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ずるくなんてなかった

山本彰

京都芸術大学文芸表現学科



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 目 次

#髪を切らせて

ずるくなんてなかった

#髪を切らせて

『○○市内で会える方 お食事代+お礼三万円ほど セックスはしません 髪を切らせてください #姉活 #裏垢 #裏垢女子』
 援交相手を探しているときにSNSでそんな文言を見つけた。添付された写真は胸元を映しており、そのふくらみが強調されている。既にレスポンスが五件件ついており、覗いてみるとどれも即興で作られたアカウントで、「お願いします」「いけます」と一言添えられているだけだった。
 援交を始めたのはつい半年ほど前。パパ活と呼ばれる、中年男性が女子高生などにご飯をおごって一緒の時間を過ごす行為が流行っている中で、その逆となるママ活に手を出したのが始まりだった。最初はほんとうに年上の女性と軽いデートをするだけだったが、三回目で会った女性とはセックスまで誘われて、それ以降もそれ目的の人の相手をしたりしている。そんな感じでずるずると抜け出せず、月に三回はこうして相手を探している。
「髪……? 髪かぁ……」
 右手で前髪を引っ張ってみると鼻の頭に届くほどの長さになっている。洗面台の前まで行き確認すると、もっさりした髪形の男が映っている。その状態をカメラに収め、顔が見えないように加工してダイレクトメールと共に投稿主に送った。
『市内で会えます。最近忙しくてかなり伸びてしまったので、切ってもらえるなら助かります』
 軽い冗談のつもりだった。髪を切らせてほしいなんて要求いままで見たこともないし、向こう側にメリットがあるようには思えない。他人の髪の毛を集める趣味でもあるのか? もしそうだったなら会う前に断ればいいだけの話だ。
 だから、返信が来た時は少し驚いた。投稿されていた画像と同じブラウンのニットセーターを着た女性の首から下の全身写真と共に、日時と場所が指定された簡素な文章が送られてきた。
『返信ありがとうございます。その日ならあと一時間ほど後ろにずらしていただけたら可能です。髪を切るっていうのは、具体的にどれくらい切るのでしょうか』
『分かりました、ではその時間に。髪形を指定してくれたらその通りに切ります。美容院に行くのと同じ感覚で来てください』
『なるほど……。失礼ですけど、先に年齢を聞いておいてもいいですか? 俺は今年で二十五です』
『今年二十一になります』
 そんな感じのやりとりをして、あとは約束の日に、ということで話は流れた。
 途中から、断るという選択肢は完全に消えていた。予想に反した丁寧なメッセージ、文面から感じ取れる彼女の真面目な性格、そして髪を切りたいという要求への好奇心。これらが俺の背中を押した。
「ほんとに髪切ってもらえて金までもらえんなら、ちょうどいいな」
 普段美容院に行くときや援交をするときとは別の、変な緊張感をもって、彼女と会える日を待ち望んだ。

 雪の降る中、待ち合わせに指定されたとある大学の前。待ち合わせの時間は既に十分ほど過ぎている。近くのコンビニで買った缶コーヒーはずっと前に空になっていた。
『私の方から声掛けますね』
 彼女とのやりとりの履歴を確認すると、確かにそう書いてある。事前にこちらの服装を教えてはいるのだが、伝え方が悪かったのだろうか。数分前に一度メッセージを送ってみたが、それに対する反応はない。
 騙されたのだろうか。そんな考えが頭をよぎるが、積もった雪と共に振り払った。
「あの」
 新しいコーヒーを買いに行こうかと思った時だった。低い女性の声が耳に届く。声のした方を振り返ると、身長に対して大きなリュックを背負った女性が少し機嫌悪そうに立っていた。
「アキさん? やんね」
 マフラーで隠れた口から、しかしハッキリとした口調で尋ねられる。アキというのは俺のSNSで使用しているアカウントの名前で、それで俺を呼ぶ人はおそらくひとりしかいない。
「ハルさん?」
 彼女――ハルさんは不機嫌そうな顔のまま小さく頷いた。
「あぁ、初めまして。会えてよかったです。俺の伝え方が悪くて見つけられないのかと思って――」
「ここ正門ちゃうねん」
「ん……はい?」
「うちが来て言うたんは正門。ここは裏門。まぁ、どっちも似たようなもんやし間違えんのも仕方ないけど」
 指摘され、そもそもこの大学に入口がふたつあることを初めて知る。初対面からなかなかの失態をかましてしまった。
 そして、それ以上に彼女の口調に面食らっていた。本当に彼女があの丁寧な文章を書いたのか疑いたくなるような程ぶっきらぼうな喋り方で、先ほどまで開いていたメッセージ履歴を確認してしまう。
「あー……それは、申し訳ないです。わざわざこっち側に来てくれたんですね」
「敬語とかええよ。年上なんやろ。さっさと飯食って髪切らせてぇや」
 完全に相手のペースに乗せられてしまう。この上なくやりにくかった。考えてみればいままで相手してきたのは年上ばかりで、年下の女性と話すのは学生時代以来かもしれない。どうにも突破口が見いだせなかった。
「ラーメンでええ? めっちゃお腹減ってんねん」
「……あぁ、うん。どこでも構わないけど」
 返事をし終える前に彼女は歩き出していた。ブーツでざくざくと雪を踏んでいく後ろ姿に、軽い苛立ちを覚えながらついていく。
「アキさんさぁ」
 すこし大きめの声で話しかけられる。返事はしなかった。
「なんで声掛けてくれたん?」
「……あの投稿にか?」
「うん。冷やかしは何人かおったけど、真面目に髪切りたいって言ってきたんアキさんだけやで」
「別に。本気にはしてなかったよ。けどまぁ、もし本当に金もらえて髪切ってもらえんならいいかなって思っただけだ」
「そ。てか口調めっちゃ変わったね。そっちのがええよ。でもなんで標準語なん? 京都の人じゃないん?」
「生まれも育ちも京都だよ。ただ、親がどっちも東京の人だったから、関西弁にならなかったんだ」
「ふーん。仕事何してんの」
「……焼肉屋の店員。正社員」
「へぇ、なんか以外。じゃあさ、普段は――」
「もういいだろ、俺のことばっかり。えっと……ハル、さん、は」
「ハルでええよ。それか遥(はるか)」
「……遥は、なんであんな募集かけてたんだ? そもそも髪切るって、趣味かなんかか?」
「うち美容学校行ってんねんけどさ、あ、美容師なりたいねんけど。実習じゃ物足りひんねんな。せやし募集かけた」
「へぇ……受け取る俺が言うのも違うんだろうけど、それに三万も払うのか」
「……親がアホでね。払えるんよ」
「……」
 そこからは無言で、ただただ遥についていった。
 降っていた雪はだんだん大きくなってきて、久々に積もりそうな雰囲気だった。

