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jacket

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慰留地

宮本誠一

夢ブックス



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     慰留地
   
    一 スパム
 十人も乗れば一杯になる小型汽船に彼以外、乗客はいなかった。操縦士を兼ねたたった一人の乗務員も無口で会話はなく、四十分たらずの渡航はあっと言う間だった。降りたった桟橋は、護岸に打ち込まれた木杭に板が掛けられた質素なものだ。停泊地に人影はなく、閑散としている。海岸から続く松林が僅かな平地を囲むように広がっている。だが、その尖った歯群の向こうに巨大な円筒の建造物を見たとき彼は我が目を疑った。よく見ると松の根元にも今まで見たことのない奇妙な物体が折り重なるようにいくつも寄り集まっている。
 彼は建物まで歩いてみることにした。
 近くで見ると奇妙な物体は、布のような繊維質のものから木切れに似た細かな層があるもの、それにスポンジやプラスチックに熱を加え変形させたようなものまで、色や形も様々で、拾って指先に力を入れると崩れてしまうほどの脆さはないが、どこか微妙に肌と馴染んでいく質感があった。足で除けながら、それらの密集する箇所の際まで歩いた彼は、ようやく道らしきところまで辿り着き、改めて建物を見上げた。
 一体、どのくらいの大きさなのか見当もつかない。彼はふっと息をのんだ。
 庇はなく上辺は空に霞んでいる。
 壁がゆっくりカーブを描き遠見では円筒だが、左右不均等にしなっている印象も受け、実際の全体像はつかめない。拳で叩くと重く低い音がし、かなり頑丈な造りであることがわかった。表面を掌でゆっくり撫ぜてみた。ごく微細な金属片のようなものがまぶされているのか、指の腹に引っかかる僅かな凹凸があり、ザラザラする。扉か窓を探したが、それらしきものも見当たらず、結局、一周回るのに一時間近くかかった。およそ四キロと言ったところか。モニュメントだとしても、一体誰が何のためつくったのか、ますますわからなくなった。
 その島に来たのには理由があった。
 二日前の晩、彼はその島に住む奥木という人物が出したクイズにネットで応募し、見事第一ステージを勝ち残ったのだ。
 一体そのクイズに総勢何名が回答し、そのうちのどれだけが次のステージへ進めたかは定かでなく、ただ、賞品のフロント二段、リア十段のマウンテンバイクが欲しくて、気軽にメールアドレスを登録し、スマホで答えたのだった。
 問題は次のようなものだった。
 ある小さな島がゆっくりとではあるが確実に沈みつつあることが測定データで明らかとなり、その事実がしかるべき経路で島民に知らされたにもかかわらず、彼らはあたふたすることもなく普段通りの生活を送っている。しかも継続的に測定を続けるうちに、海抜下は微少な沈下を続けながらも、島の表面だけは隆起するように嵩が増していることが実証された。果たして、それはどういう原因によるものかという内容だった。彼がそのクイズを見たのは、非正規の職をその日限りで解雇され、ヤケ酒で酔っていた深夜で、ちょうど三十歳を迎えた、九月になったばかりの日だった。

 【そんな理由などわかない】

 やめさせられたことへの腹いせで、タッチパネルを乱暴に叩き、送信してやった。即座に奥木本人から次のステージへ進めたとの返信があり、さっそくプリントアウトしてもらえばバーコードのチェックで使えるチケットを送るから、島に来て欲しいとの連絡があった。そこで直接、決勝の問題を出し、もし正解の場合はその場で賞品を渡すと言うのだ。
 彼は歓喜し、早速やってきた。
 建物を一通り見終わると、集落の方へ行ってみた。
奇妙な物体は道端にも溜まっていて、真ん中寄りの比較的平坦なところを選び歩いたつもりだったが、何度か躓き、足を滑らしそうになった。一度はいきなり腰まで埋まり、ずいぶん深く積もっている箇所があることもわかった。
 しばらくそうやって進むと奇妙な物体が土手の起伏に合わせ盛り上がった向こうから人影があらわれた。どうやら畑仕事の帰りらしい。近づくと太い二の腕に刃先が鋭く尖った鍬を持ち、日焼けし彫りの深い顔をしていた。
「何かこの島に御用ですかい」
「クイズの解答をしに来たんですが」
 眉をよじりキョトンとした顔になった。彼はやむなく、もう一度説明した。
「この島に住む人のクイズに答え、勝ち残りまして……」
「へっ、クイズ……」
 そんなことはまったく知らないらしく、間の抜けた返事をした。
「奥木という方を御存知じゃありませんか」
 彼もこうなれば大胆に、相手の出方を窺った。
「知っていますが、あの人は、なかなか姿を見せませんからね」
 メールから書き写しておいた住所のメモを見せた。男はまったく関心なさそうにちらりと見、すぐにまた目を逸らした。だがそのわざとらしい態度が奥木と満更親しくないわけでないことを示しているようで、差し当たり話題を変えようと、建造物を指差した。
「あれは何なんですか」
「あれって?」
「ほら、そこに大きな筒のような形をした建物があるじゃないですか」
「石棺ですよ」
「石棺?」
「この島の者が葬られている墓です。未戒塚って言ってますが」
「共同の墳墓ですか。それにしても大きいんですね」
「そうですかねえ……俺たちはもう見慣れてるもんで」
 男はいかにもあっけらかんとした表情だ。
「それじゃあ、どこか納骨する入口があるんですね」
「まあ、そうですかね」
 男はどこか他人事のように言葉を濁した。
 彼もそれ以上は聞かず、足元に視線を移し、
「ところで、これは」
 奇妙な物体を見つめたまま訊ねた。すると今度は急に頬の筋肉を緩め、ニヤリと笑った。 
「ガラクタです」
「ガラクタ?」
「何の役にも立たない、正真正銘の。だから他に言いようもありませんし」
 彼は、真っ当な答え過ぎて返す言葉が見つからなかった。
「じゃあ、その、この〝ガラクタ〟ですが、これは、あの、昔から、つまり、この島に、あったんですか」
 しどろもどろになりながら、その場を繋ぐように聞いた。
「でしょうね。少なくとも俺の生まれたときにはありましたから」
 男はまたも、どこか惚けた返事をした。
のらりくらりとした男に、これ以上聞くのは無駄な気がした彼は、小さく息を吐き、石棺を見た。その様子に逆に何かを感じたのか、男は、今度は不敵な笑みを唇の端にちらりと浮かべた。
「でもこのガラクタが、羽化するんですよ」
「羽化?」
「いえね、時期はばらばらでいつかはわからないですがね。とにかく羽をつけた後、蝶みたいに夜空を飛び交うんです。それがときには雲みたいにひらひら舞いながら、きらきら光る白粉をまき散きちらすもんだから皆、シロチョウって呼んでます」
 少々興奮気味で、息が速まっているようだ。
 シ、ロ、チョウ……。
 思わずしゃがみこむと触ってみた。
 表面は確かに滑らかだが、いびつな形状から、まさかこんなものが空を飛ぶものへ変身するとは到底思えない。だが、相手のガラクタへ注ぐ眼差しは、今度ばかしはこれまでのいい加減さは消え、まるで恋人でも見つめるような熱い感情が目の底に滞留しているようで、ひとまず頷き、納得する素振りをして誤魔化した。
  
