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マネキン
一
厳しい残暑は、情け容赦なく肌をべたつかせ、汗をしたたらせてきた。それでも、毒虫に瞼を刺されたことにくらべれば、今さらどうってことはない。突然、この廃屋へ連れてこられ数時間しかたっていない昨夜遅く、その事件は起きた。
まるで焼き鏝を瞳に突っこまれたような激痛だった。
何の了解もなく、こんな家に閉じ込められ、じめじめとしたベッドの上でようやく浅い眠りについた俺の左目にいきなり灼熱の真っ赤な火柱を立て、焼けた鉾先が闇を切り裂き突き刺さってきたのだ。涙が吹きこぼれ、枕元にごそごそした擦る音と気配を感じた俺は、必死でシーツをめくった。褐色の鎧に斑な濃淡の模様を合わせ持った触覚を振りまわす、これまで見たこともない節足虫がシーツの上でとぐろを巻くように蠢いていた。
俺は痛みに耐えながらベッドを下り、思いつくかぎりの罵詈雑言を喚き散らしながら、近くにあった古雑誌をつかみとると、何度も叩きつぶした。それでも勘弁できず、雑誌から引き裂いた紙でつかむと憎しみを込め捻りつぶし、テーブルの上にあったマッチで火をつけた。橙の炎がすぐに体液と混ざり紫色へと変色し、鼻をつく脂っこい匂いが辺りに立ち込め出した。ふと我に返った俺は、シーツを鷲づかみにして流しの水で濡らし、左目の患部を押さえ恨めしげに見た。虫の炎は既に消え、くすぶりだした燃え滓だけがそこにあった。
俺は、自分をこの廃屋へ追いやったあいつ、幸平、そして、可南子の顔を思い浮かべ、一生、痛みを忘れまいと、昨夜、心に決めたばかりだ。
今日は、九月六日で、いよいよ明日は俺を含めあいつらと三人で、一年がかりですすめてきた店のオープン日になっている。昨日はその準備に追われ、二人ともずいぶんはりきっていた。
それにしても、オープン前にやった仕事がきつかったのは明らかだ。宅配便のお中元の仕事だ。日頃、業者が行かない家々を任されたが、地図と細かな道を確かめ確かめ、一軒一軒歩いて小荷物を届けねばならなかった。焼けつくような暑さもあって俺もあいつも相当にまいっていた。それでさっそく俺は調子をくずし、配達はやつに任せ、朝から可南子にくってかかった。
「宏、ムリよ。そんなこと調べるのは」
俺は、相手を困らせるとき、わざと本来自分が苦しんでいることとは違った別の問題をこしらえ、少々オーバーな表情で訴えることにしている。そのときは、俺が贔屓にしている女優の誕生日や出演した番組名にあきたらず、番組に出ている通行人が撮影前に練習したかどうかを調べてほしいと懇願していた。
「ボク、わがまま?」
「そんなことないけど、幸平にだってむりなことはあるのよ」
「やっぱり、ボク、わがまま?」
俺は、こだわりがひどくなると痣のように浮かんでくる深い皺、これは一度鏡で確かめたから間違いないが、それを額ににじりよらせ、表情をかたくし、祈りでもするように両手を胸の前で握りしめた。
「そうよ、わがままよ。とっても」
可南子は、念を押すように言い返した。
「やっぱりか……」
俺は、言葉とは裏腹に、キッと彼女を睨みつけた。
「なによ、その目は。ぜんぜんわかっていないじゃない」
彼女との間に緊張が走るのはいつもこんなときだ。可南子の声は、冷静を装いながらも引き攣っている。目元には、俺に負けぬほどのこわばりが見え、余裕がなくなってきていることだけは間違いない。
「やっぱり、わがまま……」
俺はじりじりと可南子に歩み寄っていった。
俺の太い手が彼女の片口をつかみかかる。思わず彼女もそれをはらいのけ、その動きから少しずつ小波のような震えがやってきていることはこちらにも見てとれるのだ。だが、その心理をそのまま出してはますます俺の思う壺にはまることを充分、向こうも心得ているため、俺はわざと隙をつくり、相手をとらえようと神経を集中した。
「どうしたの」
そのときだ。邪魔者の声が背中からしたのは。幸平が仕事の合間をぬい、様子を見に来たのだ。またか、という辟易感を残しつつ、やつもやつなりに覚悟を決めているようで俺と可南子とのやりとりにずけずけと割り込んできた。
俺はすかさずターゲットを切り換えた。
「ねえ、ボク、わがままか、幸平?」
俺は幸平と言ったり、たまに幸くんや、さらに親しみをこめ、コーちゃんと呼んだりして使い分けている。そのときの俺の顔は、きっと今にも泣き出しそうに歪んでいたに違いない。これもまた、俺なりの考え抜いた戦略だ。自分が弱い立場にいるよう見せかけ、実は相手の油断につけこみ、優越感と自尊心をくすぐってやるのだ。そうすれば大方、俺の頼みを無視できなくなってくる。本音を言えば、泣きだしたいのは可南子や幸平であることを重々わかった上で考えついた戦法だ。
「わがままじゃないよ」
さっそくやつは引っかかってきた。説き伏せるでなしに、俺といっしょに解決へ向けいけるところまでは行くという、わざとらしい抑揚をこめた調子になってきた。
「わがままじゃないさ。だから、心配せず、俺に話してごらん」
「あのね、あのね、コーちゃん」
