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游人たちの歌~ある自閉症の青年らと生きて~
第一章 幼い日の記憶と体験、そして北九州での出会いを経て
一、有明の海の底から
私は、一九六一年、熊本と福岡の県境である荒尾に生まれた。大牟田の三池鉱にならび、四ツ山、万田鉱といった日本有数の石炭の産地だ。高度経済成長期の幕開けであり、翌年には、合理化の波の中、「総資本」対「総労働」という嵐のような激しい争議が吹き荒れたそんなときだ。
私の通った校区にも、宮内社宅と大平社宅という炭鉱住宅があった。そして私を幼稚園から小学までの八年間、いじめぬいたヤマダもその住宅にいた。
あれは小学四年のときだ。私は、一度、彼の家に連れていかれたことがある。縦横真っ直ぐに碁盤の目のように配され、軒先を並べた家屋の群れは、それ自体明らかに別の町のようだった。彼はその炭住に入るやいなや、さらに態度を大きくし自信に満ちた姿になった。私は、いよいよ逃げ出すにも容易にできぬ地点にきたことでそわそわし、内心胸が張り裂けそうだった。実際に、何をされるかわからない、そう思った。
その数日前、私は彼に歯向かい、「帰るな」というのに黙って家に戻っていたため、次の日、朝学校でコンパスの針で腿を刺されるという目にあわされていた。そのとき教師は、私が泣いているのに気づき理由を聞いたが、さらなる仕返しが怖く黙っていた。その日はそんな彼が、こちらの改悛ぶりを試すテストだったのかもしれない。彼は開き戸の扉をガラガラっと勢いよく開け框にランドセルを投げ出すと、突然糞がしたいと言い出した。私はそのひと言に逃走のチャンスができた、そう思った。まさか便所にいるときまでこちらに目が注がれることはない。まさしく本能的なものだった。目の前の危険を避けることに必死で、後の報復を考えていなかった。いや、それほど状況は切迫していたのかもしれない。私はもしかすると彼にこの家で殺されるのでは、そう思っていたほどだ。
ヤマダはじろりと私をふりかえると、たしなめるように「今日は、逃げるなよ」とどすの効いた声でつぶやいた。それから向こうのとった態度はさらにひどかった。私がそのまま玄関に座っていると、入ってすぐの真向かいの場所にあった便所の扉を開け放ったまま、今度はのうのうと糞をたれだしたのだ。ニヤニヤと嗤い監視しながら、さもお前の逃げ場はもうどこにも残ってはいないぞと言いたげにである。私は仕方なく、彼の尻部から、黒いものが押し出されるのを黙って見ているより他なかった。そのときだ。幸運にも同じ炭住に住む二つ年上の子が遊びにやってきた。彼は、玄関に入りしな、その情景を見て呆れ、「戸ぐらい閉めたらどげんや」とヤマダに告げたのだ。
彼の思いがけぬ出現に安堵の胸を撫でおろし、単にヤマダの態度を非難したのではなく、私との関係を素早く見てとったのではと、その一瞬の眼差しに救いの匂いを嗅ぎとった。体はさほど大きくないが、住宅の小学生の中ではリーダー格の存在であり、社宅ではだれも彼に口答えできぬことを私は前から知っていた。
記憶はそれからヤマダは多少恥ずかしそうな顔になり、おもむろに尻を拭き便所から立ち上がったことを覚えている。
それから、三人でやった遊びはゴム飛びだった。ゴム飛びは最初女子から始まっていたが、男子の中にもかなり流行っていた。二人が持ち一人が飛びながら順繰りに交替し、少しずつ高くしていく。季節は日の短い秋だった。市役所から五時の鐘がなり、しばらくすると太陽は藍色に染まり、有明海の方角に仄かな光をたたえながら傾いていた。私の家はその社宅から普通に歩いても四十分はかかる。
「おい、まだよかろう、ねっ」
ヤマダはしつように私に帰ることを延ばすよう、低くくぐもった声で求めた。私は輪ゴムをつなげた指先をもどかしげに持ったまま、引きつった顔で承諾した。
そのとき、またしても彼が、私がいったいどこの地区の子であるのかをヤマダに聞き、「そりゃあ、遠かやっか。もうやめるばい」気の毒そうにささやき、その日の遊びの終焉を告げたのだ。
ヤマダは無念な顔をし、私を見た。私は状況が変わらぬうちにと、とってつけた挨拶をし、家路についた。
藍色から紅に染まっていた炭住地を抜けた私は、次第に靴の踵も軽くなり、やがて駆け足になった。早く家に帰り着きたかった。まさしく一日の役目を負え解放された気分だったが、同時に惨めな自己への悲しみも消えなかった。父や母、それに姉の顔が浮かび、いとおしさを覚えた。途中、ガードレールから有明海が一望できる。海苔網の張られた竹の一本一本がはっきりと見てとれた。その中には私の家の竹もあるはずだ。深夜、海に出かけ、明け方網からとった黒々とした海苔をコンテナに入れ、リヤカーに積んでくる父とその後ろを押す母の顔が浮かび、自分の弱々しさを知ればどんなに悲しむだろうと切なく、そして情なかった。夕日は今にも、その紅の一部を数千の竹の影を映しとった稜線の彼方へ沈み込ませようとしていた。そのとき海は、それ自体、巨大な生物の肢体のように横たわり、薄闇の中に濃い翳りをおびた雲仙岳を妙に鮮明に浮き上がらせていた。
中学になると私はヤマダとの距離が保てるようになった。というよりヤマダがすでに私に飽きてしまった。私は無表情になり、ヤマダと言わずだれからも距離を置き、心を開かなくなった。皮肉なことにヤマダのいじめがなくなったとき、今度は私自身があらゆることに反応を鈍らせる子どもになっていた。ヤマダは、私をいじめていた過去も忘れたかのようにぬくぬくと野球部のピッチャーとして活躍していた。私の冷めた感覚は、教師からも気にいられていなかった。そのことがわかっていながらもどうすることもできなかった。
二、茜さす地、北九州へ
そんな私が、高校を卒業後、選んだ場所は、かつて鉄鋼の街として、荒尾、大牟田と同じく、この日本を支えてきた北九州だ。
熊本にいるとき、いじめにあい、もっぱら内にこもり、人との関係をつくれずにいた私は、むしろこの北九州の地で、己とは何かを探る基盤である「自我」を獲得する契機を得た。とくに今、「夢屋」をやっていて、私の中に障害者とかかわる下地をつくったボランティア組織「障害児の遊びを考える会」、通称「遊びの会」なくして、今の私は語れない。
「遊びの会」は、一九八一(昭和五十六)年に正式に設立した。
中心となったのは、当時、生活団で幼児教育に携わっていた柴原良子さんと北九州市の外郭団体、社会福祉事業団に勤務していた森本康文さんである。二人が、社会福祉法人「あゆみの会」の在宅訪問指導員としてボランティアで出会ったことがそもそもの出発だ。一九七九年に施行された障害児の就学義務化に伴い、時代はまさしく分岐点に差しかかろうとしていたころである。
それまで、肢体不自由の幼稚園児のサービスがなく、通称「亀の子保育」で週に一度、療育的活動をしていた柴原さんは、既に二足の草鞋を履く身でありながら、法改正にともない、小、中、高までの児童、生徒の余暇をどうすれば充実したものにできるか、森本さんとともに検討を始めていた。
「とにかく、日頃、外に出ることの少ない障害をもった子どもたちに、より多くの場所や出会いの機会を与えたい」
二人は、東筑紫短大ボランティア部の学生と家庭訪問活動を行い、本人や親の思いの聞きとりをし、家庭的な雰囲気の中での、月一回の遊びの例会を始めたのだった。
在宅から就学という形を変えての障害児の社会参加の意識の波は、たちまち加速、参加者は増加の一途をたどっていく。
数十名に膨れ上がり、東筑紫短大のボランティア部だけの力を借りての運営だけでは、ままならない状況となり、思いきって会を組織化させ、より綿密な計画と準備のもとに、月一回の例会を行う形に変更していくことになるのだ。
だれもが入りやすく親しみやすい雰囲気を大事にしながらも、『母子分離』『地域社会に根差した活動』『健常児との交流』という三本柱を掲げ、会が正式に発足して二十四年たった現在も、それは崩れてはいない。
小倉北養護学校の隣にある「こども文化会館」を拠点に、一度の例会のために最低三回の話し合いを行いながら、『サマーキャンプ』『バスハイク』『クリマス会』といった大きな定例活動も行うようになった頃には、会員でなく、実際の参加数だけでも百名を越す大所帯となっていた。当然、スタッフを充実させるため、北九州市内の各大学、様々な職場から広くボランティアを求めるようになり、私は、そんな中で、先に会に参加していた大学の同級生、中村修に誘われ、出向くようになったのである。
一浪し、私より一つ年上の修は生活力が豊かで、よく文学の話をしたり、青春期につきものの恋愛や将来のことなど人生の相談に乗ってくれる相手だった。
私の方はと言えば、大学二年から自治会活動に熱心になり、自治会や大学祭の実行委員会の選挙に五度出馬するもすべて敗退。三年のとき新入生歓迎の実行委員長はやったものの、学生というモラトリアムの甘えた環境の中での政治的活動に徐々に白々しさを感じ始め、しだいに下宿に引きこもりがちになっていた頃のときである。
ボランティアとして参加した最初の日のことは、今も鮮明に覚えている。季節は秋だった。私が大学四年のときだ。
前日の夕方、修は、ホンダのステップバンで、私の下宿へひょっくりやってきた。
「おまえ、明日、ひまや?」私が頷くと、
「ボランティアしてみんか」
「え?」
意外な言葉にきょとんとしている私へ、修は気にもせぬように、つづけた。
「障害児の運動会があるとばってんさあ、手がたりんけん、とにかくきてくれたら助かるんよねえ」
生まれ故郷の彼特有の広島弁と北九州の方言が混ざった独特の節回しで、私はまんまとのせられたのだ。
その夜はなんとなく緊張し、朝早く目が覚め、そわそわしながら彼の車を待っていた。会場は、小学校のグラウンドだった。
ダンボール箱をつかって機動戦士ガンダムに変装したスタッフや、てきぱきと準備するボランティアの姿に、生来の出不精で社交的でない私は自分には場違いな空気を感じていた。開会式の前に大会役員の柴原さんを紹介され、一人の子どもを任せられた。それが知的障害児で多動の中学一年ぐらいの男の子だったと記憶している。とにかく、いっときもじっとしていない。砂遊びをしたかと思うと、ぶつぶつつぶやきながらつぎの目的地へ歩くというか、小走りで向かう。障害児とまともに接するのが初めてだった私は、すでに開式の前から、その子についていくのがやっとで、へとへとになっていた。そして、こんなことで一日もつだろうかと、正直、不安にもなっていた。
いよいよ開会式が始まった。行進はせず、そのままグラウンドへ集合という形になった。豊の手を引きながら、動揺を抑えきれず、思わず前にいた女性に聞いていた。
「ぼくで、だいじょうぶでしょうか?」
すると、私は決定的な、今でも福祉活動といわず、生きる上での教訓としている言葉をもらったのだ。
女性は、自分の担当している女の子の手を握り、振り向き様、ニッコリ微笑むと、
「あなたにも、介助をつけましょうか」
そう発したのだった。皮肉とも励ましともとれるその一言に、私は、つぎの言葉が出てこなかった。これが現実なのだ。私が一人で見れないということは、すなわちこのことを意味する。
それぞれに一人を担当し、それが運営としては精一杯なのだ。そのときようやく私は、冷静に周囲を確認できた。けっして他のボランティアたちも、簡単な子たちの世話をしているわけではなかった。運動場にしゃがんでいる子、叫びながら今にも力づくで離れようとしている子と、障害の重さ、軽さ、種類も様々だ。
私は、緊張のあまり自分しか見えず、他人のことを考えてもいなかったことに気づかされた。私はあらためてその子を見た。なるほど手はかかりそうだが、たまにじっとしている横顔は可愛げがなくもない。とにかく今日一日、この子とつきあうしかない。私の覚悟は決まった。
「よーし、こうなればとことんいっしょに動いてやれ」
吹っ切れたのかもしれない。それまでは、なんとか他の子たちといっしょの行動をさせよう、させようと焦っていた私は、どだいしようとしない彼に、逆にこちらがついていこうと切りかえたのだ。
私はその時点で別に、今後もボランティアをしようなどとは、ぜんぜん思ってもいなかったし、一日だけ部外者として手伝いに来たつもりでいた。ならば、とにかくたいしたことはできないし、せめて思い残すことなく豊といっしょに楽しんでやろう。
─どうせここにいる人たちとも、今日で会うのは最後だ。
競技に別に興味を示さないその子と、とにかくグラウンドをうろつきまわった。トイレももちろんいっしょに行った。わからないことを言っているときも、積極的に、ときに意地になりこちらから話しかけた。鉄棒をし、運梯をし、砂遊びをし、中庭を覗きにいき、そして、あっという間に一日は終わっていた。帰り際には、相手が次に何をしようとしているのか、少しは勘でつかめるようになっていた。そうなれば相手の思考を先回りして、こちらでコントロールすることができる。
閉会式のときには、開会式には想像できない親密な関係になっていた。すると、また前にいた女性が、振り向きざま言ったのだ。
「私、感動して二人を見てましたよ」
「何にもわからないから、ただつきあっていただけです」
私は照れ隠しでそんなことを言ったことを覚えている。
その日限りと思っていた私の甘い見通しが、少しずつ崩れだしたのはそれからだ。
その夜、柴原さんのお宅で打ち上げがあった。遊びの会のメンバーたちとあらためて顔を合わせた。私は、貧乏学生だったこともあり、その晩、腹一杯ごちそうになった。
食事ができ、酒が飲めるということは、とにもかくにも大きな魅力である。それに一日を振り返りながら、これまで経験したことのない複雑でいて、どこか充実したものが体をよぎっていたのも確かだ。それが何なのか。とかく本ばかり読み、机上の空論や、理屈をこね回しがちな生活を送っていた私にとり、こちらの屁理屈の通らない豊との一日は、人間というものの不可思議さを体感しながらも、塞いでいた体内にスーッと風が通る爽快感があったのかもしれない。
そんな私の心情を見越してか、修は、またちょくちょく会があるたびに呼びに来るようになった。翌年、大学を留年した私は、それを良いことに次第にのめり込み、いつのまにか計画の段階からスタッフとして参加するようになっていた。
療育キャンプを始め、月一回の催し物や、はるばる四国の高松城へ、車椅子をかかえて登ったこともある。栗ひろい、ディスコ大会……。
それにしても、ボランティアのたびに柴原さんのお宅でごちそうになり、満腹になることは大きな吸引力で、いつも手料理で、ニコニコ笑顔で迎えてくれた今は亡き柴原さんの母、トヨさん、そして飼い犬のヒメ、それらが私の肌と合い、くつろげる場所になっていた。いや、私だけではない、多くの遊びの会の独身男性にとり、あの家は第二の我が家にいるようなうちとけた空気があったのではないか。
あれから二十二年たった今も、「遊びの会」は北九州のボランティア活動を支える一翼を担っているし、そこで培った様々な体験は今も脈々と私の中で生きつづけているのだ。
第二章、阿蘇での新たな出発と『自閉症』という壁と向き合って。
一、一人の青年と始めた作業所づくり
