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エッグ・イン・クラウド
一
モノクロームの世界がある。床は歪んでいる。垂直に灰は舞い降り、微かに音も立てず、それどころかその気配もなく鎮まりながら堆積していく。厚いカットが施された硝子細工は向きがそれぞれに違い、動物や小人や、ドレスを着たお姫様や狩猟中の男や抱き合った人魚や鮫や、それらをいくつも並べ、キャビネットの中に飾られている。リノリウムに当たり屈折した光は、そのまま空気中に散らばり、一つ一つ粒子として数えられることを待っているかのように漂いながら、そこに残留の影をぽつぽつと落としていた。
「ジュース、ジュース……」
三才になったばかりの娘の早紀がせがんだ。
「わかったよ」
二つのブラウン管から映像は送られ、マラソンランナーとシュミーズ姿の若い女を映し出していた。
「ちょっと待っててね、ここにいるんだよ」
寺田は、財布を探りながら、歩いた。両側に並べられた学習机に嵌め込まれたひらがなの習得機が点滅している。小さな女の子が、椅子に座り自分の腰の高さを確かめでもするように肘をもたせ、心ぼそげに周囲を見回していた。二つの自動販売機はそれぞれに役目が違う。罐と紙コップの、値段もちがうため、並ぶ客の数も変わっている。
……恋するっひとーに出会ーう……
どこからか、歌が訊こえて来た。
コインは、小銭を使うことも面倒なため、そのまま紙幣を差し込んだ。さっきもらったばかりの現像を終えた写真の袋を脇に挟む。手を伸ばすと、一つは氷が浮き、一つは、掌にじわじわと熱を伝えてくる紙コップが、それぞれ表面にゆるやかな曲線をたたえ同時に出てきた。
早紀が、いつの間にか寺田の隣にきている。
コーヒーの方は熱を持ち、脇に袋があることでうまく握り変えができず、コップの上の縁と底を親指と他の指とで押さえているため熱の伝導も早く、その上、一、二歩進もうとすると表面が揺れ、波が起き雫が足元に零れそうになる。やがて、その熱さえも耐えきれぬようになり、彼にはどうすることもできなくなった。
早紀の思ってもいない出現は、そんな寺田を喜ばせた。
背もたれのない長椅子が並べられた、デパートのお祭り広場で、寺田は娘と二人、紙コップからそれぞれの飲み物を飲んだ。
今もらったばかりの写真を確かめてみるため、寺田は袋から取り出す。とても小さく、微かな音がする。表面の滑らかな、定着されたカラーのミニ紙芝居を、少しずつ、少しずつずらしてみる。
「見せて、見せてー」
一枚だけ折れまがっていいものを早紀に渡す。
「見せてー見せてー」
また一枚わたそうとすると、早紀は全部触りたくて強くせがみ、寺田の方へ椅子の上に立上がりやってこようとした。
「ほらほらこぼれる、ジュースがこぼれるだろ、コーヒーがこぼれるよ」
周囲を気にもせず、寺田は大きな声を立てた。写真をそれ以上見ることを諦めればいいものを、寺田もしつこく今、すべてを見ようとする。やがてしかたなくもとの場所に戻した寺田は、ゆっくりコーヒーを飲みながら、足を大きく膝を伸ばしたまま広げ、床を見た。数十枚の写真と違う、モノクロームの世界がそこにはある。全てが沈み、乾き切ったようにひっそり息をのみ佇んでいる世界だ。
寺田の両目の角膜のカーブと頂度同じ曲りを示し、そこに見合っていたはずのものが、少しずつずれ始め、垂直なものは垂直に、真っ直ぐなものはさらに真っ直ぐになることで、歪んでいたものはもっと大きく、その歪みを拡大させながら、一つ一つの色を着実に抜け落としさせ、世界を形づくっていくようにも見える。いや、世界が現出してくるのではない。もともとあったところへ、それらは戻っていくのだ。
寺田の神経は緩み、落ち着き、かなりリラックスしていることがわかる。
視線は、そのまま静かにいつまでもじっと床を見つづけることができる感じだ。誰もこの行為だけは止めることはできない、そう寺田は、一瞬思う。だが、それも長く考えつづけることはできないし、しようとも思わない。時間は、確かにゆるやかに過ぎていっているのだが、寺田には、そのことをはっきりと察知できず、意志のようなものも消えてしまっている。
あるデパートで、寺田は熱いコーヒーを飲む。からころいわせて早紀は、ジュースを飲み、氷を砕く。氷を、自分の舌で、砕く。
二
「写真、ちゃんと取ってきた?」
扉を閉めた音が微かに響いた。空気が緩やかに揺れ、暖気が逃げ切れる道を閉ざされたため、何となくたじろいでいるのがわかる。
アパートでは妻の裕子が下の息子の孝志といっしょに、寺田と早紀の帰りを待っていた。今まで外光の中にいた二人は、彼らが持ち帰った空気と部屋にあった空気との混ざり合う被膜の層のようなものに包み込まれていっているようだ。孝志は、ようやく先月一才になったばかりで、歩くのもまだふらつき、よちよちと、それこそおぼつかない足取りで、ゆっくり、両手を軽く前に広げ、バランスをとりながら歩いている。二人が部屋の扉を開けたときも、孝志は、そうやって歩きながら頂度その少し前で裕子が笑わせた後なのか、機嫌良く愛想をくずし、声立てて迎えにきたのだった。
