spine
jacket

───────────────────────



アフリカサン

宮本誠一

夢ブックス



───────────────────────

       アフリカサン               

          一
「い、いま、だ、い、いー、行く、ぞ」
 一段上の駐車場からエバタが叫ぶ。
少ない肺活量を駆使した渾身のかけ声と同時に、電動車椅子の加速レバーを高速に切りかえた。
 グリップを必死につかむモンは、両肘をゴムのように伸ばし、車椅子のスピードに引きずられながら、勢いよく駆け下りる。めざすRV車のバンパーの照り返しがまぶしい。二人はそれでもかまわず、突き進んでいく。 
 デジカメのズームレンズから覗かれていたのは、恰幅のいい五十前後の男だ。扉を締め、軽く裾の埃をたたいた後、服の乱れを直し、時間でも確かめているのか左手をかざし時計を見ている。薄い麻の背広の下には地味なブルーのネクタイがぶらさがり、いかにも堅い仕事の趣きがある。願ったりかなったりの相手だ。
 モンは、いつものように爪先を軸に太腿や腕をつっぱね、上体を杭のようにし、ブレーキの役割を果たしてくれた。
「アッ、アアウウ‥‥ダメデスヨ。ソコトメチャ。ダメデスヨ」
 モンは、緊張すればするほど早口になる。同じフレーズを反復するしかないもどかしさに、貧乏ゆすりに似たふるえでエバタを車椅子ごと共振させる。座席のシートの揺れを多少気にしながらもエバタは、ことを進めるため背もたれからできるだけ身をのりだした。突然にあらわれた奇妙な二人に男は、行き道をふさがれたまま立ち止まっている。中天にさしかかった日差しがまともに顔を覆い逆光のせいでハッキリしないが、狼狽の色をにじませていることはまちがいない。 エバタの胸は高鳴る。
「し、失、礼ですが、こー、ここ、は‥‥しょ、障害者用の‥‥ちゅ、駐車場ですよ」
「‥‥‥‥」助手席から紺色のツーピース姿で、二十代半ばの長髪の女が下りてきた。「ねえ、どうかしたの」
「ダメデスヨ。ココ、ダメデスヨ」
 モンは興奮し、同じ言葉をくりかえす。女の眉間にタテ皺が寄り、細い眉が左右にずれ、蒼ざめる。今だとばかりにエバタは、二人を大きく写すアングルで、カメラを構えた。
「なにすんのよ、ちょっと、あんたたち。いったいだれなの」
「ぼ、ぼくらは、しょー、障害者用、駐車場の、利用状況を、ちょ、調査、して、い、いるものです」
「ねえ、佐戸さん、そんな団体あったっけ」
 男は、一瞬、女を睨みつけた。こんな場で名前を呼んだ相手に、舌打ちしそうな苛つきが見える。エバタは、カマをかけてみた。
「も、も、もしかして、こ、こー公務員の、方ですか」
 男は黙ったままだ。女はうかつな自分のミスに気づき、今度は心配そうに肩をすぼめ、なりゆきを静視する態度にかわった。
「そ、そうだとすると、ます、まーす、まずいんじゃ、ないかなあ‥‥」
 男の視線はエバタの顔というより、さっきからしきりに手にもったズームつきのカメラにじっと向けられている。その動きを察し、
「ちょっと、ちょっと、あなた、写真だけはやめさせたら」
 小声で男に訴える。エバタは、二人の年格好と写真への過敏すぎる反応に不自然さを感じ、思い切って言葉をなげつけた。
「あのー、も、もしか、してー、ふ、不倫かなにか‥‥」
 いっせいに四つの眼がエバタをさしつらぬく。
「ダメデスヨ、ココトメチャ、ダメデスヨ、ココトメチャ」
 モンは、睨みつけてきた二人が自分を威嚇していると勘ちがいしたらしく、その圧力をはねのけようと、肩を怒らせ連呼する。
 しばらく沈黙があった。
 六月になったばかりとはいえ、すでに夏日を思わせる眩しい陽は、じりじりと上空から先月オープンしたての複合ショッピングモールの駐車場の一角を、ピンスポットのように焦がしている。
「つまり、いくらなんだね」
 男が、ようやく重い口を開いた。
「へっ、へっ、やっ、やっーぱり、そ、そうくるわけですか。な、なーなる、ほどなあ」
 訝しげな男の眼が一瞬冷めたように光を失い、やがて、さらに疑惑に満ちた陰気な色を帯だした。
「せっ、せっかくですが、ぼ、ぼくらはか、金が、も、目的じゃありません。た、ただ、あなたたちみたいな人が、ゆーうーる、る、せないだけ、で、です」
 男も女もまんじりとせず、呆然と突っ立ったままだ。 
「こ、この写真は、イ、インターネットで、こ、公ー表します。ぼくらがつくっている、ホ、ホームページに、さ、参、考、資料として、の、のーせる、つ、つもりです」
「どうせ、こんな写真、だれも信用なんかしないわよ。ほっといていきましょうよ」
 開きなおったように女が辺りに聞こえるほどの声で自信ありげに言った。男も「ああ」とつぶやき、それでもどこか諦めがつかないのか、エバタとモンを恨めしげに見ている。エバタが負けじと睨みかえすと、虚勢をはるように太い腕を伸ばし大きな動作で車のドアを開けた。自分を納得させるためか、座席についたときは口を真一文字にむすび、勢いよく閉めた。圧縮された空気音が周囲に響きわたった。
 男は、エバタやモンがそばにいることもどうでもいいように、力まかせにアクセルをふかし、排気音をとどろかす。危険を感じた二人は慌てて退いた。骨太のバンパーが鋭利な金属片のようにキラリと光り、急発信でバックしたRVは、車椅子の先端のエバタの足もとスレスレで方向をかえた。
「オオー、アブナイ、アブナイ」
 モンは小躍りするように一歩下がり、エバタも神経の麻痺した下半身に、冷やりとしたものがよぎった。
「モ、モン、そろ、そろ、帰ろうか。こー、これ以上おそくなると、ま、また出井士に怒られる、からね」
 二人は、ショッピングモールを離れ、道路に出た。モンは、エバタのそばを歩きながら、ときどき立ち止まったりして、じっと看板の文字や絵に見入っている。時折、何が面白いのか急にニヤリと白い歯をむきだし、手の甲の匂いを鼻でかぐと、スキップしながらまた歩きだす。
 信号を右に曲り、小さな通りになった。歩道の状態は、コンクリの質が落ち、荒打ちしただけになる。その上、店舗や家の入り口のたびに歩道は凹凸を繰り返し、シートが縦に激しく揺さぶられる。車との距離も一段と近くなり、ときにスピードを落とさない車が際どく過ぎていく。
 いつも空気を入れてもらう自転車屋を横目で過ぎ、小ぶりの鳥居をした神社が見えてきた。なんでもそこに生えている松の木からにじみ出る汁がミソの味がし、飢饉のとき町民が列をつくり飢えを凌いだという言い伝えがある。もちろん石段が邪魔して、エバタはその松を見たことはない。
 点滅する派手な電光掲示の看板が、『焼きたてパン、できたてパン』とチカチカと赤い文字を流している。前にリフトつきのワゴン車が止まり、他に五台ほど入れるスペースがある。
 エバタやモンが通う通所施設『レモラハウス』だ。
平屋だが、フロアは明るいラウンジ風になっていて、ショーケースの向こうにパンやケーキ、クッキーが並び、雑貨類も木造りのテーブルに品良く置かれている。外から見えない壁の一枚奥が作業場で、その横の壁際が事務所だ。
 エバタとモンは、裏口から入っていく。
「ずいぶんおそかったですね」
 二人が所属する配達班を、パン製造と兼ね任せられているスタッフの出井士が、待ち構えていた。
「ちゃ、ちゃんと集金もしてきたーんだから、べ、べーつに、い、いーだろう」
 エバタは、投げやりに答えた。
 モンは、さっそく事務所のソファに深々と座り、リモコンでビデオのスイッチを入れた。ひと仕事ついた後の出井士との約束になっている。刑事ものの犯人逮捕の瞬間を繰り返し見るのが習慣だ。
「デイシサン、コノヒトハ、レンシュウスルノ?」
 モンは、わざわざビデオを止め、画面を指差し聞いてくる。前は、ただの通行人が気になっていたが、今はセリフのある役者とそうでない役者との違いにこだわっている。なぜセリフがない役者がいるのかということと、その人が練習するかどうかだ。  
「デイシサン、エキストラッテナニ?」
 そして、最近、安易に説明するのに新しい言葉を使ったため、モンの興味はもっぱらそこに移っている。出井士も困り果て、「だから昨日も、話したろう」いかにも面倒臭げに吐き捨てる。出井士の目が、訴えかけるようにエバタを見るのはこのときだ。エバタは暗黙の了解をする。
「モ、モン、だ、大丈夫、大丈夫。お、俺が、説明してやるよ」
 エバタは、相手が納得しなくともできるだけ丁寧に話そうとだけは考えている。出井士にもそのアドバイスをしたが、実務で忙しいのか、なかなかそうしない。それどころか、二十歳を過ぎ、こだわりの回数がめっきり増えてきたモンに窮し、エバタに頼ることが増えてきた。エバタたちが配達と称し、少々長い外出を大目に見られている理由もそこにある。
「出井士さん、ちょっとパン製造の方、見てくれませんか」 
 女性スタッフの堀沙里奈が、衛生キャップとマスクをつけたまま隣の工房から入ってきた。
 彼女は出井士とは大学が同じで、ボランティアサークルの後輩だ。この春、正式にハウスに就職した。研修のときは、なにかと二人に親切だった彼女だが、近頃どこかよそよそしい。もしかすると出井士に忠告めいたことを言いふくめられているのかもしれない。それでも、ときどき見せる屈託のない笑顔はエバタにはホッとするところもあって、マスクでそれが見えないことに少々不満をもった。
「じゃあ、江端さん、衛雄のことたのみましたよ。それから袋づめもボチボチね」 
 出井士はちょうどいいタイミングとばかりに、作業着を引っかけ、ふり向きざま言った。 
 また、二人になったな、モン。
 エバタは心の中でつぶやく。
 レモラハウスの作業分担は、大きく分ければパンやクッキーの製造部と店頭に立つ接客部となる。エバタとモンは本人の希望もあり、その両方から外れている。近所の顧客でたまに配達を頼まれることがあれば、それをやるし、地域のイベントでの即売会の時、宣伝して来いと言われればあたりかまわず声を張り上げ客寄せをやったりもする。
 ただ、最近、不定期な仕事だけでは物足りないとでも言うのか、出井士がわざわざ他のを都合してきた。それが、クッキー生地の不良品からつくった団子の袋づめだ。車椅子で十五分ほどの距離にあるカドリーランドに飼われているウサギやロバ、アヒルの餌になる。ビー玉くらいの大きさに焼かれたやつを、五十グラムずつ、カップで計っては入れていく。手間のかかる作業といえばそうだが、ちょうどカップ一杯がその量になっていて、モンがほとんどやってくれる。ノルマは、一日二十袋。ポリバケツ一杯の団子を、適当に暇なとき自分らのペースでやればいいと出井士が頭を下げるので、エバタも了承した。
 出井士にしてみれば、こだわりの多いモンの気を紛らわすために、何か単純な仕事を与えた方がいいと考えたらしい。これは確かに今のところ成功している。
 エバタは、腰につけているサイドバッグからデジカメをとりだした。ハウスが記録用に購入したものだ。エバタは、シャッターを押すことができない。本体はかろうじて両手で持つことができるが、コンパクト化された小さなシャッターに指を置き、正確に素早く押さえるという、細かな操作が無理なのだ。つまり写真のこともホームページのことも相手を驚かせ、困惑させることだけが狙いの嘘だった。
「エバチャン、コノヒトハ、エキストラ? レンシュウスルノ?」
「モ、モン、テ、テレビに出ている人にも、い、いろーんな、人、い、いるんだよ。だれがエーキストラか、なーんて、わ、わからないよ。役者だってね、セ、セリフ、れ、練習する人もいれば、しーない人、だっている、よ」
「イロイロ‥‥?」
「そう、いろ、いろ」
 モンは、納得しようとするが、なかなか自分のパズルにそのピースは埋まりそうにない。それどころか完成しそうになると、わざわざ別の情報から手に入れた違うピースをはめ込み始める。一カ所だけ異った模様から全体をやり直す過酷で孤独な作業の始まりだ。眉は八の字に寄り、苦悶の色が瞼の下に隈となってあらわれだす。
「モン、そろそろ袋づめしようか」
「ハイ」
 モンは、こだわりに踏ん切りをつけるように、両腕を膝の上で突っ張り、反動をつけるように体を持ち上げると、事務所隅のポリバケツへ向かう。
       
