spine
jacket

───────────────────────



暮色蒼然

比嘉里可子

文芸表現学科



───────────────────────

  春めいた天気がしばらく続いていたが、思い出したかのように今朝方から寒さがぶり返してきた。もう春が来たのだと衣替えしたばかりだったものだから、慌ててタンスから厚着を引っ張り出した、そんな日の昼。いつものように奏介そうすけが自室の床に転がっていると、一階から彼の母親の声が奏介を呼んだ。随分長い間、何か言っていたが痺れを切らしたのか、ミシミシと音を立てて階段を上がってくる音が聞こえる。これは面倒臭いと起き上がって胡座をかいた。
「やぁ、まだ寝ていたのかい?」
どうやらさらに面倒臭い相手が来たらしい。友人の綿貫わたぬき春壱はるいちだ。自分の才能を鼻にかけるような、ムカつく男だ。
春壱は手に下げた袋と湯のみが載った盆を掲げて、乏しい表情で言った。だがどこか落ち着かない様子だ。
「今川焼きを持ってきたんだ。一緒に食べませんか」
 今川焼きは奏介の好物である。しかし知っている。好物を持って訪ねるときは大概良くないときである。
「今度は何なんだ」
奏介が顎で促すと、春壱は適当な所に腰を落ち着かせ、奏介に今川焼きを差し出した。
「いや、何でしょう。その頼みたいことが」
歯切れの悪い返答に、彼にしては珍しいなと興味が湧いた。神に愛された天才でも悩むようなことでもあるのだろうか。畳の綻びたところを弄りながら、俯いた春壱に妙な高揚感と優越感を覚えた。
「俺に、何だ」
随分浮ついた表情で奏介は言った。今まで手が届かないと思っている男の頼みごとだ。ここで弱みの一つや二つ、握っておかなければ男が廃る。
奏介は、お茶が並々注がれた湯呑みを持って口に近づけた。
春壱は答えを委ねるような瞳で見つめた。
彼の決意はまだ揺らいでいた。
「奏介。私は、私と、」
湯呑みは、奏介の手から逃げるように鈍い音を立てて落ちた。まだ湯気立つ熱さだった。
青天の霹靂とは正にこのようなことを言うのかもれない。

とある日記・壱 
十二月 十日
 もう随分な大人なのだからと見合いを勧められた。やっと二十歳になったばかりだ。相手は年の離れた娘さんで、父の学生時代の後輩にあたる方の娘さんらしい。かなり名家の家柄だ⋯⋯いわゆる政略結婚というやつだろうか。
今までも、そしてこれからも両親の期待と用意された道の上を歩いていくのだろうか。


