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保田文集

編:保田文庫



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鋸山の美 それはいつ見ても すばらしい物です。
殊に暁方のもやが晴れて、あの山がくっきりと、
朝々に映る姿。

周囲の山々が紅葉に包まれた中に
清く澄む姿。

時雨に包まれた鋸山の姿が 余りに自然に恵まれた人は 
もすると、自然の美しさになれきってしまゐます。

此の目を開きませう。
 

 文集『楽土の保田』 巻頭言より
発行:保田尋常高等小学校文藝部
昭和七年十一月

 目 次

はじめに 保田文集について

鋸山歩行記 阿部 湖十恵

冒険と会遇と開墾 戸塚 啓士郎

山のおじいちゃんの話 アキヨシアイ

江月の水仙 加藤 淳

大六近辺 小藤田 尚也


海水浴
花火大会
真珠島
イカダ競争
二〇二〇年 春〜夏

心のオアシス 柳亭 市寿

鋸山にさわった日のこと 前田 和奏

鱚ケ浦・滴水居にて 前田 宣明

さいごに



表紙写真 撮影:江田 晃陽(昭和二十七年)

はじめに 保田文集について

 鋸山の南麓には、おおらかな丘の斜面と小さな平野が続き、山間部や海岸には、小さなひだまりが点在します。このような自然環境を有する保田の一帯には、特有の質感があるように感じます。
 本書は、保田文庫が馴染みある方々にお願いして、寄稿していただいたものを収録した文集です。保田に生まれ育った人、隣町に住む人、別荘を持つ人、人的つながりのある人、仕事のために訪れた人などが、それぞれの視点でとらえた保田のことを、自分の言葉で書き綴っています。
 保田文集は、この土地に流れ続ける時間の川面に浮かぶ記憶の群像です。収録された一つ一つの記憶と想いは、川面から鋸山の稜線をつたい遥か空に舞い上がり、時空をこえて読む人にきっと届くことでしょう。


二〇二〇年九月  保田文庫 前田 宣明

 鋸山歩行記        

阿部 湖十恵 湯治宿経営



「金谷から勝山までの散策の思い出・・って例のトンネル歩いちゃった申し訳ないやつですか・・?」
「そうそう、あの鋸山のトンネル突入の話です」


 保田文庫の前田さんに、文集へ寄稿するお話をいただいたのですが、さて困りました。時々思い出しては申し訳ない気持ちに駆られ、私自身できればできれば忘れ去りたい、この話を知る人も、忘れてほしい。そんな話を文字に残すとは・・・。
 私は東北地方の秋田県の内陸、岩手との県境に近い奥羽山脈の中腹で、家業に携わり生活をしています。二〇一七年一月からの三ヶ月間は、冬季の閑散期を利用し、千葉県鋸南町にある旅館で働かせていただきました。全く縁もゆかりもなく、その時の求人情報で辿り着いた初めての土地でしたが、その職場では前田さんをはじめとする温かい方たちにお世話になりました。土地も人も空気も居心地良く、短い在職期間でしたが退職後も図々しく数度訪問させていただくなどして、私にとって思い入れの強い土地になりました。当時の私は、三ヶ月という限られた時間の中で家業の勉強のためにも、できるだけ色々なことを見聞きし、経験したい気持ちが強く、休みや空き時間のたびにどこかへ足を運んでいました。
 違う環境での生活にも慣れてきた二月中旬の休みの日、一度は登った方がいいよと勧められた「鋸山」へ行くことに決めました。歩いて登るか、行き帰りのどちらかを浜金谷から出ているロープウェイを使うか、迷いながら寮を出て駅に向かいました。一時間に一本しかない電車の時刻に間に合わず、結局一便見送って、ゆっくり散策しながら鋸山方面に歩き始めました。鋸南町をはじめ南房総地域は花卉農家の方も多いようで、ビニールハウスの中やその周りに咲く花、満開に咲く頼朝桜(源頼朝のエピソードにちなみ名付けられた河津桜)、という秋田ではあり得ない二月の風景が印象的でした。また、内陸住まいには馴染みのない海の道具が玄関先に吊るされている光景を見て、新鮮味と面白さを感じ「日本は狭くて広いな」などと思いながら写真に収め歩きました。


 歩いているうちに、鋸南側から登る登山口の看板が見えてきました。帰りは山の反対側からロープウェイで降りようと決め、麓から歩いて登ってみることしました。こちらからの道はどうやら日本寺という寺の参道になっているようで、石畳の階段が続きます。朝早く出たため、門についたのはまだ開門時間前。階段を少し戻ったところで落ち葉掃除をしていた男性と言葉を交わしました。その方は奇遇にも秋田の隣、岩手県の私も知る地域に住まわれていたと言います。近年になって、年齢と将来的なことを考え身内のいるこちらに移住したのだと教えてくれました。思いがけず馴染みの土地の話をすることになり、なんだか嬉しい気持ちになりました。



 登山道の急勾配には流石に息が上がり、腿が辛くなりましたが、生まれて初めてみる石切場の造形に感動し、日本寺の大仏、地獄のぞき、そこから見るのどかな麓町と海の風景が綺麗でした。「名所鋸山」の世界を存分に楽しみました。

気分も良かったので、ロープウェイはやめて下りも自分の足で浜金谷方面へ降ることにしました。三二九メートルの低山とはいえ海から急に切り立つ岩山、下りも急勾配です。石畳の多い鋸南側の道とも違う雰囲気で、土に足を滑らせないよう気をつけます。なんとか無事麓にたどり着き、海岸に沿って保田・勝山方面へ向かいました。海岸のコンクリートの淵から海を覗いたり、ひじき干しや漁港、おばあちゃんたちが塀に向かって井戸端会議をしている様子が印象的でした。

 
「千葉」というと秋田からすると首都圏なこともあり「都会」というイメージなのですが、実際に来て感じたのは、千葉の広さとのどかさ。単に「田舎」といえばそれまでですが、風土の豊かさを感じました。今まで縁もゆかりも無かった町を歩きながら、ふるさと秋田の風景を重ね見ている自分がいました。若い人の姿がまばらなところも似ていますが、やはり決定的に違うのは南房総は南国で、冬らしい冬がない(正月明けから花が咲いていたのには驚きでした)という気候柄か、人ものんびりゆったりしていると感じました。あちこちの景色に視点を巡らせて歩いているうち、とある映画のロケ地にもなったという海岸にあるカフェ「岬」へたどり着きました。


