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日々の祈り キリストの約束―今日からは あなたも神の子になります

キリストめぐみの家 (代表) 平川博達

yoshikawa-shimon-nobuyuki出版



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 日々の祈りーキリストの約束ー

  今日からは あなたも
  神の子になります

はじめにーあかちゃんは、どうしてなくのでしょうかー
     




1 どうして?


 あかちゃんよ。
 あなたは、うまれてすぐに、なきました。

 どうして、ないたのかな。

 すぐそばに、おとうさんも、おかあさんも、いたはずです。おじいさんもいたはずです。おばあさんもいたはずです。
 そうして、いぬや、ねこも、「あなた」をまっていたはずですが、それでも、あなたはなきました。

 どうしてかな。

 はじめてうまれたので、びっくりしたのだろうか。
 おかあさんの、「おなか」のなかが、せまかったので、ひろいところにでてきたので、きっと、びっくりしたんだね。




 2 「なにをたべたら、いいのだろうか」
   

 それとも、これから、だれにあえばいいのか、わからなかったのかな。
 なにをたべたらいいのか、わからなかった。
 だから、ないたのかな。



 そうですね。
 やはり、これから、いきてゆくためには、だれにあえばいいのか、なにをたべればいいのか、わからなかったから、こわかったのですね。

 でもね、そういうときには、なくことが、いちばん「だいじなこと」だったのです。























礼拝一 「わが子」が
    「ひとりぼっち」にならないために




 1 はじめの「おねがい」

 
 あなたは、これからも、こまったときには、

 -だれか、たすけてー

 といえばいいわけです。
 そして、おおきくなっても、
 
 -だれかたすけてくださいー

 といってほしいのです。


 だれかに、「いじわる」をされて、そばに、「いいひと」がいなくなると、こまってしまいます。
 おともだちもいなくなるようになれば、だれだって、そういうときは、やはりこまりますね。


 そうです。
 でもそういうときでも、

 ーだれか、たすけて!ー

 というのですよ。

 
 あなたが、こまったとき、あなたがなけば、これからも、「おかあさん」や、「おとうさん」が、やってきてくれますよ。
 

 これまでも、おかあさんも、おとうさんも、すぐに、あかちゃんのところにやってきてくれたはずです。
 そうして、あなたもまた、そのあとは、あんしんして、またねむりましたね。


 おとうさんや、おかあさんが、いないときでも、やさしい「おとな」がいれば、あなたも、ひとりぼっちになることはありませんでした。



 2 でも、おとうさん、あかあさんが、
   「ひとりぼっち」になってしまったら、
   「あなた」は、どうしたらいいのでしょうか。


 あかちゃんが、なきやまないときは、「おとな」もこまってしまいます。
 
 「おとな」になっても、こまってしまうこともあるのです。

 「おとな」のひとが、

 -うるさいー

 というようになれば、
 あかちゃんは、どうなるのでしょうか。

 
 こまりますね。
 あかちゃんは、どうしたらいいのでしょう?ーーー

 あかちゃんは、おなかがすいてもなきます。
 おなかがいたくなっても、なきます。
 ねむたいのに、ねむれなくなれば、なきます。


 そうして、「こそだて」にこまってしまうと、
 ついに、「おとな」のひとも、なきたくなるのです。
 

 そういうことになると、どうなってしまうのでしょうか。

 「おとな」も「こども」も、なきたくなったら、
 どうなってしまうのでしょうか。








 









礼拝二 おとうさん、あかあさんが、
    「ひとりぼっち」にならないために




 1 イエスさまが、いわれました。


 -だれでも、「おさなご」のようにならなければ、
  「かみさま」の「てんごく」には、はいれませんー


 と。


 「おとうさん」も「おかあさん」も、「じぶん」が、あかちゃんのときのような、お母さんに「だかれていた」「おさなご」のように、ならなければ、かみさまの子にはなれませんよ。
 
 「おとうさん」も、「おかあさん」も、ひとりぼっちにならないためにも、「かみさま」の「子」になってほしいのです、とイエスさまはいってきました。


 そうして、「おとな」も「こども」も、あかちゃんも、「おかあさん」も「おとうさん」も、イエスさまのように、「かみさま」の「こども」になることを、イエスさまは、まいにち、「いのって」きました。
 


 しかし、日本では、中学生になるとどうでしょうか。

 それまで、教会に行っていた人も、中学生のころから、神様の「話し」もしなくなります。


 たしかに、「からだ」は、「大人」ほどに大きくなります。
 しかし、「中学生」の「心」は、「体」ほどには、早く「神の子」にはなれません。
 

 なぜでしょうか。


 -人間はどうして生まれてきたのだろうか。

 -自分は、どうして、
  お父さんとお母さんの「こども」なんだろうー

 などとおもったり、なやむようにもなります。


 そうして、ほんとうの、天と地を「つくった」神さまは、
  
 -これまで、どういうものを食べてきたのか-

 などと考えるようになれば、どうでしょうか。


 「いじわる」をしてきた、「悪い」人と、「つきあう」ようになれば、どうでしょうか。


 そこで、かんがえてみてください。
 イエス様は、どういう子に、成長していったのでしょうか。
 どういう「心の食事」をしてきたのでしょうか。





 
 












礼拝三 「イエスさま」の、だいすきな
    「たべもの」をしっていますか。

 

 1 イエスさまは、なにをたべていたのでしょうか。


 イエスさまは、どういうものを、「たべてきた」のでしょうか。

 あるとき、イエスさまはいわれました。


 -わたしの「しごと」は、
  「こまっているひと」を、たすけだすことです。

  それが、わたしの心の「食事です」-


  と。


 
 わかりましたか。
 イエスさまは、中学生には、すでに、神さまの「国」で、「神さま」の「しごと」をしていました。

 
 ちょっとむずかしい「はなし」になりますが、中学生にもなれば「からだ」は、お父さんやお母さんに、そっくりな「大人」になるのですが、「心」のほうは、どうでしょうか。

 心が、おとなにならないと、大人になっても、「いじめ」をはじめるのです。

 心が、「おとな」になれなかったときに、そういうひとが、自分の「しごと」がないときに、「よわいひと」をいじめはじめるのです。
 

 さあ、まじめに、かんがえてみてください。
 「いじめ」がはじまると、「いじめる」ほうは、自分でも、自分が「わるい」ことをしてることも、わからなくなります。


 そういう人になれば、イエスさまは、そういう人を、「罪人(つみびと)といってきました。
 そういう罪人(つみびと)がおおくなれば、どうなるのでしょうか。


 家族(かぞく)の人も、学校(がっこう)の先生(せんせい)も、「いじめ」が「わるい」ことであることも、わからなくなるひとが、おおくなれば、どうなるでしょうか。

 みんなが、「つみびと」になれば、どうなるのでしょうか。

 コロナウイルスのように、だれにも、「いじわる」をするひとになれば、どうなるでしょうか。



 かなしいことに、「いじめ」をするひとには、ほんとうは、「いいおもいで」などひとつもなかったはずです。

 というより、赤ちゃんのときから、「いじめ」をうけてしまうと、「おとな」になると、「いじめる」ひとになることもあるのです。


 そこではっきりいいます。

 小学生から、「いじめ」をうけたひともいます。

 そうして、中学生になると、「いじわる」をしたくなることもあります。
 
 先生のなかにも、「いじめ」をとめないひともでてきます。「いじめ」をとめたいけれど、「いじめ」をとめるには、大きな「ゆうき」がいるのです。



 そこで、これからは、中学生にも 高校生にも、いっておきたいのです。

 日本では、「心の食事」の話になると、真理とか、神の国とか、天国のことを、考えたこともない人は多いのです。
 学校の教師になっている人でも、

 心とは、どういうものか。

 自分の心は、どこにあるのか。

 腹のなかにあるのか。
 胸のなかにあるのか。
 頭の、脳にあるのか。
 
 と聞かれても、答えられない人も、多いのです。


 自分の、ほんとうの心さえ、知らないのです。
 
 中学生になっても、そういう心の問題さえ整理しないで、高校生になったときも、ただの、受験勉強に勝つための、「勉強」しかしなかったひとが、教師になってきたひとも、多かったのです。