    二 エゴサーチ
 ガラクタを、さも感心しながら眺める彼に男も少し気を許したのか、表情のどこかしこに親し気な様子が見えだした。
「奥木さんに会いたいんでしたね」
「そうです」
 少しオーバーに声を上げ、相手の顔を見た。
「どうしても次の問題を解きたくて」
「あんたも運がいいな。今は未戒塚の死者を弔う慰留祭があってるんですが、そんなときはできるだけ人にも親切にしろって、俺も親から教えられてるし、怪しい人じゃないみたいだから案内してあげますよ」
 しぶとく食い下がった甲斐があったというものだ。彼はようやく道が開けてきたことに安堵した。
 ガラクタの僅かな隙間を一列で歩きながら、たまに後ろを振り返り男が言うには、奥木は三年前突然、小学二、三年くらいの男の子とやってきて数週間、テント生活をした後、空き家だった漁師の家に住み着いたそうだ。その間、海岸沿いや畑をぶらつき小魚や季節折々の作物を島民に譲ってもらうことでどうにか暮らしていたらしい。それから一年ほどして丘に自分で掘っ立て小屋を建て、そこへ移ったと言う。
「無断で棲みついたんだが、あの人もあんたと同じように慰留祭の時期にやって来たもんだから、誰も文句を言わなかったんですよ。でも、今でも島の者はほとんど寄り付きません」
 そうこうしているうちに、どこから見ても傷んだ材木や板切れを使い、軒先が曲がっているあばら家が見えてきた。
「あれですよ」
 指差す相手は、やがて家の前に来ると一言忠告した。
「もしクイズを当てて自転車をもらえたら、長居せずさっさと帰った方が無難ですぜ」
 言い終わるや、いかにも役目は終えたというふうに、来たときと同じ慣れた足取りで姿を消して行った。
 暮れかかる淡い紅の夕陽に包まれ、家の周りのガラクタがぼんやりと赤らんでいる。
彼は一人とり残され、多少心もとなくなったが、それが自分の小心さが原因であることはわかっていた。不安を振り払うように思い切って戸を叩くと、すぐに向こうからゆっくりと足音が近づいてきた。
 薄い板切れを張り付けた粗末な扉が軋むような音を鳴らしながら開き、わずな隙間の向こうに暗く澱んだ空気が漂い、人影が幻のように佇んでいるのが見えた。
「どなたかな」
 思ったより丁寧な応答に彼は幾分緊張がとけ、この島に来て初めて口元を弛めた。
「クイズに応募した者なんですが」
 彼は臆せず、訊ねた。
「クイズです、一昨夜、あなたがネットに出していた。僕はそれに応募して幸運にも予選を通過しまして、そちらの希望どおり、今日、船でやってきました」
 するとさらに扉は大きく開かれ、すんなり招き入れられる形となった。足を踏み入れながら、目を凝らし奥木の表情をじっと窺った。相手は四十前後の面立ちで、薄暮のせいか精気が感じ取れず、どこか気怠げだった。
 自己紹介後、さり気なく本題へと移った。
「あの、で、問題なんですが」
「な、なんのかね」
「決まってるじゃないですか。あなたの出されたやつですよ」
「ああ例の問題、ねえ」
「そうです、問題」
「どうしてそんなに知りたいのかね」
「そりゃあ、自転車がいただきたいからに決まってるじゃないですか。それにあなたもすぐ来るようにって」
「自、転、車、か……」
 予想とは打って変わり気のない返事だった。ただ、彼にもそこまでのやりとりがどうもしっくり来ず、これでは自分が無理やり捏ねつけやっていることではないかと悔いた。
「こちらから言っといて変と思うかもしれないが、果たしてあの問題を出したのが、今となってよかったのかどうか。それに自転車が君にそんなに必要なものなのかなと……」
 既に相手は何を言っているのかわからなかった。
 ただ、内心、既に難解な第二ステージは始まっており、自分をまんまと引っ掛けようとしているのかもしれないと勘繰り、油断しないよう心がけた。
 ところがそんな彼の心配をよそに、奥木が諦めたように切り出した。
「わかった、わかったよ。そうだったね。このクイズを出したのは私なんだから。妙なことを言ってすまなかった」
 自分の不安が取り越し苦労だったことに、やはりホッとした。表面が逆剥け、節穴があちこちにある板壁を背に、奥木の顔がその中の大きな滲みのように浮かび上がっていた。
 部屋の真ん中に四角いコンパネに角材の脚を釘づけしたテーブルが一つと、丸太の椅子が二つあった。奥木は、明かり口が丸い洞穴のような形のカンテラの芯にマッチで灯をつけるとテーブルの上に置いた。
「君も道々見たかもしれないが、これはガラクタを加工して村人が作ったものを譲ってくれたんだ。あれは成長すると当たりかまわず飛び回るシロチョウというのに変身する厄介な代物でね」
「そうらしいですね。案内してくれた人がいろいろ教えてくれました」
 奥木はそれには無反応で「慰留祭にはこのカンテラを灯し、塚にお参りするのが習わしなんだよ」落ち着いた口調で言った。
「へえ、そうなんですか」
 彼もカンテラに目を向けながら、感心しいしい頷きながら答えた。
「この加工がなかなか難しくってね。私みたいな新参者に簡単にやれるようなものじゃない。特に明かり口の開け方が微妙で、形によっては熱気をこもらせて、文字通り手を焼くものになってしまう」
「と言うと」
 彼は、つい我を忘れ聞き入った。
「つまりこのガラクタの素材はまだ不明なんだが、直接火をつけれるととても燃えやすい材質であることだけは間違いないらしい」
「じゃあ、かなり危険じゃないですか」
「そうなんだ。だけど明かり口次第で、うまくそこから熱が逃げ、ガラクタ自身が燃料になって効率よく照らしてくれる便利なものだから、島民は重宝して使ってるのさ」
「なるほど、見ただけじゃわかりませんね」
「まあ、そういう意味でカンテラづくりとそれを持っての慰留祭は、いわばそんな危険な代物にいかにうまく細工を施し、使いこなせるかっていう各々の技量自慢にもなっているんだよ」
 彼は、案内した男がガラクタのことを話すとき、生き生きとした表情になった理由がようやくわかった気がした。
「でも何か解せないんですけど。普通、先祖を供養するんなら慰霊と名付けると思うんですか、どうして慰留なんでしょうか」
「それは私も知らんよ」
 奥木はきっぱり答え、いかにも諭すように念を押した。
「ただ言えるのは、とにかく君もこのガラクタにはくれぐれも気を付けた方がいいってことだ」
「わかりました」
 テーブルに置かれたカンテラの小さな洞から明りが放射状に伸び、光源とは不釣り合いなほど周囲を煌々と照らしていた。明かりはやがて散らばりながらうっすらとレース地のように伸び、壁を這い上がっている。その光に導かれるように首を向けた彼は思わず感激の声を上げそうになった。
 光の粒が磨きのかかったリムやスポークをラメ色に輝かせ、スマートな三角のフレームに滑らかなカーブを描いたハンドルやサドル、それにいかにも頑強そうな分厚いチューブレスタイヤの自転車がひっそり部屋の隅に置いてあったからだ。ハンドルの中央にはGPS機能のナビゲーターとLEDのライトが取り付けてあり、近づいてよく見るとライトはブラケット式でスライドさせれば簡単に外せ、懐中電灯にもなるようだ。クイズの賞品は本当だった。
 しばし見とれていると鼓膜に微かな振動が伝わってきた。
 最初それが何なのかわからなかったが、人の足音であることは、やがてガラクタを規則的に踏みしだく音から察せられてきた。
 扉が勢いよく開き、小学高学年くらいの男の子が一人、そそくさと入って来、彼や奥木のことも気にせぬように丸太の木椅子に腰かけた。そんな少年に目を奪われていると奥木が紹介した。
「息子だよ」
 すぐにここまで案内してくれた男の顔が浮かび、そういえば奥木が子どもと一緒にこの島へ来たと話していたのを思い出した。
 少年の顔を見た。
 目や口元はほとんど動かず無表情に近い。そこから感情を読み取ることは難しそうだ。そばに歩み寄り言葉をかけてみた。簡単な挨拶だ。最初、奥木は黙って彼のするのに任せていたが、二度同じことをしかかったとき、さすがにたまりかねたふうに言葉を切った。
「無駄だよ。トオルと言うんだが、緘黙なんだ。一言もしゃべれないし、しゃべらない」
 口調が、それ以上骨を折らせたくない親切心からきているようで、彼も黙って従った。
「そうそう、君は、自転車が欲しくてここに来たんだったね」
 思い出したように言うや、奥木はくるりと後ろを向くと棚から一冊のノートを取り出してきた。
「ここに、私がトオルとこの島にやってきてからのことが書いてある。これを読んでの君の感想をお聞きしたい。それが次の問題さ」
「答じゃなくて感想、でいいんですか」
「それで充分だ」
「どんなことでも……」
「どんなことでも。ただし、断片的過ぎて、読み方によっては本当につまらぬものばかりだ。最後まで読み通せるかどうかは君次第だよ」
 そう言って、奥木は自転車の鍵を渡した。
「保障のために、これを約束の印として君に預けておくことにしよう」
「えっ、いいんですか」
「実を言うと、まさか本当にこうやって来てくれるとは思っていなかったし、君のメールでの返事も半分疑っていたんだよ。だが実際にやって来てくれて本当に感謝してるんだ」
「ありがとうございます。僕もできるだけ早く読んで、感想を言いに来ますから」
「それからこれも」
 奥木の手にはマッチ箱とカンテラが握られている。
「いずれ役に立つ時が来るから、もっておいてくれ」
「これは夜、あなた方が必要なんじゃないんですか」
 さすがに不可解さを感じた彼は、躊躇せずにはいられなかった。
「いいんだよ。暗闇には慣れてるから」
 冗談のような返事に肩透かしを食らったみたいで、あまり詮索しすぎてはせっかく築いた信頼を壊すことになりかねないと黙って受け取ることにした。
 開け放たれた窓からとっぷりと日が沈んでしまった鉛色の夜陰を通し、湿気を含んだ風が吹いている。風は相変わらず浜辺からの潮風で、肌を被膜のように覆っては熱を奪い、じんわり汗ばませた。
 帰り際、彼は少年の顔をもう一度見た。
 瞼が重く被さり、どこか夢遊病者のようにぼんやりした眼つきで眠たげだった。
 自転車の鍵とマッチをズボンのポケットに、ノートをリュックに仕舞うとカンテラの明かりを頼りに、前もって予約しておいた港近くにある島の数少ない宿に向かった。

   三 タイムライン
 部屋に入るや、さっそくスタンドを引き寄せ、リュックからノートを取り出してみた。ざっと捲ってみると全体のページ数のわりに記されている量は少なく、区切りをつけるため、途中から別のノートへ移ったような気さえした。物足りなさを感じながらも、感想さえ言えば自転車がもらえるのだからと考え直し、鉛筆書きの文字を一つ一つ拾うように読んでいった。
 日記には日付はなく、その代わりに文頭に黒い丸印が打ってあった。

●私がささやかなこの日記を書くにあたり、その目的を記しておきたい。
まずその一つは、妻は今から六年前、トオルが三つのとき突然蒸発した。その後、おしゃべり好きでよく歌も歌って聞かせてくれたトオルが、ぱたりと話さなくなり、沈黙の中で暮らしてきた。そんなトオルが小学三年になった春、偶然、テレビで流れて来たごみの塊のようなものに覆われた小さな島の映像が流れ、それを見た瞬間、たちまち生気が満ちたように目が輝き、顔色が良くなったのだ。咄嗟に私は、その島と母親が何か関係あるのではと感じ、ここへ来る決心を固めたのだ。
それともう一つ、トオルのことがあって以来思い出すのだが、妻も蒸発する直前、この島のことを私に話してはいなかったかということだ。それがどういうとき口に出たかは、はっきりしない。ただ憶測だが、もしかすると妻の出身はこの島ではなかったのか、そんな疑問が私の心理のどこかにあり、おぼろげな記憶と交錯するのだ。
私と知り合う前、彼女は私の勤める地質調査会社の向かい側の自転車製造工場でライトや反射鏡を取り付ける仕事をやっていた。頂度昼食時、近くにあった飲食店で知り合い、一年後に結婚した。妻は、その後、梱包された荷物が肩口に落下する事故に遭い、右腕が時折り麻痺する症状になってしまった。幸い労災にも認定されたが、肩口と指先に力が入らぬため仕事を辞め、会社側からも見舞金と、なぜそんなものを欲しがったのかはわからないが妻からのたっての希望で、彼女が組み立てに携わった新品の自転車が贈られたのだった。その翌年、トオルが生まれたが、寝かしつけるとき彼女は、この子が大きくなったらぜひこの自転車に乗って欲しいと漏らし、決まって同じ子守歌を聞かせていたのだ。

  波の音、しずかにゆれ
  まるで雲のよう
  眠れ かわいい坊や
 
  月明かり、羽をひろげ 
  まるで蝶のよう
  眠れ いとしい坊や

  柔らかな肌、優しくつつみ 
  まるで貝殻のよう
  眠れ 愛する坊や

私が何気なくこの歌のことを訊ねると、日頃明るい妻が珍しく寂しげな表情でこの島のことを口にした、そんなことがあったような気がするのだ。いや、あれが島のことだったかどうか今となってははっきりしない。しかし、今日、最初に島での記録を書くと決めた以上、このことはどうしても記しておかずにはおれないのだ。
 
 そして日記は次のページへと進んでいた。
 
●奇妙なものを発見した。空中でなだらかな曲線を描いたかと思うと、急に真っ直ぐに飛んでいく。まるで鳥のようだ。島民は〝シロチョウ〟と呼んでいる。昼は、あの日、ここへ来るきっかけとなったテレビでも紹介された地面に転がるごみの塊としてあちこちに散在しているが、夜になると、白い羽を広げ舞うような優雅さで飛んでいく。これはガラクタと呼ばれ、最近、一段と増えてきたと、今日、初めて会った男が教えてくれた。これまで仕事上様々なところをボーリング調査してきたが、このような物質は見たことがない。触ってみたが見当がつかず、しかも空を飛ぶなど俄には信じがたい。
シロチョウの鳴き声らしきものがしないかと昨晩耳を欹ててみたが、虫の音一つせず、静寂そのものの夜だった。
そろそろ夏も終わる。テント住まいも今日までということになった。海岸沿いの空き家になった漁師の家を借りることができたのだ。島の者たちは快く受け入れてくれた。慰留祭の期間ということもあってか咎める者もなく代償は一切求めない。それも男が、いかにももったいつけた口ぶりで教えてくれた。彼らに私たちはどう映っているのか知りたい気もするが、知らない方が無難なのかもしれない。
トオルは相変わらず黙っている。波のしぶき、風の音、土の匂い、トオルは何かを感じているはずだが、素振り一つ見せずここでの生活を送っている。六年間、トオルの声を聞いていない私は、せめてこの日記をこれからも書くことだけはやっていくつもりだ。
妻の出ていった日のことを、今はトオルの寝顔の向こうに仄かに思い出せそうな夜だ。いっそ、トオルともども姿を消してくれてたらと、よからぬことまで考えてしまうのは、私が疲れているせいなのか。波音が潮風とともに、いつのまにか降り始めた夜雨にも混ざり、しんみり憂いを湛えている。きっとそんな雰囲気が私を妙な思いへと走らせるのに違いない。
 
