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jacket

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真夜中のプラットフォーム

宮本誠一

夢ブックス



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    真夜中のプラットフォーム

    一 始発

 午前中ならいつでもいいという相手の言葉に甘え、十一時頃には行くとあやふやな約束をしたことを木村は悔いた。時計を見るとやっと十時を回ったところだ。駅近くのガソリンスタンドの店員が手を休め、親切に教えてくれたこともあり、予想より早くアパートを見つけることができた。再び電話しようかとも思ったが、あまり仰々しいのもよくないだろうと、そのまま訪ねることに決めた。
 一斉に開花した桜もぼちぼち散り始め、それでも鳥の囀りもよく響き、うららかな日差しに包まれた四月中旬のときだ。
 通路に電動車椅子が置いてあった。タレントのステッカーが貼られたバックミラーが、前輪上部のフレームから伸びている。坂田が教えてくれた目印だ。確かに部屋はすぐに見つけることができた。呼び鈴を鳴らし、ノブを回すと鍵はかかっていない。木村は扉の隙間から中を覗いてみた。暗く冷んやりとした空気がただよっている。
「こんにちは。坂田さんいますか」
「はーい」
 返事がしたのはベルが鳴ってしばらくたってからだった。
 坂田はそのとき奥の部屋にいた。慌てて足の指でリモコンを操り、ビデオを切った。両足で挟んで器用にケースに直すと洋画のラベルのついたものの奥へしまった。いつもの習慣で鍵をかけていなかった迂闊さを恨んでももう遅い。ズボンの下腹のふくらみを気にしつつ、絨毯から板張りのフロアへ擦って移った。
 顔と腰を微妙によじり、両手をつき、前方へ移動させた。できるだけ平静を装い、首だけ持ち上げ微笑んだ。意識し過ぎて唇から漏れる声や動きが、かえってぎこちなくなった。
「どーも‥‥」
 そんな坂田を目の前に、木村は三日前会った島崎京子を重ねていた。
 その日、彼は役場の福祉課の職員から作業所へ通えそうな人間をようやく聞き出したところだった。一人は軽い知的障害者で、電話をするとすぐに母親に代わった。企業の就職活動をしている最中で、すべて断られたらそのときはお願いするかもしれないと一気に話された。充分思いを伝えれず電話を切られた木村は、次も親ならいったん切り、かけ直そうと思っていた。ところが出たのは本人で、しかも今なら会うのも都合がいいとまで言ってきた。喉元から搾り出される声は細かったが、意志に強いものを感じた木村はさっそくハウス利用者のトオルを連れ、訪ねたのだった。
 京子も坂田と同じように這って出てきた。 
 木村はトオルのことをまず先に説明しようと考えていたが、トオルはそんなこと知らぬとばかりに、いきなり玄関へずかずか入り、京子の表情をこわばらせた。慌てた木村は「ちょっとすいません」と框を上がりかかったトオルの肩を握り制止させた。
 二人を居間へ上げてから座蒲団をすすめた京子は茶箪笥の出っ張りをつかむと、弾みをつけ立ち上がった。
 肩口をゆすって食器棚へいき、茶器をとりだしながらもどこかおどおどしていた。トオルはそんな彼女におかまいなく畳の上で一度スキップし、くるっと身を翻しどっかと腰を下した。目ざとく数本のミュージックビデオを見つけ、「これ島崎さんの?」と尋ねた。木村は京子にトオルの気持ちを伝え、ビデオに触ることを許してもらった。トオルはたちまち上機嫌となり、ケラケラ笑いながらパーカッションのように太腿を叩き出した。
「わたし‥‥、びっくりした‥‥、こうやって人がたずねてくるなんて‥」
 京子は、トオルへ気を配る素振りを見せながらも、茶器をもったまま器用にバランスをとりながらしゃがみ、感慨深げな声を発した。指先に力を入れボタンを押し、ポットからお湯が心細そうに急須へ落下した。
 木村は、小規模作業所をつくったわけを手短に話した。トオルの母親と手づくりのパン屋をかねた喫茶店を始めたこと。母親とは自分が小学校の教員だったとき障害者の親の会で知り合った。二十歳になるトオルは高校を出た後、いくところがなく調子も落とし荒れていた。このまま何もせず手をこまねいているよりはなんでもいいからやった方がいいだろうと、思い切って仕事を辞め、作業所を始めたことなどだ。
 トオルが穏やかにしていることに安心した京子は、木村の方へいざりより、とつとつと話し始めた。
「高校出てから、十年すぎてしまった‥‥」
「へええ、もうそんなになるんだ」 
 木村はトオルの調子が気にかかりながらも、できるだけ耳を傾けた。
「そう‥‥。でも、仕事もなくて‥‥、親も就職はしなくていいって言い出して‥‥だんだん自分でも外に出なくなって‥‥、もう、十年に‥‥なった」
 京子は地元の小学校へは通わず、自宅から特急に乗り数時間かかる盆地にある支援学校の小学部へすすんだ。霧の深い町で、もちろん寮生活だった。
「やる気だけはあった‥‥。がんばれ、がんばれって先生励ましてくれたし」
 彼女から「がんばれ」という単語が吐き出されるたびに木村の頭の中には教師の叱咤する顔が浮かんだ。木村は京子の目を見つめ、つぎにどんな言葉が出るのか唇や表情から見当をつけた。
「毎週一回‥‥、家に帰ってきて‥‥、最初はお母さんに‥‥学校まで迎えにきてもらってた‥‥でも‥‥中学からは、自分ひとりでもどってこれるようになったの‥‥。駅からここまではバスに乗って‥帰ってくるの‥‥」
 熱心に話を聞いてくれることがわかると、京子も次第に冗舌になっていった。閉めきられた部屋に一筋の光がさしたように思えた。 
「体育では百メートルも完走‥‥できたし、泳ぎも‥‥おぼえた‥‥」
 木村はゆっくり頷いた。
「知ってる人でもいればよかったけど‥‥、こっちに帰ってきても友達もいなくって」  
 京子はさらに表情をくずし、茶目っ気たっぷりに、「まるで‥‥、ウラシマタロウ‥‥」クスクス笑った。
「お父さんやお母さんとはうまくいってるの?」
 タイミングを見計らい少しつっこんだ質問を木村はしてみた。彼女はそれにも淡々とした口調で、
「外に出ると‥‥迷惑かけるから‥‥出るなって‥‥」
「前とは正反対?」
「そうー」
 奇声に近い叫び声を上げた。そして一転ぽつりと、「帰ってこなければ‥‥よかったんだけど、‥‥施設にも入りたくなかったから‥‥」 
 声を低め、木村をじっと見つめた。
 そのころから、トオルの動きが目に見えて速くなっていた。フィルムをコマ送りしたような、ぎくしゃくしたスピードだ。両肩がせり上がり、下半身の揺れが増してきている。木村は時計を見た。
「別の作業所には‥‥一度‥‥行ったことがある」
 そんな木村の心配をよそに京子は、ひとしきり支援学校時代のことを話し終えると瞳を微かに上げ、記憶をたどるようにゆっくりした声でつぶやいた。それは木村にとっても、思いがけない言葉だった。彼はすかさずその作業所の名前を聞いた。
「そこの代表の‥‥坂田さんは‥、一年先輩で‥‥できたとき遊びに来いって言われて」
 それから木村は、ハウスへ帰るとさっそく連絡をとり、三日後の今、今度は一人で坂田を訪ねたのだった。
 木村は坂田の部屋に上がるや、ここまでのいきさつを手短に話し、道がわからなくなったことに話題が移ると「ああ、あのスタンドでえ‥‥、あそこの人は親切ですよ‥‥。センターの連中と‥‥車椅子下ろすのよく手伝ってもらうんです」坂田はオーバーに目を細めた。
 訪問の目的は、坂田に自分が始めたばかりの作業所、フリー・ハウスの顧問になってもらうことだった。ワーク・センター代表で、開所以来、運営だけでなく映画祭などいくつかのイベントを成功させている坂田に協力してもらうことは、木村には心づよく、なにかと都合がよかった。
 木村が持ってきていたバッグから資料を数枚取り出そうとしたときだ。アパートの扉が勢いよく開き、玄関をどかどかと上がってくる人の気配がした。
「こんにちは。おそくなってゴメンゴメン」
「ああ‥‥、ずいぶん‥‥待ったよ」
 坂田が嬉しそうに頬をゆるめた。木村は一瞬、呆気にとられた。
「やっぱり、ここにくると安心するわね‥‥」
 相手は木村がいることを知らなかったのか、あけすけにそう言い部屋へ入ってきた。
「井芹‥‥夕子さん‥‥です‥‥あのおー‥‥センターを手伝って、もらっています」
 坂田の目尻に、数本皺が寄った。恥ずかしそうに身をよじり、照れ隠しのようにも見えた。
「どうぞ、よろしく」 
 夕子は長い髪をそのまま落とし、頭をちょこんと下げた。木村も軽く会釈した。
 坂田は、そんな二人を遠目に見ていた。  
 そのとき、甲高い電気音がひと際大きく鳴り響いた。
「ああ‥‥列車ですよ‥‥駅から近いもんで‥‥もう、慣れましたけど‥‥」
 音がした後、しばらく沈黙があった。
 やがて、列車が動く気配のようなものが流れ、レールを転がる車輪の音が木村のすぐ耳元でしたきがした。
「‥‥出発しだした‥‥みたいですね‥‥」
 ホッとしたように、坂田がぽつりとつぶやいた。