俺は、ここぞとばかりに神妙な顔になった。少し希望が持てたことを高めのトーンに変え、しかも慇懃さを失わないよう気を配るのだ。やつの頬に緩みが走り、こちらの豹変ぶりに張りつめていた糸が切れたのを俺は見逃さない。だが、おそらく午前中だけでも五十軒は配達せねばならぬやつに、そんな対応を持続する体力も気力も用意されていないはずだ。しかもこの二日で、そうとう神経は消耗している。
「幸くん、道路を歩いている人が練習したのはホント? また調べられる?」
「あれは、テレビ局に電話したら、ちゃんと担当の人が答えてくれただろう。多くは、エキストラでただの人だって。だから撮影に気づいている人とそうでない人がいるだけだよ」
「エキストラ?」
俺は勝ち誇ったように声に力を込めた。きっと両眼には光が満ち、湖面のように輝いていたはずだ。たちまちやつの表情は曇り、全体に後悔の色が滲んだ。不用意に新しい言葉を使い、説明してしまったことをだ。俺はそんな言葉をけっして聞き逃さない。
「じゃあ、エキストラは練習しないの?」
「練習しない」
「どうして」
「セリフがないから」
「セリフがない人は」
「それは役をもらっている人」
「どうしてわかるの」
「セリフを言うかどうかでだ」
「練習はしないの」
「する」
「どうしてエキストラは練習しないの」
「必要ない」
本当は、エキストラでも練習するやつはするし、しないやつはしないとあいつは言いたいはずだ。役者だって、どんな長いセリフをもらい飯を食っているプロでも、練習する者もいればしない者もいる。そうやつは声を大にして俺にハッキリ言ってやりたいのだ。この世の中にはいろんな人間が存在する。ちょうど俺ががどんな小さなものでも見つけたら飛び跳ねるあの大嫌いな虫たちのように。お金があっても働いているやつ、一文もなくても働かないやつ。病気しても医者にかからないやつ、せっかくもうけても損したいと願っているやつだっている。とにかく信じられないくらいのいろんな人間がいるわけだが、そんな人間たちが集まり、世界はできていて、これはこうだ、正しいなど一つも言えることはない。
だが、それこそが一番俺に、混乱をもたらす答え以外の何ものでもない。AはAであったりBだったり、Cでもあったりするのではなく、AはA以外の何ものでもなく、BはB、CはCでなければならない。けっきょくそれが今のところ一番、俺を納得させる答えになってくる。練習しないといったらしない。どんなに失語気味の役者がいて、徹夜でセリフ読みをしなくてはならないとしても、その一個の存在はこの際、無視しなくてはならない。まずは、俺の興奮を和らげるためには、そんな答えの選択から出発する必要があるわけだ。
でも、それもしょせんは俺の不安を鎮めきるに完全な役目を果たしてはくれない。
時間になればまた俺は、混乱の真っただ中にもどっている。ちょうど一枚のパズルが完成し、せっかく埋まって安定していたものがたった一つのパーツがぬけたことで崩れ落ちていくように、いつのまにか俺は、自らそのパーツをどこかへやってしまう。いや、やってしまうどころか一か所だけ別のパーツを捜しだしてきてわざわざ自分の手で詰め込んでしまうのだ。たちまち全体の均衡は崩れ、一つだけ違う異物のため他のパーツ全部までやりなおさなければならなくなってくる。ぎっしり隙間なくつまった状態で他のパーツとの入れ替え作業は並大抵のことではない。
それでも俺は、また質問しながらやっていく。俺にとって混乱は、一つまた一つ、そうやって自ら招き寄せてくるものだから。
俺には、完全という意味において通用する答えは、今のところ存在しない。
「あっ、もしもし、毎朝テレビでしょうか。すいません。テレビドラマ制作部のデスクの工藤さんをお願いします……あっ、もしもし、濱崎ですが。どうもすいません。いつもいつも。実はまた宏が例の練習のことを気にしていまして。ええ、そうです。はい……ああ、なるほど。エキストラは専門のプロダクションにたのんでいるんでわからないんですね。ええ……それから、練習はしないと。わかりました。そう伝えます。どうもお忙しいときすいませんでした」
俺は食い入るようにやつを見ていた。向こうもそんな俺を意識してか、こちらの一番知りたいところを強調するように、わざと声高に答えているようだ。
「やっぱり、練習はしないんだってさ」
「工藤さん、言ってた?」
「言ってたよ」
「心、配、だ、な」
「なにも心配はいらないさ」
「工藤さん、くわしい?」
「もちろん、あの人はデスクなんだぞ」
「デスクってえらい?」
「えらいえらい。ボスと同じ。お前の好きな刑事ドラマと同じだよ」
「テレビできたときからいた?」
「もう、五十歳くらいの人だから旧い方だ」
「旧い?」
「そう。だからよく知っている」
「そうか……」
俺は、ようやくそこで体を起こした。自分でも肩から力がぬけ、顔から血の気が引き興奮が治まっていっているのがわかる。平静をとりもどした俺はまた執筆活動に入るつもりだ。広告用紙の裏に頭につまっている十数年前のドラマの題名と出演者をぎっしり書き並べていくのだ。それは、俺が自分であみだした数少ない穏やかで心を落ち着かせる方法だ。
だが、そろそろ次の俺からの信頼を得ておくための小道具が必要であることをやつは感じとっているに違いない。たとえば、現実には無理なことでも、エキストラの実際の名簿であるとか……。
