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損壊と悲観~両者の変域を考える~

宮本誠一

夢ブックス



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       損壊と悲観~両者の変域を考える~

 一、「死」と「死以外」の間に潜むもの。
 「私」が私の外に出ることはできない。どうやらそれは自明らしい。脳学者のいう「脳」で己の「脳」やそこから派生した世界を分析して見たところで、「脳」自体の領域を超えられないという考察に近い。つまるところ、個としての意識や神経や感覚すべての機能が「個」自身を厳密に客観視するには、どこかで必ず限界がやってくるということだ。言語のロジックの定理上も、誰も異論を挟むことはできないだろう。よって提起の形を変えてみる。にもかかわらず客観的領域が思考の対象として、あるいは正当性の根拠として確かにある(かの)ように思えるのは何故なのか。そこで主観的想像域と客観的仮定域の臨界点ともいうべき象徴的事象を手掛かりに考えてみることにする。
 「死」である。
 「死」は二重の意味で限界、もしくは臨界点に隣接しながら主と客との表裏にある。一つは前述の人間が認識の上で個を超えられないという点。もう一つが誰も生きながら死ぬことはできない(「死」の場所へ行けない)ということ。つまり死の本質的な意味での体験者がこの世には一人も存在せず、できないということだ。
 それは多くの臨死体験談が結局は、生者が生者として死の周辺を彷徨ったあげく、それらしきものに触れた話であり、厳密に死の状況にあった者ではないことが物語っている。
 彼らは自分たちが「死んだつもり」で見たり感じたことを「生き返ったつもり」で語っているに過ぎない。となれば「『死』は死んだものにしかわからない」ということも、実際には死んでも本当のところはわからないというのが正しいのかもしれない。なぜなら、たとえ死者といっても死者の外へは出られないのだし、生者へ向かって語ることはできないのだから。だが、それも所詮、あくまで死んだ人間が生きている人間の身体機能と同等の生理や摂理を持っていることを前提にした考えであって、それさえ未定のこととなればたちまちすべては怪しくなってくる。結局、「死」をどう概念づけてみたところで堂々巡りなのであって、死そのものがどのような状態にあるか、死者も含め見当がつかぬ以上、論理矛盾に行きつくのは明らかだ。私たちは、死に対するいかなる描写や憶測も不可能な立場にあることは間違いなく、早々に探求を諦めた方が無難なのかもしれない。
 では、果たして人は体験できないこと、もしくは体験者が一人もいない事象に対して、ただ黙して傍観するしかないのだろうか。
 このようなとき、一人の哲学者の言葉に耳を貸すことは無駄ではない気がする。
 ハイデッガーは『存在と時間』で、人間が「存在している間は、いつでもすでにおのれの未熟を存在する」として、「生まれ出るやいなや、人間はすでに死ぬべき年齢に達している」とし「生」が「『終末』としての死によって構成される」とした。
 生と死を月の満ち欠けや果実の成熟過程に例え、死は生に対し「ない」状態では決してなく、むしろそれはその陰に隠れながらも常に「ある」状態であり、要素として含まれることによって「生」そのものさえも存在せしめていると言う。よって自らの死は直接知らなくとも、他者の死をじっくりと考察することで必ずや、たとえそれが知のレベルであったとしても実存として可能な範囲で充分に認識できるとするのだ。これはある意味、直観に近い託宣のようにも聞こえる。
 生きている以上、生の途上で浮かんだ疑問のすべては、必ず、生の世界内において解けるようにできているのだと。それはカール・マルクスが言った「人間が立ち向かうのはいつも自分が解決できる課題だけである」(『経済学批判』)に似ている。マルクスはつづけて言う。「課題そのものは、その解決の物資的諸条件がすでに現存しているか、またはすくなくともそれができはじめているばあいにかぎって発生するのだ」と。
 そこで改めて、次の疑問が浮かび上がる。
 「私」は果たして死をも含めた「私自身」の虚構から成り立つ「知」から離脱することが本当に可能なのだろうかと。
 自らこしらえた観念としての「前提」の罠から逃れ、自己が自己存在そのものを一度、〈心象の像〉として括弧の中へ閉じ、無から始めることは果たしてできるのか。
 私がそこにこだわるのには理由がある。
「三四郎は茫然としていた。やがて、小さな声で『矛盾だ』と云った。大学の空気とあの女が矛盾なのだか、あの色彩とあの眼付きが矛盾なのだか、あの女を見て、汽車の女を思い出したのが矛盾なのだか、それとも未来に対する自分の方針が二途に矛盾しているのか、または非常に嬉しいものに対して恐れを抱くところが矛盾しているのか、──この田舎出での青年には、すべて解らなかった。ただ何だか矛盾であった」
「三四郎は一人になる。一人になって落ちつくと、野々宮君の妹の事が急に心配になって来た。危篤なような気がする。野々宮君の駆けつけ方が遅いような気がする。そうして妹がこの間見た女のような気がして堪らない。三四郎はもう一遍、女の顔付きと目付きと、服装とを、あの時あのままに、繰り返して、それを病院の寝台の上に乗せて、その傍に野々宮君を立たして、二三の会話をさせたが、兄では物足らないので、いつの間にか、自分が代理になって、いろいろ親切に介抱していた。ところへ汽車が轟と鳴って孟宗藪のすぐ下を通った。根太の具合か、土質のせいか座敷が少し震えるようである」(夏目漱石『三四郎』二章)
「そのときでしたね。自分が自分の外にいるみたいに感じたのは。何かいかれた映画に出ている自分を眺めてるみたいだったな。それで気分が悪くなりましたよ。ほんとうにうんざりして」
「なんで、おれはこのまま歩いていっちまわないんだろう? ハイウェイまで歩いていって、あとはヒッチハイクすりゃいいのにって。あの家には絶対に戻りたくなかったんですよ。それなのに──どう説明したらいいのかな? 自分が現実の一部じゃないみたいな気がして。むしろ、小説でも読んでるような感じだったな。だから、この先どんなことになるのか見届けなきゃならなかったんです。結末をね。それで、二階へ戻りました。(トルーマン・カポーチィ『冷血』佐々田雅子訳)
 私は漱石を東西に類を見ない強烈な「狂気」を内に持った作家だと思っているが、カポーティもまた同じである。
 前者『三四郎』は、いわずもがな主人公三四郎が里見美祢子と初めて道で交錯するシーンであり、もう一つは病床にある野々宮よし子を想う場面である。後者『冷血』はこれからクラッター家へ押し入り一家惨殺という犯罪を行おうとする矢先、ディックの独りよがりな計画にどこかで違和感を抱いていた感情を払拭できず、土壇場になってふっと逡巡しかかったときの相棒ぺリーの心理描写だ。
 これらの描写は何を私たちへ示しているのか。
 奇しくも両者はそれぞれに矛盾を抱えた人間の姿を社会=環境からの解離性的な現実喪失と着せ替え人形のような形状入れ替えによる感覚で見事に描いている。それを青年期特有な悶々とした不安やアンビバレンツな感情、異性への一途な思いや犯罪への誘惑から生じる過度な心的ストレスのもたらす葛藤ととるのは易しいだろう。「根太の具合か、土質のせいか座敷が少し震えるようである」という箇所は、前部と明らかに切り離され、異なる心象の位相にある。そこに横たわるのは、自己の外界に対する「認識」の根拠の不在からくる足場のない風景の揺らぎであり、「小説でも読んでるような感じ」は、まさしくそれが顕在化した瞬間であることを見逃してはならない。
 もし私たちが精神世界という呪縛、形而上的経路からの逸脱を可能たらしめる未知の身体や在り方、思考構造をこれから先、獲得できないとしたら、おそらくはこの『三四郎』や『冷血』のペリーのように主と客とが混淆した不安定な揺らぎとともに、事象空間を彷徨うことを繰り返さねばならないだろう。自己と世界とをつなぎとめるべき糸の断ち切れた「損壊」の中で、修正しては否定し、肯定しながらも斥けるしかない矛盾を抱えた「悲観」の海原に漂い浮沈しつづけるしかない。
 ところでマルクスは、『経済学批判序説』に「料理された肉をフォークやナイフでたべて満たされる空腹は、手や爪や牙をつかって生肉をむさぼりくらうような空腹とは、別のものである」と言っている。これは決してメニューの選り好みや個々の贅沢な嗜好性を揶揄しているわけでなく、人は様々な栄養素を摂取しながらも、その実、そこに込められた〈意味(価値)〉を食さねば満たされぬ胃袋を領しており、本質的には空疎でありながらもカテゴライズされた〝料理〟の誕生が必然だったことを見事に看破している。
 それはさらに続く次のような言で明らかとなる。
 「だから消費の対象ばかりではなく、消費の仕方もまた、生産によって、客体的にはむろんのこと主体的にも、生産される。生産はこうして消費者を創造する」
 その行為はどこまで剥いても実体が見えてこないラッキョウの皮剥きに似ている。手に入れたと思った〈意味(価値)〉は、吟味すればまだ加工不足の粗野な食物に変貌し、さらに新たな香辛料や技術、道具を投じた『料理』と意匠を凝らしたシチュエーションで、口腔内の咀嚼と感触を要求してくるのだ。
 「観念」もまた、それと同じではないのか。
 我々は実体のある〈意味(価値)〉を摂取しているかに見え、その実、背後に隠された〈メタ観念〉とも言うべき架空の「概念」を食し、空腹を満たしているのではないか。
そのようなことを考えるにハイデッガーが『存在と時間』で試みたことは重要である。
 「死」の考察を通して、「知」と「認識」をいかに超える(二元的関係を壊す)か。その象徴としての学術的行為がソクラテス以前の〈存在史〉へ立ち返り、実存の抱える存在性と時間性を再構築し捉えなおすことにあった。
 人類史の中で積み上げられてきた仮象としての「知」の表皮を一枚一枚剝がしながら過去へと遡行することで、ついには知のタイムトラベラーとなって〈現在〉という時間の帯を相対化し解体することが主な目的だったのだ。それは途方もなく無謀で壮大な実験の試みである。
 そのような視点に立つ限り、『三四郎』や『冷血』を例に挙げるまでもなく、多くの著や思想は大なり小なり「敗北」してきたのではないかと言うのが、私の大筋の考えだ。
 例えば、〈物語〉において主人公や登場人物が、存在を存在たらしめるために行う筋内の出来事(=事象)に対する〈存在企投〉も、あたかも自己が自己外へ放出されるかのような倒錯の下に編み出された、あらかじめ「外」なるものが前提とされた考えの典型だし、そもそも「在る」という自明性の不確かさを見越し、先取されることで綻びが露呈しないことを担保することでしか成り立たない点描のような装置だ。
 過去から現在、未来、またはその逆といった「時間性」へ自己意識を投射するという、錯覚され限定された視点と変遷は、なかんずく多くの小説が今でも根本的に基盤に据える構造と言っていい。そのような記述の〈意味〉の裏返しに過ぎぬ丹念な技巧で編まれた〈虚構〉に慣らされてきた私たちは、あたかも主観と客観があるかのごとく自己内と自己外から相互に差し交されるエッシャーの〝騙し絵〟のようなものを見せられながら実は、作者の自己愛に満ちた単純な内面に写った影絵をだらだらと〝筋書き〟に従いながら後追いしていくという身も蓋もない行為の繰り返しに時間を費やされてきたのではないか。累々と折り重なった自己撞着の果ての無残な「損壊」と「悲観」に覆われた敗北の山。だが、小説も含めた〈表記〉のすべてが、そもそもそのような錯誤をあらかじめ宿しながら、自己と仮想自己外とに取り交わされた前提を約束にしながら砂上に積み上がっていく幻想だと言われれば、それはそれで致し方ないのだが。

