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 シルクロード以外の古道
 絹の道、シルクロードよりも早く、ヨーロッパとアジアを総称したユーラシア大陸の東方と西方往来した人類がいて、原初の道があり、そこを多くの民族が東を目指し、あるいは西を目指して進んで行った。
 それは数十万年前の旧石器人であり、また牛や馬の引く車に荷物を載せて歩く一群であった。彼らの運んだものは、食料を得るために常用していた弓矢より一段と強力な新型の弓矢であった。また後に貨幣となる海の貝であり、それまで西方の人々が見たことのない色のついた陶器―彩陶であった。そしてまた、何よりも硬く鋭く多方面に使用できた金属—青銅や鉄は西方から東方へ広がり、大きく人類を変え、世界をも変えていった。
 本書は、ユーラシア大陸の東西交流の、シルクロードも含めた、様々な文化の往来した道をまとめたものである。それは金の道・ゴールデンロード、陶器の道・セラミックロード、絹の道・シルクロード、金属の道・メタルロード、作物の来た道・クラップロードなどなどである。どうか古代人の歩いた道、馬駆けた道から、ユーラシア大陸の古道に想いを馳せていただきたい。

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ユーラシアの古道

渡辺義一郎 編

CAアーカイブ出版



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  この本はタチヨミ版です。

 目 次


はじめに シルクロード以外の古道

1.東方と西方の人類、初めての対話
 アジアにに広がった石器―ルヴァロア技術
 中国での百万年前の東西交流

2.弓が先か、矢が先か? 誰が発明した!矢の出现と発展
 日本へ来た粛慎 
 夷の字は弓と矢の合体したもの
 スキタイ弓の溯源
 中国とスキタイの交流
 矢の歪み曲りを矯正する石器工具

3、紀元前十世紀の旅行記『穆天子伝』


4、青銅器、鉄器の来た道
 青銅は西から東へ伝わった。新疆の遺跡
 さまざまな文化も西から来た
 中国青銅器の発展
 中国北方とモンゴル、シベリア外バイカル地区の関係
 最高の金属・鉄の出現と鉄の来た道

5、古代の通信文書―木簡、竹簡中のシルクロード
 一、長安から二つの関所までのシルクロード
 二、両関以西から葱嶺以東の道
 三、パミール高原以西のシルクロード

6、中国から西方へ伝わった彩陶
 一、彩陶文化の起源と早期発展
 二、彩陶文化の第2波は西へ向って広がる
 三、中西文化交流の南道はチベットからカシミールへ
 四、彩陶文化第3波の西方への拡大は河西から新疆へ
 五、彩陶文化第4波は新疆北部へ

7、陶器の道 東アジアの陶器は世界最古! その一つが日本に。
1、中国南方の早期陶器

 2、中国北方の早期陶器
 3、早期陶器の起源と发展

8、農作物の伝播と普及。ユーラシア大陸先史時代の東西文化交流
 1、小麦、大麦とアワ、キビの広がり
 2、先史時代、農作物の伝播と合流
 3、農作物とともに伝わった東西の文化
 稲作の道