今の電話がテレビ局に実際にはしていないことくらい、とっくにお見通しだ。これがやり口だ。局からは充分すぎるほどの対応も手紙ももらっているし、そのくらいのことはわかっている。
手紙の内容はこうだ。一か月ほど前にやつが実物を見せ、コピーをくれた。
濱崎幸平様
前略、真面目な手紙を書くにはあまりにも時間も心の余裕もなく、お返事がおくれましたことをご容赦ください。
宏さんのことをお聞きして、ひとつの「こだわり」の中からぬけださせる手立ても一様にはいかず、つぎの「こだわり」へ単に移行していくだけになってしまうということが、きっと、その人の生活があるかぎり模索はつづけられ、ぬけ道のない袋小路へ入っていってしまうのでは、といろいろ考えさせられました。
さて、宏さんのこだわっているドラマ『悪女の湖』のVTRの件ですが、残念ながら私にはご協力できそうにありません。
その理由は大きくわけて三つです。
一つ目は、私たちは一方的な電波の送り手であり、それはこれからもかわりません。その意味で電波の上では視聴者の皆様へ平等なサービスを行っているといえます。したがって、それらをもとめているマニアとかファンの方との特定のお付き合いはできないのです。
もう一つは、放送素材、とくにテープは自術開発がはげしく、短期間に様々な用途に対応できるものが開発されてきました。VHSについては一般家庭でも多く使用されてはいますが、TV局の放送にけっして耐えうるものではなく、参考資料としてしか使われないのが現状です。せいぜい一本の放送に二本ぐらいしかダビングされません。そして使った後はすぐに破棄されます。
どの会社でもそうでしょうが、坪三千万もする都心のスペースをいかに有効に使うかということで不必要なものは次々と処分されていくのです。この世に存在するものは、一時間のVTRで、放送機器以外にはプレビューもダビングも出来ません。とくに放送界は様々な問題が生じやすく、大変素材へはシビアになっています。これらをかってにいじることはできないのです。
最後に台本の件ですが、現場の台本にはいろいろ書き込みもされていますが、テレビ局に入ってしまった台本はメインの役者についてのみ記載されています。たいへん不完全なもので、しかも十年前のものといえばマイクロに入れられていますので、私たちが事務上利用する資料は、当時の制作内容というものです。簡単な概要だけで、一応これをコピーしてお送りしますが、お役に立てるかどうか、宏さんにとっては今はまたそれが、ただ単に気になって気になってしょうがないものになってしまうのではないかと心配です。濱崎さんの適切なご処理をお願いします。
ご健闘をお祈りします。
ドラマデスク 工藤 順子
その他、工藤さんは、俺宛ての特別に書いた手紙も用意しておいてくれた。それにはドラマに出演した通行人の名前が数名、役柄といっしょに書かれてあった。ドラマの制作現場では、当日は『仕出し』を扱うプロダクションに一任して決めていくそうで、一人一人の名前まではわからない。だからここに書かれている数人も彼女のわずかな記憶の断片から必死に思いだした結果であることが説明してあった。かりに彼女がつくり上げた出鱈目だとしても、俺は充分に満足していた。毎日、毎晩、ドラマづくりという仕事に携わる人をこれ以上、厄介な相談で苦しめることはない。やつも俺も、これからは自分たちで打開策を見つけていく以外ないわけだ。
けっきょく、その日の配達も、やつ一人で終えた。
二
朝食を終えたやつの脳裏には、きっといろいろなことが思い浮かんでいることだろう。
場面は次々と甦り、消えていっているはずだ。そこにはいつも俺と可南子がいると勝手に思っている。明日はいよいよオープン日だ。店舗もほぼ完成した。壁にかかった煤けた時計に目をやると、やつが迎えにくる時間にはまだかなり早い。それでも俺は考えずにはいられない。なぜあいつが、こうまでして俺といっしょにいようとするのかを。
混乱の真っただ中にいる俺は、可南子の言葉をかりれば、獣がのりうつったようであり、
彼女を見る目は獲物を狙いすます野生そのものだそうだ。それはまさしく、俺という一個の存在の生の過剰が暴れ出すときだ。自分自身、望むと望まぬとにかかわらず、その過剰は、あるとき、まったく予期せぬ瞬間、堰を切って溢れ、襲ってくる。
「ボクの、つらい気持ちわかる? 幸平……」
へとへとに疲れ切った俺は、最後にいつも苦しげにつぶやく。
額には例の皺をよせ、太い眉を両眼の上に八の字にめぐらせる。唇は唾液に濡れ、前歯はいつどこで何にぶつけたのかわからないが、歯茎から浮き上がったようにねじ曲がっている。俺の体内でどんな変化が起こっているのか、どんな情動が走っているか、本人である俺自身にも、ぜんぜん見当がつかない。いや、以前はあれこれ俺もあいつも可南子も、言い合いしてでも分析を試みていたが、だんだんと意味を感じなくなり、それどころか今では、そんな解析が不可能というか、無駄ということがわかってきた。