 「概念は、絶対的であると同時に相対的である。相対的というのは、それ自身の合成要素に対して、他の諸概念に対して、当の概念がそこで限定されるその場としての平面に対して、また概念がそれらの解であるとみなされる諸問題に対して相対的ということだ。しかし絶対的というのは、当の概念が遂行する[その合成要素の]凝縮によって、当の概念が平面のうえで占める場所によって、また、当の概念が問題に付与する諸条件によって絶対的ということである」(G・ドゥールズ/F・ガタリ『哲学とは何か』財津理訳)
 ここでドゥールズ/ガタリは「思考におけるもっとも内奥のものでありながら、絶対的な外」に位置する『内在平面』へ論を進めていく。これはドゥールズ/ガタリのいわば苦肉の策とも言え、外へ出れぬとなれば、外部がない一元的平面を設定しようという境界なしの概念だ。超越的な思考も一続きの襞の折り目であり絡み合った末端の細部ととる発想は、存在の一義性を確保せんがために「内在─超越」という現象学的地平をより立体的にした地層図と言ってもいい。しかし、いかにジオラマを細かくしたとしても、やはり外へ足を踏み出し構造を隈なく一望することは不可能だ。
 主と客、内と外、自己と非自己……。
 考えてみればこれら永遠につづく二元論(=相対論)は何も混迷を目的としてつくられたものでなく、無限世界に対する有限としての存在者である人間の一つの認識手段であり、ある限定を加え理解可能な範囲のみを切り取ることを目論んだ果てに生まれた思考方法に過ぎない。ドグマ(独断)に陥る危険を阻止するため、懐疑的に派生し分岐していったこれらの考えは、むしろそれ自体が批判をスルーし、別種のドクサ(独断による思い込み)をつくりだし、今では私たちの認識界を完膚なきままに蝕みながら、仮想や空想、妄想により形成された現実を隈なく浸透させ内懐に「損壊」と「悲観」を蔓延させているのだ。

   二、何が損なわれ、何が悲しまれるのか

    眼にて云ふ

  だめでせう
  とまりませんな
  がぶがぶ湧いてゐるですからな
  ゆふべから湧いてゐるですからな
  ゆふべからねむらず血も出つづけなもんですから
  そこらは青くしんしんとして
  どうも間もなく死にさうです
  けれどもなんといゝ 風でせう
  もう清明が近いので
  あんなに青ぞらからもりあがって湧くやうに
  きれいな風が来るですな
  もみぢの芽と毛のやうな花に
  秋草のやうな波をたて
  焼痕のある藺草のむしろも青いです
  あなたは医学会のお帰りか何かは知りませんが
  黒いフロックコートを召して
  こんなに本気にいろいろいろ手あてもしていたゞけば
  これで死んでもまづは文句もありません
  血がでているにかかはらず
  こんなにのんきで苦しくないのは
  魂魄なかばからだをはなれたのですかな
  ただどうも血のために
  それを云えないのがひどいです
  あなたの方からみたらずいぶんさんたんたるけしきでせうが
  わたくしから見えるのは
  やっぱりきれいな青ぞらと
  すきとほった風ばかりです

