むる所はその器の黄金を背景とする寂の妙所であるというべきであろう。妙所唯よく妙人が知る。而してその妙、遂に説くべからず、妙の妙たる所以、それ又実に玆に在って存する。
紹鴎が、
 見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮
といへる和歌を茶道の本意としたるは寂の消極的方面なり。利休が
 花をのみ待つらん人に山里の雪間の草の春をみ見せばや
といへるを取ったは寂の積極的方面を示したるなり。晩秋と春初と、尽きんとして未だ尽きず、成らんとして未だ成らず、要は未の一字に参すべし。以てさびの両端を尽すに足るであろう。

付録六

 『勧茶論』 松山吟松庵

大正十五年九月十七日

雨降り冷気あり。早朝湯に入る。村瀬より香盆香合の書付頼みに来る。勧茶論を草して見たしと思うて筆を執れども、隣家石松にて又しても低級陳腐極まる蓄音機をやり出したので如何とも出来ぬ。癪に障ること夥しきも如何ともする能はず。忘れぬ先に梗概だけ書付け置く
一 抹茶が茶人社会と云う小範囲に躅踏して広く一般世間に用ひられぬか遺憾である
一 此の原因を考ふるに茶といへば、直ちに茶技茶礼と云ふ極めて煩鎖らしく陳套らしき面倒なる方則の伴うことを連想して辟易するのである。又同時に喫茶と云ふことは貴族か隙人か老人の道楽の様に思うて新三屋は直ちに之に侮蔑の意味を付けんとするからであろう。
一 余の勧めるのは茶技茶道を習へと云ふのではない。単に其の物を喫せよと言うに過きぬ
一 何の為に喫せよと云ふかならば、茶の妙味を解すると同時に之を利用して貰いたいのである。
一 如何に利用できるかといはば爰に初めて茶の効用を知るの要がある。

 全体茶は如何にして世用となったか其聊をいえば、本支那の禅僧が警醒脱眠の効を知って之を座禅に用ひたのが起因である。それから禅僧と境界の近似したる詩文人の間に伝はり、終に次第に製法が発達して一種の飲料となり、陸羽盧仝などの茶博士が出て之を玩弄する風雅な方則を立てたのは人の知る処である。日本には嵯峨帝の弘仁年中に渡来して、その後は朝廷の法事の時に用ひらるる例となったのだが、其の頃の茶は果して今日の抹茶であったか。又今日の様に点てて飲んだかは分らぬが、抹茶として用ひたのは栄西の将来か或は其初ではなかろうかと思う。栄西が宋に渡って彼の地で茶の効益を知ったから、態々帰朝のとき持帰って先実朝に献し更に之を民間に弘宣流布せしめやうとしたのである。即ち之を喫すれば精神を爽快にし労を慰し睡を拂って、よく業を成すに堪へる処を認めたからであるが、当時世人は余り之を好まないので行われぬ。そこで栄西は喫茶養生記を著してまで之を奨励しようとしたのである。是から茶は武家の間に拡まることとなった。何故武家に拡まったかと云ふに、鎌倉初期の如き戦国時代にあっては夜中を警戒するの必要が多うて、睡を醒しはっきりした顔で夜中を戒めることが茶によって出来たからである。其証拠は楠の千早籠城中に百服茶を興行したことが太平記に見えているではないか。爾後は武家社会のみならず、片田舎の百姓までが盛に茶湯を立てて娯楽に供したのである。
 それが連歌などの同じく賭物をして興じたので、尊氏のとき禁制が出た位ひに盛んに流行したのである。足利義政のとき珠光によって初めて今日の茶会の法則が制定せられ、織豊時代を通し徳川三百年の世を過ぎ、今日に至って尚上流階級に盛んに行われて居るのであるが、そもそも茶道の元祖たる珠光が茶を嗜むに至ったのは、醫師から脱眠剤として教へられたのがそもそもの原因であった。それから秀吉は信長の裨将ひしょうとして處々に転戦して居た時代から、常に陣中に於て茶会を行うた。是はやはり夜襲を防守するの方便として用ひたことは明らかである。単に娯楽ではなかったのである。小早川隆景なども秀吉に啓発せられて茶会を陣中に利用して居ることは、博多の神屋宗堪日記に詳である。
 要するに、茶は夜業を必とする社界に利用せられて居ることを見ねばならぬ。禅僧、詩人、武家時に戦士夜長に苦しむ老人、夜と専らとする富商、是等である。
 さてこれで茶の起原が略説申したと思ふが、茶を喫する必用の有る人は単に夜業に従う人ばかりではない。苟くも攸々とて業に従ふ人、学者、文士、官吏、商人、芸人、職工等、日夜盛んに活動する人に必用がある。何等業の無い悠々自適者には殆んど茶を喫する必要はないのである。若い人たちに必要が有って、年寄りには其要を認めないのである。趣味として飲むのは格別だが。
 僅い茶人でも何でもない唯茶好といはば言い得る。毎日三度位は喫するを常として居る。雨降りの鬱陶しき折や、夏の日盛や、朝早く起きた時などは読書作文などしていると、つひトロトロとなって昼寝をしたくなる。近頃は世の中が贅沢になって毎日必ず午睡をするが好いとて盛んに昼寝を奨励し孔子に叱られた宰予も大に渡世の知己を得て喜んで居る次第だが、我に昼寝どころか夜眠るひまも惜しい位な場合が少なくない。徹夜で業を執らねばならぬときがある中に、午睡論者の高説を受入れる丈の余裕がない。その様な時に助けてくれるのが即ち此の茶である。少しく濃くして二服斗りやると頭ははっきりと洗った様になり、身体が焼を入れたように凛として蘇生して来る。時としてはその効果が過ぎて業を卒え眠らんとするも眠られぬ事があって困る事すらある。夜業に従う職工、文士、学人、芸妓、僧侶諸君は恐らく喫茶によって非常の効果を挙げ得らるる事を私は信じて疑わぬ