     二  プラットフォーム

 数日後、木村がハウスへ行くと、トオルの母の久代が利用者のミチコと向き合っていた。
「木村さん、たいへんよ」
 久代は神妙な中にも、どこか剣のある目つきをしていた。木村は、急遽必要になり仕入れてきた小麦粉の袋をテーブルに置いた。
「昨日来た西山さんね、ミっちゃんの別れた、もとの旦那さんなんだって」
「ミチコさん、それ、ほんと?」
 疑っていたわけではなかったが、あまりの予想外の事態に思わず声を荒げた。
「すいません、すいません」
 ミチコは困り果てた顔で、愛嬌のある目を何度も瞬かせ、頭を下げた。
「どうしてだまってたの?」
「‥‥」
 今度は小首を傾げ、惚けた顔になる。木村も黙られては、次の質問に窮した。
 西山は、昨日の午後、役場の紹介で訪ねてきた男だった。
 やや小太りの体を、ヨレヨレのグレーのブレザーと寸足らずなズボンで覆っていた。眼光に力がなく、不安げに四方を見渡し、人馴れしない性格を滲ませていた。 
「いらっしゃいませ」
 ミチコは、いつものように進んでお茶を出してくれた。西山もそんな彼女に仰々しく頭をさげた。木村が、これまでの職業を含めた経歴や、現在の健康状態など、およそ一時間かけメモしながら尋ねていたときも、ミチコはいつもと変わらぬ明るい表情でカウンターで洗いものの仕事をしていた。
「趣味は、ミニカーを集めることなんです」
 伏し目がちな西山が、唯一、くだけたように白い歯を見せたのが、この話題だった。
「へえ、どんなのですか?」
「いろいろです。大きいのは三十センチぐらいあるかな」
 木村が感心していると、探る目つきで、こごめた声になり、
「あのー、仕事のとき、ミニカー、持ってきてもいいですか」 
 用心深そうに尋ねてきた。 
「ええ、いいですよ。みんなも見たいだろうし」 
 相手の神経をほぐすように、木村は、わざと快活に答えた。
「ねえ、ミチコさんも見たいだろう」
 流しの前にいるミチコに声を掛け、目配せすると、「見たいです、見たいです」と彼女も乗ってきた。
「それじゃあ、とりあえず来週の木曜日の午前中からということで」
「お願いします」 
 やや髪の薄くなりかかった頭を下げると、蛍光灯の光が当たり、白いフケを浮かび上がらせた。表の扉を開け出ていくときも、ミチコは当たり前に客扱いし、深々とお辞儀をした。てきぱきと茶碗も片づけ、台ふきにとりかかった。
「今日、ここに来てから、どこか様子がへんだったのよ」
 久代は、事細かに説明を始めた。
 朝からそわそわしているようで落ち着かず、何かあったのか聞こうと思いながらも、仕事が片付かないまま、久代は隣りのパン工房で仕込みをやっていた。そのうちミチコがちょっと買いものをしてくると近くのスーパーへ行ってしまった。ところがミチコは、厨房でお湯を沸かしていて、そのことを久代にも知らせず、本人も忘れていた。たまたま久代がバターをとりにいき気づいたからよかったものの、薬鑵は空焚き寸前だったらしい。そこで、ちょうどいいきっかけができたとばかりに、買い物袋を下げ帰ってきた時点での質問となったのだった。
 久代は、できるだけ穏やかに聞いたつもりだったが、反対にミチコは、今にも泣きそうな声で、昨日の西山の件を話しだした。
「もしひろしくんが来たら、お父さんとお母さんに怒られる」
 最後に久代に声をふるわせ訴えると怯えた目つきになった。
 一部始終を聞き、平謝りするミチコを見ながら、木村はこれから自分がやらねばならぬことを考え気が重くなった。
 まず、西山に電話した。
「ハウスの木村です。西山さんですね」
 木村は、こちらであったことを、ある程度、説明した。
「西山さん、ミチコさんのもとの旦那さんだったんですね。ここにミチコさんがいると知って来られたんですか」 
「えっ、ええ‥‥いえ」
 相手はバツの悪そうな返事をした。
「どうして言ってくれなかったんですか」
「なんだか、向こうに悪いような気がしまして」
「どうせ、いつかばれますよ」
 木村は、相手が電話の主旨を飲み込んできたようだったので、そろそろ本題に入ることにした。
「それで、一応、まずは彼女の両親に事情を話して、西山さんにハウスへ来てもらっていいかどうか確認するつもりです。それで向こうが困るということになれば、今回は利用するのは遠慮していただきたいんですが、いいですね」
「はああ‥‥」
 合点のいってなさそうな相手の口調に、木村は念を押した。
「やはり離婚して、きっちり別れたわけですし、またずるずるとここでいっしょに時間を過ごすのも、ご両親は心配だと思うんですよ」
「アッ、そうりゃ、まあ」
「私個人としては、遊びにきてもらうくらいは構わないんですが。別れるにはそれなりの事情もあったでしょうし、勝手にやれる立場でないことはわかってください」
 受話器を置いた後も、どこかやりきれなさはあったが、速く処理せねばならぬ義務感にも急き立てられミチコの家へ連絡した。
 いつものようにか細い声で母親が出てきた。両親とも七十代の半ばにさしかかっている。事情を聞くが早いか、呆れた口調で喋りだした。
「それは、こまります。実は今でも、よく電話をかけてきて、ミチコを誘おうとするんですよ。別れるときは家族ぐるみであの子をいじめたくせに」
 木村は、しばらく黙って聞いた。 
「主人が出ると、無言電話で、向こうからガチャッて切るんです。もう二度とかけるなって、いつか怒鳴ってましたけど。‥‥もし、あっちがくるならミチコの方を辞めさせます」 
話せば話すほど過去の記憶とともに感情が高ぶってくるのか、強い口調へ変わってきた。木村は慌てて言葉を挟んだ。
「わかりました。ミチコさんは、ハウスをとても気にいってくれてるし、うちもなくてはならない存在です。西山さんの方が後なんですから、筋として向こうに辞退してもらいます。だからどうかご心配なさらないでください」
 母親の落ち着いた息遣いが聞こえき、木村も平静に戻り、最初からずっと抱いていた疑問を投げかけてみた。
「それにしても、二人とも、なんで黙ってたんでしょうね。本当にまるで初対面の他人みたいだったんです」
 母親も、木村の気持ちに同感し、受話器越しに溜息をついた。
 一段落ついてから久代と木村は再びミチコに話さなかった理由を尋ねてはみたが、首を傾げ、困惑を深めるように眉間に皺を寄せるばかりだった。
 気を取り直し、久代がパンを仕込み出し、ミチコが食器類の整理を始めたとき、一台の自転車がハウスの前でとまった。自転車は、今はあまり見かけなくなった大きな骨組みのママチャリで、後ろの座席には物入れの布製のバッグがぶらさげてある。背の高い、がっしりした男が下り立ち、中へ入ってきた。いささかくたびれた暴走族といった風情だ。
 皺のよったスラックスの上にごてごての皮ジャンを着込み、運動靴と茶色いビニール製の帽子を目深にかぶっている。顔色はどちらかというと土気色で口を閉ざし、視線は一点を向き執拗に動かない。
「あらあ、矢野さあん、きたの」
 ミチコがさっきまでの沈んだ表情とはうってかわり、無愛想な男に声をかけた。
「よくきてくれたわねえ」
 木村が近づいていくと、それを無視するかのようにカウンターまでいき、中央の席をしめた。ミチコが今度は、自慢気に紹介した。
「矢野さんていってね。わたしの今のダーリン‥‥、うそっ、わたしと同じ病院に来てる人でーす。担当の先生が同じなんです」
 木村は、ミチコの冗談に言葉を失いながら、軽く会釈した。矢上は相変わらず無表情で、それに応えようともしなかった。
「わたしがこのハウスの話をして、一度遊びにきてよって誘ってたの」
 ミチコの目が爛々と輝いてきた。我が意を得たりといった表情だ。
「何にする、あっそうね、コーヒーでいいわよね。ねっ、コーヒーにしよう」 
 ミチコは相手を急くように、いつもより強くネジを巻いたペースで体を動かし始めた。フィルターを折りたたみ、薬鑵から湯をそそぐとき、彼女の手がぶるぶるとふるえだす。 彼女は、一年前、両親に伴なわれハウスへやってきた。
 終始黙っている父親をよそに、母親が娘の今の状況を話した。
「いいですよ。気楽に、遊びに来るつもりでまずはやってみてください」
 帰り際、手土産にパンを買って帰りたいと財布を取り出したとき、小銭をつかもうとする彼女の手がふるえだした。何度指先で握ろううとしても、掌から無情にこぼれる数枚の硬貨を、木村と久代はミチコの表情と合わせ、さりげなく見ていた。母親は心配そうに隣に立ち、手伝うタイミングを見計らっているようだった。やがてうまい具合に硬貨が床に落ち、木村がそれを拾うことでその場は終了した。その指が、今、自分が呼んだ客にコーヒーを煎れているのだった。
 矢野は黙って飲み終えたカップを置くと、「またきてね」という甘えたミチコの声に「ああ」と投げやりな返事を残し、ふたたび自転車に股がり帰っていった。