 教師でありながら、「弱い人」を助けない教師も多くなったのです。

 「いじめ」をなくす学校を作ることもしない教師も多くなったわけです。


 そこで、イエス様は、キリストとなって、人間の、ほんとうの心が、どこにあるのか,教える「教師」になりました。
 そして、つまり、「教師になってから」、おどろきました。

 ニセモノの教師が多くなっていたことにも、気づいたわけです。


  大学の先生になったひとでも、
  真理の人を探すこともなく、
  ノーベル賞だけを目指す人も多くなりましたー

 
 そういう、真理のことも、心のことも、考えたこともない有名人が、ノーベル賞だけを目指していた、というではありませんか。

 イエスさまは、すぐに、いいました。


 -あなたたちは、ほんとうの教師ではない。
  「偽善者(ぎぜんしゃ)である-

 と、いってきました。


 ーだから、偽善者にはならないでほしい。
  ほんとうの「真理」の人を探してほしい。

  もっともよわい、
  貧しいひとのための、
  天国を、つくるひとだけが、
  ほんとうの教師であるー

  勉強はできても、神の国が、どこにあるのか、
  天国の入り口さえわからないで、
  ノーベル賞しか望まないような、
  有名人とか、文化人とか、政治家たちに向かって、

  -あなたたちこそが、偽善者だー

 とはっきり言うようになりました。


 -かれらは、魂の成長と、神の国を目指すことはない。
  ほんとうの善人になるつもりもないのに
  総理大臣を目指したり、
  
  偽善者になって、
  偽善者のための文化人になって、

  間違った日本をつくってきたのです。


  ほんとうに、こまったものですー

 と、いって、イエスさまは、さいきんは、とくに、かなしい、さみしい顔をみせるようになりました。






 













礼拝四 「おとな」になったイエスさまが、
    いつも、かんがえていたことを、
    しっていますか。




 1 さあ、「がっこう」が、たのしくないひとは、
   どうしたらいいのでしょうか


 ちょっとだけ、かんがえてみてほしいのです。
 どうして、がっこうの「べんきょう」が、おもしろくなくなったのでしょうか。


 それとも、おともだちとおもっていたひとに、いじわるをされたからでしょうか。

 あなたは、だれとも「なかよくしたい」とおもってきたが、
 それまでの「おともだち」も、いなくなった。

 それから、「ひとりぼっち」になったのではないでしょうか。


 いろいろあったはずです。

 あなたは、いちども「わるいこと」はしてこなかったのに、それまでの、あなたの「おともだち」も、ほんとうは、「ともだち」の「つくりかた」をしらなかったのではありませんか。


 そういうことです。  

  
 がっこうの「べんきょう」の「しかた」も、「ともだち」のつくり方も、コツがあるのです。

 だまっていては、ともだちもできないのです。

 



 2 「義務教育」(ぎむきょういく)とは、
   どういうことでしょうか


 あなたが、「がっこう」にいけなくなったとき、いちばんこまったことは、なんだったでしょうか。
 みんなが、がっこうにいくときに、じぶんだけが、がっこうにいけなくなったとき、お父さんやお母さんは、どういう「かお」をしていたでしょうか。


 -みんながいっているのに、
  どうして、おまえだけが、がっこうに、いけないのだ。


 -はずかしくないのかー

 といわれたはずです。


 「義務教育」(ぎむきょういく)の学校にいかないことは、しなければならないことを、しない、わるい人間になることだ。

 とも、お父さんとお母さんから、いわれてきたはずです。


 お父さんもお母さんも、仕事をしなくなったら、あなたに、おこづかいもやれなくなるよ。
 おなかがすいても、マーケットから、おにくも、やさいも、かえなくなるよ。

 といわれてきたはずです。
 

 たしかに義務教育というものは、学校に通うことが義務というものでした。

 でもね、その時の「義務教育」の「義務」とは、親の義務であって、我が子の義務ではないわけです。

 無理やりに、どこかの学校にやっておけば、それで親の義務も終わる、というものではなく、日本人として、正しく生きるための、我が子にもっともふさわしい教育を受けさせることが、親の最低の義務である、ということだったのです。


 もっとも「あなた」にふさわしい、ひとりの人間として、生きる「よろこび」に、めざめさせることが、ほんとうの親の義務である、という意味の「義務教育」であったわけです。




 3 「ほんとう」の、いきる「よろこび」について


 でも、きんじょには、「しんせつ」なひともいるはずですが、ときどき、きんじょの「ともだち」からも、「いじわる」をされることもありますね。


 そうして、「いじわる」をされて、がっこうもいけないひともいます。

 どうして、きんじょのひとでも、いじわる、をするのでしょうか。

 
 そういうことがないように、イエスさまというひとは、


 ーこれからは

  じぶんをだいじにしてね。


  じぶんをだいじにしても、
  「おともたち」がいなくなれば、こまるのです。

  だから、これからは、「じぶん」をだいじにしながら、
  あたらしい「おともだち」をつくるのです。

 といわれました。


 「おともだち」を「だいじにする」ことが、「じぶん」を「だいじ」にすることですよ。

 そして、あたらしい「おともだち」をつくることによって、あたらしい「よろこび」もふえていくのです。

 だから、これまでの「おともだち」を「だいじ」にしながら、あたらしい「おともだち」をつくることは、もっと「だいじ」ですよ。


 といわれました。


 ところが、こまったことになりました。

 「いじわる」をされたひとが、がっこうにもいけなくなり、「いえ」から、でることもなくなり、そうして、「じぶんのへや」からもでなくなったひともいるです。

 イエスさまは、そういう「ひとりぼっち」にならないために、

 「どういうひととも、なかよくしておこうね」


 といっていたのでしたが、ついに、「じさつ」するひともでてきたのです。


 神さまにとっても、イエスさまにも、これほど「かなしいこと」はなく、これほど「さみしい」ことはありませんでした。

 お父さんにも、お母さんにも、どうしていいのか、わからなくなったはずです。


 学校にいけなくても、あたらしいおともだちをつくっておけば、よかったのですが、「おともだち」をつくる「ちから」がなかったら、どうなるでしょうか。


 おともだちを「つくる」ことも、おともだちになってあげることを、イエスさまは、いつも「だいじ」にしてきたのですが、いつのまにか、ほんとうは、お父さんもお母さんも、わが子のために、たくさん、たくさん、はたらいてきたのですが、じぶんのこどもの「ともだち」になってあげなかった「おとな」たちが、おおくなって、こどもたちも、「おともだち」をつくれなくなってしまったのです。

 

 4 ほんとうの「おいのり」というもの


 だから、あなたも、これからは、どうすれば、だれかの「おともだち」になれるか、かんがえてみてほしいのです。

 あなたは、「やさしい」ひとを、どれくらいしっていますか。

 中学生になっても、高校生になっても、ほんとうの「友情」について、どれくらい、かんがえたことがありますか。



 ほんとうの「希望について。
 ほんとうの愛について、かんがえたことがありますか。

 ほんとうはね。
 お父さんになっても、お母さんになっても、学校の先生になっても、世界を平和にするための、「お祈り」もしないひと、あたらしい「おともだち」をつくれないひとが、多くなったのです。