9、Golden road 黄金の来た道黄金芸術の起源
 中国とユーラシア草原の文化交流
 商周王朝黄金鋳造工芸の興起
 近東文明の中国黄金芸術への影響

10、早期の貨幣となった海貝の道
 1、南アジア、東南アジアと中国雲南の海貝交流
 2、海貝は青蔵高原へも運ばれた

 3、新疆へも運ばれた海貝
 4、大麻、不死の飲み物の証明

11、古代中国の養蚕の起源はいつ頃養蚕は4500年前から…
 古代養蚕の村 西陰遺跡
 羊を着る---新疆で発掘された羊毛と羊皮の服

12、東西の道をどうやって往来したのか? 馬車はあったのか?
 車輛は紀元前4千年代晩期に西アジアで発明
 馬車も西から東へ伝播した

絵で見るシルクロードの商人、ソグド人の世界
北周史君墓図、敦煌莫高窟壁画より隊商図

はじめに シルクロード以外の古道

 “シルクロード”とは一般に、古代中国の都・長安(今の西安)から西方へ遙か古代ローマに至る東西を結ぶ交易路のことをいっている。その東西を結んだ交易路からもたらされた西方の文化が、日本にまで及んでいた。日本人の多くがシルクロードに興味を示すのはこの東西を往来した多くの文化の来た道にあると考えられる。“シルクロード”の名は19世紀、ドイツの地理学者リヒトホーフェンによって名付けられたという。
 中国では漢の時代に、北方の騎馬民族・匈奴の侵攻に手を焼いた武帝が中央アジアの大月氏*と同盟を結び、匈奴を挟撃しようと考え、前漢の建元二年(紀元前139年)、張騫(ちょうけん)一行を使節として大月氏へ送る。結果、張騫は匈奴に捕らえられ、後に脱出して大月氏にたどりつくが、同盟交渉は成らず、帰国時にまたも匈奴に捕らえられる。後に内乱に乗じて逃亡、元朔三年(前126年)出発から13年後に漢朝へ帰還した。当初の目的は達せられなかったが、中央アジアと西方世界の多くの情報を持ち帰った。
 このことが漢の西域外交政策の見直しにつながった。そして中央アジア諸国との交流と交易が本格的に拡大する。西域に新しい集落を開くため屯田し、道路と宿場をつなぐ駅伝制が整備された。いわゆる“河西四郡”は、漢朝政府が河西走廊(黄河以西の地域)に設置した四つの郡で、武威郡、張掖郡、酒泉郡、敦煌郡(すべて今の甘粛省)のこと。新疆のロプノールで漢の烽火台(のろし台)が発見され、また新疆境内で五百余カ所に烽火台、砦、関所などの漢代から後の遺跡が残っている。
 東西の交流交易とそのための道は、これ以前からあったのだが、今の中国では張騫がシルクロードを伐り開いたといわれることが多い。
 本書はその絹の道、シルクロードよりも早く、ヨーロッパとアジアを総称したユーラシア大陸の東方と西方を往来した人類がいて、原初の道があり、そこを多くの民族が東を目指し、あるいは西を目指して進んで行った、東西交流のことを書いたものである。
 それは数十万年前の旧石器人であり、また始めて牛や馬の引く車に荷物を載せて歩く一群であった。彼らの運んだものは、食料を得るために常用していた弓矢より一段と強力な新型の弓矢であった。また後に貨幣となる海の貝であり、それまで西方の人々が見たことのない色のついた陶器―彩陶であった。そしてまた、何よりも硬く鋭く多方面に使用できた金属—青銅や鉄は西方から東方へ広がり、大きく人類を変え、世界をも変えていった。

 ドイツの詩人、カールブッセは、
  山のあなたの空遠く
  「幸(さいわい)」住むと人のいう。
 と歌っている。まさにそれである。人はたえず山のあなたを想い、幸いの住むところを目指すものなのであった。その思いの先にどんな苦難が立ちはだかろうとも、人は山のあなたの幸いを想うのであった。そして、山のあなたへ向かって歩いて行ったのである。
 本書は、編者がこれまで見てきた中国の東西交流の文献の中から、ユーラシア大陸の東西交渉の、シルクロードも含めた、様々な文化の往来した道をまとめたものである。それは金の道・ゴールデンロード、陶器の道・セラミックロード、絹の道・シルクロード、金属の道・メタルロード、作物の来た道・クラップロードなどなどである。どうか古代人の歩いた道、馬駆けた道から、ユーラシア大陸の古道に想いを馳せていただきたい。

 *大月氏:元は中国西北部にいた遊牧民族・月氏で、後に中央アジアへ移り、今のウズベキスタン最南端の都市、テルメズに大月氏国があった。アフガニスタン国境に近く、仏教遺跡が多く残る。玄奘三蔵法師の『大唐西域記』では「呾蜜」と記し、伽藍が十余箇所あると伝えている。

1.東方と西方の人類、初めての対話

 人類が始めて歩いた道はどこにあり、どの程度の長さだったのか? それは今、私たちがいうところの道に近いものであったのか? その道を歩いて人間は食べ物を探し、物々交換をしていたのであろうか? 
 アジア最古の旧石器時代人は北京原人がいる。中国語の学名は北京人、学名はHomo erectus pekinensis别称は北京猿人、中国猿人北京種ともいう。今から約70万年~20万年前の人類で、直立歩行で、火を使い、打制石器を作っていた。

