───────────────────────
───────────────────────
フラワー
フラワーが破壊された。私は俄に信じられなかった。過去、数世紀にわたり繁殖の陣地拠点であった花軸や花柄を幾度も修復することでより堅牢かつ象徴としての役割を担わすことに成功したフラワーが、何者かの攻撃によって萼片はおろか花冠内の構築物と機能もろともあっけなく一夜で瓦解してしまったと言うのだ。フラワーはここ最近、この領土において衆目の関心を寄せる西岸に生殖圏を広げてきた種族である。猜疑や羞恥に染まった葯袋に詰まる嫉妬、憐憫、傲慢の花粉を住民の意識に巧みにばら撒き、偏見と格差による隔離網を細かな花糸で囲み、飴と鞭を匂わせながら行使する点は他種の常套なやり口と変わりない。ただ、フラワーの一目すべきところは、それら正当な統治の裏を掻き、まるで直接関係せぬような柔軟な切り込みで他の植生域の柱頭先端へ迫り侵食していくことに定評があった。その顕著な例が獰猛さをひた隠した道化た子房に似た食肉獣の着ぐるみに身を包ませた偵察員の胚珠を多数蔓延らせるという、いわば表層かつ奇抜、姑息な方法で安易に集団催眠に陥やすい種族の特性を逆手にとり、開花と繁栄の両面を保持するシステムだ。しかもその間隙に抜け目なく無数の囮となる造花を忍ばせ、あらかじめ計算しつくされた死差損益の触手を陸部と言わず沿岸の砂州の隅々まで満遍なく伸ばし、数値誤差を最小限にとどめるための狡猾な毒素まで地下茎の隅々へ垂れ流すという大胆な手法を執ってきたのである。そのようなグロテスクな収奪と特権的支配層の血脈をもとに繁栄を築いてきたフラワーであったが、それがまるでうたかたの幻のように呆気なく何物かの奇襲により、根幹であるメインオペレーションの花弁もろとも壊滅的破壊を遂げてしまったのだ。一体、その行為者とは何者か。
ここ数年、長らくフラワーを調査し続けてきた私は、その真相を知りたく密かに潜入することにした。
だが結果は初めから見えていたとも言える。
急峻な山肌に巨岩を幾重にも鎧った山中から峡谷へ降り立ち、フラワーと周辺地との境界である砂礫に覆われた水無川から一歩、対岸へと踏み込んだ瞬間、私は激しい立ち眩みに襲われ、方向感覚を失ったようにその場に倒れ込んでしまったのだ。僅かでも動けば節々に激烈な痛みが走るため、目を閉じたまま伏すしかなく、そうこうしているうちに今度は体が宙へ浮く感覚とともにけたたましい虫の羽音が耳元に迫ってきたのである。私は、それら無数に飛び回る虫の毒牙から身を守るため手足を引き寄せ、全身を硬くした。ところが不思議なことに同時に痛みの方は薄らぎ、ほどなく瞼の裏にあらわれたのはフラワーを上空から見降ろす俯瞰した情景だったのだ。
初めて目にするその位置からの景色は、正常に戻りかかっていた私の感覚をまたしても麻痺させるに充分だった。気づいた時には声にならない呻きのようなものが喉元から絞り出されていたほどだ。
なんと破壊されたと聞いていた構造物は既に残骸も綺麗に除去され、廃墟であったはずの片鱗を窺う影は一切なく、至る所に新たな六角形の建物が姿を見せていたのである。
おそらくは木っ端微塵に吹き飛ばされたであろう花床跡と思しき平坦地や壊れた花柱の破片がいくつか散在していたはずの空洞、朽ちかけた包の中などから大小様々な六角形の建造物が天に向かって尖塔のように突き出し、微少ではあっても確かに明瞭な進捗具合で範囲を広げているのが見て取れた。と言うのも六角の壁面は生き物のように呼吸しているのか、細かい振動でその全体を揺らし続け、それが鼓動となって視覚を通し伝わってきたからである。その波に和すように相変わらず鼓膜には蠢動する虫の羽音が溢れんばかりに領し、私の脳内を跳ねまわりつづけていた。建造物はそんな音と混ざり合いながら一つ一つ、空中回廊のような細い通路で繋がれ、これまで見たことのない破天荒なモザイク模様をつくらんとしていたのだ。得体のわからなさに、どこか空恐ろしくなった私はまたも声にならぬ声で思わず叫んでいた。すると今度は、いつのまにか草地のような柔らかなところに寝ている自分に気づいたのだった。
