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世の中のあらゆる判断基準は、文化や社会に根差した先入観に基づく相対的な判断が大半を占めていて、正しいかどうかではなく、多数派かどうかが問題となる。社会に生きる人間として集団内と同じ行動が取れるかどうかは、極めて重要なテクニックといえる。もちろん社会を維持する上では大切な仕組みだが、留意点もある。こうして集団的な潜在的判断は、テクニックをもつ人からすると正しい判断であるが、あくまでも多数派の判断であることを再認識しておく必要があるということだ。(途中省略) 大多数のとるトップダウン処理は社会の維持にとっては便利な反面、先入観が強くて独断的な判断に陥る可能性もある。
山口真美著「発達障害の素顔」(講談社ブルーバックス)八〇頁より引文
「法の精神」のなかにモンテスキューが「暴君政体では国民の間に恐怖が横溢していることが必須である。したがって無知と迷信があればよく、知識を普及さすことは危険である」と言う意味のことを書きました。
以下は拙著『教育と称するもの』第一節の一部です。
三十年後、日本語世界からノベル賞学者が輩出するだろうか? ドイツの事例が参考になろう。一九世紀、ドイツ文化は燦然と輝いていた。ノベル賞学者を輩出した自然科学分野のみならず、数々の偉大な詩人、文豪、大哲学者。しかしドイツ国民がナチス政権を登場させたとたん、ドイツ文化はぺちゃんと潰れてしまった。二一世紀の今になってもドイツ文化の復活はない。小粒な学者、芸術家をときおり輩出するだけの国になってしまった。
景気がいい時代は人をして寛容ならしむ。国全体が良い方向へ駆け上がって全体の生活が豊かになり、この先もずっとよい時代が続くであろうと人々が楽観するとき、その社会の人々は鷹揚になる。ひらたく言うと気前がよくなる。
「あいつなんかわからんへんてこな研究やってるが、まあいいか。好きにやらせておけ、」と。
ところで反対に、国の経済の勢いなり、政治状況なりが、なにをやってもうまくいかず国勢が長期に停滞を続けると、その社会は停滞による怨嗟感情に包まれ、人々の心が不寛容になってしまう。
深いフラストレーションの傷から、貪欲と怒りが人々の心を汚し、「悪者」を見つけて血祭りにあげようと躍起になる。万人が万人を監視する行き苦しい世の中にしてしまう。その社会では「道徳」が強調されると同時に、狡く賢く暴力的に人を出し抜いて社会上層に登る人が英雄視される。たれもかれも犠牲の山羊にされることを恐れ、思考と行動を自ら跼蹐させる。文章を三つ引く。
私は派閥の対立について特に経験がある。その対立がどのように操られるかも身をもって知った。「異者」への脅威が、普通の人々に恐怖を注入するんだ。
北アイルランド出身映画監督テリー・ジョージ(『ホテル・ルワンダ』製作者)
世界各地で魔女狩りは行われてきた。ヒットラー・ナチスの統治する第三帝国では、魔女は「ユダヤ人」と呼ばれていたし、大政翼賛体制が国の隅々まで行き渡った大日本帝国では「非国民」「アカ」と命名されていた。スターリンが独裁をしいたソビエト帝国では「トロツキスト」とか「外国のスパイ」と名付けられていた。マッカーシー旋風の吹き荒れたアメリカでは「アカ」と総称され、文化大革命のさなかの中華人民共和国では「反革命分子」という烙印を押されていたのは、まだ記憶に新しい。
国民を急速かつ効率的に戦争遂行や権力掌握などの目的に動員するときには、この魔女狩りというやり方が好んで用いられてきた。全体主義には魔女は不可欠。画一的な一つの見方。一つの方向に国民を統制していくためには、異なる世界観や思想や行動様式の持ち主は血祭りにあげなくてはならない。もっともこういう体制はどれも長続きせず、惨憺たる終焉をむかえた。
米原真理『魔女の一ダース』新潮文庫一七~一八ページ
