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この本はタチヨミ版です。
今にも潜水しようとする長須鯨の背鰭へ打ち込まれた銛のロープが氷を飛散させながら海中に伸びて行く。
船首で捕鯨砲を握りこんでいた勇は一番銛が鯨の背中へ命中したことで胸を撫で下ろし、まだ鼓膜が痺れているがボースン(甲板長)の切迫した声で我に返ると二番銛を準備した。
鯨の動きに合わせたボースンの声がブリッチで舵を操る操舵手に伝わるとキャッチャーボートは激しく振動しボースンがなおも大きな声で「ハローアスターン」と拡声器に叫ぶと「イエッサー」と返答が返ってくる。船は後進を始め、致命傷を受けた長須鯨は最後の抵抗をするかのように潜ろうとするが、張り詰めたロープで思うようにならず荒れ狂っている。
キャッチャーは南西の風を真横に受け、ローリング(横揺れ)が激しくなり、船首に立つ全員が滑らないように注意しながら鯨から目を離さず、もがく長須が横腹を見せた所に勇が二番銛を打ち込むと鯨は頭を海面から飛び上がらせ其の儘動かなくなった。
慎重に引き寄せると鯨が沈まないように素早く空気を入れ、ラジオブイを取り付けると再び探鯨を始めた。
それにしても二十メートルを超す大物で、追鯨して仕留めるまでにたっぷり二時間はかかったし、鯨足が早く、深く潜行し、背鰭に大きな傷が有ると言う事はシャチと争った歴戦の鯨だと思った。
南緯五十度、東経三十六度、気温零度の南氷洋の海上は飛沫こそ上がっているがうねりも少なく暖かい位で、船室に入ると防寒着を脱ぎ捨て、熱いコーヒーを飲むと暫らく横になった。
船内時計が午後九時を指すとその日の作業は終了となり、一部の仲間を残してキャッチャーを漂泊させ全員がメスロンルームへ集まり、今日の成果である三頭の長須鯨の評価が始まり、思い思いに肩振りが始まった。
勇も氷山の氷で作ったバーボンを喉に流し込むと直ぐに瞼が重くなり、ブリッチ下の自室へ引き上げると着替えももどかしいくらいにベッドへ潜り込み、これで朝の四時過ぎまで休めると思うと同時に眠りに引き込まれた。
勇にとってこれで十三回目の南氷洋捕鯨だが船に乗り込むと緊張の連続で特に操業が始まると眠ることだけが一番の楽しみになる。
漁場へ向かう時や帰りの航海では決まった時間でワッチが組まれ、勇は一等航海士だったからヨンパチと呼ぶ朝四時から八時までと夕方の四時から八時まで船の安全を守りながら航海すれば良かったが、鯨の操業に入れば機関部と司厨部以外は船長以下全員で鯨を捕獲する戦争状態になり、何時も気が張り詰めていた。
日本を十月に出れば漁期が終わる三月過ぎまで南極海の上での生活になり南氷洋で見えるのは草木が生えない氷山ばかりだが、何度訪れても新たな感動が有ったし、二月を過ぎる頃の凍て付く寒さの夜に現れるオーロラの神秘的な美しさに心が締め付けられ悲しくもないのに涙が溢れた。
氷山一つにしても太陽の光の加減で藍色からオレンジに変わり始め、太陽が沈む時の海面は茜色から金色に輝き、その海面を悠々と泳ぐシャチが現れると現実とは思えない程感動した。
帰りの航海で久しぶりに見る緑の山に心を奪われ、沖縄諸島から薩摩半島が見える頃は気もそぞろになり、着岸して内地の土を踏んだ瞬間は何時もの事だが大地が揺れる感覚に襲われた。
キャッチャーをドッグ入りさせ、氷の破片などで傷ついた箇所の点検や労いを済ませ、漸く家に戻れるのが五月を過ぎる頃で、玄関を入る時は何時も新鮮な気持ちになり、妻の麗子とは何年経っても新婚気分になれたし、それを何年も繰り返してきた。
