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この本はタチヨミ版です。
手紙を書いた。
字を書くのは初めて。ペンを持つのも初めて。手が小刻みに震えてしまうのはそのせいだろう。でも、最後の最後に良い体験ができた。
俺にもし「次」があるのなら、その時は真面目に勉強してみるのも悪くない。そしてその時は……彼に教えてもらいたいな。
たった五文字の感謝の言葉。ペン先に乗せて紙に綴り、机に置く。
世話の焼ける家族と、不器用ながら世話を焼いてくる恋人へ向けて。少年は瞼を擦り、笑った。
「本当に、会えて良かったよ。……幸人」
時計は深夜の二時を回っていた。
白壁に囲まれるリビングではペンが紙に擦れる音が響き、ポットのお湯が沸いたお知らせ音が鳴っている。
駄目だ。───眠い。
大学二年生の津雲幸人は、採点した大量のプリントを目の前に溜息をついた。
家庭教師と塾講師のバイトを掛け持ちするのは無謀だったと後悔してる真っ最中である。しかし生徒から預かったプリントを片付けないことには給料も出ない。
ポットは相変わらず無機質な音を鳴らしている。自分で消しに行かない限り音が止まない手動タイプだった。重たい腰を上げる。気持ちを切り替えてコーヒーを飲もう。このままでは絶対寝落ちしてしまうし、採点ミスをしかねない。幸人が眉間を押さえながら立ち上がったとき、何故かポットの音が鳴りやんだ。驚いて見ると、一人の少年がキッチンに立っていた。
「あぁ、継夢君。ごめんね、起こしちゃったかな」
幸人が声を掛けると少年は上品な笑顔を浮かべ、ポットを片手に歩いてきた。
「大丈夫ですよ。幸人さんこそ、こんな時間まで仕事してたんですか?」
彼は幸人が今まで座っていたソファに腰かけ、微笑みながら背もたれに寄りかかった。しかしその動作、仕草だけで分かる。今の「彼」は……。
「んっ!」
幸人は少年の口を手で塞ぎ、たじろぐ彼の耳元に囁いた。先程とは打って変わり、鼓膜を揺すぶる低い声で。
「継夢君かどうか自信なかったけど……やっぱりお前か。先に言っとくけど俺は忙しいんだ。邪魔しないで大人しく寝てな」
「はっ。何、また残業?」
少年は幸人の手を振りほどくと、愉快そうに近くのプリントを手にとった。
「これ、テストだろ。継夢のは? また満点?」
「もちろん。継夢君は優秀なんだ」
緊迫した空気は一瞬だった。少年も肩を竦めて朗らかに会話をしている。だが、これは第三者から見れば非常に不可解な会話だった。
鼻歌を歌いながら寝っ転がるこの少年こそ「継夢」。しかし幸人も少年も、まるで継夢がここに存在してないような振る舞いで話している。
そう、いないのだ。継夢という少年は身体こそここにあるが、心は別にある。ここにいる少年は継夢の身体を借りた「なにか」。継夢であって、継夢ではない。……などと説明したところで、誰が理解し、納得してくれるだろうか。幸人は内心長いため息を吐く。
大学生の彼が家庭教師になって初めて受け持った生徒。それがこの少年、旭継夢だ。
彼は二つの人格を持っている。
昼と夜で、人格が交替する。
昼は温厚な優等生、夜は狂気を孕んだ少年になる。そのため、幸人は彼らの扱い方が分からず困り果てた生活を送っていた。
「ふあ~。……じゃあ、俺は暇だから散歩でも行こっかな」
少年はぐっと背伸びをして立ち上がった。コーヒーを飲んで寛いでいた幸人はそれを慌てて制する。
「馬鹿、旭……! こんな時間に外出たら補導されるだろ。それで困るのはお前の母親なんだからな!」
混同しないよう、幸人はこの少年の名前を使い分けている。昼の彼は名前で継夢、夜は苗字で旭と呼び捨てにしていた。
現在顔を出している夜の人格は、旭。彼は意に介さない様子でポットを手に取った。
「えー? じゃあアンタと遊ぶしかないのか」
そう言うやいなや、旭は幸人の膝に沸いたばかりのお湯を注いだ。
「あっつ!」
幸人は反射的に飛び起き、ポットを持ったままの旭を突き飛ばした。彼は倒れて目の前にあったソファテーブルにぶつかる。その拍子に残りのお湯まで床にこぼしてしまった。
