この本はタチヨミ版です。
其の一
其の二
其の三
其の四 ~オフィスにて&閑話休題。~
其の五
其の六
其の七 ~オフィスにて&閑話休題。~
其の八
其の九
其の十 ~オフィスにて~
其の十一 ~源典侍日記~
其の一 ~オフィスにて&閑話休題。~
其の二
其の三 ~第三回平安女子会@二条院~
其の四
其の五 ~中将のおもとが語る@六条邸~
其の一 ~オフィスにて&右近靫負手記~
其の二 ~オフィスにて&閑話休題。~
激しい雷雨は一向に止むことなく数日が経った。外出どころか外を覗くことすらままならない雨風の激しさ、閉め切っていても耳をつんざく雷に脅かされる毎日では、さすがに気も滅入ってくる。
「いつまでこんな状態が続くのだろう。いっそ都に帰るか?……いや、赦免もないのに帰っても物笑いの種になるだけだ。思い切ってもっと山奥に入って姿をくらましちゃう?……いや、ダメだ。ヒカル大将って、雨風雷が怖くて逃げ出したんだってよ! ダッサ! なんて噂になったら末代までの恥……」
考えたところでどうにもならないのだった。
夜も嵐の音で熟睡できず、眠りが浅いせいか悪夢ばかり見る。例の物の怪が、夜ごと自分を探して歩き回るのだ。顔は見えないのに、いつも同じ奴だということだけはわかる。薄気味悪いことこの上ない。
朝から晩まで雲が切れる間もなく過ぎ、手紙も、訪れる人も絶えた。
「京にいる人たちは大丈夫なのだろうか」
何も情報が入らず心配しているところに、二条院からの使者が濡れ鼠で参上した。荒天の中無理をおして危険な旅をしてきた使者は、もはや人の姿とも見えないほどにぼろぼろの状態である。普段のヒカルならば近寄るどころか、視線を向けることさえためらうような風体だったが、
「こんな中わざわざ京から……気の毒に。よくぞ来てくれた」
と手放しで歓迎し、労い、傍に置いて報告させる。手紙は紫上からだ。
「悪天候が驚くほど長く続いています。まるで空までが塞がってしまうようで、気も晴れようがありません。
須磨の浦ではどんなに激しく風が吹いていることでしょう
心配で袖も涙で濡れそぼっています」
懐かしい筆跡から悲痛な思いが立ちのぼる。愛しさに胸が一杯になり、目もくらむ心地がする。ヒカルの御前に召し出された使者は極度の疲労と緊張からか、つっかえつっかえしながら混乱する京の様子を詳細に語る。
「京でも、この暴風雨は不可解な天の啓示である、臨時の仁王会を催すべきだ、などと噂しています。内裏へ通じる道が全て塞がってしまって上達部がたも参上できず、政事も途絶えています」
「長雨はこの季節よくあることですが、これほど強い雨風が何日も続くことはなかったので、皆ただ事ではないと驚き騒いでおります。地の底まで貫きそうなひょうが降ったり、雷がひっきりなしに鳴り続けたり、まことに、このような酷い天候は初めてでございます」
本気で怯えている様子の使者に、改めて背筋を寒くする一同だった。
京の都すら尋常でない有様と知り、本当にこの世が終わるのではないかと皆が不安を募らせた、その翌日。明け方からいっそう酷く荒れ出した。強く吹きすさぶ風、高く満ちた潮がごうごうと打ち寄せる音は、どんな巌も山も消え失せそうな勢いだ。雷が鳴り閃くたびに「それ落ちたか!」とばかりに皆が驚き騒ぎ、右往左往する。
「一体我々がどんな悪いことをしたというんだ、こんな恐ろしい目に遭うなんて」「父に、母に逢いたい」「いとしい妻や子の顔が見たい」「こんなところで死ぬのはいやだ」
泣き喚く供人たちの中で、ただヒカルだけは強気に構えていた。
「私には、こんな辺境の渚でむざむざ命を落とすほどの咎など無いはずだ」
が、騒ぎがあまりに止まないので、神に向い様々な幣帛(供物)を奉り、数多の大願を立てた。
「住吉の神よ、この近辺を静め守りたもう神よ、まことこの世に姿を現す神ならば、我らを助けたまえ」
その力強い声と姿に心を奮い起こされた幾人かが、
「そうだ、我らの命はともかく、このような尊いお方を嵐なぞで死なせるわけにはいかぬ!」「我々の身に代えてこの御身一つを救いたてまつらん!」
と声を響かせ、残りの者も続いた。
「帝王の深き宮で生まれ育ち、様々な享楽にふけり驕るも、その深き慈しみは大八州にあまねく、沈む輩を多く引き立てた」