「ああ、よく撮れている」
寺田は、炬燵台の上に、袋ごと少々乱暴に投げ置いた。台の上には細かな埃が舞っているように見え、その埃が、今突然の二人の侵入により宙に吹き上がり、ガラスフィッシュのようににぎやかに踊っているようだ。寺田の行為を見ていた早紀は、すぐに足元にあった絵本を同じように拾い上げ、ぽんっと言って、同じくふざけたように笑いながら置いた。
「ほら、子どもはすぐ真似するのよ」
子どもは真似するの、ほら、子どもは、真似するの、真似する、のよ、の、よ……裕子は、少々憮然とし、それでも飽かずに孝志をあやしている。彼女の声は、寺田の頭の中で何度か繰り返され、反復し、その残響を一本の糸のように後引かせる。早紀は、やや小太りの腕で近寄ろうとする孝志を抱き上げようと懸命になっていた。笑っていた孝志の顔は次第に歪み、口元から芯が抜けていくように崩れていくだけだ。裕子は、あまり写真には興味を示さない。
写真は、寺田の勤務する会社の社員旅行のスナップで、彼は今、隣のそのまた隣町にある半導体の製造会社に勤め、先月、厚生の係りをやり、ようやく今月になりお役御免になったところなのだ。
「それとこれも買ってきた」
寺田は、書店の紙袋に入れられた薄い冊子を取り出した。裕子はそれをちらりと見ただけで、黙っていた。
「求人情報を、今日は買ってきたよ」
彼は、今の職に就いてから五年もせぬうちに転職したい志を裕子に告げていた。結婚して今年で五年目になり、定職に就いてから頂度同じ月日が過ぎていることになる。
冷蔵庫を見る。ピーマンがある。人参も、少し芽は出ているが料理には使えそうだ。寺田は、昼食の準備を始めた。スパゲッティーをつくるつもりでいる。野菜を切り、炒める。 麺をほどき、その上から粉末のトマトルーを入れ、さらに熱を加え炒める。蒸気が立ち、彼の視界が少し揺らぎ、換気をしながら長箸を動かし、それも終えるとそれから三つの皿に分け、孝志と裕子は同じ皿から口に入れ始めた。
ゆっくりと、熱さの中で食べた。
「おいしいじゃない。おいしい。ね、タカシ、おいしいね。パパ、料理うまいね」
早紀は、牛乳をねだった。座ったまま後ろ手を伸ばし裕子が冷蔵庫を開け、パック入りの牛乳をコップに注いだ。
彼は、そのとき、突然沈み込んでいった。
それはどこへいくかわからない。寺田の場合、自分でつくった料理を、家族が食べ、自分が食べるとき、そんな沈みがやってくる。
沈みは底知れず激しく、ぐんぐんと金縛りになったように彼の体を押し込んでいく。すべてかどうかわからない。彼の回りにあったものはそもそも最初からなかったような、そんな感覚に襲われ出すのだ。
そのとき、彼自身の存在さえなかったように思えるとすれば、それが一番いいのだろうが、そうではない。彼の存在は消えず、その回りだけが消えていく。彼はその中で食事をしなければならない。彼は、狂ったように叫び出したい。だが、それはできず食事を口に運んでいる。
それが五年間つづいている。
彼も、回りの人間と違わず、たまに気が狂うんではないかと自分を疑うときがある。沈み込んだときは、今でもその恐怖に襲われる。気が狂うことよりも、気が狂うというそのことへの恐怖が彼をまた襲うのだ。寺田は、どこかで気を紛らわしている。スパゲッティーは、湯気を立てていた。はやく食時が終わればと、ただ願うだけだ。だが、孝志とは違い、早紀の方は、ゆっくりと、そんな寺田をじらすように食事をすすめている。
求人情報誌が一冊、そんな寺田を冷ややかに見るように、台の上に置かれていた。
三
仕事から夜遅く帰ると、裕子が洗濯物を部屋の中に干していた。早紀も孝志ももうぐっすりと眠っている。時間は十一時を回っていた。
「こんなものがきてるわよ」
見ると、同じ職場に勤める土居という男が、彼を知り合いの車の販売員に紹介したらしく、そこからの広告と展示会の案内が郵送されてきていた。寺田はそれを見るなり、両手で丸め、塵箱へ捨てる。それから着替えるが早いか、自分の机が置いてある押し入れが並んだ隣の部屋へ入っていった。襖の扉を閉めようとすると、後ろから裕子が、戸は閉めなくっていいじゃない、強い口調で言った。
「閉めなくちゃ、ワープロの音がうるさいだろう」
寺田は今からさっそく、持ち帰りの資料をまとめ、書類の整理をするつもりでいるのだった。そう吐き捨てるように言うと無表情に閉め切ってしまった。
彼の中に起こる、ある神経的な緊張と言おうか、張りとでも言おうか、逆に緩みにも似た一つの張り詰めた状態は、次のステップへうつる階段のようなものだと彼は思っていた。少しずつじわじわと内側から盛り上がってきては、神経を真綿で締め付けるように圧縮してくるような気がしてくる。これは、ただの鼓動の変化だろうか。前の位置から今の位置までの流れそのものにはまったく変化はなく、血液の押され方も、感得するほどの違いは、そこにはないのだ。
