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むらさだめ
一
指定されたバスは、大きなS字を描きながら国道の登板車線を上った後、しばらく真っ直ぐ走って左折し、一車線の旧道に入った。周りは植林された杉に覆われ一軒の家も見当たらない。間伐されず窮屈に枝と枝を重ねた木立が流れるように過ぎていく。突然、視界が途切れるように緑が消え、幹が根っこごと掘り返され赤土が剥き出しの情景に変わった。段差で座席が縦に揺れ、慌てて両手で前の席の背凭れをつかみ、腰を浮かしてしのぐ。すぐに舗装が安定し、道路はそこから歩道を広くとったまだ新しい二車線へ変わっていく。山間のせいかすれ違う車はほとんどない。
教えられた停留所は路線の終点だ。ゆるやかなカーブ沿いに道路を走り、木製の柱に円盤の縁が赤錆びたバス停の標識がポツンと脇に姿を見せる。その先は、ガードレールが道を塞ぎ、縦貫道路建設工事中と書かれた鉄の立看が太い針金で取り付けてある。重機や作業員の姿はなく深閑としている。ふと遠方を見ると、幾筋もの谷間を映しながら高々と見下ろすように山の尾根が三つ、薄い霧につつまれながら連なっている。中腹から頭を低くした小高い山が一つ、なだらかに丘陵を浮かび上がらせる。
道路の右手には田畑があり、奥にニ十戸ほどの集落が細い道を挟んで両側と、少し離れた場所にも数軒、庭木や木立の隙間から黒瓦を見せている。
布製のボストンバック一つ持ちタラップから下りたった斎藤は、硬めの椅子に同じ姿勢を保っていたこともあり、いつも以上に痺れる右脚がもつれ、前につんのめりそうになった。ぎこちなく言葉をかけてきた運転手の声も、マイクごしのせいか雑音のようにしか聞き取れない。道路から少し離れた更地に一人立っていた女性が歩み寄り、手をかそうとしたが、何とか自力で持ち直した。時刻は九時を回ろうとしている。ここでは朝一番のバスのためか、下車する者も出迎える者も他にいなく、お互い迷うことなく自己紹介した。
橘佐織と名のる女は、年は斎藤と変わらぬ四十前後で、木枯らしがやがて吹き始める十一月間近の季節には不似合いな薄手のワンピースにカーディガンを引っかけ、首には濃紺のマフラーを巻いていた。長めのスカートに足もとは靴下にサンダル履きだ。髪にはつよいパーマをかけたなごりか、不自然に膨らんだところがあり、ここ最近、化粧や飾りなどしていない様子だ。
斎藤のために提供される家に、そこから歩いていくことになった。歩道の際にアザミが群生し、盛りは過ぎてもしなだれた葉の先だけは尖らし、四方へ突き出している。彼女は、細面で神経質そうな顔立ちだが、歩き出すと背筋が伸び、男としては中背の斎藤と並ぶほどだ。
「歩くのは大丈夫みたいね」
「ええ、まあなんとか……」
左腕に持ったバックの重さでバランスをとり、背を少し斜めにしているため、皺のよったズボンの右裾が踵にときどき引っかかる。右足を多少引きずる斎藤を横目に、彼女は心なしか歩をゆるめた。標高がかなりあるせいで、空気に埃っぽさはなく、肌寒いが心地いい風が吹いている。
「こっちに来てから、車は手放したし、ずいぶん歩くようになったわ」
一人言のようにつぶやき、
「わたしは、ここ」髪を掻き上げ、左耳につけられている薄茶色の補聴器を見せた。
「二歳のとき百日咳になっちゃって。こっちがちょっと聞こえるだけ」
「そんなふうには見えませんけど」
「みんなからそう言われるわ。音声もはっきりしてるって。妹と喧嘩したときなんか、お姉ちゃんは都合の悪いときだけ聞こえないふりするってよく言われてたし……」
斎藤は、垢じみたジャンバーに右手を突っ込んだまま黙って頷いた。
「私は二種六級だけど、あなたは」
「二種の四級です」
「お互いグレーゾーンか。人生もそうだったりして……」
裏の事情は充分知りぬいていると言わんばかりに語尾を強め、斎藤の方をちらりと見た。
「一番左の丸っこいのが崎岳、その右の高いのが間岳、最後が奥岳ね。鈴野三岳って言うけど、 この辺の人は天狗さまって呼んでるわ。ほらちょうど横から見たら顔みたいでしょう」
「あのー、この辺じゃないんですか……」角張った石を踏み、骨盤が疼く。
「ごめんなさい。外では大きい声でハッキリ口を開けてしゃべってくれない」
斎藤はもう一度やり直した。
「ああ、もう少し先よ」
バス停から見えていた集落を過ぎながら、斎藤はいくらかがっかりした。
谷際の外れで、柿と梅がそれぞれ一本ずつ生えた家の玄関口から、色褪せた青地のつなぎの作業着に毛糸の帽子をかぶった男がじっと二人を見つめている。佐織は眉間に皺を寄せ、俯き加減にその家の前を通り過ぎようとした。相手は、薄目を開け、黙ったままだ。
「気にしなくていいわよ」
小声で佐織が、つぶやく。
数百メートル歩くと、谷にかかった鉄筋の橋がある。長さはさほどないが、潅木や雑草の茂みが土手の両側から落ち込み、深い渓谷をつくっている。谷間には黒褐色の岩屑が散らばり、風が吹き上がってくる。瀬音が鳥の囀りのように微かに聞こえ、水の流れを知らせる。
橋を渡った先は、車一台がやっと通れるくらいの道幅になった。道の両側に杉や雑木が増え、ところどころ激しい雨のせいか土が削ぎ落とされ曲がりくねった根株を曝け出しているものもある。いよいよ山ふところへ分け入っていく。どうやら地区全体が山裾から山腹へのゆるやかな斜面にあるらしい。
「さっきの谷がね、昔の境界で、明治にいっしょになるまでは谷のこっちと向こうで違う村だったらしいわ。それが昭和になって今度は村が市に合併されて、今の橋にかけ直されたの」
ザワザワと葉ずれの音がする。
「この辺りは、山伏の修行の地だったらしいわよ」
「山伏?」
「法螺貝もって、火の上を歩いたりする人たちがいるでしょう」
「今もまだやってるんですか」
「まさか。修行は明治の初めに禁止になったわ。女人禁制でね、そのころだったら私も怖くて入っていけないわよ」
説明をうけながらも、ただの梢の揺れと感じていた向こうに、絹の装束に身をつつんだ二つの眼がじっと見ている気になり、斎藤はポケットの右拳にぬめりのような汗を感じた。
「それから今登ってるのが……」
斎藤は、佐織の口から次々出てくる説明に戸惑う。
「涅槃岳」
「ねはん……」
「でもへんよね、三岳はどれも地図に載ってるんだけど、涅槃岳はないの」
目指す家は、さらに勾配を上り、強風でへし曲がった枝をぶら下げたクヌギや樫を仰ぎ、平坦になった道の奥に一軒だけポツンとあった。こんもりと周囲を覆う杉や樅に遮られていた太陽が、ところどころから木洩れ日を発し、さっきの瀬音とは違う、少し大きな川かそれとも溢れ出す地下水か、土を削いで流れる水音といっしょにカラスの鳴き声がした。
「ここよ」
あっさり紹介され、斎藤は我が目を疑った。
外から眺めるとどう見ても、壊れかかった納屋か廃屋を思わせるほどにいたんでいる。屋根は一応瓦だが、全体が傾いているため数センチずつ波打っているし、窓という窓ももちろん木枠で歪曲していた。柱には、鈴野山大明神の黄ばんだ御札がカサカサにかわいて貼り付いている。当然、正面の戸も、間柱が曲り、彼女が鍵をぬきとった後も掛金はなかなかとれなかった。数回ゆすってようやく動き、鐶からはずした。戸板には、鋸で雑に切られたコンパネが無造作に釘で打ちつけてある。
彼女の後についてささくれた敷居をまたぎ、中に入った。
冷んやりとした土の香が漂っている。大、中、小の三つの竈に大鍋と釜、それに湯沸かしの土瓶が置かれている。隣には、寄りかかるように鉈と消し炭入れの壷もある。薪につかう木片が高くこずまれ、中にはまだ使えそうな木のバットさえあった。
靴を脱ぎ、足をかけた畳は生き物の肌のように湿気を吸い、柔らかかった。食器棚の上、ちょうど斎藤の目の前に観音開きで片方の蝶番がはずれかけた仏壇が据えられ、位牌と線香立てを後ろに湯のみと花の挿されたガラス瓶がある。首を伸ばし奥を覗くと、暗く、光のささない座敷の床の間に、うっすらと、わずかに照らされ、人の首がじっとこちらを見ている。遺影である。白髪で、思いのほかふくよかな顔だ。眼鏡をかけ、斎藤のいる場所に視線をおくり、仄かに微笑を浮かべている。
「麻子さんが死んでから、花や水の取りかえと簡単なお掃除だけはやってたの……。だけどこんなに早く、あなたが来てくれてたすかるわ……。花は週一回、わたしの家の隣の紀代さんがもってくるから、それを差してやってね。山に行って花を摘むの、彼女楽しみにしてるの。それから水替えは毎日お願いね」
「毎日?」斎藤は、解せない顔をした。
「この家なんだけどさ、麻子さんっていう人は……」
そこで彼女はゆっくり遺影の方を目でさし「先月、入院先の病院で亡くなったんだけどね、かなり認知症もすすんでいて、最後は、ガスとかほとんど使わなかったのよ。薪でごはんやおかずこしらえていたの」
斎藤の瞳から燻りは消えない。
「だから、ほら……」
佐織は視線を動かし、梁から天井一体を差した。斎藤も思わず首を動かした。
「煤がねえ、辺り一面ついちゃって……。だからせめて水だけはね」
家の暗さというより、薄っすらと闇がたちこめている雰囲気は、まんざら彼の気のせいだけではなかった。よく見ると、土間のむきだしになった梁と梁の間に、煤をかぶった蜘蛛の巣がつららのように垂れ下がっていた。
斎藤は静かに視線をもどした。腔中にねばねばとした唾液がわきあがり、皮膚と言うより、毛穴の一つ一つがむず痒く、息がつまる感触を覚えた。
彼は座敷に入ってすぐの壁を見た。ダンボールの厚紙が、その場凌ぎに差し込まれ、安っぽい羽目板で押さえつけてある。ずいぶん前のものらしく、重たるく黒ずんだ表面をさらしている。斎藤は、佐織に気どられぬよう眉をしかめた。
彼女は、斎藤の不安をよそに湯のみ茶碗をもつとそそくさと土間に下りた。思いのほか足取りが軽く感じられる。おそらく、これが最後の水替えであることはまちがいない。明日からは、斎藤が見ず知らぬ老婆の遺影とともに暮らしてゆかねばならない。
部屋の隅のニスの落ちた座卓に、不釣合いな挿絵のように電話つきのデスクトップパソコンが置いてある。機種はさほど古くなく、目立った調度や電化製品のない古風な中でそこだけが時間がまともに経過し、現在に至ったようだ。
「青いキーは、今日も元気ってことだから毎日一回、押してね」
湯のみを置き、仏壇に軽く手を合わせた佐織が説明した。
「赤いやつは緊急のとき。どっちも市が契約している相談センターと警備会社、それと事によっては警察にもとどくようになってるわ。こっちはすぐに確認の電話が入るから気をつけて」
斎藤は腰を屈めそっと受話器を取ってみた。発信音がツーと鼓膜に流れ込む。
「それから、メールも一応できるの。あらかじめつないである何軒かとだけど」
本体中央の銀ラメの丸いスイッチを中指で押すと、空気を攪拌するようなモーター音とともに起動を始めた。画面へ光が侵入し、ハードディスクが働き蜂のように動き出す。
「『送る』のキーは、全員にとどくし、『見る』はみんなのが読めるわ。カーソルを動かさず、全部キーでするから簡単よ。ちょっとやってみるわね」
佐織は、『サイトウサンガ、ツキマシタ』と一字一字読み上げながらキーボードで打ち、送発信のキーを押した。
「立ち上げていてくれさえすれば自動的に出てくるから、見てると思うんだけど」
やがて、小気味いい電子音が流れ、『ウケトリマシタ』の大文字のディスプレイの後、『キヨ』の名が出た。
