江戸時代中期。
声を失い、記憶もおぼつかない与三郎は、ぼんやりと釣り竿を握っていた。
初夏。
何かに縋るように座り込んでいた与三郎は、渋谷川のほとりで幼馴染の春吉と再会した。
春吉の示唆から記憶を取り戻した与三郎がすべきことは何なのか。
自分が命を奪った男への憧憬と贖罪。懺悔と希望。
前作『蜻蛉の涙』の繊細な小物釣りから一変、豪快な大物釣りの世界と懐かしい日本の風景をお楽しみください。
圧巻の釣り文学、再び!
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この本はタチヨミ版です。
山の賑わいは、桜の季節が過ぎてからが本番だ。
梢に萌える若葉を透過した、淡く、柔らかな光が降り注いでいる。山はその淡い緑に染まり、青葉は日ごとに濃く、厚く、勢いを増してゆく。伸びる枝葉は、谷に沿って通じる、細い踏み痕を、やがて隠してしまうだろう。男はその踏み痕、枯れた落葉が幾層にも重なる柔らかな杣道の、湿った土を踏みしめて進む。蜘蛛の巣を払い、腰を屈めて、下草の濃い藪を漕ぎ抜けた後で、袖を丸めて汗を拭う。一息ついて頭上を仰げば、山の斜面は青空を切り取ったように明るく開け、五月晴れの下で、藤の、淡い紫の花房が薫風に揺られていた。
今、季節は春から初夏へ移りつつある。谷川の水も温み、乾いた風が甘い香りを伴いながら、鼻先に遊ぶこの季節を、春吉は子供の頃から好きだった。この季節が巡ってくると、決まってあの日のことを思い出す。あいつのことを思い出す。
同い年の幼馴染、与三郎とは隣同士の百姓育ちで、物心つく前からずっと一緒に遊んでいた。同じ川で泳ぎ、同じ泥にまみれた。あの日、山へ遊びに出かけ、鶉を追いかけているうちに、一緒に藪に迷い、やがて闇が降りると、前後の違いも分からぬままに、帰り路を失った。足がすくみ、心細さに抱き合いながら、途方に暮れて一夜を泣き続けたのは、十の歳だった。
闇が、怖かった。
夜が明けるとき、二人の、泣きはらした赤い四つの目で、朝陽に輝く藤の花を見上げたことを、今も鮮明に覚えている。闇が膨らむときの、湿った地面から立ち上る枯葉の匂いが、朝陽の中で薄れていった。代わりに頭上から降り注いできたのは、青葉の噎せるような、生の匂いだった。薄く柔らかな、若葉の重なりを透かして届く、朝陽の力強さを、覚えている。寒くて、怖くて、それでも泣きつかれて、震えながら、うとうととまどろんだ僅かばかり後で、母のようなお日様の温もりに包まれたときのことを、覚えている。朝陽の眩しさと温かさに、空腹を思い出し、その腹の音がかえって幼い二人に勇気を与えてくれた。家へ帰ろう、そう二人で頷き合ったとき、遠くで名前を呼ばれていることに気付いた。
「母ちゃんだ。探してくれていたんだ。助かった」とまた泣き合った。
あの頃と同じように、春吉は今も野の鳥を追いかけている。降り注ぐような藤の花房を潜り抜けながら、野の鳥を追いかけている。
隣り合う百姓家の倅同士であったから、春吉と与三郎は、兄弟のように育ち、遊んだ。あの日、鶉の親子を追いかけているうちに、藪に迷った二人は、その後も懲りることなく、仕事そっちのけで鳥刺しに夢中になった。競い合うように鳥を追って野山を、谷を、田の畔を、駆けつづけた。
互いに十五になったときだった。鳥刺しの腕を見込んで、
「二人のうち、どちらかを紀州様の御屋敷奉公に世話したい」
そう話を持ち掛けたのは、池上本門寺の寺男だった。寺男にしては景気のいい話だが、なんでも親戚筋が紀州家の下屋敷で中間頭を務めているとのことだった。口入屋の紹介する男は辛抱が足りず、長働きできない者が多いから、「知り合いの伝手を頼って奉公人を探しているのだ」と言った。中間としての奉公だが、実際の仕事は、「鷹匠の下で、お鷹様の餌を獲るのが、主な役目だ」という。鷹の餌を集めるお餌刺役は別にいるのだが、それとは別の、鷹匠の使い走りだから「中間奉公になる」と言われた。