「パパ、それはママのよ」
次の日は日曜だった。
朝になり、彼はゆっくりとチーズを口に入れようとしていた。
「パパのはこれ」
寺田は、早紀の言葉に頷き、ようやく従う動作に入った。ゆっくりと、早紀の差し出したチーズを咀嚼しながら、チーズの味覚が腔内に広がっていくのを感じつつ、昨晩の体の微動のような揺れや神経の和みにも似た変化を今だに受け入れられない自分を、わずかながらにも自覚していた。
やがて寺田は立ち上がると、片付けを始めた。
水道から流れ落ちる水は、重ねあわされた皿に落ち、陶器の上をなめるように滑り、水滴を溜めながら底からゆっくり突起の周辺に寄り添い、嵩みを増していく。そのとき、水は広がり、層は薄く、膜のように張りついていく。
残った食べ滓は、そのまま流しに捨て、大きいものはビニル袋に入れる。洗い終えられた皿は、幾重も重ねられ、食器乾燥機の中へ縦に並べられていく。昨晩の洗い物もそのままにしてあったためか、その朝は特に多く、箸、スプーン、小皿、大皿と、それらが寺田の手によってプラスチックの枠の中に整然と並べられていく。
寺田が、孝志をテーブルに備えつけられている椅子から下ろし、テレビのある方へ移動すると、早紀も子ども用の椅子から駆け下り、とことこ歩いてやってきた。そんなときは決まって後ろから、寺田の肩に飛び乗ってくるのだが、最近は、テレビから放送されている父親との遊びの風景を唄った歌を口ずさみながらと言うのが多い。
「たかい、たかいして」
この声に重なるように、孝志の言葉にならない声も発せられてくる。
はっきりとした音声の組み合わせを持つ早紀の言葉と、またそれ以上に強い意志を持つ孝志の声が、より寺田を強く突いてくる一瞬だ。アーとも、ワーともグヮーとも、孝志は叫ぶ。目を大きく開け、一つの方をはっきりと指差し、宙を見ながら、興味はそこにあるらしく、瞳の底はその先を照らしている。
四
その晩、いつものように寺田は、自分の体を洗った後、風呂場で早紀と孝志を待ち構えていた。
素っ裸になった早紀が、急ぎ足でやってきた。
寺田の指示に従い、風呂の湯につかりながら、肩まで濡れていく。孝志も裕子に連れられやってきた。
「なんだ、やっぱり入れるのか」
「風邪ぎみでやめとこうとおもったけど、おねえちゃん行くの見て、行きたそうにしてたから、連れてきたわ」
裕子がそう言い、上着を脱衣場のところで脱がせ、寺田に預ける。
「髪は洗わなくていいからね」
そう言うと、また部屋に戻っていった。
早紀も孝志も、湯に入ると、その柔らかな身を包む皮膚に、ある程度の刺激をもたらすやり方でひとしきり遊びにかかるのだ。とくに孝志は、表面を叩き、湯滴が跳ね、顔に当たるたびに喜んだ。狭い浴槽の中で、寺田は、早紀と孝志の両方の体に触れていた。
そうこうするうちに寺田は、のぼせる前にと孝志を抱き上げ、浴槽から出るがはやいか、膝に乗せ、体を洗い始めた。ガーゼに石鹸をつけ、肌をゆるやかに浸すように洗っていく。上体の後は、今度は縁を握らせたまま立たせ、股から足までを丁寧に洗っていく。
早紀は、そんな孝志のことも気にせず、後ろ向きに水面に浮くおもちゃで一心に遊んでいた。
寺田は石鹸を流した後、また孝志を抱いて湯に入れた。
寺田が風呂から上がったときは、早紀も孝志も裕子の手によって寝間着に着替え、孝志の方は眠たげに横になり、片方の手は指をしゃぶり、もう片方は自分の耳朶をつかんで、赤くなるほど強く引っ張っていた。早紀の方はボリュームを落としたまま、最近、裕子と外に出た際、買ってきたばかりの童話集がアニメになったビデオを見ていた。お気に入りはシンデレラだ。今日は、もう三回目だ。筋とは言わずセリフまで、早紀はもちろん、寺田も裕子も完全に覚えていた。
寺田は、孝志を抱きかかえ布団の敷いてある隣の部屋にいった。
孝志をゆっくり寝かせ、毛布をかける。孝志の目は閉じたり開いたりするが、しばらくそれは繰りかえされ、それでもときどきむず痒いのか、癇癪を起こしたように上にかけられた毛布を跳ねのけた。寺田は、そのたびにまたかけなおしてやり、孝志の肩を抱くようにして、自分も添い寝した。
寺田も少しずつ、うつらうつらとしてくる。
忍び寄る眠りの中で、寺田は孝志の跳ねのけられた毛布を、無意識にかけている自分に気づいた。
孝志の瞳は閉じられている。いや、今閉じられようとしている。だが、まだ完全ではない。隣からは、ビデオの音が小さく聞こえてきた。
寺田の瞳はまだ閉じられていない。だが、彼の行為は、孝志が眠りにつくまで、その瞳が完全に閉じられるまで当分、今夜もつづくのだ。
五
スプーンで、孝志の口にいつものように食事を運ぶ裕子の姿を見ながら、朝から寺田は、多少まだ眠気の中にいた。
昨夜は、書類を遅くまでまとめていた。
