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ミズイロノカワ

宮本誠一

夢ブックス



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       ミズイロノカワ
        一 

 車はほぼ玄関正面に止められた。雨が風に煽られ、かなり強く降っていた。最初に運転席から下りた母親は傘も差さず、後ろの扉を開け外に出るよう促している。服がまたたくまに濡れ、鈍色になる。急いで迎えに出ようとした満子は、慌ててもう一本傘を用意したが、親子の動きは意外に敏捷で、満子が内扉を開けた時にはすでに玄関の外扉に手を伸ばしているところだった。
 襟元に雨粒が滲み、斑模様になっていた。
 釘崎は、施設長室からそんな親子の様子を窺っていた。
 ホープヒルは名前のとおり、高地の麓の小高い丘にあり、晴れきった日は乾いた風が埃を舞い上がらせ玄関にたくさんの埃や砂を運び、雨季になると雨粒が容赦なく降り込んできた。そのため、扉は二重にしてあり、外気はある程度、遮断できるようつくってある。三人は玄関中央で鉢合わせする格好となり、双方の顔をまじまじと見ることになった。
 入所生の名前は樋口孔、今年二十歳になる青年で、母親は里美と言った。
「孔くんを担当することになった舟田満子といいます。どうぞよろしくお願いします。それにしても、すごい雨でたいへんでしたね、中へどうぞ」
 満子がうながすと、孔と里美は連れ立ってロビーへ入ってきた。里美の手が、軽く孔の腰に当てられている。里美も満子も女としては小柄でないが、孔と並ぶと背はその肩先あたりまでしかなかった。それになにより目を引くのが、横幅だ。太腿はおそらく彼女たちのウエストを越していただろう。胴回りも、大きな山奥の杉の幹を思わせるほどどっしりした重量感があった。しかし、運動不足からくる肥満の傾向は否められなかった。
「ここは、どこ?」
 脅えたような質問が始まった。眉間には、深い皺が十文字に刻まれた。
「ホープヒル」
 言い聞かせるように里美は、念を押した。
「ここが、お泊りするところ?」
「そう」
 孔の目は、ますます顫えた。
「心配ないわよ。孔くんが好きな音楽も聴けるし」
 満子はあらかじめ得ていた情報を、最初のきっかけにしようと試みた。孔の表情に大きな変化はなかったが、声色に微妙なぶれが起こった。
「音楽ほんとに聴きける?」
「ほんとよ」
 里美は、孔の瞳を見て、微笑んだ。だがそれもほんの一瞬だった。
「ここにお泊りするの? ねえ、お母さん」
「そう、約束したでしょう。しばらくは、がんばってみるって」
 孔は、苦しげに唇を歪めた。もどかしい足掻きに似た苛立ちが、体全体に感じられた。
 満子は二人の会話を聞きながら、孔がかなりの言葉と感情の表現を持っていることに驚いた。 事前に自宅訪問した際とは雲泥の差だった。
 部屋は慣れるまで職員室から一番近い、廊下伝いに畳敷きの娯楽室を過ぎてすぐの場所になった。
 里美は何とか息子をここまで連れてきたことに安堵しつつ、施設での生活がうまくいくか不安の狭間にいた。それでも将来に備えショートステイで一週間試しておくことは、今のうちにやっておかねばならないことだった。
 部屋を案内されるのは二度目とは言え、色彩が単調で殺風景なつくりに、里美の気持ちは沈んでいた。入所者を刺激しない配慮と説明を受けてもどこか異様に思えた。満子はそんな里美の心情を察しつつ、寝具類の説明と着替えの整理を終え、いよいよ釘崎に会わせることとなり、一段と緊張せずにはいられなかった。
 施設長室をノックして、満子を先頭に部屋へ入っていった。
 釘崎は、頬に若干の含み笑いを浮かべ、椅子に深々と腰を下ろした。
 一見、柔和そうに見える瞳の奥は、不敵で陰鬱な光が感じられた。それは、彼自身、障害を持った子の親であり、かつては医療事務の専門学校の経営者でもあった特別な意識とホープヒルをここまでにした自負心がもたらしているようだった。満子はせめて互いに気分が害さず終えることが自分の役割とでもいうように、入所の手続きが滞りなく完了したことを淡々と連絡した。
「ああ、そう。わかりました。ひどい雨の中、お疲れ様でした。まあおかけください」
 とってつけたような儀礼的な挨拶とともに、釘崎が立ち上がり、孔と里美を接待用のソファにすすめた。するとそのときだった。孔の態度が急変した。
「ぼく、ここ嫌」
 孔は、部屋中に響く声で叫び、頬を引きつらせるや肩を大きく揺らし、いつまでも腰を下ろそうとしなかった。だが、そんなときはとにかく情緒を安定させるため座らせた方がいいのは指導上の鉄則だ。満子は里美といっしょに肩口に手をやり、力をこめた。しかし、孔の巨体は強靭なバネを内に秘めたように撥ね上がり、制御を拒んだ。
「ぼく、嫌、ここ、嫌。だって、おじさん、怖いもん」
 釘崎の顔を恨めしげに横目で睨んだ。
「孔、今ごろ何言うの。昨日もお母さんと約束したでしょう。あれは、嘘だったの」
 孔の耳に、里美の声は素通りした。視線は虚ろに宙を舞い、表情は硬くこわばっていた。満子は、孔の感情の乱れに容易ならぬものを感じた。
 釘崎が、二、三歩歩み寄った。
「座りなさい、孔くん」
 一喝し、手を出そうとしたときだ。恐怖を抱いた孔の目は吊り上がり、ついに釘崎に対し、先に太い腕を挙げてしまった。釘崎の手は孔の張り出した肱で呆気ないぐらい簡単に跳ね除けられ、体が横へ揺らいだ。
 釘崎の形相も一変した。孔の両腕を絞り上げるようにつかむと、素早く態勢を立て直し、今度はそうはいかぬとばかりに体ごとのしかかり、孔を茶褐色のソファへ沈め込んだ。  
 釘崎は満子の方を振り返り、担当なんだからどうにかしろ、というふうにじろりと睨みつけた。
「孔くん、それじゃあ、ここでお母さんにさよならして、私とお部屋へもどろうか」
 威圧的な釘崎の存在が、満子でさえ強いストレスとして感じられた。彼女は孔から里美や釘崎を切り離すことが先決だと思い、言葉をかけた釘崎は、孔の体から細かな顫えが治まってきたのを確かめると、静かに手を離した。
「さあ、孔くん、行こう」
 満子は思い切って相手の手を握ってみた。孔は、疑わしげではあるが彼女の方へ顔を向け、撥ねのけることもせず立ち上がった。
 満子はようやく相手が反応してくれたことに、ホッとした思いを抱いた。
だが、孔の態度はどこかが違っていた。
 上半身をいくぶん前へ傾け、顎をゆっくり突き出すと、咽喉仏が薄い表皮の下に骨格をもってあらわれた。そこを要に体全体を弓のようにのけぞらせながら、口の中に何かを溜めているようだった。両目は、深く沈みこみ、濃密な色をたたえ、必死に懇願しているふうで、細い光を発しながら見開かれている。やがて唇が開かれると、口の中に自傷でへし曲がったのであろう前歯が見えた。溜め込まれたものが徐々に管を遡り、押し出されてきているのが満子にははっきりと見てとれた。
 一瞬、孔の瞳が大きく見開かれ、キラリと輝いた。