夕暮れが私を呼ぶ声が聞こえる。
窓から見える燃えるような真っ赤な夕日が空の端から覗いている。かぶりをふって彼は階段を上がり、自分の部屋に入った。入った先には、最近出入りしている綿貫春乃はるのという女学生だ。部屋の真ん中を陣取っている。何かノートに書いている途中だったのだろうが、今はうっとりとした表情で窓の外を見ている。こっそりノートを覗いた。どうやら、私と出会った日を何とも感動的に書いている。
「⋯⋯君は単なる付きまとい行為だろう」
「あら高嶺先生。勝手に見ないでくださいな」
 高嶺は呆れた表情で、彼女が書いているノートに文句を言った。彼女は驚く様子もなく、すました顔で返した。
「堂々と私の部屋でそんなものを書いているからだ」
「えぇ、えぇ。わざとですもの」
彼女はそう言って、わざと隠す仕草をしながらころころと笑った。
長い溜め息をつきながら、机に几帳面にまとめられた原稿の束を持って、さっさと部屋を後にした。
部屋を出た高嶺はすぐさま応接室へ向かった。向かう途中母親に会い、春乃からお菓子を頂いたから持っていけと押し付けられた。
応接室には彼の編集担当の佐々木ささき孝文たかふみが待っていた。
「あぁ、奏流先生。お疲れ様です。まさか先生からご連絡を頂けるとは思っていませんでしたよ!」
孝文は上手くいったんですねぇと間延びした声で、高嶺から原稿を受け取りぱらぱらとめくっていった。
「うん⋯⋯うん」
相槌を打つような声を発しながら読んでいる。しばらくそんな孝文の声が聞こえるだけの時間が流れていた。高嶺は使用人に持ってこさせた紅茶を啜りながら、ぼーっと窓の外を眺めた。四年前のあの日から鮮明に夕日の色だけが見える。ゆらゆらと揺れ動き、空全体を真っ赤に染め上げる様は、血のようで吐き気がした。ほぼ惰性のように毎日夕日を見ていると、今更綺麗だとか怖いだとか思う余地はなかった。
「先生は本当に夕日を見るのお好きですよね」
いつまでぼーっとしていたのだろう。孝文に声をかけられて、高嶺はハッとした。
「⋯⋯⋯⋯いや」
「おや、そうでしたか。いつもこの時間は見ているでしょう。てっきりお好きなのかと」
「ただの癖なだけで、」
「それはもう一種の好きですよ。好きでないと長く続きませんよ。ま、とにかくこれはお預かりしますね。今回も大変面白かったです! どんどん有名になりますねぇ」
 孝文はほくほくとした表情で、トントンと原稿の束を整えて、彼の前に置かれたティーカップを持った。もう随分前に入れさせたものだ。だいぶ冷めただろうと思い、入れ直すか聞いたが、このままでと断られた。
「⋯⋯随分、先生の文章は繊細になったかと思います」
二人で、無言で紅茶を飲んでいると唐突にそう切り出した。
「やっぱり、あの女の子のおかげですか? 確か春乃さんと言いましたっけ」
「あぁ、綿貫さんのとこのお嬢さんですよ」
「綿貫さん⋯⋯あの有名な呉服屋さんですよね。僕の家内も好きなお店ですよ。滅多に買えませんが。どうしてこちらに?」
「⋯⋯⋯⋯綿貫さんとこと婚約していたので、それで」
「あぁ! そう言えば、そうでしたね⋯⋯」
「あちらも有名なお家だから、無下には出来ないと母様が。どうも僕を慕ってくれているらしく」
「⋯⋯へぇ、へぇ! そりゃあ、先生。春ですねぇ。何ともまぁ初々しいことで!」
自分のことのように嬉しい、というふうに体をくねくねさせて喜んでいる孝文を尻目に、ゆっくり紅茶を啜ろうとするが、すでにカップの中身は空っぽだった。
すると、ボーンボーンと六時を告げる鐘が鳴った。
「佐々木さん。食べていくんですよね」
「もちろん! 先ほど奥様に誘われたので」
「あの子帰してきます」
「お誘いすれば良いのに」
「迷惑ですよ」
そう言い残して、高嶺は自室へ向かった。春乃はいまだカリカリと音がするほど熱中して何か書いていた。
「君、まだ書いているのか。もう遅い。早く帰りなさい。この前、あまりにも遅いとご両親が迎えに来たろう」
「お父さんもお母さんも過保護なのよ。私が家業継いでくれないと困るから継ぐほどの家じゃないと思うんですけどね。あんなのただの見栄ですよ、見栄。もっと 人の多いところに行けば、どうせ埋もれていくような店です。ね、先生たちよりずっと」
 そう言えば近々都市部の方へ二号店を出すと噂されていたか、と思い出した。
「君が家族に対してどう思っているかなど、さほど興味はないが、あまり悪く言うものじゃない」
「先生は自分では何だかんだ言って家族が大事だからですよ。私は、嫌いなので」

とある日記・弐
十二月 十四日
見合い相手の家へ招かれた。我が家など余裕で入ってしまいそうな大豪邸だ。使用人を大勢抱えているし、どこもかしこも絢爛豪華で目が眩んでしまいそうだ。まるで家格が合わない。母と父は本当にこれで良いのだろうか。