最初に倒れていたのは水気のない乾いた石ころに覆われた場所だったはずなのに、雨でも降ったのか辺りからはしっとりと湿気が昇り、濡れて重たくなった服が股や背中にべったり吸い付くように纏わりついているようだった。水気を帯びた下草のようなものが生い茂り、体は他人のようによそよそしく、指先だけが麻痺したように震える以外、なにもできなかった。そこへとどめをさすようにまたも雨粒のような、しかしどこか粘着質のあるものが降りだし、とろみを持った滴は耳や鼻の穴から容赦なく流れ込み、内臓を押し潰していくようだ。私は目を瞑り、じっと無数の落下に耐えた。すると次第に意識が遠のき、自分を取り囲む世界が急激に狭まっていくような感じがしてきた。肩甲骨の辺りがヒリヒリする。ついさっきそこからなにかが剥がれ落ちてしまったような痛みだ。痛みは背中から内臓、臀部へと伝わり、徐々に酷くなっていく。脳天から股間へ一直線に刺し貫いていた杭を力任せに一度に引き抜かれたような鋭い摩擦感をともない、不快の極致にいるようだった。このまま、この苦痛とともに使い捨てられたボロ雑巾のように野垂れ死んでいくのではないか、そんな不安が過った。
フラワーへ来たのは間違いだったのだ。おいそれと破壊者の正体を確かめられるなど考えたのが甘かった。ここはそんな半端な訪問者を受け入れるような寛容な場所ではない。一夜にして、これほどの巨大な侵攻を成し遂げ、また新たな構築をしている相手なのだ。そう易々と正体を見せるはずがないではないか。
そうこうしているうちに、いよいよ硬直が全身に回り出すと体の下に溜まっていた粘液から花蜜の香りが立ち昇ってきた。その匂いに呼び覚まされたように瞼だけが微かに開き、さっきまでじっとしていた影が動いた。おそらくぐったりしなだれていたのであろう草花が茎や葉先を擡げだしたのだ。よく見るとレンゲやクローバーで、開花し僅か数日で枯れてしまうそれらの復する姿を目の当たりにした私は、自分の運命と重ね合わせ、長い息を吐くとようやく深い眠りの世界へ再び落ちて行ったのである。
もはやそれが夢か現かはっきりしない。
意識が戻った時、どこか体に微妙な変化を感じた。痛みがどこへやら遠のき、全身のこわばりも消えているように思えた。私はゆっくりと立ち上がってみた。すると不思議なことに足首や膝、腰と芯奥から鈍く軋んでは鳴り響いていた擦過音もなくスムーズに伸ばすことができた。
起き上がってすぐ目に入って来たのは道際に立つ一本の標識だった。『ハニーフラワーサイド』という天然木につけられた一枚板の文字の先に視線を向けると工事中の建物があった。どうやらフラワーの領土内へまんまと忍び込むことができたようだ。六角形の建物の一つの間近にいるらしい。緑の野草の茎や葉を組み合わせたような防塵シートが垂れている。網目の向こうに、六本の黒い鉄柱と白い樹脂に特殊な加工を施したのだろう異様に光る壁の小さな塔が六つと、さらに数倍ある六角の巨大塔が頂点に配され、天にそそり立つように聳え立っていた。
デル・モンテ城。私は何故か、かつて絵葉書でしか見たことのない異国の田園の丘に立つ八角の城を思い描き、そこから二角を引いた建物に一目で魅了されてしまった。
私はさもそうするのが当然のように防塵シートをくぐり抜け、その内側へと入っていった。
建物は道沿いの外壁に設けられた鉄扉から入るようだ。輪っかのような取っ手をつかみ重い扉を開けると、中は三メートルほどの廊下を挟んで同じような壁がある二重構造になっていた。内壁にも外壁と同じ向きに扉があり、そこから入って奥を覗くと天井はなく、六角形の空を遥かに仰ぎ見れる庭園になっている。かなり大きな庭石や雑木が持ち込まれ、鬱蒼とした枝葉の間にこんもり盛り上がった丘も垣間見えるほど広大な敷地だ。すべての壁にはメイプルシロップに似た赤味ががった粘っこい塗料で模様が描かれ、年輪を刻んだ木目や花の萼、角度によっては昆虫の翅の紋様のようなものが散りばめられているように見える。濃淡がさながら水墨画のようで、見る側の目の奥に幽遠と入り込むと、かつて生き物たちが飛び回っていたであろう森の木立や苔むした岩々の表面に露を滴らせ、繁茂した葉叢や色とりどりの香り立つ花々の向こうへ誘い出してくれるような気がしてくる。
