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具体的な風
一
子どもたちの帰った教室は、水の空いた花瓶に似て、暗い空洞に殺風景な植物が一本突き刺さっているように思えた。植物は、色の褪せた緋色の葩をもてあまし、水と縁が切れたため影をその随所に残したまま渇いている。机の下や教室の隅、本と本との隙間、掃除用具入れの中、棚の奥。そんなところに影はひっそりと息をひそめ、水が再び汲まれてくるのを待つ。
一年担任の青野は、教室に残り子どもたちが塗ってくれたヨットの絵を一枚ずつ見ながら花マルをつけていた。それは、算数の教材に彼自身が用意したもので、画用紙大の紙に大きな四角い枠が書いてあり、中は、直線で違った形に細かく区切られ、一つ一つ計算問題が書き込んである。合わせて四十問あり、すべてこれまで練習してきた答えが三桁にならない二位の数のものばかりだ。計算して答えを出した後、ある特定の数字に限ってその線の内側を決まった色で塗りつぶしていく。十五のときは赤、二十五のときは青、三十五になると黄、四十五は緑である。そうすれば完成したとき、青い波間に黄色と緑の帆をかけた赤い船体のいささか派手なヨットが一艚浮かぶことになっている。計算とは別の、簡単な作業を組み合わせた低学年ではよく用いられる方法である。
答え合わせをしていくとき、青野は、自分用につくっておいた模造紙に大きく書き写したプリントと同じものを黒板に貼り出し、色チョークを使ってそれに直かに塗っていった。問題を四十問にしたのは、クラスの人数に合わせ全員に答えてもらおうと考えたからで、結局は時間が足りず、半分は皆で答を言っていくことになってしまった。塗りかけのヨットを手にするたびに、青野は自分自身に苦笑する。だが、その顔に後悔の色はなかった。時間配分などへの反省すべき点はいくつかあったが、それらが気にかけるほど重大なこととは思われなかったからだ。今日の算数の授業には何よりも彼が狙いとしていた子どもたちの全身から湧き起こってくる強い熱気があった。それだけで充分だった。やれなかった分はまた明日やればいい。青野は、そう考えていた。
掲示物が風に煽られるようにカサコソ音を立てていた。まだ、作品が数枚壁に留められたまま残っている。こちらの方も早いとこ剥がしておかなければならない。
マルつけを終え、両手でプリントを束ねる青野の頭の中には、既に次の仕事のことが入ってきていた。早速立ち上がりそれに取りかかる前に、彼は何かを訊きつけたようにおもむろに首を傾け、真っ直ぐに窓の外へ視線をやる。グラウンドでは、ぼちぼち放課後の部活動が始められようとしていた。ライン引きを持って準備する上学年の子がいる。円になり体操をやっているグループもある。ポールに常時つけてある国旗と市旗が強く音を立てはためいている。風がかなり強くなってきているようだ。日も西に傾き、少し冷たくなってきている頃だ。青野は、開け放たれた窓の列を見た。いつもは帰りの挨拶の前に窓側の子に閉めさせるのだが、今日は、それをしなかった。子どもたちも彼も戸締まりのことをすっかりわすれていたのだった。
作品を剥ぐ作業と一緒に、もう一度自分の目にしるしてから、担当する部を見にいこうと思っていた。作品を持って帰るにしても、今ここで評価だけはきっちりやっておきたかったのだ。部活の方は、彼が遅れて来ない分、六年生がしっかりやってくれている。
棚の上に乗り、青野は作品に手をかけた。
さっきからカサコソ擦れた音を鳴らしていたのは初めプールか、つい一週間前遠足で行ったばかりの公園の景色のように思われていたが、近づいてよく見ると、実は画用紙からはみ出すように描き込まれた人の顔の絵だった。バックに使ってある薄い空色と光の反射の加減で全然別なふうに見えていた。
顔立ちは大きく、丸い楕円の形をしていて誰とはわからないが、笑っていることだけはその口や目もとの様子から伝わってくる。
腰から下は急に小さくなり、それでも全身は画用紙の中になんとかおさまっている。足もとにはいくつもの花の絵が描かれ、花壇の中に立っているようだ。思い出の絵というよりも想像画に近い。とにかく、たくさんの花に囲まれた自分を描きたかったのか、花の種類も一本一本色を変えたり、形を変えたりしてどこか違っている。
テーマを一つに絞らず広い範囲で描かせると、こういった絵が出来上がるのが低学年ではかなり多い。まるで咲き乱れた草花や決まった場面の中にいる自分しか今までに見たことがないように、同じ情景や人物を飽きずに何度も繰返し描くのだ。
花壇の中の子は、女の子のようだ。スカートを穿いている。
だが、容姿や着ている物だけではなかなかその名前まで判断はつかない。ほくろのようなものが右の眉のところについている。青野は、そのほくろでその子が誰なのかようやく見当がついた。はっとする特徴を子どもたちは自分でよく知っていることがある。
すべての作品を剥ぎ、窓閉めした後、必要な道具を持って青野は教室を出た。人気の失くなった廊下は、教室よりはるかに肌寒く冷たい空気を擁している。北側にあるため、かえってそう強く感じられるのだ。少し力を込め後ろ手に閉め切った戸の音が壁を斜めに走り、乾いた空間に長く冴えた余韻を残す。右へ行くとすぐ突き当たりには階段があり、頂度その曲がり角の隅に置いてある給食の準備をする方形のテーブルが視界に入ってきた。
キャスターの付いた鉄のチューブに翡翠色をした合板が取り付けてあって、使ったり直したりするときは抽き出しの要領で二台になったり、嵌め込めばまた一台の大きさになるようにつくってある。それを教室へ牽いてきたり、給食が済んで食罐などが持って行かれた後、汚れを布巾で拭き取り、もとあった場所へ仕舞うのは日直の役目だ。今日も女の子二人が引き戸の敷居のレールに苦労しながらも、ガタゴト音をいわせて移動させていた。青野は、そんな場面を一瞬記憶から甦らせつつ階段へと足を向けた。
頂度、青野が階段を下り、荷物を置くため職員室へ向かおうと渡り廊下に差しかかったそのときだった。
「青野先生」
若い女の声がいきなり耳に飛び込んできた。
青野と同じく一年担任でバドミントン部を担当している吉塚君江の声だ。青野はバスケット部を担当していた。君江は今年、短大を卒業し採用されたばかりで、形の整った丸顔にまだ学生っぽさのぬけきらないういういしさを残しており、おまけにこれから呼びに行こうと思っていた当人が突然タイミングよく眼前に現れたため戸惑いを隠しきれないふうだった。しかし、その慌てぶりが只事でないことはすぐに青野にも察せられた。
「どうしたんですか」
咄嗟に青野も訊き返していた。彼の脳裏には、一瞬ケガのことが走っていたからだ。
「木村君たちが、またもめてるんです」
青野は、それを訊いてまず事故でなかったことに安堵した。そして心配する君江には悪いと思いながらも、急いでそのことを知らせにきてくれた相手に頬笑ましささえ覚え、「どうも御迷惑ばかりかけて」と軽く笑顔で言葉をかけ、すんでのところでその先で気を和ませようと用意していた「あの子たちも、もう自分たちで解決できるでしょう」と言った類の言葉を思いとどまった。相手はこれまでに見たことがないほど真剣な表情をしていたからだ。大きな二重の瞼と瞳にはいつもの天真爛漫さはなく、自分がこうやって何度も同じ役をさせられることに軽い怒気さえ持っているように感じられるほどだった。
「わかりました。すぐいきます」
青野は気を引き締め直すと、自分が六つ年上であることを相手に充分意識させる落ち着いた声で返事し、歩を少しばかり速めた。君江の小柄な肩もその後につづいた。
体育館へ行くと部員たちは、いつもどおりランニングを終え、パスの練習をやっていた。それは、一見するとどこの小学校でも眺められる平和な部活の風景だった。だが、その中に木村孝の姿が見当たらないことは、すぐに青野にも了解できた。彼はつかつかと部員たちのいる方へ歩みより、いくぶん強めの口調で「タカシはどうした」部員一人一人に適確にとどく声で言った。部員たちは、青野の姿を認めるとボールを投げ合うことを止め、まるであらかじめ話し合っていたかのように全員押し黙っていた。青野は、目ざとくキャプテンである松井延也を見つけ出し、もう一度訊ねた。
「延也、タカシはどこへいったんだ」
延也は、青野に問われようともおどおどしたところも見せず、小学六年にしてはかなり大柄な体を彼の方へ数歩近づけ「帰りました」と一言だけ言った。青野は、表情を変えず部員一人一人をもう一度ゆっくり見廻した。四年生から参加できるこの部活の中でタカシを除いた十一名の男子部員のほとんどが、今、青野の顔を直視できず俯き加減にして立っていた。ただ、その中で延也一人が、物怖じせず、じっと青野を澄んだ瞳で見詰めている。バドミントンのコートからは、君江の張りのあるかけ声が訊こえてきた。彼女は、少しの間ほったらかしにしていた部員たちにてきぱきと指示を与えながらも、視線を時折り流すようにして、バスケット部へ送っていた。
ボールを手に持ち向き合ったまま微動だしない子どもたちと、それに囲まれ立つ青野の姿は、これまで幾度か見てきた情景ではあったが、君江にはどこかまだ馴染めない異様な一コマに映っていた。
君江自身、部活はもっと違うものと思っていた。
彼女は、中学、高校とバドミントンをやってきた。大学では、講義と教員の採用試験の準備に追われそれどころではなかったが、高校までの六年間を通して、それなりにスポーツの良さは知っているつもりでいた。とくに忘れもしない高校三年のとき、彼女は県大会のシングルスで準決勝まで勝ち進んだことがあった。さしてずば抜けた体力や素質があったわけでない自分がそこまでの成績を上げれたのは、あのころ遅くまで人一倍の練習量をこなしてきていた努力と情熱、それになにより毎日遅くまで熱心に指導してくれた担当教師のおかげだと彼女は今も信じている。準決勝の相手にフルセットの末敗れたとき流した涙と悔しさは、忘れようにも忘れることはできないし、勝ち進んでいたときに味わった、あの何とも言えぬ爽快感は、今でも鮮やかに心に残っている。そんな素晴らしい思いを少しでも子どもたちにもわかってもらえたら。君江は、それだけの気持ちでバドミントンのコーチをすることを引き受けた。今年新採としてこの学校へ赴任してすぐのことだ。もうあれから半年が過ぎている。
『それにしても……、』と君江は再び思う。
