───────────────────────
───────────────────────
「部長、お話があります……、婚約者と、近々結ばれることになりそうです。そして、そのあとには、子どもも……」
瀋陽特別市の、青年中山近くのオフィスビルの五階にある、とある公司の事務室で、事務員の若い女性が、上役の席に座っていた中年の男性に告げた。
「ほう! おめでとう! それはめでたい話じゃないか。んー、とはいえ、公司としては、いろいろと考えないといけないな……、育児のための休暇も、大切な社員のためだな」
男性は不自然に不敵な笑みを浮かべた。
「いえ、気にしなくても大丈夫です……、育児は大変なことですから、兆候が表れるとされる前に、社内規定通り、二週間前に退職しようと考えています」
女性も不自然に怪しげな笑みだった。
「ははは、それじゃあ仕方ないなぁ、あなたは社会人として、とても優秀な人だし、これからも、我が社は、定年までいてほしかったし、そのために、賃金も、毎年上昇させていくつもりだったんだけどなぁ~」
男性はあたかも他人事のように言った。
「ざぁんねんですねぇ、私もここの会社はとっても素晴らしいですし、ここでずっと働く喜びを感じていたかったんですがねぇ……でも大丈夫です、夫の給料がとっても高いので、とっても大変ですが、私はこれからも、りっぱなじょせーとして頑張りまぁす」
女性も男性同様、白々しく言った。
「ふむっ! それでは仕方がない、とっても残念だが、君の言う通り、その時が来たら、退職の手続きを、私も進めることとしよう」「
「ところで部長、私の去った後、人材はどうするのですか?」
「うむ、引き続き、女性を採用するつもりだ。我々は何といっても、国務院の主導する男女共同参画に賛同する立派な公司だしな、君も、そのことを誇りに思うがいい!」
「なるほど……」
女性は頷いた。
「では、席に戻って引き続き仕事をしてくれたまえ、クハハハハ!」
男性は一転して高笑いをして言った。
「はい」
女性は一礼して、男性の席から離れていった。
「—―」
「え……?」
国家財形社労委員会会議室の霊力のモニターは、自動でその光景を映し出していた。
たまたまその部屋にいた珠洲、耐、雲雀の三人がそれを見つめた。霊力のモニターに出されるのは、瀋陽周辺で何か社会的な問題が発生した光景のうちの一部である。耐と雲雀は、そのめでたい光景を見て、なぜモニターが作動したのかがわからず困惑した。一方、珠洲はそれを見て少し俯いた。
「これ、私もうちょっと繰り返して見るね……。明日の会議で話したいかも……」
珠洲は悲しそうな表情で二人に言った。
「え……」
「う、うん……?」
耐と雲雀は、珠洲の言葉を聞いて、さらに困惑した。
「い、いいかな……」
それを見た珠洲は二人に慌てて尋ねた。
「あっ……うんっ、珠洲ちゃんの言うことだから、多分大丈夫な気がするよ」
「そ、そんなことはないよ……」
耐は一転して快活に答えた。それを聞いた珠洲はか細い声で否定した。
「二人とも、いいなあ……」
それを傍らで見ていた雲雀がつぶやいた。
「え……?」
「昔から私たちは三人仲良しだし、それはこれからもきっと変わらないと思う……でも、私はたいして変わらないけど、珠洲ちゃんはどんどん成長して、それに耐ちゃんが惹かれて……、私は三人の中で、二人の仲人くらいにしかなれてないかも……」
雲雀は自嘲した。
「そ、そんなことないよ?」
「うん、雲雀ちゃん、私たちが三人仲良しなの、そもそも変わらないし……」
「ふふ……えへへ、二人とも、ありがとうっ」
雲雀は納得したのかしていないのかを言わないまま、気遣ってくれる二人に明るく礼を言った。
翌朝、毎日定例の委員会会議で、霊力のモニターに移された映像が議題になった。
「えっと……正直に言うと、成婚の報告の映像のどこがマズいのかわからないよ……」
耐が切り出した。
「確かに……なんでこれがモニターに映ったのだろう……僕も不思議に思った……」
司がそれに続けた。ほかの子どもたちも、大半は困惑していた。しかし、珠洲、美濃、そして正の三人は、少し暗い顔をしていた。
「これ……なんとなくわかったよ」
美濃が言った。
「え……どういうこと?」
弘明が彼に聞いた。
「女の人は、あの人がこの公司に来た時、最初から、嘘をついて、自分が専業主士になれるだけの男性と成婚次第、やめるつもりだったように見えるよ」
美濃が続けた。
「え……それじゃあ、そんなの、『お仕事ごっこ』がしたかっただけじゃない! だからこそ、意味のない体育会みたいな根性論もいっぱい振り回すんだよね……、言葉で収益を大事にしているといくら言っても、本音は別、会社のことは実はどうでもよくて、どこでもいいから、根性論の世界をお遊びで楽しんでいるだけじゃない!」
淡水が肩を震わせて憤った。
「えっとね……それだけじゃないんだ……、そんな女性が労働の現場に出現したときから、世帯形成の見込みを持てない男性が確実に発生している……、それが次世代が見えない理由の重要な一つだよ」
珠洲が続けていった。
「それから、経営者の側だって……。多分慣例で定期昇給を敷いていそうだから、若者だけでサイクルができる女性の寿退社はメリットになるよ……、市民社会的には、そんな雇用サイクルを作られることは大きな損失だけど」
美濃が再び言った。
「珠洲ちゃん、美濃くん、淡水ちゃん、みんなよくわかったね……。そして、それだけじゃないよ。定期昇給は、中高年以降を自社に縛り付ける制度。どんなに悪質なことをされても転職できない。死んでしまう人もいる。みんながみんな、各自の公司の中で、いじめのターゲットを作り出してる。公司が、定期昇給の縛りがなく、従業員個人の、各々の業界に対する、スキルの発揮の場だったら、そんなおぞましい職場環境が、殆どの公司の内部で発生することはないんだよ」