 春乃が帰り、夕食を終え孝文も帰路につこうとしていた。
「佐々木さん。ぜひ何でもない日にでもまたいらして頂戴な」
高嶺の母が、孝文に手土産を持たせながら言った。普段あまりお家から出ず、料理が趣味な母からすれば、たまに来て、面白い話を聞かせてくれる相手を離したくないのだろう。父は単身赴任、娘は嫁ぎ、上の息子は病気がちで入退院を繰り返し、下の息子はほぼ部屋に籠っている家族など面白くはない。彼女の今の楽しみは孝文との会話やたまに遊びに来る孫と会うことくらいだろう。
「いえ、奥様。流石に何もないときに来るのはご迷惑でしょう。またぜひ、夕食にお誘い頂ければ」
母は少女のようにはにかんで微笑んだ。
「えぇそうするわ。そ、⋯高嶺。表まで送って差し上げて」
随分冷える夜だ。こんな日はいつも姉が甘い物を用意してくれていた。姉兄と一緒にこたつに入り、眠るまで話し合ったこともあった。
「いやぁ。今日は冷えますねぇ」
「⋯⋯」
「高嶺先生。約束のあれ、見つかったと言ったらどうします?」

とある日記・参
十二月 十五日
今日は見合い相手の弟君に会った。私と同い年らしい。藤野奏介君と言う。随分人見知りの質なのか、一向に会話は進まず、相手も相槌などを打つだけだ。私も対して会話は上手い方ではなかった。だが、上手くここで仲良くしておかなければ、両親にどんな顔をされるか分からない。怖い。


今日はどうも朝から調子が悪かった。身体的には異常はない。精神的に調子が悪い。やたら小指はぶつけるし、マッチの火も上手く点かない。おまけに寝ている間に、執筆時に掛けていた眼鏡が欠けてしまった。今日ほど運の悪い日などないだろう。
高嶺が自室の床に、うだうだごろごろと転がっていると勢い良くふすまが開き、ドタドタと入って来た者に蹴飛ばされた。
「そーちゃん!」
高嶺は蹴飛ばされた頭を抱え、涙目で見上げると姉、陽菜子の子供が見下ろしていた。
 人間嫌いの高嶺ではあるが、流石に子供を嫌うほどやさぐれてはおらず、純粋に愛らしいと思う相手だ。
 姪の後に陽菜子ひなこが続いて入って来て、姉は娘を外に出るように促し高嶺を一瞥もせず、息を吸った。高嶺も居住まいを正す。
「⋯⋯⋯⋯高嶺、アンタさぁ。あの子どうしたいの。部屋にまであげて。あの子、女学校の生徒でしょう? 嫌な噂でも出たらあの子にも悪いし、あんた責任とれんの。
元婚約相手の妹さんだからって、別に構ってあげる義理はないでしょ」
「煩いな。別に俺の勝手だろ」
「アンタはそうでも、彼女にとっては違うでしょ。女学校出たら結婚の話も出てくるだろうし」
「⋯⋯」
「とにかく、考えておいて。変な噂でも立ったら両家にとって体裁が悪いから」
陽菜子は言うだけ言って、さっさと出ていってしまった。高嶺は再び床に転がって、本棚を見上げた。自分で書いてきた小説の他、尊敬する先人たちの本、春乃が勝手においていった雑誌が無造作に詰まっている。だが、普段そこには無いはずのものが窮屈そうに挟まっていた。とあるノートである。
どうして、一体誰が。ここには使用人はおろか家族もあまり入ろうとしない。そもそもこのノートは、机の引き出しにしまっていたものである。
高嶺はそのノートを手にとってぱらぱらとめくった。誰かがめくった形跡がある。少し皺がよっていた。高嶺は几帳面な質なのでまず皺がよるようなめくり方はしない。
ただ考えられる人物は一人しかいない。まさかこれを見られるとは。

とある日記・肆
十二月 二十三日
陽菜子さんは、もう一人の弟である慶さんのお見舞いに行くと言った。私も家同士とは言え、婚約者なのだから同行すると言ったのだが断られた。奏介君の相手をしてほしいと。
奏介君は自分の部屋に籠っていた。何をしているのかとふすま越しに聞いたら、中に入れてくれた。彼の部屋は凄かった。何が凄いって蔵書数の膨大さだ。殆どの壁を本棚が埋め、収まりきれない本はきちんと積んで分類別においてある。本と本の間でこじんまりと本を読む姿は、とても素敵なことのように思った。