 この日は朝から快晴。海上の青空に傾き始めた暖かい日差しを浴びながら、絶景を前にコーヒーを飲みました。一息ついているうち、次の電車に乗るのも難しい時間になってしまい、「まあ、このまま海沿いを歩いて帰るのもいいだろう。」とカフェを出て駅とは反対の帰りの保田方面へ足を向けました。

 カフェから出てすぐのところには、国道のトンネルが続いていました。そう、これが件の「トンネル」。脇には歩行者用の道がありそうにも見えるし、Googleマップにもそのように見えるのですが草が茂っていてどうやら行き止まりのよう。鋸山を貫通するこのトンネルの中を歩かなければ鋸南に帰ることができないようです。トンネル内部は暗く、長く続いていて、入るのを躊躇しましたが、どこかで外の歩行者用の道に抜けるところがあるだろうと期待を寄せていざ突入したのです。しかし、、、。歩けど歩けどそれは見当たらず、歩道すらない状態です。暗いトンネルの中、私のすぐ脇を車が通り過ぎていきます。正直歩くのには危険な道でした。車が来ないうちに抜けてしまいたいと思っても続々とやってきます。ドライバーは、この暗く狭いトンネル内に突如現れる歩行者の姿に、さぞびっくりしているはずです。私は一人トンネルの中を歩きながら「ああ、何人に舌打ちされているんだろう」「姿が見えなかったらいいのに」「漫画みたいに申し訳ない心の声が文字に見えたらいいのに」などと、終始ドキドキしながら進み、なんとか最後まで歩き抜きました。行き当たりばったり、流れに身を任せることもいいけど、程よい計画性も慎むことも大事なのも知っています。好奇心に期待を寄せすぎた報いでしょう。とほほ。
 その休日明け。確か前田さんに慣習のように「昨日はどこかに行きましたか?」と聞かれて、鋸山に歩いて登った話と、その流れでついつい、トンネルの話をしてしまいました。そしてそのどちらにも驚かれ、その後次々と「阿部さん、あんな危ないトンネル歩いたんですってよ」と同僚たちの間での話の種にされてしまったのでした。(ええ、わかります。私だって住んでいる場所では車ですし、生活する場所でこんな冒険のようなことはしないですから。逆の立場だったら同じ反応をしますよ。)

 その後退職した後にも職場へは二、三度、訪問させていただいたのですが、この話はその都度に掘り返されているような気がします。おかげで忘れようにも忘れられず(笑)鋸南生活の思い出としてとても色濃く残る休日の出来事になっています。3年前のあの日、思いもよらぬ場所を歩く人間に驚いたであろうドライバーの皆さん、この場を借りてお詫びいたします。

―――(勝手に)あとがき―――
 二〇一九年九月の台風一五号の被害に遭われた鋸南町、富津市の皆さんにお見舞い申し上げます。実際に生活をして、お世話になった土地で起きた未曾有の災害。実際に足を運んで手伝えない無力さを感じながら、何かできるタイミングはないかと時を待っているうち、今度は新型コロナウイルスで県外移動も難しい状況になってしまいました。気にしながらも、連絡するタイミングを探っていたところで前田さんの方から連絡をいただき、今回のご縁となりました。
 大変な状況が続く中で、台風やコロナを経て、地域の記憶を残そうという前田さんに、敬意を表し、このような機会をくださったことに感謝いたします。とはいえ、このトンネルの話、私にとっては結構真面目に、ほろ苦い思い出です。その印象が強すぎて、トンネルを抜けた後に、保田から電車に乗ったのか、歩いたのかも覚えていません。『申し訳ないと思っているんです〜』という私に、「水戸黄門も難儀した陸路であった場所だから、水戸黄門も「あなたは悪くないよ」と言っているはず」と前田さんらしい慰めをいただいて、「そうか、水戸黄門にそう言われたら気持ちも楽になる気がするな、それではトンネルの話題で面白おかしく葬ってやろう。」と思い直したのですが、実際に書き始めると埋もれていたその日の他のこの土地での記憶が呼び起こされてきました。
 私自身改めて自分の生活する場所のことを何かの形で大事に表現しつなぎたいと感じていた時だったので、書いているうちにそういう気持ちともリンクして、ついつい話が長くなってしまいました。もう一度あの日に戻ったようで自分の行動に呆れつつも楽しく書かせていただきました。
 土地も、人間も、必ず変化していくもの。時は元には戻せません。でも過去の記憶と、現在の状況、そこにいる人の思いで、新しい道が開かれ、そのそれぞれの土地、保田、鋸南が未来に繋がっていくことを願っています。お世話になった土地に感謝を込めて。

冒険と会遇と開墾

戸塚 啓士郎 旅館勤務・和食調理士


 埼玉で二十年間育った私が鋸南町に引っ越したのは就職のためでした。当時調理学校の進路指導室にて見つけた旅館の求人は去年のもので、先生にお願いしてなんとか連絡を取ってもらったことを覚えています。和食の中でも魚料理を習いたかった私は海のある県のほうが良いだろうという理由だけで飛び出しました。両親に「石橋は叩いても渡らない」と言われるほど臆病な私ですが、新社会人として、新しい一歩を歩みだしたかったのかもしれません。そのスタートとしてこの地に引っ越してきたことはとても幸運でした。この巡り合わせに感謝して鋸南町にきて感じたことを書かせていただこうと思います。