正が補足した。
「そうだよね、たあくん……うん……、みんな、早ければ明日にでも長春の官邸に行きたいんだけど……いいかな……」
珠洲が他の子どもたちに言った。
「うん、私はOKだよ」
雲雀が言った。
「僕も、かな」
弘明がそれに続けた。
「そだね」
「うんっ」
子どもたち各自がそれにさらに続けた。
翌日の午前中から長春にもあった国家財経社労委員会の会議室に、子どもたちや正は、王首相や、陳済(チェンヂー)民社党秘書長らを集め、同委員会会議を開催した。
「ええと、委員長……、男女共同参画はわが国務院の推奨する施策でして……」
王は困惑した。
「はい、私もそれ自体は賛成です……私が問題視しているのは、定年まで公司で働こうとしない寿退社の風潮です」
珠洲は王に言った。
「え……、それは、男女共同参画の過程で発生する課題でありまして……、いずれ事業所の環境を整え、産児、育児の休暇を取得していくように進んでいき……」
「それはないと思います」
王の話を珠洲が淡々と遮った。
「へ……?」
「例えば労働法では、『最低基準』と法が謳っていても、実際にはそれを守っているだけでもレアで、違反も多数ですが……これと同じで、産児休暇などの取得が事業所の運営に影響を与えるのも事実です。そのため、寿退社の標準状態は、そうそう変わるものではありません。ここに、国家と市民の社会にあって、深刻な問題が潜んでいるんです……」
「え……」
王は唾を飲み込んだ。
「今や女性の大半は、時短のフリーターではなく、就活をして、正社員になっています。そしてその大半が寿退社をして専業主士になっています……、そしてそれはやむを得ず、ではなく、自ら好んでです。なぜであるかというと、専業主士が、端的に言って非常に楽だからです。このため彼女らの仕事に対する感覚も、収益などを口にはしていますが、それも含めて、不必要に根性論を振り回し、収益とは実は牽強付会の、言わば体育会部活動のお遊びの感覚になりやすいのですが……いずれにしましても、それにより、半数の、老年となるまで勤労するはずの男性の職場が強奪されているという深刻な事実があります。これが少子化にダイレクトに直結しています。ところが、事業所の側も、定期昇給があるため、若年で寿退社をしてくれる女性は人件費の観点から見ておいしい存在で、それを国務院が後押ししているなどとなると、猶更大手を振って、そのような施策に協力的となり、ここに来て、女性と事業所との間に、暗黙の了解で、不適切かつ、私たちの社会にとって、本質的に悪質な結び付きができるのです」
「な……そうだったのか!」
「我々は小手先のことをして、かえって自分たちの市民社会にとって危険な行為を施策としてやっていたんだ……!」
王や陳らは珠洲の話に感嘆した。
「そしてもう一つは、定期昇給の存在という問題です……」
珠洲はさらに続けた。
「な……」
「まだあるのでしょうか」
彼らはそれを聞いて真剣な表情になった。
「はい……定期昇給には、欠点しかありません。公司にとって、勤続年数の長い、自己の業種に長けた従業員を繋ぎ止めておくという観点からはいいかもしれませんが、これは結局は、国家、市民社会の観点から見れば、マイナスしかありません」
珠洲が言った。
「えっ……」
「そんな……」
彼らは絶句した。
「そもそも、その職場で自信がついている従業員は辞めません。それをお金で無理やり縛ってしまうと、そこが嫌な人も他所に行くことができなくなります、このため、外から見ればわかりませんが、オフィス街の道路の左右にある数多の公司の各部署では、いじめのターゲットが指名され、またそれをやめさせるための強制力も弱くなってしまいます。そうではなく、従業員各位はスキルを持ち、そのスキルでお互いに市民として貢献するのが労働ですが、公司はその仲介でしかありません。人権侵害などが公司であれば、別の同じ業種の公司に行けばいいのです。やや弱めの関係にするという強制力があることで、はじめてお互いの従業員に相互人権尊重の感覚が芽生えるのではないかと思うんです……」
「な……確かに……!」
「そうだったのか……我々は、その殆どが、浅はかな者ばかりだった……」
王や陳は再び溜息をついた。
「婚姻や妊娠を事由とする退職には、公司に、懲戒金を納めさせた方がよいでしょう。自己都合にしようとしても、前後数週間程度にそういうことがあれば同様にすれば逃げられないでしょう。但し、既に、そうした寿退社狙いの女性を雇ってしまった場合もありますので、女性従業員にヒアリングを実施し、寿退社を希望する女性については、今後五年程度で順次新規男性従業員と交代させるべきでしょう。懲戒金があると聞けば、事業所側も本気で取り組む可能性が高いです」
珠洲はメモを読みながら続けた。
「なるほど……そうですね」
王は頷いた。
「また、雇用日月を事由とする定期昇給は禁止が妥当でしょう。とはいえ、年配者など、それをあてに豪遊している世帯もあるため、その調整は漸進的で、これもおおよそ五年前後をかけるとよいでしょう……」
珠洲はさらに続けた。
「む……わかりました……! 国務院会議の後、国家議会に関連法案を提出することにしましょう」
王は嬉しそうに言った。
(小癪な真似を……! せっかくこのまま、市民たちの都市や国家の、人間始まって以来の、未来の見えない状況が生まれてくれたおかげで、我がその強がっているだけで非常に弱っている、圧倒的多数の人間たちを、滅亡するまで喰らい尽くす環境が整ったというのに……そのような施策がなされるなど、たまったものではない……!)