全校合わせても、一、二年生を除き一クラスずつの八クラスしかないこの小さな学校で、同じ体育館を使用するもう一つの部活であるバスケット部を眺めてきた彼女は、そこに繰り広げられるものが、あまりに自分が考えてきたものと懸け離れていることを知り、驚かされた。
そこには、スポーツ特有のすがすがしい汗とか涙といったものはなく、それどころか反対に、それらを抜き去り勝ち負けといった目標を取り去ってしまったらきっとこんな状態になるのではないかと思えるほど渇いた、しかしその渇いた分だけ何かを求めている、そんな切ないまでの子どもたちのきりきりとした世界が広がっているように感じられたからだ。
外から覗いただけでは伸びやかでまとまりかけているとしか思えない子どもたちの中へ、青野という一人の教師がちょっとした隙間を見つけ出しては、そこから土足のまま踏み込んでいく。彼らなりに工夫を凝らし堅固な城をつくり待ち構えていたはずの子どもたちは、その結果レンガを一個ずつ奪い取られることになり、青野という不法者の攪乱と彼ら自身の脆さと弱さとによってせっかくできたばかりの城は瓦解されていく道をたどってしまうのだ。
それにもめげず子どもたちは、そうやって次の日、また次の日とより頑丈な城へと自分たちの囲いを練り上げていくのだが、青野の方は慌てずに一つずつつかみ出しては壊していくことを忘れはしない……。
これは、すべて君江の思い過ごしなのかもしれなかった。
青野は、そんなことは少しも考えず彼持ち前の垣根のない屈託のなさで子どもたちと接しているだけかもしれない。だとしても、木村孝が、たった今仲間たちと揉み合い、いなくなってしまったこと、それは君江にも充分注視するに価した。これから青野がどんな行動をとっていくのか、君江は不安ながらも、どこかに期待も込め、興味深げな眼差しで見つめていたのである。
ひととおり部員たちの顔を眺め、視線を延也に戻した青野は、少しばかりこれまでとは違うぞと言いたげに両腕を腰のところに持っていき、低い声を上げた。「全員そろうまで練習は中止だ。今日は、これで解散」
これを訊いた子どもたちの間からは、即座にいくつもの溜息が洩れた。中には、ボールを激しく床に叩きつける五年生の子もいた。青野は、気にせずつづけた。「ボールはちゃんと片付けておけよ。忘れ物がないようにな」
それだけ言い終わると、彼はくるりと子どもたちに背を向け、躊躇せず体育館を出ていった。
君江は、呆気にとられていた。
今日のように青野が強引な態度を取るのは初めてだったからだ。
練習前の木村孝と松井延也を中心としたゴタゴタや他の部員たちも含めたつかみ合いのケンカや言い争いはこれまでもあるにはあった。見兼ねた彼女が自分の体を挺し止めに入り、それでも手に終えなくなってバドミントン部員に青野を呼びに行かせ、小走りにやってくるや、皆をひとまず集めると一人一人の言い分をじっくり訊いていた。そして要所要所、丁寧に子どもたちに言葉を返していた。
君江は、そんな情景を見ながら青野の冷静な態度がむしろじれったく、どこか呑気に映らないではなかったが、膝を交え話し合う彼らが羨ましく、不思議と魅きつけられるものを感じ、反対に子どもたちを制止する際に拵えた肘の赤い痣が、指導の未熟さの象徴にさえ思えたものだ。
と言って、青野はけっして部員たちを自分の手でまとめようとはしていなかった。その証拠に、実際、そんな次の日もやはり遅れてきていたし、部員たちに指導したとしても内容はいかに上達させチームを強くするかといったことでなく、却って型通りにおさまっているのはつまらないとでも言うふうにパスカットやドリブルの順序やコンビの相手を入れ替えたり、練習試合ともなればメンバーはまるっきり普段と変え、ポジションをある程度指示し、そのことで部員たちがぶつぶつ文句を言っても一向に取り合う気配は見せず、ようやく子どもたちがそれにも慣れ熱中し始めると、今度はキャプテンの松井延也に任せ、いつのまにか姿を消してしまうといった有様だ。
毎日、時間オーバーさせながら児童に付きっきりで指導していく君江からすれば、歯痒いまでの気ままな対応ぶりと言えた。
二
延也は、青野が好きだった。少しいい加減で勝手なところもあったが、何か問題があったとき誰よりも親身になって心配してくれたし、それに大事なところは余計な口出しをせず、ちゃんと自分たち部員一人一人に任せてくれた。
『でも、今日は別だ』
延也は、吐き捨てるように心の中で呟くと力一杯唇を噛んだ。
『誰が、あんな先生の言うことなんか聞いてやるものか』
そう思っただけで頬は自然と引き攣り、悔し涙が溢れそうになってくる。すぐに仲間たちが寄ってきた。延也は、いっそここで思いきり泣きたかったがキャプテンという立場から必死に堪え、汗を拭うふりをした。
「さあ、後片付けして帰ろう」
延也が、そう言うと「ノブちゃん、先生ひどすぎるよ」義夫が、憤懣やるかたない様子で、頬を紅潮させながら隣にやってきた。
さっき、床にボールを叩き付けた子だ。
五年生だが、体格は延也と孝に次いで三番目に大きい。
いつの間に拾ったのか手にはそのときのボールを持っていて、諦めきれないようにドリブルし出すと、ゴール目がけシュートした。ボールは大きく弧を描きながらボードに当たり、そのままネットに入らずリングにぶつかって落下した。床で二度三度バウンドし、その音が体育館に虚しく響いた。
いそいでボールを取り返ってきた義夫は、「タカシ君が悪いんじゃないか。急にあんなこと言って。ノブちゃんの止めるのもちっとも聞かなくってさ」息を弾ませながら言い、真剣な顔で同意を求めてくるのだ。
延也は返事をしなかった。
だが、その怒りを知っている義夫は、畳みかけるように、「だいたい、あいつが入ってきてから、部活が全然面白くなくなったよね」
今度は、ボールを右手で軽く投げ上げている。
義夫はバスケットが好きだ。もっと練習をして上手くなりたいと思っている。たくさん試合をやり、自分が一本でも多くシュートを決めて勝ちたい。それが、今の義夫の望みだ。義夫だけでなく、バスケットをする子なら誰でも持っている希望だろう。ところが最近の青野は、特にそんな部員たちの欲求を充分満足させようとしていない。そのことを子どもたちは、薄々感づき始めている。
もうすぐ、二学期最後の秋の地区大会だというのに、自分たちのチームはまた一回戦で負けてしまうのだろうか。実を言うと義夫の胸の奥にはそれが一番大きく気にかかっている。惨めに負けるのはもう懲り懲りなのだ。これ以上、タカシ一人のために練習が出来ないなんて御免だ。けれど、義夫が一人でそう考えているだけでは道は拓けてこない。延也にもその気持ちを伝えなければ。もし、延也がその気になってさえくれたら、皆は、きっと彼の言うことを訊き、自分たちだけで練習を始めることを承諾してくれるだろう。それほどまでに、延也のキャプテンとしての信頼は厚い。だから、義夫はそうなることを今は、誰よりも待ち望んでいた。
他の子たちが既にボールを倉庫のカゴの中に入れ、体操着のままカバンやランドセルを背負い帰ろうとしたときだ。
「ねえ、ノブちゃん、僕たちだけで部活やろうよ」
義夫が、ついに洩らしたのも無理なかった。
一語一語を喉元から押出すとき心臓がバクバクし、思いなし上ずっているのがよくわかった。きっと表情も怖いくらい強張り、いつもの義夫らしい明るさは消えていたに違いない。それに引き換え延也の方は、意外なほど冷静な受けとめ方だった。彼は、義夫の一言に小さく頷くと帰りかけていた子たちに投げかけるように言った。
「片付けはとりやめて、せっかく皆集まったんだから、練習したい子は残ってやっていこう」
その頃、青野は、校門を後にして木村孝の家へ向かっていた。
学校から五百メートルほど離れた公営住宅の団地で、第一棟の三階だ。周辺には、ここ数年来拡がってきた宅地に民家がひしめき、古くなった団地を取り囲むようにしている。団地は、鉄筋の四階建てで全部で三棟並び、母子住宅と福祉住宅も含まれていた。孝の家もその中の一つだ。
青野は団地に入り、「ゴミ出し場」と書かれた立て札の横脇に立ち止まった。急ぎ足で来たためか、背中から汗が滲み、シャツとの間でちくちくしてむず痒い。視線を上げ、念のため棟の番号と部屋の位置を外から確かめてみる。孝がいるであろう部屋がベランダ越しに見えたがカーテンが閉め切られ、中の様子は全くわからない。青野は、一瞬表情を曇らせたもののすぐに平常に戻し、そのまま昇降口へ歩き、荒打ちのセメントで固められた階段を上り始めた。
大人二人がようやく擦れ違える程の幅しかないその階段は、階の中間に差しかかるたびに「く」の字型に折れ曲がり、光のとどきにくい奥まったところは昼間でも薄暗く森閑とした空気が漂っていた。息せき切る間もなく、一挙に三階まで上り着いた青野は、『木村ヨウコ、タカシ』と名前の部分だけカタカナ書きされた嵌め込み式の表札を右横の正面玄関に認め、ブザーを押した。
三度鳴らし、扉を二度ほど叩いて呼んでみたが、孝は出て来なかった。母親が、仕事先から帰るにはまだたっぷりと時間がある。彼女は、スーパーのレジ係りとしてここから少し離れたバイパス沿いのショッピング・センターにバスで通勤している。青野は、思わず渋い顔になった。
─こうなれば、持久戦だな。
彼は、階段に腰を下ろすと気長に待つことにした。
孝は、一番奥の部屋で呼び出しブザーや扉の規則的に叩かれる音を訊いていた。それが青野であることは、既に訊き覚えのあるその声でわかった。早く出たい気持ちもあったが、半面、顔をできるだけ会わせたくない、そんな拒否する感情も燻っていた。
『そもそも、自分には、皆といっしょにやっていくことなど無理なんじゃないだろうか』
孝は、家に帰ってから何度もそんなことを考えていた。
考えれば考えるほどわからなくなった。
今日も孝は、悪気があって延也にあんなまねをしたわけではない。
なぜか、皆から好かれている延也を見ていると自分にないものばかりを持っているようで悔しくてつい反抗してしまいたくなるのだ。
バスケットの実力なら自分の方が上なのにどうしてか。今日はそのことを確かめてみたかった。
フリー・スローをやってシュートの決まった数の多さでキャプテンを決め直そうと皆に持ちかけたのもそのためだ。
青野の来るのはいつも遅い。だから、それまでに決着はつけられるはずだった。