      三 停車
 
 一週間後の五月初め、木村とトオルは、京子といっしょにパンを配達することになった。三日前にあった京子からの電話がきっかけだった。
「自分では‥‥言えないから‥‥、木村さんが‥‥、母に話して‥‥ください」「わかったよ。でもあくまでも決めるのは京子さんじゃないのかな。もし、お母さんが駄目だって言っても、京子さんが行きたいって思えば行けばいいと思うよ」
 そんな京子を気づかい木村は、励ますように答えた。
「でも‥‥なにかあったとき‥‥、迷惑するのは‥‥母の方だから」
 木村は、堂々めぐりする相手のふんぎりの悪さに、やきもきした。
「まあ、とにかくちょっと待ってて。今、一人なんだろう、すぐ行くから」
 このまま電話で話せば、ますます溝が深くなることを彼は恐れた。
 京子は神妙な顔で待っていた。
 まず初めの一声は、木村の方からだった。
「もちろん、お母さんとは話す。その前に、ぼくにもはっきりさせときたいことはある」
 下顎をやや前に突き出し、瞳を虚ろに開いていた。その呼吸音が目には見えない糸を伝い木村の耳元まで伝ってきそうだった。木村は一語一語に力を込めた。
「かりにお母さんが反対しても、それをくつがえす力は君にしかないと思うよ。けっきょく、京子さんはどうしたいのかそれは聞いときたい」
「わたしは‥‥、いきたい気もある‥‥だけど‥‥心配すると‥‥思う」
「心配は、お母さんの勝手だけれど、それを京子さんが気にする必要はないよ」
「でも‥‥、一度‥‥外へ出て‥‥貧血で倒れて‥‥お母さんをこまらせたの‥‥」
 彼女自身、わずかでも前へすすもうとすれば同じぶんだけ退く力が生まれ、スタート地点へもどってしまう、そんな葛藤に苦しんでいるようだった。
「もう、外には‥‥かってにでちゃ‥‥だめよって、‥それからは厳しく‥‥なった」 彼女の場合も、まずは母親の心をときほぐさねばならないようだ。
 母親は看護士で、夜勤の関係で、出勤する前に会うことになった。小柄だが、眉や鼻筋の線がはっきりし、京子と同じく芯の強さをうかがわせた。
「はじめまして。今度、小規模作業所を始めた木村と言います」
 木村がこれまでのいきさつを簡単に話し、昨日の話題へうつった。母親は、置いていった資料を読んでおり、おおむね知っていた。
「お母さん、実は京子さんから相談をうけまして」
「ええ、だいたいのことは聞いています」
 母親は、京子と木村を交互にしっかり見据えた。できるだけ普段どおりに、冷静に対応しようと心がけているようだ。
「ちょっと時間をつくって、外に出るわけにはいきませんか」
「京子、お母さん、あなたから最初にこの話聞いたとき、もしあなたが行きたいんだったら、行ってもかまわないって言ったわよね」
 たたみかけるように、彼女は娘に問うた。京子は顔を伏し、黙っていた。明らかにどう返事をしていいのか考えあぐねている様子だ。その表情は、木村やトオルが初めて来たときとも、昨日話したときともまったく違っていた。節々に極度の緊張が見え、じっと動かず、唇も乾いていた。体全体が金縛りになった状態であることがすぐにわかった。母親はそんな娘の態度に苛立ちを隠せないようだった。
「京子さんが一番心配しているのは、前に貧血で倒れたことらしいんですよ」
 木村は、思いきって口火を切った。
「ああ、あのときはほんとうにびっくりしましたよ。たまたま近所の人が通りかかったからよかったものの、発見が遅れていたらどうなっていたか」
 素っ気ない返事ではあったが、木村がどの程度の気持ちで娘に声を掛けに来ているのか、探りを入れているようだった。小さなテーブルに肘をのせた姿勢で体を傾け、相手の出方を待っていた。
「それを迷惑をかけたと、しきりに気にしているようなんです」
 木村は、そんな母親の動きを察し、論点がズレないよう気をくばった。
「そりゃあ、京子、みんなに心配はかけたわよね」
 母親も、木村のリズムにもっていかれまいと、微妙に言葉を変えてきた。そんな二人をよそに京子は相変わらず口を閉ざしたままだ。
「ぼくは、多少の迷惑はしょうがないと思っているんですけど」
 木村もわざと言葉をもとにもどした。
「‥‥まあ、倒れている人を助けるのは、当たり前のことだし‥‥。それに貧血も、明らかにあんまり外出してないことからきたんだと思うんです。天気のいい日なんか少しずつ体を慣らせばいいんじゃないかなあと‥‥。ねえ、京子さん、そんな場所にハウスを利用してくれればいいんだけど」
 木村はずいぶん助け船を出したつもりでいた。あとは本人の一言さえあれば、母親もはっきりとした判断を迫られる、そう実感した。
「わたしは‥‥どうしようか‥‥ほんとうは‥‥悩んでる」
 蚊の鳴くような声で、彼女がポツリと言ったのはしばらくしてからだった。京子にとって外へ出ることが再び重みになってきている、そんな印象を受けた。
「どうでしょう。一度だけためしにやってみるっていうのは。それでおもしろければやればいいし、つまらなければやめればいい。あんまり難しく考えず、気楽にやったら」   木村は、意識して軽い口調に切り換えた。
「京子さんの支援学校の先輩で坂田さんって人がいるんですが、その人も作業所をやっていて、今度そこへ配達にいくんです。彼にはうちの顧問になってもらっているから、これからもちょくちょく出かけると思うし、ドライブがてら行ったら楽しいんじゃないかな」
「あらっ、京子、坂田さんって、文化祭でいっしょにやってた人でしょう」
 思わぬ母親の言葉に、木村もわずかな期待を抱いた。
「たしかあの人が実行委員長だったとき、あなた副委員長だったんだわよね」
 京子は軽く頷き、足を畳の上にずらした。
「なあんだ、そんなに親しかったなんて、ぼくにはぜんぜん教えてくれなかったね」
 木村は、坂田が、彼女がハウスへ来ることを自信たっぷりに予想した表情を思い出した。
 けっきょくは母親の態度の変化で決心がついたのか、京子は、それから間もなくして行きたいことをようやく告げた。母親も全面的に賛成でないにしろ、しぶしぶ同意した。
 三日前の出来事とはそれだった。
 昼下がりの町営アパートの棟の群れは一軒一軒が庇から影を落とし、ひっそりしていた。 木村がいつものようにベルを鳴らし扉を開けると、京子はすでに着替え明るい表情で迎えた。
紺色のタイトなスカートをはき、白のブラウスという出で立ちだ。化粧をし、ほんのり香水の匂いもたてていた。
 彼女は、下水道の舗装板や地面にできた段差を用心深く注意し、よろめきながらも自分で歩きとおした。車の中にトオルがいたが最初見たときのように驚きはしなかった。後部座席の扉を開けてもらい、ステップに足をかけ座るときだけ、木村の助けを借りた。
 センターは、郊外へ向かうバイパスから折れ、中心部へいくにはちょうど近道の道路沿いにあり、車の行き来の激しいところにある。坂田の電動車椅子で十五分ほどの距離だ。
 到着すると、数人のメンバーが作業場兼ミーティングルームに集まっていた。
「まいったね、役場じゃ、知的障害者もおれたちも同じだと思ってるんだから。こっちは身体が不自由なだけなんだらさ、いっしょにされたらたまらないよ」
 髪を七三に分け車椅子に乗った男が、咳き込むように話していた。
「それに彼らは肉体的なハンディはないんだから、どこへ行くにも困りはしないだろうけど」
 介護制度についてあらたな要求をしに、市役所へ交渉へ行ってきたらしかった。
「木村さん、紙」
 そのとき、トオルが突然、声を上げた。木村はバッグからいつもトオルが使っている紙と鉛筆を取り出した。トオルはそれを受け取るとさっそくテーブルの一角に入り込み、用紙を広げ、さっき熱弁をふるっていた男へ肘をつきだす姿勢をとった。
 嘗めるように顔を近づけ、小さな声でつぶやきながら、十数年前からのテレビドラマの出演者たちを細かく書き並べていく。刑事ドラマからメロドラマ、トレンディーまで彼の頭の中には名前がぎっしりとインプットされている。男はさっきまでの勢いが嘘のように黙りこくってしまった。しばらくしてから、外の通りから呼ぶ声がした。
「ねえ、だれか車から下ろすの手伝って」
 夕子だった。急を要しているようだったので、木村はトオルや京子を置き、すぐに走り出た。 坂田が助手席に乗っていた。
「ああ‥‥、パン、‥‥もってきたんだろう‥‥ごくろうさま‥‥」
 夕子が後部から車椅子を取り出し組み立て、木村と二人で坂田を抱え上げ乗せた。
坂田はほんのり上気したように肌を桜色に染め、機嫌がよかった。夕子はそれとは反対に、どこか困憊していた。
「ありがとう。助かったわ。あなたが来てくれてて」
 それでも進んで手をかしてくれる木村に、知らず知らず笑顔になった。
 木村は、京子を連れてきていることを坂田に告げた。
「ああ‥‥、作戦‥‥成功ですねえ‥‥」
 坂田は、いたずらっぽい目で、木村を見上げた。木村は養護学校時代の文化祭のことも聞いてみた。 
「‥‥そうだったかなあ‥‥、もう細かいことは忘れたけど‥‥積極的な人でしたよ」 
 車椅子に乗り移ると、とぼけたように木村に答えた。部屋に入りしな、京子が坂田のところへやってきた。
「‥‥ひさしぶり‥‥元気だった? ‥‥」
「‥‥まあまあです。‥坂田さんは‥‥」
 そのとき、坂田は車椅子の後ろにいる夕子の方へ首を動かし、二人を対面させた。京子は夕子を紹介された意味がわかったらしく、「‥‥わあ‥‥、ラブラブ‥‥ですね」と珍しくおどけた。夕子は他人事のように冷めた眼差しで、口元だけをわずかに緩めた。
 やがて坂田もミーティングに加わり、センターの会議は本格的になった。木村は夕子と京子の三人で、離れた場所の椅子に座り、ときどき小声でやりとりしながら眺めていた。 坂田は、資料を広げながらも、とくに木村と夕子がときおりひそひそと肩を寄せ合い会話している様子が気になってしょうがなかった。やがてトオルが字を書くことにも飽きてきたらしく、あれこれ周囲に質問しだした。限界と見た木村は、坂田にパンのお礼を述べ、センターを後にすることにした。
「‥‥もう‥‥帰るの? ‥‥もうすぐ‥会議も終わるんだけど‥‥」
 言葉とは裏腹に坂田は内心、ホッとしていた。
「また、こんどゆっくり寄らせてもうらうから」
 急いで挨拶をすませると、三人で車に乗り込んだ。
 帰りの車中で、木村は京子に坂田と久しぶりに会った感想を求めた。京子は、あまりしゃべろうとはせず、あやふやな答えしか返ってこなかった。信号で停止したとき、彼女はふと顔を上げ、車窓へ目をやった。来るときに通ったはずの道や景色が、まったく記憶になく、まるで見知らない別の街並みのように思えた。
 木村は、京子のそんな様子を心配したが、助手席のトオルのことも気になり、それ以上の質問はやめ、アクセルを再び踏んでいた。

