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2020年、春。私たちは突然等しく新型コロナウイルス感染症のパンデミック(世界的大流行)に見舞われた――。経験したことのない社会的混乱の中、長期にわたる自宅でのオンライン授業生活を余儀なくされた京都芸術大学文芸表現学科の学生3名が、コロナ禍で気づいた自らの〈問い〉に真正面から向き合うインタビュー集。2020年度前期授業「創作ワークショップⅨ」課題作品(担当教員:姜 尚美)。

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コロナと私たち

河内晴菜
斎明寺藍未
日笠みづき



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コロナと私たち 目次




コロナと友達             河内晴菜


ナインティーン・ウィズ・コロナ    斎明寺藍未


コロナ禍を生きる女性たち       日笠みづき



著者略歴

コロナと友達                 河内晴菜


 突如、世界を襲った新型コロナウイルス。私たちのこれまでの生活は一変した。自粛生活を余儀なくされたこの数ヶ月、私は「友達」について考えていた。
 誰とも会わない生活に慣れてきた頃、ふと「あの子は元気にしているだろうか」と気に掛かった。
 コロナ以前は私生活に追われて友達の事など二の次だった私は、「特定の誰かを心配している私」がいる事に驚いた。そして、「心配になるほどの友達はたったの数人しかいない」という事にも。
 コロナによる自粛を通して、明確になってしまった「大事にしたい友達」と「そうでない友達」。
 コロナ以前では考えもしなかった、この二極化の間に引かれた基準とは、いったい何なのだろう。
 はっきりとしないものだからこそ、日々の忙しさにかまけて気付かないフリをしていたその基準に、気付いた人々がいるのではないだろうか。
 この「無意識の基準」を具体的な言葉にしてしまうのは非情のようにも思える。だが、コロナを機に起きたこの心の変化を無視する事はできないと思った。そこで、人々の「友達観」について二〇二〇年七月の初め、取材を行った。

調査方法

・アンケートの実施
・個別インタビュー


 「コロナと友達」というアンケートフォームを作成し、SNSにて投稿。七月四日から十三日までの十日間で実施した。数名には直接アンケート参加を依頼し、計一〇九の回答が集まった。

 アンケートは全九問。まずは問①②で当たり障りのない質問から始め、残り七問を大きく二種類に分けた。前半の問い③から⑥を「友達に対する心境の変化」、後半の問い⑦から⑨を「人付き合いに対する考え方の変化」を問うものにした。
 前半では「大事にしたい友達」というものを明確にイメージしてもらう為の質問を用意した。だからこそ、問い⑤であえて厳しい質問を置き、この質問にこそ「友達に対する心境の変化」が顕著に表れるのではないかと考えた。
 後半では、考え方について答えてもらう為に、心境の変化をイエス・ノーで答えて頂いた。問い⑦⑧で心境の変化を答える事で自ずと考え方に変化が出るのではないかと考え、最後に問い⑨の質問を用意した。


「コロナと友達」アンケート結果(小数点以下は四捨五入)
 問い①コロナによる自粛はしましたか?
    ・積極的にした67% ・周りに合わせて自粛した30% ・その他3%
 問い②自粛中は何にストレスを感じましたか?
    ・外出(買い物、遊び)ができなかったこと38% ・友達と会えなかったこと24
    ・感染に対する不安17% ・その他22
 問い③自粛で人と会う機会が減ってどうでしたか?
    ・寂しいと感じた47% ・他人に気を遣わなくていい生活は楽だった28
    ・人といい距離感をもてた10% ・人と距離ができて、不安を感じた8%
    ・その他9%
 問い④自粛により会えないと不安、心配を感じる友達はいましたか?
    ・不安まではいかないが気に掛ける友達はいた44% ・いた29
    ・いなかった23% ・よくわからない4%
 問い⑤一方で、別に会わなくてもいいやと感じる友達はいましたか?
    ・いた41% ・そこまでは思わないが、実際にそうなるだろうと思う友達はいる33
    ・いなかった20% ・よくわからない6%
 問い⑥自分の中で本当に大事にしたい友達が明確になりましたか?
    ・大体の振り分けはついた42% ・とてもはっきりした28
    ・よくわからない28% ・より悩んでしまうようになった3%
 問い⑦コロナの自粛を経て、人間関係に心境の変化はありましたか?
    ・あった42% ・なかった40% ・よくわからない17
 問い⑧自粛前と後で人付き合いは変わったと思いますか?
    ・変わらない47% ・変わった31% ・これから変わると思う15
    ・よくわからない7%
 問い⑨自粛を経て、人付き合いへの考え方は変わりましたか?
    ・変わった52% ・変わらない48

※1.〜9.のアンケート結果の円グラフはGoogleフォームを利用


アンケート結果について

 このアンケートを通して、約七割の人がコロナでの自粛を機に「大事にしたい友達」と「そうでない友達」が明確になったと感じている事がわかった。一方で、人付き合いへの考え方は半分にわれた。「大事にしたい友達」と「そうでない友達」が明確になっていながらも、この先の付き合い方に変化はないと考えている人が半数いるという事が判明した。
 このアンケート結果を基に興味のある回答を頂いた二名、私の知人二名、計四名の方に個別取材を依頼し、インタビューを行った。



インタビュー


山口やまぐち栞菜かんなさん

 大阪府出身、二十歳。小学校からバスケットボールを始め、大学でもクラブに所属し、選手生活を続けている。
 山口さんのアンケート回答では、次の二つに興味を惹かれた。
 問い③「自粛で人と会う機会が減ってどうでしたか?」
 回答「友達の大切さを改めて感じた」
 問い⑥「自分の中で本当に大事にしたい友達が明確になりましたか?」
 回答「より悩んでしまうようになった」
 「友達の大切さを改めて感じた」にもかかわらず、「大事にしたい友達」について「より悩んでしまうようになった」とは、どういう事なのか。
 この二つの回答を基に、山口さんの友達観についてインタビューを行った。

――山口さんにとって友達とは――

 自分が人生を過ごす上で必要な存在。団体競技をしているからこそ強く感じるのかもしれないけれど、その子がいてくれたから頑張れたり、乗り越える事ができると思う。自分が成り立つ上で欠かせない存在。

――自粛期間で友達に会えなかったと思うけど、どうやった?

 チームメイトの事は気になっていた。高校時代のチームメイトの中には就職した子もいてコロナの影響受けてないかとか。大学の子はみんなちゃんと体を動かしてるか、寮生活の子はストレス掛かってないかとかは気になってた。

――逆に自粛期間中、「この友達とは会う必要性ないな」と感じた子はいた?

 いたな。ストーリーとかでよく見る子はそれで会えるというか、見れるから会いたいとかは思わんかった。逆にあんまりSNSで見ない子は気になったりしたけど。

――うんうん。でもさ、SNSでよく見る子の中には外で遊んでる子もいたやん。それはどう思った?

 バカやなって、バーべキューしてる子とかな。

――そういう子の中で距離置こうと思った子はいた?

 いるのはいた。大学のチームメイトの同期の子が結構遊びに行ってるの見て、ほんまに幻滅した。けど、学校が再開してその子ともまた喋るようになって、気付けば幻滅してた時の感情はなくなってた。

――コロナ自粛をどう過ごすかで人間性ってのが露になったけど、その中で大事にしたい友達ってなんやと思う?

 うーん、悩むな。自粛期間で自主練しかできなくなった時に、チーム競技やから一人での自主練はきつい。でもそこでラインや電話がきて、「頑張っている」とか「今はこうやってるよ」って言われて、じゃあ自分もって思えたし、自粛に負けずに練習できたからチームメイトの大切さは改めて実感した。けどこうやって連絡をくれた子がコロナ以前の自分にとってめっちゃ大事やなって思ってた子じゃなかったから、そういう子たちが心配してくれた中で、本当に大事な人ってなんやろなって考えるようになった。

――じゃあ、コロナの期間で人付き合いは変わった?

 「大事にしたい友達」が「自分の事を気に掛けてくれる子」になりつつあるから、自分もその子に対して気に掛けるようになった。コロナ前の自分が大事やと思ってた子よりかは連絡取ってるし、そういう面では変わったかな。

――人付き合いが変わっていってると思うけど、友達付き合いに対して考え方は変わった?

 全部チームメイトの事になるんやけど、自粛期間で頑張る子とそうじゃない子は明確になって。そこで自分が誰といる事で成長できるか考えた時に、これまで仲良くしていた子じゃない、自粛期間に連絡をくれた子といる事でいい方向にいくなって考えができたかなと思う。


 山口さんにインタビューを行い、「一緒にいる事で成長できる子」の存在はとても大きなものという事がよくわかった。スポーツを通して互いに成長していける存在。そこから育まれる真の友情というものを山口さんの友達観から垣間見る事ができた。



嶋谷しまたに美輪みわさん

 大阪府出身、十九歳。京都芸術大学・映画学科(俳優コース)。
 嶋谷さんのアンケート回答では次のものに興味を惹かれた。
 問い②「自粛中は何にストレスを感じましたか?」
 回答「遊んでいる人のSNSが目に入ってくること」
 この回答が気になり、嶋谷さんの友達観についてインタビューを行った。

――嶋谷さんにとって友達とは――

 大切な存在。互いに同じ熱量で大事にし合える子。


――自粛期間で友達に会えなかったと思いますが、不安とか感じましたか?

 不安とかは感じなかったかな。SNSや電話があるし、めっちゃ会いたいとかはないかな。美輪は予定を詰めるタイプやから、時間があったら自分のやりたい事に費やしたい。

――逆に自粛期間中、「この友達とは会う必要性はないな」と感じた子はいましたか?

 コロナで自粛しなあかん時にわざわざ遊びに行って、それをSNSに上げる人とは長く続かんと思ったかな。でもコロナが収まったらそういう人達ともまた学校やバイトで顔合わせると思う。たぶん表向きにはご飯行ことか言うけど、実際に理由作ってまで会う事はないと思う。
 
――自粛期間中、人との距離感はどのように感じましたか?

 自分に時間を使えたからいい距離感に感じた。普段しやん事を全部自分に費やせたからって意味と、これから関わっていきたい人とか大事にしたい人、自分を大事にしてくれる人が明確にわかったから、それも含めていい距離。いろんな人と良い距離感やったかな。

――コロナ以前ではどうでしたか?

 それまでも無理に人と会ってたわけじゃないけど、自分はいろんな人と仲良くなりたいからまたご飯行こなって言われたら行きたいんですよ。そんなに仲良くならん人でもご飯ならって。そういう事もせんでいいから。別に誰かに頼まれてる訳でも、無理してる訳でもないけど背伸びもしなくていいってゆうのはあったかな。

――では、自粛期間を経て感じた「良い距離感」の中で人付き合いは変わりましたか?

 目に見えて実感が無いから難しいけど、人によっては変わっていくと思う。コロナの時期で美輪が感じたモラルがないなって思っちゃったりした人とは絶対変わると思う。でもちゃんと自粛してて、こういう時に危機感を持って行動できる人とは今までと変わらんと思う。

――最後に、人との付き合い方の考え方は変わりましたか?

 うん。誰かを拒絶したい訳ではないけど、全員の事を大事にするのは無理やから、自分にこれだけゆっくり時間を費やせるのは良かったし、人付き合いはほどほどでいいかなって思った。
コロナの影響があったからって今までとめっちゃ変われる訳じゃないけど、大事にしてくれてるって感じた人を大事にしていくと思う。今後何があるかわからんけど、現時点で信用できる人を見極めれたから、ちゃんとその人達との関係を大事にしていこうかな。


 嶋谷さんにお話を伺い、「現時点で信用できる人を見極めれた」というこの言葉に、自分と相手を大切に考える事が大事だと感じる事ができた。今の自分には誰が大事で信用できるのか。この先に何があるかわからずとも、過去でもなく未来でもない今を大事にしている嶋谷さんの友達観に触れる事ができた。

江守えもりさやかさん

 東京都出身、二十一歳。京都芸術大学・文芸表現学科(クリエイティブ・ライティングコース)。
 同じ学科の友人である江守さんには直接、個別インタビューを依頼した。彼女とは以前、互いの友達観についてファミレスで語り合った事があり、その「友達の定義」がとても印象的だった。今回のアンケートにもご協力頂き、
 問い⑨「自粛を経て、人付き合いへの考え方は変わりましたか?」
 回答「変わった」
 この回答について、江守さん自身の友達観にどう変化があったのか、インタビューを行った。

——江守さんにとって友達とは――

 代わりがいない存在。私が関わりたいとか好きとか居心地がいいとかではなくて、私にはないものを持っている人や、その人の一面やある部分において、この人卓越しているなと思った人、尊敬できる人。

――自粛期間で友達に会えなかったと思うけど、どうだった?

 心配な子はいた。東京の友達で、渋谷のライブカフェみたいなところでバーテンダーをしている子。その子のコロナに対する考え方の薄さに元々心配なのはあった。それに加えて芸術に関わる子で、結構作品にのめり込んだり思い悩んだりする子だったので、もしかして体調崩してないか、コロナじゃないかという不安はずっと持っていた。

――逆に自粛期間に「会う必要性がないな」と感じた友達はいた?

 コロナの前には下宿先が近い事もあって、ずっと一緒に過ごしてた友達がいた。用もないのに一緒に課題をやったり、一週間のうち五日ぐらい遊んでいた。それがすごく楽しい時間でもあったけど、いつでも会えるからこそ薄いというか。嫌な時間ではなかったけど、それが私にとって必要だったかどうかは言い難いな。
 コロナの自粛で一人の時間が増えて、逆に今までどんな時間の過ごし方をしてたか考えると、色んな人と会ってたなと思う。その不特定多数の人と会ってた時間が全て必要だったかと言ったらそうではないなと思う。

――じゃあ、この自粛期間中、彩にとって人との距離感はどうだった?

 良い距離感だったかな。コロナ前は人との距離感が近すぎた。自分の時間がなかったし、離れてるからこそ相手を尊重して、互いの事を考える事ができたなって思う。
 しょっちゅう会ってたら、わざわざその人の事を考えないと思うんですけど、自粛を機に、会わなくてもいい、連絡を取れればいい、それだけでも友達でいられる人がいる事に気付けた。

――相手の事を考える時間が持てた中で、大事にしたい友達って明確になった?

 なったね。私は人に頼られた時に、この人を助けれるのは私しかいないんじゃないかと思ってしまう事があった。でもそれは本来、私の時間を割いてまでする事じゃないって気付いた。それに、そんな自分の事を差し置いて考えなければいけない存在ってほんとに友達なのかなって思えるようになった。
 だから大事な友達とは、お互いに助けて貰ってばかりと思わずにお互い様だねって心から思える。お互いに本当に大事だと思っているから、「お互いに得られるものがある関係」っていうのが友達としてのランクが高い。私としては、一度そう感じた人は、今後ずっと得られるものがなくなったとしても大事にしたい友達だなって思う。

――大事にしたい友達が明確になった事で、人付き合いへの心境の変化はあった?

 あったかな。人から直接会って頼まれると断りにくい事ってあると思う。大学だと授業に関して、課題の事や授業にちゃんと出てればわかる事をこれ教えてよって言われて、教える。けど、そしたらもうラインをブロックする事が何回かあった。
 私の中にある変な庇護欲で人助けをしても、自己満にしかならない。それに相手の為にもならないし、いいように利用されてるだけって事に気付いた。だからこそ、断る勇気っていうのを持たないとなって思った。今までは、嫌な時嫌と言えなかったからブロックっていう手段を取ってたんですけど、今なら直接会っても言えるかなって気がする。

 それにその庇護欲が私自身を下げる事でもあるし、その私の事を信じてくれている友達も下げるような侮辱するような事なんだよって親に言われて。自分をないがしろにするのは、決して自分ひとりの問題ではない事に気付いた。
 お互いにとって必要な最低限の常識が元から無い人に対して、今更言うのは、もう遅い。だったらシャットダウンして、私がもっと深く付き合いたい友達の幅を広げる方がいい。皆に対して優しくする事が百パーセントだとしたら、いらない人の五十パーセント除いたらその残りの五十パーセントの人に百パーセントを与えられるわけじゃないですか。だから、いい意味で気遣いしなくていい人を優先していく。非情なようだけど私はすごく考えました。

――非情になる事で周りからの目に恐怖は感じなかった?

 全然ない。逆にそれで寄って来なくなる人がいるならば嬉しい事。私は「私が大事に思っている人」の事が何よりも大事。だからこそ、私がこれから関わる人にも「私が大事に思っている人」の事を、すっごく大事にしてほしいし、すっごく尊敬して欲しい。だからこそ、自分の価値を下げるような事はしないって決めた。
 それによって、怒った時に素直に言う事で敬遠されるとか、利用しにくい立場の人間になるっていうのは凄く勇気がいるし怖い事ではある。だけどそんな人って今後、私の人生に絶対必要ないし名前すらも忘れていくような人だと思う。そういう人達に非情だと思われたり、避けられたりするのは、むしろ望んでいる。大学に仲良しごっこしに行ってる訳じゃないので、一緒に学んでいく上で高め合える友達ならウェルカムだし、そういう人とは仲良くしたいなって思う。だけど、卑下し合ったり、他の人を下げて自分たちが上がるような友人は必要ないから、はっきりさせていきたい。

――自分を大事にする事で人付き合いは変わった?

 はい。私も体調崩す事が多いので、基本的に人の為に動くっていう事があまりできない。だけど、相手がほんとにしんどい時には自分から行動できるようになった。これまでは助けて貰う側だった自分が、私から会いに行ったり、連絡してみたり、なんでもない時間を一緒に過ごしてあげる事ができるようになった。
 でも、コロナの時だったから会う事はしなかったけど、私の考えとして、なぜ今会わないのかという事もちゃんと伝える事ができて、相手もそれをわかってくれたから尚更友達だなって思えるようになった。

――最後に、人付き合いへの考え方は変わった?

 はい。私は一回嫌いってなったら、もうその先は交友関係を断ち切っていたんだけど、視点を変えてみようかなって思う。自分にとって利益や価値があるかないか、利用できる人間かそうじゃないかとかではなくて、自分にはない考え方を持っている人に興味を持てるようになりたいって思った。自分に興味を示されて嫌だと感じる人は少ないと思うし。相手の話をしっかりと聞いた上で、私の考えをちゃんと言葉にできる相手っていうのが、今後私が人付き合いしていく上で基準になるんじゃないかなと思った。


 江守さんにインタビューを行い、「非情なようだけど、半分をシャットダウンしてまで本当に付き合いたい人に自らの百パーセントを与える」という言葉を聞き、彼女は大事にしたい友達の為にもブレない強い芯を持っている事が本当によくわかった。
 愛を以て自分を貫く事で結果的に本当に大事な友達を守る事ができるのだろうと感じ、より深い所で友達と触れている江守さんの友達観に心を揺さぶられた。


いのうえみゆきさん

 大阪府出身、三十六歳。美容師。
 私がいつもお世話になっている美容師さんのいのうえさんにも直接、個別インタビューを依頼し、アンケートにもご協力頂いた。
 問い③「自粛で人と会う機会が減ってどうでしたか?」
 回答「特に普段と変わらない感じでした」
 問い④「自粛により会えないと不安、心配を感じる友達はいましたか?」
 回答「いなかった」
 この二つの回答に興味を持ち、大人という視点から「友達」というものを語ってもらえないかと思い、いのうえさんにインタビューを行った。


——いのうえさんにとって友達とは――

 自分の陰の部分を出せる存在。

――自粛期間で友達に会えなかったと思いますが、どうでしたか?

 会えない事に対しては何も思わなかった。元々、ずっと一緒っていう関係の友達は少ないので、みんな、ある程度の距離感を保った交友関係っていうのが普段からあります。わざわざこういう時に毎日のように連絡を取る、頻繁に連絡を取る人っていうのは私にはあんまりいない。なんかあったら連絡来るだろうって感じで、連絡ないのは心身ともに健康で、こちらが心配する余地のない証拠かなって。だから特に不安を感じませんでした。

――「ある程度の距離感を保った交友関係」の中でも自ら連絡を取る人はいますか?

 います。なんでも言い合える子が一人いて、その子には自分から連絡を取ります。

――仕事仲間の方はどうですか?

 いません。仕事場の人は友達ではないので、仕事上の付き合いであって私情で心配するような事はないです。

――仕事関係で仲良くなられた方とは友達にならないのですか?

 ならないです。友達は違う気がします。私の中での本当の友達って自分の甘えも利く友達なんですね。でも仕事で甘えを見せると、甘えた仕事しかできなくなるので。元々、この人が友達だったらなっていう色眼鏡で見ないですし、同業者としてしか見てないです。

――逆に自粛期間、「会う必要性がないな」と感じた友達はいましたか?

 いました。暇だから遊び相手を探してどんどん周りに連絡を取ってる子は、時期を考えろと。多分こういう子って大事にするものが違うんだろうなって思ったんで、なんならもう別に一生会わんくてもいいかなって。

――では、いのうえさんが大事にしたいものってなんですか?

 私がコロナの中で一番不安と感じたものは、感染のリスクなんですけど。美容師という仕事柄、大事な事でもあって、それを一番最初の誘いを断る時点で説明はしてるんです。でも、その後も何度も誘ってくるっていうのは、理解してもらえなかったっていう事だと思う。それで誘ってくる子と私は、大事にするものが違うんだなって思いました。

――価値観の違いですか?

 そういう事です。ネット上でも見たんですけど「美容室に行きたい。でもいつもお世話になってる美容師さんの所に行くと、もし自分がウイルスを持っててうつしてしまったら嫌だから、初めて行くお店に行こう」って書いてる女の子がいたんですね。それは初めて行くお店に行けばうつっても知らないって事だと思うんです。それは人としてどうなんだろうって思って。でも案外、それに賛同してるその子のフォロワーもいて、この人達も私とは大事にするもんが違いますよね。

――そうですね。

 私は自分がなるのはどうでもいいんですけど、基本的に知ってる人でも知らない人でもうつしたくない。でもその女の子の中では自分たちは大丈夫だろうっていう自信が根底にあるんですよ、確実なものではないですけど。だから遊びたい、相手にして欲しいが勝ってしまってる。だからお店の人にうつっても申し訳ないっていう気持ちがまずないんだろうな。もし自分が軽率な行動を取って罹ったら、それがこのコロナ騒動の中、一番大変な医療従事者の人たちにも迷惑をかけるって事がわかってないんだなって思うと、感覚が違うなって思う。誰にもうつしちゃダメ、それを根底に置いてると、行動って変わってくると思うんですけどね。でもそれは、私の中の感覚であって、その子の中の感覚、そういう事を発言してる人の感覚ではないんですね。ていう事はたぶん、人として合わないという事になってくると思うんです。

――自粛の前と後で人付き合いは変わりましたか?

 変わらない。元々、ずっと一緒の関係という人はいないので私から連絡はしてないです。なんかあったら連絡来るだろうと思ってます。価値観の合わない人も向こうから連絡がきた時に対処すればいいやぐらいの交友関係になりました。

――では、子供時代を経験されたいのうえさんから見て、大人と子供の友達関係に違いはあると思いますか?

 違うと思う。大人になると会社の人、仕事場の人とはほんとに仲良くても友達ではないんです。会社ではその人達との付き合いをうまくやっていく事も仕事の一つ。でもプライベートな友達は自分の人生の中での友達なので大事。
 これどちらかが上手くいかなくてもどちらかが上手くいっていればメンタル面は保てる。けど学生って、ほとんどが学校での世界が全てだと思うんです。特に中学、高校ぐらいまでは。だからそこで何かが起こった時、全てに繋がってくるし逃げ場がない。たとえば、学校の中でも二つのグループと仲良くできる、でも片方で何かあったら回りに回ってもう片方のグループにもそれが流れて、結局どちらからもハブかれるっていう事がある。こうなった時にそれを気にせずいれる訳がないでしょう。今は特にスマホもあるから二十四時間だし。てなったら、やっぱり違うなって思います。
 自分の逃げ道はやっぱり作っといた方がいいと思うから、友達は全部一緒くたじゃなくて、学校の友達、バイト先の友達で分けて付き合い方を変えた方が上手くいくんじゃないかなって時もたぶんある。はい出た八方美人みたいに言われるかもしれないけど、八方美人は才能です。できない人は馬鹿正直、それも才能。だから別にいい事だと思うけど、みんな、ないものねだりなんで、自分の持ってないものを否定したいから否定する。なので仲たがいになったりとか悪口言う。学校って世界が小さいから、狭すぎて囲まれすぎてて息苦しくなってしまう。
 大人は職場の関係とプライベートな友達があるから、プライベートな友達となんかあっても仕事しとけば忘れられる。プライベートな友達は実際友達なんで、ふっとした瞬間に仲直りするんですよ。それが何年先かわからないですけど、ふとした時に友達と思ってたら絶対解決すると思うんですよ。
 会社でなんかあった時は友達が支えてくれる。会社で失敗した、ミスをしたっていうのは自分で反省して改善して自分がスキルアップしていかないとダメな事。だけど会社での人間関係ってなったら、自分も大人になろう、この組織の中で協調性を欠いたら上に立ってる人が大変だという、お金を貰ってそこで働かしてもらってるんだから、あまりかき乱さないようにしようってので自分も折れるっていう妥協を覚えてくる。でも妥協するのってすごいストレスやから、それを友達に支えて貰う。そういう感じでやっぱり大人と子供では人間関係違うと思う。


 いのうえさんにインタビューを行い、「大事な友達」だからこそ、心配に思うのではなく「連絡がこないのは、互いに心配しなくていいという暗黙の証拠」というように、信頼しているから、連絡しない人付き合いもあるのかと新たな友達観に触れた。何があっても変わらない、変わらない事が大事である証。そんな成熟した友達観をいのうえさんから聞く事ができた。




「無意識の基準」

 今回、四名に友達観についてインタビューを行い、四通りの「無意識の基準」を知る事ができた。
 取材を始めた頃、「無意識の基準」を言葉にしてしまっていいのかと悩んでいた。言葉にしてしまう事はとても非情のような気がしていたのだ。「友達」について考える事は、世間の中での自分の立ち位置がわかってしまうような気がして、それにショックを受けるのではないかと思っていた。
 しかし取材を始めて、四名の方に自分の立ち位置や友達について赤裸々に話して頂き、考え方は変わった。「無意識の基準」を言葉にする事は決して非情な事ではないと。四名がそれを物語ってくれた。

「一緒にいる事で自分が成長できるか」
「現時点で信用できるか」
「自らの百パーセントを与えたいか」
「連絡をしなくても信頼できるか」

 どれにも非情なんて言葉は似合わない。むしろその人の人生の背景が色濃く反映されている価値あるものだ。その人が歩んできた道のりに何人も存在した友達、その中で時間をかけて大切に形成された価値観のもとに、この「無意識の基準」というものができあがったのだろう。


最後に

 私にとっての「無意識の基準」。この取材を行うまでは、はっきりと言葉にできなかったそれを、今なら言葉にできる。「顔を合わせて話がしたいか」だ。
 私は、大事だと思う人こそ相手の顔を想像してしまう。今回の取材で初めに覚えた違和感もそうだった。「あの子」の顔が浮かんだのである。元気かどうかわからない「あの子」に直接会って、顔を合わせて、話がしたい。そう思った。現代ではネットが発展し、画面上でいくらでもコミュニケーションを取る事ができるようになった。だが、私は直接会う事に固執しているのだろう。会話の中の相手の相槌や纏う雰囲気を、直接会う事でしかわからない、変わりゆく些細な変化を見ていたいと思うのだ。
 私の「無意識の基準」は、コロナ自粛がなければ絶対にわからなかった。いつでも直接会える環境を失って初めて気付いた。いつでも会える事が当たり前ではない世界で、もう友達を二の次にはしない事に決めた。「大事な友達」だからこそ、今を一緒に大切にしていこうと。

ナインティーン・ウィズ・コロナ       斎明寺藍未


はじめに

 十代最後の年。十九歳の一年間がまさかこんな風になるなんて、私には予想できなかった。子どものころ私が想像していた十九歳はキラキラしていて、もっと言えば二十歳を目前にして少しはシュッとしてるものだと思っていたんだけれど。キラキラどころか今の私は、新型コロナウイルスの流行のおかげで、もう半年以上大学に行けていない。
 ウイルスの流行により外出や県を跨ぐ移動の自粛を国から要請されていた私たちは、現在授業をオンラインで受講している。画面越しにしか誰かに会うことができない日々はどこか冷たく、今自分は何者なのか、いまいちピンとこない日々だ。

 二〇二〇年三月二十五日。東京都の小池百合子知事は記者会見での質問に対し「既に感染していながらも、若い方々、特に体力のある方々かつ行動力がある方々が、自分自身が感染しているということの自覚がないままに、あちらこちらと活動される」と発言した。
 また、三十日の記者会見では、「特に若者の皆様にはカラオケ、ライブハウス、そして中高年の方々につきましては、バーやナイトクラブなど接待を伴います飲食店に行くことは当面お控えいただきたい、自粛していただきたい」とも呼びかけた(1)。
 あれはおそらく、このような記者会見が行われる一、二週間前のころだったと思う。
 そのとき、テレビや新聞記事、インターネット記事などでは私ぐらいの年代の人たち、つまり「若者」と称される年代の人たちが極端に悪く言われていた(2)。
 その背景には、三月初旬、大阪市内の四つのライブハウスで全国最大規模のクラスター(感染者の集団)が発生した件や、三月二十九日、卒業旅行やゼミの懇親会に参加した京都産業大学の学生の間でクラスターが発生したとの疑いが報道された件も大きく影響しているだろう(3)。
 次々感染者が増えていく日々の中、「大人」の中には若者に対し、「感染を抑えられないのは若者が外出を控えないからだ」というような論調のツイートを投稿する人もいたようだ(4)。
 繁華街を歩く「若者」に誘導尋問のような質問を投げかけて無防備なコメントを報道するなど、テレビや新聞などのメディアが公然と「若者叩き」を行うこともあったし(5)、「外出しているのは、主に中高年で、実は若者だけではない」という擁護論のかたちをとりながら「大人」と「若者」を区別するような発言が当時は多く見受けられた(6)。


 私は強い違和感の残るその報道のやり方を受け、『マガマガ・メモリー』(7)というウェブ記事を執筆した。この記事は私が初めてひとりで企画や取材、執筆から発表までを行った自主制作記事で、「若者」にあたる年代の人をターゲットにしたものだ。中学生から社会人まで約一六〇名が回答したアンケート結果をもとに、若い世代の人たちが少しでもこの状況のなかでも前を向けることを祈って発表した。
 私は、この記事を通して、自分と同年代、いわゆる「若者」の世代に何か言葉をあげたかったのだと思う。誰かに会うことも、不安な気持ちを吐き出すこともできないまま「若者」というだけで世間から冷ややかな目を向けられる人たちに、ひとりじゃないんだと言ってあげたかったのだ。

 私たちは、〈若者〉か〈大人〉かと問われれば、もちろん「若者」側の存在だろう。
 だが、〈子ども〉か〈大人〉のどちらかと問われたら、どうだろう?
 私たち〈若者〉とは、いったい〈子ども〉か〈大人〉どちらなのだろうか?

 二〇二一年の一月に成人式を迎える私は、今の状況を受け、そう考えるようになった。

 そこで私は、「十九歳は大人なのか、子どもなのか。子どもはどこから大人になるのか」という疑問を、自分の尊敬する先生二人にぶつけてみた。普段小さな子どもに「大人として」接し、学生という、大人でも子どもでもない年代に「先生として」接している方々にこの問いを投げかけ、先生たちのこれまでの生い立ちを踏まえたうえで一緒に考察していきたいと思う。
 この「ナインティーン・ウィズ・コロナ」に触れたあなたが大人でも、子どもでも、もちろん、そのどちらでなくてもいい。これを読んだ後、あなたがあなたの居場所を、もっと好きになってくれたらいいと思う。






中村純先生インタビュー


中村なかむらじゅん
 一九七〇年十二月七日生まれ、東京都出身。京都芸術大学文芸表現学科専任講師。編集者・執筆業・詩人。詩誌『詩と思想』(土曜美術社出版販売)の編集委員。慶應義塾大学文学部在学時に『三田文学』編集に携わり、文化出版局、三省堂出版局等を経て、独立。企画編集、執筆、講演活動、国家資格キャリアコンサルタントとして、企業講師、キャリア講師なども実施する。



◎「ひとりの『大人』になる」という意志

––––時代や環境の影響で、自身を「早く大人にさせられてしまった」という中村先生。早稲田大学ジェンダー研究所の客員研究員のころ女子教育や女性文学を研究し、文芸誌や女性雑誌、中学・高校の教科書などの編集を行っていたこともある先生は、小学生の息子を持つ母親として、いつも人のことをよく観察している。
 「小さいときから、王子様を待つ人生なんて嫌だなと思ってた」。
 「十九歳は大人なのか、子どもなのか」という問いに対する中村先生のインタビューは、女性にとって、どきりとするような一言から始まった。


 私が通っていたころの女子の一貫校では、「王子様がどこかにいる」という教育を受けたんです。有名な企業で働いていたらそれだけでどんな男性も「いい男」扱いだし、そんな人と結婚して子どもを産んで、ある程度よい暮らしをすることが、「女の幸せ」と刷りこまれた。私が子どものころ、女性の先生たちのなかには戦争で男の人が亡くなってしまって、シングルで働き続けざるを得なかったご高齢の先生方もいらして。だから、私たちには「幸せになってほしい」と考えられた。でも私は、大人にはもっと違うことを言ってほしかったんです。「王子様が来てくれなければ始まらない」人生に違和感を覚えていたし、「誰かに幸せにしてもらう」ことだけが幸せじゃないでしょう? と思っていました。

 だから、当時の私はロールモデルを探していました。私は中学生のときから「早く大人になりたい」という気持ちが強かったので、十五歳ごろには自分の輪郭がはっきりして、大人になったような気がしていた。当時は若い子が手軽に読めるライトノベルはないから、私は大人が読むような文庫本に、本の海にいつも触れていたんです。
 そんな中で見つけたロールモデルは、中一のときから好きだった、作家の落合恵子さん。彼女の書いた『夏草の女たち』という本を読んで、私は彼女のまなざしや、女性としての強さに驚いた。「このお姉さんすごい」って思ったんです。
 周りにいた大人は結婚やお見合いの話ばかりしてきたのに、彼女は「私がどう生きるかは私が決める」「私の幸せは私が決める」と、自分の人生に自分で責任を持っていた。落合さんはシングルマザーの家庭に育って、社会の大多数とは違うものに対してのまなざしがあった。ものすごく優しい、独特の目を持っている女性だったんです。私の祖母がシングルマザーとして生き抜いた人だったため共感したということもあり、私は落合さんにとても憧れました。

中村先生所蔵の落合恵子著『夏草の女たち』(写真右)。作品は映画にもなった
(写真提供:中村純)

 そういう、身の周りにいないような、自分自身の言葉で生きられる人はいつも本の中にいたから、私はそういう人に会いたくて本に関わる仕事をしたいと思ったんです。また、当時は今よりもっと女性が経済力を持つ手段が少なかったから、きちんと生きていけるくらいに働くには、自分の得意なことで生きていくしかないなとも思いました。だから、自分が当時得意だった教科から仕事を考えたりもした。国語と英語が得意だったから、「それを生かして仕事につながるのは何かな……」みたいに。本の中で出会う大人たちは、「こういうことを言ってほしかった」と思うような言葉を持っていたので、私は本や小説に関わる世界で、そういった大人にたくさん会ってみたかったんです。
 若いころは、童話作家や小説家や詩人に憧れていました。けれど当時の女性作家さんたちは、経済は夫が支えて、自分は主婦をしながら作家活動をする方が多かった。私は「王子様がいなくたって、ひとりで生き延びられる女性」にならなくちゃと思っていたから、「いやいや、これはやっぱり違うでしょ」と思って、まずは出版社で編集者や記者になりました。

 私は子どものときから家を出ようと決めていたから、進学を反対されたけれど、職業を持つために四年制大学に進学しました。私の入学した大学は、高校生のときとは違って入学した途端に先生の庇護からは離れるんです。学科事務室もなければ、高校までのように先生方が自分を気にかけてくれることもない。単位を落とすのは自分の責任。全てを自分で考えて、自分で決めなきゃいけなかったんです。
 だから、二十歳になったときよりも、高校を卒業したときの方が「大人になった」感じはありました。〝二十歳になったから大人〟とは当時はあまり思ってなかったし、お酒が飲めることは変化としてあるかもしれないけれど、私はもともとあまり飲めないので(笑)。だから、二十歳になったときは特に何も感じませんでした。


◎「やっと一歩」、自由の始まり

––––中村先生が大学に通っていた平成のはじめ、大卒の女性の仕事といえば一般事務職と、ごくわずかな総合職の求人のみだった。就職しても二、三年で結婚を決め、すぐに仕事を辞めることが女性に期待された時代。だから中村先生は、まず「そうじゃない仕事」に就くことを決めた。


 就職試験は、まず銀行の一般職の内定をいただいて、総合職、新聞社、出版社を中心に受けました。
 私が自分のことを「大人になったな」と思ったのは、出版社への就職を自分の意志で決めて、内定をもらった大学四年生、二十二歳のときでした。そのとき初めて私は、自分の生活を自分で全て賄えるようになった。「一般職では自立できるお給料はいただけないけれど、出版社の仕事なら自立できる」という確信を得られる就職先に内定を得て部屋を借りたとき、すごく安心したんです。少しは未来が開けた気がしましたし、やっと一歩、自由になれたんだと思いました。

 住んでいたところは東京都内だったので家賃もそんなに安くはなかったです。「家賃は給料の三分の一」と言われていたのでいろいろと調べて、西武新宿線の線路沿いに小さな部屋を借りて生活していました。今思えば部屋も狭すぎたし、すぐに本でいっぱいになってしまいましたね。あまりいい部屋ではなかったから、そんなに居心地のいい空間ではなかったな。


◎「大人でよかったな」を、積み重ねていく

 大人になると、なんとか経済的にやっていけると感じるメルクマールというか、ポイントがいくつもあるんです。それは、二十代のときも、三十代のときも、いつもそう。私はそのたびに「やっぱり、大人でよかったな」って感じるんです。そのポイントはこれまでにたくさんあって、こうして歳を重ねるにつれて、その気持ちも一個一個積み重なっていくんだと思います。

 私がこれまで生きてきて感じたことは、「仕事と住まい」の意外な大切さ。三十五歳のとき東京の都心に連れと一緒にマンションを買ったことで、私はとても安心しました。就職したてのころ、部屋を借りたときもそうだったけれど、私にとっては、自分が大人であるために「仕事と住まい」がすごく大事だったんです。

◎「大人」である前に、ひとりの「ひと」として

 私は早稲田大学のジェンダー研究所で勉強させていただいていたので、差別問題や社会階層による力関係には敏感なんです。
 メディアで公然と若者のことを悪く言う人たちは、若者のことを「叩いていい」と思っている。それは、ある種の差別だと私は思います。

 今の若者は数も少ないし、選挙にも行かない人が多いでしょう。社会に対しての影響力が大きくないんですよ。七十年代の学生運動があった時代は若者の人数も多かったし、「自分たちが社会をつくるんだ」というパワーがありました。団塊の世代の方たちですね。でも今は、若い人たちが経済力や雇用の安定を持ちにくくなっていて、社会的な意味では非常に自立しにくくなっています。
 本当に力がないかは別として、自分より弱い立場の人を叩いていいわけがないんですよね。私は、現在マイノリティーがすごく差別されてるなと思います。障がい者や在日コリアンの方、外国籍の人たちやLGBTQの人たちが差別されるように、「大学生」という存在が叩いていいものとされているのを感じます。それは、社会全体が寛容でなくなっている、皆が働かざるを得ない厳しさにあるからでしょう。

 ヨーロッパは学費が無償の大学が多いんです。でも日本は、「学びたい」と思っている学生にとても厳しい。奨学金は返済が必要だし、学費による家庭への負担も大きいのに、コロナをきっかけにして大学生に向ける社会のまなざしが冷たいことがあらわになりました。「バイトができなくなって学費が払えなくなったのなら、働けばいいだろ」などの発言をネット上で言う人も現れましたね。もちろん、若者たちの困窮に心を砕いている大人たちもいるけれど。大学という教育機関そのものが、貶められているのかもしれません。

 失礼なことや嫌な気持ちになることをぶつけられたとき、たいていのことは相手の問題なんです。それを分かっていて、自分で境界が上手に引けるようになると、何を言われても少しは心を守れるんですけれど。ときどき、相手が「嫌だ」って言っているのになかなか引かない人もいるじゃない。相手が嫌がったら引くのが大人。「自分の問題」と「相手の問題」を一緒にしてしまうような人や、自他の境界線が分からない人はある意味大人ではないと思います。


 「人がどこから大人になるのか」という視点から言えば、まず、「子ども」という概念自体が昔はなかった。フィリップ・アリエスの『〈子供〉の誕生』という、私が大学二年生のときに教職課程のレポート課題になった本にそのことが書かれています。
 ヨーロッパでは中世から十八世紀に至るとき、「市民」の概念ができていった。そして、「学校制度」ができていく。すると、それによって子どもたちが、大人の社会から隔離されていくんです。「子ども」が「子どもとして扱われる」ようになって、初めて「子ども」という概念ができた。それまでは、小さな子は大人の手助けをするための「小さな大人」でしかなくて、それは日本も同じだった。子どもを「教え育てよう」というのは、近代の発想なのです。


◎「考え続ける」必要性と、自己決定

 学生の皆さんを見ているときも思うのですが、若い人や子どもの成長のスピードは、すごいんですよ。大人の一年とは、ほんとに全然違う。なので、そんな「成長していく」ところを感じると、教育に関わるってやっぱり面白いなあって思うんです。

 私の子どもは、今小学六年生なんです。彼は六年生になって、知的な力が大変伸びてきています。読む本も変わってきつつあるし、何より、批評眼を持てるようになってきている。「あの人はこういう意見を持っている。だけど、ぼくはこう思う」と、相手を否定することなく自分の考えを持つことができるようになってきているんです。

 それから、彼は自分のことを自分で決められるようになった。自分が「こうしよう」と思うことを、自分で決めて実行できるようになったことに対して「えらいなあ」って思っているんです。
 緊急事態宣言が出ていたころの彼は、母親である私が昔肺炎を二回したことがあるから「自分がうつしちゃいけない」と思ってるせいか、私以上にコロナを怖がっていました。
 学校が再開することになったとき、彼は学校の対策が甘いと考えて二週間ほど学校に行かなかった。給食が始まったときも、最初は給食を食べないで様子を見ることにした。そういうのを、全部自分で決めるんです。周りには内申書を気にしたり、「みんながそうするから」と学校に来ていた子もいる。行かなかったら行かなかったで周りの目がしんどくなっていくこともあったようだけれど、彼はその居心地の悪さも自分で受け入れられた。どっちが居心地がいいかも考えて、自分で咀嚼して、彼なりに自立することができたんですよね。そういう姿を見ると、自分の息子がしっかりしてきたのを感じます。


 「大人になること」。
 つまり「成熟する」ということにおいて、「自己決定力」は大きいのかなと思います。
 「自己決定力」は、自分のやりたいことを「やりたい」って言うだけの力だけではないんです。情報を自分で集めたり行動したり、自分で相談に行ったりすることができるようになる必要がある。「自己決定のための必要な手続きが自分でとれること」が必要なんですね。
 それから、自分の始末を自分でつけられることも必要です。失敗したらちゃんと謝るとか、お礼を言うとか、そういうことが自分一人でできることも「大人」に必要な力だと思います。
 あとは、自分に自信が持てるようになったら、人のこともリスペクトできるようになるのかな。自信がないと人と自分をどこかで比べたりとか、自分と相手の境界が曖昧になってしまうことがあります。

 私が気を付けているのは、「あなたはどうしたいの? 私はこうしたい」という考えを常に持つこと。イギリスに留学したときに、「ユー・キャン・チョイス。イッツ・アップ・トゥー・ユー」とよく言われました。それは、「こんな選択肢とこんな選択肢がある。あなたはどうしたい?」というメッセージ。本人に、自分がどうしたいのかを自分で考えさせてくれる言葉でした。
 日本では、子どもや若い人に対してこういう接し方はあまりしないでしょう?
 私は、学生は周囲の関わり方によって大人にも子どもにもなると思っていて、実は皆さんのことも大人扱いした方がいいと思ってるんです。子どもも、「イッツ・アップ・トゥー・ユー(あなた次第だよ)」と言われたら、もっと自分のことを、自分自身で考えると思います。

 その人の人生を決めるのは、その人です。でも「自分で決める」ことに、すごく苦労している人もいる。そういう人には、大人として少しだけ、選択肢を増やすことは言えるけれど、その人の代わりには生きられない。自分の生き方や選択を人のせいにせず受け入れられることが、自立への始まりなのかなと思います。

◎さいごに

 今の十九歳の人たちは、コロナウイルスの影響を社会が受けた状況でどうしようか悩んでいるようだけれど、それは大人も同じですね。仕事や暮らしで路頭に迷ってる人も、たくさんいる。でも、今の環境でできることを、精一杯やるしかないんです。それは誰でも同じだと思う。大人でも子どもでも。だって、先が見えないのは一緒ですから。

 それから、このような期間でも、蓄えたことや実行したことは自分を裏切らないですよ。もちろん縁や運もあるけど、やってきたことは必ず、未来の自分を助けてくれる。分からないなりにでも、今できることをするといいと思います。
 もし困窮したり、体調面や金銭面で困ったりしたときは、助けを得られる情報や人を探してみるといいと思います。きっと役に立つ何かや手掛かりはありますから。でも、もしそれでもどうにもならなかったら、周りの人に相談するべきです。相談する力というのも、生き延びるためには結構大事ですから。
 皆さん、どうぞご無事で。いつでもみんなの無事を願っています。


中村先生のお話を受けて

 中村先生のお話の中で印象に残っているのは、「大人になってよかったな」と思うポイントが、人生の中にはいくつもあるという言葉。それは私にとって、まさしく、「大人にこういうことを言ってほしかった」と思う言葉だった。私は、大人になることを「人生が楽しくなくなってしまうこと」だと思っていたから、この言葉を聞いて初めて、「大人になっても、ちゃんと楽しいこともあるんだ」と気付いた。
 成人を目の前にしたり、成長していったりするたびに、「大人になったら何が現在の自分から損なわれてしまうのか」「何が変わってしまうのか」という変化を考える人は多いと思う。だが、大人になっても変わらず何かを楽しいと思えたり、大人になってよかったと思ったりすることがあるという中村先生の言葉に少し胸のつかえのようなものが解ける人もいるのではないだろうか。

由井武人先生インタビュー


由井ゆい武人たけひと
 一九七九年一月十六日生まれ、京都府出身。画家・京都芸術大学こども芸術学科非常勤講師。病院を訪れる患者や家族、医療従事者たちをアートの力で応援するホスピタルアートプロジェクト「HAPii+」をはじめ、企業や自治体からのリアルな仕事依頼を大学生が受注・実現していく「社会実装プロジェクト」の担当教員でもある。同大学の通信教育部では、洋画コースの授業も持つ。


◎「俺がこんなに甘ちゃんになったのは」

––––子どもの発育や発達に詳しい由井先生は、京都芸術大学こども芸術学科で造形表現の授業を担当しながら社会実装プロジェクトで大学生が大人と同じように働き、成⻑する姿を何度も見届けてきた。通信教育部洋画コースでは年齢がずっと上の社会人学生を教えることもあり、教育現場を通して、あらゆる世代に接してきた人である。学生の立場から見ればとてもバランス感覚に優れた「大人」に見えるのだけれど、由井先生のインタビューは、意外にも、「ぼくは、のび太に似ている」という話から始まった。

 このあいだ本屋でふと見つけた『ドラえもん0巻』を読んだとき、藤子・F・不二雄は自分の経験を主人公ののび太くんに重ねているというエピソードを知った。そのときぼくは、のび太はすごく、自分に被るところがあるなって思ったの。
 藤子・F・不二雄は、「自分は締め切りになっても全然アイデアが出てこないし、全然やらない。そんなダメな奴になっちゃったのは、お父さんとお母さんがとにかく優しくて、何でも好きにやらせてくれるせいだ」って言うのね。で、それをのび太がダメな原因に設定してる。だから、ドラえもん一巻にはのび太にすっごく甘いお父さんとお母さんの姿があるんだよね。何をやっても「大丈夫だよ、のびちゃんは」みたいに言う。ぼくもよく「俺がこんなに甘ちゃんになったのは、親が甘やかしたからだ」って親のせいにしてると思うから、受験戦争の時代だった割に、かなりぼくは自由に育てられた方なんだと思う。


 ぼくは小中高とサッカーばっかりしてたんだけど、幼稚園のころから絵を描くことやものをつくることがすごく好きで、小学校でも図工がいちばん好きだった。文化祭で演劇の横断幕を任されたりとか、学芸会で人形をつくるのをなんだかすごく褒められたりする経験があったから、絵を描くことやものをつくることを、「好きだな」とか「褒められるな」とは感じていたかな。だけど、普通の小中学校って美術はそんなに日の当たるジャンルじゃないんだよね。だから、絵やものづくりを、芸大とか学校に行ってまでやるような世界があるって当時は知らなかった。

 子どものときは、「こういう大人になりたい」って理想像も、「自分が大人になる」って意識もまったくなかった。数年後、十年後みたいな「未来」って存在を考えていなくて、「サッカーやってるときはサッカーのこと」「本読んでるときはその本のこと」みたいな考え方の子どもだったね。




◎「思春期」の始まり、「美術の大学」との出会い

 ぼくは「十四歳」「二十三歳」「三十四歳」を、自分が大人になったというか、「それ以前」と「それ以後」で自分自身の考え方が変わったと感じる印象的な年齢だと思ってる。

 中学二年生のとき、いわゆる「思春期」が始まって、自分の年齢を初めて意識したんだよね。十四歳のタイミングで「自我」みたいなものが目覚めて、そこで初めて、無邪気な子どもの思考よりもう一段深く考えるようになった。そのときは、一般的な流行のものを避けて、あまりほかの人が見ないようなものや気にしないようなものに敢えて興味を持ってたかな。

 当時、NHKで中学生の男の子を主人公にした『素晴らしき日々』ってアメリカのドラマが放送されていて、ぼくはそれがすごい好きだった。ビデオに録画して見るぐらい好きだった。
そのドラマは主人公が自分のコンプレックスを気にしたり、クラスメイトや女の子からよく思われたいと思ったりっていう、「初々しい思春期」を描いたドラマなんだよね。
 周りの友達はエンターテインメント番組なんかを見ていてそんなの見てなかったと思うけど、クラスメイトで一人おんなじ番組見てる男の子がいて。その男の子とはすごい気が合って、昼休みに二人で寝転がって話したりしてたなあ。

 芸術の大学に進学することになったきっかけは、高校二年生の終わりのこと。そのとき、学校で進路相談があったんだよね。担任の先生が親を交えて「進路どうするかー」って声をかけたとき、うちの親は「別の学校に通ってたあなたの幼馴染、美術の大学に行くみたいだけど。あなたも行く?」ってぼくに聞いたの。そのときはぼくはサッカーばっかりしてたし、美術とか全然詳しくなかったから「行きません」って断ったんだけど。
 ちょうどその日の深夜テレビで、すごく面白い話をしている人がいて、その人の職業が絵描きだった。それで、「美術ってこういう人たちがいるんだ」って思って、「やっぱり美術の大学行きます」って親に言ったの。そこからは画塾に行くなんかして、芸術大学入学に向けて受験勉強が始まった。

 きっと、何かのきっかけでどっちみち美術の道には進んでいたと今では思う。学校の成績は普通だったけど、「いい大学入って、いい会社入って」って人生がよいと信じられてた時代に対して、ぼくは同意ができなかったんだよね。だからみんなは必死に塾に通ったり勉強してたりしてたけど、ぼくは親がそういうことを勧めることもなかったし、塾には行かなかった。心のどこかで、自分はこの道を求めていたんだよね。


◎「過剰な不安」が、自信に変わる

 一浪して京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)に入学したんだけど、当時のぼくは決して大人ではなかったと思う。やっぱり一、二回生のときはすごく、「根拠のない自信」ってよく言われる変な自信があるのよね。自分がつくるものは面白いって思ってたし、「何かできる」って根拠もなく信じてた。そういう、過剰な自分に対する期待と、それに対するセンシティブな、「本当に自分は才能あるんだろうか?」とか「本当に何かできるんだろうか?」みたいな過剰な不安が当時は両方あった。「過剰な期待・過剰な不安」に、もやもやしていたのが、大学一、二回生のころ。

 ちょうど十九のとき、教職の授業で「何かに変身する」っていう課題があったんだよ。それで当時のぼくは、「肩書のないひと」になりたいと思って、三条の鴨川で段ボールに絵の具で棒人間を描いて、で、そこに白く塗った顔を当てはめた作品をつくった。男でも女でもなく、社会人でも学生でもなく、大人でも子どもでもなく、なんかそういう肩書がない存在になりたくて。だから……大人になりたいとも思ってなかったし、子どものままでいたいとも思ってなかった。
 十九歳のときは歳を重ねるにつれて「ラベルが貼られていく感覚」があって、それがすごく嫌だった。それから、ぼくは「男と女」って考え方が、なんか微妙だったんだよね。高校生ぐらいから指にマニキュア塗ったりしてて、「中性的なもの」にすごい憧れてた。
 当時は何も考えずにやってたけど、今思えば、すごい十九歳らしい作品だね。

「変身」(1999年)。由井先生が大学1回生のときの作品(写真提供:由井武人)


 二十年前の大学は今と違って、早い段階で自分の卒業後を考える機会とかがそんなになかったかな。その代わり、当時の大学受験は倍率が高かったから入学してからの勉強よりも受験が大変だったんだよね。だから入ってしまえばそれでキャリアになるみたいな時代だった。でも、今って少子化の影響でどんどん倍率も下がってきているから、「そこで実際何を学ぶのか、学べるのか」とか、「その人が実際そこで何をしたのか」っていうことが、より具体的に問われてるんだろうね。

 大学を卒業して、大学院でも制作を続けていくことにしたのね。ぼくは、その大学院一回生、二十三歳のときにまた「自分の価値観が変わる出来事」があった。
 大学院って、いろんなコースが一緒くたに合評するのね。工芸やデザイン、日本画とか、いろんなかたちで美術に携わる先生たちや大学院生がみんな集まって、「私は大学院でこういう研究をしています」っていう発表をしなきゃいけない。
 ぼくはそのとき絵を描いて何年も経っていたから、自分の中で絵に対する「目」が変わっていってたんだよね。目が肥えてきて、一、二回生のときには分からなかったことが分かるようになってきていた。先生が評価する作品や美術史的に評価されてる巨匠の作品って、何がいいのか当時は全然分からなかったんだけど、だんだん、それを「すごいな」って思えるようになってきたんだよね。「あ、こんなすごいことをやってたのか」とか「やっぱりこの人は評価されるだけのことはあるな」とか。「目」が成長したんだ。だけどね、そうやって自分の中に「こういうのが理想、こういうのが良い」って感じが浮かんでくる程、自分の手が描くものは成長しなかったんだよね……。そういう、「目と手のギャップ」があった。自分自身ではそれをつくれない「もどかしさ」みたいなので苦しかったのが、二十三歳だったんだよね。

 だけど、そこで一回、すごく大きく絵が変わった。ずっと外に出て風景を観察して描いてたスタイルが、まったく何も見ずに画面の中に偶然出てきた模様とかかたちから、自分の想像の世界を表現していくっていうスタイルに大きく変わった。すごくその絵は自分にしっくり来ていて、だから大学院での中間発表のとき、あまり原稿を用意してなくても、変に自信を持って発表もできた。

 そしたら、その作品を見た先生や大学院生が話しかけてくれたのね。ぼくはこれまですごく人見知りで学生時代も友達が多い方じゃなかったから、それをきっかけに少し人と話すのが怖くなくなった。絵が変わったことでたくさんの人が自分に声をかけてくれて、それがぼくにとって自信になった。

「雨の弟」(2004年)。由井先生が大学院を修了してすぐ、25歳のころの作品
(写真提供:由井武人)



◎「もう一度、いちから始めたい」

 大学院を卒業してからも、非常勤で先生業をしながら展覧会に参加したり作品を発表したりしていて。二十九歳のとき、初めてギャラリーで個展したのね。自分の好きな作家が二十九歳のとき初個展だったから、この歳で個展しようって学生のときから決めていたの。

 そのころの作品は、二十三歳前後の「理想と現実のギャップ」みたいなのにもやもやしてたものが、やっと自分の「つくりたい」と思うものと一致してきた感じだった。
 だから、「そのまんまいけんのかなあ」ってちょっと思ってたんだよね(笑)。
 「このまんまずっと描いていくのかな」と思ってたし、割と自信もあった。

 けど、三十歳を過ぎて、三十二歳ごろから、一定の評価をもらえるようになっても「もう一歩何か足りない」っていう感じがあったのね。
 それまではあまりコンクールみたいなのには出してこなかったんだけど、「本当に自分のつくってるものはどうなのか」って疑問が大きくなってきたのが、三十二歳のとき。自分の作品を自分の知り合いや地元じゃないところで発表して「確かめたい」って思うようになったんだよね。ちょっと、「本当にこれでいいのかな?」って。

 コンペや展覧会に出して発表しても立ち止まって見てくれる人はいたし、賞をもらうこともあったから、今までやってきたことが「まったく人に伝わらない」ことではないんだなあと思ったの。
 でもねえ、なんか……。なんか、「もっと普遍的なとこに伝わってほしいんだけど、まだ〝一部〟なんだろうな」って感じがしたのよ。東京での展覧会でどこかのギャラリーの人が見に来てくれて、「すごいいいもの持ってるからどこかで売り込んでいったらいいと思うよ」って言ってくれたんだけど、「でもなんかもう一歩ほしいんだよね」って感じで言われたの。
 このままの方向性でも続けられるのかもしれないけど、でもそれ以上先があんまり……、ないような気がして。

 それで、もう一回、「いちから勉強しなおそう」と思い始めたのが三十三、三十四歳のとき。本当に、しんどかった。
 今までやってきたことを一回リセットして、新しい方向性を探してたんだけど。「新しい何かを探す」って実際には何を描いていいのか分からないし、すごく自信もなくして、つらかった。

 でも、三十四歳でそれまでの価値観を大きくリセットして新しい価値観をつくり始めるために「いちから絵を勉強しなおす」と決めたことが、今の自分にとって、いちばん「自分が大人になったと思うタイミング」なんだよね。そのときから考え始めた「自分がつくりたいもの」「自分が描きたいもの」だけじゃなくて、「社会の中で」とか「他人にとって」っていう、他者を意識してものづくりするようにしたいって気持ちが、今の自分にすごくつながっているなって思う。


◎「絵=自分」

 ぼくは、自分が成長したり変化したりしているな、ってことに、自分の絵を通して気付くのね。自分自身が変わっていくから、作品の方も、その作品に触れた人の反応も「変わらざるを得なく」なってくる。作品が何かを気付かせてくれて、今の自分を目に見えるかたちで振り返らせてくれる部分が確実にあるんだよね。だから、「あれ何年のときだったかな」「あれ何歳のときだったかな」っていうのは、「あの展覧会やったとき」とか「この絵描いてたとき」とか、そういう風に思い出す。絵は本の栞みたいな感じで、目印になってるんだよね。

 それから、自分の成長や変化を感じるのは、作品をつくってるときより、作品を世に出したときにはっきり分かるんだよね。だから、東京で作品を発表してなかったら、ぼくは今でも自分の変化にそこまで実感を持たずにやってたかもしれない。そういう意味では、ぼくは他人との言葉での直接的なコミュニケーションじゃなくて、作品を通して他人とコミュニケーションをとることで、自分の考えてることを確かめていった、っていう感じかもしれない。

 ぼくは、同じことをずっと続けるってことができないタイプなんだよね。面白くなくなっちゃうから、「価値観を更新していくこと」を求めて、絵を描いているのかもしれない。けれど、「価値観を更新すること」が、「大人になる」ことと関係があるかって言ったら、微妙なんだ。価値観を更新しなくても満足して生きていける人は生きていけるし、「価値観の更新」がない人生が劣ったこととかではないよ。


◎他者と関わることで、変化していく「若者」

 いわゆる「若者叩き」があったとき、ぼくは自分の立場を「若者側」に置いて考えてた。ニュースが「若者が感染を広げている」って言うと、自分が後ろめたいような、反発したいような気持ちになってたね。大学生のクラスターが出たときもそうだったけど、当時は自分を「大人」って主張する人たちは「何かのせい」とか「だれかのせい」にして、安心しようとしてるのかな、って思っていた。ぼくはそれに、すごく違和感があったんだよね。

 コロナ関連の報道をするにあたって「特定すること」とか「分析すること」っていうのは絶対必要だと思うんだけど、ニュースを見ていると、そこに理性じゃなくて人間の感情みたいなものがすごい絡んできてるなあと思う。ネットもそうだけど、情報を受け取るときに、「この情報っていうものには、何らかの主観やストーリーが入る」って前提を持っておく必要があるよね。百パーセント客観的な情報なんてありえないって思うべきなんじゃないかな。行動やニュースが、ある程度偏ったものなんだって分かってたら、そんなに振り回されないかなあって思っていたな。


 学生を見ていて「この子大人になったな」って思うことや成長を感じるタイミングは、やっぱり社会実装のプロジェクトが多いかな。
 授業が日々の大事なトレーニングだとしたら、社会実装のプロジェクトは、クライアント側の金銭も関わってくる本試合みたいなものかな。プロジェクトを進めていく中で学生が挫折したとき、ぼくはその子が成長できる子なんだって感じる。今までとにかく「わいわい楽しく、みんな仲良く」って価値観でグループワークをやってきていた子が、例えばプレゼン前の、空気もよくなければ人ともぶつかるみたいな状況で挫折をして。「どれだけ言っても伝わらないこともある、って分かりました」って話してくれたり、「でもそれでも、自分の中でそれを受け入れました」って話をしてくれたときには、(なんかこの子、すごく成長したなあ)って思ったね。
 「自分はこうしたい」ってアイデアがあるんだけど、ほかの人とそれがぶつかって、「したいことが全部したいようにはできない」ときに、自分はそれを、どう受け入れるのか。他者がいて初めて、自分の変化が発生する感じはするね。人に考えや作品を見せたり、人にぶつけたりしたときに、その反応で自分の価値観とか考え方は本当につくられていく感じがする。
 ぼくは、大人になっていくことって、大変だったことを乗り越えるっていう程の達成感があるものじゃなく、「受け入れる」ことだと思う。思い出すと少し渋い顔になるような、きれいな、思い出になるようなものだけじゃない。自分にとって理不尽な状況や理解できない問題をぐっと自分の中で飲み込んで、「まだそれを受け入れられない自分」みたいなものも受け入れた人は、その後が違う気がする。


◎「十歳から、ひとは大人と変わらない」。描画様式から見る「若者」

 子どもの描画様式には変遷があって、子どもは発達段階によってある程度描画様式が決まってるのね。一歳で手が使えるようになると殴り描きをして、二歳とか三歳になると、肩を起点に点を描いていたのが、ひじが動くようになって丸が描けるようになる。四歳ごろになると、自分の中で描いたものに勝手に意味をつけて丸を何かに見立てたりし始める。お父さん、お母さんとか。ほかにも、空間やストーリーを描いたりはしないんだけど、単体でモチーフを羅列的に描いていく時期みたいなのが四歳にはある。それから、五歳半ごろに図式的構想表現期という時期が来る。これは、下に地面を引いて家を描いて、ひとを描いて、ストーリーをもとに絵を描くようになる時期だね。

 そして、小学校四年生、十歳くらいになると、対象を観察して描こうとしたり、明暗とか陰影とか立体感とか、本物を写すことを意識し始める。
 十歳に訪れるこの「写実期」以降には、描画様式はもうほとんど変わらない。だから発達っていう意味では、十歳でひとは大人と変わらない思考パターンと認知機能が備わる。
 でも、もちろんそれで十歳を「大人になった」とは言えないよね。十歳以降の、後天的な「その人がどこで何をしたか」っていう経験値的なもので、それぞれ考え方とか価値観っていう人間形成がされていくんじゃないかなと思うの。
 きっと、十歳から「大人」としてある程度経験値を積むまでの「幅」のところを、みんな「若者」って呼ぶんだろうね。十代後半や二十代ってもちろんカテゴリーとしては大人だけれど、まだ大人と呼ぶには経験値がそこまでなくて、大人ってカテゴリーの中でもちょっと、幼く見える人たちが「若者」って呼ばれてるんじゃないかと、ぼくは思う。


 ぼくの中での子ども・大人の定義は「自分の世界を表現する存在」が子ども、大人は、「客観的な視点を持ちながら、自分の世界を表現できる人」って感じ。だから「子どもみたい」っていう言葉が褒め言葉みたいに使われるか、悪口みたいに使われるかってラインは、そこに含まれる「客観性」があるかないかで決まってくるんだと思うの。


◎のび太にはなれない、「今」の十九歳

 ぼくが十九歳だったときは、日本はそんなに経済的にも国際的にも不安がある年代ではなかったと思うの。就職氷河期とかはあったけどそれは一世代の話で、今みたいに日本自体や世界が不安定な状況ではなかったのね。だから今の十九歳の子は、「不可抗力な出来事に対して、どういう姿勢をとるか」ってところで大人になるかならないかが変わってくる気がする。大人になる・ならないっていうのが自分の意志だけで選べるものじゃない気もするのね。
 本当は十九歳っていちばん勘違いしていい時期っていうか、「何にでもなれるんじゃないか」とか「何でもできるんじゃないか」って思ってていい時期なんだとぼくはすごく思ってる。だけど、新型コロナウイルスっていう、世界規模の不可抗力で不条理な出来事に直面してる今の「若者」は、「大人にならざるを得ない状況」に直面してるんじゃないかと思うの。
 のび太みたいに甘やかされて育っても生き延びられるような時代では、もうない気がする。だから、みんなは「早い段階で大人にならざるを得ない環境」に、もしかしたらいるんじゃないかなって思う。この状況だし、なる人はすごく早く、たくましい大人になるんじゃないのかな。
 なんかね、それはいつも思うな。絵もね、変えたいと思ったときに変われるものじゃなくって、いろんな自分の外の出来事とか、人の関係性の中でだんだん変わっていくっていうか。だから自分で、「自分の絵を変えたい」も、「大人になりたい」も、決められるものじゃないって気がします。

◎さいごに

 ぼくは、十九歳のみんなにはやっぱり、根拠なく「自分に何かできるんじゃないか」とか「やってみよう」とか、「勘違い」していてほしい。十九歳って、本当に失敗が許されるし。ぼくも学生を見ていて、「この子どうやって卒業してから社会に出ていくのかな」とか不安に思う子もいるんだけど。やっぱりその事態に直面したらどんどん人って変わらざるを得なくなって変わっていくし、意外と人の底力ってあるから。いろいろ大変だとは思うけれど、勘違いしていていいから、みんなにはとにかく何かを実際に一生懸命やってみてほしいなって、そう思います。

由井先生のお話を受けて

 由井先生の話を聞き終えたとき、先生はおっとりとした口調と柔らかい笑顔に反してとても客観性のある考察と、ずっしりとした画家としての過程の厚みがある対比がとてもかっこいい人だと気付いた。
 人として成熟していくということは、こんなにも多面的な思考を持てるということか。深く、豊かになれるものなのか。そう思うと、「大人になる」ということが途端にかっこよく、楽しみなものに思えた。
 由井先生のお話で印象に残ったのは、「大人になるタイミング」は、それぞれなのだということ。
 もちろん、他人と関わって「経験値」を積んでいくことも大事だけれど、自分と向き合って、自分の中の価値観を疑い続けることで、これまでは出会えなかった新しい自分に出会えるかもしれない。そんな由井先生のメッセージは、人に関わることがうまくできない今、二十歳を目前にして「自分は大人になれるのか?」と焦る私の心に、すっと沁みこんできた。
 私たちには、「ここから先は大人になるんだ」と言わんばかりに成人式という線引きの日が用意されている。だが、きっと実際に成人式に参加したところでしっかりと大人になれる人なんて少ないのだろう。由井先生のように、「大人になる」のが二十代じゃなかった人だっている。そう思うと、大人になるって案外、マイペースでもいいのではないか?



おわりに

 大学一回生の十八歳のとき、大学祭に来てくれた小さな女の子が、私のネイルを褒めてくれた。私はそれがうれしくて、自分の香水を少しつけてあげる。すると彼女は、「大人になったみたい」と言って喜んでくれた。新型コロナウイルスの流行で地元から京都の下宿先に帰れず、大学の友達に会えなくて苦しかったとき、たまたま久々にきちんと化粧をした私に通りすがった女の子が「お姉さん、かわいい」と言ってくれた。
 あの子たちから見た私は、いったい大人なのか。それとも、そうじゃないのか。ずっと、聞いてみたかった。

 私は、海と山しかないような、本当に何も無い田舎で育った。「働く」ということを実感するにはあまりにも何もかもが不足しているその町で、自分が知っている「大人」は両親と先生、それから、テレビやドラマの中に出てくる人たちだけだった。小さな町でひっそりと窮屈そうに生きる人たちと日々へとへとになりながら人の顔色を窺う人たちだけを「大人」だと思っていた私にとって、「大人になる」ということは、まったく魅力のかけらもないことだった。
 私は、「大人になる」って義務なんだと思っていた。それに、「大人になる」ことは煤けてくたびれていくことなのだとも思っていた。仕事に就いたら、もう自分のペースで呼吸はできない。大人にならなきゃと思うたび、自分を殺す決意を求められているような気持ちになった。
 それから、私が小さかったとき、「大学生」は、どうしようもなく遠くのところにいる存在だった。大人でも子どもでもないその時間を生きる彼らがいったい何を考え、何をしているのか分からなかったけど、ドラマや小説の中、ときどき友達のきょうだいなんかに存在したそれはなんだかすごくおしゃれで、私にはすごくキラキラして見えた。

 だから今、こうして自分が大学生になって。あのころひときわ眩しかった「大学生」になったとき、私は、私だけがみんなに取り残されてしまったのではないかと感じてしまったのだ。あのころの「大学生」のようにキラキラもできなくて、子どものように自由でもなくて、大人のようにひとりで生きていくことも、もちろんできない。そんな自分は、いったい何なのだろう? 続々と二十歳になっていく友達を見ながら、(二十歳の誕生日を迎えたら何か景色が変わるのかな)と考える日もあった。


 けれど今回、こうして尊敬する先生お二人に話を聞いてみて、私は「大人」という生き物と、「大人になり切れない」今の自分を、受け入れられるようになった。

 大人という生き物をあまりに知らなかった私は、大人って、何か大きなひとつの課題、例えば仕事に就くとか、そういう「大きな山」を乗り越えることでなれるものなのだと思っていた。成人式のような通過儀礼めいたものを越えれば、その先に大人になった自分が居るんだと思っていたし、いつか来るその「大きな山」に自分はどう向き合っていくべきか、日々考えていた。

 インターネットで「大人 とは」と入力すると、検索候補には「大人 とは 定義」「大人 とは 哲学」などのワードが現れる。
 どこからが大人なのか。何が大人なのか。
 確かに誰もが抱えている疑問のはずなのに、インターネットで調べても曖昧にしか分からないことが私はすごく不安だった。
 私は、二十歳になったら大人にならないといけないと思っていた。
 大人と子どもの違いが何か分からなくても、成人式を越えたら子どものままでいることは許されないのだと思っていた。とても焦っていた。

 でも、中村先生は「自己決定」をできるようになることが大人になることだと話した。
 由井先生が「自分を大人になった」と思ったのは、三十代だった。

 私は二人の話を聞いて、「大人」とは、ひとつの山を乗り越えた先にあるものなのではなくて、たくさんの人やこと、ものに出会ってその人なりのペースで坂を登っていくことでいつか辿り着くものなのだと知った。その坂道で誰に会うか、どれだけ転ぶか、立ち止まることがあるかとかは関係ない。引き返してしまったりしても良い。私は、二人の大人に接することで「坂を登ることを諦めなければ誰もがいつか大人になることができる」という事実を知った。

 これから私は、「大人になろうとせず」生きようと思う。

 新型コロナウイルスの影響により、人はこれまでのように人生を歩いていくことは難しくなったと思う。それでも私は無理して坂道を探して、無理してでも変わっていこうとしていたけれど、これからは、今自分に向かってくるものひとつひとつに対してただ、素直でありたい。急いでみても、立ち止まろうとしても、時や自分の成長は自分の思い通りにはいかないから、だから、大人でも子どもでもないこの〝十九歳〟というときを自分なりにめいっぱい生きられたらと思う。






参考文献

(1)東京都ホームページより「小池知事『知事の部屋』/記者会見(令和2年3月25日)」
〈https://www.metro.tokyo.lg.jp/tosei/governor/governor/kishakaiken/2020/03/25.html〉
二〇二〇年八月十九日閲覧

東京都ホームページより「小池知事『知事の部屋』/記者会見(令和2年3月30日)」
〈https://www.metro.tokyo.lg.jp/tosei/governor/governor/kishakaiken/2020/03/30.html〉
二〇二〇年八月十九日閲覧

(2)共同通信より「若者、東京で買い物やカラオケ 外出自粛『気にしない』『遅い』」
〈https://news.yahoo.co.jp/articles/b878f673ba9a31abae4a2c96e4ae301280dd8982〉
二〇二〇年八月十九日閲覧


(3)テレ朝ニュースより「大阪14人感染 4ライブハウス〝クラスター感染〟か」
〈https://news.tv-asahi.co.jp/news_society/articles/000178390.html〉
二〇二〇年八月十九日閲覧

日本経済新聞より「京産大、クラスター発生か 新たに男子学生5人感染」
〈https://www.nikkei.com/article/DGXMZO57384390Z20C20A3000000/〉
二〇二〇年八月十九日閲覧

(4)アサジョより「三原じゅん子議員の『外出を続ける若者』へ向けたツイートに批判!」
〈https://asajo.jp/excerpt/88078〉
二〇二〇年八月十九日閲覧

(5)沖縄タイムス+プラスより「世界一規律正しい日本人が、『外出自粛』の呼びかけを無視するワケ」
〈https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/560511〉
二〇二〇年八月十九日閲覧

(6)ニューズウィーク日本版より「新型コロナ、若者ばかりが責められて『中高年』の問題行動が責められないのはなぜか」
〈https://www.newsweekjapan.jp/mutsuji/2020/03/post-88.php〉
二〇二〇年八月十九日閲覧

(7)自主制作記事『マガマガ・メモリー』
〈https://note.com/yoru_212/n/n06166b2cbbfe〉
二〇二〇年八月十九日閲覧

コロナ禍を生きる女性たち          日笠みづき


 緊急事態宣言が解除された後の二〇二〇年六月の初め、近くに住む祖母の家を訪れた。祖母はテーブルセンターの刺繍をしていて、「野ぶどうの実がコロナだと思って一つ一つ刺しているの」と言って見せてくれた。新型コロナの蔓延による恐怖で夜もあまり眠れないと私が話すと、それとは対照的に「一〇〇年に一度あるかないかのことなんだから生きてるうちにこの状況をしっかりと記録しなくちゃ」と前向きな言葉が返ってきた。新聞やテレビで新型コロナに関する情報を収集し、今起きていることにしっかりと向き合う祖母の姿に少しだけ元気づけられた。
 私は自粛期間中に一人で家にいることが怖かった。毎日発表される感染者の数を耳に入れたくなく、テレビをつけることもできなかった。外に出られないことや友達に会えないことへのストレスはなかったが、人通りの多い京都のファッションビルで接客のアルバイトをしていたため、もし通勤中や勤務先で新型コロナに感染していたらと考えると眠れない日々が続いた。生理も二か月間止まってしまい、自分がこれほどまでにストレスに弱かったのかと悲しい気持ちになった。
 昭和九年生まれの祖母は戦争体験者である。もしかしたら、祖母のこの強さは戦時という困難な状況を生き抜いた女性ならではのものなのかもしれない。そんな予感がし、同じように困難な状況といえるこのコロナ禍において、女性の立場から家庭や職場、そして社会はどう見えているのかということに焦点を当て、取材を進めることにした。


 まず、「コロナ禍を生きる女性たち」というテーマを決めるきっかけとなった祖母にインタビューを行った。今年で八十六歳を迎えた祖母は、私の周りでは最も長く社会を見てきた女性である。コロナの捉え方にも自分と大きく違う部分を感じたことがきっかけとなり、戦争体験者の祖母がコロナ禍の社会をどのように受け止めているのか興味がわいた。
 そしてもう一人、祖母の長女であり、滋賀県内の病院で看護師として勤務する私の叔母にも話を聞いた。看護師として新型コロナの影響を直接受けながら、母として家庭を守る立場でもあるという、祖母とはまた違った「困難な状況」を経験した女性であり、その貴重な経験から感じたことをインタビューすることができた。
 二人とも、取材を進めるなかで家庭を守る母として、社会に生きる女性としての思いに共通したものがあった。また、私自身、年齢は違っても同じ女性であるということに距離の近さを感じることができ、今回の取材を通して彼女たちの強さを共有したいと思った。


 祖母の藤井ふじい頼子よりこは昭和十九年、十歳の時に兵庫県の御影から佐賀県の鳥栖に縁故疎開した。太平洋戦争が始まった十二月八日を境に八のつく日に真珠湾で亡くなった人の家の前に並んでお辞儀をして、その帰りに八坂神社に立ち寄り勝利を祈願した。真珠湾攻撃で戦死した九軍神のうちの一人が、祖母の家の近くに住む兵士だったこともあり、家に帰るまでの間、一切言葉を発してはいけないなどの厳しい決まりもあった。今のコロナ禍におけるマスク着用や外出自粛への同調圧力は、当時、国民統制のために結成された隣組により、家の中にいてもひそひそ声で話し、お互いの行動を監視し合っていた光景を思わせるという。戦争から逃れるために疎開した先で余計に不自由を感じ、「とにかく田舎は封建的で絶対に嫌だ」と思った。敗戦後、お金があっても食べるものに困り、祖母もはじめて生活苦を経験することになった。しかし、祖母の母は自ら働きに行くことができるような人ではなく、着物や家財道具を売ったりしながら食糧を集めていた。そんな母の姿を見て、祖母は将来、自分で働いて暮らしていくことを決心したそうだ。
 同志社女子大学に進学し教員免許を取得したが、卒業当時は深刻な就職難で採用先が決まらず、同志社大学の研究室に勤務する。二十四歳で結婚し共働きをしたかったが、出産後、保育園が近くになかったため退職することになった。結婚十一年目で兵庫県の伊丹に転居した矢先、夫が務め先である大阪のS損害保険会社から不当解雇にあった。すぐに争議団が組まれ、祖母は夫の解雇反対闘争の集会に参加する傍ら、自分が何とかしなくてはと三人の子どもを養うために内職を始めた。銀行の印刷物をひたすら折る仕事やできあがった洋服の縫いっぱなしの糸を切るだけの仕事など、「情けなくなるようなものもあったわ。人生で一番つらい時期だった」と振り返る。夫を含める元社員の四名が裁判に勝利した頃には約十年の歳月が流れていた。

祖母がひと針ひと針刺した野ぶどうのテーブルセンター刺繍(撮影:日笠みづき)