各小塔へは廊下を通って移動できるようになっていて、どこも吹き抜けで五メートルほどの間隔で天窓が設けられていた。頭上から射す光の加減か、横に組まれた梁の影が床や壁に斜めに曲がったり、膨らんで交錯しているようにも映り、円か球、果ては正六面体の中を移動しているようにも思えた。
小塔には小さな扉があり、今は誰もいないのか開け放された状態だ。ちょうど六角の半分を使った部屋が見え、その位置の高さは三つの段階に分かれている。各部屋、外壁に沿ってつけられた階段で繋がれ、六角形の踊り場が部屋の前や階段途中にあり、それらをうまく接ぐことでジグザグに一周しているらしい。
そのときだった。
三人の上下薄桃色のトレーナーのような服を纏い、白いベレー帽をかぶった女性が中庭の森の茂みの奥から姿をあらわすと、こちらへ近づいてきた。それぞれにこやかな顔で、浮き上がるようないかにも軽やかな足取りだ。よく見ると三人三様に背中で何かがひらひらと動いている。私はそばに来るまでそれをじっと見つめ、その正体を見極めようとした。
「ようこそ、ハニカムへいらっしゃいました」
まるで訓練でもしたような抑揚の効いた声をぴたりと揃え、会釈や動作もそつがない。吐く息からも甘い蜜の香りがしてくるようだ。体を折り曲げたときようやく私は、背中に広がっているものがわかった。翅だ。体の半分ほどの長さと幅をした薄い透明な翅が前後にゆっくりと呼吸するように揺れている。
「私どもはハニーと申します。今日からここでのあなた様の御世話をさせて戴くことになりました。どうかよろしくお願いします」
ハニーさんは皆、二十代くらいの若い女性だ。彼女らの説明によれば私の体調はまだ万全でないらしく、ここでの生活全般に付き添い介護的な手助けをしてくれるらしい。
「あなた様の希望を一番に優先しやっていく所存です。何でもご遠慮なくお申しつけ下さい」
そう言うと小塔の部屋の一つに案内してくれた。部屋にはベッドと小窓があるだけの質素なものだ。されるがままそこでの寝間着も兼ねたルームウェアらしい緑の綿の上下に着替えた私はベッドに横たわり、布団の中でハニーさんたちが持ってきてくれた木彫りのお椀に入った蜜を一口飲んだ。数分もせぬうちに足元からほんわかと温まってき、瞼が重く垂れ、ぐっすり眠ってしまうほどだった。
確かに体のダメージは相当あったのだろう。私は食事も含め、それからの数日をほぼ部屋の中で過ごした。その間、ハニーさんたちは献身的に世話をしてくれた。
体の状態も少しずつ回復し、立ち上がって散歩ができるくらいになったのはハニカムへきて一週間が経とうとしていた頃だ。私は思い切ってハニーさんにある提案をしてみた。ぜひ運動がてら、自分で蜜を汲みに行きたいという主旨だ。体の復調とともに最初にフラワーへやってきた目的が気になり、僅かなりとも思いを果たしたい欲求が頭を擡げてきたからだ。破壊者の正体をつかまんがため、まずは偵察のつもりで探りを入れてみようと考えていた。ハニーさんはそんな私を疑うことなく、最初の約束通り、それが望みならとすんなり受け入れてくれた。
蜜はいつもの木彫りのお椀を持って、中庭の森の奥へ出かけていく。用意された器は部屋へ運んできてくれてたもの以上に縁が擦り減り、ずいぶん使い込まれているようだ。
まず中庭正面に大きな石があった。高さ二メートル、幅一メートルほどの中央に括れの入った石で、羽巣父岩と呼ばれてた。
「この石が出発点となります。最初は私たちがご案内しますね」
翅を悠長に動かしながら三人のハニーさんが、どこか気が急いているこちらに気付いたのか、体調を心配するように声をかけてくれた。私は計画が勘繰られぬよう微笑を浮かべ頷いた。