「……?」
その時珠洲は、会議室の窓の外に、黒い霧がなびいているのを見て、それを奇妙に思った。その霧はすぐに晴れた。
「珠洲ちゃん、どうしたの……?」
唯が心配そうに彼女に声をかけた。
「あ……ううん、なんでもないよ」
珠洲は少し笑顔を作って唯に答えた。
「そう……」
唯は引き続き心配そうな顔をしつつも、それ以上は何も言わなかった。
王政権が提出した、寿退社へのペナルティを課すこと、定期昇給を禁止することを骨子とした法案は、数週間で国家議会で可決された。
その翌日、瀋陽の国家財経社労委員会の会議室のパソコンの前に、子どもたちと正らが集まり、件の青年中山付近のオフィスの様子を覗った。例の女性の姿はなく、代わりに三名の、幹部らしき初老の男性らが映っていた。
「ううん、少し厄介なことになりましたな……」
「そうですね、あの法の改正で、安い若年層の女を使い回しにして、その女も最初からそれに内心では心から同意していたから、その気にさせて、これが仕事だよと、根性論をかざさせて、その脅しによって、我々執行部が、あたかも従業員の生殺与奪の権利を持っているかのような振る舞いをしていたのに……! それができなくなって、あんな政府、なんと鬱陶しい!」
「しかも、定期昇給によって、従業員らに、辞められない苦痛を与えることができなくなりました……。これでは我々は、今後は、技能を持った男女の、その技能の発揮の場を提供するような存在となります……。しかもそのような環境のまま公司とその従業員の雇用を維持しようとするのなら、従業員たちが、甘えとこれまでは軽んじていた、最低限度のお互いの人権への配慮をしないといけなくなってしまいます……。普段はお花畑で、ピンチの時には助け合う、そんないい子ぶりっ子が跋扈するような空間なんて……俺たちは倉庫裏の屯の空間から、やっと社会の表舞台で活躍できていたのに……!」
「仕方ないでしょう……王政権には、あの憎い、朝霧委員長や茨木副委員長がついているのです……。それに合わせるしかなさそうです……」
彼らは地団駄を踏みながら会合を続けていた。
「ククク……その調子だ……市民を想う法令など、あの霊力使いたちと同様に、消え去るのがよかろう!」
その時、閉まっているはずのドアの向こうの廊下から、低い男性の声がした。
「え……」
「なんだ……?」
男性社員らは会合をやめ、奇妙に思いながら廊下のドアを開けた。
「わああっ!」
「ぎゃああ!」
そして彼らはすぐに悲鳴を上げた。そこに一〇匹以上のウミガメの群れがいた。そしてその奥の天井には、濃い霧がかかっていた。
「なぜこんな地上にいられるんだ?」
「危ない! 逃げ……」
彼らは足をすくませた。その隙にウミガメの群れは彼らに迫ってきた。
「ああっ」
「これは……美濃くん……」
一方、その様子をモニター越しに見ていた珠洲と美濃は、お互いに頷きあった。
「助けてくれ!」
「うわぁぁ!」
「来るな、来るなぁ……!」
男性社員らは怯えながら、廊下をウミガメの群れから逃げようとしていた。
「我らは江蘇省南通地級市、ウミガメのアヤカシだ……、お前たちと同じく……未来の見えない今の人間の社会を心から歓迎している!」
「そうだ……、浅はかなお前たちはまだ気づいていないようだが、このままの通りに順調にいけば、やがて人間が自滅し、アヤカシの世が生まれる……」
「あの霊力の連中の出現でそれに乱れが生じたが……お前たちのようなアヤカシに近い人間を喰らえば、我らもそれに対抗する力を持てるのだ……!」
ウミガメらは人語を用い、男性らに言い放った。そして、そのうちの一匹は、男性のうちの一人にさらに接近した。
「ひいぃっ」
そのウミガメのうちの一匹が一人の服の袖にだけ噛み付いた。
「あ……あ……助けてくれ」
彼は他の男性社員のいる方を怯えながら向いた。
「知ったことか!」
「逃げろ……」
しかし残りの社員らはそれを意に介さず、引き続き逃げようとしていた。
「く……」
それを見た、袖を噛まれた男性は苦渋の表情を浮かべた。一方、他のウミガメも彼に近づいてきていた。
「あ……やめろ……いやだ……」
その男性はさらに怯え、強く目を閉じた。
しかし彼の腕もほかの部位も何の痛みも感じなかった。彼は恐る恐る目を開けた。すると目の前でウミガメのうちの一匹が、薄い緑色の光に包まれており、そしてその光ごとそのウミガメは消滅した。
「へ……?」
その男性は目を白黒させて周囲を見渡した。すると、数多のウミガメに混じって、男女二人の子どもの姿が目に入った。それは国家財経社労委員会の会議室からジャンプしてきた、ペンを手にした珠洲と美濃だった。
「珠洲ちゃん、カメの妖怪たちを……」
「うん……」
二人は呼応しあった。そして無言のまま、何発か霊力の弾をペンから発砲した。ウミガメたちの一部はそれに当たり、爆風とともに薄い緑色の光に包まれ、そしてその光ごと消滅していった。
「ひっ」
「うわっ!」
慌てて珠洲たちの光の弾を避けた社員らは、それに当たったウミガメらの光景を見てさらに驚いた。
「ぎゃあっ!」
その時、別の社員が悲鳴を上げた。彼はウミガメのうちの一匹に首根っこの袖を噛まれ、またそのウミガメが首を上げたため、宙に浮かされていた。
「――!」
それを見た美濃はすぐにそのウミガメに向けて光の弾を発砲した。
「あ、あ……」
するとそのウミガメの姿は消え、社員は床に落ちた。
「美濃くん……!」
「えっ……わっ、痛っ!」
一方、別のウミガメが美濃の首根っこの袖を掴み、右にぐるりと引きずった。
珠洲はそれを見て一呼吸し、そのウミガメに向けて発砲した。弾の直撃を受け、すぐにそれも消えた。しかしその一方、ウミガメらはじわじわと二人のもとに集団で近づいた。
「お前たちから先に始末しないといけないようだ!」
ウミガメのうちの一匹が怒鳴った。二人は背中合わせに追い詰められつつあった。
「ジャンプして、後で合わせよう……、二倍じゃなくって、十数倍くらいになるって桂創くんが言ってた……」
「うん……!」
美濃の呼びかけに珠洲は頷いた。そのすぐ後に二人の姿はその場から消えた。
「ん……?」
「奴らはどこに行った……?」
ウミガメらは周囲をきょろきょろと見渡した。
「いたぞ! ここだ!」
廊下で群れていたウミガメたちのうち、一番端にいたものが怒鳴った。
「珠洲ちゃん……」
「うん、美濃くん」
二人は呼びかけ合うと、各々のペンをX字型に重ね合わせた。
「現世の建物は……無事でいてほしいな……」
珠洲が呟いた。そして二人はペンをウミガメの群れに向け、それらを凝視した。
「な、なんだ……?」
「わからぬが……」
一瞬立ち止まった二人を見て、ウミガメらも奇妙に思い、怯んだ。
すぐに続いて、二人のペンの交差部分から強烈な薄い緑色の光が発生した。
「はぁっ?」
「な、眩しっ……」
ウミガメらが戸惑う中、その交差部から、濃い部分は直径一〇センチ程度、その周囲の薄い部分は一メートルはある、巨大な光弾が飛び出した。
「へっ?」
「うわっ」
「あああああ!」
「ぎゃああ!」
廊下に集っていたウミガメらは、その光弾の放つ光を浴びただけで、同じ光の色に包まれ、そしてすぐにその光ごと消えていった。
「……もう大丈夫かな……」
「うん……」
珠洲と美濃は頷きあった。
瀋陽の国家財経社労委員会の会議室の入口の前の空間が薄い緑色の光に包まれ、そしてその中から珠洲と美濃が現れた。
「おかえりなさいー!」
「おかえり~!」
すぐに耐と司が言った。
「ただいま……」
珠洲と美濃は二人に行った。そしてその後方にいた、他の子どもたちや正にも会釈を交わした。
「あの公司の人たちはどうなったのかな……」
珠洲が呟いた。
「大丈夫……、けが人はいないようだったよ。後々のことまではわからないけど、おそらく、男女共参は出直し、男性がメインで、それも、賃金の期間による引き上げによらずに、なるべく長くいられるよう、お互いを尊重しあう関係が構築されやすくなってると思う」
正が説明した。
「うん……」
美濃がそれに頷いた。
「そうだね、私は深くは考えられていないかもしれないけど、二人やたあくんを見てほっとしたのもほんとだよ」
耐が言った。
「うん、僕も……」
「私もだよ」
司と雲雀がそれに続けた。
「あ、ありがとう……」
珠洲は彼らに礼を述べた。
「桂創くん、小瓶は……」
一方、美濃が桂創に質問した。
「うん、ありがとう……砂は、ちゃんと増えてるよ」
「よかった……」
桂創の笑みを見て、美濃も安堵し笑顔になった。
「マネージャー、ちょっと話があります」
「ん、君か、何だね?」
ある夏の夕暮れ時に、国鉄瀋陽東駅近くの四階建てのビルの一階は精肉屋となっていたが、その上の階は、その精肉屋のオフィスが入っており、その部屋の奥のマネージャーの執務席に、一人のスーツ姿の男性社員が寄った。
「私はここに入社するとき、残業もあるが、それはさほどではないと聞いていました。ここの精肉業者は瀋陽でも有名で、味にも定評があり、消費者に提供しているものにはまがいさは感じませんでした。ですが、入社してから、もう二ケ月が経ちますが、毎日三時間以上の残業があり、帰宅が深夜になり、私にはまだ幼い子どももいるのに、彼らに接する時間もない。さっさと帰らせてもらいたいのです」
「だめだだめだ! 『みんなでしている』という正義を破る悪者め! 公司への忠誠を誓うという正義もあるぞ! お前はまったく、俺たちの作り出す美しい、『コミュニケーション』のなされる、『社会』をないがしろにするつもりなのか!」
マネージャーと呼ばれた男性は彼に向かって怒鳴った。
「し、しかし、法律では……」
「何度も言わせるな! 美しい『適応』のできていない、著しく人間工学上の行動の制約をなされた、まるで二足歩行が困難であるかのような無能なやつめ! 法律よりも適応、それこそが美しい俺たちの『社会』だと言っているだろ! さあ、わかったら席に戻って、作業をあと三時間は続けるんだ!」
「は、はい……」
男性社員は渋々首を垂れた。
「—―」
その様子を国家財経社労委員会会議室のパソコンが自動録画しており、翌朝、子どもたちらはそれを見ることになった。
「法令違反にしては、態度が酷いよ……」
耐が呟いた
「うん……」
司もそれに頷いた。
「結局は罰則の強さの問題な気がするよ……。この人たちも、外ではちゃんと歩道を歩いていて、穏やかな駅前通りの風景の一部になっていたはず。法令の罰則が弱いって言うだけで、話し合いを軽んじて、すぐに不法の方に働き、その一部の人たちが、事業所全体を支配してしまう……。罰則が強ければすぐに逆になるのに……どうして放置されているんだろう」
雲雀が悔しそうに言った。
「世帯内での児童虐待は、王首相によると最近法律が改正され、違反が見つけやすくなったみたい……。つまり一定数、子どもの児童虐待だけを問題視し、こういった労働虐待を見て見ぬふりをする、偽善者がいるってことじゃ……」
弘明がそれに続けた。
「うん……。給与明細、タイムカード……これらで明白な違法かどうかは、数値ですぐにわかるもの……。電話一本で、監督署職員が大挙して立ち入り可能な権限を付与すれば、すぐにそれらは見つけられるし、嘘もすぐにばれる……」
珠洲が提議した。
「そうだね……それと、罰則は……、この場合は、もしも、このマネージャーさんの指示による違反で、上からの指示がなかったんなら、このマネージャー、即ち、違反行為の指示の最終責任者がマズいかな。必ずしも、全公司の労務管理者がこれを把握しているとは限らないし。それと、逮捕……つまり身柄付き送致では業務に支障が出やすい……、原則書類送検で、罰金刑を主眼とし、自動車の値段くらいまで引き上げれば、性悪説の人へも、抑止力が働き始めると思う……」
美濃がそれに続けた。
「うん……」
「なるほど……」
唯、淡水らを始め、他の子どもたちも注意深くそれを聞いた。
「あれ? 録画、また別のものもあるみたいだよ」
その時、雲雀が声を上げた。
「うん、続いてるよ」
桂創が言った。
「続きも見よう……」
「うん」
美濃の言葉に司が頷いた。
「おい、君、今何をしている?」
同じ瀋陽東駅付近の、五階程度のオフィスビルの一室で、中年の男性の社員が、メガネをかけ、椅子に座っていた若い男性に高圧的に尋ねた。
「はい、ちょうど、発注が多かったので、伝票のデータをソフトに取り込んでいましたが……」
「俺が言った、本社への報告書の作成はどうなった?」
「あ、それは、この作業の後でも間に合いそうですので、後で……」
「ダメだ、何をやっているんだ!」
「え……?」
彼の態度に、若い社員は驚かされた。
「こういう時は報告書の作成が先だ! 常識だ! 当然だ! そんなこともわからないのか! だからお前は『社会』を知らないと言われるんだ! だが心配はないだろう、毎日俺はお前を思って正義の叱責をしてやっているから、いずれお前はもう何も言われなくなる、立派な社会人に俺が育ててやっているからな!」
「は、はい……」
中年の男性の威力に、若い男性は渋々頷くばかりだった。テープはまだ続いていた。
「うーん、これはどうなんだろう……」
「冷静に考えれば本当に伝票の作業の方が先で、上司さんが、報告書のことで頭がいっぱいになってて、たまたまこうなった、とかだったら、確かに正当な叱責の看板を手にとっての奇妙な指示だけど、報告書の作成自体もレアで、彼も混乱しているのかもしれない……」
雲雀と珠洲が言った。
「あ……まだ続いてるみたい」
弘明が言った。続いて、テープはその数時間後の様子を映し出した。
「おい、お前、何をしているんだ?」
上役の会社員が、再び若い社員のもとに来て聞いた。
「え……、言われた通り、報告書の作成ですが……!」
「何を考えているんだ! 伝票の入力作業が先だ、そういう公明正大な理由があるだろう! まったく、だからお前は『社会』に合っていないと言われるんだ! 俺がこんなにお前を思ってアドバイスをしてやっているというのに!」
「え、さっきと言っていることが逆……、しかも、それを言うなら、報告書の優先にも理由が……」
「言い訳をするな! なんてできの悪いやつなんだ! さっさと言われた通りに伝票を入力しろ!」
「は、はい……」
若い社員は、彼の強圧に怯え、伝票の作業に取り掛かった。
一方その様子を、委員会会議室の子どもたちも見ていた。
「なんか……叱責にしては不自然じゃない?」
「私もそれは感じた……」
弘明と唯が言った。
「うん……普通なら、仮に新規で入ったとしても、二、三か月もすれば、強圧的な叱責は、殆どなくなるはず……。もちろん、ゼロにはならないだろうし、教え方にも個人差があって、『完全に体で覚えることしかできない』人もいれば、HSPは、『メモを取らないと覚えられない』し、そのどちらかを押し付けることなく、その人に合った覚え方を尊重するべきだけど……」
