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有明幻想
一
九州は熊本の北西部、福岡との県境に位置する荒尾市は、東の筒ケ岳や観音岳からなる総称小岱山を中心になだらかな丘陵が上下に起伏しながら有明海へと末広がりに延びている。広大な干潟は古代、阿蘇の大噴火で堆積した粘土層が潮汐の力で川と海とを何度も行き来しつくられた。
六月を二週間残し、市のさらに西の外れ、貝塚地区の岸から見る海原は午後の日差しに照りつけられ、無数の針をばら撒いたように輝いている。やがて日が一層傾くと、真っ赤に彩られた光がその針を熱し、燃え広がる草原とも見紛う勢いで眩しく染め返すのだ。
岸壁へ波しぶきが打ち寄せていた数時間前とは打って変わり、今、敏雄の目の前には有明海の広大な干潟とともに幅十メートル近い海の川〝エゴ〟が悠然と弧を描き姿をあらわしていた。長い年月をかけ砂や泥土が抉られできた谷間の川は、深い所で大人の胸まである。ゴム長やダバ靴に身を包んだ五人の女を乗せた三トン弱の船尾に陣取る敏雄は、これから目指す一里先の貝の寝床の洲を見つめ、出発のタイミングを計っていた。
砂粒でつくられた洲は、ここから見るとこんもり盛り上がった肥沃な台地のようだ。貝の寄り場は日によって微妙に違うため、一キロ四方ある洲のどこに船を着けるかが腕の見せ所なのだ。
最近増えたシギやチドリに混ざり、優雅に旋回するカモメが一声鳴き、敏雄はそれを合図に待っていたかのようにスロットルを絞り上げ、エンジンから熱風を吹き出させた。
「敏雄さん、赤ん坊もそろそろじゃろ。潮止めの反対運動しとったっちゃ、ちゃんとこさえるもんはこさえとったたいな」
古株の久田千穂が笑みを浮かべ、からかうように言った。彼女は夫婦で小さな雑貨屋を営んでいる。一人娘は結婚し、都心で暮らしている。
「諫早にギロチンが落ちたって、めでたかつはめでたかけんな、よかこつよかこつ」
一番年配の林洋子がその横で同じように白い歯を見せた。父親は戦争が酷くなる直前、ここからおよそ六百キロ南へ行った与論島から炭鉱夫としてやってきた。彼女がまだ赤ん坊の時で、もちろん覚えていない。
その後、弾みがついたように船のあちこちから会話が飛び出すのは、いよいよ貝漁へ出る高揚がさせているようだ。波音が木霊のように響いては鼓膜を満たしていく。
敏雄には五か月前のことが思い出されていた。アパート住まいを始めここ数年、ほとんど寄りつかなかった実家に、年明け早々、付き合っている女を連れて行った。名は律子と言った。すぐさま母の美佐江が、生まれや親兄弟はと矢継ぎ早に訊ね、はっきりせぬ相手に痺れを切らすと、素性もわからぬ者を嫁に迎えるわけにはいかぬと言い放った。
父親の保はその時、黙って後ろに立っていた。農家の二男坊で養子だった。それに三年前、荷揚げの最中腰の骨を悪くしてからは、特に力を落としていた。
しかし、そんなあられもない言葉を吐く美佐江も律子へそれとなく視線を送るや、俄かに声に柔らかみを含ませだした。女の腹には既に五カ月目の子がいた。膨らみは美佐江の怒りを憐憫へと変え、場の緊張に緩みを持たせた。すると今度は敏雄の方が堪えられなくなり、凄むように吐き捨てたのだ。
「もうよか。おっどんだけで勝手にする」
巻くし立てるように律子の腕をつかみ、アパートへ連れ帰ったのだった。
敏雄には一つ下に悠子、三つ下に尚子、それに八つ離れ浩一の三人の兄弟姉妹がいた。
悠子は五年前、二十二歳で結婚した。夫の実家は炭住近くの商店街に酒屋を営んでいたが、義父が昨年癌で逝き、合わせて炭鉱も閉山となったため、細々と店をしながら夫と祖母に五歳の息子の四人で暮らしていた。尚子は、造船会社の下請け社員と二十一で結婚し、不況の煽りで一時、出向で他県へ移り住んだ。ところが半年前、夫婦仲がこじれ四つになる娘を連れ実家へ戻り、先月、正式に離婚したばかりだった。弟の浩一は一浪中で、今年は近県の水産学部を目指している。予備校も夏と秋の集中講座だけ行くつもりらしく、今は炭住跡につくられた市民プールの清掃のバイトと、それが終わってから仲買の手伝いをやっていた。
敏雄は波の音に包まれながら、改めて指先に力を入れ操舵を動かした。
洲に近づくにつれ、さっきまでとは打って変わり女たちは黙り込み、貝を採るための集中を計っているようだった。敏雄にも張り詰めたものがひしひしと伝わってきた。
慎重にエンジンを切った敏雄は、しばらく惰性に任せた。
上空から風が時折り頬を掠め、粘りつく汗を浚っていくようだ。一呼吸したとき舳先が鈍い音を立て、振動とともに動きを止めた。洲に乗り上げたのだ。皆、満を持したように立ち上がると船べりを跨ぎ、吸い寄せられるように漁場へと向かっていった。
ジョレンやヤスなど使わない。ここぞと狙った場所を柄も刃も太いガン爪でざっくり二度、三度と掘り返し、後は貝を痛めぬよう両手で掻き出していく。ゴム手袋も軍手も途中ですっかり破け指から血が滲んでも、潮水で洗いながら休まず採り続けるのだ。
洲が完全に顔を見せてから、尚一層力が籠る。有明海の潮の満ちは最初は穏やかでも、次第に速さを増し一度にやってくる。豊富な漁場が顔を見せるのは潮位差が激しい大潮の時期で三時間、小潮で二時間ほどしかない。湧水のような潮流が対岸の彼方から血のように湧き上がり、あれよあれよと言う間にエゴの谷間を墨色に染めていくのだ。
貝袋で一杯になった船に、人を乗せる隙間などない。どの船も帰りは干潟を歩かせる。だが敏雄はできるだけ遅くまで採ってもらう代わり、船端に女たちを押し込むよう乗せていた。
徐々に傾く西日を受け、目の前に続く海流は蛇行するようであり、波の先端は巨大な古代魚が堅い鱗に覆われた痩身をぬらぬらと蠢かせ輝かすようだ。うねったかと思うと地を這い、船艇を掌で弄ぶように押し上げてくる。
女たちが皆引き上げてきた後、敏雄は底板が浮き上がっていくのに合わせ、器が潮にうまく乗じるタイミングでエンジンをかけた。
船は出発する。海の恵みを載せ、白く照り返る横に伸び切った防波堤を目指していく。
「こっで子どもにひだるか思いばさせんですむばい」
海の神に感謝するよう誰となくつぶやいた。
堤防が近づいてき、敏雄は舳先との距離を測り、スクリューで潮の深さを聴き分けエンジンを切った。洲とは違い、今度は船外機を素早く横上げし、船腹がある程度擦れるまで乗り上げさせた。
二
岸に着くとさっそくトラックへの荷揚げの仕事が待っていた。
プール掃除を終えた浩一が、数日前操作を覚えたばかりの耕運機を運転し近づいて来た。
「兄ちゃん、大変ばい、今日な、プールから白骨が出てきたばい」
運転席から血相を変え声を張り上げる浩一に敏雄は一瞬目を瞠ったが、感情を押し殺すように 平然とした顔つきに戻ると、いつもの動作に移った。
「ほんなこつね。殺人やろか。この辺りも物騒になったね」
むしろ、即座に反応したのは女たちだ。船から下り耳にした途端、怯えた顔つきになった。
浩一は興奮気味に続けた。
「警察が網で浚ったら、長靴んごたっとも出てきたつ。プールん外もいろいろ調べていって、おかげで掃除ん段取りば変えなんごつなって大変だったばい。俺たちも部外者のと区別がつくごつ指紋ば採られたつよ」
「浩ちゃん、たいぎゃあ気色ん悪かったろう」千穂が不安げに言う。
間を置かず、洋子が「バイトもおおごつな」浩一はお礼のようにペコリと頭を下げた。
「浩一、そげな話より、さっさ、そっちに貝ば積み込まんか。今日はこん後、博多まで高速ば飛ばして行かなんとぞ」
敏雄はわざとのようにその話題には乗らず、作業の手を休めようとはしなかった。
船から堤防を登り切るまで耕運機でやり、その後は二トン車の冷凍トラックへ移し替え、百キロ以上離れた市場へ直行するのだ。そこで仲買の二倍かそれ以上の値で売り渡すことになる。浩一もようやく我に返ったように口を閉ざすと、袋を両手で一つずつ運び始めた。
数十メートル先の堤防では美佐江が、女たちにどれだけ採ったか順次聞き取り、帳面に小まめに記している。すべては口約束で決められる。誰も疑う者はいないし、嘘を言う者もいない。仮に誤魔化したからと言ってそれがどうなるというのか。仲買がその帳尻は合わせるしかない。濱崎に来る者は腕の良い玄人ばかりで、少なくて一斗、多くて二斗は採る。網袋に直すと五人で十五から二十袋になる。一袋三千円前後で女たちと取引きしてるから、それを差し引きざっと日に五万、月に二週間無事に漁に出られたとして、七十万になり、燃料費を始め雑費を引けばかなり厳しい。敏雄が手伝い始めた十年前と比べても半分近くまでに落ちている。
「美佐江さん、今、浩ちゃんが言よらしたつは聞いたね。プールから骨が出て来たってばい」
まだ気持ちが治まらぬ千穂は、美佐江に確かめずにはいられなかった。
「ああ、そんこつね。こけ来て私ん顔ば見るなり、ずっとそればっかりたい」
「なんやろか。気色んわるかね」
「新聞記者も来たらしかけん。明日、何か書いてあっとじゃなかとね」
「ほんなこて恐ろしか」
すかさず後ろで待っていた洋子が呆れたように「あんた、よう言うよ。さっき船ん上から小便しよったつはどこの誰ね。恐ろしかもんが、あぎゃんこつばできるもんかい」
日除けにしていたタオルの頭巾をとると白髪がぽつりぽつりと混ざっている。洋子は一番の年長だ。仕事を終えた安堵感か、それに和するようにどこからともなく笑いがこぼれた。
「そんにしても去年、ギロチンの落ちたせいやろうか、今年はめっきり貝も少のうなって、手ばっかし動かしてんちっとも出てこんばい」
洋子が思わず零すと、「なあん、それよりだいぶ前から新しか堤防がでくったびに潮の流れん変わって、昔よりエゴや洲も小そなったごたる」千穂が今度は付けたすように愚痴った。
美佐江はそんな女たちを宥めるように、「諫早のときは役場にも押しかけたばってんな。いろいろ調査してみんとわからんて、なしんつぶてやったもんな」そこで小さな溜息をつき、「私どんは船であんたたちば運んでやるくらいばってん、これからも頼りにしとるけん、よろしゅうな」
千穂がすかさず、「何ば言うとね。あんた家には感謝しとるばい。先代の善造さんが、これからは、なか知恵ば出してでんなんかせなん言うて漁協と交渉して、船やらトラックば自腹はたいて用意して仲買ば始めてくれたおかげで、潰れるごたる店ばしながらでん、こぎゃんして稼ぎんできるし、どうにか食ってこれとっとたい」
「一人で貝堀りに来よった私に声かけてくれたつも善造さんやった」洋子も感慨深げだ。
「あんころ洋子さんな、毎日、自転車で潟の固かところばつっ走てきちゃあ、一人離れた所で貝ば採って帰りよったもんなあ」
