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エレミヤ書 25章29節~38節
29 見よ。わたしの名がつけられているこの町にも、わたしはわざわいを与え始めているからだ。あなたがたが、どんなに罰を免れようとしても、免れることはできない。わたしが、この地の全住民の上に、剣を呼び寄せているからだ。―万軍の主の御告げ―』30 あなたは彼らにこのすべてのことばを預言して、言え。『主は高い所から叫び、その聖なる御住まいから声をあげられる。その牧場に向かって大声で叫び、酒ぶねを踏む者のように、地の全住民に向かって叫び声をあげられる。31 その騒ぎは地の果てまでも響き渡る。主が諸国の民と争い、すべての者をさばき、悪者どもを剣に渡されるからだ。―主の御告げ― 32 万軍の主はこう仰せられる。見よ。わざわいが国から国へと移り行き、大暴風が地の果てから起こる。33 その日、主に殺される者が地の果てから地の果てまでに及び、彼らはいたみ悲しまれることなく、集められることなく、葬られることもなく、地面の肥やしとなる。』34 牧者たちよ。泣きわめけ。群れのあるじたちよ。灰の中にころげ回れ。あなたがたがほふられ、あなたがたが散らされる日が来たからだ。あなたがたは美しい雄羊のように倒れる。35 逃げ場は牧者たちから、のがれ場は群れのあるじたちから消えうせる。36 聞け。牧者たちの叫び、群れのあるじたちの泣き声を。主が彼らの牧場を荒らしておられるからだ。37 平和な牧場も、主の燃える怒りによって荒れすたれる。38 主は、若獅子のように、仮庵を捨てた。主の燃える剣、主の燃える怒りによって、彼らの国が荒れ果てるからだ。
本文を全部読みなさい。聖書を捜して~核心本文は31節だ。その騒ぎは地の果てまでも響き渡る。(『騒ぎ』という意味は、騒々しい、騒がしい、扇動する)」という意味である。これを言い換えれば「混乱(こんらん)、騒動(そうどう)、乱暴(らんぼう)、撹乱(かくらん)、紛擾(ふんじょう)、喧嘩(けんか)」という言葉で翻訳する。本文を全部読みなさい。聖書を捜して~核心本文は31節だ。その騒ぎは地の果てまでも響き渡る。(『騒ぎ』という意味は、騒々しい、騒がしい、扇動する)」という意味である。これを言い換えれば「混乱(こんらん)、騒動(そうどう)、乱暴(らんぼう)、撹乱(かくらん)、紛擾(ふんじょう)、喧嘩(けんか)」という言葉で翻訳する。このような 騒ぎは地の果てまでも響き渡たった理由は、全聖書の中に隠されている。ではその答えをエペソ人への手紙3章19節の言葉通り、すべての真理の中に導き、なぜ、こんな騒ぎがして誰がこうなのか、隠されている神の御心を探ってみよう。
エペソ人への手紙3章18・19節 18すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、19人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。
この本文は、今の世代まで行われておらず、今やこの世代に現在事実になっている。29~38節のみことばは、その騒ぎの結果である。したがって、答えはすべての聖書の中で預言しておいた。先に答えを言うと、悪人どもが騒がせたのだ。 このため、神が諸国の民と争い、すべての肉体を裁かれる。したがって、この本文の成就は今、この世代にすでに行われている。
箴言29章 8節~10節 8あざける者たちは町を騒がし、知恵のある人々は怒りを静める。9 知恵のある人が愚か者を訴えて争うと、愚か者は怒り、あざ笑い、休むことがない。10 血に飢えた者たちは潔白な人を憎み、正直な人のいのちをねらう。
あざける者たちは、傲慢な態度で相手を嘲笑して侮る行為を意味する。 他の言葉で表現すれば、傲慢な者を指す。まことに、あざける者 イ〇ギュ、パク〇テク牧師、ののしる彼らがこのような者たちだ。 この預言が自分たちに対する預言であることを知らない。これを指して教会の中にいる悪人たち、家の中にいる敵対者であり敵たちと言う。それで次のように預言しておいた。箴言1章22節「わきまえのない者たち。あなたがたは、いつまで、わきまえのないことを好むのか。あざける者は、いつまで、あざけりを楽しみ、愚かな者は、いつまで、知識を憎むのか。」このような者たちがあざける者だ。このようなわきまえのない者を神はあざけります。