          ニ
 次の日、二人は、カドリーランドへできあがった一週間分の餌をとどけに行った。帰りに、市街地と結ぶため去年開通したばかりのバイパス入り口へ向かう。ちょうど大きな交差点にセルフサービスのガソリンスタンドと併設されたコンビニがあり、そこをターゲットにしたのだ。
駐車場横の公衆トイレの陰にかくれ待っている間、エバタはカドリーで見たことを思い出していた。
 それは、一頭のシマウマだ。
 急遽柵がつくられ、飼われていた。小動物が多い中、初めて見るその姿はどこか場違いだった。まるで彫刻のようにじっとしていた。毛と毛の境は確かに黒白だが、テレビなどで見る鮮やかなストライプでなく、どちらも褪せた感じで毛もつるつるし、アンバランスだ。しかもでっぷりしたお腹がロバのようで、精悍さはなかった。
 どんな経路でここへきたかはわからない。ただ柵につけられた紹介文には、目が見えないことが書かれてあった。生まれつきなのか事故なのか、原因は記されていなかった。
 エバタたちの袋づめしたものが柵の外に一つ百円で、網カゴの中に置いてあった。その横には、薄汚れた木箱で賽銭箱のような硬貨入れもある。
 エバタは、モンに袋を一つとってもらい、飼い葉桶の中に数個投げ入れた。
「モ、モン、よ、よーんでみーて」
「ウマウマ、コイコイ」
 しかし、相手は動かない。
 エバタも両手を叩いたり高い声を上げたりしたが、泥のこびりついた蹄は微動だしなかった。
「アアアッ、アフリカサン、アフリカサン‥‥」
 モンがそう言ったときだ。
 馬はおもむろに首を動かし、房状になった尾をけだるげに振ると、のっそり前へ進み始めた。
 エバタは大笑いしながら、
「モン、や、やっぱり、こ、こいつ、アー、アフリカさんだな」
 モンは、以前ハウスを見学に来た外国人に「アメリカさん」と声をかけ、みんなを笑わせたことがあった。
「こ、こーいつ、アー、アフリカで、う、生まれたのかも、し、しーれないな」
「アフリカ?」
「そ、そう、み、南の方に、あーるんだよ」
「南?」
「あ、あー、暖かい」
「アタタカイ?」
 モンは、そこで何がおかしいのか、右手の拳を左手の掌に叩きながら、ステップを踏み飛びだした。ときどき頭の中のパズルのどこかが合致するらしい。
『モン、俺たちもアフリカにいかないか?』 
 これ以上アフリカについて話せば、こだわりを増やすだけなので、エバタは心の中でつぶやく。声に出さなければ、スムーズに言葉は流れていく。
『体だって、あったかい方がいいしさ。それにこの馬だって、アフリカなら走れるかもしれないぞ。たとえライオンに追いつかれるまでのわずかな時間でも』
 昼近くになり、コンビニの駐車場は賑わいだした。
車の出入りが激しくなり、トラックなど大型のものも、やや離れた場所に停止していた。
そろそろくるはずだ。
 エバタは、首にかけたカメラをできるだけ強くにぎり、気を引きしめた。
 それから数分、都合良く一台の普通車がずいぶんとあわてて入ってきた。
「モ、モン、いー、いまだ!! い、行くぞ」
 二人は、報道記者さながら、いつものようにいっせいに走り出した。エバタの車椅子は、今、高速のモーターを唸らせ、車輪はアスファルトの海を掻いている。モンの足は舵をとる尾鰭となり、空気をゆらし、地面に蜃気楼の波をおこす。わざとらしく大きなポーズでデジカメを前に出し、シャッターを切るふりをするエバタ、その後ろには奇妙な雄叫びを上げるモン。
「こ、ここ、障害者用の、ちゅ、駐車場、ですけど」
 調査関係者だと名のった後、エバタは興奮を抑えぎみに息を整え、しゃべりだした。 
「あっ、すいません。ついうっかりして」 
 下りてきたのは、二十代前半の男だ。膝の擦り切れたジーンズにスニーカー、丸首の茶系のTシャツを着ている。髪は短めで黒々としている。妙に物腰の柔らかいところを除けばよくいる若者だ。エバタの態度も柔軟になった。
「わ、わかっていただけば、こー、こちらも、そ、それで、い、い、んです。一応、け、啓発が目的だから。こ、これからは、ちゅー、注意して、ください」
 拍子抜けしたエバタは、必死につくり笑いをした。
 モンもいつもと違う雰囲気を察知したのか、首をかしげ照れくさそうに黙っている。
「モン、か、帰ろうか。この人、い、良い人、だっーた、よ」
「イイヒト?」
「そ、そう」
 モンはホッとして緊張がとけたらしく、軽く手を叩いた。
 二人がそこを立ち去り、歩道にさしかかろうとしたときだ。
「あのー、おわびに、これでも」
 いつ買ってきたのか、男は缶ジュースを二本もってきた。低身平頭で、今度は謙虚さを超え媚びるような態度だ。エバタは用心し、次の相手の言葉を待った。
「それでー‥‥、さっきの写真なんですが‥‥」
 なんだそのことか。エバタはデジカメを持ちながら
「ちゃ、ちゃんと、あ、後で消去し、しーときます」
 いつも以上に口角の開きを意識し、できるだけはっきり答えた。
「よろしくお願いします」
 男は、ホッとしたらしく満面に笑みを浮かべた。 
「エバチャン、イコウ」 
「あ、あーあ、帰ろうか。ひ、昼めしの時間だから、お、遅れたら、たーいへんだ」
 二人は、ジュースをもらうと、知り合いでも見送るように親しげに立つ男を残し、ハウスへの帰路についた。
 その翌日だった。
「エバタさん、電話」 
 沙里奈から受け取った受話器を、エバタは落とさぬように両手で抱え込み、口へもっていった。
「も、もし、もし、エバタですが」
「‥‥‥‥」
 相手は何も言わない。無言電話だ。
 やがてツーツーという電子音が、耳に空しく鳴り響いた。今日で二度目だった。一度は朝、出勤して間もなく、今度は作業所の終える午後四時ごろだ。モンはついさっき出井士の運転する送迎車で祖父母の待つ家に帰った。エバタもそろそろ引き上げようと考えていた矢先のことだ。
 エバタは、小学入学と同時に支援学校と隣接する機能訓練の施設に入った。家族とはそのときから別々に暮らしている。 学校には施設から通った。 
 登校日、急いで朝食をとらせるため、介護者から味噌汁で流し込まれた米粒が胃を重く、不快にさせた。廊下伝いに這って行く者、緊張緩和剤で目が半開きの者、サイズの合わぬ大きな紙おむつをズボンに無理やり押し込んだ者と様々いた。
 授業も単調で孤独なものだった。
 他の生徒とは会話もなく、エバタは足で箸も使えるのにそれを禁止され、麻痺した指にスプーンをゴムで結わえられ、ビー玉の皿から皿への移し替えを何度も繰り返させられた。少し離れた場所では鏡の前での発声訓練や小さなトランポリンにバランスを保つためじっと立たされたりしている者もいた。それはさながら見世物小屋の訓練のようだった。
 入浴もタイルに裸で転がされたときの冬場の冷たさは忘れられない。頭と体をいっしょに洗われシャワーが顔にかけられると石鹸とお湯が鼻から入り、噎せることは日常茶飯事だ。エバタは、そんな生活に嫌気がさし、高等部卒業後、周囲の反対を押しきり、中等部から入学してきた友人、羽美と二人でアパートを借り自活を始めた。
 羽美は脳性小児麻痺のエバタとはちがい進行性の難病のため、運動中枢が次第に麻痺する症状だった。家賃は分け合い、お互いの年金と生活保護をもとに、食事や入浴を訪問介護に頼みながらなんとかやってきた。
 だが、その羽美も五年前、二十二才で死んだ。エバタと羽美は、レモラハウスの理事長でかかりつけの医者でもあった丸尾から誘われ、ハウスの設立準備の段階から加わっていた。羽美の死は、そんなハウスが、準備、起工と三年がかりでようやく開所にこぎつけ、半年が過ぎようとする秋口のことだった。
 めっきり朝晩の冷えが厳しくなったその日、羽美は、首の関節の痛みを訴え、ハウスを休んだ。第一発見者は、昼食の介護士で、羽美は車椅子の上に強風でへし曲げられた枯れ枝のように硬直して死んでいた。激しい発作が起こったらしく、車椅子から身体がずれ、そのために器官がつまった窒息死だった。二時間ずつきてもらっていた朝と昼の介護の、ちょうどだれもいない時間帯をまるで見計らったかのような死だった。当然、自殺では、という憶測が流れた。エバタも警察からいくつかの質問を受けた。
 一番に聞かれたのは、最近何かに悩んでいるふうではなかったかということだ。エバタは、思わず苦笑したくなる自分を必死で抑えた。この姿を見て悩みのない日があるとでも思っているのか。親との揉めごとや恋人、家庭環境も聞かれたが、すべてはそれ以前の問題だ。食事や排便をどうするか、眠るときは、起きるときはいつ誰に介護にきてもらうか。その費用の捻出は…。煩わしい人や周囲との関係も自分の居場所あってこそだ。社会から厄介者の自分たちに死にたい理由を上げろと言われれば健常者以上にきりがないことくらいわからないのか。エバタは相手の想像力の欠如と無神経さに呆れていた。
 葬儀には、施設に入る入らないで親子の縁は切ったということで、両親はあらわれず、二つ違いの妹が、ただ一人参列した。なんでも実家は田畑や山を持つ資産家で、父方は代々町議や町長をやっている家柄だった。エバタは、羽美がそんな家系の長男だったことを、そのとき初めて知った。
 妹と、友人代表であるエバタがいっしょに最後の火葬の発火ボタンを押した。
 ゴーッという炎の唸りがしたとたん、エバタの目の前は一瞬真っ白になった。羽美と描いていた、これからのレモラハウスへの夢もすべてがボロボロと音を立て崩れ去っていくように思えた。エバタは、喉をひきしぼった声で妹のいることも気にせず泣きじゃくった。
 アパート一階の自分の部屋の前につくと、エバタは車椅子から慣れた手で鍵を差し込み、ノブに手をのばす。それからゆっくり座席から体をもちあげ、扉が開くと同時に内側へすべりこませた。車椅子はそのまま、通路に置いておく。
 土間にはクッションが敷いてあり、身を投げ出す形でそのまま倒れ込める。四つん這いになり、磁力にでも引き寄せられているかのように畳をずって進み、冷蔵庫から缶ビールをとりだした。ふたを押し開け、ストローを差し込む。最近、アルコールは習慣になっている。一人になると、これを体に滲み込まさないと落ち着かない。タバコも以前は吸っていたが、気道に煙がつまり何度か強い咳き込みをおこし、金もなかったこともありやめた。
 ビールが回り、節々が火照ったように熱くなってくる。肩口から首にかけ筋肉がゆるみ、ようやくリラックスしてきた。エバタは、いつものように音楽を聞くため、CDラジカセに手を伸ばした。ラジカセは羽美の遺品だ。以前来たヘルパーは、何度言っても掃除の後に、エバタにはスイッチのとどかない棚に平気でラジカセを載せ帰っていった。そんな苦い記憶をよそにCDラジカセは軽いタッチで動き出した。ライブハウスでの生録音だ。これも羽美といっしょによく聞いた。
 グラスの重りあう音や客の囁き声が谺している。やがておもむろに左手が強靱にリズムを打ち始めた。エバタは、強引なほどの自己主張についつい酔いしれてしまう。
「トライトーンだよ」
 羽美がぽつりと言ったのを覚えている。
「四つの和音のうち、下から二番目はメジャーかマイナーを判断し、それと最後の音はコードを決めるのに必要だから、その二つ叩けばいいんだ」
 羽美は、症状があらわれず自由が利いた幼児期、ピアノを習っていたのだった。エバタは解説を聞きながら、たとえわずかでも健常者の生活ができた相手が羨ましい。
「一番目の音はね、ベースがやればいいし、三番目はさほど重要じゃないからいらないんだ」
 熱っぽくなる講義とは裏腹に、エバタはその省かれる音が自分ではないかとふと思った。
 やがて、右手がうねるようなスイングでメロディを奏でだした。鍵盤がまるで肉体の一部と化し振動し始めたようだ。
 アルコールの息が、モンとやった駐車場での行為を思い起こさせ、自嘲気味な苦笑を誘った。
こんな自分らも、もっと重度の人間から見れば羨ましいのだろうか。
 エバタの口から溜息が糸を引くように漏れた。体の奥で、言葉だけがエコーがかかったように反響する。
 目を細く閉じると暗い井戸の底が見え、のぞき込むと、この部屋で死んだ羽美の顔が浮かんできた。盲目のシマウマもあらわれ、エバタの頭の中を駆け巡る。
 柵もない。エバタたちの袋づめした餌を蹴散らし、疾走している。シマウマは、アフリカのサバンナを、暗闇の中、蹄を大地に鳴らし、やみくもに、だが全力で走っている。早鐘のように鳴りつづくピアノの音。と、そこへ覆いかぶさるように扉のブザーが鳴った。
「はっ、はー、いー」
 熱くなりかかった思考を休め、瞳の裏に湿っぽく熟するものを感じながら、這って玄関へ近づいて行った。ヘルパーが来るには、まだ少し早い時間だ。
「宅急便です」
 その声に安心し、エバタが扉に密着させ立ち上がり、いつものように寄りかかりながら鍵を開けたときだった。勢いよく後ろへ引かれた戸に対応できず、エバタはそのまま倒れ込みセメントの床で肩を殴打した。電気が走ったような衝撃をうけ、一瞬、何が起こったのかわからなかった。ただ、チカチカと蒼白い閃光が飛散したように眩む目の前に、徐々に見覚えのあるスニーカーと擦り切れたジーパンが像を結びだした。よろめく意識をかろうじて現実とつなぎとめるかのように、部屋から聞こえてくる黒鍵と白鍵の奏でだすリズムが低いビートとなってエバタの聴覚を刺激しつづけた。 