単一の価値(ものさし)で、それを測る社会は息苦しい。大多数はそこでは敗者になってしまうから、不幸な人だらけになり、不機嫌な、とげとげしい社会を作ってしまう。それぞれに、さまざまに多様なものさしがあることが、お金以上にその社会を豊かにする。
筑紫哲也、岩波書店雑誌『図書』二〇〇六年三月号
社会全体に横溢するこの息苦しさにより、経済活動・学問活動ともに萎縮してしまう。こんなときは往々にして空虚な大言壮語を売りものにする小人たちが政治権力を握るものだ。現在および将来の漠然たる不安におののく人々が孤独な独裁者たちの無法行為を支持してしまう。社会が順調にいっている時代なら相手にしない小人のうさん臭く虚ろな獅子吼をなんとなく頼もしく感じてしまう。
長期停滞がつづいたときに登場する政府は、その国民の不安感情と社会の滓に沈む閉塞感を権力の土台とするがゆえに好景気を望まない。景気回復して人心に健全な余裕が戻ったら、人びとはふたたび気前良くなり、寛容な理想主義的政策を支持するよう変わる。そうなれば孤独な独裁者たちは哀れなピエロ視され政権の場から追放されざるを得ない。
したがって長く停滞する社会情勢をバックに権力をふるう政治業者は景気回復を望まないのである。不景気こそ権力基盤だからだ。彼らは不景気の永続とともに、景気回復の幻想を人びとに与えることに腐心する。この作戦がうまくいったばあいその暴力的無法行為政府は長続きをする。
いま「社会デフレーション」現象が起こしていると私は観察しています。社会デフレーションとは私の造語です。
経済のデフレーションとは、人々が景気後退に怯え、自己防衛に走ること。その結果、物が売れなくなり、お金の流れが滞り、企業活動がさらに悪くなります。それで会社が倒産したり、会社存続のため給料減額と「不要な」社員を解雇します。その事態が、さらに人々を自己防衛に走らせます。こうやってどうにもならない泥沼に嵌りこんでしまいます。それが従来型の経済のデフレーションであります。
今回私が提唱する概念は社会のデフレーションです。
今みんなが自己防衛行動に走っています。みんながみんなを「ばい菌」視して警戒しています。同時に、他人から「ばい菌」視されることにみんなが恐怖して、自己防衛行動に走ります。万人が万人の監視人になっているのです。ウイルスが「パノプティコン」(英国のベンサムが考えた一望監視式刑務所のこと。二〇世紀半ばに仏国のフーコーが論じたことで有名になった)となっているのです。みんな、密告を恐れて面従腹背の変装をしています、公共の場に出るときだけ。
無表情、仮面姿の人びとに注視されたとき、
「この非国民め!」
と一斉に非難される思いが吹き出して身がすくんでしまうのです。
ヴィールスを恐れているんじゃない。それを恐れているのですね、おそれて、固まっているのですね。それが恐ろしくて、多くの人は、自分も仮面を顔の上に付着させる、小学校の学芸会の小道具みたいだでアホらしいなあ、とか思いながら。
経済のデフレとそっくりなことが起きていますし、今後社会デフレがさらにさらに強まるでしょう。社会を抜け出せない泥沼に壊してしまって、金銭と権力の両面で巨大な儲けを手に入れるのは誰でしょうか。
日本語はこの点で非常に不都合な言語です。主語がなく、なんでもかんでも自然発生のように語るため、大事なことを見逃してしまうのです。極端な例では、戦争までも「戦争が発生した」と自然発生のごとく語ります。しかし相互大量虐殺行為が自然発生するはずもなく、そこには必ず戦争をするかしないか、やるとすれば勝ち目がどれほどあるか、そんな利害得失を計算し、戦争開始を決断する誰かが存在します。
ヴィールスはたしかに自然発生したものでしょう。だからそれについては「〜が発生した。」と無主語表現で良いと思います。しかし政府の行為とマスメディア報道についてまで主語抜きで語ってはなりません。自然現象では無いのですから、その行為をしている人(させている人)が必ず居るのです。そしてその人たちの、それによる利害得失計算がかならずあるのです。
日本語のあいまい表現により、私たちの頭からそのことがすっぽり抜け落ちてしまう。その結果ひどい目にあうのはわたしたち自身であります。