     四  脱線

 六月になり梅雨の季節がやって来た。雨でなくとも雲が重く垂れこめ、日差しのない陰鬱な中、気温も少し下がってくるとトオルの調子は日に日にわるくなってきた。
 その日、木村がハウスへ行くと、二階から久代の悲鳴がした。木村は慌てて階段を駆け上がった。見ると上り切った正面のトイレの扉をトオルが力づくで開けようとしていた。両手でノブをにぎりしめ、体重をかけている。中では久代が引っ張っていることは確かだ。
「落ち着け、トオル。落ち着け」
 トオルの耳にはその言葉はとどいていないようだ。体全体が鋼のように熱を持ち硬い。「木村さん、どうしてテレビ局に行ったらいけないの‥‥ボク、わがまま?」
「わがままじゃない。ちっともわがままじゃない」
 トオルは最近、ニュース番組に出る女性キャスターにこだわっていた。トオルの女性の好みが、どうやらピタリとはまったようだ。そうなると、誕生日や出身地を知ったり、会ってしゃべらないと気がすまなくなってくる。それができぬうちはこだわりが際限なくつづくのだ。彼氏はいるか、どうしたら付き合えるか、それを確かめるための行動にも拍車がかかる。タレント名鑑で見つけた事務所への電話は数限りなく、満足な対応がされなければパニックに陥り、本人会いたさにタクシーの無銭乗車さえやったことがある。
 木村も、すでに何度もテレビ局へ電話し事情を話した上でキャスター直筆の手紙までもらっていた。それでしばらくは治まっていたのだが、そろそろ限界が来つつあった。 木村は、ノブからトオルの手を無理矢理引き離し、隣の部屋へ連れていった。正面から向き合い、組み合う姿勢になると、腕に力を込めた。障壁物のない畳の真中で満身の力で押さえつけた。
「トオル、とにかく力をぬけ。いいか、力がぬけないかぎりだめだからな」
 トオルの息は荒い。肩をよじるように動かし、泥沼から足掻き出ようとするかのような苦しみの表情を見せる。
「どうして、会いにいっちゃ、いけないの。会って好きな人がいるかたしかめたい」 トオルは目をつぶり、呪文のようにつぶやく。
「お前が知りたいことは、ちゃんと手紙で教えてくれただろう。それでお前も、もう諦めるって約束したじゃないか」
「木村さん、大丈夫?」
 トイレから出てきた久代が、今度は心配そうにのぞきこんだ。
「お母さん、テレビ局に行って、会って聞くのはだめ?」
 久代を見た瞬間、トオルの体が蘇生したようにビクリとし、両腕の筋肉に再び力が入ってきた。                    
「久代さん、あなたはしばらくいない方がいいみたいだ」
 木村が迷わず言うと、
「そうね、下へ行ってるから」
 彼女も手慣れた口調で答えた。ターゲットが木村に移ったように見えても、狙いすましている相手が母親であることに違いはない。
 やがてトオルの呼吸音がゆっくりとしたリズムを取り戻してきた。木村はそれを確かめると、ようやく力を緩めた。瞼がわずかずつ開いてきて、呼吸につづき皮膚の色まで変化してくる。濃く欝血した顔色にじんわりとした赤みが差し、浮腫んだ表情に弛緩がおとずれだす。噴き出していた力が収縮し、エネルギーそのものが弱まってきた。
 木村は思いきって手を離した。しばらくはトオルも、動かずにじっとしていたが、木村が押さえつけていないことを知ると、ムックリと起き上がった。
「木村さん、こわい」
 目だけは以前として妖気のこもったドロンとした光を放ち、嘆願する顔になった。
「当たり前だ。お前が暴れなければ、こんなことしなくてもいいんだ」
「ボク、やっぱりわがまま? テレビ局に行ったらダメ?」
 また始まった。木村はガックリと力を落とした。トオルは目を丸く開き、木村の顔を穴の開くほど睨み返してくる。消えたとばかり思っていたエネルギーの源は、燻りからアッという間に炎を取り戻し、木村の襟首をつかんできた。
「ボクの苦しいことわかる? 木村さん」
 木村は、へたへたとその場にうずくまってしまった。その隙にトオルは、ガバッと立ち上がると踵を返し、重い体重を移動させ、階段を下りていった。
 久代が危ない。自分の油断に気がついた木村は、すぐにトオルの後を追った。 
一階では早くも母親と息子が臨戦態勢に入っていた。  
「トオル、もう、いい加減にしなさい!!」
 久代があらんかぎりの大声で叫んだ。トオルの目は吊り上がり、眉間に縦皺が走った。
「お母さん‥‥」
 甘えたような声が聞こえたかと思うと、つぎの瞬間、久代の悲鳴が店内にこだました。 トオルは久代に飛びかかるが早いか、腰にむしゃぶりつき投げ飛ばした。とどめを刺すように蹴りを入れようと身構えている。木村も半分、焼け鉢になり、二人の間に飛び込んだ。すぐにトオルの膝が彼の胸に命中する。揉み合ったままフロアを転げ回った挙げ句、再び木村が押さえつけるまでに数分かかった。
 そのとき、表口の扉がガラリと開き、客が入ってきた。ジーンズの裾が見える。
「どうしたんですか」
 驚きを精一杯押し殺した低い声が、木村の頭上で響いた。聞き覚えのある声だ。
「ちょうどいいところに来てくれたよ。ごらんのとおりさ」
 木村は表面では薄笑いを浮かべながら、痛々しく顔を顰め夕子を見上げた。
「あっ、お母さんを見てくれないか」
 木村は、久代が倒れているカウンター奥を顎で示した。
 夕子がそこへいくと、久代が腰をかがめた格好で、下腹部を手で押さえていた。
「大丈夫ですか」
 久代のこめかみには血管が浮き上がり、鈍痛に耐えていた。
「どうしましょうか」
 夕子は、耳元でそっと尋ねた。
「もう少し痛みがおさまれば、なんとかなりそうだから‥‥」 
「久代さん、とにかく俺は、トオルを外へ連れ出すよ。いいね」
 木村は、今、このときも久代の方へ睨みをきかすトオルを押さえながら言った。
「わるいが、運転してもらえないか」
「えっ、わたしが‥‥」
 夕子は、うわずった声を上げた。
 「こんなとき二人だけで乗っちゃ、危ないんだ‥‥。トオルは俺が暴れないようにしとくから。母親からしばらく離せば落ち着くだろう」
「でも‥‥」
 突然のことに不安を露わにする夕子に、
「大丈夫、何度もこうやって凌いできてるから」
 安心させるように、じっと相手の顔を見た。
 後部座席に木村がトオルと乗り、夕子が、半ば説得される形でハンドルを握った。
「どこへ行けばいいの?」
 木村は、隣町の広い公園を指定した。遊具も何もなく、芝生ばかりが敷きつめられている場所だ。
「今日は坂田さんは、どうしてるの」
 トオルの肩を抱きながら、木村は夕子の背中から声をかけた。
「さあ知らないわ。センター一緒にやってるからって、何もかも知ってるわけじゃないし」
 夕子は、自分が言い訳しているようで、どこか気が滅入った。
 木村が言ったたとおり、トオルは家から遠く離れるにつれ力がぬけ、硬さがとれてきた。 広場につくと、木村とトオルは二つ肩を並べベンチに腰かけ、言葉を交わした。
「どうだ、どんな具合だ」
「きつい」
 トオルは、頭を押さえ、呻くようにつぶやく。
「頭の中か‥‥痛いのか」
「痛い」
 相変わらずのトオル特有の鸚鵡返しの返事だったが、語尾の抑揚から落ち着きを取り戻しつつあることは、充分伝わってきた。
 久代のことも心配だったため、トオルが落ち着いてきたこともあり、ハウスへ帰ることにした。
「わたし、最初、あなたたち見たとき、けっこうトオルくんも会話もできるし、楽しそうだなって思ったのよ」
 車中、ハンドルを手に夕子はよくしゃべった。 
「だれだってそうだろうから、気にすることはないさ」
 木村は、どうにかトオルを宥めきったことで疲れがどっと溢れ、隣を注視しながらも気がぬけたように座席に深く身を沈めていた
「トオルくん、ドライブはわりと好きなのかしら」
「どちらかというとね。こないだは、図書館へ行ったばかりだよ」
「へええ、本が好きなんだ」
「だったらいいんだけど。新聞さ。マイクロに入ってるやつをかたっぱしから見ていくんだ」
 夕子は、妙に感心し、深く頷いていた。
「それから、街中を歩くのも好きかなあ」
「年頃だしね」
「けっこう気も小さくってね、あるときなんかデパートへ寄ったら、いきなり犬の人形を見てギャーッて叫んで、逃げだしたことがあったもんな」
 木村も次第に気を取り直し、体を起こすとややサービス気味に最近の話題へ移った。
「だけど女の人のマネキンだと、またぜんぜん態度が違うんだ。じっと近づいていって、胸をツンツンて指でつっつくんだよ。やっぱり、君が言うように、年頃なんだろうな」
 夕子も、ついつられて笑ってしまった。
 彼女自身、そんな二人の日頃の出来事を聞きながら、自分が初めて坂田から入浴介助を頼まれたときのことを思い出していた。三年前のときだ。
 坂田の上着から下着まで脱がせると、彼は這いながら浴室へ向かった。
「あのおー‥‥よかったら‥からだ‥‥あらってくれないか‥‥」
 脱衣場で洗濯物の整理をしていた夕子に坂田の方が、すかさず声をかけてきた。実際、洗うところまで手伝わなければ、坂田にとっては介助にならない。
「いいわよ」
 簡単に返事をした夕子だったが、いざ風呂場になると戸惑わずにはいられなかった。彼女にとっては初めての入浴介助だ。覚悟していたつもりだったが、裸体を目前にし平静を装うことは簡単ではなかった。目のやり場を意識しながら、タオルに石鹸をたっぷりつけ、上半身から下半身へ徐々に洗っていった。
 手を動かすたびに、夕子の中で泡と同じようにつかみようのない不確かなものがあった。
 坂田の上腕は、絶え間ない緊張のため発達がすさまじく、首は太くて逞しい。下半身へ移るにしたがい、自分から頼んでいながら彼は恥じらうように身をよじった。勃起した性器が目に入ると、夕子は下腹部を洗うことをやめ、いきなり膝の方へタオルをすべらせた。そのとき、この一連の誘いが坂田の念入りな計画ではないかという疑いが生じた。ふつふつとわいてくる怒りにも似た気持ちを何度も打ち消し、最後まで介護をつづけた。
 その後、何回か、入浴を手伝い、アパートへの出入りも増えたとき、坂田から好意をもっていることを告げられ、夕子は返答に困った。
 あるときだった。テレビをいっしょに見ていると、坂田の足先がひゅるひゅると伸びてき、夕子の踝やふくらはぎと触り始めた。夕子がじっとしていると、坂田の足は彼女の体を嘗めるように移動し、指は器用に胸をまさぐった。夕子はそんな坂田に応えるように相手のズボンを脱がし、手で愛撫し射精へ導いた。それから坂田はたびたび彼女を求めてきたが、関係が深まったことでむしろ、彼女の心に空虚な塊ができた。それは徐々にひきしぼられ、窮屈なしこりとなった。自分でもその原因がわからず、整理がつかぬまま、坂田とは、介助以上の関係をこの一年断ってきていた。
 ハウスに着いたとき、久代も普段の調子を取り戻しており、客が来ていると笑顔で告げた。
「ああ‥‥、すいません。‥‥連絡もせず‥‥」
 坂田だった。
 彼は夕子と申し合わせもせず、手動の車椅子で電車に乗り、やってきていた。
 押してくれたのはセンターに定期的に出入りする女子学生のボランティアだ。「ちょうどよかったじゃない。帰りは私が送っていくわよ」 
「‥‥せっかくだけど‥‥彼女、無理して来てくれてるから、‥‥食事、おごる約束してるんだ‥‥だから‥‥遠慮しとく‥‥」
 坂田は、夕子を直視せず、素っ気なく答えると、学生とばかり話していた。しかも坂田の言葉の端々に夕子に対する厳しい口調まで含まれだした。
「だいたい‥‥彼女は‥‥まだ、センターのことを‥‥よく‥‥わかってないから‥‥」
 互いの最近の運営や活動の話に移ったとき、突然坂田は矛先を夕子へ向けたてきたのだ。
「ひどいわねえ。私だって、自分なりにはやっているつもりよ」
 笑いながら反論してはいるものの、坂田と彼女との間で微妙な軋轢が起こっていることだけは、誰の目にも明らかだった。木村がトオルに目をやると、パニックの波が引いた証拠のように、自分からテーブルにつくと一心に執筆活動へ移っていた。窓の外では冷たい風が、銀杏の梢を揺らし、黄金色の葉を数枚かさこそ落としていた。
 