「これはパソコンに入力されてる返事で、本人が打つのはやっぱり難しいみたい。でも、キヨさん、ちゃんと見てくれてたんだわ。どんな人がくるか気にしてたし」
斎藤は、そこから遺影へ再び目を移し、昨日のことを思い出していた。
その日彼は、裁判所に自己破産の申し立てに出かけたのだ。あらかじめもらっておいた用紙に必要事項を書き込み提出すると、書記官が厳しい表情で目をとおした。住所氏名と借金の額、それにどこから借りたのか添付した数枚の書類をもとに確認があった。覚悟していたことではあったが、真意を確かめるつよい一瞥と遠慮のない叱責もあった。
「すべてはわたしの責任です。申しわけありません」
素直に謝罪したのがよかったのか、それからは多少柔らかな口調になった。
「連帯保証人もなく、家族もなしですか……まあ、事情も事情ですし、一応受理ということで……」
下方を向く斎藤にわずかに希望が射したようだ。
「一ヶ月後に裁判官の審尋がありますが、免責までは気をゆるめないでください」
申し合わせも終り、斎藤が頭を下げ席を立とうとしたとき、相手は椅子の背もたれに身を預け、表情をゆるめると、
「失礼ですが、住居も手わたして、これからどうするつもりです」
「え、まあ、できれば住込みで働ける場所でもあればと思っているんですが……」
斎藤は観念しきったふうに控えめに返事をした。
「もしよかったら、一つ古いつくりで、住むにはとくに支障のないところがあるんですけど」
予想外な情報提示に、感情を抑えつつ視線を合わせた。
「それに……」慣れた様子でさらりと言った。
「その家に住み、維持してもらえば家賃もいりません」
「そんなところが、今どきあるんですか」
「……実は、私の知り合いで市役所の職員がいまして」
説明されたところは、斎藤が、まだ一度も行ったことのない郊外の場所だ。
「ご存知かもしれませんが、この市も急速な過疎と高齢化が進む地区を抱え、頭を悩ましているんです。ずいぶん前にこの市に合併されたところですが、二年前、いくつかの地区を対象に市がつくった福祉計画がやっと国に認められ、高齢者や障害者の通信機器や放送サービスの研究地区に指定されたんですよ。それでまあ、空き家対策も兼ねしばらく住んでもらえれば助かるわけです」
男は斎藤の右足を見ながら、
「お願いできませんか」
意味ありげに微笑んだ。
彼は確かに、数年前からの借金の取り立て生活の果て疲れきっていた。飲食店を経営していたのだが、予想以上の長期の不況が原因で倒産したのだ。しかも店を拡張したときの多額の借金を残したままである。
妻とは離婚し、二人の子どもは彼女といっしょに実家に戻っていた。身も心も憔悴しきり、枯れ木のように痩せ細った妻の顔が今でもまざまざと思い浮かぶ。手に引かれ、いたいけに笑う娘と息子の横顔もだ。
「あなたには、けっきょく商売なんか向いていないのよ」
彼女の口癖だ。そんな彼は、まずは静かな場所でゆっくりと眠りたかった。
「ぜひお願いします」
斎藤は、むしろせっかく舞い込んだ逃したくない物件のように力のこもった声で返事した。それからすぐに書記官が、連絡をつけたのが橘佐織だった。彼女も彼と同じく自己破産の手続き組で、同じ地区の空き家を斡旋され四か月間住んでいた。今は町の弁当屋にパートで勤めており、ちょうど明日は定休日のため都合がよく、急遽、斎藤の引越しの手筈は整えられたのである。
「今日からさっそく泊まってもらえるのよね。家具も日用品も麻子さんのがそろっているし」
佐織は、まるで自分が家主になったように言葉をならべた。外で聞くよりこもり気味の言葉に、喜々としたリズムが漂っている。
二
佐織が立ち去り、十五分ほどして、斎藤が右足をさすりながら座敷の畳に横になろうとしたときだ。閉めた戸板を二、三度叩く音がした。
「どうぞ」
彼は、慌てて起き上がり声をかけた。ガクッガクッと戸が上下に揺れる。歪み具合を手で探っているようだ。一挙に力が入れられ押された弾みで、今度は釘で引っ掻くような音がした。腰をかがめた小柄な老婆が敷居の向こうに立っている。
彼女は慣れた動作で踵を上げ、跨いで土間へ入ってきた。髪は後ろへ小さくまとめ、白髪は思いのほか少ない。頬の肉が半円形に弛んでいるものの赤みがさし、ぱっちりとした瞳をしている。ポケットのついた絣模様のこげ茶の割烹着で、下は群青に薄い線の入ったモンペだ。マジックテープ式の運動靴が白く土間に映える。右手に新聞紙につつまれたものが目に入った。淡いピンク色をした花だ。
「あ、あの……」
斎藤は佐織に教えられ、パソコンでも見た名前を告げようとしたが、咄嗟だったため、浮かんでこない。慌てぶりを察したのか、老婆は、座敷の上がり口にちょこんと腰を下ろし、
「それ、見ましたよ」顎でパソコンをしゃくり、「佐織さんから聞いてると思うけど……」
少し間を置き、「紀代と言います」思いのほかはっきりとしゃべった。
「花もってきたから、生けてくださいな」
斎藤は居住まいを正し、効かない右足を斜めに正座になった。遺影の老婆と自分とがにわかに身内になったような気分だ。
年は麻子と同じくらいだろうか。他に疑問がないこともないが、あまり詮索せず、摘みたてのユリを両手で受け取った。
「麻子さん、この花が好きでね。ここで足滑らして入院してからも、見舞いにいくといつも色紙でつくってました」
斎藤は、ヤマユリの四枚のめくれた花びらをしげしげと見た。
「もう、早いもんで一月かね。さっそくですが……」
部屋の様子をつくづく眺め、
「四十九日の法要はよろしくお願いします」
「えっ……」斎藤は狐につままれたようにキョトンとした。
「ホウヨウですか」
恐る恐る訊ねかえす彼に、「そりゃあ、ここに住んで守ってくれる人がやるのが一番だからね。麻子さんも草葉の陰で喜んでますよ」
平然とした態度だ。そんな話は聞いていない。内心動揺し、これは面倒なことになってきたと思った。
「だいぶ煤もたまってきてるみたいだし、掃除もなんとかそちらの方でね。佐織さん、あんまりやってなかったんですよ」
少し声をひそめ、手を横にふった。
「でも、これは言わないどいてね」
紀代は、どっこいしょっと腰をのばし三和土に立った。日の差さぬ薄暗い土間に老婆の姿態が薄い肉感とともに、ぼーっと佇んでいる。
「ところで……」彼女はかまわずにつづけた。
「おたく、昼めしはまだなんでしょう? 少し早いけど、よかったらうちにきてしませんか」
あっさりした口調だ。
「米だけは食うぶんがあるから、ぜひ来たらいい」
事実、斎藤には余分な金はない。せいぜいこれから仕事を見つけるまでの一週間もてばいい方だ。
「それじゃあ、せっかくですから」
今さら虚勢を張ることもないだろうとついていくことにした。
道は、やはりわずかながら上り、車がめったに通らないのか轍もない。紀代も佐織と同じように見た目より足腰がつよく、ときに斎藤が右足を意識し、急がねばならない。強い突風の後か、わりと大きな枝も落ち、足をとられないよう注意していると、土手の下に麻子の家の朽ちかけた軒先が見えた。雨樋が途中から折れ外れている。落葉がわだち道の脇に泥と混ざり吹き溜まりをつくる。腐葉土がさらに隅に寄せられ堆積していた。
来たときから気になっていた水音が徐々に大きくなってきた。
下り坂になる。斎藤は、膝に力を入れ慎重に歩いた。なだらかになったころ、いよいよ水の流れが鮮明になり、静まり返った雑木の中、そこだけ異界の入口のように口を開け、ゴーゴーと水を吐き出す滝とその下で受け止める濃緑の溜池が目に入った。
「龍神様のお池ですよ」紀代は、ちらりと斎藤の方を見て、
「昔は、あの滝で山伏たちが体の禊をしてね……山のあっちこっちから、鈴の音が聞こえてきたとも聞いております」
「だから……鈴野山……ですか」
「滝壷の向こうには、洞窟もあるんです……。戦争中はよく逃げ込みました」
長閑な杉林の上空を両翼に光を浴びた敵機が飛ぶのを斎藤は想像できない。
「いってみますか」
彼が返事する間もなく、紀代は池の淵へ下り立ち、盛り上がった土の上をぺたぺたと歩き出した。斎藤も仕方なくついていく。滝に近づくにつれ、石ころが増え、小さな溝を越えた辺りからつるつるとした岩場になった。
「すべらないように注意してください」
滝の流れを真横に目線で計り注意深く進むと、なるほど人一人とおれる石積みの道がある。細かな足場は人の手でつくったらしい。最初耳を劈くように凄まじかった水音も、慣れるにしたがい気にならなくなる。飛沫が肩口で撥ね首筋を濡らす。冷やりとしたものが過ぎるが、薄い氷の上を歩くようにそろりそろりと行く斎藤は、ただ下を向いたままだ。滑らかな窪みをもった大きな岩をわたりきるとようやく洞窟に辿り着いた。
「けっこう明るいですね」
「まだ入り口だしね。それに南を向いてるから、日当たりはいいんです。午後になれば虹も立ちます」
紀代は奥へ歩いていく。彼女のからだが暗幕でもあるようにスッと消え、瞬間移動していくようだ。斎藤もいっしょについていこうか一瞬躊躇する。目が慣れるのを待って、ゆっくり足を運んだ。壁面を覆ったごつごつした岩と岩との間に子どもの頭くらいの石でお堂が組まれ、石鑿をかませ荒い線で彫っただけの石仏が置いてある。研磨もされず、表面は粗く撫ぜれば皮が裂けそうだ。
「明治の中ごろ、村に疱瘡が流行りましてね。何でも日本じゃ最後の大流行だったらしいですが。そのときここで看病したらしいです。幸い水もあるし服もこまめにあらったりして、村全体にひろがらなくてすんだんですよ」
流線型の石仏の瞳が麻子と重なる。斎藤は、遠くから響く乱れ打つような水滴の音を聞きながら、紀代を真似るように手を合わせた。
「まあ、帰りはせいぜい龍に首根っこくわれて落ちんようにしてくださいな」
ぞんざいな口ぶりの後、紀代はくるりと後ろを振り向き、来た道を引き返した。遅れまいと斎藤も急ぐ。外に出たとたん、紀代の深い皺の刻まれた頬に逆光が重なり、皮膚の細胞をあばたのように浮き上がらせる。滝の近くにはススキや水草の茂った沼地が蛇行し、枝分かれするように遠巻きに流れている。
山道にもどり枯葉を踏みしめたとき、ついさっきまで滝の中にいた自分が嘘のようで不思議な気がする。やがて枝葉で視界が暗くなった。短い藪の隧道に入り、視界からやんわりと光が締め出され、再びうっすらと情景が浮き上がり、締め縄を巻いた大きな岩と、先に数軒かたまった集落が見えてきた。
紀代は、ここでも岩に軽く手を合わせ、
「虚空蔵さんです。疱瘡をもってきたのは、山伏だとも言われとります。そんとき、健康の者も病気の者も、谷から一歩も外に出てはならん達しがお上から出たと、うちのじいさんが言っとりました……橋もこわされまして……」
斎藤は、ついさっき渡ってきたばかりのコンクリの橋を思い浮かべ、
「じゃあ、市になるまでずっと……ですか」
唐突な質問とは思いつつ、聞かずにはいられなかった。
「いくらなんでもそれはありません。私らの生まれたときは、丸太を組んだのがありましたが……。それに、こっちの者も、谷を下る道ぐらいは知っとります」
癖なのか、自分の言葉に自分で納得するようにいちいち頷きながら喋った。
「佐織さんちはあそこです。最後の村長の家」
ぶっきらぼうに指差した家屋の周囲に人の気配はもちろんない。気流が静かに舞い、カラスが一羽飛んでいた。漆喰を塗った門構えは古びた中にも威厳が漂い、母屋と蔵に別れた歩道には石が敷きつめてある。すぐ隣の田畑は休耕してかなりたつのか畦がすぐにわからぬほど高い雑草で覆われている。