「いったい! 何すんだよ、俺までちょっとぬれたじゃん!」
「自業自得だろ! 普通だったらぶん殴ってるぞ!」
お湯は火傷してもおかしくない熱さだ。幸人は憤りをあらわに旭を怒鳴り付ける。そもそも寝不足で機嫌が悪い。逆に今ので目は覚めたが、それとこれとはまったく話が違う。
「悪かったって、……わざとだけど。お詫びに脱がしてやるよ」
旭は床に膝をつき、幸人のベルトに手をかけた。驚いた幸人が慌てて彼の手を掴むが、それすら予想していた旭は勢いよく立ち上がり、彼の唇を塞いでしまった。
「んん……っ!」
舌の使い方が絶妙で、人の心を掻き乱すポイントを押さえている。だからタチが悪い。幸人の一瞬の隙をつき、旭は彼のチャックを開けた。下着の中に手を忍ばせ、まだ柔らかい彼の性器を取り出す。そして容赦なく上下に扱きながら舌を這わせた。生々しい音と光景が広がる。この行為は異常だ。
……例えこの二人が男を愛する同性愛者だとしても。
恋人ではない、家庭教師と生徒の関係で淫らに交わっている。こんなことは許されるはずがなかった。
「旭……もうやめろ」
しかし身体は正直なもので、与えられる直接的な快感に逆らえない。旭を押しのけ、幸人は自分の掌の中で射精した。
唇を離し、息を整える。いつもこうだ。終わってから後悔する。息を吹きかければ簡単に吹き飛ぶような軽い快感を優先して、重い罪悪感が募っていく。
「ふ……っ」
一方、旭は旭で満足したのか、汚れた口元を丁寧に舐めとっている。
彼は冷笑を浮かべながら幸人を見上げた。その視線が交差し、背筋がぞっと凍りつく。時折変わる彼の眼を……色を見て。
彼の眼は心臓を射抜く、獲物を見つけた獣のような眼だ。暗がりの中でも妖しく光る……それは、体内を巡る血の色をしていた。
「ふあぁ……眠い……」
陰鬱な気持ちを抱え、一睡もしないまま幸人は朝を迎えた。全身の倦怠感から、死んだ顔をしてるだろうことが鏡を見なくても分かる。欠伸をし、心中で毒を吐く。
くそ、全部あのガキのせいだ。
寝不足の原因はひとつ。夜にのみ現れる少年、「旭」に性的な悪戯をされること。
キスを含め、毎回手を出すのは旭の方だ。殴ってでも拒絶しない自分にも非があるが、でもそれは……と言い訳を上げたらキリがない。溜め息を飲み込んで顔を覆った。
心理学、精神生理学、障害、疾患……頭がパンクするほど色々調べた。でももう限界かもしれない。幸人は英文科専攻で、こういった類の話は得意ではなかった。
昼と夜で別人のように変わる、旭の存在を説明する上で欠かせないもの。それが解離性同一性障害。
いわゆる「多重人格」の事例について、幸人は旭に出逢ってから必死になって調べていた。だが未だ確信的な解明には至っていない。
ならば、とオカルト的な翻訳書を覗いたこともある。人格が分裂するのは悪魔に取り憑かれているからとか、古い呪いをかけられているせいだとか、最後は霊媒師にお祓いしてもらうしかない、というものが多かった。軽い現実逃避がさらなる憂鬱を抱えて帰ってきた気分だった。
昨日も今日も寝不足で頭を悩ます、そんな幸人に向かって、明るく声をかける少年がいた。
「幸人さん、おはようございまーす! 昨日はすいません、せっかく泊まってもらったのに先に寝ちゃって!」
一瞬の間を空け、幸人は慌てて笑顔をつくった。
「あぁ、おはよう! 大丈夫だよ。よく眠れた? ……継夢君」
「はい、熟睡できました!」
爽やかな朝に似合いすぎる、溢れんばかりの笑顔。今時ここまですっきり起きられる学生は希少だ。
「そ、良かった。ところで、昨日の夜のこととか、……何か覚えてない?」
「あぁ、数学ですか? 教えてもらったところは多分覚えたと思うんですけど」
「あぁ……そっか。ありがとう」
それは継夢にとっては限りなく自然な反応だったが、幸人にとっては悲しくなるほど的はずれだった。
何故なら天真爛漫に笑う彼こそ、昨夜現れた旭の半身なのだ。彼は幸人の隣の部屋に住む高校二年生、旭継夢。とても穏やかで礼儀正しい少年で、彼ほど利発な子は珍しいと幸人は感心していた。