箴言31 章34節「あざける者を主はあざけり、へりくだる者には恵みを授ける。」それで次のように仰せられた。
箴言9章 7節~9節 あざける者を戒める者は、自分が恥を受け、悪物を責める者は、自分が傷を受ける。あざける者を責めるな。おそらく、彼はあなたを憎むだろう。知恵のある者を責めよ。そうすれば、彼はあなたを愛するだろう。
この預言通り私が経験している。 この本文だけを見ればそうだ。 しかし、打ち場は、誰であれ公平に霊を試さなければならない。そして誰が代替肉体になるのか、わからない。このようなあざける者たちは、13年間、数え切れないほど目にしてきた。そのため、前半部7年間は、あまり責めなかった理由だった。ののしる彼らは、一様に私が責めたり、また打ち場をしなかった者たちであった。それであざける者は絶対神の知恵、完全な知恵を得ることができない。このような者は肉体が死んでも自分のことばかり言う。悪霊が主人である状態は絶対に知恵を受けられない。すでに恵みをお与えになってない呪われた人間だ。
箴言14章 6節 あざける者は知恵を捜しても得られない。
なぜだろう?叱責、すなわち打ち場をする所は、完全な知恵を代言し、神の戒めの通り守って実行する、神が永遠に住んでおられる住まいであり、前代未聞の新しい契約である「御国の奥義」を明かす場所である。このような所では必ず叱責を受けなければならないからだ。こんな所、このような教会は何ヶ所ではなく一ヶ所一所である。しかし、傲慢な者、すなわち、あざける者は全世界を歩き回っても知恵を得ることができない。あざける者の主人は悪霊でありこの悪霊が考えを握っている以上、知恵のある者は霊的な戦いをするのだが、その叱責は絶対聞かず、結局去って行ってあちこち探し回っている。これは次のみことばに書いてある。
箴言15章12節 あざける者はしかってくれる(打ち場)者を愛さない。知恵のある者にも近づかない。 どうして打ち場があるのか理解できるのか。イエスの名で悪霊に教えられた者はどれほど傲慢なのか、その傲慢が自分の実体なのに、絶対自分ことを自分が知らない。だからすぐれた知性のある者、忠実な牧師は時間だけ無駄遣いする人をただ見ていることはできない。彼らは一様に傲慢で叱責する声を全く聞き入れない。悪霊は、そんな悪霊をよく知っているから、嘘のお世辞ばかり作り上げているのだ。再び預言する最初の3年半の間、どれほどこのような者が多かったか、牧師たちの間に噂が立って、全く来なかった。霊的な戦いが何かも知らない者には、絶対御国の奥義を知らせない理由だ。こんな傲慢な者は根が悪だ。このような悪行から真理に立ち返らなければならないのに、叱責、責め、すなわち「打ち場」なしでは絶対に駄目だということを痛感したのだ。 そして、箴言19章25節では、あざける者を打て(霊的な戦いであり、打ち場だ。前の箴言 9章7節~8節では、あざける者を責めるなと言われたが、この本文では打てと言われる。これが打ち場なのだ。 理由は、あざける者は自分の中にある悪霊に自分がだまされていて、いくら前代未聞の新しい契約を宣布しても、穀物が一人で皮をむくことができない。 「なぜ、人間を穀物(義人)と毒麦(悪人)にたとえられたのか知れば、あざける者をそのままにしておいてはならない。自分が自ら皮を脱いで生まれることができないのだ。それでずっと仰せられたのである。人を恐れるなと仰せられたのである。人間の本能的なレベルにすると植物人間の状態である。あざける者は、理性そのものもないだけでなく、人としての役割も果たせず、病床に横たわって酸素呼吸器をつけたまま生きている者と同じだ。こんな霊的な状態の人は、隣の人の目には見えるが、自分は何も知らない。こんな人に心臓を蘇(よみがえ)らせて意識を戻すようにするのが心肺蘇生法である。