佐織の家とは反対方向へ数十メートル行った先に紀代の家もあった。
「紀代さん、ちゃんと連れてきたみたいね」
先着がいた。橘佐織だ。二間にわかれた奥座敷から、彼女は炬燵に入ったまま顔を出した。台の上には膳が並び、食事の途中らしい。斎藤はちょっと驚いたが、初対面でもなし、軽く会釈して座敷に上がると、向き合う形で炬燵に足を入れた。スッと踵が滑るように下まで落ちる。掘り炬燵だ。
「まあ、どうぞ食べてってください」
すぐに紀代が台所から山菜の煮しめとおにぎり、それにダンゴを持ってきた。
「遠慮せんで、どうぞ」
佐織の前のお膳に手がつけられていないのが気になったが、合わせることもあるまいと、とりあえずほんのり湯気の立つおにぎりをつかみ、一口くわえこんだ。
熱がじんわりと舌先に伝わり、歯茎の粘膜を刺激する。二口目を咀嚼したとき、口の中に硬い異物を感じた。咄嗟に吐き出そうとしたが気が引け、無理して頬張り、「ちょっと失礼」精一杯の発音を試み、土間へ下りた。手でつかむと米粒といっしょにラップにつつまれた小さな固まりが出てきた。おそるおそる唾液で湿ったビニルの膜を剥がした。
包まれていたのは、百円玉だ。斎藤は訝しげに顔を上げ、ふたたび家の中にもどり紀代を見た。佐織の隣で正座する彼女は、視線が合うとたいそう満足げにニンマリし、ぼってりとした唇を微妙にゆがませた。佐織はほんのちょっと顔を上げ、すぐに自分のおにぎりを食べ始めた。斎藤は掌に握った硬貨を突返すのも大人気ない気がし、仕方なくそのままズボンのポケットへ押し込んだ。
三
それにしても、この匂いはなんだろう。斎藤のこれまでの記憶にはない独特の匂いがこの家にはあった。
ガスも電気もある時代、換気の設備もないに等しい家で竈を使い煮炊きをしていたのだ。熱い大気は室内のどこにぶつかり、どう移動していったろう。
土間に立ち、あらためて家の中を見回してみる。
斎藤は、五年ほど前、家族でバンガローに泊まったときのことを思い出した。カナダ産の風格ある暖炉が耐熱性の色違いのレンガ敷きの壁の前にあり、杉の薪に火をつけると、厚い特殊ガラスの中で皮がめくれ、チロチロと小さな炎と白煙をあげ、細木がはぜていく音が心地よかった。柔らかいぬくもりの中で火照りをあび、頬を赤らめる家族の幸せそうな顔が目に浮かぶ。
一つ一つの映像が細かに呼び起こされそうになり、斎藤は突然、座敷へ上がった。真っすぐに縁側へ向かい、扉や窓を開け放つ。
遺影の麻子がわけもなく鬱陶しく感じられる。只で借りられる話にのったばかりに、かえって面倒なことになってしまった。
戸棚を開けてみた。箸や茶碗、醤油さしまでがアルミを敷いた上に行儀よくならべてある。カビは生えていないようだが、濃い液体がどす黒い血のようにも見え、鼻の先にもって確かめる気にもなれない。明日からの食事はどうしたものか。近くに店もなかったし、やはり必要最低限のものは買いそろえなければならないだろうが、今はとにかく水をかえ、花を生け、掃除もしなければ夜に寝るに寝れないと、あれこれ頭が混乱してきた。覚悟して蜘蛛の巣のはったポリバケツを水で洗い、中にあった干乾びた雑巾を水で濡らし埃のたまったところから拭き上げようとしたとき、表の戸ががらりと開いた。
「あの、いいかしら」またしても、橘佐織だ。
「これから掃除するところだが」
斎藤もぶっきらぼうに返事した。
「ごめんごめん、わたしうっかりして、あなたに言っておかなかったのよ」
佐織は、出会ってからの一連の行為と同じく、無遠慮な足どりで上がりこみ、彼の前をすぎ、奥の納戸に手をかけた。そんなところにもう一つ、物置があるとはまったく気づかなかった斎藤は、首を傾げつつ彼女の後についていった。一枚板の引き戸は、色と木目が黒ずみ周囲の壁板と完全に同化している。
「ここに、必要なものは全部あると思うわ」
鈍い音を立て開いた薄暗い空間から淀んだ空気が流れ出る。斎藤は目を瞠った。まさかと思うほどの新旧、色とりどりの電化製品や日用品が押し込んである。
掃除機に扇風機、炬燵に炊飯器、ベッドの骨格をつくるパイプにクッション、カラーテレビ、電熱式のオーブン、小型の冷蔵庫、ティッシュペーパー、コーヒーメーカー、それにポータブルのガスレンジまである。一人暮らしに必要なものはすべてそろっている。斎藤の目に、にわかに活気づくものがもどってきた。
「麻子さんはね、戦争で旦那さん亡くしてから、生活費は遺族年金だけでやってたそうよ。自分の食べるぶんの野菜なんかは紀代さんの畑をかりていっしょにつくってたって。子どもさんはいなかったし……。それに惚ける前は、けっこう社交的で、新しものずきだったって聞いてるわ」
彼女は、家電品にはあまり目をやらず、斎藤をしげしげ見て、
「だけど、あなたも変わっているわね。何も知らずに、よくここへ来る気になったもんだわ」
斎藤の不安は少しづつ消えつつあった。米は、紀代のところからわけてもらい、おかずは週に一度、町に買いだしにいけば足りる。後は仕事さえ見つかれば……。
「橘さん、お年寄りが一人で生活してきたんだ、探せば、まだ何かあるかもしれないね。たとえば漬物とか、梅干しなんかも残っているかもしれないじゃないか」
佐織は、さらに真剣な表情で斎藤を見た。
「そんなことより、市役所には手続きにはいったの」
何のことか見当もつかず、斎藤はキョトンとなる。
「あなた、やっぱり何も聞いてないのね」
今度は呆れたように、嘆息に満ちた声を上げた。
「あのね、一応、福祉計画は地域起こしの一環で、申請すれば住む人は三か月間、わずかだけど補助金が出る仕組みなの。わたしはお米とか野菜に変えてもらってたけど。それも先月で切れたから、働きに出てるってわけ」
小太りの書記官の顔が思い浮かんだ。
「それじゃあ、わたしはそろそろバスの時間があるから。それから市役所にはちゃんととどけておいた方がいいわよ」
土間に下りながら後ろ向きで答えた。その声はどこか力強く、彼女がすでに措置とは縁遠くなった身であり、外で労働を始め、一歩先に社会復帰をすすめた存在であることを示しているようだ。
「俺もいっしょにいくよ」
斎藤も慌てて答えた。バスの本数が少ないことはわかっている。とりあえず花と水だけ替えて、急いで身支度をした。けっきょく、紀代のおにぎりで昼食を早くすませたおかげで、次の一時のバスに間に合った。
バスの中で話を聞いてみると、彼女は仕事に出かけるときはいつも紀代の家で朝食と昼食を兼ねてすませているらしい。
「最初さそわれて、話し相手になっているうちに習慣になっちゃって。お互いに、けっこう楽しんでるの」
愉快そうに笑う佐織は、思いのほか目鼻立ちが整い、美しい顔立ちをしていた。
町が近づくにつれ乗客が増え、一人一人のからだから発散される喧騒の匂いが車内に運びこまれ、人いきれで一杯になってきた。停留所ごとに外を見ると、コンクリの舗装板の上に行き場を失った風が舞い、車窓から見える建物も、多くが真四角な矩形を型どった切り絵のように見える。車の激しく行き交う道路はときおり排気ガスで煙り、その中をストップライトが飽かず明滅を繰り返している。様々な意匠を凝らした看板や標識が首を出しては、目的地を案内し、目印となる山や川のかわりに、地上数十階のビルや鉄塔が立ち並んでいる。バスが市街地へ到着すると、二人はそこで別れた。斎藤が市役所についたのは三時近くだった。
「斎藤雄一さんですね。住居の移動届けは了解しましたので……。今日から情報機器対策地区の徳田麻子さんの家に住んでいただくということで、よろしくお願いします。ではつぎに、これを持って企画課へ行ってください」
住民課の女性職員から書類をもらった斎藤は、エレベーターで三階へいった。
企画課では、髪を七三に分けた男が相手をした。
書類をしげしげと見たあと出されたものは、手帳式になった身分証明書のようなものだ。
「この両方を持って、地域振興課へお願いします」
途中いくつかの会話から、あの地区が終戦の翌年に市に合併されたことがわかった。今現在、佐織が住んでいる家の村長も、かなり前に現職だったことになる。
「あすこはたしか……」
次の課で、作業服を着た男が小声でノートをめくり、地区長の名前を調べてくれた。
「本多達也さんっていう人が区長さんだから、引き落としにいくときはここに印鑑を押してもらってね、あなたの印鑑じゃだめなんです。証明の意味もふくまれてますから。郵便局は、隣町に行って頂かなければなりません」
それにしてもあの書記官は肝心なところがぬけている。これではまるで俺がいったいどうするか、舞台の袖から楽しんでいるようだ。斎藤は、愚痴りたくなる気持ちをどうにか押さえ、区長の名前と住所をメモし、そこを出た。
バスは、中心地から三時間に一本の割合で出ている。終りから二番目の五時過ぎになんとか乗ることができた。おそらく佐織は、最終の九時で帰ってくるはずだ。
見覚えのある山の風景が迫るころ、乗客はやはり彼しかいなく、谷間に沈んだ夕日の残照が車体にかぶさり、紅に染めた。足もとが薄暗い。斎藤はタラップから地面につく最後の一歩を慎重に下りた。外灯がたよりなげに集落の道を照らし、電柱に絡まった蔦を造形物のように映し出している。橋のたもとにさしかかったとき、近づいてくる人の気配を感じた。砂利の上に人影が動き、斎藤の影と重なる。
「あんた、今度、来た人かい」
ニット帽の男だ。警戒する様子でもない。顎から頬に濃い髭をたくわえ、肌も日焼けのせいか浅黒い。はみ出した両耳の生え際に白髪があり、年は意外に斎藤より上で、五十前後といったところか。
斎藤が小さく頷くと、右足をしげしげと見てニヤリと笑い横を向いた。あまりの無神経さに、憮然となる。
「三軒村も偉くなったもんだ」
下腹から背中を這い上がってくるような声だった。
「補助金めあてに、つぎつぎと来やがる」
わざとらしく、鬱憤を吐き出す口調だ。斎藤は挑発にのらないよう相手にしなかった。
闇はいよいよ本格的に足もとへ幕を下ろし始めた。脇道へ入り堪えていて小用をしたのがまずかった。再び歩きはじめると道を間違えたことに気づいた。カーブの加減でそのことに気づいた斎藤は、すぐに引きかえそうとした。だが、ふと先を見ると、崖にそって小道を挟み、ブロックで補強された土手がある。中央に崩れかけた石段が貼りつき、奥からケヤキの先端が顔を出している。旧社の跡だろうか。斎藤は、誘い込まれるように足をかけた。
磨耗し苔むした石をひとつ上ると景色は一変した。
自然石のごつごつした切っ先がいくつも闇に冴え、天を刺すようにならんでいる。中には、刀か槍のように切り立ったものもあり、鉾先が蒼白く夕闇の残光を集め、地中から顔を出している。
山伏の墓……。
斎藤は、体全体に寒気を覚え、後ずさりした。
どこをどう歩いたのか、定かな記憶はない。とにかく必死に引き返した。力まかせに開けた扉は、相変わらず甲高い軋みを立てた。腕時計は、ちょうど七時を回ったところだ。土間へ一歩踏み込む。宵闇が、生臭い息を発し斎藤を飲みこむ。
予想以上に寒い。足を動かすたびに土の感触が靴底から滲み上がる。梁に注意しなければ……。煤をかぶった例の蜘蛛の巣がある。手を翳し、用心しながら階段へすすむ。微かな光をもとに部屋へ上がり、紐を引き、蛍光灯をつけた。鈍い瞬きが網膜に反射し、さっき見た山伏たちの骸の眠る情景が眼球に浮かび上がる。
仏壇の湯のみをのぞきこむ。今朝出かけるとき替えた水だ。沈殿物は見えない。