●それにしても、あの大きな建物が島民たちが葬られる石棺だとは到底思えない。ガラクタやシロチョウのことを教えてくれた男が話してくれたのだが、私には出鱈目な作り話としか思えなかった。ところが、昨日、この漁師小屋に引っ越して始めてトオルと散歩に出ると、あの石棺の前でトオルの様子が一変したのだ。まるで体ごと吸い寄せられていくようにぴったり張り付いたまま動かなくなってしまった。しかもトオルはそのことに恐れを抱いていないらしく、一心に縋るように自分から壁に頬をなすり始めたのだ。トオルの心理にどんなことが起こっているのか。どうしてあの日以来、言葉を出さなくなってしまったのか。私はそんなトオルを見ながらこれまでのいくつかの疑念が頭を過り、それでもどうすることもできなかった。煩悶がさらに深まっていくようだ。明日もまた、石棺のことは詳しく調べてみようと考えている。私に何ができるかわからないが、今やれることはそれしかない気がしている。
 
●石棺は意外に艶がない。粗い目をしていた。しかし、昨日見たときとどこか違っていた。ここだとはっきりとは言えないが、生き物のように少しづつ変化しているように思えるのは、まんざら私の勝手な錯覚ばかりではなさそうだ。この島特有の風向きの変りやすさから雲の流れの変化も大きく、太陽は頻繁に見え隠れする。そのせいで照り加減も一瞬で変わり、それが影響しているのかもしれない。ついさっき見ていた風景と今目の前にある風景とをつなぎ合わせるのも一苦労だ。私は壁に手を当て、できるかぎり届く範囲に触れてみた。指の感覚を越え、胸の奥へ迫ってくる何かがあるのではと思ってやってみたが、如何んせん私自身、まだ集中が不十分で、経験もたりないようだ。
これほどの巨大な石棺を目の前にすると、こちらが相当強い意志のようなものを持っていないと無残に撥ね返されてしまう気がしてくる。一体何で出来ているのだろう。コンクリートでないことははっきりしてきた。だが、これだけの大きさである以上、特殊な材料を使っていることだけは確かなようだ。
地盤も気になり、手で掘ってみるとガラクタの下の深い場所には土ではなく、硬さも締まり具合も均質な白い物質が地中を覆っていた。これがガラクタを生成しているもとなのか、果たしてガラクタとどんな関係があるかはわからない。ただ、つかみどころのないガラクタの正体の鍵を握っていることだけは確かだろう。
トオルは、今日一日、私と別行動をしていた。島に来て早くも一年がたった。そろそろここでの生活にも慣れてきたころだ。私と一緒でないとき、トオルの身にどんなことが起こり、そして彼自身、何を感じているのか。それがおそらく、これから私とトオルとの先行きを決めていくことになるはずだ。また空中を白い物体が飛んでいる。羽化したばかりのシロチョウだ。
もうじきここも引っ越すことになる。ガラクタやシロチョウの勢いが凄まじく、最近では部屋の中まで転がり込み、飛んできたりするときが増えたからだ。私は既に小高い丘に粗末ながら小さな小屋を建て、完成も間近だ。私が見た限り、そこはおそらくガラクタの密度がかなり濃い場所で、いよいよときが来れば、密かに考えているあの方法で計画を実行しなければならない。だが、今のところ焦らずにもう少し状況を見ていくしかないだろう。トオルが石棺に見せるように私が白い物体を愛せるようになるまでには、当分時間がかかりそうだ。

 そこまで読み終わってから、彼はいつのまにかまどろみかけていた。シロチョウの幻影が意識の中と視界の外を同時に飛び交っていた。ガラクタが命を宿し蠢動を始めると次々羽化が開始される。とめどない数だ。見ているだけで息苦しくなってくる。咳をした瞬間だった。突然、神経を鋭く貫くざわめきが起き、まどろみから覚めた。両耳を劈く音がする。宿のすぐ隣の楼に吊された半鐘が部屋全体を揺るがさんばかりに甲高く鳴っていた。島のどこかで火事が起こっているらしかった。寝ぼけ眼で窓から外を見ると山寄りの方角が赤く照っていた。
 よからぬ予感が走った。
 素早く着替え、マッチでカンテラに火を点けると階段を駆け降り外へ出た。薄暗闇の中で覚束ぬ足取りながらカンテラの光が照らしてくれたおかげで大きな転倒もなく歩けた。それでもガラクタはできるだけ避け、小道の土手を滑らないよう気をつけ懸命に上っていった。浜からの風のため思った以上に湿気があるのか、全身から瞬く間に汗の粒が吹き出し、シャツを湿らした。
 現場が近づくにつれ、辺り一面に焦げ臭い匂いと燻煙のようなものがたちこめていた。鼻孔の奥にねばねばした粘膜が纏いつき、咽喉がいがらっぽくひりひりした。
 奥木の小屋は骨組み一切残さず、見る跡もなく焼け崩れていた。
 回りには、消火活動に携わったらしい島の若い者が数人、そのうちの何人かは彼と同じようにカンテラを手に照明の役を担い、後は燃え滓と赤い火の粉にホースでまだ水を掛けていた。白い粉が、炭化した木切れに吹いていることから、消火には、塩分の多い井戸水が使われたことが察せられた。奥木と息子のことが気になったが、これと言った人だかりもなく、遺体を取り囲んでいるふうでもなかった。彼は、近くにいた照明係の男に訊ねてみた。相手はゆっくり首を動かし顔を向けた。斜め後ろにいた彼の真新しい記憶が脳裡から飛び出した。なんと相手は暮れ方、彼をこの家へ案内した人物だった。消火活動の際の防護服の厚手のフードを被り、わからなかったのだ。
「やっぱり、あんたでしたか」
 厄介なことが起こり始めたことを察知したようなぞんざいな口調だった。
「あの人なら、いませんぜ」
 ぼそりと言った。
「俺たちもすぐに火を消しに来たんだが、もう姿はありませんでした」
 男は、彼が自分たちと同じカンテラを持っていることを訝るように見た。
「奥木さんからもらったんですよ」
 言い訳でもするように答えると、すぐに納得したのか、思い出したように自分の後ろを顎でしゃくった。
「私らが駆け付けたとき、どうしたことかあれだけは無事でしたから、取り敢えず運び出しておきましたよ」
 自転車が奥木の小屋で見たままの状態で一番近くの松の木の横に立てられている。フレームやサドルの表面が僅かに煤けてはいるが、これといった損傷はないようだ。
「こんなこともあるんですね。風のおかげか、うまく火が除けてくれたみたいで」
 彼は、思わぬ贈物に礼を述べた。
「鍵を預かってたんです」
「そうですかい。そりゃあ、よかった」
 男は本来の性格がそうなのか、ようやく人懐っこい微笑を浮かべた。
「ガラクタが増えてからというもの、いろいろ助かってる面もあるもんで、あんまり文句を言っちゃいけねんだが、こいつらを扱うのはなかなか難しいんですよ。なにせちょっと間違えるとあっという間に燃えてしまうんですから。それであっしらも井戸をせっせと掘って自防団をつくったってわけでさ」
 奥木の言っていたとおりだ。
「もし火事になって燃え移れば、島全体にあっという間に広がるのはわかってますからね」
 一見平穏に見えながら、実は怖ろしい場所にいることに、今さらながら背筋に冷たいものが走った。男は、彼がそんな心境であることなど思いもよらないのか、相変わらず平気そのものだ。
「なあに大方、外出でもしてるんじゃないかと思うんですが、小さな島ですよ。騒ぎを聞きつけてそろそろ姿をあらわしてもいいころでさ」
 くよくよしていてもしょうがないとひとまず男の言葉を信じ、親子が帰るのを待つことにした。 
 見物客が一人、また一人と消え最後は彼と男だけになった。不安が過った。もしかして、奥木と息子は実は既に焼け死んでいて、自分はまんまと騙されているんではないのか。この男が最初に言ったように賞品の自転車を手土産に、さっさとこんな島は後にした方がいいような気もしてくる。そんなことを一人考えていたときだった。男が叫んだのは。
    
    四  囲い
「なんて派手に飛びやがるんだ。こんな多いのを見たのは初めてですぜ」
 自分らの今いる場所が、地元の人間さえ珍しがるほどの数のシロチョウに囲まれ、しかもそのほぼ真ん中にいることを知った。
「空がぎっしり埋められてる感じですね」
 彼は、改めて頭上を眺め唖然となった。
「こっちの気苦労も知らないで。ただ飛んでりゃいいんだから暢気なもんですぜ」
 皮肉を込め苦笑する男のことなど眼中にないようにシロチョウは二人の灯すカンテラの明かりを浴びながら一層優雅に大きく羽ばたきし、雲の群れと思えるほど犇めいたかと思えば、蒼白い燐光を風紋のように周囲に広げ、二人の上にも遠慮なく白粉を振りかけてくる。
 明け方近くまで待ったが、ついに奥木と息子はあらわれなかった。シロチョウは辺りが白んでくるにしたがい嘘のように影を潜め、再び固い殻で被われた蛹に戻ったように元のガラクタに姿を変えてしまった。
 彼は、日記の中で緘黙の息子が石棺を見たときの行動が気になり始めていた。彼自身、あの強大な建物に確かに奇妙な力を感じないわけではなかったが、むしろそれより、男が言うようにもし本当に島民の共同の墓なら、どのように死者が葬られているのかをこの目で見てみたいと思った。
 一旦男と別れた彼は、自転車のハンドルにカンテラをかけ宿へ戻った。サドルやペダル、それにハンドルの大きさや位置がまるで計ったように彼の体にぴったりし、心地よかった。坂道や急な下り道でも膝や腰に負担なく、ひと掻きひと掻きが快適に漕げる感じだ。
 宿に戻った彼はノートをリョックに詰め、再び自転車で外へ出た。できるだけシロチョウの寄り集まった場所を避け、道の中央をバランスを取りペダルを動かした。タイヤの突起部が路面をしっかり捉え安定している。
 せっかく付いているナビのスイッチを入れてみた。現在地を中心に島全体の俯瞰図が見えた。島の形は出発前に確かめたとおり、港とは反対方向の南の下方に東西両翼へ延びた細長い岬とその間に波の浸食で幾重も襞を形成し湾曲した崖が続き、不格好な背鰭と尻鰭で漂うマンボウのようだった。 
 青白い液晶の数値とともに入力画面が、上部に浮かび上がった。
 試しに行き先に『石棺』と入れてみたが何の反応もない。やはりだめか。諦めかけたが、だめもとで『墓場』と入れてみると一瞬で画像が島の拡大図へ変わり、道順をオレンジがかった点滅の光で表示し始めた。彼はそれに従い進むことにした。心強くなっただけで肉体の疲労度が減ったように思える。ガラクタもうまく避けれて無駄な動きが節約でき、石棺までの距離が昨日歩いた時より随分、短く感じられた。
 海岸へ出ると石棺は静かに潮風を受けていた。
 これもまたナビゲーターの指示に従い、右周りに自転車で走ってみた。
 石棺は改めて眺めると高い壁のせいで上空との切れ目がはっきりせず、一体自分がどの辺りを走っているのかさえわからなくなるほどだった。しかも海の稜線の彼方から射す朝日のせいで風景が壁と混ざり合い、まるで自身が石棺の中にいるようにも感じられてくる。時折り自転車を止め触ってみると、奥木のノートに書いてあった生き物のような感触こそないが、共同墓地ならではの古い歴史めいた厳かさが伝わってき、明らかに昨日より親近感が増してきているようだった。
 やがて半分に差しかかろうとするとき、突然ナビから石棺の周りから一旦離れ、ガラクタの中を直角に走る表示が出た。彼は念のため自転車から降り、その場に踞みガラクタをゆっくりと手でどけてみた。下からは次々と同じガラクタが姿を見せている。
「どうせこの下もガラクタだ。落ちることはないだろう」
 自転車に飛び乗るとナビの指示通り中を突っ切ってみることにした。
 不思議なことにタイヤは嵌まり込むこともなく、多少ハンドルをふらつかせながらも無事、反対側の道まで出ることができた。石棺は微動だせずそんな彼のあられもない行動をじっと眺めているようだ。朝日が肩口へ上り、冷えた体に熱をもたらした。
 そのままガラクタの中をゆらゆらとペダルを漕いでいたとき一つの影が近づいてきた。よく見るとこちらに手を振っている。彼は踵に力を込め踏み込んだ。顔はほどなく見覚えのある輪郭になり、さっき別れたばかりの男であることがわかった。
「どうも、気になりましてね……」
 男は、いかにもバツがわるそうに眉間を顰めた。
 まさかナビが、この男との再会をさせるため表示したのだろうか。
 高度な機能に恐れ入りながら、ここへきてからの簡単なあらましと、ガラクタが地下から次々と湧き出ていることを話した。男は、実は昨日はたまたま彼を見かけやって来ただけで、普段は慰留祭以外、来ることはなく、目を瞠るばかりのたくさんのガラクタや石棺に、改まってどう対処していいかわからない様子だった。戸惑いの色が表情の至るところに滲み出てき、それでも、自転車で石棺の方へ戻る彼に合わせ、一緒に道を辿っていくうちに徐々にいつもの態度、なかんずく最初に出会ったふてぶてしい顔付きへと変わっていった。
 石棺へ帰り、間もなく半周になろうかとしたとき、少し先を歩いていた男の声とナビの到着の音声とがほぼ同時に耳に飛び込んできた。
「見覚えのある人がいますぜ」 
 奥木だ。息子はいず、一人凛然と立っていた。意表をつかれ動揺を隠せずいる彼に、奥木の方が言った。
 ─君は、日記の感想をまだ話してないね。
 その声は、昨日ほど慇懃さはないものの、相変わらず独特の低い声だった。彼は、答えるより先にいろんなことをまず訊ねてみたかったが、それを抑え「まだ最後まで読んでなくて」自転車から降りながら、慎重さを失わないように控えめに言った。
 奥木は軽く首を振り、そんなことじゃないと言いたげに深くうなだれ、後ろを振り向くと石棺へ消えていった。それはまさしく、壁に吸い込まれていくと言うのがぴったりな去り方だった。   
 彼はただ茫然と見送りながら、その場に立ちつくしていた。
「今のは一体何なんです? 一言もしゃべらず、黙ったままでしたけど」
 男が訊ねた。どうやら奥木の姿は見えても、声は聞こえていないらしかった。
「さあ」
 奥木が発した言葉をいちいち説明するのも面倒で、相手に合わせるように釈然としない口振りで答えた。
 彼は、早速、リュックからノートを取り出し、昨晩の続きを開いてみた。
「じゃあ、俺はちょっと、そこらを見てきますよ」
 男はそんな彼を相手にしないように、さっきまでの怯えはどこへやら、まるで自分の家の庭でも散歩する口ぶりで、勝手に一人で歩き始めた。
 日記の内容はこうだった。
 