一九七五(昭和五十)年、八月二三日、トオルさんは、この世に重度の自閉症児として生をうけた。熊本県阿蘇郡一の宮町立宮地小、一の宮中、そして阿蘇農業高校(現、清峰高校)を聴講生の形で卒業した後、阿蘇町の通所授産施設『くんわの里』へ通ったこともあったが、それが最も安易な選択だったと母親のマサミさんは、やがて気づくことになる。労働生産を基盤とした施設では自閉症の壁は厚く、彼の調子の波はますます落ちる一方だったからだ。しかも園生にひどいいじめにあったこともあり、家庭ではその鬱憤が暴力となってあらわれ、ほどなくそこも辞めざるをえない状況となっていた。家族の中で最もトオルさんをつきっきりで支援していた母親は、いよいよ息子ともども追い込まれていった。
ある日、ひとしきり状態の悪い息子をなんとかなだめ、ようやく眠りにつかせようとしたとき、くたくたになった母親は、ふと思いつめ、彼が眠っているとき胸に跨がり首に手をかけ心中をこころみようとしたことがある。
「殺して、お母さん」
だが、疲れきった目をとろんと開け、抵抗もせず、掠れた声を上げる息子に最後の力は加えられることはなかった。
当時、私は道路を挟んで数メートルしか離れていない宮地小学校に勤務していたのだが、トオルさんと母親の現実をかつて彼を小学一、二年で担任していた教諭で、人権教育を担当し同勤していた竹原ナホ子さんに聞いたとき自らの教師としての無力さに愕然とした。いや、教師ではなく人間としての無力さをまざまざと提示させられたのかもしれない。
その後、私自身、少しずつトオルさんの家へ出向いては、様子をつかみ、家族と会話する中で、自分の生きる場所はむしろこちらの方ではないかと考え出していた。
たとえ私が教師を辞めたとしても、その穴埋めは、毎年、多くの採用試験を受ける者で可能だろう。だが、トオルさんとその家族を支え、彼の生きる場所をいっしょにつくっていく者は見渡したところ、これからもずっとあらわれそうにない。
北九州の地で学生時代を過ごし、ボランティア活動を通し、障害者と健常者がともに生きる空間に、豊かな思いを感じていた私は、教師になってからもどこかで、そんな場がつくれないものかと心の隅で思っていた。
私は、ふつふつと抱いていた共生への思いを断ち切れず、ついに学校ではなく、トオルの自宅一階を改造し、作業所をつくることで、人と人とのかかわりへの問いと実践を自分自身に突きつけることを決意したのだった。
一九九五年、四月、トオルさんが高校を卒業した翌年、彼が十九歳、私が三十三歳のときである。
作業所づくりを始める少し前、トオルさんは『くんわの里』から大津町の厚生施設『三気の里』へ移ったばかりだった。いじめの後遺症は消えず、とくに男性を見ると怯え、相手の顔目がけ唾吐きをやるまでになっていた。それ以上悪い状態になることを怖れた私たちは、まずはトオルを施設から退所させることに決めた。
夢屋の設計は、トオルさんがいかに生き生きと活動できるかを中心に、私とマサミさん、そして竹原さんで考えた。通り一遍の作業所にだけはしたくない。地域の人たちが気軽に立ち寄り、お互いに深く学び合え、交流できるものにしたい。そこで、当時、熊本では初めての喫茶方式を取り入れ、メインの運営基盤としてマサミさんがそれまで趣味として温めていたパンづくりを組み込むことにした。パンづくりは、作業工程が幾種類もあり、重度の障害者でも自分に合った形で参加できると考えてのことだ。問題の改築の資金は、竹原さんが銀行から借り、融資してくれることになった。彼女も、長年教師という立場で障害者や被差別の子どもたちの背負わされた課題と取組みながら、夢屋が地域で生きる障害者にとって「自立」の場として成功することに懸けていたのだ。もちろん、できるだけお金をかけないため、素人でやれることは自分たちでやっていくとの条件である。
唾吐きは、いじめによる心理的なものが原因であることはわかっていたので、トオルさんが唾を吐いてもけっしてこちらが高圧的にならないよう根気強い対応の中で少しずつ消えていったが、むしろ悩ませたのは、自閉症特有の〝こだわり〟だった。トオルさんにはある一つのことが気になりだすとその世界から抜け出せなくなる性格があり、その頃は、テレビ番組の出演者が練習するかしないかと、タレントの誕生日などに嵌りこみ容易に鎮まりそうにない状態だった。私は、作業所の本格的な工事にとりかかりつつも、まずそんな彼と向き合い、信頼関係をつくることに全力をそそいでいった。
作業所づくりを始め、まだ間もない五月頃のことだ。
「ミヤモッさん、アンクルにまた電話してよか?」
アンクルとは、彼の大好きな女優が所属している事務所の名前で、私はくわしい手紙と、正確には四度、その事務所へ電話をかけ、ついにその女優のトオルさん宛ての返事を実筆で送ってもらえるところまで社長と話をつけたばかりだった。だが、再三の催促にもかかわらず手紙は、まだとどいていなかった。
「トオル、ムリよ。そんなこと調べるとは」
「ボク、わがままね?」
「そんなことなかばってん、、宮本さんにだって、ムリなこつもあっとよ」
「やっぱ、ボク、わがまま?」
トオルさんは、深い皺を痣のように額ににじり寄らせる。
「そげんたい、わがままたい。とっても」マサミは念を押した。
「やっぱりか……」
そう言うとトオルさんは言葉とは裏腹に、キッとマサミさんを睨みつける。
「やっぱり、わがまま……」
トオルさんはじりじりと母親に歩み寄っていく。片方の太い手が彼女の肩口をつかもうとし、思わずそれを彼女はふりほどく。
「どげんしたつね」
仕事にやって来て、まず初めに私が、自分なりに気持ちを切りかえ親子の抜き差しならぬ渦中へ入る覚悟をきめるのはそんなときだ。すかさずターゲットが私へと移行する。
「ねえ、ボク、わがまま、ミヤモトさん?」
トオルさんは私のことを、ときにはミヤモトさんと言ったり、たまにそれがミヤモッさんにかわったり、またさらに親しみをこめミヤモッちゃんと呼んだりして使いわけていた。そのときのトオルさんは訴えるような、支えにするような目をしていた。まるで今にも泣き出し叫びだしそうな顔だ。だがそう簡単に泣かないことを私もマサミさんもよく知っていた。
「わがままじゃないって言よるどが。だけん心配せんで、おれに話してん」
「あんね、あんね、ミヤモッちゃん」
トオルさんは、神妙な顔になった。少し道が開けてきたのか声のトーンが急に高くなる。私はそんなトオルさんの豹変ぶりに気がぬけそうになった。
「ミヤモッさん、道路を歩いている人が練習したつホント? また調べらる?」
トオルさんの聞きたいことは実はこのことなのだ。彼は、ここ数日、私と二人で確かめたことをまだ疑っているのだった。
「そのこつはテレビ局に電話したら、ちゃんと担当ん人が答えてくれたろが。ほとんどはエキストラでただの人って。だけん撮影に気づいている人とそうでない人がいるだけって」
「エキストラ」
トオルの目がキラリと輝いた。私はしまったと後悔した。不用意に新しい言葉を使い、説明してしまったことをだ。
「じゃあ、エキストラは練習せんと?」
「練習しない」
こうやってお決まりの拘泥へ向かう経路がいつもつくられるのだ。
「どうして」
「セリフがなかけん」
「セリフがある人は」
「それは役ばもらっとる人」
「それはどがんしてわかると」
「セリフば言うかどうかでたい」
「練習はせんと」
「そん人たちはする」
「どうしてエキストラは練習せんと?」
「必要なかけん」
ほんとうは、エキストラでも練習する人はするし、しない人はしないと私はトオルさんに言いたい。だが、それこそが一番の混乱をもたらす答え以外の何ものでもない。AはAであったりBだったり、Cだったりするのではなく、AはA以外のなにものでもなく、BはB、CはCでなければならない。けっきょくはそれが唯一、彼を納得させる答えになっているのだ。でも、それもしょせんはトオルさんの不安をしずめきるに完全な役目を果してはくれない。
時間になればまた彼は混乱の真っただ中にもどっている。ちょうど一枚のパズルが完成し、せっかく埋まって安定していたものがたった一つのパーツが抜けることで、崩れ落ちていくように、いつのまにか彼は自らそのパーツをどこかえやってしまう。いや、やってしまうどころか一か所だけ別のパーツを捜しだしてきてわざわざ自分の手でつめ込んでしまうのだ。たちまち全体の均衡はくずれ、その一つだけちがう異物のため他のパーツ全部までやりなおさなければならなくなってくる。ぎっしり隙間なくつまった状態で他のパーツとの入れ替え作業は並大抵のことではない。
「あっ、もしもし、朝日テレビでしょうか。すいません。テレビドラマ制作部のデスクの福川さんお願いします……あっ、もしもし、宮本ですが。どうもすいません。いつもいつも。実は猛がまた例の練習のことを気にしていまして。ええそうです。はい……ああなるほど。エキストラは専門のプロダクションにたのんでいるからわからないんですね。ええ……それから、練習はしないと。わかりました。そう伝えます。どうもお忙しいときすいませんでした」
トオルさんは食い入るように私の顔を見つめていた。私もそんな猛を意識してか、彼の一番知りたいところを強調するようにわざと声高に受話器に向かい答えた。
「トオル、やっぱり練習はせんてよ」
「福川さん、言よった?」
「言よらしたよ」
「心、配、だ、な」
「なんも心配せんでよかて」
「福川さん、くわしか?」
「もちろん、あの人はデスクばい」
「デスクってえらかつ?」
「えらいえらい。ボスと同じばい。お前の好きな刑事ドラマと同じたい」
「テレビできたときからいたと?」
「ああ、大丈夫。偉い人だけん、旧かはずたい」
「旧い?」
「そう。だけん、よう知っとらす」
「そうか……」
平静をとりもどしたトオルさんはまた執筆活動に入っていく。
広告用紙の裏側に、彼の頭につまっている十数年前からのドラマの題名と出演者を角張った文字でぎっしりと書き並べていく。それは調子が落ち込んだとき、彼と周囲がつくりだせる数少ないとても穏やかで平和なひとときの時間だ。
電話は直接テレビ局にはしていない。つまり私の苦心の果ての一人芝居である。これも私がトオルさんを落ち着かせるために考えついたひとつの方法だ。テレビ局からはもう充分すぎるほど電話での応対も手紙ももらっていた。誠意は十二分に感じとっている。
二週間ほど前に着いた手紙の内容はこうだった。
宮本誠一様
今年は厳しい暑さがつづいたせいか紅葉も出遅れ、いつのまにか朝寒の季節へとなだれこんでいますが、そんな変化にも気づかずテレビ局は九~十月戦場のまっただ中です。
真面目な手紙を書くにはあまりにも時間も心の余裕もなく、お返事がおくれましたことをご容赦ください。
トオルさんのことをお聞きして、ひとつの「こだわり」の中からぬけださせる手だても一様にはいかず、つぎの「こだわり」へ単に移行していくだけになってしまうということが、きっと、その人の生活があるかぎり模索はつづられ、ぬけ道のない袋小路へ入っていってしまうのでは、といろいろ考えさせられました。
さて、トオルさんのこだわっているドラマ『悪女の湖』のVTRの件ですが残念ながら私には、今以上のご協力できそうにありません。
放送界は、様々な問題が生じやすく、大変素材へはシビアになっています。これらをかってにいじることはできないのです。
また、台本の件ですが、現場の台本にはいろいろ書き込みもされていますが、テレビ局に入ってしまった台本はメインの役者についてのみ記載されています。たいへん不完全なもので、しかも十年前のものといえばマイクロに入れられていますので、私たちが事務上利用する資料は、当時の制作内容というものです。簡単な概要だけで、一応これをコピーしてお送りしますがお役に立てるかどうか、トオルさんにとっては今度はまたそれが、ただ単に気になって気になってしょうがないものになってしまうのではないかと心配です。宮本さんの適切なご処理をお願いします。
ご健闘をお祈りします。
テレビ朝日ドラマ制作部デスク 福川淳子
けっきょく、そのコピーは私とマサミさんとで話し合い、トオルさんには見せないことになった。私たちも、福川デスクと同じ気がかりをもち、そこからくるさらなるこだわりを想像したからだ。
「なるほどね。つらかなあ。でも、あきらめるしかなか……」
トオルさんは、自分自身にそう言い聞かせるようにつぶやくが、いやいいんだよ、あきらめなくていいんだよ、という言葉を内心では待っている。そして実際に私たちがその言葉をかけると安心したりもした。あきらめたりできないのだ。けっして我が儘なのではなく、彼のメカニックの仕組み上、そうできているのだ。それができたら彼も周囲もどんなに楽だろうと、私もマサミも、そして誰よりもトオルさん自身が思っている。
二、地域の人々とともに生きて
作業所となる店の大工仕事は、終日、手作業の中、行われていった。
店舗は、こんなこともあろうかと自宅を兼ね、マサミさんが夫の反対を押し切って買っておいた一階で、もとは焼き肉屋だった。できるだけ金がかからないようにプロに頼んだのは、素人にはできない鉄筋やボードの絡んだ外装、それに、そこで使う家具類だけだ。内装の取り壊しから壁づけ、塗装をすべて私とトオルさんとでやっていった。それらの作業は、途中、宅配便のような臨時のバイトをしながら、一年間みっちりつづけられていったのだ。
壁はいうまでもなく、床、洗面所、とくに水を使うところはタイル剥がしがうまくゆかず手こずった。タイルそのものは、頭の平の鋭角な金具を槌でかませれば簡単にパラパラとはずれるのだが、下の網の目の針金が蔦のように食い込んで、むりに引きちぎろうとすれば指先を何度も裂いた。私はとうとうトイレと洗面所に二週間入りっぱなしで、おまけに床のコンクリもコンプレッサーで砕かなければならず、暗闇と閉所に長時間いたせいか瞳がチカチカし、ついに床に横たわってしまったこともたびたびあった。
店をほぼ壊しおわると、今度は必要なところに柱を入れ、プラスターボードで壁をつくっていった。
ボードは充電ドライバーでビス留めしていく。天井貼りは、トオルさんと持ち上げ私がネジを締めていくのだが、たまにトオルさんが力を抜くことがあり、そのときは畳み一畳分もあるボードが私の頭上に襲いかかった。私はそのたびに頭のてっぺんをあてがい首で押さえねばならなかった。トオルさんはなにがあったのかわからない様子で、キョトンとしていた。つくりかけの店の中には、いつも木くずやラッカーの匂いがたちこめていた。扉を開けたとたん、それらがムッと鼻にきて、嗅覚だけではなく体全体をつつみこんだ。今思えばそんなことも、トオルさんを必要以上に刺激していたのかもしれない。壁の漆喰ぬりをはじめ、腰板や胴ぶちのとりつけも全部私の仕事だった。ときにはオーディオやコンセント類の配線も見なければならず、仕上げに入ってからの作業はさらに細かく、なかなかすすまなかった。
「トオル君もずいぶんかわったね」
家具を注文していた木工職人の吉村さんが、最後の仕事を終えるとき、おいしそうに煙草を吹かしながらしみじみ私にそう語ったことがあった。
「最初は落ち着きがなかったけど、ほんとうにずいぶんかわった」
私は、そのとき隣に座ってお茶を飲んでいた。私もトオルさんを見ながら同じことを思っていた。これまで障害者とかかわったことのない吉村さんが、一つのものをいっしょにつくりはじめ、つくり終えていく過程の中でそんなところを感じとってくれたことが私には何よりもうれしかった。
また、街中でこんなこともあった。