「ゆっくりでいいですから、付いて来てください」
前に一人、後ろに二人の形で最初は躓かないようにゆっくり歩いた。後ろを振り向くとハニーさんの透明な翅越しに羽巣父岩が葉陰に隠れ、すっかり見えなくなっていた。
「ここからが宝音ッ途という林道になります。少し上りになりますから気を付けて下さいね」
林道は確かにハニーさんの言葉通り、最初こそ平坦だが、次第に両脇に雑木が茂り視界を遮りながら上っていった。急な個所には手摺りもあるが、砂礫や石屑が転がり、ハニーさんの足運びや翅の動きに合わせ、何とか距離を開けられないようついていくのがやっとだった。荒い息遣いに気づくと後ろ二人のハニーさんが心配そうに近づいては励まし、手を引いてもくれた。
峰らしき所から今度は下りになり、平地に着く頃には額にじっとり汗が滲んでいた。
山道を歩きながらも、私はどこかにこのフラワーを破壊させたヒントがないかと注意を怠らなかった。
ほどなく雑木が笹藪に変わり隧道を抜けた辺りから蜜の香りが匂ってきた。それと同時に水が流れ下る音もしてくる。
「蜜の湧き出ている音です。ここではこの豊かな山の自然を通し、湯水のように蜜自体が湧き出しているのです」
先頭を行くハニーさんがわざわざ立ち止まり説明してくれた。大地を滔々と潤す鼓動のような響きだ。水音ならぬ蜜音は、澄んだ瀬音のような響きへ変わり、細い一本の蜜の滝があらわれるのは間もなくだった。
「あれが土濾怨の滝です。よく頑張られましたね」
付かず離れず歩いてくれていたハニーさんの一人が耳元で囁くように言った。
空の彼方から平皿のような滝壺目がけ一直線に蜜が落下していた。名前のごとく岩場を通って一度土中深く潜り込むと蜜の不純物が濾過され、半割りの竹で組まれた筧から汲みやすい高さと量で甘い蜜が零れ落ちてくるのだった。ハニーさんに教えられるまま恭しい手つきで器に受けとった私は、ゆっくりと口へ運んだ。
甘く思いの他温かい蜜が、瀬音に包まれた木立の中の密かな明るみに身を置く私の喉を通って胃の腑へ落ちて行く。何気なく空を見上げると、心地よい風が頬を掠め、なんとも言えぬ法悦感に浸された。私はここへ来た目的と蜜汲みの狙いをうっかり忘れようとしたくらいだった。
そうやって一か月が過ぎた頃だろうか。破壊者の何の手がかりもないまま、私は羽巣父岩から宝音ッ途の林道へ入っていた。ハニーさんが付き添わなくなって三週間になろうとしていた。私の体力は随分回復していたし、信頼もされていた。
その数日のうだる暑さは最も酷かった。ハニカム全体にこもる熱気は尋常でなく、清水の蜜の量もかなり減っているのが見て取れた。それでも私は調査の進まぬ焦りの中、いつものように額や襟元に汗を滴らせ、急な傾斜を歩いていた。
太陽は容赦なく六角の空から降り注ぎ、木立の緑を色濃く映し出しては乾いた地面に照りつけていた。蜜の誕生には当然ながら樹木や草花に降り注ぐ雨の力は大きい。灼熱の中ふらふらになりながら、なんとか中ほどまで辿りついた私は足を止め、手すりに全身を預けた。
呼吸が荒く、動悸が激しくなっていた。このままもし天からの恵みが一滴もなく、清水に流れ落ちる蜜が枯れてしまったらどうなるか。急に絶望的な気分に駆られ、これまでさほど有難がっていなかった蜜を心の底から希求する自分の身勝手さを感じていた。
それから何分たったか。
かそけき葉擦れの音に呼び覚まされたようにふと首をもたげると、一陣の風が猛然と巻き上がり、辺り一面の梢を大きく揺らした。見上げた空には陽光を雲があまねく覆い隠し始めていた。
私は我が目を疑った。
晴れ渡っていたハニカムの六角の空に青域は微塵もなく、ついに稲妻とともに雷鳴が轟き、一粒、二粒大きな滴が落ちてきたのだ。
それはまさしく宝の光と音だった。