一 処で成程茶の効は分かったがどうも苦くて飲めぬ。うまければ飲むという人が多い。最初は好々であるが果たして茶はうまからぬものか。どうも苦いとうまいは別問題である。
 甘くてまづいも有れば辛くて甘いもある。茶が鎌倉時代のそもそもから七百年の今日迄世に用ひられて居るのは、単に除眠剤として薬用としての効能によってではない。うまいからであることは言ふに及ばぬ。唯うまくないと云ふ人は飲まず嫌に過ぎないのである、どうしても飲めぬと云ふ例外者も稀には有るだろうが、此微妙なる茶の味や芳香の美を解することは、さまで六かしい練習を要せない。唯若い人たちは所謂茶人の飲物老人の飲物と云ふ考え方からして御免を蒙ろうとするのであろう。然るに吾輩が勧誘するのは青年、壮年の人達にであって老人には必要を認めぬと先にも言ったのである。
 我にはかつて臭かったバターやチーズが今では好物の一つになり、気の抜けた番茶の出殻に香を付けた様な紅茶が淡白でうまく味はれる様になったではないか、何でも文明国の食物だと思へば是に思はれて遂に嗜好が生じてくるのは事実である。全躰人情は奇妙なもので隣の糂粏という諺の如く我内の物より他人の内の物がうまい。人の嚊見て我か嚊見れば、深山の奥のコケ猿がつんつくばうたに、さも似たと云ふ古い小唄にある様に、とかく他人が美しく見える。我家業より人の家業がよさ相に思ふ。更に日本の文明よりも西洋の文明が立派に見える。今利九谷の徳利よりもガラスのフラソコが珍重され、高蒔絵の手箱よりもブリキ細工に油絵をかいた筥が貴重視された時代もある。若し此抹茶が今外国から輸出せられたなら、定めて現代の新人達は顔をしかめ唇を叩いて呑み習うた事であろう。而して之を苦しとして呑得ぬものは、時代おくれとして嗤笑を蒙むるに至っただろふと思われる。