トオルさんの調子がまだいい、七月に入ってすぐの頃だ。私たちは、たまに仕事を離れ、気分転換に熊本市内に行くことがあった。そんなとき、トオルさんが気に入っているデパートのレストランで食事をした後、私はできるだけ彼が満足するようアーケードを歩かせた。その日は、それから少し離れた公園でひと休みしていた。
「ミヤモトさん、ボク、放送局いきたか」
トオルさんが、私の顔をまじまじと見ながら言った。
「それは今度な。今日はおれも疲れとっとたい」
しばらくしてから、トオルさんはどうしてもまたアーケードを歩きたいと言いはった。
「よかよ。じゃあとにかく一時間したらここにもどってこなんけんね。よかね。この銅像が目印ばい」
トオルさんの調子もよかったため、私は彼の一人歩きを許した。
公園での一時間はあっという間に過ぎていった。そろそろ帰ってきてもいいはずなのだが……。
その日はパンの大口の配達が待っていた。あまり遅いようなら店に連絡して事情を話し、配達できないことを知らせねばならない。そして、そろそろ本気で探しださなければと思っていた。
「もしもし、あっ、マサミさん。俺たい。宮本。実はね、トオルが通りに出てからもう時間はすぎとっとばってん、約束ん場所にもどってこんとたい」
「宮本さん、ちゃーんと連絡きてるよ」
「連絡ってどこからね?」
意外な彼女の返事に私も戸惑いを隠せなかった。胸奥にそわそわとした動揺がおとずれた。
「もしかして……」
「警察」
やっぱりか。ついにくるところまできてしまったか。私はいったいどんなことをしでかしたのかすぐに知りたかった。いや、ある程度のことを知っておかねば、そこでの対応はむずかしかった。
「あの子、タクシーに乗ったらしかよ」
「タクシー?」
トオルさんはタクシーで少し離れた街へ行ったというのだ。そこは地元の放送局がある場所だ。私は、心当たりがあるとマサミさんに告げた。
「しかし、まさかタクシーに乗るとはな」
私もつい感心したようにつぶやき、緊張とは裏腹にどこかで頬笑ましくも感じたが、これから警察での駆け引きが待っていると思うとやはり気が重かった。
「じゃあ、迎えに行くよ」
「三階の生活安全指導課ってとこらしか」
私は駐車場まで急ぎ、車を走らせた。
警察署へつくとさっそく受付で話をし、三階の一番奥の部屋へ向かった。入口に女性職員がいて対応してくれた。通された部屋はなんと警察署長室だった。トオルさんはそこにしつらえられたソファーに大股で深々と腰を下し座っていた。横には木製の大きな机があり、初老の白髪の男性が真面目な表情で椅子に腰かけていた。机の上には警察署長という名札が置かれてあった。
「あっ」
トオルさんは私の顔を見るや、驚きとも喜びともとれる頓狂な声をあげた。目は、潤んだように爛々と輝いていた。
「ミヤモッちゃん、ボクこわかった」
トオルさんは取ってつけたようにソファーから立ち上がり、胸の前で両手をぎゅっとにぎりしめ、祈りでもするように私に訴えた。私は署長にトオルさんのことを説明した。口調は柔らかめだったが、必死に話した。そんな私のことも気にしないかのように、さっきの女性が来るとトオルさんは満面の笑みを浮かべ、刑事ドラマに出演している俳優の名前を知っているかどうかしきりに聞いた。仕方なく私は、刑事ドラマの大ファンであることを説明せねばならなくなった。するとそれに気分をよくしたのか署長の表情が、思いがけずどっと緩んだ。私は署長の手前もあって、一応トオルさんに注意した。彼は芝居がかったこちらの言葉を神妙な顔つきで聞いていた。私は、女性職員からくわしい説明をうけた。それによるとつぎのようなことだった。
トオルさんがタクシーに乗ったまではよかったが、運転手がトオルさんのことに気づき、すぐに近くの派出所に連れていかれた。派出所ではトオルさんが、宮本さんがおらん、おらん、と泣き叫び、暴れるばかりでどうしようもなく、部署も多い警察署へ連れて来られたのだった。ところがパトカーに乗ってからにわかに機嫌がよくなり、その女性がこういったケースの担当でもあってかうまく対処してくれたおかげで、なんとか落ち着きを取り戻したらしい。その後は自分の家の電話番号をあっさりと告げたようだ。
「どうもすいませんでした」私はトオルさんといっしょに頭を下げた。
「もうここへくるんじゃなかぞ」
署長はここで世話になった人間への決まり文句らしいセリフをそれこそドラマのような威厳を持って言った。思わずハイと返事をしたかったが、またお邪魔しそうだったのでそれには苦笑いを浮かべるだけですませておいた。私はそのままマサミと待ち合わせた場所へ車を走らせた。
「トオル、タクシー、どげんだった」
帰りの車の中で、なんとなくたずねた。
「こわかった」トオルさんは、また泣くようにオーバーに言った。
「タクシーこわかったろう?」私が聞くと、
「ボクん方がこわかて」トオルさんの口調はさらに弱々しくなった。
「タクシーの運転手さんがね、ボクがこわいていったら、お前ん方がよっぽどこわかて」
私はようやく意味がのみ込め、その情景が目に浮かんだ。トオルさんは緊迫した中で初対面の人間と会ったとき、ほとんど平静な対応ができない。袖を引き千切らんばかりに強く噛み、目は半眼になり相手を睨みつける。ときには両手をばたつかせ、興奮そのものを隠さずに表へ出してくる。そのため多くがまともな扱いをされることがない。
次の日、思いもかけぬ新事実がわかった。
「宮本さん、どうしてトオルがタクシーに乗ったつか聞いたね?」
マサミさんは、コーヒーを入れていた。
「そりゃもちろん、放送局にいきたかったけんやろう」
そんなことはわかりきっているし、何で今さら聞くのかというふうに、私は彼女の顔を穴の開くほどまじまじと見た。
「トオルは放送局の行きじゃなく、帰りに乗ったつよ」
「えっ」私は思わず小さな声をあげた。
「わたしも昨日あん子と話していてわかったつばってん……あの子ね、放送局にはやっぱ入れんやったらしいたい。当然ばってん……。そっでん、そこまでは走っていったらしか。ばってん時間が過ぎとったけん、このままじゃあなたとの約束に間に合わんと思ったつね。あわててタクシーにのったらしかよ」
私はマサミさんの言葉を聞きながら、すぐに自分の早合点を後悔した。そして彼を本気で叱らなかったことにホッとしていた。マサミさんの話が本当だとすると、トオルさんは、自分で好きなことをやるためではなく、私との約束を守るためタクシーに乗ったことになる。しかし、私にはそれさえやはり疑わしいことに変わりなかった。トオルさんに果たしてそんな意識があったのか。いや、あるというよりも持てるのか。私にはどこかで既にトオルさんに対して過剰な期待を抱けなくなっていて、マサミさんに告げられたときも、一歩引いた心境でいた。
三、〝こだわり〟という名の氾濫
内装工事もかなりすすんできた年の瀬の迫った十二月、担任していた児童の保護者の紹介で宅配便のアルバイトを始めた。
宅配便の最後の日のことだ。前日、私はトオルさんからテレビ局へまた手紙を送ってほしいことを頼まれ、その文面を家で書いてくることをうっかりわすれていた。
「ミヤモトさん、どうして忘れたつ?」
「そりゃあオレだって疲れて寝てしまうことだってあるくさ」
私はもう少し丁寧に答えなければと思いながらも、どちらかというと邪険に言い放った。午前中は、私は猛の相手をせず、宅配便をくばることに専念した。午後のことだった。いよいよ小荷物は、残すところ一つになった。さっそくトオルさんがまた聞いてきた。
「ミヤモトさん、どうして手紙わすれたの」
少し山間にある、ペンションへの配送途中だった。
「だけん言うたろう。疲れて寝たって。べつにわざと忘れたわけじゃなかて」
トオルさんはしばらく黙っていた。私も喋らなかった。わずかだが車の通りの少なくなった道路へさしかかった瞬間だった。私がカセットでも聞こうかとスイッチを入れるためトオルさんの側へ手をのばしたときだった。トオルさんがいきなり体ごと襲いかかり、私に殴りかかってきたのだった。トオルさんの左の拳が私の頬をフック気味に直撃し、一瞬目の前が真っ白になった。トオルさんの体は硬直したようにかたくなり、力づくで抑えようとすれば、ますますそれを撥ね退けていく悪循環に陥っていることは明らかだった。それでも私は、ハンドルからは手をはなさず、体の半分で抗しながら、どうにか道路脇へ車をとめることができた。そして、停車させるやいなや両手が空くと、今度は堪えていたものを噴き出すかのように私が力一杯トオルさんを殴りつけ、助手席の扉を開けた。自分の側の扉も開け上部の縁に手をかけると反動をつけ靴の底で猛の肩口目がけ思いきり蹴り込んだ。車が少ないことが幸いしたことは確かだった。
「とっとと下りろ! お前なんかだれがいっしょにおるもんか」
私も必死だった。とにかく死ななかったことだけが事実としてそのときは残っていたが、それさえもすぐには信じられぬことだった。恐怖の中にまだ肉体も精神もそのほとんどがいた。まさか車を運転しているとき殴りつけらようとは想像だにしていなかった。体も心もぶるぶる音でもしそうなぐらいにふるえていた。そのふるえをそのまま今度は私自身が暴力にかえ、トオルさんに挑みかかっていた。あれほど腕力で抑えつけることを憎み、トオルさんの側に立とうと思っていた自分の行為に唖然とさせられていた。
「降りろよ、さっさと下りろ!」
まったく動こうとしないトオルさんに痺れをきらした私は、今度は自分の方から車を下り、トオルさんのいる側へ回ると外から彼を引き摺り出した。襟元をつかみ車の車体に押しつけながら、何度も、何度も相手の頭をたたきつけた。
「お前いったいなんば考えとっとや。死んだっちゃよかつか! オレはお前にちゃんと事情を話しとっどが。どうしてわからんとか」
私はトオルさんが出たらすぐに彼を外に置き、本気で一人で帰るつもりでいた。隙を見て運転席に乗り込み、扉を閉めロックをかけようと試みた。しかしトオルさんもすかさず扉に手をかけ、中へ入ってきた。相手も置いていかれまいと必死だった。血で真っ赤になった歯でニッと笑い、私に「もうしません、もうしません」と繰り返しながら「約束、約束」と小指を差し出してくるのだった。
真っ赤な口もとと落ち窪んだ目、蒼い痣を見ているだけで、さっき蹴り上げた私の靴底の狙いが狂い、かなり強く相手の顔面に命中したことが察知できた。
「もう、お前は信じられん」私は吐きすてるように言った。
「信じろというほうがムリたい」
「どうして?」
「お前は、また約束をやぶるて。これまでだって何回もそげんやってイライラしてくると回りに暴力ばしてきろうが」
「もう、せんて」
「だから、こぎゃんやって手ばだすとがお前たい。もうせんとか言ったって、またすっとたい」私の息は荒かった。
「だから、せんって」トオルさんが甘えたような、得意の泣きじゃくる声で応戦してきた。
「ちがう、ちがう。トオル、そんなこっじゃなか。お前はまたするて。オレやお母さんにまた同じことばする。ほら、また肩に力ん入ってきよろうが。そっがでけんとか、あやまってくれって言っとっとじゃなか。そぎゃんすっとがやっぱりトオルだって言よるとたい」
私の目からは涙が止めどなく流れた。幼いときから受け続けたいじめにより過敏すぎるほどになっていた他者からの加害的行為に対する神経が、今、もろくも弾け破砕していた。
トオルさんは相かわらず凄まじい形相をしていた。それでもまた、いつさらなる反撃がくるかわからず、そのことを考えただけでも私は、トオルさんを乗せたままふたたび車を運転することはできなかった。こちらの目から見て猛は、まだ充分なだけ落ち着きを取り戻してはいなかったからだ。引き返すべきかあるいはこのまま林道に入り届け先のペンションへいくべきか。トオルさんが降りない以上、対向車の多い街中へもどることも到底できない。少し距離は長くとも山間の道をゆっくりすすむ以外ない。
「ほんとうに、約束守るっか?」
「守れる」
「今度またあったら、ぜったい下りてもらうけんな」
私は取り戻せるはずもない気分をなんとか奮い立たせエンジンをかけ、ハンドルを手にした。トオルさんがいつきても大丈夫なように、常に助手席の彼の様子に気をくばった。一台一台と対向車がくるたびに、道の端をできるだけ一杯一杯走り、もしぶつかろうとしても回避できるようスピードを落とした。
ペンションにつくころには心身ともにぐったりとなり、電話をかりすぐにマサミにきてもらおうかとも考えたが、幸い、ここまでこれたことで再びなんとかなるのではと思いなおし、トオルさんにもう一度約束をさせ、帰路についたのだった。
四、超えることのできない現実へ、再び
草花の開く季節がやってきた。早いもので作業所づくりに着工して一年がたち、いよいよ、小規模作業所『夢屋』のオープンが、一週間後の四月六日に迫っていた。
早朝、四時過ぎに電話のベルが鳴った。マサミさんからだった。何事かあったことは確かだった。彼女の声はふるえ、ほっとけば溶けかかった雪山のようになだれ落ちていくのではと思われた。
「宮本さん、ごめんなさい」
「トオルがどがんかしたつじゃろ」
何かあったとしたらそれしかなかった。
「トオルが、もうどうしようもなくて、三気の里へ連絡したつ。今朝ん二時半だった……」
三気の里は自閉症を中心とした知的障害者の更生施設で大津町にある。トオルさんは作業所づくりを始めてからも籍はそのままぬかず、万が一に備え、緊急のときはそこへ連絡しようとあちらの担当とも話し合っていた。マサミさんは、それら一語一語を肝の底からしぼり出すようにつないで言った。
「もう、家族のだれもおさえきれんで……」
私は黙って聞いていた。
「わたしが言わないかぎり、もうだめだけんね……。もう、だれかがこのままじゃ死ぬんじゃなかかと思て……」
一瞬、そうか、そうだよな。トオルさんはいないんだなと私は自分自身に言い聞かせるようにつぶやいた。オープンは来週なのだ。なのに一年間いっしょにやってきた主役のトオルが、今、いなくなった。しかし、どこかでホッとしている自分がいることも否定できなかった。
「三気の里の末永さんたちが二人来て、どうにか抑えて、連れていった……」
それからは、もう声は嗚咽の中で聞きとれなかった。
「仕様がなかたい。ねえ、マサミさん。今度は三気の里といっしょにやっていけばよかじゃなかね。一年間オレもやってみて、今のトオルの状態ではこの方法ばとる以外なかと思うよ」
しばらくしてようやく普段の調子を取りもどしたマサミさんに、私はさっそく施設に行って布団をとどけてくれないかと頼まれた。急なことだったので何も用意していない。着替えや日用品をもっていってほしい。それというのも彼女は、自分ではとても施設にはいけないと言うのだ。トオルさんの顔を見ることはつらすぎる。
「わかった」
私は、三気の里の近くの駐車場で落ち合いそこで荷物を受け取り、そこから持っていった。
三気の里では、トオルさんを連れに来た職員の一人である末永が待っていた。彼はもちろん指導員の中では古株で、事務局長としてさまざまな意見を家族の者たちに言える立場にあった。
「宮本さん、ここを出てからのトオルくんの状態はいったいどげんだったんです?」
末永の口調は厳しかった。
「調子は、よかったりわるかったりです」
「もう少し連絡がほしかったですね」
髪の毛が数本額にはりつき、明らかに深夜突然の通報による対処のため、寝不足であることが伝わってきた。
「こんなことになるとが、一番心配だったんですよ」
私には返す言葉がなかった。ただこれからはできるだけお互いに連絡を取り合いやっていくことだけを確認した。末永の方からは、薬の投与の確認があった。