          三
「あれーすいません。そこにいたなんて知らなかったものだから」
 語尾ばかりわざとらしく跳ね上がり、なれなれしい声が疼痛に耐えるエバタの鼓膜にとどいた。視界の揺れが消え、情景がはっきりしてきたエバタは、その声に呼び覚まされるように、すぐに事態が飲み込めてきた。
 昨日のコンビニの若い男が、中を覗き込むように玄関口に立っていた。
 相手はエバタの両脇に腕を入れ、引き上げてくれた。
「ぼくのこと、おぼえていますよね」
 唐突な質問に身構え、改めて顔を見てハッとなった。コンビニの男だ。
 エバタは警戒心とともに口もとをひきしめた。  
「上がってもいいですか」
「な、なーんの、用ーーですか」
「そちらも調査なら、こっちも調査をしたいんですよ」
「な、なーんの」
 エバタは突然の切り出しに驚き、反射的に訊ねた。
「障がい者の生活に決まってるじゃないですか」
「へっ?」
「僕も素直に従ったんだから、そっちも受け入れて下さいよ」
「は、あ、ど、どーぞ」
 エバタは頑なに断ればどこかやましいことがあるのではと勘繰られる気がし、仕方なく承諾した。
 男の足の運びにためらいは感じられない。部屋に入るなり、ラックに並べていたCDやビデオ、それにテレビ機材を見わたし、「わあー、けっこう良い暮らし、してるんだあー」間延びした声で言った。
 一枚のCDを手にとると、その歌手名と曲目を、わざとらしく棒読みに口にした。
「こういうの聞いてんですね」
 感情の起伏が見当たらず、それがかえってエバタを無気味な思いにした。
 脳裏に、今日あった二本の無言電話が甦り、目の前にいる男の面長な顔とつながった。
 カーテンを閉め切っているため、電灯の真下で目鼻がくっきり陰翳を保ちながら照らしだされている。あれは、こいつにちがいない。男は昨日からずっと俺をつけていたのだ。
ただ、コンビニのときとはどこかが違っていた。笑みを浮かべながらも油断できない不逞さを持っていた。きっと昨日は言い出せなかった抑えるに抑えきれない不満があるのは確かなようだ。
 エバタは背中を丸め、じっと相手の出方をうかがった。
「だけど、これってほとんど税金でしょう」
 予想はしていたが、随分直接的な言葉に、エバタは返答を控えた。まだ相手の本当の真意をつかみ切れていなかったからだ。無遠慮な発言であるにかかわらず、なぜか怒りが湧いてくる感覚と言うか、距離感がとらえれないのだった。
 男はCDをラックにもどすと、ボードの上の埃を指先でそっと拭った。
「いいですよね。あなたたちは若いうちから働かなくて、あんなことやってればいいんだから。それに、こんな早くから晩酌ですか」
 ようやく本題に入ったようだ。
 もの柔らかな言い方が一転し、低い口調でぽつりとつぶやく。
「ゆるせないんですよ、あんなやり方」 それでもエバタは、まだ相手に確かな実体感を感じれず、黙っていた。
 ふりかえった男は、両手をポケットに突っ込み猫背の姿勢で、そんなエバタに業を煮やしたのか、矢継ぎ早に言葉をつづけてきた。
「だって、そうでしょう。公衆の前で、ああいうことされちゃあ、だれも文句なんか言えませんよ」
 男の目は少しずつ暗い光を放し、一つの場所を射るように見据え、動かなくなってきている。角刀で彫られたように濃い眉の下に一重の瞳が、スーッと走っていた。自分の言葉に煽情されているのだろうか。語尾上がりの調子は消え、感情がにわかにこもり、むしろ語尾の低まった断定的な口ぶりになってきた。
「フェアーじゃない気がするんですよ」
 エバタは、何も言わず俯いたままだ。
「こう見えても、ぼく、医学生なんです。三浪してるけど‥‥」
 男は、自信に満ちながらも頬をゆがめ、力なく薄笑いを浮かべた。
「初めてですよ。あんなにプライド、傷ついたのは」
 エバタの視線が男の肩口から少しずつなぞるように下りていった。力みはなく、掌は広げられたままだ。どんな形でくるのか。エバタはさっきから不安ながらも、どこか相手が虚勢を張っているふうにも思えた。だが、言いたいことを言われ黙っているわけにもいかなかった。義憤にも似た思いに駆られ、喉から声を絞り上げていた。
「た、たーしかに、こ、こっそり、見てたのは、わ、わ、わるかったよ。だ、だーけど、そっちが、しょ、障害者の、ちゅ、ちゅー、車場にとめるから、い、い、いけないんだろ。そ、そーれに、む、無、言、電話、したり、だまって、つけてきーた、じゃ、ないか」 
 男が首をかしげ、頭を掻いた。急所を突かれたのだろうか。だが、それはエバタの思い過ごしのようだ。相手は、それも想定内とばかりに、これまで以上に余裕をもった態度に出た。
ニンマリほくそ笑むとゆっくり間をもたせ、顔を横にふり、
「あのときは、ちょうど駐車場が空いてなくて、しょうがなかったんです。しかもぼくは電話代の払い込みをしたら、すぐ出るつもりでいたんですよ。必修の講義に遅れそうだったんで、急いでたんです。そりゃあ、とめちゃあいけないところに置いたのはいけなかったけど」
さもこちらに正当性があるように一語一語に力を込めた。
 エバタは、男の自分勝手な考えに、返答を窮した。相手はさらにつづけた。 
「それに、つけてきたのは、なるだけ、他人をまきこまず、あなたとこうして一対一で話したかったからですよ」
 そんなこともわからないのかと言うように眉をよじらせ、その場にしゃがみこんだ。エバタはさっきから膝を折り、畳に座り込んだ状態がつづいていた。男の顔が目の前に来るや、首をできるだけもたげ声を張り上げた。
「そ、それが、じ、自己、ちゅ、中って、い、言ーうんだ。こ、こっちは、べ、別に、コ、コン、ビーニの前で、ケ、ケンカになっても、か、かーまわなかった、よ」 
 骨盤から腰椎、背骨にかけ締めつけるような痛みが広がった。体を支える両腕がぶるぶる痙攣しているのがわかった。
 しゃべりたいことは終わっているのか、しばらく黙っていた男は掌を畳に持っていくと、しきりに指先を動かし始めた。
 見ると、落ちていた髪の毛を拾っていた。数本集め、ゴミ箱を目敏く見つけ、何度も指を擦り合わせ捨てていた。相変わらずの表情のなさが、やはりまだ本当の正体を曝していない不気味さを醸し出した。見ようでは相手に決定的ダメージを与えたいが、どうすればいいか考えあぐねているふうでもあった。エバタはあれこれ憶測の根をはりめぐらすことに疲れを感じ始めていた。
 そのとき、玄関のベルが鳴り、聞き覚えのある女性の声がした。夕食の準備に来たヘルパーだ。エバタは、これ幸いに男がどんな態度に出るか、じっと見守ることにした。
「どうも。いつもお世話になります」
 男は摺り足気味にそそくさと歩き、ノブを回すと、慣れた動作でヘルパーを迎えた。
「あらっ、お友だち?」
「ええ」
 思わぬ若い男の出迎えと垢抜けた返事に気をよくしたのか、ヘルパーは相好を崩した。
「江端さん、あなたにこんな友だちがいたなんて知らなかったわ」
 エバタは、ねじれた姿勢から首だけ後ろに向け、無言のままヘルパーを一瞥した。唇から白い歯がこぼれ、これまで見たことのない愛嬌でこちらを向いている。その横には男がお茶の準備までしていた。
「まだお肉あるみたいだから、野菜といっしょに炒めていいかしら?」
 冷蔵庫を覗き込むヘルパーの質問に、「はっ、はーい、お、お願いします」
 献立などどうでもいいように、エバタは空返事で答えた。
「野菜炒めか、いいね。江端さん」
 茶器を盆に載せた男は、さっきまでの鋭い目つきを払い、口もとをゆるめている。
「あなた、学生のボランティアか何か?」
「R大の医学生です」
「へええ、将来はお医者さんなんだ」
「まあ‥‥、でも、高齢者や障害者のことなんか何も知らないから、こうやって江端さんのとこへ来て勉強させてもらっています」
「今どき感心ね。江端さん、良い仲間がいて、あなたも幸せね」 
 ぬけぬけと嘘を吐く男に、エバタは真実を話す気にもなれず、ふとラジカセに目を向けた。ピアノのリズムは止むことなく部屋をつつみ、沈みこむような即興が奏でられていた。 
エバタは、その音とともに孤独に浸る。モンの顔が水面に映ったようにぼんやり浮かんだ。
今ごろ、あいつは何をしてるだろうか。
 モンの両親は早くに離婚していて、保育師をしている母親と祖父母との四人暮らしだ。こだわりをがまんし、おとなしく母親の帰りを待てているか、それがエバタには気がかりだった。
モンは一週間前、祖父母の制止をふりきり、数十キロの道程をかまわず自転車をこぎ、街の大通りにある放送局まで行ったばかりだ。エキストラの正体が知りたくて、わざわざ気になっていた刑事ドラマを放映する局の住所を電話帳で調べでかけて行った。もちろん警備員に止められ、中には入れなかったが。
 エバタは苦々しく、目の前に正座し、茶器を並べる男に目をやった。
 男は、蒲団のない骨組みだけの炬燵台に急須と湯飲みを置きながら、何気ない調子で、エバタが飲みかけだったビール缶を片づけた。缶から滴った雫の跡を布巾で丹念に拭きとっている。
「それじゃあ、ぼくはこれで。江端さん、また来ますね」
 ヘルパーとエバタの二人分用意すると男はそそくさと席を立ち、ジーンズの裾を二度ほどはたいた。
「あらー、わたしに遠慮しなくていいのに」
「いえ、家庭教師のバイトやってんで。そろそろ行かなきゃなんないんです」
「そうなの」
 男を玄関で見送った後、居間へ来たヘルパーが、「へええ、あの人、変わったサークル入ってんのね」
 膝を下ろししな、一片の紙切れを台から拾い上げた。エバタもうっかりしていたが、急須の下に名刺が挟んであったのだ。
 大学名と『障害者生活実態調査サークル』と記され、名前は跡部信一と書いてあった。 エバタの体に震えが起こった。
 嫌がらせのつもりか。だとしても、ずいぶん手のこんだやり口だ。
 この部屋に来られただけでも困惑してるのに、さらに追い討ちをくらわす行為に、どこかしらこれまで体験したことのない不安を覚えた。全身に動揺が広がり、エバタは、それに必死に耐えていた。