麦打ちは心肺蘇生法と同じ原理だ。意識があってこそ、病床で横になってでも、食べ物を食べて治療を受けることができる~完全に無感覚、すなわち、無意識状態は死者だ。このような者は自分の中にいる敵に自分が騙され、どんなことでも彼らには無駄だった。数年間、御ことばを受けてもただの一節も根付かず、子どもたちも例外がなかった。そこで、眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。と言われたのである。直接的に言えば、新しい契約によって悪霊が離れない者は一生寝ながら夢の中でめとったり、とついだり争いながら働き、一生無駄な時間を費やして目が覚める時は、肉体が死んでからだ。ルカの福音しょ16章の金持ちがそんな人だ。何も知らないくせに、自分も騙され、人も騙すのだ。如何ほどであれば箴言23章13~14節に
子どもを懲らすことを差し控えてはならない。むちで打っても、彼は死ぬことはない。あなたがむちで彼を打つなら、彼のいのちをよみ(地獄)から救うことができる。
よみに下った金持ちの牧師と宗教指導者を誰も彼を戒めたり打つ者はいなかったのだ。よみは地獄なのに、なぜよみだと言うのか、今はわかるのか?金持ちの宗教指導者自身がよみ、すなわち地獄の使者だ。自分が地獄へ人々を送り出す者なのに、一生涯肉体が死んでいく所が天国であり、地獄だと偽りで教えた自分が何を言ったのかも分からない説教をしたのだ。このような者が聖書を持って聖なる講壇に立っている憎むべき者であり、偶像、サタン、悪霊である。それで、打ち場で訓戒をしなければならず、責め、叱責をしなければならず、今本文ではむちで打てと仰せられた。このようにしたならば、私をどんな偽りの言葉ででっち上げて陳述しただろうか~霊魂をよみから救う方法の一つがむちで彼を打てと言われたことである。このような打ち場があるところは、完全な知恵を宣布する所だが、傲慢者は全く来もしないのにどうやって知恵を得るだろうか。来たとしても自分たちを侮辱したと訴える傲慢な者であり、そしてあざける者なのにどうやって救われるだろうか。肉体が生きている時、その霊魂をよみから救うために彼をむちで打てと仰せられた神の知恵を誰がわかるのか?霊、即ち、人をみな信じずに霊を試しなさいと言われた理由もここにあった。打ち場で恥を見て、衝撃を受け、心臓が跳ねて自分自ら歩き回る状態になってこそ目が開いて、耳が開くのにこのようなあざける者は、譴責、叱責、すなわち、麦打ちされずに光の前にずっと座っているからといってなることではない。必ず、回りの家族の助けを受けなければならない。このようなことを愛の縄だと言う。『よみ』に対する秘密を知らないと絶対打ち場をすることも、真似することもできない。肉体が生きている間、このようなよみから救い出さなければならない。救い出す方法の一つがあざける者を打てと仰せられたのである。また、箴言22章15節でも 愚かさは子どもの心につながれている。懲らしめの杖がこれを断ち切る。(実はこれが悪霊が追い出される方法の一つでもある。)『よみ(地獄、地下、スオル、死者の住処)』が死んでから行く所ならば、子どもをむちで打てばよみから救えるという言葉が理解できない。 人を、罪を犯して殺す敵は、その人の中の考えを握っている。自殺してしまう人は、自殺したいという思いにとらわれ、他の何も、どんな言葉も見えず聞こえない。こんな人が悪霊が教えている教会に行けば、天国は死んでいくという言葉に惑わされ、そのまま自殺してしまう。お金があって名誉があり責任を果たすべき子供がいるのに、無責任に自殺してしまう人は、その主が敵である悪霊に取りつかれている明白な証拠だ。それで次のように仰せられたのである。
エレミヤ書6章19節 この国よ。聞け。見よ。わたしはこの民にわざわいをもたらす。これは彼らのたくらみの実。彼らが、わたしのことばに注意せず、わたしの律法を退けたからだ。