 さて、鋸南散策をして私が感じたことは「ゲームの世界のようだ」という事でした。私はゲームが好きな質なのです。山と海に囲まれていて、少し歩けばどちらにでも行くことができる。冒険心をくすぐられるような場所でした。山には鋸山をはじめ昔の石切り場の名残である人工的な垂直の壁の上に自然を重ねたような不思議な風景。海には漁港がありいくつも船が行き来しています。贅沢にいろいろなものを詰め込んだこの町は、歩くだけで新しいアイデアや物語が浮かんできそうです。また歴史的なものが各所にちりばめられていることも私がゲーム的だと感じワクワクする要因だと思います。自分の好きな場所でいうと保田駅近くの汐止橋でしょうか。明治時代からある見事なアーチ状の石橋で晴れた日に下から見上げてみると水面に光が反射して橋の裏側をキラキラと波が走る光景がとてもきれいでした。
 保田文庫を通して前田さんのお手伝いをさせていただいてからは更に歴史に触れる機会も増えました。二〇一八年の古民家跡の調査では、基礎石を探して今はない家の形を古い写真と照らし合わせながら推測してみたり、掘り起こした数十年前の飛び石の上を歩くと、まるでタイムスリップしているかのような気持ちにさせてくれました。草を刈り、木を伐り、土を掘り起こす。目的のために藪地を切り開く作業は、まさに夢に見ていた「冒険」を実体験しているようで、疲れもわすれ楽しく作業した事を覚えています。歴史の隠れた鋸南ならではのことなのだと思いました。
 勢いで地元を飛び出して今年で五年になります。調理の仕事と、ロードバイクや野営などの趣味と、がむしゃらに歩んできた時間ではありますがこのように振り返る機会を与えてくれた保田文庫には心より感謝いたします。また数々の冒険をさせてくれたこの鋸南町にも感謝を。

撮影:江田晃陽 昭和三十五年

山のおじいちゃんの話

アキヨシアイ グラフィックデザイナー


私が「山のおじいちゃん」に出会ったのは小学校二年生の頃だ。

「元名の田畑の丘の上に、岩橋さんというおじいさんが農作業の休憩所として小屋をたてていて、本をたくさーん読んでいる賢い人だからきっとおもしろいよ、訪ねてみてごらん!」

祖父からこんな事を聞かされた私の胸には、冒険のような、ときめいた気持ちがいっぱいになった。すぐに妹と友達を連れて、草ぼうぼうの丘を蜘蛛の巣を払いながら進み、「こんにちは!」とその小屋に行った。
この日からわたしの子供時代は最高に楽しくなった。


それから私たちはしょっちゅうおじいちゃんのところへ遊びに行くようになった。
おじいちゃんはとても優しくいつも穏やかに迎えてくれ、遊びに行くたびに冷蔵庫から小さい炭酸のジュースをご馳走してくれた。
鋸山のなだらかな畑の斜面、その先にキラキラ光る海がみえて、子供ながらに「ここは最高の眺めだな」と思った。


その小屋には農具などの道具をしまうところと、靴を脱いで上がれる三畳くらいの座敷があった。座敷には、本だけでなく絵具や外国のクレヨンなどの画材、一眼レフカメラやポライドカメラなどがあり、まるであこがれの秘密基地だった。電気も水道も電話も、なんとファックスまであった。


おじいちゃんは若い頃、館山の裁判所で「罪を決める仕事」(いつも子供たちへそう説明した)をしていた人で、定年退職をしてから昼間だけ小屋に来て趣味で農作業をし、夕方には元名の海の近くの自宅へ帰る。そういう生活をしていた。
自宅には押し入れを改造して作った写真を現像する暗室があるらしく、
よく現像した私たちの写真や近くの植物や風景の写真をプレゼントしてくれた。

植物に詳しい人で、野菜だけでなくバラやひょうたんなどの珍しい品種の植物をそだてていて、見たことのない植物の名前をたくさん教えてくれた。ある時は大きな木にロープをかけてターザンを作ってくれたり、私たち一人一人に工作用の小さなテーブルをたくさん作ってくれた。とても器用な人だった。

年末には当時珍しかったプリントごっこで遊ばせてもらったし、その流れでワープロも教えてもらった。当時の私はワープロのビットでシンボルマークをつくることが気に入ってとても夢中になった。


私たち子供たちは、ワーワーと賑やかに小屋に遊びに行っては、農作業をしているおじいちゃんのそばでいつも勝手気ままに遊ぶのが常だった。おじいちゃんは、そんな私たちに「こんなのあるけどやってみる?」などとたまに静かに声をかけ、楽しい遊びのアドバイスをくれた。

おじいちゃんを何かに例えるなら「子供が集まるおおきな木」のような人だった。
「だった」と書いたのでもうおわかりと思うけれど、おじいちゃんは私が東京に上京してすぐに亡くなってしまった。

あれだけお世話になったにもかかわらず、中学生になった私たち姉妹や友達は、あまりおじいさんのところへ遊びに行かなくなり、高校生になってからはめっきりだった。
たまに「また遊びにおいでよ」と自宅へ連絡が来ていたが部活があったりでなかなか行かなくなっていた。


その後の私は、上京してデザインの学校に進学しグラフィックデザイナーになった。
今思うと私がデザイナーになってみたいと思い始めたきっかけだったは、おじいちゃんの小屋で、レタリングとかワープロのビット絵やプリントごっこ、たくさんの色が揃った外国のクレヨンやポラロイドカメラで遊ばせてもらった体験があったからだと思う。

そして、いまわたしは女の子二人の母親になった。
今振り返ると、あんなに自由に勝手に遊び来る子供の発言を否定せず、また指示するでもなく、「そうだね、やってみたら?」と子供の提案する無駄な作業につきあってくれる大人がいたということは、とてもありがたいことだったんだな。と、かみしめている。

この文を書くにあたり、山のおじいちゃんとのいろいろな思い出を思い返した。そういえばお線香をあげることもしていなかった。「またあそびにおいで」といってもらってたのに行かなかったな。とすこし後悔の気持ちと、もしまだ生きていたら「アドビのイラストレーターで絵を描くと面白いんだよ、それを使って広告を作る仕事をしているよ」と伝えてびっくりさせたいし、娘にも会わせたかった。きっとおもしろいことになっただろう。
この保田の地区に子供たちが集まる、ゆかいで自由で楽しい場所があったということを、この文集に綴ることで、ずっと記録に残してもらいたいと願います。

江月の水仙

加藤 淳  文筆家・翻訳者


 江月の水仙ほど美しいものはありません。

 江月は安房郡鋸南町にある小高い山里の一地区です。里を蛇行しながらのぼっていく町道は水仙ロードと名づけられ、道の両脇の土手に年末から水仙が咲き乱れて、道行く人を楽しませます。花は一か月半ほどの間、ずっといい香りを漂わせながら咲きつづけます。季節が来ると、遠くから花をめでに来る人が絶えません。しかし本当は、もっと美しい水仙があるのです。それについては誰も知りません。わたし以外には。