 天井の蛍光の粒が網膜に反射し鈍い光を発した。次の瞬間、つぼめた口もとから発射されたものは、白濁した泡の固まりだった。素早いスピードとは言え、視覚で充分とらえられる質感をもっていた。固まりは、満子と里美の目の前を通過し、そのまま糸を引いたようにすり抜け、山なりの弧を描きながら、正面の席に戻ろうとしていた釘崎の右頬へ付着した。予想もしていなかった行為に、釘崎は呆然となった。
 彼には、それを唾液であると判断する余裕も避ける時間もなかった。自尊心を傷つけられた羞恥に似た思いはみるみる顔面を紅潮させ、抑えようがなかった。怒りがふつふつとこみ上げ、最後の砦であるという体裁が、なんとかかろうじてその高ぶりを止めていた。
「さあ、早く行こう」
 満子は、殺気だった空気から引き離そうと強引に孔の腕を引きずり、部屋を出ようとした。そんな彼女をよそに、またしても孔は身構え、二発目を施設長へ発射した。釘崎も今度は気配を察し、上体を反らしたため顔にはとどかず、襟元に付いた。
「孔、やめなさい」
 里美は釘崎より先に叱り、ハンカチを素早く渡した。
「おじさん、やっぱり怖かったね」
「この人は、施設長よ。ここの」
 里美は、釘崎をこれ以上興奮させまいと慎重に言葉を選んだ。
「だから、大丈夫に決まっているじゃない」
「施設長……? 本当に大丈夫かな」
「孔は里美の気苦労も知らず、またしても皮肉たっぷりの微笑を浮かべ、口もとをつぼめた。
「もう、いい加減にしなさい」
 里美は思い余って大声で制した。
「とにかく、外へ出ましょう」
 指導員として毅然とした態度を取り戻した満子は、再び孔の腕をとった。恐怖心はいつのまにか消えていた。孔は明らかに混乱している様子だった。
「おじさん怖くない? 大丈夫?」
「考えないようにしましょう。頭を切り替えてね」
 彼女は、いたずらに刺激を与えまいと逸らす作戦に出た。
「お姉さん、怖い?」
「怖くないにきまっているでしょう」
 間髪を入れず答えた彼女に、むしろ孔は不審の目を向けた。
「ほんとかな?」
「ほんと」
「つば、吐いたら、怒る?」
「やってみたら」
 そういい終わるが早いか、目と目が合うと下顎を突き出す独特の動作に移った。
「さあ、やりなさいよ。安心して……」
 舌先が上歯に重ねられ、口中の柔らかな細胞から分泌物が集められた。微かな息と混ざり合った掠れた音といっしょに、体温で生ぬるく温められた粘液は、満子の瞼の上に落ち、ほんの一瞬、水晶のように光をたたえ形をとどめると、すぐに崩れた。
 虚ろに瞳を開いた孔の顔色から血の気が消えている。相手がどんな人間か、判断しかねている様子だ。満子はささくれた神経を撫で擦るように、励ます口調になった。
「すっきりなるまで、しなさい。思いきっていいのよ。どうせだから、心のガサガサとってしまいなさいよ」
 孔の顎は、その言葉に従うようにさらに鋭角に突き出され、二度、三度と大粒の固まりを吐息といっしょに噴出してきた。彼女にはそれが、孔の体の一部が引きちぎられ頬にかぶさってくる感じがした。満子は、拭い取ろうともせず、わざと大袈裟にニヤリと笑った。
「どう、おねえさん、怖い?」
 何度繰り返しても結果は同じだ、というように、彼女は力まず、飄々と尋ね返した。孔は、やや疲れたような表情になり、
「怖くない」
 追求することに関心を失った様子で、横を向いてしまった。
 そんな満子の対応は、表面こそ落ち着きを装う釘崎や里美に少なからず動揺を与えていた。とくに度肝を抜かされたのは、息子を施設へ預けることで卑屈になりかかっていた里美の方だった。彼女は、感嘆の眼差しで満子を見ていた。
 孔の表情は、歪なしこりでも溶けたように穏やかさを取り戻しつつあった。満子がハンカチで顔を拭きながら彼の腰に手をあてがい促すと、それに従った。廊下を渡り、二人がようやく孔の部屋へついたときだった。
「ミズイロノカワ…」
 一言だけ、ぽつりとつぶやいた。
「何、水色の川って」
 満子が聞いても、まるで彼女がそこにいることさえ忘れたように正面の壁を見つめ、
「ミズイロノカワ…」
 もう一度、同じような調子で繰り返すのだった。
 ふと、満子が視線を下げると、孔のズボンの股間がわずかに濡れていた。完全なお漏らしではなかったが、失敗したらしい。身辺の自立は幼いときからさほど心配なかったと聞いていたが違っていたのだろうか。満子は、納得ゆかぬげに眉を細めた。ただ、孔の両目からは、燃えるような緋色の燻りは消えていた。
 部屋の着くやバッグから下着類を取り出し、孔の着替えをすませた満子は、あらためて相手の全身に目を向けた。自分の二倍の体躯はありそうなその大きさに満子は、今さらながら驚愕した。彼女もホープヒルに来て、多くの園生を目にし、彼と同じくらいの体格の持ち主は知っていた。ところが、孔の骨格には節々に漲る意志のようなものが感じられ、細胞の一つ一つからじゅうじゅうとはぜてくる熱気と迫力があった。
 他の園生とは何かが違う、そう満子は感じた。
 相手がもし、本気で暴れたとき、抑えることができるだろうか。不安が突如として彼女の内部をよぎった。単純な処置や指導法ではうまくいかない気がした。
 そんなとき、遠くから誰かが呼んでいる声がした。耳を澄ますと歌をうたっている。
 名前は山下翔一、ショウちゃんと言い、一人でいることへのこだわりがつよく、昨年の夏、父親が突然交通事故死してから、さらにその傾向は強くなった。日常会話をほとんどしなくなり、 調子が悪いときは無理をせず、部屋で過ごさせていた。
 板張りの床の隅で、膝をかかえ俯いたかと思うと、急に首だけぎこちなく動かし、小鳥のように流行歌を口ずさむのが習慣となっていた。
…あなたがそばにいることは苦しい…。だけど、あなたが忘れられない…。
 今朝から何度となく聞いたフレーズだ。
 満子は、窓の外へ目を向けた。
 各部屋には、明り取りのための窓があり、鉄格子がはめ込まれている。天気のいい日は西日が強く差し、夕方近くになると小金色に部屋を染めた。だが今は雨が降りつづき、格子一本一本の表面に雫がついていた。
…園生がそばにいることは苦しい…。だけど、みんなが忘れられない…。
 ショウちゃん、私も一人なんだよ。あなたと同じ、ここではもう、だれも信じられない。満子の胸の奥に重たい霧のようなものが流れた。
 満子は八年前、地元の大学の福祉学科を出て、ボランティアとして入った。まもなく研修生となり、施設長の佐伯の目にとまったこともあって、理事長への直接の推薦で就職した。当時、園生は今とはちがい、約三分の一で三十人ほどのこじんまりとしたものだった。ところが、四年前、理事長の釘崎から理事会と保護者会へ提出された八十人枠への拡大案をめぐり、佐伯と釘崎の二人は決別し、それぞれ別の道を歩むことになった。佐伯はホープヒルを去り、小さな通所施設を開所した。釘崎は経営する専門学校を廃業し、理事長に義理の父を迎え、自らが施設長となる形をとったのだった。
 佐伯という支柱を失った満子は、釘崎が採用した若手職員が増える中、次第に孤立を深めつつあった。