三度の飯より鳥刺しが好きな二人は、話を聞いて色めき立ったが、奉公が適うのは一人だという。それを聞くと、与三郎はあっさりと引き下がった。自前百姓である与三郎の家と違い、水飲み百姓然とした小作農家である春吉に、自活するための将来を譲ったのは明らかだった。感謝の言葉をなかなか言い出せない春吉に、「奉公人は真っ平だ。おいらは好きなように獲り続けるぜ」と、そう与三郎から先に言った。
「確かにヨサにぁ務まるめえ」
そう言って笑いあった夜、春吉は一人になると静かに涙した。与三郎への感謝に胸が震えた。
春吉が住み込みで奉公するようになると、二人が会う機会はめっきり減ったが、それで親交が絶えた訳ではなく、時間が融通できるときには、決まって酒を酌み交わし、むしろ二人の友情は以前よりも深まっていった。
「お前も六尺半纏羽織るようになって、男振りが上がったな」
そう言って兄貴面する、同い年の与三郎が、春吉は嬉しかった。
奉公して五年が経ち、二十歳になった春吉は所帯を持った。同じ屋敷で台所奉公をしていた下女の一人、おフジを見初めた。十七の娘に思いを伝え、娘の名でもある藤の花の咲く頃、二人は夫婦になった。
形ばかりの祝言には、与三郎が二尺もある大鯉を二尾、両肩に担いでやってきた。長屋の前で与三郎が出刃を使い、大鯉の相手を始めると、わいわいと野次馬が立った。近所の子供たちもはしゃいだ。
鯉の体に包丁の背を当て、尾から頭へ逆撫でるように鱗を引き落とすと、一文銭ほどもある、大きな鱗が勢い余って飛び散り、近くで眺めていた子供の頬に飛んだ。それにまた子供たちがきゃあきゃあとはしゃぎ、大人も喜んだ。
腹を裂き、臓物を取り出して、その中から青く光る、小指の先ほどの胆嚢を丁寧に取り分けた。
「鯉肝だ。春吉、お前が飲み込んじまいな。早速今晩おっかあ泣かしてやれよ」
精がつくと言われる鯉の肝を、春吉が照れながら飲み込むと、周りはやんやの喝采となった。鯉肝はつぶしてしまったら、苦くて、とても口にすることはできないが、丸のまま飲み下せば、直後に喝ッと胸が熱くなる。
三枚におろし、頭と骨だけになった大鯉を、与三郎は高々と持ち上げた。「何がはじまる」と、皆の目がぎょろりと集まったところで、与三郎はにやりと笑ってから、水を張った盥に鯉を放した。盥の中で、その頭と骨だけの鯉が「ゆらり」と泳いだ。その両眼はまだ光っている。口を開き、鰓を広げ、尾をくねらせて、鯉は泳いだ。それを見て大人も子供も等しく沸いた。鯉の生命力に皆が息を飲み、口々に命の強さ、見事さを称えた。
その命を食する歓び。
そぎ切りにして、井戸の冷水で締めた《洗い》。皮付きの切り身は炭火でじっくりと《塩焼き》にした。皮の下から垂れる脂の匂いに、子供たちの腹が鳴る。もう一尾の大鯉は、腹を裂いたのち、筒切りにして、生血もそのまま、頭も尾も一緒くたに大鍋に煮た。味噌を溶いて《鯉こく》にすると、椀を手にした皆が周りを囲んだ。
与三郎の持ち込んだ大鯉から、思いがけない豪華な祝宴となり、近所の女房どもの笑い声が尽きない。酢味噌を添えた洗いを頬張ると、こりこりとした歯ごたえと、喉越しの妙に、男どもの酒が進んだ。ぱりっと張った皮に、ぱらぱらと塩粒が散った焼き物に、釜の飯が空になる。鯉こくにがっついた一人が、口の中に鯉の骨を当てて悲鳴を上げた。
皆が笑い、長屋が揺れた。
二年前の祝言は、今も町内の語り草になっている。鯉肝の効き目はどうしたものか、春吉夫婦には、今も子がない。
*
昨年の秋、与三郎は消息を絶った。
梅雨を前に、春吉は風邪をこじらせ、半月ほども床に伏せた。隣家である、春吉の母親と顔をあわせた与三郎は、そのことを聞くとすぐに見舞いに飛んできた。もっとも、春吉の病はすでに快方にあり、与三郎が顔を見せたときには、そろそろ床上げしようか、と話しているところだった。ひと安心した与三郎は、いつも通りの明るい声で、自分の近況を話した。帰り際、「魚釣りをやろうと思う」と言った。あの二年前の、春吉の祝言模様をまたも引き合いに出し、ひとしきり笑い合った後で、
「今度は自分で釣り上げた魚を持ってくるぜ」
そう言い置いて、帰って行った。それが、春吉が与三郎を見た最後となった。
