『帝王世紀』は、中国古代の三皇五帝の時代から漢、曹魏までの帝王の事跡について書かれた古典籍である。作者の皇甫謐(こうほひつ)は3世紀の人で、著名な医学者にして、文学者、歴史家。皇甫謐の著作で有名な著作は『鍼灸甲乙経』で、世界の鍼灸医療関係者の多くがこの書を学んでいる。また本書『帝王世紀』は、『史記』など著名な歴史古典に見られない史実が紹介されていることでも知られている。本邦初訳の『帝王世紀』によって古代皇帝の現実に想いを馳せていただきたい。
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この本はタチヨミ版です。
『帝王世紀』について
帝王世紀 第一 開闢から三皇に至る
伏犧と女媧
神農
黄帝
帝王世紀 第二 五帝少昊(帝摯・し)
帝顓頊(せんぎょく)
帝嚳(こく)
帝堯(ぎょう)
帝舜(しゅん)
帝王世紀 第三 夏伯禹帝。禹(う)
啟から桀まで
帝王世紀 第四 殷商成湯帝
帝王世紀 第五 周文王、武王ほか
平王から赧王
帝王世紀第六 秦
帝王世紀第七 前漢
帝王世紀 第八 後漢
帝王世紀第九 魏
帝王世紀第十 星野歴代墾田戶口数
帝王世紀附錄
帝王世紀補遺
黎 遠寧(れい えんねい)
ロンレア(隴来)株式会社代表取締役社長
日本中資企業協会常務理事。日本甘粛總商会会長
『帝王世紀』は、中国古代の三皇五帝の時代から漢、曹魏までの帝王の事跡を紹介した内容です。作者の皇甫謐(こうほひつ)は3世紀の人で、私のふるさと中国甘粛省を代表する偉人です。生まれは安定郡朝那県、今にいう甘粛省霊台県の人。
皇甫謐は著名な医学者にして、文学者、歴史家。皇甫謐の著作でもっとも有名な著作は『鍼灸甲乙経』で、世界の鍼灸医療関係者の多くがこの書を学んでいます。また本書『帝王世紀』は、『史記』など著名な歴史古典に見られない史実が紹介されていることでも知られています。皇甫謐は人間的にも魅力のある人で、すでに映画やテレビドラマになっています。また、地元では彼の著作に関連して、世界の経絡(脈・ツボ)研究者が集う「《針灸甲乙経》国際学術シンポジューム」が開催されたり、記念の皇甫谧文化園(博物館的施設)ができています。また「皇甫謐調経益母カプセル」という女性薬も売られています。
私は本書の訳編者の渡辺義一郎さんとは、1980年代からの知り合いです。編集者として中国の出版社を訪問され、甘粛省蘭州市へ来られたとき、私が地元出版社との交渉で通訳として協力したのが初対面でした。その後も渡辺さんは何回も訪中され、私は貿易業界へ転身し、東京で会社を営むようになりました。
新中国の出版界との交流を最も早くから行い、日本語に翻訳出版された本は渡辺さんの関わったものだけでも150種にも上ると聞いています。また彼は中国山岳の登山でも大きな成果をあげで日中登山交流の開拓者の一人でもあります。
渡辺さんは、出版社を定年されてからも、編集者として活躍されていましたが、5年ほど前から一人で、電子出版を始められ、私も彼の「中国の古典で日本語になっていないものを出版したい」という考えに賛同し、微力ながら協力をしてまいりました。
このたび出版される『帝王世紀』の日本語版を読ませていただきました。すでに渡辺さんは多くの翻訳書と歴史紀行などの著作がありますが、彼の訳文は、古典の味わいを残しながらも、ときには読む人の理解を助けるために、適切な注釈や引用資料を入れたり、ときにはいわゆる超訳をしたり、さまざまな絵図や地図、写真を入れて、『図説・帝王世紀』に仕上げているのには、感心するばかりです。この読みやすくまとめられた『帝王世紀』を多くの方々にお薦めいたします。
どうかこの3世紀の書籍『帝王世紀』日本語訳を読んで、中国古代の帝王の事跡と言動から、遥かな古代を想起していただきたいと思います。
2020年秋
『帝王世紀』は三世紀の書籍で、皇甫謐撰と伝わる。
皇甫謐(こうほひつ。215年~282年)、幼名は静、字は士安、自号は玄晏先生。安定朝那(今の甘粛省霊台県)の人(後漢の建安20年~西晋の太康3年)、享年67歳。医学者、文学者。皇甫謐の著作で知られているものは『鍼灸甲乙経』で、世界の鍼灸関係者の多くがこの書を学んでいる。その外、『歷代帝王世紀』『高士傳』『逸士傳』 『列女傳』、『元晏先生集』などがある。
『帝王世紀』はもっぱら帝王の家系、年代と事跡を記した史書で、上は三皇に始まり、下は漢、曹魏までを記す。内容は多彩で経・伝・図・緯と諸子雑家など様々な書物からの参考引用や、『史記』と両『漢書』に載っていない史事を記録して、分野別に、都市と地方を考慮し、田畑の開墾、戸数人口にまで及んでいる。そのため史料価値が高い古籍として知られる。
中国の研究者が認識する『帝王世紀』の特徴をまとめてみると、以下の4条があげられる。
第一に、三皇五帝から曹魏*に至るまでの数千年間の、帝王の家系をかなり詳しく考証、整理し、上古の歴史を、伝説上の“3人の皇帝の時代”について、中国の歴史の起源の中でかなりの年数を前倒しに捉えていること。
第二に、伝説上の3人の皇帝から、漢、曹魏に至る数千年間、特に黄帝以前の上古時期の重大な歴史事件も取り上げ、その考証を行い、先史時代研究の領域へ入り込み、かなり価値のある歴史資料となっていること。
第三に『帝王世紀』は先人の歴史史料を総括した基礎の上で、『史記』などの記述で不詳な歴史事項について触れ、特に三皇五帝の家系と活動などについて考証と補充を行っていること。
第4に、皇甫謐は歴史地理学的な視点で研究し、かなりの成果を得ている。戦争による移住、王朝の更迭などでの、歴史地名の変化にも注意を払っていることは、現代の研究者にとって有益なものとなっていること。
*曹魏:魏(ぎ。220年~265年)。中国の三国時代、華北にあった王朝。首都は洛陽。曹操の建てた王朝から通称は曹魏といい、あるいは前魏ともいう。日本とは卑弥呼について記した『三国志・魏書』東夷伝・倭人の条で知られる。
『隋書・經藉志』『旧唐書・經藉志』『新唐書・芸文志』によれば『帝王世紀』はみな10卷本である。その後、南宋時代の『中興館閣書目』では9巻と記されているので、12世紀ころには残欠が始まっていたようである。その後、伝本は見られなくなり、八百年ほどは亡失していた。元、明代には一部の巻が見られたという。それ以来、多くの学者によって『帝王世紀』残巻の捜索がなされた。清代に古籍の散佚対策が行われ、残欠書籍の復元が始まった。宋翔鳳、顧観光、張澍などの学者が集本を行った。中でも宋翔鳳のまとめた『帝王世紀集校』はかなり完備した集校本となっている。その後もいくつかの補遺や付記がでたが、現在出回っている本は、ほとんど宋翔鳳の『帝王世紀集校』本の再點校、注記本である。
本書も、この宋翔鳳の『帝王世紀集校』を主に以下の版本を参照しながら訳出した。
『帝王世紀輯存』編者:徐宗元 出版社:中華書局 1964
『帝王世紀』〔晋〕皇甫謐撰〔清〕宋翔鳳輯。銭保塘、劉曉東校点 斉鲁書社/2000
『二十五别史』中の「帝王世纪」 劉晓東 点校/斉鲁書社/ 2000
『帝王世紀・世本・逸周書・古本竹書紀年』[晋]皇甫謐著;陸吉校/斉鲁書社/ 2010
これらの本の點校者の略歴は以下の通り。
宋翔鳳:字虞庭。江蘇長洲(今の蘇州)人。1779年~1860年、享年82歳。嘉慶五年(1800年)の中挙人。泰州学正、歴官、湖南新寧、耒陽等の知

県、知府を歴任。著作に『帝王世紀集校』のほか、『春秋公羊傳』『論語』等の詳解、論説多数。
銭保塘:1833年~1897年、浙江省杭州府海寧州の人、咸丰九年の举人。四川清溪県ほかいくつかの知県を務め、四川郷試同考官、尊経書院主講等を歴任。編著に『夏氏考古録』4卷、『春秋疑年録』、『歴代名人生卒録』8卷等。
徐宗元:1918~1970年。山東省寿光県出身。中国大学文学系助教、中法大学文史系副教授、新中国成立後は福州大学と福州師範学院歴史系で教鞭を執る。編著に『逸周書正義』『帝王世紀輯存』『春秋后語輯存』『古史考』等。
劉曉東:山東大学古籍整理研究所。
*本文の注記などについて
本文中の(カッコ)内の注記は、訳者によるもので、人名・地名などの読み、また簡単な注記である。
本文中の*:印による文章は、訳者による解説、付記などである。
本文中の【 】カッコ内の文章は、宋翔鳳のまとめた『帝王世紀集校』原文中にある、皇甫謐曰くと記された、明らかに宋翔鳳の補足文と思われる部分で、それを明記するため【 】内に入れた。
本書には原文に無い絵図、写真、地図などを挿入している。すべて訳編者の入れたものである。
*『帝王世紀』本文の各項目の段落終わりにはほとんど『御覧』一。などと書名が記してある。これは、『太平御覧』巻一に『帝王世紀』からの引用文があるとの注記で、『帝王世紀』はある時代から、完全な版本がほとんどなくなり、その後は他の多くの書籍中に残る引用を集めて、初期の版本に近づけようとした。また『帝王世紀』より古い書物の名が見られるのは、『帝王世紀』中にあった引用と考えられる。
天地未だに分かれず、これを太易という。元気(根源の気)は始めのきざし、これを太初という 。気・形の始め、これを太始という。形が変わり質があり、これを太素という。太素が進めば、幽清寂寞(秀麗静寂)にして,象(かたどる)ことなし。ただ虚ただ無、道の根(自然法則の根源的な原理)をおおう。道根すでに建ち、無より有を生ず。太素の質は始めのきざし、きざしありて兆(きざし)いまだし、これを龐洪(ほうこう。渾然宏大)といい、蓋道―自然法則の根源的な原理の中心。すでに万物は育ち体をなし、ここにおいて剛柔は始めて分かれ、清濁は始めてあるべき位置を占める。天は外で陽気を体現する、ゆえに圓によりて動く、自然法則の実際である。質と形はすでにそなわり、これを“太極”という。『御覧』一。*
天皇は大帝で、曜魄(北極星)が帝位。地皇は天一(天と合して一体)となり、人皇を太一(宇宙の根元)となす。『五行大義』五。*
天子は、至尊(この上なく尊く最高の地位)の定名なり。神に応え命令を受け、万物の主催者がいる天の子(人)、故にこれを天子という。
故に孔子曰く“天子の徳は、天地を感じ、八方を動じ、この功をもって神と合す者を皇と称し、徳により天地を合するを帝と称す、義を合わす者を王と称す” 『御覧』七十六。
功を神と合す者を皇と称す。德を地と合す者を帝と称す。德を人と合す者を王と称す。『初學記』九*。
*『御覧』:『太平御覧』・たいへいぎょらん。宋代の類書(百科全書)。李昉、李穆、徐铉ら13人の編、太平興国8年 (紀元983年)の成立。太祖の勅命による国家的書物。天、地、皇王など55部550門に分類し、全一千巻。引用、抜粋された古書籍は1689種という。

*本文の各項目の段落終わりに『御覧』一。などと書名が記してあるのは、『太平御覧』巻一にその引用があるという説明で、『帝王世紀』はある時代には、完全な版本がほとんどなくなり、他の多くの書籍の中に残る引用を集めて、初期の版本に近づけようとした。以下各項最後の書名は同じ意味で、『帝王世紀』より古い時代の書籍名は原初本にある引用書名である。
*『五行大義』:作者は隋の蕭吉。五行学説の最も権威ある書物といわれる。それは古代中国の自然哲学で、万物は火・水・木・金・土の5元素から成るとの説。
*『初学記』:『初学記』三十卷は、唐の徐堅等の敕撰の類書(中国古代、大型の資料性書籍。内容は史実・名称・成語・典故・詞賦・文章・名詞解釈など。百科全書といえる)。唐の玄宗時期に官修されたもので、帝王の子弟らが作文練習の参考にしたといわれる。
太昊庖犧(たいこうほうぎ。また伏犧〈ふつき〉とも)氏。庖犧氏は、風姓なり、蛇身人首、聖德あり。三十六弦の瑟(しつ。大型の琴)を作る、長さ八尺一寸。燧人氏*沒して、庖犧氏これに代り、天(上帝〈万物の主催者〉の意志)を継ぎ王となる。はじめ木の德により、百王の先祖となる。帝は震(しん、東)より出て、未だ因る所あらず、故に位は東方にあり。春をつかさどり、陽をならうにこれ明るし、これを太昊と称する。
都を置き、嫁娶(婚姻)の礼を定め、犧牲(祭祀・祭拜用品。鳥獣魚の生贄)を選び、厨房を充たす、故に庖犧氏と名付け、これを犧皇とする。後世、音の間違いから、これを伏犧(ふつき)といったか、あるいはこれを宓犧(ふつき)といった。一つの答えは、ж(古伏字)だが、後に誤ってжが「宓」になり、宓犧というようになった。また黄熊氏と号す。在位一百一十年。
『尚書序』*にいう。伏犧氏はこれ天下の王である。始めに八卦を描き、書契(木に文字を刻み約束する。文字のこと)を作り、これを結縄の政*に代え、これにより書籍が生まれる。『詩含神霧』*にいう。華胥(かしょ。伏犧氏の母)は大人(神人)の足跡を踏んで伏犧を生んだ。『左伝』*にいう。伏犧氏は龍を印としたので官名とした。
包羲(庖犧)はまた天皇を号す。『路史・後紀』一。*
犠牲をとり庖厨に供え、天の下になす、ゆえに号して庖犧氏という。『礼記・月令』正義*
燧人氏・すいじんし:燧明国(今の河南省商丘)の人。三皇五帝中の三皇の一人。木を擦り火を起こすことを教え、古代人工取火の発明者で、食べ物を焼く煮ることを知らしめた。後世“火祖”と奉られる。
*結縄の政(けつじょうのまつりごと):中国で文字のなかった時代、政治

上の大事は大縄を様々な形に結び、小事には小縄を結び記録した。
*『尚書・序』作者は漢代の孔安國(紀元前156年~前74年)。
*『詩含神霧』:漢代の詩書というが詳細不明。
*『左伝』:正式には『春秋左氏伝』という。孔子の編、左丘明の注釈と伝えられる歴史書『春秋』注釈書の一つ。紀元前700年頃から約250年間の春秋時代の歴史である。
*『路史』:宋代の古書、47卷、作者羅泌。内容は上古以来の歴史、地理、風俗、氏族などの伝説と史事。
*『礼記・月令』:戦国時代の書物。1年12カ月の政府の祭祀礼儀、職務、法令、禁令などをまとめたもの。
太皞帝庖犧氏は、風という姓であり、母は華胥という。燧人の時代に、大人(神人)の足跡が雷沢の中にあって、華胥はこれを踏み、(懐妊して)成紀で庖犧を生む。蛇身人首(体は蛇で顔は人)で、聖德あり、後の百王の先祖である。帝は震(しん、東)より出て、未だ因る所あらず、故に位は東方にあり。春をつかさどり、陽をならうにこれ明るし、これを太昊と称する。また黄熊氏と号す。同上。『尚書・序』正義*。『史記』索引補『三皇紀』。
伏羲氏(庖犧氏)は仰いで天を觀象し(日月星辰を観察)、俯いては地を観法し(大地の規律を観察)、鳥獸の文(文様)と地の宜しきを観て(鳥獣は自然に適応しているか)、近い所は自身の経験知から取り、遠い所は物事の観察知識から取り、これをもとに書契(木に文字を刻み約束する。文字のこと)を創り、結縄のまつりごとに代え、八卦を描いて神明の徳を理解し、万物の情況を類推する(占う)。
それによって六氣(風、熱、暑、湿、燥、寒)、六府、五臓、五行、陰陽、四時(四季。朝・昼・夕・夜)、水火升降(心腎相交、人体の陰陽バランスの根本)の現象を得る。百病の原因をさとり類推した。すなわち百藥を味わいて九針(針の長さと形の違う九つの鍼)を制す。これにより短命早死に用いつくす。『御覧』七百二十一.
庖犧が八卦を創る、神農はこれを重んじ六十四卦となし、黄帝、堯、舜は永く続けてこれをのばし、二易に分ける。夏の時代に至り人は炎帝により、易を『連山』(易書の名)というなり、殷代に至り人は黄帝による易を『帰藏』といった。文王は六十四卦を広め九六の爻を著し、これを『周易』という。
伏羲は崩御し南郡に葬られる*。あるいはいう、陵は山陽高平(今の山東省)の西にあるなりと。
太昊の在位は一百一十年、子孫は五十九姓、伝世五万余歲という。『唐文粋

・陳鴻〈大統紀序〉』
*『尚書』:書経ともいう。成書は紀元前5世紀といわれる。周代からの史書で、古代の帝王、堯・舜から夏・殷・周王朝の天子や諸侯の政(まつりごと)の常識、心構え、訓戒、・戦闘時の檄文などが記載。
*九針を制す:伏羲が鍼灸を創案したとの伝説がある。
*伏羲の陵墓:南郡、襄陽は今の湖北省襄陽市。伏羲庙あり。河南省周口市淮陽県に伏羲陵あり。
女媧氏もまた風姓なり。庖犧の制度をうけつぐ。また蛇身人首。また女希と

呼ぶ、これ女皇となる。『淮南子』*にいう。遠いむかし、天を支える4本の柱が倒れ、九州(中国各地)の大地が裂け崩れ、天は大地を覆うことができず、大地は万物を載せることができなくなった。女媧は五色の石を煉り焼成して青空を補修した。大亀の足を切断して空を支える4本柱とし、伏羲陵を立て、黑龍を殺し(洪水から)冀州*を救い、蘆(あし)の灰を積んで洪水を止めた。その末年に諸侯の共工氏あり、才知があり刑罰をもって強大となる、長(おさ)

タチヨミ版はここまでとなります。
2020年9月30日 発行 初版
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