        二

 雨は、やや小ぶりになった。低く層をなした雲のところどころに絹のようにかすれた箇所からわずかずつ光が零れていた。釘崎は憤然とした態度で椅子に凭れ、斜め横には里美が腰を下ろし、微動だせず、正面を見据えていた。
「樋口が亡くなって、もう一年たつのかな」
「ええ」
 里美は、ある程度予想していた相手の切り出し方に、小さく答えた。
「それにしても、孔くんもずいぶん乱暴に育ったもんだね」
 だが、釘崎は俄に声色を変えると、歯に衣を着せぬもの言いで、怒りを露にした。
「いつもというわけではありませんが」
 里美も、できるだけ冷静に答えた。
「十五年ぶりに会って、あれじゃあ、野放しだよ」
 二人は息子たちが幼児期の頃、同じ知的障害児の親の会に属し、伴に活動をやった経験をもっていた。その後、子どもが成長するにつれて釘崎は養護学校から施設へという専門教育を重視し、里美は統合教育で、地域に生きることにこだわってきた。そんな過去を持つ両者には、それぞれがとった行動や言動に釈然としないものがあった。
「野放しって、まるで動物みたいに……」
「でも、私に襲ってきたり、唾を吐いたりする園生は、ここには一人もいないからね」
 釘崎は、自分のやり方に自信があると言わんばかりに、きっぱり言った。
「失礼ですが」
 里美の胸の奥で、きりきりと音を立て、ねじれるものがあった。
「あなたは、純くんもふくめて、この子たちの障害をそうとらえられてるんですか」
彼女は、かつて療育キャンプなどに孔と参加した釘崎の息子の名を挙げた。相手は我に返ったように顔色を変え、視線を逸らした。
「いづれにしろ、うちは定員が一杯なんだ。孔くんを断ることもできたんだが、樋口やあなたとも同じ高校のよしみで知らない仲でもなかったし、まあ、たとえ一週間のショートステイでも善意の表れと受け取っていただければありがたいな」
 釘崎は恩を着せるように言い放った。里美は言葉を詰まらせた。黙っているところへ、釘崎はつづけた。
「つまり、こういった行動がしばしばあれば、いくら知っている子でも考えなければいけないということだよ。十五年前にも言ったかもしれないが、残念ながら、当時も今も社会には障害者の選択は少ないんだ。限度を超せば、警察に託すか、病院に相談するか、隔離するかの三つしかないわけでね。もちろん、こちらも、やれるだけのことはやってここでの適性があるか見てはみるさ。特に担当の指導員にはそれなりの責任と覚悟であたってもらう。それがうちのこれまでの方針だから」
 釘崎はうっすらと隈の浮かんだ瞼を細く開け、念を押した。
「あの、指導員の方の、責任ですけど」
 里美が言葉をゆっくり区切り、口を開いた。攻め立てられた後の落ち着いた態度は、どこか釘崎への蔑さえ漂わせた。
「自覚をもってやっていただくことはありがたいんですけど、あんまり重圧をかけないでいただけませんか。孔の障害は、どなたかに責任があるといった筋合いのものではないと思いますので、どうか指導員の方も大事にされてください。さきほどの舟田さんのとられた態度、とてもすばらしいと私は思いましたのでよろしくお願いします」
「それはあなたに言われなくても、わかっているよ」
 釘崎は、満子とは対照的だった自分が攻められているように思え内心うろたえたが、心理はおくびも出さず答えた。
 数分後、満子は孔を連れ、再び施設長室の扉を叩いた。
 少し強引ではあっても、初日にきっちりと母親との別れをさせておくことは気持ちの区切りをつける意味でも重要なことだ。部屋に入った孔の両目は、一瞬、漣が起こったように揺れ、つづいて上体もピクついた。嫌な予兆ともとれたが、さっきの混乱ぶりから比べればはっきりとした違いがあった。それにあのときは何よりも時間をかけすぎた。満子は反省しつつ、今度は挨拶したら、できるだけ素早く去らせようと母親に目で合図を送った。会ってまだほとんど間がないながらも、その意味を察した里美は立ち上がり、
「それじゃあ、来週の土曜日に会いに来るから。そのときまでね」
 孔の掌を両手でつつむようにした。
「施設長、せっかくですから、これから食堂へ行って孔くんを紹介しようと思いますが」
 今日は、誕生会がある第四月曜だった。
「わかった」
 釘崎も、この場を早く切り上げたく短く返事した。
 唇を強く噛み、硬い視線を落とす孔を横に、満子は、かなり自己コントロールの可能な面を見ることができた。それだけに、さっきの猛々しい混乱が信じられなかった。
 地下へ向かう階段を一歩ずつ下りていると、コンクリートで閉ざされた空間に二人の足音が跳ね、木霊した。孔が落ち着きを取り戻したからと言って、園にいるかぎりは当分、新しい体験がつづき、どんな予期せぬ事態が起きるやもしれない。満子は気を引きしめるつもりで孔の手をしっかりと握りしめた。
 食堂では、ひととおりの催しは終わっていた。孔を連れた満子が姿を見せると百名近い園生と職員がいっせいにそこへ注目した。孔の体格もさることながら、変化の少ない単調な園内の生活にとって、新しい入所生は貴重な存在だし、反応も大きいのだ。
 食堂もずいぶんと狭くなった。満子は孔を前に進ませながら、そんなことをふと感じた。
「嶋さん、ちょっとどいてくれる」
 嶋は、ホープヒルの一番の年長で、今年で四十五になる。園をここにつくる際、その条件として地元から受け入れた障害者の一人だ。髪は定期的にやってくる理髪ボランティアに切ってもらっていているが硬毛で多く、いつも整わず鬱蒼としている。揉み上げも立派で、このまま町へ出たらいっぱしの労働者と間違えられるかもしれない。
「こっちにちょっとね」
 満子が体をそっと押し、移動させると、
「はい、わかりました」
 外見とはそぐわぬ従順な口調でつぶやき、小股で横へどいた。満子は再び孔の腕を取った。園生の中には、まだ口の中に食べ物を頬張っている者、フォークを手に、皿を叩いたり、突然立ち上がり奇声を発する者と様々だ。満子はいつも見慣れている情景に安堵し、さっきまでの緊張した施設長室でのやりとりが別世界のように思えた。指導員たちも、ひととおり園生の食事介護が終えたのか、ずいぶんとくつろぎ、談笑していた。
「今日から、ホープヒルに来ることになった樋口孔くんです。仲良くしてくださいね」
 満子は周りを見渡しながら、笑顔をつくった。
「孔くん、皆に挨拶する?」
「ヒグチコウデス。ヨロシクオネガイシマス」
 機械的な台詞でも、これだけの言葉を発する園生はホープヒルには数名しかいない。ざわつきつつあった園生たちが、一瞬静まった。孔は、唇を曲げ、軽く照れ笑いをしている。
 指導員の叩く手につられて園生からまだらな拍手が起こり、喧騒が戻ってきた。恰幅のいい清水理香がそそくさとやってきて、孔の肩を親しみを込め何回も擦った。
「理香さん、ありがとう」
 満子は、彼女の肉付きのいい手をとり、ねぎらった。
 その日の午後の作業は、雨のため中止だった。
 ホープヒルは、木工班と農耕班、それに園芸班とに分かれている。名前はつけられてはいるものの、さして生産性はなく、マイペースで気ままにやっていた。つくられるものも、ほとんどが担当の指導員が中心で行っていると言っていい。
 部屋に引き返してきた孔に、満子は里美が持ってきた荷物の中からラジカセを手渡した。
「あなたの宝物らしいわね」
 孔は、黙ったままだ。ラジカセと彼女を交互に見比べ、用心深げだった。
「さっき言ったでしょう。音楽は自由に聴けるって」
「自由…」
 孔は、口をやや開き気味に軽く頷くと、バックからカセットを取り出した。カセットの上部の角が欠けている。退屈なとき服の袖や愛贋物をよく噛む癖があることを、事前の連絡で知っていた。
 プレイボタンを押すと、ポップミュージックが流れ出した。早いアップテンポの曲で、そばにいる満子の気分もなんとなく軽くなった。孔は、顔をスピーカーに近づけ、大きな指先で器用につまみをひねり、ボリュームを大きくしたり小さくしたりした。一見すると微調整を行っている 専門技師のようだ。慣れた手つきの様から、それが孔の日頃の聴き方であることが、満子にもわかった。
 好きなフレーズにメロディになると、ボリュームを上げ、そこが過ぎるとストップさせ、巻き戻し、もう一度再生する。一箇所終わり安心すると、またつぎへ移り、少しずつテープを進ませていく。むしろ孔自身が、自分でアレンジしたオリジナル曲を楽しんでいるようにも見える。素早い動きと手際の無駄のなさのため、満子は見とれた。
 ひととおりのチェックが終わると、いよいよ孔のエンジンは全開した。
 ボリュームを上げた状態のまま、最初は味わうようにゆっくりと手を叩き出した。少しずつ音に浸かり出すと、首を左右に揺らし始める。耳だけでなく、体全体でリズムを感じ取ろうとしていることがわかる。緊張が解け、音が芯に伝わってくると体のぶれはさらに大きくなり、振り子のように上体が旋回しだした。足もとはどっしりと根を張り、微動だしない。ところが、さっき孔が何度も聞いていたフレーズが奏でられたときだ。両手をひとしきり大きく叩くと、それを合図に、長身を瞬く間に地上から浮き上がらせた。両足をバネのように撓らせジャンプした体は、まるで大きな飛魚となったようだ。満子は、その物音が施設長室までとどくのではないかとひやひやしつつ、孔の信じられぬほどの躍動感に胸躍らせずにはいられなかった。
 近くの部屋や娯楽室から、数人の園生が出てきて様子を見に来た。翔一もいた。
「あら、ショウちゃん、きたの」
 人と馴染みたがらない翔一の珍しい行動に、満子も笑みで返した。
「孔くんって言うのよ。踊り上手でしょう」
 外出をあまりしようとせず陽に当たる機会の少ない翔一の顔色は蒼白く、肌つやもよくない。そんな中で、切れ長の目がこのときばかりは一心に孔に注がれ、輝きに満ちている。
 孔は鋼のような強さと弓のしなやかさを合わせ持ちながら、今にも頭の先端が天井にぶつかるのではと心配になるほどの軽やかな跳躍を見せていた。
 だが、満子の危惧は的中した。
 釘崎が数人の指導員を引き連れ、あらわれたのだ。それはまさしく大病院の回診と言ってもおかしくない風景だった。
「おいおい、舟田くん、来て早々、そんなに甘やかしてもらっちゃ、こまるよ」
 釘崎は、言葉使いには穏やかさを保ちながらも、険しい表情で近づいてきた。
「少しボリュームも落とさせて、それから……」
 言いかけて、集まっていた園生の顔を一人一人確認した。
「あんまり、こんなところにたむろするのもどうかね。本当は作業をやっている時間なんだから。最初が肝心だよ。気をゆるめず指導してくれ」
 そして、一段と低く諭す声になり、
「ジュン、お前もちゃんと自分の部屋へ帰りなさい」
 息子の肩に手を置いた。純はほとんど発生言語を持たない。年齢は二十二になり、身長はゆうに釘崎を上回っている。聞き慣れた声に反応し脅えた目つきで父親を見ると、後ずさりするように身を動かした。
 釘崎は、満子に手本を示すように、今度は少々荒っぽく息子の二の腕をつかんだ。
「さあ、こっちへ来るんだ」
 純は身を顫わせ、うめき声を上げ、離れようとした。
「おい、君たちも手伝わないか」
 指導員は顔を見合わせ、躊躇した。釘崎は明らかに苛立っていた。
「早くつれてってくれ。こんなことをされたら癖になる」
 再度指示され、二人も純の体を両側から抱え込み、部屋へ連れ去ろうとした。純は腕をばたつかせ、必死に拒否の姿勢に出た。そんな息子の激しい意志表示を見るのは、釘崎にもあまり記憶にない。釘崎の胸に微かな迷いが起きた。
「しょうがないな。舟田くん、あと一曲くらにしといてくれ。事故には注意して」
 ボリュームを落とし孔にダンスの自制を促していた満子は、耳を疑った。
 だが、孔はそんな釘崎に、また最初の質問をし始めた。
「おじさん、怖い」
「……」
「おじさん、怖い、怖くない?」
 満子は釘崎がどんな返事をするか、じっと見守った。
「さあ、どっちかな」
 釘崎も、最初のパニックに凝り、孔のこだわりをこれ以上増やすまいと、少々機転をきかした。
「おじさん、やっぱり怖い」
「何が怖いんだ」
 孔の執拗な繰り返しに、さすがに彼も、我慢の限度と言わんばかりに無愛想な顔に戻った。
「たぶん…」
 満子は大きく一度息をのみ、思いきって言った。
「力で抑えられることが、いやなんだと思います」
 釘崎は、いかにも信じられぬというように、彼女を凝視した。
「孔くんは怖くて、ただ確かめているだけなんです。施設長や我々が近づいても大丈夫かどうか。安心すれば、ホッとして信頼してきます。それがとても敏感なだけです」
「私も彼の心理ぐらいはわかっているさ……。だけどね、この子は何か、敵意を持って私に挑んできているように思えてしょうがないんだ」
 常に自信と確信に満ちた姿をさらけ出してきた釘崎の意外な対応に、満子は防御の姿勢をゆるめながら、再び孔へ視線を投げかけた。
「まあ、とにかくこう園生が集まってきては、どうしようもないな。ある程度のところで、ちゃんと区切りをつけてくれよ」
 満子は大きく頷き、
「孔くん、許しも出たし、思いっきり音楽聞こう。施設長、いいんですね」
 もう一度、確認した。
「くれぐれも、ボリュームは、小さめにね」
 満子は、事の進展が少々信じられぬながらも、これまで長年見てきた釘崎の印象を簡単に払拭もできず、どこかで疑念を挟みつつ、そそくさと準備にとりかかった。