    五  スイッチ・バック

 夕子は、つらつらと夢のつづきでも見ていたように、ベッドにまどろんでいたが、すぐに真っ白な情景になり、現実に引き戻されるのにそう時間はかからなかった。梅雨がようやく明け、カーテン越しの日差しも強まってきていた。遠くこだまするような連続音がどこからかして、徐々に高く鮮明になっていった。電話のベルだ。
「あっ‥‥ぼくだよ‥‥ごめん‥‥、休みなのに‥‥朝‥‥早くから‥‥今日、映画でも‥‥見ないかと思って‥‥」
 声には、交差点の歩行の音楽や車のクラクションが微かに混ざっていた。
「Jで‥‥十時に‥‥待っているよ」
 いつも落ち合う喫茶店の名だ。段差もなく、電動車椅子で入れる数少ない場所だ。時計の針は、八時を差している。
 夕子は映画の題名に惹かれ、出かけてみることにした。
 店では坂田が奥のテーブルにいた。映画の上映時間までまだ一時間があった。
 二人はそろってアイスコーヒーを注文し、白い陶器のタンブラーに注がれた琥珀色の液体画やってくると、夕子はまず坂田のに先に慣れた手つきでシロップとミルクを入れ、ストローを突き刺すとそれで混ぜた。
 坂田はお礼を言い、首を傾けるとストローをくわえ一口吸い込んだ。唇が濡れ、明かりに照らされ、光っている。両腕はバランスをとるため小さくすぼめられていた。
 夕子は、付き合い出した頃は頻繁に坂田の口元をティッシュやハンカチで拭きとっていた。そのころ、坂田を介護することは夕子の特権であり、責任のようになっていた。特に周りに人がいると優越感さえ感じるほどだった。だが、最近は口の周りも食事の終わりにまとめてぬぐうようになり、傍からどう思われようが気にもならなくなった。
 夕子は、大学に入ってすぐに、ある男と付き合ったことがある。彼女にとって、「初めての男」だ。ところが、様々な場で見せる相手の姿にしだいに熱も薄らぎ、充足とは程遠い、憎悪のようなものさえ持ち始めた。
 華奢な体つきであっても、男はときとして自分を誇らしげに鼓舞し、振舞った。夕子は最初のうちは遠慮し、相手を立てる言動をとった。だが、徐々に自分が否定され、押し退けられる場面が増えてくると、一つ一つ言葉を返すようになった。相手はその都度ムキになり、どう見ても自分に非があることさえ認めず、夕子の言葉尻をとらえ攻めてきた。本題とは関係ないことにこだわる姿は、まるで子どもそのものだった。やがてそんな繰り返しにも疲れ、相手への愛情も薄らいできていることに気づいた彼女は、それ以上傷つけあうことを避けようと、別れたい気持ちを告白した。だが、そのときでさえ男は、強引に肉体を求めるばかりか、要求さえ反故にしようとした。夕子は溜まっていた不満を爆発させ、思いきり相手を突き飛ばしていた。
 そんな夕子が、希望を失おうとしていた矢先、巡り会ったのが坂田だ。
 坂田には他の男たちと違う何かがあった。障害者ゆえに、腕力が弱いことは、夕子をむしろ安心させた。二人きりで警戒心をもたなくていい男に初めて出会ったのだった。
 坂田のグラスが空になりつつあった。唇から雫が垂れている。ほっておこうか。ちょっとした悪戯心が夕子に湧くが、ハンカチを持った手の方が先に動いた。
「あ、あり、がとう‥‥」
 坂田は、来たときからどこか思案げな夕子に曇りのような空気を感じ、他人行儀に礼を言った。
 映画館は、少し離れたアーケード街にある。通りに出ると坂田は、モーターのレバーを巧みに動かし、人通りを縫うように車椅子を走らせ、ときどき彼女の歩調に合わせて停止した。エレベーターを使い、四階に上がると、形式的に障害者手帳を見せる。車椅子を専用のスペースに設置し、彼女はすぐ前の座席に腰を下ろした。
 照明が消えた。坂田はなぜか緊張が解け、ときおり夕子の肩口を見ながらスクリーンを追った。いつの頃からか映画館の暗闇が彼にとり、落ち着く空間になった。
 かつて外出することは坂田にとって一つの意志表示のようなものだった。周囲の彼への気の配り方や逸らし方がぎこちなければないほど、自分の社会に対する行動への歯応えのようなものを感じ、心地よかった。だが、次第に、本気で坂田が主張すれことで冷ややかになっていく外からの眼差しを感じ始めた。それまで苦にもしなかった周囲の目が、好奇や物珍しさだけでなく彼への嫌悪感さえつつみ、どこまでも彼を執拗に追いかけてくるように思えるようになった。
 彼自身、自分の体のことを幼児期までまったく気にしていなかった。盆や正月に親戚が集まり、同じ年頃の従兄弟たちが自分の真似を面白そうにしているのを見て、もしかすると違うのかと感じ始めた。
 養護学校の高等部を卒業後、親の反対を押し切り、一人暮らしを始めた。   
 両親は施設に入ることを強くすすめたが、本人は頑なに断った。一度入ってしまえば、二度と外の空気が吸えぬことを坂田は充分知っていたからだ。お前が一人でいったい何ができる、あれもできない、これもできないと両親はできないことばかりを並べ立て、言うことを聞かなければ親子の縁を切るとまで言った。親の前では神妙に話を聞いていた坂田だったが、一方では仲間三人で作業所を立上げる準備を着々とすすめていた。一年の準備期間を終え、作業所がオープンするとその作業所の近くで一人暮らしを始めた。坂田の住んでいる地域では当時、まだ障害者の自立への動きは珍しく、地元の新聞に記事を載せてもらったこともあり、情報をつかんだ夕子が坂田の前に姿をあらわしたのである。センターができてちょうど四年たったときだ。
 映画が終わった。
 夕食は、坂田がごちそうしたいとレストランへ誘ったが、彼女の方から断った。
「そんなにムリしなくても‥‥。私がつくってあげるからアパートで食べよう」
「でも‥‥わざわざ‥‥付き合ってくれたんだし‥‥」
「わざわざじゃないわ。自分で見たいから来たのよ」
 喫茶店につづいて二度目の相手の卑下したような言動に、夕子は苛つきを持った。坂田も、そんな夕子の気持ちに気づきながらも、相手の機嫌をとってしまう自分をどうすることもできなかった。
 二人には、ここ最近、こうした場面が増えてきている。
 夕子が、一足先に車でアパートへ帰り、夕食の支度をしておくことにした。
 介護者がいないとき、足でスプーンを持って食べる坂田は、上体を極度に前傾することが多く、消化器系は弱っている。彼女は油っこいものはできるだけ避け、根菜類を中心に拵えた。料理を一品つくり終えたころ、車椅子のモーター音が、コンクリートの土間で規則的な律動をつくり、鮮明に響いた。
 夕子は玄関を開け、誘導した。車椅子から体が下りるであろうところにクッションを置き、渾身の力で相手を持ち上げ、床に落ちてもダメージが少ないようにしておく。
「わるい‥‥わるい‥遅くなって‥‥」
 坂田は、またもや気兼ねしたもの言いをした。次第に無愛想になる自分をどうにか抑えつつ、口元に微妙な笑みを浮かべ、夕子は食器を並べた。途中、電話が鳴った。
「はい‥‥坂田ですが‥‥」
 巧みに足先で受話器をつかみ、耳元へ持っていく。
「ああ‥‥木村さん‥おひさしぶりですね‥‥‥」
 坂田は、嫌悪な空気の流れていた場に絶好の転機がきたとばかりに、受話器に吸い付くようにしばらく相手と話した後、
「あのー‥‥、今、となりに‥‥木村さんと話したい人がきてるんだけど‥‥かわりますね‥‥」
 今度は、もったいぶった口ぶりで、ゆっくりと夕子へ差し出してきた。彼女にはそれがまるで、夕餉をいっしょにしていることを自慢するかのような当てつけがましい行為に映り、小さな声で「私、話したいなんて言ってないよ」と抗議しながら、それでもできるだけ表情を変えず、受話器を手にした。
「夕子です ‥‥」
 自分のどんな些細な変化も見逃さず眺めている坂田の狙いに気づきながらも、木村の声を聞くと、どこかでさっきまで喉につまっていたものが溶け、管を流れ、体の奥へ広がっていく感覚をおぼえた。声の調子がわずかに上ずったことを坂田は聞き逃さなかった。