焼けつくような熱い夏の盛りが過ぎ、時おり秋の気配を感じさせる風が肌を撫で始める昭和四年の秋、一人の子供が生まれようとしていた。
この家の奥座敷の一室で、産婆さんや妹に見守られながら臨月を過ぎた峰に陣痛が始まり、すでに三時間を過ぎようとしていた。
おおきなお腹を波打たせ、寄せては返す波に翻弄されながら激しい呼吸を繰り返し、峰は夢遊病者みたいに頭を振りながらうめき声を上げ、息使いが激しくなったと同時に産婆さんが赤黒い物体を取りあげ、その物体から驚く程の泣き声が上がった。
盥の中で身体を洗われた赤ちゃんは直ぐにネルの布に包まれると母親の側に寝かされ、その顔は皺だらけの猿みたいに見えたが峰は出産を終えて安心したのかぐったりしている。
「おめでとう、元気な男の子ですよ」と呼びかけた産婆さんの声に閉じている目から涙を零した。
峰の手を握りしめていた妹の美穂子はそわそわと落ち着かず、母親に報せると家を飛び出し、実家から離れて鰯製造を行っている父の福一や生まれた子供の父親である義兄の竜一に一刻も早く知らせなければとあせり、息を切らせながら走り始めた。
湾沿いの道を走っては歩き、二〇分を越える頃広場に茹であがった鰯が干されているのが見え始め、製造小屋の中は大釜から湯気が上がり、船から降ろされたばかりの鰯が籠の儘釜茹でにされている所で、それを指揮している父親の福一の姿を認めると「無事に生まれたよ、元気な男の子だよ」と告げると、周りで作業をしているおばさん達が作業の手を止めて集まって来た。
男の子が生まれたと告げられた福一は途端に顔を綻ばせ、周りの女性連中から次々に祝いの言葉が上がったが肝心の竜一の姿を探しても見当たらず「義兄さんは?」と聞けば、おばさんの一人が「最前までその辺りをうろうろされとらしたとばってんね」と聞き、外へ出てみれば原っぱに寝転んでいる竜一の姿が見え、走り寄って男の子が産まれたと告げるとむっくり起き上がり、怖い顔になって煙草に火を点けた。
大きく煙を吐き出すと「でかした」と呟き、美穂子に向かって照れ笑いを浮かべながら女房の峰の具合を尋ねて来た。
早めに鰯製造を切り上げ、家に戻るとすでに祝いの準備が始まっていて母屋と離れた釜屋では母の末や妹の須磨子が忙しそうに動き回り、近所のおかみさん連中も手伝っている。
蒸籠で蒸されているのは赤飯らしく、小豆の匂いが漂っているし大皿に野菜の煮付けや鯛の刺身にまだ動いている烏賊が盛られ、手伝いに駆け付けてくれた隣の八重ちゃんが母屋に運んでいる。
夕方から始まったお祝いには漁を終えた若衆達ばかりか町の主立つ人や子供が生まれた事を聞きつけた近所の人達が集まって賑やかに催され、村松屋の主である福一は初孫が生まれた喜びを隠しきれなかったし、赤ん坊の父親、竜一は次々に祝いの言葉を掛けられ祝宴は夜遅くまで続いた。
一方、母親の峰は奥の離れで子供と一緒に休んでいたのだが、入れ替わり立ち替わり現れる人達に頭を下げながらも産後の疲れが出たのか祝宴に顔を見せる事は無かった。
彼女はただ、五体満足に産まれてきてくれただけで満足していたし、村松屋にとって初めての男の孫だったから誇らしい気持と夫の竜一に顔向けが出来ると胸を撫で下ろしていた。
何時もならこの時期、巾着船に乗って対馬沖に出かけているのだが、峰が産気ずいたと知ると船にも乗らず、竜一なりに峰の身や産まれて来る子供を案じてくれていたのだろうし、滅多に表情を表さない人が子供の顔を見た途端涙を浮かべた事に驚いていた。