美佐江が自分の身の上話のように辛そうに洋子を見た。
「漁協にも届けんで、こそっと来よったけんね」
「顔も険しうて、話しかけようにもなかなかできんやった」
今もまざまざと当時の様子が浮かぶのか、美佐江は重い口調で続けた。
「爺さんがあん女にもいっちょ言うてみっかて。あれは病気で倒れるひと月前やったばい」
「ヤマには同郷のものもおるばってん、海にはぜんぜんおらんし。それに亭主が落盤で死んでからは二人ん子どもば育つっとに必死やったし。こっちならとりあえず貝のとるっどが。おかずんしこもろていきよったたい」
与論島から大人数での炭鉱への移住が始まったのは一世紀以上前のことだ。度重なる台風による未曾有の被害に遭った島民は、労働力不足の炭鉱の誘いに応じ、海を渡ってきたのだ。ところが、そこに待っていたのは約束されていた高収入の採炭現場とは無縁な〝ごんぞう〟という最も重労働な石炭運びと低賃金の荷役作業だった。
「小さかときからヨーロン、ヨーロンて馬鹿にされてきたけんね」
洋子は上っ張りのゴム合羽を脱ぎ、濡れた髪や首元をタオルで拭きながら話した。
「島ん者て、ばれんごつ、言葉使いも気をつけよったし、結婚は絶対、こっちん人としようと思とったつ。亭主は中学ん同級生で荒尾ん人たい。そりゃあ優しかったよ。ばってん争議で回りば扇動したて減俸処分ばくろうて、そんときは組合も会社と結託して助けてもくれんやった。それからは家で酒ば飲んじゃ暴れて、私にもヨーロン、ヨーロンの始まったつたい。もうどげんもしようもなかったよ。それにしても死なしたときには驚いたばい。事故の見舞金のえらい少なかけん、会社に訊いてみたら、正社員じゃのうて臨時雇いにされとったつ。あん人、それば黙っとらしたつたいね。それもきつかったろうな。そんなこんなあって誰ともなじめんやった私に船に乗ってみんかて言われたときは嬉しかったよ」
「そぎゃん言うてくるっと、ありがたかあ。爺さんも草葉ん陰で喜んどらすどたい」
励ますつもりが逆に励まされ、美佐江は、浩一があの潮受け堤防の水門閉鎖の映像をテレビのニュースで見ながら激高していたのを思い出した。
「こぎゃんこつしたら絶対、海苔や貝に影響ん出るばい。ほんなこて何ば考えとっとやろかね。そるばってん、母ちゃん、俺が大学通ったら稚貝ん研究して増やしてやるけん、心配せんでよかけんな」
できれば将来は漁と離れた安定した仕事について欲しいと願う美佐江であったが、そうやって家業を気遣う心根はやはり嬉しかった。
「何もせんやったら向こうの思うつぼぞ。とにかく抗議行動たい」
敏雄も当時は血気盛んで、他の漁協仲間と連絡し決起集会を開くと、『宝の海を返せ』など思い思いの言葉を殴り書きした幟を立て、対岸の潮止めの水門まで船団を組んで詰め寄った。役場へも即時開門と干拓中止の要望書を提出し、テレビ放送等で全国的にも広まりを見せたが、干拓の行程はそれらの思いを無視するかのように着々と進められていったのだった。
次第に世間の関心も薄れていくにつれ、敏雄の表情にも変化があらわれだした。かつて行動をともにした者とも疎遠になり、時にその話になると冷めたように薄ら笑いさえ浮かべるようになった。
「なんかあん子は、別人になったごたるね」
美佐江はよく保と二人でいるとき怪訝げに話したものだ。
律子を初めて連れて来たのはそれからしばらくたってからだった。
ダバや合羽を脱いだ女たちは、シュミーズも露わに着替えにかかる。皆、潮になぶられた髪が縮れたように頬に貼りついていた。
「せっかく着替えもでくるごつ事務所ばつくったつに、どうしてつこてくれんと」
急用でもあるのか慌てたように服を着、自転車に乗ろうとする千穂に美佐江が声をかけた。
「どうせ私どんなどこで着替えてん、だーれも見やせんて。それに事務所だったら保つぁんが目のやり場に困らすどが」
あっけらかんと答え、「さあさ、これから帰ってちっとは亭主と店ばせんとね。ディスカウントのできてからめっきり減ったばってん、うちげば頼りにしている人もおらすしね」前籠に作業着、後ろの荷台にガン爪をゴムひもでくくり付け、サドルによいしょと跨ると目尻に皺を寄せ笑った。
「また明日もよろしゅうなあ」
そうやって女たち全員が姿を消してしまう頃には、トラックへの荷揚げもそろそろ終わろうとしていた。煙草を取り出しながら敏雄が浩一の隣にやってきた。
「浩一、今日、お前が運転してみるか」
「うん、よかよ」
「大丈夫かい。免許とってからあんまりしとらんど」
簡単に返す浩一に美佐江が心配げに聞いた。
「大丈夫て。高速はアクセル踏んどきゃよかっだけん」
そんな意気のいい返事も所詮は兄を前にしての強がりにしか聞こえぬ美佐江は「ゆっくりいかなんばい」弟に持ちかけた敏雄を恨めしげに見た。
「帰りはちゃーんと俺が交替してやったい。将来の大卒様に怪我ばさせたりゃせんけん」
それを察してか敏雄も一言添えた。
浩一の不慣れな運転を見送った美佐江は、堤防沿いを歩き始めた。
かつて海水浴場のあった辺りから下った所に僅かな土地があり、そこに小さなプレハブの事務所を設けていた。
今日の採れ高と女たち一人一人の数を手伝いに来ている悠子がパソコンに打込んでいく。
「なんも、そぎゃんせんだっちゃ、そん帳面に書いてあるとおりなんやけどね」
美佐江のボヤキにも「なんば言うとね、お母ちゃん。獲った量やら売上ばきちんと整理しとかんと、後で帳簿付けたり申告するにも難しかろがね。必要経費もしっかり落としていかなんし。貝堀りだっちゃ、今は赤字ば出さんごつ、きちっとやっていかなんと。昔んごつはいかんとばい」
腰の用心で漁に出なかった保も、悠子の隣で食い入るように画面を見ていた。
二十年ほど前までは組合員であれば好き勝手に採っていたが、乱獲で漁場を荒らす理由から次第に漁協の管理が厳しくなり、一定の制限と報告をしなければならなくなった。税金の取り立てがうるさくなったのもその頃からだ。ところが皮肉なことにそれと時期を重ね、漁獲量は減り、そんな心配もなくなった。
既に日は、有明海を挾み山なりに影を見せる雲仙と多良岳の間の諫早の向こうへ隠れようとしていた。事務所にいても仕方ないと美佐江は早々にそこを出、道路を渡り百メートルほど行った実家へ向かった。
全身汗だらけの筈だが美佐江にはその事も気にならず、手と足の汚れを外の洗い場で落とすと三和土へと入った。親の代から風呂と台所以外、建増しや改築もすることなく襖を取り外し、今の時期からは吹き抜けにしてある。周囲は江戸期に干拓されたため海抜が零かそれ以下で、貝殻が多く混ざっていた。美佐江が子供のときなど、掘れば潮水が滲み出てき、小さな甲羅に頑丈な鋏の蟹が土間までやって来て、猫の恰好の遊び相手になっていたものだ。出戻ってきた尚子は、パートの時間を増やすのに合わせ娘を保育園に預けるための書類を市役所へ出すついで、園に挨拶に行っていた。
最近の美佐江には昔の記憶が折りにつけ、昨日のことのように思い出されてくることがあった。
白灰といって砕いた貝殻を土でできた大窯の下に敷いたコークスで三日三晩じわじわと炊き、漆喰をつくる家があった。海岸に打ち寄せた貝殻だけではたりず、リヤカーで近所の家々を回り、食した殻を集めにきていた同級生がいたが、輸入物や人工の塗料が出回りだすとあっけなく業は止め、一家ともどもどこへか引っ越してしまった。今も元気でいるのかどうか。美佐江は、改めて年月の流れの無常さを感じずにはいられなかった。
三
貝を積んだトラックは、かつて炭鉱の労働者で賑わった県境の中心街、四ツ山を走っていた。助手席から覗くと薄暗闇の中に小売店や飲み屋のシャッターが長い塀か鎧戸のように重く打ち下されていた。
「お前、骨て言よったばってん、どぎゃんかつやったつか」
干潟ではさほど興味を示さず邪険にした敏雄がぼそりと訊ねたのは、そこを抜け南関インターから高速に入り、しばらくたってからだった。敏雄自身、気にならないわけではなかった。ただ何か自分でもわからぬものが避けさせた。敏雄は勘ぐられぬよう、いかにも眠気覚ましのような軽い口調で切り出した。
「そっが、ほんなこてたまがったばい」
待っていたとばかり浩一は語尾に力を入れ、ハンドルを手に朝からのバイトの様子を順に話し出した。
プールは敏雄も小学生のころよく泳ぎに行った。炭鉱会社の出資でできた遊園地グリーンランドのほぼ隣の運動公園内にあり、オープンは敏雄の生まれた翌々年だ。
「なんさま、どんプールも赤黒か藻とか苔んついとって汚かったい」
「そらそげんやろ。放っとる時期が十か月近くはあるやろけんな」
敏雄は車の揺れに身を任せながら相槌を打った。
浩一が今日、清掃した場所は通称〝赤ちゃんプール〟と呼ばれ、一番奥の土手際に位置し円形をしている。面積も広く、中心部へ行くに従い深くなり、螺旋のスロープを内に持った塔が監視台を兼ね聳えていた。そこから橙の二本の強化プラスチックの滑り台が艶やかな光沢を浮かべ、やや小ぶりの丸いプールと繋がっている。塔から見下ろすとその大小二つが連なり、くびれた瓢箪か母体のようにも見え、遠くには僅かだが有明海の海原も眺望できた。
「全部で四人おるとばってん、俺以外は元気のよかおばちゃんたい。中でも平木さんていう人は五年続けてきよらすベテランで、近所ん農家の手伝いの合間に来よらすと。旦那は去年まで炭鉱に勤めとって小学生ん娘が三人おるらしか」
清掃は平木のてきぱきした指示で順調に進んでいった。
「俺は短パンばってん、他はジャージば巻くっとらす」
「ほう、そうか」敏雄の返事は次第に短くなった。
四人はクレンザーのついた亀の子でまずは水を抜く前の側面を擦りながら一周していった。中屈みのまま手首や腰は極度に曲げられ、かなり窮屈な姿勢だ。
「山田さんていう大阪から引っ越して来らした人も、ようしゃべらしてね」
ハンドルを手に浩一は、まるで自分がその相手に成り代わったように饒舌になった。
「旦那が造船に勤めとらして、不景気でえらい給料が減ったけん困っとるて」
いかにも気の毒げに話す浩一の隣りで新しい煙草を銜えた敏雄は、その会社がやってきたときのことを思い出していた。
それは浩一が生まれる前年だ。敏雄は小一で、たまに美佐江に連れられ遊んでいた隣の長洲町の松林が重機で押しのけられると、砂浜があっという間に消えていたのを覚えている。そのかわり見上げるばかりのクレーンや工場の建物が現れ、中からは溶接やチェーンのぶつかる音が響き出した。
最初にできたタンカーの進水式に身重だった美佐江が止めるのも聞かず、珍しく保が意気込んで貝漁の船に妹と敏雄を乗せ見物に行ったことがあった。だが鋼の山のようにそそり立つ巨大さに度肝を抜かされたか、早々に引き返した。
