生きる歓びを与えてくれる
すべての喜劇役者たちへ
───────────────────────
───────────────────────
この本はタチヨミ版です。
本作品はフィクションであり、登場する人物は全て架空のものです。
本作品中には現存する組織や自治体、或いは地域が登場しますが、親しみを抱いてこそあれ、名誉を棄損する意図は全くありません。頻発する自然災害に懸命に立ち向かう皆様に、心より敬意を表します。
また、令和元年の台風十九号、ハギビスにより被災された皆様におかれましては、一刻も早く復興されることをお祈り申し上げます。(著者)
南野たけしは、河川敷のホームレスを見たくらいでは驚かない。
南野たけしが幼少期を過ごしたのは、隅田川を見下ろす、下町の高層マンションであり、その頃の隅田川は、浅草にも近い水辺に、ずらりとホームレスのハウスが並んでいた。どこから無心してきたものか、木材や金属パイプを使って箱型のフレームを作り、壁と屋根をブルーシートで包んだサイコロのような、例のハウスだ。だから、南野たけしは、河川敷のホームレスを見たくらいでは驚かない。
もちろん隅田川は、南野たけしの成長に合わせるように、どんどんきれいに公園化されて、遊歩道化されて、ホームレスは少なくなっていった。今ではもうほとんど、あのブルーのハウスを見ることはない。稀に、公衆トイレの裏のほうに、潰れた段ボールが立て掛けてあるけれど、あれは暗くなってから、そこで段ボールを組み立て、組み合わせ、ミノムシのようなハウスを作って、夜を過ごすのだろう。もっとも朝になると、犬の散歩よりも早く、ミノムシの住人はハウスを畳んでどこかへ消えてしまう。だから、隅田川にホームレスはいなくなった、ということになる。
橋の下にハウスを組み立てたまま過ごすなんてもってのほかだ。景観がどうのこうのとうるさいし、仮に近隣の大人たちは目をつぶってくれるにしても、子供たちは容赦ない。騒ぎ、攻撃されるのは、たまったものじゃない。飛んでくるのが、罵声や空き缶くらいなら、まあ我慢できる。真夜中のロケット花火も、直接狙われて火事にさえならなきゃ、辛抱しよう。ただし、集団での金属バットは、我慢の範疇を超えている。体のでっかい子供たちは、本気だ。大人じゃないから始末が悪い。怖いから逃げる。逃げて隠れる。他の安全な、静かな地域へ移る。
だから、隅田川のホームレスがいなくなったのは、八月の暑さに蒸発して消えたわけではなく、三月のどしゃ雪みたいに、泥まみれに溶けて流れたわけでも、ましてやアパートを借りて住み始めた訳でもない(そういう人もいるだろうが)。彼らは、他のどこかへ散ったに過ぎないから……、以前何かで読んだのだけれど、隅田川を含む荒川流域の、荒川区、墨田区、台東区を合わせると、ホームレスの数はおよそ一五〇〇人に達するそうだ。だから、南野たけしは河川敷のホームレスについて少々知っていたし、日頃目にする以上に、彼らは街の中に潜んでいるという、予備知識も持っていた。
南野たけしは、河川敷のホームレスを見たくらいでは驚かない。
それなのに、その《村》――村と呼んでいいのではないか――を見たときは、呆然として声も出なかった。もちろん、わずか五戸の、いや、空き家も含めれば六戸だ。六戸の掘立小屋の集まりを、村と呼ぶのは、大袈裟かもしれない。しかし昨年の夏、渓流釣りが好きな友人に誘われて――実際は免許を持たないその友人の運転手役として――山陰地方を流れる有名河川を旅した際、その源流域で見た集落は五戸に満たなかった。だから、少なくとも、冬になるとすべてが雪の中に埋まってしまう、山間の、あの集落並みではあるようだ。
*
南野たけしの父親は、長く商社に勤めていたので、およそ三年刻みで、転々と、国境を飛び越える引越しを繰り返した。