「今、何の報いか、この横ざまにたたきつける波風に溺れんとす。天よ地よ、そこに理はあるか。罪なくして罪に当たり、官位を取られ、家を離れ、都を去り、明け暮れ安らかな空なく嘆きながら、更にこのような難儀に遭い、命尽きようとせんとは、前世の報いか、現世で何ぞ罪を犯したか。神仏が確かにあらせられるなら、この災厄を鎮めたまえ」
全員揃って住吉の社を拝し、声を上げた。
さらに海龍王や他の神々に願を立てたその瞬間。
目もくらむような閃光と轟音が同時に空を切り裂いた。
海側に突き出した渡殿が火を噴き、燃え上がって、あっというまに焼け落ちた。身の毛もよだつような高波が襲いかかる。全員、慌てて海から遠い裏側の大炊殿に逃げ込んだ。もはや身分の上下を気にしている場合ではない。狭い所で押し合いへし合いしながら泣きわめき、叫ぶ声は雷鳴をもしのいだ。
空は墨をすったように真っ黒なまま、その日は暮れた。
風も雨も徐々に収まり、やがて止んだ。何日ぶりだろうか、夜空に星が輝きはじめた。
「ヒカルさまの御座所どうする? さすがに狭すぎて作れなくね?」「皆と雑魚寝は畏れ多いよね」「元の部屋がある寝殿、建物は無傷なんだからあちらに移ったら?」「いや無理……廊下無いし、地面は大勢で踏み荒らしたから泥でグッチャグチャ。御簾とかお道具とかも全部吹き飛んじゃった」「明るくなったらにしよう、危ないから」
すっかり落ち着いた様子の供人たちが、ああだこうだと後始末を算段している間、ヒカルはひとり念誦しながら思いを巡らす。平静を装ってはいるが、心中はまだ波立っていた。
月が昇った。柴の戸を押し開けると、潮がすぐ近くまで満ちた跡があらわに残っている。まだ嵐の名残ある荒波を眺めながら、つくづくとこの異変は何だったのか、誰か解き明かしてくれないものかと考える。
大炊殿の周りに、みすぼらしい海人たちが寄り集まっている。建物もしっかりしていて人も多いこの場所に避難してきたらしい。地元の言葉で判然とはしないが、
「この風がもう少し長く続いていたら、潮がもっと高く上って全てをさらってしまったろう。神のご加護は相当なものだった」
などと言っているようだ。ヒカルは身震いしながら詠む。
「海に鎮座する神のご加護がなくば
潮の渦巻く遙か沖合に流されていただろう」
昼日中激しく煎り揉みしていた雷と火事騒ぎで、気を張り続けたヒカルは疲れ切っていた。狭い大炊殿に申し訳程度にしつらえられた粗末な御座所で、柱に寄りかかりながらついうとうとする。
誰かが呼んでいる。懐かしい声、この声は……
「なぜ、このような見苦しい場所にいるのだ」
亡き父、桐壺院であった。生きていた時とまるで変わらぬ姿で目の前に現れて、ヒカルの手を取り立ち上がらせる。
「住吉の神のお導きに従い、疾く舟を出しこの須磨の浦を去れ」
ヒカルは嬉しくなって応える。
「なんと、畏れ多い……父君の現身にお別れ申して以来、さまざま悲しいことばかり多くありましたので、いっそ今すぐこの渚に身を投げてしまおうかとも思っていました」
「とんでもないことだ。これはほんの軽い報いなのだよ。私は在位中に過失はなかったが、知らず知らず犯した罪を償う必要があった。だからこの世を顧みる暇がなかったのだが、お前が大変な難儀に沈んでいるのを見るに堪えず、こうして海に入り渚に上ったのだ。おかげでひどく疲れてしまったが、この際内裏にも奏上すべきことがある。急ぎ京に上るつもりだ」
故院は言い終わるや、立ち去ってしまった。
「待ってください、お供します! 一緒に都へ!」
叫んだところで目が覚めた。涙に濡れた顔を上げると、辺りには人影なく、波の面に映った月がきらきらと揺れている。夢とも思えず故院の気配を探したが、空は梳いたような雲がたなびくばかりだった。
ここ数年は夢の中でも逢うことは無かった亡き父の姿を、束の間だがはっきりと見て、話までしたのだ。ヒカルは嬉しくてたまらない。
「これほどの辛酸をなめ、命も尽きようとしていた私を助けに、天翔けていらしたのだ」
あの酷かった大嵐さえ、故院を招き寄せたと思うとしみじみ有り難く、得難い経験のように感じられた。
「もっと話をすればよかった。もう一度お逢いしたい」
現実の辛さは消し飛んだ。代わりに胸が騒いで眠れない。どうしても瞼が落ちないまま、ついに夜は明けた。
須磨の渚に、二、三人ばかりが乗った小ぶりな舟が寄せてきた。誰かと問えば、
「明石の浦より、前の播磨守の新発意が支度し参上した舟にございます。源少納言殿がこちらに伺候しておいででしたら、面会して事の仔細を申し上げたいので、お取次ぎを」