その話題になるたび、言わぬことでないと呆れ顔の美佐江に、あれほど近くで見たのは自分らだけだと負け惜しみのように保が返していたのを思い出す。
「プールの横壁も磨き終えて職員に栓ば抜いてもらったつよ。そしたらたまがった。有明海ん干潟そっくりになったつじゃけん」
トラックの揺れに任せるように浩一の話もつづいた。
「底ん方には濃ゆか藻や澱んごたっとの溜まっとって生臭くて、もしかして貝もおっとじゃなかろかて思たぐらいたい」
水切りに持ち替えた四人は、さっそく円の真ん中寄りの排水口へ澱を押しやり始めた。
「上ん方はスーッて押し流されていくばってん、その後に残った粘り気の強かやつがくせもんたい。時間のたつと固まってこびりついてしまうとだけん」
排水口から離れた所から先に寄せるため、間隔は広がり各々視界から消えていった。
敏雄は初心者と思えぬハンドル捌きで運転しながら微に入り細に入り話す浩一に、これまで知らなかった一面を垣間見たような気がした。
「そっで、骨はまだ出てこんとか」
背凭れから肩を捩じるようにずらし、焦れた口調で嗾けてみた。相手はニヤリとほくそ笑んだ後声を低め、いかにももったいつけた口調になった。
「水ん嵩が、俺の脛くらいになったときじゃったかね。福嶋さんてわりと気の小さか人がおるとばってん、叫び声が聞こえたつよ。そんときゃ俺は反対側におって、つっこけんごつ走って行ったたい」
そこには平木と山田が既に来ており、福島を仰天させた相手がここにいるとばかりに身を反り、顎でしゃくった。顔はもちろん、体全体が顫えているようだった。浩一も只ならぬ空気を感じ、恐る恐る近づいて行った。目を凝らすと、濁水の中に仄白い棒状の物体が数本見えた。犬や猫でなく、かなり大きな生物の骨のようだった。
「体から血の気が引いたばい。そばってんじっとしとるわけにもいかんけん、水切りで近くばそろーって動かしてみたったい。そしたら何かが当たった気がしたけん、思い切ってしゃがんで拾たら」
宙に持ち上げるや、既にへりに寄っていた三人はいよいよ慄き果てたのかあらん限りの悲鳴を飛び交わせ、一目散にプールの外へと駆け上がった。
浩一のつかんだ物体は、おそらくは誰もが実物でなくともどこかで一度は見たことのある代物だった。丸みをもった曲線の何ヵ所かに太い糸で縫い合わせたような罅の跡がくっきりと浮き出ていた。白っぽいなだらかな面から突然陥没すると大きな空洞が二か所とそのすぐ下にも穿たれた穴が開いている。横に裂けた上下には不揃いな矩形の塊が連なり、浩一の手を銜え込むようにしっかり挟んでいた。
自分の話に酔ったのか高ぶりを隠せぬ浩一とは違い敏雄は、聞きだす前の苛立ちが何かへと変わっていた。底からあらわれた白い相手が自身に重なって思えていた。敏雄もたまに海の様子を見に一人で船に乗ることがあった。時化で高波を受けたとき、もしもここで海底に落ちたらどうなるか考えたことがないと言えば嘘になる。船は発見されたとして、干潮の激しい有明海で遺体を探し出すのは困難だろう。プールで何があったにせよ、今こうして浩一の手で拾われたのは幸運だったと言えはしないか。姿形を変えじっと待ち詫びてきた甲斐があったと言うものだ。
敏雄には今、そこにはない大きな空洞の奥にはっきりと、こちらへ向かい放す両眼の光を見たような気がした。
四
「兄ちゃん、たまには土産でも買うて帰ってやるたい」
卸しの帰り、交替してハンドルを握っていた敏雄に助手席の浩一が言った。市場で思いの外、高値で捌けたことに気をよくする兄を見てのことだ。もちろん行きに骨騒動の一件を存分に話せたことも嬉しかったのかもしれない。
「なんてっても今はトロコフォアじゃけんね。大事にせんと」
「なんか、そのトロコて」
「アサリが受精して稚貝になる前の形たい。赤ん坊は丁度そのくらいじゃろ」
「ほほお、お前もいっちょ前のことば言うようになったばいね。ばってん、あんまり貝のことばかり知っとったっちゃ、肝心の大学に受からにゃ話にならんぞ」
にべもなく返しながら弟の横顔に目を向けた敏雄は、浩一が小学校に上がって間もないときの出来事が甦った。
「えすかえすか、はよ降ろして」
土日には既に漁の手伝いをしていた中三の敏雄は昼前、浅瀬の海岸に予備に置いてある古い木造船に二人で乗ると、度胸試しのつもりで纜を伸ばせるだけ伸ばしたことがあった。船は潮の引きに乗じ瞬く間に岸から離れ、風に翻弄される凧のように波間を激しく揺れ動いた。岸とを繋ぐ一本の綱は引き千切れんばかりに張り詰め、敏雄も自力で手繰り寄せることはできなかった。もしあのままぷつりと切れ、エゴに呑み込まれでもしたらどこまで運ばれていたかわからない。昼飯にも帰らぬ子どもを心配し、探しに来た美佐江に助けられた後、こっぴどく叱られた。あのとき大声で泣き叫び、幼いとばかり思っていた弟が気の利く言葉を吐くようになったのだ。いつもなら相手にしない敏雄だが、なぜかそのときは癪に障ることなく素直に従い、サービスエリアで果物を買った。
荒尾に二人が戻ったのは、それからおよそ一時間後だった。
浩一を実家の近くで降ろした敏雄は、事務所に置いていた自分の車に乗り換え帰路についた。
アパートは、最後のヤマが閉じるまで警笛を鳴らし走っていた炭鉱電車の線路跡を横切った突き当たりにあった。古いモルタルづくりで、外壁が所々色褪せていた。
「こぎゃん食べきるやろか」
ムームーのような服を纏った律子が、ここ最近、一段と張り出してきた腹を重そうにかかえ畳の上に横座りになった。桃やらオレンジの詰められた合成のストローで編まれた籠は、そんな彼女の目の前で蛍光灯に照らされ光っていた。
律子は敏雄の行き付けのスナックで働いていて、そこで知り合った。
風呂場で汗を流した敏雄は畳に寝転ぶと、どこか軽めの口調で昔話を始めた。
「鹿田言うて、皆、シカちゃんて呼びよったばってん、そいつも相当悪でな。よう中学んときは一緒に隣ん学校いってケンカしてきよった」
一仕事終えた敏雄はどこか力が抜け、店に来始めの頃のようで律子には親しみやすかった。
「そっでんな、そいつは勉強はできたな。てっきり普通高校に行って進学するとやろうて思とったばってん、俺と同じ工業高校に入ったつよ」
「へえ、そうね」
律子は腹にそっと手を添えた。アパートの頂度真向かいで下水工事が行われ、安全柵に吊るされた常夜灯がネオンのように瞬き、その明かりが網戸を通して入ってきていた。
「高校通った祝いに親が免許も持っとらんとに、中型のバイクば買うてやらしたつよ」
「家は何ばしよらしたつ?」
彼女もつい話に釣り込まれた。
「海苔ん養殖たい。あん頃は赤潮も少のうて海苔もきゃ腐れんし、乾燥窯のボイラーば焚く灯油ん値もそこそこやったけんな」
ごろりと体を動かし俯けになると顔だけ上げ腹ばいながら律子の方へにじり寄ってきた。膝の辺りに顎をのせ、彼女もその反動で壁に凭れた。
シカちゃんは根はとても優しい性格だった。普通高校は仕事の加勢や経済的なことを理由にきっぱり諦め、就職の安定していた工業高校を選んだのだ。バイクはそんな彼への親からの償いだったのかもしれない。
「親は免許とってから乗れ言よったけど、やっぱ目の前にあるとがまんできんけんな、よう二人で海岸ばバアリバアリいわせて走ったばい」
同じ姿勢だった敏雄が、離れるとさっきとは逆の手で肘を突いた。
「やっぱ、そのうち事故にあってな。堤防ば二人乗りしとって転倒したったい」
「怪我したやろ?」
「俺も吹っ飛んだばってん、たまたま砂の方に落ちてかすり傷一つなかった。ばってん、あいつは松林に跳んでって……」
律子は、息を呑んだ。
「ノーヘルじゃったけん、少し打ちどころ悪うてね…」
そこで珍しく口ごもり、「頭と首ばやられてな。痺れや発作の出るようになったつたい」低い声で言った。それから宙を薄目で睨むような形相になると「そがん病人ばばい、学校は規則だけんて有無ば言わさず退学にしたつばい。俺は頭にきてな、校長に文句言いに怒鳴り込んで、ついでに辞めてやったたい」
律子はあまりそのつづきを聞きたくなかった。よくある話だ。小さな蟲が蓋をされた瓶でもがき、透明なガラスにぶつかっては羽や内臓をもぎ取られるように失っていく。酔客がよく店で自慢するのもその手のものが多かった。
シカちゃんの頸椎から腰にかけての痛みや痺れの頻度は次第に多くなった。欠かさず家を訪ねていた敏雄にも体が痩せ細り、面変わりしていくのが分かった。
「半年ぐらいしてからやったかなあ。歩くときも足ば引きずるごつなってきてなあ」
しんみりした口調になり、顔色が曇った。今でも脳裡に焼き付いているのか、日に焼けた額と頬の間から光を放つ瞼を辛そうに伏せた。
「こんままじゃ歩けんごつなっとじゃなかろかて、口には出さんやったばってん、俺も心配したたい」
事態は、さらに深刻になっていった。
息切れや全身のだるさも増し、発熱も起こるようになった。様々な検査を重ねたが骨や神経、それに血管には異常は見つからず、原因がわからぬため、点滴だけで帰る他、道がなかった。本人の不安も限界に達していたそんな矢先、杖を突きながらふらりと敏雄の家にやってきた。
「俺に何ができる。ただの仲買いん息子に」
口元を堅く閉じ、濃い不精髭で被われた頬を掌で擦った。乾いた喉に唾液が飲み下される音が律子の耳にも伝わって来た。
「旅行したたい、阿蘇の方に、安か旅館にも泊まって。おっどんだけの修学旅行たい。そら楽しかったぞ」
電車とバスを乗り継ぎ外輪山を超え高原へ出ると、野焼きの真っただ中だった。
燃えているのは冬枯れた草木なのに、巨木が倒れていくような凄まじい音がした。敏雄にはそれが岸壁に打ち寄せては砕け散る聴き慣れた有明海の波の響きに聞こえた。煙がもうもうと立ち昇り空の彼方へ消えていっていた。シカちゃんも窓から目を離すことなく見つめていた。
敏雄は炎の勢いが友の魂にのりうつり、命の力を奮い起こしてくれることを願った。
律子は腹を手で押さえ、眠ったようにして訊いていた。敏雄は今度はゆっくり上半身を起こすと、律子と同じように壁に背を凭せた。
「入院したつはそれから一週間もせんやった。面会謝絶のだいぶ続いたばってん。最後ん方じゃ、俺も何とか会うことができたたい。もう話す力もなくて、紙ばやったら『死ぬとやろか』て鉛筆で書いたっぞ」
敏雄は堪え切れぬように太い腕を相手の肩に回し、丸みをもった体を抱き寄せると顔を見合わせる間もなく唇を近づけた。腹の子を起こしはせぬかと気にしながら薄い肌着のような上着の釦をもどかしげに外し、ゆっくりと胸をまさぐった。二つの乳房は敏雄の厚い指の腹の下で硬く張っていた。敏雄の体から心だけが荒々しく高ぶり離れていく気がした。抑えたくはなかった。だが一瞬の隙を突くように律子が唇を離し、細い息と一緒につぶやいた。