最初は、小学生になる年にアメリカ、シカゴへ。その後、一旦帰国して実家のある下町に戻り、英語を忘れないためにインターナショナルスクールで過ごした。三年経つと、今度はドイツ、デュッセルドルフへ行った。デュッセルドルフは日本企業も、滞在する日本人も多い街だが、そこでヨーロッパのカルチャーに強く感銘を受けたようだ。陸続きの国境が面白かった。夏休みに父親のドライブで南仏を周ったことが印象深い。欧州北部のドイツから、南欧フランスへ車で旅行ができた。その旅行の思い出や、アウトバーンの疾走感が、ひょっとしたら今も南野たけしの運転好きに影響しているのかもしれない。
高校生の三年間はスペインで過ごした。マドリーにあるインターナショナルスクールだった。あれは四月の、フェリア(セビージャの春祭り)の頃だったか。一人、高速バスでアンダルシアを旅行した時、セビージャでカラトラヴァ橋に出会った。からりと晴れ渡る青空の下、グァダルキヴィル川に架かる、白いハープのような橋の美しさに心を打たれた。幾何学の持つ緊張感。地上に《在る》ものの宿命、重力に抗うかのような強い意思を、美しい橋梁から感じ取って進路を決めた。
帰国し、都内にあるマンモス大学の建築学科へ進学した南野たけしは、しかし、いきなり間違いに気付いた。サンチアゴ・カラトラヴァは世界有数の建築構造家である。建築家ではなく、むしろエンジニアだ。その意味では、彼の立ち位置は米国の二十世紀を代表する建築エンジニア、バックミンスター・フラーに似ている。欧米の概念では、建築家と言うのはデザインをする、またはアイディアを出す人であり、構造家はシビルエンジニアという括りだ。日本語では土木技術者と訳されるだろうか。欧米では、建物でも橋でも構造設計を担うのはシビルエンジニアだ。ところが日本では、普通、建築と土木は分けられていて、建築の構造設計者が橋の設計をすることはない。橋は土木技術者の仕事であって、建築の分野ではない、とされている。
つまり南野たけしは、橋梁デザインを学ぼうと考えたにもかかわらず、ほとんど橋について役に立たない道へ進んでしまったことになる。これでは「橋にも棒にも架からない」、と父親に笑われたとか。実際、建築の設計者が、橋を架ける道は随分遠いだろう。日本の大学では、転科が一般的ではない。大学の事務課に相談しても、積極的には応じてもらえなかった。そこで南野たけしは仕方なしに、何とか橋に近づこうとして、都市計画を専攻した。一つの建物にこだわるのでなく、街全体を広く見渡す都市計画なら、橋に関わる道もあるに違いない。
ところが、建築学科における都市計画の命題とは、やはり建築であって橋ではない。少々乱暴な言い方をすれば、近代都市計画の概念は《ゾーニング》と《ビルディングタイプ》に収斂される。用途地域制と用途別建築形式ということだ。街を住居系、商業系、工業系といった専用的な地域に分け、その地域ごとに相応しい建築物を建てることが、都市計画の、或いは近代建築の目指すところである。南野たけしはその概念にも馴染めなかった。その研究が、機能的で住みやすい街をつくることになると言われるが、果たして本当にそうなのか。南野たけしは、アメリカよりもヨーロッパの街が好きだった。ヨーロッパでも、新市街より旧市街が好きだった。お台場より下北沢や吉祥寺が、丸の内より浅草が好きだった。きれいで機能的な新しい街よりも、雑多でごちゃごちゃした街に、居心地の良さを感じた。
結局、消去法的に南野たけしは防災を研究テーマに選んだ。特に河川防災、河川行政の研究をすることで、かろうじて橋との関わりを保つことができた、ような気がした。もちろん、それすら「土木の仕事だ」と、教授には苦笑交じりに揶揄されたけれど。
南野たけしの卒業研究は、論文と設計とリンクさせて、『防災堤防の建築化~新関東式堤防の提案』だった。インターネットマップで日本中を隈なく眺めまわし、うねうねと蛇行しながら流れる、いかにも氾濫しやすそうな川を探した。幾つか候補を挙げ、実際に氾濫実績があって、自分の提案に合いそうな川を、夏休みに実地検分した。その上で決定したのは、岩手県から青森県へと流れ下る、見るからに危険な川だった。