一 私がかく茶を勧めるのは自発の体験上趣味と実用との上から多大の効果を認めたからである。敢て全国茶業組合の廻者でもなければ、又商売の茶道具を発行させやうと云ふ陰険な商略からでもない。併しながら茶を喫む習慣がついてくれば自ら茶器に趣味を感じて来るのは免れない結果である。酒呑みがチョコや徳利に趣味を感じ、煙草好きがキセル莨入に物好をこらし、食道楽が食器に贅を尽すやうになるのは当然の事といはねばならず、茶も亦同じ道理である。茶が渡った当時先第一番に葉茶と抹茶を保存する容器に苦心をした。即ち葉茶壷と茶入とである。日本在来の素焼では持が悪い。舶来品の唐物では需要を充すほど豊富ではない。そこで藤四郎が入宋して支那の陶器を学んで帰り、多くの壷や茶入れを焼出した。是が瀬戸窯の起りである。
 次は茶を點てる茶盌である。是もいろいろに工夫して瀬戸にても焼き、宋国製の建盞天目をも輸入した織田氏以前は此建盞天目を主として用ひた。備前志野高麗物等もかつかつ用ひられたが、小遠州に及んで所謂七窯物を初めとして非常に種類も豊富になって、窯業の繁盛を見るに至った。
 さて茶碗茶入れの次に必要なるは茶杓・茶筅・茶巾である。茶杓は木竹・象牙・鼈甲・金属・漆塗物等様々考案され、寸法の長短からかい先の広狭ため形迠色々様々であって、古くは茶入れの口の広さに応じ、一箇の茶入れには一箇の特殊の茶杓を削り用ひたれど、今は凡そ一定普遍のものになって何れの茶入れにも通用せしめることになっている。
茶筅と茶巾にも流儀流儀によって相違はあるが、先以て大同小異である。
同時に茶の湯の釜也。是も古くは鉄銅両種が有って南北朝頃に寺院の塔の九輪を以て釜に製することが流行し、近畿地方の寺院の塔は心無き武士に依って其の九輪の破壊され尽くしたと云ふことが太平記にも見えて居るから釜に物数寄をすることも東山以前既に盛んだった事が分かる。
 利休に某が茶の湯道具を依頼したら、利休は新しき茶巾をとのべて送ったので、其人大いに不審して尋ねたら、茶の湯道具は何にても有合わせのもので沢山だ。唯茶巾の古物はむさく本意に叶わず。新しき茶巾是第一の道具ぞと示したと云ふ話が有る。
 そこで私が今喫茶を諸君にお勧めするのも全く道楽を勧めるのではないから、何でも茶の立つ茶碗と茶入にブリキの缶でも沢山。茶杓も新物の竹で結構。茶筅茶巾皆普通の物で足りる。是を座右に備え置いてトロトロと来た時、からだのうんざりした時、試しに自服一境を喫して見玉へ。実に驚くべき効果を認められるのは瞬くひまである。(以下略之)