あのことがなかったら、今ごろはうまくいっていたはずなのだ。後一本でタカシは延也に勝っていた。ところが、皆は突然タカシが最後にシュートを決めた瞬間、ラインを踏み越えていたと言って騒ぎ出した。孝は、ついカッとなってしまった。自分はラインなど踏んでいない。孝は叫んだ。たまたま眼前にいた五年生の子が孝の手に触れ突き飛ばされた。
孝は、皆から一斉に責められ出した。
吉塚先生は、大声を出し揉み合うバスケットの部員たちを見て、一旦そちらの方へ来かかったが、すぐに近くの出口から職員室のある方角へ駆けていった。
延也は、皆を制しながらもう一度孝に投げて良いと言った。しかし、孝は断った。孝は充分だった。延也にも部員の皆にも勝ったという気持ちでそのときは一杯だった。あいつらが、蒼白い顔をしてあたふたしてたのが何よりも証拠だ。そう孝は思っていた。後のことはよく覚えていない。
差し出される手を振りほどき一目散に駆け出していたような気がする。とにかく、皆のいる場所から離れたかった。大粒の涙が知らぬ間に零れ落ちていた。
静まりかかっていた感情がまた暴れ出し、むしゃくしゃしながら孝は、TV・ゲームのPLAYのボタンを押した。
今日帰ってからもう三度目だった。
孝は、既にどのカセットもやり尽くしていて、横になっても何時間でも失敗せずゲームを進めることができた。その点では、ゲームの内容そのものへの興味は薄れているか、ほとんどないに等しかった。
ところが、孝の遊び方は変わっていた。
彼は、ゲームでどれだけ高い得点を上げるかより、その関心は、画面に映し出される勇ましい主人公をどう痛めつけるかという方に移っていた。わざと操作を鈍らせることで、敵の襲撃に遭遇させやっつけさせるのである。
それには、『オリオンの冒険』が最適だった。
オリオン国のリゲル星を宿敵スコーピオンの手によって侵略され追放されたオリオンが、自分の星を取り返すべく、いくつかの武器を携え単身、敵支配下の星々に打ち建てた宮殿へ乗り込むのだが、そこにはそれぞれに手強い怪物が待ち構えていて、それらを一匹ずつ退治していかなければならない。
全部勝ち進んでいくと三十の怪物が現れ、星座がすべて点滅することになっている。中でも強敵なのは、三つ星に棲む怪物ラジアンとベテルギウスを牛耳る万能ロボット、キョモラーだ。
ラジアンは火の吹く魔法の杖を持ち、その焔に触れるとたちどころにオリオンの体は火の粉に包まれ溶けて失くなってしまう。急所は一箇所しかなく、しかもそれは常に体中を移動し、青い光を発しながらその場所のあるところを示している。オリオンは、焔のとどかぬ範囲から光が次に輝くであろう箇所を予測し、彼の持つ最高の武器である光線銃によって仕留めなければならない。だが、孝は、さっきもそこまでは難なくやって来たにもかかわらず、わざと光線銃を発射しなかった。それどころか反対に、ラジアンが火の棒を持ってオリオンの方へ近づいてくるとオリオンを逃がすことなくそのまま棒立ちさせ、徐々に焔の中へと進ませて行った。そして最後には、いっぺんに燃え盛る火炎の中へ飛び込ませてやった。瞬間、オリオンの体を形づくっていた画像が飛び散り、橙や紫に染められた色とりどりの電子の火の粉が入り乱れ、その中で苦しみもがくオリオンの姿が垣間見られたような気がした。
─ざまあ見ろ!
孝は、オリオンが熱線にやられてしまうその何分の一秒かが好きだった。カセットに記憶されている消滅するその一瞬とパッと細かな粒子となって飛散する刹那の動きにぐいぐい引き寄せられるものを感じた。
ラジアンで二度オリオンを懲らしめただけでは満足しなかった孝は、今度はキョモラーのいる場所まで勝ち進ませ、そこで餌食にしてやろうと思っていた。
キョモラーは、戦うためにつくられたようなロボットで、全身至る所が強力な武器となっていた。指先や膝からも弾丸は発射されてきたし、鋼鉄の体は光線銃も歯が立たない。ただ一つ倒す方法は、まずオリオンが宮殿の真ん中に据えられている水晶の玉に触れ、彼自身も鋼鉄の楯と剣を得なければならない。それを手にすることにより、オリオンの動きは数倍速くなり、跳躍力も増しパワー・アップされる。その力を生かし宮殿の最奥へと進むと、今度はそこに置かれてあるカプセルの中へ入り、オリオン自ら鋼鉄に被われた正義のキョモラーに変身するのだ。
力が同格となってからは、互いのビームを相手より早く命中させた方が勝ちとなる。宮殿には落とし穴やデビル・ゾーンといって武器が全く使用できない空間もあり、そんなところをうまく避けたり利用したりしながら戦っていく。その地点まで来てしまえば、余程のことがないかぎり キョモラーに倒されることはない自信が孝にはあった。
孝が密かに好んでいたのは、その手前のオリオンが正義のキョモラーに変身してすぐのほんのわずか一瞬だった。
変身を遂げ、カプセルから出てくる一秒足らずが全てだった。
オリオンは、出方次第では勇ましく登場はしたものの、不意のキョモラーの総攻撃に遭い、こっぱ微塵になってしまう。
悪のキョモラーがカプセル近くを探索しにやって来たとき、鉢合わせさせる恰好でオリオンをタイミングよく飛び出させるのだ。まだ硬い鎧に慣れないオリオンは、重たい体でうろたえ成す術なく無残にやられてしまう。
孝は、そんなオリオンにしばらく目瞬きするのも忘れ見とれていた。
三
指先の柔かい腹の肉がガラスで裂け、血が床に一滴、ゆっくりと瀝った。部屋の隅に散らばったガラスの破片を素手で拾うことをその男の子は止めようとしない。男の子の頬は赤く水膨れしたように腫れ上がっていて、うっすら手形までついている。少し下がったところには、さっきその子を殴った父親が興醒めた顔をして立っている。
「そのくらいにしておけ。もう充分だ」
男の子は、父親の見せた懐柔を素直に受け入れようとしない。
彼は、電燈の灯りを照り返しながらチカチカ顫えるように光るガラスの小さな一欠けらに言い知れぬ哀感を抱き、手で掻き彙める動作を何度も繰り返す。手の平のどこかに破片が突き刺さり、ズキズキ痛む。
「後は、母さんが掃除しておくから」
見兼ねた母親の手が、無理やり彼をその現場から退けようとする。一緒に遊んでいた三つ年下のまだ幼い弟は、傍で怯えながらその情景を見ている。
罰は、すべて兄が引き受けるのだ。たとえ扉の飾り窓を割ったのが、二人がふざけてやったことだとしても。
四人家族の住むけっして広くない集合住宅の中で、ごたごたの少なくとも半分以上の責任は自分に負わされているのだと彼は、小学校まで思いつづけていた。
─その頃の俺の目は、きっと今のタカシが時折り見せる大人への侮蔑を含んだ目に似たところがあるに違いない。
青野は、闇色の薄暗いカーテンがすっぽり包み出した団地の階段に座り込み、そんなことを考えていた。
三つ違いの弟と自分への対し方の相違の理由を、彼はこうも考えていた。
要するに、自分は、父親と母親にとって蟲の好かないところばかりを持って生まれてきた人間なのだ。だから仕方のないことなのだ。
そもそも目つきは鋭く、どこか大人を馬鹿にしたようなところがあったし、負けん気も人一倍強く、強情で、後でズボンが穿けないくらい酷く太腿をぶたれても泣き声一つ上げなかった。かと言って注意されれば素直に訊き入れるといったところもなく、何事にも従順に行動しようとしない。まだ若かった両親から見ると、殴っても殴り足りない……これは実際にその当時の父親の決まり文句でもあったのだが、そんな相手を憤激させてしまう要素をしっかりと持っていた。それに引きかえ弟は、どこか要領が良かった。顔立ちも悪くなく賢そうで、何よりも両親の言うことはよく訊き、叱られたら泣き出すときを心得、取り入る術を知っていた。
青野はニガ笑いする。
屈折した自己と弟へのコンプレックス。
長男であれば誰もが多かれ少なかれ通過せねばならない儀式。
二十七になった男が回想することではない。
自分は、充分恵まれていたはずだ。両親も健在で、家もあった。なのにどうしてあれ程、あの頃の自分は毎日がつまらなく嫌悪すべきものとしか映らず、周囲の者を憎しみある目で見詰めていたのか。
いくつかの場面が、疑問符のような形となって思い浮かぶ。
あれは、小学校六年生辺りか。
日の昇りかけた朝方、青野は初めて夢精を覚えた。
こっそりと下着を替えている自分の後ろ姿を誰かに見られてはいないかと心配して以来、彼の視線はある事象を捉え始めていた。
青野にとってのヰタ・セクスアリスの幕開け。
いつか性交するであろう自分の顔。
それは、両親と弟が眠っている隙に、夢の中ではっはと自分の口元をついて洩らされた吐息の分だけ歪んで見えていたはずだ。
朝食の間、そんな日に限っていつになく快活に映る母親と、いつもどおり無口に黙りこくる父親を前に、何も知らない弟を横にはべらせた彼は、これまた彼にとって珍しいほど饒舌になり、家族の者たちを笑わせることに懸命になった。
取り立てて特別なところもない、その当時の家庭ならどこにでも見受けられたはずのありきたりな食卓が、何か彼の小さな口元を突いて出てくる一言一言で華やいだものに変わるとでも言うように、それは行われた。
やがて、青野が中学に入学した時僅かに猫の額ほど残っていた土地に木工たちはやって来て、彼の勉強部屋はつくられた。青野は、彼個人の孤独と引き換えに、父親と母親、そして弟の寝床からも敢えなく引き離されてしまった。
次の場面は、彼が中学二年のときの学校の職員室だ。
確か、三学期の初め頃だったと思う。青野は、その日学活が終わってから、担任に話があるので一緒に来るよう呼び止められた。
職員室の中央に置かれた発火式の大型ストーブの周りには何人か、見覚えある教師が立ったまま煖をとり、世間話をしていた。
彼が担任に付いて入ってくると彼らの退屈そうな視線はうろんげにそちらへ向けられ、話はしばらく中断した。
ひそひそと話す声はさっきより小さいが、ときどき押し殺したような嗤い声がする。だが、それもしばらくのことで、やがてまた二人が持ち込んだものが差し迫った問題でないことがわかると、遠慮は徐々に解かれ、ざわついた喧噪が輪となって拡がっていった。それでも興味を持ちつづけている教師はいて、遠目がちに二人の様子を窺っていた。
「昨日やってもらった意識調査のアンケートのことなんだが」
体育を担当するその教師は、椅子に腰を下ろすなり煙草に火をつけふーっと吹かし、三十になったばかりの日に焼けた精悍な顔をくゆらせ、用紙を一枚取り出した。青野は、まだ何のことなのか見当がつかなかった。
「自殺の項目のところで」
─自殺?