       宮沢賢治(「疾中」より『眼にていふ』)

 逆説的だが、ここには「損なわれず」「悲しまれない」ものがある。
 これはあくまでこの詩に示されている世界を一つのアレゴリー(寓意)として読み取った場合に限ってのことだが、病臥に伏した極限状態の下、壮絶な描写を連ねる作品でありながら、苦悩を超越した果ての清逸な透明感とともに優れたリアリズムが滾々と満ちた作中で、時にユーモアさえ醸し出すこの詩の根底にあるものは、「生」と「死」との両側面への作者の認識の了解(互いに納得できる)関係が損なわれず成り立っていることであり、そのために意識を担う主体としての「自我」が崩壊することなく、悲しみに暮れていない。言い換えれば、「損壊」とは認識をも含めた対象との〈関係性〉の不成立により他への止揚的価値転換が不可能な閉塞状態であり、「悲観」は、その不成立を一つの条件としながら〈主体性〉に揺らぎがもたらされ、発生してくるものなのだ。
 外部から見れば「さんたんたるけしき」も内側からは「きれいな青ぞらとすきとほった風ばかり」の風景であると作者は言う。この均衡は絶妙で、だからこそ私たちは、もう一歩踏み込んでみる必要がある。内外の視点それぞれは、果たしてどこを見ているのか。すると一見均衡がとれているかに見えるこの両者の視点に実は接点はなく、光源も両者違う場所から発せられながら異なる対象を照射していることに気づくはずだ。
 「魂魄なかばからだをはなれた」状態、それは主観と客観の、あるいは別の言い方をすれば認識構造の隠れた実相として立ち現れてくるものなのだ。それは一致でも調和でもない、錯誤を錯誤としない明確な「錯誤」があり、根本的な不一致、不調和、不定形を抱えた何かである。そのとき人は錯誤を錯誤とせず、「損壊」を免れ、「悲観」しない。言いかえれば、表面的な一致、調和、定型を持ち得たとき、「損壊」と「悲観」は生まれる。

  だめでせう
  とまりませんな
  がぶがぶ湧いてゐるですからな
  ゆふべから湧いてゐるですからな
  ゆふべからねむらず血も出つづけなもんですから
  
 主体は医者(外部)の側へ比重を置きつつも、本人の声(内部)への割合もわずかに残しながら不確かなままに留め、次の五行へ続く。

  そこらは青くしんしんとして
  どうも間もなく死にさうです
  けれどもなんといゝ 風でせう
  もう清明が近いので
  あんなに青ぞらからもりあがって湧くやうに

 4・3・7の短歌的七七音律から始まり「です」「せう」への転調は、あたかも賢治独特の調べとも言うべき本人の内声の証左であるかのようだ。促音とともに文字通り「もりあがって」加速していく。そして、医者の診断とのダイアローグ(対話)は、続く一行で呆気なく転倒させられるのだ。

  きれいな風が来るですな

 このあまりに唐突な「ですな」の登場は、おそらくは書き出しから同一人物(=本人)のモノローグであることの種明かし以上のものを含んでいる。それは最終行まで読み通すことで徐々に判明してくる。4・3・5の七五音律は俳句的終始を含み、時代を敢えて逆行することでまるで異質の遺伝子が導入されたような変化が可能となるのだ。つまり、それまでの短歌的七七調の細胞壁が溶解され、まったく違った形質転換(=口語自由詩)への最後の跳躍とも言うべき再生が図られる。外部と内部の境界は消失し、一行一行の連結ではない、むしろ独立を遂げることでの自立性の獲得が試みられると言っていいだろう。もはやそれは、どこで切断されても、またどこで接合されようが細胞や神経が断ち切れず「損壊」することのない新たな生命体の兆しを宿しており、それによる「悲観」も生じる隙はどこにもない。すべての行や語彙は混淆することで拡大された不調和性を前面へと押し出し、あたかも誕生したての溶岩質のマグマのような熱を湛えながら、絶対と相対性を兼ね備えた独立した「同調性」を産み出してくるのだ。

  こんなにのんきで苦しくないのは
  魂魄なかばからだをはなれたのですかな
  ただどうも血のために
  それを云えないのがひどいです

 「ですかな」「です」の問いかけを異なる位相から発露させること、それは感情の焦点を結ぶことを敢えて避けている、というか既に言語の機能としてそこに像を形成することに意味を置かず、互いに意識から離れた場所から言葉の持つ唯一無二の指示性に従い、表現の根源としての原風景を私たちに開示するだけなのだ。
 そこでこの章の初めの疑問に立ち戻ってみる。
 何が損なわれ、何が悲しまれるのか。
 これまで宮沢賢治の一編の詩から見えてきたことを再び遡行すれば、自ずと次のようなことが言えるだろう。
 「生」と「死」への了解関係が損なわれず成り立つということは、観念として対極にある両面、例えば生死に限らず、思考に対しては盲信、発語には沈黙、拡張に委縮など、様々な活動や知覚、感覚の両極において、自覚的認識が隈なく施されているということでは決してなく、むしろ逆であって、了解はもはや〈不可〉であることを前提としつつ、それぞれの領域にそれぞれの不統一な主体が仮寓し合うことで相対化され深度を増し、刺激を刺激として感受しながら、一方では連鎖の地表での絶対性を保持しつつ、停滞するでなく、各自一定の形状から異質なものへの変容を遂げきることでまた新たな両極関係を形成し直すということであり、その行為が成されなかったとき全体としての「損壊」は生まれる。そして、両極の関係性によってつくられた〈差異〉を無化し、自立しえなければさっそく「悲観」は一挙に覆い始める。つまり不可疑、不可逆、不可避な力を持った差別性の中にいるとき人は「悲観」するのだ。それは自己意識内での言語の発動と効能においても同様である。

