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この本はタチヨミ版です。
序
優生学(注一)の思想はナチス・ドイツにおけるユダや人のホロコーストや「ドイツ断種法」(一九三三年)に悪名をはせているが、優生思想における堕胎や断種法は二十世紀初頭、一九〇七年, 米国のインディアナ州によるのが最初であった。その後十五年間の間に全米三十二州に制定されている。(注二)一九三〇年代にはドイツ(注三)、北欧諸国(注四)に制定されている。これらをみると、優生学的な思想が欧米の非カトリック諸国で流行っていたと言える。
日本では一九四〇年(昭和十五年)に国民優生法が制定され、戦後は一九四八年(昭和二十三年)、優生保護法として改正された。
ところで、ハンセン病患者には法的な根拠もなく、社会から切り離され、強制隔離された国立療養所内で断種は行なわれていたのである。ハンセン病患者の最期の断種手術は一九九五年であり、最期の堕胎は翌年に行なわれていた。
信じられないことだが、一九三〇年(昭和五年)に制定された「らい予防法」は、戦後一九五三年(昭和二十八年)に強制隔離を合法化した新「らい予防法」になり、それは、既に新憲法が施行されていたにも関わらず、一九九六年(平成八年)に、「らい予防法」が廃止されるまで四十三年間も優生的な法律が存続していたのである。同年、「優生保護法」は官僚の得意技なのだが、姑息にも、優生的な条文を削除し、名称を「母体保護法」と改定して、手続きの丁寧さに欠ける処理をしたのである。本来ならば「優生保護法」を廃止して、新たに母体保護の法律を制定するのが筋であるのに、それをせず、手間を省いたのか、一部の改定でお茶をにごしたのである。即ち、「優生保護法」を違憲であるとは認識していないのだ。このような官僚のその場しのぎの処置の仕方は、これから、詳細する人の生命と人権に関わる政策遂行に、随所に顔をのぞかせるのである。
ハンセン病に関して、患者らは一九九八年に、国を相手に損害賠償裁判を熊本地裁に起こした。翌年には東京地裁、岡山地裁でも起こされている。二〇〇一年、熊本地裁で原告勝訴した。国は控訴を断念。当然である。東京と岡山は和解が成立した。
ハンセン病の歴史は差別と偏見の歴史であり、患者家族に苦しみの人生であった。優生保護法に関しても、明治以降、「富国強兵」の元、国の恥とまでいわれ、、苦難の歴史をハンセン病に限らず、障碍者は生きてきた。差別され続けたのである。これから、その歴史の経緯を詳細に述べたいと思う
(注一)優生学は十九世紀末、フランシス・ゴルトンが提唱したもので、その定義は「生物の遺伝構造を改良することにより、人類の進歩を促す科学的・社会的改良運動」とされている。
(注二)カリフォルニア州ではらいに限らず、梅毒患者、性犯罪者も断種の対象になっている。当時、米国で六万四千人が強制的に断種手術え受けさせられたといわれている。その後、二十世紀を通じて、知的障碍者も対象になっている
(注三)断種法はアルコール依存病者、性犯罪者、精神障碍者、遺伝性の治療不能の病者も対象にしていた。、
(注四)スウェーデンでは四十年間の優生計画の一環として、六万二千人の「不適格者」に対する強制断種が行なわれたといわれている。そして、カナダとスウェーデンでは、一九七〇年代に至る迄、精神障碍者に対する強制断種を含む、大規模な優生学的プログラムが実施され続けた。スイスでは精神病患者などに強制堕胎、不妊手術が一九八一まで続いたのである。
一、救らい事業の歴史
優生的な考えは現代においても生き続けており、つい最近の津久井「やまゆり園」の事件はその現われである。また、現代の医科学の発達から、出生前診断、着床前診断などは倫理的な問題を孕んだ優生学的なものの医科学的な考えが生きているいるといえよう。
さて、救らい事業の歴史は古く奈良時代まで遡れるのだが、とりあえず、明治期からの国の施策を中心に述べたい。
法律が制定される以前の救らい事業
国策としてのの救らい事業が行なわれる以前は、ハンセン病者の悲惨な実情を憂えた外国人の宣教師が救らい活動に乗り出した。
日本で最初の救らい治療は一八八九年、仏人・テストウィード神父が御殿場に神山復生病院を建て、治療をしたのが始まりである。その後、米の宣教師ケート・ヤングマン及び好善社(注一)による東京市の私立病院慰廃園(一八九四年、伝道と医療)、ハンナ・リディ女史の熊本における回春病院(一八九五年)、仏・メリーコール神父の熊本における徒労院(一八九八年)が乗り出している。
特に篤志伝道師であったリディ女史は日本の政財界の指導者(大隈重信、渋沢栄一)、内務省の窪田衛生局長にらいの救護と予防を訴え、影響を与えていた。大分遅れてではあるが、日本人では日蓮宗僧侶綱脇龍妙が山梨県に身延深敬病院を開設している。(一九〇六-一九九二年)
らい予防の法律の公布後ではあるが、草津の湯ノ沢地区(注二)のらい病者の惨状に心を痛めたコンウォール・リー女史は私財を投じ、「聖バルナバ・ミッション」を立ち上げ、聖バルナバ医院(一九一八ー一九四一年)と教育施設を建立した。
(注一)米国長老派教会の婦人宣教師ヤングマンが教え子九名と共に立ち上げた伝道と奉仕を目的のボランティア団体。各療養所におけるプロテスタント系教会堂の建設には殆どに関わっていた。資金は英国の救らい協会から得ていた。
(注二)一九一〇年、韓国を併合した年でもあるが、群馬県草津町議会は湯ノ沢地区に集住するハンセン病患者の追放を決議していた。
法律第十一号「らい予防に関する件」
一九〇七年(明治四十年)、法律第十一号「らい予防に関する件」が国のらいに関する施策の初めであり、全国に五つの公立療養所(全生病院その他)を設けた。これは、寺や神社の軒先に浮浪しているらい病者を収容するものであった。社会不安を取り除く風紀上の治安対策でもあった。これからも何度も名前のあがる光田健輔(病理学者、皮膚科医)は一九一五年(大正四年)、内務省に「らい予防に関する意見」を提出し、絶対隔離を主張した。同年、全生病院院長の光田は入所者に断種手術を早くも開始していた。そして、翌年の一九一六年には、法律「らいに関する件」が改正され、懲戒検束規定が明記された。これは療養所の所長の一存で、規則違反した入所者に懲戒処分の出来る権限であった。療養所内に入所者の自治会組織がつくられるのだが、その待遇改善の要求も懲戒検束の対象になった。療養所内に監禁所(一九三六年、長島愛生園では自治会組織を求める行動が対象になった)がつくられるようになるのだが、それは文字通り、ハンセン病者の監獄化となる。(一九三八年、栗生楽泉園で特別病室=重監房が開設された)
「らい予防に関する件」の背景
一九〇六年(明治三十九年)、第二十二回帝国議会において「らい予防法案」が提出された。その内容は患者の強制隔離を可能にする内容ではあったが、救護者のいない者、扶養義務者のない者、又扶養義務が履行されない場合、行政官庁が病院又は療養所に収容するというもので、浮浪患者、貧困患者が対象であった。文明国としての国家の面目という視点からの法案の可決が求められた。翌年、法案は成立するのだが、衆議院本会議で説明に当った内務次官の吉原三郎はハンセン病が伝染病であることを理解していた。ちなみに、ハンセン病が伝染病であることは、一八七三年、ノルウェーのアルマウェル・ハンセンがらい菌を発見していた。
さらに吉村は神社仏閣あるいは公園に徘徊するハンセン病者は群集の目に触れて、外見上、厭うべきであり、取り締まりが必要である、隔離が必要と説明している。(第二十三回帝国議会)
「らい予防に関する件」は可決され、全国を五区に分けて、公立療養所が開設されることになった。収容可能数は合計千百人であり、報告されている患者三万三百五十九人のわずか三・六%に過ぎなかった。放浪患者やで扶養義務者がいない者のみを隔離収容するものであった。治安対策の一環でもあると述べたが、療養所は高い塀、深い堀に囲まれ、山中や離島、川の中州などに設けられたことや、放浪する患者を警察官が捕らえる光景などが、国民にらい病は恐ろしい感染病であるという恐怖感を植えつけたのは否めない。さらに、この病気は不治の病と決め付けられ、法律には退院規定がなく、入所したら、一生出られないという印象が、さらになる恐怖を与えるという結果になった。
一九〇九年四月、法律は施行されるのだが、隔離必要性の理由としては、①内地雑居の外国人からの浮浪ハンセン病者の徘徊への抗議への配慮②文明国としての国家の体面を保つ③伝染予防のみならず、風紀上の秩序を保つ④時代的には労働争議(注一)が活発化し、社会主義運動(貧民の救済)に対する治安対策(注二)としての側面もあった。
(注一)一九〇七・三・二十七 夕張炭坑争議。同年四・二八-三〇 幌内炭坑争議、暴動化して軍隊が出動。同年六・四-六、別子銅山争議の暴動化で軍隊が出動。
(注二)神社や寺に放浪するハンセン病者の救済は内務省地方局の管轄であったが、風紀上の取り締まりは警保局の管轄であった。
懲戒検束規定の明記
当初、療養所を管理する職員は所長以下に警察官出身者が多かった。放浪患者を収容する役目を担っていた観点からも適任と判断されたのである。初代全生病院長の池内才次郎は、「入所者に対してどの程度において扱ったらよいか分からない。とにかく、監獄より一等を減じるというくらいにやる」と豪語したという。当時の職員は警察官上がりが多く、患者の扱いも手荒かった。
全国のハンセン病療養所を視察した真宗大谷派の僧侶で全生病院の教戒師であった本田慧孝は一九一〇年(明治十)、九州療養所の逃亡患者を謹慎させる隔離室を報告している。監禁が行なわれていたのだ。
一九一六年、法律の改正により、「懲戒検束規定」が明記された。これは、隔離のため、患者を通常の告発、裁判、刑務所への収監が出来ないので、所長に懲戒検束権を与えるものであった。その対象には職員に対する抵抗のみならず、(職員の取り扱いは乱暴であった)待遇改善の要求さえも対象にされたのである。
懲戒の内容は最高三十日以内の監禁(二ヶ月までの延長は可能)、七日以内、二分の一までの減食、三十日以内の謹慎、譴責である。療養所内に監禁所がつくられた。
一九一五年(大正四)、全生病院で院長の光田健輔が男性患者の断種手術を行っている。それは他の療養所に広まっていくのだ。
療養所内では患者への強制労働もあった。不足の職員を補うために付添い看護、掃除、理髪、裁縫など多岐にわたり、病者にとり、かなり重労働であった。人件費を節減するための安価な労働力とみなされていた。労働による症状が悪化する事態も起こった。支払われる安い賃金も予算化されていなかったので、それを捻出するために入所者の食事や治療費が削られた。本末転倒もいいところである。なされるべきことがなされず、その面で患者を脅かしたのである。
「無らい県運動」を支えた団体
「無らい県運動」とは己の県からい患者を根絶するという運動である。
一九二五年には、後述の「無らい県運動」の徹底に重要な役割を果たした日本MTLが設立されている。これは賀川豊彦を中心にした日本のキリスト教による「救らい運動」の団体で、ハンセン病者への宣教と慰問、ハンセン病の啓発活動をした。
一九二九年、「らい予防に関する件」が改正され、国立療養所の開設が明記された。同年、岡山県では「無らい県運動」が開始されている。それから、各地に広がっていく。
翌年、岡山県に、最初の国立療養所愛生園が開設する。初代園長は光田健輔である。
二年後、一九三一年(昭和六年)「らい予防法」が公布され、強制隔離の強化と徹底が図られた。同年、らいの強制隔離や「無らい県運動」に多大な貢献をする「らい予防協会」が設立されている。又、長島愛生園では、光田の提唱による「十坪住宅運動」が開始されている。これは国民から寄付を募り、入所者が十坪の住宅を建設するというもので、開園以来、慢性的な定員超過に悩まされてきたことへの対応策であった。「無らい県運動」が進展するに従い、各園は定員超過に悩まされていたのだ。
一九三一年は、さらに、真宗大谷派に光明会が設立する。
大谷派はハンセン病の根絶と啓蒙に関して、国家からの要請を受けて、患者家族の慰問を行なっていた。大谷派はまた、皇族とのつながりが強く、皇族から門主に嫁いでいており、光明会総裁の大谷智子は昭和天皇の后良子の妹であった。そして、後述するが、皇室からの下賜金は各施設に配られ、日本で最初のハンセン病院である神山復生病院にも配られた。当時、院長であった岩下壮一神父はありがたがったのである。皇室からの下賜金は天皇制国家が窮民にありがたくも慈善を施し、国家の安泰を図るしかけとしても利用されたのである。
「らい予防法」の成立
一九三〇年十月内務省衛生局(注一)は「らい根絶」の三案を発表した。①二十年でらいを根絶する②一万人収容の施設づくり③十年間で全らい病患者の収容を達成する、である。
衛生局予防課長の高野六郎は「らい予防法」と「らい予防協会」と「国立療養所」の三者によるらい根絶を語った。「らい根絶には絶対隔離」を厳粛に実行することなのだ。
光田は「十坪住宅建設」を推し進め、率先して在宅患者を掘り起こし、療養所への送致を奨励し続けていた。
ところで、「らい予防協会」(注二)は、一九三一年一月内務大臣官邸で発起人会を兼ねた創立総会が開かれている。挙国一致的な組織で内相を巻き込み、全国の地方長官に発起人を選定させ、各都道府県に寄付金を割り当てた。さらに、貞明皇后の下賜金と財界からの寄付金を基金として財団法人とした。会長に実業界の大立者渋沢栄一、理事長には内務次官、その他、常務理事に衛生局長、予防課長、中央社会事業協会総務部長がいた。鹿児島、宮崎、愛知に早速支部が設置された。
協会設立の目的は「らいの根絶のような国家社会の大問題は全国民の理解ある同情を根底としており、官民一致協力して推進すべきもの。全国的ならい予防団体を組織し、予防知識の普及啓発、予防制度の確立、予防事業の拡充、政府のらい根絶の根本計画を広く全国民規模で実施すべきものである」としている。これは政府の「らい根絶計画」(注三)を支える組織である。政府のこの目的には、近代の文化国家としての体面を保つこともある。(国土浄化として、絶対隔離政策を考えた。らいは国民のレベルをを低下させると考えられた)又、「富国強兵」を邁進していた明治政府としては、国民は健康で勝れた兵隊に相応しい身体を求めていたから、らい患者はそれとは真逆の存在であると見られたろう。つまり、身体の変形、欠損は相応しくないのだ。(注四)また、政府がらい患者を収容しようとした(法律第十一号「らい予防に関する件」)のは、外国人から、町を浮浪する患者を非難されたことにもよる。
らい予防協会の全国展開は他方、らいへの偏見、差別を助長したばかりか、隔離は当然という国民意識を植え付けたのである。
(注一)この時期はまだ、内務省の管轄であり、厚生省が独立して設置されるのは一九三八年である。
(注二)らい予防協会設立の契機になった中央社会事業協会(会長の渋沢栄一は東京府養育院院長でもあった)の機関誌『社会事業』は隔離政策推進のために、大きな影響があった。極貧者もしくはその集住地域の慈善活動をしている社会事業家向けのもので、しかも、彼らはハンセン病者と接する機会があった。
光田と高野はハンセン病の医学的説明と隔離の必要性を機関誌で訴えた。しかも、光田は収容者の逃亡防止策として離島の隔離を主張していた。
一方、感化救済に人力していた渋沢は養育院院長時代、光田は同院に回春院を開いている。そして、渋沢は終始、光田を支援していた。光田の隔離と懲罰の強引な主張はこのことと無関係ではないだろう。
(注三)離島へ完全隔離政策は政府のこうした国家として根絶するという強い意志の現われでもあった。
(注四)この身体の変形が見た目には尋常でない強烈な印象を人々に与え、忌み嫌われた理由にも思える。従って、らいは遺伝病ではない、感染性の弱い病気といわれるようになっても、偏見。差別は払拭されなかった。まがうことか、感染する身体の感受性の強弱が遺伝するのだとまでいわれたのである。
三井報恩会の役割
らい根絶、完全隔離政策を組織面でバックアップしたのがらい予防協会とすれば、その財政面をバックアップしたのが三井報恩会である。報恩会なくして、政府の根絶計画は進められなかったと言えよう。
一九三〇年の世界恐慌の影響、三一年には満州事変が勃発する。(政府予算は軍事費が膨れ上がった。らい根絶の予算は十分ではなかった)その不穏な世情にあり、財閥への批判が起こった。
一九三二年、三井財閥の理事長・団琢磨が血盟団により暗殺されるという事件が起こった。社会不安が深刻化し、そのため、財閥への批判を懐柔する策として、三井報恩会が設立された。これは多額の寄付により、社会福祉事業を支援するものである。理事には官僚や軍幹部、貴族院議員がなり、いわば、官主導の福祉事業団体であった。特に、らいの感化救済事業に力を入れ、国立療養所の施設の建設に資金を投入した。国策としての救らい事業を全面的にバックアップしたのである。「らい根絶」のための「無らい県運動」の推進を財政面で支援したのである。報恩会の財源がなければ、日本全国に展開されたらい患者の隔離の徹底は実現されることはなかった言って過言ではない。
戦前の無らい県運動
この運動は貞明皇后の「意思」への感謝と「国家の浄化」、「社会の浄化」即ち「民族の浄化」を進めるもので、前者は後者を支える精神的支柱になった。国家のため、民族のため、絶対隔離を推進するとの使命感が運動の原動力と言ってよい。光田は一つの集落から患者を一掃して浄化し、次に市町村、その次に道府県、そして、つていに、国家、民族を「浄化」するのだと考えていた。
この運動を支えたのは「らい予防協会」、日本MTL、大谷派光明会などであった。活動としては「らい予防デー」(六・二五)(注一)を定め、貞明皇后の意思を強調し、絶対隔離を支持する世論を喚起した。予防協会会長になった清浦圭吾はハンセン病を「文明国としての日本の汚点」とまで述べている。全生病院院長は、"感染の恐怖を煽り、絶対隔離の必要性"を説いた。
一九三六年には浮浪者を取り締まり、こじき遍路が摘発されている。警察官がらい容疑者を内査し、隠れた患者を摘発した。
同運動の一環として、先述の光田園長の「十坪住宅」建設運動があった。慢性的な療養所の定員超過の対策として、国民から寄付を募り、入所者が六畳二間の住宅を建設し、これを国庫に寄付するというものであった。
このようにして、国立療養所の増設、「二十年根絶計画」、「一万人隔離」の目標は、三井報恩会の寄付金(一九三六年(昭和十一年)により、一九四十年(昭和十五)までに達成の目安がつくことになった。日中戦争が勃発していたが、運動は停滞することなく続行され、その結果、目安の年に、国公立療養所の収容者数一万人を達成したのである。この年は紀元二千六百年に当たり、「奉祝」と結びついて「御下賜金」が全国の国公私立の療養所に沙汰されたのである。
埼玉、山口、愛媛、宮崎、愛知、鳥取、山口、岡山、千葉が無らい県になった。
他方、弊害も起こった。埼玉で自殺者が出た。白衣の衛生課職員や警察官が強制収用したのである。
一九四〇年、熊本市郊外の本妙寺周辺のらい患者の集落が県警察本部により解体させられ、患者は療養所に強制収用されている。
一九四一年には草津のらい病者の集落湯ノ沢が解散させられた。同年、公立療養所は国立に移管した。地域の患者は公立に収容するから、国立の地域性がなかったので、それを解消するためであった。
(注一)結果として、「らい予防デー」は、らい病への過度の恐怖心を国民の間に植え付け、患者への偏見・差別を助長する日になったと言えよう。
戦後の無らい県運動
敗戦の翌年も隔離収容は行なわれていた。
多摩全生園の場合、一九四六年ー年初入所者は千二百二十一名、一年間の収容者八十四名、逃亡は三十二名、軽快(治癒した者)は十五名、死亡は百五名、その他三十五名で、計百八十七名が園からの退所者。一九四七年は順番に、千百十八名、二十六名、〇、一名、二十六名、四名で計四十名が退所者となっている。憲法が執行された年は入所者は減少した。
一九四七年五月二十七日、菊池恵楓園長宮崎松記は「らいの調査収容に関する意見」で、戦前同様、隣人の患者の密告を奨励していた。日本MTLと強力して、「無らい県運動」の継続を主張、患者の摘発と隔離強化を求めていた。「古畳はたたけば叩くほどほこりが出る」と、明らかに患者蔑視の姿勢は変わらなかった。
同年、十一月七日、厚生省予防局長は各都道府県知事宛に通牒「無らい方策に関する件」を発した。そのなかで、「無らい国建設」の成果をあげよと、徹底的な実施を具体的に指示した。(第一次、第二次実施事項)これは市立の療養所も含まれ、まさに、戦後も「無らい県運動」の継続を厚生省は宣言したのであった。
十一月十七日、国立療養所長会議が開かれ、「らい予防法」の改正は急務として、「強制収容の確立」、「入園患者の不良なる者の処置の強化」を議論していた。
他方、同年、らいの特効薬プロミン治療が開始されている。不治の病としての絶対隔離の正当性が崩れ始めたのである。
一九四八年(昭和二十三年)鹿児島県議会の民生委員会は圏内の未収容者二百七十四名の強制収容及び疑似患者及びらい病発生濃厚な部落に対して、一斉検診を実施し、無らい県の達成に一段と努力することを確認していた。
大阪府衛生部予防課は一九四五年の作成した「らい予防の栞」で、無らい国日本の樹立、らい患者は直るが全治はせず、療養所への収容が最も重要で、唯一の処置である」と記していた。これに序言を寄せた光田は、全国からのらい潜伏者、南鮮、沖縄からの寄せ来るらい波の防波堤となることを求めていた。
一方、一九四八年は「優生保護法」が公布されている。この法律はハンセン病患者・配偶者の断種・堕胎を合法化した。
軽快退所の必要性
プロミン治療の進展により、らいは治癒するのであるから、厚生省医務局長東竜太郎は「らい予防法」を改正して、軽快者の対処を認めるべきと発言。(一九四八年十一月、第三回衆議院厚生委員会)「治癒するのを目標にしたらい対策」に政策を転換しようとしていた。療養所所長ら、特に光田は「軽快者とても出さない」と力説した。(注一)他の所長は「らい刑務所」の必要性すら語った。従って、両者にみぞが出来たが、結局、退所は棚上げになり、「無らい県運動」の強化(収容力の増加)が継続することになった。
タチヨミ版はここまでとなります。
2020年9月8日 発行 初版
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1946年、生まれ。明治大学文学部卒、業界紙・誌に勤める。今は無職。