青野は、担任の口からその言葉を訊いたとき、一瞬自分の表情が硬く強張るのを知った。それを見て、教師は気を利かして頬笑んだ。
「クラスで君一人が自殺したいと思ったことがある方にマルをつけていたものでね」
気のせいか、「君一人」という語を強めているように思える。
周りの教師の視線が青野には邪魔になる。
彼はそのとき、自分でも気づかなかったもう一人、別の自分の声を暗い洞穴の奥から訊いたように思えた。
─自殺……。たしかに書いたかもしれないが。
しかし、青野自身、何に印をつけたのか忘れ、確信はなかった。
「僕は、そんなもの書いた憶えはありませんけど」
「ところが、お前は、こうやって現に書いてるじゃないか」
教師の口調が俄かに変わってきた。
一体、相手は何を言いたいのか。
青野はそのことの方が余程知りたく、疑問でならなかった。
アンケート調査によって自殺する可能性のあることがわかった自分の担任する生徒を早めに説得し、できるだけ自殺を防ぎたいのか。
彼は、担任の差し出す紙には目もくれず、戸口の方に顔をそむけた。
早くそこを出て、外の空気が吸いたかった。そんな態度が、相手を刺激し神経を苛立たせたのは無理もなかった。教師は、吸いかけの煙草を灰皿の上で揉み消すと、「いいか、よく聞けよ」
青野に強引に視線を向けさせるような勢いで刺すように言った。
「自殺は、逃げだからな。逃げ。人生からの逃げだよ。わかるな。お前にどんな悩みごとがあるのかは知らんが、結局は逃げなんだ。後一年もしてみろ。中学三年頃になると死にたいってやつらがうようよ出てくる。全員、受験勉強が嫌でそう言うんだが、そいつらは、あれこれ自分に都合のいい理由をつけてるだけで、要は、眼前にある受験から逃げることだけが目的なんだ。わかるか。おまえの理由が何なのか先生は敢えて聞かん。だが、そいつらと一緒になって人生の敗北者になることだけはするんじゃないぞ」
そこまで一気に話すと少しは満足したのか、さっき揉み消したばかりだというのにまた煙草を一本取り出し、火をつけた。
机を挾んで反対側に座っている隣のクラス担任のやや年配の女教師は、今言ったその教師の考えに同感なのか頻りに頷き返している。一服つけた教師は、自信たっぷりにまた喋り始めた。
「お前は、成績も悪くないし、このまま順調にいけばN高校には行ける。そうなれば楽しいもんさ。中学校での苦労が一遍に報われるんだからな。それよりも、今早まって変な考えを起こしてみろ。すべてはそれで終わりだぞ。両親も悲しむだろうし、何よりお前自身が後悔することになる。先生は、そんな生徒を自分のクラスから出したくないんだ。わかるな」
「先生の中学二年のときなんか……」
教師の言葉は遠く、青野には響かなかった。
その日、家に帰ってから、青野は初めて本気で死ぬことを考えた。
自らが求めた自分の死。それは、その当時彼に残された最初で最後の自由の選択であり、逃げ道であるように思われた。既にそのとき一個の死は、教師の吐くどんな台詞より直接的で新鮮なイメージとなって彼の脳髄を犯し始めていたのだ。生きるためには、どうしても死を獲得しなければならない。そんな漠然とした実感があった。そんな逆説のみが信じられたのである。
おそらく彼は、そのとき自分でははっきりとはわからないながらも、そうした幻想を抱くことによって現実の拘束から逃れ、自己を欺くことによって他者を信じ、自分の存在を消すことで回りにある不可思議な疑問が解決できると勝手に思い込んでいたのではなかったか。
それから数日後、青野は実行した。
家に一人でいるときを見はからい、彼は自分の部屋のカーテンのレールに布製のマフラーを結び付け、そこに首をかけたのである。教師との一件以来、彼の中には死というものが膨れ上がり、もはや抑えがたいところまできていたのだ。
首をそっとマフラーの輪の中へ入れ顎の下に置き、思いきって椅子から飛び下りた。布のマフラーは、細く括れ、たちまち直かに食い込んできた。レールは、ガタッと大きな音を立て軋んだが、何とか持ち堪えているようだった。息が出来なくなり、顔中が鬱血し、やがてさーっと血が引いたように真っ青になっていくのがわかった。意識が遠くなっていった。全身が痺れ、感覚が失せていた。「死ぬっ!」と彼は思った。その瞬間、彼は両目を瞠り、濃淡を失った前景の中、無意識の裡に脚をばたつかせもがいていた。体を甲蟲のように縮めては伸ばし、首を締めつけてくるマフラーを引きちぎろうと指先でつかみ掻き毟った。マフラーに手の甲まで捩じ入れ、少し呼吸ができると息が仰々しく荒った。アシカの哭くような声が咽喉奥からした。胸骨が波打ち、今にもばらばらに砕けそうだった。気力は萎え限界にきていた。
─もう駄目か。
頭を凄まじいスピードでその五文字が過ぎった。そのとき、二度目にレールの激しく鳴る音がし、留め金が外れ、床に振り落とされた。後頭部を椅子でしたたか殴打し横転した後、しばらく俯したまま身動きできなかった。レールと一緒に落ちてきたカーテンの下に隠れ、彼はいつまでも沈まらない息を抱え、やがて襲いかかる吐き気に噎び返った。
団地はすっかり闇に閉ざされてしまい、青野が座っている三階の踊り場は、外気をもろに受けるため急激に冷え始めた。彼は、ゆっくり立ち上がると奥に歩き、露台のように外が見渡せる手摺りに肘をのせた。
彼は、見ていた。
晴れ渡った秋空も徐々に下辺から霞だし、薄い膜を被ったように色褪せながら濃淡をあわらし、日がかげるとともに地面に影を落としていく低く軒を連ね建ち並ぶ民家とその一建一建の窓から洩れ始める電燈の灯の光の下に日々繰り返されるであろう家族の団欒や確執や零れ落ちる子女の笑い声や涙やぬくもりや冷めた瞳の放つ視線の先と、そこに浮かび上がる一人の他者をも愛すことなく、一人の他者からも愛されぬまま死んでしまった一人の存在との違いを考え、途切れがちに皿が鳴り食事をする風景や、いつの間にか皺の増えた老人とその手に引かれることが何よりも楽しみな孫や置き去りにされ懶げに泣く子犬への行き場のない自己との連関を気にし、十数年後の今、あれほど自分でさえ欺けなかった自分がやすやすと教師の道を選び、生徒の家の前で扉が開かれるのを待っている現実を不思議だと思い、星が早く出ないものかと心配もし、こうしている間にも天体は移動し、時間は刻々と過ぎていくのだというその想いに直接触れてみたいと耳を澄まし、案外それが身近にあった自分の心臓の鼓動の響きであることに気づいたあの日のことをできるだけ長く心にとどめるため、寒さに顫える我身を、寒さに顫えまいとすることで解決を得た月日を遠い国の人のように思いながら現在を生きる今の自分と、首の痣が消え失くなっていくことが新たな旅立ちであると信じていた十代の頃の自分とを照らし合わせ、その間隙の変位のいくばくかを可能な限り見とどけてしまうつもりで、彼は、そこに風を稟け立っていた。何のわだかまりのない地上と同じく何のわだかまりもなくなった彼の内部の端々をいつかはかそけく微かな音を響かせ、結びつけるため駆け巡るであろう具体的な風を。
枝分かれしていく血の流れが遠い歳月を思わせる。そのことを遼かに見やろうとするといくつもの顔が現れては消え、気にかかってしまうほどの重さで青野の忘れかけていた鳩尾を擦り抜けていく。
不思議とそこには斃れていった者の顔が多い。
病で早くに逝った者、事故で思いがけなく逝った者、逡巡する彼を横目で睨むようにあっけなく自ら命を落とした者。そんな彼らが青野に語りかける。
青野は、既に始めていた。
そろりと足を動かし自分自身を一周できるまでに、ときには吐き出したいことを吐き出せないまま、そのことに永遠に近づけていくことで二度と満足させることがないよう、瀝ってくる鉄の鎖だけを手がかりに舌先で転がし、歩いていく。
─今は、子どもたち皆が俺の顔だ。
そのことを認めたいために、たとえ早く終わらせることにしか自分を向かわせられず疲れ果てたとしても、青野は振り返らないつもりでいた。
区切りをつけてしまうことへの憧憬は、やがては自分の意識の表面から消え去っていくものだから。青野は我に返ると、玄関口へ行き、来たときと同じようにブザーを押した。
今度は名前を呼んだり、扉を叩いたりはしなかった。
二度続けて押した後、静かに待った。
鍵の外される音と一緒に扉が僅かに開き、孝の恐る恐る覗く顔が見れたのは、それから三十分程経ってからのことだった。
三
「先生、今日のおかず残していいですか」
女の子が一人、君江の机に来て尋ねた。君江は、その声を訊いてやっと現実に返ったというように、日頃から耳馴れた子どもの声なのに怪訝げにその顔を見、改めて誰なのか確かめる素振りをする。そんな彼女の気の抜けたあやふやな態度が滑稽なのか、くすくすと笑う子どもたちの声があちこちから洩れだす。
「ええ、いいわよ」
平生に戻った彼女は、簡単にそう返事した。
─しまった!