  魂魄なかばからだをはなれたのですかな
  こんなにのんきで苦しくないのは
  ただどうも血のために
  それを云えないのがひどいです

  ただどうも血のために
  魂魄なかばからだをはなれたのですかな
  こんなにのんきで苦しくないのは
  それを云えないのがひどいです

  それを云えないのがひどいです
  ただどうも血のために
  こんなにのんきで苦しくないのは
  魂魄なかばからだをはなれたのですかな

 といった具合にこの四行にしても順列組み合わせで二十四通りが可能であり、作品全体としては27×26×25……で13桁の個数となり、膨大である。
 これを他愛無い言葉遊びと取るのは易しい。
 そもそも言葉の表出がメディア技術および流通形態に合わせる形で発する側と受ける側へと二分され、それらの前提となる世界へ向けての知覚や表象の構造が劇的に転換したのは、せいぜい16世紀から17世紀にかけてのルネサンスからバロックの推移期(=初期近代市民社会形成期)であって、中心に位置していたのが、グーテンベルクによる活版印刷技術の発明であることは言うまでもない。だが、本来、〝コトバ〟とは読み手や聞き手も想定されないところで一語一語、一行一行が独立し、内在的言語として発せられたのであり、その場所へと回帰するのもまた宿命であり必然なのだ。
 そのような意味からも、私は言葉の純度が高い程、並べ替えの領域は無限大へと拡がっていくと考える。
 まさしく、あの『雨ニモマケズ』の草稿が書かれた賢治の手帳の次ページに見開きで示された略式での文字の曼荼羅模式図よろしく、『眼にて云ふ』においても大乗的膂力を言葉の一字一字、行間の一つ一つに持ちながら作者の内部に残った生命力の一滴までをも相対化させようとするエネルギーを迸らせ、「悲観」に陥ることなく、「損壊」であって「損壊」でない絶対的世界と一体化することで、本体までをも突き動かす地点にいたことを否定することはできないからである。
 ユヴァル・ノア・ハラリは、『サピエンス全史・上巻』で「ホモ・サピエンスは、人々は『私たち』と『彼ら』の二つに分けられると考えるように進化した」としながら、両極に分離した思考性が「紀元前一〇〇〇年紀に普遍的な秩序となる可能性を持ったものが三つ登場し、信奉者たちは初めて、一組の法則に支配された単一の集団として全世界と全人類を想像することができた」としている。
彼は言う。
 「誰もが『私たち』になった。いや、少なくともそうなる可能性があった。『彼ら』はもはや存在しなかった。真っ先に登場した普遍的秩序は経済的なもので、貨幣という秩序だった。第二の普遍的秩序は政治的なもので、帝国という秩序だった。第三の普遍的秩序は宗教で、仏教やキリスト教、イスラム教といった普遍的宗教の秩序だった」と。
 だが、私は「損壊」と「悲観」の連鎖をありふれた歴史性や社会学へと収斂させようとは思わない。むしろその方向性は貨幣や帝国、宗教を基盤とすることとは真逆に向けることであり、内在という仮象、超越という錯覚から目覚め、「概念」を解体することで「私でない何か」へ生成されてきた自己をもう一度根本から検証し、取り戻すことなのである。
 その上で前章で述べたように多くは無残な敗北を期してきた小説を列挙し、考察してみることを無駄とは思わない。またそこにスクリーンから実存する自然の世界空間へ没入させることをその本質とする映画も加え、それら両者を手掛かりとしながら「損壊」と「悲観」の絵地図を無作為に拡げ、描写や筋、構成、映像や光景、台詞の不和や同調らの変域を簡潔に見ていきたい。

