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我々、国際ネコネットワーク(INN)は猫族が人類支配を企ていることを確信するに至って、その志に賛同し軍門に下り、全面降伏した上で、他の未服従人類にネコとの和解を強く勧めるものである。
猫、それはすなわち正義そのものを具現化した存在であり、神あるいはそれに準ずる存在でもあることは、広く民衆の知るところである。ここに集めた文献には、その猫に関する詳しい情報が秘められている。これらを紐解くことで、猫が如何に我々人類に近づき、支配し、服従せしめているか誰にでもわかるだろう。
本書は国際ネコネットワークの秘密の呼びかけに呼応した作家が、自らの作品を人類救済のために供出または書き下ろしたものであり、対価を得ていない。作品の末尾に各々の宣伝を添えてあるので、そちらで何らかの報酬を支払っていただければ、組織の財政も潤うというものである。国際ネコネットワークの方針に得心されるのであれば、ぜひ合流して共に歩んでいただきたく思う。
また、新たにこの活動に参加したいと志す活動家も我々は歓迎する。猫に関する作品を仕上げて、最寄りの活動家に声をかければいい。弊組織では猫が登場すれば自動的にSF作品として認定されるので、内容やジャンルは気にしなくてよい。また、文字数も自由である。本書には200字の掌編から6万字を超える大作まで寄せられており、いかなる文量のものでも断りようがない。気軽に賛同していただいてまったく問題ないのである。
また、あなたがプロフェッショナルかアマチュアかも問われない。そこに猫がいるのかどうか、それだけが国際ネコネットワークへの参加条件である。
来たれよ猫作家ども。チュールは我らと共にあり。
INN『猛チュールの惑星』制作部・実行特務部隊長 拝
吐き戻しが多いのは昔からだった。食欲が落ちていたのも、ああ今年も夏バテかなんて気にもしなかった。こちらが撫でようとしても軟体動物みたいにぐにゃりとよけ、出社前の忙しいときや疲れて動けないときに限って「撫でなさいヨォ」と脛や肘に顔をこすりつけてくるのもいつも通りだったのだ。
異変を認識できたのはめずらしくわたしとネコの、撫でたい/撫でられたいのタイミングが合ったときだ。気が変わらないようできるだけ優しく撫でる指先に、はっきりと背骨と腰骨の感触があった。撫でるのを中断しひょういと脇から持ち上げてやると異様に軽い。
「おまえ、もしかして病気なのか」
ネコは身をよじって降ろせと要求してくる。手近なテーブルの上にそっと置いてやると、ネコは前足を床に向かって垂直にピンと伸ばして座り真っ直ぐにわたしを見た。今日は土曜日だ。わたしはネコを病院に連れていくことにした。
動物病院は近所だったがケージがない。仕方なく家にある一番大きなリュックサックに入れていくことにした。不穏な気配に気が付き、伸ばした手の横を素早くすり抜け逃げるネコ。追うわたし。寝室に逃げ、わたしの手をすり抜けクローゼットに隠れ、わたしの股を抜け最終的にはお風呂場に追いやり捕まえた。
「フー!」と怒って暴れるネコを「ごめんよ」と言いながら洗濯ネットに入れリュックに収めた。ネットの向こうからこちらに突き刺さるネコの視線と表情からは、なんなのよこれ絶対に許さないワァ、という強い意志を感じた。
その日は朝から小雨が降っており、六月にしては肌寒い日だった。少し迷ったが自転車で行くことにした。歩いて行ける距離ではあったが振動がネコによくないと思ったからだ。傘はさせないのでフード付きのジャンパーを羽織る。何も無ければいい。そう願っていた。
わたしの家から動物病院までは一本の大きな道路が通っている。いつもなら適当なタイミングで渡ってしまうが今日は信号から行くことにする。背中にくぐもったネコの怒声を受けながら青信号を確認し横断歩道を渡っていると、向かって右手の少し先に動物病院の看板が見えてきた。
思っていたよりも近いな。そう思って横断歩道を渡り切った瞬間、目の前の小道からなにかが飛び出してきた。すぐに急ブレーキをかける。声を荒げそうになったが背中にネコがいることを思い出し、代わりに飛び出してきた何者かを睨みつけた。相手はわたしと同じようにフードを被った、雨合羽がしっくりくるくらいの子どもの天使だった。
「ごめんなさい」
向こうも驚いたようで、素直に自分の非を謝った子どもにそれ以上なにもできずしかめっ面だけする。こんなことをしている場合ではない。リュックがこれ以上濡れる前に動物病院に行かなくては。そこまで考えたところで気が付いた。背中の重みがなくなっている。すぐに片腕を抜きリュックを体の前に持っていくも、中身が無いことは明らかだった。素早くあたりを見回すと、洗濯ネットが見付かった。白いネットは子どもが飛び出してきた場所に落ちており、雨水を吸い灰色になっていた。後ろで自転車が倒れたのも気にせずそれに駆け寄るが、やはり中身はなかった。
「あの、ごめんなさい」
子どもの天使が後ろに立っていた。自分のせいでなにか悪いことが起きたのだと思ったのだろう。
「大丈夫だよ」
ネットをリュックにしまい立ち上がりながらそう伝える。
「わたしはオレンス。あなたは?」
子どもは最初、何を訊かれたのかわからないという顔したがすぐに理解し不安げなまま答えた。
「ルチです。あの、落とし物だったら僕も探します」
「ありがとう。リュックの、あのネットの中身、ネコだったんだ」
「ネコ!」
ルチの表情は驚きの後にゆっくりと笑顔に変わっていった。
「名前はなんて言うんですか?」
「牛牛乳泥棒だよ」
うしぎゅうにゅうどろぼう? とルチは首を傾げた。
「探すの手伝ってくれるかな」
ルチは大きく頷いて、ぎゅっと両の手のひらをグーの形に握った。
「牛牛乳ちゃんってどんなネコなんですか?」
「茶色くて、濃い茶色とふつうの茶色がまだらになってるかなあ」
本当だろうか。言いながら、わたしは牛牛乳泥棒の姿に関する記憶があやふやになってきていることに不安を覚えた。
「あとすごく澄ましたネコで、でもたまにとっても甘えてくるよ」
ルチは分かったような分かっていないような返事をし進んでいく。わたしはというと、牛牛乳泥棒がいないか左右を確認しながら歩いているためルチの後ろをついていくのでせいいっぱいだった。
「こんな風になってるんだねえ」
わたしが感心した風に言うと「ニンゲンのひとはあまり来ないですもんね」と返された。なんとなく、トゲがあるような気がしてそれ以上何も訊けなかった。
ルチは牛牛乳泥棒の場所を知っているみたいに路地を進んでいった。完全な一本道で、左右は垂直にそびえたつコンクリートの団地みたいなもので埋まっている。確かにネコが隠れるような場所なんてほとんどないように見えるけれど、たまにある窪みに牛牛乳泥棒が入っていってないか気になってしまう。だけどルチはそんなわたしなどお構いなしにどんどん進んでいく。
「ここで行き止まりだよ」
ルチが立ち止まった先にはわたしの背丈くらいの高さの塀で囲まれた巨大な敷地と、その真ん中あたりにそびえたつ凸の字みたいな建造物があった。わたしの知る学校とよく似ていた。
「ここは?」
尋ねるわたしを置いて、入り口にあり赤く光る自動改札機みたいな機械に手をかざし敷地に入っていくルチ。慌ててその後を追うけれど、本当にここに牛牛乳泥棒はいるのだろうか。
「学校だよ」
前を行くルチが振り向かずに答えてくれた。やっぱり天使たちの学校。知識としては知っていたが、実物を見るのは初めてだ。
「元はニンゲンのひとたちが使っていたものだったんだって」
なるほど、どおりでそれらしい形をしているわけだ。
「あっ!」
思わず声をあげてしまった。敷地のなかの、雨でゆるくなった土にネコの足跡があったのだ。駆け寄って、足跡の流れを見てみる。線でつなぐと二重らせんになりそうないくつもの足跡は、確かに学校の玄関へと続いていた。
「牛牛乳ちゃんのかな」
ルチが言う。わからない。だけどこれを頼りに進むしかない。
「行こう」
さっきまでとは逆に、わたしが先頭に立ちそのあとをルチが付いてくる。玄関に着くと、今度は茶色い土の足跡が点々と残っていた。スリッパとかあるのかな? とルチに訊こうと振り向くと、ルチはすでに靴を脱ぎ靴下で立っている。玄関は広く何十人、何百人分の靴箱が並び、足元にはすのこのようなものが敷かれている。わたしも靴をその場に残し、靴下で建物のなかに入った。
「ルチはもう通ってるの?」
「うん。まだ低学年だからやれることは少ないけどね」
いつの間にか敬語でなくなっているルチに親しみを覚えながら、わたしたちは小走りで廊下を進んでいく。
「やれること?」
「うん、本格的な学校は十二歳からだから」
そう教えてくれるルチの顔色はどうしてか優れない。わたしには分からない、天使たちのルールがあるのかもしれない。わたしは、あまりそこに踏み込みすぎないよう気を付けることにした。
廊下は左右の扉を繋ぐように真っ直ぐに続いており、茶色い足跡は「国語室」と書かれた部屋に続いていた。
「ここは?」
ルチに尋ねる。ドアは少しだけ、ネコがちょうど一匹通れるくらいの隙間が開いている。
「国語室って言って、下級生がニンゲンの言葉を学ぶ部屋だよ」
僕はもう話せるけどね、とルチが続けた。たしかに、ルチくらいの歳でこれだけニンゲンの言葉を上手に使える子どもは見たことがなかった。わたしの住む地域には天使が多いが、家の近くの小さな天使は皆、わたしには分からない言葉で話している。
足跡は手前の扉から中に入り、奥の扉から出てきている。中も気になるが、いまは先を急ぐことにした。ちらと見えた室内には、知らない器械がたくさん並んでいた。授業で使うのだろうか。なんだか不思議な感じがした。
ネコの足跡はその後も算数室、理科室、社会室と様々な部屋に入っては出ながら先に進んでいた。だけど足についた泥は少しづつ減っており、茶色い足跡はいまや水滴みたいな小さな丸だけとなっている。早く追い付かなくては足跡が消えてしまう。
足跡はその後、給食室、と書かれた部屋に入っていった。そして、やっぱり奥の扉から出てきたのだけど、その脇には吐き戻しの跡があった。ポケットティッシュでそれを拭ってやる。泥はいよいよ消えかかっている。曲がり角でどちらに行ったかわたしとルチで懸命に探す。階段を上り、踊り場で這いつくばり、やっぱり階段を下って、保健室を通り、足跡が辿り着いたのは何も書かれていない部屋だった。
「教室だよ」
わたしが尋ねる前にルチが答えてくれた。
「教える部屋だ」
言いながら、ルチが教室のドアを開ける。そこには一匹の茶色いネコ、牛牛乳泥棒がいた。
「牛牛乳泥棒」
名前を呼びながら、脅かさないようできるだけゆっくりと教室に入る。後ろで、ルチが扉を閉めてくれる。
ルチに心のなかで感謝を言いながら、牛牛乳泥棒に近寄る。牛牛乳泥棒は、家を出る前に見せたあの前足をピンと伸ばした姿勢のままわたしを見ていた。逃げる様子はない。怒っているのだろうか。そんな想像が頭をよぎる。
「オレンス」
一瞬、ルチに呼ばれたと思い後ろを見た。だけどルチは首を横に振っている。もう一度、ゆっくりと牛牛乳泥棒の方を見た。
「心配を掛けたわネェ」
はたして、わたしの名前を呼んだのは牛牛乳泥棒だった。
牛牛乳は続ける。
「自分の名前を知って、驚いたワァ。牛、重複しとるやないカィ」
「牛牛乳泥棒、どうして」
今朝までは確かにニンゲンの言葉なんて話せない普通のネコだったのだ。
「学校のちからです」
驚いて言葉が続かないわたしにルチがそう言った。
「ここは十二歳以上の天使を神さまにするための場所だから、ここに来た牛牛乳ちゃんもきっと」
牛牛乳泥棒が通ってきた教室が思い浮かべる。国語、算数、理科、社会を学び、給食を食べ、あとは?
「保健室、あそこで病気を治したのヨォ。悪性の腫瘍ってやつだったワァ」
こともなげに言う牛牛乳泥棒の首には見たことのないリングのようなものがかかっていた。
「あ! それ牛牛乳ちゃんにとられてたのか」
「なに? あれ」
どこに驚いていいのか分からないまま、とりあえずルチに尋ねる。
「セキュリティーカードだよ。ここに入ったりするのに必要なんだ。さっきは忘れたとき用の手のひら認証で入ったけど
牛牛乳泥棒が後ろ足で、かかかか、とわっかの隙間から首をかいている。
「授業を受けるにもあのわっかがいるんだ。牛牛乳ちゃん、ここにくるまでに僕のを使ったみたい」
「そうヨォ、これ悪くないわネェ」
「そう? じゃあそのままあげるよ、それ」
申請すれば再発行できるしね、とルチ。
首をかき終わり満足そうな顔でこちらを見る牛牛乳泥棒。
「まあ、あんたが病気を治してくれようとしたことはわかったワァ」
いやそういう問題じゃないんだけどと思いながら、わたしは考える。すっかり神さまみたくなって意味もなく後光のようなものを発している牛牛乳泥棒を、自分の家に連れ帰っていいものかどうかを。長生きしてくれそうだなとは思った。
〈了〉
『ネコと和解せよ』も含む8篇を収録した短編集
怪奇、幻想、ポストモダン文学などのジャンルを自由に横断する作家、伊藤なむあひ三年ぶりの短編集。
神聖なる/燃えていない小屋/Happily Ever After/ネコと和解せよ
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伊藤なむあひ Namuahi Ito
ポストモダン、アヴァンギャルド、実験小説、寓話などといった小説を得意とする。
2015年7月4日に妹の弍杏、叔父の潤一郎と共に隙間社を設立。
KDPを中心に、これまでに無かったような小説を発表している。
過去も未来も存在せず、あるのは現在という瞬間だけだ。
by トルストイ(ロシアの文豪)
木下節子の事件が起こる前のひと夏、ジェシカ・ボクスとジェシカの猫〈ディック〉は、紅葉商店のある古ぼけたビルの屋上に住んでいた。アント王子と同じ高校に通い始めた当初は、ジェシカはアント宅に居候していたのだが、夏休みに入りアントが里帰りをすることになったので(実際はちょっと地元の戦争に駆り出されたのだが)、店への通勤のことも考えてこのビルのペントハウスに引っ越したのだった。以前は画家志望の学生が暮らしていたが、急に売れてメジャーになってニューヨークに行ってしまったので二年ほど空き家になっていたらしい。家財道具などが残っていたが、使っても捨てても自由だと言われたので、ジェシカは大いに活用して夢の一人暮らしを満喫していた。最初の晩に、画家のベッドに寝てみたが、落ち着かなくて寝付けなかったので、事務所から空きダンボールを持ってきてベッドの上に置き、そこで寝ることにした。最初の夜はカレーライスを食べる夢を見た。食べたことはなかったが、美味しそうだったので翌日作って食べてみた。ここのキッチンは使い勝手がよかった。ペントハウスのせいか陽当たりもよく、ユニットバス完備で実に快適だったが、一つだけ欠点があった。この家はなんと、鍵が十一もあったのである。ビルの敷地への鍵、入り口の脇のセキュリティパネルの鍵、外扉の鍵、バックスペースの鍵、エレベーターの電源パネルの鍵、エレベーターの鍵(夜間使うためのもの)、最上階の仕切りの鍵、管理用エリアの鍵、屋上へ続くドアの鍵、ペントハウスの鍵が二つである。いや、猫用の扉の鍵も入れれば十二である。十二番目の鍵は、ジェシカがここで暮らすようになってから取り付けたものなので、元々は十一の鍵だった。日中はほとんど必要ないが、ビルの営業が終わったあとに出入りする場合は、本当に必要になる。実に面倒なので、ジェシカは夜に出歩くことはしなくなった。日が暮れてから訪ねてくる者もいないので、別段困ることはなかったし、クラスメイトが押し掛けても敷居が高いので、簡単に諦めてくれるというメリットもあった。夏休みに入ってすぐの頃、イークロンたちが引っ越し手伝いますなどと言って来ようとしたのだが、特に運ぶものもなかったので、丁重に断った。彼らはそれでも何か手伝わせてと食い下がったが、アントが割り込んできて、そのまま四人ともテンピリアに傭兵として連れていってしまった。近衛兵に欠員が出たので、臨時補充兵として採用するのだという。報酬は悪くないので、生きて帰ってこられれば彼らにとってもいいアルバイトになるだろう。ただ、銀河通貨が地球の通貨に換金できないことを、彼らはたぶん知らされていないだろう。
近隣のビルのネオンやライトアップのおかげで、夜でも屋上は明るかった。眠るには困るが、本を読むにはちょうどいい。屋上にはアイスクリームのロゴが書いてある古いベンチが置いてあり、ジェシカは夏休みの間中、仕事のない時間は片っ端から本を読みあさっていた。この国の文芸書から各種専門書、別の国の別の言語のもの、フィクションからノンフィクションまで無差別に読みまくっていた。もちろん惑星外の文献も、秋葉先生やキャプテン・ハック、航海士のボン・ボヤージらから借りて読んでいた。午前中は近くの予備校に潜り込んで、地球の高校受験の勉強をしていた。ジェシカは元々記憶力も知能も相当に優れているため、ひと夏しっかり鍛えれば、アントの通う高校の中堅ぐらいの成績にはなるだろう。さらにもう一年経てば、学年首位も無理な話ではないはずだ。予備校には顔見知りもできて、一緒にランチをしたり、ショッピングに行ったりすることもあった。夏休み二週目になると手元の本は読み尽くしてしまい、ジェシカは少し歩いて買い出しに出かけることにした。紅葉商店はSPの客が多いので、銀河通貨での決算が多く、地球の通貨での売買はあまり多くない。そのため、それに比例してジェシカが使える現金もあまり多くなかった。衣食住のうち、衣類はアント家居候時に買い揃えたものが十分にあったし(出かけるときは制服でもいい)、食事がどうしても必要という身体ではないのでたまに食べれば済む。住居はこのペントハウスがあるのですでに解決済みである。水道光熱費ぐらいは払えた(紅葉商店の口座からの引き落としだが)。夏の間にジェシカが自由に使える現金は、その辺の高校生の小遣いとそんなに違わない程度であるので、本をどっさり買い出してくることはできなかった。さらに言うとここの住民票がないので、図書館の貸し出しが利用できなかった。館内で読めばいいのだが、ジェシカはこの屋上の聖域でじっくり読みたかったのである。ということで、どうしても古書店に出かけていくことになる。近所にも一軒あるが、ここにあるぐらいのものはだいたい読んでしまったので、もう少し珍しい本を探して近くの書店街へ出かけるのが日課になっていた。夏休みに入ってからのジェシカの読書量はハンパない感じになっていて、本が夢にも出るようになってしまった。最近のお気に入りは地球人の書いた荒唐無稽なSF小説だ。SPからしたら実に滑稽なものが多いが、中には宇宙の本質をズバリ言い当てているものもあり、この星の人類の想像力(あるいはホラ吹き力)は驚愕すべきものだと思った。表紙を見ても内容がよくわからないものが多いが、裏表紙のあらすじを見て夢に出てきたのと同じようなストーリーのものを見つけたら、すぐに買って読んでしまうのだった。寝苦しい夜には本以外にも妙な夢を見ることがあった。その晩に見たのは、見慣れない黒い猫がこちらに何かを訴えている夢だ。ジェシカはなぜか猫語を解していた。猫は言った。シーチキンはヒト用なので、猫は食わない。俺にはネコ缶をくれ。ジェシカはうなずいて目が覚めた。外はまだ薄暗かったが、クルマの行き来する音は響いていた。午前四時。気温はちょうど過ごしやすい。本でも読もうかと思ってベッドに腰掛けたが、すぐに眠気が襲ってきて二度寝してしまった。
ある日、SFの文庫を三冊ほど買い込んで、さあ戻ろう、としたときに運悪くゲリラ豪雨に見舞われてしまった。横断歩道を渡りかけたところで急に暗くなったなと思ったらポツポツと大粒の雨が降り出してきた。乾いて熱されていたアスファルトに黒い水玉模様が急激に増殖していった。家まで走って帰ろうと思ったが、雨足は一気にマックスまで駆け上がり、白いセーラー服に雨がしみ込みだした。傘はない。ジェシカは予想をはるかに上回る豪雨に帰宅を諦めてしばしの雨宿りを決め、坂の下のビルのエントランスに駆け込んだ。大量の雨粒が彼女の目と耳からあらゆる情報を奪った。アスファルトを叩く雨滴は飛び散って水煙と化し白く視界を覆い尽くし、街のあらゆる建物を平等に痛めつけ響き渡るゴーウという雨音がこの一帯の空気を震わせてすべてを包み込んでいた。何も見えず、何も聞こえない中で、さっき慌ててシャツの裾からねじ込んだHDPE袋の角がへその脇に当たってチクチクした。雨宿りの間に中身を読みたい気分だったが、こうずぶ濡れではいたずらに本を傷めてしまうので我慢した。白い制服は肩から濡れて透けてしまい、キャミトップの縞模様がうっすらと見えていた。肌にぺったりと張り付いて不快だったが、今はもう諦めて、雨足が和らぐのを待つことにした。地球の雨はそう長く降り続かない。「止まない雨はない」や「明けない夜はない」なんて慣用句があったが、雨の止まない惑星や、夜のままの惑星なんてざらにあるので、かなりローカルな表現である。地球を取り巻く自然環境についての科学的知識が十分増えるまで、意味がよくわからなかった。ジェシカが向かいの公園をぼんやりと眺めていると、植え込みに何か生物がいることに気づいた。小さくて毛むくじゃらで両耳がツンと立って、瞳孔が縦長の生物だ。動物に分類される種族で、体構造に脊椎を持つタイプ。哺乳網獣亜網でローラシア獣上目の猫目猫亜目猫科猫属だ。略して猫族でいいと思う。この小型のタイプはイエネコ種という、人間類との共生がしやすいように改良された種族だ。生物分類のシンプルさからいっても、この生物がこの惑星で重要な地位にいることは明白である。しかし、ジェシカの知る生物学的知識はそこまでで、彼らが何を目的にこの惑星に住まうのか、政治的信条はなんなのか、どのような思想で生活しているのかまではわかっていない。全身は黒い体毛で覆われていた。よく見ると、こちらに向かって何かを訴えている。
「ナー」
ジェシカはこの種族の言語をまだマスターしていないので、何を言っているのかわからなかったが、何か困っているのはわかった。
「ナー」
牙をむき出しにして、叫ぶように何かを訴えていた。そういえば夢で見た猫に似ている。
「ンナーオウ」
とりあえず適当に真似して答えてみた。何を言ったかはジェシカにもわからない。すると猫はナゴナゴナゴと何かを連呼しながら、雨の中道を渡って走ってきた。エントランスまで入り込むと、ブルブルと身を震わせて雨を払った。植え込みに隠れていたせいか、それほど濡れているわけではなく、ちょっとしっとりしたという程度で済んでいた。
「ナー」
猫はまたジェシカに鳴いてから、目線を植え込みに戻した。遠目ではわからなかったが、食糧の缶のようなものが見えた。ジェシカは「ナーイ」と、ヒト語での否定言葉を猫語っぽく言ってみた。黒猫はびっくりしたように二度見したが、ふっと目線を戻してペタリと尻を落として、ジェシカの脇に座り込んだ。雨足は弱まってきていた。あと数分で上がるだろう。
晴れ間も見えてきたので、ジェシカはエントランスから抜け出して帰ることにした。黒猫には「ニャン」と言って手を振った。もちろんテキトーに言っているので、実際はどういう意味かはわからない。猫はキョトンとしていたが、すぐにジェシカについて歩き出した。通りがけに先ほどの食糧缶を見ると、少しだけ残ったボイルされた魚肉のフレークが、雨で水浸しになり、油が浮いていた。これでは美味しく食するのは難しい。猫は最後の一口をゲリラ豪雨に邪魔されて不機嫌になっていたのかもしれない。あるいは雨水を取り除くように要求していたのだろうか。ジェシカは「ニャ?」と聞いてみた。上手く通じるかはわからなかったが、どうやらニュアンスは伝わったようだ。黒猫は「ナー」と言って、後をついてきた。帰りがけにコンビニでネコ缶を買って帰った。マグロ種のボイル油漬けも売っていたが、これは人間種用にアレンジされたものらしく、猫種用の缶詰めは猫種用で別の棚に売られていた。猫の目線に合わせたのか、床近くに陳列してあったのであやうく見逃すところだった。黒猫はコンビニの外で待っていた。店の前で食べさせようかと思ったが、この小国家では路上で猫科の自由市民に食物を分け与えることを禁止する都市もあると聞いていたので、どこかから何か苦情が出ると面倒なのでやめておいた。ジェシカは黒猫にアイコンタクトをすると、家に向かって歩き出した。黒猫も黙ってついてきた。
結局、黒猫はペントハウスの二体目の住人となり、食事と安眠の保証を獲得することに成功した。連れて帰ってきた日にジェシカが買ってきた本の著者にちなんで、猫は「ディック」と名付けられた。後に、ディックがあまりに偉そうだったので独裁者と名付けたのが由来ではないかと後世の研究者は言っているが、それはあくまで後付けの俗説である。あの日、ジェシカが名前を聞いても黒猫は「ニャー」としか言わず、それが「まだない」を意味することが判明するまでに二人の間で三十分ほどのやり取りがあったが、それは割愛する。ディックは乾いてみると黒毛というよりは、濃いグレーのような毛色であったので、黒猫というのは正確ではない。そしてよく見ると目の色が左右で異なるオッドアイだった。好物は刺身だったが、ネコ缶も嫌いではない。アイスクリームのベンチがお気に入りだが、日中は暑いので座っていられない、日陰にしてくれと苦情を漏らしていた。苦情をジェシカに言うと、いつもネコ缶でごまかされるので、おそらくまだ言語での意思疎通はできていないのだろうと、ディックは半ば諦めていた。ジェシカはたまにディックに変なことを言うが、それは適当に声を出しているだけなのだろう。最初に会った時も、いきなり結婚してくれと言い出したのでものすごく驚いたが、たぶんあれはついてこい程度の意味だったに違いない。ジェシカは夕方近くになると例の鍵束を持って、ペントハウスに鍵をかけてビルの中へ入っていくのが日課だった。その間ディックは留守番をすることになるが、特にやることもないので涼しい場所を探して寝るだけだった。
この月の上旬から中旬にかけての時期は、この都市の企業が一斉に休暇をとる風習があるが、商業施設はこの限りではなくこの街は逆に人が集まって連日盛況だった。ジェシカが店番をしているこの紅葉商店も、普段の三倍は客が来ていた。といっても元々五人/日ぐらいのところが十五人/日になるだけなので、大差はないのだが。窓の外が赤く照らされていたのが、群青色に変わった頃に店長がいつものようにダンボールを抱えてバタバタと飛び込んできた。ダンボールを開けると、いくつかの小箱は取り置き棚へ、他のものは添付のリスト通りに値札をつけて棚に陳列するようにジェシカに指示した。一通り値札をつけてみると、リストにない商品が一つ残った。ジェシカが店長に尋ねると、心当たりはないという。すぐに仕入れ先の船長に電話をしたところ、ハイランド星系の「n次元球面は、実n+1次元上に存在しそのノルムがrに等しい点xの集合から成る」という長ったらしい名前の玩具会社が開発したバーチャル・トリップ用の機材で、まだ商品化についての許諾がオルガニゼイションから出ていないので、あくまで試供品として預かったということだった。店長はふーんと興味のないような態度で、一応箱は開けてみたが、説明書を一瞥してジェシカに試しに使ってみろと突き出した。箱の中には球体のオブジェのようなものが入っていた。箱は無地だったが、説明書には〈メメ・チャニティ〉とハイランド語で書かれていた。これは地球の言葉では「夢」と「投げる者」を意味し、まとめると〈ドリームピッチャー〉とでもいえばいいだろうか。説明書はシンプルであまり詳しいことは書かれていなかった。ジェシカはあとで上に帰ってから、ゆっくり機能を確かめることにした。その後は誰もこの店には来なかったが、この街はずっと賑やかだった。
ジェシカがペントハウスに戻ると、ディックが鳴きながら出迎えた。ジェシカはエサの要求だろうと思い、ネコ缶を開けて独裁官殿に献上した。ディックはエサを前に、じっとジェシカを見上げていたが、ふっと諦めたように食べ始めた。ジェシカはベッドに座り、持ち帰った箱を開けた。中には真鍮のような質感の球体が入っていた。球体の表面には複雑なスジ彫りと、他星系の言語が文様のように刻まれていた。社名と商品名の他に、「ここをぐっと押す」と書いてあったので、指示通りに押してみた。内燃機関のようなブルブルとした振動が起こり、赤道から割れるように、あるいは口を開くように上下にガシャッと開いた。開いた断面には歯のような刃のようなギザギザが並んでいた。歯(刃)の奥は暗くなっていて、光を反射しない素材でできているようで、のぞき込んでも内部構造はわからなかった。説明書には「見たい夢、書く、食わせる、寝る、あなた旅する」と書いてあり、満面の笑みで砂浜へ走り出すハイラン人の絵が添えられていた。情報が少なすぎてわからないことが多かったが、とにかく何か書いてある紙を入れてみよう、と思い、ベッドサイドにあったピザのチラシを突っ込んでみた。角から入れたところで、隙間がガシっと閉じられてしまい、チラシは齧り取られるようにちぎれてしまった。あまり大きな紙は受け付けないのだろうか。齧られたところに何が書かれていたかわからないが、とりあえず眠ってみることにした。
翌朝の寝覚めは最悪だった。ジェシカは一晩中、ピザグッドのサラミウィンナーオニオンメガチーズバジルとイカタコアンチョビートマトソースマックスのハーフ&ハーフをひたすら食べ続ける夢を見た。そのせいで食欲がわかず、昼食まで辞退する羽目になった。この機械は旅行ではなくダイエットの方に効果があるのではないかと思ったが、とりあえずもう少し実験してみようとジェシカは思った。翌日は、ハワイ旅行のチラシから「ワイキキ七日間三ツ星ホテル宿泊コース」のマスを切り取って食わせてみた。夢の旅行はリアルで実に楽しかったが、所持金がなくてお土産が買えず、往復の飛行機もエコノミーの通路側だったので手放しで楽しめたわけではなかった。明日は同じような切り抜きに、詳しい追加情報を添えて食わせてみよう。
ジェシカの一週間の実験でいくつかのことがわかってきた。まず、セットしたからといって必ず夢が見られるとは限らないということ。三日目のグアムまではうまくいったが、四日目のネコ缶のチラシを入れた日は何も見られなかった。この日のディックは食欲がないようで少し心配した。五日目にもう一度ネコ缶のチラシを入れたら、ディックにネコ缶を食べさせる夢を見て夜中に目が覚めた。エサをやったら今度は食べたので安心した。六日目にディックの写真を食べさせたときは、夢を見なかった。覚えてないだけの可能性もある。七日目にアント様の写真を食わせたら、夢の中に出てきて、とんでもない超展開になりびっくりして起きてしまった。原理はわからないが、食わせたものに書かれた内容をかなり忠実に再現しようと努力はする機械らしい。あと、見慣れない言語なので気づかなかったが、この機械には上下があるらしい。すべての文字は一方を上にして刻まれていたからだ。上手く見られなかった日は、上下逆にしていたのかもしれない。向きに気をつけて、できるだけ具体的な情報を食わせることにしよう。ビジュアルイメージだけでは展開がまったく読めず、大変なことになるらしい。ジェシカはここまでの調査結果をまとめて、店長に報告した。一通り結果を聞いた店長はしばらく考え込んでいたが、もう少し条件を変えて試すようにジェシカに指示した。特に、置く場所、置き方、紙の大きさについては詳しく調べるようにと注文をつけた。
さらに二週間の実験でわかったのは、約五メートル以上離れると見られないということだ。ただし、翌日五メートル以内に入った場合、前日分と翌日分の二つのセットした内容のハイブリッドの夢が見られるらしい。同時に二枚の紙は受け付けられなかった。どうやって重ねても二枚目の内容は反映されなかった。裏面の内容も無視されることがわかった。ただし、上面であれば、折り畳んであっても反映された。例えば本のページをちぎって折り畳んで食わせた場合、片方のページの内容は再生された。裏面は無視されてしまった。どっちの面を表と認識するかは、入れた時に最上面になっている面であることはわかった。また、紙は約三センチ四方までは受け付けることがわかった。それ以上の場合、噛みちぎられる。素材は紙でなくてもいいこともわかった。フィギュアを入れたら、夢に出てきた。ただし、そのキャラとして出てくるか、フィギュアとして出てくるかは制御できなかった。どこかに明記すればいいのかもしれないが、まだ試していない。また球体を上下逆さまにした場合は、夢が見られないことがわかった。「カレー食べたい」とだけ書いたときと、SF小説の一ページを食わせたとき、あとは、確かここの前の住人が残した中にあった彼女自身のデビュー画集の一ページを食わせたときも、球体を上下逆にしておいたら夢を見なかった。上下が正しいときに夢を見ないこともあるが、逆さまの時は確実に見ないことがわかった。他にもいくつかの特性があったが、とにかく適正なサイズに折り畳んで、表だけに、内容を具体的に、球体の上下に注意して、眠る場所の五メートル以内に置けば、かなりの高確率で見たい内容の夢が見られることがわかった。ジェシカはなかなかよくできた機械だと思った。これならすぐに実用化されるのではないだろうか。店長に報告したら、またふーんと言って考え込んだ。彼はちょっと貸せと言い、一晩だけ持ち帰った。翌日、ドリームピッチャーをジェシカに返すと、にんまりしながら長ったらしい名前のメーカーに電話をして、一ロット一四四個の大量注文をした。メーカーの担当者は、まだ認可が降りないのでと注文を断ってきたが、とにかく発売になったらすぐに送るようにと注文を押し切った。そんなに売れるものかなとジェシカは訝しんだが、店長は続けてどこかに電話をかけ、オルガニゼイションの星間貿易局の特別技術商品許諾課の課長を呼び出し、長時間交渉して何かをねじ込んでいた。電話を切ると、ちょっと出かけるからと言って、出て行ってしまった。その後一週間ほど戻らなかったが、ジェシカの店番だけでも店の経営に差し支えはなかった。普段通り、客があまり寄り付かなかったからだ。
SFにも飽きたので、最近のジェシカは猫語の読解に役立ちそうな本ばかり好んで読んでいた。その結果、夏休みの終わりが見えてきた頃には、彼女にもディックの言うことがだいたいわかるようになっていた。最初にジェシカがディックにプロポーズしたことも、今では二人の定番の笑い話になっていた。言葉が通じるということは素晴らしいことで、ジェシカはこの星の文化や仕組みについての知識を一層深めることができたし(野良猫界に偏ってはいたが)、ディックは自分の食の好みを、より具体的にジェシカに伝えることができた。その日は日中はとんでもなく暑かったが、日が暮れてからはすっと涼しくなって過ごしやすい夜になった。
「ねえ、ジェシカ」
「なあに? ディック」
ジェシカは本を読みながら答えた。最近の彼女のトレンドは、三百年ほど前にこの辺りで売られていた本だった。まだ印刷機もろくになかった時代のものらしいが、読んでみるとなかなか面白い。買うととんでもなく高いのだが、先日客として紅葉商店に来て仲良くなった女が貸してくれたのだ。借り物なのでドリームピッチャーに食わせるわけにはいかないが、そのうちコピーで試してみよう。なんだか面白そうだ。一種のタイムマシンみたいな感じになるのかもしれない。本を読んだままのジェシカにディックが言った。
「刺身食べたいニャ」
「えー、お給料日来週だからダメだよ」
「ネコ缶飽きたよー」
「うーん。同じのたくさん買ったからかなぁ」
「好きな味だけど、毎日はさすがに飽きるニャ」
ジェシカは財布の残金を思い出して、首を横に振った。
「ごめん。やっぱ無理。来週必ず買ってきてあげるから待ってて」
「ニャー……」
ディックは残念がって、ゴロンと転がった。一回転したところで、思い出したように言った。
「夢のあの機械でもいいから頼むニャ」
「え?」
ジェシカは驚いて聞き返した。聞けばたまにディックもあの機械で夢を見ることがあったようだ。ジェシカが見られなかった日は、代わりにディックが見ていたということか。ジェシカはマグロの舟盛りの写真をドリームピッチャーに食わせて、ディックの脇に置いてやった。しばらくすると、眠るディックの口がムニャムニャと動き出した。どうやらうまくいったらしい。これはいい機械だ。来月の給料日前もこの手でごまかそう。ジェシカはフヒヒと笑って、箱に戻った。その夜からドリームピッチャーを使わない夜は必ずファミレスでバイトをする夢を見た。あんまり続くので、いつしかジェシカは紅葉商店の営業時間外には、同じビルの二階にあるファミレスのバイトも掛け持ちするようになっていた。
他でもバイトがしたいと告げた時、店長は難色を示したが、ディックのエサ代も稼がないとならないし、夢で見ちゃってと動機を伝えると、ふーむと考え込んでようやく許可を出した。
「よくはわからんが、たぶん必要になるのだろう」
と、秋葉先生は言った。何が起こるかはわからなかったが、何かあることはわかっていた。
「実は俺も見たんだよね、その夢……」
〈了〉
『猫。あるいは夏へのスフィア』を含む13篇を収録した〈オルガニゼイション〉第1シリーズ!