すぐにうっかり口をすべらし甘いことを言った自分に後悔するがもう遅い。相手は、拍子抜けしたようにきょとんとなっている。
「ほんとにいい?」
女の子は、いつもの君江と調子が少しばかり違うため、しつこくもう一度訊いて来た。
「いいのよ。食べきれないんだったら、無理しなくても」
こうなれば、君江も開き直るしかない。
彼女がそう言ったとたん、話の動静に訊き耳を立てていた給食に悪戦苦闘する他の子どもたちの間から、やったあ、という歓声が湧き起こり、一斉に笑みが零れた。反対に、いつものようにがんばって食べていた子どもたちの方からは不満の声が飛ぶ。
「先生、ずるい。そんなのないよ」
彼女は微笑って答える。
「人は人、自分は自分。しっかり食べた子が一番偉いんです」
相手は、不服ながら何とか納得し、ほら見たことかとさっそく残す準備に取りかかり食べることを止めてしまった隣りの子を一瞥する。
クラス全体を見渡してみると、そんな一部の賑やかさとは別に静かにいつもと変わることなく淡々と給食を口にしている子どもたちもいる。
そんな子どもたちの姿を見ながらぼんやりと青野のことを考えていた自分がどこか面映ゆく、一瞬教室全体を見廻し、どこも普段と変わらぬことを確かめ、また安堵した。
窓から校庭を覗く。
昨年の卒業生たちが植えていった樅の木が何本か、遠く道路とグランドを隔てたフェンス手前で針のような葉をしきりに弄ばれ、風に揺らめいている。
君江は妙な気持ちになる。変だ。昨日見た体育館での場面が忘れられない。青野と子どもたちが彼女の目の前でそれぞれにとった態度、あれを一体どう受け取ればいいのか。君江は戸惑いながらも青野たちの世界にずるずると引き込まれていく誘惑を感じている。徐々に熱に浮かされ朦朧としていく思いだ。しかし、あの対応だけはどうしても納得行かなかった。青野が理由も訊くかず、子どもたちを解散させてしまったことだ。教師と生徒との間にあんな無茶なことがあっていいのだろうか。だが、子どもたちは、青野がいなくなってから一旦は帰りかけたものの自分たちだけで練習を始め、却っていつもより立派なくらい熱心にやってのけたのも確かなのだ。わからない。青野の指導は、実は綿密に計算された上で成り立っている極めて精緻なものなのかも知れない。そのことが君江にはさっきから気にかかって仕方がない。
「これ、だーれかやーるーぞ」
元気のいい男の子が、今日の献立の一つである一口チーズを手に持ち、回りの者に呼びかけた。近くにいた何人かはそれを訊きつけ、さっそくチーズが欲しい者が集まり小声でジャンケンをしている。
「勝った、勝った、オレ、オレ」
はしゃぎ声は次第に大きくなり、それに煽られるようにまた別のところから名乗りを挙げる者が出てくる。
「これ、だーれかやーるーぞ」
こうなると騒ぎは後を断たない。そろそろ歯止めを打たなければ。君江はさっきよりかなり厳しい口調で注意している。
「人にやるのはなし。食べれないのなら残しなさい」
子どもたちにとって献立ての一つを皆の前に提供することは、それを食べずにすむことが嬉しいのではなく、それ以上にそれを手に入れるためジャンケンをする友達の姿が、自分が仕切り、中心になったことも含め何とも言えず愉快で楽しいのだ。そのことを君江に制せられた彼らはすぐに人にやることをしなくなる。だが、子どもたちはそれらのことをはっきり意識化しているわけでなく、頂度無意識との中間点のようなところにいて、自分自身わからないままに行動していることが少なくない。君江は、そんな子どもたちの言動をできるだけ奥深く見たいと思っている。数え年で七才になったばかりの彼らの世界を知り、もっと多くのことを学びたい。
お昼の放送が始まった。スーピーカーから放送部員が今日の献立てを発表し、ビデオの時間を告げる。
「先生、早く早く!」
教室手前の窓側の班で食べていた子が、君江に声をかけた。
君江は頷くと目で合図を送り、男の子を一人後列の班から呼び出した。その子にはテレビのスイッチを入れる係りをやってもらっていた。教室に一個だけ余分に置いてある小学生が使う中では二番目に小さい八号の椅子の上に乗って腕を伸ばしスイッチまで余裕をもってとどくことができるのが君江のクラスにも何人かいて、その子たちに自分たちで籤をつくって決めてもらった。男の子は隅から椅子を抱きかかえるように持ってくると慣れた動作でやり、いかにも満足気に自分の席へと戻っていく。つづいて君江が、光が反射しないようテレビ横の白いカーテンを引き席に着くと始まり始まりだ。
今日は、ガリバー旅行記の最終回で、ガリバーが裏切られた部下たちに馬人の国に置いていかれ、そこでヤフーやフウイヌムたちの生活に驚きながらも徐々に親しんでいった昨日に引きつづき、今回は、いよいよフウイヌムたちの会議の結果、やむなくそこを丸木舟に乗って出ていくという場面である。もちろん、子ども用につくられ放映されたテレビの人形劇から録画されたその場面には、ヤフーやガリバーと彼を助け隠まってくれた馬人の家主との会話も詳しくは出てこない。ただ、全身毛むくじゃらのヤフーの人形と肌も透きとおるように白く銀髪を綺麗に束ね、金モールの付いた赤い上着を纏ったガリバーの人形とでは、どう見ても同じ人間とは思えぬようで、ヤフーの終始発するその奇矯な叫び声だけがやけに耳に残ってしまう。
馬人が最初にガリバーに向かって叫んだ言葉、それが〝ヤフー〟であったにもかかわらず、その衣服を皮膚と思い込み理性の存在だけは否定できなかったのと同じように、ガリバーが反対にヤフーを醜悪な怪物として見て取ったこともまんざら事実に反したことではないように君江には思えてくるのだ。
子どもたちはビデオの画面を釘づけになって見ていた。
中には食べていた物もそのままに口をあんぐりと開け、手もスプーンも動かさず静止した状態の子もいる。目だけが虚ろに耀き、画面の進行を追うように固唾を呑んで見守っている。給食は一向に捗った様子はない。君江は、そんな子どもたちの視線を一点に集めるテレビのすぐ真下で、彼らの抜け殻になってしまった表情をこちらからも黙って観察しつづけていた。
ついさっきまでチーズを持って騒いだり、隣りと忙しく話し込んでいた子も無心に画面に攬りつき、その違いは全くといって見当たらない。いつも目立たず自分の調子を崩さず落ち着いて食事をしている子さえ、この時だけは他の子と同じように首をテレビの方へ傾け、一口、二口食パンを手でちぎっては丸めるようにして口の中へ詰め込み、まるで機械仕掛けの人形のようだ。そんな中で何人かが、君江のいつもと違う畏まった顔付きと教室全体を見回す態度を変に思うらしく、彼女と目が合うたびに照れ隠しのように微笑み返してきている子がいる。
確かに今日の君江は、子どもたちから見て普通でないように映るらしかった。給食時間に限らず、朝からどこかそわそわし、何かを探しているようで、それでいて子どもたちへの対応や授業の運び方はいつもより丁寧だ。そんな君江の平常と僅かにズレを持つ繕ったような心理を子どもたちは身体のどこかで嗅ぎ分け見抜いている。ただ、彼らは気持ちと体の動くがまま振舞い、君江の方もそんな日頃の様子を見、触れ、言葉にし、行動へ移しながら、また感覚へと戻し、そうやって結局はお互いに感じることから相手の存在を確かめ、この教室での一日を過ごしている。
給食の終わりのチャイムが鳴るのとほぼ同時に、君江のクラスでは後片付けを始めることにしていた。早くから食べ終わっている子は時間が近づくと待ち遠しそうにそわそわと動き出す。黒板の上にかかった時計を見ながら声を出し、秒読みする子までいる。
頭の中は次のお昼の遊び時間のことで一杯だ。
時計の針をものありげに見た後、君江は日直を呼び出した。
今日は、男の子二人が当番になっている日である。二人はいそいそとやって来て前に立ち、お互い息を合わせるかのように顔をちらりと見合ってからごちそうさまでしたを言い、クラスの子たち全員の声が後につづいた。
どたどたした足音や机や椅子がものものしく移動する中で、後片付けは始められた。一学期の間片付けの順番は細かく決められていたが、二学期になってからその規則も取り払われ、今はめいめいばらばらにやっているのだ。
君江は、自分の御盆を持つと子どもたちのつくっている列の一番後ろに並び、すかさずその前にいた男の子に振り向き様訊ねられた。
「先生、五時間目は何をするの」
君江は、その質問にどう答えてやろうかあれこれ考えながらも相手の顔から目を離さず、予定どおり算数のおさらいをすることをわりとあっさり告げてしまった。それを訊いた男の子の顔は、たちまちニンマリ崩れていく。
回りにいた子や、そんな話とは無関係に耳元にもとどいていない様子で自分の椅子に陣取ったように食事をつづけていた子たちからも、いかにも嬉しげな声と嫌そうな不満の声が半々に混ざり返ってきた。
毎週、土曜日に手渡される学級通信には、家庭への連絡の他、次の週の時間割りとその内容が書かれてあった。それに今日は、朝の学校と二時間目にあった算数のときにもこのことは念を押し君江の口から知らされていた。にもかかわらず、今子どもたちの見せた反応は初めて訊く者のように新鮮である。
子どもたちは、往々にして他の子どうしが話していること以上に、教師が誰かに話しかけるのではなく、誰かが教師に話しかけるその言葉に敏感なときがあるが、今の場合、男の子が訊ねた質問自体クラスの皆の興味をそそるものであったと言えば言えないこともない。