 だから、「いじめ」もなくならないのです。
 また、お父さんのなかにも、お母さんのなかにも、自分の子をいじめるひとも、多くなったのです。


 学校の先生でも、「いじめれられてきた」ひとの「はなし」もきかない。

 そういう「大人」も多くなったのです。


 こまったことに、

 ほんとうの「お祈り」さえ、しらない「おとな」もおおくなったのです。


 みなさんは、だから、「いじめ」をなくすための、イエスさまがしてきた「お祈り」と、キリストがつくってきた、「ともだち」のつくりかたをしっているひとを、さがしてほしいのです。

 イエスさまが、やってきた、「お祈り」と、「キリスト」のやってきた、お友だちの「作り方」を、しっかり、勉強してほしいのです。


 「キリストめぐみの家」は、そういう、イエスさまの「お祈り」と、新しいお友だちの作り方をおしえてくれる「キリストの愛」で、「いっぱい」にするところです。


 日本だけでなく、世界の人たちが、「平和になるための、イエス様の祈り」を知って,自分の心にも、栄養を与える、キリストの愛を、身に着けることが、「キリストめぐみの家」の「しごと」です。









 
 




礼拝五 世界を平和にするための「祈り」について




 1 味方だけではなく、
   敵のためにも祈るということ


 でも、世界の平和をつくりたいが、世界には、敵も、たくさんいます。
 そうして、日本人が日本人の敵になることもあります。


 そうして、内戦がはじまります。
 だから、内戦にならないためにも、日本人は、本当の平和をつくりたいなら、敵との平和のつくり方を、知っておかねばなりません。


 イエスさまの「お祈り」と、キリストの愛を受けることで、つまりすべての人の平和を祈るひとがおおくなれば、世界は平和になるはずです。


 ところが、なぜか、日本人にしても、自分の味方なら大事にするが、敵をきらってきました。
 もっともよわいひとを、いじめて、そうして、自分たちだけの平和をつくろうとしてきました。

 そうして、どういう日本ができたでしょうか。

 「ひきこもり」も多くなりました。
 「いじめ」も多くなりました。

 日本のなかに、どういう平和ができたでしょうか。



 それで、イエス様は、弟子たちにいわれました。


 ーあなたたちは、味方だけでなく、
  敵となったひとたちも、大事にしなさい。

  なぜなら、天の神さまは、
  太陽のように、いい人にも、「悪い人」にも、
  光、をあたえてきたからです。 

  食べ物も、それゆえに
  「ひとりじめ」するのではなく

  「分かち合いなさい」
  「分かち合う」
  「わかり合う」心が、
  ほんとうの、自分の「心の食事」となりますー


 といわれました。


 ひとりひとりの「いのち」は、「分かち合う」心、「わかり合う」ことを忘れてしまうとき、心の太陽もまた、消えるのです。
 そうして、心もまた、死んでしまうのです。

 すべての人を作った神様も見えなくなるのです。


 「いじめ」というものは、そのように、心の太陽でも、天の神さまも、人の心から、なくそうとするものです。

 
 だから、イエス様もまた、弟子たちに、


 -あなたたちは、味方だけではなく、
  あなたたちの敵をも、大事にしなさい。
  自分を愛するように、敵も愛しなさいー

  そういう神様の「愛」だけは、大事にしてほしいのです。


 と、いわれたわけです、
 


 2 しかし、悪霊には、負けてはいけません


 イエスさまの霊は、聖霊でした。
 イエス様を殺したものが、悪霊でした。


 この「ちがい」を、しっかりおぼえておいてください。

 悪霊の「ともだち」が、「いい人」を殺してきたのです。

 だから、悪霊とか、悪魔に、いじめられても、負けてはいけないのです。


 悪霊というものは、初めから、「人殺し」であったのです。

 だからイエス様は、聖霊でしたので、悪霊だけは、嫌ってきました。


 敵を愛せよ、とはいっても、
 悪霊を愛せよ。

 とはいいませんでした。



 そういうことです。
 もういちど、いいますよ。


 悪魔のことを知っていましたか。

 悪魔こそが、天国にいた人でも、地獄に突き落としてきたのです。
 そうしてイエスさまも、最後は殺されました。


 しかし、それでもイエスさまは、殺されたあとでも、三日目には、ちゃんと、生まれ変わりました。復活をしました。
 イエスさまは、聖霊の人でしたので、悪霊のひとにだけは、負けたくはなかったので、復活しました。

 ですから、「いじめ」にあってきたひと。
 いまも「いじめられている」ひとは、イエスさまのように復活を目指してほしいのです。

 復活を目指して、ほんとうに、死んだように生きてきたひとが、生き生きと生きるようになることを、復活というのです。
 
 人を殺すものが、悪霊というもので、イエスさまのような、聖霊の人は、悪霊にころされた人を生き返らせます。

 そういう愛を、神の愛、といってきました。



 3 聖霊によって、
   新しく生まれ変わる
   イエスさまの「祈り」をおぼえてほしい


 そういうことです。

 ただ、「祈っている」だけではいけないのです。

 聖霊の助けをお借りして、祈ってほしい。
 聖霊と一つになって、礼拝をつづけていけば、悪霊と悪魔に負けることはありません。


 だから、イエスさまは、この世から天国に入るときに、


 ー人の子(イエスさまのこと)が天国にいけば、
  天国から、すべてのひとに、
  聖霊を送るから、安心して、聖霊を受けなさいー

 と、いわれました。



 そういうことです。
 そういう聖霊を知らないときは、どういう神を、信じても、「いじめ」はなくなりません。


 悪霊の神を信じたら、戦争をはじめ、人を殺すことを覚えます。
 悪友を信じたものは、かならず、よわい善人をいじめるようになります。


 それではいけなのです。

 よわいひとにも、イエスさまは、つよくなるように、ということで、悪霊にまけることがないようにするために、イエスさまは、ひとりひとりに、とくに、イエスさま信じてきたひとに、まずはじめに、聖霊を天からおくって、わざわざ、

 -聖霊を受けなさいー
 といわれました。

 だから、「いいひと」であっても、聖霊を受けたことがないひとは、悪霊に負けてしまうのです。
 聖霊をうけて、悪人よりも、つよいひとになってほしいのです。

 自殺だけはしてはいけません。
 


 4 死んでも死なない
   新しい「復活」の「いのち」に生きること


 以上です。
 みなさんの日々が、いつも平安でありますように、ここで、結論をいいます。

 子育てほど大切なことはありません。

 たとえ結婚して、子供に恵まれなかったひとにしても、子育てはしなければなりません。

 神の愛を知ることもなく、見捨てられてきた、放置された「赤ちゃん」は、多くいます。

 そういう赤ちゃんのために、養父、養母になってほしいわけです。


 人間は、養父、養母になることで、「人間的」というか、魂の成長と、心の居場所が、ますますしっかりしてきます。

 実父、実母もそうですが、養父、養母になるひともまた、天地創造の神の、代理人となって生まれてきた人たちだったのです。


 また、結婚しなかったひとも、わが子に恵まれなかったひとも、神の代わりの、養父、養母になることで、魂の世界で、永遠の「命」を生きることになります。

 死んでも死なない、復活の「いのち」に生きることになります。

 そういう平和づくりを、選んでほしいと願っています。


 それこそがイエスというひとの「お祈り」でした。
 キリストの、永遠の、心からの「ねがい」でした。


 そういう「あかちゃん」の「いのり」と「ねがい」を、受けとめる「おとな」が、いつでも、どこでも、多くなりますように、と祈るばかりです。

 

  










礼拝六 ひとりでもできる礼拝の紹介



 1 礼拝のまえの「お祈り」


 イエス様はいつも、ヤマに出向いて、「ひとりだけの礼拝」を続けてきました。

 天の神様のエホバという「お名前」の神様にむかって、

 -天の父よー

 と、言って、「ひとりだけ」の礼拝をしてきました。

 そうして、イエス様は、ご自分のことは、

 「人の子」

 と言って礼拝をつづけていました。

 イエスさまは、ほんとうは、天の神様の、「たったひとり」の神さまの子でしたが、それでも、ご自分のことを、「人の子」というようになっていました。

 そうして、天の神様の「エホバ」というお名前の、天地創造の神様を、真っ先に、賛美して、

 -天の神さまに、栄光あれー

 という「祈り」をして、いつも、礼拝をささげていました。



 2 そうして、聖霊に包まれて、我が身を清めます。


 そうして、最後に、アーメン、といいます。

 アーメンとは、これまで神にささげてきた「ことば」は、真実である、という証しの「ことば」でした。


 それゆえに、「キリストめぐみの家」でも、そのあとは、聖書の中の一節を、朗読します。

 聖書そのものが、そのまま、神の「ことば」ですから、声を出して、どこを読んでも、それがそのまま、礼拝になります。

 イエスさまの「ことば」なら、どこの「ことば」も、聖霊の「ことば」です。好きな聖書の「ことば」があれば、そのままその「ことば」を、感謝して、神に捧げればいいわけです。


 注釈はいりません。
 聖霊によって、イエス様の「ことば」を朗読するだけで、

 それがそのまま礼拝となります。


 3 ひとり、ひとりの、「願いごと」を語り合います。


  むずかしいことはありません。

  あの人の病気を治してください。
  
  わたしにも、新しい人間関係をつくる、
  世界平和をつくる勇気を与えてください。


 というような「自分たちの、心からの願い」を、ともに、ひとつとなって、イエスさまに伝えるわけです。

 つまり、ひとりひとりの「お祈り」は、多いほどいいのです。
 自分のまわりの、すべてのひとのために、祈ることが、イエス様の「お祈り」であり、キリストの愛でした。

 天の神様は、そういう、心からの、ウソのない、「お祈り」と「愛」を、心から喜んで、「お受け」されるのです。


 自分だけの、自分たちだけの、受験競争に勝つための、「お祈り」は、天の神さまには届きません。

 それどころか、日本人は、第二次世界大戦のときには、アメリカとイギリスのことを、


 ー鬼畜米英ー

 といっていました。
 お前たちの親は、鬼(オニ)であり、畜(ケダモノ)のである、という「お祈り」を神さまに捧(ささ)げたわけです。

 日本人だけの神に、そういう「お祈り」を、ささげました。
 昭和天皇も、そのことを知っていました。

 しかし天の神さまには、そういう「お祈り」は、好きではありませんでした。
 イエス様にも、キリストにも、「いいこと」ではなかったのです。
 

 考えてもみてください。
 「鬼畜米英」といわれて喜ぶひとが、どこにいるでしょうか。

 お前の親は、鬼だ、ケダモノだ。といわれて、だれが喜ぶでしょうか。

 日本人は、そういう「わるい」「お祈り」までして、戦争に勝とうとしました。


 その最後は、やはり、「いいこと」はありませんでした。

 天から降ってきたのは、原子爆弾でした。

 広島と長崎が、真っ先に、死の灰を受けることになり、あっという間に、何万、何十万という多くの犠牲者を出しました。



 4 昭和天皇の「苦しみ」


 そうして、昭和天皇も、日本国民も、世界を平和にしたことは、一度もなく、第二次世界大戦を引き起こした罪によって、戦後は、日本人の犯してきた罪に苦しむことになりました。


 イエス様は、そういう罪は犯しませんでしたが、ユダヤ人たちは、イエス様に「罪を着せて」生き延びようとしました。

 そのために、ユダヤ民族は、いまも、世界平和をつくるのではなく、戦争を繰り返しています。
 とぅぜん、イエス様が望まれた平和をつくることはありませんでした。


 そこで、「キリストめぐみの家」では、イエス様が、復活したことを、知っている人に、その聖書の「ことば」を、礼拝の最後には、いつも、天からの声として、読み上げてもらい、同時に「祈ってきました」。


 イエス様が復活したように、
 
 わたしたちもまた復活することを信じて、
 
 新しい自分になって、礼拝を終わります。


 以上です。

 むずかしいことは、ひとつもありません。
 心と体が、聖霊の中で、「一つ」になって、
 世界の平和を目指すときだけの、
 そういう日々の祈りのなかで、
 新しい自分になります。







 おわりに―罪に死ぬ事の、「めぐみ」についてー



 1 罪の報いは死である、ということ


 日本人でも、罪を犯した者は、死刑にされることもあります。

 しかし、だれでも、罪を犯せば、死刑にされるわけではありません。

 特に日本人は、罪を犯しても、長生きをしてきました。

 どうしてでしょうか。


 しかしどうでしょうか。

 罪のことなど知らない、と言って、長生きをしても、認知症になった後も、長生きをして、どういう未来が開けてきたでしょうか。だれが喜んでくれたでしょうか。


 認知症になった後の、父親と母親に、どういう「喜び」があったしょうか。最後まで介護した人に、どういう、魂の平安があったでしょうか。
 日々湧き上がる生きる「喜び」が、あったでしょうか。


 ましては、生きているうちは、死ぬまで、罪を犯し続けていながら、罪意識に苦しんだこともなく、本人は、長生きをしても、感謝する心もすっかり忘れた、そういう人を看護するほかなかった「介護」人に、どういう救いがあったのでしょうか。


 そういう罪人のために、看護ばかりしてきたひとは、どうなるのでしょうか。

 そういう方を、どのように慰めたらいいのでしょうか。



 2 我が子の罪。
   我が親の罪は、どうでしょうか。


 「ひきこもり」は、罪ではありませんが、親が老人になっても、わが子が、まだ「ひきこもり」を続けていれば、親はどうすればいいのでしょうか。

 我が子を殺すほかに、生きる道がないと思えたら、どうなるでしょうか。

 そういう親御さんたちに、どういう生きる「平安」があるのでしょうか。
 安心して死ぬこともない老後を送るようになれば、どうでしょうか。


 昨今では、親と子が、ともに「ひきこもってきた」、そういう家族も多くなりました。

 そうしてわが子を殺した親もいます。

 親を殺した子もいます。


 そうして、肉親に殺されない人でも、最後は、認知症になってしまうひともいます。

 そういうことです。
 長生きをしても、「いいことはない」。


 そういう人生を「生きるほかない」ようになれば、どうでしょうか。

 そのあとの、死後に、どういう天国が、待ってくれているのでしょうか。



 4 自分の罪に死ぬ「めぐみ」について
   ー罪と死の関係を清算する愛についてー


  以上です。

 どういう罪にしても、清算しておかねば、死後に復活もありません。

 イエスというひとは、罪は犯してはいませんでしたが、自らの「自由意志」によって、ほかの人が犯した罪の、犠牲者になりました。
 この世に生まれたことで、イエス様は、神の子であっても、ご自分の死によって、地獄に生きることになったひとを、復活させるために、人のために死んで、同時に、復活もされた、というのです。

 -至れり尽くせりー

 すべてのひとに、

 -自分の犯した罪に罰を与えるのではなく、罪人にも「めぐみ」を与える愛ー


 そういう神の愛を、「キリストのめぐみ」というのです。

 
 イエスというひとは、どういう罪を犯してはいなかったが、というよりも、いかなる罪を犯すこともなかったから、人類の罪を、背負う資格もあったわけです。
 人類に、あらゆる罪から解放する「めぐみ」という、愛を、与えてきたのです。