三時ごろまでやったのは覚えているが、その後うつらうつらと机に伏し、しばらくしてから子どもと連れ合いのいる隣の部屋で眠ったらしい。そのことを今はっきりと記憶の中から呼び戻し再現しようとすればできないことはない。だが、それはどこかとってつけたしらじらしいことに思え、薄らぎ、霞んでいるのであればそれでよしと、すべてはまた今ある眠気にまかせるか、またはそこから立ち直る方へ向けようとしている最中だ。
出勤時間まであとわずかだ。
習慣上、体が感覚と神経を一定時間に踏み止どまらせることをしなかった。やむなくも、容赦ない切り捨てと投げやりがある規則を持った振り子のような蠢動を鳴らし始める。彼自身、そのことを半ば無意識に会得していた。
ある規則はときに不規則だけでなく、得体の知れぬものに思えるときがあった。
孝志の食欲はあいかわらず旺盛で、スプーンを片手でなく両手に持ち、特に上下に力を込め、振り子太鼓のようにしながら裕子のスプーンから渡される固形物や汁を上機嫌に食べている。寺田の隣には早紀がいる。赤いビニルと肘掛けのついた子ども用の椅子で、しきりに一人ごとのようにマンガの主題歌を自分流につくって歌い、弟の名前を、「たかつん、たかつん」と繰り返し言ったり、笑ったりし興に入っている。早紀は、左手の掌を昨日、ストーブで火傷してしまい、そこには包帯が巻かれている。こちらの方は食事は気にいったものしかすすんでおらず、最近、特に偏食気味である。
産休と育児休暇後、裕子が隣町の保健所の職場に復帰してから、朝の食事はいたって簡単なものとなった。つくる方を担当する裕子がかぎられた時間にできるだけのことを無理のないだけやり、その間、寺田は息子と娘を布団から起こし、トイレに行かせ、着替えさせる。孝志の方は、シャツとオムツを替え、上着には、まず薄めのフードつきのもの、その上から厚手のトレーナーを着こむと、そこからそのフードを引っ張りだす。そして、最近めっきり寒くなってきたことも考え、オーバーオールのズボンを履かせる。
裕子がそろそろ仕事に復帰すると言い出したとき、子どもたちを保育園に預け始めねばならぬこともあり、どちらが何をするのか仕事の担当を決めた。
寺田は、「それじゃあ、オレが朝飯をつくろう」と言ったが、「朝御飯つくってもらうより、子どもの世話を見てくれてたほうがありがたい」そんな彼女の言葉を受け、彼はあっさりそっちは断念し、子どもと一緒に眠い眼をしょぼつかせ、そちらをすることになったのだ。孝志の紙オムツの取替えなど、これまでしていなかったわけではなかったが、最近、寺田もようやくスピードと言おうか素早くやる要領を覚え、足のつかみ方や腰の上げ方、粘着テープを決まったマークのところに貼るタイミングなどかなり手際良くなってきた。
四年前、完成と同時に入居したアパートは、2LDKの部屋にところ狭しに家具類があり、子どもたちの遊んだオモチャが広がれば、足の踏み場などすぐになくなってしまう。冷蔵庫の上には、孝志や早紀のおやつの塩せんべいやまるぼうろ、無添加のスナックが網籠の中に雑然と置いてあり、機嫌のわるいときの特効薬として常に待機している。
もともと、このアパートから少し離れていたところに、裕子は独身当時から住んでいたが、寺田とは、高校の同級生で、三年のときからの付き合いだ。結婚とほぼ同時に寺田は地元に進出してきた半導体の製造会社である今の会社に落ち着き、ようやく四年目になろうとしていた。それまで、運送会社のトラックの助手やスナックの店員、病院の放射線科での現像係などいくつかの仕事をやってきていた。
結婚して半年いたアパートは、道路に面してたため車の騒音がうるさく、大型トラックが通ると揺れる場所だった。おまけに国道を挟んだ貸倉庫に板金屋ができ、朝から深夜まで作業するのもしばしばになり、耐えられなくなった。早紀を身ごもっていたときでもあったので思い切って今の場所へ引っ越したのだ。
電家製品や家具類は、ほとんど裕子が持ち込んだものだ。寺田の持ち物と言えば、それまで狭い下宿屋にいたこともあって、ダンボール一個分の本と衣類だけだ。
「こんな家具、何になるんだ」
「いろいろ、どうせ買わなくちゃいけないのよ」
最初、寺田はその大仰な家具を見て、狭い部屋がますます狭くなると嘆き裕子に当たった。ところが裕子は先々、子どもができ、衣類が増えることも頭に入れているようだった。
寺田は、当時のやりとりを思い出す一方、昨夜のことを思い出していた。それは、ほんとうにひょんなことがきっかけで始まったいざこざだった。
テレビドラマで、ある男が記憶喪失になり、職業は当然のこと、住所も名前もなにもかもわすれてしまった男に興味をもったのだ。男は、ある女から助けられ、記憶回復後も、何度か自分の真実を告白し離れようとするが、けっきょく別れられなくなり、最後には一緒に暮らすことを選んでしまうという内容だった。