「末永さん、施設での方針はよくわかりました。母親にもこのことはちゃんと伝えるし、おそらく反対はせんでしょう。こうなったのも私や彼女の力がたりなかったからですし、これからはそちらのお力を借りながらやっていくつもりでいます。でも私は、まだ今朝連絡を受けたばかりで、どうもはっきりせんとです。だからトオルと少しでもいい、会って話し合う時間ばつくってもらえませんか」
そのとき、突然私と末永が会っていた事務室の扉が乱暴に開き、大きな体が中に入ってきた。トオルさんだった。どこで察知したのか、例の動物的な勘で飛びこんできたのだった。その顔は試合後のボクサーのように瞼の上が腫れ上がり、視野さえさえぎられているのではというほど痛々しいものになっていた。
「だいぶ、抵抗してですね」
末永はやむをえなかったというように苦虫を噛み潰した顔になった。
「ええ、わかります。私も何度かあったけんですね……」
私はそんな言葉を返す自分に、作業所をつくり始めた頃と今の自分とでは、ずいぶん変わってしまった何かがあることを感じていた。
「ミヤモトさん、ボクがわるかったです」
トオルさんは私の顔を覗き込むように見ながら両手を胸で組み、祈る格好をしてきた。
「ミヤモッちゃん、かえろう、ねえ、末永さんにあやまってかえろう」
私は立上がり、そんなトオルさんの肩をしっかり握りしめた。
「トオル、お前にはまだこの三気の里が必要とたい。ずっと二人でやってきて、やっぱり仕方なかとオレも思っている。でも、オレもお母さんも入れたままにはしておかん。夢屋もきちんとオープンさせる。少しずつ外に出られるように末永さんともいっしょにやっていくつもりたい。だけん、しばらくここでの生活ば落ち着いて過ごせるようにしていこう」
私は末永の顔を見た。彼の目も潤んでいた。
「末永さん、お願いがあります。来週がオープンなんです。一年、トオルといっしょにコツコツつくってきた夢屋がようやくオープンすっとです。なんとか連れていくわけにはいかんですか」
末永は、一応施設長と話しあってから決めると言ってくれた。自分としてはもちろんオープンだけでも行かせてあげたい。だが、施設長の許可が必要だと。
三気の里から連絡があったのはそれから数時間後、私が作業所に帰り、そこであったことを澄江に伝えているときだった。
「もしもし、宮本さんですか」末永の声だった。
「トオルくんがまた混乱するかもしれんですが、ほかの職員の意見も聞きまして、ぜひいかせてやりたいという考えがつよくてですね。私と高田で連れていきます」
マサミは絵にかいたように複雑な表情になった。彼女はもしかして罪の意識に苦しんでいるのかもしれなかった。トオルさんを三気の里にわたす、その決断を下した張本人。今さら息子にどんな顔で会えばいいのか。私も彼女も暗澹とした気持ちの中で、それからの一週間は過ぎて行った。
オープン式の日、トオルさんは施設の二人に囲まれ招待客といっしょにおとなしくしていた。一目見て、かなり強い薬がつかわれていることは明らかだった。
とにかく、いくらかのマサミさんへの質問攻めはあったが、何とか全員でかわし、その日を終えることができた。トオルさんは彼なりによくなったところを見せて、少しでも早く家に帰れる約束をつくろうと必死だったのかもしれない。
私は、そんなトオルさんを見ながら、この一年、トオルさんやその家族とかかわることで自分の中に起こった変化のことを考えていた。確かに自分自身どこかでそのことをハッキリ意識したのは、あの車の一件が引き金になっていることはまちがいない。
実はあの件の数日後、どうしても調子が戻らないトオルさんを連れ、時間稼ぎのつもりで彼の要望に応え街に行ったことがあった。いつものレストランで食事をしたいという希望を聞き、通りにあるデパートの九階へ上がった。以前私は、トオルさんを人通りの多い場所へ連れ出すことに抵抗をほとんど感じていなかった。だが、この一年、トオルさんとの生活をともにすることから、少しずつ、私はトオルさんの混乱といはず存在の本質的な意味がだんだんとわからなくなっていたのだ。それは一瞬どころではない、永遠に解決のできない、抜け道も用意されていない、そんなまさしくあの福川デスクの言うような袋小路に入ってしまったような感覚だった。
レストランのテーブルについてから、トオルさんの顔に気のせいか、不吉な前兆の土気色が混ざり出したように私には思えた。私は彼の顔色から指先、足もとの様子とじっと観察し、突発的な動きにいつでも対応できるよう神経を集中した。そんなとき、一人、窓の外を見ていたトオルさんがぼそりとつぶやいたのだ。
「高かね。ここ」
彼は、まちがいなく疲れていた。私はなんとも答えようがなく、ああそうだなと静かに相槌をうった。トオルさんの目もとには車で組み合ったときの傷が、まだゴムでもはりつけられたように生々しく残っていた。トオルさんはそんな私の方は見向きもせずに、じっと窓からちょうど切り立った渓谷のようなコンクリートの谷間を見下ろし、
「死ぬとかなあ。落ちたら、死ぬとかなあ」
そうささやいたのだ。彼が死の恐怖を感じている。ごく当たり前のことだし、今まで私が知らなかったわけではなかった。だが、そのときの彼のささやきはどこかちがっていた。地の底から響いてくる深い溜息のような気がした。
「トオル、お前まさか飛び下りて死にたかわけじゃなかろうね」
私は、わざと動揺をかくすように大仰に聞いてみた。いつもだったら彼は、「死にたくなーい」と甲高く、少し悲しげでひょうきんな声で応戦してくるのだが、そのときはそんな期待も、また言葉を出してほしいという願いもなかった。私も疲れていた。トオルさんは、そうやって一人密かに戸惑う私をよそにまったくこちらには耳をかさない様子で、相変わらずじっと動かずに外を見つづけていた……。
「そろそろ、失礼しようか」
末永事務局長の機転をきかした声が耳もとにとどき、過去と現在の記憶の中を彷徨っていた私を目の前の現実に引きもどした。
「トオルくん、約束どおり園に帰ろうかね」
指導員の高田も言葉の隅々にかなり神経を配っていることは明らかだった。
二人いっしょに立上がり、トオルさんの二の腕を軽く握り促している。猛は萎れた花弁のように肩をつぼめ、いくぶんうなだれた姿勢をしていた。言葉に誘われるように、私も視線を動かし、トオルさんの身体をじっと凝視した。
皮膚のいたるところが細かくふるえているように見える。
レストランのときと同じだ。私はたちまち意識が混濁するような、身悶えするような息苦しさを感じていた。
幾層もの波動が陽炎のように湧き立ち、周囲の大気を徐々に押しやっている。闇だ。透きとおった闇だ。まちがいなくそのとき、私の目の前にはトオルさんをつつみこむ繭にも似た闇がつくりだされていた。それは、暗く深く透きとおった闇だ。たとえ矛盾することだとしても、濃く光ひとつないその闇は同時にガラスのように透明に見えた。私はなおも瞬きひとつせず、それをじっと見つめていた。
闇はいづれ自分のもとにもしのびより、私をつつみこむだろうか。私にはいつまでたってもその闇は、のみこまれることはあったとしても、自分の手もとに引きよせとどくことはありえないものに思えた。
また次の日になれば、トオルさんは前歯のへし曲がった口でしゃべりだすことは明らかだ。私の胸はそう思っただけで重くなり、また安心もした。
食事をすませると、夢屋ではなく約束どおり施設長たちの待つ三気の里へトオルさんを連れていく末永たちの乗った車を、私は黙って見送っていた。死ぬのかな、というさっきのトオルさんの言葉が今度は自分自身で言ったような気がしてき、その相手に向かい胸の中で、大丈夫だよ、とかえすのが精一杯だった。
第三章 『夢屋』での障害者たちとの出会いと別れ
一、集い始めた仲間たち
トオルさんが、一時的に三気の里にあずけられてから、夢屋はしばらく灯の消えたような状態だった。それでもトオルさん以外のメンバーもさっそくあらわれた。
ミチコさんだ。夢屋がオープンする三年ほど前、彼女は、娘さんが就職のため親元を離れた後、突然虚脱感を覚え、不眠症に悩まされだした。周囲のアドバイスから、更年期障害だと思い込み、いくつかの病院をはしごする形で検診するが良い結果は得られなかった。一つの病院で、睡眠薬をもらいしばらくは眠れる。だが、一ケ月もするとまた効かなくなる。と、次の病院へ。人から良いと言われる病院へ行き、そして、又、効かなくなる、そんなことを繰り返していた。
「眠れない」「やる気がおきない」「何もしたくない」状態は、やがて「死にたい」という局限の心理状態になっていく。ついに精神科の受診を考え出したとき、彼女に引っかかっていたものは、やはり結婚適齢期の娘さんのことだった。
「もし、母親が精神の病だとし、それが娘の将来に影響を与えないだろうか」
ミチコさんは、意を決して娘さんに相談する。
返事は意外なものだった。
「お母さん、それは精神科の患者さんにとって失礼よ。今は、心の病気もふつうの病気とちっともかわらないわ。お母さんが、気にせず行ってくれることが何より私にとってもうれしい」
ミチコさんはその言葉に後押しされる思いで、診察の門をくぐった。
診断名は鬱病。その病名を背負い、前向きに生きていこうと思うまでに、長い苦悩と葛藤が必要だった。状態を聞いた医師から、すぐに入院をすすめられるが、定年退職したばかりの夫を一人、家に置いておくことも彼女にはできない選択だった。けっきょく、炊事、洗濯など家事の多くは夫にまかせ、自分は静かに休んでいるという条件のもと、自宅で療養することになった。
「寝たきりにならない、きっと起きるときがくる」
布団の中にいるときも、医師の告げた言葉を彼女は信じ、待ちつづけた。
「何か気持ちがさわさわするときは、すぐに病院へ来なさい」
一度だけ、胸騒ぎが止まらず、抗鬱剤を点滴してもらった。後で聞いてみると、そういうときは、自殺を試みる危険性が最も高いということだった。
三ケ月、寝ては覚め、またうとうと眠りの中へ彷徨っていく状態がつづいたある日、気分がパッと晴れ、洗い物から掃除、庭の草とりと、今までのブランクが嘘のように、抵抗なくすることができた。鬱の状態が終わったのだ。
そんなときだ。「おいしいパンがあるよ」と娘さんが、パンを買ってきた。それは、オープンより少し早く工房だけ完成させ、販売していた夢屋のパンだった。
数日後、さっそく、二人は夢屋へやってきて、パンの注文をしてくれた。それが期しくも夢屋の開所式の日である。
夜の会に誘うと、ミチコさんは一人でやってきた。
恐る恐る夢屋に入った彼女が目にしたものは、招待で呼んだ様々な障害者が、車椅子に座ったり、動きまわったりしながら、介護をうけ、精一杯自分を表現し楽しく会食する姿だった。
彼女の心にあった重い霧が、目の前の情景をきっかけにいっぺんに吹き払われて行く。
「これが共に生きるということなのか。わたしも、ここにお世話になってみようか」
翌朝、エプロンをもち、彼女はやってきた。
「わたしもいっしょに加えてください」
言うが早いか、箒をもち、掃き掃除にとりかかった姿を、今でも私は鮮明に覚えている。必死に、生きることと向き合い、今ある状態を保とうとする強い躍動と決意が、そこにはあった。
その後、彼女は活動の場を広げ、定期的に通院している病院関係者から、パンの注文をとってきたことを手始めに、近所や親戚、友人と、積極的にパンの営業へ回り、現在は、自称夢屋のセールスレディーとして活躍している。声をかけ、「もってきてもらおうか」と返事があったとき、やったーと心の中でガッツポーズをとるそうだ。夢屋に来るまでは、一週間から二週間つづいていた鬱状態も、三日程度で普段の状態をとりもどせるようになり、今では長いときで四ケ月、鬱状態がこないこともある。
まずは気軽にやってみる。それが最近の彼女の自分自身への合言葉だ。苦しいときは苦しい。だからあせらず、力をぬく。鬱が短い間隔でとれるようになったのもそんな心の持ち方が大きいようだ。
鬱が終わる瞬間は、自分でもハッキリわかるそうだ。気分転換しようと体を持ち上げると、あるときスーッと線の向こう側へ体ごと移動していくらしい。その瞬間を知っているからこそ、そのときを信じ、生きたいし、同じ病気で苦しむ人たちにも、生きる希望をもってほしいと彼女はいつも願っている。そんなミチコさんと私は、トオルのいなくなった夢屋で出会ったのだった。午前中はマサミとパンをつくり、午後は、ミチコさんと二人、それぞれの担当の場所へパンを配達して回り、運営する日々が始まった。
私は、週末になると、布団カバーをとりかえに三気の里へ行き、トオルに会って帰った。いつもどれるかしつこく聞く猛に、こだわりが強いうちは、まだむりなことを必死に伝え納得させていった。猛の調子が次第によくなると澄江とも園の駐車場で待ち合わせ、いっしょにでかけるようになった。まだまだ、母親に対しては、激しくつめよっていくところがあり、予断を許さなかった。
同時に園にも、彼への指導の一貫性を求め、改善していくよう訴えた。一つの質問にこだわりだすと、無視する職員や我慢を要求する職員、厳しく注意する職員と様々だったからだ。
「どんな返事がいいですか?」
「はっきり答えをださず、いっしょに考えていこうね、とか、わかるといいね、のような励ます形が一番彼にとってはこだわりを生みません」
施設側も、そんな私たちの意見を取り入れ、職員が一体となって猛への取組みに乗り出した。地道な実践とかかわり方の工夫は、やがて成果をつくりだし、猛にときおり笑顔と、調子のいいときのバロメーターであるステップがもどってきた。こだわりの状態も次第に回数が減り、長時間、しつこく同じ質問をしなくなってきた。これなら週に一度の帰宅も可能ではないかというぐらいに体調もよくなってきたのだ。夢屋のオープン一週間前に再入園してから、半年が過ぎていた。木々の濃緑も蝉の声とともに終りを告げ、阿蘇は、色づきを落とした五岳の裾野から、ときおり肌寒い風が吹き下ろす、十月になっていた。
トオルの帰宅を家族や澄江と話し合い、少しずつ具体化しつつあったとき、さらに彼と入れ替わる形で夢屋に現れたもう一人の男性がいた。ノリオさんだ。
私は、夢屋設立の準備段階から、役場の福祉課や、県の地域振興局に作業所の説明をして回り、地域に住む在宅の障害者の人たちに夢屋を利用してもらうよう、手作りのパンフレットなどを配り協力を求めていた。清子さんと出会ってからは、彼女の通う精神科の医師にも会わせてもらい、話をした。そのとき、名前が上がったのがノリオさんだった。
「実際に働くとなると、むずかしいかもしれないけど、ちょっと遊びに行くくらいなら合っているかもしれないなあ」
医師は、心よく情報を提供してくれた。
ノリオさんは、軽い知的障害とてんかんがあって、小中高と普通学校に籍を置いたものの、当時発作を抑制する適度な薬もなく、保健室にほとんどいたそうだ。発作が起これば道端であろうがどこであろうが寝ていたと言う。人と話す機会も減っていき、お母さんが亡くなってからは、お父さんとの二人暮らしが始まっていた。
「診察日が同じだから、今度、私が声をかけてみます」
ミチコさんも、そんな医師の反応に動きやすくなり、数日後、ノリオさんはミチコさんの誘いにのって自転車に乗ってぶらりとあらわれた。着古した牛皮のジャンパーと帽子、足は裸足にサンダル履きだ。そのときお目当てのミチコさんはいなく、一言も喋らず、ゆっくり辺りを見回し煙草をくゆらせると、黙って帰っていった。