混乱の中で、俺は、まるで自分を先送りしようとする強引な自己の中にあるもう一人の自分でない何ものかと闘っているようだ。それは傍目には我儘で傲慢で、気紛れで、根気が見受けられず、他人への依存度が強く、怠け者だとされるかもしれないが、毎日いっしょにいるやつからすれば否応なく、俺は俺なりに俺なりの敵と闘っていることがわかるはずだ。
「どうして、俺たちは、こんな思いまでしてこいつといっしょにいるんだろう」
あいつが自問でもするように、一度可南子に尋ねていたことがあった。
「そりゃあ、私だってぶたれながらいるのはいやよ。でも宏がいたいって言えばそうするしかないでしょう」
─なるほどなあ……。つらいなあ、でもあきらめるしかない……。
俺は、そう自分自身に言い聞かせるようにつぶやいていた。だが内心、いやいいんだ、あきらめなくていいんだという言葉を待っている。そして実際に、その言葉をかけられると安心した。諦めたりなどできない。けっして我儘なのでなく、俺のメカニズムの仕組み上、そうできているのだ。もしかりに諦めることができたら、周囲もどんなに楽だろうと、やつも可南子も、そして誰よりも俺自身が、思っているのだ。たとえそうすることが、もしかすると、俺の生命の流れを停止させることを意味してもだ。
─まったくね。なるほどね。つらいなあ。でも、知りたいなあ……。
そういえば、こういうこともあった……俺はさらにある情景を思い出した。
街中でのことだ。俺の調子が比較的まだいい、春先だったような気がする。それとも夏が近づいてきたときか。光が眩しかった。ひさしぶりの日の光だ。もしかするとちょうど梅雨の終わりだったかもしれない。蝉が鳴いていた気がする。音階をかえ、高くなったり、低くなったりし、耳元にとどくと、初夏の甘い香りを伝えてきた。
空気と、その肌ざわりが季節の変わり目を思わせた。
めったに来ない街の喧騒につつまれ、あいつもどこか気分が高揚していたようだ。いつもなら簡単に首を縦に振らぬ頼みを聞いてくれた。無理言ってデパートの九階のレストランで食事をしたいとねだったのだ。しかも食後、あいつはできるだけ俺が満足するよう、人混みを敢て選び、アーケードをいっしょに歩いてくれた。俺は時折り立ち止まってはじっと雑踏や通りを見据え、流行りの服を着たマネキンが立っていたりすると怖々とそれを触りにいった。
「コーちゃん、これ生きてるの?」
「だいじょうぶ。それはマネキン」
「マネキン?」
「そう、人形」
やつの説明に安心した俺は、何事もなかったようにまた急ぎ足になった。ところがそんな俺もさすがに奇声を上げざるをえないときがあった。声は脳天を突き破り、アーケード全体に響かんばかりだ。
褐色の犬が睨みをきかし、じっと俺の方を見ていたのだ。耳が短く、頬肉が垂れ、尻を地面につけてはいても、今にも襲いかかってくる姿勢だ。精悍な骨格の奥に真珠のような瞳が光っている。
「あれもマネキンだよ」
「あれも?」
俺は、さすがにそいつには近づく気がせず、そのまま遠回りに素通りした。
自動販売機で飲み物を買った俺たちは、少し離れた公園で一休みした。
「幸平、ボク放送局へ行きたいな」
今日ならもしかしたら可能かもしれないと思った俺は、やつの顔をまじまじと見ながら言った。
「それは今度な」
やつは缶コーヒー、俺はコーラを一口飲んだ。それで俺は、少しレベルを落とし、どうしてもまたアーケードを歩きたいと言い張った。
「しょうがないな。じゃあ、とにかく一時間したらここにもどってきてくれ。いいね。この銅像が目印だからね」
俺の調子に楽観視したあいつは、わりとすんなり許可した。
ここからは、可南子とやつの会話からわかったことだ。
俺の姿が見えなくなって公園での一時間はあっという間に過ぎたが、三十分過ぎても帰ってこない俺に痺れをきらしたあいつはさすがに可南子に連絡したそうだ。すると向こうも警察からの知らせがあったと伝えてきた。
実は俺は、テレビ局に行きたい一心でタクシーに無銭乗車したのだ。ところが運転手がすぐに俺の不自然さに気づき、近くの交番に預けた。交番で俺は幸平がいなーい、いなーいと手足をばたつかせ思いっきり喚き散らしてやったため、部署の多い警察署へ連れて行かれたという案配だ。
最後に通されたのは警察署長室だった。
さっそく俺は部屋へ入るや、レザーのソファーに大股開きで座りニヤついてやった。横には年季の入った木製の机があり、初老の白髪の男がニンマリ笑いながら腰かけていた。その上に署長の名札が置かれていた。
やがてやつは慌てふためいてやってきた。
俺は顔を見るや、驚きとも喜びともとれる頓狂な声を上げ、ソファから立ち上がると同時に胸の前で両手をぎゅっと握りしめるポーズをとった。たちまち向こうの目は吊り上がり、キッと俺を睨みつけた。俺はそれが演技だと読み、とりあえず形だけでも従うことにした。頭を二、三度下げ、署長に俺のことを説明する横で、俺は悪戯が見つかった子どものようにおとなしくしていた。だが、女性職員がお茶を持って来た辺りから、そんなことにお構いなく刑事ドラマに出演している俳優の名を上げ、知っているかどうかしつこく聞き始めた。やつは、またも俺が刑事ドラマの大ファンであるのを説明しなくちゃいけなくなり、それでたまたま気をよくした署長が、もうここへ二度と来るんじゃないぞとドラマの一シーンのように威厳を込めて決め台詞を言って帰してくれたのだった。