 一月。春が早く来ると言われる房州でも、さすがに寒い夜がつづきます。満月の夜、わたしは森に入ります。ダウンジャケットを着て長靴をはき、けもの道の枯れ葉をふみしめながら前に進みます。懐中電灯は手元にありますが、すぐに要らなくなります。不思議ですが、外灯から遠ざかった森の中の方が、よほど明るく感じられるのです。冬の月でも、江月の満月はつめたく凍りついた鋭利な感じがありません。あくまで明るく、まるまると包容力があり、静かな入り江に揺れているような、ゆったりしたおおらかさがあります。杉木立の群れに光を落とし、足元を照らしています。常緑樹の揺れる葉が光のしずくを両手で受け止め、ぽたぽたと光を落としている。 
 緩やかなけもの道をのぼっていくと、パッと開ける場所に出ます。左右と前の三方に急斜面の山肌が迫り、そこだけ開けた舞台のようになっている。まるで古代ギリシャの円形劇場のようなっていて、すり鉢の底がちょうど舞台にあたる。山肌には、一面びっしり水仙が咲いている。それはまるで水仙の雪崩です。花をながめているというより、水仙に包囲されて身動きが取れなくなり、こちらが花に眺められているような錯覚におちいります。満員の観客が水仙たちで、こちらは舞台でなすすべもなくかなしばり状態になる。あたりに充満するかおりのせいで、ますます強い魔法にかかり、わたしは水仙の囚われ人になる。月と水仙が世界のすべてになっている。
 夜が濃くなればなるほど、香りは強まっていきます。江月の水仙は夜行性なのです。誰も見ていない時こそ、一番美しくなる。そして一番いい香りをふりまく。そうして水仙のとりこになっていると、ここがどこなのかも忘れ、自分が誰なのかも忘れ、気がつくとわたしは一本の水仙になっていて、百年前から、いや、ひょっとするとはるか大昔からずっと水仙として咲き、枯れ、咲き、枯れ、咲き、枯れ、を繰り返してきたような気になり、この花がシルクロードを通って日本に伝わる以前は、地中海のどこか小さな町の丘の上で、咲いてきた記憶がよみがえってくるような気になるのです。冬の夜に、森の奥深くで水仙の香りに酔いしれるものなど、わたし以外にはいません。活発に動いているのは、脂のついたイノシシくらいのもの。



 「水仙の使徒」ともいうべきひとが、江月にいました。二〇一七年に亡くなった川名昭治さん(享年九三歳)です。江月の水仙農家として鋸南では有名なひとで、土の職人とも呼べるお百姓さんでした。水仙ロードがにぎわうころになると、川名さんのもとにNHKの朝のニュースが取材に来て、その年の水仙の咲き具合をインタビューするのです。一九九四年にわたしの両親が縁あって川名さんの耕作地の一部をゆずっていただき、江月に別宅を持って以来、ずっと面倒を見ていただきました。わたしはまだ都会の学生で、本物のお百姓と出会ったのは初めての経験でした。川名さんはとても面倒見のいい開放的な性格で、うちの庭先でうまそうにタバコとコーヒーをすすりながら、畑づくりのイロハを両親やわたしに教えてくれるのでした。「深耕」という言葉を知ったのも、その時です。種まきをする土は深く掘って、奥の土をほりかえすんだ、と鍬を使って実演してくれました。耕運機などなかった時代からずっと百姓修行を積んできたひとですから、土を自分の延長のように大事に扱っている姿には感動しました。
 近年はイノシシやシカが里山を荒らすようになり、川名さんが猟銃を持って山に入る姿が増えていきました。ある日、うちの裏山でイノシシが罠にかかったようで、あばれている音が聞こえました。確認しに行くと、生きのいい若いイノシシが足だけ罠にはまり、体全体でのたうちまわっています。山肌はえぐられ、あたりには大きな穴が開いていました。わたしはすぐに川名さんに連絡しました。彼は軽トラで駆けつけると、荷台の猟銃をひっつかみ、けもの道を通らずに山を駆け上っていきました。わたしはそのあとを追いかけましたが、ついていくのが大変でした。
 現場に着くと、川名さんは銃を腰で低く構え、いきなり発砲しました。意外な構えでした。肩に構えて照準器をのぞきこみ、焦点をしぼって撃つのだとばかり思っていたのです。撃った弾は二発。どちらも命中。一発は首あたりの急所に突き刺さり、イノシシはものすごい重低音と耳障りのする金切り声のまじった断末魔の叫びをあげ、体を宙に浮かせながら、えびのように跳ねました。それが二度、三度繰り返されているあいだ、川名さんは銃を構えたまま不動の状態でじっと見つめていました。数度跳ねたのち、じょじょに弾力がなくなっていき、イノシシは動かなくなりました。そしてこと切れました。糞の臭いがツンと鼻を突きました。川名さんが言いました。
「刹那ぐそだっぺ」
「なんですか、それ」とわたしが聞くと、
「死ぬ最後に、くそを出す」と説明してくれました。
殺生の厳粛さをまじかに見せられて、こちらはただ黙って見ているほかありませんでした。迫力がありすぎて、人間や生き物の死の実相が隠されている現代の都会暮らしに慣れているわたしには刺激が強すぎました。しかし、肉を食って生きる以上、いずれ覚えるべき技術のような気がしました。
 川名さんはイノシシの解体も上手です。ある時、これから解体するから見に来るかい、と言われ、生唾を飲み込んだわたしは、一瞬考え、断ってしまいました。根性がありませんでした。当分肉が食えなくなると思ったのです。あとで解体された肉をいただいた際に、川名さんが言いました。
「腹ぁ切ったら、ウリボウが七匹出てきたよぉ。まだちっけいから、こらぁから揚げにするといいっぺ」
「えええええ」とわたしは声を上げて、姿かたちそのままなのかな、とひるんでいると、
「いや、持ってきてねぇよ。○○にやっちまった」
そう言ってわたしをからかい、笑いました。

