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【無料】沿革を中心とした京都の各社寺の随想100 第一巻

坪内琢正

瑞洛書店



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 目 次

【簡易目次】

一、永観堂
二、建仁寺
三、高山寺
四、高台寺
五、西明寺
六、嵯峨釈迦堂
七、三千院・寂光院
八、詩仙堂
九、実相院
一〇、青蓮院
一一、神護寺
一二、真如堂
一三、大覚寺
一四、醍醐寺
一五、知恩院
一六、天龍寺
一七、東福寺
一八、野宮神社
一九、平安神宮
二〇、方広寺
二一、豊国神社
二二、法然院
二三、本能寺
二四、曼殊院
二五、吉田神社

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一~四




一 永観堂

【浄土宗西山禅林寺派総本山】 南禅寺・永観堂道停

 しばしば『京都の秋は永観堂』とのキャッチフレーズが聞かれます。紅葉シーズンは混雑整理の関係などもあってか拝観料もやや高め(千円)です。一方、実は、東福寺や清水寺のような、堂宇と紅葉をセットにしての撮りやすいアングルはあまりありません。このため、実は当方も含めてコマーシャルが上手いだけなのでは、と誤解していました。
 実は『京都の秋は永観堂』というのは単なるコマーシャルではなく、そもそもここが平安期からの紅葉の名所として知られていたことに依るものです。後々に作庭され、紅葉との調和を生かしたものは数多くありますが、平安期からとなるとなかなかなく、古の人々と同じものを愛でられるところとなると限られてきます。
 この辺りは庭園とも共通するところがあります。一般的に知られる池泉回遊や枯山水の庭園は書院造などの室町期以降のものが多く、鎌倉期以前となると、例えば池も古池のような印象であったり、草木も自生のものが多かったりします。代わりにそのころ以前となると、庭園そのものの美観より、宗教的な意味合いが増し、平等院のように観想浄土を意識したものや、浄瑠璃寺のように、池の両サイドに本殿と仏塔とを配置し、池をもって此岸と彼岸をイメージしたものなどが増えてきます。
 そしてこの寺院の端緒もまた意義深いものです。平安期、藤原関雄(ふじわらのせきお)という人物がいました。文才にも優れていましたが、出世、名誉といったものへの執着を断ち切り、今の永観堂のある辺りに閑居することを望みました。そのため世間での彼への評判はますます高まり、彼はいつしか世の人々から『東山進士』と呼ばれるようになりました。
 これを聞いた淳和院も彼に感銘を受け、名誉職的な位置づけながらも彼に官位などを与えました。彼の和歌は古今和歌集に二首選出されるほどでした。永観堂をして『岩垣もみじ』と名付けたのも東山進士のこの和歌、「おく山の岩垣もみぢ散りぬべし照る日の光見る時なくて」に依るものです。
 当方はこのような東山進士という人物をこれまで知らなかったことを遺憾に思うところです。東山進士は現代以外、本朝にあって、すべての時代の人々の敬愛を受けていたと推察されます。彼を貶めるような発言が聞こえそうな、現代、東京時代末期という荒廃を是とするかのような時代のおぞましい黒雲の厄介さをあらためて痛感させられたといったところです。
 例えば本朝にあっては、平安神宮の項目でも述べましたが、二重檜皮葺の紫宸殿、並びに、その前の白洲の左右において、四季折々の姿を見せ、常時変化(無常)のシンボルである左近桜と、常緑(不動)のシンボルである右近橘のセットは、現代以外の全時代において、ちょうどパリのエッフェル塔や、北京の天安門のような、本朝のシンボルとして認識され、民心の反抗期的荒廃はこの配置を乱すものとして警戒されてきました。
 これを無視するどころかその存在すら知らず、関東相模原事件のような、民心荒廃を肯定、賛美する論調が一般化する、東京時代末期というものが、いかにスタンダードの正義の仮面を被った異質極まりない状態であるかがここからも垣間見れます。
 東山進士死去以後、ちょうど、河内長野観心寺にて、空海の弟子真紹僧都が、京都での仏像建立を発願しており、仁寿三(八五三)年、ここに大日を安置したことが永観堂の始まりです。なお当時京都では私寺の建立は原則として禁止でしたので、十年後の貞観三(八六三)年、清和天皇の勅許により禅林寺の寺号を賜り、公認となりました。
 真言宗の寺院であった禅林寺は、中興の祖七世住持永観(ようかん)のときに浄土教を主体としたものに変わります。永観(えいかん)堂の通称も彼の名によるものです。永観は延久四(一〇七二)年に禅林寺に入り、浄土教をメインとします。
 また禅林寺には当時東五条の悲田院付近に薬王寺という塔頭がありましたが、ここでの慈善事業なども活発化されます。
 永観堂には悲田梅という梅があります。現代・東京時代末期にあっては引き篭もりなどと呼ばれ嘲笑の対象としかなっていない、鴨家でもっとも著名な人物鴨長明も、やはりこの情報に目を付け、発心集において、「禅林寺に梅の木あり。実なる頃に成ぬれば、これをあだにちらさず。年毎にとって、薬王寺といふ所におほかる病人に、日々といふ計に施されければ、あたりの人、此木を悲田梅とぞ名づけたりける」と記しています。
 永観以降本尊は大日から弥陀に変更となります。この本尊阿弥陀如来立像は永観の時代から一世紀ほど後の一二世紀後期の作といわれていますが、顔を左に向けた特異な姿です。
 諸説がありますが一般には『見返り阿弥陀』と呼ばれます。寺伝では、永観が日課である行い(行道・仏道修行)として、念仏を唱えながら阿弥陀像の周囲を回っていたところ、壇上から弥陀が動き出し、永観よりも早く歩き、後ろを振り返りそこにいる永観を見て「永観、遅し」と告げ、そのままの姿になったとのことです。
 もちろん相手は弥陀ですので、その辺の神のように熱中症になれと言っているのではないでしょう。人には各自ペースというものがあります。その是非は周囲との差で決めるものではなく、その人個人の相応の努力によって決めるものでしょう。永観は自己のペースに慢心を感じ、そこに見返り阿弥陀の姿を見てとったといえそうです。
 この見返り阿弥陀は先述の通り平安後期製とのことですが、工芸技術的にも、左を見返るとの姿を強調するため、やや頭部右側を大きくする、左足を少し前に出すなどの歩行をしており、永観の行道の先導の他、往生者の先達となった際の見守りの意図なども考えられるとのことです。
 近隣に、のちに臨済宗五山別格となる南禅寺の前身となる南禅院が鎌倉期に建立されたこともあり、やや規模は縮小されますし、浄土宗内部での事情により独立本山となったりしていますが、基本的に規模は大きく変わっていはいません。
 さて、この堂宇にあって特徴的なのは、御影堂、書院、方丈などの主要建造物が、ことごとく、背後の東山に沿って並んでいることです。これについて杉本秀太郎は「(寺院側が)さながら山を信頼しきっているかのようにみえるが、ご本尊の見返り阿弥陀さまを拝したのちに、あらためてこの真近な山を眺めると、山が永観堂の信頼に応えて崩れまいとしている、山が阿弥陀さまをお守りしている、というふうに見えてくる」と述べています。
 人によって受ける印象は様々です。当方としてはそんな風には感じません。むしろこれはもはや自然災害に対する前線部隊のような伽藍配置です。
 永観堂は応仁の乱など人災による焼失はあっても土砂災害の記録はありません。とはいえ、二〇一八年、京都市三方のほぼ全域の山側も避難指示レベルでした。幸いにも市内死傷者などは発生しませんでしたが、同豪雨は広島、岡山など各地に、温暖化の影響ともいわれていますが、過去の想定を上回る被害を出しました。山の神など仏からすれば取るに足りませんし信用なりません。にもかかわらず永観堂がこういった堂宇配置をしているのは、何度自然災害によって当堂宇が倒壊しても構わない、京洛の人の信仰がある限り、当堂宇は復興を繰り返す、との、人と仏との決意の表れのようにもうかがえます。
 もちろん、自然災害が発生していないにもかかわらず、永観堂建立の発端となった藤原関雄が貶められるような異質な東京時代末期にあっては、大量の人々を悲劇に陥れる土砂災害をはるかに上回る、エイリアンの襲来のような危険な、反抗期的な民心荒廃による危機が当堂にも迫っているといえるでしょう。



二 建仁寺

【京都五山】【臨済宗建仁寺派本山】 祇園四条駅

 栄西の建立した臨済宗寺院です。日本初の禅宗、臨済宗と混同されることもありますが、厳密には栄西は洛中に建立する前に福岡県に聖福寺などを建立していますので日本初ではありません。
 秀吉などを祀り、近年では中央新幹線経由地について文化的ポスター作成をもって一言したことでも知られる高台寺もここの末寺です。ちなみに中央新幹線経由地の現状の悲惨さは、明神三位上下賀茂、浄土宗前管長などの有識者も厳しく苦言を呈しています。
 前掲知恩院・法然に比較すれば記述量はかもしれませんが、栄西は平安末期、約二百年ぶりの中国留学を実施した人物です。
 禅は今ではただ単に「かっこよく座る」ことが目的とまで誤解されており、本来臨済宗では(偶像崇拝などせずに座ったりと楽な姿勢で)「(地上に来る際に事前説明のなかった)問い(考案)に考える」、曹洞宗では「夢中になる」といったものが目的のはずのものです。
 当初延暦寺側から禅について異論がありました。法然ほどの強硬な対立姿勢とはならず、栄西はこれに対し『興禅護国論』を著します。そこでは、禅は最澄の教えの中の一部を占めているといったことが強調されています。元亨釈書に興禅護国論が要約されていますが、栄西は、『禅宗もし非ならば仏教また非ならん。伝教もし非ならば台教立たじ。台教立たずんば台徒あに我を拒まんや』と天台宗側を批判しています。過激で現代であれば異端扱いされそうな内容ですが、当時天台側もとくにこれに激しく反発しませんでした。
 偶像崇拝などを否定していた禅はむしろ当時ではセンセーショナルな教えでした。また、念仏とは異なりあくまで「円禅戒密」と、旧来の天台、真言との融和を図る三宗兼学の路線をとっており、平安仏教側との対立もさほど大きなものとはなりませんでした。ただしそのため禅宗は念仏宗と比べ歴史的事項は少なめではあります。
 健久六(一一九五)、栄西は福岡に前掲の追聖福寺を建立、建仁二(一二〇二)、源頼家を開基とし当寺を開山します。現代では四条花見小路からの参内が一般的ですが、勅使門は八坂通側にあり、そこから放生池、三門、法堂などが並んでいます。なお法堂天井の双龍図は二〇〇二年の作です。
 当初は三宗兼学でしたが、文永二(一二六五)の十一世蘭渓道隆の頃より禅専門となりました。室町幕府では中国に倣い五山制度を模索、円覚寺文書によれば義満により至徳三(一三八六)年、幕府ゆかりの天龍寺、相国寺などを上位とするものの、栄西開山の当寺を第三位としました。
 範囲ですが、帝王編年記などによると当時「五条以北、鴨川以東」と相当広く、近世、明治になり縮小し、坊目誌によれば一時最大六十四あった塔頭も大幅に減りました。とはいえ現代においても十四の塔頭を有しています。なお大半は拝観はできません。
 また江戸初期俵屋宗達作の風神雷神図屛風が同寺院所有となっており、京博寄託の国宝となっています。



三 高山寺

【国宝建造物】 栂ノ尾停

 奈良時代の創建と言われていますが事実上の開基は明恵です。神護寺中興の祖門学の弟子上覚の甥に当たり、華厳宗中興の祖でもあります。浄土宗などの鎌倉新仏教の興隆に対し、旧仏教を復興した人物です。建永元年(一二〇六年)後鳥羽上皇が明恵に栂ノ尾の地を与えます。鎌倉時代当時に当時「経蔵」と呼ばれた建物が「石水院」として残り国宝建造物に指定されている他、鳥獣戯画もこの寺院が京都・東京国博に寄託しています。
 臨済宗の開祖栄西が南宋で得た茶の種子を明恵に与え、これを明恵がこの境内にて飢えたことからここが日本茶発祥の地とされ、後に宇治などに伝わることになります。明恵樹上座禅像では小鳥やリスなどに囲まれながら木々の中に座る明恵が描かれており、私も訪問したときにはその豊かな自然の中にある古びた石段や伽藍に驚かされました。
 この寺院に鳥獣戯画が保管されている件については諸説があります。
 鳥羽僧正覚猷(かくゆう)は、最近では否定説もありますが今昔物語集の撰者源隆国の子で、鳥羽上皇から鳥羽離宮の証金剛院に任じられたことからこの名があります。
 美術史家上野憲示の説では、鳥獣戯画は九条道家の子で仁和寺門跡当主も務めた法助がこれを継承し、明恵の死後彼への敬意からこれを寄付したとのことです。
 源氏物語も現代のサブカルに通じる古典として知られていますが鳥獣戯画もまた同様で、身近な動物を擬人化というのはなかなか他の国では見られないものです。最近は動画サイトなどに動く鳥獣戯画の動画が制作、投稿されたりもしており、鳥羽僧正のユーモアは現代でもなお通用しているようです。



四 高台寺

 【名勝】 東山安井停

 鷲峰山(じゅぶさん)、寺号は高台寿聖禅寺となります。一般的には、秀吉正室のねね    (北政所、出家後は高台院)の菩提寺として知られます。なお臨済宗五山第三位建仁寺派の一派で同寺院との関係も強く、建仁寺の三江が中興でもあります。近代初の招魂社である京都霊山護国神社のふもとにあります。
 主観も入りますが池泉回遊式庭園としては相当のレベルを誇ります。
 また近年では、中央新幹線の京都駅における各新幹線・在来線接続の意義の重要性を、地方によくあるような、我田引鉄ではないとの理論、滅私奉公の姿勢をもって論じたポスターを、私財を投じてまで制作するなど、戦後日本人及び人間的醜悪さ、また人間の自浄能力逃避の存在としては天下一品としての名をほしいままにしていていて、それは正常な思考を持てば一片の疑いようもなく、弁解すら見苦しいと自発的に人間的な思量ができる名古屋のJR東海とその構成員の存在のような集団浅慮・衆愚に流される危険性をはらんでいる大衆に大至急、かつ至極まっとうな警鐘を鳴らし、国家鎮護の使命を忘れずにいる寺院としても評価されています。これは当方のわずかばかりの人間的親切心をもっての論です。
 もちろん、その行動の背景にあったものには、最低限、日本人、そして最低限の人間として、これにはこの寺院の持つ庭園の人間的美しさも影響していると推察されることはもはや異論のいの字もないものと思量することはあまりに容易といえます。
 当方個人もこの寺院の持つ独特の伽藍配置やその眺望を好んでいます。高台寺のどの風景が好みかでしばしばの話題となるところであることはいうまでもありませんが、とくにと聞かれれば、実は凡庸にも開山堂を正面から、と述べます。周辺の紅葉などもかなりのベストですので。
 秀吉没後家康の支援などにより慶長十一(一六〇六)年に建立されます。よくある勅使門、庫裏、方丈など(門跡ではありませんので宸殿はありません)の他、開山堂、観月台、臥龍廊、霊屋といった特徴的な建造物があり、これらと小堀遠州作と伝わる池泉回遊式庭園などが配置されています。また山手に二つの茶室時雨亭と傘亭があります。茶室としては珍しく二階建てとなっている方が時雨亭です。
 霊屋の厨子、須弥壇などの蒔絵は黒漆塗りに金蒔絵の装飾を施した特徴的なもので、高台寺蒔絵と呼ばれ、同期蒔絵の至宝とも呼ばれています。意外なところに相当の至宝があるという好例といったところでしょうか。