湿気を帯び始めた大地は、足もとでじわりじわりと息を吹き返し、一滴一滴地面に滲みこむたびに土くれの細胞の隅々にまで生命の脈動を行きわたらせていくようだ。おそらくはその一滴一滴が草花や土濾怨の滝へ流れ下る蜜をつくっているに違いなく、私は大きく息を吸い込んだ。カラカラの口や鼻腔を通し湿った外気が入り込む。息を吐くと、あれほど頭中を張り裂かんばかりに渦巻いていた熱気は徐々に萎み、それまで感じたことのないゼリー状の柔らかな膜にすっぽり包まれたような森との一体感がやってきたのだった。
それからまた数週間が過ぎた。
私はいつもより早めに森へ蜜をもらうため宝音ッ途の道を歩いていた。もはや破壊者のことなどどうでもよくなりつつあった。そもそもそれほどフラワーという存在に愛着があったわけではない。古い茎や花被のシンボリック化や着ぐるみ子房のコスチュームとダンス偵察隊と言うやぼったい繁殖と生物虐待のカーニバルを堂々と街宣し開催する自己矛盾を何ら恥じずマッチングさせてきた、体たらくなやくざなシステムに制御されたフラワーは、破壊者が来襲しなくともいずれ自壊する運命にあったのだ。そんな種がどうなろうが知ったことではない。私はそれより私の喉と体を潤す蜜が欲しかった。
筧から落ちる量も少なくなったとは言え甘さには何ら変わりない蜜を充分堪能したその日の帰り、私は一匹の白い蝶を見つけた。
蝶はひらひらと目の前を優雅に舞っていた。
きっと栄養源か産卵のために必要な新鮮な緑の葉を探しているのに違いない。体のどこかに花粉を付け、別の花へ運んでいるとも考えられる。ところが蝶は、そんな忙しさをいっさい感じさせず、何にも束縛されぬ自由を謳歌するように飛んでいた。もちろん翅自体は落下させぬがためせわしなく反復を繰り返していたが、穏やかな風景の移ろいと相まり、スローモーションのようにゆったりし、私はつい見とれてしまっていた。
それからすぐだ。私自身も森をそんなふうに気ままに探索したい強い衝動に駆られたのは。何もかもが窮屈で嫌になった。得体の知れぬ破壊者に憑りつかれ、どこかで煩悶させられつづけたベタつく瘴気を思い切り絞り出し放出したい、そんな熱病のような欲望に駆られたのだ。
肩甲骨の辺りが汗ばみどことなくむず痒く、小さな翅でも生え出したような気分だった。
さっそく手摺りの外へ屈んで出ると歩き始めた。梢を掻き分け、ハニーさんから自然と学び取った浮遊感漂う軽やかな足取りで朗らかにハミングしながら行くと、掘立て小屋が目に入った。木漏れ日の陰影が風とともに揺れ、木切れのような防水材を貼っただけの簡素な屋根を照らしている。そんな光の下へ吸い込まれるように真っすぐ近づき窓から中を覗き込むのに何の躊躇もなかった。
私は思わず目を瞠った。
自分の背丈ほどある茶褐色の円筒形のタンクと配電盤が静かな電気音と振動を立てている。よく見るとタンク下方からは一本が地下、一本が土濾怨の滝や筧の方へパイプが伸び、そのすぐ横壁に大きな鏡とハンガー掛けがあり、作業着と同じ薄桃色のベルトのついた翅が数組掛けてあった。これまで神秘的に映っていた翅が、光の加減か太めの銅線のようなものに縁取られ、いかにも陳腐なものに見えた。翅は薄い透明シートを使ってあり、テープを貼って翅脈をつくっているのがはっきり見て取れる。いつものハニーさんたちの挙措動作に合わせ動く可愛らしさは微塵も感じられなかった。
私は最初、何のことか合点がいかず、頭を整理しようと冷静になろうと努めた。
何分立っただろう。もしかすると数秒だったかもしれない。どこからか小枝を踏みしだく足音が近づいてき、咄嗟に外壁の陰へ身を潜め、息を殺した。日頃聞きなれたハニーさんたちの声がする。ガヤガヤと話しながら扉を開けると小屋の中へ無造作に入って来た。
「参っちゃうわね。いくらラブホテルだった頃のオープン記念の品物が残ってたからって、こんなのを作業着にしちゃうだなんて。一日つけてると肩が凝るんだよね」
「だけどこの翅って意外と訪問や見舞い客には好評よ。とくにスケベそうなおやじとか」
「やだあ、メイド喫茶と勘違いしてんじゃ」再び高笑いが起こった。
「でもやっぱり気持ち悪いわよね」