それから三日ほどして、また日野さんはやってきた。いつものようにカウンターに座るとうまそうに煙草を吸い、
「ここは遊びものはないと?」
私が、困ったふうな顔をすると、
「今度、おれの家から、オセロと将棋ばもってくるばい」
「すいませんね。助かります」
翌日、私はノリオさんのもってきたオセロをしながら、少しずつ、夢屋にいる時間も長くなってきた。
そんなとき、ミチコさんがいる時間帯にとうとうめぐりあった。ミチコさんはちょうどカウンターでコーヒーをいれてくれていた。
「いっらっしゃいませ」
彼女がさも慣れた口調で言うと、
「あれ、ミチコさん、何しよると?」
ノリオさんはたいそう驚いたように目を丸くした。
「今日から、私、ここのママになったのよ」
さらに冗談に拍車をかけるミチコさん。
「うそでしょう」
ノリオさんは、顔見知りの清子さんと会ったことで、一気に胸襟を開いてきた。
「ねえ、ノリオさんの家はどこね」
親しみが出てきたついでに、私が教えてもらった場所は、一度、トオルと宅急便の配達で回ったところだった。
「なーんね、そこは宅配で行ったばい。そう言えば……、あんとき印鑑ば持ってきたつはノリオさんだったっけ」
こちらがうろ覚えな記憶を持ち出すと、
「そうだったけなあ、おぼえとらんなあ」
ニンマリと目を細め、ほほ笑む表情が、印象的だった。
私たちとノリオさんの距離はそんな会話のやりとりの中で、徐々に近くなっていった。
夢屋に来始めて二ケ月が過ぎようとする十月ごろ、夕暮れの西日を浴びて、ノリオさんが夢屋のテーブルにポツンと後ろ向きで座っていた。
「どうしたつね」私が聞くと、
「俺も、施設に、はいらなんとやろか」
肩を落とし、寂しげにノリオさんは答えた。
日野さんは、高齢のお父さんとの二人暮らしだ。
体が弱ったこともあり、お父さんは特別養護老人ホームへ入所することになった。ノリオさんが、一人で生活することに危惧を抱いた役場の職員や親戚は彼にも施設へ入ることをすすめたらしい。
私たちは、さっそく福岡で暮らすたった一人の血をわけたお兄さんと話し合った。幸い元公務員のお父さんの年金が安定していたことで、ホームへの必要経費の残りを基盤にして、しばらく夢屋へ通いながら、在宅での生活が可能かどうか様子を見ることを承諾してもらった。
それから、ノリオさんはパンの配達もするようになった。
「そこは知っとるけん、俺がやってこよう」
「だいじょぶね」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
コーヒーをいれるのも得意で、すすんでやってくれた。
表情も明るくなり、冗談口とも本気とも言えぬ話をし、よく周囲を笑わせた。
「どうなるかわからんばってんな、宝くじば当てたいな」
そんなときは、決まって私が聞き役に回った。
「ねらっとっとばってんな。当たったら、喫茶店ば開きたか。嫁さんももらって、店長には宮本さんば雇おうかな。夢屋のパンも仕入れてみて、まあ売れるかどうかは試してみましょう」
昼食は、夢屋でいっしょにし、朝は作業所でつくったパンを持ち帰る。夜は近くのスーパーから弁当を買う生活だった。一人暮らしにも慣れ、徐々にペースをつかみだした。
そんな日野さんも、苦手は朝起きることだ。
とくに冬場、来るのが遅く、いつも電話で起こすのは私の役目だった。
「ノリオさん、時間ばい」
「はーい、すんまっせん」
「待っとるよ」
「今、きまーす」
受話器の向こうからは、いつも甘えたような声で詫びとも泣き言ともつかぬ頼りない声を漏らし、弱々しく告げてきた。
それでもすぐにやってくることはなく、けっきょくは自分のリズムで生きていた。風呂に長く入っていないようなときは、好きな温泉にも連れていった。反対に私がノリオさんの家に風呂に入らせてもらうこともあった。
風呂から上がり、そろそろ私が帰ろうとすると、
「もう帰っとなあ?」
「そうなあ、そろそろいかんとね」
「やっぱ、さびしかなあ……」
そんなことをポツンと言いながらも、その横顔からは以前の暗さは感じなくなっていた。
私はノリオさんの世話をしているつもりだったが、ノリオさんは自分こそ私の相手をし、世話をしていると、周囲に言っていたと後で聞き、呆れたこともあった。だが私にはどちらでもよかった。彼とともにいることが楽しかった。
そんなノリオさんが、悪質な訪問販売に狙われたことがある。
ノリオさんが夢屋に来て、四年目になろうとしているときだ。
発端は、朝早く、夢屋に妙な電話がかかってきたことからだ。
低い男の声で、どこのだれかも名乗らずに、
「ノリオさんを出してほしい」一方的に切り出して来た。
私が何の要件か聞くと、「そちらには関係ない」とガチャンと切った。
やがてやってきたノリオさんに事情を聞いた。彼は全部をすぐには話さない。こちらがわずかずつ内容をたどりながら、ようやく言葉をつないでくる。なんとか聞き出した話でさえ辻褄が合わないこともしばしばだ。それでも、口ごもりつつ語りだした内容から、少しずつ全貌がわかってきた。
最初は一枚の毛布を買ったことが出発だ。その情報が流され、別の会社を名乗る訪問販売員が、午後四時から、遅いときは夜中の十一時まで家に上がり込み、帰らなかった。既に、その時点で、返却期間はとうに過ぎ、二ケ月を経過していた。
ノリオさんは、お金の価値にやや疎いところがあり、気にいったものはすぐに購入し、反対にさほど必要でなくても相手がむりやりすすめてくればNOと言えない面がある。そこが狙われたのだ。
「よし、それじゃあ、とにかく現物ば見に行こう」
私はまず、その品物を見てさらに詳しい状況をつかむことにした。
行って、私は目を見張った。
ムートンの薄い掛け布団と敷き布団がそれぞれ一枚で、最も高価な磁器布団がない。
「磁器布団はどこにいったつね?」
「持っていった」
「ええっ!!」
磁器布団は、また別の人が販売に来て、さすがにそのときは断りつづけると、五時間ぐらい粘った揚げ句、「これはどうせ使わないんだろう」そう言って、持ち帰ったと言う。
「いつも三人ぐらいできて、俺ば囲んで、印鑑ば押すまで帰らんやった」
外部と連絡がとれないように、電話からも離していたそうだ。戸締まりをすることは前々から注意していたが、ノリオさんは声をかけられるとすぐに開けてしまう。私は徹底させなかったことを悔いた。唯一の手掛かりである分厚い束になった振り込み用紙から住所を確認し、布団を買った会社に電話をした。すると、品物を持って帰った覚えはなく、それはまったくの別会社だろうと、知らぬぞんぜぬの一点ばりだ。ノリオさんが障害者であることを話すと、
「受け答えもするし、そういうふうにも見えなかった」とまったく意に介さぬ構えだ。
つづいて、熊本県の消費者センターに相談した。
その結果、CIC(クレジット・インフォメーション・センター)へノリオさんの情報登録をし、これ以上クレジットが組めないように手続きをした。同時に、訪問販売店の方へは、公平さを欠いた契約の不当性を訴え、事情も説明し、不払いの宣言をし、停止する手続きをとった。もちろん、お兄さんの方にも電話をし同意を得てのことだ。これでノリオさんは、かってに自分でローンが組めなくなり、再犯に会う心配はなくなった。
実は、これも後でお兄さんに聞いたのだが、これまでも瓦のはりかえや電化製品など、勝手に買ったり、契約していた実態が見えてきた。今思えば、お客扱いしてくれるセールスマンと話すことが孤独を癒す一つの方法だったのかもしれない。今回の事件はそんな火遊びから始まったとも言える。
訪問販売の情報は数社で回され、年金や収入が溜まったころを見計らい、別の物品を売りに来る商法が繰り返される。私は、意志表示がはっきりできぬ弱さにつけこんでの悪質な行為に憤るとともに、自分のノリオさんに対する管理の甘さと難しさも痛感した。一人の障害者が世の中で暮らしていくとき、それを獲物にする一部の無理解な人間により、様々なトラブルが生じさせられることを知ったのだ。
そこにあと二人のメンバーがあらわれた。一人は夢屋の前を、いつもカゴつきの押し車で買い物へいく、ちょび髭をつけた人、ケンジさん。もう一人は、東京から父親の故郷へ帰ってきたオカダさん一家の長女、レイナさんだ。
ケンジさんは八歳のき、中国の上海からお父さんの出身であるこの阿蘇に帰ってきた。母親は中国人だ。家は中華料理屋で、ケンジさん自身、頸椎の椎間板ヘルニアのため腰の骨の一部を首に移す手術をうけた後、指先や大腿部の痺れとともに、歩行でバランスをくずすようになった。軽い知的障害もあり、日頃は日本語を独特のイントネーションで話しつつも、家族との会話では中国語を交えたりする。
日本に来ると、そのまま障害児学級に在籍し、中学卒業と同時に知人の紹介で熊本市内の中華料理店の見習いを経験した。だが、味噌を炒めていて鍋をひっくりかえし、大やけどを負うなど苦労の連続だった。将来を心配した両親は、中国から見合いの形で女性を呼び寄せ、結婚させる。小さな店も近くに出してやるがうまくいかず、すぐに離婚。夢屋ができたころは、ツツジで有名な仙酔峡の麓のレストランでアルバイトをしていた。
彼と知り合うそもそものきっかけも、夢屋の支援者であり、私がトオルと知り合う契機をつくった竹原さんが、かつて一の宮中学校で臨時採用で赴任したおり、ケンジさんを担任したことによる。常々、利用者を増やしたい旨を発信していた私に対し、彼女が情報を提供してくれたのだ。
開所してまだ間がない頃、二人で、一度、彼の仕事場を尋ね、退屈なときは夢屋へ来るようすすめていた。ある程度の収入が必要なケンジさんにとっては、当時、忙しいのか夢屋の前を自転車で行き過ぎたり、買い物へ歩いて行くときちらりと見るだけで、なかなか立ち寄ってはくれなかった。
ところが、ノリオさんとケンジさんは、旧くからのパチンコ仲間だった。
「おう、ケンジ、どこ行きよっとか」
ノリオさんは、夢屋の前を通り過ぎようとする義生さんを見つけては声をかけ、そのたびにケンジさんも何回か入ってくるようになった。人が人を呼ぶとはまさしくこのことだ。
その出会いを待っていたかのように、ケンジさんはレストランを解雇される。
夢屋に来るようになるのは、必然だったのかもしれない。
「こんちは……。どうもおそくなって、スイマセン。おじゃましまーす」
彫りの深い顔で鼻髭をもぞもぞ動かし、体を横にふりながらやってくる姿は、一度目にしたら忘れらない特徴をもっている。
ノリオさんとは名コンビで、二人のやりとりは漫才そのものだ。
「あんな、そっがな……」
「だけん、なんや、ケンジ」
「いや、ちがう、そっがな……」
気が合わないといいながら、実は大の仲良しであることが誰の目からもすぐにわかる。困ったことを聞かれると急に俯きかげんになり、固まってしまうが、いるだけで雰囲気を明るくしてしまうそんな魅力がケンジさんにはある。
さらに、もう一人、ぽっちゃりした女性が加わった。
レイナさんだ。
レイナさんは、東京の養護学校を卒業後、いくつかの仕事につきながらも長くはつづかず、家に引きこもっていた。両親とも熊本出身で、二十九年間東京に住んだ後、祖父が高齢になったことで、お父さんの実家のある一の宮町へ帰ってきたのだ。
叔母さんが一の宮町社会福祉協議会に勤めていたため、彼女の紹介で夢屋へ顔を出すようになったのだが、とにかく明るく、お世話好きだ。だれにでも気さくに話しかけてくる。接待も上手で、数週間しないうちに、すっかり看板娘に落ち着いていた。
そうやって、ミチコさん、ノリオさん、ケンジさんと、トオルさんがいなくなった夢屋にも、新しい出会いが生まれ、少しずつ賑やかさが増してきていた。そしてついに、待ちに待ったトオルさんの三気の里からの一時帰宅の日が訪れた。
二、施設、家庭、それから夢屋。
ノリオさん、レイナさんが常時メンバーとして加わり、ケンジさんもときおり顔を見せだした十一月、ついにトオルさんは一時帰宅を果たした。金曜に三気の里へ私が迎えに行き、車で夢屋に向かう。一泊後、土曜にマサミが家から送っていくという形だ。園へ帰る日は、計画では、一月ごと一日延ばし、土曜から日曜、最終的には月曜にするというトオルさんとの約束だった。
一日一日、トオルさんの生活を見てみなければ、私たちも対応の形がまだハッキリとつかめない。帰宅した夜は、もちろん夢屋の二階の自宅で過ごすため、マサミさん以外の家族との協力も必要だった。トオルさんには、父親、それに四つ違いの弟がおり、いざパニックになった場合、二人に見てもらうケースは、当然増えてくる。
昼間は、トオルを落ち着かせるため、できるだけ夢屋のメンバー全員でいっしょに過ごそうというのが、まず生活へ溶け込む第一歩だ。
もっていく洗濯物やズボン、下着などをバッグにつめながら、私は、ようやくこの日が来たことに抑えようのない喜びを感じていた。
三気の里を出る時、職員たちも笑顔で見送ってくれた。
「トオルくん、ゆっくり楽しんでこんね」
「ハイ」
トオルさんは素っ気なく返事をし、バッグを片手に私の車へ向かう。半年前、すべての希望の灯が打ち消えたように施設へ再入所し、今、再びトオルさんの願いを実現するため、地域での生活の第一歩が始められようとしている。私の胸も当然のように高鳴っていた。
「今日から、お家?」
「そうだよ」
「いつまで?」
「明日の三時ぐらいには、また戻るけん」
「日曜になるのはいつ?」
「それは、トオルが明日まで、ちゃんといれるかどうか見てから。約束したろ」
トオルさんは、納得できない顔で私をじっと見ている。
「また、すぐに長くして調子ば落として、ずっと帰れんようになったらいややろ?」
「ハイ」
機械的に返事し、軽く頷く。
「だけん、しばらくは、一日しっかりやっていこう」
ふんぎりがついたのか、窓から首を出し、サイドミラーに写る自分の顔を見だした。どうにか説得させつつ、私は久しぶりに車の中で見るその姿に、安堵するものがあった。
私は、トオルさんが再入園する前までは、ぜがひでも本人の希望をかなえ、できるだけ多く地域で暮らすことが重要であると考えていた。だが、そのことに対してその後、少し変化が生まれていた。施設、家庭、そして地域でのサポートシステム、つまりトオルさんの場合、夢屋の三者をうまく使いながらやっていくことの方が、重度の障害者の場合、機能的でかつ豊かな生活が送れるのではないか、そう実感するようになってきていたのだ。誰しも万能ではない。限られた能力とシステムを生かしてこそ、日々の支援が可能となる。三者三様に利点を生かしながら、お互い協力し合うことが何より必要であるという結論に、自分の中では達していた。
夢屋では、新しいメンバーたちが、全員で迎えてくれた。皆、面と向かって会うのは初めてだが、優しく声をかけてくれた。
「トオルさん、お帰りなさい」
ミチコさんは、緊張しながらも笑顔を絶やさない。
「お帰り」「お帰りなさい」
ノリオさんも、ぶっきらぼうに言い、レイナさんがおどけたように首を縦に振りながら後につづいた。
「トオル、お帰り」
マサミも遅れながら奥のカウンターからあらわれ、満面の笑みを見せた。表情に例えようのない喜びが満ち溢れ、長かった苦悩の半年間が窺えてくる。
ちょうどそこに、都合よくケンジさんが通りかかった。
ノリオさんは、これ幸いに呼び止めた。
ケンジさんは一応、私が前もって知らせておいたため、気になって見にきたようだ。ケンジさんには、そんな律義なところがあった。