          四
「衛雄が、とうとうやりましたよ」
 翌日はどんよりした曇り空だった。ハウスの駐車場でばったり出くわした出井士が声をかけてきた。気落ちしたことがすぐにわかる調子だった。エバタもピンとくるものがあった。
「ま、また、い、家を、と、飛びだしたーの?」
 車椅子を後ろへ切り返しながら答えるエバタの正面へ、回り込んできた。
「だったら、まだよかったんだけど。パニックがおさまらず大暴れして、お母さんにケガさせたんですよ」
 その声は、今度は呆れた調子へ変わってきた。
「昨日の夜中、ハウスに連絡があってぼくも出かけたんですが、けっきょく栄光園にしばらく預かってもらうことになりました」
 寝不足なのか出井士の目は充血し、右の瞼に蒼痣ができ、卵の黄身ぐらいの大きさに腫れていた。まるで、カウンターのストレートをあびたボクサーのようだ。ちょうど反対側にいて、最初その様子が見えなかったエバタが視線をそちらに向けると、出井士は患部を自分で指差し、
「ああ、これね。衛雄つれていくとき、やられちゃいました」
 わざとおどけたように言うが、その口調がかえって痛々しく、昨晩のモンの混乱ぶりが彷彿できた。出井士は、そこで声音を落とし、頼み込むように、
「江端さん、今日、衛雄のお母さんに頼まれて蒲団とか園に持っていくんですが、いっしょに行きませんか」
「あっ、あー、い、いいよ」
 同情の気持ちが膨らみつつあったエバタは、すぐさま返事した。
 エバタが行けば、まだ興奮がおさまりきっていないモンに対し、緩衝役を果たすことはまちがいない。出井士の思惑通りにいくかはわからないが、モンの様子は知っておきたかった。
 事務所には書類づくりのため、砂里奈がパソコンに向かっていた。
「江端さん、さっき電話がありましたよ、男の」
 言い終わらぬうちに、「きゃー、それどうしたんですか」砂里奈は、後からついてきた出井士に飛びつくように近づき、掌を瞼に触れる寸前にもっていった。蹴飛ばされたパイプ椅子がスチールの机の角とぶつかり、部屋中に響くほどの耳障りな音を立てた。
 出井士は、得々と昨晩のモンとの取っ組み合いの一部始終を語り始めた。
眉を寄せ聞き入る砂里奈の瞳はいつのまにか潤んできていた。出井士も、まんざらでもなさそうに、消沈した表情は一転し、目に光が宿り、顔つきが引きしまってきた
「それくらいのケガでよかったですよ」
「ありがとう。でも衛雄の方が心配だよ」
 まるで失いかけていた自信でもとり戻したような、余裕さえ見せ始めた。
 五分後、再びエバタに電話があった。
「あーあ、も、もし、も、し」
「昨日はどうも」
 落ち着き払った跡部の声だ。もうつきあって何年にもなるような馴れ馴れしさが漂っていた。
「朝早くからすいませんけど、ちょっと出られませんか? いやね、今、こないだのコンビニに来たら、とまってんですよ、一台、例の場所に」
 エバタに受話器の向こうの跡部の顔が、今、目の前にいるようにハッキリ浮かんだ。含み笑いし、エバタを試しているその輪郭は、一度形づくられると、色違いのタイルを隙間なく敷きつめつくられたモザイク画のように容易に崩れることがない。
「名刺は見たでしょう。ぼくも、あなたに感化されましてね」
「わー、わ、わかった」
 砂里奈とじゃれつくように会話する出井士に一言、忘れ物をしたので家に帰ると嘘をつき、エバタはコンビニへ向かった。
 車椅子のモーター音が、加速とともに高く響く。聴きなれたその音の主は、自分だけの体を運ぶ器のようなものだ。容器の中の蠢動はエバタの体内と連結し、微動を起こすと、神経の隅々まで細かくつながって揺さぶってくる。エバタはモンのことを思う。今、ここにいっしょにいてくれたら、どんなに心強いか。
 カドリーの盲目のシマウマも影絵のように脳裡をよぎった。
 コンビニには、黒い車体を路面すれすれに落とし、後部にウイングのついた厳つい車がとまっていた。もちろんスモークガラスで中は見えない。跡部は、公衆トイレの陰に立ち、ほらほらと言うように電動車椅子で近づいてきたエバタに目くばせした。
「あれ、今日はデジカメは?」
「あ、あれは、もー、もう、つ、つ、つかわない」
「なんだ、いいんですか。それにモンとか言う人もいないんですね」
 エバタはそれ以上、話す気にはなれなかった。こわばる表情でじっと車を見つづけた。
「さあ、楽しみだなあ。どうなるか」
 跡部は興味深々といったふうに、目を押し広げている。
 運転手らしい男が店から出てきた。身長は百八十を超え、体重もゆうに百キロはありそうな巨漢だ。サングラスをかけていて目もとは見えないが、唇はぶ厚く、腕を大きくふり威圧的な構えをしていた。
 跡部の魂胆は十二分にわかっていた。
 エバタも後へは引き下がれない。
 盲目のままサバンナに出たシマウマはついに今、獣に襲われようとしているのだ。さしずめ向こうにいる大男がライオンで、跡部は、その後で屍肉に群がるハイエナといったところか。
 エバタは電動車椅子の加速レバーを前方へ倒した。
「あ、あのー、ち、ちょっと、す、す、すいません」
 エバタの声に、ドアに手をかけかかった大男は素早く反応した。手を離し、太い首を向け、睨みつけてきているのがサングラス越しにも充分わかる。
「こ、こーは、しょ、しょ、障害者の、つ、使うとこーです、から」
 エバタの声は、震えた。男は黙っていた。ただ、一歩、またじわりとエバタの方へ自分の体を傾けていく。何かを返される方がエバタにはむしろ気持ちが吹っ切れてよかったが、言葉がないぶん構え通さなければならなかった。
 男はまた半歩、睨みつけながらエバタの方へにじりよってきた。
 二人の緊迫した状態に気づいたのか、ゴミ出しに来た店員が不安げな表情で近寄ってきた。大男が、ちらりとエバタから視線を外した。その先に跡部が立っていた。何か二人の間で交わされているようだ。不自然な間が流れ、車の後部ドアが、その澱んだ空気を蹴るように勢いよく開いた。茶髪の女が素っ頓狂な声をだし、わざとらしく白い歯を見せた。
「なんでもないんです、なんでもないんです」
 マニキュアをぬった足の指が、サンダルからはみだし光っている。踵がずれ、今にもぬげそうだ。場をごまかす笑いに加え、冗談ぽい身ぶり手ぶりで店員を和ませると、相手も微妙な表情を浮かべ、また店に戻っていった。
「こんなもんでいいかな?」
 いきなり大男がサングラスをとり、観念したように跡部へ声をかけた。
 眼光に鋭さはなく、しゃべると声に透明感があって迫力がない。
「OK、OK」
 映画監督が会心のワンシーンを撮り終えたように両手を上げ、跡部が愛想笑いしながらエバタに近づいてきた。
「いやあー、まいったな。江端さんのガッツには」
 エバタは、改めて目の前の大男を見上げた。
「俺の友達なんですよ。こいつ‥‥いやね、江端さんがどれくらい本気かって見てみたくってさあ」
 エバタは言葉が出ない。
「こいつ、こう見えても産婦人科医、目指してるんですよ」
「たまたま、家業がそうなんで」
 相手はエバタを見て弁解し、ぺこりと頭を下げた。さっきまでの高圧さが嘘のようだ。
「でも、テルちゃん、名演技名演技。私、車の中から見てても恐かったもん」
 茶髪女は大男と付き合っているのか、頼もしげに肩口に寄りかかった。彼女の意識の中にはまったくエバタが不在のようだ。
「江端さん、悪気があったわけじゃなくってさあ、なんていうかなあ‥‥」
 跡部の言葉はもはや何の説得力もなく、肉声として響いてこない。どんな理由をつけようがエバタの感情とは相いれず、泡沫のように消えていくだけだ。
 骨の髄まで軋みそうだった呪縛から解き放されたにもかかわらず、今度は激しい虚脱感と怒りがエバタをのみこもうとしていた。むしろ真実であった方がどれだけ救われたか。虚しさはいや増してくる。とにかく、この場から一刻も早く立ち去りたい。でないと俺は今度はこいつらに何をするかわからない。
 電動車椅子ごと猛スピードで突っ込んでいくかもしれない。
 どこをどう帰ったのか。来た道を高速レバーで突っ走った。
 歩道から車道へ落ちるかもしれぬ恐怖が時折り湧いたが、抑えがたい情動をどうすることもできなかった。風が頬をなぶり、ジャンバーの胸もとへ入り帆のように膨らませた。麻痺した足や手の指先が宙を舞い、今にも千切れていくようだ。首を斜めに倒し走るエバタの視界を、三角に切り取られた車道や町並がぐるぐると回転していく。スピードを緩めないエバタに呆れた歩行者がすぐさま不服な顔になってふりかえった。エバタは無表情のまま、レバーを動かす。ハウスに着くころには、怒りは跡部たちへ突っ込んでいけなかった自分へと向きが変わっていた。