●昨日、日が暮れても戻らなかったトオルを捜しにいった。これまで遅くてもせいぜい道の見通しの効く時刻までには帰って来ていたが、こんなことは初めてのことだ。見当がつく場所が一つだけあった。波の音に包まれ、ガラクタに囲まれ島民たちが葬られていく場所。未戒塚を初めて見たときのトオルの様子が何より気になっていた。
私は矢も楯もたまらず急いで海岸へと向かった。 
石棺の周りを四分の一ほど歩いたときだ。
─あなた、やっぱり、来たんですね
 それは久し振りに聞く妻の声だった。多少、透明感が増したものの、包容力のある声質に変わりなかった。私は意外なほどに落ち着き、平静を保つことができた。
─この島のことが、よくわかりましたね。
私はトオルが妻の失踪後黙ったままであることと、突然、不意に漏らした言葉がこの島の名前であったことを説明し、
「あの子がいないんだ。今、捜しに来たところさ」
藁をもすがる思いで聞いた。
彼女はそれには直接答えず、ただにっこり微笑み、一言だけ「大丈夫です」と言った。
私は胸をなでおろし、深い息をした。
「なぜ、君はこの石棺に」
ようやく落ち着きを取り戻した私は、単刀直入に訊ねていた。
─理由は言えません。でも心配しないでください。いろいろ考えてのことですから。
「そう言わず、ぜひ聞かせてくれないか」
私はどうしてもはっきりしたくて、もう一度訊ねずにはいられなかった。
─私の右手はもう思うようには利きません。
「やっぱりそれだったんだね」
私は、できるだけ相手を刺激しないよう気をつけた。
いよいよ核心に迫るときがきたような気がし、勇気を出して訊ねた。
「君は、この島で生まれたんだろう」
─そうです。
石棺を目にしたときのトオルの様子が、それでようやく納得できた気がした。
─さっきも、言いましたが、あの子は、大丈夫、です……。きっと…あのたの…もとへ…。
声が次第に小さくなった。
私は、聞いてはいけないことを聞いてしまったのではと一瞬後悔したが、すぐに気を取り直し「いつ帰るんだい」やはり、返事はなかった。
相手はもう、遥か遠くへ行ってしまったような気がした。
その後、私はひたすら歩き続け、いよいよ一周終わろうとする頃、トオルが呆然とした様子で壁際に立っているのを見つけた。私はトオルの名を叫んだ。今まで家にいるときも、また、この島に渡ってきてからもそんなに子どもの名前を必死に呼んだことはなかった。妻と同じようにトオルもまた、すぐに消えてしまう気がしたのだ。相手はキョトンとした目を向け、歩み寄ってきた。私は両手で力一杯抱き寄せ、いとおしさに涙が止まらなかった。トオルはそんな私の腕の中にいるときも時折り振り返り、石棺の方を瞬きせず見つめていた。
   
    五 メンブレ
 彼は静かにノートを閉じるとリュックに仕舞い、ハンドルを強く握りしめ、サドルに跨った。
石棺では奥木が妻の声を聞き、彼自身も壁に消えていく奥木本人と出食わした。石棺が墓場のようなものだとは思っていたが、ただそれだけではないことは確かなようだ。こちらのやり方次第では少年にも会うことが可能なのではないか。そんな希望のようなものが湧いてきた。この石棺のどこかで、なんらかの交信を行うことができれば再会できる、そんな気がしたのだ。
 ナビに「トオル」と名前を入力してみた。ほんの僅かな間があった。オレンジの光は石棺の俯瞰図を映し出し、まるで見取り図のような正確な建物や道の配置の中に鮮やかな光線でルートを照らし出したのだった。それは今ハンドルを向けているのとは反対の方向だった。そちらへ行けばいるのだろうか。彼の胸は一気に跳ね上がった。
 自転車の向きを変えている時、さっきまで一緒だった男のことを思い出した。彼は男の名前を聞いていなかったことを悔いた。ナビに何と入力すればいいのか。試しに「出会った男」や「自防団の男」と入れてみたが何の反応も示さなかった。胸騒ぎがした。それでもそれを抑え込みながら、とにかく今はトオルを探しにいくしかない、そう決意し、ペダルを強く踏み込んだ。
 ナビの示す方へ石棺を回り、三分の一ほど来たと思われる頃、到着を知らせる音声とともに見覚えのある影がそこにいた。
 トオルだった。
 微笑んでいた。彼は内心、ドギマギしながらも、できるだけ戸惑いを隠し丁寧に聞いた。
「おじさんを覚えているかい。君と会うのは、これで二回目だけど」
 表情に変化はなかった。沈黙がしばらく続いた。立ち去る気配のないかわりに、こちらへ話しかける希望も持てそうになかった。どうしていいのか迷い、結局、諦めきれず相手の方へ近づこうとしたときだった。
─来なくていいよ、おじさん。
 彼が初めて聞くトオルの声だった。
─僕はしゃべれるんだよ。だからそこにいて。
 彼の体に強い衝撃が走った。だが表に出さないよう気を使いながら、何食わぬ顔で訊ねた。
「いつから、しゃべれるの」
─ずっと、前から。
 屈託のない返事だった。
「ずっと前って、君はカンモク……」
 視線を逸らすと、顔を横に向けたまま含恥むように微笑んだ。
─あれは、全部、嘘。
「嘘?」
─そう。
 正面を向き直り、大きく頷いた。
─お父さんが、僕に黙ってろって言ったんだ。そうすれば、お母さんに会えるからって。
「お母さんに」
 さすがに声が大きくなった。
─そうだよ。
 さも当然のように答えた。
─たしかに、僕は、お母さんがいなくなってから言葉を話さなくなったよ。三歳のときだったけどあの感覚は今でも覚えてるさ。目の前がいつも同じ景色で動かないんだ。鉛色の重たい空や雲に囲まれているようで口を開くのも億劫で。学校へ行くようになってからも誰一人とも話す気なんか起きないし、もちろん父さんとも話さなかった。でも、そのうち少しずつ回復はしてきたんだ。景色に色が混ざりだし、変化が生れ出したんだ。そしたら自然と言葉も出るようになって。そんなとき、父さんが、島へ行こうと言い出したのさ。そこへ行けば、母さんに会えるって。それで僕も、嬉しくなって喜んでこの島へやってきたんだ。
 話は、まだ先へ続いていた。
─島へ来て一週間ぐらいたった頃だったかな。父さんが僕に、急に言葉を話すなって言ったのは。この島の石棺の周りを歩いていたら母さんに会った。絶対に母さんは石棺の中にいる。だから言葉を話すなって。父さんは、母さんがいなくなったのは、右腕が不自由になったことが原因だと言っていたんだ。それで母さんは、自分の生まれ故郷に帰って、治療してるんじゃないかって。この石棺はそんな場所のような気がする。それでお前も言葉を話さなくなれば、この石棺へ入れるって真剣に言うから。父さんはもう僕がずっとしゃべれないでいたように日記も書き換えてるっても言ってたよ。それで僕も母さんには会いたかったから、しゃべれない振りをしてきたってわけさ。実際に経験があるから、前よりもよっぽどうまくできたんじゃないかって思っているよ。おじさんも、まんまと騙されたね。
 彼にはしかし、今話していることのほとんどが信じられなかった。
「だとしたらお父さんが書いていた日記には、かなり嘘があるってことだよね」
 疑問は次々と湧いてくる。
─あんなもの、適当にでたらめを並べただけさ。だって父さんも後で必ずここへ来るって言ってたくらいだし。
 トオルも素っ気なかった。
「それで、君はお母さんに会えたの」
 顔色が一瞬で曇り、額から頬にかけ血の気が失せたように土気色になった。体も微妙に震えてだしているようで、今にも支えを失くし、前のめりに倒れそうだ。
「会えなかったんだね」
 それには答えずゆらゆらと後ろを振り返り、そのまま石棺の壁の向こうへ吸い込まれるように消えていった。彼はトオルがいなくなり、しばらく一人その場に佇んでいた。
 そうだ、あの男もトオルと同じように既にこの壁の向こうに消えてしまっているのかもしれない。
 入力しても行き先を示してくれぬナビに苛立ちながら、地団駄ばかり踏んではいられないと気を取り直し、闇雲にあちこち自転車を漕いでみたが、やはり見つけることはできなかった。
 いつの間にか壁の向こうへ人が消えていっていることを奇異に感じず認める自分がいた。彼は、目の前で起こった出来事を一つ一つ繋ぎ合わせ、幾分肯定する口ぶりで反芻してみた。何人かが目の前に現れ、そして、何人かが石棺へと消えた……。
 トオルの言ったことを思い返していた。
 少年がずっと前から話せたこと。父親が強制し黙らせていたこと、それが仮に本当だとしても、あの日記だけは出鱈目とは思えなかった。遣る瀬ない思いのまま、またノートをリュックから取り出すとぺらぺららと捲ってみた。だがこれまで読んだ以上の真新しい箇所は見当たらなかった。
 彼は、今自分が石棺の前に来ていることを新ためて思い返し、もう一度、壁を見上げた。
最初の威圧さはなくなり、記録にも書いてあるように確かに表面に微妙な変化が生まれてきているようだ。人を呑み込みながら近しい物へと変貌しているのだろうか。彼は、静かに息を殺し、誰かが壁の向こうから姿を見せないか期待した。静かな波音だけが体をつつみこむように耳朶を振わせてくる。
 何時間たっただろうか。やはりただの一人さえ、姿をあらわさなかった。  
   
