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この本はタチヨミ版です。
汚職刑事
アメリカ合衆国。
五〇州からなる連邦制。その西海岸には巨大な都市がある。
人口はおよそ九七六万人。白人、アフリカ系、ヒスパニック系、アジア系、先住民族など様々な人種が混在している。
この土地はもともとメキシコ領だったこともあり、全人口の四六・五パーセントがヒスパニック系である。また、人口の四一・七パーセントがスペイン語で話し、英語の四二・二パーセントとほぼ同等である。
ダウンタウン南部。
エンリケは、息を弾ませながら住宅地を疾走していた。よく知っている車を見かけたからだ。その車の持ち主に見つかることだけは、なんとしても避けたかった。しかしこちらの姿を見られたかもしれない。そう思って全力で逃げた。だが、日頃の不摂生がたたって走るのが苦しい。
かどをまがって立ち止まる。両肩で喘ぐように息をしている。苦しくて吐きそうだ。そっと顔を出してみると、あの車は見えない。
「驚かせやがって」
ホッとして呟く。全力で走ったおかげで喉が渇いた。ビールでも飲むか。
てくてく歩いているうちに呼吸は整ってきた。しかし足首がなんだか痛む。気にするほどではないが。やがてリカーショップの錆びた看板が見えてくる。
店前には広い駐車スペースがあった。するとエンジン音を唸らせながら車が勢いよくやってくる。そしてタイヤを軋ませてエンリケの前で停まる。
「エンリケ・アウレリオ。見つけたぞ」
しゃがれ声で云いながら、ジョン・ワイズバーグが車から降りてくる。
彼は四〇歳前後の白人で、坊主頭にカコミ髭をたくわえている。鍛えられた肉体は引き締まって筋張っていた。
「や、やあ、ジョンじゃないか」
エンリケは、地獄に突き落とされたような気分だ。もっとも逢いたくない相手だった。この男から逃れたいがために全力で走ったのだ。
「おまえ、さっき逃げただろ?」
「逃げるなんて、とんでもない」
と首を振る。
「きょうは何の日か、もちろんわかっているよな?」
「も、もちろん」
「なら、さっさと出せよ」
エンリケはポケットをさぐって数枚の紙幣を取り出すと、彼に手わたす。ジョンは紙幣を数える。
「あと、もう七〇〇ドルだ」
「今週は稼ぎが少なくて。それでかんべんしてくれ」
そう懇願する。ジョンはにやりと笑って彼の鳩尾に拳を叩き込む。呻きながら腹を抱えて両膝を地面につく。
「おまえが一一パウンド(五キログラム)のブツを捌いたことを、おれは知っているんだぜ」
「そんなの知らねえよ」
「とぼけるんじゃねえ」
ジョンはつづけて彼のこめかみを殴打し、地面に倒れ込んだ彼のポケットをさぐる。財布を取り出して中身を見ると、一ドル札が数枚だけだった。それを投げ捨ててふたたびポケットをさぐる。すると上着からゴムで留めた札束が出てくる。
「おお、ずいぶん持っているじゃねえか」
ジョンはゴムをはずして紙幣を数える。七〇〇ドルを抜いて残りをエンリケのポケットに押し込む。
「また稼いでこいよ。チンピラ」
そう云って立ち上がると、車に向かう。
「おい、ジョン」
エンリケは呻くような声で呼び止める。
「なんだ?」
「おれが警察に密告したら、あんた、どうなる?」
「…………」
「刑事がヤクの売人から金を取り立てていることを警察が知ったら、あんた、おしまいだぞ」
それを聞いてジョンは思わず、にやりと笑う。
「もしかして、おれを脅しているのか?」
「事実をぶちまけたっていいんだぞ」
「ほう。やってみな」
そう云ってジョンは彼の腹を蹴ると、ウー、と腹を抱えて丸まる。
「てめえみたいなくそが、刑務所のくさい飯を食わずにすんでいるのは、だれのおかげだ」
と丸まったからだを踏みつける。
「それとも何か? 屁が出なくなるほど、刑務所でカマ掘られてみるか?」
エンリケは苦痛に顔を歪めながら首を振る。
「ふん、考えてものを云えよ」
ジョンは車に乗り込むと、走り去っていく。
アメリカ合衆国は各州に高度な自治権が存在しており、とくに警察機関は奴隷制度の時代から独自の牙城を築いてきた。
はじめて警察機関がつくられた奴隷制度時代、黒人奴隷が脱走した際の捕獲や暴動の鎮圧が警察の主な業務であった。この黒人取締りのカルチャーは現在に至るまで受け継がれており、警察が一般市民に対して高圧的・暴力的に振る舞うことにある種のインセンティブが働いている。警察内には「牙をむく一般市民には高圧的に振る舞ってよし」という暗黙の了解が流れているといっても過言ではない。