斎藤は、納戸から、テレビを持ち出すつもりだった。
居間の明りの下、扉はすんなり開く。ブラウン管を目印に手をかけた。上腕に力を入れ抱え上げる。室内アンテナも取りつけてある。腰を落とし、コンセントに一番近い場所に置いた。コードをほどくと、見慣れぬものが目に入った。本体へつなぐ線のプラグが切断されている。先端からエナメルが数本剥きだしている。
落胆が走る一方、不自然な情景は、彼を次の行動へ誘いだした。恐る恐る納戸へ行き、他のコードも調べてみる。
白や黒のビニルでカバーされた先は、どれも同じだ。
麻子が切ったのだろうか。いったい道具は何で行ったのか。土間の竈のそばにあった鉈が思い浮かぶ。髪を振り乱した老婆が、プラグ目掛け打ち下ろしている勝手な想像の中、息づかいや受けの木片に食い込む刃の像が生々しく頭中のスクリーンに投影される。斎藤は、次第に引きつっていく自分の顔もいっしょに、そこに見て取れるようだった。
電子音がした。
パソコンにメールの受信を知らせる文字が映し出された。
『オヤスミ。キヨ』
斎藤は、息を止め前かがみに腕を伸ばし、確認のキーを押した。
四
しんしんと降り積もってきている。音もなく、風に払われることもなく、人の肌や凹みを持った階段、瓶や皿の表面に舞い落ちている。
数ヶ月前まで老婆が使っていた掛布団には派手な鞠の刺繍がされている。真紅の布地に原色の糸で縫いこまれている。打ち上げ花火のように放射状の模様を入れたものや、菱形を縁取ったものなど華やかだ。くるまっていると、生きた体臭が感じられる。
「おーい、斎藤さん、いるのはわかってるんだ。せっかくきてやったのに小便ちびらせる気か。借りるときは神様みたいに拝みやがって。やることしないからこうなっちまうんだよ」
銀行から借りた金は、高利のノンバンクへ移行されていた。そうなる仕組みは知っていたが、まさか自分が落とし穴に嵌まるとは思ってもいなかった。
鼓膜が記憶の中の情景に反応し、扉口に雨漏りのような音がする。
『あいつら、ほんとうに小便して帰っちまった』
斎藤は小さく舌打ちする。俺が町の一角に二号店を出したとき、だれもがもろ手を挙げ歓迎した。経営が危なくなると、知っている者一人残らずソッポを向き、寄りつきもしなくなった。それが、つい三年前のことだ。
その一年後、何かと諍いが増えた妻と別居し、彼は一人、会社の事務所で暮らし始めた。金の工面も底がついた数か月後、朝、寝違いと思ったとたん全身に激痛が走ると息が苦しくなり、起き上がれなくなった。這って携帯をつかみ救急車を呼んだ。精密検査の結果、悪性の首の椎間板ヘルニアと診断された。軟骨が突き出し、脊髄を圧迫しているがその位置が呼吸機能に関係していた。このままだと神経がやられ寝たきりどころか命にかかわる危険性がある。緊急手術だった。軟骨を除去し、不安定になった頚椎を固定するため骨盤の一部を移植する大掛かりなもので、歩けるようになっても、今度は右脚に痺れが残った。
「まさか、こんなことになるなんて思わなかったわ」
退院後、追い詰められた斎藤が、自己破産の件を話したとき、妻は自分自身に言い聞かせるようにつぶやいた。斎藤がまだ自分でもどうしていいのかわからず、持て余す体を動かすと、鱗のようにところどころ剥げたレザー貼の椅子のバネが悲鳴のような音を立てた。
今思えば、事業計画のすべてが分析の甘い杜撰なものだった。己の勝手な夢の楼上に身を置き、碌な見通しも立てず商売を拡張した果てに、不自由の身になった夫を彼女はどう見ていたか。
裁判所に行く決意がついた翌日、当分会えなくなる子どもの顔を見に出かけた。
「パパは、ひとりでお仕事するの?」
小学一年の息子が斎藤に心配そうに聞いたので「大丈夫だよ」と笑いながら答えた。三つ違いの姉はファミレスのハンバーグを、テレビの歌番組の話題をしながら口に運ぶだけで何もたずねようとしなかった。斎藤もこれからの家族の生活をあれこれ聞こうとは思わなかった。ただ互いの顔を見、何かが満たされればよかった。
帰り際、子どもを車に乗せ、少し離れた場所で妻と外で話した。
「役場には私がもっていくわ」
「そうだな」
印鑑を押したばかりの離婚届けだ。
「子どもに知らせるのは、もう少したってからでいいかな」
「そうね。こっちも姓をすぐに変えるつもりはないし。とりあえず籍だけぬいとくことにするから」
「ああ。とにかく借金の方は、俺だけで何とかするよ」
その後、二人とも目のやり場に困り、妻は車の方を、斎藤は店の窓際の席で熱心に話し込む若い男女を見た。ただようやく来るべき結論に達し、ホッとしたのも事実だ。
「早く養育費を、送れるようになりたいもんだな」
「自分の食い口が先でしょう」
妻も、ここ最近見た中では肌つやもよく、少なくとも不眠は脱しているようだ。
「ねえ、帰ろうよ」二人の子が窓から顔を出すと一斉に口をそろえた。
「パパ、元気でね」上の子がまるで友達と別れるように言った。
「形見ちょうだいね」
どこで覚えたのか知らないが、娘のその言葉に斎藤はドキリとした。
「なにがいい」
彼がたずねると「宝石か指輪」と答えた。
「わかった。今度買っとくよ」斎藤は微笑んだ。
「パパ、バイバイ」下の子も姉のいる側へ移動すると、わずかに残った隙間に体をこね入れ、窓から手を振った。
「ああ、また今度な」気軽に返事した後、パワーウインドウがゆっくり閉まり、車はエンジン音を残し去っていった。アスファルトで塗り固められた駐車場が日差しの熱を溜め込み、ぬるく膝元まで感じとれた。
布団の中で斎藤は、車が遠ざかっていった先がどんな風景だったか思いだそうとしたが、記憶だけでなく意識も深い霧の底に落ちていくようで出てこなかった。
うとうととなりかけては腰から膝、足元と冷えで痺れが治まらず、ついつい手が伸び、さすらずにはいられない。まるで地殻変動のように、いつか大腿部から崩れ落ちていくのではという恐怖感がつきまとっている。いたずらに刺激しないよう腰に捻りを加えないでゆっくり寝返りをうったときだ。家に向かって人の駆け寄ってくる気配がした。薄い板越しに息遣いまで聞こえ、ただならぬ逼迫感が伝わってくる。
「お願い、あけて」
佐織の声だ。掛け布団を横へずらし、後ろ手でからだを庇いできるだけ早く立ち上がった。靴の踵を踏んだまま流しの上の裸電球の紐を引き、戸板の鉤を外す。ほとんど同時に、いきなり向こうから手が差し入れられてきた。隙間から入ってきた顔が電球に照らされ陰影を深め、青白くて気味が悪い。彼女は慌てて電球を消し、斎藤に黙るよう合図し、肩を押してその場にしゃがませた。小さく身を寄せ合うと、近くに迫った相手の胸の動きからじかに鼓動が見てとれるようだ。
やがて違った足音が近づいてきた。激しく息をしている。前足に体重をかけ、全力で走っている。空気の揺れが身体の大きさを彷彿させる。暗闇の中で二人息を凝らし、じっと互いの顔を直視つづけた。しばらくして、少し先で相手は諦めたのか、引き返して来た。来たときと違い、地面を擦る音にも力がない。長靴のようなものを履いているらしく、キュッキュッと湿った音がする。やがて静寂が支配した。
「いったみたいだな」
斎藤も咄嗟な出来事に、まだ心臓から押し出された血液が激しく脈打っている。佐織は申し訳なさそうに立ち上がり、何かを言いたげではあるが、また口ごもった。
「谷境にいた男だろう」
何となくそんな気がし、男が今日、自分にも嫌味を言ったことを話した。
「ごめんなさい。あなたに迷惑かけちゃったわね」
斎藤は、左手を土間につけ、体の均衡が崩れないよう気をつけながら立ち上がった。
「実は……」
戸板の隙間から風が入り、冷えた土の上に流れる。
「あいつ、私の夫なの」
やはりそうだったか。今朝、初めて二人の交わす態度を見たときから、何か関係があると思っていた斎藤は、そこでようやく腑に落ちた。
「わたしは……」
居間に上がってもらってからの佐織は、決心したようにしゃべりだした。
「借金がほんとうの理由でここへきたんじゃないの」
さほど気にならなかった彼女の発音だが、間近で聞くと耳を掌で押さえ自分の発する声を自分で聞くような、こもりがちな声だ。
「……繁華街で居酒屋してたんだけど、経営がうまくいかなくて、自己破産は本当なんだけど、もめたのは女のことが原因で。何度か話し合って、別れたいって言っても向こうは離婚するなら子どもはぜったいわたさないって譲らないし、おまけに暴力まで出始めたから、しかたなく近くにあった今の空き家へ逃げてきたの」
佐織が徐々に普段の調子を取り戻したのとは反対に、斎藤の右の顳顬には凝りがにわかに膨張し神経に触れるような疼きが走る。右足の痺れが腰から肩、首、目、頭へと這い上がり、脊髄から突きあがっては、血流の滞りが筋肉の緊張とこわばりをもたらす最近出てきた症状だ。とくに神経を集中するとあらわれ、斎藤を悩ませた。
「あいつもわたしも結婚は二度目で。いっしょになつてからもすぐに女遊びがはじまって……ずっと我慢はしてたの。やっぱり子どもがいたし」
子どものことになるとどこか表情にも和みが入り、言葉の端々も軽くなる。一人息子で、昼は保育園に行き、男の手が回らないところは、近くに住む義姉夫婦が何かと世話をしているらしい。
「でも……、女遊びってけっきょくなおらないのよね。ある日、わたしが車で用たしに行っていたら、偶然あいつが女を助手席に乗せてホテルへ入っていくところを見たの。それですぐに後をつけて、わたしは妻だから話があるって管理人に掛け合って、強引に鍵を開けさせた。扉を開けたとたん、あいつ血相変えて出てきてわたしを罵ったわ。そして、殺してやるって叫んで、両手でわたしの首を……」
無意識か、喉もとをマフラーの上からさする指先が細かく震えている。間接が毛糸の窪みに触れ、節足動物のように動き、斎藤の目の中を徘徊する。
「そのとき、信じられないけど、おかしくなって。普通は悲しいと思うでしょう。でも、首をしめられながら、冗談みたいにおかしくって。笑いがとまらないの。唇がどうしても開いて、笑ってしまうの」
土間との敷居の襖は閉めているが、障子がところどころ破れ、めくれた紙がぺらぺらと揺れている。蛍光に引き寄せられた蛾の羽ばたきのようだ。
「それがまた刺激したんでしょうね。向こうもどんどん締めてきて。けっきょく女が止めに入ったわ……」深く溜息した。
「それからはとにかく離婚をすることに気持ちは固まって、相手に何度も持ち出したんだけど……」
力なげに肩を落とす。手を首から離し脇腹を抱くと、どうしようもないというようにゆっくり首を横に振った。
「わたしがけっきょく馬鹿だったのよ。子どものことがあって、なかなか行動に移せなかったから」
憎々しげに眉を顰め、最後は吐きすてるように言った。
斎藤に、別れて暮らす自分の子どもの顔が浮かんだ。
「今度、裁判することになったの。お互い出るとこ出て。もちろんちゃんと離婚して子どもは私が引きとるつもり」
「うまくいくといいな」
斎藤は、慎重に言葉を選んだ。
「そりゃあね。さっきだって、あいつがちょうどいなかった隙に、こっそり子どもに会いにいったら、見つかって、逆上して……」
彼女はまた、いつのまにか首に手をやる。
「今でもうなされるの。あいつの手が夢に出てきて……、でも、今度は裁判所がついてるから何とかなるわよ。職員の人がいろいろ心配してくれて、今の家も紹介してくれたし」
佐織は鈍痛でもするのか、小首をかしげ両目を顰めながら左耳を押さえた。
もしかして……。耳のことで斎藤にある疑問がわいたが口にしなかった。