右の引用文中のいくつかの文章を注意してください。例えば、
「全体主義には魔女は不可欠。画一的な一つの見方。一つの方向に国民を統制していくためには、異なる世界観や思想や行動様式の持ち主は血祭りにあげなくてはならない。」
この引用文章は故米原真里氏の本からの孫引用ですが、「魔女」という言葉と「ヴィールス」がまるで同義語にわたしには見えます。
これはいかがですかしょうか。
国の経済の勢いなり、政治状況なりが、なにをやってもうまくいかず国勢が長期に停滞を続けると、その社会は停滞による怨嗟感情に包まれ、人々の心が不寛容になってしまう。
深いフラストレーションの傷から、貪欲と怒りが人々の心を汚し、「悪者」を見つけて血祭りにあげようと躍起になる。万人が万人を監視する行き苦しい世の中にしてしまう。
この文は私自身の文章です。
わたしの眼には今回の騒動の「ヴィールス」がパノプティコンと生の権力とに重なって見えるのです。どちらも故ミシェル・フーコーが論じた概念です。
生の権力とは、国家が国民の健康を守ってやる形で行使する現代の権力形式。前近代では王様が臣民の健康管理をするなどありえませんでした。現代政府は実に細かく人びとの健康状態を管理します。親切なようで煩わしいものでもあります。現代の権力者は人を生きさせる方法で権力を行使するのです。わたしの身体が私のものでなくなっているのです。政府の所有物なのです。私の健康は国家政府に管理される物なのです。そして国家とは公を装ってはいますが、実態は社会のごくごく一部の人たちの利害を反映する組織でしかない、ミシェル・フーコーはそれを生の権力と観察しました。
パノプティコンとはなにか。
それは私たちの内面に植えられたミクロな権力です。桜井哲夫著「フーコー」第六章から引用します。
ディシプリン(註、規律のこと)は、病院・工場・学校を秩序化しただけでなく、身体を服従させるその管理技術によって、得られた知識の積み重ねが、臨床医学、精神医学、児童心理学、労働の合理化などの貼っての道筋を開いたそしてかつての国王を殺害した犯人は、身体を切り刻まれたが、今日の刑罰の理想とは、終わることのない尋問、終わることのない試験なのである。学校でも監獄でも病院でも、「規格化」の専門家たちが、いわばディシプリンの技術を日々行使している。学校や工場や病院が、監獄に似ており、また、監獄が、学校や病院、工場に似ているのは少しも不思議ではないのである。
パノプティコンとはむかしのイギリス人が考えた効率的刑務所形式です。中央に看守が常駐する塔を置きます。その周囲に円形に囚人棟を配置します。監視塔からはすべての独房が見えます。いっぽう囚人はいつでも視られていると感じざるを得ません。全員がいつもいつでも、日々二四時間監視されているとおもいます。囚人にそう思い込ませれれば、監視塔にいる看守は、実は子どもでも老人でもいいのです。無人でさえいいのです。なぜなら各独房の囚人が被監視を内面化しているからです。脱走しないし、悪いことしないし、できるだけいい子でいようとするでしょう。いい子でいるとは権力者の言いつけを聞く、規律に従う、規格化されるということです。
フーコーは現代社会全体がパノプティコンであるととらえたのですね。フーコーが論じたパノプティコンとは、仏教唯識学派が措定する「識」と似ています。
私の眼には今回の騒動の「ヴィールス」が現代人である各自の内面監視者であると、ミクロ権力であると映って仕方ないのです。パノプティコンとしてのヴィールスは、人びとの虚妄な「識」だけにあるのです。虚妄な識がみる「境」としてだけ有るのです。それは真実には無いのです。
それはジョージ・オーウェルの小説「一九八四年」のビッグブラザーです。ビッグブラザーが各自に内面化されミクロな権力装置として機能しているわけです。