         三

 薄ぼんやりとした闇が、施設の隅々に流れ出す夕食前、満子は孔を同じ班のメンバーと馴染ませようと、娯楽室へ連れて行った。すでに六人ほどの先客がきていたが、大きな体をすべりこませ、どうにか座ることができた。村山という男性指導員が園生たちの中に入り、様子を見ていた。
 ホープヒルは、作業班とは別に生活班があり、満子の受け持つ生活班の七班には十人の園生がいる。当然、満子が孔一人についてばかりはいられない。村山は、満子とペアで受け持っている。食堂で顔を合わせた嶋と理香も同じ班で、このときも真剣な顔で時代劇を見ていた。
「村山くん、ちょっと孔くんお願いね。私、他の子の様子見てくるから」
 村山は、胡坐をかいたまま顔を上げ、孔をちらりと見て頷いた。
「よろしく。君とは同じ班だから、これからちょくちょく顔を合わせると思うよ」
 当たり障りのない挨拶をした。
 誕生会での話しぶりや、廊下での一件を目にし、孔が一筋縄でいかないことを察知していた。 正直、まだどうかかわればいいのか判断しかねていたが、生活面を担当していく以上、迷ってばかりもいられない。
 孔は、そんな村山にも不審の匂いを嗅ぎ取ったかのように例の儀式を始めた。
「ムラヤマさん、やさしい?」
 村山は返事に窮した。こんな質問をこれまで園生から聞かれることはなかったからだ。
「わるいことをすれば厳しいし、ちゃんとすればやさしいよ」
 指導員としては模範的な答えだ。
「ムラヤマさん、怖そうだな」
「……」
「ぼくが唾を吐いたら、怒りそうだな」
「そりゃあ、唾なんか吐いたら、だれだって怒るだろう」
 挑発にのってはならないと思いながらも、次第にムキになっていく自分を感じていた。これほどわかりやすく言っているのに、なぜ納得できないのか。感情の昂ぶりとともに、押し問答のやりとりに不快さを覚え始めた。
「やっぱり、怒りそうだな」
 ぽつりとつぶやくや、またしても孔は顎を突き出し、目を細め、標的に狙いを定める態勢に移った。村山は、そんな孔の行動を無視し、テレビを見ることに専心した。やがて村山の頬に湿ったものが飛んできた。掌で拭うと生あたたく、どろりとしていた。
「何するんだ。今、言っただろう。俺はわるいことをすれば怖いって」
 そこでようやくきっかけがつかめたように、孔を叱った。孔は、続けざまに唾を吐いた。
「孔、お前、唾をかけることが良いことだとでも思っているのか」
 孔の瞳は、眼窩からこぼれ落ちるようにぐらぐらと揺れ動いた。その揺れがある一点で静止するのを合図に、休むことなく唾液は村山の顔へ、二度、三度、掠れた息とともに発射されてきた。理香が肩をすぼめ二人を見た。他の園生も、画面を目で追っているが、明らかに緊張の波が襲ってきている。大きめにしてあるボリュームで、やりとりが掻き消されていることが救いだった。村山はこれ以上の混乱は、周囲にもよくないと、自分の意志を伝えるため孔の腕をつよくねじった。孔はさらに脅えた。村山の手を払いのけるといきなり立ち上がり、離れた位置に身を避け、今度は体全体で身構えながら唾を吐き始めた。村山もすかさず立ち上がった。
「俺は、今、話したよな。わるいことをすれば怖いって。……だからそれをわからせてやるよ」
 村山も指導員の中にあっては巨漢だ。孔と背丈はほとんど変わらない。あまり気はすすまなかったが、強行な方法をとることにした。
 相手の右手を親指を下にして自分の右手でつかみ、外側にひねった。途端、イターイと悲鳴を上げ、しゃがみこんだ。
 理香が村山の背中を静かに触った。
「大丈夫だよ、理香さん。あんまりひどくしないから心配しないで」
 そのまま右手だけで引っぱり上げると娯楽室から部屋まで連れていき、ベッドに力づくで捻じ伏せたのだ。
「ここじゃあ、お前のやり方は通用しないんだよ。いいか、もうホープヒルに来たんだから、迷惑かけちゃあ、いけないんだよ」
 畳に顔をこすりつけ、痛さをわからせた。相手が力をぬくまでそれを繰り返した。村山は、孔に他の園生と同じように、こちらの指示を理解することを感覚でわかってほしかった。そうでもしなければ、自分自身が参ってしまう。仕様がないことなんだよ。孔、あきらめろ。村山はそう自分に言い聞かせるように力を込めた。
 十分ほどして、孔の体の節々から、じわじわと力がぬけてきた。
「ミズイロノカワ…ミズイロノカワ…」
「なんだって?」
「ミイズイロノカワ…」
 うつ伏せの孔は、顔を顰め、何かにとり憑かれたように繰り返した。細い声は糸を引くように底へ底へと落ち、消し去られていった。孔の背中に体を寄せていた村山は、これ以上の指導は必要ないだろうと腕を離した。
 村山は立ち上がり部屋を出ると、廊下に取り付けてあるインターホンで満子へ、一部始終を隠さずに説明した。
「そう、わかったわ……」
 満子は、そうなることはどこかで予期していたにもかかわらず、失望の色が隠せなかった。
 部屋へいくと、追い詰められた小動物のようにベッドに横になったまま、脅えた目線を彼女へ向ける孔がいた。仰向けのまま、両腕を顔の前で交差させ、わずかに覗く隙間から彼女を見ていた。ホープヒルにやってきて数時間しかたっていないのに、薄暗い穴倉にいるようにその顔は憔悴しきっていた。
「あなた、また唾吐いたそうね。もう、私以外の人にしても、ここでは結果は同じなんだから、やめなさい」
 孔は、落ち窪んだ瞳から、疑いに満ちた光を発した。
「力でやられるだけなのよ。それがここのやり方なんだから……」 
 ごめんなさいね、孔。ついていられなくて。満子は最後の言葉が出ず、孔の赤く擦り剥けた鼻頭とわずかに血の滲んだ唇をじっと見つめる以外なかった。
「あっ、それから水色の川って、何かしら」
 気分転換のつもりで明るい口調で話しかけた。孔は用心深げに身を縮こませ黙っていた。
「小さなとき遊んだ川の名前?」
 ごめんね、孔。ここには、水色の川なんてないのよ。
 そう言いながらも満子はまた、独り言のように心の中で囁いた。
「ミズイロノカワ」
 孔は、ようやく思い出したようにポツリとつぶいた。
「そう、その水色の川」
「ミズイロノカワ」
 満子は何気なく下半身に目をやった。股間が湿っている。
「気にしなくていいわよ。ねえ、もうすぐ夕食よ。着替えたら食堂へいきましょう」
 下着やズボンがまだ残っていたか心配しつつ、励ますつもりで言った。それでも、孔は口もとを緩めず、表情は冴えなかった。
          