「私は何ともないけど。仕事ってわりきればいいんじゃ」
私はそろりと立ち上がり、窓の桟へ首を伸ばした。ベルトを外し予備の翅と一緒の場所に掛けた三人が、いかにも解放されたように腕や首を回したり伸ばしたりしストレッチをしている。
「こんなアイディア考えた社長も社長よね。私もいっそ天使にでもなっちゃおうかな」酷く下卑た笑いだった。
「とにかくどんなやり方だって、入所者が落ち着いてくれるなら何よりよ。特にあの例のおじさんなんかさ」
「そうね。また興奮して花がちぎられた、街が壊されたって外に飛び出られてもかなわないもんね。道の真ん中で卒倒されたときなんか、気が気じゃなかったし」三人は神妙な顔になった。
「それにしても社長って、やっぱり変よ。面接のときもカーテンから出てこないで、やりとりは今もずっとメールだし」
「せめて男か女かくらいわかれば、こっちもやりやすいのに」
「蜜の研究の試飲のやり過ぎて、今じゃ両脇を支えてもらわないと立てないくらい太ってるって噂もあるけど」
「だったらあの『壊された』のおじさん、意外と社長じゃ。だってあの太り方もさ、花だってやたら詳しいし。いつも探偵みたいに施設のことも聞くじゃない。もしかして入所者に化けて勤務評定してるのかも」
「絶対違うって。だってあのおじさん、水だ、空気だってやたらエコで環境にうるさいじゃん。社長は所詮、こっちのエコでしょ」
さも当然のように指を丸め円マークをした。
「そうよね。けどやっぱり凄いね、あの太り」
そこで三人は少々言い過ぎたことにバツがわるくなったのか、苦笑した。一人が真顔で切り出した。
「正直言うとね、私、ここのやり方、初めのうちは付いていけない感じだったけど段々ハマっちゃってんだ。研修でできるだけ格調高く話すよう注意を受けて、がんばってるの」
「ああだからか。なんだかこの頃、アドリブもうまくなってきたなあって感心してたわ」
「そう言ってくれると嬉しい。とにかく相手をプラス思考へもっていけばいいんだって注意受けて心がけてはいるんだけど。そっちも翅を動かすタイミングとか雰囲気出てんじゃ」
「二人とも羨ましい。私なんか今でも馬鹿々々しくって。だってさ、どれだけ研究したかしらないけど、ただの甘味料を混ぜてとろみをつけたものをここからポンプで流してるだけでしょう。木や岩や花だって皆よくできたレプリカだし。やってられないわよ」
そう吐き捨て再び背中に翅をつけると、鏡の前で落ち度はないかチェックを始めた。
「まあどっちにしろ、ホテルのときから中庭にこんなのつくる所だからさ、私たちも早めに次の職場探しといた方が無難かもね。なんてっても変態志向のお客が多かったって噂よ。それにまた外壁をど派手に塗り替えるみたいだし。社長もその口かも」
「やだー、背中ゾーッとしてきちゃった。来る人の気が知れないわ。ねえ、早く戻りましょうよ」
「嘘おっしゃい。あなただって、けっこうこんなとこでアダムとイブみたいやりたかったタイプじゃないの」
「やめてよ、変なこと言うの。こう見えても私は夫一筋の貞淑な妻よ」
「ごめんごめん、新婚さんだったわね。婚活中のバイト女の私と一緒にして、申し訳ありませんでした」
「それに第一、アダムは禁断の木の実を食べただけでセックスなんかしてませんよ」
「あのね、その木の実が曲者なんじゃない」
「ちょっと二人ともいい加減にしてよ。そろそろ仕事に切り替えましょう」
それが締めになったようだ。その後、顰めっ面や薄笑い、不愛想や道化た表情を仕舞い込んだ三人は、翅先をわざとらしく手で触れ出て行った。
一人、外に取り残された私の胸元には嘔吐がとぐろを巻き襲ってきた。
たった今三人が放ったばかりの言葉が耐えきれず、今すぐそのすべてを吐き出したい気持ちに追いやられた。私もその木の実を食べてしまった一人なのか、そんな不安が過ぎった。膝立ちになって口を開け喉を絞り上げるが、出てくるのは眦から伝ってくる涙と咽るような咳や唾液ばかりだ。私は最後の手段とばかり絶叫か悲鳴を試みようと思ったが、その後の取り返しのつかぬ狂気が恐ろしく耐えに耐えた。
