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白ねこと少女
1 やねがわらの上の白いねこ
絵里は、小学五年生だ。アパートの二階に住んでいる。まわりには、たんぼや畑に代わり宅地がふえてきた。となりは二階だての大きな家で、子ども部屋の西側の小窓からかわらの一枚一枚がはっきりと見える。その屋根に最近、白いねこがあらわれるようになった。
「いつも、なにしにきてるのかしら」
ねこは、かわらとかわらがかさなったとっぺんに、前あしをのばし、部屋をじっとのぞいている。
絵里は、犬やねこがあまり好きではない。ただそのねこは、どこかすまし顔で、そのぶん、ちょっぴりいたずら心がわいてくる。近づいておどかしたり、ふさふさした毛にも、さわってみたい。
弟の祐一が乗ったオレンジ色のスクールバスが、たった今、アパートの前を出発した。
「それじゃあ、えりちゃん、お母さんもいくわね」
母の和子もそれに合わせ、仕事へでかけた。祖母の富江がくるには、まだしばらく時間がかかる。そんなとき、いつからか、白いねこが話し相手になった。
「あんまり、じろじろ見ないでよ」
パジャマからふだん着にかえた絵里はふんと鼻をならし、今日、やるつもりの教科書をえらんだ。国語と算数、それに社会だ。
「あなたは、いいわね。ただそうやってボーッとしていればいいんだもん」
いつも自分なりにやれるはんいで、漢字や計算をやっている。
でも、その日は天気もよく、どうしても一番にしたいものがあった。
「ねこのあなたには、むりでしょう」
絵里は、教科書を机の上に置いたまま、かべにかかったまるい鏡の前でマスクをつけた。少し息苦しいがなれている。さっそくねこに自慢でもするように、胸をはり、玄関へ向かった。
ドアをいっぱいあけ、一輪車のサドルを両手でかかえ、ポンととびらを足でけった。階段をおりると、そこがいつもの出発点だ。
体をささえるため、階段の一番下の壁に手をかけた。
サドルをななめにし、すばやくペダルに両足を置く。壁から手をはなし、一気にのりあげた。左右の手は、交互に水をかくようにゆれ、たくみにバランスをとり、タイヤは路面をころがっていった。まるで、ツイストをおどっているようだ。
「あっ」
目の前を、あの白いねこが走りすぎた。
絵里が一輪車にのることを知っていたかのように、正面を横ぎった。すばやい動きで背をかがめ、道路にでていく。きわにはガードレールがあって、幅一メートルほどの井手とへだてている。
「わっ、すごい」
白ねこは、ガードレールのすきまから、あっというまに井手を飛びこえ、ブロックべいのわれめへいなくなった。
へいの向こうは空き地で、あつぼったい葉をつけた丈の高い草が生いしげっている。トゲのあるツタもはい、ハハコグサが黄色い花をさかせている。ブルドーザーやダンプカーは、ずっと前にひきあげてしまっていて、もういない。
いつも、駐車場の中だけこいでいた絵里は、少し道路に出てみようと思った。バランスをとるため、神経を集中する。くるぶしとかかとの力を、ゆるめたりいれたりし、ときおりペダルを固定させ、ブレーキをかけた。角でキュッと曲げ、左へおれる。彼女にとって、自分と一体となってはしる一輪車は、なによりも楽しい乗り物だ。路面に勾配はなく、平らな道がつづいている。太ももに力をいれ、いつもどおりバランスをたもつことにせんねんした。
「あのねこは、どこにすんでるんだろう」
ちらりとブロックに目をやり、気をとられた瞬間、思ってもみないことがおこった。数メートル先の曲がり角から、大きな自転車があらわれたのだ。一輪車に、すえつけのブレーキはついていない。思いきって方向をかえるか、その場で飛びおりるのが、せいいっぱいだ。
相手は、そんな事情がわかっているように、先にハンドルをきってくれた。バランスをくずし、ウオーッとさけび声をあげ、一直線にガードレールにつっこんだ。絵里はころばず、一輪車だけが足をすりぬけ、道路の中央に飛び出した。車が来ていないことが幸した。
自転車にのっていたのは、大きな男の人だ。
ゴテゴテのぶあつい革ジャンと帽子をかぶっている。肌の色は浅ぐろく、吹きでもののあとが、ほほにいくつかのこっていた。目が細く、ちょっとこわそうだ。痛そうに顔をしかめ、ゆっくり立ち上がると、自転車をおこした。ハンドルが心なしか曲っている。
自転車を押しながら、近づいてきた。彼女は、逃げだしたい気持ちを必死にこらえ、肩をすくめじっと身がまえた。
「おじょうちゃん、だいじょうぶ?」
やさしい言葉づかいで、心配そうに聞いてきた。
それがかえってあやしげに感じられ、心をゆるせない。口もとをひきしめ、立ちすくんだ。
「ごめんなさいね」
困った相手は、おまわりさんみたいに両足をきちんとそろえ、敬礼のように帽子をちょこんととって頭を下げた。ズボンの後ろに手を伸ばし、財布をとると名刺を一枚ぬきとった。
「島道夫です。どうもすみませんでした」
肩書きは「社長」だ。
初めて人から名刺をもらった絵里は、緊張してドキドキした。ザワザワ胸騒ぎがおこり、モゾモゾおなかのあたりがくるしくなった。うずは、腸の中で左右へ移動し、おしっこに行きたい気になってきた。
絵里は男の人のことなど、もうどうでもよくなった。
あわてて一輪車を引きずると、アパートへ引き返した。おなかをしげきしないよう、階段をゆっくり上がつた。玄関へはいると勢いよく扉をしめた。
トイレをすませた後、子ども部屋の北にあるもう一つの窓から、うすいレースのカーテンごしに外を見た。
さっきのおじさんが、まだ、じっとフェンスの向こうからこちらを見上げている。わざとカーテンを動かしてみた。おじさんは向きなおり、曲ったハンドルのまま、道を下っていった。ジャンバーが、風をうけたヨットの帆のように大きくふくらみ、サンダルがペダルからずれそうだった。
─まるで酔っぱらった人みたいだ。
絵里は、ようやく息をついた。叱られずにすんだことが、今ごろになってホッとしてきた。こちらはあやまらなくてよかったのか、それもちょっと気になった。手の中の名刺をまじまじと眺め、「しまみちお」と声にだしてから、机の引き出しにしまった。
絵里は、マスクをはずした。息が楽になった。
昨日、和子が布団をとったばかりの脚がむきだしのこたつ台があった。暦は四月になり、空気には以前のような冷たさはなく、おだやかなぬくもりがひろがっている。すべてが衣替えの季節だ。服は長袖から半袖へ、樹木はかたい蕾から花びらへ、空は濃いにび色からかすれた綿菓子のような雲のたなびく薄い青へとかわっていた。
彼女のまわりのすべての人や風景が、少しずつ重たいものを脱ぎすてていくようだ。
絵里は急に、思い出し笑いをした。
ぶつかった男の人の顔が、また浮かんだ。
厚手のジャンバーを着て、足は、靴もはかず裸足にサンダルだった。絵里も、風邪をひいているわけでもないのに、顔にマスクをしている。なんだか、お互いにへんなかっこうだ。
玄関のベルが鳴った。
鍵を開けると祖母の富江が立っていた。
「おはよう。えりさん」
富江は彼女と向き合うと、いつもの微笑みを浮かべた。
「おばあちゃん、さっきね、へんなおじさんと会ったよ」
絵里は、富江がくつをぬぐが早いか、一息に話しだした。祖母の顔色が、サーッと雲がかかったようになった。
「ちがうの、ちがうの。へんだけどね、なんかおもしろい人」
いけないことをしてしまったようで、不安になった。
「えりさん、どこで会ったの?」
「一輪車にのってたら、ぶつかりそうになってね、むこうがよけてくれたんだ」
「じゃあ、道路に出たのね。あぶないよ」
富江は心配げに絵里を見て、彼女の肩をかるく抱いた。
「ちょっとだけだから、心配しなくていいから」
名刺をもらったことは、だまっていた。
どことなく気まずい思いがしたので、居間へいきテレビのスイッチを入れた。
胸のイルカのペンダントが、アパートの鍵といっしょにゆれている。
二年前、海水浴の帰りに土産店で買ったものだ。親子四人、同じ家に住んでいた最後の夏のことだ。