 そういう「めぐみ」を与えるために、イエスさまはいつも、
 
 -罪はなくても、罪が許されても、殺されることもあるがゆえに、
  罪に対して、死んでおきなさいー

 と言われました。

 ひとりひとりは、そういう神の愛の中で生きることになりましたが、自分の犯した罪を、反省して、自分の罪に死ななければ、新しい自分になることはない。
 これこそが、ほんとうの、「キリストのめぐみ」の自立、というものでした。

 ということで、イエス様は、罪を犯してもいなかったが、ご自分もまた、十字架につけられたとき、十字架の死から、逃げることはしませんでした。のちの、「復活」の「めぐみ」を受けるために。

 人を殺して生き延びるよりも、ご自分もまた、罪に死んで、すべてのひとの「めぐみ」の道を、つくったわけです。
 それ故に、キリストはいわれました。

  -私が、真理です。
   わたしが、門です。
   永遠の「いのち」ですー

 と。


 ほんとうに死んだあとに、ほんとうに、復活をするために。

 それ故に、「キリストめぐみの家」では、罪に死ぬための、洗礼を受けます。


 洗礼を受けたひとは、自分の洗礼のことを、これからの自分の死から復活するための、自分の洗礼式を、罪に死んで、新しい「いのち」に生まれるための、儀式だ、と思うわけです。


 そういうわけです。永遠に生きるためには、だれでも、罪に死ぬほかに生きる道はない。

 罪に死んだものだけが、新しい神の子として生まれる。


 これこそが、あたらしく、生まれ変わるための、ふしぎな「神のめぐみ」だ。
 天地創造の神のマジックだ、ということです。


 そういうことです。
 信じられますか。

 むずかしい「ことば」でいえば。

 -自分の死を超(こ)えたい人は、
  自分の罪に死んでおきなさいー

 というようになったわけです。
 つまり、新しい礼拝とは、古くなった自分の「いのち」を、新しくするための、礼拝であったわけです。

 どうか、復活するための道を、今一度、確かめておいてほしいのです。
 自分を生かす、ほんとうの道を、しっかり知ってほしいわけです。
                                        (完)



 



























 





























































 今日から、あなたも、

 神様に選ばれて
 神様に愛される

 神の子になります

   

はじめに
  -わが子がひとりぼっちにならないためにー
     


 1 どうしてかな?

 わが子よ。
 あなたは、うまれてすぐに、なきました。

 どうして、ないたのかな。

 すぐそばに、おとうさんも、おかあさんも、いたはずです。おじいさんもいたはずです。おばあさんもいたはずです。
 そうして、いぬや、ねこも、「あなた」をまっていたはずですが、それでも、あなたはなきまました。

 どうしてかな。

 神様の子に、はじめてうまれたので、びっくりしたのだろうか。
 おかあさんの、「おかな」のなかが、せまかったので、
 ひろい、神さまのくに、うまれたので、
 
 きっと、びっくりしたんだね。



 2 「なにをたべたら、いいのだろうか」
   

 それとも、これから、だれにあうのか、わからなかったのかな。
 なにをたべたら、いいのか、わからなかった。
 だから、ないたのかな。


 そうですね。
 これから、いきてゆくためには、だれにあえばいいのか、
 なにをたべればいいのか、
 わからなかったから、
 こわかったのだね、きっと。

 でもね、そういうときには、なくことが、いちばん「だいじなこと」だったのです。

 これからも、「ひとりぼっち」は、いけないのです。
























第一章 「父母」もまた、ひとりぼっちはいけない
    




 1 父母も、こまったときには、


 -だれか、たすけてー

 といえばいいわけです。
 そして、わが子もまた、おおきくなっても、
 
 -だれかたすけてくださいー

 といってほしいのです。


 だれだって、「いじわる」をされて、そばに、「いいひと」がいなくなると、こまってしまいます。

 やさしい「おともち」がいなくなると、だれとも、あそべなくなることもあります。
 そういうときにも、こまりますね。
 そうときでも、

 ーだれか、たすけて!ー

 というのですよ。

 
 やはり、おいしいものがあって、たのしい「おともだち]といるときが、いちばんいいわけです。
 こまったとき、すぐに、「たすけてくれる」人が、いつも、いてくれると、いちばんいいわけです。
 

 おかあさんも、おとうさんも、すぐに、あかちゃんのところにやってくるようになると、ほかのあかちゃんも、あんしんして、またねむりましたね。


 おとうさんや、おかあさんが、いないときでも、やさしい、いつも「たすけてくれる」ひとが、いれば、あかちゃんも、ひとりぼっちになることはありませんでした。

 そういう、「いつもたすけてくれる」「かみさま」のことを 聖霊(せいれい)というのです。

 イエスさまが、いまでも、「たすけるひと」を、
 そういう「しんせつなひと」をおくっているのです。

 しっていましたか。




 2 でも、やさしかった「おとな」が、
   「ひとりぼっち」になったら、どうなるのでしょうか。


 あかちゃんが、なきやまないときは、「おとな」もこまってしまいます。
 
 「おとな」になっても、こまってしまうこともあるのです。

 「おとな」のひとが、

 -うるさいー

 というようになれば、あかちゃんは、どうなるのでしょうか

 
 こまりますね。
 あかちゃんは、どうしたらいいのでしょう?ーーー

 あかちゃんは、おなかがすいてもなきます。
 おなかがいたくなっても、なきます。
 ねむたいのに、ねむれなくなれば、なきますが、そうして、「こそだて」にこまってしまうと、ついに、「おとな」のひとも、なきたくなるのです。
 

 そういうことになると、どうなってしまうのでしょうか。
 そういうときの「おとな」が、悪霊(あくれい)にまけているのです。


 「おとな」も「こども」も、なきたくなったら、

 どうなってしまうのでしょうか。

 そういうときは、いつも、


 -いつもたすけてくれる「ひと」よ。
 「せいれい」のひとよ。


 「わたしたちをたすけてください」


 と、「こえ」をだして、「おいのり」をすれば、いいのです。

 だから、そういう「おいのり」を、わが子に、おしえてこなかった「おとな」が、いちばん「わるい」のです。







 

















第二章 父母が「ひきこもり」にならないために




 1 イエスさまが、いわれました。


 -だれでも、「おなさご」のように、
  神さまに、「いのってほしい」のです。

  聖霊(せいれい)という神さまに、
  「たすけて」
  と、いわないひとは、「ひとりぼっち」になります。

  「おいのり」をしない「おとな」もまた

  「かみさま」の「くに」には、はいれまれせんー


 と。


 ですから、ひとりぼっちになった、おとうさんや、おかあさんも、いつもたすけてくれるという、聖霊(せいれい)、という「神さま」に、いのればいいのです。


 「おとな」も「こども」も、あかちゃんも、「みんな」が、イエスさまのように、「いのって」、「かみさま」の「こども」になったひとを、キリストというようになったのです。

 聖霊(せいれい)という「かみさま」も、まいにち、「いのって」きました。
 


 しかし、日本では、中学生になるとどうでしょうか。

 それまで、教会に行っていた人も、中学生のころから、神様の「話し」もしなくなります。


 たしかに、「からだ」は、「大人」ほどに大きくなります。
 しかし、「中学生」の「心」は、「体」ほどには、早く「大人」にはなれません。
 

 なぜでしょうか。


 -人間はどうして生まれてきたのだろうか。

 -どうして、わたしは、

  お母さんの「こども」なんだろうー


 などとおもったり、なやむようにもなることも、でてきます。

 
 そうして、高校生になると、ほかの「おとな」から、


 -ほんとうの神様を知りたいですかー


 ーあなたの知ってきた神さまは、
  どういうものを食べてきたのかなーー

 などと聞かれるようになれば、どうでしょうか。


 そういうことです。
 そのときから、人間はみな、「おとな」になるのです。
 心の食事をするようになると、だれでも、ほんとうの、神の子になるのです。


 
 



