          五
 駐車場には、送迎用のワゴンの隣に一台の軽乗用車がとまっていた。
車は後部座席を倒し、荷室いっぱいに蒲団がつめこんであった。腰こそ曲っていないが、首が縮こまり、佇まいが頼りない年寄りが、車体を背に立っている。
「よろしく、お願いします」
 膝が悪いのか、歩くたびにじんわりと伸びを入れ、また元の姿勢にもどっては用心しいしい足を運んでいく。モンの祖父だ。
「ええ、大丈夫です。お母さんによろしくお伝えください」
 出井士は、頭を下げ挨拶するとエバタの方を見た。
「ちょうどいいところに帰ってきましたね。どうしたんですか。顔色わるいみたいだけど」
出井士の瞳が一瞬、曇った。
「し、心配、い、いーら、ない、よ」
「そうですか。だったらいいけど」
 忙しそうに、軽乗用車のバックドアを開け、頭を突っ込み蒲団を背に担ぎ上げた。祖父は手を貸せないことがもどかしいのか、後ろからゆっくりついていきながら、事が終わるまで腕だけぎこちなく型どるふうに動かしつづけた。出井士は、後でエバタが乗り込めるようリフトの隅へ丸めるようにして積み込んだ。
「娘も、さすがにショックで、横になっております」
「今、行っても衛雄くんの状態も、だめでしょうからね」
 モンと会い気を病む自分のことは棚に上げ、専門家然とした態度で胸を張った。
「それじゃあ、ぼくたちも行きましょうか」
 帰宅する祖父を見送った後、エバタも車椅子ごと上がると運転席の真後ろに固定してもらった。
 車窓を眺めるエバタの心に、さっきの出来事が悪夢のように思い出され、ガラスに映る平穏な街並みが不快な色で塗り込まれていく。
「栄光園て、最近あんまり評判よくないらしいですね。三年前に理事長が代わって、定員を二倍に増やしてから園生へ手がとどかなくなったらしいんです。当然でしょうけど」
 出発ししばらくして、ハンドル片手に出井士が言った噂はエバタも知っていた。
「ぼくが実習に行ったところも似てましたよ。拡張して、まず風呂の回数が減るんです。それからお米。たぶん輸入米に代えてるんでしょうけど、そんなところから経費削減やるんですね。実習の担当になった職員がこっそり教えてくれましたよ。これが福祉の実態だから、よく見とけって」
 それから、次の信号で停止したとき、ポツリとつぶやいた。
「でも、しょうがないんですよね。ショートステイで見てくれるのはこのあたりじゃ、あすこしかないから」
 出井士の言葉には、モンを預けた自分たちの行為を正当化したい気持ちが溢れていた。エバタは、いつまでも喋らないわけにもいかず、多少会話をつくつもりで訊いてみた。
「り、り、理事長って、だ、だーれ、なの?」
「知らないんですか。跡部クリニック」
 ア、ト、ベ‥‥。エバタの頭の奥でその三文字が閃光のように煌めき、瞼の奥に傲慢で無遠慮な顔を甦らせた。
「し、しーらないな。ど、どこの人?」
 驚きの心理を隠すように、間をあけず質問をつづける。
「前の理事長の大学時代の友人らしいですけど、手広く病院経営やってたのをわざわざ縮小して、栄光園に来たそうですよ」
 エバタの中で糸玉のようにぐるぐる絡まっていたものが、少しずつほぐれていく。
 モンはどうしてるだろう。エバタはそのことが気になった。車が前後左右に揺れるたび、蒲団もゆさゆさ断続的に動く。その膨らみにそっと手をやりながら、エバタはそこにモンの匂いを嗅いだ気がした。
 栄光園に着くころは、小さな雨粒が落ち出していた。
 園は自動ドアの奥に押し開きのドアがある。地形が小高い丘の中腹で、雨粒や砂ぼこりが風で運ばれてくるため、二重に防御されているのだ。職員室は第一棟の一番東側にある。丘を切り崩しつくったため、そちら側は傾斜が厳しく、正面の窓の位置が二階とほぼ同じ高さになって危険なため、園生の部屋には不適当だったらしい。
 自動ドアを入ったときだ。
内ドアの向こう、玄関を入ってすぐのロビーに、四つん這いになり雑巾がけをしている見覚えのある姿があった。刈り上げた頭が、うなだれながら前後左右に揺れている。
「アッ、エバチャン、助ケテ」
 モンだ。エバタたちが来るより先に気づいたモンは、小躍りするように立ち上がり、エバタや出井士の方へ駆け寄ってきた。両手を胸の前で組み、お祈りでもするように「デイシサン、ゴメンナサイ。モウシマセン、モウシマセン」をくりかえすのだった。
 出井士は、モンと視線を合わさないため、エバタの陰に隠れるように一歩退いた。
「モリ坊、あれから職員に唾吐いたんですよ」
 モンにあれこれ指示を出していた長身の男がモンの属する木工班を担当する未久野と名のった。背後から近づくや、袖を捲くった筋肉質な腕を伸ばし、力づくでモンを引き離しにかかった。
「ねえ、モリ坊、自分が悪いからしょうがないもんね。さっ、ふいて、ふいて」
 未久野はモンと同世代であるにもかかわらず、強引さとは裏腹に幼児でもあやすように舌たらずな口調で話しかけた。悪びれた様子もなく、一見、無神経質そうなその顔が跡部と重り、エバタに嫌悪を甦らせた。ふつふつとくすぶっていた怒りは、今、モンの置かれている状況を梃子に、メラメラ吹きかえしていた。蒲団をもってきた旨を職員に告げ、部屋へ抱えていく出井士は、モンをできるだけ意識しないようにしているのか、終始、言葉数が少なかった。
 エバタは、目の前で必死に哀願するモンの瞳の奥をじっと見つづけた。
 モンの顔が苦痛にゆがんでいく。顎を突き出し、未久野の方へ向けている。静寂が、薄い皮膜のように辺りをつつみ込んだ。モンの瞳から光が消え、土偶のような闇に支配されだす。土に彫られたのは、目だけではない。口もともヒビ割れた唇がすぼめられ、底知れぬ一つの穴になっていくのだ。エバタはその穴に引き込まれるように、瞬きするのも忘れ凝視した。
 ヅッヅッヅ。泡の混ざった水滴が濁音とともに、二度にわたりその闇の穴の底から未久野の方へ吐き出された。淡い光をもった唾液は弧を描き、相手の顔面に命中する。
「こらー、だめだろう」
 他人の前で赤恥をかかされたように、顔中を紅潮させた未久野は、とたんに眉間を釣り上げ、荒い息を吐いた。これほど恐怖に脅えたモンをエバタは見たことがない。神経や筋肉の至るところまで緊張の糸がはびこり、周囲の空気がそれに合わせ波打っている。すぐさま未久野に両腕をとられ拘束されたモンは、今にも泣き出しそうな声で「スミマセン、スミマセン」を連発するのだった。モンの乾いた絶望的な声が、フロアの壁に反響し、四方からエバタを凍りつかせるように覆っていく。
 母親の傷が完治するまで、エバタと出井士は週に一度、栄光園へ枕と蒲団カバーを替えにいくことになった。
「いつもすごいんですよ、汚れ。水が真っ黒になるんですから」
 砂里奈が洗濯をするたびに、驚きの声を上げたのは、モンが園で使っている布団カバーだ。染み込み流れ出たものがエバタには、単なる寝汗や垢には思えなかった。
 数日後、出井士と園へ行くと、モンはやはり土間掃除をさせられていた。
 未久野がホースで水を流し、その前後をモンがデッキブラシでこすっていた。ホースの先には調節器具がついていて、噴霧器のように勢い良く水がコンクリで跳ね、飛沫を上げていた。 
「あいかわらず唾吐きがなおりませんねえ‥‥。なあ、モリ坊」
 未久野はほとほと困ったように眉をしかめた。それでも多少、モンへの対応に慣れてきたのか、以前のような尖った口ぶりではなく皮肉めいた揶揄が込められ、薄い冷笑が唇に滲んでいた。エバタは一々言い返すことはしなかった。そんなエバタの態度を見て未久は同意でも求めるように、
「こだわりが、なかなか、ぬけないんですよね‥‥」
「そ、そうですね。ほ、本人も、そー、そ、それがなきゃ、ら、楽なんですが。ど、どーうも、お、お世話に、な、なります」
 労う口調のエバタに気を許したらしく、未久野は木工班を担当する職員が、今日一人風邪で休み、彼を除き職員一人で十人の園生を見ていると漏らした。 
「よ、よかったら、ぼーぼくらが、少し、モ、モンの、あ、相手してましょうか」