絵里は、胸もとから飛びだした銀のくさりをつかみ、おしこむように服の中へしまった。
「今度、パパ、仕事の都合で職場の近くに一人で住まなければならなくなったんだ」
それはちょうど、海水浴にいってしばらくたち、夏休みが終わろうとしていた日のことだった。絵里が三年生、弟の祐一が小学校に入学する前の年だ。
「それでママもいろいろ考えたんだけど、絵里たちの学校も、ちょうど来年から統合で場所がかわるでしょう。だからこのさい、あなたたちと三人でおじいちゃんとおばあちゃんの家の近くに引っ越そうと思うの」
祐一は話を聞くや、泣きだした。近くに同じ保育園に通う友だちがいて、よく遊んでいたからだ。統合のことがよくわからず、その子と、すぐにはなればなれになると思ったのだ。
「どうして、もっと早く言ってくれなかったの」
叫びながら、おいおい外にひびくくらい大声で泣いた。
そのとき絵里は、知らず知らず手がティッシュの箱に伸びていた。ぬきとってもぬきとってもそこから紙が出てくる。小さくたたんでは、またひろげ、たてに引き裂くことをくりかえした。
「ごめんなさいね。ママたちも悩んでたから」
祐一は、それから和子といろいろ話しているうちに、学校が統合されることが、けっして今の保育園の子とはなれるのではないことがわかり、気分をとりもどしたようだった。泣きつかれたのか、しばらくせぬうちに、こくりと眠ってしまった。
絵里は、晃が自分たちと離れ一人で住むことにさびしさもあったが、両親のもめごとを見なくてすむと思えば、うれしくもあった。
富江のとなりにすわって、そんなことを思いだしていた絵里は、今度は自分の部屋へ入っていった。
ごとごと動かし、持ってきたのは機織り機だ。四方を角材で組まれ、中央にたて糸が数十本、ぎっしりと張られている。立てると彼女の腰くらいの高さになる。晃が、先月の誕生日に送ってきてくれた。
宅急便の配達員からうけとった後、紙をはぎとりながら、どんなものが出てくるのか、絵里は楽しみだった。
「なんだろうね」
富江がとなりでつぶやくように聞いたのが、まるで昨日のようだ。
紙をはがすと、ダンボールの箱から、なめらかな木目の織り機があらわれた。使い方のわかるビデオまでついていた。
テレビでは、マーチの曲に合わせ犬やねこが登場し、フィナーレの曲が演奏されている。
「このへんにいるねこや犬って、こんなにかわいくなんかないよね」
絵里は、両ひざ立ちで織り機の準備をしながら、わざと大げさに言った。
2 おばあちゃんが飼っていた白いねこ
絵里が、小学校へ行かなくなって、一年になる。
三人が、今のアパートにきて半年がたち、統合された学校や生活に、そろそろなれだしたときだ。
その日、和子は仕事先の市役所のつごうでとなり町へ出張し、絵里も祐一も富江たちの家にあずけられた。
祖父母との朝食をすませ、ランドセルを背負い、登校しようとした矢先、それはおこった。
靴をはこうとした絵里は、それまでぴーんとはりつめていた何かが、突然音を立てくずれた気がした。全身から力がぬけていくようだった。
絵里にそんな感覚がおとずれたのは、その日が初めてではない。父親とはなれて暮らすようになり、一月ほどたったころ、ある事件がおこった。
学校へ向かうスクールバスでのことだ。
いつもだったら、バスの中で、祐一と窓ぎわの席にすわって外の景色を眺めているのだが、その日は、たまたま起きるのもおそく、祐一が風邪をひいて欠席することになったため和子もあわてばたばたしていた。絵理も追いたてられるように、いそいでバスにのった。
バスに乗ったときから、どことなく体がむずむずした。景色だけがボーッとすぎていってるようだった。前と同じ学校に通っていた友だちもいたが、新しい学校になってからなんだか話しにくい感じだった。そうこうしているうちに、少しずつ不安はひろがって、やがておしっこにいきたい気分になってきた。
バスは、だれかがのるたびに停車する。動き出すとゆれはじかにおなかにつたわって、絵理は我慢できなくなった。
学校へ着いたとき、すでに限界だった。
絵理はこわばった顔で、一歩、一歩ゆっくりステップをおり。ほかの子の声も耳をかすめたが、それどころではなかった。
一番近いトイレへ行こうと膝に力をいれたとき、校舎の入口を目前に、ふるえはしびれにかわった。ふとももに、温かなものがながれ落ちた。絵里は、はずかしさでいっぱいになり、階段下の下駄箱のすみに、小さくうずくまった。何人かの子が声をかけたが、うなだれたまま、動くことができなかった。
学校で服をかり、帰りに洗濯してかわいたもにかえたため、和子には知られずにすんだ。
それから変な感覚は、しょっちゅうやってくるようになった。アパートを出て、道路ぎわでスクールバスを待つ間からじょじょに始まり、乗ったとたん、いっぺんに彼女の頭の中であばれだすのだった。
もちろん、教室に入ってからもつづいた。
友達の顔を見ても、相手の顔と声とが、日ごろ、絵里の知っている子とはどこかちがうようで、近よるのもこわくなってきた。先生も同じだ。とてもやさしくて好きな先生が、その日から少しずつそばへいくことができなくなり、向こうから、ひそひそ声が聞こえるようになった。さいしょはよく聞きとれなかったが、それがだんだんとはっきりとしてきた。トイレはもうすませたの? おもらしはしないわね? またするんじゃないの? と、しつこく聞いてくるのだ。
絵里は、そのたびに胸が苦しくなり、もう、二度としないから、と言おうとするのだが、どうしてもそれができなかった。
いよいよ登校できなくなる、三日前のことだ。
学校では月に一度、学年ごとにクラス対抗のスポーツ大会が行われる。絵里も選手の順番がまわってきて、リレーを走らなければならなかった。彼女は、なんとなく不安だった。あの感覚がそ の日はずっと、朝、起きたときから始まっていたからだ。
白線の上に、他の組の子といっしょに立っていたときだ。
クラスのみんなが、自分を応援してくれているのがよくわかった。だが、その声援がよく聞きとれない。
どこからかあの声が聞こえてきた。
みんなは、ほんとうはあなたのことなんか応援したりしてないわよ。おもらしをするような子は、ころべばいい、ぬかれてビリになればいいと思っているの。
絵里は、どうしていいのか迷った。足音は、地ひびきのように迫ってきている。彼女の手には、もうじきバトンがわたさせるのだ。
そのとき、声がはっきり言った。
あなたは、そこにいたいの、どっちなの? 絵里は、いたくない、と答えた。するとすかさず声は、返事をした。そう、だったら立っていることはないわ。すわりなさい。
絵里は、走りだすことも、立っていることもできず、その場にしゃがみこんでしまった。
玄関にいる絵里も急に泣きだし、リレーのときと同じにかがみこんだ。
祖父の繁が強くしかり、手をひっぱり外へ連れ出そうとしたが、石のようにかたまって動かなかった。それどころか、はっきりと、前から学校なんか行きたくなかったが、我慢していたと泣いて訴えだした。
すぐに、和子に連絡がされた。
低めた声で母親に電話で説明する富江の言葉を聞きたくなくて、居間に帰った絵里は両手でつよく耳をおさえていた。それから祐一が帰ってからも、絵里はほとんど無言で過ごした。祖父母もむりはせず、様子を見ることにした。
夕方、母親が玄関の扉を開く音がし、富江がすかさず出ていった。
押しころしたように、自分の今日一日の様子が伝えられると、絵里はさらにイライラしてきた。廊下を歩く母親の足音を耳にしながら、できるだけいつもとかわらぬ態度をよそおい、祐一のとなりでテレビの画面へ顔を向けていた。
和子はひとまず二人を連れ、アパートへ帰った。
「えりちゃん、ママ、えりちゃんが学校へ行かなかったことをおこるつもりはないのよ」
アパートへ着いてから、和子はやさしい声で話しかけてきた。絵里は、黙ってソファーに背をもたせた。
「お願い。何があったのか話してくれる?」
しだいに言葉と言葉との間かくが短くなる母親を、絵里は、祖父母の家にいたときには見せなかったすさまじい顔で、にらみかえした。