第三章 「イエスさま」の、だいすきな
   「たべもの」をしっていますか。

 

 1 「おとな」になったイエスさまは、
   なにを食べていたのでしょうか。


 イエスさまは、神さまのはずでしたが、「おとな」になったイエスさまは、それからは、キリストといわれるようになりました。

 キリストという人は、いったい、何を食べてきたのでしょうか。



 あるとき、キリストはいわれました。
 

 -わたしの「たべもの」は、
  わたしの「しごと」は、
  
  「よわいひと」を、たすけだすことですー

 と。

 
 わかりましたか。
 でも、ちょっとむずかしいはずです。

 たしかに、わが子も、「お父さんやお母さん」にそっくりな「大人」になるのですが、「心」のほうが、「大人」になっていないひとが、「いじめ」をはじめてきたはずです。

 
 
 2 「いじめ」について、
    まじめに、かんがえてみてください。


 「いじめ」がはじまると、「いじめられる」ほうも、「いじめる」ほうも、自分が、なにをしているのか、わからなくなります。


 そういうときに、いじめる人のことを、イエスさまは、罪人(つみびと)といってきました。
 そういう罪人(つみびと)がおおくなれば、どうなるのでしょうか

 家族(かぞく)の人も、学校(がっこう)の先生(せんせい)も、「いじめ」があっても、「いじめ」をとめない人が、おおくなれば、どうなるでしょうか。


 みんなが、「つみびと」になれば、どうなるのでしょうか。

 コロナウイルスのように、だれでも、「いじめる」ひとになれば、どうでしょうか。


 「いじめ」をするひとには、ほんとうは、「いいこと」などひとつもありませでした。

 赤ちゃんのときから、「いじめ」をうけてしまうと、「おとな」になると、「いじめる」ひとになることもあるのです。


 そこで、これからは、「おとな」たちにも、はっきりいいます。

 小学生から、「いじめ」をうけたひともいます。

 そうして、中学生になると、だれかをいじめたくなることもあります。
 
 先生のなかにも、「いじめ」をとめないひともでてきます。
 「いじめ」をとめたいけれど、「いじめ」をとめるには、大きな「ゆうき」がいるのです。






 3 ほんとうの、「おとな」の「はなし」というもの。


 日本では、そういう、「いじめ」をとめない人のなかには、真理(しんり)とか、ほんとうの、神の国とか、天国とか、考えたこともないままで、学校の先生になっている人も多いのです。

 教師でありながら、体罰しか与えない教師もいるのです。

 「いじめ」をなくす学校を作ることもしない教師も多くなったわけです。


 しかし、イエスさまは、「おとな」になってからは、キリストといわれるようになりました。  キリストとは、どういうひとにも、聖霊(せいれい」という、清らかな、「心」をあたえる、神さまになった、という意味(いみ)でした。


 ところが、日本では、聖霊(せいれい)という心を知らない人が、ずいぶんと多くなったのです。

 イエスさまもこまりました。
 「いい人」と思っていた「おとな」が、ニセモノの教師になっていたからです。
 

 今の日本でも、有名校の大学を卒業してきたひとでも、心の支えとなる「真理」に出会ったこともなく、 真理だけを発見しようとして、ノーベル賞だけを目指す人も多くなってきた、というではありませんか。

 そういう人を、イエスさまは、キリストになってからは、

 -「偽善者(ぎぜんしゃ)-


 と、いうようになりました。


 ーだから、偽善者にはならないでほしい。
  もっともよわい、
  貧しいひとのために、
  天国を、つくるひとになってほしいのですー


 といわれました。

 勉強はできても、神の国の入り口を閉ざしてしまう人が、多くなった、というのです。



 4 「大人」の話のつづき


 政治家も、偽善者だったのでしょうか

 そうなれば、どうなるでしょうか。

 学者になっても、政治家になっても、総理大臣になっても、ひとりの人間として、いちばん大切な「真理」さえ知らない「大人たち」が、指導者になってしまえば、どうなるでしょうか。


 ウソつきが多くなれば、日本はどうなるのでしょうか。

 そういう大学の先生が多くなれば、どうでしょうか。
 そういう有名人が多くなれば、どうなるでしょうか。


 ほんとうに、こまってしまいますね。

 偽善者ばかりの「「大人」の世界に入れば、かわいかった「子供」たちも、そのうち、「偽善者」になってしまうのです。

 それゆえに、イエスさまは、いつも、さいきんは、とくに、かなしい、さみしいかおを、するようになり、「キリストめぐみの家」をつくるようになったわけです。






 

















第四章 キリストの「おねがい」をしっていますか
    




 1 さあ、「がっこう」が、たのしくないひとは、
   どうしたらいいのでしょうか


 ちょっとだけ、かんがえてみてほしいのです。
 どうして、がっこうの「べんきょう」が、おもしろくなくなったのでしょうか。


 それとも、「おともだち」とおもっていたひとに、いじわるをされたからでしょうか。

 あなたは、だれとも「なかよくしたい」とおもってきたが、どのようにすれば、おともだちをつくればいいのか。
 わからなかったからでしょうか。


 いろいろあったはずです。

 あなたは、いちども「わるいこと」はしてこなかったのに、それまでの、あなたの「おともだち」も、ほんとうは、神さまの子にならないで、「ともだち」の「つくりかた」もしらなかったのではありませんか。


 そういうことです。  

  
 がっこうの「べんきょう」の「しかた」も、「ともだち」のつくり方も、コツがあるのです。

 だまっていては、ともだちもできないのです。

 だから、お父さんがいて、おかあさんもいて、「しんせき」のなかに、「おにいさん」や「おねえさん」がいるひとに、そういうひとにも、おしえてもらえばいいわけです。



 2 「義務教育」(ぎむきょういく)とは、
   どういうことでしょうか


 あなたが、「がっこう」にいけなくなったととき、いちばんこまったことは、なんだったでしょうか。
 みんなが、がっこうにいくときに、じぶんだけが、がっこうにいけなくなったとき、お父さんやお母さんは、どういう「かお」をしていたでしょうか。


 -みんながいっているのに、
  どうして、おまえだけが、がっこうに、いけないのだ。


 -はずかしくないのかー

 といわれてきたはずです。


 「義務教育」(ぎむきょういく)の学校にいかないことは、しなければならないことを、しない、わるい人になることだ。

 とも、お父さんとお母さんから、いわれてきたはずです。

 お父さんもお母さんも、仕事をしなくなったら、あなたに、おこづかいもやれなくなくなるよ。
 おなかがすいても、マーケットから、おにくも、やさいも、かえなくなるよ。

 とも、いわれてきたはずです。
 

 そこで、ここでは、「大人」の時間として、お父さんやお母さんのために、ほんとうの「理由」を報告しておいます。


 たしかに義務教育というものは、学校に通うことが義務というものでした。
 しかし、その時の義務とは、親の義務であって、我が子の義務ではなかったのです。

 無理やりに、どこかの学校にやっておけば、それでも親の義務を終わる、というものではなく、日本人として、正しく生きるための、我が子にもっともふさわしい教育を受けさせることが、親の最低の義務である、ということだったのです。