松山吟松庵 略年譜

一八七〇年(明治三)一月十二日石川県金沢市の骨董商家に生まれる
一八八三年(明治十六)十三歳 金沢専門学校(高等学校前身)入学、数学を嫌い退学し京都の同志社に転学する。
一八九〇年(明治二十三)二十歳 父・喜太郎が母と弟を連れ東京神田に移住。米太郎は同志社の社主・新島譲の逝去を受けて退学し東京の松山家に移る。
一八九一年(明治二十四)二一歳 東京帝国大学文科大学国史科専科入学。洋画家・中丸金峰氏から近松門左衛門直筆の文書「妹背海苔の消息」を譲り受ける。
一八九四年(明治二十七)二四歳 東京帝国大学文科大学国史科卒業。
一八九五年(明治二十八)二五歳 父・喜太郎が井上馨の委嘱により江戸の豪商鹿島家の所蔵物調査にあたり、これの補佐をした。調査中に近松門左衛門の辞世の句が記された肖像画軸を発見し、後日鹿島家から贈られる。広島中学校に赴任。
一八九六年(明治二十九)二六歳 三輪下枝と結婚する。
一八九七年(明治三十)二七歳 京都第一中学校校長を務めていた旧友・山本良吉の勧誘により同校に赴任。長女・英子出生。
一八九八年(明治三十一)二八歳 このころ浄瑠璃三味線方の野澤五助について義太夫を習う。
一八九九年(明治三十二)二九歳 長男・亥三雄出生。
一九〇一年(明治三十四)三一歳 一月六日、母・艶子が逝去(享年六十一歳)。京都より帰京、巣鴨眞宗中学校の教諭となる。谷崎潤一郎が東京府立第一中学校に入学する。
一九〇二年(明治三十五)三二歳 芳賀矢一・得能文の勧誘により東京府立第一中学校(現・日比谷高校)教諭となる。
一九〇四年(明治三十七)三五歳 八月二八日、実弟・豊次郎が逝去(享年二十六歳)。
一九〇六年(明治三十九)三七歳 夏、教職を勤める東京府立第一中学校が、保田の松音旅館を宿舎として、約一ヶ月間、第一回目の「夏季水泳行事」を行う。早稲田尋常中学校が妙本寺に来泊し鱚ヶ浦で水泳合宿を行う。
一九〇七年(明治四十)三八歳 東京府立第一中学校が、前年と同様に第二回目の「夏季水泳行事」を行う。
一九一〇年(明治四十三)四十歳 東京の豪商・仙波太郎兵衛所蔵の近松門左衛門が使用していた折畳式机を得る。
一九一三年(大正二)四三歳 八月高千穂学校(校長・川田鉄弥)が鱚ヶ浦に水泳部寄宿舎を構える。
一九一四年(大正三)四四歳 大倉高等商業学校の教授となる。この頃には房州保田吉浜海岸の「日蔭の茶屋」を気に入り、毎夏保田に避暑来ている。福岡の炭鉱経営者・玄洋社主要社員の結城虎五郎が大六海岸に別荘を構える。
一九一四年(大正四)四五歳 十二月二十九日、父・喜太郎が逝去(享年七十七歳)。追悼の意を込めた和歌を百首詠む。
一九一七年(大正六)四七歳 鉄道保田駅が開業。英文学者・紀太藤一が保田に総檜造の家を構え移住。
一九一八年(大正七)四八歳 茶道遠州流小堀家の末裔の存在を知り、交流。同家の顧問となる。
一九一九年(大正八)四九歳 満五十歳となり、大倉湖東商業学校の教授を退職する。
一九二〇年(大正九)五十歳 房州保田吉浜海岸の日蔭の茶屋の隣地に土地を取得する。
一九二二年(大正十一)五二歳 陸舟庵を建設する。東洋大学教授の英文学者・宮森麻太郎が英文の「英訳近松傑作集」を出版するにあたり、本文を簡略化した下書きを作成し手助けする。物理学者・歌人の石原純と女流歌人・原阿佐緒が保田小学校裏に洋館「紫花山房」を構え移住する。