可南子の待つ場所へ車を走らせながら、やつはタクシーはどうだったか再度、俺に聞いてきた。俺は正直、怖かったと答えたが、運転手が、お前の方がよっぽど怖いと言ったことも忘れなかった。
やつはすぐに意味が飲み込めたようで一瞬、軽く笑い、やがて表情を固くした。
だが、次の日、やつはさらに思いがけぬ事実を知るのだ。
実は俺は、当然だが放送局には入れず、そればかりか行きは走り、帰りにこのままだとやつとの約束を守れなくなると思いタクシーに乗ったのだ。
俺は可南子に打ち明けた。やつは可南子からそれを聞きながら、返事もせず考え深い顔をしていた。眼球が瞼の中で一、二度くるりと動いていた。
可南子に話したことは嘘じゃない。
確かに俺はやつとの約束を守るためタクシーに乗った。でも、やつは最後までスッキリとした表情にはならなかった。果たしてそんな意識が俺にあるか、かりにあったとして正常に働くのか、きっと引っかかったのはそんなところだろう。疑念を払拭できず、どこか冷めた様子だった。
三
俺の疑問は、よくよく考えるに、通行人一人一人にも名前はあるはずだから、まるっきり見当違いなわけではない。また、主人公のとなりで電話をかけている男が練習したのかどうか、これもエキストラかどうかを含め判断がつきにくいところだ。俺は、あいつらが適当にやり過ごしているところを、しつこく聞いていく。ときに動きだそうとするビデオをわざわざ止め、指摘さえするのだ。実生活に関係ないことを人は忘却するが、俺にはそれができない。むしろ実生活とかけ離れた無用なことが気になってしょうがない。俺には眠れなくなるほどの深刻な問題だ。
そうは言いながらも俺はどうにか生きている。さもそうしなければ、生きている実感がないかのようにわざわざ自分で解決できない問題をどこからか探しだし、なんとか生き延びている。
「いつも周囲にわけのわからない質問をして、あげくには自分で苦しんだ末に乱暴をふるい、勝手なことばかりやって、世間からいつお払いばこになってもいい宏に『死ぬ?』と聞けば『死にたくない』って言うし、あなたみたいに宏や私とかかわりながら、その苦労もむなしくけっきょくは手を出され、顔や体に傷を負いながらもしぶとくつづけている人が、たまに口を開けば『死にたい、死にたい』ってつぶやいている……。いったい世の中、どうなっているのかしらね」
いつか可南子が吐息まじりに、そうあいつにこぼしていたことがあった。
「死にたい、死にたいって言っているやつほど、ほんとうは死にたくないものなのさ」
やつが笑って答えると、「それはそうだとは思うんだけど……」彼女はそこで口をつぐんでしまった。
今から六日前、宅配便最後の日だ。
あれこれ放送局への電話の芝居など何度かやってはみたが、所詮は焼け石に水だった。俺の状態が簡単によくなることは期待できない。それでもその日、配達し終わればいよいよ仕事から解放されるとやつもどこかで喜びを感じていたふうだった。前日、俺はまた性懲りもなくテレビ局へ手紙を送ってほしいことを頼み約束させていたのだが、うっかり忘れていた。
うんざりするように眩しく照りつく日差しの中、すでに朝からいくどとなく俺の口からは、同じ 質問が繰り返し発せられていた。
「幸君、どうして忘れたの?」
「そりゃあ、俺だって疲れて寝てしまうことだってあるさ」
やつはやつなりに、もっと丁寧に答えねばと思っていたようだが、肩にかけたタオルで歯痒いように何度も首筋の汗をぬぐっていた。それが俺の癇に少しずつ触っていった。
午後のことだ。いよいよ小荷物は、残すところ一つとなり、さっそく俺はまた聞いていた。
「コーちゃん、どうして手紙忘れたの」
「だから言っただろう。疲れて寝たって。べつにわざと忘れたわけじゃないって」
俺はしばらく黙っていた。やつもしゃべらなかった。車の通りの少なくなった道路へさしかかったときだ。それは突然やってきた。俺の中の過剰が一挙に噴き出したのだ。やつがCDのスイッチを入れるため俺の方へ手を伸ばしたときだ。俺はいきなりやつに体ごと覆いかぶさるように襲いかかり、殴りかかった。俺の左の拳がやつの頬をフック気味に直撃し、一瞬やつの瞳が虚ろになった。百七十センチ、七十五キロの俺の体が、一つの塊となり、やつ目がけ襲いかかったのだ。我慢を強いられればされるほど、ますますそれを外へ向け爆発させる悪循環に陥っていた。腕や背中が汗でべとべとした。それでもやつはハンドルから手を離さず、体の半分で抗し、どうにか道路脇へ車を停めた。
停車するや両手が空くと、今度は堪えていたものを吐き出すように力一杯俺を殴りつけてきたのだ。しかもとどめを刺すように上部の縁に手をかけると反動をつけ、靴底で俺目がけ思いきり蹴りこんできた。車の数が少ないことが幸いしたことは確かだ。
「とっとと下りろ! お前なんかと、だれがいっしょにいるものか」
やつも必死だった。あんなに激昂した顔を俺は見たことがない。
俺は、やつの瞳の中に恐怖を超える何かを見た。肉体と精神がバランスを失い、一挙に崩壊する瞬間だ。混乱の中にいる俺と同じ顔がやつを通してはっきりと見てとれるようだった。