「やっばぁ。もう歩けへん」
 店から出たとたん、遥が叫ぶ。本人が思っていたより麺の量が多かったようで、途中からはかなり苦しそうな顔をして食べていた。
「……で、どこで髪切るんだ?」
「はぁ? もう行くん? ゆっくりしようや」
 歩き出そうとすると、後ろから抗議の声が飛んでくる。雪は勢いこそないものの、確実に降り積もってきている。できるだけ屋外には出ていたくなかった。
「さっさと飯食って髪切るって言ったのはそっちだろ」
「気ぃ変わった。そこらへんぶらぶらするで」
「そんなの最初のプランにない」
 相手が年下だからだろうか、普段の相手にはしないような口答えをしてしまう。何とかして主導権を握ろうと、意地になっていた。
「なに言うてんねん」
 立ち止まった遥が、にやにやと気持ち悪い笑いを浮かべていた。
「うちがあんたを買うたんやから、今のアンタはうちのモンやねん。事前に説明ありませんでしたーなんて効かへんで」
「あのなぁ」
「それともあんた、今までの相手にもそんなん言うてきたん?」
「……それは」
「いまのうちはあんたの客やねん。神様みたいに扱えなんて言わへんけど、うちが散歩する言うたら散歩する。わかった?」
 わかってたまるか。ついそう言ってしまいたくなったが、実際遥の言うことは正しかった。金をもらう以上、彼女を満足させなくてはいけない。
「わかった、わかったよ。とりあえず歩こう。じっとしてるほうが寒い」
「あい、お散歩けってーい。じゃあこっち行こ」
 言われるがまま、遥の後を追う。もう歩けないと言っていたのが嘘のように、その足取りは軽やかだ。
「じゃあ、さっきの話の続きやねんけどさ」
「さっきのって、どの話だよ。飯食ってる間なんも話してないだろ」
「ラーメン屋に行くまで喋ってたやん。その話。アキさん、普段なにしてんの? 毎日女の人と会ってるわけちゃうやろ」
「……なんもしてないよ」
「はい嘘。なんか間があった。なに、人に言えへんような趣味でもあんの」
「ないよ。ただ一日ぼーっとしてるだけだ」
「つまんな。じゃあアキさんさ、彼女おったこととかあんの?」
「高校の時にひとりと、大学でふたり。どれも長くは続かなかったけどな」
「結構モテてるやん。どんなひとやったん?」
「高校のときのやつは――」
 その後も、遥はとにかくよく喋った。好きな食べ物、よく聴く音楽、最近面白かったこと。大学生というより、親戚の中学生くらいの子供を相手しているような感覚に近く、だがこちらが答えないことに対しては深く追求してこない。ころころと話題が変わっていくので、なんだかんだ話していて退屈はしなかった。少し喋りすぎた気もするが、どうせ一度きりの関係なので気にはしなかった。