教師との約束事は、子どもたちにとってはその都度確認し直さなければならないもので、それまでにいくら同じことを繰返し言っていても、それはそのときだけにしか思ったほどの効果はなく、後には一部の子を除いてすっかり忘れ去られるか、ぼんやりと記憶の中にとどまりながらもすぐに消え去ってしまう。しかも、子どもたちの表情からはそのことをまだちゃんと覚えているように見える子さえ、問い返してくるたびにもしかすると前と違った答えが教師の口を突いて出てくるのではないか、という期待と不安感に似た感情を常に持ち合わせていることが窺え、そのほとんどが直接教師に伝えられるのでなく、一人一人目的とは別の形や反応をとることによって相手の感覚へともたらされてくる。
おそらく君江自身が子どもたちに対し、もし今自分の置かれている状態や不安といったものを彼らにもわかるように伝えようと思えば、やはりそうするしか他に方法がないのと同じように。
食べ残したパンやおかずは決められた食罐の中へ戻され、使った食器類も籠の中に入れられていった。食器には、おかず用のお椀と皿の二種類あり、他にはスプーンと牛乳の紙パックが四角いアルミ製の盆に載せられている。パックは、重ばらないようストローを差し込んだまま中の空気を抜き、平たくしてから元あった容器へ戻すようになっている。食器の方も、皿がパンとおかずを置くところの二手に分かれ、溝をきちんと重ね合わせ載せていく。君江が注意しやり直させても、また次の日、今度は別の違った子が守らない。それは、子どもたちの誰ということではなく、クラス全体を流れる捉えきれない波のように入れ変わっていく。
片付けを済ませた君江は、自分の席からしばらく子どもたちの様子を眺めていた。子どもたちは食器類を置いた後、御盆を水道で洗い布巾で拭き取り、元あった棚へ仕舞っていく。それを終えたほとんどの子は、教室を飛び出しグランド目がけ一目散に駆け出し姿を消してしまった。時たま階段からお互いに走るのを注意する叫び声が訊こえてくるが、一向に慌ただしい気配は治まることはない。
君江は、おもむろに子どもたち一人一人の表情に目をやった。
上空から窓を手がかりに射し込み逃げ道を失った暗紫色の光が、子どもたちの顔をちらちら舐めながら漂っている。ガラス窓が閉められてるため脂っこい饐えた臭いも抜け切れず、澱んだ体液のように部屋中に充満している。
君江は立ち上がり窓を開けるよう子どもたちに告げた。
たまたま傍にいた何人かが競うように分かれ、机を撥ね除ける勢いで窓枠に飛びついた。窓はガラガラと大きな音を立て、深まった秋の冷たい風が外からどっとなだれ込み、室内に溜まった熱気を持ち去った。君江は大気の変化を肌に感じながら、膝もとに擽ったさを覚え視線をそこへ落とした。男の子が一人、君江の机の下に潜り込んでいた。その子は、計画どおり彼女を驚かすことに失敗したためか、それとも隠れている最中、自分から断念して今まさに出て来ようとしていたのか、お尻の方をこちらに向けている。君江は椅子を体ごと後方へ押しやり、立っている場所も移動し、出やすいように隙間をつくってやった。
耳元まで真っ赤に火照らせ踞んだ相手に向かい、君江は、両手を膝に突き屈み込み、さも皮肉混じりの笑みを浮かべた。
「残念でした。せっかくわからなかったのにね」
「なんだよ」
相手は起き上がると顔をくしゃくしゃに崩し、それでも強気に頬っぺたを膨らませ、君江のお腹の辺りを思い切り叩き、友達のいる方へすたすた引き返して行った。
子どもたちの発した声は、間もなく絶頂に達した。
学校全体がこのときだけは生き物のように肥大し、活気を呈してくる。
校舎内に残っている子も廊下や階段で暴れ、遊戯け合い、時々睥睨するように君江のクラスを見ながら通り過ぎていく。それらは、細かく聴き取ることはできなくとも、断続的な音だけは、彼女の耳にもはっきりと入ってくる。
君江は、もう一度教室の中を見渡した。
子どもたちがいる。
顔の輪郭はぼやけ、いくつにも縺れたように集まり重なり合って見える。君江に向かって何か言っているようだが、上手く伝わって来ない。声を拾い上げていくまでに周りの喧噪に呑み込まれてしまうからだ。距離が遠すぎる。もっと近づかなければ。これ以上、ここに居つづけることは宥されない。誰かがそう、彼女に嗾ける。
白っぽく輝いた矩形の建物の中で、いくつもの影がゆらゆらと揺れ揺らめいている。
君江は、自分の瞳の奥に蒼白い陰影を持った人の顔をまんじりとせず見詰めていた。疲れた、自分自身を今にも失いそうな、そんな顔だ。しかし、その口元にはにこやかな微笑みが浮かんでいる。
机に凭れた格好のまま、彼女は今まで感じていなかった強い衝動が少しずつ波のように込み上がってくるのを覚えていた。絶えずおとずれては避けることの出来ない眩暈の中にかろうじて屹立する一本の支柱のような衝動だ。これだけは、どうしても言っておかなければならない。血液の循環が止まり、皮膚が小さく萎み乾き果て凍えていく前に、顫える唇でどうしても、今、自分を失いかけているその顔に向かい言っておきたいのだ。ただ一つだけ。
─私は誰にも何も教えることなんかできない。
心臓の鼓動が赫い管を生えそろえたその壁を重苦しく打ち叩く。
それでも、尚、君江の中からその言葉は、去ろうとしない。
胸の中にある重い固まりをできれば、一つ一つ取り出し解きほぐしていきたいが、できないのだ。
─私は、なぜ、今ここにいるのだろう。そして、教師の道を選んだのか。
黒板の前に立つ。子どもたちの前に進み、話す、書く、説明する、笑う、叱る、呼ぶ、怒鳴る、呟く、泣く……。これらは、いったいなんなのだろう。
職員室へ行く。何人もの大人がいて、「教師」としてそこにいる。
君江は、机から離れ、再び部屋から外へ出た。
待ちくたびれている子どもたちがそこにいる。
仄白い淡光のうねりがその後を追う。
四
延也たちのバスケットの試合は、一回戦の大詰めに来ていた。一ゴール差で、今延也たちが、リードしている。このまま逃げ切ってくれたら。バドミントンの会場から駆けつけた君江も心配げに見守っていた。
青野はベンチから体を乗り出し気味に試合の成り行きを見詰め、体育館中に響く大きな声で選手たちに指示を与えていた。そんな彼の姿勢からもこの試合に賭ける意気込みが伝わってくる。
木村孝が練習中飛び出してしまったあの一件以来、青野を始めとするバスケット部員たちは、突然生まれ変わったように猛練習を始めたのだった。そうなった詳しい経緯は、君江にもわからなかった。ただ、以前の青野とは別人のように彼が先頭となって子どもたちを引っぱり叱咤し、ときには罵声を浴びせるほどの厳しさで指導に当たり始めたのである。
バスケット部の子どもたちは誰一人音を上げる者はいなかった。それどころかこれまで、どこにこんなやる気が隠れていたのかと疑うぐらい走り回り、かけ声とともにコート中、ボールを追いかけ回ったのだ。
試合は、渦中にあった。
孝が延也から長いパスをもらう。ドリブルで一人躱しシュートするが決まらない。すかさず向こうのチャンスだ。相手チームは春の大会の準優勝チームで実力ははるかに延也たちを上回っていた。だが、時間は残すところ後一分少々となり、相手にとっても苦しい試合展開となっていた。向こうも必死だ。延也たちは、予想外の大健闘をしていたのである。
延也たちは、素早くゾーンを引いた。一人一人の実力ではとても勝目がないと見て取った青野は、徹底したゾーン・ディフェンスで守り通す構えでいた。ところが相手も凄まじい巻き返しで、こちらのスタミナ消耗をいいことにオフェンス外側から中へドリブルか短いパスで切り込む作戦に出始めた。今も、ボールを小刻みに繋いだ相手は、速攻で相手キャプテン自らランニング・ショットを放ったばかりなのだ。
ボールは君江たちの心配をよそにリバウンドすることなくそのまま真っ直ぐネットへ納まってしまう。たちまちこれで同点である。
青野は、息も絶え絶えな子どもたちの初めて見せる苦しげな姿を目の当たりに、試合の動静をうかがっていた。手元のストップ・ウオッチを見る。残り時間は三十秒を切っている。タイム・アウトは、既に規定数使ってしまった。延也が声をかけ、皆を励ます。こちらからのスローインで試合は再開される。
何度か攻防を繰り返した後、十秒前になって相手の選手が義夫の体と接触し、ファウルを取られた。義夫にはフリースローが与えられる。うまくいけば再び勝ち越せるかもしれない、おそらく最後のチャンスだ。誰の胸にもそんな思いが過ぎる。場内が静まり返った。
一本目。ボールは僅かに右に逸れ、そのままリングに撥ねて床に落ちた。応援サイドから落胆の溜息が二、三洩れるがすぐに次の二本目へ期待は移った。再び水を打ったような静けさがやってくる。君江も息を呑んだ。
二本目。義夫の長い腕から投げ出されたボールは、高い弧を描きながら飛んでいった。ボールは、そのままバスケットゴール辺りで、急速に下降する。まだわからない。リングがその球面に微かに触れた。だが、音はしない。「入れ!」延也たちチームの中の一人が叫んだ。ボールは、ストロボの連続写真を見るようにそのまま静止した状態をとどめ、回転しながら落ちていった。歓声が一挙に上がった。ネットが揺れ、ボールが床に落ち転がっている。そこが心地良いと言いたげに通過した軌跡が見える。ホイッスルが高く鳴った。歓声が一段と上がる。義夫が飛び上がらんばかりに両手を上げはしゃいでいる。皆も同様だ。コート中を跳ね回っている。青野も一緒に抱き合いたいが、試合はまだ終わったわけではない。相手の攻撃は、既に始まっている。