やがて目には堰をきって涙があふれ、頬と唇はゴムのようにふるえだした。和子の瞳も、気迫におされるように、うるんでいた。和子は絵里の手をしっかりとにぎった。
絵里は座ったまましゃくりあげた。そばにあったピンクのクッションをわしづかみにし、顔を押しつけ、哀しくてやるせない声を胸の底からしぼり上げた。
和子は、泣きつづける娘の横にすわり、肩をだきよせ見守るほかなかった。祐一がテレビを見ながらも、ときおり二人に、不安げな視線を向けていた。
機織りをする孫娘を見ながら、富江は、三か月ほど前、自分の家へ父親の晃から手紙が来たときのことを思い出していた。
絵里が学校へ行かなくなったこと。調子がわるいとき、朝から母親や富江に物を投げつけたり、蹴ったりして荒れている話を和子本人から聞き、それが自分のせいではないか、そう考えれば考えるほど胸が痛むことが書かれてあった。絵里の目の前で和子と激しい言い争いをしたり、暴言を吐いたことをわびる文面の後、今度会ったときは、必ず二人の子どもと母親に心からあやまりたいとそえられていた。
「このへんのねこや犬だって、飼ってみればかわいいもんだよ」
富江が、手紙を受けとったときのやりきれない気持ちをふっきるように、なにげなく新聞をめくりながら話しかけた。
「でも、おばあちゃんち、なんにも飼ってないじゃない」
絵里の脳裏には、動物の瞳が浮かんでいた。
「おばあちゃんが小さいときは、ねこを飼ってたんだよ」
意外な祖母の声に、
「えっ、ほんと」
案の定、織り機の手を休めのってきた。
「それって、もしかすると白いねこ」
「あたり。よくわかったね」
絵里の胸の中は、驚きでいっぱいだった。
富江は、自分が絵里と同じ年ごろだったときのことを回想しはじめた。なつかしそうに額にしわをよせ、目を細めたりした。
あの日、富江の両腕には、白く小さく、もぞもぞと動く子ねこが二ひきだかれていた。
ひろってきたねこを飼うことを富江の母親は猛反対した。家を汚すというのが一番の理由だった。
「いいだろう。猫の一匹や二匹」
そばで聞いていた父が言ってくれ、富江が世話をすることを条件に一応、解決した。
「昔の家は、玄関が広い土間になっていたの」
絵里は、富江の方へ身をのりだすかっこうで聞いていた。
「そこで飼おうと思ったの?」
「そうだよ。おばあちゃんの家は海べただったから、アサリ貝とか小さな魚とか、ちょっと海辺にいくと岸に上がっていてね。それを餌にひろってきてたんだよ…だけどね……」
富江の表情がくもった。
「そうしたら、あるときいなくなったの」
「もしかして死んじゃったの? 二匹とも?」
一挙に声がはねあがった。矢つぎばやの質問にも、富江はできるだけ静かに答えた。
「悲しかったよう。いっしょうけんめい育てていたから」
「死んでるのが見つかったの?」
「うん、おばあちゃん、せいいっぱいさがしたんだ。そしたら縁側の下のすみに白い毛が見えてね」
「それが子ねこの死体だったんだね」
富江はそんな絵里の言葉に、こっくりうなずきながら、
「びっくりしたよ。いきなり死んでしまったからね」
落胆するように肩をすぼめた。
「でも、もう一匹の子ねこがみつからなかったのよ」
「その一匹も、死んだんじゃないの?」
富江はかるく首をふり、
「ううん、おばあちゃん、どうしても生きてるって思ってたの。だからそれからもしばらくは、 小魚をお皿に入れて置いておいたんだよ」
首をかたむけ絵里の顔を見つめ、
「そしたらね、かならずなくなってたんだ」
「わあ、よかったね。だったら生きてたんだ」
絵里も両手を合わせ、拍手するような動作をした。
「うれしかったよ。きれいにたべられてたから」
富江も、無邪気そうに笑った。
「ところがねえ、ある日、居間にいたら土間の方でまたかさかさ音がして、くちゃくちゃ食べてる音がしたの。おばあちゃん、うれしくなってね、こっそり襖を開けて見てみたんだ」
絵里の胸も高鳴り、大きなまばたきを知らず知らずくりかえした。
「そしたらね……」ひと呼吸置き、「タヌキみたいな、まるまると太ったねこがゆっくり首をまわして、おばあちゃんをにらんだの。見たこともないような大きなねこ」
富江は大きく息を吸い込み、頬をふくらませた。
「大きなねこ?」
絵里も思わず声を上げた。
「そう、こんな」
両腕を肩幅ぐらいに広げ、輪をえがいた。絵里も目を大きく見ひらき、
「そのタヌキねこが子ねこをたべちゃったんじゃない」
わざとすました声で聞きかえした。
「おばあちゃんもそのときは、よくわからなかったよ。ただ必死で、そばにあった竹ボウキをつかんで、タヌキねこを追いはらったんだ。おそいかかってきそうだったし。こわくって」
絵里の顔も、だんだんと真剣になってきた。富江は、おだやかな口調にもどった。
「まさか食べたりはしないだろうけどね、でもようやく近頃、ピンときたの。あそこはそもそも、あの大きなねこのなわばりだったんじゃないかって」
「自分の庭みたいなもの?」
「そうだね。きっと、前からよくそのねこはきてたんだよ。でも、小さな子ねこがいたもんだから、外へ追い出したんじゃないかと思うんだ」
「育てるぐらいしてもいいのに」
「自分の子どもじゃないからね。どんなに小さくったって、なわばりにきたら、あらしにきた一匹のねこなんだよ」
「だったら、もう一匹の子ねこはどこにいったのかな」
「おばあちゃんは、やっぱりどこかにくわえて連れだされたと思うんだけど」
それから、最後にポツリと言った。
「小さいときぐらい土間じゃなくって、家の中でしっかり世話してあげればよかったんだけどね」
絵里には、姿を消してしまった子ねこのおびえる目が見えた。瞳の表面はみずみずしく、輝いている。やがて目はくぼみからはなれ、宙をただよい、絵里のまわりを光の渦でつつみだした。まるで二つの星のように、光は線をえがき、絵里の体のすみずみにとどいていく。透明な輝きの満ちる中で、絵里はポッカリと宙をただよっているようだ。
「機織りやろう」
思いだしたように織り機の前に腰かけた。
毛糸のたて糸は、上下半分ずつにわかれ、その中を長い流線形をした平たい板に巻かれた横糸をとおしていく。ペダルを上げ下げし、前にやったり後ろにやったりし織りこむことで、縦横に交さくした模様はできあがるのだ。
「えりさん、ずいぶん上手になったね」
「まあね」
絵里は得意げに答えた。
カタカタと音がなり、単調な作業が、なれた手つきでこなされていった。
3 消えてしまった白いねこ
井手向こうに飛びはねていってからというもの、白いねこは、絵里の目の前にあらわれなくなった。
「どうしたのかな」
絵里は、なにもいないかわらを眺めては退屈な日々をすごした。
そんなある日、絵里と祐一は和子の車で急きょ、病院へ向かうことになった。祖父の繁が銀行へ行ったとき、雨でぬれた階段でころんだのだ。知らせを聞いた和子は、仕事を早退してきた。
頭のうしろと腰をつよく打ち、救急車で運ばれたらしい。
病院は白っぽく、ところどころ凹凸のある壁紙でおおわれていた。掌でなでると、ざらざらした。
祖父が寝ている病室になんとなく入りずらかった絵里は、廊下で壁に手をあて、さする遊びをつづけていた。
「えりちゃん、おじいちゃんが顔を見たいって」
先に来ていた富江が部屋から顔をだし、絵里を呼んだ。
学校に行かなくなった最初の日、つよく叱られたこともあって、絵里はどこかで繁を避けていた。
「おねえちゃん、おじいちゃんのことがきらいなんだよ」
祐一がふりむきざま言うと、和子がすかさず、たしなめた。
部屋は、消毒液の匂いがした。祖父と顔を合わせずらかった絵里は、一歩一歩、重い足どりで近づいていった。腰のあたりの布団が大きくもりあがっている。右足はギブスで固定され、匂いはそこからしていた。
繁の顔は、むくんでいた。横になっているので、いっそう皮ふがたるんでいるようだ。あれほど元気だった祖父が、絵里には信じられなかった。表情をくずせばくずすほど、むりをしていることがわかった。