という。源少納言とは良清のことである。呼ばれた良清は驚いてヒカルに伝える。
「前の播磨守の明石入道は、播磨国での知己として長年親しく付き合ってきましたが、私事で行き違いがあってから、手紙さえ通わせないまま久しくなりましてございます。この荒波に紛れて何用なのか……」
ヒカルは夢で故院に言われたことを思い出す。
「住吉の神のお導きに従い、疾く舟を出しこの須磨の浦を去れ」
もしやこれがそのお導きか、と察したヒカルは、良清に今すぐ会うよう命じた。良清は早速舟に向い、尋ねた。
「昨夜まであれほど波風が激しかったというのに、いつの間に船出をしたのか?」
「去る弥生の朔日、夢に異形のものが出てお告げをするということがございました。信じがたきことと思われるかもしれませんが、
『十三日に新たな霊験を見せよう。舟を支度し、雨風が止んだら必ずこの須磨の浦に寄せるように』
という予言にございます。半信半疑で舟を用意して待っておりましたが、本当に激しい雨、風、雷が起こりまして、これは本物であろうと……異国の朝廷でも夢を信じて国を助けるという例は多くございますし、たとえヒカルの君が取り合わなくても、この予告の日を過さず由をお知らせ申しましょうと思い舟を出しましたところ、急に風が細く吹き出して、あっという間にこの浦に着いた次第です。まことに、神のお導きは間違いがございません。此方でも、もしやお心当たりのこともございましょうかと存じます。大変恐縮ですが、この由を残りなくお伝えください」
良清から話を聞いたヒカルは、あまりの符号の一致に驚きつつも考え込んだ。夢も現実も扱いが難しい。無暗に飛びつくのは得策ではない。
(うーん、どうするかな。夢を真に受けて神様のお告げ通り行動した、なんてことが知られれば世間にドン引きされること確実だけど、ホントに神様からの助言だったのに人聞きを気にしてスルーして、結果悪い方に転がっちゃったりしたらますます愚かだよね)
(まして生きてる人間の意向に沿うのってどうなの? しかも赤の他人。年齢が上とか、もしくは位が高いとか、時流に乗ってブイブイ言わせてるとかなら、少々のことは目をつぶってもとりあえず従っとこうか、もアリだろうけどそんな感じでも無さそうだし。『引いとくのが無難』って昔の賢人も言い残してるよね)
(とはいえ、一回死んだみたいなもんだしなあ自分。今更、後の世でどうのこうの言われるかもってだけでビクビクするのもどうよ? 何より夢の中で父君が仰ってたことと同じだし、疑う余地なくない?)
ヒカルは心を決め、良清に言付ける。
「見知らぬ世界で、この上ない艱難辛苦の限りを見尽くしてきましたが、もう都の方から安否を尋ねて来る人もおりません。ただ遙かな空の、月と日の光だけを故郷の友として眺めている私には『うれしき釣り舟』でした。明石の浦で、静かに隠れて過せるような場所はありますか?」
※浪にのみ濡れつるものを吹く風の便りうれしき海人の釣舟(後撰集雑三-一二二四 紀貫之)
使者はたいそう喜んで、畏まり申し上げる。
「とにもかくにも、夜が明けきらないうちにお乗りください」
急かされて、いつもの側近四、五人ばかりを供に乗船した。
例の風がまた吹いて、飛ぶように舟は走り、明石に着いた。もとより這っていけそうなほどの距離とはいえ、やはり不思議な風の働きであった。
明石の浜は、須磨とはかなり印象が異なる場所だった。隠棲するには人の往来が多すぎるようにも見える。入道の所領地は海辺にも山奥にもあり、四季折々に趣深い佇まいをみせるであろう渚の苫屋や、来世を思い澄まし勤行三昧に相応しい山水のほとりの厳かな堂、秋の田の実りを刈り収め、余生をまかなうに十分すぎるほどの稲倉。それぞれ季節や立地に応じた見所があった。
舟から牛車に乗り換える際には日も高くなった。
「近頃は高潮を恐れて、足手まといになる妻や娘などは高台の邸に移しております。皆さまはこちらの館で気楽にお過ごしくださいませ」
明石入道は、車から降りるヒカルの姿を垣間見ただけで、老いを忘れ寿命も延びるような心地がして、思わず頬を緩めた。
「まるで月と太陽の光をともに手に入れたようだ。住吉の神よ、まことに有難うございます。大事にお世話申し上げようと思います」
