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この本はタチヨミ版です。
1867年(慶応三年) 一五代将軍徳川慶喜は朝廷に対し大政奉還を行い、それを受けた朝廷は「王政復古」を宣言する。
1868年(明治元年)薩摩・長州両藩を中心とする新政府軍と会津・桑名藩を中心とする旧幕府軍との間に「鳥羽伏見の戦い」が起こり、勝利を収めた新政府軍は江戸へ軍を進め、旧幕府の勝海舟と新政府軍代表西郷隆盛との間で交渉が始まり、江戸は戦火を交える事無く占領され江戸城も新政府軍に接収された。
東北諸藩も結集して会津藩を助けたが岩倉具視が作成した偽の錦旗を見て朝敵になるのではないかと恐れをなして戦意を喪失し、腹黒い岩倉の陰謀に翻弄されながら激闘の末に会津藩も降伏した。
旧幕府軍を率いて箱館五稜郭に立てこもった榎本軍も降伏し「戊辰戦争」は終結した。
薩長を中心とする下級藩士は公家を抱き込んで新政府を発足させ、天皇を中心とした中央集権的国家体制を目指し、旧幕府軍の摂政や関白などが廃止され、総裁・議定・参与の三職が置かれ、下級藩士の率先者達が公家や雄藩の大名たちと並んで新政府に加わった。
1868年10月23日に人心を一新するために年号を『明治』に改め、天皇一代の間、一元号とする一世一元の制を立てた。
江戸は「東京」と改められ、即位式を行って京都御所から江戸城へ移られた天皇は薩長に担がれ、江戸城も皇居に改称された。
新政府は財政的・軍事的・制度的基礎が固まっておらず、大久保利通や木戸教充の策謀に不満を抱いていた土佐藩主の山内容堂や薩摩の島津久光は所領に引きこもった。
木戸、大久保らは諸大名に命じて領地の領民を天皇に返上させる「版籍奉還」を行い、「廃藩置県」を断行し、大名・公家を華族、武士身分を士族とし、農耕商人を平民に改める身分制度を決め、それまで職業の一部として扱われていた部落の人は新平民と呼ばれ、ますます差別が酷くなった。
女性の地位を貶め、男性優先の社会が誕生し、薩長土肥の下級藩士が新政府を操り、徳川幕府が築き上げた文化や歴史を否定し、これまで差別の無い世の中だったのが身分による差別が露骨になった。
軍事上の改革では1873年、陸軍卿、山形有朋を中心とした軍が徴兵制を公布し、満二〇歳以上の長男を除く男子に兵役の義務を課し、富裕な有力者以外の一七歳から四〇歳までの男性に兵籍を負わせ、戦争が始まれば徴兵される義務を公布した。
これが後の大東亜戦争の敗戦まで日本男性の生活を支配した。
治安面では1874年(明治7年)に警視庁を設立し全国的に警察力の強化をはかり、江戸時代の各町内ごとの警備は廃れ、逆に治安が悪くなった。
華族や士族は廃藩置県後も明治政府から家禄を支給されながら安泰に暮らしていたが、明治9年になると士族身分の人達に対して家禄支給を停止し士族の地位も著しく低下し、生活に困った各地の元武士階級の不満が渦巻いた。
江戸幕府時代に追放されていた公家の岩倉具視や薩長の下級藩士達は権力を握った事で浮かれ、裕福な生活にあこがれていた彼らは我が世の春を謳歌し、私腹を肥やして庶民をないがしろにする政策で翻弄し、欧米政治の猿真似をすることで庶民を翻弄した。
現在でこそ少しずつ江戸文化や徳川幕府の政策が見直されてきているが、明治政府が海外へ流出させた日本の文化遺産など計り知れないものがあるのです。
お金に縁がなかった人が急に成金になり、使い道を知らずに浪費したのと同じことなのです。
明治九年、新政府の費用を算出するため地租改革条例を公布し、農地の値段を定め、豊作、凶作に関係なく地租を地価の3%と定め、土地所有者に現金で納めさせた。