美濃が言った。
「この上司さん、さっきは、AをせずにBをやれと言ってた。その理由はβだから。そして今度は、BをせずにAをやれと言った。その理由はαだから……。叱責の理由なんて、簡単に作れるし、実は視野を広げれば言わない方が正解なことだってたくさんあるのに、この人は、それを発見次第、強圧的な態度で罵声を浴びせている……。いずれ育て終わる、って言うのも嘘だと思う。同僚同士の関係に、競争や対立しか頭にないから。お花畑でも何でもない、最低限度の相手の人権の感覚があれば、そういう行動はとれないか、まれに自分を制御できなくなるときくらいのはず。たとえそこに罵声の『理由』なるものがこじつけられ、一見すると、業務上の注意に見えても、これはサイコ上司によるパワハラだ……。悲しいけど、グループの中にはこういう人もいて、彼らはルールギリギリで、なるべく最大の悪を為すことを考えている……。それが、『業務上の、不自然な叱責』として現れる……。これは相手やグループにとって、抑え込んだ状態とは言えない……、個人には精神衛生上の攻撃だし、罵声さえできればいいんだから、実際にはグループにとってもマイナスな内容もかなりを占めてしまっている……。もちろん、児童虐待と一緒で、ゼロにはできないし、ゼロの方が不自然……。だから社会通念上一般的な範囲なら仕方ないんだけど……それ以上に、虐待が何日も続く、『不自然さ』があると、やっぱり強制的に周囲の措置が要るよね。サイコ上司による罵声もそれと同じだよ。叱責の全部を非難することはできないけど、不自然に量が多かったり、内容が酷かったりすると、それはすぐに外部の強制力が要るはず……。今のルール……公司の上層部なんて訴えても仕方ないし、民事でもない内容……ただ本人に直接の刑事案件でいいと思う。その内容も、さっきの明白な労基法違反と同様、直ちに強制の立ち入り、原則書類送検、高額罰金刑、と言ったところが妥当かな……」
珠洲がそれに続けた。
「なるほど……」
「うん……、それでやってみよう」
それを聞いていた、司や耐が言った。
「児童虐待にはすぐに反応するのに、全く同じ『人間』に対する虐待なのに、労働者への虐待を見て見ぬふりをするなんて……、偽善だよ」
雲雀が口調を強めた。
「うん……」
唯が悲しそうにそれに頷いた。
「また……数日中に、長春に行こう」
珠洲が言った。
「うん、わかった」
「いいよ」
弘明や唯はそれに頷いた。
その数日後、長春の側の国家財経社労委員会会議室に、王首相、陳秘書長らと、子どもたちらが集まった。
「世論はどうしても、悲観的な方を選びがちで、進んでおかしい方を変えようとしないもので……それで放置されていた、深刻な問題ですね……」
陳が言った。
「ああ……。しかしだからこそ、こんなにも深刻な問題なのに、解決もあまりにもあっさりなんだ……。朝霧さんや茨木さん、相川さん……、皆さんが来てくださって、本当によかったと思います」
王は恥ずかしそうに礼を述べた。
「いえ……どういたしまして」
珠洲もはにかみながら返礼した。
「えへへ、よかったね……」
耐が珠洲に笑顔で言った。
「うん……」
それを見た珠洲はさらに赤面した。
労働に関しての法案はすぐに改正、施行された。
その数日後、子どもたちが朝の定例委員会会議を開くために会議室に集まって程なくしたとき、パソコンのモニターが自動で瀋陽東駅付近のオフィス内部の光景を映し出した。
「……?」
「あれ、ついた……」
彼らはその前に集まった。オフィスの一角の椅子に、あの上司が座り、テーブルのパソコンの方を向いていた。しかしその表情は上の空だった。
(政治家め……!)
その直後に、委員会会議室のパソコンから彼の声がした。しかし彼はそれを口出していない様子だった。
「あれ……内面まで聞こえるの……」
「これってマズくない……?」
美濃が怪訝そうな顔つきになった。
「うん……僕たちに関係することに限って聞こえるみたい……」
桂創が伝えた。
「うーん、それなら仕方ないのかな」
弘明が言った。
「うん……」
雲雀もそれに頷いた。
(ちょっとした仕事の指示も全部違反になってしまうじゃないか! ……いや、そうじゃなかったか……、不自然、過剰に不必要で多量だと? そんなの、部下が格別に出来が悪いからに決まっているって言えばいいじゃないか! いや……俺が上司だと、ほぼ全ての後輩が格別に出来が悪い奴になる……、いや、それは俺が一際プロフェッショナルを育てたい優れた上司だからで……いや……違う、違うんだ!)
彼は苦悶し続けた。
(……いじめができる環境ができるならいじめをすればいい。それができない環境なら大人しくしていればいい。叱責が許される環境であれば、手当たり次第に適当に理由付けをして叱責をして、そうやって自分を守ればいい……。……? 今脳裏によぎったのは何だ? 違う、違うんだ、俺は正しい人間、悪くない、悪者じゃない、俺は正義なんだ、そのはずなんだ!)