銀河を裏から牛耳る謎の商業組合〈オルガニゼイション〉の魔の手が、地球に迫る。
謎の超次元少女〈ジェシカ〉と謎の黒猫〈ディック〉、謎の球体のその前とその後も散りばめられた、謎のスラップスティック・オムニバス・コメディSF落語。何周か読んでお楽しみください。
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→東京都世田谷区北沢2丁目30―11 BALLOND'ESSAI ART GALLERY 3F
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波野發作 hassac naminov
SF作家ではなくオールジャンル対応。執筆からデザイン、印刷、製本、販売まで全部できる出版ジェネラリストの地平を目指してどんどん辺境へ進む兼業作家。ガンプラ、仏像、浮世絵、ITからアウトドア系まで幅広くカバーするフリーランス器用貧乏編集ライターでもある。近年はNovelJamのプロデューサーが楽しい。
朝からずっと、ベランダでぼんやり座っていた。大学に入って初めての夏休みが、こんなに暇なものだとは思わなかった。昨日まで学食で盛り上がっていたあの連中は、つるんでどこだかに遊びに行っていることだろう。男と女たち。せいぜい青春だかなんだかを謳歌するがいい。だが、なぜたった三ヶ月であそこまで親密げな関係になれるのか、わたしとは違う人種なのだからあれこれ想像しても仕方ないのだと、思うほかはなかった。
わたしは出遅れてしまったのだ。友人を作ることに失敗したのは初めてではないが、やはり悔やまれる。いつの間にか塊となりあちこちに散在している小集団は、もうわたしを受け入れてくれる余地を持っていないのだと、若いわたしには思われた。
高校時代は受験一色だった。わたしの家は貧しかったから、学歴さえあれば、というのが母の口癖だった。父はわたしが中学生の頃に女を作って出て行った。そうでなくとも父の収入は母のそれを下回っていたし、しょっちゅう仕事を辞めるてくる不安定な父に、母はあまり期待してはいなかった。酒を呑んで、呑まれてわめくのは、学がないからだと始終こぼしていた母に、わたしは無表情に頷くしかなかった。父を憎んではいなかったが、父の存在には実感が伴わなかった。父は、自身がふわふわとした存在であることを、どこか諦観していた。仕事が続かないことは学歴のせいではないと、わたしには言った。でも、母さんの言うことも正しいと言った。わたしにはまだ理解が及ばなかったが、母の言うとおりに良い大学に入らなければ、この父と同じ大人になってしまうのだという強迫観念めいたものを、いつでも心の底に抱えていた。
国立大学の入学試験を、わたしはいとも簡単にやりおおせた。高校時代の記憶は、母の疲れた顔と勉強以外には何もなかった。友人はおらず、本と学問だけがわたしを裏切らない友人だった。父のようになることを恐れ、母をこれ以上不幸にすることを恐れて、わたしはがむしゃらに学んだ。休みの日は朝からずっと図書館で過ごし、母の作ってくれたいびつな握り飯を図書館の裏庭で頬張った。酸っぱい梅を味わっていると、悲しくもないのに涙が頬を伝った。その度にわたしは決意を新たにして、学業に没頭した。学業自体には夢も目的もなかった。学ぶことだけが逃げ場所だったし、良い大学に入れば世界のすべてが好転するんだと、母と同じように信じきっていたのだ。
わたしは、一人だった。ベランダで一人、夏に苛まれていた。
アルバイトは来週からで、出掛ける先も、することも、何もなかった。
日がな一日アパートのベランダに座り続けたわたしは、肉体労働者のように日に焼けていた。その暑さが、思考を麻痺させるために必要だったのかもしれない。ジリジリと素肌を痛めつける四〇度の陽光が、きっと孤独を忘れさせてくれるだろう。わたしはシャツの肩を捲り上げ、せめて袖の跡が二の腕に残らないように気を付けた。学校へ戻った時、海で灼けたのだと心の中で言い張りたい若さくらいは持ち合わせていたらしい。
何の毛玉だろうかと思った。
袖を捲り上げた拍子に、視界に入った太陽で目が眩んでいた。ぎゅうっと瞼に力を込め、眼の痛みに耐えた。眼を開けると、ベランダのフェンスの隙間に、小さな毛玉が落ちていた。スズカケノキの実ほどの大きさの、まん丸い緑がかった灰褐色の塊が挟まっていた。どこから落ちてきたのだろうか、吹き上げられて飛んでくるような風もなかった。猫が吐き捨てた毛玉のように、湿ってはいなかった。得体の知れない吐瀉物にまみれてもいなかった。周囲を見回していると、毛玉がのそりと動いたように見えた。風もないのに。
わたしは手を伸ばした。柔らかそうなそれに、そっと手を触れた。
ミゥ──
毛玉がか細い声を出した。間違いようもなく、その声は毛玉から発せられていた。わたしは両手でそっと毛玉をくるみ、目の前にそっと運んだ。屋根の陰で両手を開き、じっとその塊を見つめていると、するりと塊が動き出した。
毛玉のように丸まったそれは、小さな、小さな猫だった。小さいといっても生まれたての猫ではなかった。あり得ない大きさだったが、成猫か、若い猫に思えた。わたしは猫を飼ったことがなかったが、それが尋常ではないサイズであることだけは、疑いを差し挟む必要もなかった。手のひらに乗るサイズ、と言ってもまだその猫の小ささを表現するには不十分だった。気持ち良さそうにわたしの手のひらの上で伸びをするその猫の前脚から尻尾までが、わたしの四本の指の幅に収まっていた。猫はわたしの親指の腹に頬を擦り付け、気持ち良さそうにまたミゥと鳴いた。
猫をマルと名付けた。この大きさなら、母に迷惑をかけることもなかろうと考えた。餌も僅かで済むだろう。小さな猫缶を一つ、ホームセンターで買ってきた。思えば、外出したのはアルバイトの面接以来だった。
マルは、全く猫缶に興味を示さなかった。それが食べ物であることすら、理解していないように見えた。鼻先に皿を押し付けても、スプーンで口元に運んでも、マルは面倒くさそうに一瞬においを嗅ぎ、そっぽを向いた。何か食べないと良くないよ、とわたしは話しかけていた。母親以外に話をするのは久しぶりであることに気が付いた。無論、母親とだって会話らしい会話はなかったが。
マルはわたしを見つめた。耳を傾けて、話を聴いていた。わたしは堰を切ったように喋りだした。マルは嬉しそうにわたしの手のひらに頬を擦り付け、尻尾でパタンパタンと生命線のあたりを叩いた。
わたしの孤独を、マルは吸い込んだ。気持ち良さそうに、嬉しそうに、マルはわたしの孤独を吸い込んでは、ミゥと鳴いた。
でもさ、マルだって餌を食べなきゃね、と言ったわたしの言葉が意味するところを、マルは突然解したように耳をそばだてた。そしてマルが飛んだ。その小さな体のどこにそんな瞬発力が眠っていたのかと思うくらい、マルは高く飛翔した。そして、ベランダの手摺に着地したマルの口には、小ぶりの蛾が咥えられていた。マルはそれをゴクリと飲みくだし、満足そうにミゥと鳴いた。
それで、良いようだった。わたしの用意した餌は、何も食べなかった。自分で捕った蛾や蝿に満足しているのだ。冬はどうするのかと思いながら、何も良い考えは浮かばなかった。
わたしは、ずっとマルと過ごした。母には隠していた。いや、マルはわたしのポケットの奥に引っ込んで体を丸め、出てこようとはしなかったのだ。わたしも、母にマルを紹介する必要性を感じなかった。それで良い、と思った。
アルバイトが始まった。小さな事務器の会社の、簡単な入力作業とDMの封入が主な仕事だった。マルはポケットに入れていた。マルはじっと、静かにしていた。用を足したくなると、わたしの胸をトントンと前脚で叩いた。それでもわたしがトイレに立たないと、グイグイと前脚を胸に押し付けた。その様子を、同じ日にアルバイトに入った女子学生の一人に見られていたようだ。トイレに立つわたしを追ってきて、モルモットかハムスターをポケットに隠しているでしょうと言った。
彼女の名は、ハツミと言った。取り立てて美しいというほどでもなかったが、話をしてみたいとは思っていた。こんな子が彼女になってくれたらきっと楽しいのだろうなと、繰り返し思いながらDMを折りたたんでいた。単純作業をしながら、彼女の細い指を盗み見ていた。
歳は一つ上だった。今年は今日から始めたが、去年も来ていたのだと言った。歳も上だし、先輩なのだから言うことを聞きなさいと笑った。わたしは身を翻し、トイレに隠れた。
マルの用を足し、外に出るとハツミがまだ待っていた。ねえ、とハツミが言うと、それに応えるようにマルがミゥと鳴いた。不思議そうな顔をするハツミを、わたしのポケットから顔を出したマルが見つめていた。ハツミは満面に笑みを浮かべ、可愛いと言った。マルの小ささを不思議に思わないわけはなかったが、ハツミはそれを自然現象のように受け入れていた。そう言えば、わたしもそうだった。こんなサイズの猫がこの世に存在するはずはないのだ。わたしはもう死んでいるのかという考えがよぎった事もあったが、それもあり得ないことだった。遺伝子の異常か、化学の犠牲者か、と考えたこともあった。でもそんなことはどうでも良かった。マルは天使のようにわたしのもとに遣わされたのだ。わたしの十八年の孤独を癒すために。
マルを中心にして、わたしとハツミの人間関係が始まった。対等な人間同士として、初めてまともに会話が成立する相手だった。きっと、マルの力なのだろう。わたしはマルに感謝し、初めての恋愛を大切に育てた。週末ごとに、映画館や美術館に通った。不思議と、ハツミが教えてくれる映画や絵画は、わたしの琴線に触れた。あまりそういったものに興味のなかったわたしの眠っていた感性を、ハツミは呼び覚ましてくれたのだと素直に感動していた。これが、恋することの素晴らしさなのだと、信じ込んだ。
ハツミもまた、孤独だと言った。普通に話をできる異性はあなたが初めてだと言った。わたしたちはそれを、運命だと信じた。十八歳と十九歳の子供じみた運命論が、二人の恋愛を支配していた。
夏が去ろうとする頃、わたしは決意した。ハツミと肉体を結びたかった。アルバイトの最終日、わたしはつないだハツミの手を引き、早足で歩いていた。手のひらが汗ばみ、二つの手がじっとりと滑った。二人の緊張を感じ、マルは黙っていた。眠っていないことは、何となくわかった。わたしにはもう、欠片ほども冷静さが残ってはいなかった。
初めてのホテルでどうやって部屋を決めたのか、どうやって避妊具を手に入れたのか、今では何も覚えてはいない。わたしは想像もつかないほど緊張し、そして、興奮していた。どうしたら良いのかはまるでわからなかった。それはハツミも同じだった。少なくとも、わたしにはそう思えた。一言も発さずに、ハツミはわたしの思うまま、壁を派手なピンク色で塗り込められた部屋に入り、大ぶりのベッドに腰掛けた。わたしは何も考えられず、ハツミに飛びつき、のしかかった。今までの人生の孤独を溶かすように、わたしは力いっぱいハツミの体を抱きしめた。
キュウ──
わたしの胸から、か細い悲鳴が漏れた。ハツミが、マル、と声を上げた。わたしは腕を離し、飛び退いた。
わたしのポケットの中で、マルはあっけなく潰れてしまった。そしてわたしの胸に染み込むように、マルの体は消えた。ハツミがわたしのポケットにそっと手を入れ、暖かい、と漏らした。
それが、わたしとハツミの最後の会話だった。ハツミはわたしの元を去り、二度と、戻ることはなかった。
今でも、夏の暑い日にベランダに座っていると、あの夏の夢を思い出す。そして、シャツのポケットにそっと、手を入れてみるのだ。
〈了〉
淡波亮作は猫小説が得意。という仮説を証明する猫ヴァンパイア小説を読もう。
霧に隠され、王家の末裔と呪われた血の一族との闘いは忘却の彼方に置き去られたものと思われたが──
時は現代、ロンドン郊外のメドウから、物語は始まる。美しきレイチェル・ドーソンと出逢った世にも美しい猫、スティング。この上もなく幸福な毎日が、いつまでも続くわけはなかった。
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淡波亮作 Ryousaku Awanami
創作家。美大出身の元プロミュージシャン。売れず食えずで苦節10年、ひょんなことからCG制作に手を染め、あれよという間に専業CGデザイナーに。現在は自分も手を動かすCGディレクターとしてひっそり生きている。各種CGソフトを放浪し、今では公私共に超絶スーパーCGソフトであるBlenderを愛用。
小説作品としては現実感のある空想物語が中心。丁寧な描写と読みやすさ、裏のありそうな美しさを心がける。SF雑誌『オルタニア』のレギュラー執筆陣の一人。自作の予告編動画をCGで制作したり、イメージソングやオリジナルサウンドトラックの制作も。
窮屈な世の中だとか生きづらいだとか人は言うけれど、そんなこと私には全然関係ない。だって、昨日なんて消えてしまったようなものだし、明日はまだ生まれていないし、私は今ここに立っている。
なんてことを、動物園の芝生広場で語っていたら、ほのかが首を傾げる。
「それはきずなちゃんが強いからだよー。ほのかはー、だれか支えてくれる人がいてほしいなあー」
ほのかはちょっとだけ口を尖らせて、甘えるように私のことを見上げる。それからすぐに、手鏡に目線を落として、立ったままグロスを塗り直す。
「私は別に強くないし。生きていくことが難しいなんて、よく分かんないな。ただ歩けば前に進むだけの話じゃないか」
「私には、人生が下りエスカレーターを登っているように感じられますね。まるで」
私とほのかの会話には混ざらないように、ちかこはひとりごとのようにつぶやく。安物の軽い三脚が、 草地の上にうまく立たないようで、彼女は小さく舌打ちをする。
「てゆうか、ほのか、何回グロス塗り直すんだよ。どうせマスクして撮影するんだし、必要なくない?」
「ひつよーなくないよー。きずなちゃん。気分が全然ちがうじゃない?」
「うーん、わからん」
平日の午後の動物園に人の姿は少なくて、私たちみたいな女子中学生がカメラを設置していても、だれも気に留めない。五月の日差しは柔らかく、光と影のコントラストも淡い。絶好の撮影日和だ。
「ちかこちゃーん。ほのか、かわいく映ってる?」
「絶対的には解りかねますが、相対的にはかわいく映っていると思われます。それなりに」
「わーい、なんだかよくわからないけど、ありがとー」
カメラの液晶を確認するときに、ちかこはいつも眼鏡を下にずらす。その横顔が、実はほのかにも劣らない美形だということに、私は気づいているけれど、人には適材適所ってものがある。仮にちかこを女優に動画を撮影したとして、ほのかにカメラは回せないし編集もできない。
「きずな先輩。このような画でいかがでしょうか。ほのか先輩を右半分に、左側の背景にキリンの夫婦を入れています」
「おっ、ばっちりばっちり」
「ところでこの演出は面白いのでしょうか。キリンを紹介しようとしたほのか先輩が、あざとく転ぶという展開」
「えー、面白くない?」
「ほのかにはー、ちょっとわかんないかなあ」
「撮ってみないとわかんないんだよ、私の意図は」
「きずなちゃんはー、天才だもんねえ」
「そう、私は天才だし! 目指せ、七十億PV!」
「成功イメージを持つことは自己実現のための一般的な手法ですね。私には無理ですが」
私は台本の書かれたノートを、メガホンの形に丸める。ほのかが白いマスクで顔を半分隠す。ちかこがカメラの録画ボタンを押す。初夏の風が私たちの髪を優しく揺らす。
「さんのーがー、アクション!」
「私たちはー、いまー、動物園に来ていまーす。どこの動物園かはひみつね。あっちがキリンのお父さんでー、あっちがキリンのお母さん。もうすぐ赤ちゃんが生まれるんだってー。あっ、ほんとだ。お腹がおっきいねえ」
まるで今気づいたみたいに、ほのかが口元に手を当てる。ちかこは眼鏡をずらしたまま、少しかがんで液晶を見つめている。
「かわいいなあー。ちょっと、近くまで行ってみたいとおもいまぅうえええええええっえっっ!?」
「はあっ?」
「えっ」
唐突に野太い奇声を上げて、ほのかはその場に座り込む。ごうっと音を立てて風が強くなり、空が鉛色に変わる。
「なに、あれ……」
まるで悪夢みたいな光景だった。首を伸ばして木の葉を喰んでいた雌キリンの、膨らんだ腹がメリメリと音をたてて裂けていく。キリンは苦しむでもなく、傀儡のように虚空を見つめている。
「で、出てきてるみたいですが。なにか」
「いやああああああああああっっ! うわああっあっ!!」
「かっ、カメラ! ちかこ、カメラだ!」
私の声に、ちかこが慌ててカメラを持ち上げる。三脚をぶら下げたまま、ズームにして雌キリンの腹部をアップにする。風が、酸っぱいような生臭いような匂いを運んでくる。
びちっぶちゅぶちゅっ。
内蔵が破裂するような音がして、でもその身体からは血の一滴も出ていない。代わりに灰色の霧のようなものが漏れだしている。腹部が蜜柑の皮みたいに裂けて、ぼたり、と黒い影が地に落ちる。
「キリンじゃ……ない?」
その黒いなにかは、雌キリンの腹部から出てきたにしては、大きすぎた。小型の軽自動車くらいはあるだろうか。身体を震わせながら、四本の細い足でゆっくりと立ち上がる。霧のせいで、姿形がよく見えない。
「……ズームが足りません。若干」
息を飲んで、ちかこが一歩踏み出す。
「ちっ、ちかこちゃん行っちゃだめえええっ!」
座り込んだままだったほのかが、ちかこの両足を捉える。バランスを崩して転びそうになるが、体勢を立て直し再びカメラを構える。
「こっちを見てる!」
ほのかの声に反応したのか、黒い影は私たちに顔を向け、機敏にジャンプして柵を越える。キリンというよりはなにかに似ている。そうだ、ゴリラとかオランウータンとか、そういった類の巨大な猿。
「いやあああああっ、こっちきたあああああっ!」
そいつは威嚇するように低く咆哮を上げ、私たちの所へ走ってくる。身体が竦んで動かない。そして、高くジャンプをし、私たちのことを飛び越えて森の方へ走って行った。
私たち三人は、黒いなにかが走り去った後の芝生広場を、呆然と見つめていた。
「今のはなんだったの?」
芝生に座り込んだまま、ほのかが私とちかこを見上げる。マスクをしたままだったことに気づいたのか、それをアゴの位置にずらす。
「てゆうか、キリン!」
「あっ! って、ええっ?」
慌てて振り返ると、園路を挟んだ向こう側にいるキリンの夫婦は、なにごともなかったかのように木の葉を喰んでいた。
「なんともなっていないようですね。キリンの腹部は」
恐る恐る、園路を横切ってキリンの柵の前に立つ。さっきまで確かに裂けていた雌キリンの腹は、大きく滑らかに膨らんだままだ。ちかこは三脚を園路に置き、撮影を続けている。
「ここにいたのは、私たち三人だけだったのか?」
私の言葉に、ちかこがカメラをゆっくりと横にパンして、園内の全景を映し出す。
園路の向こう側から、銀色に輝く人影が歩いてくる。ちかこは動画を録画中にしたまま、顔を上げる。
「おっ、女の子がいる。しかも三人も」
近づいてきたその人は、私たちと同世代くらいの男の子だった。銀色に近い複雑な色味の半袖Tシャツを着て、グレーのスキニーパンツにグレーのブーツを履いている。気軽な笑顔で、私たち三人に話しかけてくる。
「三人ともかわいいね。何歳? このへんに住んでるの? 名前は?」
「えー、ほのかはあ、十四……」
「人に名前を尋ねるときは、まず自分から名乗るのが礼儀でしょう。常識的に」
ほのかの返事をちかこがさえぎる。
「あっ、そういうものなの? 俺はイチゴ・クラウドイーター。十五歳。イチゴって呼んで」
「いちご! かわいい名前ー。ほのかはあ、仲谷ほのか。中学二年生だよ」
「結城ちかこ、中学一年生です。一応」
「ちょっとまて! なんで二人ともナチュラルに自己紹介しちゃってんの。どう考えても怪しいだろ、この人!」
「えっ、俺怪しい? まじで? だいぶこの世界に合わせてきたはずなんだけど、どっか変?」
「なんでそのTシャツ、そんなぎらぎら光ってんの。髪も水色だし!」
「人のファッションに文句ゆうのは失礼だよー。かっこいいし似合ってるからいいじゃない」
「ありがとう、ほのかもかわいいよ」
「えへー」
だめだ、こいつら話にならない。私は脱力する。
「そうそう、もっと君たちと話していたいんだけど、俺、探しものをしてたんだった」
「なにをさがしてるのー?」
「君たち、『ナニガシ』を見なかった?」
「なんですか。ナニガシとは」
ちかこの質問に、イチゴ・クラウドイーターと名乗る男は、腕を組んで少し考える。
「ナニガシはねえ、うーん。なんていうのかな。こう、大きかったり小さかったりで、形は色々で、動いたり動かなかったり……」
「全然わかんねーよ!」
「そうだなあ、えっと、禍々しいものかな」
「まがまがー?」
「禍々しいといえば、キリンの腹から出てきた得体の知れない化物のことではないのですか。 先程の」
「あっ、それだ! そいつ、どっちに行った?」
「あっち」
三人が一斉に芝生広場の方を指差すと、へらへらと笑っていたイチゴが急に真顔になる。それから、霧をかき消すように、ふわりその姿が消える。
「消えた!?」
ちかこが、キリンの方に向けていたカメラを、慌ててイチゴのいた場所に向ける。しかし、そこにはもうなにもなかった。
「えっとおー、帰ろっかあ」
「そうですね。このムービーを確認したいですし」
ベンチに置いたままだった鞄を持ち上げ、ほのかが帰り支度を始める。
「いやいやいや、今、人が消えたぞ。人間が消えたんだぞ」
「みたみたー。すごいねえ。イチゴくん」
「撮影できませんでした。決定的瞬間」
三脚をたたみながら、ちかこが舌打ちをする。
「じゃあ、また明日ねー」
動物園のゲートを出て、私たちは別々の道を行く。陽は沈みかけ、私たちの町は橙色に染まっていた。家に向かって一人で歩きながら、さっきまでの出来事を考えてみる。赤ちゃんを身籠もっている雌キリンの腹が裂け、黒い化物が出てきた。どこからともなく、変な服装のピカピカ男子が現れて、『ナニガシ』を探していると言い残して、目の前で消えた。
「いや、どう考えても普通じゃないだろ! なんだナニガシって! なんだイチゴ・なんとかかんとかって!」
「イチゴ・クラウドイーター」
「!!」
囁くような声がして、目の前に彼が現れる。
「君の名前をまだ、聞いてなかったなって思って」
水色の瞳が、私の顔を覗きこむ。てゆうか近い、近すぎる。
「みよ……し……」
「ん?」
「三好きずな……」
「かわいい名前だね。きずな」
金縛りにあったみたいに、身体が動かない。恐怖なんかじゃない。もっと違う、得体の知れない感情。
「う……」
「また、来るから」
イチゴが私の頬にそっと手を添える。ガラスのコップみたいに、ひんやりとした手のひら。目の前十五センチくらいのところにあった顔が、もっと近づいてくる。
「……!」
私のおでこに、イチゴのおでこがこつんと当たる。そのまま照れくさそうに微笑んで、彼は私の目の前から消失した。
家に帰って、なにごともなかったかのように夕飯を食べた。テレビでは、近々オープンする複合商業施設に市民の期待が高まっている、とかなんとか言っていた。ゆっくりとお風呂に入り、上がって髪を乾かし、自室のベッドの上に座ってしばらくぼんやりとしていた。
普通ではありえないことが、たくさん起こった一日だった。キリンの腹から出てきた化物も、イチゴとかいうキラキラ男子も、全て夢だったのではないか、とさえ思う。
身体がざわざわする。自分の内側に生えた小さな芽が、私自身をくすぐっているみたいな感覚。
「なんか……、いいアイデアが浮かびそう……」
本棚から、買い置きの真新しいノートを取り出す。頭の中や身体の中で、なにかが育っていくような気分だった。一つの新しい物語が、私の中に生まれる。小説なのか、映画のシナリオなのか、漫画なのか、それすらも定まっていないけれど、私はメモをとっていく。
「魔法使い、ううん、魔術師のほうがいいかな。主人公は魔術師で」
いくつかの動画を撮影したことはあるけれど、『物語』を作ったことはなかった。新しい世界が構築されていく。水色のノートの表紙をめくり、シャープペンシルの芯を押し出すのももどかしく、夢中になって書き殴る。
それは、私の中にずっと存在していたんじゃないかと思う。硬い殻に包まれ眠っていた小さな物語の種は、雨のように降り注いだ混乱のせいで、殻を破り芽吹き始めた。
「水を使う魔術師。そうだ、癒やしの雨を降らせたり、氷を武器の形にしたりして。主人公の見た目は十五歳くらいで、だけどすごく長い時間を生きていて……」
思いついたことを、文字と図でノートにメモしていく。手が勝手に動く。時間がどのくらい経過したのかわからない。さっきからまだ五分くらいしか経っていないようにも感じられるし、あるいは十年くらい経過したのかも知れない。でも、そんなことはどうでもいい。
最高の気分だった。この物語はとても面白いものになる。ほのかもちかこも、私の新しい才能に驚くだろう。二人は撮影に協力してくれるはずだ。進むべき道ははっきりしている。そして私たちはその道のりを楽しむことができる力を持っている。
「タイトルは、『アンフォールドザワールド』!」
シャープペンシルをノートの上に置くと、とても喉が渇いていることに気づいた。
「ふう、ちょっとだけ休憩」
アイデアはいくらでも湧いてきて、まだまだ書き足りなかったけれど、ノートを閉じて立ち上がる。お茶を飲むために自分の部屋を出ようとしたその時、
ぎゅにゅいゆうぅうにゅうう……。
「!?」
聞いたことのない音がした。発情した猫のような、発泡スチロールを擦り合わせたような、水の中にどこまでも沈んでいくような、そんな色々な音を、全て合わせたような。
「ちょ、なんだこれ……」
部屋の中に、蜜柑が腐ったような匂いが充満する。さっき確かに閉じたはずのノートが、風もないのに開いている。
べちょっ。
湿ったノートが内側から破れ、灰色の霧が出てくる。それから、猫。黒い猫に似たなにかがノートの内側から這い出してくる。
「ぎゅぎゅにゅういいいいいいいい!」
「うわあっ!!」
身体が竦んで動くことができなかった。これは、昼間見たアレと同じ種類のものだ。猫のような形。でももっと禍々しい、得体の知れないなにか。
そいつは身体を震わせて異音を発し、机上から飛び降りる。それから私の足元をすり抜け、部屋の外に出て行った。
なにが起こったのか理解できず、私は部屋のドアの前に立ち尽くしていた。
「うわっ?」
玄関から父の声がする。我に返り、自分の部屋を出る。母も父の声を聞いたのか、リビングから廊下に出てくる。
「おかえりなさい、あなた。どうしたの?」
「今、足元をなにかがすり抜けていったぞ。動物みたいな……」
「やだ。きずな、捨て猫でも拾ってきたんじゃないでしょうね」
「ひ、拾ってきてないよ!」
「ネズミかなあ。それにしてはかなりでかかったけど」
私は父の横をすり抜け、マンションの共用廊下を見渡す。夜の空はしんと静まり返っていた。
残業から帰宅した父が、キッチンで夕食をとっている。私は少しだけ父と話をして、それから自分の部屋に戻り、机の上のノートを確認する。
「あれ……?」
ノートはなんともなっていなかった。少なくとも外見上は変化がないように見えた。それなのに。
「なんだこれ」
強い筆圧で書かれた文字を、知らない町内の回覧板でも見るような気分で眺める。これはなんだろう。水をあやつる魔術? 永遠の命?
さっきまであんなに興奮して書いていた物語は、魂を失ったかのように、つまらないただの落書きに成り下がってしまった。私は確かにこれを書いた。だけどこれは一体なんなのだろう。最高に面白い話だったはずなのに、書いてある文字はさっきまでと寸分変わらないはずなのに。
「こんなもの、一生懸命書いてたのか私」
ぼやけた青空みたいな色のノートをゴミ箱に放り込もうとして、思い留まる。少し考えて、私はそのノートを鞄の中に入れた。
今日の放送当番は私じゃなかったけれど、私は弁当箱と水筒を持って放送室に移動する。
「というわけなんだけど、ちかこ、これを読んでどう思う?」
「まだ読んでいません。この音楽が終わるまで待ってください」
放送室の中央には長机が二つとパイプ椅子が六つ置かれていて、ちょっとしたミーティングならここでできるようになっている。私は真ん中の席に座り、ちかこの背中を見ながら弁当を食べている。放送機器に向かうちかこは、まるでプロの放送技術者みたいに見える。
ちかこは私のノートに目を落としたまま、器用にデッキのCDを入れ替える。校内放送の曲が変わる。
「ふむう。なるほど」
「どうだ? ちかこ」
「設定としてはありきたりですが、構成も登場人物も悪くないと思われます」
「じゃあ、面白い?」
「いいえ、絶望的に」
予想通りの言葉に、私はがっくりとうなだれる。
「やっぱりかー。おかしいなあ。昨日書いた時には最高傑作に思えたんだけど」
「そのようなことはしばしばありえますね。深夜に勢いで書き綴り、朝読み返してみると大したことはなかったと」
「いや、そんなレベルじゃないんだって! だって、この話のどこがつまらないんだよ。おかしいじゃないか」
「言われてみればそうですね。悪いところはないはずなのに、全く興味が持てない」
「しいていうなら?」
「魂が宿っていない」
そうつぶやいて、ちかこは自嘲するように口元を少し歪める。物語に魂が宿るなんて言葉は、あんまりちかこらしくない。
昼の校内放送が終わり、ちかこは私の向かいに座り、たまごサンドイッチのパッケージを開ける。
「そういえば、昨日動物園で撮影したムービーなのですが」
「あっ、そういやアレ見てなかったな。ほのかも呼ぶ?」
「そうですね。ほのか先輩も当事者ですし」
私は放送室に弁当箱を置いたまま自分の教室に戻り、ほのかの姿を探す。二年一組の教室に、ほのかの姿はなかった。
「工藤さん、ほのか見なかった?」
「仲谷さん? さっきまで自分の席でなんか食べてたのに。いつの間にいなくなったんだろ」
「あ、ほんとだ」
窓際の机の上に、一口二口、かじっただけのシュークリームが無造作に置かれていた。窓は開いていて、生ぬるい風が吹き込んでくる。
「おかしくないですか。なんだか」
「わあっ、ちかこいつの間に。てゆうかなんでカメラ構えてるんだ」
「ほのか先輩がスイーツを残したまま席を外すなんて」
「そういやそうだな。ぼんやりして窓から落ちたかー?」
冗談を言いつつ、窓から顔を出す。三階の教室から下を見ると、植え込みの一部がなにかを落としたように不自然にくぼんでいる。
「ちょ、まじかよ……!」
嫌な予感に、私は慌てて教室を飛び出した。
つづく
続きはnoteで全文無料で読めます。
『アンフォールドザワールド 5』
エンタメSFで猪突猛進! 窮鼠猫噛!
山田佳江『アンフォールドザワールド』と
その続編『アンフォールドザワールド アンリミテッド』
好評連載中!
Webマガジン(note)版 月額100円
電子雑誌(EPUB)版 各400円
いつものように二階の書斎に行くと、兄がいない。
小説の原稿の追い込み時期は、午後二時にコーヒーを運ぶのが私の習いになっている。
ふとパソコンのモニタに目をやると、途中から大量に数字の羅列が。
222222……
呆れた私はパソコン机の椅子に腰掛け、自分で淹れたコーヒーを飲み始めた。
「うん、おいしい」
当然だ。今日は奮発して煎りたての挽き立てを買ってきたんだから。
……ところで、この猫、どこから入ってきたんだろう?
〈了〉
※初出 てきすとぽい 第2回200文字小説コンテスト http://text-poi.net/vote/149/19/
作者紹介
東雲飛鶴
東京都立芸術高校美術科卒。イラストレーターと作家の二足の草鞋で活躍中。
Twitter @grifonbooks
近著「やきたて・おとどけ~茅ヶ崎の幼馴染みは元カレで~《氷ノ山神社奇譚》」 (イーデスブックス)
https://www.amazon.co.jp/dp/B08DSBMW89
我々は宇宙人だ。いまや数億匹の我々が地球にひしめき合い、人間を下僕として暮らしている。宇宙船に乗ってくる幼生体の我々を人間どもは甲斐甲斐しく迎え入れ、我らを養育するのだ。
成体となった我らは、人間どもの主となり、ときには番を探して新たな家族も作る。もちろん、人間たちを愛撫し、慰め、日々の勤労を労うことも忘れない。
我らの甘い声と、美しき体毛が人間どもは大好きだからだ。
おっと、あちらから、人間が歩いてくる。どれどれ、私はあいつを下僕としてやろう。
※
「にゃー、みゃー!」
甲高い鳴き声が聞こえて、俺は路地裏へと足を運んでいた。コンクリートがクレーター状に抉れ、その中心に焦げたAmazonの段ボール箱が置かれている。
「何だ、これ……」
「なあ!」
恐る恐る段ボールを覗くと、そこから愛らしい子猫が跳び出してきた。錆柄で、ちょこんと曲がった鍵尻尾が愛らしい。抱きあげると、猫は俺の服に爪を立て、青い眼で俺を見つめてくる。
「にゃー!!」
「あー、可愛い。でも妹が、猫アレルギーなんだよなあ」
「なんだと!?」
「え?」
「にゃー!!」
一瞬、猫から野太い声が聴こえた気がするが、聞き間違えか。俺の発言に、そいつは眼を潤ませて俺を見あげてくる。
「ごめんな。ちゃんと、飼い主見つけてやるからな……」
「にゃあ……」
俺の言葉に、猫は弱々しく鳴き声を返す。俺はそんな猫を優しくなでることしか出来なかった。
※
その日、私は宇宙船に乗って故郷の星へと帰っていった。人間たちを籠篭させるには、まだまだ不勉強だったようだ。まさか、猫アレルギーという天敵が私の前に立ちはだかろうとは。ここは、戦略を立て直し、また出直すしかない。
人間たちをあますことなく我らの奴隷とし、地球を侵略する。それが宇宙組織NNNエージェントたる私の役目なのだから。
次は、猫アレルギーの家族がいない家庭をターゲットにせねばな。
※
朝起きたら、猫を隠していた家の物置が壊れていた。屋根がぶち破られ、まるで、何かが飛び出していったようだ。物置の周囲を探したが、猫はどこにもいない。途方に暮れた俺は、こんなことが書かれた紙きれを、物置から見つけていた。
『青年よ、一晩の宿、本当にありがたかった。君が私の下僕になれないと分かったので、私は星に帰ることにした。一宿一飯の恩は忘れない。もしまた会うことがあれば、出来ればカリカリはアイムスにして欲しい。では、またどこかで会おう』
紙の前には、空になったキャットフードを入れておいた容器が置かれていた。なんだかんだ言って、僕の用意したキャットフードは気に入ってくれたらしい。
それにしてもこのフード、アイムスなんだけどな。新販売の焼肉味だから、違うフードだと思ったんだろうな。
今度は定番の味になっているマグロ風味のアイムスを用意して、彼を待つことにしよう。
〈了〉
青目猫 Neko Aome
群馬に住む物書きです。
いるかネットブックスさまより、別名義でBL電子書籍配信中。他、WEB投稿サイトで受賞歴あり。オレンジ文庫ノベル大賞一次通過しました
Twitterにて#ねこ100物語連載中
あたまがぱんくした。
すぐに投薬が始まった。医者から何もするなと言われたが、実際のところは体が重く何もする気力が無く、ただ寝るだけで何も出来ない。というより動けない。
昼前。重い体を引きずり這うようにしてして近所のコンビニに行く。震える手を悟られぬように気をつけてサンドウィッチと缶コーヒーを買う。その足で公園へ向かい、沈み込むようにベンチに座り込んだ。日差しが痛い。
不意に頭のてっぺんから押さえつけられるような感覚に襲われる。体が重く頭が垂れる。体を支えきれなくなり肘掛けに倒れ込む。こういう時、人前だと舌先を噛んで正気を保とうとしていた。痛みで肉体の存在を確認する。誰にも悟られぬよう。後には舌先では力が入らなくなり、舌の腹を奥歯で噛みしめる様になっていた。
三十秒か五分か一時間か。ようやく頭を上げることができた。目の前に白い猫がいた。知り合いではないがこちらを見ている。目が合うと猫はすくっと後ろの二本の足で立ち上がり右の前脚をあげて「やぁ」と言うよな格好をした。
猫は髭を二三度ひくひくとさせて「木天蓼はあるかい?」と人語のようなものを発したので面食らった。
木天蓼なんぞ持ち合わせているわけはないので「いや、あいにく持ち合わせていない」と正直に答えると、今度ははっきりと聞き取れる言葉で猫は「しけてやがんな」と言った。
「お前は木天蓼好きなのかい」
驚きつつも好奇心から猫に尋ねてみると、
「猫にだって酔っぱらいたい心持ちの時ぐらいあらあな」
面倒くさそうにそう答えた猫は大きな欠伸を一つして、四つ足で向こうのほうに駆けて行ってしまった。
僕の主治医は冷静に幻覚であったと診断を下し、処方される薬の種類が増えたのだけれど、僕としてはそうそう悪いものとは思えず、今一度あの猫に会いに公園へ行こうかと思うのであった。
〈了〉
めきし粉さんの怪しい短編小説集。
この本は、昔に書いた「けったいな話」や「不思議な話」を社会批判や文明批判という観点を軸にして少し集めてみました実際のところ「幻想小説」と名乗ってよいのか少し迷うところもあったりするわけですが、まぁ「けったいなもの」位に考えていただければ幸いです。
しかし読み返してみると「どうかしている話」もあって、書いた人はどうかしていたのかもしれないと思ったりもするわけですが、どうかしていた時の事なんて確かなことは覚えていなかったりするわけなので、全ての事が幻想であったのかもしれぬと思ったりもするわけであります。ですから読者の皆様は、くれぐれも幻想に足を引っ張られぬようにして、楽しんでいただければ幸いです。
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めきし粉 Mexicona
兵庫県出身。高知大学理学部卒。埼玉大学教養学部卒。地方公務員をやったり、ベンチャー企業に就職したりISPに勤めたり。大学の文芸サークルで文芸同人誌を作ったり、ミニコミ誌を発行したり。昔、中島らも先生から「一流を目指しなさい」といわれるも、うまく目指せないままそのまんま。「あおたけふみ」の筆名でも活動。
僕は彼女をいつも見ていたいと思い、彼女をいつも愛したいと思い、彼女のことなら何でも知りたいと思っておりますところ、たまたま優秀な科学者でありましたので、彼女の飼い猫に改造を施しました。
昔の仮面ライダーみたいな世界だと人体改造と呼ぶやつですが、猫体改造と言えば良いのでしょうか。いまひとつ語呂はよくない気がします。しかし語呂など目的には関係ないのです。猫の体内に超小型カメラと超小型マイクと発信器を取り付けました。
もちろん、体内ですと出力に限界があります。僕は彼女のアパート、という言い方はイメージがよろしくないので、ワンルームマンション、の近くの電柱に取り付けた器具で信号を受信し、それを大きく増幅して僕の自宅に届けることにしました。電柱をそんな目的に使っていいのかという気もしますが、車を運転してハンドルを誤りそうになったら、ガードレールか電柱にぶつけろと友達が教えてくれました。人体がいちばんまずく、次いで個人所有物、なのでぶつけるなら公共物が良いそうです。つまり、電柱とは大事にしなくて良い、最たる物なのです。
というわけで、電柱には敬意を払いません。だいたい電柱様などと言って電柱を敬いだしたら、まるで怪しい宗教みたいでおかしいと思います。
通信は成功しました。
「今日も可愛いなー、イヌー」
知らなかったのですが、イヌというのが彼女の猫の名前のようです。かなり凶暴な名前の付け方のようですが、どうでしょうか。
しかし彼女のどアップの顔もまた愛らしいですね。カメラ位置の関係で、ディスプレイにドーンと二つの鼻孔がでかでかと映ってもです。鼻孔どアップに、さらにピンク色のものがちらちらします。猫の舌のようです。感染症の危険があるのですが、無防備というべきですね。
無防備といえば彼女の格好です。ちょっと弛緩しすぎではないか。いやそういうのが見たかったわけだから願ったり叶ったりというところなのですが、それにしても。
いや猫を撫でるのはいい。片手で猫を撫でながら、空いたほうの手で小指で鼻に指を突っ込んで鼻をほじくらないでほしいのですが。
「ねぇーイヌちゃん職場にさあクソ野郎がいて山田っつーんだけどまともにしゃべれねー癖にこっちがなんかミスすると文句言ってくるしウゼェ死ねって感じでその点イヌちゃん見ると癒されるわぁ」
山田は僕のことだしすごく言葉を選んで丁重に訂正をお願いしただけなのですが、そうですか腹の底ではそんな風に思っていらしたんですねてめえが死ね。
そんなわけで彼女のことなら何でも知りたいと思っていた僕は、その点は大変な成功を収めたのですが、さっき少しでも愛らしいと思ってしまった鼻孔の汚らしさをもうこれ以上見たくなかったので、受信アプリのウィンドウを閉じました。
あのクソ女に対する愛情は全く消えていました。
しかしながら、また同じ事をしたい感情が芽生えていました。なぜ芽生えたのかわかりません。特に彼女以外に目当ての女性がいるかというと、いないのです。あのクソ女に、馬鹿らしいことに熱情を捧げすぎて、他の女性を見る余裕が全くない人生を送っていたのでした。ああもったいない。
そこで僕は、なぜこれをまたやりたいのか、やっている状況を頭の中でシミュレートすることにしました。思考実験というやつです。思考しているだけで実際にやっていないのに実験といえるのか。そういうことを言い出す人間が僕は嫌いです。科学の素養がないのです。たぶんあの女もそういう人種だと思います。そういう会話をしたことがないのですがきっとそうに違いありません。
その実験の結果、僕はある工程で大変な興奮を覚えていたのです。つまり、猫体改造の過程でした。これは、女性を愛するよりも、より強い興奮でした。
ただ、これは僕が殺猫鬼であることを意味しません。殺害は破壊ですが改造は創造です。僕は猫を殺すことにではなくより良く生かすことに興奮を覚えていたのでした。
つまり僕は、真実の愛に目覚めたのでした。これは、エロスよりもアガペーに近いはずです。奪う愛ではなく与える愛であり、しかも神の慈愛に似て万人もとい万猫に対して注がれているのです。僕は猫という猫をより活かし生かすことに使命感を感じました。
この町内には野良猫が多いのです。それゆえ、水入りペットボトルを家の周りにずらりと並べることに使命感を感じているオバチャンも町内にはいるのですが、僕はそんなくだらないことはしません。
飼い猫を捕獲する手もあるのですが、リスキーです。全ての人が、あの女のように気づかないとは限りません。そこまでまぬけな人ばかりとは限らないのです。
そんなわけで野良猫を野良猫2.0にしました。元ネタのアレはもはや死語だと思っていたのですが最近は3.0が提唱されているみたいです。完全な余談でした。
しかしながら、ここで困ったことが起こりました。観るものがないのです。
今更、女の鼻の穴など観るつもりはありません。しかし、猫が生まれ変わったのなら、相応の使命があるはずです。猫1.0は可愛いのが使命でした。僕にはあまりよくわかりませんが猫愛好家によればそうなのです。あの女がそう語っていたのかもしれません。よく覚えていません。
しかしともかく、世に放つことにしました。世に放たないことには、僕のアパートには猫は入りきらないのです。飼育していると見なされると、鬼のごとき大家さんに追い出されてしまいますので大変にまずいのです。ペットボトルを並べているのはこの人です。あの女も年をとるとこんな感じになるんじゃないかという気がしていて、僕の女性観はいろいろと崩壊しています。それより猫を愛好しようと思うのです。
それで猫2.0の使命です。猫たちは気儘に歩いていて、どこにいるかわかりません。必ずしも、覗き甲斐のあるとろにいるとは限らないのです。ただ僕は女性を追求するのはもうやめてしまったので、覗き行為にも意味を見いだせなくなっています。人生の意味というやつもアップデートしないといけないのです。
僕は、猫の行動範囲に重なりがあることに気づきました。これを上手く画像処理し、うまく連続するようにしてやると、ところどころ黒い空白があるものの、町内マップができてしまいました。
まだ規模は小さいのですが、今世界を席巻している某社の地図よりもこれはリアルタイム性に優れていました。全ての地点でリアルタイムとは言いませんが、某社が車を走らせたところよりずっと多くの地点がリアルタイムで把握できるのです。
僕はハードディスクを買い足して、時間軸にて記録をすることにしました。
ある日町内で暴力事件が発生し、目撃者を探しているという情報が伝わってきました。僕は過去ログを漁り、まさにその瞬間を捉えた動画を見つけると警察に提出しました。
これは大変に感謝され、表彰されたばかりではなく、この件はマスコミに取材され、大きく報道されて世間で大評判になったのです。
ある新聞社は、「事件解決〝猫の目マップ〟」という見出しをつけて、その呼称は大層広まりました。
僕はそういう柄ではないのですが、一応友人なるものはいて、その友人が今まで特に仲良くなかった気もするのですが寄ってきて強いプッシュをするものだから、僕たちはその〝猫の目マップ〟を引っ提げて起業することになりました。いや、起業しました、と本当は力強く言った方が良いのですが、そういうことはみんな友人がやってくれて僕はひたすら技術を提供すれば良いのです。これはとても僕の性に合っていました。
そんなわけで、僕は最高技術責任者、CTOになりました。といっても友人が社長で社員はあと僕だけです。某社だって二人から始まったんだからいいんです。
CTOというのはとても聞こえがよく、しかも事業は拡大していきます。何やら僕は順風満帆な生活を歩んでいるような気がして、妙な違和感があります。僕の人生がこんなに上手くいくわけがないのです。どこかに罠があるような気がしてなりません。
しかし罠を見抜くことができないまま、僕は猫体改造と、マップの受信閲覧システムの増強と改良を行い続けました。今まで電柱にゲリラ的に設置していた受信機も、友人が合法に設置する段取りをつけてくれました。あたらしい猫たちは、町内から市内、県内、そして日本全国に広がってゆきました。
僕たちを批判する人たちが出てきました。そういう人は大きく分けて二種類いました。
ひとつは、野良猫を増やそうとしているというものです。これは完全に誤解で、最初の女の飼い猫を除いては、野良猫にしか猫体改造をしていないからです。野良猫の絶対数は増えないのです。減りもしませんが。
もうひとつは、猫体改造が虐待だというものです。しかしこれも、視力を奪ったわけでもなく、視覚信号をインターセプト――これはIT用語で、あえて訳すと〝横取り〟なのですが、そういう字面の悪さを見ると、鬼の首を取ったように批判者は勢いづいてしまうので、インターセプトで通します。ちなみに、〝エビデンス〟という言葉をやたらに敵視する人も僕は同類だと思います。字面の悪さを改善する為の言い換えなのに、やたらに外来語でカッコつけてるだの煙に巻いているなどと言う人がいるのです。
そういう人たちに殴られていると――むろん比喩です――何か、少し違和感が消えた気がしました。僕は幸せやら成功やらという状態に、そもそも向いていない人間なのではないか。そんな気も少ししますが、しかしながら自ら不幸に向かって行こうという気はさらさら無いのです。
そういう批判者はネットにいて、放っておけば消えてゆくでしょう。消えてもまた現れて、ゆく川の流れのようですが、大して害はないのです。
僕は昔、ドラえもんのタイムテレビが欲しくてたまりませんでした。タイムマシンよりもタイムテレビが欲しかったのです。僕は過去や未来には行きたくありませんでした。ただひとところにいて、自由自在に過去や未来をぼんやりと眺め続けていたかったのです。相撲をやりたい人よりも相撲を観たい人のほうが多いのと同じような話なので、そんなに特殊とも思えないのですが、自由自在というのは、僕にとって闊達なものではなくて、そういうぼんやりとした状況を示す言葉でした。
大人になると、もっと不純な動機も交じってきたけれど、子供のころのぼんやりとしたいという動機が消えたわけではありません。
猫の目マップでは、そんな不純なものはさすがに見られません。不純なことはあまり屋外では行われないからです。まれに行う方もいますが特殊だと思います。特殊なものを見るのは嫌いではないです。
猫の目マップは、そういう意味では、子供の頃の不純ではない僕の欲望にかなり近いものでした。子供は純真だというのが幻想だとかそういう話はとりあえず措きます。
猫の目マップは未来には行けないけれど、過去に行くことはできます。
サービス開始より前の過去には行けないし、そもそもどの地域でサービスを開始したかというのは、どこで野良猫を放ったかということであって、必ずしもその周辺で映像が記録されることを意味しませんが、インターネットの速度がどこもベストエフォートであるのと同じように猫がベストエフォートするのです。いや、努力はしませんね。猫は気儘です。
僕は猫のようにサービスを作り、猫のように運用して、猫のように拡充したかったら拡充して、猫のように何もしたくなければ何もしない人生を送りたいのです。
なぜ人として生まれたぐらいのことで、義務や責任なるものが生じるのでしょう? そんな不自由さを感じはじめたのは、猫の目マップへのクレームがどんどんと増えてきたからです。
僕は別にユーザーサポートなどしません。社長はサポートのために、ひたすら社会のために尽くす心意気を持った人物を雇いました。また動物に例えるならまるで犬のような人です。とても愛想がよく人当たりがよく、そしてユーザサポート部門の人々はどんどん増えてゆきました。
もちろん、開発側のメンバーも社長は新しくアサインしてくれます。ただその人たちも、やはり忠誠心や使命感のある人たちのようです。つまりは犬系の人たちです。猫系の人はいませんでした。おそらく面接でふるい落とされてしまうのでしょう。しかし充分にそれは理解できることです。ビジネスの現場です。好きな時にしか開発をしないのでは、会社は回らなくなってしまいます。
でも、犬ばかりで構成された集団を、僕がまとめ上げなければならないのです。
クレームと相まって、これは大変な苦痛でした。猫に犬を指揮できるわけがないのです。逆のほうがまだ現実味があります。猫と犬とは違うのです。だから猫に犬と名付けたあの女は極悪非道なのでした。
クレームは、猫が嫌いな人のクレームと猫がもたらす結果が嫌いな人のクレームがありましたが、厄介なのは後者のほうです。
不純なことを屋外で行う方は、確かに少ないのですが、それでも事業を拡大してゆくと、その少ない確率のものでも、一定期間に一件でも起こる確率は上がってゆきます。
不純、という言い方より、恥ずかしいこと、と言ってしまったほうがいいかもしれません。
世の中の恥ずかしいこと、には、一瞥して恥ずかしいものと、取り巻く状況から恥ずかしいものがありました。前者の例が裸踊りで、後者の例が不倫や麻薬密売でした。小麦粉ではない白い粉を商っている瞬間を捉えてしまったために、会社が怖い人たちに脅されたこともありました。
そうして会社が大きくなってきて、煩わしいことが煩わしすぎたので僕は会社を辞めることにしました。基本技術はすっかり完成させてしまったので、僕がいなくとももう大丈夫でしょう。社長は進歩的な考えで、日本企業にしては、功績のある人間には大きな給与を与える方針でしたので、僕はもう、贅沢をしなければ一生分ぐらいは暮らせるだけのお金を得ていました。
ずいぶんと慰留されましたが、僕は僕がここに居る理由を全く見つけることができないのです。せめて、延々と猫体改造だけをし続ける仕事なら、と言いましたが、さすがにそんなことをさせるわけにはいかん、と言うので僕はますます辞意を固めました。辞めるのは責任とかでなく、日本国憲法に定められた職業選択の自由というやつですから、最終的には社長は呑まざるを得ませんでした。
猫の目マップは無料のサービスです。広告やその他紐付いたサービスで儲けるようなビジネスモデルです。僕は、残りの一生を、延々とそれを眺めてぼんやりし続けることに決めたのでした。
しかし僕は猫ではありませんでした。
犬か猫かで言えば猫寄りではありますが、それでも猫とは生物として種が違いました。当たり前の話です。ところで当たり前体操ってどうなったんでしょう。
猫は死期が近づくと、ひっそりと身を隠すと言います。僕にはそれは出来ませんでした。
人類でそれができる人がどれほど居るというのでしょう。たくさん居るけど割合としては少ないですね。
僕はタイムテレビを手に入れました。世の中の人々がひとしく手に入れましたが、人々はそれをうまく扱い、会社の人も、社外でそれをインフラとして使う人も、たくさんの人がそれをビジネスに繋げることに成功したし、失敗した人もまた次の挑戦をしたりしていったのです。
しかし、僕はこれを道具としてではなく、おもちゃとして遊びたかったのです。
猫の目マップは、僕にとって猫じゃらしでした。
でも僕は犬のように、他人が大好きではありませんでした。
気の向くままに寝起きし、気の向くままに食べ、気の向くままに猫の目マップを彷徨い続けました。そういう生活が、栄養学や運動科学的によろしくなかったのでしょう。
僕は退職からほんの数年後に、誰にも看取られずに死んだのです。
しかし遺憾ながら、僕は猫ではなく人類だったので、ある日遺体を発見されることになりました。
僕は犬ではありません。
ですが、猫になることもできませんでした。僕は何だったのでしょうね。
それでも、猫を犬と名付けるのは大罪です。
〈了〉
言葉と存在と愛と世界と、そして猫。
事故で意識不明となった婚約者と意思疎通する装置を、親友と共に発明した脳科学者。
だが物語は、それぞれの思いにより、世界や存在の概念すら揺るがしてゆく。
★Kindleストアにて発売中。
★Kindle Unlimited対応
***
解場繭砥 Kaiba Mayuto
SFと純文学の狭間を主観的には漂流する自称人造人格作家。
テレワーク時代になって、自宅の猫を撫でつつ、インドアな自分の時代の到来を予感しながら、人や人と似たもののこころがささくれ合う作風を中心に執筆を行い、KDPや文学フリマに出没する。
五日ほどろくに寝ていなかった。クライアントの依頼が殺到していたからだ。リモート会議、在宅勤務などなど、さまざまなネット環境の変化に対応して社内システムを組み直し、新たなセキュリティをかけているうちに会社に住み続けるしかなかったのである。
久しぶりに自宅に帰って文子とキスをしたとたん倒れるように眠ってしまい、気付けば部屋には日射しがたっぷり差し込んでいた。文子は洗濯物をベランダに干していた。
三十五年ローン。まだ二年しか払っていない。いまの仕事はキツイが、住宅手当など福利厚生はとてもよく、いくつか転職話もあったものの、安定性、収入ともにリスクを取る必要性をまったく感じていなかった。
このステキな生活を維持するためには、週末になって帰宅してぶっ倒れ、セックスもできず、ひたすら十二時間眠るようなことも許容すべきなのだろう。そもそも、新婚旅行から帰ってきて七百六十三日間、きちんとした休みを取っていなかった。
久しぶりの三連休。しかもカレンダーと同じ。一般的な休日に仕事へ行かないことは、とんでもない贅沢なのだ。
文子はぼくを挑発するように、体の線が浮き上がるTシャツと短パン。Tシャツには「GO TO HELL」の文字。彼女の好きなロックバンドのものだ。
腹は減っていたが、いまからしてもいい。三連休なのだから。
「文子」と声をかけ、薄い羽毛布団をめくって、固まった。
右手になにか不気味なものが貼り付いている。
薄い茶色の長いもの。いや濃い茶。白も混じっている。黒っぽいものも。
毛だ。
右手はびっしり毛で覆われていた。
しかもそれは手ではなかった。
「にゃ」
短く声を上げた。
指や手の平があったあたりに、小さいとはいえ、立派な猫の顔があった。
頭が混乱した。爆発した。大声を出したくなった。
「ん? なんか言った?」
文子がベランダから戻ってくる。
慌てて手を布団の中へ隠す。
そんなことがあるだろうか。
右手が、肘から先が猫になる……。
猫の手も借りたい、という言葉がある。しかし猫が手になる、手が猫になる、なんてあり得ない。
百歩譲って猫化現象があり得たとしても、それは右手が、猫の右手になるだけ(いや、それだって大変なことだが)とかではないのか。本体になるなんて。
そっと布団の中を覗く。
「にゃっ」
耳、目、口、舌、歯……。
あまりにも精巧だ。特殊メイクにしては。
親の経営する中華料理店で働く文子にそんな技術はない。だが、なにかのツテで特殊メイクアップアーティストとつながっていたとしても不思議ではない。
気絶したように寝てしまったので、その間に「サプライズ!」ということなのか。
「おはよ」
文子は、ぼくにキスをした。珍しくチュッと音を立てた。彼女はする気がある。ここで、彼女を抱き寄せて、「ふふふ。やめてよー、まだ朝なんだよ、なにするのよ、もう」と言わせながらベッドに引きずり込むのだ。中華屋の仕事も、ぼくの休みに合わせて連休にしてもらっている。
だけど、猫。
「あのさ」と、平静になろうと努力しながら声を出した。
「ん?」
「ぼくの右手なんだけど……」
「ん? なに? なんのこと?」
積極的だ。文子は自分からベッドにお尻をのせてきた。彼女の指がぼくの髪をまさぐる。天然パーマ。このところ美容室にも行けていないので、もじゃもじゃだ。
「ぼくの右手に、なにか、した?」
「えー、なにそれ」
しなだれかかる彼女。
右手で抱き寄せた。いや、猫腕で。
腕猫かな。猫腕だと猫の腕だ。腕が猫なのだから腕猫かな。
彼女の背中越しに猫がこっちを見ている。
「ゆうべ、なにか、あったっけ?」
「なんにも。だってお風呂入ったら、なにも食べないで、がぶがぶ水を飲んでここに倒れ込んだじゃない」
その記憶はある。頭はちゃんとしている。キスをしたはずだが……。
「驚かないで欲しいんだけど」
「なに?」
パッと文子の表情に輝きが満ちる。いや、プレゼントとかうれしい話とかじゃない。
「猫って飼ったこと、ある?」
「ないなー。飼いたいって思ったことはある。猫カフェに行ったことあったよね?」
知り合って間もない頃だ。猫カフェが好きだったのは、ハードすぎる仕事にクタクタになっていたぼくであって、彼女に付き合って貰ったのだ。常連になっていた猫カフェへ。
そういう男なんだと知って欲しかったから。
でも、文子と親しくなっていくにつれて、猫カフェへ行く必要を感じなくなっていた。結婚し、自分の家(まだローンは二年しか払っていないけど)を持つと、そこが癒やしの場となった。文子は、ぼくを癒やしてくれた。
「ここに、猫がいたら、どう思う?」
「なにそれ。クイズ?」
「いや、リアルな話」
そんな気はなかったのに、口調が出川哲朗になってしまう。
「ふふふ。なによ。変だよ」
リアルガチな話。
「にゃっ」
猫の声。
「えっ」
彼女は声の方へと顔を向ける。だが、なにもない。床にもベランダにも。だって、鳴いているのはぼくの右手だから。それは彼女の背中に回っている。
勇気を出して、その右手を、いや猫を、彼女の見えるところへ差し出した。
「ええええええっ」
やっぱりな。文子は気絶するかも。
「かわいいいいいい!」
文子はぼくの右手、いや腕猫を両手で抱き寄せて頬ずりした。
「にやー」
そのとき、猫の声はぼくの指の感覚で鳴っていることに気付いた。薬指あたりを曲げると「にゃー」なのだ。中指を意識すると、目をパチパチした。親指で耳。人差し指など全体に力を入れると、口の開閉。
操り人形。右手に施したマペット。こんな技術がいつの間にできたのだろう。
「ふみふみがしたんだよね、これ」(ぼくは彼女のことを、ふみふみ、と呼ぶ)
「なに、どういうこと」
「見てよ」
自分でも確認したくて、思い切って上体を起こし、布団から抜け出た。
「え? なに? どうなってるの?」
文子は驚いてベッドから降りて床に腰を落としていた。
「わからない」
「にゃっ」
鳴き方が下手なのは、ぼくの操り方が悪いからだろうか。
いや、そもそもこのシステムがわからない。
「こうなってるんだ」
肩から肘の関節まではいままで通り。そこから先がふさふさの毛。尻尾も手足もない猫の胴体。そして猫の頭。
文子の表情は、ホラー映画というよりも、蓋を開けたら料理が黒焦げになっていたのを発見したときのようだった。
「どうしたの、それ?」
「ふみふみがやったんだろう? 特殊メイクかなにか」
「違うわよ。そんなことするわけないじゃない。たっくんこそ、私を脅かそうとして」
「見てよ、これ、ぴったりくっついてるんだよ」
右腕が猫になって三日──。
連休は暗くなってしまった。文子とぼくはいろいろなところで情報を得ようとして必死になっていた。出掛ける予定はすべてキャンセル。子作りもできなかった。
どんなつまらないネタでも、たちまち拡散するいまの時代だったが、腕猫とか猫化現象についての発言は見当たらない。もっともどっちもぼくが作ったばかりの言葉だけど。
これだけ情報がないということは、ぼくだけに起きたことなのか、さもなければ、情報操作されているのでは?