 受話器を置くが早いか、坂田が顔色をうかがうように、聞いてきた。
「どうする‥‥」
 ハウスで開くミニコンサートの誘いであることは、坂田も知っていた。夕子が黙っていると坂田が頬を収縮させ、胸を反り気味に首を大きく伸ばした。力んだときの姿勢だ。
「ぼくは‥‥いかないけどー‥‥」
「でも、あなた顧問でしょう」
 夕子は、予想どおりの相手の反応に用意していた言葉を返した。
「ああ‥‥、あれは‥‥‥頼まれたから‥‥仕方なく‥‥やったのさ」
 彼もまた、夕子の返事を予想していたとばかりに、声色を強めた。
「私は行くわよ」
 夕子はさらりと言った。
「どうして?」
「だって、木村さんにとって、初めての企画なのよ。応援に行くのは当然でしょう」
 いかにも自分が正論だというように明瞭に告げる夕子を、坂田は一瞥した。
「きみは‥‥、コンサートの応援より‥‥、本当の目的は‥木村じゃないのか」
 木村が二人の目の前にあらわれてから次第に膨らむ坂田のわだかまりが、堰を切ったように溢れ出した。言った手前、後には引けぬこともわかっていたが、はっきりさせたい欲求に打ち勝てなかった。
「ああ、最近、何か変だなあって思っていたのはそれだったのね‥‥」 
 夕子も次第に激してきた。瞳の向こうには、坂田ではなく、かつて別れた男の絡めとろうとする筋張った腕が見えた。
「そんな、適当な気持ちで付き合えないことぐらい、あなた自身が一番わかってるでしょう‥‥」
 そこまで言って、夕子はハッとなった。感情を抑えている堤防がちょっとした水漏れから徐々に崩れようとしている。彼女は掌を握りしめ、塞き止めようと必死になった。そんな夕子を坂田は避けるように、一人黙々と食事をつづけた。
 ミニコンサートは、地元のアマチャアバンドだったが、ユニークなものだった。
 トオルも体でリズムをとり、踊っていた。巨木のような体が、バネのように弾んでいた。見違えるような躍動感を漲らせるトオルを見ていると夕子には、パニックが嘘のように思えてくる。
「こだわっていた女性キャスターから手紙もらったんだよ。彼氏はいませんから、安心してくださいって」
 木村はテレビ局に直談判し、再度、手紙を書いてもらうことの承諾を得た。しかも相手は、またこだわりが生まれた場合、どうかこれからは自分になりかわり書いてほしい、と懇切丁寧な文章を添え、局用の封筒と便箋も数枚同封されていた。
「彼氏の件は、本当かどうかはわからないけどね、できればそう書いてほしいってこっちから頼んだのさ。何でも言ってはみるもんだね」
 カウンターではミチコと並んで帽子をかぶった背の高い男が、コーヒーを煎れていた。「これ、どこへ持っていけばいい?」
 コーヒーカップを盆に載せた矢野が、ぶっきらぼうに尋ねると、木村が丁寧に教えた。夕子もコーヒーを口にふくんだが、苦みがなく、風味と香りを逃さずなかなかのものだった。
 京子の姿が見えないので、彼女は木村に聞いてみた。
「あれ以来、何度誘ってもだめなんだ」
 木村の顔色は冴えない。
「せっかく知り合ったのにね」
「けっきょく彼女には、ここはまだ必要ない場所なんだろう」
 諦めきれなさそうな木村に、彼女も残念そうに俯いた。
「ところで坂田くんは」
 気を取り直すように、やや尻上がりな口調で問い返してきた木村に、今度は夕子が、
「きたくないんだって」
 溜息をつき、カップの中のコーヒーをじっと見つめた。木村がその理由を夕子に聞こうとしないことが、彼女には救いだった。
 コンサートが終わり、バンドを送り出してから矢野が腰に奇妙なものをぶら下げていることにミチコが気づいた。
「矢野さあん、それなーに。煙草入れ?」
 意味ありげな含み笑いを浮かべ、矢野はミチコに近づいた。ゆっくり皮製のケースをベルトから抜き取る。ボタン式の丸みをもった蓋を開け、中から光沢を浮かべた鉄の輪を取り出すと、ミチコに叫んだ。
「サエキミチコ、タイホスル」
 腕をつかまえ、斜めに輪っかを落とした。本物そっくりの手錠が、ミチコの手首にしっかりと食い込んでいる。ミチコは尻込みし、悲鳴を上げた。
「冗談はやめて。ひろしくんが泣く」
「あれっ、ひろしくんとは別れたんじゃなかったの?」
 木村が冷やかした。いつもなら、すぐに冗談で返すミチコがべそをかいたため、その場が白けてしまった。
「矢野さん、鍵は?」
 心配そうに久代が尋ねると、ミチコの表情はみるみる悲愴感を増してきた。頬が紅潮し、額には汗の粒が光り、瞳も真赤に充血している。
「鍵‥‥、ええと‥‥どこだっけ‥‥」
 矢野は何度も頭を掻いた。演技とは思えず、木村もジャンバーのポケットを全部確かめさせ、ようやく見つかるとミチコも半分泣き顔のまま、腕を差し出した。
「矢野さん、これ、どこで手にいれたの」
「質流れで出てたんだよ」
 矢野は、眉を固く顰め、真面目な顔になった
 「矢野さんらしいわね」
 久代が感心しきったふうに、つぶやいた。
 夕子は、センターにはない風景を呆気にとられながらも、頬笑ましく眺めていた。
 その夜、ひととおり片づけを終えてから、木村は坂田のアパートへ向かった。実は朝早くにぜひ話したいことがあると直接、電話をもらっていたのだ。車を運転しながら、ヘッドライトが一つ行き過ぎるたびに、幻影のように坂田の顔が浮かび上がり、それが容易に吹き消せず、濃く淀んだ空気がこちらの車体をひと呑みしていくようだった。
 坂田は、蛍光灯の小さな豆球を一つ灯し、しゃがんだ姿勢で待っていた。
「明かりもつけずどうしたの? 今日は来てくれるだろうって、楽しみにしていたのに」
 木村は、努めて明るい口調で言った。
 煙草を吸ったらしく、うっすらとガスが満ちたように靄った薄闇の中で、いつもとは違う張りつめた気配がその部屋を領していた。
 坂田はときが来たとばかりに、ぼそりと、しかし躊躇なく言った。
「きみもやっぱり、ぼくを厄介者にするんだろう?」
 目には射るような鋭い光があった。首筋には血管が太く浮き上がっている。カップにストローが差され、アルコールの匂いがした。
「‥‥まさか‥‥、君と夕子ができてたなんて」
 思いもかけぬ一言に、木村は言葉を失った。坂田の勘違いを指摘するだけの余裕がもてなかった。
「きみは‥‥いったい‥‥、‥‥何しに‥‥ここへ‥‥来てたんだ?」
 坂田は頬を引きつらせ、卑屈な笑いを浮かべた。微かな息が、罅の入った唇から漏れる。
「オレが‥‥必要できたのか。それとも‥‥、夕子が‥‥目的か。もしかして、オレがこんな体だったから‥‥、それで夕子にたやすく‥‥近づけるとでも‥‥思ったのか」
 木村は固く口を結んだままだ。坂田は吐き捨てるように言った。
「おまえを‥‥殴って‥‥やりたい」
 殴りたければ、殴ればいい。そう言いかけた木村の目に、坂田の歪んだ肢体が目に入った。もちろん坂田は坂田なりに木村と格闘することも可能だろう。しかし、果たしてそれが、どんな意味があるのか。木村には、あまりに馬鹿げた猿芝居のように思え、なお一層黙り込むしかなった。
 木村が、カーテンの閉められていないサッシ窓から覗く外灯にチラリと目をやったときだった。怒濤のように耳といわず体全体をかき乱す喚き声がした。同時に、肉が硬質なものにぶつかる鈍い音とともに激しい振動が起こり、何者かが一挙に視界を塞いだ。木村は、一瞬、状況の判断がつかめなかった。
 坂田が棚を利用し、強引に肘でつっぱり直立を果たしたものの、それが精一杯でそのまま倒れ込んできたのだった。素早い動きで避けた木村は、反対に相手の体を手で受けとめ、床との直撃を防いだ。反動で倒れた木村の頬には、坂田の熱い吐息が波打つように当たっている。同時に、電車の警笛が、けたたましく鳴った。組み伏す二人の上に覆い被さるように、その音は坂田の嗚咽とも絶叫ともつけぬ肉声と重り、夜の闇を切り裂いた。