一九二三年(大正十二)五三歳 九月一日、関東大震災発生時は保田に居たため無事。東京三田の家族や虎ノ門三輪家の無事を案じ震災直後に東京に行く。以降は東京で新物商を営んだのち、娘婿・三輪六郎とともに骨董店を商う。英語教育者・長岡拡が鱚ヶ浦に土地を取得。早稲田大学教授・設計士の内藤多仲が鱚ヶ浦に土地を取得。
一九二七年(昭和二)五七歳 長岡拡が保田の鱚ヶ浦に別荘を構える。孫・三輪誠也出生。
一九二九年(昭和四)五九歳 横井夜雨を介し益田鈍翁が小田原より保田大帷子の醍醐家の家屋を見に来る。米太郎が一行を案内する。東京府立第五中学校が鱚ヶ浦に海浜寮を建設。
一九三〇年(昭和五)六十歳 保田大六の味噌屋・川崎家より古屋を求め、自邸内に移築し「残月庵」とする。遠州会のための非買本「遠州公小伝」を著す。東京品川の益田鈍翁自邸・碧雲台で開かれた茶会に二度訪れる。(十月二十三日、戸田露朝追悼茶会。十二月九日、太郎庵茶会)。孫・俊太郎出生。保田の海水浴場盛大となる。八月一日の避暑客滞在数は五二二六人。(昭和三年の保田町の人口は五六三八人)。漢文学者で第五高等学校校長・村上龍英が鱚ヶ浦に別荘を構える。
一九三二年(昭和七)六二歳 一月六日、小田原の観濤荘に益田鈍翁を訪ねる。陸舟庵から残月庵に移居する。四月七日、観濤荘茶事に招かれる。教育官僚・乗杉嘉寿が保田の大六に土地を取得し別荘を構える。
一九三三年(昭和八)六三歳 『註解 茶道四祖伝書』を著す。益田鈍翁の茶事に二度の出席する(九月十七日・十二月三十日)。生物学者・小泉丹が鱚ヶ浦に土地を取得。
一九三四年(昭和九)六四歳 『三冊名物集』を著す。日記『思川』十一月二十七日に「保田移住第一日目」と記す。十二月二十一日、道具商の廃業を届け、三輪六郎が骨董商店として「吟松庵」を引継ぐ。三田無線研究所創業者・茨木悟が鱚ヶ浦に土地を取得し別荘吾心庵を構える。小泉丹別荘「滴水居」完成。八月一日保田町内の避暑客滞在数は六九四六人。
一九三五年(昭和十)六五歳 八月七日、益田鈍翁の観濤荘の客となる。
一九三六年(昭和十一)六六歳 六月七日、観濤荘の茶事に出席する。その際に「津田宗及自他茶会記」に記された注目すべき茶会の部分を摘記し携帯し、益田鈍翁に呈す。
一九三七年(昭和十二)六七歳 春、川喜田半泥子が残月庵に来訪する。八月、『評註 津田宗及日記』刊行。益田鈍翁の茶事に二度招かれる(四月五日・十月二十二日)。秋、川喜田半泥子より自作茶碗贈られる。
一九三八年(昭和十三)六八歳 三月、『臺子と珠光』を著す。十一月十九日、谷崎潤一郎が保田の米太郎邸を訪ねる。十二月二十八日、益田鈍翁が逝去する。
一九三九年(昭和十四)六九歳 春、益田鈍翁追悼誌『大茶人益田鈍翁』のために「温情の人」を寄稿する。九月三十日、胃を患い病床に就く。十一月十二日、川喜田半泥子より自作茶碗「磯鰈(いそがれい)」贈られる。
一九四〇年(昭和十五)七十歳 四月、茶道月刊誌『武者の小路』の千利休特集号のために「利休と宗及」を寄稿する。五月十日、妻・下枝とともに津市千歳山の山荘に川喜田半泥子を訪ねる。
一九四一年(昭和十六)七一歳 三月、茶道月刊誌『武者の小路』の津田宗及特集号のために「宗及と住吉屋宗無」を寄稿する。十月、胃を患う。息子亥三雄が営む東京の松山病院でレントゲン検診を受ける。十二月八日真珠湾攻撃
一九四二年(昭和十七)七二歳 一月、胃病のために就床となる。三月十八日、房州保田より東京松山本宅に行き、診療を受け病気平穏となる。十二月二日午後二時半ごろ胃腸出血により逝去、東京青山墓地に埋葬される。