 イノシシと水仙の冬が過ぎると、わたしの家の下には棚田のあぜ道に植えた桜が満開になります。桜の苗木を川名さんが植え、みごとな桜の木になりました。
「桜の花、しっかりめでてくらっしぇえよ」
 農作業で来る川名さん以外、桜の花をめでるのはうちの者しかいないのです。庭に面した窓を開け放っておくと、桜の花びらが風に乗って舞い上がり、部屋の中に入ってきます。花びらだけではありません。春はてんとうむしもみつばちも、ときには小鳥まで入ってきて、巣をつくる場所を物色します。サルまで元気に家のまわりを走り回ります。母がそんなことをぼやいたことがありました。川名さんと庭でコーヒーを飲んでいた時でした。わたしがこう言いました。
「まあ、母さん、ここはもともとサルとかムシとか鳥の場所で、あとからわれわれが入ってきて、使わせてもらっているんだから、あまり文句はいいっこなしだな」
もちろん冗談半分でしたが、川名さんは明るく笑って言いました。
「そのとおりだ。じゅんちゃん(わたし)のいうとおりだ」
そして、うん、うん、と深く納得したという顔で、二度も三度もうなずいたのでした。

 亡くなる五年前にはこんなこともありました。川名さんは肺炎を起こして入院しました。四〇度の熱が出て、入院した最初の三日間の記憶がそっくり抜け落ちています。病院内を徘徊するためにベッドにバンドで縛りつけられてしまいました。そのとき、本人はずっと夢を見つづけていたと言います。
「八五年生きてきて、あんなきれいな風景を見たことは初めてだっぺ」と彼は言いました。
杉の山がゆるゆると続いている。小高い丘の中腹に座って、対岸のもりもりした杉山を眺めていると、杉の山全体の色がつぎつぎと変わっていく。年中緑のはずが、ライトアップされたように赤くなり、オレンジになり、黄金色になり、青くなり、また緑に戻る。それがあまりにきれいだった。沈む夕日のせいではなく、杉そのものが光っているのだった。不思議だとはまったく思わなかった。
「これは冥土へのみやげになるなんて考えてさ、孫に、ケータイ電話で写真撮っておいてくれってあとで頼もうと思ったことをよく覚えてる」
 川名さんは六〇年前、持ち山に、迎えたばかりの妻といっしょに杉の苗を植え、杉山をつくりました。結婚の記念です。新しい人生をスタートさせた杉山は、じつは天国に続いていたということでしょうか。病院から戻った川名さんは元気を取り戻しましたが、近くで話していても、どこか遠い目をしていました。もう、だんだんこちらの世界の雑事を受けつけなくなってきて、きれいな風景だけしか見ていないような、そんな目でした。さびしさと、人生をまっとうする充実感がないまぜになって感じられました。



 江月の水仙を育ててきたひとりに、こんなひとがいたのです。彼の魅力はこの文章で紹介しきれるものではありませんが、これはその一端です。わたしは血のつながっていない祖父のような気持で、彼を慕っていました。彼はもうここにはいなくても、いつも江月を見守っている気がします。水仙になって。

水仙はこれからも咲きつづけます。
永遠にこの地を見守るように。
 
ひとは生き死にを繰り返しますが、江月の水仙はずっと変わらないまま、この世の雨風や艱難辛苦に倒れることなく、宇宙に向かって咲きつづけます。

大六近辺

小藤田 尚也  飲食店経営


海水浴

僕の中で大六のイメージと言えば海水浴だ。幼い頃、いつも海水浴といえば大六海岸だった。当時は大六海岸とは呼ばずに「小浜(こばま)」と呼んでいたと思う(我が家だけかも知れないが)。僕が小学校低学年の頃は、毎年のように父と一緒に泳ぎに行った。すぐ隣の勝山海岸へ連れていかれたことはおそらく無く、もっぱら小浜だった。実家から車で数分なので、近かったからだけなのかも知れない。当時の小浜は国道から入って大六橋を渡ってすぐ左側(現在はガードレールがあるあたり)が道路とフラットな空き地になっていて、そこへ車を停めることができた。父は車のトランクにビーチベッドやパラソル、そして折りたたみのスコップを積んでいて、毎回手際よくそれら一式を小脇に抱えて熱い砂浜へ降りていった。泳ぎが得意な父は、犬かきばかりしていた僕に、少しずつ泳ぎ方を教えてくれた。最初は父の肩につかまってブイまでを往復。溺れそうになったら仰向けで大の字になり浮けばいい、ということもその時に教わった。そのうちにクロールを教わり、ひとりでブイまで行かれるようになった。その頃(八〇年代前半)の大六海岸は、海の家や貸しボート屋があり、とても賑わっていた。周辺には民宿や企業の保養所もあったから…というのを知るのはもっとずっと後のこと。数人のグループの力士を見かけた事もあったような。巡業にでも来ていたのか。それとも大学の相撲部とかだったのかも知れない。帰って茹でたとうもろこしを齧った。遠い夏の記憶。


花火大会

今ではすっかり花火大会のない町になってしまっているが、八〇年代中頃からは毎年行われていたのを覚えている。中学二年の夏に友達を誘って見に行こうとしたので、少なくとも九二年には催されていた。その会場となったのが大六海岸だった。その夜、自転車を駆ってその友達を誘いに行ったのだけれど、素っ気なく断られテンションが急落した僕は、結局行かなかった様に記憶している。なので、最後に行ったのは中学一年の夏なんだろう。一九時半からの三十分間。玉数があまりなかったのか、ひとつ上がると次までの間隔が長いのんびりした花火大会だった。自転車に跨ったまま眺めた様な気もするし、誰かと砂浜に座って見上げてた様な気もする。露店などはなかったけれど、今では考えられないほどの人で賑わっていた。花火が終わると人々はまた散り散りに。帰り道、人気のない路地には蚊取り線香の匂い。ぼんやりと光る電柱の灯り、秋の虫の音。