「こういう生活を、オレも、始めてみたい……」
寺田は、独り言のように呟いたのだった。だがそれは当然、裕子に向けられたものであることもまた確かだった。
「また、その話?」
「オレは、そろそろ会社を辞めたい」
寺田の言葉にいつのまにか力がこもっていた。 「
「辞めればいいじゃない。早くやめなさいよ」
裕子は、それから、「辞めるんだったらちゃんと次の就職探してから、いろんなこと考えてから言ってね」そう言った。
寺田は黙っていた。
裕子はつづけた。
「けっきょく、あなた逃げてんじゃない。そうだ、また逃げる気なんだ? たった四年間勤めて、それで何がわかるの?」
寺田はそれが図星のようにごまかすように本を手にすると読み始めた。
「あなた、はっきり言いなさいよ。ほんとはなにもしたくないんでしょう? そうでしょう? 楽したいんでしょう?」
寺田は、大学を卒業してから、しばらくバイトなどしぶらぶらした後、しかたなく最初の就職先の運送会社に就職した。
「ふん、お前に何がわかる? オレのこれまでやってきたことを何ひとつまもともにしらないくせに」
寺田は後ろを向いたまま答えた。
「なによ、話したいんだったら、ちゃんと言いなさいよ」
「オレがどんなことを考えているか、自分から訊いて確かめたことがあったのか」
「あなたには、何もわかっちゃいないのよ」
それには答えず、寺田は、「聞きたけりゃ、かってに聞けばいいんだ」捨て台詞のようにしてそのことを言っただけだった。
裕子は、それを合図に堰を切ったように喋りだした。
「あなたが、隣の部屋に入り、扉をぴしっと閉めてから、私は、その扉がどうしても、そう、どうしても開けれないのよ。わかる? 私の気持ち。あなたの中に入っていけないのよ。その扉に近づいても開けれない……。なによ、何にも知らないくせに、大きな顔しないでよ」
裕子は、横になっている寺田を後ろから強く蹴った。
二度、三度頭といわず背中を激しく蹴った。寺田の体全体に、鈍い痛みがはしった。
咄嗟に彼は、孝志を後ろ手で抱き寄せかばった。早紀は、右隣にちょこんと座りテレビを見ていた。彼は、それでも蹴られるままにしながら本を読んでいた。この本を今、読んでしまいたかった。重い疼きを感じながらも裕子の顔を見ようともしなかった。
次第に叫びに近くなった裕子の言葉と背後からの蹴りを受けながら、寺田は以前も同じようなことを言われたことを思い出していた。それは、当時学生の頃、一年近くインドやネパール、タイと回ってきた友人と同居することになり、三か月もせぬうちに言われた言葉だった。
「お前の部屋は、どうも入りづらくてな、俺は実は敬遠してたんだ」
そしてあからさまに彼への嫌悪と、別の友だちのことを言い、「あいつだったらそうじゃないんだよな」そう言ったのだ。寺田はそのときも黙っていた。
『あの頃は、確か今とは違い、襖は閉めず開け放しておいたはずだ。それなのにオレは、そんなふうに言われた。しかもインド帰りの男に……。それでもなんとかそこに一年はいたのだ。お互い、最終的にはそっぽを向き、無視し合った仲でさえも』
相手は夕食時に蝋燭を立て、その炎をじっと見詰めつづけているときがあった。トリップするのだ、と言っていた。寺田も最初の頃は、何度かいっしょに面白半分で真似事のようにやったりもした。
『そう言えば……』
寺田は、まるでそこに当時の蝋燭の炎が同じように揺らめきながらあるように、はるか昔の時点へ彷徨い出たような気分になっていた。
『オレは、ずっと昔からそんなことばかり言われつづけて生きてきたんじゃないだろうか』
六
その夜、仕事から帰ってきて、いつものように寺田は孝志と早紀を風呂に入れた。 早紀の方は、ようやく火傷の包帯がとれ、久し振りの風呂だった。まず孝志を洗い終えると、浴槽から裕子を呼び、孝志の丸っこい体をそのまま抱え込むように手渡した。そのとき入れ代わりに早紀が入ってきた。寺田も、もう随分、早紀の裸を見ていない気がしていた。いつのまにか、早紀の体のとくに下半身から浮腫みのような肉が落ち、括れのようなものが出てきているようにも思えた。
早紀は、包帯が取れたにもかかわらず、まだ左手をかたくなに湯につけようとはしなかった。 寺田は、その柔らかい早紀の掌を自分の手にとり、まじまじと見た。皮膚には、まるで太いケモノの引っ掻き傷のような跡が五本、斜めに薄いゴムのように貼りついていた。ストーブの湯を置くところの型がそのまま焼きついたのだ。
獰猛なケモノの爪痕だった。むりに寺田がつけようとすれば、「あつい、あつい」と言って、早紀は、泣きながら強く抵抗した。寺田は、それ以上早紀の左手を湯につけようとはしなかった。
早紀は、左手を風呂釜のホーローの縁に出し、今までと同じように湯が当たらないよう、用心深げにしていた。