支援者である竹原ナホ子さんを加えると、総勢七名での新たな夢屋のスタートだ。
午前中は、いっしょにパンをつくり、昼食を皆で食べ、午後は配達。そして夕方からは家族がトオルさんを見ることになる。
まずは順調なすべりだしだった。帰宅が一日だけという約束の期間である一月は、あっという間に過ぎていった。そんなとき、私がトオルさんをいつものように三気の里から夢屋へ連れてきたおり、マサミの顔を見るが早いか、猛が即座に聞いて来たことがある。
「ノリオさんは、二階に住んどると?」
私とマサミさんは、キョトンとなった。
「住んどらんよ」
マサミさんは呆気にとられ、やや戸惑いがちに答えた。
ノリオさんはまだ、夢屋に顔を見せてはいない時間帯だ。
「ぼくの代わりに住んどると?」
私は、笑わずにはいられなかった。
トオルさんは、帰るたびに、メンバーの中で一番落ち着き払い、煙草を一服吹かせては、食事をして帰る日野さんを見て、てっきり彼が自分のかわりに家にやってきて、住み込みで世話をしてもらっていると思ったらしいのだ。
トオルさんはトオルさんなりに、自分の留守のうちに夢屋がどういうふうに変わってきているのか気になっていたのだ。
確かに、その頃、トオルさんはノリオさんに何かとつっかかりだしていた。
「ノリオさんはこわい? どっち?」
そう言って、いきなり近づき、腕をつかもうとしたときもある。
驚くノリオさんに、私はすかさず目で合図を送りつつ、
「こわくないよ。ねえノリオさん、そぎゃんだろ?」
「俺は、こわくなか」
「ほら、そうやろ」
そんな会話のやりとりで、どうにか、事無きを得ることも増えてきていた。
トオルさんは、間違いなくノリオさんをライバル視しているらしいのだった。
「トオル、だれも住まんよ。お前のかわりにだれが住むものか。ここはお前の家ばい。安心せんね」
何回かそう言い聞かせると、納得したのか二階へ上がり、ビデオを見たり、執筆活動で切り換えをすませ、また下に来ては、パン生地を丸める作業や自転車で外へでかけたりした。やがてケンジさんが仕事を辞め、加わりだすと賑やかさはさらに増してきた。
「いらっーしゃーい」
ケンジさんは、まるで夢屋にずっといた常連のように、すぐに馴染んだ。
「まあ、どうぞ」
私が用意したお茶やコーヒーにも、最後にケンジさんがそんな台詞を添え、カウンターからテーブルへ運び並べると、まるでケンジさんがすべて準備したように仕切っていく。
「ケンジさん、良いとこどりばっかりしたらだめばい」
「ああ、すいませーん。まあ、どうぞ」
私はそのうちどうでもよくなり、用意の方だけ徹すると椅子に座りだした。
やがてケンジさんにもパン作業に徐々に参加してもらうようになった。パン生地を丸める最初の形成の段階にケンジさん、バターをのせていく作業を理亜さん、配達は日野さん、ミチコさんといった具合だ。トオルさんは、調子を見計らい、金曜日、帰宅してきた当日のパンの形成に入ってもらった。
メンバーの指導をしつつ、もう一つ私には大きな仕事があった。それはいかに運営資金をつくりだしていくかである。パンづくりは、顧客が少しずつ増えてはいたものの、まだまだ一本立ちするまでの軌道に乗るには至っていなかった。
もちろん、熊本県には心身在宅者援護事業というものがあり、小規模作業所はそこに位置づけられ、利用者が五名おり、立ち上げてから丸二年、三年目になればその時点で、補助金が最低でも地方自治体から五十五万、県から五十五万、計百十万円くることが、熊本福祉作業所連絡会との話し合いで了承されていた。
夢屋も、開所して一年で既にトオルさん、ミチコさん、ノリオさん、ケンジさん、レイナさんという利用者の五人の条件は満たしてはいたが、まだ三年まで一年が必要だった。
そこで私が動いたのは、民間の社会福祉関係の助成団体への応募だった。夢屋の立ち上がりからの事実を忠実に書類にしたため、丹念に添付資料を送った。やっている中身の先見性、町づくりに向けての画期的な視点、実践の深さには自信があり、そのことを広く伝えたい、そんな望みもあった。嬉しいことに、多くの民間団体から認めていただき、様々なところから助成していただいた。これらにより、できるだけ早く返却しようと思っていた竹原さんへの借金を三年余りで無事、終了できた。竹原さん本人は、ある時払いの無利子で貸してくれていたのだが、好意に甘えてばかりもいられない。
だが、問題は山積していた。
民間助成により、一時的な凌ぎはできても、長期的な運営のためには、やはり町と県の行政からの支援は不可欠だった。
私たちは、助成が期待できる実績の最低年数である三年がくるのを、日々の活動をつづけながらじっと待った。
一九九七(平成九)年、ついに立ち上げから三年目を迎えた年度初め、私たちはそれまで同様、町へ実績の報告資料ともども助成金の要望書を提出した。
数日後、保健福祉課の係長がやってきた。
「すみませんが、今、町にはお金がなかとです。要望の五十五万円は出せません。五万円でどうでしょう」
私は、その言葉を聞きながら理想と現実とのギャップに愕然とせずにはいられなかった。
町が五万ということは県も五万、計十万、月にして八千円ちょっとの助成である。当時、私は活動費(給与)として月に五万円をもらっていた。マサミさんがトオルさんのサポートをするという条件で、彼の障害基礎年金の中からその費用を捻出していたのだ。つまり私の雇主は他ならぬトオルさん、本人だった。
その年から妻との話し合いの結果、別居し、小学一年と三年の子どもは妻が引き取り、彼女の実家のある玉名市で育てることになった。私は、大津町から阿蘇町へ引っ越し、家賃が月五千円の古い空き家で生活を始めていた。歩みだした以上、福祉の道を切り開きながら結果を出すしかない。二人の子どももいつかは分かってくれる、そう信じた。
下宿先はかなり老朽化しており、梅雨時期にはムカデが横行し、一度、瞼を刺されたことがある。焼き鏝を目の中に突き刺されたような激痛が走り、悶え苦しんだ。冬になると雪が土間まで吹き込み、枕もとまで白く染めることもしばしばだ。しかし、単身、阿蘇に乗り込んだ私には有り難い場所で、なんとかそこで自立の道を探りだしていた。
それは、ある程度の助成金があっこそ可能となってくる。援護事業の内容にも、助成金は指導員の経費などに当てることは明記されている。ところが、その頼みの綱の結果が、五万円という、町の返事に正直、ショックは隠せなかった。
ここで泣き言を言っているわけにもいかない。私たちはその年、交渉に交渉を重ね、補助金をなんとか十万まで上げてもらい、年間、町と県を合わせ二十万円からのスタートに漕ぎ着けることができた。それは、熊本県の他の自治体にある作業所と比較しても、およそ五分の一からの出発だった。
運営費をつくりだすためにも、パン販売に力を入れた。大きく分けると菓子パンと食ぱんの二種類だが、顧客は、けっして作業所のパンだからといって大目に見てはくれない。美味しくて値段がそれに見合い、できれば少しでも安く、しかも体にいいと買ってくれる。
菓子パンでは、あんパンのみ九十円で、他、くるみ、レーズン、チーズやクリーム系はすべて八五円、バターロールは八十円、食パン二百五十円を現在も守りとおしている。もちろん、膨脹剤や香料など添加物はいっさい使っていない。素朴な味わいが評判だ。材料費は四割近くになるが、きっちり商品として市場に乗せるためにはやらなければならないことだ。
阿蘇の地域は農家が多く、まだまだ米食中心で、そこにパンが入り込むことは至難の技だ。私たちは、まず足場を固めるため一の宮町を中心に、自転車や徒歩、雨天のときは車を駆使し、例え一個のお客でも要望があれば配達することで顧客の心をつかんでいった。障害者が地域に出る、という活動の主旨も大事にしたかったからだ。
翌年の春、私たちは胸を張って再び実績報告ともども要望書を提出した。
ところが、町から上がった返事は、五十五万にはほど遠い、五万を上乗せした十五万だった。私たちは、こうなった以上、町の財政事情も理解しつつ、粘り強くやっていく以外ないと肝を据え、地道に活動をつづけていった。それからも毎年五万、県と合わせて十万円アップが一年ごとにつづくことになる。
厳しい運営ではあったが、竹原さんの赴任先ごとの情宣活動の甲斐もあって、学校関係などで夢屋はよく知られるようになり、障害児の「共生」をテーマにした授業研や発表会で呼ばれるようになってきた。また、そんなときは、できるだけメンバーたちの生の言葉を聞かせたい意向で、全員ででかけ一人一人自分の言葉でこれまでの生い立ちや、夢屋と知り合うまでのエピソードなどを語ってもらった。そこでパンの即時販売も行った。
だが、パンの売上げに頼らざるをえない状況がつづく中、さすがに疲れも見えてきた。必然的にトオルさんの状態が、また少しずつ悪くなり、最高で週四日、金曜から月曜日まで帰宅できるようになっていたのが、また一日ずつ三気の里へ帰る間隔が長くなり始めていた。今から思えば、運営費をなんとかつり出さなければならないという、じりじりとした焦りに駆られ、けっきょく夢屋のメンバーでは障害の最も重いトオルさんへのケアがおろそかになっていたと言えなくもない。
そんなとき、夢屋に、ある信じられない出来事が起こった。
三、父親の死、そして……
一九九九年四月十九日、トオルさんの父、テツオさんが突然の交通事故で亡くなった。
深夜、自転車で道路を帰宅途中、前方不注意の大型トラックに巻き込まれたのだ。まだ五十歳になったばかりだった。晩年、マサミさんとの関係が悪かったと言っても、夜、トオルさんの調子がわるいときは、ドライブに連れていったりし世話をしてくれていた父親である。
いつか人には死がおとずれる。だが、あまりの急なことに家族を始め、夢屋のメンバーも悲しみとともに混乱に陥った。その年、既に弟は大学に進学し県外へ出ていたため、様々な諸用に忙しいマサミさんに代わり、私は、三気の里にいるトオルさんに父親の死を知らせに行った。
行く途上、私は涙があふれ、車の運転ができず道の脇に停車した。
父親の早すぎる死が、悲しかったこともある。だが。それ以上に、その死をも家族から離れ、たった一人施設で聞かねばならない彼の存在が、痛切な悲しみとなって心に迫ってきたのだ。
「障害」とはいったい何なのか。地域で生きるにはあまりに手のとどかない壁があり、今、ともに暮らす力のない現実を自分自身につきつけられる思いがし、悔しさがこみあげた。
「トオル、実はね……」
彼の部屋で向き合い父の死を説明しようと言葉にしたとたん、堪えきれず再び涙があふれた。トオルさんの隣りには、施設で新しく担当している指導員の石井が座り、彼も零れ落ちる涙をしきりに拭いていた。
トオルさんはそんな私たちの顔を、眉間に皺を寄せぎみに、合点のいかぬ表情で見ていた。
ある程度の説明を終えると、ゆっくりトオルさんが質問した。
「お父さん、生き返る?」
「生き返らない」
彼は神妙な表情になり、顔をしばらく伏せ、上目づかいに再び口を開いた。
「お見舞いは?」
トオルさんにとっては、それが葬儀の意味だ。
「明日あるから、来てね。皆待っとるけんね」
私はトオルさんの手を握り、約束した。
施設の協力も得て、トオルさんは無事、私たちに見守られながら、他の親族たちといっしょに葬儀に参列できた。
それから一週間後の二十六日の正午すぎのことだ。
私はマサミさんと今後のことを夢屋の二階の自宅で話し合っていた。トオルさんの帰宅をどうするか。それが具体的な内容だ。昼間はいつもどおり夢屋の活動があるにせよ、夜、私がどんな形で介助に入るか。もしくは他からヘルパーを雇うにしろ、どういう体制を整えていくか。実際の生活ですぐにやっていかねばならない問題は数知れなかった。
そんなとき、電話のベルが鳴った。
マサミさんがいつものように受話器をとった。
「わああ、もういやあ……」
しかし次の瞬間、彼女は泣き叫びながら、聞き取れぬような声を上げ、受話器を放り出すように私にわたしていた。
トオルさんが三気の里の二階から飛び下りた。それが電話の中身だった。
二階には、園生たちがくつろぐ和室があるが、そこから飛び下りたらしい。
その後の園からの説明によれば、二階のその部屋は、中庭に面していることもあって窓には鉄格子がついていなかった。利用者を施設に閉じ込めるような雰囲気にはしたくないという三気の里の人間らしい扱い方が裏目に出たのだ。いつものように一人の女性指導員が数人を見ていたが、一瞬の隙で、止めれなかったと言う。
なぜ、止められなかったのか。身を挺してでも押さえてほしかった。最初に私に沸き上がった思いはそれだった。
「死ぬとかなあ、落ちたら死ぬかな……」
夢屋がオープンする直前、デパート九階のレストランで、トオルさんがつぶやいた言葉が頭を過ぎる。あれはこの日のことを予感していたのだろうか。いや、あのときのトオルさんは疲れ果て、最悪の状態だったが今度は違う。家にいるときでも調子が悪いと、トオルさんは、挑発するように、ここから落ちたら死ぬか、と窓の下を覗きこみながら聞くことはたびたびあった。度合いにもよるが、あまり繰り返す場合、私たちは、「死ぬよ、だけんぜったいにしたら駄目だ」と強く否定し、叱ることを共通認識としていた。
自閉症は自分で自分を悪い方へと追い込んでいくところがある。それはちょっとした悪ふざけや不安感から入っていくこともある。言わば日常的な行動だ。その兆候が見えたときは的確に、少々強引でも、その世界から引き摺りだすため、的を得た言葉や態度で対処する必要がある。そうすれば、ほとんどの場合、大きな事故にはつながらない。そのタイミングや言葉の発し方は、両者のある程度長いかかわりで培った信頼関係の中からしか生まれてこない。しかし、後で入った情報によれば、女性は、就職して数か月しかたっていなく、経験が浅く、けっきょくは手薄な福祉現場の犠牲になったことに違いなかった。
もし、その場に、一言があったなら。
いくら考えても仕方がない。過去と現在がどうどうめぐりする中で、私はマサミさんにかわって、三気の里の職員に事情を聞き、トオルさんの意識がはっきりしていることを確認した。
現在、日赤(熊本日本赤十字病院)へ車で急行しているが、詳しくは病院から連絡がないと、こちらにもわからない。あり次第、知らせるから待機していてほしい。相手もそうとう混乱しているようだ。こちらも、とてもじっと待っていられる心境でなかった。一刻も早く会いたいマサミさんの意を受け、さっそく私たちも出かけた。
救急センターへ到着したとき、トオルさんの処置ベッドを取り囲むように数名の施設職員が立っていて、マサミさんは駆け寄り、彼に話しかけ、いつものようにはっきりした言葉が返ってくると、ようやく平静を取り戻したようだった。
「すみません、指導員が、ちょっと目を離したすきに……」
施設長は、既に電話連絡をしてきた事務担当の女性が言ったことと同じ内容を、その場で、再びくりかえした。
私もマサミさんもそのときは、トオルさんの意識がはっきりしていることにだけ救いの思いを抱き、お互いに今後の彼の怪我の経過と病院側がどういった見解を出すかで頭が一杯だった。
『腰椎粉砕骨折』これがトオルさんの正式な診断名だ。
施設二階から、少し先の芝生へ落ちれば、かなりダメージは違っていたかもしれないが、まともにコンクリートの側溝へ落下したため、腰椎の一部が砕け、脊椎を走る神経を鋭い棘のように突き刺すように圧迫しているのだ。