「ばってん、死なしたっじゃろ」
何やら祈祷師めいた囁きだった。
敏雄は視線を下げ、呼吸するたびに開き切り、位置を留めたまま動かぬ相手の腹部を見つめ、「そうたい、死んでしもうた」
自分で言いながら、まるでそれが他人が発したように背骨から耳元へ這い上がりながら届いた感覚がした。骨…。ふいにプールの汚水に溶けてしまった白い眼窩からたった今、律子や自分へ向け視線が送られている気がした。敏雄は、その眼からの熱を振り払うかのように、いかにも他愛ない想像とでも言うような仕草で口元を歪めた。
五
次の日、敏雄が事務所に行くと尚子が来ていた。
「姉ちゃん、今日、商店街のイベントでどうしても手が離せんけん、私が代わりに来てやったばい」
「美樹はどげんしたつか」
「あら、兄ちゃん知らんかったつね、あの子、保育園に預かってもらうことにしたつ」
「仕事もせんで、子どもはちゃっかり保育園か。お前もよか身分な」
「変なこつ言わんでよ。ちゃんと週に五日、パートに行くごつしたっただけん」
「ほう、ちっとはまともになってきたばいな。そっでん、お前にパソコンいじれるんか」
敏雄も下の妹にはついつい口が荒くなる。
「あら、たーだ留守番しとけばよかつじゃなかとね」
「そっじゃ、おらん方がましばい。お前も船で沖行って貝でん掘ってきたらどぎゃんか」
干潮は二時過ぎだった。そろそろ船を出す準備をせねばならない。敏雄は海岸へ行く前に、一応昨日の卸値を保に説明した。
「博多には韓国からも大粒のが入ってきよるけん、やっぱ鮮度も考えて近場に出した方がよか値のつくとじゃなかろか」
保が腰を悪くしてから、荷を運ぶだけでなく卸しも関わるようになり、今では少しは市場の動きが分かるつもりでいた。
「まだまだ心配せんでよか。そっちん方は俺が電話入れて確かめとくけん。お前は事故のなかごつ船とトラックば運転しよけばよかつ」
だが長い間、相場を見てきた保からすれば、そんな敏雄も漁の本当の恐ろしさを知らぬ若い者に過ぎない。
「そうそう、父ちゃんになっとだけん、しっかりしとかにゃね」
尚子が、しげしげと髭も剃らぬ不精な顔を見上げた。
「なんばほざきよるか。お前もはよ次の婿さんば探さにゃあ、娘と二人、パートじゃ喰ってけんぞ」
敏雄がやり返すと尚子も負けずに、「なんば言よっと。美樹はちゃんと、私一人で立派に育ててみせるけん、見とかんね」ムキになる尚子の口調と表情が余計、敏雄の神経に障ってくる。
「そらそうと敏雄、母ちゃんから聞いたばってん、昨日は浩一に運転させたげなね。あいつは、プールん仕事でたいぎゃあ疲れとっとじゃけん、あんまり無理さすんなよ」
そんな二人に割り込むように保が、嗄れた声で注意した。
「行きだけちょっとしてもらったつたい。濱崎んよか二男坊やけん、今んうち鍛えとかにゃね」
保は、ほとほと困ったように「そっで、プールんバイトが終わるまでは俺ががまだすけん、休んでよかて言うとった」敏雄を恨めしげに見る。
「父ちゃん、甘かね。まあ浩一は俺んごつ高校ばやめたりもせんやったし、目出度く大学に通れば、給料取りにでもなって世話なしやろうけどな」敏雄も揶揄うように言う。
風通しを良くするため開けておいたサッシ戸から、美佐江が息巻き入ってきた。
「父ちゃんも敏雄もこぎゃんところでなんばしよっとね。皆、待っとらすばい。はよせんと潮ん干上がってしまう」
二人とも美佐江には歯が立たない。二の句もなく、すまし顔の尚子を恨めしげに一瞥し、観念したように事務所を後にした。
「遅かったね、何しよったつ」
ダバを穿いた洋子が聞いてきた。
「待たせちごめんね。事務所でちいっと手間取っとったもんやけん」
美佐江が詫びを兼ね、深々と頭を下げた。
「保つぁん、腰ん具合はよかと」
千穂が心配気に窺う。
「昨日休ませてもろたけん、もう、どぎゃんもなかたい」事もなげに答える。
敏雄は船の纜を杭から解き索輪を船首へ投げ上げた。杭は干潟に深く突き刺してあり、纜も伸ばせば三十メートルにはなる。長めたり短めたりし潮と潟の境をうまく利用するためだ。船着き場はコンクリの道が一本敷いてあるだけで、桟橋など洒落たものはない。保と美佐江の三人、船べりを抱え、エゴの潮が膝下に来るまでゆっくり移動させた。
「さあ、乗ってくれんね」
美佐江が愛嬌を振り撒き、待ちそびれた女たちを促す。
全員乗ると行き先を定めるように敏雄は、保と船の向きを変えた。ずるっずるっと足首が砂へめり込み、潮が太腿の辺りで一旦止める。揺れぬよう船べりを握り、時計を見る。今こうしている間にも大干潮は刻一刻、やって来ている。
「昔は桶ば綱に結わえてエゴん中ば引っ張っていきよったばってんなあ」
千穂が懐かしそうにつぶやけば、洋子も「私しゃ、荷台だけじゃたりんけん、背中に袋ば背負って自転車で帰りよったよ」自慢げに言い放った。
「あら、おかずんしこしか獲りよらんやったっじゃなかったつ」
「ばれたか」すかさず首を傾げ惚ける洋子の仕草に笑いが起き「ほんなこて今は、年もとったばってん、こうして運んでもろて助かっとるばい」
その一言には皆、同感したように頷き合った。
「今日は東風が吹きよるけん、ひと雨くるんじゃなかと?」
しばらくして千穂が保を振り返り「沖で雷ん落ちたら、たまったもんじゃなかもんね」 首を竦め、改めて前を向いた。
確かに風だけでなく雲行きも怪しくなり、どんよりした空にどす黒い雲がちらほら混ざり、重く垂れこめ始めていた。女たちは雷には臆病だ。いや、臆病というより敏感だ。声に出さずとも密かに怯え、いつの間にか忍び寄る気配を素早く感じとっている。
そんな声を耳にしながらも潮が膝近くになったのを合図に保と敏雄は、バランスを崩さぬよう両舷から腹這うようにして息を合わせ乗り込んだ。船尾に着いた敏雄が船外機を倒しエンジンをかけた。
そのとき、雨が突然、矢のように強く降り出し海面を覆い尽くした。
洋子が意を決するように言う。
「ああ、よかよか、これくらいならやがて止むけん。やっぱこのまま手ぶらで帰るわけにゃいかんしね」
予想より早い降り出しに、漁の途中で止むことを経験で知っているのだ。敏雄は顔に雫を幾つも付けながら、顫えることもなく坦々と出番を待つ女たちを最後まで見届ける覚悟でいた。
六
卸しが終わり、その日敏雄がアパートへ帰ったのも十時過ぎだった。
「そういえば、今日、久し振りにスーパーでママと会ったよ。最初は赤ん坊のことば気にかけてくれたけど、そんうち私が客のあんたばとったみたいなことば言い出さすし、びっくりしたばい」
いつものように風呂の後、煙草をくわえ一服する敏雄に珍しく律子の方から話し始めた。
「とにかくすごかげなたい。今年も異常発生で」興奮気味に言うのは、蛍のことだった。
有明海に流れ込む菊池川の支流沿いに蛍に適した場所があり、農薬や洗剤を使わず、定期的に餌のカワニナを大量に放流した甲斐あって、ここ数年夥しい量が発生しているのだ。
「ママも昨日行って来たて。まだだいぶ飛びよったてばい」
敏雄も蛍なら小さい頃よく、近所の子らと田んぼや畔に捕まえに行った。掌の中で蒼白い光がボーッと呼吸するように瞬き、家の中に飛んでくることも珍しくなかった。井手底や河岸がコンクリで固められてからは目にしなくなった。
「そこなら去年も見に行ったやっか。またあの妙な爺さんにでも会いたかつか」
自分で言いながら、敏雄は一年前のことを思い出していた。四月に堤防閉鎖の抗議行動をし、一月たつかたたないかのときだ。怒り心頭に達していたにもかかわらず、どうして蛍見など行く気になったのか、今となってははっきりした理由は思い出せなかった。ただ、反対の声を上げれば上げるほど、一体誰に鉾先を向けているのかわからなくなり、気分転換のつもりで律子の案に乗ったのかもしれない。
会場は、近くの小学校のグラウンドを臨時の駐車場に使うほどの盛況ぶりで、車から降りた途端、拡声器から大きなアナウンスや流行の音楽が鳴っていたのを覚えている。三叉路や曲り角には「蛍の里」と記した文字の下に矢印が示された標識が立てられ、テントでは地元の農産物が即売され、人だかりができていた。
川の堤防を上流へ向かい歩いて行くうちに、涼風が瀬音とともに耳元や頬を掠め、それに誘われるようにぼちぼち蛍が舞い始めていた。
川底には葦や菖蒲が生え、轍が残る土くれの道は、右へゆっくり曲りながら奥の竹藪と繋がっていた。笹の葉擦れがかそけく聴こえ、闇が深くなるにつれ蛍の数も増してきたが、まだ遥か高くへ舞い上がるものは見当たらなかった。
人の流れが止まり、急に肌寒い風が膝下から吹き上がった。土手に目をやるとそこが蛍の最も多い場所だという案内板が丸太の杭に下げてあった。後ろから吸い寄せられるように人が集まってきていた。
頭一つ突き出た敏雄は、律子のために道を開けてやった。
鬱蒼とした藪を舞台に蛍は一斉に川上へ、雄は雌を、雌は雄を求め飛び上がり、うねるように渦巻く様は天空の星座か流星を仰ぎ見ているようだった。
「うわあ、こんなのは初めてばい」
興奮した律子の声の先に数万の蛍が放射状に広がり、打ち上げ花火のように点滅しながら巨大な球体をつくっていた。
「やっぱ来てよかったねえ」
敏雄はそれには答えず、目の前で繰り広げられる乱舞を静かな面持ちで見つめていた。
「あんまり面白なかったごたるね」
帰りの車中、律子が聞いてきた。
「何でか」
「何でって、何かそぎゃん感じのしたけん」
「そら気のせいた」
言い捨てる敏雄に、律子もそれ以上はっきりさせようとはしなかった。
あのとき蛍の舞を見ながら敏雄には、やはり潮止めがされた後の貝が、これからどうなるか気になっていた。夏を前にアサリの本格的な時期を迎えようとしていたし、採れ高は死活問題なのだ。かりに今年無事だったとして、来年、再来年はどうなっているのか。仕事を始めた当時、すっかり遊び癖のついてしまった身体に美佐江から毎日のように叱咤鼓舞され、尻を叩かれながら漁へ出ていた頃が敏雄には懐かしく思えるのだった。
土手際でハンドルを切ったとき、雨粒がフロントガラスに一粒、二粒落ちてき、忽ち驟雨がやって来た。
「こん雨じゃ、蛍もかわいそかな」
ワイパーを強めに動かすと、ヘッドライトの向こうに人影が突如として照らし出された。
咄嗟に急ブレーキをかけた敏雄は、固まったように口も聞けぬ律子を助手席に残したまま、文句の一つも言ってやろうと気負い込み雨の中に降り立った。そのときあらわれたのが麦藁帽を目深に被り、パジャマ姿に長靴を履いた奇妙な恰好の老爺だったのだ。
「あんた、ふのよかな」
相手はいきり立つ敏雄を恐れもせず、瀬音の方へ皺で弛んだ手の甲をゆったりと動かした。
「こぎゃんもん、めったに見られんぞ」