その、馬淵川を俯瞰すれば、岩手県北上高地を源流に、北西を目指して、まずは流れている。それが、青森県に入ると、三戸町で「くの字」を描くように、今度は行先を北東へ転ずる。末は八戸市で太平洋に注いでいるのだが、上流から下流へ至るまで、川はずっと、ひどくうねるような地図を描いている。円を描こうとして閉じられず、続けて別の円を描こうとしているようにも見える。波線の練習ですか、と思わず問いかけたいくらいだ。
馬淵川を現在の行政区分で表すと、岩手県、そして青森県の県南地方を流れる、ということになる。青森県の三戸町から八戸市へ至る一帯は三八地方とも呼ばれるが、それは馬淵川流域を表す言葉でもあるだろう。岩手県、青森県と二つの県を貫流しているが、しかしそれは盛岡から八戸に至る、かつての南部氏が統治した一帯だと考える方が理に適っている。少なくとも、住民の潜在意識に根差した文化や、或いは馬淵川の河川防災に関する限りは、「県境」よりも、こちらの「南部領」の方が有効に違いない。県南地方の行政上の、或いは経済上の核となるのは、馬淵川河口の八戸市である。実際、国土交通省資料によれば、馬淵川流域内の人口及び資産の三〇パーセントが八戸市に集中している。浸水想定区内と限定するなら、八戸市が占める人口及び資産の割合は七五パーセントに及ぶ。だから、馬淵川の防災計画の肝は、誤解を恐れずに言うなら、八戸市を守ることにあるだろう。もちろん、最下流の八戸市を守るためには、それより上流に連なる市町村をも守らなければならない。
では、馬淵川はどれほど危険な川なのか。昭和以降に限ってみても、流域の洪水は十一回を数えている。原因は台風だけでなく、発達した前線や低気圧などに起因することも多い。被害も甚大で、床上床下の浸水のみならず、家屋の倒壊や流失を伴うことも度々であった。最悪の人的被害も繰り返されてきた。流域に住む人々の苦労は並大抵なものではないだろう。大雨の度に、台風の度に、被害のあるなしに関わらず、人々は強いストレスを受け続けている――。
南野たけしは、その馬淵川で二か所、集中的に対策を講じなければならないエリアを嗅ぎ取った。
一つ目は、馬淵川が青森県内へ流入して最初の大きな街にある。三戸町の、支流熊原川との合流地点がそれだ。北西に向かって流れていた馬淵川が、北東に向きを大きく変える地点でもあり、支流熊原川が馬淵川にぶつかった勢いで、流れの向きを変えられたようにも見える。その合流地点の内側、中州状の部分に、かつて三戸城が築かれていた。当然、二つの川を堀に見立てたのだろう。城があったということは、そこが高台になっていることであり、増水した流れは外向きに溢れることになる。今、そこに市街地が開けている。城跡が低地なら、合流地点の内側に遊水地でも用意することができるのだが、高台……というよりも、実際は山だから難しい。水の逃げ場がない。市街地に溢れるしかない。そして、確かにしばしば溢れている。
二つ目は、南部町だ。三戸町の下流で、河口の八戸市に隣接する街だが、この南部町を流れる区間は、気の毒なくらい川が曲がりくねっている。山間に流れる、馬淵川に沿って発展した街だから、全体的に山が近く、これまた水の逃げ道が少ない。さらに八戸市と南部町の境界は、両岸から山がひどく迫って、川幅が極端に狭くなっている。川幅が狭まった上、一段と曲がりくねっているから、恐らく、馬淵川のこの部分が氾濫の核心になっているはずだ。増水時、勢いを増して流れ下る川が、ここで流れを狭められるために、この場所から上流側に水が極端に溜まる、《バックウォーター現象》が頻繁に起こっているだろう。それを解消しない限り、流域の潜在的な氾濫危機を取り除く方法は、ひょっとしたらないのかもしれない。
「その、両岸から迫る山を、ダイナマイトで吹っ飛ばしてしまえ」
南野たけしは、そんな乱暴な言葉を使う、地元の列島改造論者、或いはロッキードの泡銭を舐めた政治屋はいなかっただろうかと調べたのだが、残念ながら見つからなかった。
南野たけしの提案はこうだ。