知り合った経緯はバイトを通してではない。継夢の母が、幸人の母の高校時代の親友だった為だ。母の親友が偶然にも引越し先の隣人だった。世の中は狭いというか、不思議な事もあるもんだと母親に電話したのをよく覚えている。
二年前大学へ進学する際、無理のない通学をしたくてこのマンションへ引っ越してきた。初めての一人暮らしで悪戦苦闘していた幸人は、継夢の母に度々助けられていた。その彼女に一人息子がいることを知ってからは、幸人は彼のことを実の弟のように可愛がった。
彼……継夢とは他愛ない雑談をしたり、ご飯を食べに行ったり、すぐに打ち解けた。昨夜のように互いの家に泊まって遊ぶ仲にもなった。しかし遡ること二ヵ月前、継夢の母から思いがけない話を持ち掛けられる。
継夢の家庭教師になって、彼に勉強を教えてほしいと頼まれたのだ。
コミュニケーションや信頼関係については何の不安もない。付き合いだけならもう三年目。継夢のことならよく知っていると幸人は自負していた。その思い込みが虚しく崩れたのは、二ヶ月前。彼の家庭教師を任された、初めての日。
────彼の家に泊まった、あの夜のことだ。
「幸人さん、何だか顔色悪いけど……もしかして寝てないんですか?」
心配そうに顔を覗いてくる継夢は、昨日の夜など何事もなかったかのように話してくる。
実際、何も知らない。自覚がない。気付いていないのだ。自分の中にもう一人の存在がいることを。
そのままにしておいていいとは思えないが、どうすれば彼を傷付けずにその事を伝えられるのか分からずにいる。彼の唯一の家族である母親は、九十九パーセント気付いてない。もし気付いてたら夜は他人を家に入れないだろう。親友の息子というだけで家の鍵を渡して、朝まで遊びに行ってしまう人だ。気付く要素は微塵もないし、旭は他人の前では継夢のふりをするに決まってる。
夜の彼は名前がないので、単に幸人が苗字で呼んで使い分けているだけだ。他は情報不足で何も分からない。分かってるのは卑猥で乱暴で、幼稚で自信過剰。昼間の継夢とは真逆の性格をしている、ということだけだ。
幸人が唸りながら考えている間に、継夢は眼鏡をかけて出かける支度をしていた。
「よし! じゃあ、俺は学校行きます。幸人さんは?」
「あぁ、俺も今日は学校なんだ。すぐ準備して出るよ」
継夢とはそれで別れた。長い長い大学の講義を受け、日の傾きかけた夕方。
「いらっしゃい、幸人くん。今日もよろしくね!」
「はい。宜しくお願いします!」
空が薄紫に染まる、午後五時のこと。幸人は大学から直行で継夢の家に向かった。といっても自宅の隣室の為、教材だけ持ち出してインターホンを押して佇んでいた。
「さ、上がって上がって。……でも、継夢ったら起きてるかしら? さっき帰ってきたんだけど、眠いとか言って部屋にこもったっきりなのよ」
「そうなんですか……。お邪魔します」
幸人を出迎えたのは、継夢の母の稜子だった。旅行関係の記者として現役で働いている彼女は継夢より元気で行動力がある、バイタリティ溢れる女性だ。
綾子は二ヶ月前に離婚して、現在は働きながら息子の継夢と二人暮らしをしている。彼女の元夫は隣街へ移り、現在無職で生活保護を受けているらしい。
幸人は自分の母から、稜子の元夫がギャンブル依存で借金を重ね、暴力や暴言が絶えなかったことを聞いていた。人間関係によるトラブルで仕事を辞めた後、借金による焦りや苛立ちの矛先が継夢に向きだしたことに気付き、弁護士と相談して離婚に踏み切ったという。
幸人は一年半もこのマンションに住んでいるが、稜子の夫と顔を合わせたことは片手で数えるほどしかない。その数回では印象が薄く、正直どんな顔をしていたのかも覚えていない。
第三者からすれば分からないことだらけだ。しかし渦中の綾子は大変だっただろう。情が深そうに見えるからぎりぎりまで見捨てることができなかったのかもしれない。母はまた、人様の事情をペラペラ話し過ぎだと思うけど……。幸人は誰にも明かすことのない罪悪感を抱いてため息をついた。
自分はこの二人に支えられている。