夫の竜一は養子では無かったが廻りの人達は竜一こそが村松屋の後を継ぐ者と思っていたが本人にはその気が無く、本家から離れた湾の奥で峰と暮らして居た。
玄界灘に面した寒村に存在する村松屋だが以前は鯨組として栄え、江戸時代から続く網元として町の人達に親しまれてきた家柄だったが、近年は大型の鯨が獲れなくなった事や日本国内が戦時挙国一致体制になって行った事も有り、鯨漁を縮小し、鯖鰯漁などを営みながらも近隣から出稼ぎに来る若衆を抱え、彼らを纏めていたのが上杉竜一だったし、そんな時に生まれたのが『勇』と名前を付けられた男の子で、昭和四年の秋に「上杉 勇」が誕生した。
朝の五時、南緯五二度、東経四二度付近で探鯨を開始した『第五菊丸』は母船から長須鯨発見の無線が入り、追鯨体制に入った。
昨日に比べ風力は落ちていたがうねりが高く、本船はローリングを繰り返しながら一六ノットの船速で現場海域へ向かった。
悪天候にもかかわらず操業に入れば余程の事が無い限り鯨を追い、仕留めた鯨を母船に渡すのがキャッチャーボートの使命で、ガスが発生して海上が見えなくなったり海が時化て操業できない日以外は目標達成の日が来るまで毎日鯨との闘いが繰り返された。
追鯨体制に入った本船は二千馬力のエンジンをフル回転させて目的地に向かう。アッパーブリッチで指揮を取っているキャプテン(船長)からの声が船首に伝わり、勇は荒れる海上で波に揺られながら火薬を調合した。
うねりの中へ突き進む本船の船首付近は飛沫が舞い上がり、前方を見つめるボースン(甲板長)の目が鋭くなり、甲板員は何時でも銛が打てる体制でロープなどを調整し準備した。
前方五百メートル付近で潮を噴き上げる鯨を確認すると同時にキャプテンの声がマイクから響き「長須三頭連れ発見、スタンバイヨーソロ」の声が拡声器から流れ、勇は捕鯨砲を鯨に向かって照準を合わせ、ボースンが鯨の動きを追いかけながらブリッチヘ指示する。
鯨との距離が迫った時に鯨も本船に気が付き、急に三頭が潜り始めると凄い勢いで逃げ始めた。
鯨の背中や動きを見る限り老獪な鯨達と判り、逃げ足が速いうえに翻弄するみたいに別々に方向を変えた。
おそらく一五ノットは出ている筈で、これ程早い鯨は滅多にいないし、本船を翻弄するみたいに別々に逃げ惑い、泳ぎを楽しんでいるみたいに見える。
追われる時の長須鯨の速度は十ノット前後だが奴らは浮上して汐を拭きあげる時でさえ速度が衰えず、ジグザグに泳いでいる。
末香鯨の場合だと一度潜行すれば三十分以上は浮上せず、ボースンの勘と経験に頼る以外ないが、髭鯨の場合身体の中へ酸素を貯め込めないのでそれほど長く潜る事は出来なく、息継をする度に速度が落ちるのだが疲れを知らないみたいに速度が落ちない。
その中の一番大物に狙いを定めて追いかけ始め、三十分を過ぎる頃流石に奴も疲れて来たのか浮上する間隔が短くなり始め、射程距離に入ったが慎重に四十メートル付近まで接近させ、汐を拭きあげた瞬間に撃ち込んだ。
耳をつんざく轟音が響き、鼓膜が震え、銛の振動が手に伝わって来たが直ぐに二番銛の準備を始めた。
鯨を見た瞬間、火薬の量を多めに調合したほどの大物で、急所を外せば大暴れするのは判っていた。
捕鯨砲の火薬の量は鯨の種類や大きさで調合しなければ肉を傷付けるし当たり所が悪ければ大暴れする。
射撃のコツは鯨が水面から顔を出し、尾羽が水没するまでの僅かな瞬間に判断しなければタイミングを逃し、一度銛を外せば思わぬ反撃をされる時が有る。
一番銛を打ち込む呼吸を誤れば鯨の頭の上を銛が飛び越えたり、心臓付近以外の所へ銛が刺さっても後が大変になる。