真珠島

大六海岸と鱚ヶ浦海岸の間に、真珠島と呼ばれる、陸地から橋が架けられた無人島がある。名前から分かるように、かつては本当に真珠を養殖していたのだという。近くには宿もあり周辺は観光客で賑わっていたらしい。現在の島のてっぺんには錆びた何かの骨組みが見える。当時の名残だろうか。そんな島もいつからか橋の老朽化からか入口は封鎖され、今では渡ることはできない。もう三〇年以上前の事になってしまったが、兄が友人達とここでバーベキューをするというので、ついて行った事がある。島は外周に沿って歩く事ができた。小さい島なので、本当に数分で一周してしまう。島から見る海は透明度が高く、砂浜からのそれとは雰囲気がまるで違った。結局、島に入ったのはその時だけになってしまった。当時、近くの岩肌には防空壕のような暗くて大きな穴があったり、天気の悪い日は昼間でも、周辺は少し不気味な雰囲気だった。今でも僕の中ではこのイメージは変わらない。


イカダ競争

数人でチームを作り、手作りの筏(イカダ)でレースをするという、「そんななんでわさわざ」なイベントがかつて夏休みにあったと記憶している。いや、確かにあったのだ。その名も、「全日本 イカダはやっこ」(全日本 イカダはやっ子競争だったかも)というもの。全日本を名乗るあたりが、とても胡散臭くていいなぁと当時から思っていた。全日本ときてイカダとくると、一気に全日本の格の高さのようなものが中和される不思議。そしてはやっこという謎のワード。「イカダを漕ぐのが早い子」というのを略した造語と思われるが、◯◯っ子というのが何とも昭和らしくて可愛らしい。レースの内容はというと、はやっこというくらいだから、子供がメインだったと思うのだけれど、本気出しちゃう無粋な大人のチームもあったに違いない。真珠島だったか浮島だったかで折り返してタイムを競う。仮装大会的な要素も盛り込まれていたような気もする。会場は例年鱚ヶ浦海岸で、現代のインターネットの比ではない情報の拡散力だったと一部で囁かれる房日新聞に広告を掲載しチームを募り、当日の鱚ヶ浦海岸は、国道に向けて長い横断幕が掲げられ大賑わいだった。そして大会の模様は千葉テレビで放映という、ローカルメディアをフル活用するイベントという側面もあった。八〇年代は例年開催していたと思うのだけれど、時はバブル経済真っ只中。人々の交通手段がイカダから車になった事もあり(うそ)、いつのころからかチーム募集の広告を見かけることもなくなった。私の中ではイカダが沖に出てだんだん小さくなり、そのまま帰ってこないみたいなイメージだ。今、劇的に復活(帰還)したら面白いのにな。


二〇二〇年 春〜夏

僕は大六海岸に面した場所で、週末だけ開ける飲食店を経営している。自宅は対岸に見える三浦半島にあるので、東京湾フェリーを便利に使って頻繁に行き来していた。それがコロナウィルスの感染拡大防止のため、県をまたいでの移動を控えるよう通達が出てからは、必然的に大六に居る時間が増えた。店は休業とした。その時間を昨年の台風で被害を受けた屋根や窓ガラスの修復作業期間に充てた。被災直後から仲間の善意に助けられ、長らくブルーシートで養生していたが、やっとまとまった時間が取れ、修理を完了することができた。台風の被害を受けたのは昨年が初めてではない。二〇十七年の秋、店のオープン一ヶ月前にも台風による高波と強風で屋根が飛び、外壁を押し破り波が建物内まで入った。置いてあった車も飛来物によりボンネットがへこみ、フロントガラスが割れた。いろいろあるのだ。そんな思いをしているのに、何故ここで店を続けるのか、自分でも考えてしまう。それはやっぱりここが一番だと思うからに他ならない。荒れ狂う時もあるけれど、人も車も無い昼下がり、風も吹かず波もなく、キラキラと輝く海面の向こうには三浦海岸、そしてその向こうに富士山が見える時、一瞬時が止まるんじゃ無いかと思うほどだ。八月ももう下旬。マンションの影も少しずつ長くなり、砂浜で遊んでいた人達もどこかへ消えた。夏の天気は変わりやすい。通り雨だ。掃除して開け放してあった店の窓を閉めに走った。

撮影:田村 仁 平成二十七年

心のオアシス

柳亭 市寿 落語家


 「えー、落語家には身分制度というものがありまして、入門すると下から、見習い・前座・二ツ目・真打・そして、御臨終…」
落語家は、噺に入る前にこんな導入(=まくら)を話してお客様のご機嫌を窺います。御臨終は洒落ですが、実際この身分制度が色濃く残っているのが我々の世界です。

 私は二〇二〇年現在、二ツ目という身分です。ですから、見習い・前座は経験済み。下積み時代の修行の苦しみはよく分かっています。四年間三六五日、休みなく寄席の楽屋に居て、師匠方のお世話をします。厳しいです。座布団の角度、お茶の温度、挨拶の節度、あらゆる角度から怒られます。時に人生を否定されるが如く。それは辛いです。逃げ出したいけれど逃げ出したら落語家としての未来はないのです。でも、楽屋から逃げなくとも、心だけ逃避行することは、これ人間の自由であります。だからよく夢想しました。心のオアシスを。早朝五時に起きて掃除にかかる前や、こっ酷く叱られた翌日の楽屋入り。その時私がイメージしたのが、ショーン・レノンのInto The Sunという曲でした。海沿いを彷彿させるバケーションソングです。そのイメージしたバケーションのロケーションこそが、私にとっての保田です。ここまでが、まくらです。長くなりましたが、本題に入りましょう。保田は心のオアシスです。

 夢想を繰り返していた前座時代、保田のことは知りませんでした。いつ知ったかというと、今から約四年、前座修行を終え二ツ目になってすぐの頃。落語家は二ツ目になると、今度は芸の修行が始まるという理由で楽屋仕事からは解放されます。すると三六五日、仕事がなければ勝手にバケーションです。無職同様。二ツ目に成り立てで仕事もない私は暇なはずです。しかし、私の場合は二ツ目になってすぐに、結婚して子供が産まれるという、人生の二大イベントを同時に迎え、暇でなくなりました。前座修行を終えたら今度は亭主・父親としての修行が始まったのです。時に師匠のような形相を見せる妻のことは、ここでは割愛しましょう。あとで読み返すのも恐ろしいですから。たじたじ。