次の日の朝、かなりの冷え込みがあった。雪が積もり、道路は凍結し、車は渋滞した。寺田は、会社までいつもの時間の二倍かかってしまった。とくに急いでやりたい仕事でもなかったので、途中で一応の連絡をとってからは、彼はできるだけゆっくり走らせた。車窓の雪景色を眺めながら、インド帰りの友人の声と裕子の声が錯綜し、息苦しさと寂寥とが彼に押し寄せてきた。 寺田は、思わず平常を通り越し一即座に嗚咽しそうになり、それをどうにか窓を開け、耐えた。
彼の会社は山麓にあり、辺りにも深い雪が積もっていた。寺田が着いたとき、雪が解けないうちはしばらくは仕事にならないと、営業の数人が、童心に返ったように和気あいあいと雪合戦をしていた。彼は、なんだか拍子抜けした気がした。 そんな話を、帰ってから寺田は裕子にすると「仕事を辞める話はどうなったの」珍しく、向こうからそんなことを切り出した。
「辞める。決心してる」
寺田のその言葉に、彼女の表情は曇った。
次の日も、雪が雨にかわったものの、例年より二度ほど気温は低いと天気予報は言っていた。
寺田は早紀をトイレに行かせるため、下着を脱がせた。いつもは自分でやらせるのだが、朝だけはぎりぎりまで堪えていることが多く、こちらも急いでいることもあって失敗するよりもいっそと、つい彼も手伝ってしまうのだ。
いつものようにノブを回し扉を開けてやり、出たら知らせるようにと確認した後、トイレに送った。
しばらくしてから「でたよ、でたよー」早紀の声がとどいた。
寺田はトイレに行き、早紀を便器から下ろし、「さあ、行くよ」そんなことを言いながら扉を閉めようとしたとき、一瞬、早紀が「お花、お花」と叫んだ。寺田が足元を見るとウイスキー瓶に差し隅に飾ってあった薔薇の造花が、何かの拍子に倒れたのだった。
ウイスキーは、引っ越してきたとき、裕子の父親が棚に長く入れていたものを祝いにくれたものだった。裕子の父親は、アルコールが飲めなかった。結婚する以前、一度会ったとき「うちは、酒は出ないからな」
そうきっぱり言われたことがあった。
結婚した当初は裕子の実家に寄った際、随分、そのことで激しい口論になった。自宅へ帰る際、車を止め歩き出したことさえあった。
「酒を飲まない家にはわからないのよ。酒飲みの人の気持ちが」
何かが苦しく、彼女と同じ車にそれ以上いることができなかった。会社の就職も決まり、ずるずるとその何かに引き摺り込まれていっている自分の姿がそこにはあった。
ある規則は、もしかするとそのときから始まっていたのかもしれない。寺田はそれに馴染めなくなってきていた。そろそろ出直す時期が来ているのかもしれなかった。
今までそうしてきたように、彼には、もう余分な時間など到底ないように思えた。何かが形を変え、別のものとしてあらわれてきているように思えた。
「娘を不幸にするようなことがあったら、やっぱりお前はこんな男だったかと思うからな」
父親は彼が結婚の意を伝えに行ったとき、半ば脅すように声を上げ、言った。
ウイスキー瓶と薔薇は、そんな彼を見つめつづけてきたのだった。
瓶は、それを貰ったときはまだ、腹の中で鼓動していただけの早紀の手で立て直され、薔薇も差された。
今日帰ってから、寺田は、裕子とゆっくり話してあってみようかと一人考えていた。
その日の朝、寺田が起きたとき、枕元の時計を見るといつも起きる時刻を十分ほど過ぎていた。
七
て・ら・だ・りょ・う・い・ち
天国、地獄、天国、地獄、天国、地獄、………地獄。
「パパは、地獄」
て・ら・だ・た・か・し
天国、地獄、天国、地獄、天国、地獄、………地獄。
「たかくんも地獄」
四才になってからの、早紀の言葉のふえ方はいちじるしかった。保育園でおぼえてきたらしい文字を当てた指遊びを自分の右手の指を使い、ひとつひとつ折りながら、なんどもくりかえしている。寺田は、となりの部屋の布団に横になり、それを見ていた。その向こうでは、孝志がブロックをつんでいて、奥からは裕子の弾くワープロの音が聞こえてきていた。なんでも、今度、子どもたちの通う保育園で、おやつについて保健士の立場から話をしてほしいという依頼がありその資料づくりに忙しいようだった。寺田は、まったくそちらには興味をしめそうとはしない。
ふ・く・だ・の・お・ば・あ・ちゃ・ん
天国、地獄、天国、地獄、天国、地獄、………地獄。
「ふくだのおばあちゃんも地獄」
ふ・く・だ・の・お・じ・い・ちゃ・ん
天国、地獄、天国、地獄、天国、地獄、………地獄。
「ふくだのおじいちゃんも地獄」
「ママや早紀はどんなんだ?」
寺田がたずねると、
「あのね、ママも地獄、早紀も地獄」と指当てもせず、きまりきったように早紀は答えた。
その日の深夜、孝志が「ママー、ママー」と夜泣きをはじめた。寺田はさっと目が覚めた。するとある記憶が突然蘇った。パッとライトが灯ったように映像がみるみるあらわれ、しめつけだした。ついに昼と言わず次の晩は一睡も寝むれず考えこまねばならなかった。
相手はだれで、本当にいたのかどうか。
記憶はこうだ。