二〇二〇年四月の日本は、内面にビッグブラザーの教託を固く執着する人びとが満ちる世界に急変しました。ビッグブラザーたちは仮面覆面手袋姿をしています。それは政府メディアコムプレックスが指定する人民服(制服)です。ビッグブラザーたちは人と人との間をアクリル板で遮蔽し、人の間の絆を断ちます。人びとを寄るべない孤独な粒にします。孤独の恐怖に人は耐えられません。そこでますます人はビッグブラザーの教説と指導にしがみつくことになります。街の商店主たちはヴィールス怖さからでなく、内面のマイクロ権力からの自粛指令に従い店を閉めます。ノン・ガーヴァメントを標榜する NGO組織までが、その内面に固く執着する「セルフ・ガーヴァメント」の声に無批判に従い誰よりも先に事務所を閉鎖し活動を自粛します。こうして社会デフレーションが螺旋状に悪化するのです。スターリン時代のソ連などこの典型でした。
いまビッグブラザーはどこにでもいます。家にいてさえも玄関のチャイムが鳴ると、仮面姿のビッグブラザー制服を着た人が荷物を届けます。大音量でプロパガンダ放送を流す役所の広報車が家の前の道に来てはディシプリン(内面化されたミクロ権力)をより強く叩きこみます。ラジオをつければビッグブラザーたちが「仮面を着けろ」(ビッグブラザー制服をつけろ)と咆哮します。
「規格化の専門家」たちが、いわばディシプリンの技術を日々行使している」のです(右記桜井氏著書引用文より)。
世界に満ち満ちるビッグブラザーたちを避けることは不可能、ビッグブラザーが遍満する世界になってしまいました。呼吸さえできない窒息世界です。しかもこの状況を批判する人がいません。だれも問題視しません。恐ろしい事態です。いつでも、どこでも、暴力から逃れることができません。ドイツ第三帝国が医学を重視した「衛生大国」であった事実を私たちは忘れるべきでありますまい。
万人が万人の監視者となってはいけないのです。それはひどい抑圧社会を招来します。
そうではなく、人は人を信頼すべきなのです。信頼が何より大事です。人と人との信頼こそが明るい社会を、人が人を抑圧しない社会を作ります。わたしはそう確信するのです。
政府を含めた国中の各企業、各組織が事なかれ主義の保身にばかり、はしってばかりいたら社会デフレが進むばかりです。ヴィールスによる被害よりも、私たちが身を守ろうとするゆえに起こる間接被害のほうがずっと巨大でしょう。はっきり言うと、ある人がヴィールスに感染し、発病し、死亡する確率は、宝くじ一等に当選する可能性と同程度か、もっと低いでしょう。二〇二〇年七月下旬現在の計算で、新しいコロナ型ヴィールスによる死者は、日本全体の平均として、人口百万人あたり八人弱となっています。少ない数字ではありませんが、自殺や交通事故による死者より桁違いに少ないのです。しかし社会萎縮による間接被害はほとんどの人が受けるし、貧しい人ほど大きな被害を受けてしまうのです。長期にわたるヴィールスストレスによって、とてもたくさんの人たちが、精神的肉体的にまたその両方にダメージを受けています。それによって、ガンとか脳卒中とか膿尿病とか、別の病気に罹る人の数はヴィールス感染者数の数十倍あるいは数百倍になるかもしれません。
むかしむかしあるところに愚かなお金持ちがいました。他人の家の三回建て新築が高くそびえて美しいのをうらやましく思いました。じぶんも金持ちなのだから高層建築の家を建てようと思いました。建築依頼された大工は、まず基礎を作り、二階を組み、それから三階の工事にすすもうとしました。これをを見たお金持ちはもどかしくて叫びました。「私が欲しいのは土台ではない。一階でもない。二階でもない。三階だけだ。早く三階を作れ。」
と。愚かなお金持ちは努力しないで良い結果だけを求めて土台をおろそかにしたので、建物は倒れてしまいました。土台がない建物がありえないように、万人が万人を疑う暗黒の抑圧世界を構築してしまったら、ヴィールスによる病気の発症防止はありえないのです。
私たちはヴィールスを殺害していい生きものだとおもっています。