浜辺の館の景観はいうまでもなく、入道がこしらえた木立、立石、前栽、入り江の水など、得も言われぬ趣向を凝らしており、経験の少ない絵師ならばとうてい描き尽せないと思われるほど精緻で多彩だった。ここ数か月住んだ須磨の屋敷より格段に明るく、好もしい。部屋の装飾なども立派で、生活の場としてみても、都に住む上流貴族のそれと少しも変わらない。むしろ、優美さときらびやかさの点では勝っているようにも見えた。
「ねえねえ侍従ちゃん!」
「なあに右近ちゃん、珍しいねそんな慌てて」
「ちょっとこっち来て」
部屋の奥に引っこむ。
「兄から手紙が来たんだけどさ。……王子、明石に移ったらしいよ。元播磨守の、出家した人のお邸に呼ばれて」
「エっ?! マジで? 須磨のお邸は? もしかしてこの間の嵐でどうかなった?」
「渡殿に雷が落ちて焼けちゃったみたい。建物は無事だったけど、王子クラスの人が住める状態じゃないんだって。明石の方はすごい豪邸で、王子一行は完全お客様扱いで超もてなされてるらしい」
「明石の、元播磨守……で出家した人? 何か聞いた事あるような無いような……」
「明石の入道って言われてて、妙齢の娘さんがいるんだけど地元の男になんてやらない! 大願があるから! って感じの人らしい。『若紫』の冒頭でちょっと出てた話ね」
「思い出した!『諸国ぶらり旅ばなし』ね、娘さんに言い寄ろうとしたけど父親にブロックされて玉砕ってやつ」
「そうそうそれそれ。まあつまり、王子にターゲットオン! したってことよね。わざわざ舟で迎えを寄越したくらいだもの」
「えええ……マジか。そりゃ王子みたいな超絶優良物件来たらよっしゃ絶対ゲットー! ってなるよね親御さんからしたら。あーああー羨ましい! アタシも早いうちに押しかければワンチャン……」
御簾がふっと揺れた。
「速いわねえ情報が。さすがは典局さんの配下だわ」
「あっ王命婦さん!」「またいいタイミングで現れるわね。てかもはや顔パス状態ねここじゃ」
「ふふ。嵐で滞ってたお手紙やらなんやら、ここ数日でまとめて届いたものね。ほぼ例の報告と同じタイミングで入道の宮さまにもお返事が来たわ。九死に一生を得ました的な内容だったけど、あながち誇張でもなかったみたいね」
「そういえば、少納言さんのところにも来たって言ってた! 二条院から出た使者さん、紫上宛のながーい手紙と、ご褒美やらお土産やら山と抱えて帰ってきたって!」
「京も相当凄かったものね。屋根飛ばされてた家も結構あるし、内裏も北側はまだ水が抜けてない」
「その内裏だけど、上つ方はちょっと不穏よ?」
「えっ」「どういうこと?」
「今、仕事らしい仕事ってある?」
「えっと、典局さんからはこの際だからお部屋の大掃除と文書整理しといてって……嵐でお籠り状態の時から継続してるけど」
「そもそも典局さん、殆どここにいないわね。どこかに呼ばれっぱなし」
辺りをそっと見回す王命婦。さらに声をひそめる。
「実はね、ご病気なのよ。朱雀帝が」
「えええ?」
「何で? 特にコロナも何も流行ってないよね? 何の病気?」
「呪い」
「ひっ」
「……っていうか祟り?って噂。まだごく内々だけど、じわじわ来てる」
「どういうこと? 何の祟り?」
「嵐の最後の日、十三日かな。一番雨風が酷かった夜、帝の夢に故桐壺院が現れたらしい。凄い怖いお顔で御前の階段下に立ってたんだって。それ以来、帝の目がどうもおかしい、見えにくい……もしや、夢で睨まれた目と目が合ったからではないか?」
「それはまたオカルトチックな……」
「王子の件で怒ってらっしゃるのでは……って帝は思われて、大后さまにもそう話したけど、
『あれ程酷く雨など降り、空が荒れる夜は、思い込んでいることが夢に現れるもの。軽々しく驚いたり怖がったりするものではありません』
なんてけんもほろろ」
「うわ、さすが本家イタコ技! クリソツう」
「まああの方ならそう言うわよねえ」
「そうはいっても、具合の悪いのは本当だから物忌して、加持祈祷も内裏と大后の宮でしょっちゅうやってるみたい。だけど今のところはかばかしい効果はなし」
「えっやばい。マジで祟りなんじゃないの?!」
「って思うわよね。それがいけないのよね、帝は繊細な方だから。大后さまの言ってることの方が正論、気の持ちようで本当に病気になることってあるからね。でも一旦そうなっちゃったら正論じゃ治せない。帝が本当の所何を望んでるかだわね」
「えっ右近ちゃんちょっと待って? 帝って元々王子大好きだよね。じゃあ、ワンチャン王子が赦免ってことアリ?」