二日後、様々な検査も終り、患部の状況とそれに伴う手術の説明が、主治医によってなされた。三気の里からは施設長と医療担当者が参加し、私や澄江を始め、陰鬱な雰囲気での話となった。
「まず、左肋骨の下を二十センチほど切り、内臓と肺をよけながら横隔膜との境を切断します。骨折している患部を取り除き、かわりに骨盤の一部と一本切除した肋骨を埋め込むのです。骨盤と肋骨だけでは弱いため、金属(ロッド)をスクリューでとめ補強することになると思います」
私たちが黙っていると、それが理解しがたいと受け取ったらしく、医師はホワイトボードにマジックで絵を描き、説明をつづける。
「術後の機能への影響は何とも言えません。ただ、現時点では五段階に分け、良くて三が想定されます」
数学の方程式でも解くような、無駄のない話しぶりだ。
「一は、まったく麻痺で、下半身不随。二はある程度の神経のつながりはあるものの立つことは不可能。三は重力に逆らって立てるかどうかの際どい境目というわけです。四、五となると歩行や通常の機能回復ということになりますが、排便の自律神経が奪われている可能性もあり、今のところ予断を許さない状況です」
手術は、ゴールデンウィークを挟んでいたため、休暇に入っているスタッフが集まらないという理由で、五月七日に行われることになった。それまで十日ほどあり、まずは手術まで安静にさせておくことだけでも容易ではないことに私とマサミさんは気が重くなり、先行きを思いやった。
病院側からの要望もあり、昼夜、常に一人つけてほしいことが告げられ、昼は三気の里が全面的に責任をもち、夜はこちらと三気の里から、それぞれ一人ずつ出し、交替で一時間ごとに睡眠をとりながら看る形がとられた。施設側は、多くの職員を次々に回せばいいが、夢屋側は、実質的なスタッフは私かマサミさんしかいなく、ほぼ一日おきに阿蘇から一時間半かかる日赤病院へ出かけていった。
今振り返っても、手術までの時間の方が、長く、厳しい状況だった気がする。もちろん夜の介護は、退院までの三ケ月間つづいた。トオルさんが飛び下りることを許してしまった施設側の職員と同室で寝泊まりし、看護していくことは最初、抵抗があったが、一人一人とじっくり話してみると、利用者の立場で考えている者も多く、個人同志では雪解けもなされていった。
そしていよいよ手術の日を迎えた。時間は、麻酔が切れて出てくるまで十時間を越すものだった。
術後もスムーズにいったわけではない。
手術から二週間が過ぎようとしているときのことだ。医師の回診があり、たまたまその日、私とマサミが交替する時間帯で、二人いっしょに立ち合っていた。
執刀された腹部へとおされた管からは、相変わらず赤黒い血液のような濁った汁が吸引され、トオルさんのベッド脇に留められた透明の容器に溜まっていっている。医師が管の流れをよくするため、軽くふり、角度をあらため、真剣な表情で眺めていた。看護士が包帯を取り替えるため、右脇を下に猛の体をゆっくり動かしたときだ。分厚いガーゼが外されると、メスを入れられた生々しい傷口が縫われた糸の上からあらわれ、そこから染み出るようにゼリー状になった血の塊がとろりとトオルさんの大きな腰を流れ落ちた。それは私にもマサミさんにも予想外な情景だった。
「へんですね。ふつうなら、もう傷口がふさがってもおかしくないんですが」
医師の言葉に驚いた私たちは、控えていようと下がっていたが、ためらわずベッドへ近づいた。
「治そうという意志が、なかなか感じられないんですよ」
主治医は、白い壁に囲まれた病室で疲労の色を浮かべ、率直にそう言うと、同伴した看護士も困惑した表情で後をつないだ。
「調子はどう? って聞いても、『いい』ぐらいしか答えませんし」
それを機に、一度共通確認しておく意味で、トオルさんへの対応について医療側との大掛かりな話し合いを持つことにした。というのも、それから咳と啖がからまることも増え、肺炎を併発する危険性も徐々に見えだしたからだ。ときと場合によっては、病院を変えることもやむをないと覚悟しながら、私はマサミさんと二人でその場に臨んだ。
三気の里からも医療担当者に参加してもらった。
四方を移動式の無機質なボード壁で囲まれた部屋をエアコンから吐き出される空気が静かに舞っている。私は、患者が自己治癒という面が薄く、痛みをきちんと他者へ訴えたり、それと向き合う姿勢がないことをあっさり告げる病院側へ思い切って口を開いた。
「トオルさんのような重度の知的障害者は、自分から治したいとか、そもそもあんまり思わないんです」
「どうもそんな感じですね」医師たちは複雑な顔をした。
「それに、具合が悪いとか、少し変だとかも自分からは言いません。第一、治療の意味なんかが、わからないんですから」
知らず知らず、私は言葉の端々に力がこもっていた。
「だから反応がなくても、みなさんがすすんで、何回も見てほしいんです」
看護士は携帯しているメモ帳にボールペンで記録している。医師は回転椅子に座り、肘掛けに腕を置き、ときどき深く頷いていた。
それは予想していたのとは反対な、とても謙虚な態度だった。遠慮しているのか黙っているだけの三気の里の職員をよそに私は、さらに言葉をつづけた。
「それから、がんばれは、つかわないでください。あれはかえってこだわりが増えます」
看護士と医師はその行為が自分にも当てはまったのか、目を合わせ照れたように笑った。
「それじゃあ、何と言えばいいですか」
気を取り直し、看護士が単刀直入に質問する。
「大丈夫とか、一緒にやっていこうとか、とにかく安心させる言い方をお願いします」
「おっしゃることはわかりました」
最後は医師が医療的側面を強調し、しめくくった。
「こちらも、なにぶんトオルさんくんのような自閉症の患者さんは初めてなもので、戸惑いがあったことも事実です。ただこのまま傷がつながらない場合、感染症の心配も生まれます。ふたたび腹部を開き、殺菌しなおすことだけは避けたいですので、全力をつくてみます」
その後、病院側は看護体制を見直し、より頻繁にガーゼ交換を行い、トオルさんにも積極的に話しかけるようになった。看護士の出入りが目に見えて増え、トオルさんのこだわりに穏やかに答えている情景をよく目にするようになった。するとそれまでの経過が嘘のように、傷口は接合し、回復の兆しが見えてきたのだ。
常識では考えられない展開だった。二ケ月もするとトオルさんは自力で立ち上がれるようになり、排尿も可能となった。すべてが奇跡的だと医師たちを驚嘆させた。
入院し三ケ月目になり、猛の退院が現実味を帯び始めたとき、私とマサミさんは、熊本市長嶺にある、ふくし生協(熊本県高齢者障害者福祉生活共同組合)を訪ねていた。父親もいなくなり、弟は県外の大学へ進学していたため、現実的に、トオルさんが帰宅してきた場合、彼の介護をどうするか。歩けるようになったといっても、あくまでゆっくり立ったり座ったりがやっとの状態で、入浴やトイレなど極度にしゃがんだり、急に立ち上がる動きには、常に誰かがついていなけばならない。それに、精神と肉体のバランスを崩したことで手のふるえや言語の聞き取りにくさをともなう小さな発作がときおりあらわれるようになっていたのだ。
それでも私たちは、彼といっしょにつくった夢屋に週に一度は帰ってきてほしかったし、トオルさん自身も強くそれを望んでいた。
ふくし生協代表の中村倭文夫さんは、トオルさんや夢屋のことを新聞に載った記事や、人づてで知っておられ、毎週土曜から日曜にかけ泊まりがけでなんとか一人を派遣してくれることを約束してくれた。そして七月十九日、いよいよトオルは退院し、一旦、三気の里へ戻り、八月六、七、八、ついに念願だった夏休みの帰宅を行ったのだ。
澄みきった快晴の日だった。
私たちは、三気の里で、ふくし生協の最初に担当することになった小出さんと待ち合わせし、無事、トオルさんを連れ夢屋へ帰った。
夢屋には心配そうな顔でメンバーたちが待っていた。寿司をみんなで食べた後、この日のため手摺もつけていた二階への階段をゆっくり上がり、窓をあけきった畳の上に、静かにトオルさんを横たえ、コルセットを外してあげた。汗をびっしょりかきシャツが肌にまとわりついていて、まだまだ厳しいこれからの日常を彷彿させたが、ようやく帰るべきところにトオルさんが帰ってきたことに、私はホッと胸をなで下ろしていた。
ふくし生協にも事情があり、同じヘルパーがつねに来ることはむずかしく、とりあえず中村さんを含め五人ほどが、順繰りにやってきた。私はひととおりトオルさんの障害の部分や性格、それに言葉の掛け方も含めた対応のパターンなどを知ってもらうために、いっしょに泊まりこみ、細かく教えていった。そしてトオルさんとの相性なども加味し、適当だろうと思われるヘルパーを三人に絞り込み、ようやくローテンションが決まるまでに、半年を要した。
私は、ひととおり対応に慣れてきたヘルパーの姿に安心し、そこでようやくサブ的位置に回り、夕食をし終わると一旦、自分の家へ帰ることにした。私の場合、昼、トオルさんを迎え入れ、話し相手になったり、あれこれ溜めていた質問に答え、対応することがこれから毎週つづくのだ。ふくし生協のヘルパーたちと気長に協力しながらやっていく必要があった。
急ぎ足だった季節の移り変わりも、わずかにテンポをつかみだしたトオルの生活のリズムと同じように、ようやくゆっくりと回り始めたように思えた。
一九九九年の暮れを、あれほどの重傷を負ったトオルさんが、自宅で迎えることができたことは信じられないことだった。
そして二月、つづいて思いもかけないことが、まず、トオルさん以外のメンバーに起こった。
四、惜別と悲しみを乗り越えて
世の中がプレミアムで沸き立った二〇〇〇(平成十二)年の二月十日未明のことだ。
突然にノリオさんが逝った。
コーヒーを飲みかけのまま、炬燵で硬くなっていた。流しには吐いた跡があり、その後具合が悪くなったらしい。心不全だった。発見したのはノリオさんの家へたまにビデオを借りに行っていた近所の人で、昼過ぎに見つけた。私はたまたま、娘の誕生日のため、荒尾に帰っていて、翌日、玉名市のアパートで暮らす娘たちに会うつもりでいた。実家に帰りつくやいなや、父から、今、夢屋の竹原さんから電話があったことが告げられた。
私はすぐに彼女に電話を入れた。竹原さんは極力落ち着いた口ぶりで、ノリオさんの死を伝えてくれた。私は我が耳を疑わずにはいられなかった。即座に娘に事情で行けなくなったことを話し、とんぼ返りで阿蘇へ引き返した。信じられなかった。そして情けなかった。なぜよりによって、自分がいないときに死んだのだ。私はノリオさんの家に直行した。家では警察の長い現場検証がちょうど終わったところで、親族の者がさっそく集まり、今後の通夜や葬儀の段取りを決めていた。福岡のお兄さんも来ていた。お兄さんはたまたまホームに入所している父親を見舞いに来る日で、帰宅していたそうだ。弟が呼んだのかもしれないと私の顔を見るとしみじみつぶやいた。
ノリオさんは、炬燵に入っていたため、足が膝からくの字に曲がった状態で布団に横になっていた。私はノリオさんの顔を見るなり、今にも話しかけてきそうな相手に、大きな声で詫びていた。
「すいません、ノリオさん。見つけてやれずに、すいません」
翌日の通夜の途中、ブレーカーが何度も落ち、奥からは目覚し時計が鳴り、それも止むとアラームがどこからともなく鳴り響き、闇と光、静けさと喧騒、彼岸と此岸の狭間でノリオさんがふざけて、皆を驚かせているように思えた。それでもだれも慌てることなく、それがいかにもノリオさんらしい姿のように、読経や焼香がつづけられ、しんみりと夜陰がすぎていった。
葬儀で私は弔辞を述べた。切なく、苦しかったがどこかノリオさんの生き様が羨ましかった。風のようにやってきて、風のように去っていく。そうやって、ノリオさんは、地域で生きつづけたのだ。
「あんまり寝過ごして、うっかり死ぬようなことがなかごつ、注意しとってよ」
私がたまにふざけて言うと、
「また、冗談でしょう」
ノリオさんは笑いながら返したものだが、まさかこんなにも早く現実になるとは予想もしていなかった。
ノリオさんがいなくなってから、ちょうど一週間目のことだ。阿蘇地方に大雪が降った。夜寝ているうちは、まったくわからなかった。それどころか、日頃、ところどころ隙間風が吹く借家に住んでいる私は、暖かい空気が部屋の中をおおっているように感じられた。
表に出ると辺り一面、雪がすっぽりつつみ、そこにあるものすべてを隠していた。わずかな敷地に駐車させているパンの配達に使うバンの白い車体は、フロントガラスに重たく雪をかぶせ、ワイパーをへし曲げていた。ボンネットの上にこびりついたように雪が小高くかぶさっている。チェーンをつけようかどうか迷ったが、以前同じように降ったとき、日の差さない入り込んだ山際の傾斜道には役に立たず、立ち往生したことを思い出した。私は傘をさし、歩き始めた。幸い、その日は、パンをつくる日ではなかった。
靴底が歩くたびに雪の中へ静かに沈み込み、雪粒をつけ、足首から下を左右にふると乾いたように落ちた。すべらないように、できるだけ道路脇の吹きだまったところを歩いた。高齢の女性が一人、箒で雪をかいている。目が合い、軽く会釈し行き過ぎ、そのまま真横に鳥居が見え、日頃通らない道の、そちらへ曲がってみることにした。
境内はなんの生命の痕跡もないほど、白一色だった。白い肌を最初に踏み荒らすのが自分であることが、どこか傲慢な気がした。
私は、ノリオさんがさっきからどこかで見ている気がし、しばらく歩を止め、杉林の奥の木々の梢の先へ目をやった。サーッと一瞬、葉や枝に溜まっていた雪が音立てて落ち、しぶきを小さな滝のように起こした。枝が大きく揺れ、直接鼓膜へとどくというより、張り詰めていた空気から私の肌の奥へしみこんでくるようだった。
私は、ふたたび何かを確かめるように目を凝らし、二、三歩足をだし、様子をうかがった。傘に雪がはぜるような音が響いてくる。雪は道の凹凸にそって溜まり、なだらかな曲線をつくっていた。ノリオさんが逝った世界も、こんなところかもしれない。私は、ふとそう思い、少しばかり力を得たように数歩すすみ、また周囲を見回した。静寂が立ち込め、雪の結晶は小枝の一本一本までとどくように舞い落ち、辺りから熱と痛みを吸い取っていくようだった。
「ヒヨコの雄雌見分ける仕事もしたけどな、そぎゃんとできるはずもなか。わけがわからんだった」
獣医として公務についていたノリオさんの父親は、手に職をつけさせようと、思いつく場にできるだけ見習いに行かせた。だが、日野さんは幼いとき自宅の階段から落ち後頭部を強打してから、てんかん発作を持ち始め、気力がつづかず、仕事につくことはできなかった。
親戚縁者は、夢屋へ行き始めたノリオさんの晩年の四年間の暮らしを遠くから見守っていた。宝くじのことも、いつか当てたら喫茶店を開くこともしっかりと周囲に豪語していたそうだ。
逝く二日前、私たちは阿蘇清峰高校の研究集会へでかけ、それぞれに自分たちのことを語った。日野さんもこれまで生きてきた道程を飄々と、参加者たちの前で話していた。
「俺も長かったもんな」
何が長かったのか、司会者を務めていた竹原さんが質問すると、ノリオさんは指を折り、
「十年、二十年、三十年じゃろ」
軽く小首を傾げ、ひょきんな顔で笑顔を浮かべ、しみじみと、
「『夢屋』までくるのが、長かったもんな」
それが私たちにとって、もっともありがたいノリオさんからの最後の言葉となった。