したがって、人間は肉体が生きている時に考えを捕らえている悪霊が去らなければならない。その道はただ神の戒めであり、新しい契約である永遠の福音を受けてこそ、考えを握っている悪霊がすべて去っていく。考えが悪霊にとらわれている人は、特にイエスの名で悪霊の教えを受けた人は、新しい契約のみことばをいくら伝えても、両眼で実状になって成就されていることを見ても神のことばを拒絶する。この考えを捕らえている敵から逃れる道は、新しい契約によって新しく造られることだ。凶悪な悪霊の一断面を言えば、イエスはただ言葉だけで悪霊が去るという話にその考えが止まっている。悪霊を追い出して死者もよみかえらせたのに、なぜ、十字架に死なれてから神から与えられた鍵が『死とハデスとの鍵』だったのかな? という疑問を絶対に持たない。イエスは悪霊を追い出し、病気も治し、死者もよみかえらせて、イエスの裾(すそ)をつかむだけで悪霊が去っていくのに…。なぜ、あなたは何の力もないかと侮った。このような凶悪な悪霊たちの目には、次のみことばが見えない。
マタイの福音書8章16節 夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみないやされた。
と仰せられたこのみことばは彼らの目には見えなかったのだ。また、イエスが悪霊を追い出したとすれば、ヨハネの福音書11章25節~26節のみことばが、事実にならなければならなかった。
25イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。26、また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか?」
しかし結果は、すべての肉体が死に、イエスの中にいた敵が十字架にかけられ、その正体が明らかになっても、その事実を知らなかったのだ。こんな悪霊の正体は実は13年間、私を通じて神がはっきりと明らかにしてくださった。この13年間通ってきた狭き道で多くの人々を見た。決定的には代替肉体を通じて両目で見ている。真理の目でこのような悪霊たちの状態を見た。獣の刻印を受けた者たちには、絶対一節も見えず、耳にも聞こえなかった。この事実は、天国の奥義だった。このような人、凶悪な悪霊にとりつかれた一人の人間から出た悪霊、すなわち聖書を持って聖書とは異なる偽りを述べる一人の説教によって、2千頭あまりの豚の群れが溺れ死ぬ。悪霊の住処に立っている忌み嫌うべきもの、偶像、死体がその口から出る説教で、獣の偽りで信徒たちが自分の獲物だと、信徒たちの考えと心に獣の刻印をつけたのだ。これが霊的な獣の刻印だ。こんな凶悪な悪霊がお金持ちになって述べる説教を無条件にアーメンと受け取って信じ、狂ったように自分も金持ちになりたくて忠誠を誓う。体を張って金を貢いで働く。イエスのために、神のためにという名分まで掲げて、奴隷のように使われても、彼らは彼自身を地獄の火の中に投げる地獄の使者という考えを誰もできない。キリスト教は、このような敵の実体を明らかにするめぐみとあわれみが与えられたが、人間が作った宗教を見よ。人の手で作った仏像が自分たちに幸福をくれると思い、心に信じるのである。その仏像を建てておいて、人が仕事もしないでじっと座って修行すると言いながら、捧げるお金で食べていく。キリスト教徒は絶対こんなところに行って偶像崇拝はしない。人が本能的に知っている偶像崇拝だと知っているから行かない。教会に通う自分が偶像かも知れないし、自分が偶像を作り上げ、偶像を崇拝しているという考えは絶対にしない。これがまさにイエスの名でその人に入ってきた悪霊だ。このように長い時間、悪霊の教えを受けた人々の良心は麻痺している。だから、これは彼らのたくらみの実だと仰せられたのである。聖書辞典を出版したパリサイ人の牧師は、お金しか知らなかった。米国で牧会をし、再婚までして若い妻を持つ聖書博士の牧師は、泊まるホテルもスイートルームにこだわり、お金もいくらもらうのか~ 彼はある日、韓国でもう一度 預言する時に出会ったが、私を異端だとネット上に真っ赤な嘘で稼いで食べていくイ〇ギュ権士(メソジスト)の一人に因んで、私が異端になったと思って避けた。韓国に出て来て再婚した妻を連れて神学大学の講義もする彼は、自分は既に聖書辞典を書いた人だと思い込んで、自分も自分の中にいる仇に騙され、その悪霊の声を聞いて信じる人々は誰も疑わなかった。その再婚した妻はそんな牧師の妻だと堂々と接待を受けて生きながら、自分が神が仕掛けた網である罠に掛かったとは考えもしない。聖書辞典を書いたということがすでに聖書に通じている者だと思っている。こうして、2千年間続いてきたのがキリスト教だ。だから、次のように言われた。