五~九

五 西明寺

 槙の尾停

 清滝川の指月橋を渡り、石段を登ったところにあります。神護寺、高山寺の中間にあり、この三つの寺院を合わせて三尾と呼びます。真言宗大覚寺派です。寺伝天長年間(八二四~八三四年)に空海の高弟智泉が神護寺の別院として創建したとあり、建治年間(一一七五~一一七八年)に和泉国槙尾山寺の自証が中興、比丘の律院とし、一二八八年、後宇多天皇により、平等心王院との寺号を受け、一二九〇年に神護寺より分離、一六〇二年に明忍により再興されたとのことです。
 現在の堂宇は、後水尾天皇の中宮東福門院の寄進とも、また徳川綱吉の生母桂昌院により元禄一二年(一六九九年)寄進との説などがあります。



六 嵯峨釈迦堂

嵯峨嵐山駅

 裏道の先の大きな三門が目立ちます。
阿弥陀三尊を本尊とする棲霞寺(せいかじ)と、釈迦如来を本尊とする清凉寺という二つの寺院が由来です。源融の一周忌に当たる寛平八年(八九六年)、融が生前に造立発願して果たせなかった阿弥陀三尊像を子息が造り、棲霞寺を建立しました。またその後天慶八年(九四五年)に、重明親王妃が新堂を建て釈迦像を安置しました。
 棲霞寺草創から数十年後のことになります。中国・宋に渡り、五台山(清凉山)を巡礼した奝然(ちょうねん)という東大寺出身の僧侶ががいました。彼は宋へ渡航中の九八五年、宋の台州の開元寺で一体の釈迦如来像を謹刻させましたが、それは、古代インドの優填王(うてんおう)が釈迦の在世中に栴檀(せんだん)の木で造らせたという由緒を持つ霊像を模刻したもので、模刻像と霊像とが入れ替わったとする縁起もあるため、「インド - 中国 - 日本」と伝来したことから「三国伝来の釈迦像」と呼ばれていました。奝然は、永延元年(九八七年)日本に帰国後、東の比叡山と対する西の愛宕山を中国の五台山に見立て、愛宕山麓にこの釈迦像を安置する寺を建立しようとします。しかしその願いを達しないまま彼は死去、彼の遺志を継いだ弟子の盛算(じょうさん)が長和五年(一〇一六年)棲霞寺の境内に建立したのが、五台山清凉寺です。
 また弘安二年(一二七九年)に円覚が融通念仏を勤修して以来融通念仏との関わりも深くなり、壬生寺の壬生大念仏狂言、千本閻魔堂狂言と並び嵯峨大念仏狂言の舞台となっています。
 またこちらの涅槃会である『嵯峨のお松明』は五山送り火、鞍馬火祭りと合わせ三大火祭りとされています。
 境内には釈迦堂、阿弥陀堂の他経蔵などもあります、経蔵は一周すると全ての経典を読んだのと同じ、とも言われていますがこれは逸話でしょう。また本堂背後に庭園が設けられています。
 古くは天台、真言、念仏の教学、現代は浄土宗となっています。



七 三千院・寂光院



【宮門跡】 大原停

 境内にある往生極楽院はもともとは三千院とは別の建物でした。吉田経房の日記「吉記」によれば、十二世紀末、彼の叔母、真如房尼が、夫藤原実衡の冥福を祈るために建立したものです。三千院自体はもともと洛中にありましたが明治になり大原に移転、極楽院を取り込みました。
 開祖伝教大師最澄の教えはどこかに行き、比叡山でも権力闘争が絶えませんでした。大原はそのようなくだらない権力闘争からは身を引き、自身の修養に尽くそうとした者たちの隠棲の地となりました。権力闘争を相手にせず自身の修養のために隠棲した者たちの中からは人々に優れた教えを説く者も数多く輩出され、隠棲のつもりが、権力闘争に明け暮れる比叡山の僧侶以上の崇敬を集めて多くの者から慕われていました。隠棲した者であっても古来の日本人は優れた者を讃える心がありました。愚かしい者ばかりの現代においては隠棲のような行為は『引きこもり』などといわれ嘲笑いこれを排除する者ばかりとなり、権力闘争に参加し『勝ち組』などになることこそが大人、などと嘆かわしいことばかりが吹聴されています。
 三千院のもとは円融房といい、最澄が延暦寺を開いた際、東塔南谷に薬師如来を自作しそこに祀ったのが始まりとされています。この円融房の傍に梨の木があったことが『梨本門跡』の名称の由来とされています。
 隠棲したつもりが、比叡山の僧侶以上に活躍していた人物の例としては聖応大師良忍があげられます。彼は声明の大成者となりました。仏教の声明は後に浄瑠璃や謡曲など日本音楽文化へと繋がっていきますが、徐々に仏教の説く思想性は薄れていきます。後白河上皇以降、江戸末期に至るまで声明は御所にて『御懺法講(おせんぼうこう)』として、宮中行事として執行されましたが近代に入りこれは中止されました。皇室の縮小、東方奠都や他の行事の縮小についてもこれは言えることですが、声明の衰退が現代日本文化の軽薄さ、品のなさに結びついているのではと指摘することもできるのではないでしょうか。 
 大治五年(一一三〇年)に堀川天皇の子最雲法親王が入室して以後宮門跡となります。
 往生極楽院の本尊阿弥陀如来像が国宝です。同往生極楽院とその周辺の苔庭は作家井上靖が『宝石箱』と比喩しています。私も気付けば、出町柳からバスで三十分もかかる山の中にも関わらず四度は訪問していました。
 さて大原バス停の反対側、田園風景を十五分ほど歩いたところには寂光院があります。
 聖徳太子時代の創建とまで言われるほど創建の由来が不明です。良忍が開祖ともいわれます。この寂光院は、平清盛の娘、高倉天皇の中宮で、安徳天皇の生母、建礼門院が隠棲した場所として知られています。一一八六年、忍びで後白河法皇が建礼門院を訪ねて寂光院を訪問、平家物語の『小原御幸』の段でも有名です。
 寂しさを伝える建礼門院の御歌『思ひきや 深山の奥にすまひして 雲井の月をよそにみおんとは』に対し後白河法皇は『池水に 汀の桜散りきて 波の花とて 盛りなりけれ』と慰めの返歌をしています。しかし一度孤独を知った者がこれにどの程度癒されたのかはわかりません。



八 詩仙堂



一乗寺駅

 槙野修は同寺院について、『名前と人気が先行』、『(社寺の中で)二番手に控えているグループの代表』との印象を述べています。
 とはいえ同様の印象を受ける社寺は人により様々です。例えば実相院などは「院」とついているため規模が大きいと誤解されがちですが、実際には「堂」に近いサイズです。また各社寺の中で、一番手はまだしも、二番手となると、私としてはあまりに数が多くとても決められないといったところです。もちろん、小規模でありながら、さながら隠れ家のように優れた建造物や庭園を持っている社寺は詩仙堂の他にも多くあります。これらは、そもそもあまり知られていなかったのかもしれませんが、いったん知られるとそれが定着していったというパターンが多いです。
 現在は六六山丈山寺という曹洞宗の寺名があります。また別称を凹凸窠(おうとつか)と言いますが、これは凸凹な土地の上にある住居という意味です。その名の通り、前景の撮影は難易度が高いです。
 開基石川丈山は三河の徳川方の武士でしたが、大坂夏の陣において、軍律を犯したため処罰され、その後、寛永一八(一六四一)年五九歳のときに、ここ左京区を隠棲の地に選びました。金銭名誉に明け暮れた戦国武士としての浅はかさを知り、小規模な住居と庭を構えました。
 石川丈山自体が当時としては長寿で九〇まで存命であったため、その期間は三〇年以上と長く、そのため悠々自適などと言われることもありますが、当時の六〇歳は晩年に近いものですので、やはりここは彼にとっては隠棲の意味の方が強かったように思えます。
 詩仙堂の名はこの小規模な住居の一室である詩仙の間によるもので、本朝三六歌仙に倣い、中国の詩人三六名を独自に選定し、彼らの額が掲げられています。
 彼自身、『竹林に居し、誓って鴨川を渡らず』と、この閑居での隠棲の志を持ってはいました。ですが金銭名誉に明け暮れる武士や、現代の東京や名古屋人とは異なるその謙虚な姿勢について、人々は笑うことなく、それはかえって評価され(この点は当時と現代との違いと言えます)、林羅山、元政など、政界に通じる文人らとの交流もかえって増え、また、修学院離宮や渉成園の作庭にも関与していたと言われています。
 石川丈山死後も彼を慕いここを訪問するものは多く、霊元上皇もここを訪れ、「唐うたの聖を数多写し画も其の名もともに朽ちぬ庵かな」と詠んでいます。また松尾芭蕉も石川丈山の姿勢を「風かほる羽織は襟もつくろはず」と評価しています。



九 実相院



岩倉駅

 十分に趣のある社寺ですが、京都ではがっかり名所ともしばしば言われます。とはいえその理由は名称から来る印象からのものではないでしょうか。ここの規模は比較的小さく、どちらかと言うと『院』というより『堂』に近いものです。仮に『堂』とついている社寺でも著名なところは多くありますので、それは別にたいして価値がないということにはならないでしょう。もちろん古来から『院』ですのでそれを変える必要もないでしょう。
 寛喜元(1229)年、鷹司兼基の子静基(じょうき)による開基です。実相院という寺号は、静基が三井寺に入壇受法した際の号に由来します。
 当初は北区の紫野にあり、後に今出川小川に移転、さらに応仁の乱により、現在の岩倉の地に移転します。実は南北朝期より、実相院はここの北側にある大雲寺という寺院の管掌を委ねられており、応仁の乱による移転はその関係によるものです。
 その後、寛永期に足利義昭の孫義尊が入りここを再興、さらにその後、霊元天皇の子義延親王が入り、一時宮門跡となります。
 とはいえ安政五(1858)年以降一時法統が中断します。明治四(1871)年には京都府立療病院(現在のいわくら病院)に寺領を献納、規模は大きく縮小されます。ここから、『院』とはいえ実態は『堂』といった印象を受けるのであろうと思われます。
 『実相院門跡』としばしば言われますが、実は実相院は一三宮門跡には入っていません。同じことは随心院にも言えます。一三門跡の残り二つは日光市輪王寺と、大津市円満院です。
前の二つをカウントして、門跡とは京都限定の施設であると勘違いされることもありますが、本来これは全国規模でカウントしたものです。
 ちなみに、前庭に面する客殿の床がしばしばその紅葉や青紅葉を反射することがあり、これは実相院の床紅葉、床緑として知られています。規模は小さくとも、名所であることに変わりはないと言うことができそうです。



一〇~一四




一〇 青蓮院



【一三宮門跡】 東山駅

 寺名の優雅さでも知られますが、『青蓮』とはそもそもは仏の目の美しさを意味する言葉です。宮門跡は一三門跡として知られ、また筆頭は仁和寺であり、重要度も大覚寺など、真言宗系が多いですが、天台側にもいくつかあり、それは『天台三門跡』と言われます。ここがその一つです。
 ちなみに残りの二つのうち、大原三千院は比較的有名ですが、もうひとつは妙法院です。妙法院と聞いて、それがどこのどの寺院かがわかる人はあまりいないのではないでしょうか。
以前、関東の川崎大師、成田不動、高尾薬師などは全て同じ真言宗智山派であり、その総本山が、元旦からもゆったりとした光景で名勝庭園を鑑賞できる東山七条の智積院であり、この一帯は、他にも三十三間堂、京都国立博物館、豊国神社など、各時代の代表的な建造物の立ち並ぶ重要なエリアであると述べましたが、実はその智積院の北側に隣接するのが妙法院です。
 門跡寺院として塀に五本の線もあるのですが、七条通を進む限り、どこからが智積院でどこからが妙法院かもすぐにはわかりません。また、基本的には境内の散策しかできませんのでさほど著名でもありません。この妙法院の沿革については後日に譲りますが、ここの特徴をひとつあげるとすれば、それはここでの国宝建造物の登録は、本堂でも宸殿でもなく庫裏であるということです。つまり僧侶の住房が本堂などを差し置いて最大の価値のある建造物となっているということで、これも格式にとらわれないことの重要さの示唆とも言えそうです。
 三千院、妙法院同様、今日では寺格の高さもありますが、元は比叡山にあった小さな庵(青蓮坊)であったということも共通しています。
 久安六(1150)、鳥羽上皇の皇后美福門院がここを祈願所とします。また嘉応元(1169)年鳥羽上皇の第七皇子覚快法親王がここに入寺し宮門跡化、これに際し、比叡山上から寺院が三条白川に移設、さらに慈円が元久二(1205)、今の粟田口に移設します。なおここは以前は十楽と呼ばれており、その異称もありました。
 なおこの間に、親鸞が九才のときに同寺にて得度を受けています。この関係から、真宗の貫主は天台宗の青蓮院で得度を受けることが近代まで慣例となりました。
 古くから宮門跡であった関係か、政治、芸術などの各方面の著名人に門主がいます。『愚管抄』の著者慈円もその一人です。また慈円は浄土宗自体には批判的でしたが、後に家康によって巨大化される法然の草庵は青蓮院付近の吉水にあり、親鸞の得度もここでなされており、法然と慈円との関係も深かったと思われます。
 さて青蓮院の本尊は熾盛光如来というマイナーなもので、これは醍醐寺の准胎観音なども想起させます。この熾盛光如来をまつる法を『熾盛光法』と言いますが、現門主東伏見慈晃氏(当時は執事長)によると、これは計八六回実施されており、うち二一回を慈円が占めていたとのことで、彼がこの熾盛光如来、そしてまたそれをまつるこの青蓮院を好んでいたことがうかがい知れます。
 また、南北朝期の伏見天皇皇子尊円は能書家として優れており、これが青蓮院流(粟田流)と呼ばれ、江戸幕府の公文書の書体ともなりました。
 六代将軍義教は、義持が後継を告げなかったため、くじ引き、還俗として就任しましたが、このくじ引きは一応石清水神前にて実施されており、また、還俗とは言え、ここの門主でもありました。
 また幕末にあっては、法親王らも各自の立場での動きが強まりました。その中の一人がここの門主であった尊融親王です。彼は王政復古の動きに共鳴し、安政の大獄にて蟄居処分となるものの、三年後解除、還俗、久邇宮朝彦親王となりました。幕末にあっては公武合体派であったため再度失脚するものの、明治三年に親王復帰、伊勢祭主となります。
 この久邇宮朝彦親王の系統が、皇族からは降下しているものの東伏見家となります。前代の門主東伏見慈洽氏は香淳皇后の弟で、小学校二年のときに東伏見家に移っています。
彼が小学校六年の時に依仁親王が薨去、この時の喪主を彼が名義上務めることになり、各儀には参列せず、単に各儀式の後に宇垣一誠葬儀委員長について拝礼するだけという儀式をやっていたそうで、慈洽自身も『をかしいと言へばおかしな事』をやっていたわけです(東伏見慈洽『質問に対する答え』(梅原猛宛か)より)。
 また、この青蓮院には現代にあっても特筆すべきことがいくつかあります。まず、門主が世襲であることです。
 厳密には近世以前は真宗以外は世帯不可でしたから、世襲ではありませんでした。とはいえ、宮門跡という格式は抱き続けていました。青蓮院門主にも世代交代の時期がせまったとき、門主には慈洽氏子息の慈晃氏が推挙されました。これについて天台宗側とはひと騒動あり、青蓮院側が天台離脱までほのめかして認められることとなりました。
 また、現門主の慈晃氏のときに、二〇一四年、青蓮院管轄下となっていた、桓武天皇が作らせた将軍塚に、青龍殿を建立したことでも知られます。清水寺が洛域南方を見渡せるとすれば、青龍殿は、平安神宮鳥居、御所など、洛域北方を見渡せる場所ともいえるでしょう。
 ここを訪問したものはその素晴らしさを口々にしますが、現状もっとも身近なアクセスは徒歩での東山登山です。四条通の鴨川にてアユやコイとたわむれ、京阪特急停車駅である祇園四条駅の喧騒、八坂神社楼門をくぐり、わずか十五分で山の中というのも趣のあるものですが、個人的にはロープウェイのようなものもほしいと思った次第です。ちょうど近江八幡の山中の小寺院が、麓に町屋が展開していてそこからロープウェイをひいていることをを思い出したものです。
また私はこの落慶に際し東伏見氏自身による同殿での護摩を拝見いたしました。東伏見氏の演説は仏法というよりは建築工学などが中心でした。ですがそれもやむを得ないことかもしれません。青竜殿は大正製の京都府警の道場の移築であり、この移築というもの自体、この記事でも頻繁に出現するものですが、それすら知らない人の方が現代では多そうに見えたからです。またここでは、国宝青不動をまつっています。ちなみに黄不動は三井寺、赤不動は高野山にあります。これをここに祀るに際し、今は京都移転となった文化庁とひと悶着あり、結局四〇度の常温ガラスにて保管という形式となりました。
 青竜は東の守護であり、その担当は四条通祇園の八坂こと祇園感神であり、その祭礼はあの祇園祭です。但し明神としては賀茂、松尾に比べればかなりランクは下がります。青竜殿はそれを補佐する位置づけもあり、その背後の将軍塚にて、洛陽守護に当たっています。ここにてこれをまつり、護摩をなすことを慈晃氏は発願し、演説にて「私はこれがしたかったんだ」と仰っていたのが印象的でした。仏教ではダメな時の諦めの大事さも教えられますが、そうでないときのいわば『がむしゃらなわがままさ』も大事でしょう。彼の表情はそれを物語っているようでもありました。  