しかし佛教はすべての生き物の命の価値は等しいと説きます。すべての生き物は死を恐れる。わが身にひきかけて殺してはならぬ。殺させてはならぬ。排除してはならぬ。迫害してはならぬ、と。
ヴィールスも生き物です。わたしたちはそのことを忘れているのではないでしょうか。
「十方の草木、みな有情と称して、人と異なることなし。草木、人となり、人は死して還りて十方の草樹となる。人、羊を食するをもって、羊、死して人となり、人死して羊となる。かくのごとく、十方の衆生の類、死死生生にたがいに来てりて相くらい、悪業とともに生じて未来際をきわむ。」(「首楞厳経」)
(すべての草と木は人と異ならないものです。草木が人となり、人は死んであちこちの草木となります。ひとが羊を食べて、羊は死に人になります。人は死んで羊になります。)
人の命とヴィールスのいのちとはどちらもおなじ重さなのです。
無批判に微生物狩りに加担してはいけません。
一切衆生悉有佛性と佛教は説きます。すべての生き物が佛に成り得るのだということです。道元は悉有は佛性であるとこの文を読みました。存在するものはことごとく佛性なのです。
ヴィールスもまた佛性であります。なぜ無批判に迫害し排除し殺してよいのでしょうか。
それをするのは病が怖いからでしょう。
しかしながら釈迦は、
「この世においてどんな人にも成し遂げられないことが五つある。その二番目は、病まないということである。」(「パーリ増支部」)
と言いました。どんな人でも病むという当然の事実を、ほんとうには知らないことから苦しみが起こるのである。その事実を見つめれば、やがていつか苦しみから抜け出すことができると佛教は説きます。
いたずらにヴィールスを避け逃げる毎日は苦しみ悩みを増加させる生き方なのです。
災いが外から侵入すると思う癖を直しましょう。
「災いが内からわくことを知らず、東や西の方角から来るように思うのは愚かなことである。」(仏教伝道協会聖典二一二頁)
病は内からおこるのです。
「迷いもさとりも心から現われ、すべてのものは心によって作られる。ちょうど手品師がいろいろなものを自由に現すようなものである。人の心の変化には限りがなく、そのはたらきにも限りがない。汚れた心からは汚れた世界が現われ、清らかな心からは清らかな世界が現われるから、外界の変化にも限りがない。絵は絵師によって描かれ、外界は心によって作られる。佛の作る世界は煩悩を離れて清らかであり、心の作る世界は煩悩によって汚れている。
この心は常に恐れ悲しみに悩んでいる。すでに起こったことを恐れ、まだ起こらないことを恐れている。なぜなら、この心の中に無明と病的な愛着があるからである。」(「華厳経」意訳)
仏教はヒューマニズム(人間を中心とする世界観)ではありません。人知を超える智慧に照らされ破られることです。命よりたいせつなものごとがあることを知ってゆく道です。生命よりも大事なことを智ると本当の意味で自他の生命を愛おしく大切にする自分に変わることができます。命だけが一番大事だとそれにしがみついていた自分の愚かさがみえる心の眼がひらけたとき、 そこからはじめて真の健康がうまれるのです。
エリアス・カネッティが著書「群衆と権力」に、悪罵や悪魔祓いは大昔に滅亡したのではなく、現在もちゃんと生きていると書いた。ヴィールスという悪魔に狼狽したり崇拝したり、いまぼくらは仮面うがい手洗いの悪魔祓い儀式に躍起となっている。なるほどたしかに悪魔は滅んでいない。いまなお盛りである。
私はエイズをおこすヴィールスが出現したときの騒ぎを知っている世代である。むかしは疫病があるのがあたりまえであった。だからとりたてて昨今の状況を嘆いたりしない。
報道映像でしか見ていない方はいま東京が滅亡しかけていると誤解するかもしれないので書こう。なお状況が時時刻刻変化するだろうから、二〇二〇年四月下旬の状況であることを明記する。
いま東京都心に人はいない。日曜日のオフィス街のようなゴーストタウン状態である。店舗の多くが閉店している。電車は空いていて平常通り運行している。ゆえにたいへん楽ではある。