色あせ薄染みのついた障子がまたカサコソ音を立てる。斎藤は、近々、プラグだけでなくガムテープも買って修理しようと思った。
五
達也の家は、紀代のところからさらに数百メートル細い林道を上らねばならなかった。杉の間に笹に絡まったアケビがざっくりと実を開け、黄色いオミナエシが顔を出している。石垣に沿ってしばらくいくと湧き水を筧で集めた貯水槽があり、その脇にも地蔵があった。それを目印に道を折れ、右手に広い前庭があり、平屋だが外から見ると堂々とした風格の家が見えてくる。柚子の香りがどこからかする。屋根は茅葺きでなくトタンにかえてあるが、外に張り出した大きな柱から築百年はなるだろう。昨夜、佐織が教えてくれたとおりだ。
達也は座敷に腰を下ろし、一人でお茶を飲んでいた。
「こんにちは」
斎藤が声をかけると、事情は充分知っているように、二度頷き斎藤を見た。
家を出る前、念のため、メールを打っておいた。
『タツヤサンヘ。コレカラ、ゴアイサツニ、ウカガイマス。サイトウ』
すると意外にも、身支度を整えている間に返事がきた。
『リョウカイ』
頭を下げ縁側に座らせてもらうと、斎藤はできるだけ簡潔に、自分が佐織と同じ立場で昨日から麻子の家に住んでいることや、市から振興策の補助金が出るが、受け取りに区長の印鑑が必要でもらいにきたことを説明した。
「あんた、佐織さんの友だちかね」達也はいきなり突っ込んだ質問をしてきた。
「友達といわれても、昨日会ったばかりで、まだ、そんなに話したこともありませんが……」
昨晩のことがバレているのかとドキリとしたが、しらを切った。
「それじゃあ、もう、話は聞いてるだろうが、そっちも野菜と米にかえますね。そうすればまあこちらとしてもね」
お茶をごくりと飲み、もうこれ以上は無駄だというふうに斎藤を見た。
「米と野菜はね、正藏という男から紀代んとこへ運んでもらうことになってるんだが……、それで料理は三食とも紀代がサービスでやってくれます。あんたも、紀代のにぎり飯は、もう食べただろう。まあ料理はあんな感じで」
達也はニッと笑い、
「それでいいかね」
再び、念を押した。サービスという単語を言い慣れぬせいか、発音を強め、もったいぶったようにしゃべった。
「あとはわしが責任をもって月ごとに引き落としておくから。あんたは、食事の心配はもういらないわけだ。ゆっくりしといてください」
お茶でかるくうがいをすると、中から下駄をつっ掛け土間の隅へ行き、大きくしわぶきし溜まったものをそのまま吐きすてた。
「あの、昨日、紀代さんから疱瘡のことを聞いたんですが」
土間から玄関をぬけ外へ出てきた達也に、斎藤は思いきって話しかけた。
「洞窟にも連れてってもらいました。さっき来る途中、地蔵も見ましたけど、やっぱりあれは疱瘡除けのためですか」
達也は、斎藤をジロリと見た。いきなりこんな質問をしてまずかったかと少々後悔する。
「町の方じゃ早くから種痘がされてたんだが、こんな山奥じゃまだまだ」
ところが相手は、目つきとは裏腹に、いかんともしがたいといった渋面をつくり、冷静に返してきた。
そこで斎藤もついでとばかり、
「墓も見ました、山伏の。まさか、あんなものがあるなんて、誰も教えてくれないし」
「行きなさったのかい?」達也の目がまた光った。
「たまたま道を間違えたんです」
「あれはわしらの親の代からすこしずつ、あちこちに散らばってたのを集めて弔ったんだ。わしもいくつか手伝ったよ」
「けっこう多かったんですね」斎藤の頭に石の切っ先が何本も浮かんだ。
「いやあ、死んだのはもっとだろう。墓のあるのはまだ良い方さ」
熱心に耳を傾ける斎藤に、今度は達也がまるで肝を試すように、
「で、病気になった山伏をどうするか、あんた知ってるか」尻上がりの語尾で聞き返した。
相手が答えに窮したので、ヒントを出すように右手で首を軽く横に払った。
「殺すんですか」
「土に埋めるんだよ。首だけだしてな」
斎藤も、思わずごくりと生唾をのんだ。
「山伏は、修行する身でな。病気も禁物なんだ。死が近づいた者は、首だけだして土に埋める掟があったそうでな」
「残酷な話ですね……」
斎藤は、達也の立つ右手の納屋の奥に置かれた箍の緩みかけた桶へ目をやった。人一人が充分入れる大きさだ。陰にあるためか、板の一枚一枚が水垢がついたようにくすんで見える。
「だから、供養してあげるつもりで、お墓を集めたんですか」
「いいや、ただ、立派な道路ができるんで、せめてわしらで大事にな」
庭は飾り気のない、大雑把なつくりだ。焼け石で縁取られた盛り土の小山にトラノオが数十本根を張り、可憐な時期を髣髴させるように花弁の中に無数の種をつけ、穂を垂らしている。他にあるのも、途中で見た野草だ。斎藤は、一つ一つの、素朴だが何とも言えぬ美しさに感心し、
「紀代さんが言ってましたが、疱瘡は山伏が持ってきたって。伝染しないように橋もこわされ、こっちから外へ一歩も出られなかったって」
「また、あのおしゃべりが……」
「え?」
「いいや、なんでもない」
達也は、相手の緊張を解くようにわざとらしく頬笑んだ。
「まあ、病が治まるまでのことさ。お上も外に出なくていいように、谷向こうのもんを使って米やら野菜やら、いろいろ必要なものを調達してくれたらしい。それがまあ、あんたがもらう補助金みたいなもんで……」
思い通りにことがすみホッとしてもいることもあり、できるだけ無難に返そうとしているのが言葉の調子でわかる。斎藤は、昨夜、佐織の夫の漏らしたことについても尋ねてみた。
「たしか、三軒村っていってましたけど」
「満雄だな」
達也は、一瞬視線を落とし、短い時間で判断をつきかねているように口元を引き締めた。
「あいつはフデの曾孫でな……」
あまり聞かない鳥の鳴き声だった。ツガイなのか、甲高い声を左右交互で響かせ、長い尾を揺らす。
「まあ、早い話がこの部落は、もといたのがうちと紀代、それに村長んとこの先祖の三軒でな。フデは、村長の叔母にあたる人で、そもそもはこっちに住んどったんだ。じいさんの話では、疱瘡が流行って達しが出るちょっと前、谷向こうに後妻で嫁いだそうだが……それまでは行き来は自由だったし……」
それからは口ごもったようになり、雑草が気になるのか、積まれた石の間から蛇行しながら根を張ろうとしてる蔓を引き抜いた。
六
「水を、くれ、水を、……」
その夜、斎藤は麻子の家に来て、初めて夢を見た。気がつくと数珠と錫杖が目の前に転がっている。手をやろうとするがとどかない。からだは窮屈で、首が締まったように息苦しい。吹き出す汗をどうすることもできず、斎藤は声をだす。
「どなた、か、水を、くだされー」
声が虚しく響く。羽虫が鼻先を飛びむず痒い。
影が近づいてきた。
「おお、そなた……、水を、おもちか。面目、ない」
影は後退り、また近づく。踵が地面を動く音だけが聞こえる。
「恐ろしい、者では、ござらん。この山で、行をつんで、おる者。わけ、あって……わけ、あって……」
説明する間もなく、相手は闇の中にこちらがぼんやり見え出したのか、にじりよってきた。
「ふふふ……」無抵抗な姿を見て、影は笑っているようだ。
「あなた……」親しげな声だ。
「一体、何をしてるつもりですか、そのざまで」
「な、なにを、申す。無礼な」
斎藤がムキになるとますます嘲笑うかのように、
「土ん中に埋められていることも、まだ気づかないの」
「な、にを、申す。な、にを、申す……」
斎藤は、その言葉を聞くと無意識に全身に力を入れた。抑えているものをすぐさま跳ね除けたい。喉の乾きのせいか力が入らず、声が途切れ、ひとかたまりとなって出てこない。
「拙者、こ、こう見えても……か、かつては……」思いあまって涙声になる。
「ふふふ……」影はまた笑った。
「あなた、ほんとうにどうしようもないひとね」
斎藤は相手をキッと睨んだ。闇はその眼光の一筋一筋を覆い、相手に届くはるか手前で消え果てさせてしまう。向こうはそれをよく知っているようだ。
「修行が聞いて呆れますよ。ひとり残されて、土の中に埋められてるっていうのに」
斎藤は思わずハッとなった。確かに肌に押し迫ってくる感触は衣ずれでなく土の冷気ともぬくみともとれ、粘りつくものが感じられる。
「こんなことになるくらいだったら、どうして山なんか入ったりしたんですか」
斎藤の気持ちも落ち込む。
「拙者、……」
弁解がましく取り繕おうとするが、相手に見透かされているようで迷う。
「故、あって……」
どうしても後がつづかない。もどかしい。土の中で指ひとつ動かすことのできぬ自分の身を初めて哀れに思った。嘘でもいい、力をふりしぼり自分がなぜ生業を捨て、家族を捨て、今ここにいるのか、身の証しを立てようと試みるができない。
遠く暗闇の向こうで梟が鳴き、風が森の木の葉をさやさやと揺らす。蒸し暑さと静けさの中、霊気のようなものが感じ取れ、目と鼻の先に水の滴が泥を撥ね飛んできた。竹筒のようなものから白く光をうけた水は、蝶の羽から舞う銀粉のように地面へ流れ落ちる。
水音は、やがて勢いを増し、じゃあじゃあと音を立てる。斎藤は嘆息ともつかぬ声を漏らし、口を開け、土中のからだを硬くした。目の前の土を濡らす音に、乾ききったからだがわなわなと震えだす。
音が消えると影もいなくなり、声の相手が誰だったかしばらく考え、けっきょくは何も伝えられなかったことに落胆はさらにつのる。ぐーっと沈み込みそうになったとき目は覚め、見回すと、そこは煤をかぶった麻子の家だった。
斎藤は右足を引きずりながら土間へ駆け下り、力まかせに蛇口をひねった。真っ白な水が出てきた。濃い闇を薄めるつもりで、一気に水を口にふくむ。唇から舌へ雫が伝い、体中をめぐる。布団に横になったとき、彼はふと耳鳴りを感じた。静かに、だが悠然とそれは鳴りつづけた。
七
涅槃岳は、間岳からこちらへお辞儀するように顔を出している。朝霧は濃く、山肌が斑に浮かび、戸口に立っていると自分が今、鈴野三岳のどこにいるのかさえわからなくなる。斎藤は町でプラグを三個買い、テレビ、冷蔵庫、炬燵に修理してむすびつけた。ガムテープで障子の補修もした。食事は達也と約束したように紀代の家でとるようになった。
『ハタケ、タノム。ショウゾウ』
ただ一つそんな生活で気が休めないことがあった。
正藏が斎藤に、畑仕事の加勢をパソコンで頼むようになったのは、達也の家で補助金と農作物との取り引きをしてすぐのことだ。三人の老人の中で一番若いと言っても今年で七十七になる正藏は、何かと理由をつけメールを送り、斎藤に道具や作物を運ばせたりした。
「いやあ、一番いいときに来てくれたよ。ちょうど百姓が忙しくなる時期で。とにかく手がたりないから、たのむよ」
メール送信は他人に見られている手前もあり、断ることもできない。斎藤がしぶしぶ行くと正藏は、ウオーミングアップのように畦に立ち大豆やら大根やらの穂を眺め、「おまえら、えらいな。なんもせんでそだってくれるな」とつぶやいている。畦から下り「よしよし」と頷き、刈り取っていく。初霜が下りたときなど「そろそろ引き際だな、わかっとるわかっとる」斎藤を振り向き、「明日は大根引きだよ。もう土も持ち上がっとるから」と叫ぶのだ。
四十九日が明後日に迫った野良仕事の帰り、「この小豆で、紀代にぼた餅つくるようたのんでくれ。かわいい子たちだから、よろしく」斎藤は収穫した袋から漆の剥げたお碗で何杯か掬いとり、夕食ついでに彼女の家へ持っていった。紀代は、小豆を掌でころがし「まあまあ、なかなか出来のいい子だね」感心したように目尻を寄せ、「うまいぼた餅こさえてやるから、心配しなくていいよ」自信ありげに言うのだ。