「後十秒、がんばるんだ」
彼は選手たちの気を引き締めようと檄を飛ばした。皆、各々に声を上げ応えた。
十、九、八……、ゲーム終了のホイッスルが鳴るが早いか、青野たちはお祭り騒ぎとなった。 一点差のままとうとう逃げ切ってしまったのだ。応援していた子どもたちや君江も、まるで優勝したかのような喜び様だ。中でも青野は、これまでの鬼コーチ振りが嘘のように一人一人の子どもたちと手を取り合い抱き合っている。試合終了の挨拶もまだ終わっていないというのに。相手チームの方からは眉を顰める者も出てくる始末だ。
挨拶のため静まったのもほんの束の間、それが終わると今度は、青野たちは胴上げを始めた。 延也が、孝が、六年生全員が順繰りに子どもたちの手で宙を舞っていく。青野と君江もそれを手伝い、合間合間に頻りに拍手しエールを送った。
「一回戦、本当に良い試合でしたね」
会場から外へ向かう通用口で君江は青野に話しかけた。
青野は、風に当るためか土間につづく框のようになっているコンクリートの段差の上に腰を下ろしていた。子どもたちは、自分たちの対戦相手の決まる試合を各々体育館の好きな場所から見学していた。
「バドミントンの方はどうでした」
青野が訊ねた。君江も隣に座り込み「順調に勝ち進んでます。期待してた六年の子が一人惜しいところで負けちゃいましたけど」
軽く頷く青野に、君江はついでとばかり、思い切っていつか話そうと思ってたことを聞いてみた。
「正直、わたし驚いてるんです。木村君が出ていったときなんか、先生は試合のことなんかどうでもいいんだろうなって思ってたんです。でも、あれからバスケット部は本当に一つにまとまったって感じがします。一体、どんなことを話し合われたんですか」
「大したことはしてませんよ。そもそも僕はいいい加減だし、それに」
青野はちょっと間を置き、つづけた。
「土台、教育に低い予算しかかけないこの国でいろいろやったところで、たかが知れてるでしょ」
「そんなこと言っていいんですか」
君江は、周囲にいるのが大会に出場している学校の教師や保護者ばかりだということが気になり、つい青野に叱言した。青野は、笑いながら「そんなこと心配してたら、こうして若い独身の男と女の教師が並んで座るのも一々許可を受けなくちゃいけなくなりますよ」反対に、やり返した。
君江は青野のどこか投げやりで取り止めのなさにムッとし、せっかく和やかに話そうと思っていた雰囲気がこわされたようでがっかりした。
「残りの試合がありますから、そろそろ行きます」
君江は、少々憮然とした表情で立ち上がった。
「会場は、S小でしたっけ」
「ええ」
そこは、この公営体育館から車で五分ほどの距離にある。
君江は、わざわざ自分たちの試合の合間を縫い、やって来てくれたのだ。
青野もさすがにそのことは察したらしく、「二回戦で負けたら、僕らもすぐ応援に駆けつけますね」座ったまま言った。
五
孝は、延也の真後ろで試合を見学していた。一回戦で勝った興奮がまだ冷め切れていない。全身を流れる血の鼓動がいつもより早く鳴りつづけ、まだどこか信じられない。 延也は、気のせいかよく自分にパスをしてくれた。孝には、そのことが試合中で一番心に残っている。眼前の背中を見ながら、やはりキャプテンは延也しかいないと思う。
二年前、孝が四年生で今の学校へ転校して来たとき、担任は青野だった。そして同じクラスに延也がいた。その時も頂度今と同じように延也は孝の前にいて背中を見ていた。
初め、延也はどこかよそよそしく感じられた。学級委員でもあったせいか、積極的に話しかけてき、クラスの皆とのつなぎ役をしてくれた。だが、むしろ孝の方が周囲の言動をそのまま素直に受け入れる余裕がなかった。どこかわざとらしく、白々しく感じた。
転校して一週間たった頃、青野が孝の家を初めて訪問して来た。彼はそれまで、大学卒業と同時に赴任した前の学校を四年勤め、意気揚々としていた。若さを弾みに体ごとぶつかり、一緒に勉強し遊べば子どもたちは付いて来てくれる、そう思っていた。
孝は、そんな青野が好きになれなかった。
青野は、何でもわかったふうな顔をした。孝や母親の言うことに、どんなときももっともらしく頷き、自分の考えを披歴するのを忘れなかった。だが結局は、それだけのことだった。具体的にはっきりと痛むところはここだと声があるなら叫びたい孝の軋む胸の中へ割って入り、痛むところはここかと気遣い癒してくれるだけの行動を示してはくれなかった。
青野は当時、他のどの教師よりも早く学校へ行き、遅くアパートへ帰る日々を送っていた。部活も暗くなるまで指導し、担当する児童会活動も力を入れていた。学校を休んだ子には欠かさず連絡を取り、近くの子どもたちと連れ立ち見舞いにも行った。気になる子がいれば帰りがてら家へ寄り、家庭での様子を訊いた。しかし、それらはあくまでも学校と結びついた形式的なものだった。公教育という枠内のフェンスで守られた〝良い教師〟の像でしかなかった。
学年末のある日のことだ。
休み時間、学級委員の延也と女の子二人が職員室の青野のところへやって来て、四日後行う予定のお別れ会のプログラムについて話し合いたいので次の特活の時間を使わせて欲しいと言って来た。青野はその話は前々から訊いていたこともあり、彼らがどうしても自分たちでやりたいと言うなら断る理由もないと承諾した。
女の子は、いろいろな出し物や青野への贈物も皆で考えていると浮き立つ気持ちを抑えるように笑顔で話した後、「それでお願いなんだけど」と人なつっこそうに言った。
「先生にはプログラムを内緒にしておきたいから、教室には見に来ないで欲しいんです」
二人の表情が急に畏まった。青野が今の話を訊き、どう受け取ったか心配そうだ。女の子の方は、延也にも一言言って欲しいと肘で相手の脇腹の辺りをつっ突いていた。延也は、体を捻り、しどろもどろといった様子だ。こんな延也を青野は見たことがない。青野も職員室でそんな二人を見るのはまんざらでもなく、つい気も緩み、案を承知した。ただし、贈物や飾り付けについては、一切店で買っものは使わず、教室や学校にあるものだけを利用することを提案した。
「はいはい、わかってます」
女の子は、いかにも慣れているといった調子で返事し、延也を後ろに従えるようにして急ぎ足で出ていった。延也は、結局一言も喋らずに居た。
「先生のクラスでは、男の子は女の子にかたなしね」
隣の席でお茶を飲んでいた三年担任の教師が言った。昨年の秋結婚したばかりで、この頃では気のせいか頬に独身の頃よりふっくら肉が付き柔和に見える。産休や育児休暇について他の教師と話し込んでいるところを見ると、案外おめでたなのかも知れない。
青野は、そんな相手につい冗談で返したくなり、「僕のクラスといわず、どこでだって男は女にかたなしでしょう」さりげなくそう言った。相手は思い当たる節でもあるのか、含み笑いをし、「そうかなあ」と何度も小首を傾げた。
それから青野にとって愉しい時が幾分か経過した。子どもたちが自分たちで話し合い、工夫したアイディアを出し合う姿を想像することは担任としてはけっして気分の悪いものではない。彼は、クラス担任では唯一人職員室に残り、研究紀要に掲載される実践報告の資料まとめの仕事をしながら、適当なときを見計らいこっそり後ろから覗きに行ってやろうと考えていた。
二十分ほどしてそろそろ出かけてみようかと思っていた矢先、クラスの男の子が真っ青な顔でやって来た。青野は職員室の隣の廊下に置いてある印刷機を動かしていた。
「どうした」
その子が近づくのを遠目がちに見ながら訊ねた。小柄な体をいっときもじっとさせてはいられぬとばかりに大きな身振りで「タカシ君が吉田さんにおこられて、家に帰るって下駄箱の方へ行きました」辺り一面に響き渡る声で言った。吉田とは名前を京子といい、さっき延也と一緒に来た女子の学級委員だ。
青野は、やりかけの印刷もそのままにすぐにその子を従え昇降口へ急いだ。
一面コンクリの空間には人影はなく、誰もいなかった。
靴を調べると孝のはそのままあった。青野は他の生徒のことも気になり、三階の教室へ戻った。
教室には、孝と延也、それに数人の男子生徒を除いた児童が騒然としたように立ち尽くし、青野の来るのを待っていた。京子が、その中央にいた。青野が近づくと彼女は「木村君が全然話し合いに参加しないから」とさっきの快活さはどこへ行ったのか、今にも泣き出しそうな顔で、それでも強気な性格は変わらず、一語一語濁さず言った。青野も何があったかより、孝たちの居場所が一刻も早く知りたく、子どもらに訊ねた。
「延也君たちが下から一度は引っ張ってきたんだけど、その後またどこかえ行っちゃって」
どの表情も絵に描いたように不安になっていくのがわかった。
青野は教室の中を見廻した。黒板には、京子の文字でお別れ会についての板書がされていた。だが、それも真ん中で途切れた状態だった。
いかんともしがたく、思い余ったように後ろを振り返ったときだ。いなくなっていた男子生徒の一人が戸口から突然視界にあらわれた。