こんな状況の東京は二度目だ。一九九七年晩秋に巨大な銀行及び証券会社等がばたばた倒産した経済恐慌のときがこうだった。わたしにとっては初体験でないので、その意味では驚かない。
いつもどおりに町をあるき、いつもどおりに暮らしていて私はいたって健康である。私の体は眼以外は非常に健康なのだ。
私の知人に感染者はいない。知人から誰かが感染したと話を聞いたこともない。とにもかくにも、今回の新型コロナ・ヴィールスについては、メディアを通じての政府発表のほかになんにも情報がないのである。正直に言うと、ほんとうにそういう現象が起きているのだろうかと狐に騙されたような感じだ。九七年のときも情報は新聞からがほとんどであったけれども、倒産した山一證券本社を見て報道が事実であることを確かめられた。今回はそれも無い。鼻をつままれた思いである。
さて四月下旬、眼の定期検査のため都心のある大学病院へ行った。月一回の検査である。名前は伏せるが、その病院は有名な巨大病院で、高度中核医療拠点病院とかいうものに指定されている。私はそこで一九八八年から診てもらっている。昭和時代からである。私は古株である。職員よりも若手医師よりも病院の歴史を知っている自負がある。若い医師に「貴君がおぎゃーおぎゃーと泣いていた時から俺はこの病院を知っているんだぞ」と自慢したいほどだ。
ともあれ都心の大学病院だから専門家中の専門家医師集団のはずである。
三月の検診時は通常となんら異なることがなかった。いつもどおりたくさんの患者が蝟集していた。私は待合室で診察を長時間待った。
しかるに四月の今回は外来棟に患者がほとんどいない、通常の百分の一ほどの人数だ。閑散としている。閑古鳥が鳴いている。
外来受付のいつも親切にしてくれる若い職員さんに診察券を出したら、間髪を入れずすぐ医師に呼ばれた。待合室の椅子に坐る時間もなかった。医師は、こう露骨に書いてはなんだが、客が来なくてヒマを持て余していたようであった。ああやっと患者が一人来てくれた、とそんな感じに診察室内に迎えられた。私以外に患者がいない様子で、いつもの二倍三倍もの時間をつかって丁寧に診察してくれれた。大きな病院にかかるなら今が絶好のチャンスだな、と私は思った。ぜんぜん待たずにかかれて、歓迎されて、親切に治療してもらえる。
病院内部の雰囲気はいつもどおりであった。そこは昔から巨大病院にしては官僚的でなく、雰囲気が明るく、職員さんが親切であった。今回もみなさん親切で、異常をなんら感じなかった。病院内部に悲壮感とか緊迫感を感じなかった。通常と違っていたのは患者が少な過ぎるため、みなさん手持ち無沙汰で困っているらしいことである。会計係などふだんは眼が回る多忙さだ。だが今はぽつんぽつんとたまに会計に患者が現われるだけ。その病院は派遣社員を使用しておらず、ぜんいんが直接雇用正社員らしいので解雇の心配がないから、たまには楽をするのがよかろう。
わたしも手持ち無沙汰で、眼科外来を出てから、なんとかなく自動販売機の缶コーヒーを買いに行ったら、私と同い年くらいの白髪の男性医師がいて、しぜんに立ち話の雑談となった。途中で通りかかったやや若い医師が雑談に加わった。三人で缶コーヒーをのみどうでもいいような話題を話した。知らない医師だが、きさくな人たちだった。
こんなことはふつうはありえない。
医師が権威的だと批判するのではない。三時間待ちの三分診療と非難されるように大学病院の医師は忙しすぎて雑談する余裕などふつうは無いのである。
とくに意味がない軽い話ばかりしたが、新型ヴィールスに話題を向けると、箝口令がしかれているのか私に直接答えてはくれなかった。だが医師同士で、
「せいぜい数ヶ月しんぼうすれば終わる。まさか何十年もつづくことじゃない。」
という意味のことを冗談めかして言った。