 そろそろ髪切ろか。遥がそう口にしたのは店を出てから四十分ほど経った頃で、いつの間にか大通りから外れていた。
 彼女が初めからここを目指していたのか、適当に歩いた結果ここにたどり着いたのか、すぐ近くにあったラブホテルに入った。
「なんかようわからへんねんけど、お金ってどこで払うん?」
 どうやら後者のようだ。SNSであんな募集をかけられるくせにラブホには緊張するのかと思うと、少し可笑しかった。
「なにわろてんねん」
「精算は部屋で出来る。チェックイン済ませてくるからそこで待っとけ」
 空いていた部屋を適当に選んで鍵を受け取ってから遥のもとへ戻ると、明らかに機嫌を悪くしていた。
「ほら、行くぞ」
「うっさい。援交で得た知識なんかで偉そうにすんな。髪の毛めちゃくちゃにすんで」
「普通に困るからやめてくれ」
 文句を呟く遥を先導して部屋に入る。比較的安価なホテルではあったが、後ろでは感嘆の声が上がっていた。機嫌を取り戻したらしい。
「なんか、思っとったより、なんか……茶色い」
「シックってことか? そりゃあまぁ、全部が全部ピンクピンクしてるわけじゃない」
 ベッドにリュックを放り投げてからしばらく部屋中を回って、やれ風呂がおしゃれだの、やれベッドがでかいだのと騒いでいたが、落ち着きを取り戻してからはまるで借りてきた猫みたいにベッドの上で縮こまっていた。ここに入ってから気性のアップダウンが激しくて、こっちまで疲れてくる。動かなくなった遥を放っておいて、とりあえずスペースが必要だろうとテーブルを片付けた。
「なぁ、髪切るんだったらなんか床に敷かなくてもいいのか?」
「……あんさぁ」
 俺の言葉が聞こえていないのか、うつろな顔で気の抜けたような声を発している。
「なに?」
「うちさ、彼氏できたことないねん」
「……へぇ」
 まずいな。直感でそう思った。嫌な予感がする。それも、かなりの。
「それは意外だな。男には苦労しない見た目してそうだけど」
「今まで出会うた男なんて、みんなただのガキやで。話とってなんもおもろないもん」
「高校までは男なんてそんなもんだよ。けど、大学に入れば多少は違うだろ。俺は大学で面白い奴らにかなり出会ってきたけど」
「あいつら全員ちんこで考えてちんこから声出しとんねん。きしょいだけやん。目で分かんねん」
「別に、全員そうじゃねぇだろ」
「……せやな。アキさんはちゃうわ」
「……」
 無視して片づけを進める。たぶん、ここで返事をしたらダメなんだと思う。けれど、どうしたってこの後の展開はきっと、変えられない。そんな嫌な確信があった。
 ある程度スペースが空いたところでおずおずと彼女に目をやると、涙ぐんだ目でじっとこちらを見つめていた。
「場所、出来たぞ」
「アキさんは、ちゃうねん」
「……俺がどうやってお前と会おうとしたのか、忘れたのかよ」
「そんなん関係ない!」
 突然の叫び声、その小柄な体躯から出たとは思えないほどの声量に、思わず萎縮してしまう。
「そんなん、関係ないやんか。実際援交しとったんやとしても、一回もうちのこと変な目で見てなかったやん。セックスしません言うたら、ちゃんとせぇへん感じで接してくれてたし、ここラブホやのに、さいしょっから髪切ろ言うて用意し始めるし、なんか、なんかわからんけど、アキさん優しいやん。他の男とは、ちゃうよ」
 ぜんっぜん、ちゃうよ。何度も呟きながら、その目からは大粒の涙を流していた。
 援交の際、相手を惚れさせたらいけない。一回限りの、営業の関係でないといけない。半年間で俺が実感したことだ。忘れていたわけじゃない。だが、どこかで油断していた自分がいるのも、たぶん事実だ。
「一回落ち着けよ、今水入れてく「うちはアキさんのこと好きやで」
 女は年上の男に惚れやすいらしい。自分の知らないことを知っているとか、話が面白く感じるだとか、理由はいろいろあるらしいが。
 俺と遥はたったの四つか五つの差だ。けれど、学生と、無職とはいえ社会人という差は、俺が思っていた以上に大きな壁らしい。
 けど、遥。全部違うんだよ。お前が俺に抱いた感情は、全部幻で、全部まやかしなんだ。
「……勘違いだよ。よくある。たった半日、数時間過ごしただけでそう思うのは、ただの思い違いだ」
「どんだけ一緒にいても、男のこと好きになったことなんてないもん。数時間の関係でも、うちが好きになったんやから、勘違いやない」
 目をぐちゃぐちゃにしながらそう訴えてくる遥の姿は、やっぱり親戚の子供のようにしか見えなかった。別れ際、もっと一緒に遊びたいと泣きじゃくるような子供の姿にしか。
「……髪、切ってくれ。全部それからだ」
 力なく告げると、遥はしゃくり上げながらリュックからブルーシートと、ハサミが入ってると思われる大きめの入れ物を取り出して準備を進めた。
「髪濡らしてきて」
 小さく言われ、風呂場に向かった。シャワーが温まるのを待つのが面倒で、冷水のまま頭だけ雑に濡らす。シャツに飛沫が飛ぶのも気にしなかった。
 軽く頭を拭いてから部屋に戻ると既にセッティングは終わっていて、カット用のハサミが数本入ったホルダーを腰に携えた遥が仏頂面で立っていた。
「……思ったより様になってるな」
「どう、ぞお座り、ください。本日はど、どのような髪形をご希望で」
 俺の言葉を無視して、本物の美容師のように訪ねてくる。本物と違うのは不機嫌な表情と震える声くらいか。
「……じゃあ、店員さんのオススメで」
「いっちゃんめんどくさい注文やん」
 せっかく雰囲気を壊さぬよう接したのに、それを向こうから崩されてしまう。それでも、すこしずつ声のトーンが戻っているのだけが幸いだった。泣いている子供の世話は苦手だ。
 百均で売ってるような散髪用ケープを乱暴に被せてきたかと思うと、しばらく唸っていた。
 三分くらいそうしていたかと思うと、納得したのかちいさく頷き、そこで初めて彼女の手が俺の頭に触れた。
 ガシガシと櫛を入れられ、左後頭部の髪が引っ張られたかと思うと、ジャキ、という音と共に最初の一束がブルーシートの上に落ちた。
 ジャッ、ジャッ、ジャッ。
「……さっきも言うたけどさ、うち、彼氏できたことないねん」
「……あぁ」
 ジャッ、ジャッ。
「それって、うちが男のこと嫌いやからやねんけど、一応それ理由あって」
 ジャキ。ジャキ。
 鏡がないので、今自分がどんなふうに変わっていってるのかを見ることは出来ない。
「最初にちょっと言うたかもしれんけど、うちの親、アホやねんな。うちアホみたいに金持ちで、中学んときから欲しい言うたもん全部買うてくれてんけど」
 遥が右側に回る。
 ジャッ、ジャッ、ジャッ。
「それまではなんとも思わへんかってんけど、高校入ってから、あっ、あんまり金持ちって言わへんほうがええんやって気ぃ付いて、けどそう思った時にはもうあかんかって」
 ジョキ。ジャッ、ジャッ、ジャッ。
「出来るだけ隠しときたかってんけど同中の子とかおったからすぐばれて、そんで、周りの子らがうち見る目ぇ変わって」
 ジャッ、ジャッ。ジャキ。ジョキ。
 目だけで床を見ると、既にかなりの量の髪が切られたことがわかる。言葉はゆっくりと紡がれていっているが、カットのスピードは本職と遜色ないほど早い。
「あきらかお金目当てで声かけてくんねんもん、ほんまきしょくて。誰がお前と飯行くかって思ててんけど。けど、親が金持ちなんほんまやし、そんとき月に五万くらいお小遣いもろてて、うちもそれ普通に使てたから結局おんなじなんかなって思たら、もうどうでもよぉなって。大学も親に全額払ってもろてるし、生活費も」
 あ、ちょっと顎引いて。ん、ありがと。
 ジャッ、ジャッ。
「けど、あんときのうちを見る男子の目ぇ忘れらへんくて、そっからもう男が嫌いやねんな。でもな」
 ジャキン。
 初めて、遥の手が止まった。
「でも、まわり見てたらたまに思うねん。うちも普通に好きな人とか作りたかったし、彼氏と一緒にデートとかしたかったなって。やから、あんな変な募集掛けてみてん。髪切りたいとかいうやつに真面目に返事してくる人とかおったら、絶対おもろいやんて」
 ハサミでの作業はいったん終わりらしく、床に置かれた入れ物からバリカンが取り出された。
 もっかい顎引いて。
 ヴーーーン。静かな部屋の中に場違いなモーター音が響き始めた。
「それで来た返事が「忙しくて髪伸びたから切ってほしい」やってんもん、絶対この人おもろい! ってなって。そうじゃなかったらまず会わへんもん。会ってみたら、集合場所間違えるし、敬語やし、やのに意外と口調荒いし、カッコいいし、優しいし」
 ヴヴン。
 シャキ。シャキ。シャキ。
「そんなん、好きになるに決まってるやん」