「えりちゃん、ありがとうね」
繁は、寝たままの姿勢で首をわずかに持ち上げ、ゆっくりとしゃべった。声に力がなく、かすれていた。
「おじいちゃん、だいじょうぶ?」
絵里も、こわごわたずねた。
「ここのところに」
富江が自分の太もものつけ根をさすり、
「ヒビがはいっているらしくてね、少し長引きそうなの」
目じりにしわを寄せ、説明してくれた。絵里も、不安げに眉を動かした。
それから富江は、これからしばらくの間、毎週木曜、どうしても繁の看護のために病院へ行くことを告げた。
「ごめんね。お洗濯物とか、いろいろしなきゃいけないことがあるし、それにお医者さんが、けがの経過を見て大事な話をしてくれる日なの。おばあちゃん、おじいちゃんのそばについてもいいかな」
「うん。いいよ」
絵里は、はっきりと答えた。
和子と祐一の三人で病室を出た絵里は、さっそくマスクをはめた。
エレベーターに向かったときだ。
祖父の病室から四つめの扉が開き、見おぼえのある厚手のジャンバーの人があらわれた。
足もとを見ると、裸足にサンダルばきだ。
自転車でぶつかりそうになった、あの島さんだ。
島さんは絵里に気づくと帽子をとり、頭をちょこんと下げた。和子は、ちょうど走りだした祐一を止めようと前に行ったときだったので、絵里と島さんだけが顔を合わすかっこうになった。 絵里は、びっくりし、とっさにかるく手をふると、島さんも目を細めた。
玄関に出たとき、自動ドアのすぐ横に島さんの自転車が置いてあった。前輪の横にはプランターがあり、紫のヒヤシンスが日を受けていた。
「えりちゃん、なに見てるの?」
ふと気づくと、立ち止まっていた横へ和子がやってきた。祐一は、車の方へスタスタ歩いていく。
「ううん、なんでもない」
マスク越しに答えながら、島さんのさっきの顔を思いだしていた。
その週の日曜、絵里はまた祖父を見舞っていた。
プランターの横には、ママチャリ自転車があった。それだけでなんだかうれしくなり、病室が近づくにつれ、よろこびは大きくなっていくようだった。
繁の顔を見た後、さっそく、売店でジュースを買ってくると言って外へ出た。
さりげなく、島さんの部屋へ目を向けてみた。
わずかに扉が開いている。
足をとめ、中をこっそりのぞきこもうとしたとき、扉が動き、島さんがあらわれた。
「おや、おじょうちゃん、また会ったね」
絵里も、挨拶がわりに片手をほんの少し上げ、
「だれか入院してるの」
小声でたずねた。
「おやじがね。ふた月になるんだけど」
表情は少し沈みがちだ。
「どこがわるいの?」
さらに小さくささやくようにたずねた。
「どこがって、もう年だからね」
絵里が、ふうんと首を動かすと、今度は島さんの方から、
「おじょうちゃんの方は?」
皮ジャンのポケットに両手を突っこみ、聞き返してきた。
「わたしはおじいちゃんが、銀行でころんだの」
「そりゃ、たいへんだ」
島さんは、自分が足をくじいたように、痛そうに顔を顰めた。
「ところで、おじょうちゃん、カゼはなおったの?」
マスクのことかとピンとき、そのままこくりとうなずいた。その日は日曜だったので、マスクはしていなかった。
「おじょうちゃんの名前、まだきいてないね」
絵里は、なんとなく安心してきたので、自分の名前を教えた。
「えりちゃんか。よかったら、おやじに会っていく?」
それには、首を横にふった。
「そう。だったら、おじさんも日曜はだいたい来てるから、また会えるといいね」
ぼそりと告げ、絵里も黙ってそこを去ろうとした。でも、途中でふり向くと、
「早くよくなるといいね」
そう言って売店の方へ走りだした。島さんもうれしそうに笑った。
病院の帰り、まだ時間も早かったので、三人は近くのデパートによった。晩ごはんのおかずの 材料を買うため、食品売り場へ向かった。
冷凍食品のところを歩いていると、男の人が、小さな声でぶつぶつ一人ごとをつぶやきながら、焼きギョーザの袋を手にとり眺めていた。そこへ、紺色のトレーナーにジャージ姿の人がやってきた。
「また、こんなところにいて。何回言ったらわかるんですか。買う物は、カップメンとかお菓子だけですよ。どうせ、火は使えないんですから」
あからさまに言うと、周囲を見まわし、場つくろいのように頭を二、三度かいた。絵里は、なんとなくいやな思いがした。
「ああ、ホープヒルの人たちね。ここに買い物に来るんだわ」
和子が、かちかちに凍ったピラフをかごの中に入れながら、ちらりとそちらを見て、つぶやいた。絵里もホープヒルの話は、どこかで聞いて知っていた。
インスタント食品の売り場を見ると、ぞろぞろ十人ぐらいの人が列をつくり、歩いていた。どの人も背をまるめ、だらりと手を下げ、くらい表情をしていた。目を見るとうつろで、静かに品物をとっては、またもとの棚にもどしていた。ギョーザを見ていた人も、若い職員に腕をつかまれ、その中へつれられていった。
一週間がたった。
次の日曜、ママチャリは、同じ場所にあった。
絵里は、さっそくジュースを買いに病室からぬけだした。
彼女はどこかであせっていた。それというのも、来るとき見た島さんの部屋が扉がきれいにあけられ、間仕切りのカーテンも隅によせられ、中がのぞけたからだ。
個室にはベットも人の気配もなく、がらんどうだった。
絵里は、心臓がドキドキし、下のロビーへ走り出た。
自動販売機にコインを入れ、パック入りのジュースを出した。急いでそれをつかみ、はなれようとしたとき、絵里の立つ廊下の一番奥に人影が浮かんだ。
ラバーばりのパイプの椅子に見おぼえのある男の人が、しょんぼりと肩を落として座っていた。
まちがいなく、島さんだ。
非常階段に一番近い場所に、そこだけ黒い紙の切り絵のように、はりついていた。
絵里は勇気をだして近づいていった。
数メートルまでいくと、島さんが、同じジュースのパックを持ち、ストローをぼんやりとくわえていた。
彼女に気づいたのか、最初、とまどったふうだったが、すぐに椅子に深く腰をかけなおし、大きく溜息を一つついた。パックをふいごのようにふくらませ、それを小さな風船のようにパンパンにした。ジュースは完全に飲み干され、空になっているようだった。
絵里は、一歩、足を運んだ。手をのばせばとどくところで、じっとしていると、島さんは、悲しげに眉を細めた。
絵里はジュースを持ったまま隣に腰かけた。島さんの口がそれに合わせるかのように、ストローからはなれ、ゆっくり開いた。
「おやじが、死んじゃったよ」
「……」
絵里は、なんと言っていいのか、わからなかった。体が金しばりにあったように動かなかった。
4 瞳の奥の白いねこ
「今日の午前中だったんだけど」か細い声で、相手はつづけた。
「おじさんは、ここにいていいの?」
絵里にとっては、精一杯の言葉だった。
島さんは、首を横にふるだけだ。
天井からふりそそぐ蛍光灯の明りが唇に反射し、つばを薄い氷の破片のように光らせていた。 島さんはおもむろにストローをくわえては吸ったり吐いたりし、パックをふくらませたりちぢめたりした。それからぎこちない動作で、ジャンバーの内ポケットから一枚の写真をつかみ、絵里に見せた。縁がインクでにじんだようにところどころまだらをつくり、色あせていた。
「これが、おじさんちなんだけど」
絵里は写真に目を向けた。喫茶店のようなつくりの建物の前で、島さんともう一人、小柄な老人がならんで写っていた。
「お店をやってたんだよ。おじさんは、こう見えてもコーヒーを入れるのが得意だったんだ」
そこにはないフィルターに、今にもお湯がそそがれ香りを嗅ぐように、顎をしゃくった。口もとは知らず知らずニンマリとゆるんでいた。
「もう二度ともどってこない思い出だね」
島さんは苦しそうに咳きこんだ。喉の奥で啖がからみ、それをむりやりとるように、激しく二度くりかえした。絵里は思わずもう一度、島さんの顔を見た。息も絶え絶えに赤くなっていた。
「おじさんも、具合がわるいの?」
「ああ、少しね。でもちっちゃいときからだから、もうなれちゃったよ」