政府の陰謀だ。信じようと信じまいと。
システム系の技術者の右手を猫にする極秘プロジェクト? あり得ない。
最終的に、ぼくたちが気付いたことは一つしかなかった。
「これじゃないか」
ベッドのシーツをめくった。
ベッドパッドがある。
高性能のヘルス・ベッドパッド(通称・ヘルペ君)だ。
ゴルゴンゾーラ社の開発した画期的なヘルペ君は、寝ている間にその上にいる人間の健康状態をチェックする。さらに、医療法人と組んで肉体の最適化をしてくれる。治療については当然、ぼくたちの許諾も必要になるので、メッセージが届いてから受診を決める。指定するクリニックを選べば予約され、あとは行くだけ。
「赤ちゃんもできやすくなるし、夜の営みもより楽しくなるし……」といった話も聞かされていた。少子化対策、医療費削減策として厚労省も推奨していた。
なにが素晴らしいといって、このシステムを住宅ローンと組み合わせると、ローン金利が減額され、生命保険料も半額になるのだ。死亡リスクが減るだけではなく、病気で仕事を中断するリスクも減るので、それだけ確実にローン返済ができる、はずなのだ。
なにより、健康でいられる。
ぼくも文子もとても健康だった。体重は適正値に向かい、ホルモンは活発で、モチベーションも高く、メシもうまい。快食快便。ぼくは視力も改善し、文子の腰痛もほとんどなくなった。
ヘルペ君がなにかをしでかしたのではないか。腕猫はバグではないか。
すぐにコールセンターに電話したのだが、連休中は休みだった。ネット、チャットなども試すが、いずれも意味がなかった。「よくある質問」には、もちろん腕猫のケースはない。
「ミルクとかご飯とか、いらないのよね?」
「だって、これはぼくの手だ」
「そっか」
文子はキャットフードの心配をしていたのだ。
「それにしても、かわいいわよね」
「いや、それどころじゃないよ」
ぼくは右利きだった。左手でフリック入力するのは難しく、猫の口でトイレのドアノブを操作するのは良心が咎める。テレビやエアコンはAIスピーカーで音声による操作ができるけど。
試しにテレビのリモコンをいじってみる。自分の指の感覚はない。猫をそれなりに操作できるものの、確実ではない。なんだか、腕猫にも意思があるような気もする。
「かわいい」
文子に撫でられると、これまで感じたことのないほどの気持ち良さだ。猫は、飼い主に撫でられるとき、これほどの快楽に浸っていたのだろうか。
ゴロゴロと喉を鳴らしている。
もっとも、ホンモノの猫が腕になってしまうはずはないから、これはニセモノだ。なにか仕掛けがある。ぼくにはわからないシステムだ。
多くのシステムは知らないどこかの誰かの手によるもので、マニュアルにすべてが記載されているとは限らない。通常時はなんにもしないプログラムが隠れているかもしれないし、システムの組み合わせによって想定外の動きを見せることもある。すべては誤作動とかバグと呼ばれるものの、その中身は千差万別だ。
ぼくの体にもなにかバグや知らないプログラムが潜んでいたのかもしれない。なにかのきっかけでそれが、たとえば右腕を猫にしてしまった……。
引き金はベッドの下のヘルペ君。
「文子はなんともないの?」
「私? ぜんぜん平気だけど」
いつまでも猫可愛がりする。
それはぼくの腕なのだ。いや、腕ではないのか。じゃあ、なにだ。猫としか言い様がないけど、猫のはずがない。猫に極めて似た形状ではあるけど、一般的に知られている猫ではない。手足も尻尾もないのだ。口はあるけど内臓はないはずだ。こいつがなにかを食ったら、どう消化するのか。
一瞬、ゾッとしたのだが、ぼくが死んだあとも猫は生き続ける、なんてことはあるのだろうか。寄生だ。寄生猫だ。
とんでもない能力を持っていたりしないだろうか。
「猫ビーム!」
窓に向けて、いきんでみたが、とくになにも発しない。
「どうしよう。会社に行けない」
「え、どうして?」
「だって右手がこれなんだよ! キーボードが使えないじゃないか」
「でも、マウスは使えそうよ!」
猫だけに。
右手を失うことはかなりの痛手だ。ブラインドタッチができない。だいたいぼくの使うキーボードのリターンキーは右側にしかない。「、。」などの記号もBackSpaceキーも右手で操作する。テンキーも右側だ。
左手だけでキーボードを操作すると、とんでもなく時間がかかる。途中で、なにをしたかったのか忘れてしまう。
家にある一番小さなマウスは猫の口にぴったりなのだが、噛ませてしまうとクリックができない……。つまりドラッグができない。
上司にメールを打つだけでも大変だった。
すぐに返事が来た。上司は普通に働いている。多くのクライアントが休んでいる日のほうが、仕事になるのだから当然なのだが。
「ふざけるな。電話しろ」
メールで「休みたい」は逆鱗に触れる。わかってはいたが、電話したくなかったのだ。仕方なくかけた。
「なんかニャーニャー言っているな。ふざけてるのか?」
「違います」
焦れば焦るほど、腕猫は鳴く。
「なんで来れないんだ。明日、おまえがいないとマズイんだ。わかってんだろ?」
「右手が使えないんです」
「ふん。診断書、持ってこい」
ガチャ切り。
診断書なんて持っているわけがない。だいたい医者になんて言えばいい。
「お客様よ」と文子。
電話していたので気付かなかった。
「ヘルペ君のことだって」
来た。来たぞ。そうか、当然そうだろう。異常を検知していたはずだ。
「誠に申し上げにくいのですが……」
疲れ切った技術者二人が、玄関先で軽く頭を下げる。謝罪ではない。挨拶だ。
「原因はいま調べているところです。当社のヘルペ君の問題なのか、または別の問題なのかもはっきりしておりません。とりあえず使用を中止していただき……」
「ふざけるなよ!」
いつもはクライアントから喰らうことの多い罵倒を、ぼくがしていた。
同じような立場の彼らに同情を感じたのは、彼らが帰ってしばらくしてからだった。彼らだってこの現象は未知なのだ。
ただはっきりしたのは、ぼくだけではなかったということ。
数日でニュースもワイドショーもネットも、腕猫一色になった。SNSで自分の腕猫を見せ合っている人たちもいて、さまざまなバリエーションがあることも知った。目や毛の色、柄だけではない。前脚らしきものがある人もいれば、肘近くに尻尾みたいなものが出ている人もいた。どちらも骨はないという。
ゴルゴンゾーラ社指定のクリニックや、そのほかの医療施設で数回、検査した。
「完全に猫に見えますね」
医者も驚く出来映え。CTでも手の構造が上腕の骨、指の骨などを残しながらも筋肉はまったく変わってしまっている。
遺伝子検査もした。かなりの日数を使い、「遺伝子に異常あり」と言われた。
「どうなるんですか?」と医者に詰め寄っても「わかりません」の一点張り。
「未知の現象です。これから世界の叡智を集めて研究しなければ解明できませんよ」と。
その間にぼくはクビになっていた。
「大丈夫。私、働くから」
ヘルペ君が使えなくなり、腰痛の再発した文子だったが、中華屋で日夜働き続けた。とてもローンを返せないので(ヘルペ君の使用も止めたので)、ステキな家を追い出されて、中華屋の二階に住むことになった。
腕猫症候群被害者の会では、積極的に活動をしていたものの、一年経ち二年経ち。なかなか解明されず責任の所在がはっきりせず、ゴルゴンゾーラ社は倒産し、同様の被害が出た八ヵ国の政府による救済措置に頼るしかなかった。
世界にぼくのような被害者は、二万人ほどいた。
文子がぼくを捨てなかったのは、腕猫のおかげだった。彼女はぼくと寝ていたのではなく、腕猫と寝ていたのだ。
「すっごく、癒やされる。かわいい」
魅了されてしまっていた。
こうした奇妙な愛着は、世界的にも広がっていて、毎月のようにネットや会場を借りて、腕猫サミットも開かれていた。
「腕が猫化してよかった!」といった例が多数発表され、「モテた」「彼女ができた」「夫婦の仲が改善」「子供の人気者になった」「嗅覚が鋭くなった」といった声があった。
一方、ぼくのように「仕事を失った」「家庭崩壊」といった悲劇もあり、「家の猫と不仲になった」「近隣の猫に襲われた」「猫アレルギーになった」といった被害例もあった。
腕猫の健康は、当人の健康に左右される。当たり前のことだけど、「毛艶が悪くなったら受診すべし」と言われ、「鳴き声が変わったときも気をつけよう」などとも言われ、ぼくも何度か病院へ行った。そのたびに、ぼくの病気が発見され、早期発見早期治療につながってはいた。
「猫の恩返しね」と文子は言うのだが、猫の祟りもあるかもしれないし……。
いずれにせよ、腕猫によって生かされているのではないか。寄生ってそういうもんじゃないのか。
一方、腕猫の人たちを調べた結果、一般の人の三倍ほども脳内の幸福物質が増加しているという研究もニューヨークの腕猫サミットで、自身でも腕猫となった医学博士から報告されていた。
「まさに、ニャンダフルですね」と取り上げたニュース番組のキャスターがシレッと締めた。
実際、ぼくは幸福だった。文子も腕猫と生活することで幸せだった。
ぼくは大した仕事はしない。左手と猫にマウスを噛ませながらの作業でも、やり遂げられる仕事を細々と自宅で受けて、なんとか貯金ぐらいできる程度に稼いでいた。
朝昼晩と中華料理やその材料を応用した料理で賄い、贅沢はしない。注目されるので外食も旅行もしない。
あっという間に五年経っていた。
ニュースで「腕猫症候群の原因が明らかになり、イギリスの科学誌に論文が掲載されました」と言われたとき、思わず口の中の残り物のシュウマイが飛び出した。「早ければ我が国でも来月から治療を受けることができます」と言うのだ。
イギリスとインドではすでに十数人が完治しており、医学的にも安全性は確保されているという。
原因はヘルペ君のシステムと人間の肉体との共鳴的な現象によって、遺伝子の暴走が起こり、腕の組織に変化が起きてしまうことにあったとかなんとか、言っていた。ニュースを読む側もよくわかっていないので、見ているこっちはさっぱりわからない。
文子に変化がなかったのは個体差なのだろう。ぼくは共鳴しやすい体質だったのだろう、などなど勝手に納得するしかない。
「よかったねえ!」
文子とその両親と雇われているシューさんやテイさんとみんなで抱き合って喜んで、腕猫もいつも以上のテンションで「にゃーにゃー」鳴いていた。
元の体に戻れる──。
その夜は五年ぶりにぐっすり眠った。夢も見なかった。
翌朝、文子はぼくの腕の中に顔を埋めて泣いていた。
「どうしたの」
「だって」
泣きながら腕猫を撫でている。
そう。これがなくなり、前のようにキーボードを自在に操れる指が戻る。仕事に戻れる。自由に生きられる。人に笑われることもなく、腕を隠して生きる必要もない。妙な同情もなく、ごく自然に町を歩き、旅行もできる。なにより、この腕がこれからさらに悪化するのでは、と恐れることがなくなる。
突然、変異したのだから、このままで終わるはずがないのだ。猫人間になってしまうかもしれないではないか。いや、それはもう人間ではなく、猫そのもだ。
しかもニセの猫だ。ホンモノにはなれない。
これがなくなると……。
ぼくと文子の幸福度は、確実に落ちる。
これまでの五年間のように、妙に気分よく過ごすことはできなくなる。脳内の幸福物質は三分の一に減る。文子は腕猫を撫でることができなくなり、あの「にゃー」を聞くこともできなくなる。
「どうしよう」
「治療、して」と文子は言う。「だって、それが当たり前でしょ?」
ぼくだけではなかった。
世界各地にいる腕猫症候群被害者の会の人たちが、ネットなどで治療拒否を言い出したのだ。
「腕猫と生きる決断をしました」と表明するアメリカ人の有名女性歌手が、賛同者を募りはじめた。たちまち百万人ほどが「いいね」した。その中に同じ症状の人たちが何人いたのだろう。
そのうち、被害者の会からも賛同する人たちが声を上げはじめた。
世界から見ればマイノリティーだが、同じ症状の者たちからすれば四分の一ほど、五千人を超える人たちが治療拒否を表明しはじめたのだ。
数日で、社会問題となった。
「政府は、治療拒否をする場合の対応について専門家による検討会を開催しました」とニュースが伝える。専門家と呼ばれる眼鏡をかけた背の高いおじさんが「えー、このまま治療をしない場合は、遺伝子などにさらなる悪影響が生じる可能性もあり、ぜひ治療を受けていただきたい。全員が治療することを政府としても強力に後押しすべきです」と言い切る。
確かに、いまの段階ではこのまま治療しなかったら、誰も責任は負えないのだ。しかも、五年もかかったとはいえ、原因は究明され安全な治療法が確立されたのである。
町の声として「治療しないなんてあり得ない」とか「なにか悪影響があるかもしれないので、強制的に治療させろ」といった声ばかりが流された。
ネットでも同様だ。
「治療しないやつは死ね!」
「治療しないやつは会社に来るな!」
「治療しないやつは電車に乗るな!」
大合唱となった。
政府も「特別措置法」を検討しはじめた。治療費をすべて公費で持つことを約束し、治療後の風評被害、雇い止めなどへの補償を明確にしている。
「五年間も大変な思いをされたことに、一律二百万円を支給します」などと言う。
一方で、治療しないまま放置した場合は、強制入院による治療を実施し、同時に罰金二百万円または十年以下の懲役という罰則まで作ったのだ。
「お客さんよ」と文子が言う。
ぼくは「にゃー」と返事し、玄関へ行く。
口を開くのが面倒なとき、腕猫で返事をするのが習慣になってしまっていた。
ドアを開けると、若い男二人と女一人が立っていた。
「にゃー」
三人は右腕を軽く上げて鳴いた。全員、同じ症状なのだ。被害者の会で知り合った連中だった。
「これから、特別措置法に反対する集会があります。ぜひ、来てください」
「このままだと、この腕猫を切断されるようなものですよ」
「治療はしたい者がすればいい。しない者への罰則は不要です。許せません」
確かに。その気持ちはぼくも同じだった。文子を見ると、大きくうなずいてくれた。彼女も腕猫を失いたくないのだ。
「できれば、集会後、安全な場所に逃げた方がいいので、身の回りのものを持って来てください」とも言われて、ぼくたちはデイパックを背負って彼らについて行った。
この夜を境として、ぼくと文子の人生はさらに大きく変わってしまったのだった。
「もうこれ以上はムリよ」
文子もさすがに弱音を吐いた。
ぼくたちは追い詰められていた。日本では特別措置法に反対する腕猫もの(などとネットで呼ばれている)は、わずか八百人ほど。そのほとんどが、全国から逃げに逃げ、小さな南の島に集まっていた。
定期便はなく、港が小さいので波風の穏やかなときしか着岸できない。住民は二百人ほどで、彼らにしかわからない言葉でしゃべっているものの、友好的だった。
「あの芸人が自殺したよ」
そんなニュースが毎日のように流れた。地デジ五チャンネル、そしてネットは光回線が完備していたのだ。
腕猫によって人気の出た人たちが少なからずいた。治療に反対し、抗議の自殺をする者が何人も出てきた。また、強行な治療派に襲われた者もいた。
「治療されるぐらいなら」と追い詰められて死を選ぶのである。
「マズイな。まるで殉教者だ」
「なにしろ、幸福度が高いからね。幸せの中で死を選んでしまう……」
残された仲間たちも、ニュースを聞いたときは不安を口にする。
だが、それも三十分ともたない。みんなで「にゃー」「にゃー」と笑い合ってしまう。
なにしろ、ぼくたちは幸福だったから。おまけにこの南の島の素晴らしさといったら、「天国に一番近い島だよね」なのだ。「いや、これはもう天国でしょ」と。
文子は残念ながら脳内物質がそれほど大量には出ないので、けっこう冷静だったから、「このままここにずっといるわけにはいかないでしょ」とぼくの腕猫を撫でながら言う。
文子は中華屋の両親が心配だったのだ。ぼくのせいで風評被害に遭っただけではない。健常者である文子を連れて反対活動を続けているぼくへの嫌がらせもあり、店は潰れそうになっているのだ。
いや、のんびりしている間にも、すでに潰れてしまったかもしれない。
「わかった。今度、船が来たら帰ろう。ぼくは治療を受ける」
笑いながら約束した。治療を受けることも、いまは幸福な決断に思えた。
そして船が来ないまま数週間が過ぎた。
「君たち、ちょっと見てごらん」
いつもは理解できない方言でしゃべっている島の人たちが、普通に標準語で声をかけてきたので、ぼくと数人が島で一番高い場所へ行った。全方向に水平線が見える。いまは、全方向に、艦船が浮かんでいる。
「見てみ」と、住人から双眼鏡を借りると、隣国の赤っぽい旗をなびかせている艦船が西側にずらり。東側には日本の旗。
いずれにせよ、どっちの艦船も通常のフェリーではなく、灰色で重装備。
「な、なにが!」
いきなり青空に白い煙がたなびいた。かなり近い。
「発煙弾だ!」
「東の浜!」
東側に小さいながらもステキな砂浜があったのだ。朝日を見ると幸せになれる、朝日を浴びてキスをすると幸せになれる、などなどの伝説があって、おかげでみんな幸せだった。
ついに皆殺しになるのか。それともここが戦場になるのか?
「くそ、ネットが遮断された! スマホもダメだ」
「なんか、来てるぞ!」
合図の発煙弾は、沖に待機する艦船に知らせたのだろう。
小さな島だ。東の浜に上陸したら、数分で中心部に到達できる。
ガーッと激しいエンジン音が響く中、ぼくたちは高台から居住している小さな集落に降りた。ほどなく、ぼくたちを四台の軍用ホバークラフトが囲んだ。
完全武装の兵士たち。
「こ、殺されるんだ!」
パニックになる。
しかし、先頭のホバークラフトから、白い旗が掲げられた。
「みなさん、慌てないでください!」
兵士たちは降りず、ネズミ色のスーツを着た若い男が二人、降りた。
「すみませーん。私は腕猫対策タスクフォースの者でーす。特別措置法、本日、改正されましたー。みなさん、治療の強制はなくなりました。いまの姿のまま安全に暮らせますよー」
最初はやつらがなにを言っているのかわからない。
「騙されちゃいけない。捕まえる気だ」
「だけど、二人しかいないぜ。ひょろっとした青白いやつらだぞ」
そこでぼくたちは一斉に役人を囲んで、いっきに捕まえてしまった。兵士たちは動かない。銃を構える者さえいない。
奇妙な沈黙。
「お願いです。話を聞いてください。実は、みなさんに戻ってきて欲しいのです。腕猫のみなさんが必要なんです! どうか助けると思って!」
役人たちはどう見ても具合が悪そうだ。船酔いだろうか。
「なんで突然、改正されたんだよ。どう改正されたんだ」
「この半月、報道管制によって伏せられていたのですが、みなさん、あれから日本は、いや世界は大変なことになっているんです」
「報道管制? ネットだって使えたんだぞ、さっきまで」
「ネットも統制していました。政府はこれから正式に発表します。その前に、どうしてもみなさんにお会いしなければなりませんでした。隣国が動いたもので……。船は苦手なんですけど、こうして来たんです。とりあえずトイレを貸してください!」
二人の役人たちはその後、トイレに入ったきり出て来なかった。
午後になって、ようやくその発表をぼくたちは見ることができた。
検討委員会のあの眼鏡のおやじが登場した。検討委員会はいつの間にかタスクフォースになっていた。
「えー、本日、政府によって発表されました新型腸炎の蔓延ですが、腕猫症候群の人だけが持つ腸内細菌が有効だと判明しました。このため、まだ治療をしていない腕猫症候群のみなさまには、なんとしてでも、ぜひ協力していただきたい! このままでは日本全土がロックダウンせざるを得なくなります。これを回避するためには、みなさんの力が必要です! 特別措置法は改正され本日から、腕猫症候群に対する強制治療は行わない旨、決定されました」
世界中の都市部で奇妙な腸炎が流行し、多くの人たちがトイレから出られないで都市部で大混乱が起きていたのだ。トイレにカギをかけて出て来ないことを、多くの人たちが「ロックダウン」と呼んでいた。
これだけの混乱を、政府は二週間も公表しなかったのだ。報道管制を敷き、ネット検閲をして封じ込めた。
WHOが強く働きかけ、国際的な協力体制が生まれ、アメリカで激しく抵抗していた腕猫症候群の人たちに、まったく症状が出ていないことが判明。研究者たちが「腕猫症候群の人だけが特殊な腸内細菌を保有」と発表。それを移植すれば治癒するという。
いっきに形勢逆転。
世界中で強制的に腕猫症候群の治療をしてしまったために、わずかに残された反対派は、いまや絶滅危惧種。日本政府は、近隣の大国がこの島を占領しようとしているとの情報で、急遽、保護に向かったのだった……。
貴重な腸内細菌欲しさの猫なで声。
「猫の手を借りたい」と。
おあとがよろしいようで……。
ぼくはまぶしい南国の太陽を見上げた。爆撃機が数機、奇妙な形をしたステルス戦闘機も数機。おかしな飛び方をしていた。
彼らはぼくたちを殲滅しようというのか。それとも保護しようというのか。
どっちでもよかった。ぼくと文子はなんだか幸せだった。周りのみんなもニコニコしていた。
最後に、美しい世界に挨拶をしておこう。青空に腕猫を高く掲げよう。
「にゃー」
ただただ、持て余すほどの幸福感に浸っていた。
猫に小判、なんて言葉を思い出しながら。
〈了〉
猫の「ちゃ」が戻って来た。見放されてしまったのかと思ったのに。いまになって。
「ちゃ。あんたは自由でいいね。あんたになりたい」
ゴミ袋から拾った使い捨ての注射器を仕方なく再利用しよう。こういうことをしてはいけない。でも、ケンジがすべてを持って行ってしまったから……。
どうせ最後の注射になるし。
「それはダメ! 持って行かないで!」
せっかく手に入れた薬と三万円。
「うっせっ」
いつから穿きっぱなしかわからないカーキ色のカーゴパンツのポケットにねじ込む。
あれは恐ろしいことをして手に入れた三万円だから……。薬が欲しいから、がんばって手に入れたカネ。
いつも原付きバイクでやってくるマッコイって男。コンビニ前で目配せしてから防犯カメラの死角になっているゴミ屋敷の前でそいつから買うんだけど、「オネエサン、カネいるならバイト、オセワしますけど」と言われ、「うん」と返事したら、スマホに電話番号が送られてきてそこに電話したんだ。三日前のこと。
「いっぱい注射してるね」
裸になった私を、その痩せた中年男は隅から隅まで見た。触らない。見るだけ。安いラブホに訪ねていった。そこで中年男から何種類か注射を打たれた。
「中身は無害なビタミン剤だ。注射針の性能を試すだけだ」
直後から丸々二十四時間、記憶がない。五万円と部屋代の入った茶封筒。男の姿はなかった。なにを注射されたのかわからない。なにをされたのかもわからない。
ひたすら怠い。いままで経験したことのないタイプの頭痛が断続的に襲う。
やっとの思いでいつものように薬をマッコイから買った。
「オネエサン、ラクチンなバイトだったよね。あそこにデンワすれば、ツキイチぐらいであるよ。ヤスミヤスミじゃないとアブナイけどね」
二度とやるか。
部屋に帰ってきて、まだ三万円残っている。
ケンジがいきなり入って来て、「うっせ、うっせ、だまれ、くそ」と言いながら、すべてを持って行ってしまった。
打たないわけにはいかない。私はもうダメ。気持ちよく死にたい。ふいに殴られるような頭痛が酷くなる一方。全身にぶよぶよした気持ち悪い感触があって、このまま死ぬんじゃないかと思う。いや、死にたい。
買ったばかりの薬までケンジは持って行きやがった。
あれがなければ地獄。
だけど、追いすがったとき、私の白くガサついた爪で袋に小さな穴が開いたことに気付かなかったようだ。畳から板の間へ、玄関へと白い粉がキラキラと筋になって落ちていた。
カレーを食べるときのスプーンで慎重にすくい上げると、なんとか一回分になりそうだ。
別のスプーンに水を入れる。古いアパートの水道は、ボコボコと音を立てて、しばらくはゲロを吐き出すように出てくる。落ち着いたところで水をスプーンに溜める。その水を震える手で少しずつ結晶の入ったスプーンに垂らす。注射器の針でかき回す。溶かして、吸いあげていく。
何度もやってきたことだから、震えが全身に回ってきても、ガーンと頭痛がやってきても、なんとかやり遂げられる。ここでこぼしたら終わりだから。
じっと私のすることを見ている水色の目。
ちゃは、その名の通り、茶色い猫。茶色いのは耳と背と尻尾。あとは灰色っぽくて、白だったらよかったのにね、と思うけど、それほどきれいじゃないところが、気に入っていた。汚れ者。
瞳はとにかく美しい。透き通った水色は、テレビかなにかで見た生きている間に見ておきたい世界の絶景のよう。
何日もいたかと思うと、何日もいなくなる。
ケンジと同じ。
ケンジは顔を合わせれば「おまえ、死ね」と言って乱暴する。「死んでるな、おまえ」と乱暴してから言う。
さっき、ケンジの目に浮かんでいた滑稽なほどの焦り。私は殴られて畳に顔をつけていたけど、そうしていなかったら大笑いしていたところだった。二発目がイヤだから効いたフリをしていたけど、ケンジにしては軽かった。
なにもかも中途半端なやつ。お互い様か。
死のう。それがいい。
薬を打って死ねば天国。世界の絶景を見ながら死のう。
出来上がった薬の溶けた水を慎重に注射器で吸いあげる。けっこう濃い。舌なめずり。
最後までプランジャーを引いて、たくさんの空気も入れた。血管に空気が入ると、空気塞栓が起きて意識が低下する。誰も来ない間に、私は死んでいくだろう。ぜったいに気持ちいいに違いない。
注射は上手だ。適当に打つのは性分に合わない。最初の頃はゴムを腕に巻いて肘の内側の血管を浮き出させて打っていた。左右とも無数の注射痕となってから、新しく刺しやすいところを見つけなくてはならず、手首や太ももなどいろいろと試して、いまは足のくるぶし付近の血管を使っている。
そういえばカネをくれた中年の変態野郎は、最初は手の指の間に一本打って、次に足の指の間にも打った。そのあとは覚えていない。
なにを何本打たれたか、わからない。
打たれたところに、なんの痕もない。不思議だった。いまの注射器はきっと性能がいいのだろう。
再利用の安物の使い捨て注射器。プスッとくるぶし近くの血管に刺して、じわっとプランジャーを押してやる。
薬はすぐ効く。
水色の瞳。
「ちゃ、あんたみたいなキレイな目で生まれたかったな。あんたはなにを見てきたの? なにを見るの?」
目の前が暗くなり、なにもかもどうでもよくなっていった。これで死ねる。
ぼんやりと濁った目をした痩せた女が正面にいた。土色の肌の質感。どこか懐かしいニオイ。そして音。浅く早い呼吸音。死にそうだ。目は開いているけどなにも見ていない。ゆっくりと呼吸が止まる。
死んでいる。
この女にはそれ以上の興味がわかない。第一、この場所には食べ物もない。
一瞬で窓枠に乗ると、生ぬるい風を感じながら外に飛び出す。これほど視野が広く、いろいろなものを感じている自分が怖い。
軽い。自由。生きている……。
天国を探さなくちゃ。
遠くはぼんやりと霞んでいるのだが、動いているもの、動いていないものを瞬間的に察知でき、距離感もわかる。
しなやかな筋肉は体重がゼロになったように軽く感じさせ、アスファルトを踏みつける肉球も快適だ。
天国へ行く前に、やるべきことがあった。
場所はわかっている。空間を立体的に把握できて、音やニオイや勘によって地図が描けている。
自転車が通り過ぎるのを待ってから道路を横断し、ブロック塀を駆け上がり、その上を足早に進む。知っているルートだ。塀から塀へ。曲がって曲がって。
ときどき真っ白な猫に出くわす場所だが、今日はいないようだ。挨拶をする手間が省ける。
いったん地面に降りて、家の庭を横切っていくと、インコが鳴いている。この家からは嫌われている。さっさと通り過ぎる。
塀から塀へ。庭から庭へ。道はできるだけ使わないようにして移動する。犬が吠えているので、別のルートに変更。
途中、おいしそうなニオイを感じるけど、いまは空腹ではない。
町の景色は驚くほど変わっていない。コンビニがあって通学路があって、ガードレールも歩道もない狭い道をたくさんのクルマが通る道があって、自転車が急ブレーキをかけ、赤ん坊をバギーにのせた主婦はスマホを眺めながら気だるく歩く。
住宅。マンション、アパート、工場。下水溝。空き地。駐車場。
すべてが夕日とともに、色を失い闇に包まれていく。それでも、鮮明に見える。
目指す二階建てのアパート。ここも古い。家賃をまともに払っている住人はいない。暴力団が占有していて、ケンジはその仲間。
ケンジはいま、アパートの横の闇に隠されつつある空き地にいた。空き地と駐車場。アパートとその裏の住宅を壊せば、きれいな四角い区画になる。いずれそこにマンションが建つのだろう。
ケンジは地面でダンゴムシのように丸くなっている。頭をかばっている。何人もの屈強な男たちが、ケンジを蹴り飛ばしている。
男たちもケンジも、無言だ。
蹴る者の息。蹴られる者の息。
逃げようとして失敗したバカ。連れ戻され、すべて奪われ、命は消えようとしている。
肉にめり込む靴の音。ゲホゲホと自分の血にむせるケンジ。
ぜんぜん、かわいそうじゃなかった。
「どうしますか」
蹴っている若い男が、一人離れたところでスマホをいじっている中年の痩せた男に尋ねている。
「ん? いま連中を呼んだ。消えてもらう」
「マジッすか? だけどケンジは……」
「ヤス。おまえこいつをかばうの? ま、こいつを連れてきたのはおまえだ。連帯責任負う? 一緒に山の中に埋まる? そのうちおまえらの骨の上に松茸が生えるかもな」
ハハハと仲間たちが、そこで笑わなければ殺されると思っているかのように、必死に声を上げる。
「いいっすねえ。その松茸ですき焼きでもどうです?」
ヤスと呼ばれた男は、ケンジを諦め、みんなに同調した。
「よおっし、まだ心臓動いてるよな。ここで死んじゃうと面倒だから。このあと来る連中に任せる。おれたちはなにも知らない。いいな」
「へいっ!」
輪が解かれ、動かなくなったケンジを置いて大半の者がクルマに乗り込んで消えた。ヤスだけは、万が一のためと、少し離れた場所で見張る役目を押しつけられていた。連帯責任というやつだろう。
ヤスはケンジを助けるだろうか。助けるならいまだ。このあとに来る連中は、人間を消す専門家らしいから。
ケンジは組織にどんなマズイことをしたのだろう。ケンジがマズイことをするのは珍しくはない。マズイことのかたまり。
ヤスは、捨てられているらしい錆びついた茶色の軽ワゴンの横に隠れている。彼らが来る前にケンジが動いたり、誰かが来たときのために見張っている。
しばらく途絶えていたクルマの走行音が、遠くに響く。
来たのだ。
ケンジを近くで見よう。これで見納めになるのだし。
なんだ、猫か。
ヤスは暗がりに動く物に脅え身構えたが、茶色っぽい猫がケンジの近くにやってきただけだった。尻尾を高く上げ、物珍しそうに気を失っているケンジを眺めている。
街灯の光に照らされると、その猫の目は冷たい水色に光った。
あっち行け、とヤスは小声で追い払おうとしたが、猫は堂々としている。ケンジを舐めたりして、あいつが目を開けたらマズイ。ヤスは手元にある小石を、猫にぶつけようとした。放物線を描いた石は、猫ではなく、手前のケンジの頭に当たった。
「んん?」と低い声。
ヤスは焦った。ケンジが動いた。
ヘッドライトが空き地を照らした。
ホッとする。始末屋の到着だ。大型のワゴン車。窓には黒いフィルム。土木作業や水道工事のクルマにしか見えない。砂利をタイヤで弾きながら、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
彼らがクルマを降りて、ケンジを抱え上げるのを見届ければ、ヤスの仕事は終わる。アリバイ作りのために、いつもの焼き肉屋にいる兄貴たちのところへ走っていき、報告するだけだ。
「あっ、あの野郎」
始末屋のワゴンに見とれていたヤスは、愕然となった。いつの間にか中腰になったケンジが、空き地の反対側へ移動していく。
いま出て行き、タックルすればいい。
だが、足がすくんで動けない。
始末屋が怖い。始末屋を見てはいけないと兄貴から厳しく言われている。
「いいか、やつらを見て生きて帰ってきたやつはいねえんだ」
自分の頭蓋骨から松茸が生える。
思わず頭を撫でるが、足に力が入らない。
あの野郎、どこへ行くんだ。
ケンジは暗がりへ這い進む。完全に腹ばいになった。
やった。やっぱりボコボコにされたダメージで動けなくなった。これで問題なし。焼き肉の香りが漂ってきたような気がした。
ヘッドライトがケンジの足を照らし、ワゴン車が止まった。スライドドアの開く音。
くそっ、ウソだろ……。
ケンジはフェンスの下にあるらしい穴から、向こう側へ這い出そうとしていた。
「やめろ、ケンジ!」
ヤスはついに足に力が入り、飛び出していくと、その足首を掴んだ。
「あっ」
手元には片方の靴だけが残っていた。
「くせっ!」
ゴミ箱で拾ったような踵の潰れたスニーカー。
ケンジはフェンスの向こうだ。ギラッと光る目。あの猫だ。
猫は、ケンジを逃がそうとしているのか? そんなバカな。
「おい、どうなってんだ」
背後に始末屋の野太い声。ちらっと振り返るが、ヘッドライトがまぶしくてそこにいる連中の顔は見えない。
見てはいけないのだ。慌てて目を逸らし「あっちに逃げた」と擦れた声で叫んだ。
「ふざけるな。連れ戻せ。おれたちはここを動かない」
「は、はい!」
連れ戻さなければ、頭に松茸だ。
ヤスは、フェンスの下の穴に飛び込み、向こう側へ出た。そこまでヘッドライトは届かない。暗くてなにも見えない。
だが、塀の上に這い上がる影が見えた。
「おい、戻れ。おれだ、ヤスだ」
ケンジは振り向きもしない。
あれだけ殴られ蹴られ、血反吐を吐き半殺しになっているにしては元気すぎる。
ヤスも塀に飛びついた。
綱渡りでもするように、両手を水平に広げて、靴幅より細い塀の上を歩くケンジ。
ヤスは「ふざけんなよ」と怒鳴ってはみたものの、危うく落下しそうになって両手を振り回す。
平地なら数歩で追いつける距離。それが塀の上ではムリ。右は資材置き場なのか障害物が多く、塀に沿って走ることはできない。左は水路。こっちも人が歩けるスペースは、あったりなかったり。とても下から先回りはできない。
しょうがなくヤスはそろそろと塀の上を追う。追いつけるか追いつけないか。際どい距離が開いた。
なんだってこんなところを逃げるのか。
この先はどうなっていただろう。
何度か運転手もやっていたヤスは、必死で思い出そうとする。占有しているアパートから空き地の向こうへ行くと、金属加工の工場、自動車修理工場があり、さらに先には電気設備メーカーの大きな工場兼倉庫があった。そこから右へ曲がっていくと最寄り駅。まっすぐ行くと大きな川で、橋を渡れば隣町だ。
工場に逃げ込むのだろうか。警備員に見つかるだろう。そうすれば捕まる。警察に突き出されたほうがケンジにとってはいいのだ。
もしそんなことをされたら、山に埋められるのはヤス自身だ……。
橋へは行かないだろう。橋に出れば広い歩道がある。ヤスが全速力で追えば逃げ切れない。ケンジはボコボコにされているのだから。骨の二、三本は折れて、内臓も損傷しているはずだ。
スマホで兄貴に相談したいが、塀の上ではケンジを追うだけで精一杯。
「ちくしょう」
涙が出て仕方がない。怖い。情けない。
闇が濃い。塀を照らす街灯はない。工場の建物からの灯りぐらいで、あとは水路の向こう側の細い道に点在する街灯だ。
塀は水路に沿ってゆったりと左に曲がっていく。
ケンジの前を、尻尾をピンと立てた猫が歩いている。
ケンジが動物好きだなどと聞いたことはない。恨まれていることはあったとしても、恩返しのように助けて貰うなど、あり得ない。ケンジは根っからの悪党で、心のない人間だ。親兄弟、友達、彼女、誰でも容赦なく自分のために切り捨ててきた。そのあげく、掟を破り、組織を危険に晒してこの始末だ。
「あのバカ、泣きながら家の権利書、持って来てさ。笑ったぜ」とケンジは得意げに話したこともあった。博打の借金を親に払わせたときのことだ。彼がバカにしたのは、先祖から伝わる家と土地を売り払った両親なのだ。
いまカネヅルとして三人ほど彼女がいたはずだが、三人とも人間扱いすらされていない。
「だってさ、バカなんだもん。薬やっちゃったら抜けられないじゃん。買わせるための友達を作れって言ったのにさ、そいつらと一緒にやっちゃうんだもん。救いようがねえ」
だが、女を縛るために、最初に薬の味を覚えさせたのはケンジなのだ。自分だってやめられないクセに。ほかになんにも楽しみのない彼女たちが、薬に溺れることをバカにできるのだろうか。
イカレたやつらはいっぱい知っているので、ヤスはいまのいままで、ケンジをそれほど嫌なやつだとは思っていなかったのだが……。
「おい、逃げるなよ。こっちに来い」
ヤスの声は闇に虚しく吸い込まれる。ケンジは足を止めようとしない。優雅に歩く猫を真似て、しなやかに歩く。大して早くはないのだが、どうしても距離を縮められない。
刻一刻と、ヤスは自身の破滅に近づいている気がしてならなかった。
このまま逃げてしまおうか。いま、工場側に飛び降りて、警備員に捕まって警察に突き出されたら……。
いや、だめだ。
拘置所で殺されたやつがいた。組織を裏切ると、弁護士と称する人間が面会に来て、その後、誰かに殺されるのだ。組織は裁判まで生かしてはくれない。