     三、小説に見る「損壊」と「悲観」
●『共食い』(田中慎弥)
〈川辺〉という境界をキーに父と息子の「母」を巡る葛藤はギリシャ悲劇そのものだが、「悲観」に落ちてはいない(「悲劇」と「悲観」は違う)。中上健次、大江健三郎が既にアレゴリー(寓話)で、シンボルとしての「路地」や「森」を放擲してみせる荒技をやっているが、ラストに突き刺さる義手が『飼育』の鉈の母系版であり、そこには奇しくも形状に対する無頓着ゆえの模倣という「損壊」が垣間見える。
●『道化師の蝶』(円城塔)
別著『オブ・ザ・ベースボール』もだが、偶然性という迷路の示す現象面は、私たちに実質(それが実現するための素材)以上のリアリティーを与えてくれる。言語もその一つで、一語ずつ紡ぐ行為は時として馬鹿馬鹿しさと愚かさ、律義さを開陳し、作品を通し大いに笑わせてくれ、「悲観」を跳ね返す力がある。但し、私はこのような作品はむしろ〝異世界〟に対しての言語が容易に取り込め、むしろ楽ではないのか、と思ったのも事実だ。結局のところ問いに対し、新たな問いを措定することですすめられ、いわば限界と彼岸の果てない繰り返しがなされているわけで、所詮は『論述』という枠を超えぬのではないか。そこにはある大きな客体性を取り込めなかったがため派生することを余儀なくされた水漏れのような「損壊」を認めぬわけにはいかない。
●『爪と目』(藤野可織)
三歳女児である「わたし」が、父親の恋人「あなた」を観察することは、生きる術としての読心や推察であって、興味本位の恣意的ものとは本質を異にする。ラストの自虐から他虐へと一挙に転化する行動も、「あなた」に対する「わたし」、「わたし」の中の「あなた」という他者の不在性と空虚を強く印象付けており、安易に「悲観」へ陥ることを阻み、ある一定水準の成功をしている。ただ、それら個々の組成が絡み合うことで〈疑似家族〉を形成する件りとなると不信の層を深めはするものの、お決まりの靄のかかった不確かな混沌へと向かう定石であり、やや「損壊」の片鱗が露見した惜しい作品である。
●『存在の耐えられない軽さ』(ミラン・クンデラ)
何をしてこの作品に多くの人々は引き寄せられるのか。結局のところニーチェの『永遠回帰』(=重さ)をモチーフとする宣言めいた書き出しは、見事に最後まで対比としてのキッチュ『俗悪』(=軽さ)を内包しつづけ、それぞれの読者の胸に切実に迫るのである。お前ならどうするかと。「悲観」も「損壊」も否定することなく正面から肯定し、その根拠を歴史性の中に善悪こもごも見据えることで、概念一つ一つを再構築しながら組み合えてみせた稀有な著である。
●『1984年』(G・オーウェル)
再読すればするほど読後の印象が、これほど大きく変わってしまう書も珍しいのではないか。あるときは極めて私的モノローグに映るが、理由として、この書が構造として〈詩〉を内包させていることがあげられるだろう。ジューリアもオブライエンも当然だが全て作者の分身であり、ビッグ・ブラザーは経過した〝時間〟の累積そのものだ。もしかするとこの書は『老い』をテーマにした極めてノスタルジックな作品なのかもしれない。そのような意味からも充分、「損壊」と「悲観」を未知の手触りへ転換してみせた。
●『穴』(小山田浩子)
人はどんな対象や環境にどのような感情や感覚を持とうが自由である。しかしそれを外部へ〈表現〉し伝える時、提示せずとも突き詰めた果てのある座標軸を持った内的地表が用意されていなければ、受け手はイップスとなり一歩として足をかけることはできない。かりにある程度上ることはできたとして、それが果たしてどのような位置にあるか朧なりと見当がつかぬ限り「悲観」は払拭されず、地割れに似た「崩壊」を招くだけだ。ボルタリングにもSとGとの狭間に明確な「課題」が用意されている。私にこの作品から透けてくるのは〝不思議の国のアリス〟と言うより『トトロ』か『おむすびころりん』の極めて表層のホールドのない山稜だけだ。
●『吾輩ハ猫ニナル』(横山悠太)
批評性を含め完成度は中々である。「中国」と「日本」いや「A国」と「B国」なる「国家性」も所詮、同時代のエピステーメーの変容に過ぎぬと言わんばかりに〝漢字〟を軸に皮肉ったことは見事であり、母語に対する肉迫ではない巨視的位置に立った上での距離感が、日常とは違った別の視点を誕生させ、「損壊」と「悲観」を逆手にナショナル・アイデンンティティという問題へ向かっている点はなかなかだ。
●『春の庭』(柴崎友香)
最初、視覚優先の主体から発せられる文体になかなかついていけない読者も多いかもしれない。だが、しばらく読み進めると気づくはずである。それは、この作品の奥にある「損壊」と「悲観」のあまりに無防備に織り成された〈抒情〉にこそ、実は抵抗の意識が沈静していたのではないかということだ。
●『苦海浄土』(石牟礼道子)
言葉というものがこれほど人間存在の内から生まれ出るということを鮮烈に示してくれたテキストは中々ないのではないか。それは近代的論理に裏打ちされた〈疎外〉の『文脈』とは無縁な「外化」ならぬ「内化」による『生脈』の力とも言える。そこでは完膚なきまでに「損壊」と「悲観」も書き換えられている。「生」と「死」そのものの現実的隠滅と不承知の荒野から泡(うたかた)のように生まれ出た観念を慈しみ育て上げた果ての「不壊(ふえ)」と「止観(しかん)」である。
●『さようなら、オレンジ』(KS・イワキ)
主人公のように何かが「違う」と叫びたくなる。李良枝が『 由煕(ユヒ)』 で見せた二語間の齟齬が感じられない。それは作者が「言語」を特定された枠内で捉え過ぎているからだと思う。つまりプラトン以来、長きにわたり思考を伝達するプロセス(一種の道具)とされてきた「言語」が一転し、ここ半世紀で「思考」そのものと見る向きへ変遷してきたが、ヴィットゲンシュタインの例を取るまでもなく、この「思考」と「言語」の関係を〝紙一重〟とするか、〝そのもの〟とするかでは大きな開きができてくる。私たちはその上で「言語」とは何かを再度問う必要があるし、そこにこそ「損壊」や「悲観」も隠されている。その再帰性の構造がこの作品には見当たらない。我々は日常語を獲得した後も、たどたどしい〝喃語〟を喋り続ける存在に過ぎないのだ。
●『コンとアンジ』(井鯉こま)
ほほお、こうきたか、そんな感じだ。う~ん、互いに裏返った〝性〟と〝言語〟を生業とせねばならぬ主人公二人にアイロニカルなものを感じつつも、意味立て読むことを拒絶(無化と言ってもいい)する強靭さがこの作品にはある。但し、文体はさして新鮮には映らなかった。それは物語を紡ぐ上での必然性が弱い箇所が散見したためだ。つまりはそこにこそ「損壊」がある。マリオ・バルガス=リョサなどラテンアメリカ作家と比べた時、主と述の混在にそもそも日本語が耐え切れぬことが理由かもしれず、このような企ての果ての〝日本語〟の宿命としての「悲観」を見ずにはいられなかった。
●『こころ』(夏目漱石)
何回目の再読か定かでないが彼がこれを書いた年齢を超えてからは初めてだった。テキスト性が強く、様々な解釈や記号の組み替えが可能なのは衆目の一致する所であり、「K」とは、否そもそも「先生」とは一体何か、人がひとたび倫理を離れたときどうなるかなど、読後、様々な思いに浸らずにはいられない。言うまでもないが人間の過去、現在、未来は地続きで、ずるずると蔓をどこからでも引きずり出せば歴史の残滓の積み重なった土埃とともにグロテスクな相が露わになってくる。そこで思うのが、果たして漱石は〝ある思い〟があってこの作品を書いたのか、それともむしろ〝書くこと〟で何らかの思い(=こころ)を形成しようとしたのかと言うことだ。もし後者だとすれば、宮沢賢治の『眼にて云ふ』の小説版ということになる。つまり登場人物はそれぞれに実は誰でもよく、入れ替え可能であり、物語の展開も、かりにまったく反対の行動をしたからといって大差ない帰結の場へ戻ってくる、それこそ“のっぺらぼう〟の構造をもっているということだ。そのような意味からも『こころ』はそもそも「損壊」と「悲観」を免れているというより、最初からはそこと切り離された場所に位置する特異な作品であることに間違いない。
●『スクラップ・アンド・ビルド』(羽田圭介)
真面目さはわかる。構築された〈関係性〉のようで、実は作者内部での自立的意識の「損壊」した、ただの憶測と思い込みによる他者との〈状況〉が「悲観」を通じて描き込まれているだけだ。ならば日常を〈異化〉するほどの「情報」や「力学」があるかと言えば、それも見つけることはできない。
●『火花』(又吉直樹)
この作品で唯一認める点、それは「カタルシス不全」の現代において、療法として不用意に「損壊」を救うための処置として「誕生」と「死」の場面を禁じ、一度も登場させなかったことだ。構造の平板さが否めないのはその必然で、根底には作者の「倫理」の問題が関係し、「悲観」を取り敢えずは意識的に忌避する術は心得ているように思える。
●『コンビニ人間』(村田沙耶香)
驚きだ。コンビニ内のファンクションの一部としてマニュアルに沿い〈労働〉をそつなくこなすことで「世界の部品」になった実感を肯定的に「崩壊」せず得れるとは。作者の〈世界〉観はほぼ〈世間〉と同一で「時間」に歪みもなく、したがって「悲観」とも縁遠い。単調で予定調和の会話が満ちる、ただそれだけなのだが。このような、無作為な逆ベクトルの導入もありということか。
●『ソラリス』(スタニスワフ・レム 沼野允義訳)
突き詰めればソラリスに広がる絶対的他者である「海」は個々の自意識そのものだ。その意味で、ここに「損壊」も「悲観」も溶け込み眠っている。だが、問題は舞台でなく地球の内外問わず、人間が「人間」である以上、いかに自己欺瞞の大海原を帳尻を合わせ泳ぎ切れるかであって、SFの場をかりながら見事に二極の海原をモーゼとなり渡り切った。
●『泰平ヨンの未来学会議』(スタニスワフ・レム/深見弾、大野典宏訳)
不快である。未来はよりグロで血腥く無節操で「損壊」に満ちている。だがその不快の根底には、私と思い込んでいる「私」が既にレムの指し示す〝何でもあり〟〝境界なし〟の暗渠に留められており、「悲観」も模造された架空の「悲観」でしかなく、脱幻覚を「幻覚」させる薬を服している現実があるだけではないかという疑念についついかられてしまうのだ。
●『ジニのパズル』(崔実・チェシル)
声明文のビラとともに政治的指導者の肖像画を窓から投げ捨てる行為に、今さら如何ほどの「損壊」からの脱却の実効性があるかとか、小説としての〝技法〟の拙さはなどはさておき、久しぶりに声が、そう、確かに作者の生の声が「悲観」を臆せず文体の向こうから聞こえてくる作品である。
●『怒り』(吉田修一)
デビュー作『最後の息子』と比べた際、文体の変化に驚く。暗く打ち沈んだ水底から覗き見ているような感触は消え、まさしくエンターテイメントで平易な文章である。それに追随するように、厄介なのが作者としてはかなり特殊な精神世界を描いているとひたすら思い込んでいる点で、現実社会の相から見れば類型化されたチープな事象に過ぎない。相対的鬩ぎ合いや融和や不和といった二極の止揚からも程遠く、ありきたりな「損壊」と「悲観」の坩堝がこれでもかと展開されている。
●『三四郎』(夏目漱石)
迷羊…。恐ろしい。最終の十三章『森の女』が懊悩しながら「崩壊」とともに迫って来る。咎と罪、偽善と露悪といったように、私たち〈個〉がどんなに目や耳を向け、感覚を研ごうが捉えきれるものは僅かな表壁に過ぎないわけで、論理と実証の狭間はどこまでも暗い深淵と「悲観」が満ち、普遍の保証はどこにもないのだ。