島さんは笑みを浮かべながら、途切れ途切れに答えた。絵里はそのとき、ベッドに伏している繁のことを思いだした。すぐにもどろうかと考えたが、なぜかできなかった。
咳もだいぶ落ち着いてくると島さんは、写真をひざの上に置き、思いたったように顔を上げつぶやくように、
「おやじの心臓が止まってから最後に、おじさんが鼻から管を引きぬいたんだ。そしたらこんなに、へびみたいに長くって……」
腕をひろげ目を丸くした。絵里の両肩の何倍もあった。
「先っちょに、血がこぼれてて、それがチロチロ出てる舌みたいに見えてね。おじさんこわくなって」
クスッと笑い、「みんながとめたけど、それを窓からほうり投げちゃったんだ。そしたら親戚から、お前はいいから外に出てろって」
眉と眉との間にシワをよせ、今にも泣きだしそうだった。唇をつよく噛み、すぐにストローを口にすると、噛みくだくように歯をたてた。
「あの機械、こんなふうにね」
パックに空気を入れ、吸っては吐き、
「おやじに、むりやり息させて。おじさん、ぜちゃったいやっつけてやりたかったんだ」
真剣な顔だった。
「あとで見たら、指先に血がついてたんだよ。おやじの匂いがした。酸っぱい、それでいてねばねばしてるようで……」
島さんの背中から腰にかけ、バネがしかけられているようにふるえだした。まるで凍えた人のようだ。
「それなのにおじさんは、あんなに好きだったおやじなのに、その血をなんども、水道で洗ったんだ……」
じっと片方の掌をひろげ、裏表に返した後、穴のあくように見つめていた。
「気持ちがわるかったの?」
「そうじゃない。そうじゃ……」
島さんは大きく息を吐いた。
パックをにぎった手の甲の上にもう片方の掌をのせ、かじかんだ手をもみほぐすように、何度もこすった。表情は、かげりを増し、うつむいたままだった。パックはつぶれくしゃくしゃになっていた。
絵里は体をかたくし、自分の掌をぎゅっとにぎりしめた。顔の筋肉がこわばり、うまく気持ちをあらわすことができなかった。
「えりちゃん、蝉をつかまえたことはある?」
さっきよりどことなく、やわらいだ口調だった。
絵里は首をふった。
「おじさん小さいときはよくおやじと蝉とりにいったんだ。虫かごに入れて飼ってたよ。砂糖水もちゃんと止まり木に塗ってやってたんだけど、でも、いつも何日かたって、夕方になると死んでるんだ。かさかさに乾いてね。まるで幼虫の抜け殻みたいだったよ。おじさん、悲しかった」
絵里も、たまに感じることがあった。
すっぽりと暗いベールにつつまれだす時間帯、暗い幕がおおいかぶさってくると、とても心細くなってくる。
「おやじは、明日には灰になっちゃうんだ」
絵理はおびえた顔になった。
「おじさん、おふくろが死んだとき、火葬場の人にたのんだんだ。燃えてるのを見せてくれって。でもだめだったな。あとで骨の中から、真っ赤なボルトが出てきたのはおぼえてるんだけど」
絵理は、下を向いた。
「おふくろはね、膝の手術をして、骨と骨とをボルトでつないでたんだ。あとでおやじが教えてくれたよ。おじさん、そのボルトを見たとき、てっきりおふくろの心臓かと思ってね。それをもらってお守りにしたかったんだけど、させてもらえなかった」
絵理は、こわくなった。
「もういかなくちゃ。ママたちが心配しているもの」
「もしよかったら、今度、おじさんちに遊びにこない?」
島さんは持っていたペンで、写真の裏に地図を書いた。
「なんならおじさん、迎えにいってもいいよ」
絵里は、地図を見ながらしばらく考えた。アパートからそう遠くないところのようだ。絵理がどうしようか悩んでいると、島さんは、いかにも人なつこそうに声をかけた。
「いつならいい?」
「いけるとしたら木曜かな」
とっさに彼女は、富江がアパートへ来ない日を答えた。
「わかった。だったら、こんどの木曜にね」
けっきょく、つぎの木曜十時に、アパートの前で待ち合わせすることになった。
「あっ、それからこれもわたしとくね」
島さんは、また名刺をとりだした。
「名刺ならもらってるよ」
断ろうとすると、それをさえぎるように強引に手ににぎらせた。
今度は『島道夫』と書いてあるだけでなく、文字はすべて金色になっていて、肩書きも『取締役』だ。
「あれ、おじさん、社長じゃなかったの?」
待っていたとばかりにうれしそうに、
「印刷屋のセールスがうるさいから、おやじが入院してるうちにつくってもらったんだ。こんどは取締役がかっこういいかなって思って」
彼女は、しかたなく写真と名刺をもらい、オーバーオールの胸ポケットにしまった。椅子から立ち上がると、階段へ向かった。一歩あがるたびに、祖父たちのことを思った。靴音が耳の奥にひびいた。
病室は、絵里の不安をよそに、笑い声で満ちあふれていた。
「はい、これ」
絵里は自分が飲もうと買っていたジュースを祐一に手わたした。祐一は、ありがとうと、笑ってうけとった。
「祐一よかったね。おねえちゃん、ちゃんとあなたのぶんも買ってきてくれたんだ」
和子が言うと、祐一は照れくさそうに鼻の下を手でこすった。
その晩、絵里がベッドに寝ていると、天井の木目もようが大きくなってきた。そこだけ気味のわるいほどふわふわと浮かび上がった。まぶたを閉じると、うらがわでパーッと光が飛びちったようになった。
前にカゼで熱がひかず、寝込んだことがあった。目を閉じると、空へつづく階段を一人で上っていく気持ちだった。その日も、そのときに似ていた。自分の家から、どんどんはなれていっている気分だ。
祖父の顔が浮かんできた。顔中しわだらけで、とても小さく、今にも消えてしまいそうだった。このままベッドごとどこかへ運ばれていくのだろうか。富江が追いかけ、和子も祐一もついていった。絵里はどうしようか一瞬悩み、そのわずかの迷いが手おくれになったようだ。目の前には幕がおろされ、なにも見えなくなってしまった。
絵里は、深い闇の底へ落ちていった。
次の日の朝、多少うなされ、目をさました。熱が三十八度五分あった。富江が看病をしてくれた。
ひんやりとした祖母の手が額にふれた。
「おじいちゃんはだいじょうぶなの」
「看護師さんがついてるから、今日はいいのよ」
「おじいちゃんの足、よくなってるんでしょう?」
「おかげさまでね。絵里ちゃんたちが、見舞いにきてくれるから」
「でも、いつか死ぬんだよね」
とっぴな孫の質問に、富江は真面目な顔になった。
「そうだね。一応、順番は年をとった人からだけど」
「おじいちゃんもおばあちゃんも、まだだいじょうぶだよね」
「そんなにかんたんに死ぬわけないでしょう。おじいちゃんなんかね、絵里ちゃんたちが帰った後、病院のご飯だけじゃたりないから、おばあちゃんにおにぎり買いにいかせたのよ。おばあちゃんも、ちゃんと一個もらったけど」
絵里もそこでようやく安心したように笑った。
「おばあちゃん、お葬式って行ったことある?」
「そりゃあ、あるわよ」
「初めて行ったのはいつ」
「あれはたしか、えりちゃんくらいの年だったかね。おじいちゃんが死んだときだから、戦争が終わって何年かしかたってないときだったと思うよ」
「死んだ人を燃やすのは、くさるから?」
「そうだね。死んだ人も骨にしてやらないと、いつまでもそのままにしておいてもねえ……」
それから少し間をおいて、
「あのころはまだ、途中で一度、火から出して、最後のお別れってことで見せてくれたんだよ」
絵里は、おどろいた。人が燃えているところを見せるなんて、残酷すぎる。祖父の繁が燃えているところを想像したが、顔の表面や髪の毛がちりちりと焼けているのを考えただけで耐えられなかった。炎の中から、バッと目を開け、熱いよ、熱いよと叫んできそうで思わず目を閉じた。
そのとき、まぶたのうらがわに、なにかがうごめいた。
「あ、白ねこ」
目を閉じたままつぶやいた。
「おばあちゃん、いなくなってた白ねこがいたよ」
さすがに富江も言葉が出ず、様子をうかがった。
「白ねこがね、火の中から出てきたよ」
「白ねこって、おばあちゃんが飼ってた、あの一匹?」
「そう。それからね、ほんとはね、わたしにもねこの友だちがいるんだ」
「へえ、じゃあ、おばあちゃんと同じだ」