老爺に導かれるように視線を落とすと土手が光り輝いていた。蛍ではない。まだ舞い上がるための羽を持たぬ幼虫だった。一匹一匹尾を細かく蠕動させながら、斜面に埋め込まれた蛍石をゆっくりと這い上がっていた。手足が動くたびに肢体に浮き出た斑点から光の雫が絞り出されていた。
しばらく眺めていると地上ではなく、反対に地中奥深くへと潜り込んでいるようにも思えた。
「ほんにまばいかな」
幼虫の発する光は敏雄の瞳の中に散らばると見覚えある有明海の干潟へ変わり、同時に貝殻の隙間から粘着質の膜に被われた管が縦横に伸び、じりじりと泥を掻く触手の音が真近かに迫ってくるようだった。
敏雄は男の顔を凝視した。どこか幼い時分に見た、そんな気がした。
そんな一年前のことを思い出しながら、区切りでもつけるように二本目を吸おうとしたときだ。ふと浩一が拾い上げた白い骨の主が気にかかった。想像の中で骨は磁力で引き寄せられるように組み合わさると肢体をつくり、むっくり膝立ち起き上がってきた。両手が差し出され、何かを訴えているようにこちらを見ていた。
その顔があの老爺のように思えた。
律子に目をやると口も開かずしょんぼりと肩を落としていた。あまりすげなく断ったため塞ぎ込んでいるととった敏雄は、仕方なく浩一に電話を入れた。
「なんや、兄ちゃん、こぎゃん遅くに」
「明日、ちょっと都合んできてな、卸しに行けんようになったけん、お前、バイト終わったらトラックば運転して父ちゃんと行ってくれんか」
「ああ、よかよ。父ちゃんは、あぎゃん言わしたばってん、できるだけ手伝いにはいくつもりだったたい」
中身も聞かず承諾してくれた浩一が、敏雄にはどこか頼もしく思えた。
七
「新聞どうしたんやろ。二日続けて何も載ってなかったね」
骨を見つけ四日目の朝のことだ。清掃の現場に到着するが早いか、山田節子が開口一番、浩一に聞いたのは、やはり昨日と同じその件だった。
思わず声が大きくなったのに気づいたのか、肩を竦めるように周りを見、職員がいないか心配そうな様子だった。
「殺人事件の可能性もあるけん、伏せとっとかもしれんですね。どっちにしろあれだけそろとって、今の時代は歯型やDNAの鑑定もできるけん、身元はわかっとじゃなかですか」
「そげん簡単にね?」
リヤカーから道具を出していた平木良枝も興味ありげに加わった。
「死亡時期や性別、それに年齢さえわかれば警察や病院には必ずデータはあるけん、照合でくっとですよ。平木さんだっちゃあ、髪の毛一本あれば、わかっです」
「うかうか野垂れ死にもでけんね」感心したように真顔になり、「あっ、それはそうと、さっき濱崎さんから頼まれた署名も、怪しいやつじゃなかよね」わざとらしく眉をにじり寄せた。
高校の同級生たちと話し合い、諫早の潮受け堤防の開門調査の要望書を管轄の役所へ提出することにしたのだ。朝、三人には説明し、さっそく賛同者として署名してもらった。
「大丈夫ですよ。あれくらいで調べに来たりはせんですけん」
軽く受け流すような返事に「私は気にしてへんよ。だって自分の考えでしたんやから」節子がきっぱり言い、口元を引き締めた。
「ムツゴロウも心配だけど、とりあえずこっちのプールも早く解決してくれんことにはね」良枝がまたそちらへ話題を戻すと、「もう、そん話はやめて、仕事ば始めましょうよ」福嶋幸代があまり思い出したくなさそうに口をへの字に曲げた。
そんな態度でも、あの日、警察の検証が終わってから花と線香だけでも手向けようと言い出したのは彼女だった。
「私どんだけでも、お参りばしてあげた方がよかっじゃなかですかね」
「そぎゃんね。見つけたのも何かの縁かもしれんしね」
全員賛同し、係員に告げると簡単な供物を用意し、プールサイドから一心に手を合わせたのだった。
白骨の出現で、予定では最後にやる筈だった五十メートルプールを昨日から二日かけ磨いていた。
「それにしても、ここの汚れ、なかなか落ちへんね」
節子が肩口に力を入れながら何度も荒い息を吐き、緑のナイロンのデッキブラシで擦っているところは、さっき浩一が磨いても取れなかった場所だ。
「それじゃあ、濱崎さんはホースで水撒いてくれん。私、その後にジア撒くから」
言うが早いか、ぺたぺたゴム草履の音を立て、良枝は鉄柱の梯子に手をかけプールから上がった。スタンド越しに射す強い西日が鉄と言わず、剥き出しのコンクリに撥ね、光の粒を乱反射させる。視界が一瞬ラメ色に染まり、眩しさでクラクラするようだ。
良枝は身を屈め、監視台下の日陰に置いてあるポリ罐を引き摺り出し、黄濁色の液体をジョウロに流し込んだ。〝ジア〟とは次亜鉛素酸溶液のことで、ひととおり磨き終わったプールの底や舗装板の隅々に振り撒き、漂白と殺菌を行っていく。
浩一は良枝から言われたとおり、洗い終わってからかなりたつスタート台から左右へ扇を描くように水を撒き始めた。その辺りはすっかり乾き切っていて、後から撒くジアの効果を高めるためにもたっぷりと湿らせておかなければならない。
良枝は、ジョウロを持ってプール下に降り立ち、草書で「二」の字を書くように、浩一が濡らした所から手際良く撒いていった。
塩素の強臭が鼻を突き、瞼の裏側まで熱くさせる。
明日からはまた例の瓢箪型の子ども用プールに戻らなければならない。まったく予想もしていなかったことがあっただけに、再度行くのは何とも気が重い。
「大丈夫? 薬なるべくかからんようせんと」
「平気、平気。慣れとるけん」
良枝は笑顔で言うが、膝まで捲り上げた薄青色のジャージの後ろは、飛び散った濃い原液で変色した白い斑点がいくつも浮かび上がっている。きっとそれにも増し、足裏はあのなんとも言えぬヌルヌルした感触に浸されているに違いない。
次の日のことだ。
四人は骨の一件以来、水を最後まで抜かずにしてあったプールに深々と頭を下げ、合掌してから仕事に取りかかった。真っ先に降り立った浩一が頓狂な声で叫んだ。
「なんか、次はお前か」
相手は大きな蛙だった。かなり興奮しているらしく、体を大きく膨らませ鳴き叫ぶと臆することなく飛びかかってきた。
浩一は、水切り棒で押さえつけようとゴムの付いている方を胴体に持っていった。
「ガマね?」
「いや、こらあウシガエルですよ。食用の」
「どげんすっと」
「どげんするって言ったって……平木さん、俺が捕まえたら、今日の晩飯のおかずにどうですか」
「私は遠慮するばってん、亭主ん酒のツマミにはよかかも。あっ、でも、それ食べて精力絶倫になったらこまっしな」真顔で返してくる。
「二人とも昼間っから、いい加減にしい」
節子が睨むように見た。浩一は、棒の先から伝わる蛙のブヨブヨした感触に、これ以上耐えられないように「ああ、もう限界ばい」気弱な声を上げた。と、それを見透かしたように、相手もゴムを撥ね除けようと必死に体をくねらせ出した。
「ほら、ほら」
節子が言うが早いか、蛙はついに水切りから抜けだし、ゴウッ、ゴウッと咆え、浩一に挑みかかってきた。慌てた浩一は、ワーッと叫び声を上げ、尻込みするように後ろへ逃げた。蛙は、そんな相手を見て今がチャンスと思ったのか素早く方向を百八十度変え、滑り台へ続く塔の中へひと跳びふた跳びしながら消えていった。
「どげんなったね?」搭から出て来た浩一に良枝が聞くと「澄ました顔で上っていきよるです」完全に敗北を認めたような力の抜けた声で答えた。
「まっ、いいたい、いいたい。私どんはさっさ仕事ば始めよう」
「あーあ、でも本当は捕まえて、どっか池にでも放してやろうと思ったつにな」
それでも未練ありげにつぶやく相手に「ばってん濱崎さん、あんまり向こうからは好かれとらんみたいね」
「そもそもあいつは日本のじゃなかし、相性が悪いとかもしれんな」
「へえ、どこのお生まれね」
良枝が励ましの意味も込めてか、艶のある上品な声色に変えてきた。
「アメリカ産でございます」
浩一もそれが嬉しいのか、口調を真似ると「はあ、そげんですか」向こうも続けた。それから浩一は、この蛙の餌として一緒に連れてこられたのがアメリカザリガニであることも得々と説明した。
「ところがどっちも飼育場からお逃げになって、今じゃあ日本のあちこちに堂々とお棲みになっておらるっとです」
二人のやりとりにこれ以上付き合っていられないとばかり再び節子が「もう知らんわ」匙を投げたように大きく首を振り、幸代と一緒に足元を激しくブラシで擦り始めた。それを見て浩一と良枝もバツが悪そうに下を向き、加わった。
八
その日の正午過ぎ、漁に出かける前、敏雄は冷えた麦茶を喉を鳴らして飲むと、窓から空模様を見ていた。
「風があんまりようなかな。そのうち荒れるかもしれんぞ。そんにしてもさっきは無駄骨やったな」
律子は黙っていた。ついさっき、二人は濱崎の家に寄ってきていた。昨日の午後、敏雄が漁に行って間もなく律子が出血したのだ。タクシーで病院へ行くと、しばらく安静にしておけば大丈夫とのことで腹の子に別状はなかった。しかし、それを訊いた敏雄はさすがに悠子に相談し、これから先のことを母親とだけは話し合っておいた方がいいのではと打診され、今日の運びとなったのだ。
律子はすんなり付いて来た。
久しぶりに濱崎の敷地に足を踏み入れると、懐かしい匂いや風景が敏雄の記憶を呼び出しきた。見覚えのある家だった。小屋の外壁にはエンジンに注ぐガソリンのドラム缶があり、円形の縁に溜り水ができ、油を浮かばせていた。美佐江の背中におぶさっていた感覚やポマード頭の保に抱きかかえられ、ひまし油の匂いと一緒に釜風呂に入った思い出が瞼の裏に甦った。
玄関を開けると、奥から尚子の声がした。
どうやら悠子の思惑にまんまと引っ掛かったと敏雄が気づいたのはそれからすぐだった。妹二人の前なら我も出ず、話も丸く収まるだろうとのことだ。美樹の遊びものらしい透明のシートに包装された花火セットが、土間の三和土の上がり口に無造作に置いてあった。
敏雄たちも幼い頃、盆になると海岸で花火をしたものだ。沖から風が吹き寄せる中、堤防に敏雄を先頭に悠子と尚子、それに幼い浩一の四人、町明りのとどかぬ海辺に立ち、潮の打ち寄せる音に包まれながら花火を楽しんだ。
決まってはしゃいだのは悠子より尚子の方だった。敏雄は、体を丸めては姉さん気取りでマッチを擦る尚子の背中にわざと花火を向けたことがあった。火の粉はバラバラと襟元に落ち、産毛に覆われたうなじを浮き上がらせ、爛れたような煌めきの中へ吸い寄せられていくような気がした。
「熱っ、なんばすっと!」
尚子は持っていたマッチを投げやり、狂ったように追いかけてきた。その反応を見て敏雄はさらに囃したてた、また逃げた。
そんな思い出が過っていたときだ。正面から美佐江が暖簾を片手で払い、ここ最近一段と皺の増えた顔で出てきた。