   四、映画に見る「損壊」と「悲観」
●『コットン・クラブ』(フランシス・F・コッポラ)
監督名でついつい見入ってしまい、後でそこはかとなく落胆が過る作品は事欠かないが、この作品の場合、果たして何に惹かれ、あるいは騙まし騙し見せられていたのか、最後には混迷してしまう。一つだけはっきりしているのは若かりしリチャード・ギアでもニコラス・ケイジでもない。グレゴリー・ハインズのタップダンスは本物と言うことだ。そこにはあのマイケル・ジャクソンがいる。靴の滑り、爪先立ち、まさにムーンウォーカーそのものであり、今は亡きエンターテイナーの技に助けられた点で何とか致命的「損壊」を免れている。ただ、内省へ向かうことは一度としてなく、ノスタルジイを横滑りしていくだけという「悲観」は野放図に放置されたままである。
●『風のファイター』(ヤン・ユンホ)
極真空手創始者大山倍達がモデルのコミックが原作で、在日朝鮮人の出自を丹念に描き『空手バカ一代』とは生と死とを深く見つめる点で「損壊」度が違う。それにしても統治(侵略)される側から同じ人物を描くと「悲観」性まで変わるのか。彼がなぜここまで空手に打ち込めたのか、その原点が見えた気がした。
●『キリング・フィールド』(R・ジョフィ)
カンボジアのポルポト政権下の虐殺、大国のパワーゲームの下、西や東へ戦局に合わせ身をずらし悲劇的に生き延びる民衆はまさに政治基盤と地続きで個人の存在が根底で「損壊」している。だがいつもこの映画には致命的な「悲観」を感じる。〝報道〟を主題にしながら〝報道〟による情報とペダントリー的序列を疑わぬ素直さに。
●『ヒットラーの贋札』(シュテファン・ルツォヴィツキー)
生きるため、ユダヤ人のアイデンティティーさえ捨て、敵側の作戦協力を惜しまぬ凄腕の偽造屋ソロヴィッチは「損壊」の象徴である。方や印刷工ブルガーは、仲間の命が脅かされても屈服しまいとサボタージュする。だが、この両者の葛藤を外の一般収容所(者)が無化する二重、三重の構造こそ「悲観」として胸迫る。
●『ガス灯』(ジョージ・キューカー)
シャルル・ボワイエの怪演、イングリッド・バーグマンの体当たり演技、ジョセフ・コットンのこの人なら何とかしてくれるという人柄が滲出た存在感、更にスリリングな脚本と審美な映像は「損壊」の対極だ。それにしてもあれ程の女性を妻にして尚、宝石に目が眩む欲望の底知れなさに哀切な「悲観」を見る思いがした。
●『デルス・ウザーラ』(黒澤明)
一九七五年黒澤六五歳の作品。評価はさておきデルスが出てきた時、おっ、ビートたけし、と思わず言いそうになった自分こそ「崩壊」の罠に嵌まりかかっているのかも。当初、アルセーニエフを三船敏郎、ウザーラを志村喬の想定もあったそうで、まさしくそこには「悲観」寸前の模様がある。
●『パピヨン』(F・J・シャフナー)
孤島からの脱出ぎりぎりまで悩むドガと、その葛藤を察しつつ選択の猶予を最後まで残すパピヨン。この両者こそ際どい「崩壊」関係にある。断崖の波打ち際から抜け出した姿を見届け立ち去るドガの複雑な表情は、相手の行為や言葉とそれに対する自分の責任まで考え抜いたもので、忍び寄る「悲観」を解体してしまう。
●『楢山節考』(木下恵介)
全てスタジオのセット撮影で津軽三味線(太棹)の浄瑠璃調伴奏や詞章ともに幕間には拍子木もあり「損壊」を凌駕する。古典芸能的表現への固執など二十五年後に撮られる今村昌平作品とは「悲観」性において好対照であり、母子の雪山での別離の情感が異様に強調される結果になったのも必然と言える。
●『羅生門』(黒澤明)
木下恵介と黒澤の違い、それは木下は「説明」せずメッセージを発するが黒澤は言い過ぎという点に明瞭である。「勝ったのは百姓」「お前のおかげで人が信じられそう」は以前「損壊」の域だ。特にこれは芥川の『藪の中』が原作なだけに西洋思想の「超自然的存在」抜きに解決不可能なテーマで、そこにも「悲観」は漂う。
●『トンマッコルへようこそ』(パク・クァンヒョン)
寓話性と「損壊」は表裏のようだが、徐々に敵対する南北朝鮮軍や国連軍兵士の心理が細かく描き込まれ、引き込まれていく。音楽は久石譲で、例えそれが「反戦」にしろ、イデオロギー重視の匂いは拭えず、『太陽政策』の延長に生まれた作品の烙印としての「悲観」は疵のようにフィルムに刻まれている。
●『チャイナ・シンドローム』(ジェームズ・ブリッジス)
マイケル・ダグラス行け! ジェーン・フォンダいいぞ! ジャック・レモン最高! そう叫ぶ人間は「損壊」している。原発は何がいけないのか? 安全性? 効率性? 将来性? 否、どれも違う。嘘。そう、そこには巨大な「嘘」と「悲観」がパラレルとしてある事業だからこそ問題なのである。
●『母なる証明』(ボン・ジュノ)
知的障がいの息子と母、社会的位置と封印された孤独を一見冤罪に見えるかに思える事件を背景に描くという、そんな畏まった批判性がこの映画の主眼ではなく、その点で「損壊」とは別の相にある。にしても〈母子関係〉を全く反対の、単なる「悲観」とは別のベクトルで捉えている事に衝撃と刺激を受けた。
●『戦場に架ける橋』(デビッド・リーン)
小説もだがどのようにも読める面白さは大事だし、作品の奥深さにも繫がる。更に表現の多義性を凌駕する作家性、この映画ならデビッド・リーンのイギリス人というナショナル・アイデンティティを前面に出した核は重要で、同時に「損壊」と「悲観」も娯楽性へと融合し、両者が上手く噛み合った稀な作品である。
●『シン・レッド・ライン』(T・マリック)
 今更西洋思想の善悪、超自然存在への揺らぎ、はてはモノローグ多用を批判すまい。あれこれ無意識に思考を口にする事を覚えてしまった者には波長が合う作品であり、そのような意味で「損壊」と「悲観」も肯定されている。
●『ヤング・ガン』(クリストファー・ケイン)
後にスターになる若手俳優が出ているが、やはり『コレクター』のテレンス・スタンプの「悲観」を帯びた演技とジャック・パランス抜きに語れぬ映画だ。特にジャック・パランスは『シェーン』では完全にアラン・ラッドを食い、悪の「孤独」に「損壊」を転換させ、存在感はここでも健在である。
●『カルメン故郷に帰る』(木下恵介)
〝日本〟という共同体に潜む断層を帰郷したストリップダンサーという超越的存在の介入によりコミカルに切り開いて見せる。ある種、透明感さえ抱かせる二人は「損壊」をも無化してしまう。戦後六年の地方の変貌する風景は現在にも通じ、境界内での人間の精神構造の変わらなさと日常に潜む「悲観」を見事に描いている。高峰秀子の存在感は絶品。
●『タップス』(デヴァリー・フリーマン)
ベイシュ将軍(ジョージ・C・スコット)が校長を務める陸軍幼年学校兵士を若き ティモシー・ハットン、 トム・クルーズ、 ショーン・ペンらが演じる。「教育」の恐ろしさに尽き、間主観と間身体性の「損壊」が迫る。名誉や正義と言った大義のまやかし、他者を巻き込んだ利己主義性はファシズムによる排除の機能の一部としての「悲観」を形成するのだ
●『息もできない』(ヤン・イクチュン)
思い浮かぶのは『竜二』や『その男、凶暴につき』など〝暴力〟を前面に押し出し、内奥に潜む過去の体験との連関性を描出するパターンで、「損壊」しきった世界だ。一見外界(他者を含む)の実在性を基盤にしているように見えつつ、実は無関係性故の観念(疎外)としての恐怖を「悲観」とともに感じてしまう。
●『あかね空』(浜本正機)
「絆」とは何か。他者を通じ(ているかに見えながら)実は、時間性の中で生じた齟齬(=「損壊」)を噛み砕き、自己が自己との和解を遂げる事ではないか。その意味からも理由や筋は関係なく、個別性を自覚した先に「関係性」も見えてくると思われるが、原作があるゆえ「江戸」という舞台を選択せざるを得ず、現代人の感覚を多少無理押しに嵌め込んだところにこの作品の「悲観」は潜んでいる。
●『祇園の姉妹』(溝口健二)
無駄がない。音楽も効果音もない。台詞も動きも虚飾は排除され「損壊」の極致だ。恐ろしい。人の営み、感情に囲繞された行為が。〝おもちゃ〟はそれを知っている。彼女が権利を主張する〈新しき女〉と見るは安易だ。生きる事を畏怖する直観としての実存、「悲観」を体現している只それだけ。
●『デビル』(アラン・J・パクラ)
北アイルランド紛争の歴史的背景が描かれず、アメリカハリウッド的に転化されたステレオタイプな活劇であり平易な「損壊」そのもの。イギリス政府の実態、IRAと民衆との距離を描いたものとして『父の祈りを』が秀逸だと思うが、恐るべき疑わしき事実を忠実に描き切れば、自ずと「悲観」は露わにされる。
●『恋するトマト』(大地康雄)
トマト栽培の様子を見ながら、同じく閉塞と疲弊、都市化による世代断裂と「崩壊」の淵に立たされる地方農民の姿を描いた『遠雷』を思い出すが、個が破壊され犯罪を含めた内向へ進む「形」は類似するもののその度合、描き方、テーマがまったく違う。〝恋〟は「悲観」をも凌駕する特効薬か。