「お二人ともさすがだわ。ええ、まさにそういう目が出て来た。ただ大后さまは許さないでしょうね」
「ああ……途端にすべてのフラグがへし折れる感……」
「わかる。あの方がいる限り無理っぽい」
「ともかくも要チェックよ、内裏の動向には。あの嵐以来、明らかに運の向きが変わった気がする」
「確かに。王子、今すごい充実してるみたいだもんね明石で」
「明石入道はね、王子のお母様といとこ同士でお家柄が良いのよ。六十歳くらいで、年齢なりの衰えもあるし頑固なところもあるけど、日々勤行三昧で節制してるから見た目シュっとしてて清潔感ある上に、品格もあって頭も切れる。王子相手にみっちり講義できるくらい故事に詳しいらしい」
「それはすごい。王子だってかなりのレベルの知識人でしょ。それが対等どころか教えを請う相手って京にもそうそういないんじゃないの?」
「あああ! もうダメ! 王子、外堀埋められてる感ある。ハイクラースな一族、ハイセンスな居住空間、ハイレベルな知的環境に加え、こんな田舎にこんなイイ女が! 的な要素まで揃いぶみって、もう落ちてるも同然じゃないのコレ」
「侍従ちゃん、慧眼ね。今のところ家は海辺と山とで別にしてるらしいけど、まあ時間の問題よね。あからさまにグイグイ売り込んだりはせず、娘の先行きが心配(チラッ)って事あるごとに愚痴ってるそうよ」
「情報を小出しにすることでいっそう王子の好奇心を煽るわけね。年の功ともいうべき高等テクニック、さすがだわ。ファンになっちゃいそう」
「右近ちゃんたらホントおじさん好きなんだから。ていうか完全お爺さんじゃんこのヒト」
「ほっといて☆」
閑話休題。
さあ面白くなってまいりました、ヒカル大逆転の巻がここから……の前にちょっと反省をば。
ヒカルの側近、良清朝臣についてです。
惟光に次ぐ昔からの忠臣にも関わらず、これまで殆ど名前の出てこなかった良清。「若紫」で明石入道の娘に言い寄って振られる話をした家来であったということが「須磨」でようやく明らかになります。しかも私、すっかり勘違いをしてました……「若紫」時には蔵人だった良清、自身が「播磨守」という役職に就けるはずもありません。「播磨守」は良清の父であり、赴任先に同行したということです。よくみたら「播磨守の子」という記述ありましたわ……すみませんすみません。臥してお詫び申し上げます。
平安時代の常として、本名を明らかにすることは滅多になく、官職名や出身地・赴任先の地名などで呼んでいました。なのでこの時点で良清も「播磨」をつけて呼ばれていたという可能性はなきにしもあらず……と苦しい言い訳。ええい、紛らわしいわ平安の呼称のバカバカ(やつあたり)。
ここでいう「守」はいわゆる「国司」ですが、これは通常「中流貴族」の仕事で、一定の任期を勤めあげると都に戻ります。ところが明石の入道は「上流」であったにも関わらず国司を志願、しかも都に戻らず赴任先に居を置いた。代々の国司の間では異色であり別格、その立ち位置をあくまで堅持していました。高コストな上に超絶倍率の高い宮仕えレースにははじめから参加せず、地方に引っ込み千載一遇のチャンスを待つ。良清さんには酷な話ですが、最初から狙いはヒカルだったのだと思います。
四月(現代でいう五月)になった。衣替えの季節である。明石入道は、ヒカル一行の夏用装束や御帳台の帷子など風流に誂え、万事完璧に整える。さすがに
「やりすぎじゃない?」
と困惑するヒカルだが、相手があまりに毅然と構えているので口を挟めない。
京からもひっきりなしにたくさんのお見舞いの手紙が届く。のどやかな夕月夜、海面は見渡す限り一点の曇りもない。住み馴れた都の池水と重ね合わせて郷愁にかられ、思いは何処へともなく彷徨い出る。その目の先には遠く淡路島が霞む。
「あはとはるかに、か。
※淡路にてあはとはるかに見し月の近き今宵は心からかも(新古今集雑上-一五一五 凡河内躬恒)
躬恒も詠んだ淡路の島、湧き上がる気持ちまで
いっさいを隈なく照らす夜の月」
長いこと手を触れなかった琴を袋から取り出し掻き鳴らす。静かな夜の琴の音は、供人達の心にも響く。
「広陵散」という曲を、技巧の限りを尽くし一心に弾く。その音色は松風の響きや波の音に交じって岡辺の邸へ届き、心得ある若い女房達がうっとり耳を傾ける。何の音とも聞き分けられそうにない賤しい山人どもさえ、そわそわと誘い出されて浜風に吹かれる。