ノリオさんが死んでからも、夢屋の日常は待っていた。
ノリオさんが亡くなったことはトオルには黙っていた。こだわりの強い彼のことだ。ノリオさんの死にどう執着し始めるかわからない。しかもあれだけの事故を起こし、やっと復帰してきたのだ。できるだけ心の中を平穏にさせておきたかった。ノリオさんは、しばらく家の事情で夢屋を休むことになったとだけ告げた。
トオルさんの帰宅は軌道に乗ってきた。ふくし生協の三人も慣れてきていたし、トオルさんとの距離のとり方などつかみだしていた。私も負担が減り、バランスよく彼と接することができだした。
五月のゴールデンウイークには、いつもより一日長く帰り、翌週の土、日の十三、十四日と無事、帰宅できた。日曜日、ドライブがてら阿蘇をしばらく回り、三気の里へ帰るといいながら車に乗り込むふくし生協の中村さんとトオルさん、それにマサミさんの姿を今もはっきり覚えている。
悲劇は翌日、起きた。五月十五日、午後十時四十分のことだ。私の家の電話が鳴り響いた。マサミさんの天にも突き刺すような叫び声だった。声の節々はふるえ、今にも何かの拍子さえあれば張り詰めた薄い被膜が破裂しそうだった。
今、三気の里から知らせがあった。睡眠中、いつも聞こえているトオルさんの鼾がなく、不審に思いベッドに行き確認すると、呼吸が止まっていたため、心臓マッサージをしながら救急車を待っている。
とにかく一刻も早く園まで送ってほしい。マサミさんは、縋るように叫んだ。
かなり気が動転していることは、言葉の流れと抑揚から理解できる。当たり前だ。彼女にとっては、おそらく自分の命よりも大事な息子が突然死の道へ迷い込んでしまったのだ。
私はすぐに夢屋へ向かい、彼女を乗せると三気の里へ直行した。
車を運転していると、一年前、こうやってトオルさんが施設の二階から飛び下りた知らせを聞き、今と同じように彼女と二人で日赤病院へ向かっていたときのことを思い出した。いや、思い出すという行為では到底説明がつかない。時間がくるりと一回転し、目の前の視界が一瞬にして舞い上がり、今こうやって再び同じ状況で車を飛ばしていることが、すべて巧みにつくられた虚構のような、信じていいか、疑うべきか、それさえわからない、そんな心理状態だった。まるで人間の存在を構成している時間軸が突然に変形し、奇妙な形のまま折り重なることで、平衡感覚を失ってしまったような感覚だ。
このまま、自分たちも夜の闇の中へ滑り込み、スーッとトオルさんの棲む世界へ行ってしまうのではないか。今、思えば、どこかでまだ事の重大さが実感できず、楽観視していたのかもしれない。
三気の里へ着くと、かつてトオルさんを担当していた指導員の高田が、大津のセントラル病院へ行ったが、処置が難しく、日赤へ向かったことを知らせてくれた。時間は、十一時二十分になっていた。夜陰の中でぼんやり浮かぶ高田の顔とは対照的に、緊張した声を聞き取りながら、徐々にトオルさんの容体がままならぬことが伝わってきた。
私たちは、さらにスピードを上げ、日赤病院へついたのは二十分後のことだった。皮肉なことに去年も経験ずみなため、処置室へは抵抗なく、病棟内の経路を示す矢印も見ずに迷わずに行けた。救急病棟の、様々な器材の乾いた振動音に包まれた雰囲気が近づいてくると、まだそれらが私の体の中に生々しく残っていることに気づかされた。
医師たちが数人集まっている。すぐにその中に猛がいると直感でわかった。
私はマサミさんを導いた。
「すいません。その子の母親です」
トオルさんは眠ったように横になっていた。マサミさんを耳元に座らせ、私は片方から、彼女はもう一方から呼び掛けた。
「トオル、聞こえるか、おい、俺はここにおるけんね」
「お母さんよ、トオル……」
お互い、手や足を擦ったり、肩口をゆすったり、何とか意識を取り戻してほしい、そう思い、必死に叫んでいた。
やがて家を出る際、連絡していた竹原さんもやってきた。
処置に当たっていた医師が歩み寄り、悔しそうな口調で言った。
「とにかく、ここまで来るのに時間がかかりすぎています。救急車への連絡が十時三十五分、二十分して園について、ここへ来たのは十一時十五分ですから……。五分間、酸素が脳へいかなくても、かなりの細胞は死んでしまうんです。ですから、残念ですが、脳の方はもうほとんどだめな状態です」
その言葉を聞きながら、たとえ脳がだめでも命だけは助かってほしい、そう私は願った。どんな姿でもいい、生きるんだ……。おそらくマサミさんも、そして竹原さんも同じ気持ちだっただろう。しかし、脳機能が死んでしまっているという現実は、奇跡を起こさせる可能性もほとんどないことに、私たちは否応なく気づかされていく。身体のあらゆる器官に指示を送る中枢機能が損われているということは、医療的に見てもかなり厳しい状態を意味するのだ。
医師が救急医師から担当の主治医へと代わり、再度説明があった。
「心臓ですが、人工呼吸器で動かしている状態で、けっして本人の力ではありません」
つぎつぎと私たちが抱こうと思っている希望の実から幻想の薄皮を一枚一枚剥がすように断言がされていく。
今だから言えるが、まだ私はそのときさえ、トオルさんは『生きている』そう信じていた。機械で動かされていると医師は患者の側の機能のいっさいの停止を告げてくる。しかし、とり方では、機械の力を借りながらも鼓動を繰り返しているということは、やはりトオルさんの『力』そのものだ。「生命のライン」をどこへもっていくかで「生」や「死」の見解の相違は、いくらでも出てくるではないか。
さらに医師は、職務でもあるのか、トオルさんの詳しい容体と今後の処置についてあらためて説明の場を持ちたいが、母親にどのような形で話すべきか、私と竹原さんに相談してきた。
「あの人は、これまではっきりと自分で判断し生きてきた人です。おそらくきちんと説明していただくことを望んでいると思います」
私たち二人は、そう答え、すぐにマサミさんにその旨を告げると、やはり本人もこれまで同様、しっかりとした口調で「わかりました」と立ち上がり、その場に臨んだ。
彼女にとっては、辛く苦しい段階へ入ったが、それでも精一杯、残された力をふり絞り動いているという様子だった。
私はこの踏ん張りがいつまでつづくのか、それも心配していた。気丈なように見えるがそれもトオルさんあってのことだ。そのトオルさんが今、帰らぬ人になろうとしている。彼女自身、息子もろともいっしょに消え果ててしまいはしないか、正直、予想以上の気の張り方がそのことを予感させ、怖かった。
医師からの説明が始まった。
既に血圧を上げる薬の投与は、限界にきている。これ以上はむしろ、副作用で尿がまったく出なくなるおそれがあり、本人の肉体にはいい影響を及ぼさない。最後の手段は、心臓へ直接、強い刺激を与える方法が残されているがかなりきつい作業であり、蘇生の可能性がない段階でやることは、医者の立場からしても避けたい。つまり、遠回しではあるが「死」の宣告だった。
マサミさんはしばらく黙った後、
「わかりました」
一言、踏ん切りをつけるように返事をすると、伏せていた顔を上げた。
「おっしゃっていることは、わかりました」
自分を納得させるように、数回頷き、
「ずっとこれまで、薬には苦しんできた子です」
そこでまた、深く首を縦に振り、
「いろいろな面で苦しんできました。もうこれ以上、苦しみは与えたくありません……」
意志としては、充分すぎるほど明確な言葉だった。医者も頷き、トオルさんの方向は決まった。薬の投与は今以上行わず、緊急の処置もすることなく、あとはできるだけ自然な形で逝かせてあげる。
そうと決まれば、いっときの時間も惜しくて、私たちは病室へ急いだ。少しでもトオルさんのそばにいてやりたい。しかも驚くことに、まだどこかで奇跡を信じていた。
「自閉症」という健常者には理解できない世界を生き、下半身不随の危機も乗り切った強靭な体力の持ち主のこと、最後の最後まで何があるかわからない。
マサミさんも竹原さんも言葉こそ出さなかったが、私と同じ心境にいることは、一点を見つめるような眼ざしや動作からも伝わってくる。猛を中心に夢屋を始めた三人が、あの日、夢屋を立ち上げるとき手製の設計図を前に、それぞれの夢を語り合ったときと同じように、一個の病室の中で奇跡を信じ、固い絆でつながっているのだった。
医師がいつ停止してもおかしくない、と言ったにもかかわらず、それから四時間、トオルさんの心臓は動きつづけた。窓の外が白々と明けてきた四時半ごろ、それまで六十前後を保っていた血圧がぐっと落ち込み、チアノーゼが顔全体にあらわれた。
「ああ、でてきたねえ」
三人はほぼ同時に、諦めがついたかのようにつぶやき、きつかったねえと、誰ともなくトオルさんをねぎらった。医者や看護士たちがあらわれた。もはや処置ではなく、ただ機械の発信音を聞きながらトオルさんの旅立つ姿を暖かく見守っているというふうだった。
辛かっただろうが、マサミさんのはっきりした選択と意志のおかげで、医療の側にも迷いのない判断が下せ、トオルさんを静かに「見送る」という形になったのだと思う。
四時三十七分、トオルさんは逝った。穏やかな、スーッと力がぬけたような顔だった。私は鼻から差し込まれていた人工呼吸器の管をぬきとってやった。
それから予期せぬことが待っていた。
救急車が障害者の更生施設から呼ばれたこともあり、警察の検死と施設側への取り調べが二時間半かかった。六時ごろ到着して始められたので、トオルさんが自由になったのは、やがて九時近くになっていた。一刻も早くトオルさんを家へ、そして夢屋へ帰してあげたかった私たちにとっては、苦しい時間だった。
葬儀会社任せの形式的なものにはしたくないという母親の気持ちを尊重し、三気の里の職員たちといっしょにトオルさんの体をかつぎあげ、園が用意したワゴン車に乗せた。マサミさんはトオルさんの隣に寄り添い、私が阿蘇まで誘導する形をとった。竹原さんは仕事の関係で一旦自宅へ引き上げた。かつて数えきれないほどトオルさんを助手席に乗せ、多くの思い出の残る熊本市内から大津、そして阿蘇までの道を、今は一人で運転し、アクセルを踏んでいた。
二階の自宅へ上げるのも職員たちといっしょに、トオルさんを真ん中にして力を合わせ抱え上げた。いつも帰宅するたびに寝ていた介護用ベッドに横たえた。
「すいません。母親と息子だけにしてください」
私は、暫く呆然と立ち尽くしたまま申し訳なさそうにいつまでも去ろうとしない職員たちに礼を言った後、ふり絞る声で頼んだ。
職員たちが一階へ下りると、私自身、張り詰めていたものがほどけ、遺体となって帰ってきたトオルさんの姿がどうしようもなく悲しく、そしてつらく、その場に立っていられなくなり、ついに泣き崩れた。本当は私こそが、トオルさんと二人っきりになりたかったのかもしれない。
葬儀の準備や手続きは、ほとんどを私と竹原さんでやった。
翌日、竹原さんから連絡を受けたトオルさんの小、中学校の同級生たちが彼の体を二階から抱え下ろし、棺に入れてくれた。息をフウフウ切らし、声を合わせ、トオルさんは穏やかにほほ笑むような表情のまま運ばれた。飛行機で駆け付けたトオルさんの弟とマサミさんの手によって火葬の点火スイッチが入れられたときのことだ。
「ミヤモッさん、熱い、ここ、熱い?」
トオルさんの声が確かに私の耳元に聞こえた。
「だいじょうぶばい。だいじょうぶだけんね」
私は必死に心の中で声をかけ、ゴーッという音とともに火が入った瞬間、すべてが終わった、そんな気がした。目の前が真っ白になり、トオルさんといっしょに築いてきた夢屋も、すべてがボロボロに崩れ去っていくように思えた。五年間、ともに生きてきた月日が、あっという間に壊れていった気がした。私はトオルさんの名を何度も呼び、嗚咽した。
それから三時間後、トオルさんの骨を拾った。
そこにはもうトオルさんの肉体はなく、別の『トオル』がいた。トオルが形を変え、再び私の目の前にあらわれだしたと言ってもよかった。凄いエネルギーを熱気とともに発していた。
そのとき、ひときわ滾るような熱を出し、赤々と明滅する物体があった。
一年前、腰椎の砕けた部分を補強した大きなボルトがオレンジ色の光を発しながら姿をあらわしたのだ。私はしばしその鉄の塊に見入っていた。自分の脳髄までが焦げていくように、重く鈍痛のように疼いた。思っていた以上に巨大な、細い柱なら充分に固定できそうなつくりをしていた。
「こんなに大きかったつばいねえ」
マサミさんがそれを拾い上げたとき、私は間違いなく、再びトオルの叫びを聞いた。それは静かに、しかし力強い声だった。
「ミヤモッちゃん、ボクば見といてよ」
トオルは、そう叫んでいた。しっかり、目を開けて自分の生き様を見ていてほしいと。
その日を境に、トオルさんやノリオさんは、死後、違った形で、また私たち夢屋の仲間の目の前にあらわれだしたのだった。自分たちの意志をどう受け継ぎ、どうこれから生きていくかを問いつづける眼ざしと言ってもいいのかもしれない。
トオルさんとノリオさんが旅立ってから、毎年、夢屋では八月に「游人(あそびと)の日」と名付けて、コンサートや講演会、映写会など「共生」をテーマにしたイベントを行っている。
知的障害者は総じて幼いとき、水遊びが好きだ。成人してからも、トオルさんは海やプールが、ノリオさんは温泉が好きだった。
障害者の身を守り、舵取りをし、行先まで決めるのが健常者の役目ではない。健常者と障害者が「舟」と「乗る人」の関係ではなく、「水」とそれに「浸かり、戯れる人」の関係だったら。あくまでも障害者が主体性を発揮しつつ、健常者はそれをサポートする柔らかな水の役割を果たしていきたい。
だから「遊」ではなく、さんずいへんの「游」を使った。
二〇〇五年、二月十一日、一の宮町、阿蘇町、波野村は合併し、阿蘇市になった。
夢屋の地道な活動は、新しく生まれ変わった行政区の中で、徐々に認められつつある。
しかし、どう時代が変わっていこうが、夢屋が求めた根本の理念は、これからも変わることはないだろう。障害者がありのままに、ごく普通に、地域で生きていく、ただそれだけのことを、ごく当たり前に実践し、求めてきた。移りゆく時の中で、新しい游人たちは、またつぎつぎとこの「夢屋」へやって来るにちがいない。
信じ合える仲間たちにしかつくれない豊かな水のこんこんと湧き立つ空間を求めて。トオルさんやノリオさんの魂はそんな新しい游人たちをいつまでも見守っていてくれるにちがいない、そう私はこれからも信じている。
2020年4月29日 発行 初版
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1961年熊本県荒尾市生まれ。北九州大学文学部国文科卒業後、学習塾講師、大検(高卒認定)専門予備校職員などを経て、熊本県小学校教諭に採用。二校目の赴任地(阿蘇市立宮地小学校)で、卒業生である発達障害の青年との出会いをきっかけに33歳で退職し、当時阿蘇郡市では初めての民間での小規模作業所「夢屋」を立ち上げました。その後、自立支援法施行に伴い、「NPO夢屋プラネットワークス(http://www.asoyumeya.org/)」を設立し、地域活動支援センター(Ⅲ型)代表兼支援員として阿蘇市から委託を受けながら現在に至っています。 運営の傍ら、小説、ノンフィクション、児童文学、書評などを発表してきました。部落解放文学賞に5回入選、九州芸術祭文学賞熊本県地区優秀賞2回、熊本県民文芸賞、家の光童話賞優秀賞などを受賞させていただいています。