 そんなわけで、また夢想が始まりました。そこへ保田文庫からの便りが届きます。ちょうど私が二〇一九年の台風十九号で避難した翌日だったでしょうか。それからしばらくして、また便りが届きます。時にそれは保田文庫の「本」や「音楽」に姿を変えて。そして、そのうちの一冊『きすがうら日録』を読みながら再び夢想したのが、未知の保田。海の見えてくる文章でした。ゆるやかで、のどかで、あわてていなくて。それから、ショーン・レノンのInto The Sunを久しぶりに聴きました。都内の自宅の一室で、我が子がようやく寝付いた脇に腰掛けて、網戸から涼しい風がそよぐ中、遠き保田を夢想しました。生活の疲れから、いっ時の解放がありました。保田文庫の影響で保田が心のオアシスになったのです。

「保田ってどんな処なのだろう?」

その答え合わせが出来たのが二〇二〇年のコロナ禍の夏でした。夢想した保田、保田文庫の本に出てきた過去の人々が息をした景色。そこがどんな素敵な場所かは、これを読む貴方がきっとご存知でしょう。良い夏休みになりました。

 さて、これから二十年後の二〇四〇年。私は落語家として無事真打に成っているでしょうか。順調に仕事をしていれば良いけれど。その頃には娘も縁談の話を持ってきたりして。まだまだ親としての修行が続くのでしょう。でも、心のオアシスが必要になっても安心です。私には保田があります。保田文庫のライフワークもきっと続いていくでしょう。やがて次の誰かにバトンを渡して続く保田の歴史。誰の心にも終わらないバケーションが、ひとつくらいあったって良いですよね。

 話は戻りますが、「寄席」というのはオムニバス形式の興行で、一日のうちに色んな芸人が出てきます。落語は続けて聴いていると疲れるので、合間に手品、曲芸、紙切り、音曲、漫才等のいわゆる「色物」芸人が出てきて、頭をリセットしてくれます。何事も息抜きは大事ですよね。心にはオアシスが必要です。保田は心のオアシスです。お後が宜しいようで。

鋸山にさわった日のこと

前田 和奏  鋸南小学校三年


 わたしは、吉浜のきすがうらにすんでいます。毎朝、学校のスクールバスをまつときに鋸山が見えます。まい日見ているので、山の葉っぱの色がきせつごとにかわるようすがわかります。バスで学校から帰ってくる時は鋸山の全体が見えます。わたしは小さい時から鋸山のすがたを見て、大きくて、強そうな巨人がねっころがっているような感じがしていました。
 まだわたしが、ようち園生の年長だったころのこと。ある日、保田のようち園から帰ってきて家で遊んでいると、きゅうにパパが「鋸山をさわりに行こう」と、言いました。きゅうに言われたので、ことわろうとしましたが、パパに「めったにできない事だから。」と言われたのでしかたなくついて行きました。鋸山のふもとのかいがん広場に車をとめて、すな浜におりました。すな浜のいきどまりにはもう鋸山がそびえ立っていました。わたしがこのすな浜に来たのは、初めてでした。パパと二人で鋸山の大きな岩のかべに向かって走っていきました。

 近づくごとにかべは大きくなっていきました。かべの前につくと、パパが「それではさわってください!!」と言いました。わたしはそう言われて目の前の岩はだを、さわってみました。すると、さわった部分のすながボロボロとひとさしゆびにくっつきました。

 これは、わたしにとって「しょうげきてき」なことでした。いままでは、がんじょうそうで大きくて強そうな山だと思っていましたが、さわってみるとかんたんにくずれてしまったのです。イメージとはちがっていたので、おどろいてしまいました。

 わたしは、鋸山はこれからもずっとあるんだろうと思っていましたが、あんなに簡単にくずれてしまうのだから、海からのなみがたくさんあたったら、あの大きな鋸山だってもしかするといつかは無くなっちゃうのではないかと思いました。

 そのあとは、すな浜で写真をとったり、パパは小川におちていた重たそうな、しかくい大きな石をひろったりして遊んで、家まで車で帰りました。

鱚ケ浦・滴水居にて

前田 宣明  保田文庫主人・旅館勤務


 保田の南にある鱚ヶ浦きすがうらの界隈は、大正時代から学者や教育者、実業家などが好んで別荘をかまえたところです。古い別荘がある景色の良い海岸で、今も新しい別荘が建てられたりします。私の家の向かいにある別荘は今から九〇年くらい前に建てられたものです。私の家とこの別荘との関りは、五〇年くらい前にさかのぼります。主不在の間、祖父が車を置かせてもらう代わりに枝木を払ったり窓を開け放ったりと世話をしてきました。祖父がやる前はかつてとなりに住んでいたお爺さんがやっていたといいます。いわゆる「別荘番」というやつです。今ではあまり聞かなくなりましたが、古別荘地らしい別荘人と地域民との関わり合いです。現在は私と父で、旺盛に伸びる別荘の庭木を、時折払ったりしています。
 私は幼い頃から別荘の庭で作業する祖父の傍らで遊び、たまに別荘に同世代の子どもたちが来ると妹と遊びに行ったりしました。中学校に上がる頃、自宅を建て替えるときには、別荘を借りて一家で冬の数か月を暮らしたこともありました。当時私は「この別荘はだれがなぜ建てたものなのか」という疑問を覚えました。家が出来上がった後、向かいの別荘は、ごく身近に佇む謎めいた景色に見え始めました。

 私はこの数年来、保田文庫という名前で、今から一〇〇年くらい前の海水浴地・保養地として親しまれた保田地域の記憶や記録を調べ、数冊の本を作ってきました。この取り組みの発端は、かねてから抱いていた向かいの別荘への疑問を主の方々に尋ねてみたことでした。二〇一〇年の夏のこと。私は別荘に来ている二組のご夫婦を訪ねました。皆さんは私の質問を歓迎してくださって、快く別荘のいわれを教えて下さいました。
 この別荘は皆さんの祖父である小泉まことという著名な生物学者(慶大医学部教授)が建てたもので、昭和八年頃に長野から移築されたものであること。別荘には「滴水居てきすいきょ」という名がついていること。そして、小泉丹が別荘に来た時だけに綴った昭和十年からの私日記『保田日記』の存在を教えてくれました。ちょうどその頃皆さんは、小泉丹の存在をこの別荘に遺そうと、同氏が生前に使っていた杖や写真を壁に飾られ、慶大からデスマスクを譲り受けてこられていたのでした。
 保田日記を読み始めた私は、同時に当時の事を知っていそうな地元のご老台に話を聞いて回るようになりました。数年そのようなことを続けた結果、旧保田町が避暑地として栄えていたころの様子がわかってきました。町外れの静かな鱚ヶ浦界隈は多数の別荘が構えられたところで、別荘人と地域の人たちとの交流なども見えてきました。二〇一七年には保田日記に地域史的な解説を付けた『注訳 保田日記』という本を作り、町の図書室に寄贈しました。足で集めたこの界隈の記憶や記録を滴水居の存在と共に一冊の本としてとどめておきたいと考えたからです。