南部町の、馬淵川に隣接するどこかの場所に、遊水地を設ける。流域沿いには住宅地の他、田畑や果樹林がひろがっているが、遊水地は、もともと低地に作られている水田を転用することが望ましいだろう。ある程度まとまった水田――就農人口減少による休耕田が考えられる――を川と並走する鉄道の対岸に用意し、遊水地とする。増水時、バックウォーター現象が生じ、溢れる要因となる水を、堤防の外側に積極的に流して、遊水地に一時、溜め置こうというのが、南野たけしの提案の一つ目の要点だ。
もう一つの要点は、堤防そのものにある。現在の馬淵川は、日本中の恐らく大多数の河川と同様、上流から河口まで、切れ目のない堤防で両岸を守られている。予め、河川の増水する量を想定した上で、それ以上の高さにまで堤防を築く、一般的な方法だ。
実は、歴史を振り返れば、堤防にはかつて二つの形式があったことをご存知だろうか。すでに述べた、切れ目のない堤防を《紀州式》と呼ぶ。もう一つ、切れ目のある堤防があった。《関東式》或いは《甲州式》とも呼ばれるが、別名を《信玄堤》と言った。もちろん、武田信玄に由来している。
甲州をはじめ、武田信玄の治めた領国も暴れ川が多い。例えば天竜川、笛吹川そして千曲川。それぞれ、龍のように暴れ、笛吹くように鳴り響き、千遍も曲がりくねる様子が、名前からも想像できる。武田信玄は、それら暴れ川を宥める治水工事に腐心した。そこで生まれた知恵が信玄堤である。甲府盆地の釜無川にいまも残っている。
その治水技術の基本は、川の両岸に堤を築くことだ。しかし途中で、敢えて堤を切る。または大水の際は水が乗り越えてしまう程度の、他より低い堤の部分を用意する。そして、その切れ目から溢れた水を、堤の外側に設けた遊水地で受け止める。その際、遊水地は専用の土地である必要はなかった。荒れ地でも良いし、平時は田畑に用いても良い。ただし、重要なのは遊水地に対する、堤の切れ目、即ち溢れ水の取り入れ口の位置である。
川が上流から下流へ向かって流れるように、隣接する遊水地も川と同様の勾配があると考える。そして、遊水地の下流側から増水した水が入り込むようにする。つまり遊水地では下流から上流へ向かって、水が溜まるようにするのだ。
よく考えてみてほしい。川の洪水が一週間続くことはない。一日か、精々二日だろう。三日目には水は引き始める。洪水被害が長引くのは、溢れた先が、排水設備の乏しい市街地だからだ。つまり、信玄堤の遊水地は、増水時は上流に向かって水が溜まり、河川の水量が収まるにつれ、勝手に川へと排水されていくことになる。単純で、簡単で、効果的だ。もし遊水地に供する空地さえあるならば。
武田家が滅んだ後、その家臣の大多数を根こそぎ受け入れたのが徳川家康である。当時武田家は戦国随一の先進国家と言って良かった。先の治水技術はもとより、造幣技術の高さ、つまり金の製錬術は日本屈指であり、武田家の発行する小判が最も価値が高いと言われていた。その技術者集団を、自分の懐に取り込んだところが、家康の力だったのかもしれない。家康はかつて、「三方ヶ原の戦」で信玄と戦を交え、大敗している。命からがら逃げかえったと言われるが、その戦った相手、自分の命を狙った相手を、もろ手を挙げて迎え入れる懐の広さが、家康の真の強さだったのだろう。後に甲州は、徳川宗家によって統治され、甲州徳川家とされた。そこから六代将軍家宣、七代将軍家継が輩出されている。このことも、甲州武田家と徳川家のつながりの強さを表しているだろう。つまり、この武田家から学んだ、信玄堤を発展させた治水術が《関東式》である。
タチヨミ版はここまでとなります。
2020年5月21日 発行 初版
bb_B_00164204
bcck: http://bccks.jp/bcck/00164204/info
user: http://bccks.jp/user/148142
format:#002t
Powered by BCCKS
株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp