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一
陽ざしが落ちている。太陽は水平線に溶けてゆこうとしていた。気温はまだ高く、今日も寝苦しい熱帯夜が続くのだろう。若かったあの日。驕れる夏。それは夏の氷菓のように、淡く冷たい。いつか溶けゆく思い出とともに。そして消えゆく陽炎とともに。
夕凪秋子は麦わら帽子を被り、パラソルの下、砂浜に座っていた。そして海に泳ぐ影を見ていた。その影は小さく、夕陽に溶けそうだった。カモメが鳴いた。秋子はゆっくりとパラソルをたたみ、読んでいた文庫本を籐製のバスケットの中に砂を払って入れた。そして美しい貝殻をひとつ拾い上げると、ポケットの中へそっと送った。
「おーい、かえるよー」秋子は海に向かって叫んだ。そしてくるりと踵を返すと、スタ、と砂浜の階段の上まで昇る。妹の夕凪鏡子が浜辺へと泳ぎ着いた。「ちょっと、おねえちゃん、置いていかないで……」
鏡子は慌てて浜辺を駆けた。バスケットに、タオルと着替えが入っているのだ。水着が夕焼けを反射して輝いた。秋子は鏡子にバスタオルを渡すと、「風邪ひくよ」と呟いた。鏡子は水分をタオルで拭き、水着の上にTシャツを着、スカートをはいた。
夏が通り過ぎていく。驟雨(しゅうう)のように、爽風のように。それは、海を渡る風のように限りなく自由で、限りなく拡張していった。僕らがたどり着いた季節が夏だったように、彼女たちの未来も水面にたゆたう蜃気楼のように儚いと思われた。
その街は『長袖島』と呼ばれる半島の一角にあった。芸術大学が中央にあり、その周りが学生街になっている。その海から採れる鮮魚は、海辺の市場で買うこともできた。市場は磯の薫りと雑多な海の匂いと、海辺で生活している人の意気が混じり、活気に溢れている。その日も寄せては返す波のように、様々な人が市場を訪れては、海の幸と共にひいていった。
夕凪姉妹は、夕飯の買い物をしようとその市場を訪れた。鏡子が魚を撫でるように眺めている。
「おねえちゃん、この魚いいね」
「どれ?」
「……いらっしゃい、あきちゃんに、きょうちゃん! 今日は何にする?」
「んー、今日のおススメは?」秋子が尋ねた。
「そうだな、そこのキンメダイかな」馴染みの店主は、秋子に一番近いキンメダイを指さした。
「じゃそれと、このカツオの四半身ね」
アーケードには千羽鶴が飾ってあった。今年の七夕に掛けられたものだという。鏡子は、秋子が支払いを済ませている間、千羽鶴のそばに寄ってそれを祈るように見上げた。それは鎮魂の祈りだった。鏡子の平和と鎮魂の祈りは、風に舞うように宙を飛んで空に還った。
海が闇に滲(にじ)んでゆく。水泡のような星が空を埋め尽くす。波の音が反芻する思い出のように寄せては返した。
秋子は先ほど買ってきた魚をさばき、グリルで焼き始めた。
鏡子は帰ってから服を着替え、ソファーに体を斜めにあずけて文庫本を読んでいた。ぱらり、とページをめくる音が魚を焼く音に打ち消されようとしている。あまりにも香ばしい匂いが鏡子を眩暈のような感覚にまで誘導した。窓から入ってきた潮風が、くぐもった匂いを四散させる。潮風はぐるりキッチンを一周すると、もう一度窓を通って抜け出た。
「おねぇちゃん、お腹すいたよ。ご飯まだ?」
「んー、もうちょっと待ってね」背中ごしに秋子は声をかけた。
夕食の食卓はいつもの通り姉妹二人だけだった。ふたりは両親から離れて、この街で暮らしていた。秋子はブライダル・フォトグラファーをしている。鏡子は芸術大学に通う大学二年生だった。
月曜日の夜は、今週も穏やかに過ぎようとしていた。ゆっくりと進む時間が、まるで蝸牛のように伸縮しながら進んでいくのではないかと思われた。僕らの夏は、その時間の流れのなかで、不思議な邂逅を求めていた。それは潮が満ちるように、ゆっくりと、だが確実に近づいていた。
二
大学の講義堂には夢魔が住んでいるのだろうか。たぶん、宗教大学でなければ、どの大学にも巣食っているに違いない。いや、もしかするとキリスト様についての講義の脇で車座(くるまざ)をかいている夢魔もいるかもしれない。
その先生は朔太郎先生と呼ばれていた。鏡子の通う芸術大学の先生で、油絵とフレスコ画の修復を教えていた。三十八才と若いながらも助教授の地位にあり、その該博な知識と能弁、修復に秀でた技巧は、他の追随を許さなかった。平素はサングラスをかけているが、講義や修復の時はセルフレームの伊達メガネをかけ白衣を着ていた。
それは、ゼミの時間だった。鏡子はその朔太郎先生の授業をいくつか選択していたが、ゼミは初めてだった。大部屋の床には修復を依頼されたフレスコ画が壁ごと剥がされ、並べられていた。それは、まるで手術室のような光景だった。温度や湿度は常に一定に保たれていた。朔太郎はそのなかで絵画修復のゼミを行った。
鏡子は初めてその部屋の中に立った。鏡子は涙を堪えるので精一杯だった。宗教画を修復する作業は、古びた体を手術で新しいものに取り換えていくのを見ているような感覚だった。剥落した絵具が、いたわしい御聖体の欠片を思わせた。鏡子は思わず、ひとしずく聖水のような涙を落とし、その場にうずくまった。
「大丈夫?」朔太郎が声をかけた。「どうしたの」
「すいません、何でもありません」
「気分が悪いとか? お腹、痛いとか?」朔太郎は優しげなまなざしを向けた。
「いいんです。何でもないんです」鏡子は涙が止まらなかった。
鏡子は机に突っ伏して、泣き出した。
「いま、家に誰かいる? 迎え来て貰おうか?」
「……姉がいます。でも、大丈夫です」
「いや、そうはいかない。ここ学校だから。今電話してくる」
そういうと、朔太郎はゼミ生にことわって席を外した。朔太郎は電話を終えるとすぐに戻ってきた。その間中、鏡子の友達が慰めてくれた。しかし、涙は止まらなかった。
十分程して朔太郎は戻ってきた。
「お姉さん、来てくれるって」
「……先生、ありがとう」
時が神に対して冒涜(ぼうとく)しているのか、それが人間の驕りなのかはいくら泣いてみても鏡子には分からなかった。泣いても仕方がないと分かっていても、涙がとめどなく溢れた。
その透徹した純粋な涙の輝きは、ダイアモンドに匹敵しているかに思えた。しかし涙はダイアモンドにはならなかった。僕はそれを見て、この世にこんな美しいものが存在するという事実に愕然とした。そしてその美しい涙の主の心を、少しでも修復してあげたいと心底思った。けれどそれは、聖なるものを穢してしまう、冒涜に似た行為なのかもしれないという疑念が胸をよぎった。その感情は、僕が名画を修復する時に心を襲う怖れによく似ていた。だからなのかも知れなかった。
「鏡子さん、お姉さん、来てくれたよ」
「鏡子、大丈夫?」秋子と朔太郎が傍らに立っていた。
「……うん」
「鏡子、先に車に戻って。いつもの場所にあるから。鍵はこれね」
「……ありがとう、おねぇちゃん。先生ごめんなさい」
「気にするな。帰り道、気を付けて、な」
鏡子はゼミ生と一緒に教室を出た。教室には秋子と朔太郎の二人が残された。
「先生、この度は妹がご迷惑をおかけして、すいませんでした」
「いえ、僕も配慮が足りなかったのかもしれません」
目があった。沈黙が支配した。時が止まった。
「……あの、鏡子さんのお姉さんのお名前は?」
「夕凪秋子といいます。これからも、妹のこと、宜しくお願いしますね」
秋子がつくった笑顔はぎこちなかった。朔太郎はいつもの仮面を外せなかった。外してもいいのではないかと察したが、倫理観が邪魔をした。素直になれない自分に焦りを感じていた。
「こちらこそ。妹さんはとても繊細ですので、もっと配慮するようにします」
「よろしくお願いします」秋子は深々とお辞儀をした。
それでは、と秋子は立ち去りかけた。
「あ、ちょっと」朔太郎が呼び止めた。
「これ、僕の名刺です。なにかあったら、いつでも携帯電話に連絡を下さいね」
「ありがと」はにかみを残して、秋子は教室を出た。
もう一度彼女たちと邂逅するとは、僕自身思っていなかった。あの涙の訳にも。そして、あの秋子のつくられた笑顔にも。すべては、想い出になると思っていた。そう、あの夏の日までは。