彼の苦悶はやまなかった。
「張(チャン)さん、どうしたのですか、顔色が優れないようですが……」
他の社員が彼に向かって尋ねた。
「な、なんでもない、ほっといてくれい!」
「は、はい」
彼の怒鳴り声にその社員は驚き、彼の周囲には誰もいなくなった。
(とととにかく俺は悪者なんかじゃない! 悪いのはあの政治家たちだ! 薄毛の癖に! そう、正しいのは俺! 悪いのは政治家! なぜなら彼らは薄毛だから! そうだ! この理由ならとても心からの納得ができるぞ! よしやった! くっ……ちくしょう……そんなわけがないだろ……ちくしょう……ちくしょう……!)
彼の苦悶はやまなかった。
(ふふ……私には、さっきから貴様の心の声が聞こえているぞ)
その時、彼の脳裏に、別の低い男性の声がした。一方、珠洲たちのモニターに、その声は届いていなかった。
「な、誰だ?」
上役の社員は声を上げた。彼の突然の大声に、事務所内にいた他の約一〇名ほどの社員も驚かされた。
(あのような法令を通す議会などなくなればよい……、全くその通りだ、そのためには、お前にも協力してもらい、その意思ごと頂く)
「い、意思……待て、それはやめてくれ!」
彼は再び声を上げた。
「所長……?」
「どうしたんだろう……」
他の社員たちはざわつき始めた。
一方、事務所の外の廊下には、一人の男性の影があった。すぐにその影の方から、濃い霧が生み出され始め、ドアの隙間を通って、事務所の中に入り込んでいった。
(ふふふ……これでいいだろう)
「待て、貴様、何をした!」
所長が大声を出すのと同時に、部屋に濃い霧が漂い始めた。
「え……」
「何、火事……?」
社員らがざわつく中、社員らの持参していたペットボトルが、次々と霧に包まれ一瞬見えなくなった。そして霧が晴れた時、ペットボトルは茶碗になっていた。
「え……」
「茶碗……?」
社員らはそれを見て再び驚かされた。
「我らは上海の水郷都市、松江区、超果寺の茶碗だ。ある者に蛇が憑き、それを祓うために道士が術を為す際に用意されたものだが、術は失敗し、蛇の霊により、危険な武器として周囲を飛来したため、超果寺に治められたものだ……!」
茶色の茶碗群の一つが人語を話した。
「そ……その茶碗がなぜ私の事務所に……」
所長が聞いた。
「知れたこと……、さっきもあのお方から言われたであろう。あのお方の命により、お前を始め、この部署の者の意思を頂くためだ!」
茶碗のうちの一つが言い放った。
「は……」
それを聞いた所長は蒼褪めた。
「喰らえ……!」
茶碗のうちの一つが、彼に飛翔した。
「ひっ!」
彼は慌てて避けた。
「いやあああっ!」
しかしそれは彼の後ろにいた別の男性社員の頭部に当たり、彼はぐったりと倒れこんだ。
「お、おい、君!」
所長が叫んだが、彼は反応しなかった。
「お前のせいだな、アハハ、何人もの仲間をただの玩具のように扱ってきたんだ、今更そんな光景、珍しくもなんともないだろ!」
別の茶碗が言い放った。
「あ……ちが……」
それを聞いた所長は引き続き蒼い表情で否定しようとした。
「ハハハ、無駄だ、くたばれよ」
その声と同時に別の茶碗が彼に飛翔した。
「あっ」
彼は再びそれをかろうじて避けた。
「うわああ!」
しかしそれは再び他の社員の頭部に直撃し、その社員も倒れこんだ。
「あ……」
それを見た所長はただただ震えるしかなかった。
「わ」
「美濃くん」
美濃と珠洲はその光景をモニター越しに見ると、お互いの顔を合わせ、頷き合った。
「行くんだね……」
「うん」
桂創の問いかけに、美濃が頷いた。そして珠洲と美濃の二人は軽く目を閉じた。すぐに二人の体を薄緑色の光が包み始めた。
「ひっ……!」
所長は自分に飛んできた茶碗をまた避けた。それは事務所の窓ガラスに当たったが、どちらも割れなかった。
「な……人にしか反応しないのか」
それを見た社員らはさらに驚かされた。
「おいっ!」
その別の社員が窓ガラスに当たった茶碗を見た社員向けて声を上げた。
「えっ……」
彼の瞳孔が広がった。自分の頭部に向かって茶碗が高速で飛翔してきていた。
――パン!