富江がうれしそうに答えると、絵里も口もとをほころばせた。
「えりちゃん、まだ熱があるし、今日はゆっくりおやすみ」
ふとんを肩にかけなおしながら、顔をしばらく見つめた。
瞳の中で、さっきあらわれた白いかたまりはやがて、炎といっしょに右や左へゆれ動いた。
オレンジ色の光が、ふさふさした毛の先から、花火のように飛びちっていた。絵里には、それが七色の虹に見えた。無数のつぶが、さわさわとうずまき、白ねこは虹にかこまれ、彼女をふたたび深い眠りへさそっていった。
5 古い写真の中の白いねこ
風邪がすっかりなおり数日して、島さんと約束した木曜日がやってきた。
その日、朝から絵里の心は落ち着かなかった。島さんの家に行った方がいいかどうかぎりぎりまで悩んでいたからだ。行きたい気持ちがもたげてくると、すかさず不安がおいかけてくる。
地図によれば、家は井手向こうの細い道沿いにあった。学校の方角とは反対だ。店の立ちならんだ街中へ買い物に行くとき、和子が車でよく通る近道で、車がようやくすれ違えるほどの幅だ。一度国道に出て、入り直さなければならない。人目につかないためには、井手をこえ、直接、空地に入っていく方法がありそうだが、ガードと井手をまたぎ大きなママチャリで行くのは、どだいむりな話だ。
「そういえば……」
あのときの場面が、絵里にうかんだ。
自転車とぶつかりそうになったとき、白ねこがあらわれた。ねこは、ガードレールをしゃがんで、この方角へ消えていったのだ。絵里に、不安をふきけすかすかな期待がよぎった。
島さんの家をたどれば、どこかにあのねこがいる予感がした。
「やっぱり、行ってみよう。もしかしたら、ねこに会えるかもしれないもの」
祐一につづき和子が出勤した後、絵理は、島さんがきていないか、子ども部屋からのぞいた。
一回のぞき、二回のぞき、一分おきぐらいに見ていると、やがて約束していた時間をすぎ、ソワソワしてきた。三度めにカーテンをあけたとき、見おぼえのあるママチャリがあらわれた。乗っている人はもちろん島さんだ。
「アレッ」
絵理は、思わず小さな声をあげた。
島さんは自転車競技やマラソン選手がよくつかう、太陽の光をキラキラ反射させる、少し大きめのサングラスをかけていた。
皮ジャンとサンダルに帽子という格好さえ目立つのに、鏡のようなサングラスはとてもへんだ。
絵理は、おかしさをこらえながらマスクをはめ、アパートを出た。
「えりちゃん、ちょっと遠いから後ろにのっていいよ」
島さんは、サングラスの向こうから、はしゃいだ声で言った。
「だめよ。二人乗りは禁止されてるもの。わたしは歩いていくからいいよ」
絵理は、さっさと先へすすみだした。
「あっ、そうだ。えりちゃんは一輪車にのれるんだから、なんなら、それでもいいんじゃない?」
島さんが真面目な顔で言った。絵理は相手にしなかった。
「わかったわかった、おじさんもおしていけばいいんだ」
大発見でもしたように自転車から下り、ハンドルをにぎったまま歩きはじまた。ところがしばらくたってから、今度は島さんの方がなかなか前へすすまなくなった。
「どうしたの」
絵理が聞くと、
「じつは、えりちゃんにたのみたいことがあるんだけど」
神妙な顔だ。
「おじさん、ハンバーガーって食べたことないんだ。テレビで宣伝してるけどお店にいったことがないんだよ。よかったらいっしょに入ってくんない。ごちそうするから」
そんなところへ行くなど予想もしていなかった絵里は、おどろいた。それでも島さんは、なんとかたのむといった表情で、眉をサングラスの上から八の字にした。
「いいわよ。でも、あんまりゆっくりしないでね」
返事を聞いた瞬間、まんべんの笑顔になった。
二人は、ようやく歩きだした。
ママチャリはタイヤがまわるたびに、きしんだような大きな音をたて、両手でおす島さんの背中が、のそりのそりと動いた。絵理は、ずっと島さんのかげにかくれるようについていった。
国道に出て、交差点で島さんが止まった。左へまわれば島さの家にいけるはずだが、その先にハンバーガー屋があることを彼女は知っていた。
島さんには、ああ言ったものの、絵里は、だんだんと店に入ることが不安になってきた。でも、いまさら引きかえすわけにもいかない。
大きな看板とドライブスルーの標識が見えてきた。店には数人の客がいて、ドライブスルーには車はいない。
彼女に、いいアイデアが浮かんだ。
島さんは、駐車場につくとスタンドをいきおいよくけって、自転車をとめた。
「おじさん、ドライブスルーで買おうよ。自転車に乗ったままでもいいんだよ」
「へっ、そんなことできるの」
島さんは、信じられなさそうだ。
「ほんとだよ。外から買えるの」
絵理は、その場からだいたいの説明をした。
「そりゃあ、便利だね」
買えることが納得できると、やる気満々になってきた。
「あそこで言うんだよ」
絵理は、車の停止位置を指でしめした。
「それからマイクでね、チーズバーガー、フィッシュバーガー、それにポテトのLってたのんで」
絵里の言った言葉を島さんは得々とつづけた。
「チーズバーガーとフィッシュバーガーを一つ。ええとええと、それからポテトのLだっけ」
「いいよ、いいよ。その調子」
島さんをおだてながら、受取り口を教えた。
「注文がすんだらね、あっちの方にまわっていけばいいの」
ふむふむと合点したようにうなづいた。
「あとはお金をはらえば、ぜんぶすむからね」
練習が終わると、彼女は少し離れた場所で見守ることにした。
自転車にまたがった島さんは、わざわざスピードをつけドライブスルーに入った。ブレーキをキュッといわせ、背中をかがめ、唇をマイクにくっつくくらいにもっていった。
首を少しかしげ、声が小さくなっている。
緊張のせいか『ポテト』の言葉が出ないでいるようだ。
ほっとくわけにもいかず、絵里は手助けした。
「ポテトのLサイズだよ。おじさん」
地マスクをはずし、大きな声で言った。
「ああそうだった。ポテトのLください」
受けとり場所を指でさした。島さんもそれにこたえるように、ほこらしげにペダルをこぎ、移動した。
窓口の若い女性の店員がクスクス笑って、吹きだすのをがまんしている様子だ。そんなことはおかまいなく、島さんはママチャリにまたがり、お金を払った。サングラスが虹色にまぶしく光っている。
やがてハンバーガーの入った袋がわたされ、島さんは余裕の笑顔まで見せだした。すると今度は、名刺まで差し出している。店員は困ったふうだったが、頭を下げ受け取っていた。
「やったね。おじさん」
絵里は駆けより、背中をポンとたたいた。
ママチャリのかごに袋を入れ、二人また、もと来た道へ引き返した。
島さんの家についた。
建物は、写真と同じように昔、店をしていたつくりだ。
玄関には木づくりの扉があり、大きな切り株のような取っ手がついていた。絵里は島さんの置いた自転車の横をすりぬけ、二人、裏の勝手口へまわった。
サッシ戸の小さな扉で鍵はかかっていない。
扉をあけ、一歩中へ入った。
薄暗い部屋だ。ほこりをかぶった、どこかカビくさいにおいがした。でも不思議とこわい気はしなかった。少し奥へすすむと、天井には、星空のようにあちこちにライトがうめられ、いっせいに点灯した。厚い一枚板でできたカウンターが浮かび上がり、流しのとなりの棚にならべられた色りどりのコーヒーカップを映し出した。
スイッチをつけた島さんが、カウンターの下にしゃがんでいる。サングラスはいつのまにかはずしていた。
「えりちゃん、さっきはありがとう」
そう言いながら、袋からハンバーグやポテトをとりだした。
「あれ、カゼのマスクはしなくていいの?」
島さんにそう言われ、絵理は、ハンバーガー屋からマスクをはずしていることに気づいた。
「まっ、いいか。お礼にこれ食べてよ」
店の壁一面が白熱灯でほんのりと照らされ、明るさをましていた。
光は電球の傘を中心にひろがり、しだいにうすく周囲に溶けていた。
模様があるように思えた壁は、よく見ると写真がびっしりとはってあった。照明の反射で一枚一枚が光り、写真でないところにも便せんや葉書がすきまなくはられていた。