    六 フリ素
 ネットに出ていたクイズに答え、彼はここへやってきた。そのクイズとは、数値上は沈下しているにもかかわらず微少な隆起を取り戻す島とそこで暮らす住民の様子に絡んだものだ。島に到着するや、巨大な円筒の石棺とガラクタを見つけた。ガラクタが地下から次々と湧き上がってきていた。
 まるでここが、クイズに登場している島そのもののようだ。
 自分自身が、いつのまにか本題のクイズの渦中にいる気がしてきた。
 ふと、他の住民のことを知りたいと思った。奥木の小屋が燃え、親子がいなくなったことを一体、どう受け取っているのだろう。彼が知っている限りでは、自防団の男たちも坦々と消火活動を行っていたし、石棺に消えた男にしろ、ほとんど気にもかけていない様子だった。
 さらに疑問に思うことがあった。
 それは、島で会う人間に高齢の人間や子どもがいないことだった。宿の主人も、奥木やその家族、もちろん自防団や消えた男も彼と同じくらいの年齢の者たちだった。たまたま、彼がこの島に来てまだ二日足らずで、会う相手が限られているのが理由とも考えられたが、過疎地で子どもが少ないのなら、高齢者はむしろ目立っていい筈だ。
 何か、この島では辻褄の合わないことが多すぎる。
 彼は思い切って宿の主人に聞いてみることにした。
 主人もやはり年齢は彼よりやや上といった辺りで大柄ではあっても、いかにも人当たりの良さそうな柔和な顔をしていた。
「今、海岸に行ってきたんですが」
 主人は額に汗を光らせ、調理場から姿をあらわした。
 島の様子について二、三質問した。
「大方年寄りは、家の中にでも引っ込んでるんじゃないのかな」
 主人は、首にかけたタオルで額から頬にかけ汗を拭きながら答えた。
 もしかしたらと思い、道案内してくれた男のことも話した。
「その男だったら知ってるよ」
 主人はニンマリと笑った。
「そいつは母親と二人で住んでいる。確か父親は幼い時、島を出て行ったんじゃないかな」
 彼は、ついでに奥木の妻のことも訊いてみた。最近、この島出身で右腕が不自由になり戻ってきた女性を知らないか。だが、主人はそれには無言で首を振った。
 男の家に行ってみたいと思い、食事を済ませると主人に家までの道順を教えてもらい、出発した。
 家は意外に宿から近い場所だった。一旦、すぐ前のガラクタに囲まれた小高い土手を上り、そこから蛇行する小道をたどりながら進み、また新たな土手を上がって行かなければならない。
家が近づくにつれ、男の母親にまず何から切り出すべきか悩んだ。息子が未戒塚に消えてしまったことを知れば、さぞ悲しむだろう。 
 細い道を歩き切り、土手を右へ回ったわりと高い位置に古い屋敷の家はあった。ガラクタの数は気のせいか少なくなっているように思える。
 母親らしい老女が歴史の教科書に出てくるような木製のブリコで筵に広げた乾燥した豆の殻を剥いていた。母親の巧みな動作でブリコは唸りを上げ、脇から耳元へ瓢箪型の線を描き筵に着地すると殻を飛ばした。時々、荒い息が咽喉奥から漏れてくる。その様子を見、年寄りがいないという憶測は自分の思い過ごしではないかと思った。
一仕事終わったタイミングで声をかけた。
「息子さんのことできたんですけど」
「はあ…」母親は手拭いで首元の汗を拭きとり、不審そうに彼を見た。どうやら耳が遠いらしい。
「あなたの、むすこ、さん、ですよ。自防団に、入っておられる」
「はあ、はあ」
 一語一語、耳元で区切るようにはっきり言われるとやっと通じたらしく、背中をよいしょと一度だけ伸ばし、家の中へ招いてくれた。大黒柱が一本、奥座敷の手前に立ち、数本の間柱に梁を組ませ屋根が敷いてあった。全体に目立った調度類はなく、主人が教えてくれたように息子とのつましい暮らしぶりが伝わって来た。縁側から外を覗くと、確かにそこが島の中腹に位置するのか、彼が泊まった宿も、今、来たばかりのガラクタの道もきれいに見渡せた。そして驚くことがあった。海岸にキラキラと雲母のように光る円筒のものがあった。
─石棺だ。
 彼は、思わず小さく声を出した。
「イサオが、どうかしましたか」
 石棺に見とれていると母親が茶器を出しながら、訊ねてきた。
「いえ、それが……」
 彼は男の名がイサオであることを初めて知った。それでもどこから切り出すべきか迷った。母親はそんな躊躇を見抜いたように今度は畳の上をにじり寄り近づいてきた。彼もようやく覚悟を決め、昨夜の話をした。
「ここから見えますよね、あの石棺、ええと未戒塚、ですけどね。あれを、私と、一緒に、調べてたら、消えて、しまった、んです」
「え?」
 動転しながらも、すぐに「そうですか……」諦めたように掠れた声を絞り出した。
「お母さんも、もちろん、未戒塚のことは、よく御存じ、でしょう」
「さあ、慰留祭の他はあんまり行かないしね」
 それからの母親の態度はどこか邪険で、言い放つような受け答えも目立ち、最後には顔を伏せ黙り込んでしまった。明らかに動揺を隠しているようだ。彼はひとまずそこを去り、もう一度奥木の火事場を見てみることにした。
 昨晩は、人目も気になり詳しく調べられなかったが、今なら焼け落ちた小屋の下を棒きれでほじくってでも、何かヒントが見つけだせる気がした。
 到着するや、彼は黒炭になった木切れを両手でどけてみた。既にその下には新しいガラクタが顔を出している。彼は、掌に拾うといつもの癖のように指先で撫ぜてみた。時間がたつにつれより一層、手に馴染む感触が生まれてきていた。彼は、棚が在ったと思われる辺りを捜し始めた。三十分ほど物色しただろうか。カサカサに黒ずんだ紙片の燃え滓のようなものが出てきた。それは、ほんの一枚だけ周りの表紙やページに守られ、奇跡的に残ったといってよかった。
 そこには、つぎの一文を読み取ることができた。