寺田がまだ異性を知らぬ十七か十八の頃の話だ。試験期間になると市内の図書館をたまに使っていた。そこである女性と知り合った。相手も彼と同じでなにやら学校の勉強のためきているふうなのだった。勉強にも退屈し、彼がそのときはどういう理由か彼女の机に近づき話しかけた。たわいない話だ。どこの学校からきたのか。自分もときどききているが静かでいい。学校の勉強はせず、ついいらぬ本を読んでしまう。彼女もすぐにのってきた。
彼女とは不思議なほど気があった。息があったといってもおかしくない。居心地のいい気分だった。宙をとんでいる感じだ。
それから思いきって、自分の家は近くで、今はだれもいないから遊びにこないかと誘ってみた。彼女は微笑みながらうれしそうに了解の返事をした。
寺田は家のすぐ手前まできて、皆出はらっているはずだが一応たしかめてくる、と念をおすように彼女を置いてまた一人家にいき、たしかに大丈夫だとひっそり立っている彼女に目で合図した。彼女の表情が白く輝いているように思えた。俯きかげんの微笑みが美しかった。
寺田は、玄関から彼女を招き入れ、自分の部屋ではない入ってすぐの姉の部屋へとおした。何かあった場合でも、誰にもあわずすぐに外へ出ていけると考えたのだ。姉は、専門学校へ通っていて帰りはおそい。
炬燵があって、そこに足を入れた。寺田は珍しく蜜柑かなにかをもってきて、となりでくつろいだ。そのうち体と体がどちらからともなく近づき始め、彼は思いきって肩に手をやり口づけをした。初めてだった。あとは自然と体を寄せ合い、炬燵の生温かさが妙にむず痒かった。
相手の胸をまさぐったのは覚えているが、それ以上するつもりはなかった。また会えればいい。そう思った。それにだれか帰ってくるんではないかとひやひやしていた。彼女といれるだけで充分すぎた。横顔が眩しかった。
また会ってくれる証拠に、彼女は寺田に電話番号を教えてくれた。
数日たって、寺田は外から電話をかけた。誰も出なかった。何日かつづけてしたが同じだった。聞こえるのは受話器の向こうのコール音ばかりだ。
ある日、思いきって夜に電話をしてみた。その時刻なら家族の誰かがいるだろう。適当に言って、彼女につないでもらえばいい。
「もしもし……」
父親が出た。いやたしかではないから父親らしき人と言っておいた方がいいかもしれない。
「あのー……」
寺田が言葉を出す前に、向こうの方から「もうあなたと会わないと言っています」と静かな口調で告げられた。
寺田は、そうですかと生返事し、あとはただだまっていた。すると「近々結婚するんです」追い討ちをかけるような声がつづき、ようやく受話器を置く決心がついた。
しばらく呆然としていたが、なぜだか寺田には彼女の名前さえ、思い出せない。一体彼女がだれだったのか。いやそれどころか果たして彼女という女性がいたのかどうか、それさえ確かでない。
文字どおり降ってわいてきたような記憶である。
早紀は、相かわらず指をおりながら文字遊びをしていた。
言葉の内容は、つぎのものになっていた。
王様、姫さま、ブーター、こじき……
寺田は会社の事務員の星野に話してみた。
「へんですね。寺田さんのこれからのことを予言しているんじゃないですか」
星野は、そんなことをさらりと言った。
「ちょっと聞きたいんだけど、きみには似たような経験はない?」
「へんな記憶にとりつかれたような?」
星野の瞳がキョトンとなる。彼女は今年四十歳になる地元採用の非正規の職員だ。夫と離婚し、中学二年の子を実家で育てている。そんな事情をくみ取り、面接を担当した星野が推したのだった。
「いや、そうじゃなくって、好きな、とても居心地のいい男性とわけもわからずわかれたとか」
星野は黙っていた。
八
寺田が会社に辞表を出したのは、それから半年後だった。
けっきょく、次の仕事を探してきたわけでもなかった。しばらくは失業手当てもあったし、裕子の収入もあった。といって、それらを当てにしていたのではなく、ただ何もしたくなかったのだ。
そのうち星野が仕事を見つけてきた。
自分の息子の家庭教師である。
来年が高校受験だが、まったく勉強をやろうとしていないし、やる気も見えない。同居している祖父母も心配そうで、何かいい方法はないかと思案し、やってもらえないかというのだった。
本人が、少なくとも家庭教師の件に関してはどう思っているのか、それだけは確かめておいてほしい。納得の上ならいいというのが寺田の返事だった。
すぐに星野からすぐ返事がきた。
息子は息子で、回りからいろいろ言われてうるさいので、何かしておけばそれなりに逃げ口上ができるだろうと珍しくやる気になっている。祖父母も、かつて娘と同勤していた者でホッとしたというのである。
「寺田さんのいいことばかり言っときましたから」
星野はそんなことをあけすけと言った。
曜日と時間も決まり、さっそいく週に一度の家庭教師が始まった。時間は星野が仕事から帰る時刻にあわせた。
裕子にも元同僚の家とは言っておいた。