 もっとも「自分らしい」、ひとりの人間として、生きる「よろこび」をあたえることが、親の義務である、という意味の「義務教育」であったわけです。




 3 ほんとうの「勇気」、生きる「よろこび」について


 でも、きんじょには、しんせつ」なひともいるはずですが、ときどき、きんじょの「ともだち」からも、「いじわる」をされることもありますね。


 そうして、「いじわる」をされて、がっこうもいけないひともいます。

 どうしてでしょうか。
 
 そういうことがないように、イエスさまというひとは、


 ー「いじわるをする」ひとはみな、
  自分が何をしているのか、
  教えてらっていなかったのです。

  でもね、もっともおよわいひとでも、
  たいじな人ですよー

  
 と、キリストは、いってきました。



 ところが、こまったことになりました。

 「いじわる」をされたひとが、がっこうにもいけなくなり、「いえ」から、でることもなくなり、そうして、「じぶんのへや」からもでなくなったひともいるです。


 イエスさまは、「おとな」になって、キリストという「すくいぬし」といわれるようになってからも、そういうことにならないために、

 「どういうひととも、なかよくしておこうね」


 といっていたのでしたが、ついに、「じさつ」するひともでてきたのです。

 神さまにとっても、イエスさまにも、これほど「かなしいこと」はなく、これほど「さみしい」ことはありませんでした。

 お父さんにも、お母さんにも、どうしていいのか、わからなくなったはずです。


 学校にいけなくても、ともだちがいれば、よかったのですが、「おともだち」をつくる「ちから」がなかったら、どうなるでしょうか。


 おともだちを「つくる」ことも、お友だちになってあげることを、イエスさまは、キリストになってからも、いつも「だいじ」にしてきたのです。

 でも、ほんとうは、お父さんもお母さんも、わが子のために、たくさん、たくさん、はたらいてきたのですが、こどもの「おともだち」になってあげなかった「おとな」たちが、おおくなって、こどもたちも、「おともだち」をつくれなくなってしまったのです。

 

 4 ほんとうの「祈り」というもの


 だから、あなたも、これからは、どうすれば、だれかの「おともだち」になれるか、かんがえてほしいのです。

 そこで、中学生になっても、高校生にも、いっておきたいのです。
 これまでの学校で、間違った教育を受けてきたみなさん、ほんとうの「友情」について、本当の、真理について、どれくらい、かんがえたことがありますか。

 ほんとうの「希望について。
 ほんとうの愛について、かんがえたことがありますか。

 ほんとうはね。
 お父さんも、お母さんも、学校の先生も、世界を平和にするための、「お祈り」も、知らない人が多くなったのです。


 だから、「いじめ」もなくならないのです。
 また、お父さんのなかにも、お母さんのなかにも、自分の子をいじめるひとも、多くなったのです。


 学校の先生でも、「いじめれられてきた」生徒の「いいぶん」もきかない。

 そういう「大人」も多くなったのです。

 ほんとうの「お祈り」さえ、しらない「おとな」もおおくなったのです。


 みなさんは、だから、「いじめ」をなくすための、イエスさまがしてきた「お祈り」と、キリストの「心から」の「願い」について、知っているひとになってほしいのです。


 イエスさまが、やってきた「お祈り」と、「キリスト」が、してきた、キリストの愛だけは、大事にしてほしいのです。

 最近では、日本人だけでなく、世界の人たちにも、心を「ひらかなくなった」人が、多くなったのです。







 
 










第五章 忘れないでほしい、
    世界を平和にするための「祈り」について




 1 味方だけではなく、敵のためにも祈ってほしい


 世界の平和をつくりたくても、世界には、敵がいます。
 そうして、日本人が日本人の敵になることもありました。


 そうして、内戦がはじまります。
 だから、内戦にならないためにも、日本人は、本当の平和をつくりたいなら、敵との平和のつくり方を知っておかねばなりません。

 つまりすべての人の平和を祈るひとがおおくなれば、世界は平和になるわけです。


 ところが、なぜか、日本人にしても、自分の味方なら大事にするが、そうでもないひとを、きらってきました。
 もっともよわいひとを、いじめて、そうして、自分たちだけの平和をつくろうとしてきました。

 たしかに、どうでしょうか。
 日本のなかに、どういう平和ができたでしょうか。


 それで、イエス様は、キリストとよばれるようになってからも、

 弟子たちに言いました。


 ーあなたたちは、味方だけでなく、
  敵となったひとたちも、大事にしなさい。

  なぜなら、天の神さまは、
  太陽のように、いい人にも、「悪い人」にも、
  光をあたえてきたからです。


 すべての「いきもの」には、
 「食べ物」をあたえ
 「あたらしいいのち」を
  あたえてきたから。ー

 といわれました。


 ひとりひとりの「いのち」は、太陽がなければ、死んでしまうからです。

 すべての人を作った神様が、いなくなれば、食べ物もなくなってしまうからです。


 「いじめ」というものは、そのひとから太陽でも、天の神さまでも「うばってしまう」のです。

 
 だから、イエス様もまた、弟子たちに、


 -あなたたちは、味方だけではなく、
  あなたたちの敵をも、大事にしなさい、
  自分を愛するように、敵も愛しなさいー

 と、いわれたわけです、
 


 2 しかし、悪霊には、負けてはいけません


 イエスさまの霊は、聖霊でした。
 イエス様を殺したものは、悪霊でした。


 この「ちがい」を、しっかりおぼえておいてください。

 悪霊の「ともだちが、「いい人」を殺してきたのです。

 だから、悪霊とか、悪魔に、いじめられても、負けてはいけないのです。


 悪霊というものは、初めから、「人殺し」であったのです。

 だからイエス様は、はじめから、悪霊を嫌ってきました。
 イエス様も、キリストになってからも、悪霊をさけ、聖霊を与えるために、キリストになった、と、いうのです。


 
 悪霊を愛せよ、とは言いませんでした。
 そういうことです。
 もういちど、いいますよ。


 悪魔のことを知っていましたか。

 悪魔こそが、天国にいた人でも、地獄に突き落とすのです。
 そうしてイエスさまも、最後は殺されました。


 しかし、それでもイエスさまは、殺されたあとでも、三日目には、ちゃんと、生まれ変わりました。復活をしました。
 イエスさまは、聖霊の人でしたので、悪霊のひとにだけは、負けたくはなかったので、復活しました。