「上がらんね」
部屋に入り早々、尚子が振り向き様「ちょうど今、皆で噂ばしよったとこだったばい」場を取り繕うような微笑で迎えた。
「父ちゃんな?」
いつもは保の座る場所に敏雄は胡坐をかき、大仰に訊ねた。
「整体に行っとらすたい」美佐江がさらりと答え「そっで、律子さんのことばってん」早く要件を片付けるつもりか口火を切った。
敏雄もその方が都合よかった。考えは決まっていた。臨月を過ぎた女をこのままアパートに一人置いておくより、ここにいさせた方がいいと思っていた。
「悠子から聞いたばってん、出血したてね」
美佐江が律子の下腹に視線をやると、娘二人もそれに倣うように首を傾けた。
「そろそろこっちに来させたらどがんね」
ところが敏雄は返事をせず、もったいつけるように脇を掻き煙草を取り出した。
電話してきたときとはまるで違う態度にやきもきした悠子が身を乗り出すようにして聞いてきた。
「兄ちゃん、大体、どう思とっとね」
「そらあ、こがん慣れん家に来るより、アパートにおった方がよかにきまっとろもん」
正面を向き、煙を吐きながら悪びれた様子もなく他人事のように言った。
「なんね、姉ちゃんが言よったのと全然違うやんね」悠子を一瞥し、呆れる尚子に「ちょっと、そっじゃ、私の立つ瀬んなかばい。そっちが珍しく相談してきたけん、急いでお母ちゃんにも言うたつに」
悠子もほとほと困り顔だ。
「ほんなこてこん子には、ぐらりするね。よかよかもう好いたごつすったい」
美佐江はそんな三人を構わず、言い捨てた。
扇風機がカタカタと回転しながら生温い風を送っていた。
尚子はパートの時間だと、途中で席を立ち出て行った。美佐江は一、二度律子にも気持ちを聞いたが、やはり俯き黙ったままで、埒があかぬとその会は何の進展もないまま終わったのだった。
「どうっちゅうこともなか。時間ばつぶしただけのこつたい」
二杯目の麦茶を敏雄が口にしようとしたときだった。
「お前、泣きよっとじゃなかつか」
律子は座布団の上で片手を突き、肩をつぼめうなだれていた。
少し間を置き「うんにゃ」か細い声が返ってきた。
翌日、律子は濱崎の家に入った。
夜遅く、律子から言い出したのだった。
「子ども生むのにどっちでん同じやろ」
「そんなことなか。こっちとあっちじゃ、いざっちゅうとき全然違う」
結局、律子に咎められる形となり、内心、そうしてくれれば面倒が減ると、敏雄も気が楽になった。
アパートには、敏雄一人が残った。
九
同じ日の夕方近く、美佐江は保育園にいた。
「美樹ちゃん、おばあちゃんだよ」
玄関口にいたまだニキビの似合いそうな保育士が、美佐江の顔を見るなり慌てて園舎へ呼び戻り、小さな手を引いてきた。
「へえ、その『美』は誰からとったつね?」
四年前、尚子から命名を聞いたとき、しれっとした顔でわざと訊ねてみた。尚子はわかっているだろうと言わんばかりにニヤリとし、後は答えなかった。
美佐江は車の免許を取っていた。善造が逝き、敏雄が加わるまで保と二人でやっていた貝業だが、いつ何時、どんな事態に遭うともかぎらず、そんなとき車はきっと役に立つと一念発起し取得し、早いもので十年になる。漁のない冬場、こつこつ学校へ通い、学科も三度受験しようやく手にした運転免許が今、孫娘を迎えるために使われていた。
幼児用の椅子が随分前から必要でない四歳にしては大柄な美樹は、園でのことをあれこれ聞いては大袈裟に喜ぶ美佐江の隣で最初の元気はどこへ行ったか、黙って車窓の眺めに見入っていた。
海岸が近づいてきた。
「おばあちゃん、ぽんぽんだね。おじいちゃんのぽんぽん」
「あ? そぎゃんたいね。ぽんぽんたいね」
声に弾みが出てきた。保の名を嬉しげに呼ぶその姿に、甘やかすだけの者には叶わぬと美佐江は苦笑いした。
車を堤防の前に止め、肩を抱き上げ美樹を下ろした。堤防と堤防の間から海岸へ降りるためのコンクリの道が続いている。勾配は緩やかで、雲の切れ間から射す西日でざらざらした荒打ちの路面が光っていた。
二人が手を繋ぎ有明海を見渡すと、その影も同じようにくっついて後ろに伸びた。明日辺りから天気が崩れるらしい。テレビの予報より確かだと言うように湿った風が伝えてきた。
船外機は敏雄が操作している。美佐江は、改めて美樹の耳の確かさを感じた。
間もなく船がエゴの突端に付けられると女たちが船べりを跨ぎ、ぞろぞろと戻って来た。
孫の手を握りしめると美佐江は目をやった。
どこからか威勢のいいファンファーレが聴こえてきた。競馬場だ。見ると右方の堤防からゲート近くの監視塔の鉄の骨組みが突き出し、閉山後もひっそり佇む万田鉱の竪坑櫓を彷彿させた。美佐江は尚子が美樹を連れ実家へ戻ってから、気分転換に三人で行ったグリーンランドの光景を思い浮かべていた。
広大な田野と炭住地跡に造られた遊園地は新年の客でごった返していた。そのほぼ中央に一際巨大な大観覧車があった。高さ百メートルを超す最上部からの景色は天気が良ければ遠く東に阿蘇の峰々も見渡せる。尚子に誘われるまま思い切って乗ってみることにした。そのときも今と同じように美樹の手をしっかりと握り締めていた。
僅かに揺れるゴンドラから南の丘沿いに市民プール、北に万田坑の竪坑が見下ろせた。西側へ目をやると普段通る道路や街並みが箸やマッチ箱くらいの大きさになっていく。実家の辺りを過ぎ海岸線があらわれるや、美佐江の目は有明海の大海原に釘づけになった。これまでの暮らしを支えてきた海が燦々と降り注ぐ初春の陽射しを正面に受け、鮮やかに脈打ち横たわっていた。
その時、再びラッパの音が高らかにファンファーレを鳴らし、美佐江は我に返った。
ハッとなり隣を見ると美樹がそわそわするように肩口を揺すっていた。正面から次々と女たちが岸へと上がってきている。顔立ちや服の模様はぼやけ、まるで地下から出てきた精霊のようだ。
それとは別に二つの影が船の中でごそごそ動き回っていた。一つは纜を結わえに、一つは堤防際の耕運機へゆっくり歩きだしていた。保と敏雄の動きに目をやりながら、ふとプール掃除で汗を流す浩一、それに悠子や尚子の顔が浮かんだ。美佐江は改めて美樹の掌に力を込め、温もりを確かめた。
「今日は、むぞか人ば連れっきたばいね」
上がりしな、一言二言、美樹に話しかけながら千穂が言った。
「これから毎日たい」
「なーん、尚子さんがおらすどたい?」
別の所からも言葉が飛んできた。
「甲斐性んなかもんじゃけん、子どもば置いて出ていかしたたい」
「ほんなこつね」
驚きの声がし、美佐江が「うそ、うそ、パートん時間ば増やさしたつ」ほんの口から出た冗談とばかり手を振った。
「おじいちゃん、おじいちゃん」
そのとき美樹が大きな声を張り上げ、嬉しそうに体を動かすと美佐江の手をふりほどき一目散に干潟へ駆け出した。だが、いよいよ足元がぬかるんだ所まで行くと、怖じ気づいたのか前へ進むことができずにいる。
「敏雄、エゴに落ちておんぶくれどんしたらどげんすっかい。さっさ連れてこんか」
舳先に凭れ、そちらを見ていた保が叫んだ。
敏雄はエンジンを掻き鳴らしながら耕運機を美樹の方へ向けた。
数メートル手前で干潟へ降り、両手を上げる美樹を掬い上げるようにして膝に乗せ、船の方へUターンした。
それを確かめた美佐江は一安心し、車から帳面を持ってくると女たちの今日採った貝の斗数を書き込み始めた。
「美樹、遊びにきたか」甲高いエンジン音が止まるやいなや、保が聞いた。
「おじいちゃんのぽんぽんだね」即座に答える美樹に「ばってん、動かしよっとは俺やけんね」 敏雄が相手の耳元に顔を近づけ、いかにも手懐けるように言うと「仕方ば教えたつは爺ちゃんぞ。今、船に乗せてやるけんな」寄越せとばかりに腕を伸ばし、孫娘を奪い取った。
美樹は目を輝かせ保の懐へ身を預け、保の相貌も崩れた。
「爺ちゃんな、たいがい美樹が来っとば楽しみにしとらしたぞ」珍しくそれ以上は突っ込まず、保の肩を持つ敏雄に「ママ、お仕事じゃけん」貝袋の溜まった船の上で無邪気に飛び跳ねた。
十
「しかし、すごか格好やな。貝掘りのおばちゃんたちだっちゃ、そこまではせんですよ」
清掃を始め九日目は、一番の晴天だった。浩一は、良枝たちが日除けのため工夫した服装をまじまじと見た。支給される市の黄色地のロゴ入りTシャツの上に長袖の薄手のヨットパーカーのような前開きを着込み、顔のほとんどはタオルで隠している。頭にはすっぽり麦藁帽子を被り、いくら日焼けしたくないからとは言え、相当暑苦しそうだ。
「まだまだお肌の曲り角だけんね」
眩しげに眼を細める良枝の隣で同じように身を固めた節子や幸代がニタニタ嗤っている。
「濱崎さんは、うんと焼かな駄目よ」
浩一は、この仕事が始まって以来、短パンとTシャツをとおしている。
「だいぶ黒うなって、少しは逞しうなってきたかな」
ニンマリ袖をたくし上げ、「わあ、真っ黒」横にいた幸代が驚き、浩一は気を良くして仕事に取りかかった。
脱衣場も二日かけて終わり、その日は会場内の階段の清掃をしていた。主だったものは三カ所で、特に脱衣場を出て一番下のプールとを結ぶのは五十段ほどある。
「けっこう汚れとるんやね」
隅の苔を亀の子で落としていた節子が目深な帽子の庇の奥から言った。浩一が洗い終わった所にバケツで水を撒くと緑に染まった濁水が階段を伝い、流れ落ちた。
「やったところとそうでないところじゃ全然違うね」
良枝が一度立ち上がり、出来栄えに感心したようにつぶやく。
「でも、亀の子がこげんなって」
幸代が中心から先端にかけ斜めに擦り減ったタワシをじっと見た。
「つるつるして軽石みたいやわ」
節子も毛のなくなったタワシを手で触る。
「もう、全部つこたかなあ」
亀の子は最初コンテナの箱に入れられ三十個ほど配られた。既に一通り使い終わり、今は、できるだけ毛の長いやつを選びやっていた。
「デッキブラシも凄かですよ」
浩一が柄を持ってブラシへ目を向けた。全体が短く刈った芝のようで可哀相なくらいだ。
「そう言えば、こっちはずっと使いっぱなしだもんね」
「でも、あと三日だけん」幸代が珍しく白い歯を見せた。
ここは明日までに終え、明後日が滑り台下のプール、そして最終日は売店や本部前の舗装板磨きで完了である。
「そやけどあの骨の身元さんも、濱崎さん言わはってたように、早くわかってほんまよかったわあ」
タワシを動かし動かし節子が言うのは今朝の新聞のことだ。事件のあらましも書いてあり、そこにDNA鑑定や様々な調査の結果、数キロ離れた地区に住む八十代の男性であったことも添えられていた。
「なあん、そん人は昔、貝堀りに来よらした人たい。たまがったあ」
バイトへ来る前、家で浩一が紙面を読み上げるのとほぼ一緒に、美佐江の見せた驚き様は意外に大きかった。