翌朝、朝食へ行くと紀代はちょど出勤前の佐織といっしょに、桶から上げた大根を洗っている最中だった。
「あなたも手伝ったら。今朝の朝ごはんのおかずだって。もう指が凍りそうよ」
情けない悲鳴を上げる佐織をよそに紀代は慣れた手つきで薄氷のはった桶に腕をつっこみ、そのまま塩と酒かすにまぶされた漬物をつかみだし、素早い動きでポンプの樋から流れる井戸水を当てザーッと洗っていく。
「まあ、このくらいでいいだろうね」
濡れた掌をパンパン前掛けではたき、
「斎藤さん、あんたも家にかじるのがないと口さみしいでしょう。朝めしがすんだら、わすれずにもってかえってくださいな」
そう言って新聞紙につつんで上がり口に置いてくれる。
「いよいよ明日だけど、掃除ぐらいはちゃんとやっときなさいね」
佐織がタオルで両手をふき、座敷に上がりしな注意するので「もう、充分やってるよ」心配は無用とばかりにわざと視線をはずし、横向きに右膝を軽く伸ばしたまま胡座をかく。既に始まっている裁判の方がどうなっているか気になるが、それは黙っていた。
「ほら、べったら漬だよ」
ぽいと出された皿の上に、さっき紀代と佐織がだした大根の生漬が綺麗に輪切りにされてある。
「ねえ、紀代さん、やっぱりあんなに冷たい水で洗わなきゃいけないのかな。ぬるま湯とかのほうが、汚れとかもきちんと落ちると思うんだけど」
「汚れなんか、最初から何もありませんよ」
まったく受けつけず、自信満々だ。しかたなく、佐織は箸で一枚つまんで一口噛み「おいしい、これ」大きな声を上げ喜んだ。
その日、斎藤と正藏は、ごぼう、にんじん、芋、といった根菜類を多くとった。
「明日、紀代が料理するぶんは、もっていってくれ」
正藏は、そう言って斎藤にひととおり材料をわたし、
「それじゃあ、斎藤さん、ここらに穴掘ってもらえないかな」
鍬を突き出してくる。
「穴?」
「年こすまで長くもたせるには、土の中に入れとくのが一番なんだよ。土はなあ、栄養も与えてくれれば、悪い虫もとってくれる」
斎藤はようやく、収穫した作物の貯蔵と合点がいき、作業にとりかかった。振り下ろす一瞬に力を入れると、鍬は心地いい感触で土に食い込む。そのまま掬い取り、手前に引くタイミングで盛った塊を放り出す。膝の深さまで掘り終えると、さっきの野菜を横にならべ、上から簀の子をかぶせ、掘り出した土をのせ、またならす。
その夜、斎藤は一人帰ってから居間や棚の拭き掃除をしながら、明日、ここで行う四十九日のことを考えていた。
麻子の遺影は笑っている。思えば、紀代といっしょに漬物を洗ったり、正藏と連れ立ち畑仕事をしたりと、いつのまにか、生活に馴染んでいる。斎藤は、仏壇の中の埃も雑巾を小さくすぼめ丁寧に拭きとった。
この家にきてまもなく三週間になる。自己破産するまで見も知らなった他人の家で、故人の四十九日を迎えることが、彼にはなおさら不思議に思えてくる。
八
次の日、空は青く澄みわたり、ただ一つ間岳だけがその先端にわずかに雲を真綿のようにつけていた。竈に火を入れるため、紀代と佐織が早めにやってきた。
「今日は、天狗さまの床入りだよ」
「何、床入りって」
「子宝に恵まれるって日さ。見てごらん、あれはねえ、男の人の……」
紀代は首をやや横にして、まじまじと一つだけ細長く突き出た山の峰を見上げた。佐織は呆れた顔になるが、斉藤は感心したように頷いた。
麻子の家は、木洩れ日ばかりではなく、草花や樹液から搾り出された精気とともに、小さな水滴にまで宿った光が満ち、周囲を穏やかにつつみこんでいた。
「さあさあ、麻子さんは、やっぱりこれじゃなきゃねえ」
話を誤魔化すように、紀代は勢いをつけ積んであった木切れをとり、ダンボールの切れ端をしいて火をつけた。白い煙が立ちのぼり、天井へとどくと嘗めるように棚引く。引き戸を開けているため、そこからも香ばしい匂いが立ち、そばで見ていた斎藤は、麻子の家が少しずつ生き返ってくるように思える.
「へええ、鍋とかもちゃんと洗ってるじゃない」
監督者のように佐織が評価し、
「昨夜、もう一度拭き掃除もやっておいたよ」
斎藤も紀代に訊こえるように、自信ありげに答えた。料理は、紀代が下拵えしていただけあって、順序よく無駄のない早さでできあがった。どれも斎藤が正藏ととってきた作物をつかったメニューだ。正藏が注文したぼた餅はもちろんのこと、大根の酢づけ、芋と椎茸の煮物、のっぺ汁、栗ごはん、最後は茶碗蒸しといったものである。
「でも、こうやって準備して、だれが来るんですか」
整いがすすむほど、斎藤は心細くなる。
「心配ないよ。いつもの顔ぶれが集まれば麻子さん、喜ぶから」
紀代は、ふり向きざま素っ気なく答えた。
「それに……」彼女はわずかに間を置き、
「あんたたち、二人もいるからね」
心の底からこみあげてくる嬉しそうな顔をした。十時を過ぎ、だれが手配したのか住職がやってきた。
黒染めの衣の上に金糸銀糸で織り込んだ派手な紋様のついた袈裟を着て、しかも頭巾をかぶっている。下にはきちんと袴をはき、なかなかに立派な法衣である。後ろには、区長の達也が右手に何やら包みを持ち、殊勝げについてきている。
斎藤は手筈のぬかりなさに感心し、一番手の空いている立場上、お辞儀をし二人を迎え入れた。住職も威厳をもって礼をし、座敷へ大股で上がってきた。遺影と仏壇、ひと鉢の鉦が居間の中央に据えてある。斎藤が住職へお茶をもっていきもてなす。頭巾を深々とかぶり顔が見えない。斎藤も緊張し、対峙するときはいつも自ずと頭を下げるので目と目が合わせられない。
重々しくお茶を飲む姿を少し離れたところから見ているだけで、かなりの修行を遂げた人物に思われる。
「そろそろ始めていただきましょうか」
水仕事が終わった紀代が達也に声をかけた。斎藤は、正藏がまだきていないことが気がかりだったため、呼びにいってみることを打診するが、「いいですよ」の一言に、仕方なく従った。
達也が頷き住職に歩み寄り、耳もとで何かささやいている。佐織と紀代、そして斎藤も座敷の奥へ上がり、やがて住職が居間へとうつり、頭巾をとった。その後姿がだれかと似ている。麻子の遺影に深々と礼をすると数珠をもち、しぼりこむような息をひとつ吐いたかと思いきや、おもむろに鉦を叩き、経を始めた。
喉の奥から力んで出される唸り声も斎藤には、いつも耳にする聞き覚えのあるものだ。首から耳、頭部まで日頃見てきた記憶と重なっていく。
正藏だ。思わず声を立てそうになっとき、紀代が肩をたたいた。唇に指を当て、しーっと合図を送る。斎藤は、またもやひと泡食わせられたことにようやく気づいた。
正藏の嗄れ声で読経がすむと、早速、五人で車座になり会食となった。
「いやあ、正藏さんにお経を上げてもらうと、ありがたさも倍増だね」
紀代が、茶碗に食事をよそいながら褒めるが、とってつけた調子のため、口だけのお世辞であることがだれの耳にもわかる。それでも正藏は嬉しいらしく、頬をゆるめ唇から黄色い歯を見せ、したり顔をつくる。畑に出ているときとはうってかわり幼く感じられ、メンバーでは一番の年下以外の何者でもないことがわかる。
話を聞いているうち、この地区では村長が、住職にかわり、仏事の際は読経を上げていたらしく、今では経を読めるのはその分家の正藏だけになってしまったことがわかった。
「けれど、畑仕事のようにはうまくいかねえな」
頭をかきかき照れるので、
「あら、あんた最近じゃあ、野良も斎藤さんに手伝ってもらってばかりなんじゃないの」
紀代が全部知っているといったようにちくりと刺すので、
「こりゃあ、まいったなあ」
またしても目を細め、首をふった。ところがそんなときも、達也はどこかしら元気がない。
「区長さん、どうかしたの」
佐織が心配そうに訊ね、しばらく黙り思案したあげく、
「実は正藏に、これにも経をあげてほしいと思ってもってきたんだが」
達也は一度、四人の顔をしげしげと見た後、うやうやしい手つきで抱えてきた包みを部屋の隅からもってきた。最初、住職に扮した正藏の後ろに従い右手に持っていたものだ。座の中央に進みでて、畳の上をすべるよう移動し、丁寧に風呂敷をとく。視線が一斉に布の中へ注がれるのが、息を殺した気配から伝わってくる。
布をめくると古びた木箱があり、達也の節くれた指先で真四角な蓋がはずされた。三十センチ四方で、数センチの部厚い杉材で拵えられた枠の中に、白の和紙がかぶせてある。
「これだよ」
紙がはぎとられると、十本近いプラグがあらわれた。
「麻子さんが、ちょうど死ぬニ年前、これを俺の家へもってきたんだ。竜を退治したから、達さん、逃げないようにしまっておいてくれって縁側に置いていくもんだから、俺もたまげちまって」
同意を求めるように、皆の顔をつぎつぎと見た。
「俺はなんだか嫌な予感がして、すぐに後を追うようにこの家へやってきたさ。そしたら、さっさと床下から竈やらを引っ張りだして、鍋を置いて火を燃やそうとしているじゃないか。その足取りの軽さといったら……ふうーふうー、薪に息を吹きかけて、ときどき顔を上げては言うんだ。達さん、うまい味噌汁つくってやるから、待ってなって、妙に明るいんだ。その顔が今でも忘れられない」
達也の額の髪の生え際に汗が数滴、浮かびあがっている。
「斎藤さん、あなたこのこと知ってたの?」
佐織が訊くので、彼が深く頷くとこのときばかりは、麻子の家のことは隅々まで知っていると思い込んでいた自分の迂闊さを恥じ、視線を伏せた。
「麻子さん、ご主人戦争で死んでからも、一人で生きてきて……、電気製品なんかも器用に使っていたのに……。なんでまた、突然こんなまねをしたんでしょうか」
紀代がぽつねんと肩を落とし、納得いかぬ表情で悲嘆にくれる。
「魔がさしたんだろう」
正藏がぽつりとつぶやくと、
「魔がさしただけでこんなことするかね」
すかさず強い語気で正藏を睨みつけた。達也は場が寒々としだしたことにすまなさが先立ち、情けない様子だ。ところが正藏はめげることなく立ち上がると、重々しい動作でプラグの入った小箱を額縁の横にならべ一礼し、遺影の前で法衣の襟や裾を整え正座した。鉦の合図とともに背筋を伸ばし、念仏を始めたのだ。斎藤もつられて目をつぶると、瞳の裏に竈の火がかすかに残り火をたたえ、ちりちり燃えている情景が浮かぶ。釜は赫い炎を焚物から受け取り、黒光りする表面に滑らかにすべらせている。彼は目を開けた。読経に応えるように、遺影に外光が斜めに当たり、麻子が照らし出されていた。
九
法要の片づけをしている間、斎藤はそこにいる三人の老人たちの顔色をうかがっていた。プラグを切断するという、常識では考えられぬ麻子の行為に、あれぐらいでおさまりをつけたことに不可解さが残った。
麻子は仲間の中では一番の年上で、八十六才でこの世を去った。次が地区長の八十二、そして紀代の八十とつづき、正藏となる。大役が終わりホッとしたのか酒が入り足のもつれる正蔵を、今度は達也が支えるように帰っていった。
斎藤は紀代に聞いてみた。
「麻子さんのこと……さあね……」
紀代はやはり、とぼけたふりをした。斎藤はじっとそんな相手を見つめる。
「やっぱり気になるの?」
佐織も心配げに声を細めた。
「気になるっていうか、かってにコードをつないでしまったこともあって……」
バツの悪い顔をした。ただの興味本位でない、どこか苦悶する斎藤の姿に、わずかばかり紀代も変化を見せてきた。