『高嶺先生。約束のあれ、見つかったと言ったらどうします?』
昨晩、孝文から言われた言葉を思い出した。以前孝文に頼んでいたことがある。とある未発売の小説だ。名だたる文豪でもなく新進気鋭の作家でもない。無名の本だ。きちんと本の形をしているのかも怪しい。
手にしたいわけではない。見つけ次第、処分をお願いしていたのだ。それは恐らく俺への嫌がらせのはずだから。

ぎっ、ぎっ、ぎっ、ぎっ

縄の擦れる音がする。

 ぎっ、ぎっ
  ぎっ、ぎっ、ぎっ
ばっと窓の外を見ると、太陽が沈みかけていた。あそこで世界が終わるのだ。
「もうやめよう。はる」
きちんと整理された部屋の中で虚しくこだました。
高嶺は部屋から出て、掃除中の使用人を呼び止めて孝文を呼ぶように言った。
しばらくして、孝文がやって来て冗談交じりに言った。
「先生、随分早く書けたんですねぇ。感動しましたよ!」
机に向かっていた高嶺は特に一瞥もせず、手のひらを差し出した。孝文は、はいはいという顔をして手提げのカバンから、ただ紙が糸で綴じられただけの束を渡した。
「⋯⋯」
「たまたま大掃除のときに見つけました。題名もなければ、著者の名前もありませんから。廃棄寸前だったんですよ、それ」
「ああ」
「良かったですね」
「⋯⋯あぁ」
「それで、どうするんです? 見つけたらそのまま廃棄してくれ、とのことでしたけど」
「⋯⋯佐々木さん。もうやめるよ。小説書くの」
「そうですか。分かりました。勿体ないですねぇ。せっかく良い話を書くのに」
「嘘臭いな。佐々木さんが評価していたのは春壱の方じゃないか」
「ええ、もちろん。今も生きていれば良かったですね。お疲れ様です、奏流高嶺先生。彼の物真似は疲れましたね。藤野奏介くん」
奏介は顔をしかめ、露骨に嫌な顔をした。
「性格悪いな、あんた」
孝文は知ってます、とにっこり笑って挨拶もそこそこに帰っていった。
奏介は決めていたことがある。孝文から受け取ったものは春壱の遺書だ。生前の彼が残していた日記に、俺に遺書を残していると記されていた。それは孝文に託しているともあった。ぱらぱらとめくると、遺書というより地図のような書き方に近いような気がする。
ここへ行ってああしろだの、こうしろだのと書かれている。
「面倒なことを」
奏介は渋々と出かける準備をするために、箪笥を開けた。

とある日記・伍
十二月 二十九日
彼は小説家になりたいのだと言った。私の夢を問われ、私は教師になりたいのだと答えた。すると彼は、それは本心ではないだろうと答え、気持ち悪いのだと言われた。なぜ、と問うと、親の言う通りに生きるのかと。親の言うことは正しいはずだ。けれど彼は言う通りに生きるのは気持ち悪いと言う。
 彼が悪いとも思わないし、私のこれまでの生き方も悪いとは思わなかった。ただ彼の自由な姿勢は羨ましいと思った。

◇   ◇ ◇

私と先生が出会ったのは、春の始めまだ冬が終わりきらない頃でした。いつもの下校時刻。空の端が薄ら紫かかる夕暮れの時でした。本当に、何気なく、ふっと空を見上げると夕日に照らされた先生がそこにいました。いつか見た絵画より彫刻より、ずっとずっと美しいと思いました。

 春乃は書いている手を止めて、ふっと顔を上げた。開け放たれた窓から薄ら覗く赤い端を見て、うっとりとした表情を浮かべた。たった一瞬の燃えるような夕日がもうそこまで迫っている。
「⋯⋯君は単なる付きまとい行為だろう」
ヌッと現れた、呆れた表情の高嶺を見て、春乃は驚く様子もなくすました顔をしてみせた。
「あら高嶺先生、勝手に見ないでください」
「堂々と私の部屋でそんなものを書いているからだ」
春乃はわざと隠す仕草をしながら、ころころと笑った。
「えぇ、えぇ。わざとですもの」
高嶺は、呆れたようにため息をついて、机に几帳面にまとめられた紙束を持って、さっさと部屋から出ていった。恐らく彼の担当編集の孝文が来たのだろう。
春乃と出会った頃の高嶺は、野生の猫のように警戒心が高く、自分のテリトリーを他人に任せたりなどしなかっただろう。少しは信頼されたのかも、と春乃はくすぐったい気持ちになった。
春乃は止めていた手を再開して、せっせと書き進めた。書いているのは高嶺へのラブレターだ。渡すことはないかもしれないが、いつか高嶺の言った「自分の気持ちの整理のために文章を書いている」と言う言葉を頼りに、春乃も何か形にしてみようと思った。私ならどんな思いが綴られていくのか楽しみで仕方がなかった。
 ふと、春乃は奏介の本棚を見た。分厚い本と本の隙間に窮屈そうにしているノートがあった。奏介ほどではないが、好奇心の塊である彼女は、どうしても堪らなくなり手に取ってパラパラと捲った。あぁ、この時ほど後悔したことはなかっただろう。

とある日記・陸
一月 三日
今日は藤野家の皆さんと初詣へ行った。そこでうっかり使用人の方の話を聞いてしまった。やはりこの結婚は政略結婚だった。私の家の事業に出資して頂いていたらしい。藤野家のご長男は体が弱いし、私の妹もまだ若すぎる。次男の奏介くんはまだ家を任すには若すぎると。なるほど。私は売られたのか。彼が若いと言うならば、私だって若いはず。私の家が苦しいのは知っていた。私の両親の手には余ることも知っていた。

 先生宅からの帰り道。すっかり辺りは暗くなってしまった。ただ家に帰るのも億劫で、私は橋の下にある地蔵横に腰掛けた。兄の遺体が見つかった場所だ。発見された当初はまだ縄に括りつけられた状態で、警察が駆けつけたときには無残にも地面に落ちてしまっていた。
兄は完璧な人だった。両親に言われたことは何でもできた。頭も良く教養あって、愛想の良い。非の打ち所のないとは彼のことを言うんじゃないだろうか。私より両親にとって自慢の息子に違いなかった。だが、悪く言って傍から見て、親の用意した道を歩いているだけだった。親に勧められた学校、親に勧められた習い事、親に勧められた友人、親の用意した見合い話。それを嫌な顔一つせず、はいの一言で済ませるような人形のような兄だった。兄の意思など無いに等しかった。
これが唯一兄の選んだ道だなんて、両親は信じたくもなかったろう。兄が死んだ次の日から両親の人形は私になった。兄が生きていた頃は私の存在などあってないようなものだったのに、急に私に目をかけはじめた。それは異様に見えて、どこか嬉しく恥ずかしかった。私たち兄妹は親に搾取されていく人生なんだろう。
「春乃さん?」
 上の方から聞き覚えのある声が降って来た。
「佐々木、さん?」
「どうしたんです? もう大分遅いですよ」
「あ、大丈夫です。もう帰ります⋯⋯
「帰り送るので、少し話していきませんか?」
もう何十分、下手したらそれ以上経っているのだろう。辺りは先ほどよりも暗く、街灯がなければ闇に覆われてしまうほどだ。もしかしたら親が探しに出ているかもしれない。それでもやっぱり帰りたくなくて、孝文の問いに承諾して、二人並んで座った。
「⋯⋯先生何か言っていました? ほとんど毎日来て、きっと迷惑でしょうね」
「そんなことないですよ。奏流先生は無自覚ですがあなたのこと好きですよ。自分は、他人のことが嫌いだと思っているだけです」
「佐々木さんって先生と仲が良いですよね。単純に担当さんだからですか?」
孝文ははにかんで、鼻の下を擦った。
「そう見えるのなら、頑張った甲斐がありますねぇ。仲が良いと言うより、何て言うか腐れ縁なんですよね。私と高嶺くん、そして春壱くんです。あなたにとったら春壱くんはお兄さんにあたりますね」
思いがけない兄の名前を聞いて、ばっと孝文の瞳を見つめた。孝文はさらに続けた。
「最初に出会ったのは春壱くんの方です。春壱くん、小説を書いていたのは知っていましたか?」
春乃は力なく首を振った。初耳だった。
「でしょうねぇ。お家厳しそうですもんね。
 家族には内緒にしてるって言ってましたから。春壱くんを通じて高嶺くんとも知り合ったんです。それで、まぁ色々ありましたね」
「⋯⋯兄は、佐々木さんから見て兄はどんな人でした?」
終始微笑んでいた孝文だったが、急に目を細め、春乃を見据えた。
「春壱くんは若々しくて才能に溢れる方でしたよ」
「私には兄のことが理解できなかったんです。どうしても。両親が兄に対して行っていたのは殆ど虐待みたいなものでした。いえ、私がそう思っているだけです。親の過干渉なんて殆ど虐待じゃないですか」
「一概にはなんとも。それは個人がどう思うかではないしょうか? 彼は長男ゆえにご両親の期待に応えたかっただけでは?」
 黙りこくってしまった春乃を見て、孝文はからからと笑った。
「もうそんなこと知る術がないじゃないですか」