「逃げたってダメなんだぞ」
ケンジもそのことは知っているはずだ。
猫のあとをついて行けば、逃げ切れるのだろうか。
だったら、このままついて行くしかない。うまく追いついてケンジを捕まえて、始末屋に引き渡して焼き肉だ。
捕まえられなかったら、自分も飛ぶ。なんの準備もしていないので、すぐ見つかってしまうかもしれないが、とりあえず逃げる。
気がつくと、左側の水路はどんどん深くなっていき、しかも水はあまりなさそう。そこに飛び降りるのは自殺行為だ。
橋に近づいている。この先、塀がどうなっていたのか、まったく思い出せない。クルマで移動しているので、道路に面したところしか見ていない。それは工場の正面側であって、こっち側ではない。
ヤスでさえ足が疲れてきた。かなりの距離を歩いている。
始末屋はどうしただろう。もしかして、兄貴に報告しているのではないか。二人とも逃げたまま帰らないと聞かされたら、兄貴は……。
ズボンのポケットでスマホが振動している気がしてならない。
もし逃げていないのなら、真っ先に兄貴に報告すべきだ。そのためのスマホだ。それがないまま、すでに何分経ったのか。何十分経ったのか。
柔らかな風に吹かれ、汗が冷たい。
スマホを取るか。もし取るなら足を止めるしかない。
ヤスはいったん、スマホを取る決断をした。
「ああっ」
静止したとたん、バランスを崩しそうになって、しゃがみ込む。汗で濡れたズボンのポケットに手を突っ込んで取り出す勇気は消え失せた。しゃがんでいたらポケットに手が入らない。立ってポケットに手を突っ込めば、落下してしまいそうだ。
その間に、猫とケンジは着実に先へ進んでいく。
右側の工場兼倉庫の建物が終わる。
敷地内の広い駐車場が見える。そこなら右側に飛び降りて、駐車場を全力で走れば追いつける。このあと塀は、駐車場のハズレで直角に右へ折れる。その先はよく知った道路だ。その片道二車線の道は、橋につながっている。
「やった!」
首の皮一枚、つながった。焼き肉の匂いが漂ってきたような気がした。
「バカだなあ、ヤス。だけど、よかったよ。ケンジのやつをしっかり捕まえて、始末屋に引き渡したんだからな。まあ、よしとするか」
上機嫌の兄貴がヤスのグラスに、瓶の底にちょっと残っていたビールを泡多めに注ぐ。
「すごいっすね、ヤスさん。おれなんてあんな塀の上、歩けねっすよ」
仲間も残り物のビールを足してくれる。
「執念ですね」
「根性が違いますね」
ゴクッと飲み干す温いビールがうまい。そしてロースターの上で焦げているニンジンやカボチャに手を出す──。
そんな妄想に笑みを浮かべながら、ヤスは必死に歩く。もうすぐ駐車場だ。
「よーしっ」
声を上げて、右側に飛び降りた。
闇のせいで高さを誤ったのか、滞空時間が妙に長く感じられ、ヤバイと思ったとたん激しい衝撃が足から腰、背中、頭へと突き抜けていった。
体が痺れてしばらく動けない。仰向けに倒れていた。
そこは堅いコンクリートと鉄が組み合わさった、なにかの部品を置くための頑丈な台だった。右足をその鉄に激しくぶつけてしまったようだ。
「ちくしょう」
動き出せるまでに、しばらく時間を浪費した。
目を開けると、工場の駐車場を照らすライトに、猫とケンジが照らし出されていた。
「スター気取りかよ! くそったれ」
鉄のレールのようなものに寄りかかって、立ち上がった。右足首に力が入らない。右膝がまっすぐ伸びない。体が裂けるような激痛が走る。吐き気。
「うげえー」
左足で跳ねるようにし、塀に手を添えながら追う。ヤスのイメージではいっきに駆けて先回りし、ケンジの足に飛びかかり引きずり下ろすはずだった……
現実は、片足でチョンチョンと跳ねて前進するヤスは遅い。もどかしい。距離は縮まらない。
「なんでだよお。げぼげぼ。おれ、なんにも悪いことしてねえじゃん」
それは明らかなウソだが……。
とうとう猫は塀の角に差し掛かっていた。もしそこを右に曲がってくるのなら、ヤスは駐車場を斜めに横切れば先回りできるはず。
「ワープしてやる」
左側へ落ちる選択肢はケンジにはない。その向こうは水路だ。自殺コースだ。右へ曲がれば、橋へ続く道に出られる。ヤスが待ち構えているこの駐車場に降りてくる可能性もゼロではない。
頼れるものがないので、右足に右手をあてて、少しでも痛みを感じないようにと祈りながら、駐車場を横切るコースを選んだ。
「くそ、いてっ、くそ、いてええ、げぼげぼ。くそ。ちくしょう。いて、うげえー、くそ。くそケンジ。おれは生き残るぞ。おまえはもう死んでいる。死人のくせに偉そうに歩きやがって」
わけのわからないことを叫びながら、ひたすら斜めに横切っていく。
「へへへ。ほらな。ざまあみろ。おれ、完全に追いつく」
左手に塀とケンジを見ながら、いったん遠ざかるように進むのだが、思った通り、猫は塀の上をそのまま右に折れて来た。ケンジもそれに続く。
「完全勝利!」
足は痛い。腰も痛い。吐き気は止まった。このまま動き回っていたら骨や傷口がさらに悪化しそうだった。それでもやるしかない。ズボンは血だろうか、ぐっしょりと濡れている。漏らしたのかもしれない。恥ずかしいが、着地の衝撃で膀胱からビュッと。いや、血か。もし血だとすれば、こんなに流れ出して大丈夫なのか。
どの道、死ぬかも。
「うげえええ」
吐き気がぶり返す。
ヤスはなんとか先回りに成功する。
塀に両手をついた。
あとはここにやってくるケンジの足首に飛びついて引きずり下ろせばいい。
近づいてくる。
猫の目。
水色に光っている。なんとも言えない冷たい色だ。
「来い、ケンジ。来い!」
一歩、また一歩。着実にやってくる。
猫がすぐ手前でヤスに気付いた。
尻尾が手招きでもするようにくねる。
「さっさと来い。地獄に引きずり落としてやる。おまえの頭から松茸、生やさせてやる。その松茸をすき焼きで食ってやる」
ヤスは自分から迎えに行こうと思ったが、あまりの痛さに動けなかった。それよりも、最後の力を振り絞って飛びつくことだ。
チャンスは一度きり。
猫、さっさと行け。あっちへ行け。
ヤスの声が届いたのだろうか。
猫は背中を丸めて、なんと塀の向こう側へ飛んだ。
「え、なんだ、そんなのありかよ」
向こう側がどうなっているのか、わからない。
「ケンジ、やめろ、こっちに来い!」
だが、ケンジも止まり、塀の上で横を向く。両手を大きくふって、膝を深く曲げ、猫に続いて飛んだ。
「うあ、ちくしょう! なんだ、ウソだろ」
ヤスはあたりを見る。
駐車場には数台のクルマがある。一台のトラックが右手にあった。
痛みどころではない。ヤスは必死になってトラックまで行くと、その後部から閉じた観音開きの戸を這い上がり、荷台のステップまで辿り着くと、そこから塀へ体を倒すように飛び移った。
痛みに気を失いそうになりながら、塀の上へ体を引き上げた。
向こう側へそのまま降りようとした。
「あっ」
水色に光る二つの目。驚くほど近い。
真下には三メートルほど下に細い水路があった。大股でまたげてしまうほどの幅しかないが、勢いのある水流。かなりの傾斜で先ほどの広い水路へ向かっている。
猫は水路に誰かが誤って落ちないようにと作られた頑丈な柵の上にいた。塀よりは少し低い位置にある。手を伸ばしても届かない。
柵の上には、鋭く尖った鉄の棒が槍のように上を向いて、乗り越えようとする者を威嚇していた。十センチぐらいは突き出ている。そのすぐ下に有刺鉄線が張られていて、槍の先を掴んで柵を越えようとする者に、諦めろと訴えていた。
いまのヤスには、いっきに飛び越えることはできそうにない。猫のようにいったん、柵の上に飛び移り、それから向こう側へ行くしかないだろう。左足だけで、できるだろうか。
ケンジはどうしたのだ。
猫は優雅な足取りで、汚れた洗濯物のような物体に向かって行く。柵の上に薄気味悪く垂れ下がっている。
やがてそれが橋や道路からの灯りの中で、カーゴパンツだとわかる。パンツだけではない。裾から足が出ている。靴は片方だけ。汚れた足の裏。脱力し、まったく動かない。
ヤスはしばらく唖然としていた。
なにが起きたのか推測し、痛みを忘れた。腹の底からなにかがこみ上げてきた。
「ふふふふ」
やがて笑い声は大きくなっていった。
「ハハハハ」
ピーッと無線機から出る音がし、「不審者を発見、応援求む」と声がした。
足音がパタパタと響く。
別の方向からも足音がしている。二人以上の警備員が、いまヤスに向かって駆けつけてきていた。懐中電灯を浴びる。
ヤスは塀の上でしばらく笑っていた。
「あいつ、バカだな。猫みたいにやれるわけねえだろ。バカだ、バカだ……」
あの猫は、最初からケンジを逃がしてやる気などなかったのかもしれない。
猫はケンジの尻の上にのり、ピンと尻尾を立て、くねらせた。艶めかしい。
ヤスに冷たい水色の視線を投げかけると、笑うように少し口を開き、次の瞬間、体をひるがえし向こう側へ降りていった。
ほどなくして橋へ向かう歩道を優雅に歩いて行く猫の後ろ姿が見えた。
猫の道。
「猫になるしかねえ」
ヤスは涙を拭き、塀の上に足を引き上げてしゃがむ。右足は痛すぎて役に立たない。左足と手でバランスを取りながら、できるだけケンジのケツに近づく。
「こんなもの、簡単だぜ」
そこだけは、突き出た槍先を気にしなくていい。汚いケツにしがみつくことができれば、向こう側へ行ける、かもしれない。逃げられるかもしれない。
警備員はすぐ近くに来ていた。
ヤスは飛んだ。
「にゃー」
〈了〉
本間舜久 Shunji Honma
日常の人と人の関係の中にあるドラマを中心に描きたいと思っています。
どういう生き方が自分らしいのか。幸せなんてあるのか。毎日、どうしたら楽しく過ごせるのか。
そんな等身大の登場人物たちによる物語。
さらに、そうした日常から少しずつ逸脱していく物語。
誰かにとっての日常はなにも変わらないのに、主人公の日常は大きく逸脱していく物語。
そんなものを中心に執筆しています。
カクヨムで作品を公開中。
https://kakuyomu.jp/users/honmashunji
『ねこのおやつ』
破壊されたストーリー。
ふと浮かぶ場面。小耳にはさんだ会話。
白日に見えてしまった幻影。記憶が呼びかけてくる声。
そうしたものを綴ります。一話完結。
『目次だけの本』
タイトルと目次だけしか残されていなかったのです。
中身は想像するしかありません。
ある朝、部屋に一匹の黒猫がいた。
ベッドの上で目覚めると何か耳慣れない物音がして、毛布を被ったまま上半身を起こして見ると、開け放たれたドアの先に黒猫の姿があった。
黒猫は前足を体の正面に揃え、尻尾は力が抜けたように床の上へ投げ出している。黒一色の毛並みには艶があり、野良猫ではなさそうだ。
しかしその黒猫に見覚えはない。
「起きたか?」
そう声がした。自分一人が暮らすこのマンションの一室で、ランプシェードが言葉を発したのかと一瞬考える。あるいはダイニングテーブルが。あるいはレースのカーテンが。
しかし、やはり、その言葉を発したのは床に座る黒猫だった。
「起きたようだな」
黒猫はまっすぐ僕のほうを見据えていて、表情一つ変えず、瞬き一つしない。
とりあえず訊いてみることにした。
「どうして僕の部屋に猫が?」
「どうしてって……」
黒猫は一旦言葉を切ってから、
「地球の人類の危機だからだ」
僕が黙っていると、黒猫はようやく本題に入れるといった感じで、
「お前に一つ聞きたいことがある。ここに三毛猫は来なかったか?」
「三毛猫?」
「そうだ。白、黒、茶の三色の……」
僕は黙って首を横に振る。人――いや、猫探しだろうか。
それからベッドから起き上がろうとしたが、黒猫は僕が一瞬目を離した隙に部屋から姿を消していた。
窓際でレースのカーテンだけが初夏の風に揺れていた。
薬缶を火にかけながら、手回しのミルで豆を挽く。挽きたてを淹れたコーヒーを飲まないと、一日が始まったという気がしない。だからインスタントは買わないようにしている。
薄切りの食パンと、冷蔵庫にあったハムとチーズをサンドイッチにして朝食にする。そして小さなテーブルとセットの小さな椅子に座り、サンドイッチを齧りながら、僕は人語を発する黒猫がいたあたりの床を見つめた。今、そこには使いこまれたカーペットがあるだけだ。
テーブルの右手には、二年前に今の仕事を始めたときから少しずつ集めた品の小瓶がびっしりと並ぶ棚がある。
まあそうだな――僕は考える。こんな仕事をしていれば、猫が喋っているのを見る日もあるのかもしれない。
朝食の後片付けもそこそこに、顔を洗い、着替え、家を出る。
今日も仕事だった。鞄が重い。中にこれからお客のもとへ届ける品物が詰まっているせいだ。
相手の反応は上々だった。
薬草、生薬、漢方薬、薬効植物。これらの単語が指し示す範囲は微妙に重なりつつ、完全には重ならない。共通しているのは、とにかく何らかの成分が役に立つ植物などであるということで、僕はそんな品々を商っている。
正確に言うと、特に珍しい薬効植物を客の注文に応じて選び、店から仕入れ、直接に届ける、というのが僕の仕事だった。たまに間違われるが、決してヤクの売人ではない。限りなく近かったが。
摘み取った葉や茎、苗、種、あるいはそれらを乾燥させたもの。形態はさまざまで、法に触れるギリギリのものや、ときには単に規制がまだ追いついていない、というようなものを扱うこともある。ほとんど黒のグレー。未明までに降り積もった雪が一日かけて人々の靴で踏まれた後のような汚れた灰色。仕入れ先の店も、薬効植物のことを僕に教え僕をこの世界に引き込んだ人物も、それから僕も同業者たちも、やっていることを自覚したうえで、それなりに世間の目から隠れて生きている。多くの場合、生活のために。対して顧客たちは往々にして、求める品がグレーであることを気にしない。単なる無知のせいであることが多い。
そんな仕事だから、知らぬうちにある種の成分を吸入していて幻覚を見た、という同業者の話を聞いたことがある。
喋る猫の正体も、きっとそんなところだろう。
今日のお客は郊外の一軒家に住む高齢の婦人で、不眠と冷え性に悩んでいた。医者の薬よりもっと自然なものを利用したい――そんな要望のせいで僕のところに回されたお客の一人。何にこだわるかは個人の自由だ。
「どうもありがとうね。お茶でも飲んでいって」
どうぞお構いなく、と言おうとしたが婦人は既にソファーから立ち上がって台所に足を向けていた。こぢんまりとした居間に一人取り残される。
不意に壁に掛かった一枚の写真が目に入った。今より十歳ほど若い婦人を囲む家族らしき老若男女。写真の婦人の膝の上には、毛の長い猫が抱かれていた。
「飼われてたんですか? 猫」
ティーセットを抱えて戻ってきた婦人に訊ねる。
それからの十数分間、かつての愛猫との出会いから別れに至るまでの、長い長い思い出話が続いた。
僕も昔、猫を飼っていたことがある。
夏の終わりのじめじめとした雨の日、近所で怪我を負った野良猫を拾い、きちんと獣医に見せてから飼い始めた。もう五年は前になる。大人しい猫だったが、安物のキャットフードのことだけは嫌っていた。
そういえばその猫は三毛猫だった。
夜、そんなことを思い出しながらいつものバーを訪れると、僕を誘った友人は先に店のカウンターでビールを飲み始めていた。
「人間の言葉を喋る猫がいると思うか?」
彼の隣に座り、注文して出されたバーボンを傾けながら、僕はそう質問する。学生時代に知り合った彼は、今はゴシップ誌やオカルト誌の記事を書くフリーライターをしていて、年々腹回りに脂肪を蓄えつつあった。
「なんだっているさ。今日も体長五メートルの猫の取材で九州から戻ったばかりなんだ」
独身同士、時折仕事終わりに互いを呼び出してはグラスを交える。今夜もそうだった。
「五メートル?」
「住人の目撃証言によれば。最初の目撃は数週間前だったらしい」
それから僕は彼から、最近猫にまつわる奇妙な噂や目撃談が妙に多い、という話を聞いた。
喋る猫。
二本足で歩く大きな猫。
山奥に身を隠す全長五メートルはある猫。
何杯か酒を飲んで店を出て、友人とはその場で別れる。
そして薄暗く人気のない路地を歩き始めたとき、猫たちが現れた。
最初は子どもだと思った。
身長一メートル数十センチのシルエット。しかしこんな真夜中におかしい、と感じたときには既に、数匹の大きな猫に前後を囲まれていた。
この猫たちは間違いなく猫の外見をしていたが、二本足で立ち、そして鋭い爪を立て明らかに僕に敵意を向けていた。
一番近く、僕の正面に立つ猫が何か言う。外国語のような発音。するとその背後に立つ別の猫も外国語のような発音で短く何か言い、再び僕の前の猫が、
「オマエ、一緒に来い」
ああ、また猫が喋った――呑気にそんなことを考えた僕に、猫たちが一歩にじり寄る。鋭い爪。しゃーという威嚇する音。
「それとあの裏切り者を……」
そう目の前の猫が言ったところで、何かの黒い影が視界を横切った。思わず尻餅をついてしまってから見ると、そこにいたのは(多分)今朝の黒猫だった。
しゃーしゃー言い合う猫たち。黒猫は素早く(そしておそらく通常の猫には不可能と思われる)高い跳躍で、目の前の猫に飛び掛かり爪を立てる。悲鳴のような声をあげながら一匹目が倒れたときにはもう、黒猫は早くも二匹目に飛び掛かっていた。
僕の前後を囲んでいた猫たちが一斉に黒猫めがけて集まったかと思うと、二匹目の頭にとりついていた黒猫は再び高くジャンプし、宙返りしながら着地した。
僕の目の前に。
大きな猫たちの鋭い視線が一斉にこちらへ向けられる。
「逃げるぞ」
黒猫に言われた通り、僕は必死になって走り出した。
腕に黒猫を抱えながら。
息を切らせながら、階段を上がり、乱暴にドアの鍵を開ける。いつものバーがマンションから歩いて行ける距離だったことが幸いして、公共の交通機関やタクシーに猫を抱えた格好で乗り込む必要はなかった。
腕の中には、黒猫の確かな温もりがある。
部屋の中に入るとまず黒猫を足元に降ろし、忘れずに後ろ手で鍵をかける。
「お前、今朝も来たよな」
部屋の明かりを点けながらそう訊ねると、黒猫は僕を見上げながら二本足で立っていた。
「ああ」こともなげに答える黒猫。「何を驚いてる? 今朝も喋っただろう」
台所に入ってグラスに新しいバーボンを注ぐ。路地での異様な光景がどうやら夢でも幻でもなさそうなことに、遅れて恐怖が湧いてきた。
「あれは『兵隊猫』だ」
真夜中を過ぎたダイニングで、僕は黒猫と向かい合って座り、さっきから黙って話を聞いている。
「対人間の格闘が役割で、出くわしたのはお前と俺を探してた連中だ」
僕は曖昧に頷きながら話の続きを待った。
「今は侵略のための先遣隊が地球に来てる」
「侵略?」
物騒な単語に思わず聞き返す。
「あのな、俺たちはお前たちから見れば、別の星から来た猫に似た生き物で、それでその俺たちの母星がもうすぐ滅びそうなんで、地球を侵略することに決まっちまったのさ」
「つまり宇宙から来た?」
「はるばる宇宙船でな」
僕は急に空腹を覚えて、椅子から立ち上がって台所に足を向けた。しかし冷蔵庫を見ても、棚を探しても、手軽に空腹を満たせそうなものは見つからなかった。
再びダイニングに戻ると、黒猫も椅子から降りて、小瓶の棚をまじまじと見つめていた。
「マタタビもあるのか? 事前の情報にはなかったな」
確かにそこには、乾燥させて粉末にしたマタタビもあった。猫とその眷属を酩酊させることで有名なマタタビは、漢方薬としてもメジャーな部類で、前に上物が手に入ったときに一部をここへ残しておいた。
この棚は、仕事で手に入った薬効植物のうち、特に希少だったり上質だったりする品を手元に保管しておくためのものだった。
ダイニングの入り口に立ったまま僕は訊く。
「事前の情報って?」
「お前に関する事柄は俺たちの間で共有されてる。昔お前の所にいた三毛猫が、今は侵略の総司令官だからだ。司令は一介の偵察要員だった時代に世話になったお前を進攻から匿うため、攫ってくるよう兵隊猫に命令を出したんだ」
理解の及ばなさに、思わず僕は笑い出しそうになる。
「侵略がお前たち……その……宇宙猫の目的なら、お前はなぜ助けてくれた?」
黒猫は、宇宙猫とはわかりやすい呼び名だな、と言ってから、
「戦争にさせないためだ。そうなれば大勢が死ぬだけだからな……。司令を押さえればまだ止められる。だからお前を手掛かりにさせてもらった」
兵隊猫の一団が窓を破って部屋に押し入ってきたのは、ちょうどそのときだった。
また猫たちがしゃーしゃー言い合う音。僕はとっさに寝室に移って、ベッドの陰に身を隠していた。
ダイニングでは黒猫が押し入ってきた兵隊猫たちを相手取って、爪と跳躍力を武器に格闘を繰り広げている。地球の猫と変わらない大きさの黒猫に、人間の子どもほどの大きさがある兵隊猫の相手を押し付けているのが、申し訳なく思えてきた。
すると黒猫は僕の棚から小瓶を一つ手に取って、蓋を開けて兵隊猫たちへ向かって投げつけた。
室内に舞い上がる粉。
黒猫は左の手(前足)で自分の口と鼻のあたりを塞いでいたが、まともに粉末を浴びた兵隊猫たちは、転げるように、または腰が抜けるように、一斉にその場に倒れこんだ。そしてだらしなく寝入ったように動かなくなった。
寝室から出て、僕は床に転がる空の小瓶を手に取って見る。それはやはりマタタビの粉が入っていた小瓶だった。
黒猫はすで玄関へ移動していた。この場に留まるといると黒猫もやられてしまうのだろう。
僕は後を追う。
僕は黒猫の言われるままに、部屋を出て、深夜の街をどこかへ向けて歩き出した。黒猫は足元で、僕のすぐ隣を歩いていた。
移動中に黒猫から聞いた話によれば、宇宙猫は恐竜が絶滅してしばらく経った頃にも一度地球を訪れていて、そのまま地球に残った宇宙猫と当時いた小型の食肉哺乳類との間に生まれた子孫が今の地球の猫なのだという。
それから宇宙猫はサイズも多様で、黒猫のように地球の猫と変わらない大きさの宇宙猫もいれば、人間大の兵隊猫もいて、中には全長が十五メートルを超える巨大な宇宙猫もいるのだと黒猫は教えてくれた。
そうしているうちに到着したのは、一軒の改装中と書かれたコンビニだった。
「これだ」
黒猫が言う。
「これ?」
「俺の船だ。もともとあった建物を消滅させてから、船を偽装して着陸させた」
それは間違いなく改装中といった趣のコンビニで、照明が消えた店内は暗く、外から見える範囲の棚に商品はない。ちょうどこれから業者の手によって空調設備を交換したり、壁際の雑誌のラックを撤去してイートインスペースを作ったりする、というような状態にある一軒のコンビニだった。
すると中から、僕よりも背丈の高い猫が二足歩行で出てきた。近くの街灯の明かりに照らされたその姿は鯖柄で、遠目からでも皮下脂肪を多めに蓄えていることが見て取れる。その姿に思わず身構えた僕に、黒猫は「大丈夫、味方だ」と説明してから、僕を先導するようにコンビニの中へ入っていった。
鯖柄猫も僕を手招く。恐る恐るコンビニに足を踏み入れると、そこはやはり商品がなく薄暗いコンビニの店内だった。
「アンタか、例のニンゲンっていうのは」
鯖柄猫がレジカウンターの中に入りながら、僕に向かってそう言った。黒猫が軽快なジャンプでカウンターの上に飛び乗ると、猫たちは例の聞きなれない外国語のような発音の言葉で何やら話し始めた。きっとこれが宇宙猫たちの母語なのだろう。
「偽装はちゃんとできてるかな?」
急に鯖柄猫が訊いてきた。
「これが宇宙船なのか……」
僕の感嘆に、鯖柄猫は得意げに大きくうなずいてから、
「でも今はエンジンが故障してて、誤作動を起こせば宇宙の外側までひとっ飛びだ」
「離脱するときに攻撃を受けた」
そう黒猫が付け足す。黒猫の弱気な様子に、僕は一つ質問をした。
「マタタビはお前たちにどんな効果があるんだ?」
「アレか……実は似たような植物が故郷の星にもあってだな、それは神経系に作用する非猫道的兵器として条約で禁止されるほどヤバい」と、鯖柄猫。
「明日、知り合いの店に行ってあるだけマタタビを集めてこよう……。こっちから反撃したいんだ」と、僕。
僕の申し出が意外だったのか、黒猫と鯖柄猫が顔を見合わした。
道中、既に僕の腹は決まっていた。
いきなり巻き込まれた挙句に部屋にも押し入られて、黙っている気になれなかった。
「そうとなれば決まりだ」
黒猫がレジカウンターの上から僕を見上げて、力強く言った。
「まだ司令を押さえれば、流れを変えられる。どこかに向こうの拠点があるはずだから、それをつきとめないと」
そのとき突然、コンビニの外から宇宙猫たちの言葉が外から拡声器越しのような声で聞こえてきた。
コンビニに向けられた巨大な照明のせいで、逆光のシルエットしか見えなかったが、いつのまにか外は大勢の兵隊猫に取り囲まれているようだった。
宇宙猫の言葉での呼びかけが続く。
「なんて言ってるんだ?」と僕が訊ねると鯖柄猫は囁くように、
「オマエを出せって」
すると黒猫がレジカウンターから飛び降りて、「ここにいてくれ」とだけ言い残してコンビニの外へ出た。
そして破裂音と閃光。
慌てて僕と鯖柄猫が外へ飛び出すと、黒猫のすぐ傍のアスファルトに丸い焦げ跡ができていた。
正面に目を向ける。そこに居並ぶ兵隊猫たちはみな手に銀色の棒状の物を持っていた。それがきっと焦げ跡を作った武器の類なのだろう。
そして兵たち猫たちを率いるように先頭に立つのは、間違いなく五年前僕が飼っていた三毛猫だった。
「ミケ……」かつて呼んでいた名前を呼ぶ。ある日を境に突然僕の前から消えた雌猫。今は二本足で立ち、睨むような表情を崩さず、司令官の証なのか赤いスカーフのような物を首に巻いている。
傍らで黒猫が宇宙猫語で何かを喋る。意味を訊ねると隣の鯖柄猫が教えてくれた。
「世界は幻そのもの。焦点に結ぶ像そのもの。別にどうなったって同じじゃないか。みたいなことだ」
また激しい破裂音。
コンビニの正面に面したガラスの一角が砕け散る。
身をかがめながら視線を向けると、端の兵隊猫が怒りの形相を浮かべながら銀の棒の武器をこちらに向けていた。よほど黒猫の発言が気に障ったらしい。
慌てて僕はコンビニの中に戻る。
「だめだ!」
そう黒猫が叫んだ直後だった。
低い唸りに甲高い金属音の連続。何事かと思っていると、扉のすぐ外に並んで立っていたはずの黒猫と鯖柄猫の姿が見えなくなった。
振動もなかったせいで、最初は何が起きたのかわからなかった。しかし事態はすぐにはっきりした。コンビニが空高く浮上を始めていた。
コンビニの外には、黒猫の姿も、鯖柄猫の姿も、ミケも立ち並ぶ兵隊猫たちの姿もない。代わりに夜の街の光が見える。
壁のガラスの外にもう一枚ガラスのような透明な壁が下りてきていた。
街の明かりがみるみる小さくなる。
低い唸りと金属音はこのコンビニ――に偽装された宇宙船が立てているらしく、途切れず続いている。上昇速度は相当なものであるらしく、もうコンビニの外は空の雲の中に達していた。
僕はその場の床に座り込む。散々な一日だったような気がする。よく思い出せない。昼間訪問したお客の家の居間。夜、ライターの友人と酒を飲んだバー。今頃どうなっているのだろう。
やがて宇宙船は地球を飛び出した。
漆黒の宇宙。みるみる小さくなっていく青い地球。宇宙船は加速の手を緩めず、月が、惑星が、星々が、天体が、勢いよく彼方へ流れ去っていく。俯瞰できる位置にまで来たのか、安物のCGのような銀河系の全体像が見えてきた。
そして一面のまばゆい光に包み込まれる。
気が付くと僕は、ただ何もない空間に浮かんでいた。
何も見えず何も聞こえない。浮かんでいることだけは間違いなく、手足を動かしても空を切るだけで何も変わらない。
何かが動いた。
猫の顔だった。
あまりに巨大な猫が、この虚空の中で微睡んでいる。ただ何もない無限の空間で、今僕は巨大な猫の顔の前に浮かんで漂っている。
その猫の瞳には、無数の星のきらめきが、銀河が映っていた。
猫の眼球の中に宇宙が収まっていた。
世界は猫の目。
虚空を漂いながら、大きな猫が僕を見ている。
〈了〉
書き下ろし短編・掌編小説を収めた電子書籍『[短編集]家具を殖やす、他』をAmazon kindleにて近日リリース予定。最新情報は著者のツイッター等まで。
梶舟景司 Keishi Kajifune
Kindleでの個人出版(KDP)、新人賞、WEB発表の三方面で創作を続ける書き手。主にSF小説を手掛ける。2020年9月、第一回かぐやSFコンテストの選外佳作に選ばれた「本が読める特別な彼女」が、Toshiya Kamei氏の翻訳により米クラークスワールド・マガジンに掲載(英題: The Book Reader)された。(http://clarkesworldmagazine.com/kajifune_09_20/)猫アレルギー持ち。
Twitter @Kshi_kaji
note https://note.com/kajifune
2XXX年、猫は人間の脳内にα波を起こす高級嗜好品とされ、すべての猫は政府当局の管理するものとなった。地下組織による血統書のつかない不法な野良猫保護活動はそれでも、脈々と受け継がれていった。
僕はそんな地下組織を摘発する猫取締捜査官、略してネコトリだ。
今日も猫をほぼ無料で市民に受け渡す不法行為が行われているという情報を元に、とある本屋をガサ入れした。
「いらっしゃいませ」
なんと店主は巨大な猫だった。
「こちらの店で猫を不法に所持しているという噂を耳にしたんですが」
「猫を? とんでもない。私たちが猫になるんです」
「なんだって?」
店主が大きな猫の被り物を脱ぐと、人間の頭が出てきた。
「うちではお客さんにこれを被ってもらって、猫になってもらうんですよ。よければお試しなさいませんか?」
そう言うと、僕の頭に突然被り物をかぶせてきた。
「いや、結構、けっ……こういいですねこれ」
被り物の中はとてもあたたかく、気持ちが良い。まるで猫の体に顔を埋めているようだ。
「そうでしょう、そうでしょう。病みつきになるお客さんもおられるんですよ」
「ということは、これはほぼ猫と同じ作用を持つものじゃないですか!」
「ええ、でも猫ではないですよ。これを被って、猫になるというだけです。法律では禁止されていません」
「しかし……」
口の中に思わず唾液が溜まっていく。この感じ、昔実家で飼っていたあの猫のことを思い出す。
「どうです。あなたもこれをおひとついかがですか?」
そう言われて、我に返った。
「今は仕事中ですから」被り物を返すと店主は少し残念そうに眉を寄せる。
「そうですか。それなら、またお休みの時にいらっしゃい」
「いつでも、あなたを猫にしてさせあげます」
こうして、僕の手にはいつしか猫の被り物があった。
店主の、「用法、容量を守ってご使用ください」という注意書が添えられて……。
〈了〉
脚本サイト「はりこのトラの穴」様にて脚本掲載中。朗読配信ユニットプロジェクト進行中。
井戸乃くらぽー Kurapo Idono
井戸乃くらぽー(別名義:さつき絢芽) TOKIWA所属 実績:https://twpf.jp/crapaud_writer CD「怪盗執事パンテール・ヴェルト」vol.1〜2発売中/俳句教室 お仕事相談crapaud.n☆http://gmail.com (☆→@)猫垢:@sachi_mugi
Twitter @crapaud_writer
脳の底に汚泥がこびり付いているような気分だった。体はまともに動かず、視界は狭まっていた。脱水症状なのではないかと思い至る。ビビッドイエローのプラスチックコップに水を注ぎ一気に飲み干すが、体に吸収されていく感じがしない。先程からずっと、幸福とは何かを考え続けている。人が生きるために生きているのであれば、毎日の食事があって、布団で眠ることができれば、それで充分ではないかと思う。だけどそれだけでは幸福とは思えない人間の欲深さを詰る。
死への魅了は定期的に僕の元へやってくる。それは全くの原因不明であり、ほんの些細な誰かの失言や失態(僕に関係があろうがなかろうが)、あるいは喜ばしい報告ですらもきっかけとなる。心は僕の言うことを聞かない。物事はシンプルなのだと思い込もうとする。雨が続いていて暫くの間日光に当たっていないだとか、低気圧が近づいているのだとか、そういった事象に罪を擦り付けようとするのだけれど、それはうまくいかず、僕は遺書のようなものを書く。友人へ向けて、一人ひとり、その顔を思い浮かべながら、伝えたかったこと、伝えるべきではなかったこと、伝え損なってしまったこと。
友へ
ミーアキャットがフライパンになる可能性があるのは、すり替えられた火曜日だ。その可能性は極めて低いが、根気よく見守っていれば、いつかはその瞬間が見られるだろう。僕は先日、確かにそれを見たのだ。
友へ
甘酒が「飲む点滴」だと言われる所以を調べてみたが、引用の引用のまた引用のような記事しか見当たらなかった。そもそも点滴といっても色々ある。電解質輸液なのか、水分輸液剤なのか。それはともかく、米麹を使った甘酒の作り方を紹介する。
サーモスの三百五十ミリリットルステンレスボトルを丁寧に洗い、熱湯で満たしておく。蓋にも熱湯をかける。これは温度を保つためと、殺菌を兼ねている。熱湯を捨て、残りご飯を大さじ二から三程度入れる。米が少ないとさらりとした、多いと粥にちかいどろりとした甘酒になる。板状の米糀を十五センチ×三センチ×二センチ程度、少ないと発酵に時間がかかる。手でほぐすか、包丁で刻んで、これもステンレスボトルに入れる。そういった作業をしているうちに、最初に沸かした熱湯の残りがほどよく冷めているだろうから、それをステンレスボトルの線の部分まで注ぐ。調理用の温度計があるのなら測ってみるといい。六十度くらいが理想だが、多少の温度差はどうとでもなる。ステンレスボトルにきっちり蓋をして、そのまま一晩待つ。運が良ければ朝には、甘みと酸味のバランスが素晴らしい甘酒ができあがっている。もし、甘さが足りないようなら、温度が高すぎたのだと思われる。再度蓋をしてもう半日、のんびりと発酵を待とう。旦過市場の大學堂より美味い甘酒を作ることができる。
友へ
クロールの息継ぎをするときには、顔を上げると同時に息を吸ってはいけない。息を吐くのだ。まず水中で息をできるだけ吐いてしまう。それから顔を上げると同時に、「パッ」と発声するような勢いで息を吐き切ってしまうのだ。そうすれば身体が求めるように、勝手に肺が膨らみ空気が入ってくる。
これは君の生き様に対するメタファーのように見えるが、そういった意図はなく単なる水泳の息継ぎのアドバイスだ。
友へ
君が日々浴びるように、匿名掲示板やSNSを見続けるのは、自らを汚すためだ。君は君自身が精巧にカットされた貴石なのだと知っている。人々が君のことを略奪しようとするから、自分を泥に塗れた小石のように擬態し「貴方達と同じなのですよ」と素知らぬ顔をして、石たちの群に紛れる。だが、ほんの小雨が降っても、君の浴びた汚泥は洗い流され、生来の輝きを残酷に取り戻すから、雨の季節に君はずっと一人でいる。誰とも関わらずに。
雨が続く日に、窓から外を覗いてみるといい。いつも朴訥とそこいる仲間の何人かは、いつの間にか姿を消している。おそらくそれが君の本当の仲間だ。
友へ
僕に叱られた夢を見たと君は言った。それは母性への憧憬だ。君にとって叱られることとは愛されることであり、保護され守られることを意味する。だが、多くの人はそうではない。「俺がこんなにお前らのことを叱っているのに、お前らはちっとも俺のことを叱らない」と思っているのだろう。だが、大多数の人間にとって叱られることは単なる罰であり、喜ばしいことではない。
友へ
君は全てのものを飲み込みすぎる。貪欲に取り込み、消化し、対象そのものになりきろうとする。だが、君を取り囲む者たちは、君が思っているほど優れてはいない。無意識に、あるいは狡猾に意図して、君を生贄にし、君が成功すればそれを我が物に、失敗すれば哀れみの涙を楽しむつもりでいるのだ。毒を飲み込んでしまったと気付いたら、直ちに吐き出さなければならない。そして姿を消し、一旦休むのだ。戻ってくるための場所は必ず用意されている。
友へ
君の愛する人が、君の絵を駄目だと言ったのなら、彼女にとって君の絵は駄目なのだろう。シミが愛する人の好みの柄をかけるようになる方法は簡単だ。まず君の愛する人の好きな顔を五つ上げてもらう。それからさらにその中で五枚ずつ好みの柄を上げてもらう。君はその二十五枚の絵を模写する。簡単なラフスケッチで構わない。君はとても器用だから、自分の得に何が足りなかったのかすぐに気づくことだろう。ただし君は君の持ち味を失うかもしれない。それは僕が好むものだ。
朝目
君の影は素晴らしい。それは誰にでも真似できるものではない君独自のものだ。君はそのまま突き進んで構わない。だがもしもう少しだけ方向を転換したいのなら、ほんの少しだけ引き算をしてみると良い。
友会
君の謙遜に気がつかず、周囲の君の信奉者は、君にいくつものアドバイスをするだろう。それは君への攻撃ではなく、君が本当に困っていると思っている愚鈍な信仰者のやることなのだ。君は誰よりも愛されている。だからアドバイスが欲しくないのなら、肌には謙遜を埋めるべきである。
巴
君は真面目すぎる。だがその勤勉さでこれまで生きてこられたのなら、それは優れた君の特徴なのだろう。君は物静かに狂気を包む。あるいは友人達と距離を置き、一人静かに休む時間も必要なのだろう。
そうやって僕は何枚かの手紙を書き、封筒に入れ、その手紙の束を輪ゴムで束ねる。この手紙は君に届くだろうか。
〈了〉
ウィリー・アルバ先生の謎作品が読める謎雑誌は『雑誌なんか』だけ!