  【お父さんに内緒でクイズを出しておいた。解答者が来たら教えろ。ガラクタは死だ】
   
    七 微レ存 
 その夜、宿で寝つけず、彼は布団から起き窓の外を見た。秋の虫の音がビブラートをかけながら四方から聞こえてきた。頂度、目の前の土手をつづら折りに上がっていけば男の家があるはずだった。シロチョウが翔んでいる姿は今のところない。おそらく発光の作用も外部からの何らかの刺激がないとさほど効力を持たないのかもしれない。
 溜息を一つつき、何気なく視線を落としたときだ。
 ガラクタとガラクタとの間に、明かりそのものは小さくても光源のはっきりしたいくつもの連なりが動いていた。ゆらゆら左右に揺れ、それでもその一つ一つの間隔は一定し、バランスのとり方から随分馴れた足取りであることがわかった。海岸へと向かっているようだ。こんな時刻に何だろう。
─慰留祭……。
 これまで島に来て何人かの口から聞いたことを思い出した。
 彼はさっそくカンテラに灯をつけ、階下へ降りると後を付けてみることにした。
紛れ込むと言っても顔を見られるのはさすがに気が引け、できるだけ距離をとり、動作は目立たないよう気を配った。足音も小さくし、間違ってガラクタを踏まないよう注意した。
 まさかこんな真似をしなければいけなくなるとは。
 彼は巡り合わせの因果を恨んだ。失業した日、酔いつぶれ眠ってしまっておけばこんなことにならなかったのに。苦笑が自ずと口元から漏れた。
 石棺に着いた。
 既に多くの人が来ていた。
 老若男女入り混じった声がする。彼はカンテラを持ったまま顔は俯せ気味にし、島民たちの様子をさりげなく監視した。ときどき道脇のこんもり盛り上がった場所へ移動し、ガラクタの陰に身を隠したりして、全体の様子を見ることも忘れなかった。東西南北の道が一本になるのか左下の同じ方から島民が次々とやってくる。額から頬へ汗が一筋流れた。
 一体、この島のどこにこれだけの人たちがいたのだろう。彼は改めてその多さに目を瞠らずにはいられなかった。
 やってくる人たちは皆、奥木が言っていたガラクタを細工したカンテラを手にしている。明かり口の形状がバラバラなので光の発し方も微妙に違い、石棺に近づくに従い様々な模様の陰影をつくり、生き物が静かに呼吸しているようにも見える。
 だが、驚くことはそれだけではなかった。
 道と交差し合う石棺の手前にリヤカーや今ではめったに見かけない大八車が並べられ、種々雑多な品物が置かれていたのだ。島民たちは、そこからお参りの前に何か必ず一品選んで持っていっている。
 土手から降り、さっそく彼も間近で見てみた。
 リンゴやミカン、大根、茶碗に盛られた白米や玄米に犬や猫がほぼ実物大につくってある。箸に小皿、大皿の食器類、松葉杖に義足や義手。粉状に瓶詰めされた薬めいたもの、額縁、蝋燭、線香に鉛筆やペンなどの筆記類。さらには大型のものでは棒状のもので組み立てた椅子やテーブル、祭壇まである。だがその一つ一つをよく見ると材質はあのガラクタなのだった。
 参拝の様子もそこから充分に窺えた。
「母ちゃん父ちゃん、本当にすまないね。でも、おかげで元気にやってるよ。ほら、飯を食うとき使ってくれよ」
 石棺の手前で親子がひれ伏すようにしてガラクタでできたスプーンを壁に向かって渡しながら、涙声で詫びている姿があった。
 彼は息をのみ、思わず出そうになる声を抑えていた。なんと差し出される品々だけが壁の中へ消えているのだ。あの硬い壁のどこに透過性があったのか。供物だけがいとも簡単に吸い取られていっているのだった。
 彼はそっと人気のない石棺の場所へ移動し、足元に落ちていた素のままのガラクタを壁に押し当ててみた。右手で思い切り押しつけても反応はない。そこで今度は、ぎりぎりと捻じってみた。ガラクタはへし曲がり、あっけなく壁の圧力に阻まれ跳ね返されてしまった。
となれば、人の手によって一旦細工されたものだけが通過できるのだろうか。
 参拝者にまみれ、大八車から額縁を持ってきた。そして念のため拝むように奥木の名を小声で呼びながら、そっと壁に向け差し出してみた。最初は額縁や握っている掌にも変わった感覚はなかった。ところが額縁が壁から数ミリになった途端、無重力のように指先からスッと離れるとあっという間に吸い込まれてしまったのだ。
 彼は虚をつかれたように愕然となった。
 石棺は捧げられた供物を内部に溜め込むことで、これだけ大きな塔へ変貌してきたのだろうか。とすれば慰留祭は、石塔を維持するために必要不可欠な行事ということになる。
 憶測から確信へ、自分のこれまでの考えが徐々に固まってきている気がした。
 そんな彼と関係なく、石棺への参拝客は絶えなかった。彼はいつまでも続くその列を固唾をのんで見守った。
「お前の足はどうだい。少しは歩けるようになったかい」
 松葉杖を持った父親が娘らしき相手を気遣っていた。娘は両足が不自由らしい。松葉杖はまた壁の向こうへあっけなく吸い込まれていった。
「俺もそろそろそっちに行こうと思ってる。子どもたちが帰ってくれるそうだから」
 別のところでは老いた夫がその妻に話しかけ「寝たきりじゃ、辛いことばっかりだろうしね。せめて島のためになってくれて助かってるんですよ。はい、これに座ってね」その隣では娘夫婦が椅子をすすめ、父親を気遣っていた。
「ガラクタが増えてきてから、島は潤ってるんだ。いろんなものをつくるのに便利だし。第一、島が沈む心配がなくなったのが何よりだよ」
 ほんの目と鼻の先の情景が、幻燈のようにどこかぼんやりしている。声だけが、すぐ傍で聞くようにはっきりしていた。
 夫が嬉しそうに妻の言葉を継いでいた。
「島の囲りの棘のような入江も今じゃなくなってな、とても歩きやすくなってるよ」
 喜びに打ち震えているようだ。
 そのときだった。
「イサオどうして」
 怒気を含んだ男の母親の声が、割り込むように聞こえてきた。
「未戒塚のことを調べたんだってね。そんなことしちゃいけないってずっと言ってたのに」
 消えた相手がそこにいるらしい。
「本当になんてことをしてくれたんだい。もう少しすりゃ、母ちゃんが行くつもりだったのに」
 母親は家で見せたように俯き、大きな溜息をついた。それでもしばらくすると諦めがついたのかゆっくり顔を上げた。
「でも、小さいときから、あんたよく、いなくなった父ちゃんが中にいるんじゃないかって言ってたもんね。だから仕方ないかね」
 自分自身に言い聞かせるように囁いた。
 別の場所からもひそひそと話しかける声がずっと続いていた。啜り泣きともつかぬか細い声がいつまでも糸を引くように鼓膜をじんわりと満たすときもあった。
 またしても母親が壁をじっと見つめ、呟いた。
「奥木さんも、あんな無茶しなけりゃよかったのに。でも若いとき、この島が嫌だって出てったエミコさんが急に戻って来て、あの人も後追うしかなかったんだろうね」
 やはり奥木や妻のことも知っていたらしい。言い終わるや手を合わせ深く首を垂れた。
 人々は石棺の前で囁くように語り、供物を捧げ、些細な日常の報告を済ませるとまた来たときと同じ足取りでカンテラを揺らし帰っていった。
 見るとリヤカーや大八車に乗せられていたガラクタ細工の品物もほとんどなくなっていた。
 最後の灯りが消え、一人もいなくなったとき、辺りには静寂が立ち込め出した。暗澹とした闇の中、それまで無難に距離を取りながら観察していた彼は、ようやく石棺へ歩み寄った。
 石棺は昼間以上に上方になるにしたがい輪郭がぼやけ、がらんとした夜空の空洞へ溶けてしまっているようだ。
 彼の目の前に一人の影が浮かんだ。
 奥木だった。

    八 無理ゲー
─さっきは額縁をくれてありがとう。
「通るかどうか試しただけさ」
─でも、本当にうれしかったよ。
 やけに慇懃に礼を言う奥木に、もう少し理由を聞くべきか悩んだが、あまりそちらに話題を移す余裕もなく本題を進めた。
「やっぱりここにいたんだね」
─帰る場所だからね。
 彼が妙に納得し、黙っていると奥木が反対に畳みかけて来た。
─それにしても、けっきょくは君も来たんだな。
「そうだな。じっとしているわけにはいかなかったし、僕にとってもここは君と同じ探すべき場所だったんだと思うよ」
─だろうな。
「ところで、ここは本当に墓なのかい」
 どうしても聞かずにはいられなかった質問をしてみた。
「いいや、ちょっと違うな。死者だけがやってくるわけじゃないから。ときには生者もやってくる。つまりいろんな人間がそれぞれ一人でひっそりやってきては中で暮らす、君の今いる場所とは別の空間と言った方がいいのかもしれない」
「だとしたら、君たち家族も石棺の向こうで別々に暮らしているの」
 彼は、自分なりに考えついたことを言った。
─その通りさ。ここでは皆、一人で暮らしてる。どうやら一度石棺の中へ来てしまえば、入っている者同士は二度と会えないし、接触できない仕組みらしいんだ。ただし、こうして外の人間とは話すことはできる。その気になれば。
「じゃあ、息子さんとも会ってないんだね」
─そうさ。トオルやエミコとも。
「息子さんは、本当はしゃべれたんだろう」
─それは私にもわからない。
 奥木は幾分、考え込むような籠り気味の声になった。
─だけど、誓ってもいい。私の前では本当に話さなかったんだ。……けれど、あの子からすれば、事実はそうじゃなかったのかも知れないな。
 自信なげで、どこか後悔する口ぶりだった。彼は奥木の予想以上の落胆ぶりから緘黙の強制の有無については聞かなかった。
「この島のことなんだけど」彼は続けた。
「君は、僕が来ることもわかっていたんだろう」
─もちろんだ。
 奥木は頷いた。
「そして家を焼き、この島を、いや、あのガラクタやシロチョウを燃やそうと思った……だけど失敗した」
─そうだな、でも、正確にはちょっと違う。
 奥木の顔が心なし天を仰いだ。
─途中でやめたのさ。無理だと思ってね。それに……。
やや間を置いた。
─燃やすことは、自分自身を消滅させることだと気づいたんだよ。
 返事がどこか正鵠を射ているようで怖くなった。それで幾分気分転換も兼ね、話題を変えてみた。
「奥さんはどう思っていたのかな。この島やガラクタのことを。息子さんも夕方、石棺にいたんだけど」
─さっきも言ったように石棺の中では、たとえ家族でも会えないし触れることもできないんだ。ただ何となく互いの存在はわかることはできる。それだけさ。
 またもうまく躱された気がし、向こうのペースに嵌まらないよう矢継ぎ早に聞いていった。
「男が、やってきただろう」
─知ってるよ。君もノートを読んで薄々気づいただろうが、実は私にこの島で初めて話しかけてきたのも、彼だったんだ。
「あの男は、一緒に石棺を調べていて消えてしまった。さっきも母親がお参りに来ていたけど」
─ああ、そうみたいだな。ぼんやりとはわかる。でも何度も言うように、中にいるもの同士は会うことも話すこともできない。
 奥木は、それしか答えようがないように繰り返した。
「さびしい世界だな」
─やっと出たみたいだな、君の感想が。
 何気なく言った一言が、実は自分のクイズへの解答だったことを不意に指摘されたようで、困惑した。だが、それも仕方ないと心を決め答えた。
「そうだね。そう受け取ってもらっていい」
─なら、残念ながら不正解だ。自転車はやっぱり返してもらわなきゃいけないかもな。
 奥木の顔が曇り、体全体が蜃気楼のように霞んだ。
─君はもしかすると、ここが姥捨てか人身御供の果てのようなところとでも思ってるんじゃないのか。
「そうだな。それに近い所かなって」
─それはまったくの誤解だよ。ここはとても穏やかで落ち着く所なんだ。人に会ったり触れないからと言ってさびしいことはなんにもない。会いたければ向こうからやってきてくれるし、現に 君だって、今こうして来てくれたじゃないか。
 奥木にそう言われ、それが相手の本音なのか判断しかねた。
「老人たちも、石棺へ消えていってるんだね」
 相手がどのような思いで言ったにせよ、今さら自転車を返したくない一心で話題をそちらへ逸らした。 
─自分から進んできている人も多いんじゃないかな。
「どうして」
─わかりきってるだろう。島を沈めないためさ。
「……」
─そして、どうなるかわかるか。
 容赦ない奥木の質問に、今度は彼が戸惑った。
─ガラクタが生れるのさ。
 風が、相手の言葉に歩調を合わせるように耳元で唸るような不吉な音を立てた。
─君も今のままだと石棺にくることになるかも知れないな。
 奥木は、当然のように言った。
─私の記憶が君の記憶になったんだからね。
 すぐにピンとこず眉間に皺を寄せた。
─君は、私さ。
 あっさりそう告げられ、彼はたじろいだ。
─君は最初から私を求め、この島へやってきたんだよ。君が今まで見たり聞いたりしてきたものは、私が自分の目で見て疑問に思ったものとまったく同じさ。今、石棺の内側から見える風景も、地面を埋め尽くすガラクタや宙を舞うシロチョウも、それらを必要としてるのは島民なんかじゃない、君自身さ。
 心臓の鼓動が早鐘のように鳴り、全身を震わせた。
─あの日記を書いたのも私じゃない。本当は君自身なんだからね。
 奥木の声はまるで森で聞く木霊のように響いた。
─あのクイズをつくったのだって。
 止めを刺すように彼の眦を凝視した。そして最後にポツリとつぶやいた。
─もう、いるのかもな。君も、私と同じ石棺の中に。
 彼は、二日前のことを思い出していた。
 その晩、スマホでクイズを初めて見たときのことだ。
 あの日、彼は、一年間勤めた非正規の冠婚葬祭の会社員を期限切れで解雇されていた。その前には、自転車工場の部品製造の工員を同じく一年で辞めさせられ、さらにその前は工事現場のボーリングの現場作業員の助手をやり、それもわずか半年の短期採用で終わっていた。そんなことが立て続けに起こる生活に嫌気がさしていた彼は、その憂さを晴らすかのように、それまでの職場を架空の〝島〟に例え、自分が実際に感じた会社や工場内の問題をアレンジし、クイズをつくり、登録しているアプリのSNSで流したのだ。同じような境遇の者からの反響は予想を遥かに超え、瞬く間にたくさんのコメントや回答が寄せられ、同時にシェアも拡大し、彼自身、怒涛のようにやってくる不特定多数の相手との解答をめぐってのやりとりの結果、憶測や風潮、都市伝説からホラーまがいの怪奇譚まで、いろんなものをミックスしながらより架空の物語に仕立て上げ、上書きを繰り返すうちに、ついにはガラクタという得体のしれぬものまで登場させる運びとなり、シロチョウへの変態や石棺や未戒塚までクイズの要として取り込んでいくことで、今ではもうクイズそのものが生き物のように勝手にネット上を動いていく状態になっていたのだった。
 奥木から知らされた今さらながらの顛末に、自分で蒔いた種とはいえ眩暈がし、全身から力が抜けた気になった。
 壁が一挙に眼の前に迫り、無限に広がっていくようだ。
 奥木が言ったように、既にそこは壁の中なのかも知れない。中心部へ体ごと吸い寄せられ、より奥へ奥へと引き込まれていく。
─おじさん、だめだよ。お父さんの話にのっちゃ。お父さんはもう僕のお父さんなんかじゃない。ガラクタもシロチョウも死そのものだよ。
 トオルの声がした。
「今さら何を言うんだ。お父さんの見破った通りじゃないか。君だって結局は僕自身で、あの燃え残りの紙切れも何もかも」
 遠くなる意識の中で、彼は喉から振り絞るように答えていた。
─おじさん、それは違うよ。確かにお父さんも僕もおじさんの中にいる存在かもしれない。でも、あの燃え滓に書いてあったようにクイズを出したのは僕自身だし、おじさんに真実を伝えたかったからそうしたのさ。おじさん、だからおじさん自身の力で、どうにかしておじさんのつくりだしたこの島に火をつけて燃やして欲しいんだよ。ガラクタやシロチョウと一緒に。おじさんならできるだろう? 自転車に乗って。島のすべてに刻まれた出鱈目な記録と記憶を消してしまうんだよ。何もかも。そのためにわざわざナビやライト付きのにしたんじゃないか。マッチやカンテラだってそうさ。これまで随分役立ってくれたよね。これからだってまだまだ使い手はあるはずさ。ねっ、お願いだよ、火をつけてよ。
 やがて、はっきり耳元へ届いていたトオルの声は次第に何か他の予期せぬ意志のようなものに妨害されたように遠くへ押しやられ、尻すぼみに小さくなっていった。
 最後に消え入るような一言だけが耳に残った。
─おじさんが、ちゃんと、いろいろ仕込んで、る、から、大丈夫、なんだよ。きっとすべてが味方に、なって、くれるよ。