◇   ◇ ◇

 朝から屋敷を抜け出して街へ繰り出した。良い大人が抜け出すという表現なのもおかしな話だが、我が家は出入りには少々煩い。過保護とでも言うのだろうか。兄が家を継げない今、跡取り候補として俺が踊り出てしまった。今の今まで、藤野家としての体裁を汚さなければ、適度の放っておいた人達が急に構うようになった。次期当主候補の行動に目を光らせ、付き合う友人は選べと口酸っぱく言うようになった。そんなもの関係ないと、今まで無視して生きてきた。そんな俺を両親はただの気まぐれだと処理し、いつかはこの『お遊び』は止めるものだと思っている。姉も兄も家のためにただ利用される物に違いない⋯⋯。
始めに芝居を観に行った。春壱とはよく芝居を観に行っていた。家族の誰も娯楽に興味はあまりなく、家の存続と兄の治療だけが彼らの気掛かりだった。それに反発するように興味あるものは片っ端から触れるようにしていた。その中でも特に好きだったのが、芝居と読書だった。
今人気な喜劇の券を買って観たが、どちらかと言うと、子供が観て楽しむようなものだった。どうにもオチがつかず、収拾がつかない感じの話だった。俺が単純に楽しめていないだけなのだろうが。春ならば楽しんでくれたのだろうか。もう一つ何か観ようかと思ったがやめておいた。
次に訪れたのは、下町でひっそり営業している喫茶店だった。ここのナポリタンが絶品で二人してよく食べにきていた。春壱も本当によく好んでいたはずだ。甘めのケチャップ味に食欲を刺激されたものだった。食後のおやつにプリンも合わせて食べていた。彼は甘いものが好きらしく、いつかは妹にも食べさせてやりたいとよく言っていた。
最後に指示された場所は、良く訪れた川辺だった。春壱が死んだ橋がある近くだった。
 笑ってしまった。いつも外に連れ出すのは春壱の役目だったのに、あいつは外で遊ぶことを知らなかった。なんだかんだ言って連れ回すのは俺だった。春壱といた時間はあまりにも一瞬だった。
「わざわざ有難うございました。出不精のあなたが、お一人で何処かへなんて初めてのことでしょう?」
ふわりと耳馴染みの良い声と、同時に縄の擦れる音が聞こえる。
「もっとあなたと早く会いたかった。もっと何処かへ行ってしまいたかった。もっとお話したかった。もっとあなたの側にいたかった。私はあなたに会えて本当に良かったと思っています。もし、あなたが婚約者なら」
「⋯⋯はる、俺は」
今は、もうそこにはないはずの縄の擦れる音はまだ止まない。奏介は逃げるように目を閉じた。

とある日記・漆
一月十一日
明日はとうとう式なのだそうだ。あまりにも用意周到で私は何も知らなくて。ご丁寧に大安の日を選んでいるのが憎たらしい。もう、これしかない。やってやろう。

「奏介。私と一緒に死にましょう」
 縋りついて、絞るようにもう一度言った。
 一体何なのだと言うんだ。
「お願いします。お願いします、奏介」
「なぜ、何を言っているんだ。お前は。お前は成功した道を歩いてきたじゃないか。賞を獲る日も近いのに。持ち込みした編集者に、本を出さないかと言われていたじゃないか」
「あぁ君はそうだ。そう言う人だ。酷い人。友達のような顔をして、家族のような顔をして相手を見ようとしない⋯⋯そのくせ自分は構ってほしい。なんて卑怯なんでしょう」
「違う、はる。俺は」
「そうやって気安く呼ぶから。やめて、奏介」
狼狽している奏介よりも顔色を悪くした春壱は、息を止めてすっと真顔になった。
「⋯⋯言い過ぎました。あぁ、あぁこんなこと言いたいんじゃないんです。私は君が⋯⋯忘れてください」
そう言い残し彼は部屋を出ていった。

 目を覚ますと、辺りは仄暗く夜へと迫っていた。奏介はうっすらと夕日を眺めた。随分久しぶりな夢を見た。
 持ってきた鞄から、これまでに出版された自分の、春壱の本を出して読んだ。
「⋯⋯うん。やっぱり良いなぁ」
この本は俺のではない。
俺がこれまでに書いてきたのは春壱の真似事にすぎない。彼の書きかけのものに加筆して出版したこともあった。一緒に書き始めたのに、才能があったのはあいつだけだった。
一瞬で引き込まれる世界観、繊細な心理描写には心打たれる。
 俺はずっとお前に嫉妬していた。俺はお前が遺した日記の最後のページを読めずにいるよ。俺がお前を殺したようなものじゃないか。

  ◇   ◇ ◇

 春壱は自分の首に縄を巻きつけて、橋の下を見下ろした。奏介は彼の考えが読めず、どうしたらどうしたら、と考えていた。どうしてこんなことになってしまったのか。
「⋯⋯」
「は、る⋯⋯」
奏介はまるで、そこに固定されたように動かなかった。全身に鉛でもついたかのように重い体。やっと出たと思った言葉は蚊が飛ぶような声だった。
「本当に、」
「どうか止めないで。私に夢を見させたままで。あぁいっそ出会わなければ良かった」 
春壱は悲痛の表情を浮かべた。だがしっかりとした瞳で奏介を見つめる。
「奏介、君は私のこと⋯⋯いえ」
ふらっと俺の眼前が暗くなったと、気づいたときには唇を押しつけられていた。それが精一杯のようで、ほんのり煙草の匂いがする。
もう何がなんだか分からないと奏介は春壱の肩を掴んだ。
「お前は一体何なんだよ」
「⋯⋯そうすけ」
春壱は嬉しそうにゆっくり奏介の名前を呼んだ。
「覚えておいて」
トンっと彼が飛んだと思った瞬間には既に目の前におらず、足元でぎっ、ぎっと縄の擦れる音がした。心につっかえた何かが取れたと思った。彼の最期を確認もせず、そのまま歩いて帰路についた。
その次の日。彼は近隣住民によって発見された。

「⋯⋯はる。俺はお前を止めたかったよ」
「じゃあ、何で止めてくれなかったんですか」
感傷に浸っていると、背後から声をかけられ、驚いて声のする方を見た。春乃だった。
「⋯⋯君か。もう、遅いんじゃないか?」
「何で兄を見捨てたんですか。仲良かったでしょう」
「君、私の部屋から日記をとっただろう。返してくれないか」
奏介は手のひらを差し出して言ったが、春乃はイライラした表情で繰り返した。
「答えてください。何で兄を見捨てたんですか」
「⋯⋯見捨てる以外に何かあったのか? あの時、私はどうしていれば良かった? 君は私に何を聞きたいんだ。聞いてどうする?」
毅然した態度の奏介に春乃は少し動揺した。
春乃自身、聞いてどうしたいかなんて分からない。ただ、多分この感情は怒っているのだと思う。自分勝手に死んでいった兄に、そして春壱の妹だと知っておきながら、何も言ってくれなかった先生に。
「死ぬことを選んだのは春壱自身だ。それ以上、私からは何もない」
「兄は先生に向けて、この日記を遺していったんだと思います。最後まで読んだことあります?」
奏介は力なく首を横に振った。
春乃は鞄から日記を取り出して最後のページを見せた。