また、警察と消防の組織は労働組合の力がとても強い。ひとつの都市の警察では労働組合に権力が集中し、警察機関トップよりも組合長が実権を握ってしまうという歪んだ構造があった。こうしたことから警察官が事件性のある不祥事を起こしたとしても組合長が微罪無罪にしてしまうという顛末が多々あるといわれている。そしてまた、べつの都市では警察署長から市長になったことで権力が警察に集中してしまうという事態もあった。
こうした背景の中、白人至上主義を掲げる者が組合長や市長の地位につくことで、黒人取締りのカルチャーが人種差別として根づいていたものが、さらに増幅されてしまうのである。
法治国家として法律と秩序を守るはずの「正義の番人」に、もはやその「正義」は存在していないに等しい。
まもなく日が暮れようとしていた。オフィスビル一階には洒落たコーヒースタンドがある。
エイミーはもうすぐ飲み終わるカップを見て、ため息をつく。いつも待たされる。それには慣れているはずだった。しかし苛立ちは隠せない。
彼女は三〇代半ばの白人で、栗色の髪をうしろで束ねている。幼いひとり娘を育てながら、上階のオフィスで働いていた。これから学校へ娘を迎えにいき、それから自宅に帰って食事の用意や雑用をしなければならない。さっさとここから出たい。とはいえ、必要なものを受け取るまでは帰ることができない。だが、待ち人はなかなか姿を現してくれなかった。
「もう早くしてよ……」
心の中でぼやく。すると店のドアが開いて、ジョンが入ってくる。エイミーの姿を見つけると、向かいの席に腰を下ろす。
「遅くなってしまった」
「慣れているわ」
「すまない」
「口だけの謝罪もね」
彼女の冷めた云い方に、ジョンはカチンとくる。が、以前のように頭にきて口論することだけは避けたい。
「ベッツィーは元気か?」
ふたりが離婚する前に産まれたひとり娘である。そして親権はこの元妻にあった。
「元気よ」
「あの子は、学校が好きか?」
「ねえ、わたし、いそいでいるの」
「ああ、そうか。すまん」
ジョンは無造作にポケットから札束を取り出して数える。そして紙幣の束を彼女の前におく。
「今週分だ」
エイミーは思わず周囲を見る。
「ジョン。小切手にして、とお願いしたでしょ?」
彼女はため息まじりにそう云うと、素早くバッグから財布を取り出して紙幣をしまう。
「なあ、ほんの少しの時間でいいんだ。ベッツィーに逢わせてくれないか?」
ジョンが懇願するように云う。
「…………」
何も答えずに席を立とうとする彼女の手を掴む。
「頼むよ」
エイミーは彼の目を見る。
「彼女に訊いてみないと。手を放して」
「ああ」
手を放すと、エイミーは足早に店から出ていく。ジョンはそのうしろ姿を目で追う。
「養育費をいくら払っても自分の娘には逢えず、か……」
ぼやくようにそう呟く。
殺人事件
夜も更けてオレンジ色の街灯が路面を照らしている。
サウスウエスト地区にあるアパートメントの前には、回転灯がついた警察車輌が停まっていた。
数名の警察官が立ち入り禁止のテープを張りめぐらせている。いつも見慣れているせいか、この光景に足を止める人はいない。
そこに一台の車がやってきて停まると、中からダグラス・セペダ刑事が降りてくる。
彼は三〇代後半のヒスパニック系アメリカ人、中肉中背で四角い顔立ちに口髭をたくわえて黒髪をオールバックにしている。
ひとりの警察官が彼のもとへやってくると、見上げて指をさす。
「現場は、三階のかど部屋です」
「わかった」
「到着したときには、すでに死亡していました。被害者は若い女性。刃物による無数の刺し傷があります。彼女のボーイフレンドが発見して通報してきました」
向こうでそのボーイフレンドという若い男性が、警察官の質問に答えている。
「女性の悲鳴や、争うような声を聞いた居住者は、だれもいません」
「そうか」
「現場はそのままにしてあります」
「わかった。ご苦労さん」
もう一台の車がやってきて停まると、中からジョンが降りてくる。トランクを開けて、ゴム手袋とLEDライトを取り出してダグラスに近づく。
「殺しか?」
「そのようだ」
「現場は?」
「三階の部屋だ」
ふたりはアパートメントの鉄門を開けて中に入っていく。