「アルバムやタンスの引き出しからあつめて、はったんだ」
「これは?」
絵里の目は、モノクロの一枚に釘づけになった。一匹の動物が写っている。
「むかし飼っていたねこ」
「ねこ?」
絵里の声が上ずった。
「ねこって、もしかすると白いやつ」
「えりちゃん、どうして知ってるの?」
島さんも驚いたように、目をまるくした。
「わたしの家のとなりの屋根にもきてたの。おじさんと最初に会った日もね、一輪車の前をとおりすぎて、こっちにきちゃったんだけど」
「へえ、そう」
島さんは、感心した。
「それに、わたしのおばあちゃんも、小さいとき飼ってたんだよ」
目をつぶると、そのねこがあらわれることは言わなかった。
写真のねこは、階段の真ん中で横になり、脚をのばしていた。毛色や目の色がほんとうはどうなのか、古い写真なので、はっきりとはわからなかった。
「近くにすてられてたねこでね、ジャックって名前だったんだ。片目がつぶれてたから。でもけっこう長生きしたんだよ。えりちゃんにも見せたかったな」
それから島さんは、なつかしむように目もとを細めた。
小さな赤ん坊が男の人にだかれている写真もあった。だいている人の顔は、今、目の前にいる島さんそっくりだ。
「これがおじちゃんとおやじだよ」
写真は、つぎつぎとピンでとめてあった。
赤ん坊は、やがて半ズボンをはき、乗り物にのってポーズをとりはじめた。
「この人は?」
スカートをはいた女の人を指さした。
「おふくろ。小学校のとき死んじゃったけどね」
男の子は、女の人のすぐ横で、白い歯を見せ笑っていた。
少年は、やがて中学生ぐらいになった。だけど、学生服や友だちとの姿は一枚もなかった。どれも一人か、あとは父親か母親とのものだ。ときに、流行りの帽子をキザっぽくかぶったり、むずかしそうな顔で腕をくんでいた。写真がすすむにつれ、しだいに大人になり、風ぼうが今の島さんになった。
エプロンをつけて店で働く姿になり、フィルターにお湯をそそぐ一枚があった。
表情は今とかわらず、のんびりと気ままにやっている感じだ。絵里がもらった写真と同じように、父親といっしょに肩を組んでいるのもあって、背中にはクリスマスツリーがかざりつけてあった。リースも扉にかけてあり、今にもクラッカーの音がしそうだった。
店の改築の写真もあった。内装がこわされ、柱がむきだしになっていた。壁が少しずつはめこまれ、美しい壁紙や塗料がぬられていた。なにもなかった板ばりのフロアにテーブルや椅子がならべられていた。
絵里が写真に見とれていたときだ。
裏口の扉が開く音がした。床を、一歩一歩、きしませ近づいてくる。絵里は、すぐにマスクをはめた。お腹に、じんと重いものがきた。
島さんは、安心させるように絵里に微笑んだ。
背広を着た人が、頭を柱にぶつけないよう用心しいしい、前かがみで入ってきた。髪の毛から、鼻をつく油っぽい匂いがした。
島さんに簡単な挨拶をすませたあと、
「どこの子どもさん?」
「うん? オレのおともだち」
絵里の方をちらりと見たが、後はあまり興味なさそうに島さんの方をふりかえった。少し急いでいる様子だ。
「島さん、やっぱり、ホープヒルに入るつもりはありませんか?」
「ないよ。ぜんぜん。あんたもしつこいね。おれはこのままがいいって言ってるでしょう」
返事を聞くと、案外とかんたんに引き下がった。もめごとが起きなかったことに絵里はホッとした。
相手は、今度はニンマリし、声色をかえ、
「それはそうと、新しいの、かりにきましたよ。そろそろ買うころだと思って」
それまでとはちがい、親しげな様子でしゃべった。
絵里のとなりを慣れた足どりですぎ、壁ぎわにある縦縞のカーテンをあけた。
スチール棚には本のかわりに、こぼれ落ちそうなぐらいにたくさんのビデオがならべてある。カバーには、男と女の人が裸で抱きあうプリントがしてあった。
「てきとうに好きなのをもっていっていいよ」
島さんにそう言われ、相手は満足そうに三つ選びとり、肩にかけていたショルダーバッグにつめこんだ。
「サンキュー。またしばらくしたらきます」
「いつでもどうぞ」
島さんは、満足そうに答えた。
「好きだね。これだけはわすれずにくるんだから。こんなのどこがいいのやら」
男が立ち去った後、島さんはひとり言のようにつぶやいた。
「わたし、帰る」
彼女は、そこをはなれたくなった。いっときでも早く外に出て、空気を吸いたくなった。
さっきまでのはずむ気持ちはあっという間に消えてしまっていた。
島さんの呼び止める声がしたが、気にせずに一目散に駆けだした。少しでも早くアパートに着きたかった。それで思いきって、空き地をつっきる方法をえらんだ。そこなら島さんが自転車で追いかけてくる心配もない。
足を踏み入れたとたん、少しこわくなった。人気がなく、それでいて向こうからいきなりだれかがあらわれそうだ。そのたびに息をととのえ、じっと先をうかがい、急ぎ足で、またつぎの草かげをめざした。
草むらをこえたところに、古い建物があった。絵里はとりあえずそこまで走った。
地面には大きな石ころや、雨のふったあとの水たまりやへこみもあった。建物は、そばにいくと意外に大きく、壊れたかべからお風呂の浴そうや水道管がむきだしになっていた。床はところどころはがれ、板がくさっているようだ。それでも周りには人が歩いたらしい、はっきりした道の跡があり、絵里はそこをたどっていった。
やがて井手の流れる音と車の音が聞こえ、こわれかけたブロックべいが近づいてきた。
へいの向こうにアパートの屋根が見える。
どれだけ歩いたのか、よくわからない。クラクションの音がした。井手の前で左右を見、だれもいないのをたしかめ、ガードレールの切れ間をめがけとぶと、なんとか着地できた。
玄関を開けた。家の中はしーんと静まり返っている。絵里は二段ベッドの上で布団にくるまり、小さく身をちぢこませた。
それから、ひと月が過ぎようとしたときだ。
陽射しは強まり、アスファルトの照り返しがまぶしい季節になった。
絵里は、夏ものの買い物をしに、親子三人で車で出かけた。
車は島さんの家の前へやがて出る道を走っていた。
「この道せまいけど、けっこう町まではやくつくからいいわよね」
和子の言葉にも答えず、絵里はすました顔でいた。
国道から入った車は左へそれ、ガードと井手に囲まれた空地を、外からまわった。遠まわりなのに、車だと絵里が空き地の中をこえたのより何倍も早く着いた。
「もっと広くすれば、今より便利になるのに」
和子はハンドルを動かしながら、ひとりごとのようにつぶやいた。
やがて、見おぼえのある家が近づいてきた。車は、手前の十字路で停車した。
「何かあったのかしら?」、
救急車が止まっていて、表に人があつまっている。
絵里は後ろの座席から、何気ないふうに見ていた。
患者は車内に運ばれているらしく、救急車はサイレンを鳴らし、出ていった。集まっていた人も、すぐにあちこちへちっていった。
ママチャリが一台、ポツンとそこに残されていた。
6 炎を駆ける白いねこ
その晩、絵里は近くやってくるかもしれないことを想像した。
場面は、昼下がりの午後だ。
買ったばかりの黒っぽいワンピースに着がえている。
彼女の足はまよわずに、島さんの家へ向かっていた。見えない糸にあやつられているように、裏の空き地を、知らず知らず動いていった。空き地は絵里だけに用意された秘密のとおり道だ。絵里の背をこすぐらいにおいしげった草もブロックや建物の壁も、今では身をかくせる大事な小道具だった。
島さんの家には黒と白の布の幕がひかれていた。
葬儀に訪れた人は、悲しみにくれ、その中で一人だけ、見おぼえのある男の人が真面目な顔で案内している。
絵里は男に気づかれる距離まで歩いていくつもりだ。そのうち相手と目が合ったとき、わざとマスクをはめてみるのだ。相手はそんな絵里をまじまじと見つめだす。
「あなたの思いどおりには、いかなかったわね」
それだけをキッパリ言って、その場を立ち去るつもりでいた。