それによって自作農家と小作農民の負担が増し、地主は土地をお金に換えて資産を増やし、土地を耕すのは小作人に任せお金だけを受け取って都会で暮らす不在地主が増えていった。
徴兵令に対する不満と地租改革に反対する農民は各地で百姓一揆を起こしたが明治政府は軍隊を出して鎮圧した。
それまで徳川幕府に退けられていた末端公家の岩倉具視や薩長の下級藩士達は庶民の生活とは裏腹に豪奢な生活を送るようになり、世間では貧富の差が激しくなっていった。
外交面では明治四年に岩倉を大使とする使節団を結成し、随行には木戸孝充、大久保利通、伊藤博文らが一年九ヵ月に亘って欧米諸国を外遊し、西欧文明の実態に触れて近代化を図ったが目的の一つであった不平等条約は不成立で外国からは認められなかった。
当時、朝鮮は鎖国政策を取り、日本から外交使節を送ったものの相手にされず、欧米諸国の朝鮮進出を危惧した西郷隆盛・板垣退助らは朝鮮の開国を迫り、征韓論を唱えた。
しかし欧米諸国から帰国した岩倉と大久保が反対し、西郷・板垣・副島・江藤・後藤の五参議が新政府を離れた。
明治九年になるとイギリスと朝鮮の間で争いが勃発し、日本は日朝修好条規(江華条約)を結んで朝鮮を開国させ、清国に対しては日清修好条規を結んで琉球藩を置き、台湾に出兵した。
明治八年にロシアとの間で樺太をロシア、千島列島を日本の領土と定め、小笠原・尖閣諸島・竹島も日本の領土とした。
明治六年、内務省を設置した新政府は殖産興業に力を注ぎ、外国人技師を雇い入れて官営工場(富岡製糸工場)を設立した。
それまで徳川幕府が所有していた金・銀山を没収し、坂本龍馬が率いた海援隊を岩崎弥太郎が引き継いで三菱商船に改め、新政府に協力した。
明治四年に各藩の落札制を廃止させ新貨条例を制定し、貨幣の単位を円・銭・厘に統一した。
明治五年になると国立銀行条例を制定し各地に銀行を作って大蔵省を設立し日本最初の国家予算を作成した。
江戸時代の飛脚制度から馬を使った郵便事業が東京・京都・大阪で開始され、新橋、横浜間で鉄道が開通した。
建築物は煉瓦造りの洋館が目を引き、街角にガス灯が灯され、馬車や人力車が街並みを走り、新政府の岩倉や大久保は洋館に住んで専属の馬車で通勤した。
一般家庭にまで石油ランプが普及し、火事で悩まされた人々が安心できるようになり電気が普及するまで石油ランプは家庭の必需品になった。
軍隊に制服が採用され、警官・鉄道員・教師等が強制的に着用させられるようになると、富裕な新し物好きの庶民も着物から洋服へと随時西洋化されていった。
明治政府の政策として行ったのが国土を広げる為に開拓事業に目を向け、蝦夷地を北海道に改め、失業した士族救済の名目とか当時、日本に侵攻しようとしいていたロシアに備えて開拓使を置き、士族の不満を抑え込んだ。
これは何も明治政府が発案したものではなく、徳川幕府時代から蝦夷地の探索を行っていて、すでに淡路の高田 加兵衛は箱館を基盤に北洋漁業や航路の開設を始めていたし、坂本龍馬も国内の過激志士を蝦夷に集めてロシアの侵攻を食い止める策を提案していて、誰かが引き継いだだけです。
初代蝦夷開拓長官に肥前藩藩主 鍋島直正が就任し後を引き継いだ東久世通禧の頃までは北海道先住民であるアイヌの人達との交流や労働協力がスムーズに行われていたが東久世が辞任すると薩摩藩の黒田清隆が次官のまま開拓使の長になり、北海道に赴任せず、東京から指示を出して黒田を頂点にした薩摩藩閥が開拓使を支配した。
黒田は潤沢な予算を私利私欲に使い、それまで開拓に協力的だったアイヌの人達を牛馬以下に扱い隷属させ、薩摩の政商と手を組んで官営の土地や施設を安値で払い下げようと計画し、明治時代最大の疑獄事件に発展した。