「はい、完成。無難にツーブロック」
 渡された鏡で確認すると、実際に美容室でカットしてもらったのかと思うほどクオリティの高い髪形に仕上がっていた。
「……めちゃくちゃにされてるんじゃないかドキドキしたよ」
「なわけないやん。これでも実技の成績トップやで」
 ブルーシートに散らばった髪を片付けている遥は、そう言いながらまだ若干緊張しているように見えた。その緊張が生身の人間を相手にしたことからくるものなのか、それとも、それ以外の理由か。きっと、後者なんだろうとは思う。
 一時間弱ぶりに解放された体はすっかり固まってしまって、伸びをするとポキ、コキ、と音が鳴った。これで、遥の相手をするのは終わりだ。
「……じゃ、これ、お金」
「……あぁ」
 差し出された三枚の紙幣。これを受け取ったら本当に終わり。きっと、これから彼女と会うこともないだろう。先ほどまでのこともなあなあで流せば、あとは家に帰って、お互い今までと変わらない生活に戻れるんだろう。少なくとも俺は、時間が経てば今日のことなんてすっかり忘れてしまうだろうし、それでいいと思っている。
 しかし、鏡に映る今の自分にもう会えないというのは、なんだか惜しい気がした。
「……金は、いいや」
「は……?」
「それで今度、飯でも奢ってくれ。あと、この髪形も結構気に入ったから……また切ってほしい」
「……」
 信じられないという顔でこちらを見上げてくる遥の目には、また大粒の涙が溜まっている。泣いている子供の世話は、苦手だ。

                                        了

ずるくなんてなかった

 外から夕陽が差し込む暗がりの部屋の中で、机の上のパソコンだけが不健康そうな光を発していた。スピーカーからは環境音と、それに調和するような静かなBGMが流れている。画面の中では、木造民家の縁側のような場所で、小学生と思しきポニーテールの少女が棒アイスを口いっぱいに頬張っている。少女は水色のキャミソールと下着が見えそうなほど短いホットパンツを着用し、どこか挑発的な視線をこちらに浴びせかけている。
 アイスは次第に溶け始め、服の上にポタポタと零れていくが、少女は意に介さず、こちらの劣情を煽るようにして舌を動かす。その動きはアイスを食べているというより、まるでアイスを何か別のものに見立てているようで、おおよそ小学生がしていいような動きではなかった。
 映像が切り替わり、今度は画面外から伸びてきた数本の腕が棒アイスを持っていた。腕は、少女の口、胸元、太ももにそれぞれアイスを撫でつけていくが、少女はそれを拒まない。腕の動きは段々とエスカレートしていき、アイスを服やズボンの中に突っ込んで塗りたくっている。その時初めて、少女がホットパンツの下に水着を着ていることが分かった。全身にアイスを塗られた少女は、それでもこちらに視線を送り続けている。その目を見ながら僕はベルトを外してジーパンを下ろし、ペニスにコンドームをはめた。

 昨日、僕は初めてのセックスに失敗した。
 大学二年生から始めた塾のアルバイト。そこで知り合った緋奈子と付き合い始めたのが五か月前、ちょうど三年生に進級した頃のことだった。
 緋奈子は僕と同じ大学の教育学部に通っているけれど、初等教育を専攻している僕と違い、中等教育コースの国語を専攻している。大学内で会うことはあまりないけれど、塾での授業の空き時間に会話をしているうちに――同じ教師志望ということもあってか――すぐに打ち解け、大学でも、お互いに授業がない時間を一緒に過ごすようになった。
「忠治とおる時間が一番好きやわ」
 そんな好意的な言葉を投げかけられるようになってから僕も彼女のことを意識し始め、どちらともなく付き合うことになった。それから五か月間、周りのカップルより少し多くの時間をかけて、ゆっくりとふたりで愛情を確かめ合ってきた。

「忠治、そろそろ、さ」
 僕の家でご飯を食べ、交代でシャワーを浴び、その後は適当な番組を流し、ベッドに腰かけてふたりで見る。授業や塾が休みの日は、そんな風にして過ごしていた。そんないつもの時間だけど、今日は少しだけ、雰囲気が違う。
「そろそろ……シよや」
 緋奈子が俯きがちに、歯切れが悪そうに提案してくる。付き合い始めて五か月が経ち、お互いに少しずつ、セックスすることを意識していた。他人に話せば笑われるかもしれないけれど、お互いに初めてのことだからとふたりで準備して、するなら今日だと決めていた。
「……そ、やな」
 ふぅ、と大きく息を吐いて、緋奈子に向き直り、軽くキスをする。いつもの緋奈子ならふざけていつまでも口を離さずにふたりで酸欠を起こしたりするのに、今日はピクリとも動かずにいた。
「……大丈夫?」
「んー……めっちゃ緊張する」
 僕以上に体をこわばらせている緋奈子を見て、なんとかリードしようと彼女をベッドに寝かせる。改めて触れた彼女の肩はとても小さく感じて、今からこれを抱くのかと思うと一層緊張が走った。
「落ち着くまで待とか」
「んーん、大丈夫。やろ」
 バッチコイ! と手を叩く緋奈子に少し安心し、彼女の部屋着にゆっくりと手をかけ、脱がす。初めて見る彼女の服の下は色白で、肌の質感から男女の違いを感じさせられた。胸は服の上から想像していたより少し小ぶりで、ただ、それを口にすると怒られそうだったので、「肌、綺麗」とだけ言った。
「最近太ってん。あんま見んといて」
「これぐらいがちょうどいいよ」
「胸もそんなおっきないし」
「……これぐらいがちょうどいいよ」
「なんなんその微妙な間」
 忠治もはよ脱いで、と言われ、慌ててシャツを脱ぐ。腹筋が割れてないと怒られたが、完全に調子を取り戻している緋奈子に安堵した。
「じゃあ、ズボンは忠治が先な」
 悪い笑顔で指さされ、渋々という演技をしながらジーパンを脱いだ。トランクス一枚になり、冷房が少し肌寒いなと感じる。
「エアコン切っていい?」
「ええよ。わたしも脱ぐ」
 エアコンのリモコンを操作しつつ、机の横に置いてある小物入れの底からコンドームを一枚取り出す。振り返ると、緋奈子は毛布にくるまっていた。
「寒い?」
「恥ずかしい」
 横に座って軽くキスをし、震える手で緋奈子のパンツに手を伸ばした時、ふと、違和感に気が付いた。
「……どしたん」
 心配する緋奈子の声も届かず、僕の頭の中では「なぜ?」という疑問だけが飛び交っていた。なんで、どうして、ここまできたのに。
「忠治、ただはる」
 肩を揺さぶられ、ようやく我に返る。緋奈子の表情は不安で溢れ返っていた。
「どしたん、急に固まって」
「いや……わからん、なんでかわからんけど……勃たへん」
 裸の恋人を前にして、僕のペニスは無反応だった。

 シークバーを半分くらいまで進めると黒い水着を着た少女が横たわった画面が表示される。肌は不自然なテカリ方をしており、その原因は画面外から伸びてきた腕に乗せられたローションであることが想像できる。先程とは違い、今回写っている腕は女性のもののようだ。
 少女はマッサージを受けており、リラックスしているように見える。さらにシークバーを進めると、同じ構図ではあるものの、少女の水着がめくられ、ギリギリ乳首が見えない程度まで露出していた。腕は胸の周りを執拗に行ったり来たりしていたかと思えば、今度は腰に移動し、水着を脱がす。そう指示されているのか、少女は脚を動かし、局部が見えないよう内股になった。腕は太ももから股関節にかけてをゆっくりと往復している。再度胸元にカメラが映ったタイミングで手を激しく動かし、コンドームの中に射精した。
 
 あの後、緋奈子は泊まって行った。
「たぶん、緊張とか、それか疲れてたとかやと思うから、またシよ、な」
 そう言って、狭いベッドで背中を合わせて、眠りについた。僕はほとんど眠れなかった。
 今朝はふたりで家を出て、大学で別れた。昨夜のことは何も話さなかった。授業が終わって家に帰ってきてから、早めの夕飯と風呂を済ませ、日が傾き始めた頃にアダルトサイトの動画を見て、ちゃんと射精した。昨日のあれは勃起不全だとかそういうことではなく、きっと彼女の言う通り緊張で勃たなかったのだと思うけど、理由はどうあれ、男としてめちゃくちゃに情けなかった。それに、昨日は何にも反応しなかったのに、目の前の動画にはしっかり反応を見せる自分に怒りが湧いてくる。
 時々閲覧しているアダルト動画サイトの中でも特に気に入っている動画。それは少女が出演するイメージビデオで、大学に入学して自分のパソコンを買い与えられて、こういうものを調べるようになった時に見つけた。それから自慰をするときは、似たような動画を使ってしている。
 正直、AVはあんまり好きではない。いくら本物っぽい感じで撮っていてもそこには演技が滲み出ていて、見ていても興奮を覚えない。そんな折に見つけたのがイメージビデオだ。そこに映る少女たちは、演技をしているというより日常を切り取った映像のように感じて、AVなんかより自然な状態に見える。少女趣味があるわけではないけれど、いつのまにかAVよりイメージビデオのほう多く見るようになっていた。
 本来使うべきだった時に使えず持て余したコンドームを処理して、今日の大学での授業を軽く復習してから眠ることにした。明日は夕方から塾のバイトが入っているので、朝早くに起きて取り扱う範囲をおさらいしておかなければいけない。小学生の問題なので簡単な物ばかりだけど、分かりやすくかみ砕いて教えるための工夫を凝らすのはなかなか大変だ。
 忘れないうちにアラームをセットして、授業で取ったノートと教科書を開く。三教科分の復習を終えたところで午後十時を回り、かなり早いが眠気に襲われたのでベッドに横になり、そのまま眠った。