「一人暮らしだったらしいわ。ひと月前にお父さんを亡くしたばかりで……。本人は小さなときから発作があったらしいんだけど。週に一度きていた、うちの福祉課の担当が発見したからよかったものの」
次の日の夕方、和子も、昨日の出来事は気になっていたらしく、仕事先から仕入れてきた情報を話してくれた。
島さんは無事だった。
和子によれば、薬を一回ぶんまちがえて多く飲んだため、布団の中で意識が朦朧となっていたらしい。枕もとに飲みかけのコーヒーが置いてあったそうだ。
「施設の入所になるでしょうね。本人は入りたくないらしいけど。このままじゃ、だれも面倒を見る人もいないし、しかたないわ」
「施設って、ホープヒル?」
「えりちゃん、よく知ってるわね」
和子が感心したように言った。
それから、またひと月が過ぎた日のことだ。
絵里は、和子たちとデパートの食品売り場にきていた。祐一は母親といっしょにカートを動かしている。絵里は少しおくれて、ついていった。
ふと横の通路を見ると、十人近く、ぞろぞろ買い物をしている列があった。
制服姿の職員が二人、前と後ろをはさんでいる。
絵里は、ドキドキしながら目をやった。
見おぼえのある皮ジャンと帽子が、人と人のあいだから見え隠れしていた。
「あっ、おじさん」
絵里は、見つけるが早いか数歩近づき、声をかけた。
島さんは、服装は同じでも、サンダルは運動ぐつにかわっていた。背中が心なしかまがり、体がひとまわり小さくなった気がした。
「えじちゃん」
最初に発した声は舌がまめらず、聞きとりにくかった。両目もトロンとしている。
「わたしのことおぼえてるのね?」
絵里もマスクのまま話した。
島さんは力なげにうなづいた。
職員が近づいてきた。島さんの肩をだき、親切そうに、ひと言ふた言、話しかけながら列のほうへみちびいた。島さんは職員にしたがいながら、絵里の方を見た。絵里も顔を向けたが、あっちへいってしまった。
和子が、品物をレジにとおしているときだ。
ホープヒルの職員があわてた様子で店長と話していた。
「すいません。すぐに探しますから。放送はしなくてけっこうです。かえって本人が混乱しますから」
あわてぶりから、だれかがいなくなったことがわかった。残りの職員に引きつられたホープヒルの人たちが、横で待っている。絵里はそこをつぶさに見た。
帽子と皮ジャンがなかった。
「ちょっとトイレにいってくる」
とっさにうそをつき、絵里は店の奥へ入った。もしかすると、と思える場所があった。それは、レジとはまるっきり反対側だ。
近づくとベルの音がした。
何度も聞こえてくるその音は、デパートには不似合いな感じだった。ペダルがこがれ、タイヤとチェーンがカタカタ回っている。
「おじさん」
絵里が声をかけると、島さんは自転車に乗ったまま顔を上げた。スタンドを立てた状態で、売り場の人が用心のためたおれないようハンドルを押さえてくれていた。島さんは、不満そうに口をつぼめていたが、目には光がやどり、まっすぐに絵里を見つめていた。タイヤのリムと数十本のスポークから、足で力がこめられるたびに風が起きていた。カラカラと気持ちよさそうに、島さんは、宙を駆けているようだ。
「あっ、白ねこだ」
絵里には、島さんと自転車が、ねこと重っていた。
「島さん、だめじゃないですか。こんなところで」
怒気をふくんだ声が、流れていた空気を絶った。
ホープヒルの職員が歩みより、店員にすまなそうに頭をさげている。島さんの二の腕をギュッとつかんだ。島さんは、抵抗しなかった。足を交互にゆっくりペダルからはずし、サドルからお尻を上げた。その動作が、いたずらが見つかった子どものようだった。
白ねこはいつのまにか、いなくなっていた。
─おじさん、ぜったいにまた、ハンバーガーいっしょに買いにいこうね。
職員に連れられていく後ろ姿を見送りながら、絵里は、心の中でつぶやいていた。
夏休みになった。
蝉の声が、耳の中をゆする季節がやってきた。
絵里と祐一は、晃といっしょにキャンプに来ていた。
月に一度の晃からの提案だ。
絵里は、最初、行くかどうか迷ったが、祐一がどうしてもテントで寝てみたいというので、つきそいのつもりで出かけることにした。
キャンプ場には、自然の川に手をほどこした長い急流の滑り台があって、思うぞんぶん遊べた。
準備した材料で、バーベキューをした。
半円の小型のドラム缶に炭火をおこし、その上に鉄のあみをのせて焼く。ときどき肉からあぶらが落ち、炎に勢いがついた。
祐一は、ひさしぶりの父親とのひとときに上きげんだった。絵里は、そんな祐一を横目に、晃といられることをうれしくも、どこか面倒くさく思った。
そろそろ焼けたという晃の言葉に、絵里は、こげめのついたフランクフルトを頬ばった。薄い皮に前歯があたると、はじけるようにわれ、口の中に汁が飛びちった。晃は手ぎわよくわりばしを使い、肉をうらがえしたり、ナスやキャベツをのせたりした。
日がすっかりしずみきり周囲が暗くなると、たき木を集め、キャンプファイアーをした。祐一はさかんに土手の方へのぼって木ぎれをひろい、炎の中へなげこんだ。
そんな祐一を見ていた絵里は、ふと立ちあがり、テントの中に入っていった。絵里の手に、小さな毛糸の織物がにぎられている。
そっと晃の前にさし出した。
「パパが送ってくれた織り機であんだの」
花瓶を置くには、ちょうどいい大きさのコースターだ。
「わあ、すごいな。もらっていいのかな」
いかにもうれしそうだ。
「だめよ。ママにあげるんだから。ただ見せただけ」
きっぱりとした声は、晃の耳をかすめ、闇をぬけ、遠くまで響いた。晃は、わざと両手をひろげ、残念そうに首をふった。
炎は、けっして大きく燃えたっているわけではなかった。マキの表面をなめるように細かにひろがっていく。
乾いた部分がまんべんなく燃え、一皮下が赤く色づきはじめ、燃えうつったところはチラチラと点滅し、そこもちゃんと炎はたっていた。やがて、ガラリとくずれる音を合図に、大きな炎が、芯まで燃えつきさせる勢いで一気にひろがった。
たき木の表面に浮かびあがった暗い部分と赤味をおびたコントラストは、呼吸する生きもののようだ。
晃がなにかを言いかけようとしたときだった。
「人も、こんなふうに燃えるのかなあ」
「え?」
意外なつぶやきに、一瞬、言葉をのみこんだ。
炎を見つめていた絵里の頬に熱気がつたわり、赤く照らされている。晃は、そんな横顔を見ながら、少しだけ眉をひそめ、怪訝な顔をした。そして、もう一本マキをくべた。
炎のゆらめきは、絵里には一輪車のゆれに見えた。ペダルと腕でバランスをたもち、一本の軌道をたどっている。
「あっ」
絵里がすかさず声を上げた。
白い毛をはやした生きものが背をかがめ、すばやい動作で炎を横ぎった。
やっぱり生きてたんだ。
火の影のように一瞬あらわれ、そして消えたものが、白いねこであることを疑わなかった。
暗闇に光を放つ炎の中を、彼女の一輪車はそれでもたおれずに、だれにも知れず、走りつづけている。
絵里は、白いねこといっしょに車輪をまわしつづけた。
2020年4月29日 発行 初版
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1961年熊本県荒尾市生まれ。北九州大学文学部国文科卒業後、学習塾講師、大検(高卒認定)専門予備校職員などを経て、熊本県小学校教諭に採用。二校目の赴任地(阿蘇市立宮地小学校)で、卒業生である発達障害の青年との出会いをきっかけに33歳で退職し、当時阿蘇郡市では初めての民間での小規模作業所「夢屋」を立ち上げました。その後、自立支援法施行に伴い、「NPO夢屋プラネットワークス(http://www.asoyumeya.org/)」を設立し、地域活動支援センター(Ⅲ型)代表兼支援員として阿蘇市から委託を受けながら現在に至っています。 運営の傍ら、小説、ノンフィクション、児童文学、書評などを発表してきました。部落解放文学賞に5回入選、九州芸術祭文学賞熊本県地区優秀賞2回、熊本県民文芸賞、家の光童話賞優秀賞などを受賞させていただいています。