             四

 脱衣場と洗い場には蒸気と熱気が溢れ、村山の額から幾筋もの汗が滴り落ちた。村山は七班の男七人を一人で脱衣から入浴、着衣まで、必要な部分を介護しながらすまさなければならい。最後の一人が終わる頃には、自分の方がふらふらにのぼせ上っている状態だ。
 入浴は食事とは違い、園生たちの興味もおよそ薄いが、体や神経をリラックスさせるには、かなりの効果がある。充分な睡眠をとるにも欠かせない日課だ。
 孔は、他の園生と比べ、脱衣の動きも早く、自分からさっさと浴槽に入った。湯船に浸かっているときは、実におとなしく、さっきとは別人のようだ。
 これならば、体を洗うのもさほど手がかからないかに思えたが、その段になるとパタリと動きを止めてしまった。腰掛に座ったまま、とろんとした眼差しでじっと指先についた泡を見つめたまま固まり、動かなくなった。髪にシャンプーをつけてやっても、ゆっくりと気だるそうに撫でるだけで、洗髪には程遠い。
 動きは緩慢でも、鏡を見ながら、孔は一度だけ両手を叩き、リズムをとった。そして排水口に流れるお湯と白い泡を目で追い、
「ミズイロノカワ」
 と囁いたのだ。村山は忙しさにかまけ、背中で聞いていたが、さっき彼に押さえつけられたことさえ忘れたかのようなあどけない表情の孔に、ひそかに安心感を覚えていた。
 入浴も終わると、いよいよ長かったホープヒルの一日にも終わりがおとずれる。雨音も遠くへ去り、ずいぶんたった。濃い黒い粒が靄のようにあちこちに散りばみ始めた。
 辺りが闇に覆われだすのとほぼ並行し、それまでの穏やかさは消え、再び孔は体を揺すり始めた。
「大丈夫だからね」
 最初の夜ということもあり、宿直に満子が入った。一心に彼女を見入り、懇願するように見開く目は、時間がたてばたつほど冴えていくようだ。薬の服用についても早急にドクターと話し合っていかなければならない。満子は孔の様子を見ながら、そんなことを考えていた。
「とにかく、横になりましょう。人はね、使った体と頭を休めないといけないの」
 彼女は、孔の太い腰と背中に手を回し、ベッドに寝かせた。孔の呼吸は荒かった。皮膚から血の気が失せ、風呂上りにもかかわらず肌に早くも寝汗のようなねばねばした分泌物がついているようだった。
 やがて、焦点の定まらぬ目で何ものかをつかむように両手を差し上げ、訴えた。
「ここ、嫌。ぼく、帰りたい」
「だめよ、孔。それをいい続けている限り、あなたは楽にはなれないわ」
 満子は、孔の手の甲をマッサージした。
「力ぬこうね。そう」
 できるだけ安心させるよう、気を配った。
「ぼく、やれる?」
「やれるに決まってるじゃない。今日だってちゃんとできたでしょう」
 孔の眉間にたちまち深い縦皺が寄った。満子のその場凌ぎの返事は、どっちつかずの感があり、彼を安定させるには遠く及ばなかった。
「ぼく、大丈夫? 舟田さん、ぼくのことが好き?」
 じっと見つめられ聞かれると、さすがの満子も目の縁が熱くなった。
「好きよ。もちろん」
「ぼくのこと、心配してる?」
「心配してるわよ。ずっと」
「そう……」
 孔は初めて頷き、大きく溜息をつくと穏やかな表情を浮かべた。だが、それもほんのしばらくで、すぐに藁をも縋るような悲嘆にくれた顔つきに変わった。
「大丈夫だから、目を閉じて眠ってみよう」
 柔らかな調子で、なるべく孔を刺激しないように心がけた。孔は口もとを少し開け、白い捻じ曲がった前歯をのぞかせた。
「フナダさん、同じ……」
「えっ」
 眠りに入ったかと安心しかけた満子の耳に一人言のように孔がつぶやいた。
「施設長と同じ」
 彼女の胸に動悸が起こった。すべてを今、孔に見透かされた気がした。
「それ、どういうこと?」
 勘繰られまいと平静な調子で、虚勢を張った。
「フナダさんも、やっぱり怖い」
 表情は虚ろでも、キッパリした言いぶりだった。
「ちょっと待ってよ。孔くん、私のどこが怖いの?」
 消灯の時間ということも忘れて、満子は食い下がった。
「やっぱり、怖い」
「あなたが唾を吐いたときも、施設長や村山君とはぜんぜん違ったでしょう。あの二人がこんなことしてくれた? ねえ、ちゃんと見てよ。私のこと」
 満子は孔の手を握り、悲しくなった。心臓の辺りが熱を持ったようにヒリヒリした。
 彼女はあらためて孔を見た。今日という日を自分なりに必死に受けとめ、混乱の真っ只中で疲れきっている姿があった。
「フナダさん、ぼくのことが嫌い。心配してない」
 軽く寝返りを打ちながら、つづいて吐いた孔の言葉は、決定的だった。次第に、責め苦の思いに駆られだしていた。
「怖くないかなあ、ほんとうに?」
 耳元で震えた声がし、ようやく我に返った彼女は、今日、何回も耳にし気になっていた言葉が浮かんだ。
「ねえ、孔くん、明日さあ、あなたの言っている水色の川へ行ってみようか」
 それは、自分でも考えてもいなかった提案だった。瞼の筋肉を額へ引っ張り上げ、眼底の奥深くから窺い見る視線を向けた。疑うことも信じることもできず、ただ言葉を音だけで受け取っているらしい。神経がかなり疲労しているようだ。
 満子の方が、反対に孔をまじまじと見つめ、両手をとり、掌で包み込んだ。
「川へ行くのよ」
「……」
 孔は、眉を細め、黙っている。
「それで、その水色の川なんだけど、どこにあるのかな?」
「……」
「場所よ。水色の川の流れているところ」
「…ミ、ズ、イ、ロ、ノ、カ、ワ…」
 苦しげな顔に、満子はそれ以上問うことをやめ、明日、里美に直接聞いてみようと思った。母親なら何かを知っているに違いない。
「とにかく、明日きっとそこへ行くから。私を信じて」
「行く?」
「そう、行くの」
 満子は語尾を強め、孔に誓うように言った。
「だから、お願い。今日は少しだけでも眠ってちょうだい」
祈りにも近い思いだった。
「行く?」
「約束よ。でも孔くんにも守ってほしいの。もうぜったい唾を吐いたり、暴力はしないって…できる?」
「できる?」
 孔は、小さな声で繰り返した。満子は微笑みながら、小指を突き出し、げんまんをした。孔は、溜息を一つだけつき指を離すと、毛布を首まですっぽりかぶり、横向きに目を閉じた。眠ろうとしている行為であることは満子にもわかった。彼女は自分自身の中に、これまで忘れかけていたある意志のようなものが甦ってくるのを感じた。