 午後五時四十分。教室のなかには四人の生徒がおり、それぞれ次の教科の準備をしていたり、おしゃべりに夢中になっていたりする。僕が担当しているのは小学四年生の理科、社会で、このふたつは週に一回、土曜日に行われる。そして、緋奈子の担当している中学生国語も土曜日に開講されるクラスがあり、授業の時間は違うが終わってから職員室で顔を合わせることになる。いつもなら楽しみな時間だが、今日は少し憂鬱だった。
「先生、今日なんか元気なくない?」
 教室のドアから一番遠い隅の席で喋っていた梨々香が僕に声を掛けてくる。つられて、文もこちらを向いてきた。
「いやいや、大丈夫。でもまぁ、残暑がちょっとキツイかな」
「えー! こんなんちょうどいいやん! 先生暑がり!」
 梨々香の心配をごまかしていると、横から太志が割り込んでくる。彼は元気が有り余ってるタイプで、授業が終わる七時までずっと同じテンションでいる。
「それは太志だけやろ。なぁあーちゃん、まだ暑いやんな」
「んー……確かにまだ暑い、かな」
 文と梨々香は正反対の性格で、なんでも思ったことを口にする梨々香に対し、文はあまり自分の考えを表に出さない。それでも相性とは不思議なもので、ふたりはかなり仲がいい。梨々香が文を連れまわしているのかと思えば案外そうでもなく、うまくバランスの取れた関係になっているようだ。
 そして梨々香の反対側、ドア側の一番後ろで教科書を読んでいるのが幹太。仲間外れにされてるとかそういうのではなく、彼は教室の声を聞きながら過ごしているのが一番楽しいんだと以前言っていた。天才肌というのだろうか、半年近く授業をしているが、正直まだ彼のことを掴み切れていない。
「はいはい、じゃあ次理科やるから、教科書用意して」
「せんせ待って、鉛筆削るの忘れてた!」
「もー、はい、じゃあ一本だけ削ってきな」
 よっしゃ! と言いながら太志は廊下に設置してある鉛筆削りに向かう。基本の動きがダッシュなのが見ていて危なっかしい。ほんの十秒ほどで戻ってきて、改めて授業を始めた。
 いざ授業が始まると、先ほどまでの騒ぎが嘘のように静かになり、教室には僕の声と板書の音しか聞こえなくなる。あんなに騒いでいた太志でさえ、授業中は集中して僕の声に耳を傾ける。
 この塾の小学部にはAとSというふたつのクラスがあり、僕が受け持っているのはSクラス、学力で見ると上位に位置する側のクラスだ。そして、理科と社会の二教科は国語、算数、英語とは別枠で、受講する生徒も、受講させる親も少ない。土曜日開講だし、受講費だって決して安くはない。だから、Sクラスに属していて、尚且つ理科と社会を受講している四人は、勉強することをあまり苦に感じず、それでいてそこそこ裕福な家庭に育っている……なんて、いやらしい推測を立ててしまう。
「じゃあ、今日はここで終わり。今日の宿題はワークの残りだけでいいから、忘れてこんようにな」
「よっしゃー! 幹太、つぎの電車早くしないと行っちゃう! 先生ばいばい!」
 授業が終わった途端、太志はいつもの調子に元通り。メリハリがはっきりしてるのは良いことだけど、まるで二重人格のように思えてしまう。
「先生、さよならー」
 走り去っていく太志の後ろを幹太が小走りで追いかけていく。ふたりは同じ方向の電車に乗って帰っているので割と仲がいい、というのを算数担当の教員から聞いたことがある。
「あーちゃんまたね。先生もばいばーい」
 次いで、梨々香が席を立つ。この順番は毎週見慣れたもので、ある種のルーティンみたいなものになっていた。最後に文が立ち上がり、教卓の前までやってくる。
「先生、今日も質問、いいですか」
 文は算数の問題集を抱えて、そう尋ねてくる。彼女は見た目に寄らず、というと失礼かもしれないが、Sクラスの中ではあまり成績がふるっていない。平均的な小学四年生と比べたら十分優等生だろうが、Sクラスはまさに優等生の寄せ集めみたいな場所なので、その中での優劣はどうしてもついてしまう。特に算数などは、一度躓いてしまうと、その先にある数学にも苦手意識を持ってしまうようになるかもしれない。僕が小学校の教師を目指すのは、それ以降の勉強に苦手意識を持つ子を少しでも減らしたかったからだし、今の文みたいな状況の子を放っておきたくはない。
「もちろん。ちょっとテキスト片付けてくるから、その間にわからないとこ開いといて」
 そういうと、文は微笑んでうなずいた。いつも物静かな彼女を見ているとずいぶん大人びて見えるけど、こうした表情を見ると年齢相応の少女なんだと思わされる。
 教室を出たところで、登校してきた中学生とすれ違い挨拶をかけられる。会釈を返しながら、もうすぐ緋奈子の授業が始まるな、と思った。今日緋奈子が担当しているのは中学生で、教室やカリキュラムの関係上珍しい土曜日開講の国語だった。授業時間がちょうど食い違うので一緒に通勤したり長い時間顔を合わせると言ったことはないけれど、彼女の授業が終わってからしばらく作業した後、時間を合わせて帰るようにしている。
 職員室にはしばらく授業のない、もしくは今日の分が終わったであろう教員が三人、コーヒーを飲んで雑談に花を咲かせているところだった。
「お疲れ様です」
「おぉ、お疲れ様。亀井先生、今日も渡辺さん、自主居残りですか」
 一番奥の席から塾長である安井先生の声が飛んでくる。彼は五十代半ばながらかなり若々しく、肌も浅黒くて少しおっかない見た目をしている。しかし、話してみると生徒に対しても、僕みたいな大学生教員に対してもおおらかに接してくれる面倒見のいいおじさんと言ったような人物で、塾長という役職を任されるのもうなづける。
「はい。今週は算数らしいですよ」
「算数はなぁ、二十人同時に教えとったら時間が足りん」
 横から辻井先生のため息が漏れる。辻井先生は小中学部の算数、数学を教えている先生で、太志曰く「普段めちゃくちゃ面白いけどすぐキレるしめちゃくちゃ怖い」らしい。一度、録画された彼の授業を見せてもらったことがあったが、要点を簡潔に伝え、生徒の「わからない」を即座に取り除き、そのうえでユーモアも忘れない、お手本のような授業だった。
「一回躓いてまうと厳しいところもあるからなぁ。ゆっくり教えたりたいけど、毎週テストもせなあかんから、結局生徒のほうから質問に来てくれんと教えられへん」
「辻井先生ではなく亀井先生に質問に行くというのがまた、面白いですな」
 はっはっは、とコーヒーを飲みながら笑う安井先生と、気に入らんわぁ、と冗談めかして睨みをきかせる辻井先生への挨拶もそこそこに、職員室を後にした。
 ちょうど職員室を出たタイミングで授業時間となり、廊下はシンと静まり返っている。教室に戻ると文が問題集とノートを開いて待っていた。
「お待たせお待たせ、どこの問題?」
「ここの、花弁の面積を求める問題と、こっちの角度の問題です」
 文が提示してきたのは応用問題をさらに発展させた問題で、難易度は結構高めのものだった。しかし、基本の考え方を組み合わせれば、あとは段階的に答えを導き出せる。そのヒントだけ提示して、しばらく見守ることにした。
 教室内が静かだと、他の教室の声が良く聞こえる。今日緋奈子が授業している教室は文たちに授業していた教室のちょうど向かい側になっている。扉を閉めていても彼女の声がときおり聞こえて来て、その度に二日前のことを思い出してしまう。文が問題を解く姿を見ながら情事の失敗を思い出すというのはさすがに教師としてどうかと思い、考えを払いのける。そうしてひとつ息を吐き、文のノートをのぞき込んだとき、ふと、昨日見たイメージビデオの少女と文の姿が重なった。
 キャミソールとホットパンツを着てアイスを食べる少女、裸同然でマッサージを受ける少女、そして、目の前で算数の問題を解く少女。かたや性欲の掃け口としている少女、かたや自身が受け持つ生徒。そのふたつを同じ目で見るなんて、考えられない、ありえない。
 隣の教室では緋奈子がテキストを読み上げる声が聞こえる。目の前では自分の生徒が必死に問題を解いている。そんな状況の中、教卓の下で、僕のペニスが痛いくらいに勃起していた。
「先生、どっちも解けました」
「ん、ああー……おっけ、どっちも正解。やっぱり文は本の使い方さえ覚えたらすぐ解けるようになるな」
 なんとかいつも通りの対応をしつつ、教卓の下では右手で股間を抑えつけていた。生徒に欲情するというありえない事実を隠すように、痛みを無視して抑えつける。
「それじゃあ先生、ありがとうございました。……またお願いするかもですけど」
 困ったような笑顔を浮かべて、文は教室を後にした。三分ほど呼吸を整えてから僕も教室を出て、教員用のトイレに籠り、痛みを無視してペニスを扱いた。今までにないほど気持ちいい射精が出来て、とても気持ち悪かった。