 新疆師範大学西域文史研究センターの劉学堂教授はいう。どこまで遡ったとき、東方と西方の世界初の対話が生まれた背景と過程が知られるか、これは全ユーラシア歴史研究の重要な内容で、また東西文化交流研究領域の最も薄弱な一節である。これに対して、東西の学術界は長期に暗中模索の中にある。考古発見と研究が進むにつれて、ここ数年来このような局面は非常に大きな変化があった。
 今世紀初期、南アフリカの古人類学者クラークは、イタリアのローマ近くのチェプラーノで発見されたホモエレクトスの化石の復元研究で、頭蓋骨にアジアのホモエレクトスの明らかな性質があることを指摘した。しかしローマ古人類化石と北京人化石の間で確定的な連絡の手がかりが見つかりにくいため、クラークの発見した重要な意義は、まだ実証を待たねばならない。
 2004年、フランスのエリック・ボーダEric Boëd(パリ・ナンテール大学史前学教授)はアシュール(Acheulian)文化の東方での分布の問題に言及した。アシュール文化はヨーロッパの旧石器時代初期の文化で、最早のアシュール文化遺跡発見はアフリカで、年代は今から100万年前、最晩年の遺跡は今から数十万年前で、アシュール文化の代表性石器は手斧・ハンドアックスである。
 アシュール文化遺跡はアフリカ、西ヨーロッパ、西アジアとインドで発見されている。西方学術界で注目されたのは、アシュール人の祖先が早期ホモ・エレクトスだ考え、彼らはアフリカから東へ移動し、おそらく南アジア大陸からインドネシアまで到着したとする。中国の学術範囲内では、ヨーロッパ旧石器時代早期のアシュール文化が中国に到着したことを話題にした人はいない。
 エリック・ボーダの研究では、中国では今から80万年前の広西・百色で発見された旧石器、および陝西・藍田旧石器と周口店北京人の使った石器中には、みなアシュール文化の要素が見られるという。アシュール文化は海路に沿ってインドへ到った可能性が高く、続いて東へインドネシアに到る。エリック・ボーダは中国国内のアシュール石器と、インドとインドネシアで発見された文化の風格は非常に接近しているという。
 中国北方地帯のアシュール文化要素の存在は、おそらく南から北への伝播の結果である。エリック・ボーダはまた指摘し、周口店で生活した北京人は、アシュール石器の技術を受け継ぎ、ここで発見した両面加工

   北京周口店遺跡(左上下)と寧夏水洞溝遺跡の旧石器(右列)

の石器と薄刃斧と、外来のアシュール文化を結び付けた。アシュール文化は中国に到着したとエリック・ボーダはいう。それは確かなのだろうが、百万年の長い旧石器早期の果てしない長い夜に比べて、彼の声は非常に微弱で孤独で寂しい。そしてまだ中国考古学界の正面対応を得ていない。
 旧石器時代早期の西方人アシュールが手斧を持って、はるかな海を越えて、ユーラシアの東方世界に到着し、そして中国の北方地帯に入ったことは、現在のところ依然として慎重に対応しなければならない学術の仮説である。

 1923年、フランスの古生物学者デリチンとサンシホアが中国・寧夏水洞溝旧石器晚期遺跡を発掘し、中国に旧石器时代文化は無いとのレッテルをはがした。水洞溝遺跡の発見は西方ムスティエ文化のルヴァロワ・石器に属すことが知られ、フランス人はこの水洞溝遺跡は、発達したムスティエ文化と成長中のオーリニャック文化の間にあり、あるいはこの両文化の融合であるという。*