鯨の尾羽の破壊力は凄まじく、木造の小さな漁船など砕ける程で、鉄の塊の本船でさえ真横から体当たりされると凄い衝撃を受け、身体が浮く程の破壊力が有る。
勇が撃ち込んだ銛は鯨と本船との角度が良かったし、至近距離だったからパンコロ(即死)だったが流石に疲れた。
毎度のことだが鯨が息絶えたのを見届けると手を合わせて祈り、海の神様に感謝する事を忘れなかった。
その日は他にも四頭の長須を仕留め、母船に引き渡し終えたのが午後九時を廻り、風呂に入って肩振りを終えるとすでに時計の針は翌日に差し掛かろうとしていた。
南氷洋の夏は夜になっても陽が沈む事は無い百夜になり、これに慣れないと眠れなくなり、神経質な男はノイローゼになる者も居る。
鯨捕りが一旦船に乗って漁場に出ると捕獲数を達成するまでゆっくり休むこと等出来ないし、毎日が海の上での生活と男ばかりで変化が乏しく、漁が始まれば睡眠不足に悩まされる。
母船の場合就業時間が決まっていて海の生活に慣れさえすればそれ程気にならないが、キャッチャーボートの場合、夏場は朝の四時から九時まで、秋口からは夜明けから日没まで常に神経を尖らせ、鯨発見の知らせが有れば何時でも飛び出せる準備をしていた。
機関部や司厨部は一応時間が決まっているものの鯨の捕獲に入れば全員が協力体制に入るから時間等有って無いも同じだった。
海の上で過ごしている間は一日も早く家族の元へ帰りたい気持が込み上げてくるが、陸へ上がって暫らく経つと海が恋しくなってくるから不思議なものだ。
家に帰ると五年前に結婚した麗子が世話を焼いてくれ、不便を感じる事も無くのんびり過ごせるが秋風が吹く頃になると何故か南極の海が恋しくなってくる。
それは二人の間にまだ子供が授からない事も有るだろうが、それとは別に南極海特有の氷山やオーロラが頭に浮かんできて鯨との攻防にエンジンの音や空気までが懐かしくなってくる。
多分それは捕鯨船乗り特有の性分だと思っていた。
ひとたび海へ出れば命を削る過酷な仕事だと判っているが、命をかけて不自由な生活を何ヶ月も過ごすからこそ人並み以上の報酬を貰えるのだし、一人で待っている麗子にお金の心配をさせないで暮らしていける余裕が有るのだと思っている。
それに自分達が鯨を獲ってこそ日本全国の人達に美味しい肉を届ける事が出来ると自負も有る。
食料が乏しい配給の時代に鯨の肉は貴重な食料であり、国民の栄養源として国民の命を支え、日本がたち直ることができた。
昔から鯨は日本人とは切っても切れない間柄で、鯨一頭が獲れれば町や村を潤し、人間ばかりか大地に恵みを与え、骨や油粕は米や野菜の育成を助け、油は暗い夜を照らしてくれた。
日本の鯨捕りは鯨に対して感謝の気持ちで溢れていたから外国の捕鯨船みたいに油だけを絞り取って肉を廃棄する様な鯨をないがしろにする失礼な事はしなかったし、髭から骨まで使い切って鯨に感謝しながら恵みを与えて貰っているのを充分承知していた。
翌日も本船は五頭の長須を仕留め、風呂を済ませて食堂へ行けばすでに仲間達が肩振りを始めていて、テーブルの上を見ればチーズやピーナツの他に新聞紙に包まれた塊が転がっていて開いて見れば懐かしいかんころ餅だ。
手にとって眺めていると甲板員の坂本が側に来て、自分が持ってきたのだと話し、お袋さんが持たせてくれたらしい。
かんころ餅と言うのは薩摩芋を蒸かして生干しし、餅と一緒に搗いたもので、勇の育った地域でも漁師の携帯食として必需品だし、これを火に炙って食べると香ばしく、芋の甘さと餅特有の粘りで腹持ちが良く昔から漁師が海へ出る時は必ず持って出掛けていた。