稜子は自身が辛い状況にあっても人に優しくできる強さを持っている。親友の息子だから、というには親切すぎるほど。
継夢の勉強を見ていて時間が遅くなってしまったときは必ず夕飯に誘ってくれる。家に帰って一人で食べるより、隣にいるのだから毎日食べに来なさいと言ったり、作り過ぎたと言っておかずのお裾分けをしてくれたり。何から何まで気にかけて、世話を焼いてくれた。
あなたはもう「家族」なんだから。そう優しく微笑んでくれた。
その言葉には少なからず驚いたが、どれほど嬉しかったか。同時にどれほど救われたか。直接伝えるのは未だ気恥ずかしい。
「あら! いけない、もうこんな時間!」
綾子は椅子にかけていた上着を羽織う。和室にある仏壇で焼香を済ませると、ブラウンのボストンバッグを手に取った。
「ごめんね幸人くん、私これから京都に出張に行かなきゃいけないの。夕飯、継夢に作らせて食べてって」
「いえいえそんな……って、えっ? 今から行くんですか?」
「明日の朝早くから動かなきゃいけないから、ホテルを予約してるの。あ、時間あればお土産買ってくるわね!」
稜子は慌ただしく玄関に向かい、靴に履き替えると、笑顔で幸人に手を振った。
「じゃあ、継夢をお願いしますね」
「あ、はい。お気をつけて……!」
一応廊下まで出て彼女を見届ける。後ろ姿が見えなくなった後、幸人はドアの鍵をかけた。来て早々衝撃である。他人の家の鍵をかけるというのは尋常じゃなく変な気分だ。
綾子が家を空けることが多い為、継夢もほとんど一人暮らしに近い。しかし遊びではなく、自分は今日は授業の為に来ている。ここから先は余計なことは考えず、仕事モードに切り替えないと。幸人は軽く咳払いしてある部屋の前に立った。
「継夢君、俺。津雲。起きてる?」
三回ノックすると、ドアがゆっくり開いた。
「こんちは……」
ひょっこり顔を覗かせた継夢は、制服はしっかり着ていた。だが顔はどう見ても寝起きで、瞼は半分しか開いていない。
「どうしたの、具合悪いの?」
「いやいや、全然! ただ眠くて……。早退しようか迷ったぐらいです」
継夢は苦笑しながら瞼を擦り、幸人を部屋に招き入れた。スクールバッグは床に、ブレザーはベッドの上に置かれている。帰ってすぐ横になっていたのだと想像できた。
継夢と二人きりになるとどうしても、夜の出来事を思い出してしまう。胸焼けしそうなほど甘く、脳が溶けそうなほど熱い行為。昨夜の余韻が幸人の体内をじわじわと侵していった。
継夢の夜の人格、旭に散々絡まれた為、幸人も昨日は一睡もしていない。それでも平常心を保ち、笑顔の付箋を前面に貼り付けた。必要な教材を準備し、誠実な教師の皮を被る。
心の底では明るさなど皆無だ。
これは墓場まで持って行きたい事実だけど、───既に自分と旭は身体の関係を持っている。
それは立派な犯罪だ。未成年と淫猥行為……誰かに知られたら弁明の余地なく、捕まるのは自分。しかし誰にも知られないよう必死に隠して、今日も彼と関わっている。
何も知らない継夢に対して、幸人は息が止まりそうなほどの罪悪感を抱いていた。まさか隣人に知らない間に裸を見られて、デリケートな部分を触られていた、なんて知ったらショックで卒倒するだろう。恐らく自分なら心を壊して入院している。
だがそれも……継夢と旭が、精神が乖離した「別の存在だと信じている」からこその罪悪感だ。もしも彼らを取り巻く真実が幸人の考えを覆すものなら、罪悪感の下に潜む怒りと混乱が顔を出す。
「ん?」
そういえばやけに静かだ。問題文に目を通す最中、継夢の動きが停止していることに気が付く。
「継夢君……眠いの? 困ったな、そんなんじゃ集中できないだろうし」
「あ、いえ……! すいません、大丈夫です。俺ちょっと顔洗ってきます」
継夢はフラフラしながら部屋を出ていった。何だか猛烈に嫌な予感がする。幸人は不規則な呼吸で手元のペンを回し続けた。
眠い、……か。
タチヨミ版はここまでとなります。
2020年5月25日 発行 初版
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