息子の名前は俊太と言った。
星野が帰ってくるその少し前から勉強は始めるため、しばらくやっていると車のエンジン音が聞こえ、車庫に入れ始める。それからいかにも疲れた星野が階段をのぼって顔を出すのだ。
「ただいまー」
「おかえりない」
俊太がだまっているため、寺田が低い声をかける。たまにはそんな星野に両方とも口を開かないこともあった。
「はらへった」俊太がぼそりと言う。
「飲み物は何がいい?」
「お茶かな」と寺田が言うや「おれ、ビール」と俊太。
それでも、家庭教師をはじめひと月目の試験で成績はグーンと上がった。そのことで祖父母も喜んでいるらしい。
「あれほど言っておいたんだがなあ。成績は少しずつ上げろって」
星野に結果を聞いたとき、寺田はそんな冗談を言って笑わせた。だがそのことは図星だったようで、その後の俊太の試験の成績は伸び悩んだ。
星野の家を出るとき、祖母がどうしても渡せと飼っている鶏が生んだ卵と漬物を持ってきた。 寺田はせっかくの心づくしとありがたく家に持って帰った。
玄関に入ると早紀と孝志の甲高い声がとどき、すかさず早紀が迎えにきた。
「あ、おみやげだー」
早紀は、寺田の膝元にまとわりついてくる。後を追って孝志もやってきた。二人、目を爛々とさせ寺田のぶら下げた手下げのビニールを見やっている。
「卵をもらってきた。飼ってる鶏が生んだんだって」
「ちょうど、よかった。のっけるがのが一個たりなくなったから」
「何つくってんだい」
寺田は流しを覗き込みながら聞いた。
「エッグ・イン・クラウドだよ、ねえママ」
早紀が、居間から大きな声で嬉しげに答えた。
「手伝うことあるかな」
裕子に後ろから言うと、
「こっちはいいから、テーブルの上片づけて」
「わかった」
寺田は、二つ返事で言い、食卓を整理すると布巾でふきあげ、必要な皿や食器具を棚から取り出した。
「私が落っことしちゃったの」
居間へ行くなり、早紀が寄ってきていかにも申し訳なさそうにしょげた。
「何を」
大体の筋は読めてきたが、寺田はわざと心配げに聞いた。
「卵…」
「早紀ちゃん、お料理してくれてたんだもんね」
裕子がかばうように言った。
「ここに出てたからおいしそうだなって思って、ママと一緒につくってたの」
早紀は、料理本を開いて見せた。
孝志もよちよちやってきてちらりと見るなり、またやりかけの積み木へ戻ってしまった。
泡立てられたメレンゲの中に卵黄がちょこんとのっている。
寺田には雲というより、森の梢にかけられた薄い樹皮の繊維を寄せ集めてつくられた壊れやすい巣のようにも見えた。
寺田はふわふわとした卵白の上で慎重に殻を割り、黄身を乗せる裕子の背中を見ながら、突然、わけもなく錯乱し、卵をつかむや、手当たり次第に寺田に投げつけたり床にたたきつける姿を想像した。
オーブンから香ばしい臭いがしてきた。
白身と黄身は間もなく家族たちの夕飯となり、子どもや裕子たちの体内へ取り入れられ、消化と排泄がされていくのだ。
「パパー、パパは大きくなったらなんになるの?」
食後のことだった。
テレビをいっしょに見ていた早紀がたずねてきた。
「早紀はなんになりたいんだ?」
寺田が反対に訊ねると、案の定、喜々として
「お花やさんにきまってるじゃない」
と、大人びた声で言った。
「パパは?」
「そうだなあ」寺田は言葉につまった。
十数年前、大学を卒業し就職活動一つしない彼に肝を煮やした裕子が同じような質問をしたことがある。
「あなた、いったい何になりたいのよ」
もちろん、将来のことだ。
「人間になる」
彼は躊躇なくはっきり答えた。
あれから年月ばかりが過ぎ、まともな人にもなれぬ自分とは一体なんなのか。
考えあぐんでいる寺田に、早紀がやがて言った。
「あのね、パパはたまごやさんだよ」
寺田はさっき食べたエッグ・イン・クラウドに浮かんだ黄身を思い出しながら、そんな早紀の横顔を見ていた。
2020年4月29日 発行 初版
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1961年熊本県荒尾市生まれ。北九州大学文学部国文科卒業後、学習塾講師、大検(高卒認定)専門予備校職員などを経て、熊本県小学校教諭に採用。二校目の赴任地(阿蘇市立宮地小学校)で、卒業生である発達障害の青年との出会いをきっかけに33歳で退職し、当時阿蘇郡市では初めての民間での小規模作業所「夢屋」を立ち上げました。その後、自立支援法施行に伴い、「NPO夢屋プラネットワークス(http://www.asoyumeya.org/)」を設立し、地域活動支援センター(Ⅲ型)代表兼支援員として阿蘇市から委託を受けながら現在に至っています。 運営の傍ら、小説、ノンフィクション、児童文学、書評などを発表してきました。部落解放文学賞に5回入選、九州芸術祭文学賞熊本県地区優秀賞2回、熊本県民文芸賞、家の光童話賞優秀賞などを受賞させていただいています。