 中国学術界の水洞溝文化の性質に対する認識は、長期にわたり慎重な態度を保っている。2003年に出版した『水洞溝――1980年発掘報告』中にやっとルヴァロア石核と石葉発見のラベルを出して水洞溝文化は“中国が最もヨーロッパ旧石器時代文化の伝統的単独類型である”とした。現在のところ、中国北方地区で、ルヴァロア石器の遺跡が発見されているのは、水洞溝以外に、黒龍江省の十八站遺跡、山西省太原陵川塔水河遺跡、内モンゴル金斯太洞穴遺跡などである。
 *水洞溝遺跡:寧夏回族自治区銀川市から19㎞にある。2012年の時点で、通算90年近く、計6回の発掘調査で、30,000を超える石器と67の古代動物の化石が発見された。その中で水洞溝文化の基礎を構成する石製品、道具、石器の製造および修復技術のいくつかは、ヨーロッパ、西アジア、北アフリカのムスティエ文化とオーリニャック文化時期の石器に匹敵する。特に、発掘された多数のルヴァロア石核は、ヨーロッパのオーリニャック文化の形に近い。年代は今から3.5~2万年前の遺跡である。
*ムスティエ文化:ヨーロッパ、西アジア、中央アジア、東北アフリカの旧石器時代中期文化。フランス西南部のル・ムスティエの岩陰でネアンデルタール人の人骨と化石が発見され、そこから名付けられた。およそ15万年前に始まり、8万~3.5万年前に最も栄えたとされる。
 *ルヴァロア石核:パリ近郊のルヴァロア・ペレ遺跡にちなんで名づけられた石器を作るルヴァロア技法で一種の剥片技術。約40 万年前にアフリカ、ヨーロッパ、西アジアに出現し旧石器時代中期に盛行した。
 *オーリニャック文化:フランス・ピレネー地方を中心とするヨーロッパの旧石器時代後期の石工芸と芸術文化。時代は前3万年ごろで、特徴は石器の多様性で、彫刻道具の発明により、石器、骨器のほか女人裸像、洞窟絵画などを残している。同型の石器はヨーロッパ、バルカン、西アジア、アフガニスタン、中国、ケニアなど、広範囲で出土している。

   ルヴァロア技法による石器制作

 ルヴァロア技法がユーラシア東部で発見され、石器時代の東西文化交流として、近年来旧石器学会でホットな話題となっている。最も早く出現したのは ルヴァロア石器技術で、旧石器技術史上最初の革命といえる。古代人類の石器技術の改良に対しては、集中して石核上から打制石片を形態によって打ち剥がす過程がある。生活では西方旧石器時代の人々が、難しい多くの実践を経て、最も早く加工法を見つけ覚え、直接に石核上から工具を作る技術を手に入れた。完成への途中で、特殊な形状の石核が必要になり、この種の石核は外観が倒亀背状を呈し、学術界はそれをルヴァロア石核と呼んだ。この種の技術はルヴァロア技術と呼ばれ、石核上から石葉を打ち下ろし、ルヴァロア石葉と呼ぶ。これらをまとめてルヴァロア文化と称する。
 1933年、アメリカのペンシルベニア大学で初めての専門討論、ルバロワ技術の世界学術会議で、この種の技術は更新世中の古人類行為と認知発生の進化と認識された。人類の認知能力の新突破は、人類進化中の具有の里程碑のラベルとしての意義がある。