 緋奈子に、体調が悪いからひとりで帰るとトークアプリで伝え、いつもより少し早く帰宅した。そしてすぐにパソコンを立ち上げ、あの動画サイトを開く。キーワードを入力して出てきた動画を開くと、棒アイスを食べる少女が出てきた。
 少女趣味がないなんて、よく言ったものだと思う。自然な状態だから興奮するなんて、無意識に言い訳を生み出していた。
 結局僕は、画面の中の「少女」に欲情していただけに過ぎない。文を、生徒を目の前にして、僕は勃起を抑えられないでいた。しかも、その対象は生徒自身だ。教師として僕を頼ってくれる少女を、僕は性的な目で見ていた。
 僕が小学校の教師を目指すのは、それ以降の勉強に苦手意識を持つ子を少しでも減らしたかったから……。
「……んなもん、ただの言い訳だろ!」
 叫んで、机を叩いた。筆箱が転がり落ちて、隣の部屋から壁を叩く音がした。
「僕は、ほんとは……」
 教師の夢も、生徒への態度も、緋奈子への愛も。全部、ただの嘘なんだ。

 ベッドに並んで座り、バラエティ番組を見ていた。司会者がゲストの話を聞いて大袈裟に頷き、涙を流している。ほかの出演者も涙を流している。その中の一人は、別の番組で「いつでも涙を流すことが出来る」という特技を披露していた俳優だった。涙もゲストの話も、全部大嘘だと思った。
「そしたら……やりますか」
 隣に座る緋奈子が、気合を入れるように言う。「変に雰囲気を作ると緊張感が増すから」という緋奈子の意見を受け、あえてムードを作らずにセックスに挑むことになった。
 お互いに服を脱ぎ、抱き合って、キスをした。緋奈子に初めてペニスを触られて、慣れない感触に驚いたけど、勃起することはなかった。結局失敗に終わってしまった。
「なんでなんやろなぁ」
 部屋着を着なおして、狭いベッドに背中合わせで寝転がる僕と緋奈子。緋奈子は延々僕に気にするなと言い続け、それに対して僕は謝ることしかできなかった。
「こう、普段ひとりで……するときはさ、どうなん?」
 生徒と同年代の少女に性的興奮を覚えている、なんてことは、口が裂けても言えなかった。
「最近……ひとりではしてなかったから、わからんわ。ごめん」
「そっかー……」
 前まではどうやったん? そう続くかと思ったが、曖昧な返事を最後に緋奈子は何も言わなくなり、しばらくして寝息を立て始めた。納得したのか、呆れて眠ってしまったのかはわからない。布越しにあたる肩甲骨が気まずくて、ほんの少しだけ、距離を取った。