その年の秋、彼岸を過ぎた頃、与三郎の行方が知れなくなった。そのことを風の便りに聞いた春吉は、中間頭へ訳を話して、与三郎の実家へ見舞いに行ったのだが、そこでも「いなくなっちまった」こと以外には何も分からなかった。
与三郎の二人の兄は、与三郎の失踪よりも、むしろ、急に老け込んだ父親を心配しているようだった。父親の、深く窪んだ両目には、成人した男が一人、いなくなっただけだとは思われない、不穏な翳りが満ちていた。何者かを恐れているような、或いは何かを諦めているかのような、それは声に出すことが許されない、沈黙の翳りだった。
藤の、紫の花房が揺れる季節にそぐわない、その噂を聞いたとき、春吉はある種の、嫌な予感に胸が騒いだ。
「お菰が釣りしてやがる」
「もとは職人らしいぜ」
「百姓だろ」
「唖だって聞いたぜ」
「はじめは宇田川をうろちょろしていたらしいが、今は隠田村にいるとさ」
「ありゃ、気が触れてるぜ」
「水車小屋の施しを受けているらしい」
春吉が奉公している紀州徳川家と言えば、言うまでもなく徳川御三家の一つで、八代将軍吉宗の出身藩である。紀州家の力量は藩邸の数にも見られ、麹町の上屋敷をはじめ、中屋敷、下屋敷を合わせると、江戸時代を通して、延べ三十か所に及んだそうだ。もちろん常時それだけの数の藩邸を管理していたわけではなく、時期に応じて屋敷替えをしており、規模や役割の軽重、所有期間にはばらつきがあった。また、「火事と喧嘩は江戸の花」と嘯かれるように、火災によって消失した屋敷などもあったそうだ。
春吉が中間奉公をしていたのは、江戸の郊外、荏原郡下渋谷村に、幕府から下賜された下屋敷である。現在、鍋島松濤公園のある瀟洒な住宅地がその屋敷跡だ。公園には佐賀鍋島藩の名が付いているが、同藩がこの敷地を得たのは明治になってからで、以前は紀州家の持ち物であった。ちなみに地名となっている《松濤》とは、その地で鍋島家が茶店を開き、売り出した際の、お茶の銘柄だったという。今も公園内に池が残るが、当時その池水で点てるお茶が評判だったそうだ。池の水はこんこんと湧き、流れ落ちて宇田川へ通じた。宇田川は渋谷川の支流である。
さて、この下屋敷は渋谷屋敷と呼ばれ、他藩のお鷹場も近い。中間でありながら鷹匠の指示に従い、鳥刺しを主な業務としていた春吉は、鷹匠や中間頭の信頼を得て、鳥見役人や、他の藩邸との連絡にも走らされていた。
その日、春吉は、屋敷の湧水が流れ落ちる宇田川の畔を下り、合流後の渋谷川を遡って、千駄ヶ谷村にある別の紀州家下屋敷を訪ねた。春吉の奉公する渋谷屋敷が、幕府から下賜された拝領屋敷であるのに対し、千駄ヶ谷屋敷は、紀州家自ら購入した買取屋敷であった。江戸本邸である上屋敷をはじめ、拝領屋敷は、幕府の意向で配置換えや取り上げなどが行われるのが、買取屋敷は自らの意思、金銭で買い上げた屋敷のため、より自由度が高いと言えた。
「返事は貰わずともよい。この手紙を届けて来ておくれ」
そう、用人の書状を託された。珍しいことではない。そんな気楽な使い走りの仕事が、春吉は好きだった。届ければ、相手が礼だと言って、団子や銭を寄越すこともあった。木立で鳥の声を聴きながら、或いは、小川の浅い流れの囁きに、眠気を誘われながら一休みし、団子を頬張る休息が、使いの途中の愉しみだった。
春吉は渋谷界隈の風趣を愛した。幼少期を過ごした、実家のある馬込村は、池上本門寺を見ればわかる通り、田畑が広がる平地の中に、突然急峻な高台が現れる。高低差の対比がはっきりした土地で、それがまた名物となってもいた。しかし渋谷は、崖線も見られる一方、高台と低地とが微妙に折り重なった、襞のような親しみのある風景が多い。繰り返し現れる坂道に閉口することもあるが、落葉樹林や果樹など、樹木の陰影と原っぱ、そしてその間を縫うように流れる小川のきらめきが美しかった。
後年、独歩や花袋、白秋など明治の文人が愛した、武蔵野の風景がそれである。
その日、春吉が千駄ヶ谷屋敷へ使いに訪れると、顔を知った中間たちが、馴染みのない噂話に、春吉を誘った。
「お菰が釣りしてやがるのさ」
妙な胸騒ぎを覚えながら、春吉はその話の輪に加わった。