親から仲買を受け継いでまだ時がたたない頃、その男はしばらくの間、女に混ざり貝堀りに精を出していたらしい。そのうち結婚話がうまくいかなかったとかで漁に来なくなると、紡績工場で働いたり他県へ移り住んだという噂があったが、美佐江はそれ以上は詳しくは知らなかった。
「確か最後に会ったつは敏雄が小学校に行く前やったかね。道でばったり会うて、あん子ば喜んで抱き上げてくれらしたたい。そん後かいね、よそに行かしたて聞いたつは。ばってん、やっぱ 最後は生まれた場所に戻ってきとらしたつばいねえ」
記事には親戚が面倒を見ていたようで去年の梅雨時期から認知症が進み、暮れに行方不明となり、捜索願が出ていたと書かれてあった。プールにはおそらくフェンスの破損箇所から入った可能性も高いとのことで、その日は朝から職員が業者を連れ点検して回っていた。
「だけど、あの齢でよくこんなとこまで来れたよね」
「あら、うちげん爺さんは呆けてからの方がすごかったですよ。気に食わんこつのあっと、だれかれ構わずやりばなしに追いかけまわさすけん、止むっとに大ごとしよったです」
幸代が良枝の疑問に、何の不思議もないと言うふうにあっさり答えた。と、それまで黙っていた浩一がいかにも背中でも伸ばすように、すっくと腰を上げた。
「濱崎さん、立ったついでに滑り台の水ば全開にしてきてもらってよかね。明後日、下のプール掃除する前に錆ば落としとかなんし」
まるで申し合わせたかのような良枝の声に一目散に坂道を駆け上がった浩一は、監視塔の側面に引かれた水道管の赤いバルブを回した。唸るような音がし、滑り台を囲む十数本の管に開けられた沢山の穴から一斉に赤茶色の水が吹き出すと、すぐに透明な色へと変わった。
その二日後、プールの底に立った節子からは憐れむような声が漏れていた。
「なんでこんなに多いんやろ」
それは干乾しになった蛙の死骸だった。どれも小さな雨蛙で前脚を立てた格好のまま干涸び、プールの真ん中寄りに七つほど散らばっていた。中には、死んで何時間も経っていないのではと思えるほど瑞々しく、肌艶や黒い筋も鮮やかなものもいた。
「やっぱ、ずっと上から水ば探して来とっとやろうね」
良枝が言うが早いか、反対側から幸代の呼ぶ声がした。
「ちょっとちょっと、濱崎さん」
浩一は、そちらへ移動した。
「ほら、大きなカエル」
体全体に濃緑色の斑模様が見える。痩せてはいるが前方を睥睨し獲物を狙いすましているようにも、壁に遮られ悄然としているようにも見える。
「これ、あいつですよ、あいつ」
間違いない、上のプールで浩一に向かって来たウシガエルだ。
プールへ降りた浩一は、まだすべすべしている大きな水掻きのついた後ろ脚をつかんでみた。
逆さになった両目には薄い被膜があり、中心にはそれより小さな瞳孔が暗紫色に鈍く光を宿している。
「あら嫌だ、しげしげと眺めてはるよ」
笑みを滲ませながらもあまり気のりしなさそうな節子の前を蛙を掲げた浩一は通り過ぎ、プールから上がるとフェンス際の芝の上へそっと置いてやった。
そのときだった。金網越しに大きな人影が一つ蜃気楼のようにゆらゆらと揺れ、階段を下りてくるのが見えた。浩一がそちらへ首を向けると三人もつられるように視線を動かした。
影は大小二つに分かれ、一歩ずつ近づくに従い日に焼けた肌と彫り深い面貌をはっきりさせた。
敏雄と美佐江だった。
「息子がお世話になっとります」
意表を突かれた三人は思わずキョトンとしたが、すぐに我に返ったように軽く会釈した。予想外は浩一も同じで、場を取り繕おうと慌てて紹介するも、敏雄の方はそれに応えるでなく、不愛想に黙り込み突っ立ったったままだった。
「骨の出てきたプールはどこかね」
美佐江が気を利かすように表情を和らげ、船を出す前に手を合わせに来たと告げた。
敏雄の方を振り向き「私が言うたら、珍しくこん子も行く言うもんじゃけん」
そこにいるのがまるで皆、身内でもあるように親しげな口調だった。
「浩一さん、案内してあげんね」
良枝が促し、せっかくだからと全員で滑り台に沿って舗装板を上り始めた。節子と幸代は終始無言で、敏雄や美佐江から少し遅れて歩いた。
綺麗に洗い終えた赤ちゃんプールは、所々くすんだような滲みの付いたコンクリがのっぺりと広がっているだけだった。ただ縁に四人が手向けた花が灰色の瓶に生けられ、砂の入った白磁の小皿に線香の燃え滓が沈み込むように溜まっていた。風が舞い、空を切るような掠れた音を立てていた。美佐江は敏雄に目配せするでなく、まるでそこに自分しかいないかのように飄然と一歩前へ出ると手を合わせた。浩一も合掌し頭を垂れた。気になって他の者を上目遣いにちらっと見ると、掃除の三人は一心に祈りを続け、敏雄だけが相変わらずそそり立つ大岩のように仁王立ちで鋭い眼差しをプールに送っていた。
十一
六月最後の日曜、海は凪ぐことを知らなかった。
梅雨前線が停滞し、まるで台風並みの風雨をもたらしていた。凄まじい波しぶきと雨粒が傘一つで堤防に立つ敏雄の目や耳を塞ぐ勢いで暴れまわっていた。
敏雄は、昨日、漁を断念し帰ろうしたとき保が事務所で聞かせた話を思い出していた。今と同じように大雨が吹き荒れ、それが少しばかり治まった次の日の出来事だった。敏雄はまだ生まれていず、美佐江の腹の中にいた。
「なんさま、あれは凄かったぞ。道路も田んぼも水に漬かるし。山沿いは土砂崩れもあって、死者も出たたい」
話の内容とは裏腹に静かな口ぶりだった。まるで人に聞かせ馴れたふうにも思えた。敏雄はなぜか息が詰まるものを感じ煙草を吸った。
「どうも、そん日は朝から海が気になってな、そわそわすっと。もう三日、シーズン真っ只中いうとに沖にも出られんで酒ばっかのみくさっとったけんやろな」
保には似合わぬぞんざいな言い回しが、敏雄にはどこか可笑しかった。
「ばってん海に出ておったまがったぞ。そん日の干潮が来てすぐやった。土砂降りこそしよらんでん、まあだかなり雨も降りよったし、風も強う吹きよったしなあ、わざわざ堤防に来るごたる物好きは他にはおらんたい。俺は一人で海ば見よったつ。そっでん、あれば見たときは驚いたばい。初めは雲仙がぼんやり見えよる思とったたい。ばってん違うとたい。どぎゃん見たって違うとたい」
「どぎゃん違うとな」敏雄も急いた。
なぜか一年前の蛍の幼虫の情景を思い出していた。
蒼白く穏微でもやもやしたものが頭中を巻い、それを払い除けたく煙草を灰皿で揉み消した。
「貝たい」
保のその一言を聞いたとき敏雄は体の奥に顫えるものを認めた。蛍石の埋まった土手を指す老爺の姿も浮かび上がった。
「貝がそう沖でなかとこに、とつけむにゃあ高う、頂度雲仙だけと重なるようにしてあったつぞ。あれぐらいたまがったつは、あん夏以来ばい」
その夏の話は幾度か聞いたことがあった。当時六歳だった保は祖父に連れられ、たまたま高台の畑地にいた。そこから有明海の遙か向こうにくっきりと、きのこ雲が浮かんでいたそうだ。驚いて訊ねても、日頃は柔和な祖父が般若のように吊り上がった目で雲の方角を睨みつけ、怖くてそれ以上は聞けなかったと言う。
保の話は続いた。
「そっでん何十年も貝ば見てきた俺たい。初めは我が目ば疑っても、そうそう間違ゆるもんじゃなか。体がふるゆっごたったばい。家に戻って母ちゃん引っ張り出すにも、腹にはお前のおるけんどげんもできんし、せからしなってトラックで貝掘りん女ば拾て行ったたい。乗れ乗れ言うて。騙された思てとにかく乗ってくれえ声かけて、干潟飛ばして行ったばい。後でぬかるんで出られんごつなるとも何も考えんやった。もうそげんこつはどげんでんよかったもん。千穂や洋子もそん一人たい。あんこつのあったけん今でん濱崎に義理もってくれとる」
敏雄は半ば信じられぬ気持ちでありながら、美佐江からそのことは子供のころ聞いた記憶があった。
美佐江もどうしても気になり、大きな腹を抱え海岸まで様子を見に行ったと言う。
貝の山か何かわからぬが堆い固まりが保や女たちの中にどっしりと黒い影を落とし、ひゅるひゅると猛る余風や雨粒といっしょに潮の香を運んできたそうだ。動き回る女たちの姿も、まるでそこに巣くう獣のように映ったと言う。夜中の大雨や暴風による潮の流れの影響であんな信じれぬことも長く海の傍にいればあるのだと、美佐江はつくづく不思議に思ったそうだ。
どこまでが本当かはわからなかった。敏雄にはそれが、保の濱崎へ果たした数少ない手柄話にも思えたし、美佐江とぐるになり敏雄の生まれる前にあれこれ枝葉をつけ一杯食わせようとしているようにも思えた。
「あの辺たい」
保が最後に事務所の窓の外を指で差した先は、既に雨粒に霞んでいた。
そんな昨日の記憶に浸っていた敏雄の背後からライトを照らし見覚えある原動機付きのオートバイが近づいてきた。数メートル手前で止まると合羽を着込んだ痩せぎすな男が敏雄の隣に小走りでやってきた。背丈はほぼ同じだ。
「やっぱ兄ちゃんか」浩一は雨の滴るフードの奥から言った。
「お前、何しに来たつか」
「昨日はプールん方も休みやったし、貝堀りん方は大丈夫かな思て様子ば見に来たったい」
「こん雨じゃ、どぎゃんもこぎゃんもならん」
敏雄は素っ気なく答えながらも、改めて弟を見た。日焼けし頬が引き締まり、精悍さが増したように思える。敏雄は貝の山の話をしてみた。
「どげん思うや」
「まんざら法螺話でもなかかもしれんね。なんさま海も風も自然の生き物も、ここぞっていうときは信じれん動きばするけんね」
そして敏雄が黙っているとぼそりとつぶやいた。
「ばってん、兄ちゃんが羨ましか」
敏雄は小首をわずかに動かし、横目で浩一を見た。
「俺には父ちゃんも母ちゃんも、貝とかそげん話ばしてくれたこつは一度もなか。言わすとは、 タンカーがでかかったこととか、将来は公務員になれとかそがんことだけたい」
そしてしんみりとした顔つきで「兄ちゃん、たまにゃ、律子さんの顔ば見に来てやらんねね」とつぶやいた。
「行って何か役に立つとか」
「おるだけでん、心強かろもん」
「そっじゃまるで置物やっか」
「置物でん、好いとる相手ならありがたかったい」
自分で言いながらどこか気恥ずかしかったのか誤魔化すようにくるりと体の向きを変えると雨も風も気にせぬ素早さで、またバイクへ駆け出した。
十二
清掃最終日、大雨で一日延びたものの、空は相変わらず厚い雲に覆われていた。いつものように出勤簿に印鑑を押すため事務所へ入ろうとした浩一は、良枝と戸口で鉢合わせした。
「今日の舗装板磨き、だいぶ楽になるみたいばい」
「え?」
「消防署ん人がね、放水ばしてくれるげなたい」
浩一は一旦握りかけた扉のノブから手を離し、思いもかけぬ情報に嬉しさよりも、むしろ拍子抜けした気がした。