「えっ、そうしたらありがたいなあ」
 未久野は願ったり叶ったりの申し出に甘え、すぐ戻ってくると言い残し、工作室へ出ていった。監視する者がいなくなると、まるで推し量ったようにモンは腰を伸ばし、エバタの方を向き直った。既にその手にブラシはない。各班が作業療養中であることもあり、職員室にはだれもいない。
「で、で、出井士さん、ちょ、ちょっと、しょ、職員室へ、い、いー行こう。そ、それから、ほ、ホースと、ブ、ブラシ、もー、もってきて」
「何に使うんですか?」
 わけがわからず合点のいかぬ出井士は戸惑った。
「い、いーから、は、早く」
 電動車椅子で勢いよくUターンするエバタの眼差しは鋭く、出井士に有無を言わさぬ迫力があった。エバタの思いつめた表情に押されるように、出井士もブラシを片手に蛇口からホースを外すと、遅れ気味について行った。
「モ、モン、ま、まー、窓を、し、し、しめーろ」
「何すんですか」
 思いがけぬ言葉にさらに困惑する出井士は、くどいと知りつつまた問い返した。 
「い、いーから、は、早く、窓、閉めたら、か、鍵、かけるんだ、よ。それから、と、扉には、ブラシで、つっかい棒、して」
 何を聞いても無駄なようだった。モンは、気心の合ったエバタたちといれることがうれしいのか、器用にホック式の鍵をかけるため、部屋を回っていっている。出井士も仕方なく従った。
 数回園へ来るうちに、職員室に放送機器があることをエバタは熟知していた。二人が最後の鍵から手を離したとき、マイクの突き出た本体にある橙のボタンを押した。かすかなノイズが入り、チューナーからスピーカーへ音声が接続されたのがわかった。エバタは深く息を吸い、胸から第一声を絞りだした。緊張のせいで硬くなり、形式ばったものになった。
「こ、こーの、ほ、放送を、お、おー聞きの、み、みなさん、た、たった今、え、えーい、栄光園の、しょ、職員室を、せー、占拠、しー、しました」
 そして間を置き、
「よ、要求しまーす、にゅ、入園者を、に、人間、あ、扱い、せーよ。み、みんな、プ、プライドがあーりーまーす。よ、幼児語を、つ、使わず、み、見下さないで、く、くださーい。こ、こだわりが、お、多いから、といって、そ、そうじを、さ、させたり、し、しないで、ください」
「うわあー、こんなことしていいんですか」
 堪り兼ねたように出井士が大声を上げ、おどおどしながら隣へやってきた。モンは掌に拳を叩きつけスキップしている。そんなモンを横目に出井士は声を引き攣らせ、「知りませんよ。あとでどうなっても」少々怒った顔で、訴えた。
 エバタは、考えていた一幕をやりとげた安堵感か、放心したように車椅子の背もたれに体を預けた。
「これから、どうするつもりですか」
 だが、しばらくすると多少不安げであっても諦めたのか、出井士は他人行儀な態度でエバタを窺った。
「い、今、のうちに、ほ、ホース、つー、つけとい、て」
 相変わらず質問を無視し注文を出すだけのエバタに、しぶしぶ出井士も、ホースを湯騰室の蛇口にくくりつけた。
 やがて、放送を聞きつけた栄光園の職員と園生たちが、がやがや窓の下に集まりだした。 エバタがマイクに向かって叫ぶ。
「あー、あなた、た、たちに、しー、施設を、やっていく、し、資格な、なんて、なーいです」
 顔をマイクから離し、
「お、おい、みー、水、みー、水だ、よ。あ、合図したら、だ、出して」
 湯騰室にいる出井士に、水道の栓を開けてもらうため待機させた。
「モ、モン、か、かけ、ちゃえよ」
 モンはホースの先端を持つと「かけていい? エバチャン、かけていい?」としつこく聞き、「あ、ああ、いいよ」エバタの言葉にいたずらっぽく笑い、少し開けた窓の隙間からホースを突き出した。
 エバタの一声で放水が開始された。
 頭上から水がスプレーのように降りかかり、職員たちが思わず後退りする。それとは対照的に、園生は楽しそうに、わざわざ水の雫の下へ駆け寄ってくる者もいる。そんな園生を引きとめ怒りだす職員や、遠くで何やら相談し合う姿をエバタは、予想どおりといった具合に眺めていた。
「エバチャン、かけていい? ほんとにかけていい?」
 放水しながらもモンは、ホースから噴射される水を持て余すように訊ねることをやめない。
「あ、あーああ、い、いーいさ。ど、どん、どん、か、かーけて」
 再びモンがホースの調節口を持ち、水を飛ばしたとき、職員たちに新しいメンバーが加わり陣を組む形で固まった。何やら次の作戦を練っているようだ。エバタは神経を集中し、成りゆきを見守った。やがてその円陣が解かれると、その中でただ一人、今度は水をひるまず、機械のようにどんどん進んでくる男がいる。
 見覚えのある膝の擦り切れたジーンズとスニーカーに、エバタは思わず我が目を疑った。 無表情のまま、両手を前ポケットに入れ、猫背で歩いて来てくる。モンは跡部を狙って、水を浴びせ出した。前髪が糊ではりついたように、一本、一本額にくっつき、Tシャツが薄紙のように透け、肌に張りついた。
「な、なーんだ、ま、また、あー、後、つー、つけてきたのかよ」
 跡部は無言で何も返さない。
「こ、ここは、お、おまえーの、おーやーじが、り、り、理事長、だ、だってな」
 エバタは、憎しみを込めあらん限りの声を上げ、マイクで叫ぶ。喉がカラカラに渇き、口腔に水をふくみたい欲望に駆られながらも、何とか耐えた。跡部は、数メートル下で立ち止まり、仁王立ちとなり、エバタたちのいる部屋を見上げた。切れ長の目と窓越しのエバタの視線がぶつかり合う。声帯が思うように調節できず、ただ力まかせに張り上げるエバタの叫びを聞き取れる者は、もはや誰もいないかのようだ。
「も、もう少し、え、園生のこと、か、考えるように、お、おやじに、いーっとけよ」
 エバタが絶叫した瞬間だった。空気をふるわす破炸音が部屋中を駆け巡った。
 背にしていた廊下側の扉のガラスが割られ、けたたましい響きとなって直に降ってくるようだ。エバタはマイクから離れ、車椅子を壁際へ後退させた。
 氷の切れ端のように鋭利になった残りの破片を松葉帚の柄で払う未久野の顔が、桟の隙間から見えた。太い手を伸ばし、ブラシを外しにかかっている。つっかい棒が倒れると同時に、いっせいに部屋の中へなだれこんでくる職員の顔は、どれも鬼のような形相で額にはミミズのような血管が浮いていた。
 突然の怒濤の進入に興奮したモンが、ホースを投げだし窓枠に手をかけた。
「ココ落チタラ死ヌ? ココ、落チタラ死ヌ?」
 窓の外と内とを交互に見比べ、脅えながらくりかえした。エバタたちの指示が消えた空白を自分で埋められず、不安を自傷行為で打ち消そうとしている。しかも職員たちの接近がさらに追い討ちをかけた。
 エバタは必死にモンをなだめる言葉を探した。
「も、モン、し、死ぬよ、だ、だから、よーそうーな」
 出井士は、不意の侵入と衝突で足を挫いたのか立ち上がれない。張りつめた空気と猛烈なうねりが辺りを支配し、両者が揉み合っていた中心に自分の出番だとでも言うように、未久野が強引に割り込んできた。
「落ちても死なないよ。このくらいの高さ。どうせできないことなんか言うなよ」
 乱れた息を整えながら勝ち誇ったように言う。
「も、モン、だ、だめだ、よ。や、やーめーろ」
 エバタは、乱暴な未久野の言葉をモンからできるだけ逸らそうと試みた。
「や、やめよーな、モン…」
「死ヌ、ココ、死ヌ?」
「衛雄、だめだよ。だめ」
 出井士も膝立ちのまま、制止しようと手で相手の腰を握った。
「だから、死なないよ。やれるもんだったら、やってみろよ」
 未久野は挑発的な言葉とは裏腹に、今しも覆いかぶさる構えで両手を少しずつ持ち上げ、慎重にモンへ近づいていっていた。
「だ、だ、だめだ、も、モーン、し、死ぬーから、や、やーめ、ろ」
 にじり寄る未久野の動きに追いつめられ、長い手がまっすぐ伸ばされようとした瞬間、モンは桟に足をかけ、視界から忽然と消えてしまった。すぐに重く鈍い音と窓外から職員の叫び声がした。
 エバタの胸奥にナイフでも深く突き刺ったような痛みが走った。
 