      五

「孔くんがときどきつぶやく、水色の川をいっしょに見てきたいと思うんですが」
 翌朝、釘崎の出勤と合わせ、満子は申し出た。
「ミズイロノカワ?」
 釘崎は、聞きなれぬ言葉に、一瞬、不可解な顔をした。
「それは、どこにある川なのかな?」
「わたしもくわしくは知らないんですが、お母さんに聞けばわかると思うんですけど。いつも混乱するとそれを言った後にお漏らしをするんです」
「で、そこへ行けば、何か今後の指導に役立つとでもいうのかね」
「それははっきりとは言えません。ただ、孔くんがあまりに参っているようなので、一回見に行って励ましてあげようかと」
 釘崎は、満子の顔を見た。いつも以上の決意が伝わってきた。だが、彼はそんな満子を無視するように、
「なるほど。しかし、許可するわけにはいかないな。君一人がここからいなくなるだけで、どれだけたいへんかわかっているだろう」
 断固とした態度だった。
「だいたい、どんな川かもわからないのに、わざわざ時間を割くほど、うちには余裕はないんだよ」
 徹底した拒否の姿勢だ。
「どうしてもいけませんか」
 満子も後には引かなかった。彼女には孔の顔がくっきりと浮かんだ。昨晩の息がつまるほどの苦悶に満ちた表情と、わずかに納得しながらどうにか毛布を被り、それでも打ち震えていた姿だ。
 彼女は昨日、釘崎が息子の純に見せた態度にも、どこかで期待を寄せていた。
覚悟するしかない。
 満子は、ここ最近ずっと思いつめ、昨晩、ようやく決心したことを告げた。
「施設長、私は今年いっぱいで、ここを辞めるつもりです」
 釘崎の両目が大きく見開いた。農耕作業で陽に焼けた肌が一瞬、血が引いたように蒼白くなった。思わぬ告白にどう対峙すべきか迷っているようだ。
「だから一度でいいんです。わがままを聞いてもらえませんか」
 釘崎は、咄嗟に返事ができなかった。整理しようとしていた書類に何気なく視線を落とし、間をつくった。
 それでも、時間は刻々と過ぎていく。
「驚いたな、藪から棒に」
 釘崎も合いの手のように一口入れながら、彼なりの覚悟で返答した。
「君の退職の件は別のとき話し合うとして、だいたいどれくらいあればいいのかな」
「午前中で充分だと思いますが」
「いいだろう。ただしくれぐれも事故がないように頼むよ」
 釘崎は念を押し、後は何も言わず、机上の溜まった数枚の紙片を束ねだした。
 彼女もできるだけ静かな声で答え、その場を辞した。
「孔くん、行くわよ。したくしよう」
 満子が部屋に来たとき、孔は村山にともなわれ、朝食から帰ってきたところだった。
「行くって、どこへ」
 村山が驚いたように尋ねた。
「ないしょ。ねえ、孔くん」
 満子は恋人のように孔の隣に寄り添い、嬉しそうに見上げた。
「あっ、もしかして水色の川? 先輩も物好きだなあ」
「へへへ……」
 いたずらっぽく笑い、
「あなたには関係ないでしょうけどね、こちらには大ありなのよ。ねえ、孔くん」
 合意を求めるように目配せし、突っ立ったままの孔の手を引いて、歯磨きをすませるため洗面所へ急いだ。
 孔が身支度を整え、玄関へ行くと、翔一と理香が見送りにきた。
「あら、ショウちゃん、今日はどうしたの? 調子よさそうじゃない」
 孔のダンスを見て以来、翔一の関心は、すっかり孔に向けられているようだ。翔一は、うんうんと頷き、二重の大きな目を一層見開いた。
「理香さんも、今度行きたいところがあったら連れてってあげるね」
 二人を羨ましそうに見つめる理香を慰めようと思わず声をかけた。それに応えるように理香も 満子の肩をとんとん叩いた。
「ありがとう。ちゃんと無事に帰ってくるから」
 もう、あなたたちとも長くいられなくなってしまったわ。ごめんなさい。
 彼女は、どこからか湧いてくる悲しみをふりほどくように、
「七班のこと、午前中だけお願いね」
 後方にいた村山に告げ、いよいよ孔と二人、車に乗り込んだ。
 雨天がしばらくつづいたせいか、久しぶりに晴れ間の覗く天気は満子には居心地いいものだった。水気をたっぷり吸った草花が日差しを受け、葉脈まで鮮やかに映し出しているようだ。フロントガラスには陽光が当たり、細かな光の粒を跳ね返している。
 孔は、窓を開けると枠に肱を乗せ、顔を出し、風に髪をなびかせた。大気の流れに呼吸を合わせ、じかに鼓動を肌で感じているようだ。
 満子は、孔の体から発散するものが、これまで施設で感じていたものとどこかが違う気がした。
「孔くん、水色の川って、やっぱりわかんない?」
「…お家…」
「もしかして、お家の近く?」
 思いがけぬ反応に、満子も嬉しくなった。彼女は、入所者に書いてもらっている住所と略地図から地理的なことはある程度、把握していた。出発直前、孔の家へ電話し、『水色の川』の件について里美にも尋ねていた。
「そんな川、あったかしら……」
 受話器からは開口一番、あっけらかんとした返事がとどいた。
「とにかく、このままいくわよ。たしか、こっちの方角だったわよね」
 道が狭く入り組んだ場所へ来ると、孔に尋ね尋ねしながらハンドルを切った。
「きっと小さいとき、よく、その川で遊んだんでしょうね」
 孔は、風に当たるのが心地いいのか、そちらへ気を奪われ、満子の声には、あまり反応を示そうとしなかった。
「大きな川かな……名前、何て言うんだろう」
「ミズイロノカワ」
「いや、そうじゃなくて、孔くんにはそうでしょうけど、その川のちゃんとした名前よ」
「ミズイロノカワ」
 静かに繰り返す孔の言葉に、満子はむしろ希望を感じていた。窮屈な施設から飛び出し、解放感があり、気持ちはどこか軽かった。しばらく浸りながら彼女はそれ以上の質問をやめた。
細い道路から山沿いの国道へ出て、濃緑色のアーチ型の橋に突き当たった。手前の信号で前の車が少し詰まったのか、いきなりブレーキをかけ、満子も慌てて減速し、ギアを落とした。
「安全運転、安全運転」
 孔は、突然、窓から首を引っ込めると早口でつぶやき、さっきまでいかにも邪魔そうにしていたシートベルトをそそくさともう一度締め直した。満子は孔の意外な一面を見た気がして可笑しかった
 橋の下には、昨日までの雨で水嵩を増した濁流が、轟々と音を立て流れていた。谷底から吹き上がる風の振動が、厚い鉄板とコンクリを通し、二人の体にも伝わってきた。
「あっ、ジュース飲みたい」
 橋を過ぎ、展望所のように開けた公園に設置された自動販売機を目にとめた孔は鼻にかかった甘え声を出した。
「そうね。せっかくのドライブだものね」
 車から下りた孔は、自分でコインを入れ、好きな飲みもののボタンを押した。日差しが手に握られたアルミ缶をなめるように包み、曲面を輝かせながら白く照らした。