これまで、どんなときも腕力で抑えようとせず、できるだけ会話を試みようとしてきたやつの豹変ぶりに、俺は唖然とした。まさか、俺がこうして直接やつの暴力を受けることになるとは思ってもいなかったのだ。
俺の口からは真っ赤な血が吹き出し、扉に飛び散った。
それでも降りようとしない俺に堪りかねたのか、今度は自分から車を下り、俺の側へ回り込むと外から引きずり出した。襟元をつかみ、車体に押しつけ、何度も同じ言葉をたたきつけた。
「お前、いったい何を考えてるんだ。死んでもいいのか! 俺はちゃんとお前に事情を話してるだろう。どうしてわからない」
やつは本当に、一人で帰ってしまいかねない剣幕だった。道路には車が走り、晴れきった空の下、車外で組み合う二人の格闘を奇異と恐れで見ていた。
やつがほんのわずかな隙に、運転席に乗り込み、扉を閉めロックをかけようと試みた。だが俺もすかさず扉に手をかけ、中へ入った。血の酸っぱいぬめりを歯茎に感じ、真っ赤に染まった歯でニッと笑い、「もうしません、もうしません。約束、約束」と小指を差し出した。
「お前は信じられないよ」
やつは吐き捨てるように言った。
「信じろと言う方が無理なんだ」
「どうして?」
「お前はまた約束を破るさ。これまでだって何回もそうやって、イライラしてくると周りに暴力をしてきただろうが」
「もう、しません」
「そう言って、またこんなふうに手をだしてくるのがお前なんだよ」
やつの息は荒かった。
「だからしませんって」
俺は甘えたような、得意の泣きじゃくる声で挽回しようとした。
「ちがう、ちがう、宏、そんなことじゃない。お前はまたするよ。俺以外にもまた同じことをする。ほら、また肩に力が入ってきてるだろう。それがいけないとか、あやまってくれって言ってるんじゃない。そうするのがやっぱりお前だって言ってるんだ……」
やつはいつのまにか涙ぐんでた。
俺は相変わらず凄まじい形相だったはずだ。一旦落ち着いたかに見えても、またさらなる反撃がどういう形で来るかわからず、そのことを考えただけでもやつは、俺を乗せたまま再び車に乗り込み運転することはできなかったに違いない。
やつはハンドルに頭を擦りつけ悩んでいるようだったが、やがて答えを出した。
「ほんとうに、約束守れるか?」
「守れる」
「今度またやったら、ぜったいに下りてもらうからな」
気分をどうにか奮い立たせるとエンジンをかけ、ハンドルを手にした。方向はこれまでと同じで、今思えば、交通量がはるかに少なく、選択は正しかった。
やつは、助手席の俺に相当気を配っている様子だった。一台一台、対向車がくるたび、道の端ぎりぎりをスピードを落として走った。
俺は頭の中で様々なことを考えていた。
かりにまた俺の意志に反し、過剰が暴れだしたらどうするか。制御不能な事態になり、飛びかかったらどうするか。道の外に突っ込むのか。それとも急停止か。しかし、それさえ余裕がないときは……。
俺は一応はおとなしくしていた。やつは届け先につく頃、すっかり精気が消え、ぐったりしている様子だった。だが、可南子に連絡もせず、もう一度俺に約束させ、どうにか帰路についたのだ。
四
外で声がする。
ようやくやつが迎えに来たようだ。なんと言っても明日は念願の店のオープン日だ。俺をこんなところへ追いやって、まんまとお払い箱にしたつもりだろうがそうはいかない。
「ここを出てからの弟さんの状態はどうなっていたんですか」
「調子はよかったりわるかったりです」
「もう少し、連絡がほしかったですね」
やつが誰かと話し合っている。
「こんなことになるのが、一番心配だったんです」
相手は、相当疲労困憊しているようだ。言葉の端々に投げやりな調子がうかがえる。
「ここでは、集団生活を維持するため、ある規則の上にのっとって生活パターンをつくっていく必要があります。つまり、簡単に言えば、宏さんだけのためにある場所じゃないってことです。他の人たちにとって睡眠の邪魔になれば寝てもらわなければならないし、これからはある程度、こちらのやり方でさせてもらうことは了承してください」
「永田さん、ここでの方針はよくわかりました。母にもこのことはちゃんと伝えるし、おそらく反対もしないでしょう。こうなったのも私や彼女の力がたりなかったからですし、これからはそちらのお力を借りながらやっていくつもりです。でも私は、まだ今朝、連絡を受けたばかりで、どうもはっきりしないんです。だから弟と少しでもいい。会って話す時間をつくってもらえませんか」
いよいよ我慢の限界にきた俺は、衝動的に隣の部屋へつづく扉を乱暴に開けた。
だが、度胆をぬかされたのは俺の方だ。そこには二人の人間ではなく、二体のマネキンが椅子に座っていた。服や髪型からして男性のようだ。片方はポマードを撫でつけたオールバックで、一方は鬚を鼻の下にたくわえていた。俺はあらんかぎりの絶叫を上げ、飛び跳ねる勢いで部屋中を走り回った。
会話はまだつづいている。
これもやつの手の込んだ仕掛けだ。俺は目を皿にして辺りを窺い、緊張を緩めなかった。隠しカメラとマイクで、しかも苦手なマネキンを使って、どこまで追い詰めれば気がすむのだろう。
「だいぶ抵抗しましてね」