さいごに

 今から三年くらい前、妙本寺の住職から「先祖のことを調べている三輪さんという人から問い合わせがあった」と聞いた。かつて妙本寺のすぐ近くに住んでいた松山吟松庵のことを知りたいという。
 これより一年前、私は生物学者小泉丹の『保田日記』に地域史の観点から解説を付した本を書いていた。執筆にあたっては、近隣のご老台に話を聞いてまわるなどして、日記の登場人物について調べた。保田日記に頻繁に登場する松山吟松庵という謎の老人・松山は、日記を読み始めたころから興味が惹かれる存在だった。私は拙著を妙本寺の文庫に寄贈していたため、妙本寺に問合せをした三輪道代さんに同書が渡ることになった。私は、同書を作った後も地元に松山吟松庵について詳しそうな人を探していたのだが、なかなか見つからなかった。このような状況だった私にとって、三輪道代さんからの妙本寺への問い合わせは、思いもよらない奇跡に思われた。その後、道代さんと会談することになった。
 道代さんは先祖の事が記された拙著を喜ばれ、初対面にも関わらず吟松庵のいわれや三輪家との関わりを話してくださった。妙本寺への問い合わせは、手記「保田行」のなかに同寺の名が記されていたことから、何か手掛かりがないかと問い合わせをしたのだという。茶道を嗜む道代さんは、茶道の方面からも先祖・吟松庵について深く知りたいと話してくれた。さらに親類が自宅で吟松庵と孫の松山俊太郎の遺物を記念し保存するための私設文庫「松山文庫」を構えていると聞き、興味を持った。
 初めて神奈川県秦野市の松山文庫を訪れたのは、令和元年のことだった。主人の三輪薫さんは、たいへん親切に、吟松庵と俊太郎にまつわる品々を説明しながら見せてくれた。広く一般に公開するわけではないが、縁ある人に先祖のことを伝えられたらという。和室を改装した文庫は趣のあるブックラウンジのような素敵な空間となっており、大変気に入ってしまった。本書で取り上げた吟松庵の日記『思川』をはじめとしたその他の資料を見たのもこの日が初めてであった。
 吟松庵のことは、国立国会図書館に蔵されている、茶道雑誌『武者の小路・松山吟松庵翁追悼号』(昭和十八年)を読んでいたので、ある程度は知っていたつもりであったが、松山文庫にあるのはまさに同書の一次資料であった。落款印、眼鏡、財布、名刺、書道具、香道具、家族に宛てた手紙、すべて吟松庵の人生を物語る実物である。私は一つ一つを手にしながら、ようやく、松山吟松庵の素顔を見たような気がした。長らく吟松庵の人物像に興味を持っていた私にとって、この日の体験は無上の喜びであった。保田を愛した吟松庵の存在を語りつぐ為の本を作ろうと決めたのもこの時だった。
 以来私は、吟松庵の事について改めて調べ、少しずつ本書の執筆を行ってきた。途中台風災害やコロナ禍に見舞われ、旅館勤務という事も相まって多忙となり、なかなか筆が進まないこともあったが、漸く書き上げることが出来た。執筆中、令和二年には松山文庫に三度伺った。このうちの一度は小泉丹の孫夫婦にあたる横井・渡部両御夫妻と共に伺った。保田で親交を持った小泉と松山のご子孫同士の対面となり、話に花が咲いたことは、古き良き「あのころの保田」が蘇ったようで、またそれが今でも確かに続いていることを実感した貴重な機会であった。奇しくもこの年は吟松庵の生誕から一五〇年であった事は縁を感じるところである。
 私は保田文庫と名して、あくまで興味本位で地元近隣の歴史を素人ながら調べてみようと歩んできた。その途上で、近所に生きた素晴らしい人々の存在や、思いがけない発見が多くあった。中でも吟松庵に関しては、自筆の日記や多くの遺物に直接触れる機会を得たことで、その人物像を深く感じ取ることが出来たと思う。吟松庵は、私にとっていまや尊敬すべき地域の偉人である。このような人が、私の家からわずか数百メートルのところに暮らしていたことを誇りに思う。
 私は茶道をやる者ではないが、吟松庵の随筆「勧茶論」を読んで、朝の寝起きと本書の制作作業をする前には、日常的に抹茶を点てて飲んでみた。すると、記述にあるように飲んだ後ほどなくして目が冴えてくるのが体感でき、作業がはかどった。これまではコーヒーだったが、抹茶はそれよりも身体に馴染んでいるような気がしなくもない。茶碗は、知人の陶芸家のもので、数年前に気に入って買っていた物を棚の奥から出して使い、茶杓はショッピングセンターのお茶屋で安い新品を買った。茶筅は竹だと洗った後の手入れが面倒そうなので樹脂製のものにした。泡立ちがあまり良くないと書いてあったが別に飲めればよいと思う。収まりがよいので、これらの道具は、昔漁師が使った古い木製の道具箱に入れることにした。これはこれで趣があるかもしれない。