          六
 誰もが動きを止め、事の成りゆきを固唾を呑んで見守った。 
「イターイ、イターイ」
 声がした。それは、それまでのパニックが嘘のように必死に助けを求める声だ。気が遠くなりかかっていたエバタの意識は呼び覚まされ、我に返った。 
「だ、だいじょーうぶか、モ、モ、モン」
 車椅子を窓に近づけ、エバタは再び叫んだ。
「エバチャン、イターイ」
 数メートル下の側溝へ、胴体ともども墜落したモンは、当然だが勢いで横に倒れていた。女性職員が二人、恐る恐るモンに近づき起こそうとしていた。
「だめだめ、さわっちゃ!」
 跡部の声がした。
「動かさないように。脊損の可能性がある。担架だよ。担架もってきて。それからすぐに救急車にも連絡して」
 エバタはさらに窓のサッシに近づき、できる限り首を伸ばし、斜め上から見下ろした。跡部がモンの腰の辺りを触りながら、動こうとするのを止めている。
「今はむりだよ。皆で抱えてやるから、それまで待ってろ」
 数名の職員に担架に乗せられ、モンは救急車がくるとそのまま病院へ直行した。エバタも出井士といっしょに後を追った。
 腰椎粉砕骨折。これがモンの外傷の名前だ。腰骨の一部が砕け、脊髄を走る神経を圧迫している。さっそく病院側から手術の説明があり、母親も駆けつけた。園側からは、施設長と医療担当者が参加し、出井士やエバタを始め陰欝な雰囲気での話となった。
「まず、左肋骨の下を二十センチほど切り、内蔵と肺をよけながら横隔膜との境を切断します。骨折している患部を取り除き、かわりに骨盤の一部と一本切除した肋骨を埋めこむのです。骨盤と肋骨だけでは弱いため、金属で補強することになると思います」
 エバタたちが黙っていると、それが理解が難しいと受け取ったらしく、担当医の潮田は丁寧にホワイトボードにマジックで絵を描き、説明をつづけた。
「術後の機能への影響は何とも言えません。ただ、現時点では、五段階に分け、良くて三が想定されます」
 三十を少し過ぎたばかりの顎に青い剃りあとの残る潮田は、まるで数学の方程式でも解くように、無駄なく淡々と話していく。
「一は、まったくの麻痺で、下半身付随。二はある程度の神経のつながりはあるものの立つことは不可能、三は重力に逆らって立てるかどうかの際どい境目というわけです。四、五となると歩行や通常の機能回復ということになりますが、排便の自律神経が奪われている可能性もあり、今のところ予断が許されない状況です」 
 エバタは手術のことで頭が一杯でありながら、片方で今後、事件がどう扱われていくかも気になっていた。エバタの心に重い錘が下りた。たとえ動機はどうあれ、モンが飛び降りたのは事実であり、その原因となる事件を起こし、巻き込んだのはエバタだった。
 手術の説明後、理事長の丸尾に呼ばれ、出井士とエバタは待合室のフロアで事情聴集を受けた。佐渡はひととおりのことを聞き終わると、後は自分に任せておくようにとだけ告げ、その場を去った。
 すぐに双方の理事長や職員幹部での話し合いがもたれた。
 刻一刻と時間だけが過ぎていく中、エバタたちの栄光園での立てこもり事件は、けっきょく表に伏せられる形となった。園側にすれば、ずさんな経営実体が暴露されることには避けたかったし、モンをエバタたちに任せた未久野のミスは決定的だったからだ。
 とは言え理由はどうあれ、無謀な行為に走ったことに違いなく、その両面から、モンの墜落も、あくまで療育中の抑止できぬパニっクによって起こった不可避な事故として処理されることになった。
 それから二日後、休暇をとっていた数名のスタッフが揃ったということで、モンの手術は行われた。麻酔が解け手術室から出てくるまで十時間を超えた。手術が無事成功したことを塩田から告げられたエバタは、少なからず胸を撫で下ろした。
「江端さんのせいじゃありません。栄光園の噂を知ってて、あそこに預けてしまった私が悪いんです」
 母親は、手術を終え病室へ戻ってきたモンの横でそう言ってくれたが、エバタの心は重かった。
 術後、エバタは毎日のように見舞いに行った。
「アッ、エバチャン、通行人、確カメルノ、ヤッパリムリカナー」
 二週間が過ぎ、最も危険な状態は脱しつつあった。
 ベッドに伏したまま、エバタの顔を見るなりモンが肩口から首を持ち上げ、情けない声で聞いてきた。例の刑事もののビデオが見たくてしょうがないのだ。体の自由の利かないもどかしさが苛立ちとなって、こだわりは復活しつつあった。
「衛雄くん、動かないようにしようね」
 モンに話しかけるのは栄光園の職員だ。リハビリまでの間、病院の希望もあり、園側から常に一人置くことになった。
 今日の担当は秋吉という女性職員だ。髪を後ろで束ね薄い緑のトレーナーを着ている。
「モ、モン、ビ、ビデオは、た、退院してから、ゆ、ゆっくり、み、見ような」
「通行人ハ練習スル?」
「い、いー、今は、あ、あーまり、か、考えないように、しー、しよう」
「考エナイ。ボク、自己コントロール、ダメ」
「だ、だめじゃ、なーいよ。じ、自己、コントロールで、でーきてる。で、き、てる」 
 『自己コントロール』は、きっと園の誰かが注意するとき使った言葉に違いない。入院してからというもの、この言葉がやけに増えた。エバタが車椅子を近づけ返すと、仕方なさそうにエバタの手を軽く握った。モンは、胸がザワザワするとき相手の肌にさわることで落ち着くのだ。
「モ、モン、きょ、今日は、い、いーいもの、も、も、もって、きーきた、よ」
 エバタは車椅子の後ろの荷物入れから、秋吉にとってもらった。分厚いタレント名鑑だ。家でよく見ていたやつがかなり古くなり、エバタが書店に注文し、今年出たばかりのを買ってきた。こだわりが強いときの特効薬になればと思っている。
 さっそく、寝たままとろんとした目でページをめくり始めた。
「わたし、衛雄くんが落ちてきたときはびっくりして、すぐに駆け寄ったんです」
 秋吉は、モンの様子を見て、ようやくあの日のことを語り始めた。
「ぼ、ぼくが、あ、あーんなこと、し、しーた、もんだから」
 エバタは園の職員に合うたびに詫びつづけていた。
「でも、あれから、ずいぶんかわりましたよ。会議のときなんか、意見、言いやすくなったし。園生についても、少しは共通理解がもてるようになりました」
 エバタは、どう答えたらいいか迷った。モンが名鑑を見ながらも神経をこちらに向けており、ふとしたことでこだわりが生まれ、思いがけぬしっぺ返しを食らうことがよくあるからだ。
「と、とにかく、後は、も、モンが、ぶ、無事、たーい院すれば、いーい、いいんですけど」
 エバタは無難な返事をした。そしてどうしても確かめたかったことを訊ねてみた。
「あー、あのとき、止めたのは、あ、跡部理事長の、む、息子さん、でーすか」
「えっ」
 思いがけぬ質問だったらしく、秋吉は目を丸くし、すぐに首を振った。
「あの人は、木須さんと言って、うちの利用者です」
 エバタは、想像もしていなかった答えに、次の言葉が出てこなかった。
「医学部の学生さんですけど、少し情緒に不安定なところがあって、それで、大学の後輩だからっていうことで理事長が特別に受け入れているみたいです」
 事務連絡のようにつづけた。
「あの日は、たまたま薬をもらう日で、エバタさんの放送を聞いてすぐに来ると、俺が引きつけるから、その隙を狙えって言い出されて」
 彼女の声はあまりに冷静すぎ、それが逆に不自然に聞こえるほどだ。エバタの中で何かが崩れた。だが、どこかで俯に落ちるのも否定できなかった。エバタは名刺の件など、いくつか話した。
 秋吉は、あいかわらず冷静だった。記憶を辿っているのが眼球の動きでわかる。やがて一点で止まると深い溜息をつき、残念そうに唇を噛んだ。
「前にもあったんですよ。半年前だったと思います。そのときは職員の名前を使って、県の福祉課へ、補助金をもっと上げろって抗議しにいったんです」
 エバタは、庁舎で主張する木須と自分へ向けた不躾な顔が写し絵のように見えた。象牙色のフロアに、擦り切れたジーパンが不似合いに思え、何とも言えぬ気持ちになった。 
 一時間後、潮田の回診があった。エバタも立ち会った。
 執刀された腹部へとおされた管から、相変わらず赤黒い血液で濁った体液が吸引され、ベッド脇に留められた透明の容器に溜まっていく。潮田が、管の流れをよくするため軽く振り、角度をあらため、真剣な表情で見た。看護士が包帯を取り替えるため、右脇を下にモンの体をゆっくり動かす。分厚いガーゼがはがされるとメスを入れられた生々しい傷口が縫われた糸と一緒にあらわれ、そこから染み出るようにゼリー状になった血の塊がとろりとモンの腰を流れ落ちた。
「へんですね。ふつうなら、もう傷口がふさがってもおかしくないんですが」
 潮田の言葉にエバタは、ためらわず近づいた。
「なおそうという意志が、なかなか感じられないんですよ」
 白い壁に囲まれた病室で疲労の色を浮かべ率直にそう言うと、同伴した若い看護士も、困惑した表情で後をつないだ。
「調子はどう? て聞いても、『いい』としか答えませんし」
「あ、あのー、ちょっと、こ、ここではあ、あれですから、べ、べー、別の部屋で、は、話してもらって、い、い、いいですか」
 三人は手術の説明のあった部屋へ向かった。
 四方を移動式のボードで囲まれた部屋をエアコンから吐き出される空気が静かに流れていた。エバタはその流れを首もとに感じながら、さっそく口を切った。
「モ、モンは、じ、自分から、なーなおしたいとか。あ、あんまり思わないんです」
「どうも、そんな感じですね」
 潮田は、複雑な顔をした。
「そ、それに、ぐ、ぐ、具合がわるいとか、す、す、少し変だとかも、じ、自分からは言いません、だ、だ、だいたい、ち、治療の意味なんか、わ、わかんないんです」
 知らず知らず言葉の端々に力がこもり、そのたびに全身が硬くなり、身を捩って解いた。「だー、だー、だから、み、みなさんがすすんで、な、な、何回も見てほしいんです」
 看護士はメモ帳にボールペンで記録している。回転椅子に座った潮田は、肘掛けに腕を置き、ときどき深く頷く。
「そ、そ、それから、が、がんばれは、つ、つかわないで、くー、ください。あーあれは、か、かえって、こ、こだわりが、ふえます」
 看護士と潮田は、その行為が自分にも当てはまったのか、目を合わせ照れたように笑った。
「それじゃあ、何と言えばいいですか」
気を取り直し、看護士が単刀直入に質問した。
「だ、だいじょうぶ、とか、いっ、いっしょに、や、やっていこうとか、と、とにかく、あ、あー安心させる、い、言い方で、す」
 エバタの言葉は、真剣な眼差しで聞き取られメモされていった。
「おっしゃることはわかりました」
 最後は、潮田が医療的側面を強調し、しめくくった。
「こちらも、なにぶん衛雄くんのような患者さんは初めてなもので、戸惑いがあったことも事実です。ただ、このまま傷がつながらない場合、感染症の心配も生まれます。ふたたび腹部を開き、殺菌しなおすことだけは避けたいですので、全力をつくしてみます」