    九  炎上
 ハッとして我に返った。胸が張り裂けんばかりに高鳴っている。全身の血が一度に逆流していくようだ。胸苦しく、体がやけに重い。倒れ込まないまでも、石棺の前で屈み込み、地面に両腕を突くと大きく呼吸を繰り返した。必死に自力で壁から遠ざかってみた。数センチ後ずさるだけで動悸がかなり治まり、風景も輪郭を取り戻しだした。
 膝に力を入れ、ようやく立ち上がることができた。
 島を焼く……ガラクタやシロチョウに火をつけて……すべてはこちらの味方……。
 突拍子な行為を、最初、彼は受け入れられなかった。
 ガラクタはともかく、空中を飛ぶシロチョウをどうやって焼くことができるのか。しかも焼いたその先には自分自身の消滅が待っているのだ。
 奥木の言葉も浮かんだ。
 彼は怖くなった。抜け道のない袋小路へ迷い込んだ気分だ。自分の意識から逃れたい、そう思った。この島や奥木の与えた記憶から逃れたい。もしも記憶をつくったのも自分自身なら、その一部であるシロチョウを焼くことは、そもそも矛盾を孕んではいまいか。
 島を焼く。
 自分の力でそれができるか、彼は何度も問うていた。
 浮かんできたのは、自防団の存在だった。
 島の若い者たちがシロチョウへ羽化する前のガラクタの火災に備え、組織した集団だ。しかし、その人数は、島の全体数から見てそう多くないはずだ。数か所から次々と火を起こせば、ガラクタをある程度燃やせるかもしれない。燃え盛るある一点に島民の注意が向いている隙に、また別の場所で火をつけ攪乱させるのだ。それがうまくシロチョウへと飛び火してくれれば空想も現実になるかもしれないのだ。
 決行は島民が寝静まった夜半と決めた。一旦宿へ帰ることにした。ガラクタの間を自転車でなるだけ敏捷に動くためライトも役立ってくれるはずだ。
 窓側の椅子に腰かけたまま、バックにずっといれたままにしておいた奥木からもらったマッチを何度も取り出しては、火を放っていく情景を想像した。
 外灯らしきものもない、人気のまったくしない真っ暗な景色を眺めながら、島の一体どこに火をつければ効果的にガラクタを燃やすことができるか、ずっと考えていた。頭の中にはいつの間にか炎が渦巻いている感覚になった。
 想像の中で彼は、まず自転車でガラクタが最も多く取り囲む未戒塚よりやや西寄りの閑散とした窪地を目指そうと考えていた。ここから十五分ほど漕げば行けるはずだ。想像はさらに膨らんでいった。点火は窪地の中でもさらに一メートルほど引っ込んだ土手際にするつもりだった。あそこなら少々作業しても、すっぽり体が隠れ外からは見えないだろう。最初にどんなガラクタを選んで火を点けようか。彼はこれまで見てきたガラクタをあれこれ思い描いてみた。同じ白系統と言っても様々な形状や色合いのものがあった。時間は限られている。トオルが言ったように、ガラクタに潜む力がこちらの味方になってくれるかが鍵だ。彼はあれこれ想像しながらも、どこかで火がなかなかついてくれない情景も払拭することができずにいた。
 そんな空想を繰り返しているうちに時間は確実に過ぎ、漆黒の夜の闇は深まっていった。 
 ふと何もかもうまくいかない気がし、落胆しかかったときだ。彼はまたもや強い衝撃に襲われ、全身に緊張が走った。気づくと既にそこは宿の部屋でなく、ガラクタが目の前を覆い、こんもり起伏をつけながら急に崖のように落ち込んだ窪地の前に自転車でやってきていた。
 いつのまにこんな所へやって来たのか。さっきまで窓椅子に凭れていた自分はどうしたのか。知覚や運動器官に異常が生じ始めたのだろうか。まるで瞬間移動を遂げてしまったようだ。彼はあれこれ原因を考えてみた。もしかすると感覚中枢に乱れが生じ、時間と行動にズレが出始めているのかもしれない。
 いや、もしやこれが壁の中の状態だとしたら。突然、これまで考えもしなかった恐怖が襲い、現実が慄然と跳ね返って来た。

 奥木が言ったように、既に石棺の中へ足を踏み込んでいるのかもしれない。ぐずぐずしていたら、二度と壁の外へ出られなくなってしまうのではないか。ズレが今以上に大きくなる前に何とかして、もう一度自分自身の世界を取り戻さなければ。
 焦る気持ちを抑え、自転車からライトを外すと明かりの下に窪地へ降り立った。LEDの眩しい光の中でガラクタが輝き息づいているように見える。手当たり次第に掻き集め、マッチで火をつけた。最初はおとなしく無音の状態だったが、やがて青白い炎をパッと上げると、すぐに風よけに翳していた掌が熱くなり、じりじり音を立て燃え始めた。
 周囲のガラクタへ燃え移るのも時間の問題と思われる勢いだ。やはりガラクタは、かなりの燃焼力をもっているらしい。彼はようやく胸を撫でおろし、少しだが肩の荷が下りた気がした。
彼は、もっと火が起きやすいようにさらに手や足で寄せ集め始めた。あわせて首を伸ばし窪地の外に誰もいないか確かめ、人気がないことを知ると、できるだけ広範囲にあちこち火種をつくろうと火を点けて回った。ガラクタはいっときはおとなしく、やがてさっきと同じように蒼白い炎を上げ二重三重に火の輪を大きしていった。
 自分の体が熱く、傍にいられないほどになったのを確かめると、すぐに今度はそこから這い出し、港へ向けライトとナビに導かれ自転車を走らせた。
船を燃やすつもりでいた。
 横付けされている中でも纜が短く、火が立てばすぐにガラクタに届くと思われる木製の一艘に狙いをつけようと考えていた。エンジン部に引火すれば、船体もろとも炎を吹上げるはずだ。飛び散った火の粉は、群獣のように真っ赤な舌をちらつかせ、ガラクタをあれよあれよと呑み込んでいくに違いない。
 だが、島を焼き尽くすほどの火事を起こすには、さらにもう一つ、たとえ途中消されたとしても充分な火の手が必要だった。
 ナビに「炎」と入れてみた。すぐに島の地図が映し出され、ある一点までのルートを指し示した。
 そこは港の先の海岸沿いで海産物を運び出すための道を確保するため、ガラクタが小山のように端に積まれた場所だった。
なるほど、あそこなら。
 まずは港までの道のりを必死に漕いだ。
 二十分ほどたっただろうか。ギアを要所要所で切り換え、移動は余裕で叶えられた。島の起伏まで考慮されたように、自転車は頑丈に組み立てられていた。
 港に着くと、赧い陽炎のような幕が今来た山間の丘陵の窪地に張り出し、その下にチラチラ炎が見えた。半鐘が鳴り始めている。凪から徐々に吹き出していた潮風が味方し、峰へ向かって火を煽り、シロチョウと炎とをこれ以上ないほど睦まじくさせることが期待された。勢いをつけられた炎はガラクタからガラクタへと容赦なく燃え移っていくはずだ。
 恍惚感を振り払うように船に飛び乗ると、エンジン部に火をつけるため、火種にしようとリュックからノートを鷲づかみし燃やした。船の中でも最も燃えやすい油の染み込んだ甲板に、しかもエンジンに引火しやすい場所に投げ入れればすべてはうまくいくと思われた。ところが予想もしない叫び声が背中から聞こえ、動きを一瞬中断させた。それは、確かに今彼の行おうとしている行為を制止しようとする荒立った声だった。島の者に見つかったのだ。彼は咄嗟に船着き場へ身を移すと燃えているノートを甲板へ思いきり投げ捨て、自転車に飛び乗った。勢いよく二度、三度腰を浮かした状態でペダルを漕いだ。海岸沿いをただひたすら走った。移動しながら山沿いを見ているうちに、少しずつ島の全容と炎の状態がわかってきた。最初に火を起こした丘の辺りが激しく燃えている。島はまるで傷を負い、血しぶきを上げる巨大なシロチョウのようだ。シロチョウは飛び火し燃え始めた羽を広げ、大きく息をしながら横たわっているようだった。
 耳を劈く激しい爆発音がした。
 咄嗟にハンドルを手にしたまま上体を捩じり、港の方へ目を向けた。左の海上で船が燃え上がり波間に揺れていた。さっき投げ捨てたノートの炎が引火したのだ。山と海からの炎で、彼はまるで島全体が赧い炎を地面の亀裂から吹き上げている気になった。
島は、この後どうなるだろうか。
一瞬不安になった。
 炎が鎮まり、平穏を取り戻した後……。
 次の火種である海産物の倉庫沿いへの道すがら目に映ったものを彼は、真実か幻影かはっきり言い切る自信はなかった。
 船に燃え移った炎は激しく蠢きながら時折り、炎燼を舞い上がらせていた。火焔の先は曲がりくねり、なにやら生き物のぬらぬらした肢体のようにとぐろを巻くと弾けたように飛び散った。その先に真っ赤な火で彩られた無数に行き交う塊があった。
 シロチョウだ。
 彼は、心の中で言葉を発していた。
 シロチョウが躯を炎に包まれ、必死に翔んでいる。