本船の乗組員は九州出身者が多く、その中でも甲板員の坂本は『吾郎』と呼ばれ皆から可愛がられていて、長崎の五島から乗りこんで来ていたから勇とは地域が近い事も有り、弟みたいに気にかけ何かと面倒を見ていた。
憩いの場である船員食堂ではそれぞれに肩振りが始まり、ビールを片手に自分の武勇伝を自慢するボースンの姿や若いクォタ―マスター(操舵手)やセーラー(甲板員)連中は若い娘が写っている写真誌を広げて騒いでいる所へキャプテン(船長)の大石さんが現れ、かんころ餅を手にすると
「吾郎、お前の家では今でもかんころ餅を作っているのか?」
「爺ちゃんが鯛の一本釣りをしてますから俺が本船に乗る時はお袋が包んでくれるんですよ」
「平戸や肥前辺りの漁師にとっては命の次に大切な物だし、船乗りにとっては一つのおまじないみたいなものだからな」
キャプテンの大石さんも長崎の口之津出身で、勇にとって船乗りとしての心構えを教えてくれ、海技免状を取得する時には随分お世話になった恩人の一人だった。
歳は勇より六歳上の男盛りで、捕鯨にかけては戦後直ぐの第一回南氷洋捕鯨から母船に乗り込み、大石さんが居なかったら今の勇は存在して無いと言ってもいい恩人だったし、あらゆる事を教えてくれ、海の男としての生きざまを示してくれた。
海の男らしいさっぱりした性格で、細かい事に拘らず、どれ程荒れ狂う海で有ろうと沈着冷静だったから乗組員の信頼も絶大で、本社や船団長の信頼も厚く、船を操る事にかけては一目置かれていたし、鯨の性質は熟知していて『第五菊丸』が他のキャッチャーより捕獲数が多いのも大石船長の御蔭だとみんなも認めていた。
大石さんの強い影響を受けた上杉 勇は二十七歳の時に海技免状を取得し、母船に航海士として乗りこんだ後『第五菊丸』に三等航海士兼砲手として配属され、三年後には大石キャプテンの片腕となる一等航海士として頑張っている。
船の中でのキャプテンの権限は絶対的で、乗組員の生殺与奪を左右する責任を背負いながら航海の安全に努め、鯨獲得の成果もキャプテン次第で決まってくる。
狭い船の中では命令系統一つで船の動きが違ってくるし、全員一丸となって目標に向かわなければ成果を上げる事が出来なく、誰か一人でも不協和を唱える者が居れば長い航海に差し障りが出て来る事が有り、だからこそキャプテンは各自の体調ばかりか心配ごと等に常に気を配りながら行動し、無事に日本へ戻れるまで気を抜く事は無い過激な役割だ。
船の安全航海や漁の成果は勿論だが、乗組員の性格や家庭環境などを把握しながら判断し、航海中全員が快適な生活を送れる環境を心がけているのもキャプテンの役割だった。
遠く日本を離れた海上で、乗組員の気持が不安定だと毎日の生活が苦痛になり、ましてや陸上と違って何処にも逃げ場が無い海の上でも有り、男ばかりの生活だから揉め事が発生する。
何百人と乗りこんでいる母船では出身地ごとの派閥争いや職場での勢力争いが起こる事は日常茶飯事だが、乗組員が限られているキャッチャーボートの中では全員が家族以上に気持を寄せ合わないと半年以上顔を突き合わせる男所帯では上手くやっていけない。
船の中での役割はそれぞれ決まっていて、家族に例えるならキャプテンは一家を支える父親と同じだし、それを補佐する機関長や一等航海士が母親みたいなものだ。
タチヨミ版はここまでとなります。
2020年5月10日 発行 初版
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