アジアにに広がった石器―ルヴァロア技術

 中国・新疆地区の旧石器考古作業は長期の滞留のあと、1995年になってやっと新しく動き出した。この一年、トルファン交河故城溝西台地旧石器遺跡で採集された石器は612件、旧石器晚期に属す打制石器が580件。中国の著名な旧石器考古学者・張森水教授によれば、交河溝西石器地点は、石制品の風格と時代上はもちろん、みな水洞溝旧石器時代晚期遺跡に大体相当する。2004年,北疆地区の布克赛尔県駱駝石で発見された旧石器遺跡は、大量の打制石器である。この遺跡の面積は約20平方㎞、これは中央アジアであまり見られない超大規模の旧石器制造場である。
 交河故城溝西台地、駱駝石旧石器遺跡に代表される新疆旧石器文化遺存は、おそらく早くは今から10万年前後を遡り、晚くは今から二、三万年よりさらに晚い、遺跡中には多くルヴァロア技術を用いた打制石核と石葉が見られ、これらの発見は「早期人類の新疆での生存探求、進展、移動と人類技術の発展、および東西文化交流でも重要な意義がある」(高星等:「新疆旧石器地点」『中国考古学年鑑·2005年』文物出版社,2006年)。
 新疆以西の中央アジア、ロシアのアルタイ地区で発見された多くの旧石器時代中期から晚期の遺跡。重要なのは例えば1960年ロシアの学者が南シベリア・アルタイ山地で発掘したオクラドニクフ洞穴などに代表される旧石器时代中期から晚期のいくつかの石器時代遺跡で、ここでの出土は多くの打制石葉が、あきらかにルヴァロア技術を採用していたのである。アルタイ地区のデニソバ・Denisova洞穴の最底層から出現したモスト尖状器、台面のたしかな特征は、発達したルヴァロア技術である。ロシアの学者の推測では,アルタイ地区のルヴァロア技術は、中央アジア・カザフ草原区からシベリアへ入り、またアルタイ森林草原区へ伝入したという。
 ロシア・アルタイ、新疆と中国北方地区のルヴァロア石器発見と研究は表明する、今から10万年前の旧石器時代、西方から来た人群集团は、中央アジア草原を通過し、ロシアの南シベリア、アルタイ山地に到着し、その後順にアルタイ山間の通道となる適地に着いた。イルティシ河を遡り新疆アルタイ山麓一線へ進入、新疆北部のカザフスタンと国境を接する塔城地区のヘブクサイル蒙古自治県とシェトォロガイ鎮の駱駝石旧石器遺跡、これは彼らの重要な聚集地となった。続いて彼らは長い距離を真っすぐ天山南北両山麓へ進入し、今の新疆、タリム盆地周縁へ着いた。
 トルファンの交河故城附近の台地、ここは彼らが選択した一つの重要な生活の聚集点であった。寧夏水洞溝で発見されたルヴァロア石器工芸は、とても大きな可能性で、新疆旧石器時代の居民が継続して東進し、河西走廊を越えて今の寧夏回族自治区の銀川平原へ到達した後に留った遺跡である。そして中国北方その他の地区でのルヴァロア石器の発見は、おそらく非常に早く北方草原の通道を開いて入って来た者たちである。
 考古資料が表明しているのは、少くとも数万年前の旧石器時代晚期に、西方の人群は新疆と中国西北その他の地区へ進入し、ユーラシア東方と西方人群の第一次接触があり、東方西方世界は第一次対話を開始した。旧石器時代の西方文化の東進は、中国北方文化の発展進程に参与しただけでなく、東方西方人群の長期共同居住で、通婚し、その交流要因を拡大した。中国北方での初めての人種分支の形成にも計り知れない効果を果たした。

中国での百万年前の東西交流

 中国旧石器時代の東西交流の流れを見てきたが、編者のような素人はすぐに、現代のたゆみない考古学の進歩で、旧石器時代の五十万年とか百万年前のさらに古い時代に東西の人類の交流はあったのではないか? 遺跡は見つかっていないのだろうか? と想ってしまう。

 先史時期の東方と西方の最初の文化往来はいつから始まったか、この期間はまたどのような1つの過程からか? 中国科学院古脊椎動物と古人類研究所の侯亜梅研究員は中国華北地区の泥河湾*盆地の東谷坨(トングトオ)遺跡について研究を進め、高技術を示す“トングトオ石核”技術を見極め、華北小石器文化の自源性特徴だけでなく、またユーラシア大陸のいくつかの遺跡での発見と“トングトオ石核”を通じて標本対比により、今から110万年前に東西文化はすでに交流が存在したことを指摘し、その上このような交流は双方向であると、そして“石器の道”の仮説を提出した。
 そこへ至るまでに学者たちは、水洞溝文化の性質に対して大体相似した結論をだしていたが、それはヨーロッパ旧石器時代の中、晩期文化の特徴があり、しかもその“東西混合”の特徴について、それを中国の旧石器時代晩期のいかなる類型に帰入すべきか難しく、単独の類型があることしかいえなかった。しかし、新しい発見と研究はやはりこの問題の解決の望みをもたらした。2002年5月、侯亜梅研究員はパリの自然歴史博物館人類学研究所で、水洞溝の1920年代出土の標本を観察した時、何件かの小型石核とそれ以前研究して命名した、中国華北の泥河湾トングトオ遺跡の“トングトオ石核”類型に似ていることを発見したのである。
 この研究成果は東方と西方の文化交流の最も早い証拠である。続く交流の証拠は中国の西南の広西百色地区に現れ、この地区で発見されたのは西方のアシュール文化のシンボル的な石器の手斧があり、今から80万年前であることが確認された。実際に手斧、薄刃斧などのアシュール



  タチヨミ版はここまでとなります。


ユーラシアの古道

2020年7月21日 発行 初版

著  者:渡辺義一郎 編
発  行:CAアーカイブ出版

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CAアーカイブ

フリーの編集ジイさん。遺しておきたいコンテンツがあるので、電子出版したい。

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