     六 終点

 首のつけ根が、熱を持ったように硬くこわばっていた。
 昨夜の木村との不甲斐ない格闘のせいだろうか。坂田は、窓を閉め切りじわじわとまた温度が上がってきている自分の部屋に目を向けた。煙草の焦げ跡のついた濃緑の絨毯から、饐えたビールの匂いが立ち昇っている。すぐ横には空缶が転がり、灰皿から舞い落ちたであろう無数の灰が、細かに散り積もっていた。体を小さく畳みながら膝や腕をだらりと落とし、胸をそのまま床に押しつけていると、ぜいぜいと不吉な音が喉元へ込み上げ、滞った息が出口を求め、あちこちにぶつかっていくようだ。 
 手足の痺れが微妙に増してきたの感じたのは三月辺りだ。それからここ一月、時折り声を押し殺し我慢しなければならいほどの痛みが襲ってくるようになった。症状の悪化を、まだ誰にも訴えていない。
 今は、ただ静かに眠りたい。坂田はゆっくり瞼を閉じた。
 坂田は夢想する。
 木村と夕子が肩を並べ繁華街を歩いている。少々強い風も、通りの一角に迷い込めば適度な流れとなり、心地よく二人をつつむ。歩幅は均衡を保ち、軽やかに足先が地を踏み、膝や手首までリズムを刻む。工事のため、溝に蓋された赤錆けた鉄のスレートのでっぱりやスコップで堀り起こされた穴ぼこも、注意すれば支障はない。
 白熱灯が内側から文字を浮かび上がらせるレストランの看板が見えてきた。通りに面した角に手摺があり、その先は地下へつづく螺旋の階段だ。二人は甲高い音を響かせ、手摺にも触らず、下り出した。
 坂田は想像しながら、思わず苦笑してしまう。
 皆、うまいものだ。俺とは来れない場所を使い分け、利用している。都合のいいときいっしょにいて、悪くなれば離れていく。
 坂田は、遠く離れて行こうとする像を繋ぎ止めようと焦った。夢想は、まだつづいた。 
テーブルについた木村と夕子は食事を始めた。フォークとナイフで肉を切り、取り皿にサラダを分け、口に運び、咀嚼する。やがて注文していたビールを注ぎ、乾杯のグラスを傾け、淡い泡のかかった液体を胃へと流し込む。それぞれに食欲を満たし、喉の渇きを潤していく。酔いが血管の隅々に伝わり、火照った体を弄しながら、誰に気遣う必要も、そこにはない。
 二人は顔を合わせ、坂田の話題へ移る。
「今ごろ、どうしているかしら」
「彼のことだ、きっとうまくやっているさ」
 坂田は、唇を噛んだ。自分がどうにかやっているところしか、あいつらは知らない。
 そのとき、目鼻立ちのくっきりとした二人の像が、突然、フェイド・アウトしたように暗幕を被り黒い塊になった。二人の額の辺りから亀裂が入り、破損が生まれてきている。同時に想像していた坂田の方にも、背中から頸部にかけ傷口のように引きつる痛みが走り、それをむりに動かそうとすれば反対に引っぱり上げ抗おうとする感覚を覚えた。 
 食事を終えた二人はどこへいくのだろうか。坂田は必死に追おうとするが、罅の入った像をうまく繋ぎ合わせることができない。坂田の想像での追跡のスピードはさらに遅くなった。こうしている間にも、足下から光は消え、闇は濃くなる。疲れきった坂田の視界は、ついにその場で閉じ、深い落胆の中に沈んでいった。
 夕子からハウスへ電話があったのは、それから一週間後、日が暮れてからだった。
 久代が受け、木村にすみやかに連絡された。
「坂田さんが、救急車で運ばれたそうよ」
 両目をかっと見開いた顔つきから、とんでもないことが起こったと察しがついた木村も、さすがに原因を憶測すると、暗澹とした気になった。泥酔し横たわった坂田の姿が、そのときはっきりと脳裏に甦っていた。毛布こそかけはしたものの、そのままにして来たことが悔やまれた。
 病院では、第一発見者の夕子が、坂田に付き添っていた。
 脱水症状と栄養失調による衰弱であることを、彼女は医師から告げられていた。
 木村からコンサートへの誘いが電話であった後、夕子も坂田と口論となり、コンサートへ行くのなら、センターだけでなくアパートにさえ来るなと言われていたのだった。彼女も、あまりの相手の独りよがりな短絡さに呆れ、数日間はその仕返しとばかりにじっと出方を窺っていたが、パタリと連絡がないことにしだいに胸が騒ぎだし、ついに合い鍵で扉を開け、様子を見に行ったのだった。
 玄関から上がってすぐの台所の床にはインスタントの容器が散らばり、フォークがそのまま突っ込まれたり、汁を残した容器が無造作に置かれていた。粉をこぼしたのか床板の上はざらざらし、饐えた臭いがした。やがて、視界に気をとられていた耳に不規則な間で、低い呻き声が聞こえてきた。おそるおそるガラス戸の奥へ首を突っ込み目を凝らすと、痩せ衰え意識朦朧とした坂田が、顔を天井へ向け、荒い息をしていたのだった。
 坂田の左腕の静脈には点滴の管が通され、その隣りで夕子が静かに彼を見つめていた。
 彼女の顔は、坂田が回復したことにとりあえず安堵の色を浮かべながらも、どこか不審の色が残っていた。坂田は、暴言を吐いたことを謝らねばと思いながら、なかなかできず、薄目を開けてはまた閉じ、眠ったふりをつづけていた。
「坂田くん」
 そんな相手の心理を知ってか、夕子が、相手がわずかに首を動かそうとしたタイミングを捉え、口を開いた。
「あんまりよ。なんの連絡もしないで‥‥」
「ごめん‥‥。自分でも‥‥なんでこんなことをしたのか‥‥、正直‥‥わからない」 坂田は、眉をよじり、顔を歪めた。
「あなた、もしかして私と木村さんとのことを本気で‥‥」
 勘繰るように、斜に構え問いかけた。
「そうじゃない‥‥、そうじゃ‥‥」
 坂田の唇が、顫えた。夕子は視線を逸らし、俯き加減になった。できるだけ心の動きを抑え、意識を集中させようとした。病身の相手に言うべきかどうか迷ったが、彼女もまたはっきりせねば先へ進めぬジレンマにいた。
「私も、最近、あなたとのことで、いろいろ考えていたのは事実よ」
 吊り下げられたビニールのパックから一滴ずつ栄養液が時を刻むように落ち、坂田の血管へ送り込まれてくる。彼は物憂い鼓動を静脈の中に感じ、ゆっくり目を閉じ息をのんだ
「でも、わからなかった。だけど‥‥」
 それからしばらく間を置き、決意したように言った。
「やっぱりアパートへ行ったのよ。あなたのことが心配で‥‥」
 夕子の声に、小さなビブラートがかかった。
「私は、あなたのことを責められない‥‥」
 胸につまっているものを必死に取り出そうとする、苦しげなつぶやきだった。
「けっきょく私は、あなたに障害があることで自分が自分らしくふるまえることにホッとしていたのかもしれない。それは、あなたを愛しているということになるのかどうか‥‥少し違うような気がしてきたの」
 息をつぐことなく言い終わり、深くうなだれた。坂田は、内心うろたえながらも、結論が引き延ばされたようで、胸をなで下ろしていた。俯きながらも、夕子は、ベッドにいる坂田が今何を考え、感じているのか、その中へ強引に割り込もうとしている自分に残酷な匂いを嗅ぎとっていた。だが一度、動き出した歯車は相変わらずカタカタ音を響かせ、回りつづけている。夕子は顔を上げ、つづけた。
「でも、ひとつだけ、あなたのことでも、わからないことがあるの」
 坂田の体内で、鼓動が大きく響きながら、今度は厚みを持った明瞭な質感を保ち迫ってきた。
「坂田くん、あなたは私のどこに惹かれたの?」
 彼は、瞼をさらにつよく閉じた。坂田は眠りたかった。深い拘泥に埋没したかった。 「もう少し、正直に言うわね‥‥」
 夕子の声から、顫えが消えた。
「あなたは私が健常者だったから、つきあったの?」
 その問いは彼の内側へ数珠繋ぎとなってなだれ落ちた。どこかで差し止めねばと必死に抗した。彼女は眉を動かし、相手との間合いを図るよう息を整えた。
「実はね。私、入院に必要なものを持ってこようって、アパートへもどって荷物をまとめていたら、偶然見つけちゃったの」
 坂田は言葉が出なかった。棚の奥の方にこっそりしまっていたアダルトビデオのことが、とっさに思い出された。
「あ、‥あれは、‥ちょっと‥‥」
 一転しての相手の物怖じした反応に、夕子は訝しげな顔をし、首をかしげた。
「私が見つけたのは、あなた宛の京子さんからの手紙なんだけど」
 緊張の中に、一瞬、間が抜けた空気が流れた。坂田は記憶の糸をたぐりよせたが、自分でも、それをどこへ仕舞ったか、すぐには思い出せなかった。
「ごみ箱の中にくしゃくしゃになって入ってたの」
 そこまで言われ、ようやく合点がいった。
 手紙は、二日前の夕方、まだなんとか動けた最後の日、郵便で届いたものだ。ろくな食事もせず、アルコール漬けになっていた彼は、這いずりながら取りに行き、朦朧とした中に、ざっと目を通すと、丸めて捨ててしまった。
 二枚の紙に、坂田がかつて養護学校を卒業するとき彼へ恋心を告げてきた京子に、自分が将来、健常者の恋人を見つけたいことを告げ交際を断った日のことが書かれていて、その言葉通り、願いを叶えられたことへの祝福のエールが皮肉めいた口調もなく、素直に羨ましい思いを込めワープロ文字で書かれてあった。
 坂田は弁解するつもりはなかった。付き合う異性の相手として、障害者を対象から外していたことに、気のとがめはない。ただ、そのことをどう話せばいいのか、彼自身、混乱していた。 目を閉じていた坂田は、思い切って瞳を開けた。彼女は俯き、長い睫が陰りを帯びた横顔で微かに動いた。彼は、いつもよりさらに一語一語途切れがちに、言葉を発した。  
「‥夕子‥‥、ぼくは‥‥、自殺‥‥しようとした‥‥わけ‥‥じゃないよ」
 彼女は、伏し目がちのまま顔を上げた。
「とにかく‥‥だれの力も‥‥かりたく‥‥なかった。自分‥‥一人で‥‥健常者たちと‥‥同じように‥‥やれるだけやって‥‥、それで‥死んだら‥‥しょうがないと‥‥思っただけさ」
 話し終わるやいなや、夕子の顔は眉間を中心に激しく動き、引き絞られるように皺を刻み込んだ。ベッドの坂田はその気迫に圧倒された。
「それで、気がすんだわけ。かっこつけないでよ」
 大きな叫びの後、坂田を睨みつけた。両目は悲しく見開かれ、涙で潤んでいた。  
 木村は病院へ行く途中、久代が夕子から頼まれたものを取りに、坂田のアパートへ立ち寄っていた。
「夕子さんから電話があって、鍵は電気のメーターの上に置いてあるから、中に入ってとってきてだって」
 久代に言われたとおり、鍵を見つけ、扉を開けた。スイッチを探し、明かりをつけた。「テレビの上に置いてあるそうだから、すぐにわかるそうよ」
 久代は電話口から、かいつまんで説明した。
「私も行きたいけど、トオルの調子がよくないから‥‥」
「わかってるよ」
 木村は心配はいらないというように、穏やかに答えた。
 それは、テレビの上ではなく、床に倒れていた。飾り棚の中にきちんと並べてあればつややかな光沢を浮かべ、輝きを放つに違いない。外国製の洒落た金メッキのベルだ。
 ベルのことを木村は以前、直接、坂田から聞いて知っていた。木村が何の気なしに触り、一度鳴らしたことがあったのだ。
「かわいいものを飾ってるね」
「まえに‥‥入院したとき‥‥同じ病室の人から‥‥もらったんだ」
 木村は、また二度ほどふった。音は鈴虫の音に似て、甲高い残響を部屋の中に満たした。
 坂田は、作業所を始め運営が最も厳しかった五年ほど前、過度なストレスによる十二指腸潰瘍のため、手術を受けていた。入院し、術後、縫合した下腹部が痛み、安静にしなければならなかったとき、緊急のブザーが渡されたが、すぐにそれが役目を果たさないことがわかった。握りのない丸っこいスイッチの部分をつかみ、指を当て押し込むことは、彼にはむずかしかった。
「あら、どうしたらいいかしらねえ」
 看護士が困り果てたとき、相部屋の男が声をかけた。
「これを使ったらどうかなあ」
 無造作に差し出されたのが、娘からのプレゼントだと飾り物にしていたベルだった。輪っかは坂田の右の人差指に、ちょうど鈎のようにひっかけることができた。
「せっかくなんだけどごめんなさい。これじゃ、ナースステーションまで届かないの」 
 看護士はいかにも申し訳なさそうに言った。
「ぼくが、気がつけばいいんでしょう」
 敷布団のカバーの裾を直しにかかった看護士は、キョトンとして顔を上げた。
「ぼくか、廊下を歩いている誰かが気づいて、かわりに知らせるか、ブザーを押せばいいことじゃないですか」
「あっ、そうよね。でも、夜中に寝ているときでもいいかしら」
「相部屋なんだから、やるしかないでしょう」
 幸い、あまりベルをふることはなかったらしい。それでも何度か使ったそうだ。隣の男が呼んでくれたこともあったし、誰もいないとき鳴らしつづけ、どう経由したのか看護士がやってきた。今度、坂田が入院したのも同じ病院だった。
「とにかく‥‥安心‥‥したんですよ。目の前に‥‥あるだけで‥‥。それが‥‥大きかった‥‥ですね」
 坂田は、あどけない眼差しで、微笑んだ。
 木村は、誰もいない部屋で鳴らしてみた。金属が軽く打ち鳴らされるその音は、主人のいなくなった部屋を駆け巡り、木村をつつみ独特の振動で鼓膜を顫わせた。
 もしかすると‥‥。テレビから落ちているということは、坂田は、最後に、このベルを鳴らしたのではないか。木村は胸騒ぎを覚えた。それがもし、かろうじて夕子にだけ聞きとられ、彼女をここまで連れて来させたとしたら‥‥。
 そのとき、突然大きく電気仕掛けのベルが、耳をつんざくように鳴った。駅から聞こえてくる電車の発車の合図だ。瞬間、木村には走馬灯のように、今まさに出発しようとしている列車の乗客たちの顔が見えた。トオルが弾んでいる。久代がその隣で心配そうに座っていた。矢野はミチコに話しかけ、京子は椅子にもたれ、目を閉じ、眠ろうとしていた。そして坂田と夕子は通路を挟み、お互いに木村の方をじっと見つめている。
 再び、大きなベルが鳴った。今度は、音は一定の波長で木村の意識へ割って入り、坂田と組み合ったあの夜のことを思い出させた。
「君は、いったい、何しに、ここへ来てたんだ?」
 坂田の掠れ声の問いかけが耳朶に甦るとともに、その言葉に呼び起こされるように重石のように固めていた硬い層が微妙に揺れ動くのを、木村は感じずにはいられなかった。 
その層の奥に彼が忘れようにも忘れられぬ、ある特別な記憶があった。
外には木枯らしが吹いていた昨年末のことだ。暖冬との予測を裏切り、身を切る寒さが連日やってきていた。
 パン工房や全体の骨組みはできたものの、最後の仕上げの内装は完成しておらず、木村はトオルを見ながら、相変わらず羽目板をつけたり、漆喰で壁塗りをやる仕事をつづけていた。そんな中、当然、トオルへの対応はおろそかになり、こだわりが増え、状態はわるくなっていた。その頃、トオルはテレビに出演する通行人が、プロの俳優かどうかにこだわり、木村はテレビ局へ頼み、出演者名のわかる資料をコピーしてもらい急場を凌いでいた。それでも、先に始めていたパンだけの収入に頼ってもいられず、運営資金を少しでも稼ぐため、年末の宅急便の依託配送をやることになったのだった。