その茶碗は彼の手前で突然薄い緑色に光り、そして音とともに光ごと消えた。
「え……?」
彼が恐る恐る光弾の来た方を向くと、そこに珠洲と美濃の姿があった。
「こ、子ども……?」
突然現れた二人の姿を見て、社員たちはさらに驚き、また怯えた。
「いっぱいある……、いったん別れよう」
「うん」
美濃の提案に珠洲は頷いた。そしてすぐに二人は室内の別々の隅にジャンプした。
「危なっ……!」
社員のうちの一人が、美濃を見て叫んだ。彼の方に三,四枚程度の茶碗が飛んできていた。しかし既に美濃はそれらを見つめていた。すぐに光弾が数発発射され、それらは衝撃音を発するとともに、全て光に包まれて消えた。
「……、珠……」
美濃ははっと左を向き、その先の、部屋の角にいた珠洲の方を向いた。彼女にも数枚の茶碗が飛翔していたが、それらは全てすぐに、美濃の時と同じように、薄い緑色の光に包まれて消えた。
「ひ、うわああ!」
一方、所長の顔面に向かって、直径三〇センチはある巨大な鉢が飛んでいた。
「—―!」
珠洲はさっとそれを目に入れた。すると直ちにその鉢は光に包まれ、そして音とともに粉々になった。
一方、小さな茶碗はそれぞれ白い光に包まれ、殆ど同じ大きさの別の茶碗を自らから分離させ生み出し始めた。
「……! 珠洲ちゃん、あの数じゃ……」
「うん……私たちも、光筒を合体で行こう」
言い合った直後二人はそれぞれの光筒をX文字型に重ねて前に出した。その交差部分から薄緑色の光が現れ始めた。
一方、茶碗群の方も、合計で二〇枚近くの量になり、すぐに二人に向かって襲撃しようとした。
「――!」
一方、二人が生み出した薄緑色の光の方も、核心部が濃く、薄い部分も合わせると直径一メートルにはなる巨大な光弾を発射し、それらは互いに衝突し、多数の茶碗の割れる音がするとともに、部屋の埃が集まって舞い、茶碗らは一時見えなくなった。
そして再び埃が消えた時、床に粉々の破片が多数落ちていた。浮かんでいる茶碗は見当たらなかった。
「ちっ……ここは分が悪いところだ……」
その時、濃い霧に覆われていた事務所の入り口の方から男性の声がした。
「え……?」
珠洲はそれを気にして入り口の方を向いたが、次第にその霧は晴れていった。
「珠洲ちゃん……?」
美濃は珠洲が入り口を見つめていることを気にした。
「あ……美濃くん、廊下の、さっきまで霧がかかってたところから、誰かの声がした気がする……」
「え……」
美濃はそれを聞いて訝しげな表情になった。
「もしかして……この茶碗や、この前の亀たちもだけど……、僕たちと同じように、『見ている』人とかがいるのかな……」
「わからない……けど、そうかも……」
二人は少し緊張した面持ちになった。
「ひとまず……帰ろう」
やがて美濃が言った。
「うん……」
珠洲がそれに頷いた。
「ただいまー」
珠洲と美濃は、瀋陽市の国家財経社労委員会会議室に光筒によるジャンプで戻ってきた。
「モニター越しのところは、すぐに行けて良いよね」
珠洲が苦笑した。
「おかえりなさいっ!」
耐が明るく返礼した。
「耐ちゃん、ただい……あれ……」
珠洲はすぐに彼女が少し泣いていた跡を見つけた。
「……大丈夫だよ」
珠洲はそっと耐の右肩を抱いた。
「うん……」
耐は小さく頷いた。
「あの所長さんはこれからどう……」
一方、美濃が疑問をどもりながら発した。
「人の心までは簡単には入れ替えられないよ……。法令によって力で抑えつけただけなんだけど、彼にはそれしか自分を動かす指標がないから。手当たり次第に、叱責の理由が見つかり次第……なんてことを、愉快がってしていたけど、法令から自分を守るためにそれはしなくなる……。これまで暴力を振るわなかったのと同じように。心までは変えられないけど。でも、それによって、多数の、そんなことを愉快と思わないはずの人たちは、これまで頻繁にされていた、そういう連日の言葉の暴力という人権侵害を受けずに済むから、出社していることで引きこもりよりも劣った心理状態から開放されて、伸び伸びと、始めて、お互いの人権を最低限尊重し合う空間を構築できるようになると思う。これまで人権侵害がのさばり、避難から引きこもることの方が正解だった空間から、堂々と、引きこもりをしていた人が凱旋でき、所長氏の方が、『お花畑め!』と、遠くから、大した被害も発生しない愚痴しか言えず、その気持ちを共有する者も失い、そちらの方が、悪い不良のように、本当の悪と呼べる引きこもりの心理状態になるだろうね。話し合いという世界を知らないのは人のごく一部だけど、これまではそれを抑える力がなかったから、多数が引きこもりの状態になって、あげくそんなものが社会であるなどと吹聴されていたんだ。でも、これからはそんな一部の方こそが、本来の引きこもりとして閉じ込められ、話し合いというものを知っている多数が、普通に過ごせる空間ができていくと思うよ」
正が答えた。
「よかった……」
「うん……ほんとに……」
それを聞いた弘明や雲雀も胸をなでおろした。
「桂創くん、小瓶の砂は……」
淡水が聞いた。
「あ……、うん、また増えたよ」
彼は笑顔で言った。
「よかった……」
唯と司も安堵した。
「えへへ」
それを見た珠洲と美濃は二人とも笑顔になった。
2020年8月11日 発行 初版
bb_B_00165355
bcck: http://bccks.jp/bcck/00165355/info
user: http://bccks.jp/user/138478
format:#002t
Powered by BCCKS
株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp
※ 改行多数のため、ツイプロ及びブログメッセージボードをご参照ください。 〇ツイプロ:http://twpf.jp/sigure_pc 〇ブログメッセージボード:http://blog.livedoor.jp/t_finepc/ ※ アイコンの下のイラストはつばさちゃん/しいねちゃんですが、小説の珠洲ちゃん、美濃くんの外見イメージにも近いです。