●『かもめ食堂』(荻上直子)
女性の〝共感性〟のみを柱に、ここまで他のディテールを排除し映画を作れる環境が生れたことにある種の畏怖を覚える。経済がない。生活がない。必然がない。当然「崩壊」もない。小林聡美、もたいまさこ、片桐はいりの演技がいいかどうかもわからない。「悲観」を始め幻想を捨てるべき時がきたのかもしれない。
●『ディア・ボロス/悪徳の扉』(テイラー・ハックフォード)
本能と理性の葛藤を柱に神への告発と冒涜を図式的に捉え、「崩壊」をも単純化して見せる。レヴィ=ストロースの交叉イトコ婚を例にとるまでもなく、問題は葛藤を回避するかに見せかけ作り上げた構造が実はより無秩序であり、広範な「悪徳」と「悲観」を内に持っているという事だ。
●『ブラス!』(マーク・ハーマン)
茶褐色のレンガ造りの社屋、石炭を運び出す巨大な巻き上げ機。舞台は数十年前のイングランド北部の炭鉱町だがどこか懐かしい。国策のもといとも簡単に閉山と解雇へ追い込まれ「崩壊」していく現実。利害と絡まればかくも容易く世論は作り上げられ「悲観」への転換は図られていく。
●『キャタピラー』(若松孝二)
戦場で四肢を失った元兵士と介護する妻と聞いただけで「崩壊」感が滲む。日常の振る舞いと非日常との連結。時として逆立し想起され、やがては弱者として凌辱した中国民間人と重っていく。つまりはPTSDの方が重大という事か。筆談もできるだけに関係性を深め、二人虚無と「悲観」を漂ってほしかった。
●『安城家の舞踏会』(吉村公三郎)
チェーホフの『櫻の園』が下地であるものの新藤兼人のイデオロギー色を消した脚本は良い出来だ。滝沢修、森雅之の「崩壊」しかかった陰影深い演技に原節子の正に適役ともいうべき存在感は吉村のダイナミックなカメラワークに充分応え、「悲観」を逆撫でしている。
●『切腹』(小林正樹)
何度見ても〝イタイ〟映画である。武家社会の「エゴ」のぶつかり合い。どちらにも都合の良い正義があるようで実はその基盤さえ最初から存在しないことを明証している。つまり「損壊」を全肯定した地点から始めているところにこの作品の凄みがある。浪人侍(仲代)と家老(三國)との問答は我々がルールに従い生きるのでなく、生きる後付け(背景)としてルールは常に生み出され、実存在を制約してきたことを照射し、壮絶なラストにはもはや表層な「悲観」など入る隙はない。
●『ドゥザライトシング』(スパイク・リー)
被差別的状況とは何か。この言葉がもしもまだ死語化していないとすれば「損壊」も含めこれほど解りやすく、説明や啓蒙に陥らず豊かに表現している作品はそうざらにない。センス(感性)でどれだけ「悲観」を構造的に描けるか、試金石の作品。
●『独裁者』(C・チャップリン)
同じ一八八九年四月に生まれたチョビ髭の二人。堂々とファシズムと向き合い映画という手段で抵抗した彼が戦後〝赤狩り〟で追放されたとき過ったものこそ大いなる「損壊」だったのではないか。米国もナチスドイツと何ら変わらぬとの絶望であり、シルクハット片手のあのスマイルの「悲観」である。
●『街の灯』(C・チャップリン)
目が見え、健常者としての生活をとり戻したとき、彼女は差別性を露わにする。それは悲劇でも喜劇でもなく、社会構造の与えた冷厳な「損壊」としての事実だ。しかしチャップリンはそんな二項対立次元より遙か高みから「悲観」の及ばぬ世界を見つめている。
●『モダン・タイムス』(C・チャップリン)
チャップリンの作品を見るとドストエフスキーの小説を思い浮かべずにはいられない。日常に偶然を蔓延らせ、狂気と正常の境界をいとも簡単に交錯させしてしまう〝滑稽〟の裏には、一筋縄ではいかぬ強靭な「損壊」が横たわっている。優れた芸術が常にそうであるように、自分の写し鏡のような既視感に覆われた深い井戸の底を覗くと、細い水路と繋がった「悲観」が淡い光を浮かべているのだ。
●『武士の一分』(山田洋二)
人は結局のところ欠乏するものを求め、追いかけ、補完しようとするものか。失明したからこそ見えるのでなく、だからこそ「見る」ことを深く求める自己との乖離に「損壊」が生じる。感覚が研ぎすまされるのはその結果に過ぎず、繰り返されるこの営みを繋ぎとめるものこそまだ見ぬ他者と紡ぐ「悲観」かもしれない。
●『アビス』(ジェームズ・キャメロン)
米ソ冷戦下、宇宙と見紛う深海でのリベラル派女性の活躍と紛争をギリギリで、超然的異星物の出現により回避するいかにもキャメロンらしい演出であり、それを旧体然とした不毛な「損壊」ととることもできるが、古風さが、時々の社会状況に向き合う証だと「悲観」こもごも納得してしまえば充分かも知れぬ。
●『ディア・ドクター』(西川美和)
〝偽医者〟を無医村に置き共同体内の「損壊」とともに複層的テーマ表出に成功した。たった一人、村民の医療を委託される医者の〝孤独〟。正式な医者との対比、そこまでして医師を経験したかった彼と父との関係等々の真実が暴露されたとき、また一つ無医村が誕生した現実は作動因として「悲観」が覚醒したのであり、重い。
●『クレイジーハート』(スコット・クーパー)
互いの生き方に魅かれつつも、だからこそ一緒にはいられぬことも熟知する二人。他者を愛することで自己を見つめ「損壊」を回避しながら変わっていくプロセスをカントリーミュージックをバックに淡々と描く。大きな事件こそないが、日常での個の思いと逆立する感情表出と機微に「悲観」が裏返されていく。
●『大人の見る繪本 生まれてはみたけれど』(小津安二郎)
二十九歳で撮った小津の力に驚く。ただ一一九三二年当時の都市部サラリーマン家庭が果たして「崩壊」の影もなく、こうだったのか。父親はどこまでも紳士的で母親は女神のように優しくコミュニケーションにも長ける。一九六一年生まれの私にさえ異国の世界を見るようで、そのギャップが「悲観」を滲ませた。
●『失われた週末』(ビル・ワイルダー)
アルコール依存症の現実を僅か二日間にこれほど凝縮してみせた作品は他にない。摩天楼の片隅の酒場で一杯、一杯と飲むたび変貌していく売れない小説家は「崩壊」そのものだ。銃で自殺を図ろうとする彼に、死を選ぶくらいなら今のまま生きてくれた方がいいと酒を勧める恋人の言葉は「悲観」を超え切実に迫る。
●『キャスト・アウェイ』(R・ゼメキス)
人は結局、どんな状況下でも身体に刻み付けられた規範に従い生きるしかない。重要なのは主人公がある程度の年齢まで現代社会で生き、疎外体として「崩壊」途上にあったことだ。この作品が優れてアレゴリカルな要素を持ち得る条件はそこにある。私たちは皆その意味で無人の孤島に暮らす「悲観」を内包した漂流者なのかもしれない。
●『アウトレイジ』(北野武)
抗争、殺人、指詰め、復讐、この単純明快な繰り返しの徹底は挑戦であり、共感関係の「崩壊」である。北野は指示的な言語による説明を極力省き、リズムだけでどこまで鑑賞者をついてこさせるかという、極めて「悲観」的試行をやっているように思える。
●『幸せの一ページ』(マーク・レヴィン)
プリミティブ性を前面に現実世界と空想を映像で結びつけ、生死の均衡の「崩壊」を防御する手法は、原作が児童文学であるのを考えれば納得できる。ジョディ・フォスターが出てから俄かに重厚さを増すのも、自然保護運動の宿痾としての「悲観」性と正面から向き合う証拠だろう。
●『リトルダンサー』(S・ダルトリー)
技術面はそこそこにパッションと可能性を感じさせるダンス演技の危うさと引き換えに生活者としての「崩壊」をうやむやにした感は否めない。ただそれをブリティッシュロックの名曲が補い、〝鉄の女〟の政策が間違いなく石炭の町に〝革命の子〟らを誕生させたのは「悲観」の裏返しと言っていい。
●『捜索者』(ジョン・フォード)
先住民を暴力で駆逐した事実より、その歴史性がなぜつくられたか、背景に拘る姿勢は評価に値するが、結局は侵略者側の論理であり、どう贔屓目に見ても歴史に目的性を持ち込んだ「崩壊」を孕む古い砦に過ぎない。ジョン・フォードの作品には何か常に惜しい感触があり、それこそが尽きぬ「悲観」である。
●『ミラーを拭く男』(梶田征則)
これは緒方拳のサイレントだ。究極に役者が目指したいものは台詞を削りに削った身体と表情からの演技であり、その力で「崩壊」と「悲観」を見事に乗り切った。
●『ゴッドファーザー』(フランシス・F・コッポラ)
父ヴィトーなき後、ファミリーを率いた三男マイケル。その徹底した戦術と粛清にやがて妻も離れていく。それは〝他者〟を自意識内でしか捉えない「損壊」の哀れな結果だ。だが、彼が兵役から勲章をさげ帰還してきたとき、戦地でおそらく行ったであろう殺戮は不問に付してきた者たちに、どんな批判の猶予があるのか。そこにこそレスポンス・アビリチィー(責任)の放棄としての「悲観」がある。