後片付けもほぼ終わり、洗いものを終えた紀代は、土間から座敷へ上がってきた。
「たしか、このへんでしたよ」
決心した声で手を上げ、ダンボールの差し込まれた壁を示した。斎藤と佐織も、目を向けた。
「このあたりで、一度小火騒動が起こったんです。もうかれこれ十年近くなるかねえ」
「…………」
「もし、一つだけ思い当たる節があるとしたら、それぐらいしかないね」
正座した体がさらに丸く縮まったようだ。
「あのとき、まちがいなく麻子さんは、魚焼き器のスイッチを切りわすれていたんですよ。でも、何度言っても、やってないって言い張って……。それでめずらしく揉めたんです。たぶん、ほんとうにスイッチを切ったって思いこんでいたんだろうけど。でも、ことがことだから、皆も引くに引けませんでしたよ。命にかかわることだし。……たまたま人が通りかかったから助かったんです……」
「どんな火事だったの」
佐織が穏やかに聞いた。
「けっきょく、電気製品の使い方ですよ。コンセントを入れたり抜いたりして、麻子さん、スイッチのかわりにしてたから。それが魚焼き器でね。でも自分でもそのときは、わからなかったんじゃないんでしょうか。抜いたつもりが別のやつだったかもしれないし。……麻子さん、ほんとうに泣きそうな顔してたものね。煙がいっぱいになって」
紀代は、横目で板代わりのダンボールを見た。
「あれからですよ。麻子さん、ムキになって電気製品、また買い出したのは」
それから一転し、正面を淡々と見すえ、
「あのころは、麻子さん、何やってんだろうって、ちょっとへんに思ったこともありましたよ。でもだんだん年がたつにつれて、最近わかるような気がしてきたんです。わたしもいろいろつかってるけどね、なんかもう、線がたくさんあって、たまに嫌になってくるんです……」
斎藤は、紀代の皺の寄った頬の奥の瞳をじっと見つめた。
「いっそコード全部引きぬいたら、楽だろうと思いますよ……でも、もしやったら不便だし……やっぱり頼っちゃうしね」
思慮深げに語尾を下げる。
その夜、斎藤は布団の中から耳をそばだててみた。冷蔵庫の電圧の上下する音が家全体に響き、板ばりの壁や畳をとおして微かな振動が繰り返されてくる。
何度か寝返りをうった。耳鳴りがし、身をくねらせ、布団をかぶった。麻子がどこからか見ている。堪えきれず布団から立ち上がり、深く息をし周囲を見た。辺り一面ぼんやりしている。麻子の遺影がある。斎藤は、隅へ歩いた。心臓が高鳴った。しゃがみこみ自分でつないだ三本のコードをつかむと、荒っぽく引き抜いた。彼は途方にくれ、ただじっと夜が明けるのを待った。
電子音がした。送信のメールだ。
『タスケテ。サオリ』
太字の黒い文字を読むが早いか、土間に下りた斎藤は、塗装の剥げきったバットをつかんでいた。
十
電柱の常夜灯頼りでも、次の灯りまでの間隔が空き、視界はすぐまた闇に閉ざされる。目が慣れるまで道に張り出した根株にニ度足をとられ転んだ。潅木の枝にもろに顔を押し付け、頬を擦りむきひりひりする。起き上がり、また歩きだすと不思議とその痛みは遠のいていく。ときどきバットを杖代わりに遮蔽物の有無を確かめ、右足を庇い、三度目を倒れないようにバランスを保った。ちらりと何かが動く。斎藤の腰くらいのクヌギの切株に生き物の気配がする。灰色の羽に覆われ、体の上ですくめた首をくるりと回転させ、こちらを見ている。梟だ。目と目が合った瞬間、夜気を切り裂く音とともに翼を広げ飛び立った。横幅は胴体の何倍もありそうだ。恐怖はない。むしろこれから遭遇するであろう佐織の家でのことが頭を過ぎり、動揺が走る。斎藤は汗ばんだ右手でバットのくびれを強く握りしめた。
村長の家が見えてきた。玄関口から灯りが漏れ、地面をわずかに照らしている。佐織の声がする。言い争っているようだ。制止するような甲高い声がそのまま悲鳴へと変わる。敷石の隙間に生えた雑草を踏みしだく音がまるですぐ耳もとでするようだ。心の底で恐怖と葛藤しながら、一歩づつ前へすすんだ。開いた引き戸から、中の様子が見えた。板壁を背に立ち尽くす佐織の横に、電球に照らされた三つの影があった。
頭襟をつけ、絹装束に梵天袈裟、右手に錫杖、左手には法螺貝をもっている。
山伏……。
唸り声がする。
数人の足元に、頭を押さえた男が倒れ、苦しそうに身をよじりうめいている。
何があったのか。あまりに予想外な情景に斎藤は目を瞠り、再び周囲を見回した。これまで見たどの家より明らかに広さが違う。土間には今も充分使えそうなセメントで塗り替えた竈が並び、板張りの座敷の中央に囲炉裏が切られ、奥に格子のはまった鴨居がある。仏間のようだ。黒光りした柱が数本、白壁におさまり、梁が古代の舟を思わせるように横たわっている。
おそらく夏、居間の戸もすべて空け放てば風通しがよくなる部屋で、今、寒さを凌ぐため密封され、日中の澱みも抜けきらない中で、達也に紀代、それに正蔵が立っている。大きく肩で息し、苦しむ男を見下ろしている。
寝間着のまま来たらしく、それぞれにはだけた服の上からどてらや作業用のジャンパー、雨合羽を着ている。手には松葉箒や杵、スコップを握っていた。
「だいじょうぶかね」
「手加減はしといたよ」
正蔵が、確信を込めて言う。フードの中から頑丈そうな頬骨と下顎が見える。
外で、もの凄い勢いで砂利や草木を蹴散らす音がする。光が広角に周囲を照らし、エンジン音とともに車体が近づいてくる。軽の四駆で、眩しいライトが窓越しに部屋までのび、サーチライトのように照らす。タイヤを軋ませ、地面に食い込むように停止させる。瞬間、佐織は急いで正蔵から杵を奪い取った。それを見て、斉藤も慌てて汗でしめったバットを払い落すように、床下に放り投げた。
ドアをけたたましく閉め、乱れた足音とともに制服制帽の男二人が扉口から首を突き出す。つづいて別のライトも近づいてきた。サイレン灯が光っている。警察だ。駐在所の若い警察官が一人乗っている。
「すみませんねえ」
到着するやいなや、佐織が何か言おうとする前に達也が孫のような警官の前に進み出た。
「夫婦げんかですよ。夫婦げんか」
紀代は松葉箒で部屋を掃いている。達也は佐織から杵をさりげなくとりスコップといっしょに両手で持って、
「梁にかけてたのが落ちてきて、ちょうど頭にねえ」
「ほんとうですか」
警官は疑り深い目で、紀代や正蔵、それから倒れている満雄にも聞く。
「そうだよな」
満雄を助け起こしながら、正蔵が念を押す。やんわりとした声とはちがい、目の奥には凄みがある。満雄も正蔵とは近い親戚であることを充分知っているようで、事実がばれればまずいこともあってか、しぶしぶ首を縦に振った。
警官は警備会社の男たちと何やら話し、書類上のことを確認後、
「それでは、後はお任せしてもよろしいですか」
「ええ、ええ、私らがよーく言い聞かせておきます」
「まっ、けんかもほどほどに」
佐織と満雄を交互に見て苦笑いし、敬礼して帰っていった。警備会社の二人は、パソコンをセットしなおし、緊急警報が正常に届くか、携帯で本部と連絡しながらチェックしている。
「おれはぜったい認めないからな。裁判からは下りる。どんな結果になっても子どもはぜったいにわたさない」
警備員がいるのも構わず、後頭部を押さえ立ち上がった満雄は、我慢しきれないというように佐織の方へにじりより、怒声を上げた。髭面に黄濁色の瞳が鈍い光をやどす。
「始めたからにはそうはいかないわよ。裁判で決着がついたら、あなたのかってにはできないわ」佐織は動じない。
「満雄さん、そんなに大きな声だしたら、草葉の陰でお母さんも悲しむよ」
紀代のその一言に、満雄は余計な口は挟むなというように睨みをきかせ、すぐまた佐織の方を向きなおる。
「鶴さんが死んでもうどれくらいかねえ」
そんなことにはまったくめげない紀代は、まるで子どもでもあやす口ぶりだ。
「達さん、あんた鶴さんとは同級生でずいぶんと仲良しだったよね」
達也は黙っている。
「あのー、我々はそろそろ……」
「ごくろうさま」
場違いなところに来たことに気づいたのか、おずおずと引き下がる警備員に正蔵が丁寧にお辞儀した。身のこなしは数時間前の住職になっている。車が去ったのを見届け、紀代はつづけた。
「麻子さんちの小火、もし鶴さんが見つけなかったらどうなっていたか」
満雄と佐織が同時に振り向いた。
「二人ともここが鶴さんのもともとの実家だってことは知ってるだろ」
動きのない満雄と違い、佐織は思わず首を横に振る。
「あんたの母さん、この家が空家になってから、正蔵はあてにならないって、ときどき空気を入れ替えたり、掃除しにきてたんだよ。そうだろ正蔵」
正蔵はさっきの意気込みが嘘のように、薄くなった白髪をキマリわるそうに撫でる。佐織は、生前二度しか会っていない義母の顔を思い浮かべた。一度は籍を入れたことを報告にきたとき。二度目は、居酒屋を開店させたとき。その後は満雄との仲も芳しくなく疎遠になり、葬儀にすらいっていない。
「人の命はわからないねえ。鶴さんの方が麻子さんより先に逝ってしまうんだから。達さん、いい機会だし、満雄さんにも話してあげたほうがいいじゃないのかね」
達也は、佐織の使っている丸い木椅子にくたびれたように座り込むと観念したように口を開いた。
「満雄、これから話すのは、お前の曾婆さんのフデさんのことだ」
フデは、この家の六番目の末娘として生まれた。村長はフデの一番上の長兄の息子に当たり、正蔵は、村長より十五年下の弟の子だ。
「村長が、いつも言っとってなあ。フデ叔母を悪う思わんでくれ。あれは仕方なくやったんだと」
村長は維新の年に生まれ、この家の家督を受け継ぐと、満雄の生まれる前の年に九十で死んだらしい。その後、息子夫婦から孫の代へとかわり、街で会社を興し成功したこともあり、移り住んでしまった。空き家になってかれこれ二十年近くになる。
「昔、疱瘡が流行ったことくらい、お前も知ってるだろう」
達也は、相手の反応を一々気にしていない様子だ。
「行き来禁止の達しがこっちにでても、守らん者がおってな。元気のいいもんは、お上に抗議しようと徒党を組み、橋を渡ってくるところを官憲に取り締まられたこともあったと聞いとる」
達也は椅子から一度軽く尻を上げ、位置を確かめると、折り曲げた膝に無造作に両手を置く。
「そんなこともあって、いよいよ橋を壊す命が谷向こうに下ったんだが、やはりだーれもしようとせん」
痰がからんだのか咳払いした。佐織が差し出したティッシュにぺっと吐き出し、二つに折りたたんで鼻もかんだ。
「区制もまたかわってな、郡役所からわざわざ役人がきて、こっちから移り住んだ者だけ集めて相談をもちかけたんだ」
達也は半身をひねり、そこにいる者の顔を見つめた。
「もともと、こっちでは食えなくて出て行ったやつが多かったから、充分な土地や畑のない者がほとんどで、橋をこわせば郡からそれを保証すると約束したらしい。それから当分の米や野菜もこちらにいる仲間にはとどけるって」
「たぶん、それ以上の土地や食料がもらえる算段にはなってたんだろう。谷向こうだって、そんなに楽じゃねえしな」
正蔵が低い声で言う。正蔵もこの話は、当然知っているらしい。
「返事の期限は丸一日。もちろん約束の時が過ぎれば、すべての条件は帳消しで、他のやつらにやらせることになってたんだ」
達也はさっきより小さい咳を一つした。
「でもなあ、やっぱり、いざ橋をこわす段になるとできなくて……じりじりと時間だけが過ぎていって……そんとき、四十近くになって後妻にいったばかりのフデさんが女だてらに自分からやるって言いだしたんだよ……」