 その後、病院側は看護体制を見直し、より頻繁にガーゼ交換を行い、モンにも積極的に話しかけるようになった。看護士の出入りが目に見えて増え、モンのこだわりに穏やかに答えている情景をよく見かけるようになった。するとそれまでの経過が嘘のように傷口は接合し、回復の兆しが見えて来たのだった。常識では考えられない展開だった。二カ月もするとモンは自力で立ち上がれるようになり、排尿も可能となった。すべてが奇跡的だとスタッフを驚嘆させた。
 
          七
 入院三カ月目でモンの退院が現実味を帯びてきたある日、エバタと出井士は丸尾に呼ばれ、栄光園の事務室にいた。モンが退院すれば再入所はまちがいなく、謝るべきところは謝っておいた方が得策だろうという判断だった。あれだけのことをやった場所へ出向くことはエバタには苦痛だったが、モンの看護で何人か知り合い、モンへの理解者がいることもわかり覚悟を決めた。
 施設長の横に小柄な背広姿の男が座り、理事長の跡部信一だと告げ、名刺を出してきた。やはりあの「跡部」とは似ても似つかぬ他人の顔だ。表面は温厚そうだが、笑っているのは口もとだけで、終始こちらへ冷ややかな眼差しを送ってきた。丸尾と出井士が慇懃な態度と会話でその場を取り繕った。
 形式だけの謝罪をすませ、すぐに園を出たかったが、退院後のモンへの対応が気になり、部屋や浴室を下見させてもらうことになった。腰の状態を考え、段差のない一階で生活するということだ。ただ、食堂だけは地形の関係で丘陵に沿い階下につくってあり、車椅子用のスロープを使わねばならない。スロープは、少々遠回りだが一度玄関を出て、外からしか下りられない。さっそくエバタは、車椅子で移動してみた。玄関口からトタン屋根がつけられ雨はしのげそうだ。食堂には真横から入ることになる。
 食堂は、ちょうど昼食が終わったらしく、食器類の重なる音があちこちから響き、ざわついた雰囲気だった。出井士につづいて中へ入ったとき、奥に見覚えのある顔があった。
 職員らしき女性と向き合い、何やら楽しそうに雑談している。遠くからだが、その動作は、エバタの前で、理事長の姓を使い見せた横柄な態度とは雲泥の差だ。エバタは相手が最初にアパートへ来たときのことを思い起していた。どこかでどっと嗤い声が起こる。不思議と喧噪は気にならなかった。
 採光は特に考慮されているのか、正面からの明るい陽光が、磨き上げられたサッシ戸越しにふりそそいでいた。おそらく一日のうちで一番長閑かな時なのだろう。だがそれも過ぎると、食堂全体に会話が途絶え、均質な建物特有の空虚さが戻ってきた。木須の様子に少し変化が見え始めた。肩が落ち、乾いた空気が辺りをつつみだす。木須は職員から促されるようにしてようやく立ち上がり、俯き加減に自分の盆を持ち、返却口に歩きだした。何の合図かわからぬチャイムが、物憂げな体の動きを追うように、気怠く館内に鳴り響く。 退院を二日後に控え、モンはモンなりに張り切っていつものようにリハビリを行っていた。腰から胸元まである鎧のようなコルセットが、太い胴回りを一層厳つくさせていた。
「アッ、エバチャン、アフリカサン元気?」
「あ、ああ、こ、こないだ、え、えさ、とどけに行ったら、げー、元気に走ってたよ」
 客を呼ばないシマウマはとっくにどこかへ消え、赤い屋根をつけたソフトクリームの売店に変わっていた。リハビリが始まると同時にこだわりだしたモンの問いに、エバタは嘘をついていたのだ。今頃、なぜ気になりだしたのか、理由があるのどうかもわからない。だがやがて謎は解けた。モンが、数種類ある運動に根気がつづかず途中で休憩していると、理学療養士の山下が腕に人形をつけ話しかけ始めたのだ。それが偶然にもウマのぬいぐるみだった。
「おい、もりおくん、大丈夫だよ。大丈夫! もう一回やってみよう。ヒヒーン」
 山下の手首の動きに合わせ、人形は首を激しく上下に振り、タテガミをなびかせ、口をパクパクさせる。
 モンはそれが、アフリカサンに見えたのだ。
「も、モン、も、もーじき退院だから、きょ、今日は、た、ためしに、おー、おれの車椅子、おー、押してみないか」
 エバタは山下に頼んで、後輪の内側についているレバーで電動を手動に切り替えてもらった。モンは立ち上がり、グリップに手をやった。車椅子は杖の役目にもなり、体重をかけると頑丈な車体は、ゆっくりエバタを乗せたまま前進していった。モンは、わざとらしく頬を膨らませ、大仰な顔をしている。それが周囲に笑いを誘った。
 山下の胸に抱かれた布製のウマが、じっとその光景を見守っている。エバタにもその栗毛の胴体に、一瞬、ぼんやりと縞模様が見えた気がした。
 ベランダに面した総ガラスの窓から、鮮やかに染め返った秋の西日がステップに置いた足もとまでとどき、タイヤの動きとともに嘗めるようにチラチラゆれている。エバタは、それが栄光園へ謝罪へ行った日、食堂で見た光と重った。モンの退院後、また繰り返されるであろう園での生活で、もし木須と会ったとき、どんな顔でどんな言葉を返せばいいのか、さっきから一人で考えていた。
 そんなエバタの思いをよそに、モンの影は徐々に伸びながら車体を溶かし、エバタを溶かし、尾鰭をつけた大きな一匹の海魚となり、光の波間に濃い立像を映し出しながら、遥か南の大地に落ちていくように思った。

アフリカサン

2020年4月29日 発行 初版

著  者:宮本誠一
発  行:夢ブックス

bb_B_00163679
bcck: http://bccks.jp/bcck/00163679/info
user: http://bccks.jp/user/147880
format:#002t

Powered by BCCKS

株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp

宮本誠一

1961年熊本県荒尾市生まれ。北九州大学文学部国文科卒業後、学習塾講師、大検(高卒認定)専門予備校職員などを経て、熊本県小学校教諭に採用。二校目の赴任地(阿蘇市立宮地小学校)で、卒業生である発達障害の青年との出会いをきっかけに33歳で退職し、当時阿蘇郡市では初めての民間での小規模作業所「夢屋」を立ち上げました。その後、自立支援法施行に伴い、「NPO夢屋プラネットワークス(http://www.asoyumeya.org/)」を設立し、地域活動支援センター(Ⅲ型)代表兼支援員として阿蘇市から委託を受けながら現在に至っています。 運営の傍ら、小説、ノンフィクション、児童文学、書評などを発表してきました。部落解放文学賞に5回入選、九州芸術祭文学賞熊本県地区優秀賞2回、熊本県民文芸賞、家の光童話賞優秀賞などを受賞させていただいています。

jacket