その時私は聞き流したのだが、帰宅後この言葉を咀嚼し吟味して、なんか変だと思った。高度拠点病院の医師が、「数カ月で収束するだろう」と展望を述べるなら道理に合う。だが、辛抱するとか、耐える、とか、そんな単語を医師は使った。医師たちは、つまりその大学病院は、なにものかからの圧力に耐えているらしい。圧力を加えている主体は、言葉の調子からすると明らかにヴィールスではなかった。それがなにものなのか私はわからない。私は根拠のない憶測とか陰謀説が嫌いだから「なにものか」についてはこれ以上書かないことにしよう。
三月までその大学病院は新型ヴィールス対策をとくにしていなかった。対策と言えたのは、入院病棟へのお見舞い客の簡易検査と、外来棟掲示板の張り紙くらいであった。「注意しましょう」と張り紙してあった。それだけだった。
今回四月下旬は、入り口を一箇所に絞り、全員に問診と赤外線をおでこに当てて体温をはかる検査はしていた(これはかつて「サーズ」が流行したときにもやった)。入口の問診係の人も明るい表情で、上からの指示なのでしていますといった感じであった。あそこで引っかかるのは風邪を引いて熱を出した人だけだろうと思う。対策と言えるのは現在もそれと張り紙だけで、外来棟内部に入ってしまえば、すべて通常通りである。
こうした状況証拠を並べてみて、その大学病院は今回の新型ヴィールスが起こす病気をごく軽い病気と判断しているフシがある、との結論に私は達した。ほかの大学病院のことはなにもわからないが、すくなくとも私が知っているその高度中核拠点病院の医師たちはおそらく、重くない病気と判断している。ゆえに先月までこれといって対策をしなかったし、現在も最小限しかしていない。もし深刻な病気なら大学病院側が世間に先んじて厳しい対策を摂るはずである。
常識としてだが、新型ヴィールが蔓延しているなら都心の大学病院は忙しいはずではないか。医師も職員も忙しいはずではないか。緊迫感があるはずではなかろうか。ところが現実は、外来棟(含救急外来)の雰囲気はのどかである。仕事が急に減ってしまった医師たちが缶コーヒー飲んでヒマをつぶしている。みんな表情が明るい。町に人がいないおかげで交通事故が起きないのか、普段なら頻繁に鳴る救急車到着のサイレン音を、私が病院にいた間は聴かなかった。
なにかが変だ。
顔見知りの病院警備員さんたちもいつもと同じ顔ぶれで、みんな元気そうである。ただし雑談したら、いつまでこんな状態が続くのか、ああ嫌になる、といった苦々しい表情がときどき浮かんだ。病院の外の行きつけの薬局の人たちも同じようだった。そこも長いつき合いで、薬剤師さんが客である私に敬語を使わないでぞんざいに話しかける仲である。みなさん大人だから口に出さないが、うんざりしている感情を時々表情に浮かべて私に見せた。
かように病院内に緊迫感も悲壮感もないのであるが、一歩でも外へ出るとたちまちそんな苦しい感情に襲われる。閉じた店舗ばかりの町はたしかに世界の終わりのごとき緊迫を私に与える。この落差は何なのだ。
ようやくいきつけの店が一軒開いていたのを神田で発見し、入ってみたものの、そこは刺々しい雰囲気であった。顔見知りの女店員(おそらく店主の家族)に、雨が降りそうですねえ、と声をかけたら、
「ええ、ふりますよ。この町内で店を開けてるのはうちだけですからね。」
「なんでも降りますよ、悪いものならね。」
と吐き出すように言った。まるで叱られたようだった。その人は明らかにヒステリーをおこしていらいらしていた。いつもは気のいい人なのだが。
かんがえてみれば土地の価格が高い都心のことだから、家賃も高いに違いない。しかるに町に人がいない。開けても客が来ない。たとえ売上ゼロに落ちたとしても高い高い家賃または地代を納めねばならないのだ。税金も。
ヒステリーを起こして当然だろう。
なにか買おうとして店に入ったのだが、なんとなく意欲を喪い、そのまま出ようとした。そのとき雨が降り出した。気温が高い冬のような澱んだ暗い空から雨粒が落ちた。
人びとの怨嗟という名の雨粒が。
2020年5月5日 発行 初版
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1968年生まれ。放送大学教養学部卒業。