         六

 孔の家は道路沿いにある二階建てで、一階が赤レンガに覆われた西洋風の洒落た店舗になっていた。店内には人気がなく、ひっそりしている。
「ねえ、ここがあなたの家?」
 ひとまず手前にあった駐車場に車を置き、満子は尋ねた。
「ここ、ここ」
 孔はドライブのせいかご機嫌で、座席から下りてのドアの開閉など一連の動きにも余裕が見えた。満子はひと安心し、外の階段を使い、二階へ上がった。
「ごめんください」
 すぐに里美の声が返ってきた。扉が開き、里美がどこかぎこちない笑顔で出迎えた。
「お母さん、ぼく、怖い」
 孔の声色が、このとき急に跳ね上がった。これまでの動作が嘘のように、一挙に混乱した状態へ陥った。靴を脱ぐのも覚束ぬげに玄関から身を投げ出すように駆け上がると、里美の腰から膝元へ突き倒さんばかりにしがみついた。
「お母さん、嫌、あそこ、嫌」
 孔は次第に体を押し上げ、相手の胸もとへむしゃぶりつきながら悲痛な叫びを上げ、里美へ襲いかかった。
「孔くん、やめなさい」
 満子もそこが孔の家であることも構わず指導員の顔に戻り、二人の間へ割って入る格好で全力で引き離そうと試みた。
息がかかるほど顔を突きつけると、厳しい口調で、
「私はちゃんと、約束守ったでしょう。だから、孔くんも守って」
 悲鳴ともいえる気迫をぶつけた。
「ヤ、ク、ソ、ク……」
 孔は紅潮した顔を向け、湿った唇をゆっくり開き、一語一語途切れがちに発声した。
「そう、約束。それはいっしょにやっていくとき、とても大事なこと」
 里美の襟元を握っていた孔の手の力が、少し抜けたようだった。今にも倒れそうだった里美も、満子の態度に力をもらったように怯んでいた体を起こした。
「孔、満子さんはちゃんと、あなたを連れてきてくれたんだから、約束は守ろうね」
 同じ内容のことを繰り返した。二人がかりの説得が功を奏したのか、孔は自分から身を離し、神妙な顔で唇を噛んだ。里美も満子も顔を合わせ、深い溜息をついた。
「あらっ、何かいい匂いがしますね」
 満子が雰囲気を変えようと、オーバーな口調で言った。
「ケーキつくってたのよ。孔、甘いものが好物だし、満子さんにも食べてもらおうと思って」
「わあ、うれしいなあ」
 満子は、満面に笑みを浮かべた。
「孔くん、いいわねえ。いつもこうやってお母さんの手作りのお菓子食べてたんだ」
 三人、座卓で向き合い、孔が落ち着いたことを確認し、満子も、あらためて部屋の中を見回した。一階の外貌とは違い、住居に合った居間や台所がしつらえられ、ごく普通のつくりをしている。
「下は、お店になってるんですね」
「ええ、まあ……」 
 里美はとってつけたような返事をした。そのとき、孔がおもむろに立ち上がった。
「オトウサン、オマイリ」
「ああ、そうだったわね」
 孔が隣の部屋の襖を開けると、そこには出窓の横に薄板で仕切られた台座が拵えられ、壁に沿って茶褐色の仏壇が置いてあった。
「去年の春、膵臓ガンで……発見が遅れてしまって……。店がようやく持てて、孔と三人でこれからってときだったんだけど」
 観音開きの中には、小さな遺影が飾ってあった。
 満子は、入所書類の保護者名が母親になっていることは知っていたが、詳しい事情はまだ確認していなかった。写真の父親は孔をやや細目にした面立ちだ。
「ナンマイダ、ナンマイダ」
 畳にどしんと腰を下ろした孔は、早口で読経すると、手を合わせた。満子も線香を立て、合掌していると、「これ食べていい?」孔が、お供えしてあったお菓子に手を伸ばし、里美の返事を待つより早く袋を破り始めた。里美の口もとから呆れつつも、白い歯が零れた。
 その情景を見ながら、満子の脳裏に、翔一に父親の死を知らせた日のことが甦った。
 翔一の父は、自転車で出かけた際、トラックに轢かれて即死したのだった。夜中に、釘崎から電話があった。母親が、葬儀の準備や親族への対応で動きがとれないため、どうか息子が心を許している満子から父親の死を伝えてほしいとの希望であると伝えられた。
 翌朝、職員室から翔一の部屋までのわずかな距離が、満子には途方もなく長く感じられた。わずか数メートルを歩いただけで、どうして一人だけ親類縁者から離れ、ここで父親の死を聞かねばならないのか、翔一のことを思うと悔しさで涙が溢れ、こんなとき自宅に帰してやれない自分の無力さに腹が立った。
 翔一は、ベッドで膝を抱えていた。
「ショウちゃん、実はね……」
 同じようにベッドに腰掛け、言葉を発しようとした途端、満子はこらえきれず再び涙を流した。翔一はそんな彼女の顔を、眉間を寄らせ気味に、合点のいかぬ表情で見ていた。
「お父さんがね…交通事故で…昨日の夜に死んだの…」
 翔一の目が一瞬、鳥のように大きくなった。満子は、できるだけ穏やかに動揺を与えぬよう気をくばった。だが彼女自身、涙が先へ先へと零れ、どう言っているのか自信がもてなかった。何とか大まかな説明を終え、しばらく沈黙の後、たどたどしく翔一が質問した。
「お、お父さん、い、生き、返る?」
「生き返らないの」
 翔一は神妙な表情になり、顔をしばらく伏せ、上目づかいに口を開いた。
「お、お見舞いは?」
 翔一にとっては、それが葬儀の意味だ。満子はそれには、軽く頷き、
「明後日になったら、みんなと行こうね」
 それも母親からの申し出だった。
 葬儀は明日だが、大勢の人間の中でショウがパニックになることを心配しているらしかった。満子は翔一ににじりより、しっかりと手を握った。
「舟田さん、どうかしたの?」
 里美の声で我に返った満子の鼻先に、線香の煙が漂っていた。
「銀行とも話がついて、店も手放さなくていいようにはなったんだけど」
 深刻な話題ではあっても大きな峠は越えたのか、悲愴感はなかった。
「店をなんとかやっていきたいんだけど、どうしても今の私の力じゃ、だめだってことがわかって……。それで孔にはまずはショートステイを試して、ホープ・ヒルも利用しながらって思ったの。だけど…」
「……」
 満子は、黙っていた。
「それも孔にとっては、むしのいい話だったわよね。勝手すぎるわよね」
 里美の言葉は、まるで自分に向けられている気が満子にはした。たった今、ホープヒルを辞めることを一方的に告げてきた彼女にとって、相手が自責を込めて話せば話すほど、ますます現実から逃げようとする自分が炙り出されてくるようだった。
 オーブンのタイマーが鳴り、ケーキが焼けた。チョコレートとココアの香しい匂いが、部屋中を包み込んだ。
「おいしい、これいけますよ。お母さん」
 満子は一口頬張り、感想を言うと、里美も、ようやく一息ついたように、
「でも、昨日のあなたの態度には教えられたわ」
 彼女は満子へ真っ直ぐな視線を向け、素直に認めた。
「それで、私、あれから苦しくってね。昨夜も一睡もできなかったの。まるで孔をあずけたことで自分の存在も消えてしまったみたいで」
 孔は、真剣に話す里美をよそに無表情にケーキを頬張り、あっという間に平らげた。
「……そんなとき今朝、電話が鳴って、もしかしてあなたからじゃないかって思ったの」
 満子は中途半端な自分が、過大評価されているようで気恥ずかった。孔の口もとにはパウダーがつき、それも気にせず二個目に手を伸ばしている。
「それはそうと、電話で話していた川のことなんですけど」
 そろそろ本題へ移ろうと言葉をかけた。
「私も初めて聞く言葉でね。いろいろ思い出してはいたんだけど……」
 里美は、そういいながら座布団の真横に置いていたアルバムを開いた。少し色の褪せた孔の幼い頃の写真を見ることができた。夏休みなのか、プールやキャンプで川遊びをしているときの顔は生き生きしていた。
「だけどこれは、この辺の川じゃないし。孔、あなたの言っている川はどこのこと?」
 孔は知らん顔で、二個目を食べつづけている。
「一日目だし、緊張したこともあったとは思うんだけど」
「そうですよね。私も、それは考えたんですけど……、ただ来る途中で、お家って言ったんです」
「家ねえ……」
 里美は、彼女が聞いたことのない言葉なせいか、あまり川の実在を信用していないふうでもあった。
 満子は落胆の色が隠せなかった。あれほどホープヒルでつぶやいていた「ミズイロノカワ」の名を家に帰ってから、孔が一言も発しないことも気になった。それでも時計の針は、無情にも回りつづけた。小中学校の思い出や、父親と海へ釣りに行ったときの話など、あれこれ聞いているうちに、帰らねばならぬときが近づいてきた。
「孔くん、まずは一週間やってみて。そしたらお母さん、迎えに行くから」
「一週間だけ……」
「そう、来週の土曜、ぜったい」
「ぜったい……?」
「そうよ」
 帰り際、里美に説得された孔は再び唇を噛んだ。何かを納得しながらも、どうしても治まりきれないもどかしい感触が、そこにはあった。
 納得するまでに手間取ったものの、立ち上がってからは動きもスムーズだった。孔の手を引いた満子が先に立ち、その後ろを里美という順番で階段を下りた。残り三段ほどになったとき孔が、突然、満子の手を振りほどくと鉄の踏み板を駆け下り、脱兎のように道路に向かって走り出した。慣れた動作で車の往来も確かめず反対車線に渡った孔は、左右へスキップするように数歩走り、拳で掌を叩く動作を何回か行った。
「危ない。もうだめよ。だめ。ああ、またそこでやるんでしょ」
 里美がこれまでの平静さが嘘のように、ほとんど絶叫のように喚き立てた。満子は初めて聞く里美の我を忘れた声に、これまでの孔と二人のここでの生活を垣間見た気がした。
「あの子、よくそこでおしっこするもんだから、恥ずかしくって」
里美も、こればかりはどうにもならないというように困り果てた顔になった。