ジョンとダグラスは、ともに市警察サウス管区・強盗殺人課に所属する刑事である。この地域はとくに治安が悪く、数年前まで凶悪犯罪が頻繁に起きていた。
吹き抜けの暗い階段を上がっていく。居住者がカーテンの隙間から好奇心の目を覗かせていた。三階までやってくると、事件現場となった部屋前には警察官が立っている。
「死体はどこに?」
ジョンが訊く。
「右側の寝室です」
ジョンとダグラスは、ドアを開けて中に入る。
「暗いな」
ダグラスが電灯のスイッチを入れてみるが、明かりはつかない。ふたりはそれぞれに持っているLEDライトをつけて辺りを照らしてみる。生活感はあるが、荒らされた形跡はなさそうだ。ふたりはキッチンを通過して寝室までやってくる。
「ご対面といくか」
ジョンはレバーハンドルに手をかけて、ゆっくりと開ける。真っ暗な部屋の中央に、椅子に坐ったまま動かない人影が見える。筋状になったふたつの青白い明かりがそれを照らし出す。
「なんてこった」
ダグラスが思わず声を上げる。
死体は椅子に腰かけたまま、結束バンドによって両手をうしろで括られていた。伸びきった指は苦痛の様子がうかがえる。
ジョンが明かりを下げると、両足首も結束バンドで括られていて、まわりの床にはとび散った血液が付着していた。そして胸元を照らし出す。
「何度も刺されているな」
着衣は赤黒く染まり、裂けた衣服から刺し傷が見える。
「ダグ、見てみろ」
ジョンが顔に明かりを照らす。大きく見開いていた両目は瞼が切り取られていた。
「まだ若いのに」
ダグラスが呟くように云う。
ふたりは部屋を隈なく捜索するが、凶器は見つからなかった。ほどなくして科学捜査課の捜査員たちがやってくる。
シャッターを切る音とともに、フラッシュに照らし出された被写体の無残な姿がカメラに収められていく。
この日は、明け方から雨が降りだしていた。
ダグラスは車を運転しながら水はけの悪いワイパーに苛立っている。
「くそ、見づらいな」
夏場は気温三〇度をゆうに超える日々がつづく。すると、ワイパーのゴムはひと夏ですぐに傷んでしまう。
ジョンは助手席から流れる景色を黙って眺めていた。歩道では、傘をささずにスウェットのフードを目深にかぶる若者が歩いている。
「そういえば、あの日も雨が降っていたな」
と心の中で呟く。
「このあいだ、取り替えたばかりなのによ……」
ダグラスはまだぼやいている。
「なあ、憶えているか? ジャンキー(麻薬依存者)が発砲してきたときのことを」
ジョンが訊く。
「何?」
「あのときも雨が降っていたよな」
「それがどうした?」
「別れた女につきまとった挙句に刺し殺して……。たしか、被害者はまだ若かった」
「殺しなんて、しょっちゅうだ。いちいち憶えていられるか」
郡内での殺人、強盗、強姦、加重暴行などの凶悪犯罪は減少傾向だが、それでも前年は年間にして一八五三四件もあった。
「ダグ、いい方法があるぞ」
「何がだ?」
「窓から顔を出して運転するんだよ。なに、髪が少し濡れるがな」
そう云ってジョンが笑うと、ダグラスはムッとしてその大きな瞳をじろりと向ける。
やがてレンガ造りの郡医療審査検屍局の建物が見えてきた。常駐の郡保安官に警察バッジを提示して通されると、敷地内の駐車場に車を停めて、ふたりは足早に建物の中に入っていく。
検視室で監察医のロバート・ノグチは、解剖台に横たわる無残な死体を挟んで立っていた。
「死亡時刻は、発見当日の一九時から二〇時。死因は、胸部刺創による失血死。中には肺や心臓まで達しているものもありました」
ふたりは黙って聞いていると、ロバートは慣れた口調で淡々とつづける。
「傷口の形状から刃渡り六インチ(一五センチメートル)ほどのナイフと見られます。ところが、瞼の切り口はとてもきれいで──」
そばにあるメスを持ち上げる。
「こういった医療器具をつかったようです」
「医学知識がある者か?」
ダグラスが訊く。
タチヨミ版はここまでとなります。
2020年9月26日 発行 初版
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1975年東京都生まれ。
都立高等学校卒業後、監督を目指して自主映画を制作。のちにハリウッド映画にも参加。また日本でも映画、テレビ、CMなどにちょっぴり出演。他の著書に『童顔の暗殺者』『香りたつコーヒーは恋のあじわい』。