 五月の連休前と八月のお盆過ぎになると、厚木と西東京にお住いの八〇歳前後の二組のご夫婦が別荘にやってきます。私に別荘のいわれを教えて下さったみなさんです。奥様のお二方は小泉丹の孫娘で、幼い頃から家族で毎年ひと夏をこの別荘で過ごしました。朝起きて勉強をして、昼寝をして二時から海に遊びに行く。三和土たたき仕上げのベランダは裸足で過ごせるようにきれいに雑巾がけをして、そこで自炊するという、規則正しい日々を送っていたといいます。台風の波が来ると、下の海で近所の子どもたちと洗濯板で波乗り遊びもしたといいます。ご主人方もおよそ六〇年来この別荘に来ておられます。

「みんなそろって後期高齢者になりましたけどね、あぁ、またこうして保田の家に来れたんだなって思って過ごすんです。このあたりのよさはね、俗っぽくない美しさなんですよ。だから、昔から人に好まれて、別荘も多く建てられてきたんでしょう。」

皆さんにとってこの別荘と保田は思い出深い特別な場所なのだと感じます。

 皆さんが来る頃になると、父と庭の草木を刈って、私は庭や家の中の掃き掃除をしたりします。別荘は来ただけでも掃除で終わってしまうとよく聞きますから、すこしでも楽になればと思って箒をふります。普段の夜には真っ暗なところに灯がついて、楽しそうな笑い声が響いているのを見ると、私は嬉しい気分になります。不思議なもので、主のいる別荘で過ごしていると建物自体が生き生きと、笑って喜んでいるかのように感じられます。
 私は皆さんが滞在中の別荘にちょこっとお邪魔して、保田文庫の近況報告やその他もろもろお話するのを楽しみにしています。皆さんとの会話は、毎度その節々に、ためになることがたくさんあります。それに触れたいがためにお邪魔すると言っても過言ではありません。別荘での会話の中で学んだことはたくさんあって、ここでは書ききれませんが、二〇一二年の夏に聞いたこんな一言が印象に残っています。

「今の世の中は六十年以上前の私たちが学生だった頃とは全く情報量がちがうと思うんです。政治的にもいろいろなことが開示されるようになったし、言論の自由もある。若い人も沢山の情報に触れることができる。知りたいことを調べようと思えば、調べる「手段」がある。あの頃より、人間が人間らしくいられる時代で、社会は確実に良くなっていると思います。だけど、一方で情報が過多の時代でもあると思うんですよ。大切なことはね、その情報を本当に受けとれているかなの。それからもう一つは、今自分がもっている宝物に対して、その価値に気づくことができるか。宝物というのはただ単に持っているだけでは意味がないものでしょ。活用してこそ宝物になるんですよ。活用するには自覚がないとできないんです。そういう宝物に気付くには、無い無いという視点でなしに、ひょっとしたら持っているんじゃないか?というのが大事だと思うんです。だから、宣明さんのように自分の生まれ育った場所の事を自分から調べて表現するというのはとっても今の時代に大切なことだと思いますよ」

 私は、幼い頃から身近に親しんだ別荘のいわれを知ったことで、今まで見えていなかった地域の豊かな姿に気づく事が出来ました。それはいつしかこの土地に生まれ育ったことへの矜持となりました。滴水居の存在と主の皆さんのご好意のおかげで、私は大切なものに気づく事が出来たと思っています。

撮影:江田晃陽 昭和二十七年

さいごに

 本書を作ろうと思ったきっかけは、二冊の文集に出会ったことでした。最初の一冊は、いまから十数年前、栃木県の黒磯にあるカフェに一人で出かけた時の事でした。たまたま入った飲食店で置いてあった文集を手に取りました。那須や黒磯近辺の「那須野が原」に暮らす若者数人が、日常の思い出や雑感を記したものでした。翌日その文集を目当てのカフェで読みました。一つ一つの文章から、この街のどこかに生活する書き手のことが想像されます。いち旅行者でありながら、一歩深くその土地の息づかいを感じれた気がしました。以来、こういうものが自分の生活する場所で作れたらと思っていたのでした。
 もう一つは、今年のこと。いつも保田の昔の事を話してくださる元名の古老・山﨑源治さん(八十四歳)から、昭和七年に保田小学校と保田尋常高等小学校の児童たちが書いたという文集を見せていただきました。『楽土の保田』という名で、地域の児童たちが自らの生活の一コマを綴り、我が町の事を誇らしげに記していました。この文集は戦前に海水浴地・避暑地として賑わった保田において、その最盛期を迎える頃に作られたものです。避暑客で賑わう保田の町に幼少期を過ごした山﨑さんは、「これを読むと涙が出るんだ。昔の人たちが頑張ってくれたからこそ今がある」と言って私に手渡しました。

「東京の人が皆この保田町に入って来るようになったのも、保田町の人がそれぞれ親切にしたからでしょう」
「このような土地保田に生まれた私達は心を一にして益々よい保田にしましょう」

 九十年前の児童たちが書き残した言葉に触れた私は、目が覚めるような思いがしました。二つの文集を読み返すうちに、保田という土地に縁ある今の人たちの「記憶」や「想い」を、私なりに残しておきたくなったのでした。今の自分にとって当たり前の事であっても、ひょっとしたらこの先何十年かして、誰かが何かを感じ取ってくれるかもしれません。本書に収められた一つ一つの文章は、個人的な思い出や雑感でありながら、この土地の永遠の中にある「今」なのです。
 改めまして本書にご協力くださった皆様に心よりお礼を申し上げます。

保田文集

2020年9月20日 発行 初版

編   :保田文庫
発  行:保田文庫出版

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