三
ヒグラシが空を割るように鳴いている。雨が青空を連れてきた。青が強く空を支配した。百五十㏄のバイクとジーンズが、美しく駆け抜けた。サングラスが太陽を阻んだ。夏の風が頬と髪を激しく梳いた。
彼女はあの時以来、ゼミにも、学校にも出てこなかった。もう夏休みが近づいていた。
「戸村さん、あの夕凪鏡子って学生、最近学校出てきてる?」
朔太郎は学生課を訪れていた。
「夕凪さんだね、ちょっと待って」
戸村と呼ばれた四十代の男性は、パソコンを操作して、出欠のデータを画面に出した。
「あ、そうだね、先生。……全然出てきてないよ。欠席だけだよ。困ったな」
「そう、電話番号わかる? 俺、電話してみるよ」
朔太郎は何度か電話をしてみた。けれど、鏡子の携帯電話にも家の電話にも繋がらなかった。だから学生課で教えられた住所をもとに、鏡子たちの家を訪ねてみることにした。
朔太郎は、地図を頼りにマンションを見つけた。バイクを降りて階段を上がり、ドアチャイムの所まで行った。そして朔太郎はチャイムを押したが、物音ひとつ聞こえなかった。
しばらく待ったけれど誰も現れない。朔太郎は仕方なくマンションを後にし、バイクに乗って帰路についた。
海岸沿いを走っていた時だ。ふと、眼下に広がる砂浜に、一人の女性が見えた。
まてよ、と朔太郎はバイクを停めた。
それは、あの秋子という女性だった。
予期しない偶然。ありえない過去。誰も知らない未来。僕らがたどり着いた季節が夏だったように、その道は海で行き止まりになっていた。
遠浅の海が果てしなく続いていた。海にバイクの走れる道は無かったが、心を決めて飛び込むことは出来た。だから、僕は飛び込もうと思った。あのヒグラシの鳴く、あの真夏の日に。まだ若かったあの日、驕れる夏。それは、僕らが一緒に過ごした、初めての夏になった。
「あれ、夕凪さんのお姉さん?」
水玉のパラソルから、ふっと、見上げた秋子の顔が美しかった。頬に付いた砂粒が煌めいていた。秋子は何も言わず、優しくはにかんだ。
遠くの海で、半身を海から出して、誰かが手を振った。秋子が立ち上がり、大きく手を振りかえした。朔太郎も、それに倣(なら)った。
「センセ。そのサングラス似合いますね」はにかんで秋子は告げた。
「あ、これ? いちおうオシャレのつもり」朔太郎はそういってサングラスを外し、隣あいてる、と訊いた。
どうぞ、と秋子はさらりと流した。
海の影がこちらに、ゆっくりと近づいてきた。
それは、真っ黒に日焼けした鏡子だった。
あ、鏡子ちゃんか……。朔太郎はひとりつぶやいた。
「毎日、朝から」秋子が語りかけた。
「毎日?」
「ええ」
「ね、お金とか大丈夫なの? あなたもでしょ?」
わたし活字の海を泳いでいるの、砂の付いた文庫本を持ち上げて、秋子ははにかんだ。
僕は絵の具の海かな、朔太郎は海を見ながら洩らした。
朔太郎が夕陽で真っ赤に染まった海に、真っ白な砂を投げた。
ようやく鏡子が浜辺へ還ってきた。
もう、夏は終わろうとしていた。
鏡子はしばらくぶりに学校へ出てきた。朔太郎に呼び出されたのだ。鏡子は絵画修復のゼミ室に行った。
床に白い布がかけてあった。
朔太郎は何も言わず、白い大きな布を取った。
その時、フレスコ画が現れた。光の大天使ウリエル様の、あの壁画だった。それは完璧に修復されていた。
もう一度、あの時と同じ聖水のような涙が頬を伝った。今度の涙は笑顔を連れてきた。
僕らは結局、あの夏の思い出を殆ど話さなかった。それは若い夏の日々がそうさせたのだ。それはあの涙がすべてを語っていた。僕らは海を眺めながら同じ時を過ごしたのだ。その思い出は、驕れる夏の思い出は、もう涙にならない。流れて外へ出て行かない。内に秘めた強さが、涙をダイアモンドに創り変えたのだ。
そうあの夏は、ダイアモンドのような太陽がいつも空にあった。
(結)
2020年8月26日 発行 初版
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