私は禁断の木の実など食べていない。
胸中で何度もつぶやき、さっきまでの三人の顔や声がフラッシュバックのように襲ってくるのを我慢するしかなかった。私は自力でなんとか立ち上がると、頬を掠める湿った風に導かれるように空を見上げた。光を微かに宿していたと思われていた空は一変し、灰色がかった雲が濃さを増し鉛のように重く垂れ込み、今にも大粒の雨が落ちてきそうだ。
憔悴しきった表情でゆっくり来た道を辿って行った。空同様、すっかり曇ってしまった心の窓に光を入れようと深呼吸したがうまくできなかった。
羽巣父岩を過ぎ、見覚えある外縁の回廊へと通じる鉄の扉口が見えてきた。その向こうには六角の建物の中にさらに小さな六角の部屋が並んでいる。私の帰りが遅く心配したのか、庭から一旦外へ出るや、さっきまで山小屋で打ち騒いでいたハニーさん三人を筆頭に、これまでどこにこれだけいたのか十数人の同じような格好のハニーさんが重々しく立ち並び、笑顔で私を出迎えてくれた。皆、一様に背中の翅を動かしている。私には、またしても最初、フラワーへきたときの体の節々の気怠い重さと眩暈がやってきていた。首や腰を始め、体全体を刺激しないようゆっくり前へ進んでいった。ハニーさんに混じり、着ぐるみ子房の食肉獣が一頭、じっとこちらを見つめている。私が近づくとあっちも親し気に毛むくじゃらの手を肩口へ伸ばしてきた。とそのとき突然、背中に引き攣るような甘い痛みとともにむず痒い感覚が走った。私は咄嗟に向こうの手を払いのけ、自分で腕を伸ばし触ってみた。突起物ともどこか違う。かなり大きく広いものがあるようだ。薄く、だがしっかり弾力のある膜のようなものがあって、左右にゆったり動きながら微風を送っている。同時に尾骨にも軽い疼きが走り、そっと手を回してみた。下腹から鋭利な細い管のようなものが臀部へと伸び、今にも薄皮を破らんと突っ張っている。脳天から股間へと磔のように刺し貫いた杭だろうか。もしそれを力任せに引き抜いたとしたら、一体どんな顛末が待っているのか。またも鼓膜には甲高い音が鳴り響きだした。ハニカムだけでなく、まるでフラワー全体がバチバチと両耳を聾する勢いで唸っている。背中の異物の動きとともに体がじんわりと温かくなってくる。私には次第にそれが無数の翅と翅が擦り合い発熱する音のようにも聞こえてきた。もしかすると一挙に量を増した土濾怨の滝から落ちる蜜が驟雨のように飛沫を立てているのかもしれない。香ばしい蜜が全てを一斉に今、洗い流していってくれているようにも思える。
私にはフラワーの破壊者が今、すぐそこにいるような気がした。
2020年4月29日 発行 初版
bb_B_00163694
bcck: http://bccks.jp/bcck/00163694/info
user: http://bccks.jp/user/147880
format:#002t
Powered by BCCKS
株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp
1961年熊本県荒尾市生まれ。北九州大学文学部国文科卒業後、学習塾講師、大検(高卒認定)専門予備校職員などを経て、熊本県小学校教諭に採用。二校目の赴任地(阿蘇市立宮地小学校)で、卒業生である発達障害の青年との出会いをきっかけに33歳で退職し、当時阿蘇郡市では初めての民間での小規模作業所「夢屋」を立ち上げました。その後、自立支援法施行に伴い、「NPO夢屋プラネットワークス(http://www.asoyumeya.org/)」を設立し、地域活動支援センター(Ⅲ型)代表兼支援員として阿蘇市から委託を受けながら現在に至っています。 運営の傍ら、小説、ノンフィクション、児童文学、書評などを発表してきました。部落解放文学賞に5回入選、九州芸術祭文学賞熊本県地区優秀賞2回、熊本県民文芸賞、家の光童話賞優秀賞などを受賞させていただいています。