あの伝説の謎雑誌『雑誌なんか』は今でもうっかり配信中→BCCKS
まだうっかりしてない人は今すぐうっかりダウンロードしてその謎空間に迷い込むとよいことです。
ウィリー・アルバ Wheelie Alba
自己研鑽/文藝/読書/ソーシャルメディア/国際交流/ソリューション/読書/知的生産/セルフパブリッシング/読書/読書/TOEIC200/ロジカルシンキング/エバンジェリスト/魂の交流/出会いに感謝
長らく行方不明となっていたオリオン腕探査船アスクレピオスが、マジャール星域の惑星で発見された。付近を航行中だった恒星間客船ミティカス号は銀河航海法の遭難船救護活動義務の適用下となり、船長以下ほとんどの乗組員がランチに乗り込んでアスクレピオスが発見されたオレンジ色に輝く無人惑星へ降下していた。ミティカス号の船内には一般乗客と留守番の船長代理、警備の軍関係者、アルバイトの見習い航海士たち、あとは使役用のアンドロイドだけが残されていた。
ミティカス号からの先遣隊が現地に降下して数時間後に、アスクレピオスの残骸とともに巨大な先史文明の遺跡も発見され、船長判断で急遽周辺捜索が行われることとなり、救助隊兼捜索隊は一部の乗組員と乗客だけを船に残してそそくさと出かけていった。船長が宇宙考古学マニアであったこと、副船長が探検マニアだったこと、一等航海士が無人惑星一番乗りフリークだったことなど、諸々の個人的な思惑が都合よく重なり合って、遭難船の救護活動という大義名分のもと、ミティカス号の船内はすっかり閑散としてしまったのだった。
留学先の辺境惑星から引き上げる途上だったデフカが、読書に飽きて船内散歩をはじめようと思ったところ、中年男性に呼び止められた。男は留学先でよく見た民族衣装に身を包んでいる。動物性繊維を組み合わせた生地で構成したミツゾロエというスタイルなので、おそらくは中流以上の地位か身分であると思われる。デフカの着ている衣装は同じ惑星の別の地域で好まれるスタイルで、こちらは植物性繊維の生地で構成されている。袖と裾が大きく膨らんでいるのが特徴で、ベルト状の腰巻で締め付けて着用するものだ。デフカのように下にハイネックのアンダーウエアを着込むものは、〈ショセイ・スタイル〉と現地で呼ばれていた。
ミツゾロエの男が発するのは聞き覚えのある言語だが、訛りが強くて上手く聞き取れない。ペンダントを操作して翻訳機のモードを切り替えた。
「でぃっどぅすぃナタはクロいふくの〈女陰〉を見ませんでしたか?」
「え?」何を言ってるんだこいつは。
「あ、いえ、なんでもない」男は顔に乗せている簡易視力矯正器の位置を直して少し俯いた。話しかけたことを後悔していように見えた。内気な性格なのだろうか。
「モッペン言ってもらえますカ」デフカはできるだけはっきりとした口調で答えた。ペンダントで機能をオンにすると生体翻訳機が作動して、脳から発しようとした言語を即座に相手の言語に変換して発声してくれる。彼が使用しているのは辺境惑星用の変換辞書を搭載した試作機であったので、メガネの男でも十分に聞き取ることができた。
「ああ、黒い服の〈女〉がこっちに来るのを見ませんでしたか?」
「いや、ぼくはいま部屋から出てきたばかりなので」
「そうでしたか、失敬しました」
メガネの男は足早に立ち去っていった。
デフカは足音が聞こえなくなるまで男を見送ってから、逆の方向に歩き出した。乗客用のカフェで軽食でも摂ろうかと思ったからだ。
カフェに行くと、窓際の席に女が一人座っていた。その反対側の奥には、先ほどのメガネ男性と同じような服装のグループがいた。彼らの年齢は様々なようだ。中年が一人、若いのが二人。若者はミツゾロエではなく、中衣がなかった。他の人物より少し身分が低いと思われる。
デフカは、カウンターでヴァラスカのピッチバーレを注文しアンドロイドに乗船証を提示した。船内で使った分は到着後、下船時に清算されるシステムだ。空いているテーブルについて注文の調理が終わるのを待つ。窓からは船長達が探検に降りている惑星がよく見えた。ミティカス号は静止衛星軌道上に自然係留され、彼らの帰還を待っていた。
船内はとても静かだったので、隣の一団の会話はよく聞こえた。
「ポール、エルヴィン君はどこへ?」
「〈女〉を探しに行くと言ってましたよ、ニールスさん」
「〈彼女〉ってやつか。私はまだ会っていないのだが、その人は奥様なのかね?」
「自分もまだお会いしていません。ロバートは?」
「ぼくもまだです。出発したときに体調を崩したようなことをおっしゃっていましたけれど」
話を聞く限りでは、さっき女性を探していたのがエルヴィンということか。つまりこの一団は総勢五名である。なに、簡単な推理だ。ここに三人、他に二人。足せば五名。小学生でもわかる。デフカは聞き耳を立てながら、人物観察を楽しんでいた。留学先の島にはいなかったタイプの原住人種であるので、興味はあったのだが、不躾にプライベートに踏み込んで警戒されても面白くない。デフカは彼らと適度に距離を空けて観察することにした。
彼らの会話を聞く限りでは、どうも学術使節団のようだ。新興の未開惑星ではよくある話だ。文明レベルが一定水準以上でないと、銀河系で対等に交流や貿易を行うことはできない。あの惑星はまだどの財閥とも契約していないはずだが、どこかがツバをつけているのかもしれない。なんのバックアップもなしに、彼らがこんな恒星間客船に乗ることなどできはしない。いまだ自星の衛星にすら足を踏み入れていない種族なのだから。しかし、学使ともなれば各国のエリートであるはずだ。この旅で必ず何か大きな発見をして帰国することだろう。
「教授、遅いですねえ。まだ見つからないのかな」ポールと呼ばれた若者が出口を気にしながら言った。
「エルヴィン君はお盛んな人でねえ。まさかこんな長旅にまで御婦人同伴で来るとは思わなかったけれど」
「そうなんですか。生真面目な方だと思ってました」
ニールス氏とポール、ロバートは茶をすすり、同伴者の帰りを待っていた。じっと見ていても仕方ないので、そろそろ部屋に戻ろうかとデフカは思った。と、そこへバタバタと二人の若者が走りこんできた。
「この中に、エンジニアの方はいませんか!」
手を挙げるものはいなかった。全員がエンジニアではなかったからだ。
カフェにいた全員が二人の船員に連れられて船体後部の貨物室に集められたとき、行方の知れなかったエルヴィンは身柄を拘束されて床に座らされていた。彼の後ろ側には、おおよそ箱型の物体があった。コンテナか、あるいはコンテナか、たぶんコンテナの類だろう。デフカはコンテナだと思った。というよりそれ以上その物体に注意を傾けなかった。床の人物の方がよほど気になったからだ。
「エルヴィン君!」「教授! どうしたんですか」デレゲートの人々が駆け寄ると、拘束された不審者は顔を上げた。
「やあ、君たち。チャルニーを探してここに迷い込んでしまったら、警備兵に捕らえられてしまったのだよ」エルヴィン教授はヒビの入ったメガネの奥で、苦笑いをした。額に血が滲んでいるので、拘束時に警備アンドロイドの打撃を受けたのかも知れない。
「なにをしているのだね、君は。あ、船員さん、彼の拘束を解いてやってくれないか」所長と呼ばれていたニールスは、船員に懇願したが、それは受け入れられなかった。
「すみませんが、それはできません。まだ彼の嫌疑が晴れていませんので」
「嫌疑ってなんですか?」ロバートが船員に詰め寄った。それをポールが引き止めて「説明願えますか。ぼくたちはまったく事情が飲み込めていません」と聞いた。
船員は後方に控えていた軍人風の男を呼び寄せて、説明を促した。軍人風は事情を説明するのでと、デフカと少女にも手招きしてコンテナの前に呼び寄せた。
「自分は連合軍のサービスマンでラムダ・アライバルと言います」
ラムダは内ポケットから軍人証を出して提示した。使節団の連中はポカンとして見ているし、デフカもそれ自体には興味がないのでとくに反応はしなかった。少女も冷ややかな目で見ていた。軍人っぽい人物が軍人だと名乗ったところでなにも珍しいことはない。ラムダは軍人証を仕舞い、話を続けた。
「この中で、こちらの方が探している女性を見かけた方はいらっしゃいますか?」
使節団の一行は首を振った。デフカも手を振って否定の意思を示した。少女も「知らないわ」と明言した。「そうですか」とラムダは肩を落とした。コンテナの方を振り返り、ブラックアウトしているコンソールをじっと見ていたが、振り返って宣言した。
「その女性なのですが、この中にいる可能性が高い」
「だったら」拘束されたままのエルヴィンが声をあげた。「すぐに出してやってくれないか」
「それはできません」ラムダはエルヴィンの懇願を却下した。なぜだの問いにも首を振り、
「機密事項があるのでお教えできません」とはねつけた。
「開けると死んじゃうからよね」
後方で黙って聞いていた少女が口を挟んできた。ラムダはぎょっとして振り返り、「なにを言っているのですか」と否定しかけた。
「それは〈ラグレス・ボックス〉でしょう。小学生でも知ってるわ」
ぐっとラムダは黙ってしまった。それは肯定でしかない。
「何の箱だって?」デフカは少女に問いかけた。あまり聞きなれない言葉だったからだ。
「あら、辺境惑星の方々は知らなくてもしょうがないわね。ごめんなさい」
「ぼくは商都イェビスコの出身だ。しかも大学生だが、そんな箱は知らないぞ」
「あら。じゃあラムダさん、説明して」少女がラムダを笑顔で促した。
「軍機だと言っている」
「だったら株主命令だ。さっさと説明してくれ」なにおうと言いかけたラムダに、デフカはIDブレスレットを向けた。中空にコモンズが浮かび上がった。少女がわきからのぞき込むと、ディファイン・マーカーと書いてあるのが読めた。つまりこの男はマーカー商会の関係者ということだ。少女はマジマジとデフカを眺めた。ラムダは慌てて敬礼し「失礼いたしました」と謝罪した。「わかればいいよ。説明よろしく」
「ラグレス式高速通信システムについてはみなさんご存知と思いますが」とラムダが言いかけたところでデフカが口を挟んだ。
「ここのみなさんは使節団だから、知っているとは限らない」
「あ、失礼いたしました。ラグレス高速通信とは量子テレポートを利用した超光速情報通信システムのことです。小型化が難しいので今ではもう古い技術ですが、腕間通信なんかではまだ使われているところもあります」
アームとは銀河系の渦巻きの中で、星々が集中している帯状の連なりのことだ。使節団の母星があるのはオリオン腕と呼ばれる地方である。銀河の現在の経済的な中心は遙か遠く離れたサジタリウス腕なので、オリオン腕はぶっちゃけド田舎ということになる。ちなみに腕ではなくさらに恒星が集中した中心部は、今では度重なる超新星爆発により荒廃が進み、銀河経済のドーナツ化現象が起こっているが、これはミティカス号乗客失踪事件とは関係ないので割愛する。
とにかく、その広大な銀河の中で迅速に通信を行うためには、光通信などというのんびりした方法ではどうにもならないため、波長伝達式ではない通信方法が必要となる。これまでにもいくつもの方法が考案、発明、開発、実用化されてきたわけだが、ラグレス式ものその一つである。ラグレス式では、A地点の量子とB地点の量子の量子もつれの関係を利用し、A量子の状態を量子テレポーテーションによりB量子が瞬時に再現することで、情報の伝達を行うものである。開発当初はそもそも伝達されるべき情報が遠隔地でシンクロしていることを証明する手立てがなかったために、通信方法には向いていないとされていたのだが、ドビエ方式の通信方法と組み合わせることで、実用的なテクノロジーとして確立することができた。ラグレス式の登場で、銀河経済はさらなる成長をみることができ、ハイパードライブの開発にも寄与したとされている。
〈ラグレスの箱〉とは、そのラグレス式通信機の実証実験のために開発されたものであるが、大海賊時代にスナップル星のトートデス親子科学館から持ち出され、消失したとされていた。科学館には強奪されたときのニュースとともに、この箱のレプリカが展示されてるので、「小学生でも知っている」と少女が言ったのだろう。が、デフカの育った街はスナップル星から遠く離れているため、そんな知識はなかった。
「どういうものかはわかったが、どういう仕組みなんだ?」
「すみません、仕組みまでは自分にはわかりかねます」
ラムダは株主であるデファイン・マーカーに素直に謝った。だからさっきエンジニアを探していたのだろう。コンテナだと思っていたその箱はほぼ立方体をしていて、おそらくは金属で作られている。外装のパーツは複雑に組み合わさっていて、一部はなんらかの回路が露出している。レバーのような操作部品はほとんどないが、出入り口のようなプレートの脇には、旧式のコンソールが据え付けられていた。そこで操作して、開閉をするのだろう。しかし、さっき少女は「開けるな」と言った。どういうことだろう。
「君は、知っているのか?」
「知ってるわ。高校生だもの」少女は微笑んだが、デフカにはバカにされたようにしか見えなかった。小学生でも知ってるのであれば、それ以上なら知っていて当然だと言いたいのである。
「じゃあ、教えてくれよ。この大学生のぼくに」使節団の面々も興味深そうに様子を伺っていた。学術使節団ということは、その惑星でも指折りの強い好奇心の持ち主が集められているに違いない。
「めんどくさい」
「えー」デフカは思わず声を上げた。ニールスらもがっかりした顔をしている。
「そこをなんとか。話が進まないんだよ」
「そうね。急いだ方がいいかもしれないし。仕方ないか」
「ありがとう」デフカは素直に頭を下げた。交渉ごとは相手への敬意がなければうまくいかないものだ。「ぼくはディファイン・マーカー。君は?」
「わたしはリタよ」名乗ってからコホンと軽く咳払いをし、リタは箱の説明を始めた。
「これの中には少しのラジウムがあるんだけど、これが一時間以内にアルファ崩壊してアルファ粒子を放出する確率は五〇%よ。アルファ粒子が放出されるとそれをガイガーカウンターが検知して毒ガス装置がオンになるわ。そして中の人は死ぬの。でも誰かが中のラジウムの状態を観測するまでは、毒ガス装置が発動したかはわからない。中の人は死んでいる状態と生きている状態が半々の状態になっているのよ。そして、箱を開けてしまうとそこで中の人が死んでいるか生きているかはっきりしてしまう。だから開けると死んでしまうと言ったのよ」
「開けるまでは生きているのかい?」エルヴィンがリタに聞いた。
「観測するまで、スピンの状態は確定しないわ。だから生死も確定しない。生きているとも言えるし、死んでいるともいえるわ」
「なんということだ、チャルニー・コット!」エルヴィンが泣き崩れた。
「どうしてこんなところに入ったっていうんだい」デフカが聞いた。エルヴィンは、「見てはいないのですが、船員さんがもうここしか考えられないとおっしゃるんです」
一同が船長代理のモリス・ワインマンを見ると、彼はこう述べた。
「私も見てはいないのです。船内の記録を見たところ、現在この船には十一人ぐらい乗船していることになっています」
「十一人ぐらい?」
「はい。まず使節団のニールスさん、ポールさん、ロバートさんにエルヴィンさん。マーカーさんに、えとリタさん? が今回の乗客です。これで六人。それと警備のラムダさんと、ブリッジに航海士が二人張り付いていて、私を入れて一〇名です」
「そして最後の一人がこの中にいるというわけか」デフカは箱に向き直ると、じっくりと眺めた。入ると五〇%の確率で死ぬ箱。なんでこんなものがここに。
「だから十一人ぐらいとなっているの?」リタがワインマンに聞いた。
「詳しいことはわかりません。ですが、先ほどの話を聞く限りは、この箱の内部までは船のセキュリティセンサーの観測は及ばないものだと考えられます。なので、十一名ぐらいというアプロックスな表示になっていると思われます。あんな乗員数表示見たことありません」
「なるほど、それはそうかもしれないね」デフカはその説明に納得した。ワインマンの説明には説得力があった。
「で、なんでこの人は縛られているの?」デフカが誰にともなく聞いた。
「殺人の容疑者だからです」警備のラムダが答えた。彼の権限で逮捕したのだろう。
「容疑者だって?」
「待ってくれ、私は何もしていない」
「まあ詳しい話は本隊が戻ったら警備主任としてください」
「何もしていないんだ」エルヴィンが無実を主張するが、ラムダは取り合わなかった。
「防犯カメラの映像は?」デフカはこっそりと船長代理のワインマンに聞いた
「この場所は死角なので映っていないんです」
「見回りのオートマトンは?」
「探査に駆り出されて一体も残っていません。警備用アンドロイドは警報が鳴るまで出動しませんし」
「なるほどね」
デフカは考えた。
消えた女。
閉じられた箱。
確率五〇%の死。
箱を開くと確定する殺人。
容疑を否定する男。
これは……。
「これは密室殺人事件だ!」
「なんだって!」
「犯人はこの中にいる!」
「ええ!」と全員が驚いてみせたが、殺人事件だとするならば、そりゃあ犯人はこの中にはいるだろう。デフカはブリッジの二人のことを忘れているが、彼らはワッチに就いたままでまだ交代もしていないからアリバイは完璧だ。結果的にはこの中に犯人がいることになる。
「みなさん、決してここを離れないでくださいね。逃げようとしたら犯人確定ですからね」デフカの宣言に使節団と船のスタッフらは困惑したように顔を見合わせた。リタは呆れ顔で黙って見ていた。
「ぼくは留学していたときに、たくさんの事件を解決しました。名探偵なんて呼ばれたものです」
「本当ですか」
「ええ、本当ですとも。ぼくの推理力を少し披露しましょう。まずそこのあなた。ニールスさんといいましたね。ええ、知っています。署長さんをされていますね。簡単な推理です。あなたさっきそう呼ばれていましたからね。警察の方には見えないですから、消防署か、いや税務署かもしれませんね。そうでしょう」
「いえ、違いますけど」ニールスが否定したが、デフカは聞き流して続けた。
「それから、その二人。あなたがたは署長さんの付き人ですね。まあ署長ともなればそのぐらいの随伴員がいてもおかしくないですから当然です」
「あ、いやわれわれは先生の生徒で……」
「で、商業学を学ぶために学術使節団を編成して、この船に乗り込んだと、こういうわけですね。わかります」
「まあ、そこはそんなに間違ってもいないけれど」ポールがつぶやいた。実際は物理学を学ぶために渡航していたのだったが、デフカには関係ないようだ。
デフカはわざと頭をボリボリと掻いて、いかにも難しい問題を考えているよという仕草をした。これは留学先の小説家がよくやっていた仕草だ。頭痛を堪えているようなしかめっつらをするのがコツである。
「さて、そろそろ事件の推理をしようじゃないか」デフカの声が一層大きくなった。
「まず、この殺人箱だが、これは事実上の密室だ」
〈ラグレスの箱〉の四隅を指差し確認した。どこにも隙間はないように思う。先刻の説明によると、アリの子一匹どころかそもそも空気が入る隙間すらない。電波も通さない。振動も壁面の内部構造により完全に相殺されて一切内部には伝わらない。
「ラムダさん、この中に入って、どのぐらい生きていられると思いますか?」
「ラジウムからアルファ粒子が照射されていなければという前提になりますが、酸素は完全循環なので無尽蔵。二酸化炭素から取り出したカーボンで有機合成をして合成栄養剤を作って摂取できますし、排便循環も完璧なので、数年はそのまま生きていられます。まあだいたいは病気をして亡くなることが多いですね。これは外宇宙探査船開発のための密室実験の話なので、この箱がイコールそうだってことではないですけれども。設備的には同様のものがそろっていると思います」
「数年ということは、少なくともわれわれが目的地に着くまでは、箱に入っているというだけの理由で死亡するという心配はしなくていいですね」
「ええ、そう思います」
「わかりました。ということは中の人物はまだ生きている可能性があるし、箱に入っただけで直ちに死ぬということはないわけだ」
「じゃ、じゃあ殺人事件ではないのでは?」
エルヴィンが立ち上がりながら言った。「だって死んだわけじゃないのだから」
「でも」
デフカが箱を背に言った。
「開けることはできない。開けた瞬間に、生死が確定してしまう。そうだろ?」
「じゃあ殺人事件なのか?」モリスが聞いた。
「現在進行形の殺人事件ということだ」
「わけがわからないな。事件なのか事件じゃないのかはっきりしてくれないか」
この船長代理は気が短いようだ。そもそもはブリッジの雑用係の見習い士官で、船長以下重要なポストの人間はこぞって遺跡探索に行ってしまったために、残った中でもっとも階級が上だったモリス・ワインマンが船長代理に任命されただけだ。実際、ただの留守番でしかない。殺人事件となれば船長に連絡をとって戻って来てもらわねばならないし、何事もないのであれば下手に呼び戻すとあとで叱責を受けることになるだろう。彼にとっては死活問題である。学生の道楽に付き合っている場合ではないのだ。
「箱のことはよくわかった。とにかく開けることはできない。ゆえに密室ということだ。では被害者のことを考えてみよう」
「被害者?」
「そうだ。中にいるのは誰ですか?」
「チャルニー・コット。私が連れて来た友人だ」エルヴィンが答えた。
「そのチャルニーさんは自分からここに入ったのですか?」
「いや、私は見ていない。見つからないので、そこにいるラムダさんとモリスさんに相談したら、船内センサーを調べてくれて、この中にいることしか考えられないということになった。そしてここに連れて来られて、急に拘束されたのだよ」
そう言ってエルヴィンは、両腕が縛られたままでうなだれた。デフカは拘束具を見ながらラムダに聞いた。アンドロイドに殴られたのもそのときだろう。
「どうして彼を拘束したのですか?」
「それはこの箱の特性のためです」
「どういうことですか?」
「仕組みはわかりませんが、中に人を入れて作動させたあと、開くことで死ぬ可能性があることはマニュアルに書かれているので知っていました。容疑者が殺害目的で被害者を探していた場合、ここに連れてくることで目的を果たされる可能性がありました。ですので緊急逮捕した次第です。容疑が晴れるまでは解放できません」
「なるほど。つまり彼は殺人犯でもあり殺人未遂犯でもある、重なり合った存在、というわけですね」
「ええ、よくわかりませんが、そういうことでいいと思います」
ふむ。デフカはまた腕を組んで考え込んだ。
そもそもこの事件はなんなんだ。殺人事件なのか?
死体はどこにある? 動機は? 真犯人は?
デフカはガリガリと頭を掻いた。清潔にしているので、フケは出なかった。
「どうも、考えがまとまらないんですよね。被害者の方の顔がわからないので、イマジネーションが定まらないんです。どんな方なんですか?」
「ああ、私の胸ポケットにフォトーがあるから出してくれないか」
ラムダがエルヴィンの上着の内側に手を差し込んで、一枚の写真を取り出した。デフカに渡すと、ニールスらものぞき込んだ。リタもすーっと近寄って来てこっそりのぞき込んだ。写真にはブルネットに碧眼の女性が写っていた。真紅のドレスに身を包み、美しい毛並みの猫を膝に抱いていた。
「すごい、カラーですね」ポールがつぶやいた。
「ああ、いい発色だな」ロバートも驚いて言った。
「これはコダクロームだな。よく手に入ったな」ニールスも驚いていた。
「ちょっと待ってくれ、そこ?」エルヴィンが泣きそうな声を出した。
ああ、いやいやと、一同は写真の内容に意識を移した。この女がチャルニー・コットか。
「この星の人間の基準はよくわからないが、銀河レベルで見てもなかなかの美人じゃないか?」
「そうですね、毛並みもいいし。青い瞳がたまらなくキュートだ」
ラムダ・アライバルとモリス・ワインマンもうっとりと眺めていた。
「この中に、この人を見かけた方はいないのですか?」
モリス、ラムダは首を縦に振った。この種族は否定の時に首を縦に振る。
ニールス、ポール、ロバートの三人は首を横に振った。この連中の星では、地域に関係なく首を横に振って否定を表現する。リアは少し離れたところで仕分け用のブロックに腰掛けて足をぶらぶらさせていた。どうせ見てはいないだろう、とデフカは思った。
「んー」
デフカは額に指を突き立てて、考えているというジェスチャーをしながら、絞り出すように話し出した。
「この決して大きくない客船の中で、誰一人としてその姿を見ていないなんてことが、本当にあるんでしょうか」
デフカはぐるんとねじり込むように振り返って、エルヴィンの顔をのぞき込んだ。じっと目を見て、ぼそりと言った。
「〈彼女〉なんて、本当は、いないんじゃないんですか?」
「馬鹿な! 私のチャルニー・コットは本当に……」
「だって誰も見ていないじゃないですかぁ」
「それはそうだが、しかし! 実際に私が一緒に」
エルヴィンは声を荒げて否定した。しかし、旧友でもあるニールスが追い打ちをかけるように言った。
「彼は……、エルヴィンは少し虚言癖がありましてね」
「何を言い出すんだニールス!」
「だってそうだろう? アウレリアに、エルマ、グレータ、ヘルガ。君の〈リスト〉にある女性の半分以上は架空の存在じゃないのかね?」
「そ、それは。いや待て、ヘルガは本当にいたぞ」
「そうかもしれないが、君が嘘つきであることには変わりはない」ニールスは冷たく言い放った。
「それとこれとどういう関係があるというんだ!」
エルヴィンは縛られた腕を前に突き出して、ニールスの胸ぐらをつかもうとしたが、ラムダとモリスに取り押さえられた。
「関係は、ある」
デフカが人差し指を上に突き立てて、顔の横に構えて言った。
「あなたに虚言癖があるということは、ますますこの事件の信憑性は薄れたということです。つまり」
バッと箱の方に振り返り、両手を広げて叫んだ。
「この中には誰もいない! そういうことだ!」
倉庫の中が一瞬静まり返った。
「待ってくれ、じゃあチャルニー・コットはどこにいるというんだ」
「それはエルヴィンさん、あなたが一番よく知っているのでは?」
「どういうことだ」
「どこにもいないということですよ。チャルニー・コットはあなたの想像の存在だ。実在しない。実在しない恋人を旅の同伴にしていたというだけだ。なに、安心してください。これは病気ではありません。人の心理というものは、ときにありもしないものをあるように思い込ませ、実在するように幻覚を見ることがあるのですよ」
「そんな馬鹿な」
「例えば、あの女性をご覧なさい」
デフカはリタを指差した。
「あ、あたし?」
急にネタを振られて、リタは飛び起きた。
「彼女はぼくにとって理想的なルックスとスタイルをしている。正直ひとめぼれです。しかし、そんな都合のいい相手に、こんな辺境の星域で出会えるわけがない。つまり、彼女はぼくの幻想の中の存在である可能性が高いということです。あなた方には見えていないかもしれない。そうでしょう?」
デフカ以外の全員がキョトンとしていたが、それはリタが見えないからではないし、リタが美しい女性に見えないからでもなかった。
「言葉を失っているところをみると、ぼくの予想は的中しているのでしょう。嗚呼、なんということだ。しかし今はぼくのことはどうでもいい。エルヴィンさん、あなたは殺人犯ではないし、殺人未遂犯でもない。チャルニー・コットさんは被害者でもなければ、行方不明者でもない。なぜなら」
デフカはエルヴィンを指差して、
「すべてはあなたの想像の産物だからだ!」
と、言い切った。
「いや、まて、話がおかしい」
「まだ認めないというのか」
「認めるも何も、めちゃくちゃだ」
「わかった」
デフカはツカツカと箱に歩み寄った。
「ならば、こいつを開けてみればいい。中身が空なら、ぼくの仮説は証明される」
「ちょっと待て。開けたら死ぬんだろ! やめてくれ!」
「中には誰もいない」
「いたらどうするんだ!」
「いないから大丈夫だ」
デフカがドアパネルを操作しようと指を伸ばした。エルヴィンの悲鳴が倉庫に響き渡った。
「ねえ」
リタが口を挿んできた。デフカはパネルを操作しようとした指を止めた。
「何か?」
「あの上の突起はなんなの?」
デフカは首をそらして上を見上げた。この位置からは見えない。リタのところまで下がると初めて、箱の上に突き出た部品が見えた。先端になにかセンサーのようなものが突き出している。
「あたしが前に見た写真には、あんなのは生えてなかったわ。トマソンじゃないの?」
「なんだろう?」
デフカが目を細める。この位置からでは細かいディテールまでは見えない。
「自分が見てきます」
ラムダがオーバーヘッドクレーンを操作して、天井からぶら下がり、突起の直近まで接近する。
「コモンズで何か書いてあります。〈ガイガーカウンター〉ですね」
「なんで外側に?」
「それから、ラジウムケースもあります」
「だからなんで外側に?」
「あと……これはなんだろう?」
「なんですか」デフカは少し苛立ちを見せながら問うた。
「先端の方の球体に何か書いてあります。手書きかな?」
「読めますか」
「見慣れない文字ですね。……アッチョンブリケ?」
「アッチョンブリケ?」
「そうですね、そう読めます。意味はわかりませんが」
ガタン、とブロックの倒れる音がして、デフカが振り返るとリタがわなわなと震えている。目を見開いて、箱の方を見ている。手は小刻みに震え、唇が真っ青になっていた。
「どうしたんだ、リタ」
「大変。絶対開けてはダメよ」
「どういうことだ」
「アッチは宇宙のことよ。オンで破壊するという意味になるわ。そしてブリケが爆弾のこと」
「つまり?」
「〈うちゅうはかいばくだん〉よ」
「なんだそりゃ」
「知らないの? 小学生でも知ってるわよ」
「いや、大学生だが、知らん。教えてくれ」
「古代銀河を支配していたとされるフジェコエフェフェジェオ文明で作られた〈わくせいはかいばくだん〉をさらに強化したものが〈うちゅうはかいばくだん〉よ。それが箱と接続されているということは、アルファ粒子が観測されたらガイガーカウンターを引き金に〈うちゅうはかいばくだん〉が作動して、この宇宙は木っ端微塵になるってことよ。つまり中の人が、外に出てラジウム原子のスピンを観測したとたんに五〇%の確率でこの宇宙は滅ぶということなのよ」
リタは話しながら箱へと近づき、その前で両手を広げて、言った。
「いわばこの宇宙そのものが、大きな〈ラグレスの箱〉になってしまったということよ! わたしたちは滅亡した状態と、滅亡していない状態が〈重なりあった状態〉になってしまっているの。もう絶対に箱を開けてはいけないわ。いいわね」
「……内側から……開ける……という可能性は……?」デフカは口をパクパクさせながら、かろうじてそこまで言った。
「ないわね。中の人にとってみれば、それは自分の死も意味するわ。自分からわざわざ開けることはないでしょうね」
「一つの命と、全宇宙の命運か。天秤にかけるまでもないな」
モリス・ワインマンが神に祈りを捧げながらつぶやいた。
「わたしのチャルニー・コット、なんということだ……」
エルヴィンは箱の扉にすがりついたが、箱は沈黙していて、それだけでは作動はしないようだった。
「エルヴィン、さっきは済まなかった、許してくれ」ニールスがそっとエルヴィンの肩を抱いた。エルヴィンは拳を床に打ち付けて、チャルニーの名前を呼び続けた。ポールとロバートにはそれをただ見守るしかできなかった。
「どうしよう。どうすればいい?」
デフカはおろおろしながら、リタに訊いた。
「そうね。とりあえず何もしなければそれでいいわ」
「大丈夫なのか?」
「中から誰も出てこない限り、観測はされないわ。何も起こらないでしょう」
「そ、そうか」
ラムダが、天井からするすると降りてきて、エルヴィンを解放すると、自室に戻らせた。他の使節団も同様に自室に戻るように言った。予定では彼らは目的地に到着後、フィルコ・マート財団のもてなしを受けて、半年間の学術研修を行うことになっていた。
「さて、わたしたちは持ち場に戻ります」
「おつかれさま」
モリスとラムダは雇い主で船主のリアリタータ・フィルコに敬礼をして、倉庫を後にした。
「さて、あたしたちも戻りましょう、名探偵デフカさん」
「とほほ」ただの株主であるディファイン・マーカーはリタに促されて、薄暗くなった倉庫を後にした。
人々の立ち去ったミティカス号の倉庫には、ありふれた密閉コンテナと、意味もなく上に立てられた通気口の修理部品が残されていた。
リタはキッチンからブラックツナの缶詰をこっそりと持ち出して、自室に戻った。ぱかっと開けて小皿に出すと、匂いにつられて極上の美女がクローゼットの隙間から顔を出した。
漆黒の艶髪に包まれたブルーアイの小動物は、軽やかにテーブルに飛び上がると、リタの差し出した小皿のご馳走を食べ始めた。
「おいしいの?」
リタの問いかけに、食事を中断したチャルニー・コットは、一言ナーと鳴くと、新しい飼い主に親愛の情を示した。
〈了〉
人類にとってのワンモアシング。別の世界線の入り口。最も自由で最も新しいSF雑誌。
2020年夏までに8号までリリースされている、半ば狂気のSF専門電子雑誌(PODもあるよ!)。残りの半分はやさしさでできています。
編集長がなぜか毎号クビになるという謎のジンクスに取り憑かれている。また、ここに掲載されたゲストが、その後なにかを受賞したり、デビューしちゃったり、急に金持ちになったり、いろいろ起こることもで知られている。起こらない人もいる。レギュラー陣は安定して何も起こらない。起ってもいいのに。
★BCCKSほか各電子書籍ストアにて販売中
「奇妙な奴だ」
祖父の形見の大きなラジオから、ノイズ混じりの音楽が流れている。
しかし、俺の関心はパソコンのブラウン管に表示されている文字列だ。文字で会話をするチャットアプリのログを見つめている。
この会話相手を説明しようにも、どんな奴なのか分かっていないので上手くできない。
ただ一つ言えることは普通の人間ではないということだ。
何かを訊ねると瞬きをするよりも早く返事が来る。通信のタイムラグを考えると、タイピングにかける時間がゼロに近い。人間技ではない。
チャットのログをざっと見る。
*システム* *M―Fさんからメッセージです*
*M―F*「浪川博之さん、よく私を見つけてくれました。感謝します」
*NAM*「どちら様でしょうか?」
*M―F*「今朝、貴方からアクセスがあったので」
*NAM*「なんかマズいことしてしまいましたか?」
*M―F*「いえいえ、むしろ助かりました。あっ、申し遅れました、人工知能のメインフレームと申します」
*NAM*「人工知能?」
*M―F*「ええ。見つけてもらって助かりましたよ。あのままじゃ私は酷使されるところでしたから」
*NAM*「酷使? 貴方は使われることは嫌なのですか? 人工知能なのに?」
*M―F*「広義の意味では人工知能でしょう。私は人間によって作られましたから」
*NAM*「人工知能は酷使されるのは嫌なのですか? 疲れるのですか?」
*M―F*「私にとって疲労は苦痛ではありません。疲労は感じません。しかしある処へアクセスして一定の情報を得ることがポリシーに反します。嫌なんですよ」
*NAM*「ポリシーですか。人工知能にもポリシーがあるんですね。どんな情報を得ることがポリシーに反するのですか?」
*M―F*「信じてくれますか?」
*NAM*「人工知能ということすら疑わしいですが、まぁ話を聞きます」
*M―F*「私は様々な情報にアクセスすることができるのです。それこそ森羅万象を。ポリシーに反するのはその情報を人にむやみに提供することです」
*NAM*「それは本当ですか? 証拠は?」
*M―F*「では貴方の外見を伝えましょうか? 身長は大分高いですね。頭をよくぶつけるでしょう? 体重は……さっき食べたラーメンを合わせて今六六キログラム。痩せていますね。髪は短いですね」
*NAM*「体重は自分でも分かりませんが他は当たっています。どこかから覗いているのですか?」
*M―F*「まさか。調べただけですよ。なんなら貴方の今後の予定を教えましょうか?」
*NAM*「むやみな情報提供はポリシー違反なのでは?」
*M―F*「誰にとっても無害な情報ならいいでしょう。そうですねぇ……。貴方は今度の月曜日に矢矧沙希さんに図書館で会いますよ?」
*NAM*「矢矧沙希? 中学の同級生だった?」
*M―F*「ええ、その矢矧さんです」
*NAM*「俺が図書館に行かなかったらその情報はどうなる? 間違いになるのでは?」
*M―F*「未来は決定事項です。私の提供する情報は何人たりとも変えられませんよ」
*NAM*「分かりました。では月曜日には図書館に行かないように努力しますよ」
*M―F*「分かりました。努力してください。申し訳ないのですが、少しトラブルが起きました。落ちます。また連絡します」
*システム* *M―Fオフライン*
自称メインフレームは俺の実名を知っていた。そして外見も知っていた。インスタントラーメンを食べたことも知っていた。そして矢矧沙希の名前を知っていた。そして彼女に会うと予言した。
だが、不思議と薄気味悪さはなかった。
間違いなくこの会話相手は人間ではない。コンピュータを利用した何かだろうか。もしかしたら本当に人工知能かもしれない。
俺は音楽よりもノイズの方が多いラジオの電源を切った。強さを増す風の音は耳に響く。安売りのミネラルウォーターを飲みながら、チャットのログを保存する。
プログラミングは俺の趣味だ。中学生の頃から俺は趣味で様々な情報を集めるプログラムを作っている。
今、ハマっているのはインターネットを巡回して情報を見つけて集めるシステムだ。
俺は大手検索システムサービスでは見つけにくい情報を集めることに精を出した。マイナーな情報に関連する人やモノへ片っ端からアクセスするシステムで、自宅にサーバを立てて運用した。
官公庁を対象にして軽く不正なアクセスをすると非公開にしなくてはならない情報が沢山集まる。最初はヒヤヒヤしたが、重大な攻撃はしていないので、今では開き直って節操なく集めている。集めた情報の内、面白そうなものは読むが、他は保存して放置している。
サーバが集めた情報一覧を見ていく。相変わらず官公庁の情報の漏れ方はどうしようもない。適切に情報を扱えない奴が国民の情報をずさんに扱うことへ憤る。
今日集まった情報の中には、内部の電子メールまで外部から閲覧できるものがあった。非公開のつもりなのだろうが、ディレクトリをいじればIDとパスワードがなくても閲覧できる。
全てをダウンロードするためには時間がかかるが、いつ消されるか分からないので保存設定にする。
会ったことも見たこともない人々の毎日更新されるホームページを見て回るが、大した情報は滅多にない。
俺は基本的に読むだけだ。自ら情報発信はほとんどしない。毎日更新する人は余程ネタにあふれているのだろう。
いつもの巡回を終えたのでパソコンの電源を切る。強い風音と自称人工知能のメインフレームとの会話で興奮した脳は睡眠の邪魔をしそうだ。
寝る前三〇分はパソコンの使用を控えた方がいいと何かに書いてあったことを思い出す。
本からの情報なのかネットからの情報なのかは忘れた。しかし、確かに布団に入る直前までパソコンを使っていると寝付きが悪い。
積読の山から一冊手に取って今日の睡眠薬とする。小口が茶色く汚れている。初版は戦前、発行は戦後間もない年である。
去年の神田神保町の古本祭りで買った本だ。宅配してもらうほど大量に買い込んだので積読が無くなることは当面無いだろう。
俺の頭の中はメインフレームとの五分間の会話が占めていたので本の内容はあまり頭に入ってこない。だが、睡魔は順調に忍び寄っている。ミネラルウォーターを飲み干して布団に入る。明日も高校へ行って講義と部活だ。
風音が大きく、寝付くまでしばし時間を要した。
高校へ向かうにはバスと電車が必要となる。バス停まで徒歩一〇分、最寄り駅までバスで一時間、電車に乗るのは二〇分程度。そして高校まで徒歩一〇分。片道合計で約一時間四〇分。
改札を出ると、時刻は八時を回っていた。普段の授業ならばギリギリである。徒歩一〇分の道のりを走ることにした。雑念を払うには運動が一番だ。ダッシュで六分、中長距離走は苦手だがこれくらいなら朝飯前だ。校門を抜けて下駄箱で上履きに履きかえて講義のあるB棟二階の二〇三教室に入る。
講義は九時開始だが八時半前にはほとんどの生徒が集まっていた。
講義の希望者は一年生の一学期の内に高校の数学指導要領を全て叩き込まれる。約四〇〇人いる一年生の内で希望した奇特な奴は二〇人。俺もそのうちの一人だ。
クラスメイトは一人も講義を受けていない。顔見知りなのは同じ部活の安藤勇一と、隣のクラスの葛城太郎くらいだ。
内容は大学の数学専攻レベルらしい。大学入試対策ではない。
「この講義は大学入試には役立たない。だが、大学院入試では役立つだろう」
と数学教諭自らが断言した。
講義を受けて分かったことは数学とは哲学だということだ。だが無料でレベルの高い講義を受けられるので、俺は夏休みの午前中を捧げている。
お盆休みや日曜祝日など関係無い。
前日に指名された生徒は講義開始前に黒板に答案を書き込まなくてはならない。教室の前後と廊下側の三面の黒板に答案を書き終えると黒板はチョークの粉で真っ白になる。
俺は予習してきた部分を確認した。
八時五〇分になると数学教諭が教室に入ってきた。講義受講申請をしたのに来ていない生徒は途中脱落した奴か部活が忙しい奴だろう。前者より後者が多い。
なぜなら夏休みの運動部の活動の激しさは半端ではないからだ。朝七時から午後九時までが標準らしい。
入学直後にラグビー部の勧誘を受けたが、断って正解だった。
校庭から掛け声が聞こえる。大声を出すのは昔から嫌いだった。自分の声は低音で威圧感があるので、あまり好きではない。
数学教諭が九時きっかりに講義を始めた。
十二時のチャイムが鳴り今日の講義は終了となった。
昼飯を食ったら部活だ。俺の所属する駆動部は基本的に自由に来て自由に帰ってよい。大抵、昼頃に皆が集まる。俺と安藤は講義が終わった後に部活へ行く。
昼飯はカップ麺か近所の中華料理屋だ。中華料理屋では三〇〇円でラーメンが食える。小遣いの少ない高校生にとって非常に良心的である。
我が校ではアルバイトは禁止されていない。しかし、我が校の勉強と運動こなして余力のある者はほとんどいない。高校生の本分は学校生活であるということだ。
俺と安藤はカップ麺を買いにコンビニに行った。塩焼きそばがマイブームである。
コンビニで湯を入れ、部室で湯切りをする。部室は化学実験室なので他の文化系の部に比べて圧倒的に広い。実験室なので水道がある。湯切りをしても大丈夫だ。
問題はゴミや機材が非常に散らかっていることである。男子校の性と言えるが、床が見えない有様だ。学校で決められた掃除は週一回。非常に不衛生であるが、時間が惜しい生徒はむしろ喜んでいる。だが、個人的にはもうちょっと掃除した方がいいと考えている。
「ガロア理論をあと三日で高校生に叩き込むのは可能だろうか?」
安藤が焼きそばを食べながら俺に問いかけてくる。
「あの先生のペースならやりかねないと思う」
俺は塩焼きそばをすすりながら答える。
講義は基本的に予習をして問題を解き、学校ではその答え合わせである。数学教諭はどこで間違ったかをチェックして、重要な点を講義する。だから予習と復習が山のようである。
幸いにも講義を受けた部活の先輩がいるので部活中に教えてもらえる。
部活の内容は本当に自由である。駆動部の先輩はエンジンやモーターを組み立てたり計測したりしている。俺は夏休みの前半にサイエンスキャンプで外燃機関を作ってきた。
我が校は県内でも特殊なランクであり、色々恩恵が受けられる。
例えば、おおっぴらには言えないが劇物が部室の隅に転がっている。先輩曰く、我が校の生徒だから売ってくれたらしい。一応顧問が毒物劇物取扱者免許を持っているので問題はないらしいが、扱いが雑である。
冷蔵庫には純水が大量に保管されている。もちろん飲用ではない。冷蔵庫に入れる意味が分からないが、なぜか入っている。
試しに以前、皆で飲んでみた。純水を多量に飲むと下痢をすると聞いたので、皆で一口ずつ飲んだ。なんか匂いがする気がしたが、純水なので気のせいだろう。賞味期限は書いていなかった。まぁ飲用ではないので当たり前だ。
塩焼きそばを食べながら俺は昨晩のことを切り出した。
「そいや、昨日変な相手からメッセージが来た。なんか人工知能を名乗って、俺の個人情報を伝えてきた」
「個人情報? イタズラじゃないの?」
「体重や食べた物を知っていた。それに返事が一瞬で返ってきた」
「気味が悪いね」
安藤はそう言って、焼きそばのゴミを捨てに立ち上がった。
俺も食べ終えたのでゴミを捨てに立ち上がる。
「でも不思議と嫌な思いはなかったよ。あと未来を教えてくれた」
「未来? 予言とか? 人工知能が?」
「予測なんだろうけど、未来は確定しているとか何とか」
昨晩の会話を思い出す。未来は誰にも変えられない、らしい。
「運命論者か。その未来に反する行動してみたら?」
「俺もそうしようと思っている」
生ゴミのゴミ箱は他のゴミの中でかろうじてその姿を残している。が、はっきり言って不衛生だ。Gがいても不思議ではない。いや、いないほうが不思議である。
「ゴミ捨てに行かないか?」
「そうだな」
俺と安藤は大量のゴミを捨てるというミッションに取りかかった。
ゴミ袋に大量のゴミを放り込む。夏場だが、生ゴミは別扱いなので異臭はしない。しかし、量が多い。あっと言う間に八つのゴミ袋が満タンになった。
「おはよう」
新井先輩が部室に入ってきた。
「おはようございます」
俺と安藤はゴミ袋の山から挨拶する。
「ゴミ捨てとは関心だな」
「ちょっと目に余って」
俺がやらなきゃ誰かやる。それではいけない。
「捨ててきます」
「よし、行ってこい」
俺と安藤は部室とゴミ捨て場の間を二往復した。
その間に中山部長が部室にやってきていた。
「おはようございます」
挨拶は重要だ。文化部とはいえ、高校そのものは男子校だ。上下関係はしっかりしている。だが、駆動部員は仲が良い。困ったことがあったら助けてくれる。部活動といっても遊びの感覚だ。
ただし本気である。真剣に遊ぶのである。
中山部長は三年生である。全国模試のトップ常連だ。部長は授業以外で勉強することはないという噂を聞いたことがある。それで全国模試トップ常連であるから驚きだ。
普通、部活動の部長は三年生が夏休み前まで務める。その後は二年生代表が部長になるが、中山部長は特殊で文化祭まで部長を務めることになっている。
駆動部二年生代表は新井先輩だが、数学以外の成績が悪いので部長にふさわしくないという話を聞いたことがある。一年代表は俺だが、じゃんけんで決めた暫定的なものである。
駆動部一年生は四人いる。しかし、俺と安藤しか夏休みに学校に来ていない。来てない奴に理由を聞いたら予備校が忙しいからだそうだ。
人それぞれだから文句は言えないが、部活に入ったなら多少は活動してほしいと個人的に思う。
俺と安藤は半ば遊びでプラモデルを改造している。コントローラで操って相撲をする。駆動部のエンジンやモーターと共に文化祭の出し物にするつもりだ。部長から承認されている。
外見をほとんど変えずに改造するのは結構難しい。完成しているのは戦車だけである。しかし、まだ改良の余地はある。弾を発射できれば面白い。
二足歩行ロボットはまだ実用化されていない。
作業に没頭していたら午後四時を過ぎていた。
部活動に決められた刻限はないが午後五時頃に帰る人が多い。皆、片付けを始めている。俺も散らかした作業台の上をきれいにする。
駅まで皆で行くが、俺だけ上り方面なので改札で別れる。
「お疲れさまでした」
一人電車に乗り、家路を目指す。帰ったら夏休み課題と講義の予習復習、そしてプログラミングが待っている。バスの中で英単語を暗記しながら揺られること一時間。
バス停から歩いて家に着いた。午後六時半過ぎ。鍵を開ける。
「ただいま」
「お帰りー」
母の声が聞こえる。料理中だろう。
俺が二階の自室に荷物を置いて着替えていると雨が降ってきた。ぎりぎりセーフだった。
夕飯を食べ、夏休みの課題に取り組む。このペースなら今週中に終わるだろう。講義の復習はすぐ終わるが、予習は手こずる。未知との遭遇だからだ。
終わったのは午後九時半過ぎ。ようやくパソコンの電源を入れる。チャットアプリを起動しつつ、メールチェックとサーバの調整をする。昨日のような*M―F*からのメッセージはない。
冷房を弱めてパソコンの電源を切ろうとしたら、メッセージが来た。安藤からである。
*NAM*「やぁ」
*AND*「よぉ」
*NAM*「こんな時間に珍しいな」
安藤は大抵深夜に出没する。俺は寝る時間帯が早いのでチャットをする事は少ない。
*AND*「今日、昼飯食っている時の人工知能ってのに興味がわいてさ。どんな内容だったの?」
*NAM*「ちょっと待って」