「なにか理由でもあったんでしょうか」
間髪を入れず、斎藤が小声で聞く。
「そりゃあ、ハッキリとはわからんさ。ただ、フデさんは……」
仕方ないというように、達也は満雄に再び目をやった。
「若いころ、山伏と駆け落ちしようとしたことがあるんだ。村が旱魃に遭った年だと聞いているが」
満雄のからだが微かにぶれた。
「修行している男に惚れちまったわけだ」
正蔵はそう言うと、感慨深げに目を閉じた。
「けっきょく、待ち合わせた場所へ行こうとしたとき、他の山伏につかまって土埋めにされ、それでもフデさんの名は言わなかったそうだが」
膝のちょうど皿の上辺りで掌をずらし、達也は言葉を探る。
「こっちのもんは相手がフデさんであることはそれとなく知ってたさ。だが、ことこうなっては、山伏との悶着を恐れ、黙りとおさせたらしい。なんでも、修業の禁止令が出される前で、やたら気が立ってたって話だ」
佐織は床にしゃがみ、両腕で膝を抱え丸くなった。立ったまま、何も言わず聞いている満雄が気になる。
「男に会いにいきたいフデさんはこの家で後ろ手に縄で縛られ、村のもんが交代で見張ってたそうだ。まだ五つだった村長は、なついてたんでいつも離れなくって、まあ、たぶん、フデさんの気を紛らわす役をさせられてたんだろうな。ちょうどその辺りじゃないのかね」
こなっぽい乾いた手でおもむろに佐織のすぐ後ろの広間の隅を指差し、彼女も目を向けた。
ほつれ毛を汗でべっとり頬にはりつけ、首筋から単衣の襟元へ湧きだしてくる雫を落とし、憔悴しきったフデがうつろな目で俯いている。激しい蝉時雨の林とは対照に、長く張り出した軒先に影が伸び、やがて竹やぶでヒグラシが鳴きだすと、そこには胸苦しい静寂が立ちこみだす。
佐織は知らず知らず、凝視した。
「フデさんは実子の孫の鶴にだけは、よくつらかった思いを話してくれてたようでな」
寄合いの場でフデが立ち上がった後、一人、二人とつづき、けっきょく三軒村出身の者全員でそれぞれの家から道具をもちより、橋は崩された。谷は深さのわりに幅が短かったため、構造は単純な桁橋だ。杉を何本か横たえ、その上に丁寧に厚い板で補強され、橋梁は保たれている。欄干の四隅に支柱が立つ素朴なその橋を、鎚で、鋸で、最後に縄を架け、谷底へ落とした。その音は山を駆け上がり、林を抜け、沢を伝い、谷を挟んだ家々に地鳴りのように轟いた。
「鶴が言ってたよ。フデばあさん、もう八十を過ぎてたけど、昔のことを話すときいつも悲しい顔をしとったって。自分でも、なぜあんなまねをしたのか今でもわからない、ただ苦しくてしょうがなかったって。疱瘡は山伏がもってきた噂もあったしな。これ以上、村と山伏が三つ巴で憎み合うのが耐えられなかったのかもしれないな。自分だけで罰を背負おうとしたのかも……幼馴染みのよしみか、俺にはそのことを話してくれたさ。死ぬ半年前だった」
「けっきょく、村の者は欲に負けたんじゃないのかね。それに駆け落ちのときだって山伏に差し出した方がよかったと思うんだけどねえ。いっそのこと、二人で土に埋められた方が……フデさんもさぞきつかったろうに」
紀代が腰をかがめた姿勢で、しきりに手を動かしささやく。骨ぼったい指先で騒ぎで割れた茶器を片づけている。陶器の破片の重なる音が小さな木霊のように囲炉裏端に響く。
「馬鹿言え。それとこれとは話は別だよ。あの当時は、村も谷を挟んで合併されたばかりで、保長をどっちから出せるかで大事なときだったんだ。何せ、それまでの村長なんかよりずっと偉いまとめ役だったしな。あの事件が丸く治まったおかげで、こっちの組頭からなれたって今でも言われてるくらいだ。それに村が復活してからも、村長は大方こっちから出せたじゃないか。もちろん、紀代の握り飯のおかげもあるが」
荒げた声に気づいたのか、最後は機嫌をとるように見え透いたお世辞をつけたし、しわぶいた。
「とにかく、疱瘡を食い止めたのは村の手柄なんだ。制度もかわってありがたく、皆、無事に籍にも入れてもらえたし。めでたしめでたしだ」
紀代は話が政ごとめくと、急に熱っぽくなり、我をとおそうとする達也にうんざりし、大小の破片を固めて木机のパソコンの隣に置くと手をはたいた。
「佐織さん、子どもさんはいくつになったね」
「五つです」
「皮肉なもんだね、あのときの村長と同じっていうのは……」
満雄は相変わらず口を閉ざしたままだ。佐織が顔を向けると、何かを決しかねているように唇を歪ませ、目尻に力を込めていた。
十一
数日たって、斎藤は正藏と畑に来ていた。
「満雄は、また裁判所にちゃんと来るようになったらしいが、もし佐織さんが裁判に勝って、ここからいなくなったら、紀代が寂しがるだろうな」
「………」
斎藤は曖昧な答もしたくなく、そっと鈴野山岳に目をやった。雨滴で膨らんだ灰色の雲がかかり、嶺はどこも影を帯びている。涅槃岳がこんもり顔を出し、雲はそのまま垂れ込めながらこちらまで伸び、陽が昇るとともに風向きが東寄りにかわってきているのがわかる。雨が近いのかもしれない。
「でもこいつらは、えらいな。俺が何もしなくても育ってくれる」
正藏は斎藤のかたくなな心情を察したのか急に話題でもかえるように、作物の方へ目を向けた。
「正藏さんがよく世話するからでしょう」
斎藤も少し離れたところに土の状態でも確かめるように腰を下ろし、手伝いだしたころからの働きぶりを素直に誉めると、
「いいや、俺は何もしてないよ。こいつら穀類は、とくにあぜ豆っていうぐらいつよいんだ」
冬になってから、鍬入れをほとんどせず硬くなった土を見すえ、謙虚な物言いをした。
鞘の穂が産毛の生えた膜の隙間から言葉を発し、声が耳もとに聞こえるふうだ。早朝からどうして自分を呼んだのか、斎藤自身わからない。正藏の日に焼けた浅黒い肌は数本の皺を目尻に寄せ、朝露をうけた草の中で静かに瞳を輝かせている。
「そろそろ穫り入れどきだな」正藏の言葉が後をつぎ、息が白く溶ける。
「あんたは、どうするね」
深刻がらず、じんわりと渋みのある声だ。
「………」
「やっぱり、補助金が切れたら出ていくかい」
相手はこれを知りたかったのかと視線を落とし、斎藤は足もとの草をひとつかみし毟った。
「正蔵さん、一つ聞きたいことがあるんですけど」
「わしにわかることだったら、答えてやるが……」
「区長さんが言ったフデさんが好きになった山伏のことですが、最後、どうなったんですか……まさか……ほんとうに」
遠くで何かが吠えている。野良犬でもない。
「あの事件のことは、あれ以上はよう知らんよ」
そのうち「おーい」と掠れた声になり、鼓膜を揺らす。少し時間を置きさらに相手はこちらに近づいたらしく、「おーい」と、前よりも鮮明な響きで叫んだかと思うと、谺をきれぎれに空に舞い上がらせる。
「紀代のやつだな」
正藏の平然とした様子と、思ってもいない人物の登場に斎藤は怪訝な顔をした。
「ただ麻子さんが、こんなこと話しとったなあ。昔からこの村は、土から顔を出した山伏を見かけると、昼間だーれも近づかんでも誰かが必ず夜中、こっそり水をやってたって……」
人影が次第に大きくなった。割烹着に身をつつみ、飄々とした足取りだ。手にブリキのバケツを持っている。
「斎藤さん、悪いけど鍵かかってなかったんで、勝手にとらせてもらいましたよ」
紀代は、バケツをさげたまま例の運動靴で畦から畑へ下り立つと、穫り入れが終わった畑地へ歩いた。真ん中あたりに位置を定め深呼吸でもするように一度背筋を伸ばし、おもむろにバケツを両手に持ちかえる。腕を引上げ、バケツの口を横にし、間でもはかるように一息に脇をしめ、精一杯腰をまわした。反動で、中から見事な扇形で粉が撒かれた。
一目見ただけでは何かはわからない。紙切れを細かくちぎったもののようにも見える。だが地面に落ちた粉の按配で、灰であることがわかった。
「麻子さん元気なとき、よくこうやって竈から掬ってきては撒いていたんですよ」
灰は、微かに吹いてくる風に煽られ、黒々とした土の上に木目のような縦縞の模様をつくる。
二度、三度、小振りにして、できるだけ広範囲にそれを撒いた。四十九日の炊きものから出た灰は、どこかまだあたたかいようだ。
「今日は麻子さんが生きてたら、八十七才の誕生日でね。ここにあるやつでうまいごちそうつくるから、斎藤さんも食べてってくださいな。それに……」
紀代は、撒き終わったバケツを畦に置くと、
「斎藤さんがもし、出ていっても、何にも心配いりません。これまでだってわたしらでやってきたんだし」
何の気負いもなく、まるで正藏と申し合わせたように腰を折り、大豆の鞘をとり始めた。皺の寄った指先が、これまで培われてきた無駄のない動きを見せる。長年使いこなされてきたからだに屈強さこそないが、凛とした佇まいが漂う。
斎藤も彼女の動きに引き寄せられるように、畑に足をつけた。
麻子の顔が、撒かれた灰といっしょに彼の脳裏に浮かび、自分に向かって何やらつぶやいている気がし、思わず正藏と紀代を見つめる。
二人がそのとき、麻子と同じくこの世に実在せず、幻のように感じられる。
声がする。かなり遠くまで響く張りのある声だ。なあまく、さあまく、かあまんだ……、なあまく、さあまく、かあまんだ……法螺貝が鳴り、数珠がじゃらじゃらと揺れる。
丘の向こう、涅槃岳の嶺へ向かう小道に数人の山伏たちが列をつくり、ぐるぐるとまわっている。鈴懸に袈裟をまとい、手に錫杖を持ち旗を押し立てながら、これから山ふところへゆっくりと歩きすすもうとしているらしい。
斎藤は山伏たちの一番後ろを見た。袈裟もはだけ、土ぼこりで薄汚れた男が、足を引きずりながら今にも倒れそうについていっている。斎藤は喉の乾きを強烈に覚えた。一瞬目をつぶり、再び開けると、視界から山伏たちの一行は消えていた。紀代と正藏が、肘の先で円を描き、腕を動かし、緑の汁で染まった指の腹で仕事をつづけている。時をみはからったかのように、彼もからだを一気にかがめ、腕をのばし風に揺れる穂先に向かうと、冷たいものが頬に落ちた。
「雨ですね」
「いいや、雪さ。すぐに変わる」
手を休め目で指す正蔵の先には、確かに三岳の頂が、まるで山伏が修験に入った印というように薄く白い化粧を始めている。
冷気をふくみだした風にのり小さな雫が追い立てるように紀代と正藏、そして斎藤をつつみこむ。
作業をしながら斎藤は、達也のことを気にやっている。
麻子がどこかにいるように、彼には思えた。
2020年4月29日 発行 初版
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1961年熊本県荒尾市生まれ。北九州大学文学部国文科卒業後、学習塾講師、大検(高卒認定)専門予備校職員などを経て、熊本県小学校教諭に採用。二校目の赴任地(阿蘇市立宮地小学校)で、卒業生である発達障害の青年との出会いをきっかけに33歳で退職し、当時阿蘇郡市では初めての民間での小規模作業所「夢屋」を立ち上げました。その後、自立支援法施行に伴い、「NPO夢屋プラネットワークス(http://www.asoyumeya.org/)」を設立し、地域活動支援センター(Ⅲ型)代表兼支援員として阿蘇市から委託を受けながら現在に至っています。 運営の傍ら、小説、ノンフィクション、児童文学、書評などを発表してきました。部落解放文学賞に5回入選、九州芸術祭文学賞熊本県地区優秀賞2回、熊本県民文芸賞、家の光童話賞優秀賞などを受賞させていただいています。