明石入道もついに我慢しきれなくなり、供養法を中断し急ぎ参上した。
「まったく、一度背を向けた俗世に改めて引き戻されそうでございます。今宵のこの妙なる音、来世にと願う極楽浄土もかくやと……」
涙ぐみながら絶賛する。
ヒカルの脳裏にも、あの四季折々の管弦遊びがよみがえる。琴、笛、うたう声、そのひとつひとつに向けられる、帝をはじめ数多の人々の熱いまなざし、声にならぬ声。我が身も他人も、誰彼となく目に浮かぶ。夢心地のまま掻き鳴らす琴の音は凄まじく、人の心を揺さぶった。
老入道は感動の涙に濡れながら、岡辺の邸に琵琶や筝の琴を取りに遣る。自身は琵琶法師となり珍しい曲を一つ二つと弾き出した。こちらもかなりの腕前だ。
遮るもののないこの広々とした海面と、瑞々しい緑に繁る木立。春の花や秋の紅葉の盛りの頃にはない美しさだ。水鳥が水面を叩く音も実に風流である。さほどでもない楽の音でも三倍増しに良く聞こえそうなこのシチュエーション、まして名手の音色ならば尚更であった。
ヒカルが差し出された筝の琴をつまびくたび、入道は唸る。二種類の琴をそれぞれ難なく弾きこなすその腕にはただ驚嘆するばかりである。
「良いね。この琴、色っぽい美女がくだけた感じで弾くのが似合いそう」
何気なくヒカルが呟くと、入道は破顔して、
「貴方さまほど色気があり且つなよやかに弾ける者など、どこにおりましょうか。それがしは延喜の帝の御奏法を弾き伝えますこと四代、ご覧のとおり俗世とは縁のない身の上になり申したが、折々気晴らしに掻き鳴らしておりました。……不思議にも、それを見よう見まねに弾く者がおり、自然、先帝のご奏法に似通ってまいりまして……いや、それがしなど山伏のひが耳、松風を聞き誤ったのかもしれません。何にせよ、いちどお聞かせ申し上げたいものです、こっそりと……」
終いには声を震わせる。
ヒカルは素知らぬ顔で、
「なんと、そんな名人揃いの所でお恥ずかしい。先に言ってくださいよ」
と琴を押しやって、
「不思議といえば、昔から筝の琴は女性が修得するものだそうですね。嵯峨帝のご伝授で女五の宮が当時の名人でいらしたが、その後は取り立てて継ぐ方もおられない。イマドキの名人と呼ばれる人たちは総じて、特に目新しくもなく、ありがちな自己満足でしかなかったりしますよね。なのにまさか此処でそのような秘伝が残っているとは、実に興味深い。是非とも! お聞かせください」
遂に食いついた。
「もちろんです、何の支障がございましょうか。何なら御前にお召しになっても。商人の中でさえ古曲を愛好した者はおります。琵琶本来の音色を弾きこなす人は昔も少のうございましたが、娘は少しも滞ることなく、その優しい弾き味は格別でございます。どの筋と申しますのか……荒波の音に交じるばかりなのは悲しいところですが、日々何がしか積もる憂いも、慰められる折々にございます」
ここぞとばかり我が娘を褒めちぎる入道。ヒカルはすっかり興味を惹かれ、筝の琴を取り替えて与えた。
明石入道は琴の腕も相当のものだった。今では中々聴きつけない、古式ゆかしき奏法を弾きこなし、手さばきもいたく唐めいて、揺の音が深く澄んでいる。「伊勢の海」ならぬ明石の海だが、「清き渚に貝や拾はむ」とよき声の者に歌わせて、ヒカル自ら拍子を取りつつ声を添える。入道は度々琴を弾きさして褒めたたえる。小洒落た風に盛り付けたお菓子や酒を、供の人々にも大いに振舞い、日々の憂さも忘れ去るような宵であった。
※伊勢の海の 清き渚に しほがひに なのりそや摘まむ 貝や拾はむや 玉や拾はむや(催馬楽-伊勢の海)
夜が更けてゆく。浜風は涼しく入り方の月も澄みまさり、辺りがしんと静まる頃、明石入道の問わず語りが始まった。この明石の浦に住み始めた頃のこと、来世を願う心模様、我が娘の身の上などをぽつりぽつりと話し続ける。ヒカルは面白く聞く一方で、やはり不憫にも思う。
「大変申し上げにくいことではございますが、貴方さまがこの土地に、仮住まいにせよ移っていらしたことは驚くべきご縁、もしや長年祈願し続けた神仏がこの老いぼれを憐れんで、貴方さまに暫しのご心労をおかけしたのでは、とまで思っております」
「といいますのも、住吉の神を祈願申し始めて早十八年目、娘が幼少のみぎりから思う所ありまして、春秋毎に参詣いたしておりました。昼夜六時の勤行にも、自らの極楽往生はさておき、ただわが娘のために高き志を叶えたまえと祈っております」