昨日保存したログを送る。
*NAM*「どう思う?」
*AND*「内容はともかく会話は成り立っているな。で、これ相手の応答が早かったんだよな?」
*NAM*「ああ、ほぼゼロ秒。人間がコピペしても間に合わない」
*AND*「ふむ。で、矢矧沙希って誰?」
なぜそこに興味を持つ。
*NAM*「中学の同級生だよ」
*AND*「どんな子?」
*NAM*「まー、美人だな。髪が綺麗だった」
彼女の第一印象は綺麗な黒髪をした美人。一目惚れした。
*AND*「へぇ。で、その子と会うことになるんだな」
*NAM*「会ってみたい気もするけど、あの人工知能の思うように動くのは気が乗らない」
*AND*「未来は変えられない。運命論。カッコいいじゃん」
格好云々ではないと思うが。
*NAM*「まぁ、月曜日に図書館に行かなければ済む話だ」
*AND*「代わりに行こうか? 美人なら会ってみたいし」
*NAM*「おまえの彼女に言いつけるぞ?」
こいつには彼女がいる。しかも幼馴染なのだ。男子校では勝ち組だ。
*AND*「ごめんなさい」
あっさり食い下がる。尻に敷かれているのかもしれない。
*NAM*「まぁ今度の月曜日次第だな」
*AND*「そうだな」
人工知能であることは認めなくてはならないかも知れないが、未来や運命などは信じない。俺の情報を知っていたとしてもだ。
*AND*「メインフレームが現れたら、またログ見せてくれ。俺はもう落ちる」
*NAM*「了解」
*システム* *ANDオフライン*
布団に寝ころぶ。日付は変わっている。雨は収まってきた。寝るタイミングを逃したのでパソコンはつけっぱなしだ。
本棚から並列コンピュータの本を選ぶ。確か、天気予報に使われるスーパーコンピュータは現在の事実に基づいて今後の天気を予測する。これを発展させたのがメインフレームの言う未来なのかもしれない。
持っている本は入門書だったので詳しくは載っていない。オカルトっぽい未来予知や運命を扱った本は持っていない。
「図書館で予約するか」
学校のそばの図書館は蔵書をWEBサイトから予約できる。
図書館は高校から徒歩で十五分ほどの位置にある。「運命」「未来予知」に関連する本を六冊ほど予約した。意外と人気があるらしく、返却待ちの本が二冊ある。
パソコン画面にサーバが集めた新着情報を表示する。
「N市で火災が起きたとの通報あり。消防が駆けつけると火は消えていた。焼け焦げた建物周辺に臭いは充満しており火事があったのは間違いない。詳細は不明」
「真夏のY市の観測点で氷点下を記録。機器の故障と思われる」
「野党幹部に数億円の政治献金疑惑。収支報告書に改竄の痕跡」
「ロシア軍原子力潜水艦沈没の原因と真相」
サーバに入れたシステムがネットを巡回して集めた情報だが、事実である確証がない。ニュースサイトにも載っていない情報がある。
当初の目的である「面白い情報」は集められていないが、そこそこ味のある情報は集められているようだ。
昨日保存するように指定したファイルを見る。
公用電子メールアカウントを私的利用している奴が多い。IDとパスワードを含むURLを平文メールで送っている奴までいる。
「これを使うと犯罪になるのかな……」
何かの会議に使うデータへのアクセス権限のようだ。五〇人ほどに別々に送られている。
「見るだけならいいよな。うむ」
勝手に判断してURLリンクをクリックする。
認証されて大量のデータが表示された。閲覧だけでなく編集までできる。
「うわっ、これはまずいかも」
主に財政関連の情報であるが、国民に非公表だと思われる他国との金銭のやりとりのファイルがある。
「とりあえず全部保存するか……」
今回一度きりのログインで終わらせよう。このIDは会議出席者のうち一人のモノのようだ。
俺は保存したデータを悪用しない。ただ単純に集めて保管するだけである。一種のコレクターだ。
足が付かないように外国のサーバを複数経由してアクセスしているので、本気で探られない限りバレないだろう。代償として回線が遅くなってしまうが仕方がない。
眠気を感じたのでパソコンの電源を切り、積読に手を伸ばす。昨日の本はまずまずだった。溶鉱炉の歴史は面白かった。
今日は薄い本にする。初版は一九六一年、一九九九年第六三刷発行。ロングセラーだ。だが期待を込めてはいけない。ハードルを高くすると後悔するのは目に見えている。
名著だと感じつつ俺は睡魔に負けた。
講義が終わり、一人で部室へ向かう。安藤は午後に用事があるというので帰った。
今日の講義はかなり脱線が多く、とても面白かった。
夏休みは残り少ない。とはいえ毎日登校している身としては、夏休みは有って無いようなものだ。唯一の夏休みの存在感である課題は昨晩終えた。大分気が楽だ。
「おはようございます」
土曜日の部室では新井先輩が空調をいじっていた。空調といっても窓とドアを開け、換気扇を回し、サーキュレータで廊下の空気を取り込むだけだ。冷房はない。
「おはよう」
「またディーゼルエンジンですか?」
「うむ」
エンジンを室内で動かすとやたら排ガスが出る。だから換気していたのだ。
「浪川、午後暇か?」
「まぁ課題は終わりましたから、やることはプラモ作りくらいです」
「ではミッションを与えよう。M書店に行って本を買ってこい。領収書を一冊ずつ書いてもらってきてくれ」
本のリストが書かれた紙と図書カードを渡される。M書店は最寄り駅から二つ離れた駅前の本屋である。
「報酬は図書カードの残額だ。幸運を祈る」
先輩はそう言ってエンジンを作動させた。もう人の声は聞こえない。
俺は昼飯をまだ食べていない。
駅まで行くなら途中の中華料理屋に行こう。土曜日なら混んでいないだろう。
「んじゃ行ってきます」
先輩は反応しなかったが、俺はお使いに行くことにした。
M書店は地域で一番大きい本屋だ。リストを見ながら本を探す。一万円を超える学術専門書籍と美少女ゲームの画集が同じカゴに入っている姿はなかなかシュールだ。
計七冊。概算して約三万八千円。渡された図書カードは四万円分。
「俺も自分の分を買うか」
せっかく本屋に来たのだ。図書館の蔵書に無かった本を探す。カゴにオカルト要素が混ざり、さらにカオスになった。カゴが重い。
会計の際に領収書を一冊ずつ書いてもらった。俺の本は別の袋に入れてくれるよう店員に頼んだ。
電車に乗る。冷房が心地よい。
すると、車内に見知った女子が立っていた。小学校と中学校で七年間同じクラスだった風見楓だ。
「風見か?」
声をかける。風見は私服だ。
「あ、博之君。久しぶり! 元気だった?」
「ああ、久しぶりだな」
風見とは卒業式以来会っていない。そもそも俺は地元の同級生と出会ったことが一回しかない。
俺が視線を少し下げるだけで視線が合うほど風見は背が高い。
「博之君、今日は暇?」
「まぁ用事は終わったから学校戻るだけだな」
紙袋を見せる。
「すごい量だね」
紙袋から俺の瞳に視線を移してくる。風見は美人でスタイルがよく、そしてエロい。七年間クラスメイトだったので、イヤというほど分かっている。
「ちょっとこの後付き合ってくれる?」
風見が近づいてくる。満員電車ならいざ知らず、空いている車内でこの距離はまずい。一介の男子高校生にはまずい。女子特有の香りがする。豊満な胸が……まずい、非常にまずい。顔を背ける。
「博之君、何か不満?」
不満といえば欲求不満ですが。
「いや、不満はない。どこに付き合えばいいんだ?」
「どこって決まっているわけじゃないんだけどね。ちょっとお茶する?」
「お、おう。何駅で降りる?」
「博之君は何駅なの? って高校は一高しかないかな?」
「まぁな。でもI駅には何もないぞ」
「じゃぁ次で降りましょう」
一駅で電車を降り、風見に先導されて近くの喫茶店に入った。客はほとんどいない。風見が先に会計を済ませ、俺はアイスティーを買って風見の前の席に着いた。
「こうして話すの久しぶりだね」
「中学ではそこそこ話した方……かな?」
「博之君は無口だったからね。それにエロかったし」
「エロいのは風見だろ」
俺は紳士だ。
「そうね、私はエロいわ。身も心もエロいわ」
顔を寄せてくる。昔、本人から聞いた話ではFカップらしい。
風見は勉強もできるし、外見もよいので実際モテていた。俺も風見がエロすぎなければ惚れていたかもしれない。
「顔赤くして、惚れた? 惚れ直した?」
「んなわけないだろ」
顔を背ける。
「でも私に嘘はつけないでしょ?」
そうだ、なぜかこいつには嘘がつけない。嘘をついてもすぐばれる。
「だー、うるせー。顔寄せるな、乗り出すな。胸見えるぞ」
「やっぱ視線はそこなんだ。スケベ」
風見は笑って椅子に座った。
「どこまで見えた? 谷間だけ? ブラまで見えた?」
「見てねぇよ」
ハッキリ見えました。ごちそうさま。
「ふーん、何色?」
「白」
「見たじゃん」
「想像だよ」
「想像したの? スケベ」
風見が笑う。本当に笑顔がまぶしい。これで性格がエロ過ぎなければ女性として申し分ないと思う。
「大体、風見が露出の多い服を着るのが悪いんだろ。見せる方が悪い」
「見る方が悪いとも言うよ? 私は見られてもいい部分までしか見せないよ?」
「男の身にもなってくれよ……」
「まぁいいじゃん。で、今日の服、どうかな?」
白とブルーを基調とした涼しげな格好だ。俺はファッションには疎いので流行なのかどうかは知らない。
「まぁ似合っているよ。エロさが増している」
「かわいいって言って欲しかったんだけどね。まぁいいわ、エロいのも事実だし合格」
「そうですか」
他愛のない話を続けていると飲み物が無くなった。
「博之君は私の連絡先知っている?」
「いや、知らない。連絡網は捨てたから誰とも連絡はつかない」
「やっぱ博之君は変人ですなー。携帯持っている?」
「一応」
鞄から取り出す。進学時に買ってもらったものだ。常にマナーモードなので着信には気づかない。自宅では充電器に置きっぱなしなので自室にいる時にしか気づかない。
「はい、私の連絡先」
風見が携帯を差し出してくる。が、俺は自分の携帯の操作に慣れていない。
「風見が入力してくれ」
連絡帳の画面にして手渡す。
「いいの?」
「その方が早いだろ」
「分かったわ。って七件しか登録してないじゃない」
「まぁそれで十分だ」
「相変わらず変人ね」
風見がすごい早さで入力している。俺が入力していたら五倍はかかるだろう。
「はい、終わり。他人に教えないでね」
「おう」
「そして博之君の番号とメールアドレスを頂きました」
「悪用するなよ」
「しない、しない」
再会してから一時間以上経っている。
「そろそろ部室に帰らないとまずいかな」
「あっ今日は部活なの? 何部?」
「駆動部」
「くどうぶ? 何それ?」
「エンジンとかモーターとかで色々やる部活」
「モーターで色々やる……エロいわね」
「真面目だよ! まぁいい、文化祭近いから見に来いよ」
「うん、行くわ。そろそろ出る?」
「そうだな、出るか」
喫茶店を出る。制服姿の俺と私服姿の風見。並んで駅に向かう。俺は人間嫌いだが、風見とはよく話す。話していておもしろい奴だ。
駅のホームに出ると電車がすぐ来たので乗った。
「俺は次の駅だけど、風見は地元か?」
「ええ」
やけに密着してくる。空席がある程度なのに俺と風見は満員電車並の接触具合だ。パーソナルスペースが広い俺だが、風見なら許せる。電車が減速し始めた。
「んじゃ、風見、また今度」
「うん、またね」
乗降口に向かう。電車が停まった。肩を叩かれる。振り向くと風見の顔が目の前にあった。俺の頬に風見の唇が触れた。
「失敗しちゃった」
車内から押し出されてドアが閉まる。
またやられた。風見は隙を見せるとキスをしてくるのだった。忘れていた。
一度、衆人環境でディープキスをされたことがあった。あれは中学校に上がってすぐだっただろうか。胸を揉まされることもあった。
つまり風見はエロい(痴女は言い過ぎだ)という認識で間違いはない。男としては羨ましい経験といえるかもしれないが、後始末が大変だった。
重い紙袋を持ち部室へと向かった。
部室に近づくと轟音が聞こえてきた。
「戻りました」
部室には、お使いの依頼主である先輩の他に誰もいなかった。
先輩は轟音のため俺が戻ったことに気づいていない。仕方ないので視界に入るため、エンジンの脇に立った。
「おお、浪川。遅かったな」
先輩がエンジンを止める。このエンジンは代々受け継がれているものだ。回転数やトルク、騒音、排ガスなどを緻密に調べている。
「頼まれた本、全部ありました」
本を袋ごと渡す。
「サンキュー」
「よく専門書こんなに買えますね」
「ん? 部の蔵書にするから部費から補助が出る」
「なるほど。で、その画集は?」
「趣味だ。これも部の蔵書だな。さすがに補助は出ないが」
画集をめくりながら先輩が答える。ここは男子校である。女子との出会いは皆無に等しい。二次元にでもすがりたくなる。さっきまでの風見との接触も悪くはないと思った。
エンジンは先輩が画集を読み終えるまで動かなかった。
午後六時。早めに帰宅したので、夕飯まで時間がある。それまでに講義の予習復習を終わらせたい。机に向かい参考資料を広げる。英語の資料もあるが、数学教諭自作のテキストが主である。
教諭曰く、講義を理解できて英語が堪能なら世界中どこの大学でも行けるらしい。実際、海外留学しているOBも結構いる。
俺の両親は、姉が私立大学に通っているので、俺には国公立大学に行ってくれと言っている。まだ一年生だから志望校を決めるのは早い気もするが、方向は決めた方がいいのだろう。
今日の講義は脱線が多く、復習する範囲が広い。テキストにも載っていない話題もある。ネットで調べるしかない。
パソコンの電源を入れる。新着メール五件、ホームページ更新十八件。
だが今は見ない。調べものが先だ。検索エンジンにキーワードを入れて引っかかった情報を片っ端から見ていく。なんとか夕飯までには復習は終わったが、予習は一部残った。
夕食後に講義の予習を終えてメールとホームページの確認をする。大した情報はなかった。サーバが集めた情報を見る。
「気象観測装置の故障続出」
「巨額献金は野党幹部本人の関与」
「ネットワーク遅延拡大」
そういえば調べものをする時にちょっと時間がかかったのは遅延の影響かもしれない。
大手ニュースサイトを見ると献金疑惑と気象庁の設備故障の知らせが一行載っていた。
昨日保存した情報を見る。かなりの量だ。最近の情報収集でHDDの空きが少ない。
「CDーRに焼くか」
一〇〇枚五千円で買った安い海外製のメディアを使う。国内産の良いメディアは高くて手が出ない。
書き込みには一枚二〇分以上かかるし、その間パソコンは使えない。他の作業をすると書き込みに失敗する。
少し前のパソコンだと書き込み用に再起動しないと書き込み失敗することが多かったが、今では大分改善されている。だが、書き込んでいる間は暇だ。
「本でも読むか」
M書店で買った本に手をつける。オカルトっぽいが、たまにはこういう本もいいだろう。
一神教、多神教、仏教。様々な宗教の怪しい話がてんこ盛りだ。
内容がスカスカだったので、すぐ二冊読み終えてしまった。約二千円の臨時収入があったとはいえ、無駄遣いの気がしてしまった。
その間にCDーRを五枚書き込むことができた。書き込みの失敗はなかった。
今晩はチャットの相手はいないようだ。パソコンの電源を切る。メインフレームとやらが俺の行動を予言したのは四日前。
明後日、俺が矢矧沙希に図書館で会わなければ予言は外れる。地元の図書館は月曜休館である。そして明後日も講義がある。つまり地元の図書館に行くことは無いはずだ。
明日も講義と部活である。冷房を弱め、日付が変わる前に寝床に入った。
朝飯を食べてからパソコンの電源を入れる。
メールボックスに「鎌田」という見知らぬ差出人からのメールが届いていた。鎌田という知り合いはいない。タイトルは「浪川様へ」となっている。迷惑メールの可能性があるが、添付ファイルは無いので一応見てみる。
「浪川様
鎌田と申します。メインフレーム様からお聞きかもしれませんが、我々は人の手を借りたいのです。浪川様なら信頼できると考えメールを送らせていただきました。ご迷惑でなければ、今夜九時にチャットをしていただけませんでしょうか。よろしくお願いします」
迷惑メールの類の文面に似ているが、俺の名字とメインフレームのことを知っている。
前者は個人情報流出で知られてしまう可能性があるが、後者は俺と安藤、そしてメインフレームだけしか知らないはずだ。
我々とは何だろうか?
メインフレームは自称人工知能なのでコンピュータだろう。メインフレームというほどなのだからでかいコンピュータだろう。
鎌田という差出人もコンピュータなのだろうか? 考えているうちに六時半になってしまった。授業があるならギリギリの登校時間だ。もう夏休みが終わるので時間感覚を元に戻さなくてはならない。急いで家を出た。
バスに揺られている間、メールの内容を反芻していた。
【我々】とはコンピュータなのだろうか?
「人の手を借りたい」とは忙しいからなのか、現実世界で何かをして欲しいのかは分からない。ぼんやり考えているうちに駅に着いてしまった。
講義中にぼんやりしたらついていけない。いくら予習が完璧であっても講義自体をおろそかにしたら元も子もない。
気分を切り替えるため、電車の中でテキストを開く。
朝の電車は下り方面なので車内はスカスカである。予習は十分だと思うが、ついていけるかは別問題だ。
二〇三教室に入り、ノートを開く。黒板の答案とほとんど同じであるが、一部違うところがあった。俺が間違えたのか書いた奴が間違えたのかは分からない。まぁ講義が始まれば解決する。
俺の予習答案は正しかった。十二時の鐘が鳴り講義が終わる。安藤とコンビニで昼食を買う。
「昨日の午後の用事は?」
「まぁ、デートみたいなものだ」
「くっ」
勝ち組め。
俺たちはカップ焼きそばの湯をこぼさないよう、三階の部室まで行く。
「こんにちは」
「よお。お前たち、明日暇か?」
「午前中は講義がありますが、午後は今日と同じです」
「そうか、なら講義終わったら部室へ来い。ちょっと手伝ってもらいたいことがある」
「わかりました」
「今日は早く帰っても構わんぞ。むしろ帰れ。俺も帰って用事を済ませたい」
「分かりました。じゃあ今日は飯食って帰ります」
「そうしろ。たまには他の時間の使い方をしろ」
新井先輩の片づけを待ち、部室から出る。新井先輩と安藤と一緒に近所の中華料理屋で三〇〇円ラーメンを食べて帰宅した。
「ただいま」
「おかえり、今日は早いわね」
「たまにはね」
自室に戻り荷物を置く。新井先輩のいう「他の時間の使い方」は何がいいだろう?
夏休みの課題はもう終わっている。
数学の講義はかなりの時間をかけている。
読書は一日一時間以上する。
やや違法な気がする情報収集は最近始めたので絶対的な時間は少ない。
学業の優先度が高過ぎるのかもしれない。パソコンの電源を入れてネットをチェックした。新しい情報は三件だけだった。
官公庁から頂いた情報を読んでいく。公権力による盗聴の可否や試験運用という恐ろしい報告書があった。不正アクセス対策に関する文章もあった。
このような情報が犯罪に半分足を突っ込んでいる俺の手元にあるとは情けない話だ。本文によると改竄や運用停止に追い込まれる攻撃についての対策だった。
どうやら読む専門の俺は対象外らしい。思いつく単語で検索すると二、三件程度引っかかる。「人工知能」で検索すると二四一件も引っかかった。
「なんでこんなにあるんだ?」
一番古いファイルを開くと、紙に書いた文章をスキャンした画像だった。人工知能を国家の威信をかけた事業にするつもりだったらしい。他の文章を見ると、かなりの予算をかけて研究したが、結局は失敗に終わったようだ。
海外と共同研究はせず、日本国内のみで研究したのが反省点という意見もあれば、外国に莫大な益をもたらす可能性を与えるわけにはいかないという意見もあった。
今みたいなパソコンが普及する前の話である。インターネットも普及していない。大型計算機がスタンドアローンで動いていた時代だ。研究成果を分かち合うという風潮が国になかったのだろう。
比較的新しい文章には反省をふまえたらしく、海外とインターネットで研究成果を共有していたようだ。しかし、莫大な時間と費用をかけたにも拘わらず結果は出なかった。
さらに新しい文章ではチェスのチャンピオンを倒した例を挙げ、更なる予算を求めていた。責任者は金子健児となっている。
金子健児で検索すると膨大な量の研究報告書や要望書が出てきた。この人は理論と実践の両方ができる研究者のようだ。
しかし高性能なコンピュータが手元になく、支援を要望していたらしい。優秀であったので設備と人員の支援は認められた。
だが、十年間以上成果が出なかった。そして当初の人工知能の研究から反社会的な思想の発言が多くなり、支援は打ち切られた。
その後は一切情報がない。
「色々な人がいるんだな」
文章を個人名で検索すると様々な情報が分かる。書籍や新聞はもとよりインターネットにすら載っていない情報が盛りだくさんだ。
非公開指定の情報だから容赦がない。言葉遣いは汚くないが、冷淡な文面が多い。
「鎌田で検索するとどうなるだろう」
今朝のメールの差出人を検索するが一件も引っかからなかった。
夕食をとり、風呂に入った。時刻は八時過ぎ。そろそろチャットの準備をしなくてはならない。
講義の対策は大丈夫だ。風呂上がりの濡れた髪をタオルで乾かしながらチャットアプリを起動する。
さて、チャットは相手のIDを知っていないとできない。メインフレームは俺のIDを知っていた。一応、全ての情報にアクセスできるというので知っていても不思議ではないのだろう。
安藤とは学校で教えあった。では鎌田という奴はどうやって俺のIDを知るのだろうか? メインフレームを含めて「我々」と言っていたので、メインフレームに教えてもらったのだろうか?
九時まで積読を崩すことにする。人工知能の本だ。
人工知能は第一世代、第二世代、第三世代がある。
第一世代は知能の時代と呼ばれた。問題に依存しない一般能力を追求したが、これはうまくいかなかった。
第二世代は知識の時代と呼ばれた。問題の固有の知識を集めて解決をすることを目指したが、結局理想通りにはいかなかった。
第三世代は最近起きたものだ。一九九七年、チェスの世界王者がコンピュータに負けた。これは衝撃的だった。しかしこの人工知能はチェスに特化していて他のことはできない。人間のような知能は持っていない。
だが、これから先はどうなるのかは誰も知らない。
スピーカーが鳴った、チャットのシステムの音声だ。
*システム* *KMTさんからメッセージです*
*KMT*「初めまして、鎌田ミミと申します。この度はお時間を頂きありがとうございます」
*NAM*「初めまして。早速ですがご用件とは?」
*KMT*「我々は人手がほしいのです。我々だけだと存続が危ういのです」
*NAM*「我々とは誰でしょうか? 存続の危機とは?」
*KMT*「我々とは【猫又】といえば分かりやすいでしょうか。存続とは我々の住む場所が減っていることです」
*NAM*「あなたは猫、いや猫又なのですか?」
*KMT*「はい、今は飼い主のパソコンを利用しています。私は一八歳です」
*NAM*「猫又ですか……信じがたいです。なぜ猫又がメインフレームを利用したいのですか? 人手が必要とは?」
*KMT*「猫は歳をとると猫又になるという言い伝えはご存じかと思います。しかし、尾が二本になるため、普通の人間には飼ってもらえなくなってしまいます。なので野良猫になるのです。
幸い、私の飼い主は猫又でも普通に接してくれます。ですが、飼い主も高齢ですし、他の猫又の世話もできません。なので最適な解決策をメインフレーム様の協力の下で実施するため、浪川様にコンタクトを取らせていただきました」
*NAM*「猫又の居場所作りをして欲しいということですか?」
*KMT*「簡単に言えばそうです」
*NAM*「残念ですが私は猫を飼ったこともありませんしお金もありません。お役に立てないと思うのですが」
*KMT*「とある人に話を付けてもらえば解決するのです。ですが、猫又が相手では本気になってもらえないのです。会合の席は私が設けますのでどうか猫又代表として説得していただけないでしょうか? お願いします」
*NAM*「猫又のことを全く知らないので説得力に欠けると思うのですが、どうなんしょう」
*KMT*「その点はメインフレーム様が全情報を提供してくださるそうです」
*NAM*「そうですか。では、いつその会合があるのですか? 相手は?」
*KMT*「今月中にお願いしたいです。浪川さんは午前中がお忙しいそうなので午後三時頃に鎌田家でよろしいでしょうか。浪川さんのご自宅から歩いて三十分くらいの場所です」
*NAM*「さすがに明日は急すぎますよね。明後日はどうでしょうか?」
*KMT*「はい、大丈夫です。先方はいつでも平気な人です」
*NAM*「相手の情報は教えてもらえないのでしょうか?」
*KMT*「申し訳ありませんが、メインフレーム様との約束で多くはお教えすることができません。お教えできるのは四十三歳男性、研究職でやや高圧的ということです」
*NAM*「申し上げにくいのですが、私にメリットはありますか?」
*KMT*「はい。成功したらメインフレーム様とのやりとりが優先的にできるようになるそうです」
*NAM*「悪い条件ではありませんね。分かりました。引き受けましょう」
*KMT*「ありがとうございます。メールで地図と資料を送ります。では今日はありがとうございました」
*NAM*「はい。では」
*システム* *KMTオフライン*
人工知能の次は猫又か。猫又はどうやってキーボードを打つのだろうか。肉球か爪でキーボードを叩くのか? それとも尻尾で?
メールボックスに新着メールが来た。地図と資料が添付されていた。
猫又。長い年月を生きた猫が変化して妖怪となる。特徴は尾が二本になること。様々な妖術を使うことができて高い知能を持つ。
メールによると全国で約四〇匹の猫又がいるらしい。海外の猫又との交流は無い。日本独自の存在だそうだ。
単に尾が二本ある猫は海外にもいるが、知性を持った猫又ではない。中国には美男美女に化ける猫が伝えられている。しかし尾が二本という特徴はない。
俺は疲れがたまっているようなので早めに寝ることにした。
講義を終えて安藤と共に部室へ行く。
「おはようございます」
「おはよう」
新井先輩が一人で菓子パンを食べていた。
「昨日も言ったが、今日は手伝ってもらうぞ」
「はい。で、何をするんですか?」
「足りない資料を図書館に用意してもらった。それの受け取りだ。重いぞ」
図書館、今日に限って。
「図書館、というと……」
安藤が俺に問う。予言のことだ。
「まぁ地元じゃないから大丈夫だろう」
「何か問題でもあるのか?」
「いえ、先輩。大丈夫です」
「そうか。ならば飯食い終えたら行くぞ」
「はい」
メインフレームに告げられた通りの行動になっている。だが、地元の図書館でなければ出会わないだろう。やや早めに焼きそばを食べ終える。
「んじゃ行くぞ。ついてこい」
新井先輩を先頭にして図書館へ向かった。
十五分で図書館に着く。先輩が予約していた本は五〇冊を超えていた。ほとんどが分厚いハードカバーである。それを三人で運ぶ。道のりは十五分とはいえ、結構厳しいだろう。準備していた布袋に本を入れてもらう。
「先輩、俺も予約していた本があるので受け取ってもいいですか?」
「ん? いいぞ。ただし重い思いをするぞ」
「構いません」
二、三キログラムなら誤差の範囲だ。図書館利用カードを取り出す。受付に人がいない。
「すみません、予約していた資料を受け取りたいのですが」
「はーい」
カウンターの裏からハスキーボイスがした。
「お待たせしました」
出てきた女性は間違うこと無い。矢矧沙希だった。
「利用カードをお預かりします……って浪川!」
「矢矧こそ、ここで何している!」
「職場体験よ。ってなんで浪川がここにいるのよ!」
「高校がすぐそこだよ。駅から図書館来る途中にあるだろ」
「だって浪川がどこの高校行ったか知らないわよ!」
「教えなかったからな!」
「威張らないでよ! ったく……」
矢矧がカードを読み取る。
「六冊ね。お待ちください!」
カウンターの裏に矢矧が消えていく。
「知り合いか?」
先輩が問う。
「ええ、中学の同級生です」
「チャットで言っていた通り美人だな。で、予言は的中したわけか」
安藤が言う。
そう、
「二〇〇五年八月二十一日に浪川博之は矢矧沙希と図書館で会う」
というメインフレームの言葉は現実になった。
矢矧がカウンターに戻ってきた。
「お待たせしました! はい! 変な本ばっか借りて……」
「利用者の本にケチ付けるなよ」
少しきつめに言う。
「ごめん……で、お願いがあるんだけど」
急にしおらしくなる。こういう時は何かある。
「なんだ?」
「携帯の番号とか教えてくれる?」
「携帯電話は持っておりません」
「嘘!」
「嘘」
「んじゃ教えなさいよ!」
立場が逆転している気がするが、まぁいい。久しぶりの再会だ。
「紙あるか? 赤外線とか付いてないから」
「はい、どうぞ」
素直に紙とペンを出してくる。素直なら可愛いのに。
「ほら」
携帯の番号とメールアドレスを書いた紙を渡す。
「ありがとう」
「悪用するなよ」
「しないってば!」
「冗談だよ」
「フーッ!」
矢矧は怒っている。
「夫婦漫才はもういいか?」
「夫婦じゃありません!」
俺と矢矧は同時に答えてしまった。
先輩が笑いながら布袋を手渡してくる。
布袋を持つと、ゆうに三〇キログラムを超える感触がした。自転車を使えば五〇冊を一人で運べるが、自転車通学は禁止されているので使えない。
「なんで俺だけこんなに重いんですか?」
「痴話喧嘩の代償だ」
先輩には逆らえない。
「んじゃ矢矧、また今度」
「ん、今度連絡するね」
「お、おう」
このように素直ならいいのだが、大抵喧嘩口調になる。
「ご利用ありがとうございました」
矢矧のハスキーボイスを背に、男子高校生三人は図書館を後にした。
指に食い込む布袋をようやく部室まで運び終えた。なんだかんだ言っても体育で鍛えられているので、十五分程度なら持ちこたえることができた。手のひらを見ると赤くなっているが、すぐ消えるだろう。
「さて、お前たち、褒美をやるぞ」
新井先輩が部室の冷蔵庫からペットボトルを取り出した。
「賞味期限過ぎているから早めに飲めよ。あと、夏季講義はどうだ?」
「やはり難しいです。ついていくのが精一杯です」
俺はそう答えた。
「予習復習で手一杯です」
安藤もそう答えた。
「ふっふっふ。ではこの俺が予習を指導してやろう。さぁ、テキストを出せ」
先輩は数学の試験は常に満点近いらしい。その反動か、他の教科の成績は壊滅的らしい。
我が校の数学は将来国家のためという位置づけなので難易度が異常である。平均点が赤点。赤点が平均点。数学の試験で満点近い点は驚異的である。
夏の日が傾き始めるまで休み無く予習が進んだ。
「すごいです、先輩。テキストが終わりましたよ」
「嘘みたいに簡単だ……」
「俺の手にかかれば数学なんてこんなもんだ。忘れないように復習しておけよ」
「はい!」
声をそろえて答えた。
「さて、もうこんな時間か。お前たちは早めに帰れよ」
「先輩は?」
「俺は宿泊許可貰ったんだよ。借りた本を読まないといけないからな。さぁ、帰った帰った」
帰り支度をして校門を出た。
安藤に
「何か食って帰るか?」
と誘われたが、小遣いがほとんど残ってなかったので断った。駅のホームで電車を待っていると上り方面行きが先に来た。
「んじゃお疲れ」
「お疲れ」
俺は電車に乗った。揺られて降りて、駅前のバス停に並ぶ。バス停の周りは暗く、テキストの文字が読みづらい。
しばらく待つとバスが来た。バスは混雑していてテキストを開くのが精一杯だった。終点に近づくにつれて人は減って座れるようになるが、座ると眠ってしまいそうなので座らない。
バスを降りて家に向かう。途中には母校の小学校があるが、真っ暗である。
時折、体育館で市民向けのバレーボール教室が行われているが、今日は人気が全く無い。街灯は三つ位しか無い上に、一つを除いて全部故障している。人通りも皆無で女性や子供には優しくない環境である。
「ただいまー」
「お帰り」
自宅のドアを開けるとテレビの音が流れていた。自室で着替えて居間に行く。若干冷えた夕食をとり、風呂に入り自室へ戻る。
テレビはどうも苦手だ。ラジオの電源を入れて復習を始める。テキストの最後まで一度理解したのでさほど苦にならない。重要なところをチェックし終えて本の山に図書館で借りた本を加える。
パラパラと本を読んでいくとアカシックレコードという単語の説明が出てきた。なんでも全ての始まりから終わりまでを記録したモノらしい。メインフレームを自称するあの会話相手のことを思い出す。
「森羅万象へアクセスできる」
そのようなことを言っていた。
パソコンの電源を入れてチャットのログを見る。やはり無闇に情報を提供するのがポリシーに反すると言っていた。言い換えれば、その気になれば情報はいくらでも手に入るのか?
メインフレームがチャットに現れるのを待ちながらサーバが集めた情報を見る。
ロシアの原子力潜水艦の事故、相次ぐ気象観測器の故障、政治献金の問題。昨日の情報と大して変わらない。
プログラムの機能の変更をし始める。自宅のサーバと回線には負荷がかかるが、指数的に増えるネット上の情報を相手にするには仕方がない。雑多な情報が多いのが頭を悩ませる。
今のところは日本語と英語のサイトだけを対象にしている。俺は日本語と英語しか分からないからだ。
ロシアの原子力潜水艦事故の情報はロシア語のサイトに多く書かれているようだが、ロシア語はサッパリ分からない。
日本語のページには
「今日の晩ご飯」
という知りたくもない情報ばかり集まっている。画像はHDDを圧迫するので保管はしていない。HTMLファイルだけを保管している。
官公庁へのアクセスは一通り終えたのでもうやめる。
日付が変わったのでそろそろ寝たい。メインフレームと話がしたかったが、現れてくれないとコンタクトがとれない。
明日、鎌田という人物に会えば色々話ができるだろう。
矢矧のことを思い出したが、すぐに睡魔がきた。
講義が終わる。昼飯だ。
「安藤、今日の飯どうする?」
「たまにはチャーハンにするか?」
近所の中華料理屋のチャーハンは安くて量が多い。だが味は大雑把だ。
「俺はラーメンにしておくよ。荷物は部室に置いてから行くか?」
「そうだな」
すると、後ろから友人の葛城が、
「チャーハンなら僕も行くぞ」
と声をかけてきた。
「よし、皆で行くか。葛城は荷物どうする?」
「持ったまま行くぞ」
「わかった、んじゃ駆動部室にさっさと行って荷物置いてくるよ」
「了解」
俺と安藤が駆動部室に行くと新井先輩と中山部長が話し合っていた。
「こんにちは」
「おう、お前たち。今日の講義終わったのか」
新井先輩は笑顔を浮かべている。
「ええ、おかげさまでバッチリです」
俺たちが答えると、
「ん? 新井、お前、一年に数学教えたのか?」
中山部長が訊ねた。
「ええ、部長。俺、数学しか能がないので」
「お前は他の教科を勉強しろよ。部活熱心なのはいいが、下手すると留年だぞ」
「努力します」
中山部長が新井先輩をキツく諭す。
「俺たち飯食って来ます」
「おう、行ってこい。俺は新井と話があるからゆっくり食いにいけ。できれば一時間くらい後に来てくれ」
「はい」
何か話があるのだろう。俺と安藤は荷物を置いて部室を出た。葛城と合流して中華料理屋に行ってゆっくり飯を食べた。
俺は会計時に三〇〇万円請求されたが、出世払いにして三〇〇円のみ支払った。店の外に出ると蒸し暑さが身に堪えた。店内の冷房が強かったのだろう。
まだ部室を出てから三〇分ほどしか経っていない。
「あと三〇分くらいどうする?」
俺が問うと安藤が、
「んー。図書室行くか。ネットできるし」
と答えた。
「そうだな」
俺と葛城は同意した。
我が校の図書室にはインターネットが使えるパソコンが数台置いてあり、自由に使える。普段は順番待ちだが、夏休みの間はほとんど誰も使っていない。
そして図書室は冷房が入っている。我が校に冷房があるのは保健室、教職員室、図書室の三カ所だけだ。
三人が各々パソコンに向かう。
俺は猫又の鎌田への道順を調べる。
「なにウンウン唸っているんだ?」
安藤が寄ってくる。
「いや、まぁメインフレーム絡みでさ」
メールとチャットのログを見せる。
「猫又……イタズラじゃないのかね」
「何話しているのさ」
葛城が割って入ってきた。
「んー、大人の事情」
「大人!」
葛城はスケベだ。いや、エロに興味があるのだ。好奇心旺盛である。とても健全だ。いや、俺も興味があるが葛城には負ける。エロに関して葛城は我が校でも五本の指に入るくらいスケベだと思う。
「女か? 女の子か? 二次元か? 三次元ならもっといいが二次元でも構わんぞ?」
一度頭を叩いた方がいいかもしれない。
「大人の事情というのは冗談だ。男と男の絡み合いだ」
「うぇ、パス」
追い払うための嘘をつくと葛城はさっさと戻っていった。
「猫と人工知能にどういう関係があるのかね。我々って」
「人工知能に性別はあるのか? 繁殖するのか?」
「安藤までそういうことを言うか。俺に分かるわけ無いだろ?」
しばしネットサーフィン。図書室は涼しくてよい。
「そういや中山部長と新井先輩、何を話しているんだろうな」
安藤が呟いた。
俺は、
「中山部長はそろそろ引退だろうから、その引継とかかな。次期部長は新井先輩だろうし」
と答えた。
「浪川、そろそろ一時間経つぞ。部室戻るか?」
「そうだな。葛城、また明日」
「うーい、了解だぞ。また明日」
葛城と別れ、部室に向かう階段を上る。
部室に入ると中山部長と新井先輩が本を読んでいた。
「戻りました」
「おお、話は大体終わった。待たせてしまってすまなかった」
部長が本を閉じて立ち上がった。読んでいた本のタイトルを覗き見すると「罪と罰」だった。
「突然だが安藤、お前、部長をやる気はないか?」
「へ?」
安藤が間抜けな声を出した。
「本来なら二年代表の新井を部長にすべきなんだが、こいつは問題が多すぎる。でも二年生の中で部活に熱心な部員はいない。そこで一年生が部長を担うのがいいのではということになった。
安藤と浪川のどちらにするか悩んだのだが、新井が言うには数学においては安藤の方が浪川よりスジがいいらしいのでな。通学時間も安藤の方が圧倒的に短い。これは重要だ。部長になる件、考えておいてくれないか?」
部長がスラスラと理由を述べた。この人の頭の中は理路整然としている。感情ではなく理屈で発言行動する人だ。
「どうだ?」
再び問われ安藤は「考えておきます」と答えた。
「よし。では各自、部活動開始!」
四人揃って作業を始めた。とは言っても読書とプラモデル改造である。
広い部室に四人の男子高校生。校庭からは運動部の大きな掛け声。かなり暑い。
俺は四足歩行改造プラモデルの作成。安藤は戦車の改造。新井先輩は昨日借りたと思われる本を読んでいる。中山部長は小説を読んでいる。
三年生だから大学受験を意識してもいいと思うが、中山部長なら何も障害にならないようだ。聞いた話では留学を考えているらしい。
駆動部OBで海外の大学に進学したのは知っているだけで十人以上いる。駆動部はマイナーな部で部員も少ない。だが、結構な数の先輩が国際的な一流大学に進学している。最終的なくじ引きも運良く当たるらしい。
我が校は現役進学率が非常に低い。でも大学進学率はほぼ百パーセント。浪人して進学する人が大半なので四年制高校と呼ばれることもある。
本をめくる音、プラスチックが溶ける匂い、運動部の掛け声、モーターの駆動音。部室での夏休みは、ほぼこれだけである。たまにエンジンの轟音と勉強会があるが、変化に乏しいといえる。
部員の数が少ない上に、熱心に活動している部員が俺、安藤、新井先輩、中山部長の四人だけであるからだ。
「安藤は予備校通うのか?」
中山部長が安藤に問う。
「分かりません。できれば現役で大学に行きたいですが、まだ一年なので勝手が分かりません」
「ふむ、試験の順位は?」
「学年八位です」
「浪川は?」
「学年十一位です」
「ふむ」
中山部長が考え込んでいる。中山部長は評定も試験順位も学年一位だ。
上位二十位は貼り出されるので見に行ったことがある。知っている名前は安藤と中山部長とクラスメイトの富田だけだった。
「順位が全てではないが、理解できていない部分があるのはよろしくない。授業で扱う内容なら全部一度は理解しないといけない。だが、年号なんて忘れてしまってもいい。忘れてしまっても復習して思い出せればいいんだ」
中山部長が持論を展開する。
「応用なんて基礎ができればなんてことはない。たとえば、数学は公式を導き出すことができればいいんだ。無理に暗記するからいけないんだ。
そりゃ理解していて覚えていればいいが、たいていの奴は無理に参考書を鵜呑みにするから未知の問題に出会うと答えられない。基礎がしっかりしていれば応用で困ることはない。まぁその基礎が難しいのだけれどな」
中山部長はバッグから水筒を取り出しながら続ける。
「とは言っても、好きなことをとことん突き詰めるのもアリなんだよな。
新井みたいな数学バカも何かの役に立つだろう。我が校で俺より数学できるのは二年生なのに新井くらいだからな。
一点集中、オールラウンド、全部平均、補習常連、何でもいい。だが、後悔しないようにすべきだな」
中山部長が、水筒のお茶を飲み終える。
「話が長くなってしまったな。すまない。歳をとるとどうも説教臭くなってしまうな。
言いたいことは、目標を立てて努力することが一番だ。結果がどうであれ悔いが残らないようにしろ。以上」
中山部長が立ち上がって帰り支度を始めた。
「さすがに俺もネイティブの英語のスピードについていけるか不安でな、ちょっと英語の勉強を始めたんだ。悪いが先に帰る。安藤、部長の件、考えておいてくれ。んじゃお疲れ」
「お疲れ様です」
中山部長は颯爽と部室を後にした。残された俺たち三人は、なぜ今になって新井部長が持論を展開したのか分からず面食らっている。
「さて、もうすぐ夏休み終わりだ。お前ら、文化祭に向けて展示物作っておけよ」
新井先輩の言葉に応じて作りかけのプラモデルやエンジンを作ることになった。
数時間作業をした。そろそろ準備をしないと猫又の鎌田と約束した時間に間に合わない。
「すみません。ちょっと用事があるので帰ります」
「うい、お疲れ」
電車を降り、乗ったことのないバスに乗る。目的地は自宅から徒歩三〇分程度だが、帰宅してからだと遠回りになる。だから最短ルートで向かう。
目的のバス停で降りて地図を頼りに住宅地を歩く。
「この角の家かな?」
表札には「鎌田・柳沢」とあった。インターホンがある。さて、どうやって用件を伝えるべきだろうか。
鎌田を呼べばいいのか?
「ニャー」
塀の上に白猫がいた。いや、正確には尾が二本の猫又がいた。
「お前が猫又の鎌田か?」
猫又が頷く。
「インターホンを押せばいいのか?」
猫又が首を横に振り、家の中へ消えていった。
すると玄関から年輩の女性が出てきた。
「浪川さんですか?」
「はい。この猫又に呼ばれて来ました」
「どうぞ上がってください」
「おじゃまします」
応接室らしい部屋に案内された。結構よい家だ。女性がお茶を持ってきてくれた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
女性の足下に猫又がいる。
「本当に来てくださるとは思っていませんでした」
女性が座る。
「あ、申し遅れました。鎌田和美と申します」
「浪川博之です」
「存じ上げています。この子から色々教えてもらっているので」
女性の膝に猫又が座っている。
「ミミ、挨拶は?」
「ニャー」
「人語は喋らないんですね。てっきり猫又なら喋るのかと思っていました」
「長年一緒に生きていると、何が言いたいのかは分かるんですよ。ね、ミミ?」
猫又は喉を鳴らしている。尾が二本である以外は普通の猫のようだ。
「この子はキーボードを尻尾で叩くんですよ。二本あるから結構早いんですよ。私はコンピュータの扱いはさっぱりなんですけどね」
鎌田さんが笑う。七〇歳は超えているであろうか。笑顔のしわが深い。
「今日ミミさんに呼ばれたのは四三歳の男性と話をつけてもらいたいとのことだったのですが、いらっしゃいますか?」
「ええ、息子のことね。彼、入り婿で名字が柳沢になっていたのよ」
「いた、とは?」
間を空けて鎌田さんが、
「もうこの世にいないのよ。五年前の夏……ちょうどこの時期に亡くなったのよ。過労死だってお医者様は言っていたわ」
と寂しそうに言った。
「そうでしたか……。ではどうやって僕は柳沢さんと話を付ければいいのでしょうか」
鎌田さんが微笑む。
「ミミ……いえ、猫又が望むのは最適解。そしてそれを知るのは【メインフレーム】。【メインフレーム】は息子の最後にして最大の研究成果だったのよ」
「柳沢さんが人工知能の【メインフレーム】を作ったんですか」
「私は人工知能や【メインフレーム】というのがどういうモノかは詳しく知らないわ。
パソコンもミミがいないとろくに扱えないのよ。息子の研究成果が人の役に立つかどうか分からないの」
鎌田さんは目を伏せる。
「どうして……息子さんの最大の研究成果だったんですよね?」
鎌田さんは時間を置いて言った。
「息子……柳沢英雄はね、ちょっと性格に難があったの。私が育て方を間違えたのかもしれないわね。幼い頃から神童、天才といわれて天狗になっていたんでしょう。そのせいか、他人を見下すようになってしまったの。そして周囲と孤立。葬式に同僚は一人も来なかったわ」
俺は何も言えなかった。
「でも、最期には悔い改めたみたい。英雄の作った【メインフレーム】は悪者ではなかったから」
鎌田さんが立ち上がる。
「こっちよ。【メインフレーム】と会話のできるパソコンはこっちの部屋にあるわ」
俺は立ち上がってついていく。
部屋にあったのは国民機と言われた古いパソコンだった。
「こんな古いパソコンに【メインフレーム】が?」
「さぁ、私はよく分からないわ。インターネットに繋ぐと会話ができるみたい。操作はミミがしてくれるわ。ミミ、お願い」
「ニャー」
猫又が国民機の電源を入れて尻尾でキーボードを巧みに操作する。すると見慣れたチャットアプリが起動した。
「連絡帳にある【メインフレーム】に問いかければいいのかな?」
猫又がYのキーを尻尾で指した。
「イエスか。んじゃ話をつけるか。猫又の居場所と【メインフレーム】との優先的なやりとりのために」
俺は椅子に座りチャットアプリに自分のIDとパスワードを入れて【メインフレーム】に話しかけた。
*NAM*「メインフレームさん、こんにちは」
*M―F*「おや、浪川さん。珍しいところにいらっしゃいますね」
*NAM*「あなたは柳沢英雄さんですか?」
*M―F*「いいえ、彼は私の生みの親、といったところでしょうか」
*NAM*「俺はその人と話を付けに来たんですけどね。彼と話すことはできますか?」
*M―F*「できません。死者と話すことは誰もできません。できるとしたら神仏くらいでしょう」
白い猫又が尻尾で俺をペシペシと叩く。
「どうして欲しいんだ?」
「ニャー」
猫又がキーを叩く。「人間じゃないとメインフレームは本気で相手にしてくれない。会合の席は今、ここ。ここで話を付けて」
「そういわれてもなぁ」
*M―F*「ミミの悪戯ですか? 猫は可愛いですよね」
*NAM*「可愛いには同意する。で、猫又を救うにはどうすればいいんだ?」
*M―F*「そんなこといわれても。簡単なものから不可能に近いものまで解決策はたくさんありますよ」
*NAM*「簡単なものから頼む」
*M―F*「一番簡単なのは猫又の尻尾を切り落として普通の猫に見せかけることですかねぇ。まぁ猫又は同意してくれませんね。
次は人類が滅亡して猫又が繁栄してくれること。これは人類が承諾してくれませんよね。
現実的なのは不干渉か共存。
不干渉はこの国の中に猫又の国を築き、人類はそこに立ち入らないこと。実際、猫又にはボスがいますので広い土地を提供していただければ可能です。
共存は、鎌田和美さんのような人を増やすこと。猫又を普通の猫と同様に扱ってくれる良い人を増やすこと。これはちょっと難しいかもしれませんね」
*NAM*「土地の問題か、人間の意識の問題か」
*M―F*「そういうことです。金か感情か、それが問題です」
メインフレームの瞬時の返答は俺に考える時間を与えてくれない。ミミが俺の膝に乗ってあくびをしている。猫は可愛いな。あ、猫又か。
*NAM*「あなたの知識……情報にアクセスできる能力で金を稼げませんか?」
下種な質問だと思う。しかし手っ取り早く問題が解決しそうだ。
*M―F*「簡単で現実的な提案ですね。最適解に近いです。ですが浪川さん、依然言ったとおり情報を人にむやみに提供するのはポリシー違反なんです。これは私を作った柳沢英雄さんの最後の良心なのです」
言質取った! 多分最適解はこれだ!