参考文献
・カール・マルクス『経済学批判』武田隆夫、遠藤湘吉、大内力、加藤俊彦訳・岩波文庫
・マルティン・ハイデッガー『存在と時間』細谷貞雄訳・ちくま学芸文庫
・夏目漱石『三四郎』夏目漱石全集5・ちくま文庫
・トルーマン・カポーチィ『冷血』佐々田雅子訳・新潮文庫
・G・ドゥールズ/F・ガタリ『哲学とは何か』財津理訳・河出文庫
・宮沢賢治『眼にていふ』「疾中」より・新編宮沢賢治集・天沢退二郎編・新潮文庫
・ユヴェル・ノア・ハラリ『サピエンス全史・上巻』河出書房新社

損壊と悲観~両者の変域を考える~

2020年4月29日 発行 初版

著  者:宮本誠一
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宮本誠一

1961年熊本県荒尾市生まれ。北九州大学文学部国文科卒業後、学習塾講師、大検(高卒認定)専門予備校職員などを経て、熊本県小学校教諭に採用。二校目の赴任地(阿蘇市立宮地小学校)で、卒業生である発達障害の青年との出会いをきっかけに33歳で退職し、当時阿蘇郡市では初めての民間での小規模作業所「夢屋」を立ち上げました。その後、自立支援法施行に伴い、「NPO夢屋プラネットワークス(http://www.asoyumeya.org/)」を設立し、地域活動支援センター(Ⅲ型)代表兼支援員として阿蘇市から委託を受けながら現在に至っています。 運営の傍ら、小説、ノンフィクション、児童文学、書評などを発表してきました。部落解放文学賞に5回入選、九州芸術祭文学賞熊本県地区優秀賞2回、熊本県民文芸賞、家の光童話賞優秀賞などを受賞させていただいています。

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