さらに驚いたことがあった。マネキンの手足や首が言葉に合わせ動き、表情がわずかだが変化するのだ。眉を微かに曲げたり、口角を上下に広げたり、俺には小さい頃見たテレビの人形劇を思わせた。
やがて、会話と身のこなしから、永田というマネキンが鬚の方で、ポマードがやつだとわかった。鬚は、俺の方へ首を向け、やむをえなかったというふうに眉を磁石で引き寄せられるように両頬へするする動かし、首を傾げた。
「ええ、わかります。私も何度かありましたから……」
ポマードも同じように首を横にした。何のことだろう、俺は一瞬判断に窮したが、すぐに左目の異様な腫れだと合点し、憮然となった。これは毒虫にやられたのだ。お前たちが追いやったこの家で昨夜、鋭い針のような焼き鏝で刻印されたのだ。
「虫ですよ。虫です。大きなムカデみたいな…」
俺は強い口調で言った。
二人のマネキンの表情はますます曇り、混迷しながらも、今度は急に何かを納得したように首を縦に振った。
俺は虫のことがすぐにわかってもらえたことに安心し、
「コーちゃん、ボクがわるかったです」
ポマードの顔を覗き込み、両腕を胸で組み、腰までかがめて、祈る格好をした。
「コーちゃん、かえろう、かえろう。ねえ、永田さんにあやまってかえろう」
するとポマードは、天井から糸で引っぱり上げられたようにすっくと立ち上がった。俺の両肩に手をやり、宥めるように言った。
「宏、お前にはこの場所が必要だよ。ずっとお母さんと三人でいっしょにやってきてやっぱり仕方がないと俺も思っている。でもこなままにはしておかない。店もきちんとオープンさせる。少しずつ外に出られるように永田さんとも話し合っていくつもりだ。だから、しばらくここで落ち着いて過ごせるよう、やっていこうな」
ポマードと鬚の顔を交互に見た。
二人が数歩近づいた。膝や足首も歩行に合わせ曲がっている。よくできた人形だった。
「永田さん、お願いがあります。明日がオープン日なんです。一年、宏とやってきた店がようやくオープンするんです。なんとか一日だけでも連れていくわけにはいきませんか」
鬚はしばらく考えていたが、一応上の者と話し合ってから決めると言った。自分としては行かせてやりたいのは山々だが、どうしても責任者の許可が必要だと。
俺は自分の部屋に戻り、ベッドに横になった。それからまた隣の部屋に聞き耳を立てた。やがて鬚が電話している声がした。
「もしもし、永田ですが……、宏さんがまた混乱するかもしれませんが、他の職員の意見も聞きまして、ぜひ行かせてやりたいという考えが強く、私と高山で連れて行きます」
翌朝、俺は鬚と、高山、それはパンチパーマをかけた背の低いマネキンだが、二人に連れられ店へ向かった。パンチが車の運転をしたが、人工衛星を使ったのか、ハンドルをにぎっていないのにかなりの速度で走った。俺は鬚の横で、後部座席から対向車や通り過ぎる人たちを注意深く見ていたが、すべて運転しているのも、歩いているのもマネキンだった。たださっきからマネキンが動くのを見てきたので、だんだんと目が慣れ、驚かなくなってきていた。そして、俺は自分の視覚と結びついた脳のどこかにやつが小細工したんではないかと考えるようになった。あの毒虫の焼けつくような針……。DNAに反応するようプログラミングされたチップが、真っ赤な焼き鏝とともに埋め込まれ、生き物がマネキンに画像処理されるよう仕組まれたのかもしれない。なぜなら犬や猫まで毛をつけたマネキンになっていたからだ。
俺を真っ先に迎えたのは可南子だった。
彼女もやはり背丈や太り方も計ってつくったような髪がブラウンのショートカットのマネキンだった。俺は質問してみた。いつになったらここへ戻れるか、エキストラの手紙の件のことも聞いた。ただ、なぜか意識がぼんやりして集中できなかった。
オープン式も終わり、わざわざ俺を連れてきた鬚やパンチパーマへのお礼のつもりか、ポマードは繁華街へ車を走らせ、俺のお気に入りのデパート九階のレストランへ向かった。式で出た軽めの食事だけでは物足りなかったと思ったようだ。
さっそく俺は鬚やパンチと一緒に通りを歩くと、マネキンをチェックした。俺は目を瞠った。
アーケードのショウウインドウに飾られたマネキンは、どれもこれも今度は生の人間たちだった。
一人一人、滑らかな皮膚をし、肉の付き方も弾力があった。ただふだんと違うのは、じっと瞬き一つせず、着せられた服や下着を身につけ、微動だしないことだ。ときには何も身につけず、静脈の浮き出た上半身や下半身を露わにしているものもいたが、そこを歩いているのが反対に皆マネキンなので、表情もさほど驚いた様子はなく、皆淡々としていた。ふと数メートル先を見ると犬がいた。俺が大声を上げ、怖くて体を震わせてたやつだ。犬は、ぶよぶよ太り、毛が斑に抜け落ちた本物になっていた。しかもところどころ疥癬を病み、嫌な匂いがした。
九階から見下ろす街の風景は、俺にとってひさしぶりだ。