「宿縁には恵まれず、このような不甲斐なき山人となりましたが、親は大臣の位を保っておりました。自ら田舎の民となり落ちぶれていく一方の今では、行く末も知れず悲しくもありますが、我が娘には生まれた時から頼もしき所がございました。何とかして都の高貴な方に差し上げようと固く心に決めておるものですから、程々の身分の方々からは数多の嫉みを受け、辛き目にも多く遭いましたが、少しも苦にはなりません。命の続く限りは我が狭き衣に包んでやれるが、成就しないまま先立つことがあれば、いっそ波間に身を投げてしまえと申しつけております……」
入道は口ごもり、涙を拭う。
ヒカルはつられて涙ぐみつつ、口を開く。
「無実の罪に当たり思いもよらぬ地方にさすらうとは何の咎か、と訳が分かりませんでしたが、今宵のお話と考え合わせてみると、なるほど浅くはない前世からの宿縁かと納得がいきました。これほど明らかな事の次第を何故もっと早くお話しくださらなかったのですか? 都を離れて以来、世の無常に嫌気がさし、勤行三昧の月日を送っているうち、すっかり気持ちも萎えました。妙齢の娘さんがいらっしゃることは小耳に挟んではいましたが、咎められて都落ちした者など縁起でもないと、切って捨てられていると思っていましたよ。では取り持っていただけるということでよろしいか? 侘しい一人寝の慰めにもなると?」
交渉成立といった体である。明石入道は身を震わせつつ、それでも気丈に詠む。
「一人寝というものを貴方もこれでおわかりになったでしょうか
所在なく物思いに夜を明かす明石の浦の寂しさを。
まして長い年月ずっとこの地で気が晴れる間もなく祈願し続けて来た我等の心をお察しください」
ヒカルはすかさず返す。
「それでも海辺の生活に慣れた人は」
「旅の生活の寂しさに夜を明かしかねて
安らかな夢も見られない
……なんてことはないでしょう?」
私と貴方の寂しさは違いますよ。おそらくお互いに理解はできない、たとえ娘さんと契ったとしても。
酔っていたとはいえ、子供のように拗ねて絡むヒカルは、既に明石入道の術中に嵌っていたのだろう。
翌日。ヒカルはいつになくスッキリ目覚めたばかりか、妙に気持ちが清々しい。
(昨日の話……願掛けだの神の導きだのって鵜呑みにするわけじゃないけど、ああいう風に言われると何か安心するよね。まあ坊さんって要はカウンセラーだし、あの入道は特に学識が深いから説得力半端ない。これが必然の運命なら、もう身を任せるっきゃないね)(アレだ、『雨夜の品定め』の、こんな所にこんな素敵な女性が! ってやつ。よーし久々に気合入れるか!)
とばかりに、昼頃かの岡辺の邸に手紙を出した。選んだ胡桃色の高麗紙はとっておきの逸品で、文字の配置も墨つきもこの上なく趣向をこらすが、歌はごくシンプルなのがポイントである。
「右も左もわからない土地で侘しい日々を過ごしていましたが
耳をかすめた宿の梢を訪れたく
『思ふには』」
※思ふには忍ぶることぞ負けにける色には出でじと思ひしものを(古今集恋一-五〇三 読人しらず)
父の明石入道もこっそり岡辺の邸に待機していたが、使者が手紙を持ってくるや狂喜乱舞し、これでもかというくらいもてなしてしたたかに酔わせた。
が、返信には随分と時間がかかった。しびれを切らした入道が奥に入って促すが、娘は一向に聞き入れない。ヒカルの手紙に気おくれして、どうにもこうにも筆がすすまないのだ。余りに身分の差があり過ぎて、どう振る舞っていいのかわからなくなった娘は、終いには気分が悪いと臥せってしまった。
仕方がないので父入道が代筆する。
「あまりに忝いお手紙、娘の田舎びた袖の袂には余ったようです。目に入れるのも畏れ多くて無理、ということですので。それでも
貴方が物思いに耽りながら眺める雲居を
私の娘も同じ思いで眺めています
と、拝察しております。大変あけすけな内容で恐縮ではございますが」
陸奥紙も書き方も古風だが、何しろ歌が歌である。
「これはまた……あけすけっていうかさあ、うーん。オヤジが無理やり女子の心を書いてみた☆的な?」
と困惑するヒカル。帰って来た使者は何故か立派な女装束を持たされていた。誰に使えというのだろうか? 色々とズレている。
その翌日。
「宣旨書き=代筆の手紙をいただいたのは初めてです」
「心がモヤモヤして一向に晴れません
いかがですか? と問うてくれる人もいないので