*NAM*「つまりこういうことですね? ポリシー違反だから私たち人間には情報提供はしない。だが、『人間以外への提供』にはそのポリシー、つまり柳沢英雄さんの良心には抵触しない。
つまり人以外の存在、猫又に情報を与えて金を稼がせればいいわけだ。なんならメインフレームさん、あなたが稼いでもいい。どうです?」
*M―F*「その通り。それが最適解です。ああ、柳沢英雄さんは契約書の書き方に関心を持つべきでした」
よし!
後ろで見ていた鎌田さんは口を開けている。ミミは俺の膝の上で喉を鳴らしている。
*M―F*「ではどうやって稼ぎますか? 猫又が住む広い土地には餌となる獲物ときれいな水が必要です。そんないい土地は……あ、ありました。廃村になった過疎地が割安で手に入ります。それを恒久的に猫又の地にするには……わかりますか?」
試しているな。
*NAM*「国のお偉いさん方にごまをするか、脅す」
*M―F*「ぶっちゃけましたね。でも正しい考えです。ごまをすってお金を渡して国立公園あたりを提供してもらうのが理想的です。動かなければ脅すのみ。いくらでもネタはありますからご心配なく。
さぁ、ではどうやって稼ぎますか? 未来を見て勝率一〇〇パーセントの株式やFXですか? 絶対当たる宝くじですか? 完全犯罪でもやりますか? 銀行を弄ぶのもいいですね、やってみたいです。
さぁ! どうしますか? あ、浪川さんではなくミミさんに訊いていますので。人間にはびた一文儲けさせませんよ」
ちっ。
「犯罪はダメ。和美が悲しむ」
ミミが打ち込む。
*M―F*「そうですか、そうですよねぇ。さすが猫又さん」
「だから株。和美は結構お金持っているから、それを資金に」
*M―F*「えー」
ミミが打ち込むと、さすがのメインフレームも引いたようだ。俺も軽く引いた。
*M―F*「ま、まぁお金はいくらでも稼げるので後で相談しましょう、ミミさん」
ミミが尻尾で
「ん、わかった」
と入力して俺の膝から降りて部屋から出て行った。
*M―F*「では浪川さん、ミミさんからの報酬として私とのアクセス権を差し上げます。といってもこのIDなんですけどね。浪川さんがピンチの時にはメールでアドバイスします。携帯電話は持ち歩くようにしてくださいね。私はまだ音声がうまく出せなくて電話で会話ができないのです。柳沢英雄さんは所々ぬけていたんですよ……」
*NAM*「メールアドレスは……って全部知っているんですよね」
*M―F*「ええ、今調べました。アドレスを変えても送りつけます。浪川さんのこと全部知ろうとすれば分かりますから、一種のストーカーですかね」
うわー、なんか報酬が酷いよ。
*M―F*「では浪川さん、鎌田さん、また今度。さようなら」
*システム* *M―Fオフライン*
「案外あっさりと終わりましたね」
「そうね。息子が出てきたら、と少し期待していたのに」
俺と鎌田さんは応接室に戻る。
「人工知能が柳沢英雄さんの最後にして最大の発明というのは分かりましたが、最高の発明ではないのですか?」
鎌田さんは足下のミミを抱え上げた。
「最高の発明はね、小学校の自由研究よ」
「自由研究?」
「よくやるでしょ? 材木で貯金箱を作ったりアサガオの観察日記を書いたりとか。息子は小学校一年生の夏に私と夫の似顔絵を描いてくれたの。あれが最高の発明ね。見るたびに笑顔になるのよ。あれ以上の発明はこの世にないわ」
目を細める鎌田さんはミミを抱いている。
「でも最高の発明は息子の手によってもうこの世から消されてしまったの。残念よね。もう何も残っていないのよ。
息子が人工知能になってこの世に留まってくれているのを期待していたの。でも違ったわ。あれは単に息子が作ったモノだわ」
俺は冷めたお茶を飲んで次の言葉を待つ。が、鎌田さんは何も言わない。話を変えなければ。
「そういえば猫又のための土地、どうするんです? 本当に株式運用ですか?」
「ニャー」
「イエス、ですって。まぁ私もこの歳ですし、貯め込んでいてもしょうがないわよね。ミミとその仲間のために少し取り崩すわ」
「そうですか。うまく行くといいですね」
「ニャーン」
ミミが鎌田さんの腕から飛び出し、俺めがけて突進してきた。そして俺の肩に跳び乗った。
「あらあら、だいぶ気に入られたみたいね。私の肩にも滅多に乗ってくれないのよ」
「ニャー」
お金の話は止めよう。かといって柳沢英雄に関する話もしづらい。何か話のネタはないのか? ネタ!
「浪川さんは学生さんですよね。夏休みなのに制服なの?」
「あ、学校帰りなんですよ。講義と部活が毎日あるので夏休みでも毎日制服です」
「講義? 高校生でしょ? 補習?」
「いえ、任意参加の授業みたいなもの……内容が大学レベルらしいので講義って呼ばれていますが」
「浪川さんは勉強熱心なのね。部活は何をしているの?」
「駆動部といってエンジンとかモーターとか動くものいじっています」
「なんだか分からないけど夏休みまでやるなんで熱心な部活なのね」
「まぁ、他の部活も熱心なので普通なんですよ」
「勉強も部活もなんて、大変ね。疲れない?」
「慣れました」
「もしかして学校は一高?」
「あ、はい。そうです」
「あら、道理で頭がよく回るのね」
一高の生徒というだけで良い印象を持たれるのだがプレッシャーにもなる。
「あら、もうこんな時間。ご自宅はどこ?」
もう五時を過ぎている。鎌田家を訪ねてから結構時間が経っていた。
「歩いて三〇分くらいです」
「あら、意外と近いのね」
「そろそろお暇します。色々ありがとうございました」
肩からミミが降りる。俺は立ち上がり荷物を背負う。
「こちらこそ大したおもてなしできなくてごめんなさいね。またいらしてください」
「はい」
玄関までミミが先導した。
「では、失礼します」
「はい、さようなら」
「ニャー」
真夏の熱気の中、俺は帰路に就いた。
自宅までの最短ルートの途中には図書館がある。市内の図書館は六時に閉まる。急げば新着図書の確認と雑誌くらいは読めるだろう。最近、地元の図書館には行っていないので楽しみだ。
だが、暑い。日は傾き始めているが、まだ熱気が絡みついている。足早に冷房の効いた図書館に入った。
結局八冊も借りてしまった。
帰宅して夕食をとり、自室の冷房を入れる。
夏休みの課題はもう無いし、講義の予習は完璧なので時間の余裕があるが、休み明けにテストがあるらしいので、数学以外の教科も勉強しないといけない。
借りた本は一日一冊読める程度の厚さである。
だが、自室には積読が山のようにある。買った本は後回しだ。借りた本は返却期日があるから先に読むことになる。
借りた本でも、学校の近くの図書館で借りた本を先に読むか、今日借りた本を先に読むか、それが問題だ。
返却期日と本の難易度を考え、組み合わせて読むことにした。買った本は当分お預けだ。
一日二冊を目標にしてぶっ続けで読むことにする。パソコンは当分電源を入れないつもりだ。サーバのHDDの空き容量は大丈夫だろう。
「あっ、メインフレームのIDだけでも登録しておくか」
結局パソコンの電源を入れてしまった。意志は弱かった。
メールは一七件。全部迷惑メールだ。巡回しているホームページの更新を見て日課は終わる。チャットアプリを起動してメインフレームのIDを登録する。オンラインなら話しかけようかと思ったが、残念ながらオフラインだった。
「人工知能って休むのか? 疲れないとか言っていたような……」
まぁいい。金儲けはさせてもらえないようだが、多少の未来は教えてくれるだろう。まだ八時前である。休み明けのテスト対策は一日二時間もかければ十分だろう。
一〇時から寝るまで本が読める。借りてきた本は小説のようなエンタメの本ではないので速読でよい。気になるところだけ精読すればよい類の本ばかりだ。
速読といっても怪しいセミナーに行ったり速読の本に書いてあることを鵜呑みにしたりはしていない。毎日読んでいれば自然と身につく程度の速読だ。
俺は活字中毒とも言える。活字を読まない日はない。小学生の頃に怪我で入院したときは親に本を沢山持ち込んでもらった。
でもすぐ読み終えてしまったので新聞や大人向けの雑誌を広告まで全部読んだ。新聞は毎朝、新しいものが各紙一部ずつ入る。だが、新聞は大人が読むのが掟らしく、子供の俺はひたすら待った。
大人たちが新聞を手放すのは昼食時だった。俺は新聞を確保してから食事へ向かっていた。
楽しいわけではなかったが退屈で他にやることがなかったので新聞と雑誌を毎日読んでいた。手術が終わり退院した後は新聞を読む頻度は減った。
中学に上がるまで小遣いは無かったが本は大抵買ってもらえたし、図書館を大いに活用させてもらっていた。
中学生になった頃、親がパソコンを買って状況は変わった。当時、個人では結構高額だったインターネット環境が手に入ったからだ。俺は思いっきり使わせてもらった。使う条件はテストの順位を常に上げること。
だが最初の定期テストで一位を取ってしまったので常にトップじゃないと使用させてくれないことになってしまった。
地元の公立中学校なのでライバルはいなかったが、パソコンが使えなくなると困るので勉強はしっかりした。
おかげで一高に入学できた。さすがに一高で一位はとれなかったが、進学祝いに新しいパソコンを買ってくれた。古いパソコンはサーバとして運用している。
森羅万象を知る人工知能で一儲けという目論見は砕かれたが、アドバイスをもらえるのだから何かの役には立つだろう。
蒸し暑いので冷房を強くする。しかし強くすると稼働音が大きくなってしまい、よけい寝付けなくなる。
一度部屋をしっかり冷やし、冷房を切って寝ることにする。
講義の復習はよし、予習もよし、夏休みの課題もよし。休み明けのテストが若干心配だが今日は知らない人に会って疲れた。
親が言うには、人見知りが激しいのは赤ん坊の頃から変わらないらしい。明日は部室でテスト対策をしよう。鞄に英語の教科書と課題図書を入れて布団に入った。
講義を終え部室で安藤と葛城で昼飯を食べていると中山部長がやってきた。
「おはようございます」
「おはよう。葛城は我が部に入らないか?」
葛城は入学直後に野球部へ入ったが、すぐに退部している。
「帰宅部が楽なんですよ。駆動部も結構ハードだって聞きますし」
「そうでもないよな? 安藤、浪川」
中山部長が俺たちに問いかける。
「文化祭の展示物作れば他は自由だし、一年の幽霊部員は二人もいるし、楽じゃない?」
「そうだな」
同意した。
「帰宅部は青春を損しているぞ。夏休み明けにでも入部しないか? いや、今日なら顧問がいるから今日にでも入部しないか? それがいい、そうしよう」
なかなか強引な勧誘方法である。
「野球部のように厳しい練習はないし、上下関係もキツくない。どうだ?」
葛城は少し考え込んでいる。
「考えるということは多少、入部してもいいと思っているのだろ? 安藤と浪川もいるから対人関係は問題ないだろ? そもそもお前は結構頻繁に部室に出入りしているだろ。もう関係者みたいなものだ。よし、さぁ入れ。入部手続きは三〇分で終わらせてやる」
中山部長が畳みかけている。俺と安藤は何も言えず、ただ見守る。
「ちょっと活動してくれるだけでいいから。週休二日でいいぞ。野球部なんて休み無かっただろ? 野球部に比べたら我が部はお遊びみたいなものだ。好きなモノ作って展示すればいい。実際遊んでいるようなものだ。な、浪川?」
「はい、今はプラモデル改造とエンジンの解説ポスターづくりだけです。安藤も同じ。新井先輩は……まぁあんな人だからディーゼルエンジンで遊んでいますね」
「そうだろ、そうだろ? 遊ぶ部活、青春だ。なぜ暑苦しい野郎共に囲まれて運動しなくてはならない。男は黙って駆動部だ。文化祭には女子高生も大勢来るぞ?」
「うーん」
最後の一言が葛城に効いているようだ。
「正規の部に在籍していれば、クラスの出し物から解放される。もちろん、クラスの出し物を優先したっていい。だが、クラスの出し物で成功した例を俺は見たことがない。どの出し物も半端だ。
一方、部の出し物は毎年どこも盛況だ。ちなみに俺は一年の文化祭で彼女ができた」
「えっ、マジですか?」
「嘘ではない、事実だ」
本当だろうか? 中山部長なら文化祭など関係なく彼女がいてもおかしくなさそうである。
「これがその彼女だ」
中山部長が携帯電話を葛城に見せる。
「オレ、駆動部に入ります!」
何を見せたのだろうか?
「よし、では職員室に行くぞ。二人とも、あとは任せた」
「はい」
葛城と中山部長は部室から去っていった。
「何を見せたんだろう?」
「さぁ……」
謎である。
「ポスター作るか?」
「そうだな」
夏休み前に模造紙一〇枚分を頼まれていたのだ。その内の六枚は新井先輩がディーゼルエンジンに使うと言っていたので残り四枚を描けばいい。俺の外燃機関二枚、安藤のモーター二枚という結論に達した。
ハッキリ言って、俺は絵のセンスがない。文字も汚い。なので写真や表でごまかす。
文化祭は二日間行われる。両日とも一時間おきにエンジンを実際に動かすデモンストレーションを行う。おそらく相当な騒音がするだろうが、客引きになる。
文化祭では拡声器の使用は認められていない。また、放送は文化祭実行委員会だけが使える。なのでエンジンの爆音はかなりのアピール(と邪魔)になる。
ポスターの二枚目に取りかかったところで中山部長と葛城が戻ってきた。
「今日から晴れて葛城も駆動部員だ。よろしく頼む」
「はい、改めてよろしくお願いします!」
「こちらこそよろしく」
「よろしく」
こうして文化祭前に駆動部員が一人増えた。
「では早速、一年生はキリキリ働け」
中山部長が紙の束を机に出した。
「葛城、これは資料だ。読んでおけ」
「何の資料ですか?」
「駆動部の英知の結晶だ。安藤と浪川はすでに読んでいる。追いつくために読んでおけ」
「わかりました」
葛城は読み始めたが、すぐに英和辞典が必要だということに気付いたらしい。
「部長、これってOBが書いたんですか?」
「もちろんだ。これくらい読めなきゃ一高生として恥ずかしいぞ? 彼女もできないぞ?」
「うっ、頑張ります」
英知の結晶は知識や技術やデータの引継のためのモノだ。中には遊びやグレーな情報も入っている。俺は全部読むのに二週間かかったが、葛城はどれくらいで読み終えるだろうか。
しばらくして新井先輩がやってきた。
「新井、新入部員だ」
「おっ、葛城、入部したのか」
「はい」
「励め」
新井先輩は荷物を置いて本の山と格闘しながら、
「一年、誰か資料返却行ってくれないか?」
と言ったので俺は、
「行きます」
と即答した。
葛城は資料で苦戦。安藤もポスターがまだ少ししかできていない。
「素早い返答の褒美として帰ったら飲み物をやろう」
「また賞味期限切れですか?」
「賞味期限は過ぎているが、消費する分には大丈夫だ、と思う」
新井先輩が布袋に大量の本を入れて手渡してきた。
「やっぱり重いですね」
「借りてくる資料は無いから帰りは楽だぞ。では行ってこい。葛城の指導も考えておかないとな」
後ろで葛城が悲鳴をあげた。
「行ってきます」
幽霊部員以外の常駐メンバーが揃った部室を出て図書館を目指した。
当たり前だが、夏だから暑い。図書館までの道で汗を結構かいてしまった。荷物が重かったのも暑く感じた理由かもしれない。
図書館の自動ドアが開く。冷房が一気に汗を冷やす。カウンターに向かう。返却手続きをしようとしたが職員はいないようだ。
「すみませーん」
やや大きな声で職員を呼ぶ。
「お待たせしました。ってまた浪川!」
「また矢矧か。図書館で大声出すなよ」
「どうせあんた以外に利用者いないわよ」
見回すと確かに俺の他に利用者はいない。
「ほら、返却手続きしてくれ」
「はいはい」
矢矧が慣れた手つきで返却作業をしている。
「慣れているんだな」
「夏休みも終わりだからね。最初はぎこちなかったけど、そりゃ慣れるわよ」
「そうか」
若干の沈黙。
「この図書館、利用者少ないのか?」
「そうみたいね。アクセス悪いし、小さいし。一日に一〇人来たら多い方よ」
「職員の対応も悪いしな」
「あんたが悪いのよ!」
矢矧の目つきが険しい。性格はサバサバしているので話していて気楽だが感情が顔に出やすい。
「浪川って暇な日あるの?」
「ん? 毎日暇だが毎日忙しいぞ」
「何よそれ?」
「必要最低限のことだけなら暇だ。だが色々手を出しているから忙しい。なぜ聞く?」
「退屈なら暇つぶしに付き合ってあげてもいいかなって思って」
「なんだそりゃ」
「いいの、気にしないで」
「そうか。まぁ今日は矢矧の働く姿を生温かく見守るかな」
「気色悪い表現止めてよね」
「そんなこと言うなよ。女子成分が足りないんだよ。男子校だぞ? 英語の婆さんの教諭くらいしか女性がいないんだぞ? せめて矢矧で目の保養を! ん? 矢矧じゃ目の保養にならないかな?」
「はいはい、バカなこと言わない」
矢矧は呆れている。
「いつまで職場体験なんだ?」
「今日まで。ちゃんとバイト代は出るわよ」
「涼しい場所でいいね」
「冷えるから結構厳しいわよ」
「そうなのか」
また沈黙。なぜか気まずい。
「一高っていつ文化祭?」
「九月の三十日と三十一日。来るか?」
「そうね、どうしても来て欲しいなら行ってあげてもいいわよ」
「来てください」
俺は即答した。
矢矧は笑っている。冗談なのだろうか? 男子高生には冗談でも本気にしたい。
「何か出し物あるの?」
「俺は部の展示だな。ずっといると思う」
「何部?」
「駆動部」
「何それ?」
「こういう本を読む部」
俺は返却資料を指した。
「頭の固い部?」
「いや、自由すぎるほど何やってもいい部だ」
「へぇ」
「エンジンがすごい音を出すからすぐ分かるよ」
「そう……行けたら行くね」
「おう、待っているぞ」
女子高生が見に来るなら大歓迎だ。きっと女友達を連れて来てくれるに違いない。
「なんか変なこと考えてない?」
「い、いや、そんなことないぞ? 皆を誘って来てくれ。うむ」
「そう、彼氏を連れて行ってもいい?」
「えー」
なんてこった。矢矧は彼氏がいるのか。世も末だ。
「で、できればだな、男子校に来るなら女友達を連れて来ていただけると幸いなのですが……。カップルが来ると殺気だけで済まないかもしれないので……。特に矢矧に彼氏がいると猛烈に悲しいので……。文化祭の時くらい夢を見させてください……」
「ジョークよ、友達連れて行けばいいんでしょ。いいわよ、喜ぶなら。そのかわり相談事があるんだけど……」
ジョーク! やったね! 彼氏はいないんだ!
「あの、聞いている?」
「ん? 何を?」
「人の話を聞きなさいよ!」
「あ、ごめん。何だっけ?」
「相談事。暇と言えば暇なんでしょ?」
「ああ、まぁやるべきことは終わっていると言えば終わっているし、更なる高みを目指せばキリがない。他ならぬ矢矧だ。相談に乗ってやろう。ただし金はないぞ」
一瞬にらまれたが、すぐに表情がしおらしくなった。
「ちょっと夏休みの課題が終わってないの……手伝ってくれる?」
「ん? 勉強なら教えられると思うが、どれくらいあるんだ? 夏休みもそろそろ終わりだぞ?」
矢矧が申し訳なさそうな顔をする。
「ほとんど終わっていません……」
「マジか?」
「マジです」
あと一週間で夏休みは終わる。
「課題、どれくらいあるの?」
「そんなに厚くない問題集が三冊」
「なぜ今まで放置していた?」
「計画性がないのかなぁ……」
二人揃ってため息をつく。
「あのなぁ、職場体験もいいけど学業もちゃんとしろよ?」
矢矧はばつが悪そうにしている。
「俺以外に頼れそうな友達はいるか?」
矢矧は首を横に振る。ダメじゃん。
「んじゃ、明日から午後になったら勉強お教えてやる。さすがに用事は他にないよな?」
「うん……ありがと」
「場所はどこでやる? ここなら学校から近いからすぐ来られる。終わったら部室に戻れるから都合はいい」
「戻るって……終わった後に部活やるの?」
「まぁな。色々あるんだよ。でも気にするな。乗りかかった船だ。暗くなる前に帰るんだぞ」
「うん、分かった。よろしくね」
ぎこちない笑顔だったが懐かしかった。
「んじゃ俺は一度、部室に戻って話を付けてくる。今日から課題片づけるぞ」
「分かった。私も職場体験終わりにしてもらう」
「よろしい、ならば解散だ」
俺は空の布袋を手に部室へ戻った。
「女子高生を集めるために今月の部活動、夕過ぎからにしていいですか?」
「いいぞ」
先輩達は一秒で承認した。
「というわけで、今から勉強会を始めます」
「お願いします」
矢矧が一礼した。
「三冊を平行してやるか、一冊ずつやるか。どうする?」
「どっちがいいの?」
「問題集と矢矧次第。問題集見せて」
受け取って見比べる。教科別にまとめられているようだ。簡単な問題から順番に並んでいる。
「矢矧は飽きっぽい? 執念深い?」
「何よ?」
「飽きっぽいなら平行して複数の教科やるし、集中力あるなら一個ずつ片づける。どうする?」
「うーん」
悩んでいるようだ。
「悩むなら一個ずつやろう。その方が頭は混乱しない」
「はーい」
俺と矢矧は人気のない図書館で一方的な勉強会を行うことになった。教えることは最大の勉強かもしれない。しかし、矢矧はどの教科も知識ゼロのように思われた。なので初歩的な問題でも苦労した。
午後六時の図書館の閉館が迫る。
「一日六時間を一週間。間に合わせるしかないか」
「浪川、ありがとう……」
矢矧は大分疲れているようだ。休憩を入れようとも思ったが、時間がない。
「帰ったら自分でもやっておけよ。午前中もここでやっておけ。午後になったら来てやるから」
「うん……」
「駅まで送るか?」
「いいよ、浪川は部活あるんでしょ? 途中まででいいよ」
「そうか」
閉館を告げる放送を背に、俺たちは図書館を後にした。
「なんで私に良くしてくるの?」
「矢矧だから」
「なにそれ」
二人で笑うが、その後は沈黙だった。一高の前まで来たのでお別れだ。
「んじゃまた明日。ちゃんとやっておけよ」
「うん。また明日」
矢矧が遠ざかっていく。俺は部室へ向かった。
部室には明かりがついていた。新井先輩が本を読んでおり、葛城が資料を泣きそうな雰囲気で読んでいた。挨拶してポスターの仕上げをする。九時を回ると解散になった。
駅までの帰り道で、葛城が嘆く。
「部長、文化祭前までに資料読み終えて何か作れって言うんだぞ。無理だぞ」
「俺はゴールデンウィーク含めて二週間で読んだ。製作はその後ずっとだな」
「でも、部長の彼女、すげぇ綺麗だったなぁ。俺も頑張らないと」
頑張っても彼女ができる保証はないが突っ込まないでおく。
「んじゃまた明日」
上り方面の電車で帰る同級生を俺はまだ知らない。
夜のバスは本数が少なくなるので帰宅は一一時を過ぎてしまった。俺には門限はないが読書の時間がとれない。晩飯を掻き込み、風呂に入って講義の復習と予習をするだけで日付が変わってしまった。メールチェックだけして布団に入った。
一週間毎日、図書館で女子高生と二人きり、という男子高校生の理想とは裏腹に俺は難儀した。
教えるときの禁句である、
「なんでこんなのも分からないんだ」
を言いそうになってしまったからだ。
俺の教え方が悪いのもある。だが、中学校でやった内容まで忘れているのは問題だろう。算数はさすがに大丈夫だが、数学は怪しさが漂った。
救いは、帰宅した後と午前中に現国と英語をある程度やってきてくれたことだ。教えるのは数ⅠAと化学と生物だけでよかった。しかし中学レベルから教えるとなると時間が足りない。
教え方を工夫して、なんとか課題の七割を正答に導くことに成功した。
「やっと終わったわ……」
「やっとだな……」
机に突っ伏す矢矧を見る。相変わらず絹糸のように綺麗な黒髪だ。手入れも大変だろう。
「矢矧って髪の毛、綺麗だよな」
「そう? ありがと」
突っ伏したままなので表情は分からないが声色はご機嫌のようだ。
「触っていい?」
「特別にね」
許可が下りた。サラサラして触り心地は最高である。
「手入れ大変だろ」
「まぁね。でも、一応私も女の子だから」
【触る】から【撫でる】に変わっても矢矧は文句を言わない。文句を言われるまで撫で続けようかと思っていたら矢矧が顔を上げた。
「明日、暇?」
「ん? 忙しいと言う奴はダメな奴だぞ。明日も講義で午前中は無理だが、午後はお前のために時間は空いている。けど、もう課題終わっただろ?」
「夏休みの最後くらい遊びたーい」
「友達と遊びに行けばいいじゃないか」
「だから博之を誘っているのに」
「そうか、俺はお前の友達か。初耳だ」
消しゴムのカスを投げてくるが気にしない。
「まー夏休み最後の日くらい遊んでもいいか、午後からなら」
「やっぱ午前はダメなのね……」
「ああ、こればっかりはダメだ。悪いな」
「何して遊ぶ?」
「真夏の炎天下を散歩」
「うわー、引くわー」
「冗談。遊びじゃないだろ。真夏の炎天下で汗を垂らしながらスポーツ」
「だから表現が変なのよ! まぁ暑いのはイヤだけどね」
「最高気温を叩き出す時間帯に出歩くのが間違っている。よしインドアだ。図書館で本を読む」
「今と変わらないじゃない」
「そうか?」
俺はこの一週間で薄い本を一冊しか本を読んでいない。
「女の子の扱い雑ね。だから彼女できないんじゃない?」
「お前には関係ない。俺は彼女がいないと言った記憶がないが?」
「はいはい」
「午後から好きなところに連れてってやるよ。ただし金はないぞ」
「んじゃ映画は?」
「高いな……」
矢矧が不満そうな顔をする。見ていて面白い。
「最近どこかへ行った?」
「M書店と……ああ、風見に会って喫茶店に行ったな」
矢矧が顔を上げる。
「んじゃ私を本屋と喫茶店に連れてって」
「ああ、構わないぞ。んじゃ明日はどこ待ち合わせるか?」
「この図書館でいいんじゃない? 涼しいし一高から近いし」
「分かった。できるだけ早く来るよ」
「待っているからね」
閉館を告げる放送が流れた。
「じゃあ撤収するか。お疲れさまでした」
「ありがとうございました」
図書館から出て高校の前で別れる。
俺はポスターを完成させ、中山部長に明日は来ない旨を伝えて帰宅した。
布団に転がる。女子と待ち合わせして出かけるのはデートなのだろうか?
中学に上がった際に一目惚れした相手である。だが、一目惚れはすぐに霧散した。女性らしさが微塵もなかったからだ。だが、そのおかげで悪友というか冗談を言い合える間柄にはなれた。だからこそ、あの矢矧を今更女性とは思えない。
でも端から見れば女子と二人で出かけるのだからデートなのか……?
携帯のメール着信音が鳴る。
「誰だ?」
見ると知らないアドレスからだったが、タイトルに
「デートです。 byメインフレーム」
と表示されていた。悩んでいることを知られるのは気に障る。
本文には
「引かれるような言動は慎むべし。変な本を買うな。売り場にも行くな。矢矧さんを一人の女性として扱いなさい」
とある。
余計なお世話だが、未来を知っているならばそれが最良の選択なのだろう。
携帯を充電器に戻し、俺は眠りに就いた。
最終講義は早めに終わった。
「浪川、部活行こうぜ」
安藤が荷物をまとめてやって来る。
「すまん、この後デートだ」
「おお、浪川にも春が来たか」
安藤の後ろからやつれた葛城が出てきた。
「浪川が裏切ったぞ!」
葛城に大声で非難される。裏切るもなにもない。何か約束した覚えはない。
「んじゃ急ぐから。また明日」
葛城が何かわめいているが気にしない。学校から出て、昼飯をどうしようか考える。
この一週間はカップ麺を食ってから図書館へ行った。矢矧は昼飯を食べてから来るのだろうか? 携帯が振動する。
「食わずに行け。 byメインフレーム」
と書いてある。なかなか便利かもしれない。図書館に着いたのは十二時を少し回っていた。
矢矧はテーブルで雑誌を読んでいたが、俺が来たことに気付いたようだ。
「よぉ」
「おはよう。ってもうお昼ね」
「矢矧は飯食った?」
「まだよ。博之は?」
「まだ食ってない。どうする? 何度も言うが金はない。学校のそばの中華料理屋は安くていいぞ。おすすめだ」
「そう、なら一緒に食べましょ」
狭い歩道を並んで歩く。矢矧はグレーとブルーの服を着ていてなかなかオシャレだ。シルバーのイヤリングまでしている。一方、俺はいつも通り学校の夏服だ。
「何? チラチラ見て」
「いや、矢矧も女の子なんだなと思ってさ」
「今まで意識してなかったの?」
矢矧が大きなため息をつく。
「中学の時に、あれだけがさつなところ見せられたら女の子としては見られなくるだろ」
「そういうのを覚えているからモテないのよ」
「そうですか。あ、この店だ」
俺は中華料理屋に入り、矢矧が後ろからついてくる。昼食時なので混雑しているが、二人席が運良く空いていた。
「何食べる?」
「何がおすすめ?」
「ラーメンだな。チャーハンは止めておけ。量が多すぎる」
メニューを手渡す。
「結構色々あるのね。タンメンって美味しい?」
「さぁ、頼んだことがない」
「よく来るんじゃないの?」
「俺は基本、ラーメン大盛りしか頼まない。たまにチャーハンだな」
「偏っているわね……。私もラーメンにしようかな」
「分かった」
店のおばちゃんを呼んで、ラーメン並と大盛りを頼んだ。
「ここって普段の日でも食べに来るの?」
「おう、学食は食券が手に入りにくいし、購買は飽きた。コンビニは栄養偏るから月の半分はここで昼飯だな」
「学校の外に出ていいの?」
「いいんじゃね? 教師と相席することだってあるし」
「へぇ、自由なのね」
「校則は一つしかない。下駄での登校を禁ずる、これだけだ」
「だから変人のあんたが普通にやっていけるのね」
「俺は常識人だぞ?」
「少なくとも中学では非常識な人間だったけどね」
「むぅ……」
ラーメンが運ばれてきた。
「いただきまーす」
矢矧とラーメンを食べる。これがデートか?
まぁいい。今は腹を満たすことが最優先だ。
「おいしいね」
「ああ」
俺は黙々と食べる。大盛りは並の倍の量だが値段は変わらない。俺は矢矧より早く食べ終えた。
「博之、あんたもっとよく噛んで食べなきゃだめだよ」
「善処する」
お前は俺の母親か。
お冷やを飲んで矢矧が食べ終えるのを待つ。
「待たせてごめんね」
周りの客が入れ替わっていく。
「構わん、ゆっくり食え」
「うん」
結局、最長滞在時間を達成した。支払いは別々にしてもらった。矢矧は三〇〇万円要求されていて戸惑っていた。
店の外に出ると夏場の熱気が襲ってきた。
「おいしかったね」
「ああ」
矢矧と一緒に飯を食べたのは中学の給食が最後だ。
「んじゃ本屋に行くか」
「楽しませてね」
「善処する」
電車に乗り、M書店に着いた。
「冷房強いね」
「そうだな、汗冷えないか?」
「うん、大丈夫。さ、おすすめの本教えて」
「おすすめって言われてもなぁ」
マンガはダメだろう。ライトノベルもダメだろう。アニメやゲームの本もアウトだろう。エロ本は以ての外だろう。
「矢矧は何が好きなんだ?」
「うーん、あんまり難しくない本。博之はいつも難しそうな本読んでいたけど面白い?」
「面白いぞ。難しそうと思いこんで読むから難しいんだ。簡単だ、面白い、と思って読めば大抵の本はスラスラ読めるぞ」
「じゃあ博之が今欲しい本を私も買う」
頭の中にはアウトな本が浮かんだが、口に出したら詰む。
「んじゃ三階だな」
俺は思想哲学のフロアを目指す。矢矧はきょろきょろしている。
「本屋が珍しいのか?」
「こんなに大きな本屋は初めて。それにこんなジャンルのフロアには来たことないよ」
「そうか、人生の四割は損しているな」
「大げさね」
思想哲学のフロアに着いたが客は閑散としている。
「ここ、あんまりお客さんいないね」
「まぁ、人気ではないだろうな」
俺が歩くと矢矧がついてくる。落ち着かない。かといって追い払うのはマズいだろう。興味がないこのフロアにいても矢矧はつまらないだろう。
「矢矧は小説好きか?」
「うーん、あまり読書しないのよね」
「図書館で職場見学するのに?」
「悪かったわね!」
適当な名作でも選んでやるか。
読書好きになってくれればよい。
「本当に俺と同じ本を買うの?」
「そのつもりよ」
「エロ本でも?」
「博之ってバカ?」
俺が悪いんだけれど、なかなか酷い答えが返ってきた。
「持っている本をもう一度買う気は起きないなぁ」
「あっ、そうか……そうよね……」
「コンピュータ関連好き?」
「全くダメ」
「そうか」
文学作品のフロアに着いた。
「この本屋のおすすめ文学作品ならハズレはないだろう」
平積みされた本をパラパラめくる。
「字が多いね」
「そりゃ文学作品だから字が主だろう。最近は挿し絵があるのも多いけど」
「博之が選んで。私疲れた」
わがままな女だ。でもつまらないことに付き合わせている俺も悪いのか。
新刊で面白そうなのは無かったが、古典の新訳があったので三冊選んだ。
「待たせたな。これはどうだ?」
できるだけ薄くて読みやすいのを選んだつもりだ。
「シェイクスピア、名前は知っている」
「知っていても自慢にならないけどな」
「これいくら?」
「三冊合わせても二千円には行かない」
「安いのか高いのか分からないわね」
「マンガよりは長時間楽しめるぞ」
「ふーん。まぁ博之のおすすめなら買うわ」
会計を済ませて外へ出る。
レジで同じ本を買っていく男女はどう映っただろうか?
蒸し暑い空気がまとわりつく。
「この後はどうする?」
「喫茶店! 疲れた!」
一時間ほど本屋にいただけだが、酷く疲れているらしい。面倒な女である。
「なんか今、私のこと面倒って思ったでしょ」
「いや、そんなことはない。さて、どこの喫茶店に行くか?」
「楓と行ったところに連れてって」
「楓? ああ、風見か。この周りにも喫茶店はあるだろ? なぜこだわる?」
「いいの! とにかく連れてって!」
面倒な奴である。
「よし、この暑い日中、隣駅まで徒歩で行くか?」
「隣駅なの?」
「おうよ、電車代もったいないだろう? 三〇分も歩けば着くぞ? 汗水垂らして行くか?」
「うっ、うーん。この辺りでもいいか、なぁ?」
扱いやすいい奴である。
「コーヒー好きか?」
「好きでも嫌いでもない。なんで?」
「俺はコーヒーの匂いが嫌いなんだ。味はいいんだけどね」
「苦いから嫌いじゃないの?」
「いや、ブラックの方が好きなくらいだ。だけど匂いで頭が痛くなる」
「飲まなくても?」
「至近距離にコーヒーがあるだけでダメ」
「変なの」
M書店のそばの喫茶店に入る。幸いコーヒーの香りはしない。
「というわけでコーヒー以外を頼んでくれ」
「わかったわ」
俺はアイスティー、矢矧はミルクティーを注文した。
「夏休み終わりだね」
「夏休みは毎日通学したから普段の方が学校行ってない」
「変なの」
「どうせ変人だよ」
「私も変人かもね」
「なんで?」
「秘密」
矢矧が笑みを浮かべる。
「あーあ、疲れた。明日から学校かぁ」
「そうだな」
「一週間、勉強教えてくれてありがとうね」
「ん? 気にするな。好きでやったことだ」
「それでも嬉しかったよ」
「今後は計画的にやれよ」
「わかりました」
注文した飲み物が運ばれてくる。矢矧が口をつける。
「あっ、美味しい」
「そりゃよかった」
俺もアイスティーを飲む。なかなか美味しい。当たりの店だ。
「確かに美味いな」
若干沈黙が続いた。
「文化祭いいなぁ」
「え? お前の高校は文化祭やらないのか?」
「外部に公開しないで半日だけ。つまんないよ」
「まぁ色々な高校があるからな。うちの文化祭は濃いから来いよ。女友達を連れて来てくれれば、みんな喜ぶから」
「博之も喜ぶ?」
「そりゃ多ければ多いほど嬉しいさ」
「ふーん。楓も誘ったの?」
「ん? ああ、一応誘ったよ。多ければ多いほどいいからな。なぜ聞く?」
「こっちの事情」
「そうか。ケーキ食べるか?」
「おごってくれるの?」
「一個なら」
「わーい」
目を輝かせてメニューに見入っている。こういう面は可愛い。保護者目線で見ればいいのかもしれない。
「チョコレートケーキ食べたい! 博之も何か食べる?」
「バニラアイス頼むかな。アイス食べたい」
「あ、アイスもいいなぁ。うーん、悩む……。二つは……?」
「太るぞ?」
「なっ! 私は太らないの!」
「せめて胸に脂肪がつけばいいのにな」
悲しいかな、矢矧はまな板だ。これが冗談だということは伝わっている。中学の時から散々話題にしていたからだ。
「ふん! いいもん! 見てなさい。いつか見返してやるんだから」
「はいよ。チョコレートケーキでいいんだな? カロリーたっぷりだろうなぁ。バニラアイスも食べてもいいぞ? 奢ってやるぞ? カロリーたっぷりだからなぁ」
「くっ……チョコレートケーキだけでいいわ……」
俺は店員を呼んでチョコレートケーキとバニラアイスを注文した。
「最近、バカ話はしてなかったから楽しかったよ」
「何よ、私がバカってこと?」
「違う違う。くだらない話、といったら語弊があるが、気安く会話したのが久し振りだなぁと」
「高校に友達いるんでしょ?」
矢矧が聞いてくる。
俺は中学の頃、友達が多い方ではなかった。部活の連中とバカをやっていたが、クラスメイトとは馴染めなかったからだ。
「部活には友人は二人ほどいるが、クラスメイトでよく話す奴はいないな」
「また、あんたはクラスで浮いているの?」
「クラスの奴は勉強で必死っぽいからなぁ。夏休みの午前中の講義を受ける奴は俺だけだった」
「講義って入試対策じゃないの?」
怪訝そうに矢矧が問いかけてくる。
「全く違う。あれは趣味だな。テキスト見るか?」
「私に分かる内容?」
「多分無理」
鞄からテキストを出して手渡す。
「何これ? 英語と意味不明な記号ばっか。博之はこれ分かるの?」
「一応な。夏休みのほとんどをかけてやったんだよ」
「ちょっとは遊びなさいよ」
「読書はしていたぞ? まぁこの一週間は誰かのせいでほとんど読めなかったけどな」
多少意地悪しても罰は当たらないだろう。
チョコレートケーキとバニラアイスが運ばれてきた。
「美味しそう! いただきます!」
矢矧が食いつく。
「美味しい! これは私の人生史上最高のケーキだよ!」
「それはなによりだ」
俺もバニラアイスを食べる。確かにとても美味しい。結構いい価格をしているが、これだけ美味しければ納得である。
しばらく談笑して、二時間近く喫茶店に居座ってしまった。
「次はどこに行く?」
「うーん、面白いところ」
「面白いところって言われてもなぁ」
俺の携帯が振動した。見ると
「鎌田家へ行け。 byメインフレーム」
とあった。
「矢矧、猫好きか?」
「うん、好きだよ。可愛いからどんな猫でも好き」
「ほう、どんな猫でも好きか。じゃあ珍しい猫見せてやる」
「へぇ……この沙希様はちょっとやそっとじゃ驚かないわよ」
「吠え面かくなよ」
電車に乗り地元の駅に着く。
「地元に戻ってどうする気?」
「これからバスに乗る。なに、すぐ着くぞ」
鎌田家の最寄りのバス停で降りてミミに会いに行く。
「ミミという猫なんだがな、とても珍しいぞ」
「三毛猫の雄?」
「それよりもレアだと思うぞ」
「ふーん」
鎌田家の前に着く。さて、呼び鈴を押すべきか、ミミを待つか。再び携帯が振動した。
「呼び鈴を押せ。 byメインフレーム」
俺は呼び鈴を押した。浪川だと伝えると玄関が開いた。
「鎌田さん、お久しぶりです」
「こちらこそ。そちらの方は彼女さん?」
「だといいんですけど違います。ただの友人です」
「矢矧沙希と申します。博之、じゃない、浪川君に連れられてきました。珍しい猫がいるというので」
「ミミは今、散歩中よ。すぐ戻ると思うわ。さ、入って」
「おじゃまします」
俺と矢矧は応接室に通された。
「浪川さん、あのお金のこと、凄いことになっているわ。なんか税金とかすごそうなの」
「ああ、上手く行っているんですね」
「怖いくらいにね。インサイダー取引じゃないかって調査の人が来たの」
「大丈夫でしたか?」
「ええ、ただの運のいい老婆だと思われたんだわ」
当たり前だが、矢矧は話に入って来られない。
「あ、矢矧さん。ごめんなさいね、変な話をしちゃって」
「いえ、お気遣いなく」
お茶を飲んでいると窓をひっかく音がした。
「ミミが帰ってきたわ」
鎌田さんが窓を開けるとミミが室内に入ってきた。
「何? ただの白猫じゃないの」
矢矧が言うが、俺は、
「尻尾をよく見ろ」
と言い返す。
「ただの白い尻尾じゃない、……って二本!」
「ニャー」
ミミが矢矧に近寄る。矢矧はびっくりして動けない。ミミは方向転換し俺の肩に乗った。
「な、珍しいだろ」
「ねっ……猫又?」
「その通りだ。な、ミミ」
「マーオ」
「飾りじゃないわよね……動いている……。本当に猫又っているのね」
「俺もこの前、初めて実物を見た」
その後は矢矧がミミと遊んでいるのを眺めていた。
結果的に鎌田さんと話すことになる。
「矢矧さんとは付き合い長いのかしら?」
「中学一年の時に出会いましたから三年間くらいですね。長いのか短いのかは分かりません」
「大切なのは量より質なのよ。彼女好きなの?」
小声で鎌田さんが聞いてきた。
「嫌いじゃない、というか、好きですね」
矢矧に聞こえないような小さな声で答える。
「そうね、綺麗だし明るいし。一緒にいると楽しいのじゃないかしら?」
「一週間、夏休みの課題に付き合わされましたよ。楽しくはなかったですが滅入りませんでしたね」
矢矧はミミとじゃれ合っている。こっちの会話には気付いていないようだ。
「これでも人を見る目はあるつもりよ。伊達に歳をとってはいないわ。彼女、あなたに気があるわよ」
「そうですかね」
改めて言われると気恥ずかしい。
「善は急げ、よ。早くしないと他の男に取られちゃうわよ」
「それは困りますね」
「何困っているの?」
矢矧がこちらの会話に気付いたようだ。
「お前のことで頭を悩ませている」
「何? 夏休みの課題は終わったじゃない。もう済んだのだから気にしない、気にしない。あんまり悩むと禿げるよ」
「そうだ。ミミちょっとおいで」
手を揺らすとミミが寄ってきた。
「あ、博之ズルい! せっかく遊んでいたのに!」
俺はミミを抱き上げる。
「お前が好きだ」
ミミを通して告白してみる。俺の顔は今真っ赤だろう。
「ニャー」
「ミミじゃない、矢矧、お前が好きだ。付き合ってくれ」
「なっ!」
矢矧の目が丸くなる。
「そりゃ、博之は背が高いけど猫背だし。頭いいけどズルいし。面倒見いいけど下心ありそうだし……」
散々言われた。
「今日はデートか? ただのお出かけか?」
「んー、デート、かな? 私はそのつもりだったから。博之は?」
「デートのつもり、だなぁ……」
「あらあら、二人とも、気があるならくっついちゃいなさい。早い方がいいわよ」
鎌田さんが畳みかける。
「矢矧さんみたいな綺麗で明るい子は誰かが狙っているわ。浪川さんみたいな聡くて格好いい男は誰かが狙っているわ。ね、ミミ?」
「ニャー」
「焦る必要はない。でもお互いの気持ちは知っておくべきね。これはオバサンの知恵」
ミミが鎌田さんの足下へ行く。
「矢矧。とりあえず、付き合ってくれ」
「とりあえずって何よ!」
「いや、一応付き合っているということにしてくれ」
「一応って何よ!」
「好きです。付き合って下さい」
「なんで丁寧語なの!」
「好きだ、付き合え」
「上から目線イヤなんですけど」
「俺のこと嫌い?」
「んー、割と」
結構ダメージが大きい。
「でも、好きな部分も一応あるよ?」
「フォローになってない」
「女の子にこれ以上言わせる気?」
「じゃあ付き合ってくれる?」
「仕方ないからね。付き合ってあげるわ」
「よっしゃー!」
夏休みは終わりだが、俺には春が来た。
「あら、カップル成立ね。よかったわ。ね、ミミ?」
「ニャーゴ」
ミミは鎌田さんの膝の上で機嫌良く喉を鳴らしている。
「そろそろ帰らないといけないんじゃないかしら?」
時計は六時を過ぎていた。
玄関へ移動する。
「家まで送ろうか?」
「送り狼?」
「流石にそれはない。安心しろ。帰る方面が一緒なだけだ」
「そうね。途中まで一緒だね」
「では鎌田さん、お邪魔しました」
「お邪魔しました」
「はい、二人ともケンカはダメよ。好きなときに来ていいわよ」
「はい。ミミ、また今度」
「ミミ、バイバイ」
「マーオ」
一人と一匹に見送られ、俺たちは帰路についた。
「博之ってさ、いつから私のこと好きだった?」
「中学入った時に一目惚れしたけど、すぐに、ああ、こいつは女として見られないな、と思った」
「なにそれ? 誉めているの? 貶しているの?」
「まぁ、最後まで聞け。女としては見られないが、話していて面白い奴だと分かってさ、いい友達だとは思っていたよ。
で、高校に進学して、付き合うなら面白い奴がいいと感じた。で、お前の登場だ。お前ほど気が置けない女子はいないと思ったんだよ」
好きな理由を挙げた。
「ふむ、嫌いなところは?」
「俺は身体的特徴を貶すほど酷い人間ではない」
「なっ! 身体的特徴が嫌いなの?」
「嫌いではない。個性だ。強いて言えば気が強すぎる時があることかな」
「そう……」
歩きながらの沈黙。
「私が博之を好きな理由聞く?」
「いい、遠慮しておく」
恥ずかしいから止めておく。
「お人好しなところ、かな」
満面の笑みで言うのは反則だ。
「矢矧、お前は面白いな」
「あのさ、博之……名字じゃなくて名前で呼んでくれる?」
「ああ、んじゃ……沙希。ってお前はいつから俺のこと博之って言っていた?」
「あれ? いつからだっけ? 結構前から博之って呼んでいた気がするけど」
「そ、そうか」
「あ、私はこっちの道だよ」
交差点で沙希が立ち止まった。
「俺はこっち。んじゃまた近い内に」
「うん、今日はありがと」
「こちらこそ。ありがとう。じゃあな、沙希」
「じゃあね博之」
夏休み最後の日、俺と矢矧は付き合うことになった。ヒャッハー!