箴言22章15節だ。『愚かさは子どもの心につながれている。懲らしめの杖がこれを断ち切る。』
懲らしめは、言い換えると、麦打ちである。譴責(けんせき)、叱り、叩く等々、多くの部分、いろいろな形で表現したのである。箴言20章30節にも
『打って傷つけるのは悪を洗い落とすため。腹の底まで打ちたたけ。』
全世界の人々の絶対多数が知っているソロモンを通じた知恵が、子どもを打って傷つけるのが、彼の命をよみから救い出す、麦打ち場の真実ということを誰が知ろうか?光に照らされれば、それも前代未聞の新しい事で、聖書を聖書で解釈して詳しく解き明かしても、ただ一節も彼の考えの中に入って心に印が押されないのに、すでに考えを掴んでいる敵のために目の見えない霊的な盲目となって、神の御声が聞こえない耳の聞こえない者となって、良心は感覚の無い状態で植物人間になったのである。実際、人が見るに植物人間ではなく、感覚の無いらい病人になったのだ。生きているとされているイエスの御名を持っているが霊的に死んだ者である。だから心肺蘇生法が必要だ。衝撃を与えて恥をかかせ、隙間を作って、光である神の御ことばがその中に入るようにする霊的戦いが麦打ち場である。このように小さな穴のような隙間を作って、心に衝撃を受けた状態で御ことばを受けさせ、光を照らして悟らせようとする霊的戦いの方法が麦打ち場である。また、霊、すなわち、人を試す方法でもある。これはとても明白に真理そのまま事実だった。高ぶった者は結局自分を永遠に地獄の火から生かす愛であることを、彼らは肉体が死んでから初めて知ることになるのだ。言葉で一言叱責しても、怒りが顔に表れてくる。その悪霊の正体が高ぶらせるのである。だから、また次のように言われた。
箴言20章26節~27節『知恵のある王は悪者どもをふるいにかけ、彼らの上で車輪を引き回す。人間の息は主のともしび、腹の底まで探り出す。』
このように13年目だれが獣なのか?人なのか?調べておられ、わたしたちが二つの目で悪者、すなわち高ぶった者であるあざける者は誰なのか、目の当たりにさせてくださったのである。人は、人を変えることができず、その人の主人が誰なのか、絶対わかることができない。すでにイエスの御名で、神の御名で飾って、聖なるふりをして成り済ましているパリサイ人だから人の目では絶対に見えないのだ。仮装の達人となった人は時間が経てば経つほど、特にゆずりの地所では全部現わされる。しかし、箴言23章35節では『わたしはなぐられたが、痛くなかった。私はたたかれたが(打って傷つけても)、知らなかった。いつ、私はさめるだろうか。もっと飲みたいものだ。(これに該当する者は打ち場も何の役にもたたず、結局ぶどう酒であるイエスの御名に酔っていて酒を捨てない。数えきれないほど見てきた。)』このような人々であっても打ち場が必要なことがまさに箴言19章25節である。
『あざける者を打て。(韓国改訳聖書訳:傲慢な者)そうすれば、わきまえのない者は利口(韓国語改訳聖書訳:警醒)(「夜を明かす」という意味で『いつも監察して注意する、勧告する、訓練する、教訓と訓戒を目的に警告する』ことを意味する。したがって、あざける者(傲慢な者)を打てといわれる理由は愚か者に霊的な眠りから覚めよと警告し、教訓されようとすることである。利口(警醒)になる。悟りのある者を責めよ(麦打ちせよ)。そうすれば、彼は知識をわきまえる。』だから、あざける者(傲慢な者)は必ずさばきに入る。箴言19章29節に
『さばきはあざける者(傲慢な者)のために準備され、むち打ちは愚かな者の背のために準備されている』