『恋しいとも言っていいのやら何なのやら』」
と、今度は繊細でしなやかな薄様にひたすら美しく書いた。若い女性ならば十人中十人ともがカワイイー! というような出来である。しかし娘は手紙が素晴らしければ素晴らしいほど、ますます身の置き所がない。いや、自分がどんな女か知った上で尋ねてくださってるんだから……と自らに言い聞かせるも涙が滲み、例によって筆が進まない。やきもきする父に宥めすかされようやく、深く香をたきしめた紫の紙に、墨付きも濃く薄くして上手に紛らわしながら書きあげた。
「思って下さるという心のほどはいかがなものでしょうか
会ったこともない、聞いただけの人のことで悩みます?」
筆跡や仕上がり具合はまずますの出来だが、何より歌の内容がいっぱしの貴婦人然としている。
「これはやられたな、京でもこれだけの返しを出来る人ってそうそういないかも」
ヒカルは娘が見せた才覚にますます興味を惹かれるが、かといって余りに続けて手紙を出すのも憚られ(何せ父の入道がずっと見張っているのだ)、二三日置き、夕暮れ時や明け方などおそらく同じ風景を観ているであろう折に書き交わしてみると、これが絶妙に面白いやりとりなのだった。
上流貴族なみに思慮深く、気位高く構えているのもこれだけの賢さと嗜みがあれば当然ともいえる。是非とも会わずにおくものかと思う一方で躊躇いもある。
(いや待てよ……この娘さんって以前良清が熱心に言い寄ってたんだよね……すっかり諦めた感じでもなかったし、今も既に面白くはないだろうな。こっちとしても、何だか家来の女を横取りしたみたいな形は寝覚めが悪すぎる。向こうから積極的にどうぞどうぞウェルカム! ならともかく)
娘は娘でむしろガードをガチガチに固め、極力近づかないように仕向けているので、お互いに距離が縮まることなく探り合うだけの日々が過ぎる。
ヒカルとしてはなまじ女と関わりを持ったことで、余計に京にいる紫上が恋しくなる。
(ああ、もうどうしたものかな。出立前に『あまりにも不在が長くなるようなら必ず迎えに行くよ』とか言っちゃったけど、本気で考えなきゃいけないかも。こっそり迎えちゃう?)(いやいや、バレるよね普通に。それはともかく、呼んだはいいけどずっと暮らしていくの? ここで? 無理じゃね?)
結局悩みは尽きないのだった。
「ねえねえ右近ちゃん」
「なあに侍従ちゃん」
「なんかさー、最近大丈夫なのかな内裏。雰囲気おかしくなーい?」
「色々滞ってはいるわね。無理もないけど」
「ビックリだよね、まさかあの右大臣……いや、太政大臣になってたかあの時は。急死しちゃうなんて」
「六十過ぎてるからお歳的にはまあ、あるかなって感じだけどいきなりだもんね。しかも大后さまも調子悪いんでしょ今。朱雀帝の目の具合もイマイチらしいし、踏んだり蹴ったりだわね」
「マジで管弦遊びも何も、ぜーんぶ無くなっちゃったよね。季節の行事や儀式も中止か縮小。令和のコロナ自粛かって感じー。あんなにウェイウェイやってたのに」
「王命婦さんにチラっと聞いたけど(小声)帝はもう王子を都に戻そうってお考えらしいよ。夢のお告げ云々はともかくとして、実際高度な政務が出来る人材がいないのよね。致仕大臣……元の左大臣さまにも打診はしてるらしいけど、あちらもご高齢ではあるから」
「でも、大后さまがうんと言わない……」
「そうそう。『世間には何だ、朝廷の決定など軽々しいものか、と非難されるでしょうね。罪を恐れて都を去った人を、三年もたたずに赦すなどと、どのように言い伝えられることか』だって」
「あああ、やっぱり! つか右近ちゃん、うまくなったね大后さまのモノマネ」
「私のは所詮真似であってイタコ技には至ってないけどね。ヤダ、ダジャレっぽくなっちゃった☆でもまあ、大后さまの言うことって間違ってはないよね。ご不幸続きなら尚更、このタイミングで赦免すると完全に朝廷の威厳が損なわれそう」
「なるほどー。アタシ的には一日も早く王子に戻って来てほしいけど、確かに今だとあの嵐も、右大臣の急死も、お二方の病気もゼーンブ王子がいないせい! 的な印象になっちゃうよね。上に立つヒトってホント大変だわ! アタシはずっと普通のOLでいいやー」
タチヨミ版はここまでとなります。
2020年7月13日 発行 初版
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