「木村さん、どうして忘れたの?」
 どうにかその日も仕事の終盤に差しかかり、最終の荷物になっていた。その日は、朝からいくどとなく同じ質問をトオルは助手席から繰り返していた。というのも前日、再びテレビ局へ、通行人の正体をはっきりさせるための新たな資料を手に入れたい主旨の手紙を出すことを約束していた木村は、それをうっかり忘れていたのだ。
「どうして?」
「そりゃあ、俺だって疲れて寝てしまうことだってあるさ」
 木村は、もう少し丁寧に答えねばと思いながら、慣れぬ仕事をこなしていかなければならないこともあって、午前中はほとんどまともな対応ができず配達に専念した。
「木村さん、どうして忘れたの?」
 車に乗り込むや、トオルが聞いてきた。後は山間の集落へ配り終えるだけだった。
「だから言ったろう。疲れて寝たって。別に忘れたわけじゃないよ」
 二人の間にしばらく沈黙が流れた。車の通りが少なくなった道路へさしかかったときだった。それは突然やってきた。木村が、カセットでも聞こうとスイッチを入れるため、トオルの側へ手を伸ばした瞬間だった。
 トオルがいきなり体ごと襲いかかり、木村に殴りかかってきたのだった。トオルの左の拳が木村の顎をフック気味に直撃し、一瞬目の前が真っ白になった。一七十センチ、七十五キロの体が、一つの塊となり、木村に襲いかかってきていた。木村が力づくで抑えようとすればするほど、ますますそれを外へ向け爆発させていく悪循環に陥っていることは明らかだった。それでも木村は、ハンドルから手を離さずに、体の半分で抗し、どうにか道路の脇へ車を止めることができた。
 停車させるやいなや両手が空くと、今度は堪えていたものを吐き出すかのように木村は力一杯トオルを殴りつけ、助手席の扉を開けていた。自分の側の扉も開け、上部の縁に手をかけ反動をつけると、靴の底でトオル目掛け思いっきり蹴り込んだ。対向車が少ないことが幸いしたことは確かだった。
「とっとと下りろ! お前なんかと、だれがいっしょにいるものか」
 木村も必死だった。
 とにかく死ななかったことだけが事実として、そのときは残っていたが、それさえもすぐには信じられぬことだった。恐怖の中に、まだ肉体も精神も、そのほとんどがいた。まさか車を運転しているとき隣から殴りつけられてくることなど、想像だにしていなかった。すべてがぶるぶる音でもしそうなくらいに顫えていた。その顫えをそのまま今度は彼自身が暴力にかえ、トオルに挑みかかっていた。
 あれほど腕力で抑えつけることだけはしまいと心に決め、トオルの側に立とうと思っていた自分が嘘のようで、唖然とさせられた。まさか直接的な暴力を使う最初の相手が、よりによってトオルになろうとは思ってもいなく、虚しさの中で、二人で作業所をつくってきた日々がガラガラと音を立て崩れ去っていくように思えた。
 狙いがずれ口の中を切ったトオルは、真っ赤な血を噴き出し、血痕が扉に飛び散った。
「下りろよ、さっさと下りろ!」
 まったく動こうとしないトオルに痺れを切らし、木村は、今度は自分から車を下り、トオルの側へ回りこむと外から彼を引きずり出した。襟元をつかみ車体に押しつけ、何度も何度も同じ言葉をたたきつけた。
「お前、いったい何を考えてるんだ。死んでもいいのか! 俺はちゃんと事情を話してるだろう。どうしてわからない」
 時折り車が来ても、ただ慎重によけ、通り過ぎていくだけだ。
 木村は彼を置き、本気で一人で帰るつもりでいた。
 隙を見て運転席に乗り込むと、急いでロックをかけようと試みた。しかし、トオルもすかさず扉に手をかけ、中へ入ってきた。
 血で真っ赤になった歯でニッと笑い「もうしません、もうしません」と繰り返し「約束、約束」と小指を差し出してくるのだった。真っ赤な口もとに落ち窪んだ目、蒼い痣を見ているだけで、さっき蹴り上げた木村の靴底がかなり強く顔面に命中したことは確かだった。
「もう、お前は信じられないよ」
 木村は、吐き捨てるように言った。
「信じろと言う方が無理なんだ」
「どうして?」
「お前は、また約束をやぶるさ。これまでだって何回もそうやって、イライラしてくると周りの人に暴力をしてきただろうが」
「もうしません」
「そう言いながら、こうやって手を出してくるのがお前なんだ。もうしないと言ったって、またやるにきまっているさ」
 木村の息は荒かった。
「だからしませんって」
 トオルが甘えたような、得意の泣きじゃくる声で反応してきた。
「違う、違う。トオル、そんなことじゃないんだ。お前はまたやるよ。俺やお母さんにまた同じことをする。ほら、もう肩に力が入ってきただろう。しないとか、謝まってくれって言ってるんじゃない。そうするのがやっぱりトオルだって言ってるんだ」
 木村の瞼の奥が熱くなり、込み上げてくるものを感じると、彼は必死に耐えた。トオルとかかわりだしどこかで過敏になっていた神経にとどめを刺されるかのように、厚い膜が襞の奥まで覆いかぶさり、細胞ごと潰しにかかっているかのようだ。トオルは、相変わらず凄まじい形相をしていた。それでもまた、いつさらなる反撃がくるかわからず、そのことを考えただけでも木村はトオルを乗せ、再び車を走らせることができなかった。だが、引き返すべきか、林道に入り、届け先へ行くべきかは明らかだった。少し距離は長くとも車の少ない山道をゆっくり進む以外ない。
「ほんとうに約束守れるか?」
 木村は、ほとんど意味のない質問でもせずにはいられなかった。
「守れる」
「今度またあったら、ぜったい下りてもらうからな」
 木村は取り戻せるはずもない気分を奮い立たせエンジンを掛け、ハンドルを手にした。
 トオルがいつきても大丈夫なように、常に助手席の様子に気を配った。一台一台と対向車がくるたびに、道の端をできるだけ一杯に走り、もしぶつかろうとしても回避できるようスピードを落とした。トオルは一応はおとなしくしていた。木村は運転していていったい自分が自分でないような、ほとんど抜け殻に近い状態でいた。集落につく頃には意識も肉体もぐったりとなっていた。木村は電話をかけ、すぐに久代に来てもらおうかとも考えたが、幸い、ここまで来れたことで何とかなるのではと思い直し、トオルにもう一度約束をさせ、どうにか帰路についたのだった。
「おまえを、殴ってやりたい」
 微かな光に照らされた薄闇の中で凄んだ坂田の最後の一言が、木村の耳元に再び聞こえてきた。同時にさっき鳴ったばかりの列車のベルが、まるで今、響いているかのように木村の意識の中で木霊した。いつのまにか汗ばむほどにベルを握りしめていた彼は、その鈍重な響きに、どう応えればいいのか、やはりわからなかった。
 列車がどこへ向かうのか、アナウンスもなく、誰にもわからなかった。
 終点があるのかどうかさえもわからない。ただ、乗り合わせてしまったらしいのだった。
 次のプラットフォームを目指して‥‥。
 木村はベルを大切に上着へ仕舞うと、駅近くにとめた車へ急いだ。
 車についたとき、列車は既に走りだし、その姿はなかった。
 ただ、今までいた巨大な塊の気配だけを残した暗く深い夜の闇が目の前に広がり、二本のレールがその中をどこまでもつづいていた。

真夜中のプラットフォーム

2020年4月29日 発行 初版

著  者:宮本誠一
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宮本誠一

1961年熊本県荒尾市生まれ。北九州大学文学部国文科卒業後、学習塾講師、大検(高卒認定)専門予備校職員などを経て、熊本県小学校教諭に採用。二校目の赴任地(阿蘇市立宮地小学校)で、卒業生である発達障害の青年との出会いをきっかけに33歳で退職し、当時阿蘇郡市では初めての民間での小規模作業所「夢屋」を立ち上げました。その後、自立支援法施行に伴い、「NPO夢屋プラネットワークス(http://www.asoyumeya.org/)」を設立し、地域活動支援センター(Ⅲ型)代表兼支援員として阿蘇市から委託を受けながら現在に至っています。 運営の傍ら、小説、ノンフィクション、児童文学、書評などを発表してきました。部落解放文学賞に5回入選、九州芸術祭文学賞熊本県地区優秀賞2回、熊本県民文芸賞、家の光童話賞優秀賞などを受賞させていただいています。

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