 祖母は裁判の疲れから喘息を発症し、療養のために日当たりのいいマンションへと引っ越すことになった。しかし、引っ越した先には公民館や図書館などの子どものための施設が何もないことに気づく。お医者さんに掛かりながらも忘れなかったのは、日々忙しく働くお母さんたちのこと。周りには不可能だと言われながら、児童館をつくる運動を立ち上げ、その五年後に京都市梅津児童館は建てられた。祖母は四十九歳でようやく念願だった子どもの教育と接する仕事に就くことができた。「学童の先生になれた時は感慨深いものがあったよ。ずっと働きたいと思っていたのがやっと正職員になれたんだもの」と話す。
 そんな祖母はコロナ禍の今、年金者組合の新聞にある提案を行った。きっかけは知り合いの女性が投稿した、「自粛が明けたら早くみんなに会いたい」というコラムだった。それを見た祖母は、自粛中に感じたそれぞれの思いをリレー形式で回したらおもしろいんじゃないかと新聞紙上でのリレートークを発案。祖母に続いた投稿者たちは、やはり女性が多かった。高齢者は新型コロナに感染すると重症化するリスクが高いということがわかり、老夫婦の静かな自粛生活で何かできることはないかと考え、祖母は家庭での男女同一時間労働を目指すことにした。以前から男女間で家事労働量に偏りがあることに疑問を抱いていたため、新型コロナの流行を機に、家庭での女性の地位を向上させようとコラムで提案した。祖母はこのインタビューの間、世界から見た日本の女性の地位の低さにも触れ、家事の分担という誰もができる小さな運動からはじめることの大切さを訴えた。
 親子・夫婦関係などのカウンセリングを行う臨床心理士の信田さよ子さんは、『母・娘・祖母が共存するために』(朝日新聞出版、二〇一七)の第九章「団塊女性たちの挫折感」において男女の関係について次のように述べている。



 いつのまにか女性は感情的で非論理的であるという常識にからめとられていく。世の中の女性への意識はそれほど変わっていないことに直面せざるを得ない。
 ロマンティック・ラブ・イデオロギーも同じだ。彼女たちが信じた三位一体の結婚生活は、しだいに夫の仕事の後方基地へと変質していった。孤独な育児とともに、守ってもらうどころか夫をケアしなければならなかった。


 祖母は団塊世代の女性ではないが、敗戦後に民主主義教育を受け男女平等の理念を学んだ。その頃の女性は争うように洋裁学校を目指し、手に職をつけて自由に生きることを夢見ていたが、社会に出ると自由に生きることの難しさを感じたのだった。祖母は自身の書いた家事分担に取り組む記事に共鳴してくれる人は誰もいなかったと残念そうに声を漏らしながら、八十を過ぎても女性の地位向上を願う気持ちは変わることなく、「女性はもっと幸せにならなあかんと思う。女だからっていうことはないんだから」と自らの人生を振り返りながら語った。


 叔母の梶間かじまさとりは、学生時代から北海道に憧れがあり、看護師の資格を取った後、札幌にある北海道勤労者医療協会中央病院に二年勤めた。結婚を機に夫の職場がある滋賀県に移り住み、社宅から通える範囲にあった大津赤十字病院に就職する。最初の勤務先である北海道の病院はドクターとナースが対等な関係で、患者の権利を尊重するような看護が推進されていたため、その経験が今でも生きているという。看護師はストレスの溜まりやすい感情労働といわれ、常に自分自身の感情をコントロールすることが求められる。医者と患者に挟まれ泣き寝入りする看護師もいるそうだが、祖父の解雇反対闘争に自らも立ち上がった祖母のように間違ったことは許せない性格で、思ったことは積極的に発言するようにしている。
 コロナが流行りだしてからは、職場の空気にも変化があった。診察を先延ばしにする患者が増え、みんなが新型コロナに対して不安を抱えていることを肌で感じたという。叔母は緊急事態宣言発令中の五月上旬に一日だけ高熱が出たことがあり、その時初めてコロナで死ぬかもしれないという考えが頭をよぎった。東日本大震災の時も同僚が救護班として被災地に派遣されたように、困難な状況でもこの職業に就いている限りは誰かがやらなければいけないという思いがあった。大津赤十字病院は当初、新型コロナウイルス感染症の患者を受け入れる感染症指定医療機関ではなかったものの、叔母も実際に防護服の代わりにカッパを着て、救急外来で運ばれてきた新型コロナの疑いがある患者にも関わっていたので、自ら職場に申し出て、自宅待機に入った。

病院で働く叔母。マスクとアイシールドを重ねて看護にあたる(写真提供:梶間さとり)

 家で自主隔離をしながら考えたのは、職場のこと、そして家族のこと。数年前、自分にもしものことがあった時のために、子どものための貯金や家のローン、保険請求の問い合わせ先などをまとめた一覧表をパソコンで作成したのだが、自分が死んでそのファイルを誰も開けられなかったら困るなと思ったりもした。幸いなことに、熱は一日で引き、嗅覚や味覚、呼吸器官に異常がないことを確認しながら、看護師の知識を総動員させてしばらくの間過ごしていたという。
 叔母は十四年前、四十三歳で卵巣のう腫という病気をして二週間入院した時にも、家庭での母親という存在について考えたことがある。その頃まだ小学生だった次女が、夫の迎えが来るまでの間、病室のベッドに横たわる自分の隣で寝ていたことなどを思い出し、「子どものことも旦那さんのこともやけど、生活一般のことがどうしたってお母さん中心に回ってることが多いやんか。ご飯のこととかいろいろ。だからやっぱり自分が元気でないと家族は大変やなって思った」と自分の立場を振り返る。看護師をしていると普段から夜勤もあるためバタバタと忙しく、家の中がぐちゃぐちゃになっていたことを申し訳なく思ったこともあったが、自分自身が元気でいることが一番大切だと感じたという。
 コロナ禍での医療従事者に対する差別について、実際に隔たりのようなものは感じたのか聞いてみると、叔母の周りは大変な状況下で働く看護師を気遣うご近所さんが多かったが、同僚の話では夜勤の帰りにタクシーに乗ろうとすると嫌な顔をされたり断られたりすることもあったそうだ。医療人類学者の磯野真穂さんのインタビュー記事「社会を覆う『正しさ』」(朝日新聞、二〇二〇年五月八日朝刊)では、陽性患者が出た病院の医療従事者が他の医療機関での受診を断られたり、子どもが保育園の通園を拒否されたりするニュースが二月以降続いたことに対して、排除の力が医療従事者にも向かっていることを次のように分析している。


 
「あなたの無責任な行動が医療崩壊を招き、死者を増やす」と呼びかけ、個々人に危機感と責任感を植え付けて思考と行動の変容を促す方法が怖いのは、まさにこの点です。自分や他人を監視しあう社会を生むのもさることながら、自分や自集団が感染しないために、感染リスクの高い人や集団を排除するという判断を、いやでも生むことにつながります。


 看護師をしながら三人の子どもを保育園に預けていた叔母は、病院の職員は感染のリスクが高いと思われやすいが、巷でもコロナが流行っているため誰もが感染するリスクはあることから、園としても排除せず平等に対応すべきだと考える。また、保育園を管轄する行政機関がそういった通達を出したとしても、子どもを預けるすべての親に行き届かせることは難しい。そのため、保育園では同じ看護師のお母さん同士の付き合いだけではなく、日頃から他のお母さんとも仲良くしておくなど、「あまり表立って差別できないような空気づくりをすることも重要かな」と、母親ならではの目線で話した。


 私とは立場の異なる二人の話を聞きながら、さまざまな角度から女性の感性について考えた。インタビューを通して、新型コロナによって照らし出された女性ならではの感性がやはりあると感じた。それは、コロナ禍を機に家庭での男女同一時間労働を提案した祖母のように、医療従事者が差別されないよう保育園の空気づくりに思いを馳せていた叔母のように、困難な状況下だからこそ普段の社会が抱えている問題を浮き彫りにし、解決しようとする「不安を何か違うものに転換させる俊敏性」そのものだと思う。また、母親の子を思う気持ちは、いつの時代も変わることなく存在している。祖母が解雇反対闘争の傍ら子どもを養い、喘息治療をしながら児童館を立ち上げたのも、叔母が自分にもしものことがあった時、子どもの貯金のことを一番に考えたのも、まさにそういった母親の気持ちをまっすぐに映した行動だったのではないだろうか。
 常葉大学の准教授で世代、ジェンダーの日韓比較を研究テーマとしている福島みのりさんは、韓国でベストセラーとなったフェミニズム小説『82年生まれ、キム・ジヨン』を取り上げ、論文「日本社会における『82年生まれ、キム・ジヨン』の受容―日本の女性は自らの生をどう言語化したのか―」で日本が抱える問題について考察を展開している。



 さまざまな立場にいる女性たちが連帯することを通じて、日本に生きる女性たちの生は少しずつ主体性を回復し、社会を変えていくことができるといえる。そして、『82年生まれ、キム・ジヨン』の日本版『82年生まれ、佐藤由美子』が今後生まれるためには、女性という周辺化された生へのまなざしが生み出す多様な労働や生活の現状ひとつひとつを結び付ける想像力が今必要とされているといえる。


 祖母と叔母の行動や想像力というのは、やはり家庭に寄り添う気持ちが強いからこそ生まれてくるものではないだろうか。彼女たちの生きてきた時代はそれぞれ異なるが、家庭で守るべきものができ、常にその責任感とともに揺れ動く社会を見てきたのだ。コロナ禍の今、そんな女性たちの俊敏性、行動力、想像力がより際立っているように私には見える。
 取材を通して、彼女たちの女性としての強い思いに触れ、重く沈み込んでいた心が少しずつ軽くなっていくような感覚を覚えた。まだ彼女たちのように不安な状況のなかで気持ちを強く持ち続けることはできないが、これから先さまざまな困難に直面した時、自分の弱い部分をどれだけ方向転換できるか、そのヒントを与えられたようだった。今は学生である私が社会に出たら、どんな世界が待っているだろうか。再び日本や世界が困難な状況に直面し、自分の感性が試される時が来たら、コロナ禍で過ごしたこの時間を思い出して強く生きていきたい。



引用文献
信田さよ子『母・娘・祖母が共存するために』朝日新聞出版、二〇一七年、一〇一貢
朝日新聞(二〇二〇年五月八日朝刊)より「社会を覆う『正しさ』」
福島みのり『常葉大学外国語学部紀要』第三十六号「日本社会における『82年生まれ、キム・ジヨン』の受容―日本の女性は自らの生をどう言語化したのか―」、二〇二〇年、一六貢

著者略歴

河内かわうち晴菜はるな
2001年宮崎県えびの市生まれ、大阪府大東市育ち。京都芸術大学文芸表現学科2回生。趣味は音楽と映画鑑賞。コロナを機にハマったのは多肉植物。

斎明寺さいみょうじ藍未あいみ
2001年愛知県西尾市生まれ。京都芸術大学文芸表現学科2回生。黒い服と赤いもの、アクセサリーを集めることが好き。コロナを機にハマったのは、Netflixとネットウインドウショッピング。

日笠ひがさみづき
2000年京都府京都市生まれ。京都芸術大学文芸表現学科2回生。好きなことは洋画鑑賞。コロナを機にハマったのは「ラジオを聴くこと」。

コロナと私たち

2020年9月5日 発行 初版

著  者:河内晴菜 斎明寺藍未 日笠みづき
発  行:京都芸術大学 文芸表現学科
    (2020年度前期授業
    「創作ワークショップⅨ」
     担当教員:姜 尚美)

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