 茶道の歴史に大きな功績を残した松山吟松庵が、終生保田吉浜の環境を愛したことは、鋸南町保田の地域文化史を語る上で見過ごすことは出来ない事実である。これまで戦前に保田に移り住んだ文化人としては、物理学者・石原純がよく知られるところだが、松山吟松庵もまた石原純と同様に知られて然るべきという事を強調したい。加えて、松山吟松庵についてを詳しく記した本はこれまで地元では無く、鋸南町史にも触れられていない。私は本書をもって松山吟松庵という人がいたことを、この地域に語り継ぎたいと思うのである。
 松山吟松庵が書き残した日記『思川』は、その内容の膨大さゆえ、すべてを読むまでにかなりの時間を要する。本書では、数か所を抜粋したが、まだまだ、貴重な事柄が含まれているはずである。今後は数年をかけて『思川』の解読を進めていく所存である。

本書の製作にあたって、松山吟松庵を知るための原初の機会をくださったのは、
三輪道代 様

松山文庫の主人であり、資料において本書の制作に全面的な後援をくださったのは、
三輪薫 様
三輪和雄 様

別荘・吾心庵と茨木家と松山吟松庵にまつわる様々な事柄をお話しくださり、また貴重資料を提供くださったのは、
故・茨木二郎 様(三田無線研究所社長)

茨木二郎氏没後にその他の資料を提供くださったのは令夫人である
茨木千鶴子 様

地域史調査の発端である『保田日記』を提供くださった
横井洋太 様
横井朝子 様

渡部汪 様
渡部三沙 様

松山吟松庵についての、文献資料を多数提供くださったのは、避暑地としての安房総域における文人の記述を調査されている
小宮壽夫 様

松山吟松庵旧蔵の器を資料としてお見せ下さったのは、筆者が中学生の頃より英語塾の先生として教えを受けた
金木恭 様

本書の制作にあたりご協力を下さった皆様に心より感謝を申し上げる。

主要参考文献

鋸南町史編さん委員会(1988)『鋸南町史 通史編(改訂版)』.
石川県(1931)『石川県史 第4編』.
武者の小路社(1943)『茶道月刊紙 武者の小路 第八年第四・五号合巻 松山吟松庵翁追悼号』.
前田宣明(2017) 保田文庫『注訳 保田日記』.
末宗廣(1981) 思文閣出版『茶書の研究・茶人の研究』
鈴木伸樹編(1939)學藝書院『大茶人益田鈍翁』.
長岡輝子(1984)草思社『父からの贈りもの』「房州・鱚ヶ浦の青春」.
牧孝治(1983) 北国出版社『加賀の茶道』.
千早耿一郎(1992) 日本経済新聞社『おれはろくろのまわるまま 評伝・川喜田半泥子』.
臼井 史朗(1993) 淡交社『昭和の茶道 忘れ得ぬ人』.
早稲田大学演劇博物館(1988) 『演劇博物館資料ものがたり』.
岡山 理香(2016)『小田原における旧横井夜雨別邸・茶室「廂庵」の調査研究』.
金沢文化協会・日置謙 編(1942)『加能郷土辞彙』.
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123720

大石 学(2011)『「大鋸コレクション松岡家文書補遺」目録および解題』
https://core.ac.uk/download/pdf/15922713.pdf

小山 卓也(1984)『クラウン・リーダーと長岡擴』.
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jeigakushi1969/1985/17/1985_17_91/_pdf/-char/ja

朝日新聞社(1922)『近松遺品及参考品展覧会出品目録 巣林子二百年祭記念』.
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941722



保田文庫では、避寒・避暑の保養地、別荘地として親しまれた
保田地域の歴史を調べ、掘り起こす取り組みを行っています。
お問い合わせは保田文庫ホームページよりメールをお送りください。

松山吟松庵という人

2021年3月20日 発行 初版

著  者:前田宣明
発  行:保田文庫

無断転載を禁じます

bb_B_00163302
bcck: http://bccks.jp/bcck/00163302/info
user: http://bccks.jp/user/141287
format:#002t

Powered by BCCKS

株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp

jacket