「お前さん、渋谷から来たんだろ。途中の、そこの隠田水車で、菰の魚釣りを見なかったかい」と、そう聞かれた。
春吉は、話もそこそこに「行ってみる。ごめんよ」と屋敷を飛び出した。おいおいどうした、と周りの連中は驚いたが、胸騒ぎに追い立てられて、気にする余裕はなかった。深い木立と、曲がりくねる起伏の多い小道がもどかしい。いつも、のんびりと慈しむように歩く、その風景が全く目に入らず、切り株を蹴飛ばした小指の痛みも無視して走った。渋谷川に沿って隠田村まで、汗も拭わず駆け抜けると、水車の下で男が一人、呆けたように釣っていた。筵も敷かず、ゲンゲやオオバコの生える堤に尻を付いて、一人、渋谷川に竿を出していた。
「与三郎っ――」
渋谷は、土地の起伏が激しく、湧水や川が多い。
と、こう書くと、起伏はともかく、湧水や川については、首を傾げる人が少なくないかもしれない。或いは「精々、下水道くらいだろ」と口を曲げて皮肉る人もいるだろうか。その通り。今、街中を覆うアスファルトを引きはがしてみれば、暗渠として閉じ込められ、地下の下水道に成り果てた、川の痕跡を幾つも見つけることができるはずだ。
渋谷川も、そんな悲しい川の一つである。
徳川譜代大名、信濃高遠藩内藤家下屋敷の、湧水池から流れ出る水が、渋谷川の主な水源であった。屋敷跡は現在の新宿御苑である。
湧水池から流れ出る、細々とした小川。それがもともとの渋谷川であったから、本来、取り立てて何か言うべきことがあるような川ではなかった。どこにでもある小さな川だ。ところが、承応二年(一六五三)、渋谷川の様子を一変させる出来事が起きた。二度の挫折を経て、ようやく通じた玉川上水の完成である。羽村から四谷大木戸へ至る、距離にして四十三キロメートルの大開削工事は、江戸の上水道整備における核心を成し、幕府のみならず、当地に生きる多くの人々の悲願でもあった。江戸の西部域外を流れる、多摩川から導いた水が、江戸城をはじめ、市中南西部一帯を潤したのである。
多摩川の源流である笠取山は、二千メートル級の高峰が連なる奥秩父山塊に属する。その山塊は多摩川のみならず、荒川(埼玉・東京)、千曲川(長野)、笛吹川(山梨)といった各地の主要河川の源流でもある。したがって山塊は、むしろ緑の巨大な水瓶とも呼べよう。その水瓶から流れ出る、水量豊富な多摩川から導いた上水は、江戸の広域を潤してなお、余分にあった。その玉川上水の余水を落としたのが渋谷川である。以降、渋谷川の水量は大きく増え、川の持つ生産性が飛躍的に向上した。
生産性とは何か。玉川上水を契機とし、その副産物として渋谷川に生まれた《水車稼》がそれである。水力を用いて麦米を搗き、精米を機械化された「業」として発展させることで、それは江戸の発展にも寄与した。
渋谷川に、正確にいつ水車が架けられるようになったのか、断定するのは難しいのだが、下渋谷村の水車稼が、幕府に提出した書付によると、享保十八年(一七三三)ごろ下渋谷村と原宿村に架けられたのがはじまりと読める。それは玉川上水の完成から実に八十年後ということになる。しかし一方で、正確な年号ではないまでも、明治十九年に東京府へ提出された「水車営業継年期願」によると『元禄年中……麦舂水車取設候』とあるので、実際は享保よりも前、元禄の頃から稼働していた水車もあった、と考えるのが自然だろう。
いずれにしても、当時、水量を増した渋谷川流域に、多数の水車が設置されていた、と考えて間違いない。また、時代が進み明治に入ると、さらに水車稼の勢いは増したという。記録によれば、水車の数が最大となった明治四十年頃には、渋谷地域(渋谷川以外の川も含む)で稼働する水車小屋の数は、五十か所に達したという。渋谷の五十か所で水車が営業をしていたということを、現在、想像するのはなかなか難しいのだが、これは記録に残る事実である。
タチヨミ版はここまでとなります。
2021年7月23日 発行 初版
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群馬県生まれ。現在は東京都渋谷区に在住。著書に時代小説「蜻蛉の涙」(幻冬舎)がある。