とある日記・捌
一月十二日
奏介へ
ありがとう。そしてごめんなさい。どうか自分を責めないで。君のせいではないし、君のせいにする気はありません。私が自分で決めたことを、あなたも誇ってください。これは決して悲しいことではありません。でも、願うことなら奏介、あなたと共にありたかった。
もし、これが私の家族に発見されていたら。
春乃に家のことを強要しないでください。どうか歳相応の、普通の女の子として接してあげてください。私も春乃もただの人間で、あなた方の人形ではない。藤野家の皆様にも悪い事をしたと思っていますが、これが私の精一杯です。


奏介は激しく鳴る鼓動を抑えるように、息を吸って吐いて、吸って吐いてを繰り返した。
「はるが死んだとき、俺はどうしようもなく嬉しかった。あの憧れがこの世からいなくなったのが、途方もなく嬉しかったんだ。それなのに、それなのに! 俺がお前を殺したようなものなのに」
奏介はその場に顔を伏せ、うずくまって呻いた。
 ここまで狼狽する先生を初めて見た、と春乃は呑気に考えていた。いつもすまし顔で、捉えどころがなく、風のように猫のように、その場に留まる事なくすり抜けていく。誰にも秘密を見せず、誰にも頼らず、春乃より大人で、誰よりも子供みたいな人。
 どうしてこの人を責めることが出来るのだろうか。短いながら、私はこの人を側で見てきた。強そうに見えて、自分に自信がないし、ストレスには弱いし、人の顔色を伺っている。でも、本当は心の優しい青年で、家族思いで、今でも兄を忘れないでいてくれる。うっかり寝落ちてしまったときに、ブランケットを掛けてくれたその優しさを忘れることはないだろう。
「兄のこと知らなさすぎたんですね。私、兄のこと機械か何かだと思っていた節があったんです。両親に言われるままの兄が怖かった。でも両親に構ってもらえる兄が羨ましくて、羨ましくて堪らなかった、と思います。でも兄はずっと私のこと考えていてくれたんですね」
春乃は奏介の側にしゃがみ込み、春壱の日記を押し付けた。
「これはお返しします。多分、兄は私のことを守ってくれていたんですよね。でも、逃げてばかりじゃ駄目なんだと思います。だから、先生も逃げないでいてください。兄が書いているように、誇ってあげてください」


  ◇   ◇ ◇


「先生! 早く!」
春乃は、呑気に欠伸する奏介の背中をぐいぐいと押して急かしている。
二人は綿貫家の墓参りに来ていた。
 春乃はお花とお水を用意し、線香を立て、供物として果物を置いて、二人並んで手を合わせた。
今日奏介は正直来ようとは思っていなかったが、早朝何やら意気揚々とした春乃に連れられ、春壱が眠る綿貫家の墓に訪れた。
 藤野家では奏介が家を継ぐという条件で、作家活動を続けても良いとなった。綿貫家では春乃が若いこともあり、親の過干渉が若干緩みはしたものの、いまだ続いている。しかし、春壱が残した日記や春乃の意思もあり、自立への道を進んでいる。
「先生、そろそろ行きます?」
「⋯⋯」
「先生?」
「俺は春壱が死んで寂しかった。憧れてもいたし、それと同時に憎いとも思っていた。死んだ時は嬉しかった。だが、いざいなくなってみると怖かった。共にいない事実が堪らなく恐ろしかった。なぜ、そう思ったのか。初めは分からなかったが、今なら分かる」
ふぅと間を置く奏介に春乃は何も挟まず、黙って次を待った。
「好き、だったんだろうなぁ⋯⋯」
「私も先生のこと好きですよ」
「俺は君のことは好きではない」
くるりと踵を返し、すたすた行く奏介の後を、頬を膨らませながら走りよっていった。
もう奏介には縄の擦れる音も春壱の声も聞こえていなかった。

暮色蒼然

2020年10月22日 発行 初版

著  者:比嘉里可子
発  行:文芸表現学科

bb_B_00166294
bcck: http://bccks.jp/bcck/00166294/info
user: http://bccks.jp/user/146054
format:#002t

Powered by BCCKS

株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp

jacket