「それならそうと、もっと早くやってくれたらよかったつに」
思わずこぼし、良枝が回りに聞こえるとばかりに慌てて指を自分の口に当て、左右見回した。
浩一も、軽く頷き返すと普段と変わらぬ顔で中へ入った。
消防車は小型のものが来るかと思ったが、水のタンクを備えたかなり大型のポンプ車で、倉庫横からゆっくりと姿を現した風貌は迫力があり、場違いなほどに重々しい感じがした。
「いよいよやね」
端にどいた節子がいつもの調子で言う。
「汚れのひどかところは、ジアば撒き終わっとるけん、後はぼちぼちやっていけばよかよ」
「そげんですね」
良枝を継ぐ形で幸代もホッとしたように頷いた。
モーターの快速音とともに放水は開始された。毎秒何十リットルもの大量の水が一挙に押し出され、水が水とは思えぬ固まりとなり隊員の手にしたホースから舗装板目がけ叩きつけられていく。圧倒的な機械の弾き出す力の前で、良枝たち四人の手作業は実に頼りなげなものに映ってしまう。だが、浩一は、今までどおり道具を持つと颯爽と前へ進み出、適当な場所を見つけ力を込め磨き始めた。
「そうたいね、もう少しで終わりじゃもんね」
良枝も隣に並び節子と幸代も続く。
「今度は、向こうへ行くぞ」
放水量が限られているためか、要所要所を的確に指示しながら、日頃の訓練よろしく、勇ましい号令とともに隊員たちは移動していった。
丁度四人を跨ぐ格好でホースが持ち上げられた瞬間だった。水柱が頭上を覆うように立ち昇り、大粒の水滴が中空から夥しく舞い落ちると良枝と節子、それに幸代の頭上へ土砂降りのように降りかかった。三人は上体を素早く返し、小走りで逆方向へと逃げ去るのが精一杯だった。
「酷かねえ」
良枝がまだ年若い消防士を睨んだ。だがその口調はどこか明るげで、相手も見るからに肌艶のいい顔に白い歯で屈託なく笑っている。
「わあ、ほら」
間髪を入れず、幸代が叫び、良枝と節子がその方に目をやった。
さっきまで雲一色だった空に、ほんの僅か切れ間があらわれ、そこから日が射している。
「きれいな虹やね」節子がしみじみ言う。
「虹なんて見っと久しぶり」
良枝もうっとりしたようにつぶやくが、内心はそれほど気にも留めていないらしく、
「濱崎さーん」
びしょ濡れになりながら、一人さっきから半袖を捲り上げ、ブラシを黙々と動かし続ける浩一に声をかけた。
「なかなかむしゃんよかばい。今年は大学合格せなんよ」
浩一は聞こえてか聞こえないでか手を休め、微かに頭を持ち上げ、良枝たちの方を振り返るとはにかむように笑った。
頭上彼方では、たった今生まれたばかりの虹が、周囲に層を成した微粒な水の帯をさわさわと芯に巻き込みながら吸い上げ、帯は徐々に溶けると、淡い可視光線に彩られたその姿を静かに中空へと消していった。
十三
「敏雄もしょうもなかね。雨もおさまったつに、今日も漁ばせんでパチンコに行ったたい」
事務所から帰ってきた美佐江は、台所の律子に愚痴った。
「尚子も美樹ば保育園に預けだしてえらいがまだすごつなって、浩一もプール掃除ん最後言うて 朝から張り切って行っとっとに、あん子ばかりは何ば考えとっとかわけくちゃわからん」
律子の予定日はとっくに過ぎていた。こちらに来てから翌日に一度陣痛が起き、いよいよかと準備していたものを手に病院へ急いだが、二日入院しただけで治まり帰って来ていた。それから三日経っている。
「もうそろそろ生まれんと、かえって危なかけんね」
美佐江は律子が炭鉱育ちであることをやはり敏雄と同じように、話の節々から感じ取った。しかしそれもこれも腹の子がそれ以上詮索することを止めさせた。
「父ちゃんは父ちゃんで雨の酷かときから何回も海ん様子ば見にいきよらすし。またあの夢んごたるこつのあると思とっとだろか」
卓袱台に腰を落着けた美佐江は「そっがねあんた、敏雄が私ん腹ん中おるとき、海に貝が山んごつ集まったこつのあったとよ。今と同じ大雨が降った後やったけど」流しの方を見やりながら言った。
律子が急須と湯飲みを持って来た。
「なんか、あんときと似とるとばってんね」
美佐江が律子にその話を直接するのは初めてのことだった。
濱崎へ来てからというもの、二人は一定の距離をとっていた。一つのことをするにもあれこれこだわれば、たちまち気づまりになってしまう。お互いそのことを重々知っていて、ほどほどにやっていた。
「律子さん、あんた…」
美佐江が律子の苦しげな表情に気付いたのはそれからしばらくしてからだった。呻きとともに眉間に引き攣った皺が寄り、首筋に青い血管が浮かぶと体が小刻みに顫えだした。見ているだけで美佐江にも、疼きのような体感が伝わり、自分の下腹まで強張っていく気がした。タクシーより速いと事務所の保に電話した。
敏雄がパチンコ屋から出てきたとき、日は既に沈み、肌寒い風が吹いていた。店舗の周りにはけばけばしいライトが照らされ、仕事にあぶれた者の巣くう一時凌ぎの余興の雰囲気を醸していた。貝の話を聞いて以来、どこか気難しい自分がいた。敏雄は帰りを急ぐでなく、車に乗り込むと濱崎へ久しぶりに行ってみようかと思ったがそれも止めた。
無理をすれば今日、船を出せたかもしれないのに、踏ん切りがつかなかったことが歯がゆかった。海岸へ行き、保のように波の音を聴けばモヤモヤもおさまるのかも知れなかった。だが、そうすることを素直にさせぬ何かがあった。
車に乗ると、エンジンをかけアクセルを吹かした。
動き出すや全開した窓から生ぬるい風が頬をなぶり体を弄ぶように包み込んだ。風は生き物の吐く息のように無造作に掠めては逃げていく。敏雄は風より先にその風にぶつかり、正体をつかんでやろうとでもするようにスピードを上げた。たちまち速度計は九十キロになった。道なりに行けばカーブがあり、その先の三叉路から右に真っ直ぐ突き進めば海岸に出られる。
保の言ったことを信じているわけではなかった。
貝が山のように雲仙と重なるように見えた。戯言だ。皆して俺を担ごうとしている。今さらそんなことを言って何が面白い。
潮の匂いがどこからともなくした気がし、一年前、船団を組み抗議をしに有明海を渡った情景が思い出された。
初めて間近にした潮受け堤防はあまりに長大な城壁そのものだった。
揃いの黄色いヘルメットを被った作業員の中には、ネクタイをつけた者もちらほらいて、敏雄が用意していた手製のメガフォンであらん限りの声で工事中止を訴えると、相手は先頭に立った男が拡声器を使い、まるで事務的な連絡でもするように丁寧な口調で、危険だから離れるようその何倍もある音量で返してきた。堤防にはブイが浮かべられ近寄ることもできず、小競り合いの一つも起こることはなかった。それは敏雄たちの行動がすべて計算済みで、周到に準備された数枚の計画用紙の中で行われているふうだった。
時だけが刻一刻と過ぎ、予告された時刻になると気色ばむ敏雄たちをよそにボタンに手を掛けた担当者の妙に落ち着き払った点呼の下、最後に残された一・二キロに激しい飛沫を立てながら次々とドミノ倒しのように鉄門が打ち下ろされていったのだ。その瞬間を待っていたかのようにカメラやビデオを抱えたマスコミが一斉にフラッシュを光らせ、それらの情景を映しとっていた。
海を引き返しているときだ。
波間から敏雄は不思議な音を聞いた。それは地鳴りのような、どこか不気味な響きだった。泥や砂がゆっくり海底で移動し、これまでと違った起伏をつくりながら貝を一度にその内懐へ抱え込み、今度はそれそのものを大きく硬い殻で覆い、敏雄たちの手のとどかぬところへ持って行ってしまおうとしているように思えた。
敏雄は、全開した窓から吹き込んでは肌から熱を奪う風を追いかけようと、さらにペダルを踏み込んだ。
カーブに差しかかった。どこかしこに炭鉱会社から払い下げられた土地があった。最近、中央線が引き直された県道とここも間もなく繋がるという話だった。
律子の顔が影のように浮き上がり、すぐに消えた。気が付くと三叉路を曲がり、海岸へと向かっていた。このままただ突っ走るしかない、そう思い始めていた。戯言か幻でも、やはり我が目で確かめるしかなかった。
潮の匂いが漂ってきた。
ブレーキをかけるとタイヤは大きくスリップし、危うく堤防に衝突しそうになったが、運良く段差に助けられた。
堤防を駆け下り、砂浜に立つと目を瞠った。
雲仙岳と多良岳の間に聞き覚えのある異様な塊があった。漆黒の干潟から浮かび上がり、呼吸でもしているように微妙に縮んだり膨らんだりしながら何かが息づいていた。
周りには女たちが集い、腰を屈め、忙しく手を動かし、一瞬、美佐江や顔見知りの女たちに見えた。見慣れぬ男が一人いて、女たちと一緒に飄々と貝を採っていた。敏雄には骨の男だとすぐにわかったが、どこか自分にも映った。
砂はガン爪でこしゃがれ、指の腹で掻かれるたびに呼吸を盛り返し、黒光りする石炭のような輝きで敏雄の瞳を満たした。
『おーい、おーい』『やーれそーれ』
遠くで太鼓が鳴り、声を掛け合っているようだった。
ふと船の動く気配にそこにシカちゃんが乗っている気がし、目を凝らすと海鳴りが耳朶を激しく揺すり、敏雄にはそれが女たちのざれごととも律子の苦しみ呻く叫びにも聞こえた。
どれだけたっただろう、また切り裂ける波の音で自分を取り戻した気になった。すべては消えていた。何かが可笑しく嘲笑いたいのを必死に堪え、車に引き返した。
保の言ったことをわざわざ真に受けここまで来た自分が、やがて二十八になる男とは思えぬほど面映ゆく情なかった。海はよく見れば相変わらずいつもと同じ情景なのだった。
美佐江の電話で敏雄が浅い眠りから覚めたのは、その次の日の朝早くだった。
女が生まれていた。
夢の中にいるように敏雄には思えた。
2020年4月29日 発行 初版
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1961年熊本県荒尾市生まれ。北九州大学文学部国文科卒業後、学習塾講師、大検(高卒認定)専門予備校職員などを経て、熊本県小学校教諭に採用。二校目の赴任地(阿蘇市立宮地小学校)で、卒業生である発達障害の青年との出会いをきっかけに33歳で退職し、当時阿蘇郡市では初めての民間での小規模作業所「夢屋」を立ち上げました。その後、自立支援法施行に伴い、「NPO夢屋プラネットワークス(http://www.asoyumeya.org/)」を設立し、地域活動支援センター(Ⅲ型)代表兼支援員として阿蘇市から委託を受けながら現在に至っています。 運営の傍ら、小説、ノンフィクション、児童文学、書評などを発表してきました。部落解放文学賞に5回入選、九州芸術祭文学賞熊本県地区優秀賞2回、熊本県民文芸賞、家の光童話賞優秀賞などを受賞させていただいています。