一一 神護寺



山城高雄停

 もとは「神願寺」と「高雄山寺」という二つの寺院で、ともに和気氏の氏寺でした。
 山を登ったところの閑散とした場所に突然広大な伽藍が出現します。庭園でもなくただの広場なのですが、山折哲雄は『天上の庭』と表現して驚いています。
 和気清麻呂といえば御所となりの護王神社の祭神としても知られます。道鏡の帝位就任阻止も有名ですが、鷹狩りを口実に、近年、青不動を祀る青蓮院青龍殿がとなりに建立された将軍塚(平安京鎮護のため桓武天皇はここに将軍像を埋めたと伝えられることからこの名があります)に桓武天皇を連れ出し、平安京遷都を彼に進言した者とも知られており、戦前では楠木正成と並ぶ二大忠臣と言われていました。人物神を祀る『別格官弊社』は楠木を祀る神戸の湊川神社が明治五年初めて列せられますが、第二が明治七年、和気の護王神社です。
 なお靖国神社や諸国の護国神社も別格官弊社であり、社格自体はそれほど高くはありません。先の大戦による英霊の数がとんでもないものとなってしまってはいますが。公人、最近は大臣の参拝はあまり問題視されなくなりつつありますので首相の参拝のみが恣意的に政治問題となっていますが、信教の自由との問題の線引きも明らかに曖昧で、単なる政権批判の口実と化しつつある様相を見せています。また一方、保守派の中にも、無知な場合、単なる別格官幣社を神道の中心地であるかのごとくの勘違いをしている者もいます。これには、東京都が商業ビルばかりを建てた結果目立った社寺の比率が京都と比べ著しく減ってしまったという事情もあるようです。
 当の和気も自身の進言した新都がまさか千年も続き世界有数の文化都市と化すことまで想定していたかどうかはわかりませんが、罪となることを覚悟してまで天皇の意に反した宇佐八幡の神託を告げるほどの人物ですから相当の個人主義、また実は公益主義者であったと推測するのは容易でしょう。
 和気が宇佐に参詣した際宇佐は和気に寺院建立を依頼したと言われています。そこで彼は神願寺を建立しました。但しその場所は山背なのか河内なのか場所も不明です。このときの宇佐の神託は興味深く、『神にも良い神と悪い神がいる。悪い神は邪な捧げものも平気で受け、その願いをかなえようとする。このような悪い神をどうにかするために仏の力をかしてほしい』といった主旨で、神が仏の力をかりたいと言っています。後の神仏習合の現れともいえます。
 また皇室の祖伊勢に次ぐ二所宗廟、皇室中興の祖応神天皇の人物神である八幡神は、鎌倉時代にはどういうわけか東方では軍神となってしまいましたが、もとは仏教とのつながりが強く、後に宇佐に代わって八幡の代表となる石清水の例祭はもとは放生会という仏教行事で、それは人が神に願うのではなく、神が仏に生きとし生きる者の平安を願うという主旨、しかもこれは勅祭の中でもとくに重要視される三勅祭(あと二つは賀茂葵祭、春日例祭)とされています。
 保守派の中には安易な廃仏毀釈を唱えるものもいます。確かに全日本仏教会の見識は世論迎合的で理知に欠ける部分が多々ありますが、だからといって仏教をおろそかにしていいというわけではありません。
 さて、妖怪は神が霊落したものと平田篤胤などが指摘しています。私は拙稿『ゆく川の流れ』の執筆に当たり、妖怪が既に十分ブームとなっていることからなるべくこれを除外し神霊を主眼として活躍させるよう意図しましたが、この中で、祟るなどの行為を行うことばかりが知られる神(主に東方に多い)はもはや妖怪と同一とみなすこととしました。宇佐のいう悪い神というのもそのような神のことをいうのかもしれません。
 和気と最澄との関係は明らかではありませんが、まだ天台宗を開宗していなかった最澄は延暦二一年(八〇二年)、清麻呂の長男弘世は伯母に当たる和気広虫(法均尼)の三周忌を営むため、最澄を高雄山寺に招請し、最澄はここで法華会(ほっけえ、法華経の講説)を行いました。天台宗延暦寺といえば日本の仏教界の代表の一つ、すぐに後に世俗の価値観が紛れ込む寺院となってしまうことで有名ですが、当時孤独な学僧であった開祖最澄は無論そのような人物ではなく、清麻呂との縁があったものと推測されます。
 現代であれば『引きこもり』などと嘲笑いの対象にされかねない、最澄の講義は人々を感化させ、彼は続く延暦二四(八〇五)年には日本初の灌頂の儀式を高雄山寺にて実施するなどし、翌延暦二五年(八〇六年)天台宗開祖となります。『イケメン』、『勝ち組』、『コミュ力』『KY』『時と場所』など、東京都発祥の価値観の荒れ狂う現代にもどこかにこのような最澄のような人物もいるかもしれませんが、それを見出せるような人物はどこにもおらず愚者の集う国家となってしまいました。
 一方空海も神護寺と深くかかわっています。空海は二四のときに弁明書『三教指帰(さんごうしき)』を記して大学を中退し、彼も現代で言う『引きこもり』となりましたが、現代とは異なり人々がたとえ『引きこもり』の書いた文章とはいえこの書を高く評価したためか八〇四年に彼は二〇年間の入唐を任命されます。
 ところが自由奔放な彼のこと、唐にて優れた業績を上げ、あげく恵果から灌頂を受けるなどし、これで十分、次は日本での伝教、と思いたった途端、二〇年のはずがわずか二年で帰国します。これは『引きこもり』どころか、当時刑事罰、闕期(けつご)の罪に相当する行為でした。そこでまた彼は弁明書『請来目録(しょうらいもくろく)』を記します。当初彼は大宰府に止め置かれますが、大同四(八〇九)年には高雄山寺に入ります。ここには『請来目録』の良さに気付いた最澄の推薦もあったといわれています。
 弘仁三(八一二)年彼は高雄山寺にて灌頂を実施、これは密教の儀式であるため立場上は彼の師であったはずの最澄も、空海の密教の智徳の深さを感じ彼から灌頂を受けています。全国各地に空海作と伝わる仏像や書物は多数あり、あれらを全て合わせると一人でできなくなってしまう量となってしまいますが、神護寺には、このとき空海が灌頂を授けた者たちの自筆の名簿が残っておりこれは国宝に指定されています。その筆頭に最澄の名が記されています。この後弘仁七(八一六)年に高野山を下賜するまで空海は高雄山寺を拠点に密教の伝教に努めます。そして天長元(八二四)年に神願寺と高雄山寺は合併、ここに神護寺が誕生することとなります。
 ところがその後神護寺はいったんは衰退、平家物語には『春は霞にたちこめられ、秋は霧にまじはり、扉は風にたふれて落葉のしたにくち、甍は雨露にをかされて、仏壇さらにあらはなり。住持の僧もなければ、まれにさし人物とては、月日の光ばかりなり』と描写されます。現在も神護寺があるのは文覚の功績でしょう。
 北面の武士出身で、同僚の人妻に恋しその夫を殺めようとしたところ誤って人妻の方を殺害してしまい出家、各地の聖地で修行した後、真言宗の聖地のはずであった神護寺が荒廃していることを嘆き、仁安三(一一六八)年に薬師三尊を建て再興を発願します。
 しかしこの方法が過激で、平家物語にも記される通り、後白河法皇のいた管弦の会場に乱入し勧進帳を読み上げるという強訴、伊豆に配流されます。ところがここで源頼朝と出会い親交を深め平家追討に協力、このため後白河法皇も神護寺再建を支援します。一方で彼は平重盛の孫などをかくまったりもしています。この縁からか、現代においても似絵の代表とされる、藤原隆信作の国宝伝平重盛、源頼朝二像が同寺に残り、現在は京都国博に寄託、私も見たことがありますが時折公開されています。
 文覚はその後後鳥羽上皇と対立し佐渡に一時配流、赦免後また対立し対馬に配流となりその途中で死去しますが、彼の弟子であり、また中世に南都華厳宗を中興した明恵の叔父であった上覚によって再興は一通りの完遂がなされます。



一二 真如堂



真如堂前停

 岡崎の蹴上(三条白川)周辺が、ここだけで、南禅寺、南禅院、金地院、無隣庵と、近代も含め名勝の集中している地域であることは、東山七条の智積院などの紹介の際に述べました。
 さて、そこからやや北方、東天王町(白川丸太町)の周辺には、正式名称よりも通称のほうでよく知られる中程度の規模の寺院が点在しています。檀林寺が正称の永観堂、金戒光明寺が正称のくろ谷、そして今回の、真正極楽寺を正称とする真如堂もそうです。
 この寺院、確かに規模もそこそこあり、また四季の自然を楽しめる場所となっていますが、他の大規模な社寺と比較するとどうしても単体では物足りなさもあるかもしれません。実は真如堂は塔頭街を介してくろ谷と繋がっていますので、合わせてみるのも面白いかもしれません。
 永観二(984)、延暦寺の僧戒算を開基とします。同年一月、一条天皇の母東三条院藤原詮子の発願により、延暦寺常行三昧堂にあった阿弥陀像を、神楽岡(吉田山の東)にあった詮子の離宮に移し、正暦九(992)年にこれを寺院に改めたのが起こりです。
 この阿弥陀像は、そもそもは円仁が、近江国の苗鹿明神から与えられた柏木がもとです。円仁はこの柏木を二つに分け、片方は阿弥陀座像を造りますが、もう片方はそのままにします。
承和五(838)年、円仁は勅命により渡唐、承和一四年、天台声明のひとつである引声(いんぜい)念仏を日本に伝えるために帰国します。このとき、円仁は引声の一節を忘れたとされ、その際、阿弥陀立像が出現し引声を再度彼に伝えたとされ、その礼として、苗鹿明神から授かった柏木の片方で阿弥陀立像を掘り、常行三昧堂の本尊としました。
 ところがこの弥陀は円仁に対し洛中に下山する意思を伝え、『下りたいのですか』との円仁の問いに三度頷いたと言われ、このため『うなずきの弥陀』とも言われています。円仁の後を継いだ戒算の夢にもこの弥陀は現れ、洛中に降り、衆生、とりわけ女人救済に尽力したいとの意向を彼に伝えました。戒算はこれを受け入れることし阿弥陀像を下山させます。とちゅうの雲母(きらら)坂で再度弥陀は戒算の夢に現れ、神楽岡の周辺に檜が千本は得ているところがあり、そこに居住し、真正極楽の霊地としたい、と告げました。
 それがまさに詮子の離宮でした。伝記はシンプルなものですが、一方、詮子とその子、一条天皇は藤原家の影響を強く受けた天皇ですから、藤原氏と天台宗側との間での権力比べのようなものもあったのかもしれません。
 さてその後も真如堂は天台宗の重要な寺院として発展しますが、これを記録した『真如堂縁起』そのものの価値が高いです。というのも、これの成立年は大永四(1524)年ですが、縁起文の起草は時の左大臣の子公助、詞書執筆は、上巻は後柏原天皇、中巻は伏見宮邦高親王、後柏原天皇の皇子で天台座主の尊鎮、下巻が学者として知られる三条西実隆と公助であるためです。このように、各知識人らが結集して著作を綴ったプロジェクトは、『法然上人行状絵図』など数えるほどしかありません。
 さて、慈円が養和元(1181)年に別当となるなど、隆盛を誇った真如堂ですが、応仁の乱により焼亡します。これからの復興に際し、浄土宗への改宗がなされます。また堂宇も秀吉の命による京極今出川(天正一五(1587)年)などを転々とした後、元禄年間(元禄六(1693))年、霊元天皇の勅により、現在の地に辿り着きます。
 また浄土宗の行事であるお十夜はここが発祥で、これを始めたのが室町幕府政所執事の伊勢貞国です。彼は政治家ではありますが仏教への関心も篤かったようです。彼の経歴自体、強い意志を持ちながらも融和の強い人物のようです。
 永享三(1431)年、六代将軍義教によって兄貞経が失脚し吉野に蟄居させられ、近親をとさせられたもののその後任を受命、また義教暗殺後は、幼少の七代義勝と、彼を補佐する管領細川持之を支持します。一方、義教を暗殺した赤松家の復職を義政に取り次ぐなど、対立を望まないながらも、安定のためであれば果敢な行動にも出ています。
 兄への呪詛とは思いにくいです。兄の伊勢貞経が失脚し、自身が政界に入ることになるなど、貞国も思ってもいなかったのではないでしょうか。十夜念仏は伊勢貞国が、突然自身が政界に入るに当たり、このときに真如堂にこもっておこなったものが発祥とされています。



一三 大覚寺

【真言宗大覚寺派大本山】【宮門跡】【名勝】 大覚寺停

 嵯峨御所とも呼ばれ、嵯峨天皇の離宮が元です。宇多法皇が入室した仁和寺、御室御所とともに門跡の始まりとされています。皇族住職寺院を宮門跡の定義とすれば大覚寺の方がやや先となりますが、法皇の就任は宇多法皇が最初であり、宇多法皇による仁和寺開基が門跡の始まりとされ、門跡筆頭は仁和寺とされています。
 空海がここで修法を取り行ったのが起源と言われています。嵯峨天皇自身も飢饉の際にここで般若心経の写経を実施したことから連日写経会が実施されています。なお嵯峨とは長安近郊の山の名称で、空海が渡唐中に崩御となった当時の皇帝の陵墓があり、関連性が濃厚と言われています。
 嵯峨天皇の皇女であり淳和天皇の皇后正子内親王がここを寺院とし、橘逸勢の変で失脚した恒貞親王が恒寂法親王となり開基となっています。
 離宮が元であったことから現在でも離宮的側面を強く残し、本堂である五大堂ではなく、嵯峨天皇他計六名の天皇の宸筆による般若心経を納めた、大正十四年製の鉄筋コンクリート造り(国登録有形文化財指定)の心経殿が伽藍の中心となっています。現在の心経殿創建から三年後の昭和三年、朝鮮総督、首相などを務めた斎藤実が東京に建立した日仏寺という寺院がありましたが、これが戦後残念なことに東方に置かれず昭和三十三年に霊明殿として大覚寺に移築されています。数多くの廊下が直角にありこれを雷に見立て、またその柱を雨に見立て村雨の廊下と呼んでいます。
 また大沢池は唐の洞庭湖を模して嵯峨天皇が造営した日本最古の庭池として名勝となっています。
 徳治三年(一三〇八年)に後宇多法皇が大覚寺を再興、中興の祖と言われています。亀山天皇から続く両統迭立体制のうち彼の側は大覚寺統、後の南朝の元となり、室町時代の南北朝合一による三種の神器の引き渡しもここ大覚寺にて実施されました。なお、後嵯峨天皇と、そこから両統迭立期の亀山天皇、後宇多天皇、さらに、平安初期の精和天皇はここの住職となったため四帝仙宮の名があります。



一四 醍醐寺



【真言宗醍醐寺派総本山】【特別名勝】【国宝建造物】 地下鉄醍醐駅

 醍醐寺は下醍醐エリアがよく知られていますが、発祥はその背後、一時間の登山を要する笠取山(醍醐山)の山頂にある上醍醐エリアです。
 なぜこのような疲れる山の上に堂宇があるのでしょうか。それは開基聖宝(しょうぼう、832~909、諡号理源大師)と関係があります。
 聖宝はかなり個性的な僧でした。奈良にて学んだ後に、諸国を遊行、また、小角などの影響を受け葛城、大峯などの紀伊山中に登った後、笠取山に赴いたと言われています。
 『宇治拾遺物語』の巻一二によると、彼は奈良にいた頃、強欲な上司の僧に賭けを持ち掛けます。聖宝曰く、「どうすればその財宝を配下の僧たちに分けてくれるのですか」と聞いたところ、上司曰く、「葵祭の日に、大宮(御所)から鴨川の河原まで、褌一つの格好になり、干鮭を刀の代わりに差し、痩せた牝牛に乗って進めば分けてやる」とのことです。現代風に言えば何やら同人誌の匂いがするような話ですが、結局彼はこの賭けに勝ち、またこの噂が広がり、その名が時の帝にまで届いたそうです。
 さて、笠取に登ったとき、地元の土着神である横尾明神が白髪の老人となって現れ、落ち葉の下からの湧水を飲み、「ああ醍醐味なるかな」と呟き、続けて、「転法輪(法話をすること)の勝地たり、よく密教を広めて衆生を利せよ、吾もまた擁護せん」と彼に告げ、姿を消したとのことです。
 当時から乳を発酵させる技術がありましたが、これには味が五段階、即ち五味があり、順に、乳、酪、生酥(せいそ)、熟酥(じゅくそ)、醍醐となっていました。これが転じて、仏教における最高の教えのことが醍醐と例えられ、食物の用語が仏教の用語ともなりました。
 さて左記の故事により、聖宝は貞観一六(874)年、この霊泉醍醐水の付近に、准胝、如意輪の二つの観音を奉安し、草庵を結んだとされています。そして、『醍醐寺縁起』では同一八(876)年、『源運僧都記』では同一九(877)年に両観音の開眼供養が行われたとされています。ちなみに土着神の勧めで草庵の場所を決めたという故事は空海の高野山も同様です。また上醍醐の中心である准胝堂は2008年に落雷で現在焼失中となっています。
 当時、笠取山を含む宇治郡は宮道弥益(みやじいやます)という者が郡司大領(郡司はその郡の規模や重要性などから大領、少領、主政、主帳の四種類の名称があります)となっていました。彼の娘列子が藤原高藤の妻となり、その子胤子が宇多天皇の女御となり、醍醐天皇を生んでいます。
 ちなみに『今昔物語集』巻二二によれば、藤原高藤は鷹狩の際に一夜の雨宿りとして宮道家を訪問し、列子に一目ぼれし即座に一夜の契りを結んだものの、高藤は父良門に帰宅の遅さを激怒され当面鷹狩禁止となり、二人が再開したのは六年後となりましたが、その時の一夜の契りの子が胤子であったとのことです。胤子は寛平八(896)年、醍醐天皇が即位前年の一一歳のときに死去しており、昌泰三(900)年にその追善供養のために、弥益の邸宅を寺院に改めたのが、後に宮門跡であり、また宗教法人としても真言宗の一派を為す勧修寺(かじゅうじ)です。
 宇多天皇は元慶八(884)年に臣籍降下し、翌元慶九(885)年に醍醐天皇を生んでいますので、宇多天皇は皇籍復帰による即位、醍醐天皇は最初から臣下であった者の皇籍入りによる唯一の即位の例でもあります。未だに延喜式が各地の神社に影響を与えていることからもわかる通り、醍醐天皇の治世は延喜の治として、またその間、昌泰四(901)年に発生した、天神信仰の原因である昌泰の変は聖代の瑕として知られています。
 さて、延喜改元は昌泰の変の後のものです。菅原道真がまだ権力基盤の弱かった藤原時平とともに活躍していたのはその前の昌泰期、及び宇多天皇期(寛平の治)に相当し、延喜時代自体は道真失脚、摂関ではないものの左大臣時平の台頭により成り立っています。このため、二人三脚状態でより親政が強くなされていたのは延喜期よりもむしろ昌泰期、また宇多天皇の寛平期であったともいえます。一方延喜の治の実績として知られる延喜式の編纂開始、及び紀貫之による古今和歌集の編集は延喜五(905)年となっています。
 なお延喜改元の理由の一つは昌泰の変ですが、もう一つは辛酉(しんゆう)革命説によるものです。辛酉とは干支の五八番目であり、西暦を六〇で割ると一つ余る年でもあります。この年は不吉とされ、それは辛酉革命と呼ばれ、三善清行により改元が提唱されており、それが初めて実施されたのが昌泰から延喜で、この慣例は結局明治まで続けられました。
 天神信仰と醍醐寺の興隆を結びつける説は多いですが、実は大規模な祟りと恐れられる事象が発生する以前から、延喜七(907)年、醍醐天皇は醍醐寺を勅願寺とし、上醍醐に五大堂、薬師堂を建立させています。但しいずれにしても、醍醐天皇と、彼の母方の曾祖父の家であった宮道家及び宇治郡、そこに在った聖宝の草庵とは結びつきます。醍醐寺が勅願寺とされる以前、昌泰期に勧修寺が創建されたこともそのうちの一つと思われます。
 とはいえ天神信仰の内容である祟りと恐れられる事象がその後相次ぎ、結局それに伴い醍醐寺は興隆していきます。延喜九(909)年に時平が死去、また聖宝も死去しますが、醍醐寺は聖宝の直弟子観賢に引き継がれます。続く延喜一一(911)年、醍醐天皇は藤原基経の子穏子を中宮としていましたが、その子、皇太子保明親王が二一歳で夭折します。そのため、彼の孫であった、保明親王の子慶頼王を皇太子としたものの、彼も延喜一三(913)年に五歳で夭折します。
 『醍醐寺縁起』によれば、醍醐天皇は穏子との間に設けた子の立太子を願い、聖宝(時期的には、実際には観賢と思われます)に皇子誕生の祈願を勅命します。慶頼王は913年6月に死去していて、同年10月25日の太政官符により醍醐寺を定額寺とするとされています。観賢の要請を汲むという形式でその奏上が提出されたのもこの間のことと思われます。また延喜二一(921)年には、観賢の奏上により空海に弘法大師の諡号がなされます。大師号の諡号自体は最澄の貞観八(866)年よりも遅れていますが、今日、大師といえば空海を指すという状況の元もここにあります。さて慶頼王死去より10年の歳月を経て、延長元(923)年に朱雀天皇が誕生、また、観賢が延長三(925)年に死去するものの、翌延長四(926)年には村上天皇が誕生することとなります。
 醍醐天皇は延長八(930)年に死去しますが、陵墓は醍醐寺付近の後山科陵、また天皇号も醍醐となりました。先に述べたようにこれは仏教用語でもあります。天皇号は淡海三船による一括撰進以降、御所名、仙洞名、陵墓名などの地名から採られることが多いですが、地名ではあるものの、同時に仏教用語でもある言葉が諡号となった例は異例といえます。
 さて、今日では醍醐寺のメインともなっている下醍醐についても、天神の祟りを回避し皇太子誕生を祈願するという国家的な危惧から貴顕の参拝が増加したためこの時期より整備され始めます。『醍醐寺要録』によれば延喜一九(919)年頃より山下に宿院ができ、また『醍醐雑事記』によれば、延長四(926)年には醍醐天皇御願堂として釈迦堂(金堂)の開眼供養がなされています。
 『李部王記』によれば醍醐天皇の死の翌承平元(931)年、彼と更衣との間の子であった第三皇子代明親王が皇太后穏子に五重塔建立を進言し令旨を得、親王の死後天暦五(951)年に完成、翌天暦六(952)年に朱雀天皇が死去し法要が営まれますが、これに合わせての五重塔供養となります。
 すでに国風期に入っており、寺院において塔は舎利として寺院の中心的存在となるのではなく、寺院のモニュメントに近い役割を担うようになっており、位置も金堂の左前にありますが、この五重塔は、塔によくある落雷、また応仁の乱の災禍も逃れ、一度も燃えることなく現存、京都最古の塔となっています。ちなみに、応仁の乱による焼亡の回避は、宇治上神社、日野薬師、向日神社など、どうしても洛外となりがちですが、洛内にて同回避で有名なのが千本釈迦堂です。
 さて醍醐寺は元は聖宝以来顕密兼学の寺院でしたが、長徳四(998)年就任の第一一代座主明観以降、座主はおおよそ真言系、また醍醐源氏出身が中心となっていきます。
 永久三(1115)年に一四代勝覚(しょうがく)が子院三法院を建立、後平安末期までに、理性院、金剛王院(現一言寺)、報恩院、無量寿院の四院ができ、これらが醍醐五門跡と称されるようになります。なお子院とは高僧の住房を指します。一方禅寺にて高僧墓所付近の住房のことを塔頭と呼びましたが、これらは明治以降別個の寺院としてのカウントとなります。また禅寺の塔頭が、林下(五山・十刹以外)の妙心寺、大徳寺などを中心に相当数に登っていたため、広義では子院のことも塔頭と呼びます。
 また勝覚は承徳元(1097)年、醍醐寺の上下にそれぞれ清瀧宮を創建します。清滝権現は空海の師、唐、長安の恵果の寺院青龍寺の守護神で、空海とともに来臨、彼が初めに居た神護寺に祀られたため、周辺の右京区高雄には清滝の地名があります。この清滝権現ですが、延喜二(902)年に聖宝が上醍醐で祈願中に女神の姿として顕現し、高雄から醍醐に移ったたとも言われており、その故事に基づき、「海を渡ってきた」ためサンズイをつけ清瀧として祀られたもので、上醍醐清瀧宮拝殿は室町期から焼亡していないため国宝となっています。
 真言宗は平安中後期を端緒に法流の分流が始まります。最初は聖宝系の随心院(当時小野曼荼羅寺)の仁海の大成した小野流と、聖宝と同期の益信系の広沢遍照寺の寛朝が大成した広沢流でした。これらはこの後東密三六流にまで分流しますが、最初の小野流の中心となったのが醍醐寺であり、その拠点が三法院でした。
 室町期、将軍義満の養子であった満済が七四代座主となります。彼は義満、義持の信任も厚く、青蓮院の義円を義教として義持の後任とする進言をした功により取り立てられ、幕政にも参加し黒衣の宰相とも呼ばれます。また彼以降、五門跡の輪番であった醍醐寺座主は三法院門跡からの選出となります。この慣例は、三法院住職が醍醐寺座主、また真言宗醍醐寺派管長を兼ねる今日まで続いています。
 応仁の乱による焼亡後、本格的な再興は桃山期、秀吉の晩年、特に朝鮮出兵期になります。時の座主は八〇代義演と言い、彼の兄は秀吉に関白職を譲った二条昭美でした。
 上醍醐への山道の途中に、「豊太閤花見跡」があります。慶長三(1598)年の「醍醐の花見」では、ここに花見御殿が用意され、総門からここまでの間に畿内各地から集めた約七〇〇本の桜を移植させ、また側近の武将らに各々臨時の茶店を設けさせ、約千名の行列を伴って花見行列を催しました。女人らは道中三度華麗な衣装替えをしたと言われ、秀吉晩年の豪遊とも言われています。この花見の五か月後の秀吉没後も秀頼名義で醍醐寺は再建、国宝の唐門や、特別名勝の三法院庭園なども設けられます。この庭園は近年まで撮影禁止でしたが現在は可能です。シンボルとなるのは池の向こうに立つ藤戸石で、これを阿弥陀像に例えており、岡山の児島家を端緒に、足利家、信長と天下人の手に渡り続けたことから天下の名石とも呼ばれています。
 江戸期に入ると、醍醐寺は修験道の本拠地の一つとされます。修験道はそれまで天台系(台密)と真言系(東密)がありましたが、幕府統制の下、東密は、開祖聖宝の諸山遊行の影響を引きずり、醍醐寺が本拠地に選ばれ、当山派と呼ばれます。因みに台密の本拠地は宮門跡聖護院で、今日では天台宗から独立し本山修験宗となっており、さらにここの住職が共産党党員と、なかなかにカオスな場所となっています。
 また、花山法皇を実質の開祖とする日本最古の霊場である西国三十三箇所に上醍醐の准胝観音が組み込まれ、西国三十三箇所でも有数の難所として知られていましたが、庶民文化の発達した江戸期に興隆、また同じく五大明王も興隆し始めます。
 昭和五(1930)年、醍醐天皇千年忌に合わせ、下醍醐の奥地に、観音堂、弁天堂などからなる大伝法院と呼ばれるエリアが建立されます。2008年の上醍醐准胝堂消失後、ここの観音堂が西国三十三箇所の代理となっています。
 また弁天堂は本来醍醐寺とはあまり縁はないもので、桜、紅葉などが年中楽しめる光景を有するものの、さほど重視もされていませんでしたが、21世紀に入りネットの発達した最近、海外のインターネットにて紹介され、とりわけ海外にとっては、金堂、五重塔、三法院などの錚々たる建造物を差し置いて、醍醐寺、さらには京都、日本の象徴的な場所として知られるようになりつつあります。



一五~一九






一五 知恩院



【浄土宗鎮西派総本山】【国宝建造物】【宮門跡】 知恩院停

 正称は知恩教院大谷寺といい、現在のような大伽藍になったのは江戸時代以降です。このためかなり複雑な経緯を持っています。
 まず浄土宗開祖法然についてです。有力な著作であるにも関わらず、出自についての記録に相違が見られます。
 岡山県北部に誕生寺という寺院がありますが、ここが長承二年(一一四三年)法然の出生地とされています。『法然上人絵伝』などでは、屋外で遊ぶ子どもが多い中、一人屋内で合掌している姿などが描写されています。現代であれば大変な目に遭いそうな子どもでもあります。
 法然没後約百年後頃、浄土宗公認伝記である『法然上人行状絵図』が著されました。弥陀の四十八願に合わせ四十八巻からなるため『四十八巻』と呼ばれます。江戸期に、東京タワー付近にある増上寺に入り、哲学の道沿いにある法然院(最近府が策定した「文化財予備群」入りしました)を建立した忍澂(にんちょう)著『勅修吉水円光大師御伝縁起』によると、同絵図は徳治二年(一三〇七年)から十年程度をかけ、後に知恩院住職となる延暦寺功徳院の舜昌(しゅんしょう)法印が、後伏見上皇の勅命を受け制作したとあるため、勅伝とも言われています。なお完成期は、この他延慶三年(一三一〇年)頃から、多数絵師などの協力を得て南北朝期までかかったなど諸説があります。
 ちなみに円光大師は元禄十年(一六九七年)の東山天皇から法然への大師号です。なお、その後、五百遠忌の正徳元年(一七一一年)に中御門天皇より東漸大師が加謚され、その後五〇年に一度の頻度で加謚の慣例ができ、最近では平成二三年(二〇一一年)に今上天皇より法爾大師の加謚があります。歴史叙述をするつもりでしたが時事叙述になりました。
 空海の弘法大師が有名ですが、諡号自体が珍しいもので、平安仏教以外は主に近代になされています。加謚となるとさらに珍しく、僧侶では法然の他には、隠元に対し大正天皇の真空大師号の後、戦後昭和四七年(一九七二年)に昭和天皇の華光大師号の追号がある程度です。定期加謚に至っては法然以外にありません。
 江戸中期宝暦九年(一七五九年)に御所霊元天皇皇女浄林院宮吉子の御殿を下賜され、知恩院中腹の眺望のよい箇所に山亭という茶室が設けられました。またその前の枯山水庭園は江戸末期のものです。こういったことや、法然への定期加謚などの実施は、宮門跡でありかつ幕府の菩提寺でもあった知恩院が江戸期において、いわば公武合体の橋渡しの役割を担っていたためと考えられます。
 ちなみに真宗の親鸞への見真大師の方の扱いですが、戦前は大喜び、戦後は一転して忌み嫌うという扱いです。東本願寺御影堂の、昭和天皇宸筆による見真の揮毫はどうにか残っています。
 さてこちらによれば、保永七年(一一四一年)九歳のときに、押領使の自家にて夜討に遭い父が殺害され、その際に父から仇討の禁止を遺言として残され、法然は僧侶であった叔父に預けられ、才覚を認められ後に叡山入山とあります。
 一方、法然の弟子源智著『法然上人伝記』(醍醐寺本(醍醐寺三宝院にて発見され、江戸初期の醍醐寺住職義演写とされており、法然臨終の様子などが詳細に記されています)などでは、一五歳、久安三年(一一四七年)まで法然は岡山におり、この年に叡山入山、その際父から自己の身の危険を知らされており、死去した場合には弔いを指示されています。夜討はその直後とあります。
 岡山誕生寺では『法然上人御両親追善法要』が営まれており、宗派の開祖の世帯にまでわざわざこうした行事を執行する事例は珍しく、これが醍醐寺本側の説の根拠ともなっており、また夜討事件が、後に易行を広める彼を本来無一物たらしめたのではないかと推測することもできます。一方、法然の弟子弁長著『徹選択本願念仏集』によれば、法然は世帯の死別と自己の出家とは無関係である、と述べています。
 法然はこの後久安六年(一一五〇年)十八歳の時に、延暦寺の叡空より、「年少であるのに出離の志をおこすとはまさに法然道理の聖」と称賛され、師源光、叡空らから一字ずつを取り法然房源空を授かります。法然は通称名です。その後各寺院を遊行し、承安五年(一一七五年)に現在の知恩院勢至堂のあたりである吉水に小庵を結び、ここからの専修念仏伝教を開始します。浄土宗ではこの年を開宗年としています。
 法然在世中、吉水の小庵は常に吉水の小庵でしかありませんでした。但し九条兼実や、後鳥羽天皇中宮宜秋門院任子らの帰依を受けています。関白九条兼実は後白河法皇の死後源頼朝を征夷大将軍に任命、また重要史料と化している日記『玉葉』の著者です。法然に主著『選択本願念仏集』の執筆を要望したのも兼実でした。
 一方、日本茶の始祖であり、華厳経の説く菩提を重視し、また自己への戒律を重んじたことでも知られる明恵などは『選択本願念仏宗集』への批判として『摧邪輪』を執筆しています。とはいえその明恵も易行という着想は理解していたようです。
 ところで実は、小庵などにて独特の伝教を開始する僧侶というのは義務教育水準以外にも多くいます。壬生他の念仏狂言などで知られる融通念仏宗の良忍や、上桂の観世寺(旧西山法華山寺)を建立し『閑居友(かんきょのとも)』を著した慶政などもそうです。
 融通念仏宗そのものは、偈文というよりは、シンプル極まりない経典「一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行 十界一念 融通念仏 億百万編 功徳円満」の三十六文字を良忍が大原の来迎院にて永久五年(一一一七年)に作成(阿弥陀より授かった、との扱いです)し、これを広めるためにできた宗派です。 
 『閑居友』は、現代のネットでは、引きこもりの愚痴等の扱いを受ける『方丈記』の著者にして、三社の一賀茂社社家としてはもっとも著名となった鴨長明による、説話集の原点たる著書『発心集』を先駆とし、その補完として著者の身辺の経験を中心に記された説話集で、高貴な女人などの要望により執筆され、鴨長明からの中継として、西行の『撰集抄』などに大きく影響を与えています。容貌を気にしていると思われる高貴な女人の執筆の要望に対し、人の体内について描写するなどの強烈な内容となっています。
 法然もそのような僧侶の一人となっていたかもしれませんが、彼の宗派が特段の存在となったのは、弟子に、彼をも凌駕する、当時からすれば奇異極まりない思想をもたらした親鸞を弟子に迎えたこと、また後に、知恩院が家康に注目され、小坊どころか大寺院へと変貌を遂げたことなどが挙げられるかもしれません。
 晩年建永二年(一二〇七年)、法然は流罪となります。配流先は兼実の配慮もあり彼の自地である讃岐でした。すぐに赦免されたものの入洛については建暦元年(一二一一年)まで不可となり、箕面勝尾寺を拠点とします。『法然上人絵伝』などでは、「勝尾寺、大谷なと、その居あらたまるといへとも、勧化をこたることなし」とあり、また、流罪に際し悲嘆にくれる親鸞に対し優しく励ました印象も強く、この辺りが法然のイメージとしてよく浸透しているもののようです。
 とはいえ実は、鎮西派清浄華院などでの法然像は壮年期のもので、どちらかというと剛健な作りをしているといわれています。また源智も配流中の法然の様子について、「およそこの二、三年、耳おぼろに心は蒙昧」と述べています。配流期の彼について、世間は晩節を汚した人物と評し、また彼もそのような心境となっていたのかもしれません。宗教家であれば称えられ、政治家などであれば是々非々な評価が多いものの、その心境の複雑さは同じようなものといえるかもしれません。
 『法然上人絵伝』によれば、吉水帰洛後も引き続き法然は寺院建立を拒み、その小庵は「東西三丈、南北十丈はかり、このうちにたてられけん坊舎、いくほとのかまへにかあらんとみえたり。その節倹のほともおもひやられて、あわれに、尊(たく)そ侍る」とあり、また彼は「孝養のために精舎建立のいとなすことなかれ」と遺し、自己の専修念仏の教えの届くところが自己の寺院であるとのべています。逆に言えば現代はつまりそれは危うい情勢にあるといえそうです。ちなみに親鸞に至っては寺院どころか宗派、さらには弟子という概念すら否定していたことは『歎異抄』にある通りです。
 なお墓については、「自身の墓所とさためをきけるを、上人上洛のゝち、去年十二月、かの領主上人に寄進す。券契等おなしく寄進状にあひそへてたてまつ」ったところ、法然は「源空にゆつりたふは、これ三宝に廻向せらるゝなり、仏うけ給へとて(券契を)火中になけ入られ」たとのことです。少し感情的になっているようにもみえます。
 臨終に際しては、兼実の弟であった天台座主慈円の『愚管抄』曰く「格別なことはなかった」とのことです。これはむしろ浄土宗においても重要なこととして強調されている内容です。ちなみに慈円も狭義には批判的だったものの弾圧にも否定的な立場でした。
 さてその後結局墓ができます。安貞二年(一二二八年)の記載のある『知恩講私記』などが発見されており、没後十六年目には「知恩」の用語が登場し始めており、また知恩講が開始されていたようです。
 嘉禄三年(一二二七年)、延暦寺宗徒による墓所破壊事件が発生します。もともと後堀川天皇より専修念仏禁止の綸旨は出されていたのですが、知恩講などの隆盛をみて延暦寺側と文書論争となり、延暦寺門徒側と、浄土宗を支持する六波羅探題所属の武士らとの間の衝突となり、延暦寺門徒らによる墓所破壊に発展します。
 なお延暦寺は当時所属していた祇園感神院(現八坂神社)などに、朝廷の許可を得ることなく自警の形で専修念仏者逮捕を命じています。朝廷側は浄土宗高僧らの流罪と、延暦寺側の自警禁止の綸旨を発布します。これを受け遺骸は、法然が吉水居住以前に専修念仏を初めて広めた場所とされている長岡京の光明寺に移送の上火葬、遺骨は各地分散となりました。  
 その後源智が再興、墓所破壊から七年後の文暦元年(一二三四年)、四条天皇が現在の正式寺号である華頂山知恩教院大谷寺を下賜し、吉水は寺院となります。
 知恩院が本格的な大寺院と化すのは家康の庇護の影響によるものが大きいです。徳川家が浄土宗であったため、法然の意図とは大きく異なる可能性が濃厚ですが、家康はここを京都における徳川家の菩提寺とすることを企図し知恩院を大改築、御影堂、方丈、方丈庭園(有料、市指定文化財)、庫裏、また禅寺特有のはずの三門も整備されます。さらに平安仏教の特徴でもあった宮門跡(皇族住職寺院)化もなされます。東山の山麓にあり京都を見下ろせるため、幕府の威光も示せるという見方もありますが、そもそも将軍塚、さらには、「池の下に内裏」という奇跡を生み出している修学院離宮などもあるため、それほどのものでもないかもしれません。これらの整備は秀忠が受け継ぎ、いったん焼失したものの家光により再興されます。
 ちなみに、地理的に豊国神社対策も兼ねてか、真言宗智山派本山智積院も徳川家とのつながりの深い寺院です。首都圏の川崎大師、成田不動、高尾薬師など現在でも著名な寺院の大半は同派に所属しています。とはいえ正月も静寂な雰囲気に包まれており、また国指定名勝庭園もあります。現在東山七条付近は、平清盛に絡む三十三間堂、秀吉に絡む豊国神社、徳川家に絡む智積院、近代建築である国立博物館旧館、平成になってできた同新館などが立ち並んでいます。
 また知恩院の側も家康の関与により、鎌倉時代だけでなく安土桃山・江戸初期に絡む文化財が増えます。残念ながら生臭い話も多いようです。
 例えば塔頭に良正院というものがありますが、これは家康の二女督姫の院号です。督姫は戦国末期のため、まず後北条氏に嫁ぎ、それが滅亡したのちは池田氏に嫁ぐという複雑な経歴を持っており、池田氏によって彼女の菩提寺とされました。
 また戦国末期に称念という熱心な信者が出現し、知恩院とはかなりかけ離れた内容の教義を説いているものの浄土宗を自称、後に天台座主となる青蓮院門跡の尊鎮法親王より知恩院脇に一心院という寺院を下賜され、江戸幕府側もこれを移転させられずやむなく知恩院塔頭に編入しました。現在ここは別派となっています。
 また、改築後の知恩院は当初、二条城と並ぶ徳川家の京都滞在所として使用する予定だったため、同城よろしく鴬張りの廊下となり、また狩野派らの手による障壁画が多数設けられることとなりました。なお二条城同様、結局江戸初期と幕末にしか徳川家に使用されていません。障壁画などについては本来は相当の記述もできそうなのですが、当方の知識がタイトルにある通り沿革中心で美術関連に疎いため、大変もったいないのですが割愛とします。
 三門についても、建築担当の大工夫妻がここで自害しており、これについては、三門には内裏監視目的があったため、完成後はどのみち殺害されると予想したのではとのうわさが残っています。もちろん寺院にそぐわない困った話ですので丁重に弔われているようです。
 さてさらに時代を進めます。京都における近代製庭園は小川治兵衛作による無鄰菴、平安神宮神苑、円山公園などが有名ですが、戦後製としては松尾大社神苑、城南宮神苑などが挙げられます。知恩院は基本拝観無料ですが、方丈庭園は有料です。そしてもうひとつの有料区域が、宮崎友禅生誕三百年を記念して一九五四年に造園された友禅苑で、池泉回遊と枯山水の両方を備えています。
 ところで、二〇一四年に将軍塚に落慶した、市北部を眺望できる青蓮院青龍殿にはガラスの茶室というハイテクなものがあります。ちなみに同堂宇も大正製の警察施設の移築です。江戸中期に前掲の山亭が知恩院中腹に設けられ、また末期にそこに前庭ができましたが、あのガラスの茶室はそのさらに上に位置します。
 余談ですがここから下山の道を間違えると知恩院に降ります。私も間違え、偶然、撮影禁止などのガイドや警備をしている老人と出会い、しばし宗教懇談となりました。彼曰く、「ネットの情報ではよくない、遊興費は慎むべきだが、書籍費はいくらでもかけるべき」とのことでした。ネット批判はやや誤解もあるようでしたが後段は納得です。但し書籍もやりすぎても意味はありませんので一定の線引きはいります。
 話を戻してまとめますとつまり、京都は単に近世や近代以前の古い建物があるだけの場所ではありませんし、近代以降のものを容易に淘汰することにも多少は慎重です。そして戦後にも文化を追求し続けています。
 京都には意外と戦後製の庭園も多い、ということは、新しい町なので文化的なものがない、とは限らないということの証左になるのではないか、また、本当に文化的なものがなくなるときというのは、町の新旧ではなく、京都をどう捉えるかの見方を変えてしまった時ではないかと思量します。



一六 天龍寺



【特別名勝】【大本山】 嵐山駅

 開山夢想疎石、開基足利尊氏です。臨済宗天龍寺派大本山、京都五山第一位(この上に別格南禅寺があります)、方丈庭園が特別名勝です。
太平記によれば後醍醐天皇は、右手に剣を、左手には法華経第五巻を手に、『骨はたとえ吉野山の苔に埋もれても、魂は常に京都の御所にある天を望む』と言い残して臨終したとあります。
 人により解釈はそれぞれですが、これには平安初期の怨霊的側面が強くあるとの指摘もあります。思想家の梅原猛氏は天龍寺に御霊神社的性格を見出しますが、さらにそこから連想し、法隆寺を、子孫の滅亡させられた聖徳太子の鎮魂の寺院との論を書き、『隠された十字架』との題で執筆、これが『梅原日本学』の出発点となったと述べています。
 ですがこのような異端な説をも優れているとして評価するかどうかは世相によって異なります。現代のような時代であれば梅原日本学のような優れた学問は出現しない公算すらあり得るといえます。
 さてこのような御霊的性格を持つ天龍寺ですが、後醍醐天皇は亀山天皇が造営した亀山殿を継承しておりこの地に、夢想疎石の建言により建立となりました。
 これ以前から尊氏・直義は夢想より、全国に、元弘の乱の供養のために安国寺建立を建言しています。現在同名の寺院は全国に約四〇あります。
 当初案では『暦応資聖禅寺』との名称でした。資聖とは後醍醐天皇にその御霊を鎮魂するためにつけた名です。しかし延暦寺などから元号を禅寺名にすることへの批判もあり、足利直義が、大堰川に、金の龍が舞う夢を見たことから天龍資聖禅寺となりました。
 一方名称への批判もさることながら実は天龍寺建立には旧仏教などからの批判もありました。そのため一三四五年の開堂に際し光明天皇は出席できず、一日遅れて光厳上皇が臨幸しています。
 批判最大の原因は戦乱に伴う民衆の困窮です。天台宗の他、公家などでも右大臣堀川具親なども批判しています。このため元への商船派遣が実施されることとなります。これが天龍寺船です。
 夢想は開堂法会に伴い辞を述べていますが、そこには二所宗廟石清水の例祭放生会などと同様、一切衆生悉有仏性の思想とそれに気づくことへの願いが現れています。
 特別名勝である方丈裏庭曹源池庭園は夢窓の作庭とされています。ここに最初に造園がなされたのは天延三(九七五)年、前中書王兼明(さきのちゅうしょおうかねあきら)親王のときで、後に後嵯峨天皇によって改造されます。
 庭園には三橋(さんきょう)という石橋がありますがこれは禅の故事に基づくものです。同時に、三教とは仏教、道教、儒教の三つの合一を表す言葉でもあり、夢窓自身、現在は高野山金剛峯寺にて所蔵の国宝、空海の著書『三教指帰(さんごうしいき)』を読みそれに跋をつけていることから、彼の思想もまたここに取り入れられていると、梅原猛氏や歴史家の奈良本辰也氏などは主張しています。一方、庭園研究家の重森三玲氏などは作庭について蘭渓道隆の影響を主張しています。
 貞和二(一三四六)年、夢窓は亀山十境こと天龍寺十境を指定します。内容は以下の通りです。即ち、普明(ふみょう)閣(天龍寺三門)、絶唱(ぜっしょう)渓(大堰川)、霊庇(れいひ)廟(境内の鎮守八幡社)、曹源池、拈華(ねんか)嶺(嵐山)、渡月橋、三級岩(嵐山の音無瀬の滝)、万松(ばんしょう)洞(天龍寺から渡月橋までの間にかつて繁っていた松並木)、竜門亭(音無瀬の滝の前にあった茶亭)、亀頂(きちょう)塔(亀山山頂)の一〇カ所です。
さて中国の宋・元時代の禅籍の出版の隆盛の影響を受け日本でも五山を中心に寺院による開版が流行します。これを五山版といいますが、とりわけ春屋妙葩(しゅんおくみょう)が天龍寺・臨川寺で活躍した南北朝期が盛んとなっています。
また同寺は約二五〇〇点の天龍寺文書と呼ばれる文書群を所蔵していますが、中世のものは火災で原本を失ったものも多く、後に関係の深い臨川寺の文書が天龍寺に多く移されたこともあり、原田正俊氏などは「一般に天龍寺文書といわれるが、現実には臨川寺文書が多数を占める」と指摘しています。






一七 東福寺



【名勝】【国宝建造物】 東福寺駅

 学生時代の最寄り駅は東福寺駅でしたがとくに東福寺とは縁がありませんでした。こちらを第一に選んだのは取材の時期が偶然紅葉の時期と重なったためでしかありません。
臨済宗東福寺派大本山、山号;慧日山(えにちさん)、本尊;釈迦如来、開基;九条道家、開山;聖一国師円爾(しょういちこくしえんに)です。
一二三六年、九条道家は一四〇〇文字からなる発願文を作成、高さ五丈(約一五メートル)の仏像を安置する寺院建立を発願します。もともとここには九二四年に藤原忠平によって建てられた、法性寺という巨大な藤原氏の氏寺がありました。同寺院は現在も小規模ながら付近にあります。
 一二三九年五月、道家は疾患します。このとき、道家の兄であり、西山法華山寺上人、『閑居友(かんきょのとも)』という生々しい書物を著すなど優れた学者でもあった慶政と、道家の家臣の家内に憑いたといわれる天狗との会話が、同月二三日から二八日にかけて『比良山古人霊託』として残されており、聖徳太子時代の藤原氏の先祖を名乗る天狗が、後鳥羽院、後白河院、崇徳院、延暦寺中興の祖良源、三室戸寺中興の祖隆明、愚管抄の著者であり天台座主でありながら浄土宗にも比較的寛容であった慈円などがみな愛宕で天狗になっているとのことです。
 この時期には天狗は比較的文献などでよく活躍しています。いずれも高尚な人物なので本当に天狗になったのかどうかはわかりませんが、東福寺の鎮守社『五社成就宮』(通称『ごしゃさん』。五社;石清水(明神二位)、賀茂(同三位)、春日(同七位)、稲荷(同五位)、山王)の重文に『十三重塔』というものがあり、これには『比良山明神塔』という俗称があります。明神とは二二社のようなハイレベルクラスの神霊を指しますが、俗には、私としては妖怪との分類とも難しくさせられるような祟り神のことも指します。この塔の傍に魔王石、つまり天狗を意識した石が置かれています。道家の疾患は発願の前ですが、このようなものがここに安置されていることから、彼の疾患も建立との関係を否定することもできません。
 さて道家が発願した新たな寺院は、規模を東大寺、教えを興福寺に倣うことを目的とすることから両寺院から一文字ずつを取り、東福寺と命名されることとなりました。仏殿は一二三九年着工、一二五五年に完成しました。一四世紀にいったん火災焼失し再建、一八八一年にふたたび火災で焼失しており再建されていません。一四世紀に再建された仏像の左手のみが保管されていますが約二メートルの長さがあります。また法堂の完成は一二七三年で、道家発願から三〇年以上が経過しています。
  建長二年(一二五〇年)一一月の九条道家惣処分状では、天台宗最澄の素願として「戒定律の三門を受学せしむるべく、大小の顕密戒律をもつて惣体となし、真言止観の宗門をもつて専修となす」とあり、また禅門、天台、真言の三法を兼ねることを目的とするとしています。
 禅宗ですが、栄西が建久六年(一一九五年)に博多に聖福寺、建仁二年(一二〇二年)に京都に建仁寺を建立、また建久九年(一一九八年)には『興禅護国論』を執筆しています。『興禅護国論』では禅はあくまで既存宗派と対立するものではないとされ、建仁寺も禅、天台、真言の並立としてスタートしています。このため、浄土宗のように特に既存宗派と対立する姿勢を見せず(もっとも浄土宗なども本来既存宗派との対立など意図していませんが)、かつ旧宗派に代わる新時代の幕開けにふさわしい倫理として、またその禅を推奨していた幕府への配慮もあってか、東福寺も禅を重視する寺院となり、開山に禅僧円爾を迎えることとなります。
 円爾は建仁二年(一二〇二年)駿河の生まれで、久能山の堯弁に師事、一八歳にて東大寺にて得度、二二歳のときに上野長楽寺の、栄西の高弟栄朝、次いで鎌倉寿福寺の行勇に師事して禅を学び、さらに三四歳のときに渡宋、径山(さんざん)の無準に学び、仁治二年(一二四一年)帰国後博多にて承天寺を建立しています。東福寺開山後も優れた智徳から朝廷・幕府ともにから信望を得ていたとされています。
 『東福開山聖一国師年譜』では、彼はしばしば上僧を難詰させています。愚人の集団を一括する姿勢は禅にとって重要なものであることは言うまでもありませんし、また当時はそういった広い視野を持った人物にしかるべき役割が与えられる風潮がありました。これは現代の『空気を読む』などという美辞麗句とは真逆の行いではあります。首都機能が東国に移ってから一五〇年近くとなりますが、昨今の私たちは、理を説く者を少数とみて侮蔑しこれを排除、多数になびき理を尽くすことを忘れては結局惨めな断末魔をたどる者ばかりとなっていることが思い知らされてなりません。
 さて開基の道家ですが、承久の乱の後、三男である藤原頼経が嘉禄元年(一二二五年)八歳にして第四代将軍(摂家将軍)となったことなどから関白、太閤となり、また寛喜四年(一二三二年)には長女の子息が四条天皇として一歳で即位し外祖父となったことから朝廷での実質的な最高指導者となります。しかし彼の権力基盤はあくまで朝廷・幕府の血脈上のものでしかありません。この後仁治三年(一二四二年)、四条天皇が一二歳で夭折し御嵯峨天皇が践祚、また摂家将軍を意のままにしようとする鎌倉の北条執権家(第五代時頼)によって一二四六年に藤原頼経が将軍職を廃され、彼の権力基盤は失われていきます。
 さらに建長三年(一二五一年)、北条執権家は道家の孫、幼少の第五代将軍(摂家将軍)藤原頼嗣にも倒幕の嫌疑をかけ、その中で道家は翌年死去します。二代続いた摂家将軍はここで途絶え、以降幼少の宗尊親王が将軍に就任、皇族将軍が始まります。一方、摂家であった九条家は彼の子弟から二条、一条が分離、またもう一方の摂家近衛家からも鷹司家が分離し、五摂家になります。第二代将軍源頼家以降続く、北条執権家による将軍職傀儡化の一環と合わせ、五摂家の分離について、『北条九代記』は「五摂家と称すること、執柄(しっぺい)の勢を分たんが為に、武家より計らひ定めける。王道愈々(いよいよ)衰敗に及ぶ。末世の有様こそ心憂けれ」と記述し無法の様を批判しています。
 さて伽藍ですが、元応元年(一三一九年)を始め頻繁に火災に遭っています。しかし三門をはじめ、東司(便所)、浴室、禅堂などについては中世のままとなり、それぞれ国宝、重文などに指定されています。
 当寺からは著名な僧侶もいます。『元亨釈書』の著者である虎関師錬、画家としても著名な吉山明兆などがいます。また関ヶ原の戦いにて西軍側についた安国寺恵瓊、方広寺鐘にて『国家安康 君臣豊楽』の銘文を書いた文英清韓などがいます。
 境台は一四二五年再建、禅寺としては現存最古となる三門、一九三四年再建、昭和の木造建築としては最大のものである本堂の他、方丈、庫裏などからなる主要伽藍を中心に二五の塔頭があります。三門、本堂などは無料ですが、塔頭などは非公開、また方丈には庭園維持のため拝観料が要ります。三門は京阪電車の隣接する鳥羽街道駅の方が近いのでこちらからの参拝というのも一つの手段でしょう。この庭園は昭和一三年(一九三八年)の作庭で『八相の庭』と呼ばれており、国指定名勝です。個人的には比較的南禅寺方丈庭園と似ている印象を受けますが、庭、また石にそれぞれの意味があります。また、仏殿から常楽庵に至る渓谷、洗玉澗には通天橋が架けられ、周囲が紅葉だらけとなっていることから京都有数の紅葉の名所ともなっています。
 建築物のうち三門が国宝、浴室など多数が重文、方丈庭園が名勝となっています。



一八 野宮神社



嵯峨嵐山駅

 京都には神社本庁とは別に、諸事情により宗教法人登録としては別となった神社本教がありますが、清水寺隣りの地主神社などとともにこの社も神社本教所属神社です。
 とはいえ由緒は古いものです。天皇の代理で伊勢神宮に仕える斎王(皇女、女王の中から選ばれる)が伊勢へ旅立つ前に身を清める社で、主に平安~鎌倉期にはここがその拠点となりました。源氏物語賢木の巻、徒然草二十四段なども野宮神社の斎宮に関する記述があります。
 天龍寺方面から仏野方面への約数百メートルの竹林の小路の中にあり人の往来が激しいことから著名です。静寂としていますが実はJR嵯峨野線の線路に隣接しています。なお境内は苔の庭なども設けられています。



一九 平安神宮

【近代官大】【勅祭社】【名勝】 岡崎公園美術館・平安神宮前停

 明治期には内国勧業博覧会が計五回開催されました。第一回から第三回が東京、第五回は大阪でしたが、第四回は一八九五年四月、平安遷都一一〇〇年を記念して京都岡崎で開催されました。
 このときには、これに先立ち二月一日、日本初の営業用電車である京電が、後の市電伏見線、そして現在の市バス八一系統に当たる東洞院塩小路下ル(現京都駅前停留所)ー伏見下油掛(現京橋停留所)間を開業させました。伏見の京橋は琵琶湖疏水ですので淀川水運との接続を図ったものです。また博覧会開催に合わせ七条ー南禅寺間も開業しました。この通りの上りに選ばれたのはなんと狭い木屋町通で、木屋町二条にて右折していました。後大正期の河原町線などの新設によって木屋町経由は廃止されました。
 さてこの博覧会の目玉として、これに先立つ三月一五日に建立されたのが平安神宮です。他の神社とは大きく異なり、平安京大内裏(行政施設空間)の正庁である朝堂院を八分の五の大きさで復元したもので、正面に応天門、左右に朝集堂、外拝殿は大極殿を模したものです。
 かつては大極殿に天皇の所在地を表す高御座が置かれ、応天門から大極殿までの公的空間であった朝堂院と、天皇の私的空間である内裏(現在では京都御苑内にある無印の御所、通称京都御所)とがありましたが、朝堂院で執り行うべき各種行事や会議も摂関期、国風文化期頃から早くも衰退し、代わって内裏内の紫宸殿、清涼殿が公的空間、御常御殿などが私的空間となりました。平安末期の安元三(一一七七年)の火災による消失以後朝堂院は再建されず、その後鎌倉中期には紫宸殿が高御座の設置場所となりました。
 このため、紫宸殿の構造である、母屋と庇、及び檜皮葺(中華文化の影響を受けた大極殿などの瓦葺から、公的性格を内裏内部が担っていくに連れ、国風文化の頃には合わせて、檜皮葺が最上位の屋根手法とされました)の屋根の建物(紫宸殿は檜皮葺が二重となっておりこれも天皇の在所を示します)、前庭と、そこにある左近桜、右近橘が、仁和寺を発祥とする皇族住職寺院特有の建物である門跡にある宸殿の一般的な構造ともなり、それまでの中華文化色が大幅に薄れた国風文化以降の皇族の建造物を示す標準的なスタイルとなりました。
 さて、三種の神器を安置する賢所は内裏の春興殿でしたが、新嘗祭を執り行う神嘉殿は中和院にありました。こちらは朝堂院とは異なりずっと存続したため、こちらも内裏紫宸殿にも並ぶ日本の象徴的な施設となっていました。近代において即位礼などの場所となった春興殿は紫宸殿の東側にあり、それまでとは場所が異なっています。
 さて、かくいう経緯を経たのち、朝堂院こと平安神宮は八分の五のサイズでの再建となりました。第四回内国博覧会に合わせ一九八四年に、朝堂院は本朝に再建されました。なお本殿は一九七六年にいっときテロに遭い消失していますがすぐに再建されています。
 なお四神相応巡りなどで、賀茂、松尾、城南、八坂に合わせ、中心、また、京都の新しい守護社として、平安神宮を挙げる声もあります。事実として、近代以降に開始された時代祭は平安神宮の祭礼であり、また当社の宮司は九条家など旧摂家が務めていました。
 とはいえ一方で、しょせん平安神宮は近代創建社でしかありません。しょせん摂家が宮司をつとめているとはいえ、四神巡りの中心は(無印の)御所、内裏はではないか、といった見方もあり、近代創建の平安神宮は初心者向け、といった見方もあることも尊重しなければなりません。近代創建・近代勅祭社は、そのノミネートのリストからもわかる通り、あくまで、それまでの明神二二社などの補完でしかないということを自覚すべきであるということはいうまでもありません。
 朝堂院は延久四(一〇七二)年のものを基準とし、左右に、白虎楼、蒼龍楼等を配置しています。これらももちろん重文です。また、平安神宮の象徴的存在である、高さ二四メートルの大鳥居も国家登録有形文化財です。
 さて、この西側、百虎楼付近にある入り口から神苑があります。京都の近代庭園ではおなじみの七代目小河内兵衛の作庭です。大極殿こと拝殿を取り囲む形で、南、西、中、東神苑が池泉回遊タイプで展開されています。こちらも国名勝です。
 とはいえ、近代創建のため、ここでも、大した記述はできません。
 まず、南神苑ですが、こちらは一九八一年に改装、古今、伊勢、源氏、枕など、現代とは異なる古来日本人が自然との共生を自覚し、その植物などを書物に記載していますが、これらに登場する植物を中心に植え、その世界を多少なりとも理解できるつくりとなっています。なおこの一角に、同社創建に当たって建設された市電の車両も保存されており、平安から近代まで一気に人の流れが見渡せるようになっています。
 西苑は夏、現代で言えば初夏に相当する植物が中心となっています。
 中苑がちょうど拝殿の裏側に展開し、その先に東苑があります。こちらは池が中心で、季節的にはスルーしがちなのですが、ここにある枝垂桜が有名で、『みごとなのは神苑をいろどる、紅しだれ桜の群れである。今は「まことに、ここの花をおいて、京洛の春を代表するものはない』と、谷崎潤一郎の『細雪』を引用したうえで、川端康成などにより絶賛されています。もちろん、京洛ならびに本宸朝の春の代表は日本人個人個人が決めることであろうとは当方も存じます。



二〇~二五

二〇 方広寺



七条駅

 京都における大仏として、戦後までかつては大仏殿の通称もありましたが、江戸後期に再建された上半身のみの大仏も1973年に焼失し、それから半世紀が経とうとしている昨今、ここに大仏があったということ自体が風化されつつあり、また、戦没者慰霊のために戦後に建立された霊山観音がそれに代わって、京都タワーからも見える京域の大仏として知られつつあるとも言えますが、ここであらためて、この地にあった大仏とその寺院であった方広寺について述べることとします。
 天正一四(1586)年、松永氏の焼き討ちによって焼亡した奈良方面東大寺に代わる大仏の再建を秀吉は発願、当初は東福寺の南側に建立しようとしたものの変更、天正一六(1588)、当時、仏光寺があった、現在の場所が選定されます。
 大仏は西方を向いており、私はこれは周辺の六道の辻を意識してのものではないかと考察しています。またこの時に五条通が現在の松原通から旧六条坊門通に変更されており、背後の阿弥陀ヶ峰山頂に自身を『新八幡』として祀らせようとした意図も合わせ、秀吉は自らを六道の辻に対峙する、鬼門比叡山や西方愛宕山にも匹敵する存在としようとしたとも考察できます。結局歴史の変遷を経て、江戸幕府寄りの智積院、明治政府による国立博物館、また現代に入りその大幅増築となった同平成知新館と、方広寺に隣接する豊国神社が別格官弊社として仲良く並ぶ格好となりましたが。
 小田原征伐による中止を挟み、文禄四(1595)年九月に大仏は完成、神仏習合色の強い天台系修験道の聖護院道澄が住持に任命され、二五日、天台、真言、律、禅、浄土、日蓮、時、一向各宗の合同による千僧供養会が実施されます。なおこれは秀吉の祖父母供養の目的も含んでおり、江戸初期豊臣家滅亡まで毎月執り行われることとなります。ちなみに、秀吉没後の豊国神社には、神仏習合から最も遠い唯一神道(吉田神道)の吉田家が社司に選ばれています。
 さてこの大仏殿ですがその後の歴史は災難が続きます。翌文禄五(1596)年閏七月、工期短縮のため当初計画されていた銅造から木造に変更したことが災いしてか、『大仏事、堂無為、奇妙奇妙、本尊大破、左御手崩落了、御胸崩、其外処々響在之、後光聊も不捐(義演准后日記)』と、早くも慶長伏見地震によって大仏が倒壊します。
 九月、秀吉は夢のお告げとして、『甲斐国善光寺如来、一七夜以来、夢ニ被成御覧候も、か様之儀被仰出候事、如何と思召、此中雖被成御遠慮候、既昨夜者、現之様影向候て、都へ被相移、阿弥陀峰と申山之麓有之度と示現候、然者其段可被仰聞候間、聖護院同道候て、早々大坂へ可相越候也 九月八日 (秀吉朱印)(高野山文書『続宝簡集』)』と、当時から単立であった長野方面善光寺の移座を計画、翌慶長二(1597)年七月にそれは実施され、慶長三(1598)年八月二二日に開眼供養が計画されますが、しかしこれも、秀吉の死没(一八日)に際し祟りではないかと疑われ、その前日(一七日)に長野に戻されることとなります。
 翌慶長四(1599)年秀頼の命により銅製にて大仏再建の開始となりますが、同七(1602)年一二月に鋳造中に出火、大仏及びその堂宇が焼亡します。
 その六年後の慶長一三(1608)年、秀頼により四度目の再建が開始、慶長一九(1614)年五月、家康の承認も得て八月三日が開眼供養とされますが、その一週間前の七月二六日、突如これは延期とされます。これが方広寺鐘銘事件といわれるものです。なお国家安康君臣豊楽の銘文について、一般的には言いがかりとの説が強いですが、これについては、豊臣家滅亡にまで追いやったことがやりすぎで、銘文自体は問題ではありました。
 銘文を執筆した、文才に長けた東福寺住持の文英清韓によれば、ここに家康と豊臣を意識したことは事実とのことでした。また、仏教や公家にあってはこうした、時の帝や将軍の名を入れる行為はむしろ祝意を示すものとされていました。一方武家にあってはこれは非礼との慣例があり、戦乱期にあって必ずしもそれらは統一されていなかったようです。
 なお大仏自体はその後、現在の豊国神社の東側、智積院の北側にある、庫裏が国宝であることでも知られる宮門跡妙法院の所属となりました。このため江戸期には方広寺ではなく単なる大仏殿の名で知られることとなりました。寛文二(1662)年に銅製のこれは地震で倒壊、同七(1667)年に木造にて再建、寛政一〇(1798)年に落雷で焼失、これ以降同様のサイズのものは再建されず、天保年間に上半身のみとして木造で再建、そして前述の通りこれは戦後1973年に火災にて焼失となりました。



二一 豊国神社 



【国宝建造物】 七条駅

 洛域周辺には、集中して社寺や文化施設が立ち並ぶエリアがいくつかあります。八坂神社、知恩院、建仁寺などからなる祇園周辺、平安神宮、南禅寺、動物園などからなる岡崎エリア、嵯峨嵐山エリア、また最近では水族館、鉄道博物館などからなる梅小路エリアなどもそのひとつになりつつあります。東山七条周辺もその一つで、この近隣には、平安時代からの三十三間堂、桃山時代の豊国神社、江戸時代以降、川崎大師、成田不動、高尾薬師など関東において多数の参拝者を集めることで知られる真言宗智山派の総本山である智積院、明治期に建設、平成期に増築された国立博物館などが集結しています。
 このエリアの特徴として、各時代において、あまり大義があるとは言い難いやりたい放題をやった人物らによって栄枯盛衰を繰り返した施設が、今は仲良く並んでいることが挙げられます。祇園周辺が、人間の繁華街でありながら、アユやコイの遡上する鴨川があり、またすぐに将軍塚方面への山道があり、人間と自然との共生が感じられやすい場所とすれば、東山七条周辺は、人間同士の、押し付けではない調和が感じられやすい場所ということもできそうです。
 『醍醐の花見』のなされた慶長三(1598)年の八月に秀吉は死去、翌慶長四(1599)年四月、前田玄以の『御湯殿上日記』の三月五日条などによれば、「大かう、御すきよにつきて、ゆいごんに、あみだのたけに、大志やにいはゝれたま□とのことにて」などとあり、遺言として、方広寺の東方、東山の阿弥陀ヶ峰の山頂に埋葬され、これと同時にこの社は創建となります。
 方広寺は秀吉が慶長元(1595)年に大仏を建立、また参拝への利便から、五条大橋を現在の松原通から、六条坊門小路に変更した寺院ですが、この寺院の大仏は一年で倒壊したことでも知られています。ちなみに、文化財などにはなっていませんが、昭和三〇年に、滋賀県南部などに路線のある帝産バス系列が、霊山(りょうぜん)護国神社の付近に大仏サイズの観音を建立してはいます。
 当初秀吉の死は機密とされていたため、この大仏の鎮守社との名目で着工していました。なお秀吉自身は、皇室中興の祖として、国家第二の宗廟として知られる石清水の応神天皇・八幡神を意識してか、自らを『新八幡』として祀るよう遺言していましたが、さっそく家康の横やりがあってか、これは『豊国大明神』とされます。
 またこれに際し同社の創建には、反本地垂迹、つまり神道を仏教より重視する吉田神道の吉田兼見が取り仕切りました。八幡神は重要な皇祖神でありながら、放生会が例祭の中心であり、近代以降もそれを実施し、仏教との関わりがもともと深かったことから、それとは逆に比較的疎遠であった吉田神道が台頭したとも考察されます。
 ちなみに人物神が祭神の場合、近代においては、天皇は官大、臣下は別官となることが殆どですが、このうち、自分から遺言でそういうことを言った者は稀で、秀吉や家康くらいのものです。なお信長は何も言ってはいませんが、明治に入り、大徳寺の南側、船岡山に建勲神社として祀られています。建勲神社は本来は『たけいさお』と読みますが、一般的には『けんくんさん』と呼ばれ、船岡も閑静な桜の名所として知られ、信長ののの字も感じさせない印象ではあります。なお豊国神社も正称は『とよくに』ですが、『ほうこく』でも変換ができます。
 関ケ原以後もしばらくは興隆し、慶長九(1604)年の秀吉七回忌などは盛大に実施されています。このときの賑わいの様子が、重文、狩野内善筆『豊国祭図屏風』(豊国神社蔵)にて描かれています。また秀頼による参拝も慶長一六(1611)年に実施されています。
 とはいえ、慶長二〇(1615)年の豊臣家滅亡に伴い、豊国大明神の神号もはく奪となり、神社も廃絶となります。『駿河土産』によると、北政所の「崩れ次第になし被置下され度」の嘆願があったなどの理由により、社殿は残るものの改修は認められず、また阿弥陀ヶ峰への参道には新日枝神社が移築されることとなります。
 豊国大明神の神体については、吉田兼見の弟神龍院梵舜が、「(金地院崇)伝長老ヨリ内証之使」からの廃絶決定の知らせを聞いて、「驚入立上、中々無是非也」と一時混乱した(『舜旧記』より)ものの、彼は密かにそれを持ち出し、自宅にて隠し祀ったとも、また、新日枝神社に密かに祀られたとも言われています。
 その後家光が豊国神社再建を検討しますが酒井忠世の時期尚早との進言もありこれは実現せず、さらにその後は江戸が安定期に入ったこともあり、豊国神社は、安永(1772~1781)の頃には、『翁草』によれば、同社の社殿は「追日衰頽し、今は旧れは地の跡もなく、郊野と成て、豊国の名だに知る人稀なり」と、一時歴史から忘れられた存在になりかけました。かつてそこに広大な神社があったということは、あたかも現代におけるいろは歌とその意味のような扱いとなりました。
 阿弥陀ヶ峰の名称は行基が弥陀を祀って名付けたとも伝えられており、この鳥辺山は元は風葬、現代も京都市営の火葬場のある場所となっています。秀吉はその麓、「六道の辻」の付近に目をつけ、ここに大仏を建立し、いわばこの世だけでなくあの世でも天下取りをしようとも、また我が国においては自らを比叡や愛宕のような存在にしようと企図したとも考えられますが、それは全くなされなくなりました。但し庶民の間での起請文などに、豊国大明神の神号が密かに使用された例もあったようです。
 少し脱線します。昨今、ローマ教皇(法王)が、事例によっては、江戸期を通じてずっと一村が丸ごと隠れキリシタンであったことを称賛したことがありました。しかしこれは状況としては不自然なことでもあります。江戸期が安定していくにつれ、過激な取り締まりが大ごととしてできなくなり、いわば黙認の状態が発生していたのではないかとも考察できそうです。
そもそも江戸初期における諸作、例えば田畑売買禁止などは、貸し借りであれば可などの抜け道があり、江戸初期の影響力の大きさからそれを改正することができなかった結果、以降、実質的な売買の全てが貸し借りとなるなど、法令の柔軟な運用がなされていました。
 似たような例として、平安時代後期には売官(成功(じょうごう))は美徳とされていました。本来は律令制度の目的を乱す行為ですが合法であり、影響力の大きいそれを改正することなく、朝廷側による財政の窮乏救済や、民間の雇用拡大を呼ぶことができたためです。名目上奈良時代の養老律令は明治維新まで有効でした。この辺りの事情は、現代の憲法の運用にも通じるものを感じさせられます。
 慶応四(1868)年、ようやく豊国神社再興が布告され、人物神ですから別格官弊社となり、明治一三(1880)年に竣工します。またそのうち、金地院から『回収』した唐門が、元伏見城の遺構と伝えられ国宝となっています。
 続く明治三〇(1897)年には、阿弥陀ヶ峰山頂に、伊東忠太の設計による石塔が建立されました。とはいえ、東山七条の奥の山中に、約五〇〇もの二段階から成る石段があり、山上にとある石塔があり、それが秀吉の墓であるなど、彼の企図とは異なり、まず気づく者はいないでしょう。なおこの石段ですが、世界遺産である伏見稲荷や、清水寺の裏入り口などと同様、周辺地元民らのトレーニングの場としては有名なようです。
 また、周辺施設のうち、三十三間堂などは見た目から有名ですが、東山七条交差点を、祇園交差点における八坂神社のようにT路にして、普段は使用しない正門を構える智積院についても、よもやこの、閑静で、元旦にも落ち着いて参拝でき、また京都ではさほど珍しくはない国指定名勝の庭園のある寺院が、冒頭の関東著名寺院らの総本山であると気づく者もかなり限られていそうです。
 このことから、真言宗にあって智山派は、東寺(教王護国寺)や高野山以上の最大勢力となっているそうですが、極端に言えば烏合の衆、中国人民のような印象とも言える側面もありそうです。それはちょうど、近所の博物館の反対側の神社で祭神となっている秀吉が家康に作らせた江戸というムラが、その両者ともに想定を上回るレベルで後に異状膨張を引き起こし、再び厄介な状況を本朝に引き起こしていることと似ている印象を受けるとも言えます。



二二 法然院



浄土寺停

 2kmにも及ぶ哲学の道の中間よりやや北側から西方向の路地に入ったところにあり、哲学の道途中の休息の場としても知られています。小規模ながらかなり整備された庭園もあり、春秋には哲学の道の通行者でにぎわうところですが、拝観料はなんと無料となっています。
 鬱蒼とした林間の中に、茅葺の山門があります。ここには数多の墓所があり、平安神宮の桜を称えた谷崎潤一郎の墓所もここにあります。なお谷崎潤一郎著『細雪』は、4人姉妹が平安神宮神苑を訪問する、いわば現代でいうギャルゲーです。
それをくぐると、そこには左右に、長方形の立て砂である『白沙段(はくさだん)』と呼ばれる造形が小径を形成しています。この趣から一見すると禅宗のようにも見えますが、ここは浄土宗系の単立寺院です。
 東山の支峰善気峰の山麓に位置するため、善気山と号し、また、滅多に知られていませんが、正式には善気山万無教寺といいます。
 建永元(1206)年、ここは法然が弟子の住蓮、安楽と、六時礼賛を勤めたところと伝えられています。六時礼賛とは、一日を六分割し計六回の念仏を唱える勤行のことです。
 その後、いわばこの『聖地』は場所が不明となり、江戸期に入ってから、知恩院三八世万無心阿とその弟子の忍徴が再興しました。境内の湧水は忍徴が錫杖によってさしたところとも伝えられる洛中名泉の一つでもあります。



二三 本能寺



【法華宗本門流大本山】 京都市役所前駅

 近年のSNSの発達により、著名人物はその非業の死ばかりが注目される傾向にあり、またその舞台となった場所もそれにつれてますますその事案だけが著名となりつつありますが、こちらはそもそも、多派に分裂していることで知られる日蓮宗の一派の本山です。
 応永二二(1415)年、日隆が油小路高辻と五条坊門の間に建立したことにはじまります。また当初は本応寺と号していました。日隆は妙顕寺の僧で、四世住持日霽に師事、五世月明と相容れず当寺を建立したもののすぐに月明の宗徒らによって破却され、永享元(1429)年、上京区内野の辺りに再建されます。
 さらに同五(1434)年、六角以南、四条坊門以北、大宮以西、櫛笥以東の広大な敷地を宗徒より寄進され、寺号を本能寺に変更、本門法華宗の拠点とします。本門法華宗は興隆し、信徒が西国、特に種子島にも及んだことから、鉄砲の伝来には本能寺が関わり、また独自の防衛機能も備えていました。
 ところが天文五(1536)年の天文法華の乱により堂宇は消失します。その一、二年後には八世日承が住持となり、天文一四(1545)には、西洞院~油小路、四条坊門~六角間に移転されます。この後も、鉄砲の移入に関わりが強かったことや、堅固な施設であったため、信長の宿所とされ、その結果天正一〇(1582)年に本能寺の変が勃発することとなります。
 その後、天正一九(1591)年、秀吉の命により現在の地に移転されます。実際に本能寺の変があった場所とは異なるものの、信長本廟もここにあります。ちなみに明治に入ってから近代製別格官弊社として北区に建立された建勲神社も祭神は信長です。
 なお当初は、現在の市役所なども含みやや引き続きその領域は広大でした。その後も天明八(1788)年の天明の大火、元治元(1864)年の禁門の変に伴うどんどん焼けなどにより頻繁に消失しています。なお『能』の文字は本来は旧字体のままです。これについては、歴代堂宇が頻繁に火災に遭っているため、『能』の字にあるヒを嫌い、明治以後は用いられなくなったものを引き続き採用しているとのことです。



二四 曼殊院



【一三宮門跡】【名勝】 修学院駅

 近年になってから整理券制で通年公開されるようになった修学院離宮や、赤山禅院の近くにあります。
 天台御箇室門跡の一つであり、粟田門跡こと青蓮院や、梶井門跡こと三千院同様、竹内(たけのうち)門跡の異称があり、比叡山にあった小坊を元としています。天暦年間(782-806)、是算国師のときに、西塔北谷に移転し、東尾坊(とうびぼう)と号しました。この時をもって曼殊院の開基とされています。
 天仁年間(一一〇八ー一一一〇)、忠尋のときに寺名を曼殊院に改称しましたが、忠尋は北野天満宮の別当も兼任していました。是算も菅原氏の出身でしたから、曼殊院は北野天満宮との縁が深い社寺といえるでしょう。また永久年間(一一一三ー一一一八)には西塔の本坊とは別に、より北野天満宮に近い北山に院地を置きました。
 その後、「伝称、竹内寺院旧在北山、至良什時、道義取之人鹿苑寺内而以他地、代之授良什」(「続本朝通鑑」応永一一年一二月二五日条)と、義満の北山山荘造営に伴い相国寺の南方方面に移転(「諸門跡譜」下巻曼殊院)しました。また、文明年間(一四六九ー一四八七)より、伏見宮貞常親王の子慈運法親王が三三世住持として入寺して以降、宮門跡化しました。
 江戸期、明暦二(一六五六)年に、桂離宮を造営したことで知られる八条宮智仁親王の子良尚法親王のとき、御所付近から現在の修学院離宮の付近に移転しました(天台座主記)。天和二(一六八二)年の「雍州府志」にも、「曼殊院 在修学寺東南、天台門主之一院而三昧院之法流也、今住号良尚法親王、八条家智仁親王之子也」とあります。
 境内は、小堀遠州作ともいわれる国指定名勝の庭園があり、また、三井寺の黄不動像の画像や、古今和歌集の写本の一つである曼殊院本が国宝に指定され、京都国立博物館に寄託されています。
 また重文として特筆されるのは、今昔物語集の中にある「是害房絵」という、平安期、中国の天狗がやってきて、比叡山にて僧侶と対決するもゼロ勝三敗となり、神護寺の辺りで湯治をし、日本の天狗も彼を哀れに思い看病をするという話の絵巻物こと「紙本著色是害房絵」です。
 また、私が最初に訪問したときは、幽霊図なども掲げ、参拝客を驚かせていましたが、さすがに非科学的なためあれは今はないようです。



二五 吉田神社



【明神二二社】 京大農学部前停

 京都にあって著名な春日社といえば、大原野神社、西院春日神社、そしてこの吉田神社の三つが挙げられます。このうち、『京春日』とも呼ばれ、明神二二社中八社筆頭としてよく知られているのが大原野神社です。
 一方、大原野神社は長岡京造営の際にその鬼門の方角に建立されたものであることから、一条兼良の『公事根元』には、『春日の社と同体也、奈良の京の時は春日社、長岡の京の時は大原野、いまの平安城の時は吉田社也、みな帝都ちかき所をしめて、御門をまもり奉らせたまふにや』とあり、平安前期にその鬼門方向に建立され、下八社に列格している吉田神社を重視する見方もあります。
 この吉田神社ですが、貞観元(859)年、藤原北家の傍流であった藤原山陰によって建立されます。山陰は『今昔物語集』、『源平盛衰記』の他『長谷寺験記』などに見られるミラクルな人物で、その逸話により摂津総持寺の開山ともなっておりそこにて祀られています。鎌倉仏教など中世以降開祖を祀る例は少なくありませんが、平安前期では人物神といえばまだまだ怨霊の類が圧倒的であり、特にそういったこととは無縁でありながら祀られているということも彼の特徴の一つと言えます。
 この山陰ですが、晩年、彼の孫娘であった時姫が藤原兼家の側室となって詮子(東三条院)を生み、彼女が円融天皇の女御として一条天皇を生み、天皇の曾祖父となり、後の藤原氏全盛期の元となったことから、彼の創建した吉田神社も重要視され、正暦二(991)年に明神二二社の第一九社となり、この時点で吉田神社の社格は安定したものとなります。鎌倉初期の卜部兼茂以降、明神上七社の平野神社の社司(宮司)を務めてきた卜部氏がここの社司を兼ねることとなり、また卜部氏は室町期の兼煕の時に吉田氏に改称します。ちなみに『徒然草』の著者吉田兼好も本来は卜部兼好であり、吉田兼好の名は江戸期以降になってから知れ渡ったものです。
 とはいえ吉田神社を今日より著名たらしめているのは、吉田兼倶によって創始された吉田神道(唯一神道)の根拠地であることであるともいえます。兼倶の時代には応仁の乱が発生し、宗教界にも、鎌倉初期にも匹敵する変化が発生していました。禅の一休と真宗の蓮如との間には親交がありましたが、彼らもまた応仁の乱の混乱期に活躍した人物です。ちなみにその蓮如が山科での活躍の後、閑静な隠棲の地として選んだ石山の地は伏見時代に秀吉によって注目され、そこに大坂城が建てられることとなります。
 応仁の乱の混乱に対し、禅ではもはやそのイメージを刷新する一休が、真宗では、あたかも今日の政党団体のように御文を発行し講を組織する蓮如がタッグを組んで活躍していました。このような状況下、神道にあっても兼倶という人物が登場します。
 彼はそれまで一般的であった神仏習合における仏教優位、即ち本地垂迹説に対する、反本地垂迹説を主体とし、神道優位の立場を明確にします。その神道優位の姿勢は、江戸期の平田篤胤を経るなど徐々に吉田神道から形を変えつつも、近代、そして今日の神仏分離へと繋がっていくものとなります。
 文明一六(1484)年、兼倶は吉田神社境内に大元宮と称する八角形の斎場を建立します。吉田神社自体は延喜式内社ではありませんが、ここにて全国約三千の式内社が一斉に祀られることとなります。また吉田神道では国常立尊(くにのとこたちのみこと)をして虚無太元尊神(おおぞらのみことのたましい)と呼び、これを最重要視します。
 無論、宮地直一が『神道史』で述べた如く、『在来の神社の形式をそのまゝに之が信仰の内容とするのは極めて困難な業であつた』とも言えます。天照とは別の信仰の中心を設け、また神道の最大の特徴の一つでもある、方位神、人物神、自然物神などの多神教の教義からもやや逸れており、全国三千の式内社を束ね、唯一神のような存在を設定し、またモスクに近いものを建てるなどの内容は、今日であれば、神道とは別の、神道に敬意を払う別の宗教法人と見ることもできそうなものです。
 この点については平田篤胤も批判、また明治政府も冷遇しています。とはいえ兼倶以降、新しい時代の到来の度に、仏教に最も遠い立場をとった吉田神道も重視されることとなります。秀吉は自らを皇室中興の祖応神天皇・八幡神に喩え『新八幡神』とするよう遺言としましたが、仏教に相当近い存在でもあった八幡神の遺言を否定し豊国大明神とするため、家康は吉田神道の力を借り、江戸初期の豊国神社の祭祀は吉田家によってなされました。
 また平田神道も明治政府も吉田神道には否定的ですが、そもそも神道優位の立場の流れの源流を作ったのは吉田神道ですから、これを参考にしたことまでは否定できないと言えるでしょう。
さて、吉田神社は節分の祭儀でも有名です。これも豆まきなどの一般的な節分とは異なった形式をとっています。兼倶が大元宮造営の際に始めたと言われるもので、節分の日には、大元宮前に、八角形の台の上に、これまた八角形の白木の棒、ススキ、ワラ、サルスベリなどから成る、厄塚と呼ばれるものを組み立て、これに触れることで厄を祓うとされています。このような形式はもはや独特なものであると言うことができます。ですがその一方で、これが民間信仰として節分が広まるきっかけのひとつとなったとも言えます。


【無料】沿革を中心とした京都の各社寺の随想100 第一巻

2020年9月17日 発行 初版

著  者:坪内琢正
発  行:瑞洛書店

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坪内琢正

※ 改行多数のため、ツイプロ及びブログメッセージボードをご参照ください。 〇ツイプロ:http://twpf.jp/sigure_pc 〇ブログメッセージボード: http://blog.livedoor.jp/t_finepc/ ※ アイコンの下のイラストはつばさちゃん/しいねちゃんですが、小説の珠洲ちゃん、美濃くんの外見イメージにも近いです。

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