黒田という人物はとかく悪い噂が飛びかった人物で、後に第二代内閣総理大臣になるが、元々は薩摩の下級藩士で、大久保利通のご機嫌取りで薩摩閥の重要人物になった男である。
平素は借りてきた猫みたいにおとなしいが一旦酒が入ると大虎になる酒乱で日本刀を振り回す癖が有ったし、自分の妻を日本刀で切り殺した疑いを持たれたり、酒席で暴れてるところを武術家で知られた木戸孝允に取り押さえられて紐で縛られる事件など起こした。
彼はアイヌの人ばかりか北海道の屯田兵の人達まで過酷に扱い、評判が悪かったし協力する人は居なかった。
晩年は政府の顧問官として過ごしたが醜聞と疑獄事件で浮いた存在となり、葬儀の時でさえ地元の人達から敬遠された。
文明開化の名のもとに日本最初の日刊新聞が創刊され、それまでの寺小屋から全国を学区に分けた国民学校を設立した。
六歳以上の男女に義務教育を施し、尋常小学校で四年間学び、さらに上の高等小学校に進める仕組みだった。
義務教育の名目で設立した尋常小学校でさえ月謝を納めなければならず、子供を学校に通わせると家事の手伝いがおろそかになるなどの理由で人々から敬遠され、小学校の就学率は半分以下だった。
尋常小学校は一律の教え方で、授業についていけない子は見捨てられ、規律が煩く男女同席したり、一緒に遊ぶ事は厳しく指摘され、江戸時代の寺子屋みたいに個人的な教え方では無かったから評判が悪かった。
寺小屋は家庭の事情に配慮しながら子供が社会に出ても困らないような実地教育をしたし、みんなについていけない子供でも理解できるまで個人的に教え、お金が無い家庭の子供でも通えたから尋常小学校に通うより寺小屋に通う子供達が多かった。
危惧した明治政府は強制的に尋常小学校に通うように通達し、寺小屋制度を白眼視した。
明治政府の近代化変革はあまりにも性急で、国民生活の実情を無視した点が多く、新政府の重要な地位に就いた人物は薩長土肥の人物で構成されていたため国民からそっぽをむかれ経済的にゆきずまった。
明治政府に対する不満が全国の士族の間で高まり、士族反乱、自由民権運動が起こり、岩倉具視暗殺未遂事件が起きた。
新政府を離れた板垣退助は地元高知で「立志社」を設立して自由民権運動を繰り広げ、江藤新平は郷里の佐賀で反乱を起こし、政府は軍を出して鎮圧したものの熊本で「神風連の乱」、福岡では「秋月の乱」、山口で「萩の乱」など士族による反乱が続き、それまで郷里鹿児島に陰そくしていた西郷隆盛を首領とした士族が政府に対して兵を挙げる「西南戦争」が勃発した。
新政府は軍隊を総動員して八ヵ月に亘る激しい戦いを九州各地で展開していたが、その最中、木戸孝允が病死、西郷も自刃して終結した。
西南戦争翌年の明治十一年に大久保利通が士族に暗殺され、薩長元老による藩閥政権が確立した。
新政府内で実権を握った伊藤博文はヨーロッパ訪問の後に華族令を制定して元老たちに爵位を与え、男爵・公爵などの華族制度を整え、自らは初代総理大臣に就任し、薩摩の黒田清隆や長州の山形有朋を中心に組閣し、帝国議会の幕を開いた。
欧米諸国と対等の地位に立つために関税自主権の確立を急ぎ、アメリカとの間で税権回復の交渉を成立させた。
風俗や生活様式を西洋化して文明開化だとの掛け声で庶民を欺き、混浴の禁止、裸は低俗だなどと広めたり、男女の自由交際を制限したり処女性を崇める教育を国民学校で行い、自らは外国公史や政府高官を招いて「鹿鳴館」で舞踏会を開き、外国要人を歓待した。
タチヨミ版はここまでとなります。
2020年4月12日 発行 初版
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著者 本間 晋藏
犯罪小説、海洋小説等を中心に執筆活動を行っているサラリーマン。
佐賀県出身。
愛媛県松山市在住