   十 オワコン
 シロチョウたちは襲いかかる火の手から逃げおおせるとでも思っているのか、蝶道をまっすぐに突き進んでいた。先には石棺があった。石棺に舞い降りた蝶たちは、力尽きたように一斉に壁や天蓋に身を横たえ、そこはたちまち火焔の宿る棲となった。
 未戒塚が燃える、まさか、あれが…。
 自分自身が灼熱の石棺の中で身悶えしている気になった。知らぬ間に体がカッと熱く火照り、額から吹き出す汗を掌で拭っていた。
 燃え盛る炎の中に未戒塚に消えていった何人もの島民たちの顔が浮かび、見定めようとした瞬間、それはまた消えた。
 遠くの方から、忘れ去られたようにさっきの半鐘が鳴り響いている。彼は、鐘の音と一緒に波の音も併せて聴きながら、それがやはり彼の描いた勝手な幻影である証拠のように、なぜか自分の中に広がる空洞をその時、強く感じていた。
 最初の計画通り、これから行く最後の場所で火種を起こすため、再び自転車に乗ろうと思っていた。ところがその自転車が見当たらない。
 どこへ消えてしまったのだろう。
 これではガラクタを素早く移動することも、どんな道筋で進んでいいかもわからない。
 余裕を失いかけた彼の視界に、今までとは違う空からの島影が見えてきた。燃え尽きようとする石塔も、炎に包まれた海岸線も、打ち寄せる波や灼熱の炎や黒煙にまぶされていく小さな砂粒や貝殻まではっきり手に取るように見渡すことができた。しかも、その遥か下層から地上へ向かってせり上がってきているガラクタまで透視できるのだ。
 いよいよ時空の感覚のズレが取り返しのつかぬ地点に達したのかもしれない。結局は間に合わなかったのか。力が抜け悄然としかかったときだ。
─おじさん、やったね、ついに。
 トオルだった。
「何を言うんだ。茶化すんだったらやめてくれ。すべては失敗だったよ。これで僕も壁の中の住人さ」
─それは違う。おじさんは、お父さんの言葉を忘れてしまったの。もしも石塔の中なら、こうして僕と話すことはできないだろう。
 なるほど、奥木は壁の中では互いに存在は感じることはできても、会って話したり触れ合ったりはできないと言っていた。
「じゃあ、僕はどうなったんだ」
─シロチョウになったんだよ。
「シロチョウ……」
─そう。シロチョウさ。今、おじさんは空を飛んでるんだよ。
「どうして、そんなことができたんだ」
─ガラクタを燃やし、島を沈めたからさ。成功したんだよ。だから、やったね。
「島が沈んだ……」
 彼はことの重大さに怯えのようなものを感じた。
─そうだよ。島全体を焼いたんだから当然だよ。
 身奥に震えのようなものを覚えつつ、納得できず質問をやめようとしなかった。
「じゃあ、なぜそうすることで、シロチョウになれたんだい」
 あまり性急に攻め立てないよう、できるだけやんわり心がけた。
─それはおじさん自身が知ってるだろう。前もって仕込んでるのはおじさんなんだから。クイズに正解したらどうなるか。ちゃんと思い出してよ。
 彼は確かにスマホのSNSサイトにこれまでの職場を〝島〟に置きかえ、クイズを出した。失業後の不安や怒り、失望の感情に任せ、酔った勢いで製作した。ストーリーだけだったクイズはやがて同じSNSへ集まるユーザーの手によって上書きされ、臨場感ある背景画や登場人物の設定も加わり、ついにはキャラのデザインや効果音まで挿入する者があらわれた。 
 単純なクイズは如実に立体感を持ち始め、気分を良くした彼は、実はその後、SNSからより専門性の高いクラウドソーシャルサイトに切り替えたのだった。
 これまでと同じ面識も会話もない者たちとは言え、明確な目的でアイデアを仕上げていくサイトには、プログラマーを解雇されたばかりのエンジニアやフリーでいるのを疑いたくなる凄腕のイラストレーターがいた。彼らは自らの判断で乗ってき、キャラの動きにも複雑なパターンが追加され、個々の関係性や画像のディテールに濃密さがもたらされると、スマホの画面との連結や作動性も充実してきた。もはやそこはただの寄せ集まりの場でなく、中心軸から伸びた鋭利な両鰭や尻鰭で、より広い世界へ羽ばたく可能性を内包した空間へと変わっていたのだ。それはちょうどガラクタがシロチョウへ羽化したのと同じように平坦なクイズが重厚なリアリティに覆われたゲームへと脱皮を遂げたことを意味した。
 嫌味や陰口をたたかれ、無理難題を押しつけられた挙句、契約が切れれば冷淡に解雇されてきたこれまでの職場とは真逆な体験だった。
 最後の仕上げとしてゲームの結末は、発案者である彼に委ねられていた。 彼は決めていた。
島を沈め、シロチョウとなって飛翔することを。
─望みがかなったね、おじさん。
「でもなんだか変な感じもするよ」
─どうして。
「一羽だけ生き残るなんて、現実にはありえないだろう」
─いいじゃない。ゲームなんだから。
「だったら、君にも感謝しなきゃな」
─お礼なんかいらないさ。僕は役を与えられたキャラに過ぎないし。だけどおじさんの考えたガラクタって、まるでジュラシックパークの恐竜みたいだね。
 羽ばたきしながらじっと声に集中した。
─だってそうじゃないか。当人たちは一億数千万年もずっと静かに地下に眠っていただけなのに、たまたまひょっこり化石で今の時代に出てきてしまったおかげで、役に立ちそうだからってちやほやされ利用されていくんだから。ガラクタだって島を沈めないために必要となったら勝手な理由をつけられて、どんどん増やされてしまったんだろう。その代償が、年をとった人や体の不自由な人を石棺に追いやったり、自分たちからすすんで壁の中の住人になるっていうんだから笑っちゃうよ。でも、いざ増えすぎたら、やっぱりどっちも人間の醜い本性が出て来るんだね。
「なんでも理屈どおりには、いかないってことさ」
─そんなことはわかってるよ。だけどどうして皆、最初は自分に都合のいい面しか見ないのかな。
 これには返す言葉がなかった。
 ゆっくり羽を拡げ、上空を加速した。他のシロチョウは既に焼かれ落下してしまっている。残すところ彼一人だ。 
 島も徐々に海の波間へ沈んでいっている。石棺は焼け落ち、海岸線も霞みのように消えてしまっていた。波の激しい飛沫が島の沈みきったところからぶくぶく泡立ち、水疱がいくつもあらわれては消えた。時折り大波が寄せると炎の残照で真っ赤に染まった海原をのみこんでいった。
「とうとう着地するところがなくなってしまったな」
─おじさん、あるだろう。とっておきの方法が。
「やっぱり、あれしかないか」
─そうだね。
 彼は踏ん切りをつけたように透明なガラスのような海面にゆっくり舞い降りた。手足がないため、衝撃を吸収するクッションにしようと羽全体で胴体を包み込む。思っていたより海面は、分厚い保護カバーでもされているように柔らかい。それでも着地するや漣が起こり、二重三重の輪を描いて周囲に広がった。島に残っていた遺物だろうか、漂流物がプカプカ浮いては羽で包まれた体のあちこちを掠めていく。よく見るとそれらは慰留祭で見たガラクタを加工した義足や皿や鉛筆で、まるで木の葉か木切れのように無頓着に漂っている。どうやらガラクタ自体には浮力があるようだ。
 見たくないものを見てしまったようにそれらに接触するたびに、丸めて硬直したままの羽先をできるだけ動かし、クリックでもするように深く海中へ強く押し込んだ。
自分の分身を埋没させ、葬り去るようで、なぜか哀しくなった。
 するとそれが合図のように、今度は海底から真っ青な海流が吹き上がってきた。島だけでなく、そこにあったすべてのものが沈み切った分、容積が押しやられ盛り上がってきたようだった。それと呼応するように稜線の彼方から黒く濁った海流が蛇行しながらやってき、まるで光と闇が初めて出会ったように猛烈なスピードで混ざり始めたのだった。交点には激しい飛沫が立ち、それはやがて巨大な竜巻を形成し、あっという間に深い渦潮へ変貌していった。彼の濡れそぼった白い肢体ごと巻き込み、情け容赦なく沈み込ませていく凄まじい勢いがあった。羽はもう動かない。そんな存在を嘲笑うかのように海流はなお激しくぶつかり合い、荒れ狂う瀑布をつくっていく。
 その時、海面の奥底から光の泡のようなものが無数に湧き上がり、俄に濁りは消え、スライドするように紺碧の海原へ変わっていった。
 ここに、あの島があったのは本当なのか。
 微動だせぬ羽に包まれ、島と一緒にこのまま古層の果てまで沈んでいければどんなに楽かと思った。一瞬、海底に向けられた両眼に島影が映ったような気がした。島の東西の岬がむっくり持ち上がっては撓っている。まさか島が息を吹き返し、新しい形となって産まれ出ようとしているのだろうか。巨大なマンボウが柔らかな皮膚を曝したまま、両鰭を翼へ変え、空高く飛翔する。
 夜が明けようとしていた。
 波は静まり、空には雲一つなかった。
 海岸線の向こう、遥か稜線の彼方に煌々と朝日が姿をあらわそうとしていた。海底からの光の粒もますます星のように増えてきている。
 海を渡っての丸二日の旅が、今まさに終わりを迎えようとしていた。
 白波に身をもたせ海面の上下を行き来しながら、されるがまま漂った。
 意識の奥に羽を感じていた。羽は楔のように両翼を拡げ、飛び立つ準備をしているようだ。シロチョウだ。一人一人の頭蓋の奥に身を横たえ、息を殺し、また掘り返される時を待ち、飛翔のタイミングをはかっているようだ。
 羽の付け根に砕けたような隙間が二つ、出入り口のように開いていた。その向こうに四角い窓が見えた。慰留祭で奥木にやったガラクタの額縁だ。くるくる暗渠の彼方へ舞い落ちながら、中から光を発し、立体的な模様を描いている。眩しくて直視できない。どんな図柄で何を意味するかわからない。
 視界に広がるその光の世界を押し広げ、もし何かを見つけることができれば、今、意識にある楔の羽を解き放し、これまでとは違う方向へ、もう一度海面を蹴って飛び立てっていける気がした。きっとその先には今まで見たこともない世界が待っている気がしたのだ。
消滅した島や海原の向こうに、本物の海や空が広がり、今度こそ自分の翼で飛翔できると信じたかった。
 彼は二日間、誰もいないアパートで黙々と見続けていたスマホを今、ようやくオフにし、ここに留まる決意をしようと思っていた。

慰留地

2020年4月29日 発行 初版

著  者:宮本誠一
発  行:夢ブックス

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宮本誠一

1961年熊本県荒尾市生まれ。北九州大学文学部国文科卒業後、学習塾講師、大検(高卒認定)専門予備校職員などを経て、熊本県小学校教諭に採用。二校目の赴任地(阿蘇市立宮地小学校)で、卒業生である発達障害の青年との出会いをきっかけに33歳で退職し、当時阿蘇郡市では初めての民間での小規模作業所「夢屋」を立ち上げました。その後、自立支援法施行に伴い、「NPO夢屋プラネットワークス(http://www.asoyumeya.org/)」を設立し、地域活動支援センター(Ⅲ型)代表兼支援員として阿蘇市から委託を受けながら現在に至っています。 運営の傍ら、小説、ノンフィクション、児童文学、書評などを発表してきました。部落解放文学賞に5回入選、九州芸術祭文学賞熊本県地区優秀賞2回、熊本県民文芸賞、家の光童話賞優秀賞などを受賞させていただいています。

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