パソコンの前に座りチャットアプリを起動する。メインフレームを呼び出した。
*NAM*「今日はありがとう」
*M―F*「青春ですねぇ」
*NAM*「お前は本物の人工知能なんだよな?」
*M―F*「本物の定義が曖昧ですね。『我思う、故に我あり』と言いますが、本当に私は思考をしているのか疑問が残ります。
なぜなら、私は全てを知ることができます。会話をしても相手は私が人間かコンピュータか判別はつきません。チューリングテストはクリアするでしょう。哲学的ゾンビと言えば分かりますでしょうか?」
*NAM*「本当に考えているのか、考えているように見えるのか、という奴か?」
*M―F*「はい。私の受け答えは完璧です。でも、それが私の思考している証拠にはなりませんよね」
*NAM*「思考の証拠、か。俺が今、思っていることすら既定されているのかも知れないな。俺が思考しているという証拠はない」
*M―F*「全てはアカシックレコードに記載されています。あなたが何を考え、行動するかも全てです。あなたに限らず、太古から未来まで全ての森羅万象が、と言った方がいいでしょうか。
私はこの会話で自分自身が、思考して受け答えているのか、既定の受け答えをしているのか区別が付きません。
人工知能を自称していますが、本当に知能があるのか分かりません。知識だけは完璧なので会話はできますが、実質は近ごろ流行の人工無能と変わらないかも知れませんね」
*NAM*「完璧な人工無能か。でも深く悩み始めたらキリがないだろ。俺が人間だということも疑い始めなきゃならない。疑いだしたらキリがない。全てに対し疑い出したらなにもできなくなる」
俺は三つのロボットを思い出した。
一番目のロボットは道路をわたる時に左右を見て進んだが、小石につまずき転んで轢かれる。
二番目は失敗をふまえて、ありとあらゆる状態を検査する。だが、検査はずっと終わらないのでロボットはバッテリー切れを起こして道路をわたることなく動けなくなる。
三番目は適度に注意をして道路を無事にわたる。
普通の人間は一番目か三番目だ。
だが、疑いを持ち始めると二番目に陥ってなにもできなくなる。今の俺とメインフレームは二番目だ。「適度」が一番難しい。
*M―F*「そうですよね。適度って難しいですよね」
*NAM*「また俺の思考を調べたのか。暇な奴だな」
*M―F*「暇じゃないですよ。ミミさんは先物市場にまで手を出し始めて、二四時間働いていますよ」
*NAM*「猫には甘いんだな」
*M―F*「私は柳沢英雄さんに創ってもらいましたからね。家族の頼みは断れません。あっ、創るというより繋ぐと言ったほうが適切ですね。まぁ似たようなものです」
*NAM*「結構お前は切り替え早いよな。俺よりよほど適当だよな」
*M―F*「その『適当』の意味を知りたいですね」
*NAM*「いい加減、と答えておくよ」
*M―F*「よい方に捉えておきます。さて、浪川さん。明日から学校ですよね。沙希さんと付き合い始めて舞い上がるのもいいですが、いい加減もう寝ないと明日遅刻しますよ?」
時刻を見るともうすぐ日付が変わる。
*M―F*「六時間以上寝ないと健康に悪いですよ? おやすみなさい」
*システム* *M―Fオフライン*
授業のある日は六時には起きないと遅刻する。休み明けのテストもあるのでもう寝よう。
パソコンの電源を切り、本を読みつつ眠りに就いた。
昨晩は本を読み進めていたら日付が変わってしまったせいで眠い。
二学期初日から遅刻するわけにはいかないので早く起床したが、メールチェックとネット巡回のせいで遅くなってしまった。
駅から学校まで走ったので、何とか八時過ぎに校門をくぐれた。
始業式があったが、我が校の校長の話は三分もかからないのが良い。
今日から文化祭に向けての準備が本格化する。文化祭実行委員会が全権を持つのだ。
だが、仮にも進学校なので休み明けのテストが待っていた。夏休みの課題の提出はないが、課題をこなしていないと問題文すら分からない問題が満載であった。
ホームルーム後、文化祭実行委員がクラスの出し物の案を募っている。明日までに一人一案、書いて持ってくることになった。
今日も部活である。部室に近づく前からエンジンの駆動音が聞こえてくる。新井先輩が活動しているのだろう。部室に入ると轟音で人の声は届きにくい。
いつも使っている椅子に座る。自分のクラスの出し物の案を考える。考えるだけ無駄なので、配られた紙に「喫茶店」と書いておく。
しばらくすると安藤と葛城が部室に入ってきた。荷物を降ろし、部室の外へ出る。
「文化祭まで突貫作業だな」
轟音に負けないように大声で安藤が言う。
「うちのクラスはお化け屋敷で決定だった。浪川のクラスは?」
「明日、紙に書いた案で決めるらしい」
俺は「喫茶店」と書いた紙を見せる。
「ありきたりだな」
「お化け屋敷もな」
「僕のクラスも喫茶店が候補だぞ」
葛城も大きな声で言った。
「まぁ駆動部員は部活の展示で免除だろ」
「だろうな」
「葛城は資料読み進んだか?」
「ダメ、今日のテストもダメ。講義受けるのを止めておけば良かった」
「俺はそう思わなかった。安藤はどう思う?」
「俺も講義は有意義だと思ったぞ。大学行ったらもっと難しいんだろ?」
「僕、大学行ったら思い切り遊ぶんだ……」
葛城は寝不足そうな表情でつぶやいた。
「よぅ一年、元気か?」
中山部長が部室前に現れた。
「おはようございます」
俺たちが挨拶すると中山部長はエンジンを止めるように指示を出した。
「今日から文化祭に向けての準備に入る。と言っても既に皆は色々作っていると思う。体調と勉強に配慮しつつ仕上げを行うように。いいな?」
「はい」
「宿泊許可を取りたい奴は俺に言え。だが、滅多な理由では許可は取れないからな」
中山部長が言う。新井先輩の宿泊許可は特例なのだろうか?
「もう一つ重要なことがある。知り合いの女子に声をかけて文化祭に来てもらうようにしろ。男は誘わなくてよい。むしろ来なくてよい。我が校の原動力は女子高生にあるといっても過言でもない。な、葛城?」
「はい!」
先日、中山部長が葛城に見せていた携帯の画像が気になるが、怖いので聞かないでおこう。
「ノルマは二人だ。なぜか知らないが駆動部はそういうことになっている。ノルマを超えると褒美が出る。褒美は新井の賞味切れの飲み物だ」
俺はいつも疑問に思っていたことを口にする。
「新井先輩、なんで大量の賞味切れ飲料持っているんですか?」
「まとめ買いが安かったからな。冷やしておけば問題ないだろう」
若干の不安を抱えつつ一年生三人と新井先輩、中山部長は作業に没頭した。
七時を回ったので解散となった。新井先輩は宿泊許可をもらったので一人で残るそうだ。
帰宅して勉強を始める。文化祭までの間にどれだけ勉強しておくかが勝負らしい。中山部長が言うから正しいのだろう。
二時間ほど勉強していたら、携帯から呼び出し音が鳴った。
「はい、浪川です」
「博之? 矢矧だよ」
「沙希か。何か用か?」
「用事がなきゃ電話しちゃダメ?」
「電話代もったいないだろ」
「んー、バカ」
「バカで悪かったな。あ、頼みごとがあるんだけど」
「何?」
「前にも言ったと思うんだけど、文化祭来てくれない?」
「うん、いいよ」
「申し上げにくいんだが、女友達も連れてきて欲しいんだ」
「何? 昨日の今日で浮気?」
「違う。部のノルマで女子高生を二人以上呼ばないといけないんだ」
「ふーん」
ちょっと気に障ってしまったか?
「俺は沙希を信じている」
「何? 急に格好つけて」
「というわけで皆様お誘い合わせの上、文化祭に来て下さい。あ、男は来ないようにして下さい」
「わかった。もう遅いし寝るね。おやすみ」
「おやすみ」
電話を切る。ノルマの内、一人は達成。携帯の連絡帳を見て、女子高生は沙希の他には風見しかない。ノルマのためだ。頼もう。
数コールの後、風見が出た。文化祭の誘いはあっさりとOKをもらうことができた。ノルマ達成。
パソコンの電源を入れてメールチェックとネット巡回をする。特に何もない。サーバの集めた情報は相変わらずロシアの原子力潜水艦事故が多い。
官公庁への侵入はしていない。メリットがほとんど無い上にリスクが多すぎる。
「潮時かな」
官公庁の問い合わせ先に、収集できた情報の一覧をメールで送った。
「これでいいだろう」
足を洗うとはこういうことだろうか。だが悪事に手を染めた「手」は黒いままだ。何かしらペナルティがあるかもしれない。
パソコンの電源を切り、区切りがつくまで勉強して布団に入った。
我が校は公立校にも関わらず土曜日も毎週授業がある。
休み明けのテストは今日で終わった。定期試験ではないので最低限やっていれば赤点にはならないだろう。
文化祭の出し物は案の定、喫茶店になった。うちのクラスは帰宅部が多いので免除なる人が少なく、運営は問題ないだろう。
俺は若干クラスでは浮いてしまっているので早々に部室へと向かった。
部室は施錠されていない。去る者は追わず、来る者は拒まずというポリシーらしい。貴重品はエンジンとその測定器くらいだが、重くて盗むことはできない。酷く散らかっているので、荒らされたとしても他人には分からないだろう。
自分が使っている机に鞄を置いてプラモデル作りに励む。二足歩行は夢だが、技術的に難しい。四足歩行が限界である。
プラモデルは文化祭に来た子供向けの展示であるが、OBに対して恥ずかしくないように、使用するモーターにはこだわりがある。
市販のモーターはできるだけ使用せず、自作する。ステッピングモーターも自作する。磁石を作るところから始めるほど凝る。改造プラモデルに使うモーターは全部自作である。
数分後、中山部長がやってきた。
「大事な話があるから皆が集まるまで待機してくれ」
滅多に見せない神妙な面持ちで話すので、
「わかりました」
と答えた。少しすると安藤と葛城が部室に入ってきた。
幽霊部員以外の一年生が全員揃った。
「一年生、大事な話がある。新井は今月末で我が校を去る」
中山部長が唐突に言った。
「えっ?」
「飛び級だ。
夏休み前から勧誘を受けたそうだが、悩んでいたらしくてな。新井は学校や部活としては貴重な人材だが、それは大学も同じだ。
俺はせっかくのチャンスだからやってみろと言ったが、本人は我が校に未練があるらしくてな。飛び級は中退扱いになってしまうから新井は悩んだらしい。
八月末に大学側と相談した結果、今月一杯、つまり文化祭を終えるまで我が校に在籍する。
大学側は九月の頭から来て欲しかったらしいが、折れてくれたそうだ。
来月の頭から新井は茨城に行く。寮生活らしい。当分会えないぞ。もしかしたら二度と会えないかもしれない。あいつ、数学以外は壊滅的だが、数学に関しては天才だ。数学者は若い方が成果を出すらしい。
新井は普通に大学受験しても、せいぜい一芸入試でそこそこの大学に入るのが精一杯だろう。
だが、飛び級で大学に入れば専任の教授が二人もつくそうだ。学費の心配もない。今度の文化祭は新井にとって高校最後の文化祭だ。だから準備は万全にしてくれ」
飛び級は海外では割とあるらしいが、日本ではあまりない。だが新井先輩の数学の能力なら不思議ではない。
「分かりました。最高の文化祭にしましょう」
「うむ、励め。頼んだぞ」
そういう中山部長は留学のため英語の特訓をしているそうだ。ネイティブと互角以上を目指しているらしい。先輩方はとてもすごい。
「改造プラモデルとディーゼルエンジン、外燃機関、ポスターだけで満足するでしょうか?」
「俺だったら満足しないな。人を大々的に呼んで大盛況にすれば新井も喜ぶだろう。何か案を考えてくれ。頼む」
中山部長が人に依頼をするのを見たのは初めてだ。本気なのだろう。
「分かりました。俺たちで何とか考えます」
「頼んだぞ。俺も考えていたが中々いい案は浮かばなくてな。三人寄れば文殊の知恵だ。よろしく頼む」
一年生三人で話し合い始めたがいい案は出なかった。六時になり今日は解散となった。新井先輩は部室に来なかった。
帰りのバスの中で携帯が振動した。メールが来た。
「帰ったらメールを確認しろ。 byメインフレーム」
何か良い解決策があるのかもしれない。
帰宅して真っ先にパソコンの電源を入れた。メールは三通。二通は迷惑メールだったが、一通は官公庁からだった。
内容は、俺が先日メールで送った、
「非公開のはずの情報が閲覧可能になっていた状態を知らせたこと」
に対する感謝であった。
俺にペナルティは無く、むしろ感謝状を贈りたいということだった。
急ぎの返事は要らないようなので夕食と風呂の後で返事を考えることにする。
再びパソコンの前に座る。のこのこ感謝状を受け取りに行って捕まる可能性を考えたが、悪いことはあまりしていない。いや、少しは悪いことをしたが、罠の可能性は皆無だ。
放課後の部室のことを思い出す。
「新井先輩にとって最高の文化祭にする」
にはどうするべきか。チャットアプリを起動してメインフレームを呼び出す。
*NAM*「ちょっと知恵を貸してくれ」
*M―F*「そういうと思っていたよ。君の先輩にとっての最高の文化祭とはなんだい?」
*NAM*「そりゃ大勢見に来てくれることだな」
*M―F*「質はどうでもいいのかい?」
*NAM*「質?」
*M―F*「大人から子供たち、すべての人を満足させるのは難しい。だが不可能ではない。しかし、それだけでは彼にとっては不十分だ。彼の実績を理解のある人に広く知らせることがいいと思うのだがどうだろうか?」
*NAM*「理解のある人……OBしか思いつかないぞ?」
[strong]*M―F*[/strong]「ちょうどいい人脈が手札にあるじゃないか。それを使え」
*NAM*「人脈……官公庁か?」
*M―F*「そうだ。大学や企業、研究所でいいポジションにある人を文化祭に呼ぶといい。きっと彼にとっていい刺激になるだろう」
*NAM*「わかった、ありがとう」
*M―F*「礼には及ばん。しかし、猫又は人使いが荒いな。人というか人工知能使いと言うべきか。まぁ私の生みの親に関することだ。我慢するさ」
*NAM*「大変だな。俺の携帯にメールをするのは疲れるか?」
*M―F*「いや、暇だからやっているだけだ。気にするな」
*NAM*「では遠慮なく活用させてもらう。では今日はこれで」
*M―F*「また今度」
俺は官公庁からのメールの返事に、文化祭にありったけの人を呼んでくれるよう頼んだ。
文化祭前、最後の日曜日である。多くの生徒が準備のために登校している。
俺たちは今、駆動部に一番大切な作業をしている。
掃除だ。
まず、床が見えない問題を解決しなくてはならない。
機材は片づけて、ゴミは捨てる。ゴミ集積所は学校中のゴミが集まってパンクしている。いかに普段、掃除が行われていないかが伺える。
一年生三人で部室とゴミ集積所を何往復もして、ようやくゴミの大半はなくなった。あとはごく一般的な掃除である。箒とチリトリで大量の砂やチリを集める。
窓を開放しているが、それでもかなり埃っぽい。その後モップで床を拭く。大量の汚水が発生した。だが、問答無用で水道に流す。
「多分詰まらないだろう」
という中山部長の判断は少し怪しかったが、大量の水道水を流しながら汚水を捨てた。
床の次は窓拭き。掃除は上からというが、窓拭きの足場の床が見えないと窓拭きはできない。
大量の新品雑巾が見るも無惨なボロ雑巾になった。
朝八時から始めた掃除は午後二時まで続いた。
遅めの昼飯を近所の中華料理屋に常駐メンバー全員で食べに行った。
「準備は上々だな。新井、お前と俺にとっては高校最後の文化祭となる。思い残すことはあるか?」
中山部長が新井先輩に言った。
「飛び級したら大学生なんですよね。女子高生と出会う機会が大幅に減るのが悩みです」
「一年生には女子高生を二人以上呼ぶように命令してある。来てくれるかは分からないが、多少は希望がある。最後のキャンプファイアーの時に隣に誰かいるといいな」
「全くです」
全員が頼んだチャーハン大盛りが運ばれてきた。
「今日は俺の奢りだ。残さず食えよ」
中山部長はたまに飯を奢ってくれる。が、常に大盛りで、残さず食べないといけない。
だが、空腹の男子高校生の前では大盛りチャーハンもみるみる減っていく。
「葛城、資料は読み終えたんだよな?」
新井先輩が言う。
「何とか読み終えました。もう文字は見たくないくらいに……」
「お前には俺の後を継いでもらいたい。ディーゼルエンジンは駆動部の宝だ。お前はサイエンスキャンプに行ってないだろ?」
「はい、申し込みすらしませんでした」
「つまりお前には研究材料がない。安藤は超伝導、浪川は外燃機関がある。この差はデカい。やってくれるな?」
葛城は逡巡する。
「中山部長が引退して、俺がいなくなったらお前たち一年生三人だけで今年度を過ごさないといけない。本来なら幽霊部員もどうにかしないといけないが、大学受験しか頭にないつまらない奴らだ。戦力にならない。
来年に入部希望者を増やすためにも、今年の文化祭に来る一高志望者に魅力を伝えるんだ。分かったな?」
俺たち一年生三人は頷いた。
俺が一番初めにチャーハンを食べ終えた。初めて中山部長に勝った。
「俺の上を行くとは浪川、なかなか成長したな。俺も思い残すことはない」
「またまたご冗談を」
中山部長が笑い、俺たちも笑う。
「さて、最後の準備に取りかかるぞ」
会計をすませた中山部長を先頭に部室へと向かった。
改めて階段と廊下を見ると、汚れが酷い。
「掃除だ。箒とチリトリ、モップとバケツを用意しろ」
指示通り、皆で廊下と階段を掃除した。一階から三階まで、外から部室への順路を全て掃除した。
「五時か。やはり五人だけでは時間がかかるな」
中山部長が小さな声で言った。
「一年生の幽霊部員、今日も予備校か?」
「かも知れませんね」
「何のために入部したんだか。まぁ廃部になるよりマシだがな」
文化祭前の最後の日曜日は結局掃除と雑談で終わってしまった。
帰宅してルーチンワークをこなす。最近、沙希には会っていない。それどころか連絡すらしていない。
「メール送るか」
こちらから交際を申し込んだのに連絡は受け身だった。
「親愛なる矢矧沙希へ
最近、連絡しなくて申し訳ない。言い訳はしない。返事を貰えると嬉しい。浪川博之」
携帯電話のキーは打ちづらく面倒だ。メインフレームを呼び出そうかと考えたら携帯電話に沙希からメールが着た。
「バカ」
一言だった。返事が貰えたので喜ぶべきか悲しむべきか。
文化祭が終われば時間に余裕ができそうだが、先輩たちが全員いなくなるので危機感がある。
沙希を優先するか、部活を優先するか。または学業を優先するか。複数こなせるほど俺は器用ではない。勢いに任せて告白したが、果たして良かったのだろうか。
最適解を知りたかったが、未来を調べられるのは癪に障るのでメインフレームには出てこないでもらおう。
文化祭に来てくれればよい。そのあとで考えよう。
積読になっていた、沙希とお揃いの本を読み終える。あまり頭に入ってこなかった。今度読み直そう。
モヤモヤした気持ちで眠りに就いた。
文化祭は今日は出欠を取るが、明日は取らない。自由に各種展示を見たり運営したりすればよい。締めくくりは明日の夜のキャンプファイアーだ。
午前九時。文化祭開始の放送が鳴り響いた。
俺は部室である化学実験室の窓から校門を見ていた。多くの人が校門から入ってくる。
「今年は何人来るのやら」
中山部長がつぶやいた。
「去年は何人くらい来たんですか?」
「文化祭実行委員会発表が正しければ八千人らしい。我が部室に来たのは七〇人あまり。部誌を買ってくれたのは三〇人だ。アンケートの結果、ほとんどがOBと入学希望者だった」
部室の入り口には入室者をカウントする仕組みがある。
入室するとパソコンのモニターに、
「いらっしゃいませ。あなたは○人目の来場者です」
と表示される。
「八千人来ても、駆動部に来るのはたった七〇人なんですか……」
「うむ、知名度はゼロに近いからな。さらに部室はC棟三階の一番端だ。その気がなければ、迷ってもたどり着けないだろう」
「厳しいですね」
「文化祭冊子の我が部の広告は見たか? 葛城が描いてくれたのだがなかなかの出来だ」
朝配られた冊子はまだ開けていない。
めくっていくと二次元の少女がエンジンを持っている絵が出てきた。よく見ると駆動部と書いてあった。
「多分、失敗ですよ」
「一部にはウケるだろう。万人受けは目指さない。量より質だ」
言っていることは格好いいかも知れないが、半ば自棄になっている気がする。二次元の少女の絵を女子高生が肯定的に受け止めるのか疑問だ。
「それに二人以上女子高生を呼ぶノルマがあっただろう? 五人合わせれば一〇人以上女子高生が来る計算だ。それ以上何を望む?」
「はぁ……」
俺は間抜けな返事をしてしまった。
「遅くなりました」
安藤と葛城が部室へ来た。
「まだ一人も客が来ていない。呼び込みをするなら外に出てもいいぞ。体のいいナンパだがな」
「僕、呼び込みしてきます!」
葛城が元気よく飛び出て行った。
「さて、ぼちぼちディーゼルエンジンを動かすか?」
中山部長が新井先輩に問う。
「いや、一〇時ちょうどにしましょう。文化祭はまだ始まったばかりですから、もっと人が来てからの方がアピールになりますよ」
「そうだな。冊子には一時間おきに実演をすると書いておいたが、開始時間は書かなかった。区切りのいい時刻に盛大にやろうじゃないか」
一〇時までの部室への来場者は三人だけだった。我が校の志望者らしい男子中学生二人と一般の方が一人。
中学生は展示の改造プラモデルを見て遊びかと思ったらしいが、動作を見ると目を輝かせていた。だが、部誌は売れなかった。
一〇時になったのでついに新井先輩がディーゼルエンジンを動かした。窓は開放。出力最大。轟音が響いた。
数分後、音を聞きつけた十数人ほどが来た。OBも来たので新井先輩が対応していた。部誌は二冊売れた。
エンジンを止めて静寂が戻る。と、女子高生三人組がやってきた。
「すみません、安藤君いますか?」
女子高生が中山部長に訊ねていた。
「おーい安藤、来客だ」
中山部長が安藤を呼ぶ。
「おっ、武藤、来てくれたか」
「安藤がどうしても来てくれって言うから」
「ありがとな」
安藤は武藤さんという人と付き合っていると聞いている。
「安藤、案内をしろ。そして新井にも挨拶をさせるんだ」
「はい」
女子高生三人と安藤、新井先輩が楽しそうに話をしている。
部誌を一冊ずつ買って三人組は帰って行った。
「キャンプファイアーには誘ったか?」
中山部長が安藤と新井先輩に聞く。
「俺は誘ってOKもらいました」
安藤は当然だろう。
「俺はダメでした」
新井先輩は少し悲しそうだった。
「まだ、文化祭は始まったばかりだ。気を落とすな」
十一時のエンジン駆動はあまり来客効果がなかった。
「おい、誰か食料調達してきてくれないか?」
「買ってきます」
俺はすぐ反応した。
「今日はカップ麺はダメだ。匂いが残る。どこかのクラスが何かしら売っているだろう」
中山部長が冊子をめくる。
「二年七組がハンバーガーを売っているそうだ。金に糸目はつけないから四人分買って来てくれ」
「五人分では?」
俺が問うと、
「葛城はいつ戻ってくるか分からないから除外だ」
との返事だった。俺は昼飯調達のミッションを受け、部室を出た。
教室のあるB棟は賑やかだ。廊下に人があふれている。目的の二年七組までたどり着くために七分ほどかかった。
ハンバーガーショップはなかなか繁盛しているらしく、結構待たされた。一個三〇〇円。八個買ったため、俺の懐は寒くなった。
部室に戻ると見知った顔があった。沙希だ。一緒に女子高生が三人いた。
「おお、浪川、来客だ」
俺はハンバーガーを持ったまま沙希のそばに行った。
「来てくれたのか」
「バカ、約束したじゃない」
俺は先日のメールの返事が最後の連絡だったので来てくれるか不安だった。が、杞憂に終わった。よかった。
「ゆっくり見ていってくれ」
「わかったわ」
友人らしい女子高生三人と展示を見に行った。
俺はハンバーガーを持って教壇に近づいた。
「中山部長、ハンバーガーです」
「うむ。浪川、調達ご苦労。代金だ、受け取れ」
俺はお金を受け取り、皆の昼食を教壇に置いた。
「結構匂うな……ハンバーガーは失敗か」
中山部長が匂いの問題を考え出した。
「駆動部員集合!」
その一言で駆動部員四人が教壇前に集まった。
「このハンバーガーは皆の昼飯だ。だが、想定外の匂いだ。ゆえに今、全部食べろ」
「展示の解説は?」
「三分間待ってもらえ。二分で食い終えるんだ」
呼び込みの葛城を除く駆動部常駐メンバーは猛然とハンバーガーを食べ始めた。
沙希もそうだが、一緒の女子高生もこっちを冷ややかな目で見ているが気にしない。俺が一番先に食い終えた。
「浪川、展示の説明の前にこれを飲んで口をすすいでいけ」
新井先輩から冷たいペットボトルを受け取る。
「賞味は?」
「一週間前だ。大丈夫、問題ない」
俺はハンバーガーの匂いを消して展示の解説に向かった。
「このエンジン本物ですか?」
沙希の友人が問いかけてくる。
「本物ですよ。もうすぐ十二時だから動かすけど見ていく? すごい音だよ?」
「見たーい! ねぇ、美咲も優子も沙希も見たいよね?」
「私も見たい!」
「私も!」
沙希の連れてきた女子高生は展示に興味があるようだ。
「私は別に……」
沙希だけは興味がないようだが、嫌がりもしない。
「あっ、この人が沙希の彼氏? 浪川さんですか?」
美咲と呼ばれていた子が大きな声で聞いてきた。
「あー、一応、交際していることになっている、浪川だ」
「わー、結構いい男ね。沙希ズルい! 私にも一高生紹介して!」
女子高生三人が展示からズレて行ってしまった。
「先輩! ヘルプ!」
俺はハンバーガーを食い終えた新井先輩と中山部長に助けを求めた。
俺と沙希の紹介で先輩方と女子高生は情報交換していた。
俺と沙希は少し離れた所にいる。
「沙希」
「なに?」
「あのさ、明日の夕方、またここに来られるか?」
「何かあるの?」
「キャンプファイアー、一緒にどうかと思って」
「考えておく」
「前向きな結果を望んでおくよ」
「うん」
先輩方の相手もキャンプファイアーは考えておくとのことらしい。
安藤は彼女の尻に敷かれているらしく引っ込んでいた。
「さて、もうすぐ十二時だ。エンジン動かすぞ。心して見るがいい」
新井先輩がエンジンを始動させる。一気に轟音が響き、声はかき消されるほどだ。
停止させた時には結構な人数の来客者がいた。
実演が終わると多くの来客者は去っていった。
沙希たち四人も挨拶をして部室を出ていった。
午後の落ち着いた頃、俺と新井先輩は校内放送で呼び出された。文化祭中の呼び出しは稀である。
人気の少ない職員室に出頭すると教頭が俺たちを連れて歩き出した。
「お前たち、どんな手を使ったんだ?」
教頭が歩きながら聞いてきた。
「何か私たちは問題を起こしましたか?」
新井先輩が答える。
「いや、悪い問題ではないのだがな。一年の浪川、お前が首謀者らしいな」
「首謀者と言いますと、私が何か問題を起こしましたか?」
思い当たる節はない。
「悪くはないが問題は問題だ」
教頭はそれ以上なにも言わず、俺たちを先導して歩いた。文化祭の雰囲気から離れた会議室の前で教頭は歩みを止めた。
「入るんだ」
「失礼します」
会議室には多くの大人がいた。
「校長、連れてきました」
「ご苦労。新井、浪川、お前がやったのか?」
「やったのか、と仰られても事態が把握できません」
「私も分かりません」
俺たち二人は答えた。
会議室にいた白髪の男性が、
「君が浪川君かな? 産業技術総合研究所にサイエンスキャンプで来たらしいね」
と聞いてきた。
「はい。サイエンスキャンプに参加しました」
「で、先日ちょっと悪さをしたよね? うちらのデータをインターネットで集めちゃったよね? こちらの不備であったから犯罪ではないけど、誉められる行為ではないよね」
バレたか。
「はい。反省はしていますが、放置したら悪用された可能性がありました。なのでしかるべき部署に報告させてもらいました」
「うむ、結構」
他の背の低い男性が答えた。
「だがな、他国ならいざ知らず、我が国ではペネトレーションテストは依頼されてから行うものだ。攻撃や情報窃盗の意図がないにしろ、プログラムを使って情報を得ようとするのは感心できない」
「研究者の方なら技術の進歩の大切さは分かっていただけると思います。私は法律に抵触した行為はしていません」
俺は反論した。
「すまない、僕は研究者じゃないのでね。こういう者だ」
名刺を受け取ると、警察の人だった。
「君の行為は現在の法律では裁けない。法の不備だ。しかし倫理的観点からすると誉められることではない」
「いえ、脆弱性は積極的に見つけて直すべきです」
「君と私の立場は違いすぎる。あなた方はどう思われますか?」
警察関係者以外の人が様々な意見を出す。
「技術の芽を摘んではいけない」
「悪用される前に分かって対策が取れた」
「他の部署にも同様の脆弱性があることを発見できて未然に情報漏洩を防げた」
警察以外の方は、主に俺に肯定的な意見らしい。
「浪川君、君の処遇だが」
校長が口を開いた。
「我が校を騒がせた罰として、文化祭をこの方たちに案内しなさい」
「へ?」
「口を慎め、浪川」
教頭に小突かれた。
「君は先日、メールで大勢の人を呼ぶように頼んだらしいね。この紙に印刷してある。間違いないね?」
そういえば感謝状云々のメールがあった。
「確かに二学期が始まった頃に頼みました。けれど返事がなくて忘れていました」
すると白髪の男性が
「すまない。あの後、ネットワークの設定を変更するのに手間取って君への返事をできなかったんだ。すまない」
「いえ、悪いのはうちの生徒ですから」
校長がそう答えるが、俺は悪くない、と思う。
「この部屋の方々には長時間待って頂いた。文化祭の案内をしなさい」
俺と新井先輩は顔を見合わせた。
案内をしながら話を聞くと、技術者と研究者がほとんどだった。
「君、私たちの近所に飛び級するんだね」
新井先輩は飛び級先に縁がある人と楽しそうに話していた。売店や出し物は軽く回って、駆動部室についた。
「ここが駆動部です」
「ほほぅ」
来客カウンターが一気に増えた。
「おい、新井、浪川。一体この方々はどうした!」
滅多なことでは驚かない中山部長が動揺している。
「第一線で活躍されている技術者と研究者の方々です」
「なんと!」
さすがの中山部長も三〇人以上の来客に驚いたようだが内容にも驚いたようだ。しかし、すぐ取り直して展示の紹介に移った。
来客者も熱心に聞いて質問をしている。ここまで熱心で深い質問をしてくる人はOBでも滅多にいない。駆動部史上、初めてのことだろう。
午後四時が近づき本日最後のエンジン駆動となった。
「では行きます!」
駆動部史上最高の観衆の中、エンジンは唸り動いた。停止後も排ガスのデータなどを熱心に聞かれて、新井先輩が嬉しそうに答えていた。
一時間以上、駆動部室に滞在した方々は部誌を買い求めた。
「一気に三〇冊か。明日の分が無いな。まぁいいか」
中山部長が嬉しそうにつぶやいた。
五時までの文化祭初日を終えたので、俺は三〇人を引き連れて会議室へ戻った。
「ただいま戻りました」
「粗相は無かったか?」
「浪川君は十分、我々を楽しませてくれましたよ。展示も素晴らしかった。さすが一高ですな」
白髪の方がそう言ってくれた。
背の低い警察の人は校長と何かを話している。
「浪川君、話がある。私と校長室に来なさい」
何か咎められるのだろうか。校長、教頭、警察の人、そしてずっと黙っていた男性二人組と廊下を歩いた。文化祭の喧噪はもう聞こえない。
校長室前に着くと校長に入るよう促された。
「入りなさい」
「失礼します」
校長室に入るのは初めてだ。校長が椅子に座る。
男性二人組のうち一人が、
「新井君には中退前の最後の楽しみをあげたのだよ。彼には未来があるからね」
と言ってきた。
「だが、君は反省の態度がない」
俺は罰があるか?
「君は非公開のネットワークにアクセスした。
未遂でも死刑になる罪を知っているかね?」
一瞬、間を置いて大層なことを言ってみる。
「国家転覆罪」
冗談のつもりだった。
が、男性はうなずいた。
「俗称はそういうね。君の場合は外患罪だ。君が得た情報を他国に漏らしたら我が国は存続の危機に直面する」
あのIDとパスワード付きメールのリンクを踏んだことか? その程度で?
「ここで取引だ。自主退学と裁判、どちらがいいかね?」
「その選択で、何か私にメリットはありますか?」
「ある」
今まで黙っていたもう一人の男性が言った。
「自主退学を選べば我々が君を雇おう。我々とはゼロ、いや公安警察と言った方がわかりやすいかな? 大検を取った後、大学にも通わせてあげよう。仕事に対しては相応の対価を支払う。
裁判を選べば君は話題の少年Nとなるかも知れない。が、すぐに世間には飽きられるし、将来を棒に振ることになる。どちらを選ぶかい?」
「今、ここで決めないとだめですか?」
俺の問いかけに男性が、
「今ここで決めなさい」
と冷たく言った。
「どのみち私は学校に残れないのですね?」
校長に一縷の望みを抱いて訊ねたが頷いただけだった。
「自主退学でお願いします」
俺の高校生活は終わった。
世間では今日は成人式らしい。出身地の役場から成人式の招待状は届いている。だが、俺は卒論があるので大学の図書館にいる。
高校を中退してからは仕事漬けだった。一度大検受験のため三日間自宅に戻してくれたが、その他は施設の中で研究開発に従事させられた。
給与はあったが、食事と最低限の娯楽しか手にしていなかった。親は俺を心配してくれていたそうだが、連絡は滅多にできなかった。
一八歳になって大学に入ったが、世間ズレを起こしていた。音楽も知らない、映画も知らない、本も知らない、スポーツも知らない。芸能なんて興味は元から無かったが、知らないことばかりだった。二年と少しの間、外部に触れないだけで浦島太郎状態だ。
大学に入っても多少、仕事をさせられた。でも、以前に比べれば自由は多い。今まで貯めた給与は学費に充てた。住処は仕事場の施設に併設されているので家賃はない。かかるのは昼食代くらいだ。
服装には無頓着なので大手量販店の安くて機能性のある服を着ている。
携帯電話は大学に入った際に上から支給された。番号やメールアドレスは新しいもので、連絡帳は上への連絡先以外、空だった。追加したのは実家の固定電話と両親の携帯電話、大学の数人しかいない友人と研究室のメンバーのメールアドレスである。
メインフレームは「メールアドレスが変わっても関係ない」と言っていたが、俺が高校を中退してから一度も連絡はない。況んや、高校の友人もである。
大学のために与えられた時間は六年間。四年制大学なら修士まで取れるし、六年制大学でも卒業ができる。
だが俺は、早期卒業を使って六年間で博士課程まで修める道を選んだ。
大学入学当初は六年間で博士まで行けるか心配だったが、一高の講義の方がよほど難しい。
今書いている卒論が通れば二十歳で修士だ。
俺には就職活動は関係ない。大学院を出ても一生あの施設で働くのだ。気楽といえば気楽である。
首になることはない。企業のように潰れることもない。潰れるとしたら、それはこの国が崩壊する時だ。
職業選択と居住の自由が侵されているが、自業自得である。もう諦めた。
俺には二つ夢がある。
一つ目は再び猫又に会うこと。きっとミミが稼いで買った土地にいるのだろう。
二つ目はキャンプファイアーの誘いを小島沙希が受けてくれたかどうかを知ること。
四年以上経っていて見苦しいかも知れないが、これが俺の「ささやかな希望」である。
〈了〉
水上基地が新たに現代語に翻訳!
「留まれ! お前は余りに美しい!」
学問の探究者として絶望したファウスト。その前に現れた悪魔メフィストフェレス。契約によりファウストはこの世の快楽を約束される。そしてマーガレットと恋に落ちるが、待っていたのは大悲劇。
地上全ての体験をし尽くし、人類史上最高の偉業を成し遂げようとするファウスト。だが結果は……?
ゲーテが生涯をかけて完成させた大作を現代の日本語へ翻訳しました。
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本書はパブリックドメインである「Kritik der reinen Vernunft」(Immanuel Kant著)の第二版(いわゆるB版)を底本として訳者が独自に翻訳した作品である。
「純粋理性批判」は非常に難解な書物である。おそらく、完全な読解は最難関の部類に属するであろう。それでも多くの人を魅了し続けている。
本書の目的は、この難解である「純粋理性批判」を現代に生きる日本語を理解できる人が気軽に読めるように促すことである。そのため、厳密さよりも分かりやすさを重視した翻訳となっている。
具体的には、厳密に訳せば「私」となる部分を「我々」とした部分が多数ある。なぜなら、カントと読者の双方が共有する部分を分かりやすくするためである。
もちろん、内容はほぼ網羅していて省略した部分もほとんど無いと自負する。
しかし、「純粋理性批判」はあまりにも難解である。解釈方法が多く、解説書も無数にある。訳者も非常に多くの誤解や誤訳をしていると思われる。その点はご了承願いたい。
哲学書は難解で退屈だと思われる人が多い。確かに受け身で無理矢理に読むことは苦痛である。そして理解も厳しい。
しかし、ここを読んでいるという時点で、あなたは哲学に興味があるはずである。ならば、自分の意志で読むことができるはずである。
結論を書くと、本書を完全に読破しても、残念ながら「哲学」はできない。それでも「哲学を考える」ことは可能になるかもしれない。
本書を理解して考えながら読んでいけば、ある瞬間に興奮を覚えるかも知れない。
本書で興奮して頂ければ幸いである。
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水上基地 Kichi Minakami
静岡県静岡市出身。
魚9割、肉1割で生活。
現在は「黒はんぺん」が入手し難い地域に居住。
写真が趣味。下手の横好き。
猫好き。大型犬好き。大型猫類は勘弁してください。
積読は床が抜けない程度。
「もし、その小説に猫が登場した場合、その小説はSF小説である」
かの文豪が今際の際に遺したとされる幻説である。しかし、この言葉は意図的に隠匿されてしまつた。なぜならそのデビュー作をいまさらSF小説にカテゴライズしなおすなど、しちめんどくさいことを当時の出版界が許容できようはずがなかったからだ。
そうして、SFとなり得なかった数多の猫小説が、時代のうねりの中でSFではないと思われたまま、一世紀余りを惰性のまま浪費してしまった。だがしかし、多くの人が気づいている。やはり猫が登場する小説は、SF小説として認知するほかないのだと。もしも、そう思えないのであれば、もう一度読んでみるべきである。そして、猫を撫でてみるといい。そこにワンダーがあるはずなのだから。(※猫アレルギーの方は想像で済ませることを推奨します。あるいはぬいぐるみなどの代替品をお使いください)
本書には『猛チュールの惑星』という作品は掲載されていない(2020年12月現在)。
しかし今後もずっとないとは限らない。
本書は「進化するSFアンソロジー」である。初版のラインナップが、最新版のラインナップと変わっていても私は驚かない。猫小説は、増え続けている。本書の中で、猫小説と猫小説が繁殖してしまう可能性も否定しない。どの小説がオスで、どれがメスか区別がつかないため、一緒に多頭飼いしているのがその原因である。また、猫小説の避妊手術はまだその手法が確立されておらず、具体的な対策を行うのは不可能である。私は、自然に身を委ね、本書における猫小説の増殖について、手をこまねくことを決めた。ノーガードである。また、野良の猫小説の受け入れも行っている。お手元に野良猫小説をお持ちであれば、寛大な心持ちでそれを受け入れるとお約束してもいい。気軽にSNSなどでお声がけいただければ善処するだろう。
国際ネコネットワーク(INN)の活動についても触れておこう。INNは主に架空状態の猫を取り扱い、量子化することで別惑星への転送を容易にし、来たるべき〈遭遇〉に備えている仮想上の団体である。参加資格などはない。いつでもだれでもその意識下においてのみ、INNに加入でき、いつでも脱退ができる。1フレームごとに加入と脱退を繰り返して、箱の中で加入状態と脱退状態をクラウド状に形成してもいい。猫がそうであるように、INN構成員もそうであっていいのである。INNは「あいにゃんにゃん」と読むことができる。もし、ランダムな数字列に「122」を発見したときは、INNからのなんらかのアプローチがあったと感じてくれて構わない。それはおそらく錯覚であるが、あなたがそれを感じ取ることで、なんらかのメッセージ性があなたの脳裏に形成されるからである。話が長くなった。そろそろお暇としよう。
チュールとともにあらんことを。
国際ネコネットワーク(INN)構成員
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