 ですから、「いじめ」にあってきたひと。
 いまも「いじめられている」ひとは、イエスさまのように、最後は負けないでほししいのです。

 復活しなければ、悪霊に負けてしまいます。
 
 悪霊に負けないためには、いつも天国を作ってほしい。
 天国をつくるためには、聖霊を与えるから、聖霊を受けてから、天国をつくってほしい。

 といってきたのです。


 
 3 聖霊によって、
   新しく生まれ変わる
   新しいお祈りをおぼえてほしい


 そういうことです。

 ただ、「祈っている」だけではいけないのです。

 聖霊の助けを借りて、祈らなければ、悪霊と悪魔に負けます。


 だから、イエスさまは、この世から天国に入るときに、


 ー私が天国にいけば、
  天国から、すべてのひとに、
  聖霊をおくるから、
  安心して、聖霊を受けなさいー

 と、いわれました。



 そういうことです。
 どういう神様でも、信じていればいいわけではありません。

 どういう「送りもの」でも、受けとればいいいわけではありません。

 もうかった、などとおもってはいけないのです。

 悪霊の「ことば」を信じたら、戦争をはじめ、人を殺すことを覚えます。
 悪友を信じたものは、かならず、よわい善人をいじめるようになります。


 それではいけなのです。

 よわいひとにも、イエスさまは、つよくなるように、ということで、悪霊にまけないために、「聖霊」をおくってくださいました。

 イエスさまは、ひとりひとりに、いつも誰かを助ける勇気をもてるような、聖霊」という「はたらきびと」を、天からおくってくださいました。

 だから、「いいひと」であっても、聖霊を受けるまでは、悪霊に負けてしまうのです。
 聖霊をうけて、悪人よりも、つよいひとになってほしいのです。

 自殺だけはしてはいけません。
 


 4 死んでも死なない「復活」の「いのち」に生きること


 以上です。
 みなさんの日々が、いつも平安でありますように、ここで、結論をいいます。

 子育てほど大切なことはありません。

 たとえ結婚して、子供に恵まれなかったひとにしても、子育てはしなければなりません。

 神の愛を知ることもなく、見捨てられ、放置された「赤ちゃん」は、多くいます。

 そういう赤ちゃんのために、養父、養母になってほしいわけです。


 人間は、養父、養母になることで、「人間的」というか、魂の成長と、心の居場所が、ますますしっかりしてきます。

 実父、実母もそうですが、養父、養母になるひともまた、天地創造の神の、代理人となって生まれてきた人たちだったのです。


 また、結婚しなかったひとも、わが子に恵まれなかったひとも、神の代わりの、養父、養母になることで、魂の世界で、永遠の「命」を生きることになります。

 死んでも死なない、復活の「いのち」に生きることになります。

 そういう平和づくりを、選んでほしいと願っています。


 それこそがイエスというひとの「お祈り」でした。
 キリストの、永遠の、心からの「願い」でした。希望でした。

 これから生まれてくる、「あかちゃん」の「いのり」と「ねがい」をだいじにすること。
 赤ちゃんの「こころ」からの「ねがい」を、しってほしいのです。

 「おさな子」の、「おいのり」と「おねがい」を、しっかり受けとめる「おとな」が、いつでも、どこでも、多くなりますように、と祈るばかりです。

 
 最後に、イエス様が教えてくれた、「祈り」の「ことばlと、これから、困ったときに、思い出してほしい、「神の声」を、紹介してみます。

 参考にしてみてください。

 「キリストめぐみの家」の、礼拝の一部を、紹介しておきます。
 参考にしてみてください。

 すっかり「ふさいでいた」心が開かれていくことを、願うばかりです。







 追伸1 イエス様が教えてくれた、
     天地創造の神さまへの
     あなたの魂を創造した神への、
     「祈り」の見本


 -父よ。
  おなたの、「おなまえ」が、「かがやくます」ように。
  あなたの御国(みくに)が来ますように。

  わたしたちの「日ごと」の糧(かて)を毎日お与えください。

  わたしたちの罪を、おゆるしください。 

  わたしたちも、私たちに負い目がある人をみな、ゆるします。

  わたしたちを、試(こころみ)にあわせないでください。

  国も力も、栄光も

  すべて、あなたのものだからー


 という、「おさな子」イエス様の、「お祈り」をそのまま、丸暗記をしてみてください。





 追伸2 その「説明」について


  じっくり味わってみてください。

  天国も、地上の国も、すべて、天地創造の神が、つくられたものだと、ということです。
   
  だから、どこの国も、どの国の権力も、栄光も、
  すべてのものは、それを作った、天地を創造した神様のものだから、

  日本だけの神様のものではなく、民族のものでもない。

  だから、隣人の権利を奪ってはいけない。隣国の権利を奪ってはいけない。
  天皇陛下になっても、総理大臣になっても、国民一人の権利でさえ、横取りをしてはいけない
  私物化してはいけない。

  「自分のいのち」でさえ、それは、天地を創造した神さまのものであるから、

  すべての「命」も、栄光も、能力も、体力も、天地を創造した神様のものだから、

  隣人の「いのち」も、隣国の国家も、すべては、天地を創造した神様のものだから、

  私物化して、自たちだけのものと考えてはいけない。

  むしろ、自分の「命」も、「自分の才能」も、自分が作ってきた「栄光」も、

  神と隣人に返しなさい。

  自分に借金のあるひとでも、栄光を返しなさい。

  たとえて、敵であっても、愛しなさい。

  ともに愛し合いなさい。


 と、イエス様は、教えてくれたので、 「キリストめぐみの家」もまた、そういう礼拝を、「ひとりぼっち」になっても、続けるわけです。

 イエス様と「一緒」になって、キリストの平和づくりを目指して、天地創造の神さまの子の「祈り」を続けるわけです。


 


 追伸3 しかし、だれでも、「ひとりぼっち」になってはいけない。
   


 イ あなたの魂のために、まず祈ってほしい。
 ロ あなたの父母のために、「祈ってほしい」。
 ハ あなたの先祖のためにも祈ってほしい。 
 ニ あなたのすべての隣人のために、祈ってほしい。
 ホ すべての人の神。
   天地創造の神が、すべての人の神が、
   それを望んできたから。


 生きているときでも、
 死んでからも、

 復活して、平和をつくるひとが、ほんとうの、神の子なのです。


 というわけで、「キリストめぐみの家」では、すでに、


 「わが魂の救いと、平和の作り方」(無料)
 「キリストの愛を受け継ぎなさい」(無料)

 を発行しております。
 

 参考にしてみてください。

 また、イエス様の、日々の祈りを、そのまま、声を出して、心の中で、聖霊の助けをおかりして、祈ってください。

 すべての人を救う、キリストの平和の「祈り」を、忘れないでください。
 キリストの愛と信仰と希望のなかで、生きるのための「祈り」とは、次のようなものです。


  -天の神さまは、今日も、
   すべての人を愛しています。
   すべてのひとを愛することを、
   「神の愛」といいました。

 すでのひとを愛する時の「祈る「信仰」だけが、天国を知る人の、信仰でした。

 そうして、そういう、愛と信仰が、ひとつになって、礼拝をするときが、新しい人間の、神の希望となります。

 日々、心も、体も、魂も、新しくなることが、復活、というものでした。

 ほんとうの礼拝とは、神の愛のなかで、天地創造の神の信仰の中で、神の希望のなかで、死んでも死ぬことのない、「復活」した、新しい人生に生まれかわることですー


 以上です。

 むずかししいことは、ありません。
 声を出して、心のなかで、イエスさまの「ものまね」をして、イエス様の「お祈り」をすれば、神の子キリストのように、悪霊に負けないで、、ナイキ聖霊の中で、日々、新しく生きることになります。

 自分の魂のためではありません。

 あたらしい神の子が、新しいキリストが、日々生まれることになり、世界は平和になっていきます。

 新しい「命」がうまれなくなれば、そこは地獄という、世界の始まりとなります。

 どうか、新しい「いのち」の誕生と、新しい「子育て」の始まりのない世界だけは、避けねばなりません。


 子育てを忘れた、わが子を人に預けるだけの、長生きだけの、老後の栄光だけは、避けねばなりません。

 イエスというひとにとっての、生きるということは、キリストという神の子として、生きるということは、隣人の「重荷」を背負うことを意味していました。


 ゆめゆめ、我が身だけの、ラクをを選んで、ほかのひとに、重荷を預けるような、幸福感を「ひとりじめ」をしては、いけなのです。
 そのときから、魂の死滅が始まります。(完)




















 日々の「祈り」
 キリストの「願い」

   -「こども」のときから
    「父母」になってからも、

     もっとも「たいせつ」なこと-

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日々の祈り キリストの約束―今日からは あなたも神の子になります

2020年10月9日 発行 初版

著  者:キリストめぐみの家 (代表) 平川博達
発  行:yoshikawa-shimon-nobuyuki出版

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現在にところ、7000ページ程の原稿があります。発行した本もありますが、書籍化はまだしていません。  盲学校、知的障害者などの学校の教師の後伝道者になり、今は執筆をつづけています。

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