「先生、大変だよ。孝君が屋上から飛び降りて自殺しようとしている!」」
青野は、その一言を訊くや体が顫え、寒気が走るのを覚えた。
次の瞬間には教室を飛び出し、屋上へと向かっていた。
屋上の鍵が壊れたまま開けられたままのことは、昨日も職員会議で問題になったばかりだ。子どもたちが拾ってきた子犬や小猫を給食の残り物で養い、飼っていた事実もある。だが、青野には今更そんなことはどうでもよかった。
─俺の責任だ。今、問題が起これば、すべて俺の責任だ。
彼は、階段を二段、三段飛ぶように駆け上がりながら、胸奥で激しく吼していた。
屋上には、たまたま偶然か春一番の強い南風が吹き荒れていた。
子どもらは、風に曝されながら立っていた。孝の体を延也と男子生徒の二人が必死の形相でつかみ引き戻そうとしていた。孝は、白く塗装をされた鉄柱の柵を乗り越えんと両手を離さず、肘を曲げた恰好でしゃがみ込み、上躰を前へ前へ突き出し抵抗している。
青野は、駆け寄ると孝の体を抱きしめた。孝が天に咆えるように叫んだ。
「離せ。死ぬんだ!」
孝の髪が青野の頬をなぶった。
青野は、孝の肩先を握る手に力を入れた。
吹き荒ぶ風の中、彼は孝に何度も詫びていた。声にならない声で。延也と他の子どもたちにも。
クラスの子たち全員が、次々と教室から駆け上がって来た。たちまち屋上は、クラスの子で一杯になった。女の生徒が何人か口元に手を当て泣きじゃくっていた。その中に京子もいた。
青野は、後ろ向きに叫んだ。
「戻れ、教室に帰っていろ!」
屋上が見える教室では、そのとき授業は一時中断され、教師が、そして幾人かの生徒が教師に叱られながらも窓越しに身を乗り出しながら見上げていた。遥か斜め下の職員室の窓の向こう側にも、気づいてか気づかないでか校長と教頭の顔が小さく二つ並んで浮かんでいるのが青野にはわかった。
六
延也と京子の進行でお別れ会の話し合いが始められてからと言うもの、孝は退屈だった。浮かれたように飾り付けやプログラムについて意見を出し合う皆の姿が自分には遠い存在のように思われた。どうして、そんなものをやる必要があるのか。三学期になって転校してきた孝にとって、今のクラスはさして親しいものではない。それに五年生になったところでこの学校は一クラスしかないのだし、また同じ顔ぶれが集まるだけのことだ。孝は、前の晩母親と口ゲンカし、思うように睡眠がとれなかった目をしょぼつかせ重たるい体を持て余すように両腕に額を乗せ、机に俯した格好でいた。
そんな孝を吉田京子が突然、名指しで注意した。
「松井君、ちゃんと起きて下さい」
何度言っても反応のない孝に痺れを切らした京子は、とうとう机の真横までやって来ると椅子を思い切り蹴飛ばした。
「何してんの」
孝は、眠たげに目を擦り、ぼんやりと顔を上げた。京子がいきり立った表情で横に立っていた。クラスの子全員が二人に注目した。
「皆が話し合いしてるのに、こんなことしていいと思ってるの」
京子は喋り出したらやまない気の強い性格であることは、孝もよく知っていた。それでも黙ったまま何も言い返そうとしなかった。そんな孝に京子は心底呆れたように、
「ほんとうに仕様がないわね」
皆の方を振り返り、大股で黒板の方へ戻って行った。
振動でできた孝の伏せた視界の隙間から京子の肩越しに延也のいかにも真面目くさった顔が見え隠れしていた。
箱詰めの記憶がするすると糸に引かれていくように動き出した。
まだ、ここへ引っ越して来る以前、母親が看護士をしながらアパート住まいをしていたときのことだ。既にそのとき父親とは離婚し、孝が物心つく頃には二人きりの生活が始まっていた。
思い出すのは夏休みや冬休みの風景だ。生活のためとはいえ、まだ幼かった孝を一人置き仕事に行くわけにはいかなかった母親は、実家の近くだったこともあり傍にいくつかあった親戚の家へ孝を預け、病院からの帰りがてら迎えに行くという毎日を送っていた。もちろん、夜勤のときは、孝はそこで泊まることになる。長女でない母親にとって、実家は既に実兄が継いでおり、両親も他界してしまった当時とあっては、簡単に預かってもらえるほど都合良い場所ではなかった。結局、孝は親戚の間を盥回しされ、特に長い休みの期間中は、家と家とを行ったり来たりする日々が繰り返されたのである。
─家へ帰りたい。
孝にとって睡眠不足で神経過敏になり、そんな思いが過ぎったのも当然だったのかも知れない。
─今すぐ、家へ帰りたい。
思いはたちまち増幅され、即座に行動へと移っていくことになる。
孝は、咄嗟に自分の椅子から立ち上がっていた。目を丸くして驚く京子たちの顔があった。
「家へ帰る」
ぼそりと言い残し、ランドセルも持たず飛び出す孝の姿がそこにあった。
勢い込んで下駄箱へ行ったものの、追いかけて来る延也たちに一旦は捕まえられ、呆気なく階上へ連れ戻されてしまう。教室へ帰ってからしばらくは静まり返った態度でおとなしくなっていた孝だったが、一瞬の隙を突き、今度は自分でも行き場のわからぬまま教室を再び飛び出すと、廊下を転々と過ぎ、追走を巻くように階段へ駆け上がり、屋上目指し突き進んで行ったのである。
─自分の帰る場所……
彷徨った挙げ句、もしも孝が最後の地に、屋上の白い鉄条フェンスの彼方を探し求めていたとしたら……。
屋上の件があって数日の間、青野は同じ夢を立てつづけに見た。
それは、どれも深い森の中を一人で歩いている夢だった。
夢として情景に現れるそのだいぶ以前からそれと同一の地面を歩きつづけている感覚が残っており、疲労めいた気怠さも夢の彼の奥にはちゃんとあるのだが、一向に満足のいくだけ進んだ形跡はなく、反面、目の前の風景だけがどんどん加速し、足元の景色を置き去りにするように変わっていく。単調でも平坦でもなく、ときに魚眼レンズを透かして視るように歪み、うねり狂う海面にも似た蠢きを持っている。
そんな忙しく駆け廻る視界の渦中で木洩れ日を探すことだけを「彼」はさっきから試みようとしているようだ。夢の中で湿気だけが高じていくように、だんだんと汗ばみ熱く火照る肌に覆い被さってくるもったりした影を払い除けるため、ゆっくり足を移動させ水平の位置をとる彼の姿は、まさしく頭上を取り巻く扇形の雑木の中心を充める要だ。
彼は見廻す。
孝がいる。延也が、京子が、クラスの皆の顔が、木洩れ日の変わりに葉擦れの音を体のどこかにしのばせ、梢の反対側で動く標的のように光を溶かしながら散らばっている。
彼は、一つ一つの顔を目でたどると憂鬱げに唇を噛む。
─最初からやっていこう。もう一度、最初から……
そんなことを呟きながら、夢はいつもそこで途切れてしまう。
次の学年度、青野は当初、子どもたちと一緒に持ち上がりでやることになっていた五年担任を外された。保護者の間にいつのまにか広がっていた屋上の件が問題となり、彼と学校側は一部の親たちに強い突き上げにあったのだ。
青野自身、次の年はまた四年を受け持ち、本人の希望もあってその翌年、一年生を初めて担任することになった。
低学年の現場から一つずつ掘り下げ歩いて行きたい。それは彼にとり、意識からより無意識の混沌とした子どもたちの棲む世界へ自己を滑り込ませていくため選んだものであり、馴染み深かった、中、高学年といった近景からの逃避でもあり、小学校教員への数少ない残された希望のようなものでもあった。
孝はその後、しばらくしてバスケット部へ入部し、青野はその過程を歩んだ。
ホイッスルが鳴った。孝たちの眼前で行われていた一回戦の試合が終了し、二回戦の対戦相手はK小と決まった。
体育館の向こう側で、青野が皆を呼び寄せている。空いているコートを利用して少しでも体をほぐしておこうということらしい。
「さあ、行こう」
珍しく孝が延也を急き立てるように声を出した。周りに座っていた者も連られるように立ち上がる。
他の場所に散らばっていた子らもやって来て、全員が揃うと、さっそく延也を先頭に軽いランニングが始められた。体育館の端を何度か往復する。青野も一番後ろをのんびり付いて来ていた。
こちらが休んでいたぶん相手には不利かも知れないし、たった今まで体を動かし駆け回り汗を流していたぶん向こうには勢いがうまく味方しているかも知れない。数分後には、試合は開始されている。
延也たちの二回戦が始まった。
2020年4月29日 発行 初版
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1961年熊本県荒尾市生まれ。北九州大学文学部国文科卒業後、学習塾講師、大検(高卒認定)専門予備校職員などを経て、熊本県小学校教諭に採用。二校目の赴任地(阿蘇市立宮地小学校)で、卒業生である発達障害の青年との出会いをきっかけに33歳で退職し、当時阿蘇郡市では初めての民間での小規模作業所「夢屋」を立ち上げました。その後、自立支援法施行に伴い、「NPO夢屋プラネットワークス(http://www.asoyumeya.org/)」を設立し、地域活動支援センター(Ⅲ型)代表兼支援員として阿蘇市から委託を受けながら現在に至っています。 運営の傍ら、小説、ノンフィクション、児童文学、書評などを発表してきました。部落解放文学賞に5回入選、九州芸術祭文学賞熊本県地区優秀賞2回、熊本県民文芸賞、家の光童話賞優秀賞などを受賞させていただいています。