「孔、何度言ったらわかるの。もうやめなさい、そんなところで」
 道路際に一人立つ息子を遠くから叱りながら、どこかよそよそしく車へ向かう里美に、満子も従った。
 そのとき、孔の低く小さな声が満子の耳もとへとどいた。彼女にはミズイロノカワと、確かに聞こえた気がした。半信半疑ではあるものの、彼女は胸に微かな期待を持ち、そろりと近づいた。
 道路と交錯する、やや細い道沿いに孔は立ち、放尿をしていた。道は下りながら徐々にカーブし、住宅地へとつづいている。昔は井手だったのか、道際に大きなU字溝が嵌め込まれ修復されているようだ。ただ、その一部がちょうど車が重心をかける箇所に当たるため磨耗し、上部のアスファルトが剥げ、縦に裂けたわずかな隙間から内部が剥き出しになっていた。孔はそこへ狙いを定め、やっている。
「孔、ここなの、あなたが言っていた水色の川って?」
「ミズイロノカワ……」
 孔は、自分が流したものがその僅かな隙間から、微かな循環に吸い込まれ泡粒となり、やがて消えていくのを見ているようだった。
 川と呼べるものでもなく、水色でもない。魚も棲んでいない。石鹸や洗剤の気泡が立つばかりで、小さな微生物が命を維持していくだけのどこにでもある生活廃水の溝だった。
陽の光が斜めから漏れ入り、上澄みに反射し、なぜか清らかな印象を与えていた。
満子は、まだ信じられぬといった表情で、立ちつくす孔を見た。用を済ませた孔は力がぬけ、目もとにある独特の痣も消えていた。掌を一方の拳でまた数度叩き、スキップした。
「カエロウ」
 満子の立っている場所へくるりと振り向くと、行動を促し、訴えるような眼差しになった。
「帰るって?」
 満子も心配げに尋ねた。
「ホープヒル」
 孔は服の袖口を引っ張り上げるように噛み、瞼を瞬かせた後、彼女を悲しげに見た。
「この子、切りかえようとしてるのよ」
 いつのまにか隣にやってきていた里美が、満子に言った。
「自分で自分に言い聞かせてるんだわ。そうだよね、孔」
 里美の感じ入った声に、満子もあらためて孔の顔を見た。瞳の奥に苦しげながら決断しようとする、淡く灯を放つ光源があった。
 孔、えらいわね。ほんとうは行きたくないはずなのに……。
 満子も、踏ん切りがついたように里美に告げた。
「お母さん、私たち帰ります。お母さんもあきらめずに、お店つづけてくださいね」
 帰りのドライブは、昼近い時刻のせいか、強い日差しの中で少々汗ばむ天候になった。
行きがけも通った橋に再び差しかかった。渡り終えてすぐに信号機があるため、大型車両もいたせいか渋滞していた。里美たちの車は橋の途中で停車した。窓から顔を出していた孔が、ふと真下の切り立つ谷を見ながらつぶやいた。
「高いね、ここ」
 その一言を耳にし、満子は、またもや翔一へ父の死を知らせに行った日が甦った。
伝えた後、翔一はベッドからおもむろに立ち上がると格子の嵌った西日の差す明り窓に近づき、孔と同じ言葉を発したのだった。
「た、高い、こ、ここ……」
 翔一は、ぼそりと言い、疲れたように窓から外を見た。満子は涙で腫れた目で翔一の動きを追いながら、そうねと、相槌を打つのが精一杯だった。だが、それから翔一は窓を開け、格子を両手で触ると、
「し、死、死ぬ……、お、落ちたら、し、死ぬ? ……」
 そうはっきりと囁いたのだ。それは死の恐怖を感じているようでも、落ちてみたい誘惑にかられているようでもあり、地の底から木霊しながら体の奥深くへと響いていく深い溜息のように聞こえた。そのとき翔一の目が、今、隣にいる孔の目と重なったのだった。
 孔も翔一も同じように肩をつぼめ、うなだれていた。満子には、体のいたるところが細かく顫えているように見えた。体から波動が陽炎のように湧き、周囲の大気を押しやっていた。
 闇。透きとおった闇……。
 あのときも今も、満子の目の前には間違いなく二人をつつみこむ繭にも似た闇がつくりだされていた。濃く光一つないその闇は、同時にガラスのように透明に見えた。
 満子はなお瞬きせず、それをじっと見つめ、気づくと翔一のときと同じように、孔にもそっと腕を伸ばし肩をゆっくり撫でていた。
 その夜、里美の家に一本の電話があった。
「樋口さん、俺だよ」
 相手が釘崎であることに気づくのにそう時間はかからなかった。突然の電話に率直に驚きをあらわそうとしたが、昼間、孔が来たこともあり、改まった挨拶に変えた。
「あっ、どうも。今日は息子がお世話になりました」
 すでにホープヒルに帰り着いた連絡は三時間も前に満子からもらっていた。里美は叱責だろうと身構えた。
「ちょっと話したくってね」
 ところが釘崎は昨日とは違い、むしろ威圧さが消え、昔の雰囲気があった。
「舟田くんから、いろいろ話は聞いたよ」
 電話の目的を里美は、考えあぐねた。
「まあ、今日は、とにかく無事でよかったよ……」
「何が言いたいんです? はっきりおっしゃったらどうですか、あなたらしくもない」
 躊躇する釘崎に里美は、わざと叱咤するよう強い口調でけしかけた。釘崎は決心がついたのか、一語一語を噛み砕くように喋りだした。
「覚えてるかな。よく夏には子どもたちを連れてキャンプに行ったよな。あの頃、孔くんを見る たびに、純とついつい比べてたことを覚えてるよ。もし純に彼のような言葉があって行動がとれれば、どんなに本人もそして家族も楽しいだろうって……」
 里美は、相手の一言一句を聞き漏らすまいと受話器を握り締めた。掌に汗がじんわり滲んでいた。闇の中に釘崎の息が彼女の耳元まで吹きかかってくるようだった。
「もちろん、だからこそ、大変なこともわかっていた。しかしねえ、なにか羨ましさのようなものが先にあったんだ」
 里美は、受話器の隣に置いてある時計に目をやった。緑の蛍光に塗られた針が十時を差している。釘崎が、遠い過去の出来事を蒸し返すため、わざわざこんな時刻に電話してきたとも思えない。 
 里美は思いきって尋ねた。
「ほんとうは、何か別のことがおっしゃりたいんじゃないんですか」
「気の強さは、相変わらずだね」
「ええ、そうでなくっちゃ、孔ともやっていけませんから」
「その孔くんのことなんだけど……」
 やはり、本題はそこだったか。里美もつい息を整え、身構えた。
 釘崎はつづけた。
「四年前、このホープヒルで何があったかは噂でも知ってるだろう。あのとき施設長の佐伯は、三十人枠にこだわったよ。一人一人とゆっくりじっくりかかわることの大切さを私にも訴えた。そのくらいのことは私だってわかってるさ。でもね、少ない予算で何もかもやってかなきゃならないんだ。軽い子より障がいの重い子へなかなか手がとどかない現状は、あの当時も今も変わっちゃいない」
 釘崎はそこで息をつぎ、力を込めた。
「私だって、自分の子がかわいいんだ。人のためだけにやっていけるほど善人じゃない。純のためにつくったホープヒルがいつのまにか違うものになっていく気がしてね……」
「やっぱりだめなんでしょう、息子をお世話していただくのは」
 里美も限界だった。
話の流れからして、いっそ預かるのが無理なら無理とここできっぱり言ってほしかった。
「何言ってるんだ。私は驚いてるんだよ。ここへ帰ってきてからの孔くんの落ち着きぶりに」
 またも里美は拍子抜けしてしまった。黙って相手の言葉を待った。
「正直、調子を落として帰ってくるのが関の山だと思ってたんだが。そのときは、ほら見たことかって言ってやろうってね…。だけど全然、その逆だったよ」
 まんざら冗談や皮肉のようにも思えなかった。
 里美は同じ親として障害をよく知る相手の言葉なだけにどこか嬉しかった。
「まあ、時代も法律もこれからどんどん変わっていくだろうしな。せいぜい今やれることをやってみたらいいさ」
 掠れた声で、癖のある強がった口調に戻った。
「ええ……、ありがとう」
 里美は押さえ気味に答えた。
 受話器を置くと、暗闇が周囲を支配した。光はない。里美は孔と満子のことを思った。今頃彼女はホープヒルでどんなことを考え、苦悩しているのだろう。焦燥にかられるように里美は一階の店舗へ下りた。照明をつける。厨房には様々な容器や道具類があった。いつ来るかわからぬ仲間と会うため、用具はじっと棚に待っているようだった。
 フロアを見る。
 椅子やテーブルが整然と並んでいた。里美は、それらをじっと眺めた。ステンに水を流してみた。水は跳ね、渦をつくり、闇に溶けた排水口へ静かに吸い込まれていった。

放たれしものに砥がれる

2020年4月29日 発行 初版

著  者:宮本誠一
発  行:夢ブックス

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宮本誠一

1961年熊本県荒尾市生まれ。北九州大学文学部国文科卒業後、学習塾講師、大検(高卒認定)専門予備校職員などを経て、熊本県小学校教諭に採用。二校目の赴任地(阿蘇市立宮地小学校)で、卒業生である発達障害の青年との出会いをきっかけに33歳で退職し、当時阿蘇郡市では初めての民間での小規模作業所「夢屋」を立ち上げました。その後、自立支援法施行に伴い、「NPO夢屋プラネットワークス(http://www.asoyumeya.org/)」を設立し、地域活動支援センター(Ⅲ型)代表兼支援員として阿蘇市から委託を受けながら現在に至っています。 運営の傍ら、小説、ノンフィクション、児童文学、書評などを発表してきました。部落解放文学賞に5回入選、九州芸術祭文学賞熊本県地区優秀賞2回、熊本県民文芸賞、家の光童話賞優秀賞などを受賞させていただいています。

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