神は公義の神であるから、あざける者(傲慢な者)も合法的にさばかれる。箴言21章11節でも、あざける者(傲慢な者)は 『あざける者が罰を受けるとき、わきまえのない者が知恵を得る。知恵のある者が学ぶとき、その人は知識を得る。』あざける者(傲慢な者)が神に罰を受けると、わきまえのない者が恐れおののいて目覚めて、知恵を得させられる(警醒させられる)のである。わきまえのない者たちは、悪者がさばきを受けるのを見て正気になるのである。罪を犯しても何の懲らしめもないから聖書の約束を信じない。箴言21章11節の預言の成就が箴言21章18節だ。『悪者が正しい人のための身代金となり、裏切り者がすぐな人の身代わりとなる』
あざける者(傲慢な者)も厳しく叱って、麦打ちをすることは次の預言の成就でもある。
箴言22章10節に 『あざける者(韓国改訳聖書訳:傲慢な者)を追い出せ。そうすれば、争いも出て行く。けんかも、悪口もやむ。』
このようなあざける(傲慢な)すなわち、嵌める者は外にいる者のことではない。 証明する。
詩篇73編3節~12節だ。『それは、わたしが誇り高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見たからである。彼らの死には、苦痛がなく、彼らのからだは、あぶらぎっているからだ。人々が苦労するとき、彼らはそうでなく、ほかの人のように打たれない。それゆえ、高慢が彼らの首飾りとなり、暴虐の着物が彼らをおおっている。彼らの目は脂肪でふくらみ、心の思いはあふれ出る。彼らはあざけり、 (『あざけり』とは見下しはずかしめる行為を意味する。神が驕り高ぶった外国人にはずかしめられて、イエスが敵たちからあざけられて、使徒たちが福音のために受けたあざけりだ。このようにあざけっても何の懲らしめも無いから、図々しくなりもっと悪くあざけるのだ。今、この時代は一層あらゆる嘘であざけている。彼らはあざけり)悪意をもって語り、高い所からしいたげを語る。彼らはその口を天にすえ、 (あざける者(傲慢な者)の口は神様、イエス様と言って、聖書をもって聖なる講壇で神に敵対して自分が作り上げた言葉を教えるという意味だ。つまり、あざける者(傲慢な者)がほかの宗教人でないし、無神論者たちをおいて言う御ことばではない。教会を立てて聖書を使う者の中の高い所からしいたげを(傲慢に)語る者を意味する。) その舌は地を行き巡る。それゆえ、その民はここに帰り、豊かな水は彼らによって飲み干された。こうして彼らは言う。「どうして神は知ろうか。いと高き方に知識があろうか。」 (人が見るに高い所からしいたげを語る(傲慢に語る)のか、神はどうやって知ろうかと言うことではない。反対に人々が聞きたい説教をするのである。だから誰もそのような人があざける者(傲慢な者)なのか、分別することができない。ただ、真理は真理によってのみ分別することができる。このような説教は人の一生だけではなく、永遠に滅ぼさせるのだ。問題は聖書を使うことだ。霊的な盲人たちであり、彼らには天国の秘密を知らせまいとたとえで記録されているのだ。) 見よ。悪者とは、このようなものだ。彼らはいつまでも安らかで、富を増している。 (あざける者(傲慢な者)が今日の教会の中にいる。彼らは悪者であり嵌める者である。)』
今まで『あざける者』に対する深さを言っている。このような真理の目で、もう一度、箴言29章8節に行って読もう。
『あざける者たちは (言い換えると傲慢な者で相手を嘲笑して見下し、うぬぼれる者を意味する。)町を騒がし、知恵のある人々は怒りを静める。』
したがって、 エレミヤ書25章31節のその騒ぎはあざける者、つまり傲慢な者たちによって神が諸国の民と争う声で地の果てまでも響き渡るようになったのである。
その騒ぎは地の果てまでも響き渡る。主が諸国の民と争い、
すべての者をさばき、悪者どもを剣に渡されるからだ。
―主の御告げ―
エレミヤ25章31節
続く。。。
2020年7月10日 発行 初版
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