それぞれの食事が来る間、俺は窓よりに椅子を寄せ、外を見降ろしていた。もし俺が暴れだしたら、マネキンは俺を止めることができるだろうか。となりのテーブルには、女性マネキンが二人、上品そうな薄桃のタイトなスカートとブルージーンズを穿いていた。鋳型どおりつくられているから、スタイルは申し分ない。とにかく至るところマネキンだらけだ。そのときパンチパーマがトイレへ、鬚が連絡するため席を立った。俺はできるだけ自分の不安を外に出さないよう気を配った。マネキンになって心理が読み取れない。俺は、傍からどんなふうに映っているのか。ふとそんな疑問が浮かび、照明の灯りを利用して、ガラスに自分の姿を映してみた。ぼーっと佇む上半身があった。だがそれは、お決まりの皺を額に刻みこんだ人間の俺の顔だった。
不安はまだ、止まなかった。
客の一人一人が俺が暴れだしたときどう反応するか考えた。一人遠くで食べている年配男のマネキンがいた。白髪で頭部が剝げ上がっている。ちゃんとスプーンでスープを掬って喉に流し込んでいた。
俺は、のっぺりとした表情から何とかして心の動きを読み取ろうとした。
ガラスに映った俺の顔に気のせいか、不吉な前兆の土気色が混ざりだしているように思えた。
俺は自分で指先、足もとの様子とじっと観察し、突発的な変化が起きないようできるだけリラックスしようと深呼吸を数回してみた。しかし、やればやるほど、吸うことはできても吐くのがうまくいかず、体のいたるところに緊張と疼きが走った。
「高いね、ここ」
俺は、一人あれこれ考えるのも疲れ、ぼそりとつぶやいた。何とも答えようがないのか、軽く首を動かして相槌を打った。俺の左目はあの毒虫にやられた傷で腫れあがっている。俺は、そんなガラスに映った自分の顔から再び、窓から下のちょうど切り立った峡谷に似た風景を見降ろし、
「死ぬのかなあ。落ちたら、死ぬのかなあ」
そうつぶやいた。それは自分自身、死の恐怖を感じているようでもあり、落ちてみたい誘惑にかられているふうでもあった。
「宏、お前、まさかほんとうに飛び降りるつもりじゃないだろうな」
ポマードは俺のつぶやきに、わざと自分の動揺を隠すように大仰に聞いてきた。これまで俺は、「死にたくなーい」と甲高く、少し悲しげでひょうきんな声で答えていたが、それをしなかった。
紫色に腫れた左目をとろんと開け、じっと外を見つづけていた。そのとき何かが明滅した。一瞬、停電したように視界が真っ暗になったかと思うと、巨大な白熱球が頭上で点灯したように明るくなり、それが何度か繰り返された。眩しいフラッシュの中で、大勢いるマネキンが人間の顔に戻り、俺一人がマネキンになった。そのとき俺は、自分が白骨死体になった気がした。するとまた明滅が起こり、くるりと反転した。そうやって何度かマネキンと人の顔が行き来した後、ふと気づくと、そこにいる全員の顔が人間になっていた。
「そろそろ行きましょうか」
食事はいつのまにか終わっていて、永田の事務的な声が俺を促した。
「宏くん、約束どおり、いっしょに帰ろうね」
高田も言葉を慎重に選び、かなり用心を重ねていることは明らかだった。二人、ほぼ同時に立ち上がり、俺の二の腕を軽く握った。俺は萎れた花弁のように肩をつぼめ、うなだれていた。やつは何ものかに引き寄せられるように瞳を凝らし、俺の身体を見ているようだった。
俺の皮膚のいたるところが細かくふるええていた。俺はたちまち意識が混濁するような息苦しさを感じた。
体から幾層もの波動が陽炎のように湧き立ち、周囲の大気を徐々に押しやっていた。
闇だ。透きとおった闇だ。
まちがいなく今、俺の目の前にはやつらをつつみこむ繭にも似た闇がつくりだされていた。濃く光一つないその闇は同時にガラスのように透明に見えた。やつはなおもじっと見つめていた。闇はいずれやつらのもとにもしのびより、すべてをつつみこむだろうか。
また明日になれば、俺は前歯のへし曲がった口でしゃべりだすことは明らかだ。
この世の不確実を寄せ集め、俺は平気で質問する。それがたとえ幸平や可南子から永田や高山へかわったとしても……。もしかすると折れ曲がっているのはやつらで、俺はそれでいいのかもしれないというのに、同じ繰り返しが永遠につづくのだ。だれにも止めることはできない。
約束どおり、あの毒虫の棲む家へ連れて行く三人の乗った車をやつは、黙って見送っていた。
死ぬのかなあとつぶやいたさっきの俺の言葉が今度はやつが言ったような気がしてき、その相手に向かい胸の中で、死ぬんじゃないぞ兄貴、と返すのが精一杯だった。
2020年4月29日 発行 初版
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1961年熊本県荒尾市生まれ。北九州大学文学部国文科卒業後、学習塾講師、大検(高卒認定)専門予備校職員などを経て、熊本県小学校教諭に採用。二校目の赴任地(阿蘇市立宮地小学校)で、卒業生である発達障害の青年との出会いをきっかけに33歳で退職し、当時阿蘇郡市では初めての民間での小規模作業所「夢屋」を立ち上げました。その後、自立支援法施行に伴い、「NPO夢屋プラネットワークス(http://www.asoyumeya.org/)」を設立し、地域活動支援センター(Ⅲ型)代表兼支援員として阿蘇市から委託を受けながら現在に至っています。 運営の傍ら、小説、ノンフィクション、児童文学、書評などを発表してきました。部落解放文学賞に5回入選、九州芸術祭文学賞熊本県地区優秀賞2回、熊本県民文芸賞、家の光童話賞優秀賞などを受賞させていただいています。