 昼過ぎに授業を終え、帰宅途中で買ったコンビニのパンをコーヒーで流し込みながらパソコンに向かっていた。分厚い雲が太陽の光を遮り、外からはあまり光が差してこない。しかし部屋の電気は付けずにいるので、不健康そうな光だけが部屋を不気味に照らしている。昔から、母が太陽がほぼ沈み切るまで電気を付けない人だったためかその習慣を僕も受け継いでしまい、一人暮らしを始めてからも午後七時頃までは灯りを付けない生活をしていた。三年目にしてそのツケが回ってきたのか、最近視力が落ちた気がする。
 唯一の光を放つパソコンのモニターには、いくつかの事件記事が表示されている。それらはすべて小学校の女子児童が教師から性的暴行を受けたという内容のものであり、記事の見出しには「ロリコン教師」の文字が躍っている。
 「ロリコン」という言葉を検索して出てくるのは言葉の意味と事件記録がほとんどで、画面をスクロールするとロリコンという言葉をタイトルに使った漫画、ネット小説がちらほら。しかしそれも少しのもので、また事件記録がずらりと並び始める。教師が加害者で児童が被害者という構図が最も多く、それらを他人事と片付けることは、今の僕にはできなかった。
「……」
 ヒットした記事をひとつひとつ確認していると、そのどれもに怒りが湧いてくる。身勝手で、子供のことを何も考えていない。教師になっておいてなぜそんなことをと思うが、初めからそれが目的で、教師なんて手段でしかなかったのかもしれない。最低だ。けれど、自分もその「最低」に一歩足を踏み入れている。生徒に欲情して、それをネタに自慰をした。一歩どころでは済まないかもしれない。記事に取り上げられている加害者たちも、最初は葛藤を抱えていて、ある時に理性を失い、欲望が爆発したのかもしれない。
 僕もいつかは……。そう考えて、椅子にもたれかかった。ありえない。そう力強く否定することが出来ない自分が情けなく、腹立たしかった。
 検索キーワードの「ロリコン」の後ろに「どうすればいい」と追加してみる。ずらりと並んだのは質問投稿サイトのページで、その見出しのほとんどは自身、または家族がロリコンかもしれないという悩みの相談だった。試しに一番上のものを開いてみる。
『自分は大学生ですが、ロリコンかもしれません。下着の盗撮画像とかに興奮してしまいます。どうするべきでしょうか』
 それに対して十数件ほど「治すべき」「手を出してないなら問題ない」「アウト」などの回答が並んでおり、後半の方には「男はみんなロリコンだ」なんていう荒唐無稽な返信まであった。これ以外の質問に対する回答も似たようなものばかりが並んでいる。
 手を出さなければアウトじゃない、と考えるなら、僕はまだセーフなのか? そもそも小学生に欲情してる時点でアウト? でも、心で思うだけなら犯罪は成立しなくて……。
「……わかんねー」
 考えれば考えるほど深みにはまっていって、頭の中がぐるぐると回って気持ち悪い。きっと、少し前までの自分なら「そんなこと考えた時点で人としてだめやろ」と言えたと思う。さっきまで見てた事件記事みたいな話がニュースで流れてきたら「気持ち悪い」と言ってのけることが出来たはずだ。それなのに、今は自分を正当化させるのに精いっぱいで、つまりこれがあちら側への二歩目なんだろうな、と実感する。
 サイトを閉じて、最後に『ロリコン 治し方』で検索する。先程までと違い、それっぽい記事が少ない。三つほどのサイトを閲覧して得られた結論は「性欲抑制ホルモンを打つか収容施設に入る」というものだった。根本的な解決は不可能とする記事もあり、改めて事の深刻さに気付かされる。
「緋奈子には……言えんなぁ、流石に」
 小学生に欲情するからあなたとはセックスできません。そんなこと、口が裂けても言えない。だけど現実に、そうなってしまっている。これが、小学生にも同年代にも同じように反応できるなら、どれだけマシだったか。そう思わずにはいられない。
 ブラウザを閉じ、椅子に深くもたれかかって目を瞑る。ベッドに横たわる裸の緋奈子を思い出した。日焼けのしていない白い肌、胸元まで伸びた真っ黒い髪、肩から指先にかけてのライン、お腹と腰の健康的な肉付き……。贔屓目抜きにして、とても綺麗で、理想的な体だったと思う。けれど、そんな姿を思い出してみても、股間は少しも反応を見せない。まだ聞いたことのない嬌声を想像してみても、効果はなかった。
 次いで、ためらいを覚えながらも文の姿を想像する。子供らしい服の下にある平坦な体、自分の半分にも満たない大きさの手、毛の生えていない股間部分……。さっきまで無反応を貫いていたペニスが即座に勃起し始める。最低だ。そう思ってため息をついても勃起が収まることはない。閉じたばかりのブラウザを、再度開いた。

「……あかんなぁ」
 三度目のセックスは、またしても失敗だった。その理由に僕は気付いているけれど、緋奈子に言うことは決してできない。ベッドに腰かけて、やはり謝ることしかできないでいた。
「なんかもう……なんでやぁ」
 ばたりと音を立てて布団に倒れ込む緋奈子の声は震えていた。限界なんだと思う。そりゃあそうだ。付き合って半年近く経っている恋人が、情事に勃たない。それも三度目。緊張とか疲れでごまかせるものではない。
「やっぱり、冗談抜きに勃起不全なんちゃうん。病院、予約しようや」
「それは……違うと思う」
 普段は勃つのだから、病院に行っても意味はない。
「違わんかったらなんなんよ」
 上体を起こし、緋奈子が怒気を孕んだ声で言う。
「それは……ごめん、わからへん」
「ごめんごめんごめんごめんって、うっさい! ごめん以外になんか言ってや!」
 バカ正直な返答と、もう何度目かもわからない謝罪。起爆剤となるには十分すぎた。
「あたしも、なんか出来ひんかなってわからんなりに調べて、どうしたらええんかなとか、薬は怖いなとか、ただはるのこと考えて!」
「緋奈子、落ち着い」
 伸ばした手を払われる。思えば激昂する緋奈子を見るのは初めてのことで、僕はただうろたえることしかできない。
「そんでもやっぱりうまいこといかんし、理由もわからへんし! じゃあ原因あたしなんかなって、あたしが悪いんやって思って、でもそんなこと言ったらめんどくさい女みたいで嫌やし、余計ただはるに負担なるかなって思って」
 怒った声は次第に弱々しく、小さなものになっていき。
「でもやっぱり、我慢出来ひんかった……。嫌や……こんなん嫌……」
 完全にすすり泣きになった時に、それでも僕は。
「……ごめん」
 謝ることしか、できなかった。

「別れたくない」
 三十分ほどが経過し、息が整い始めたところで唐突に緋奈子がそう呟いた。
「忠治がなんで出来ひんのかわからんし、なんかもう色々ムカついて叫んだけど、別にセックス出来ひんくても忠治好きやし、あたしは別れたくない」
「……うん」
「でももし、忠治が別れるって言ったら、そうする。あたしが重荷なんやったら、それはあたしが悪いから、そのときは」
「それだけは絶対ない」
 緋奈子の言葉を遮り、強く否定する。落ち着きかけた緋奈子がまた、目に怒気を込めてこちらを睨んでくる。分かってる、言葉に根拠がない。それでも、僕は緋奈子から目を離さず、もう一度強く言った。
「僕から緋奈子と別れたいと思うことなんて、絶対ない。信用無いかもしれんけど、僕はちゃんと緋奈子が好きやし、その、勃たへんのは……なんとかするから」
 ジッと緋奈子の目を見つめて、出来る限りの本心を告げる。少しの静寂の後、緋奈子は「わかったわ」と言って下着姿のまま布団に潜り込んだ。
 なんとかする。そうは言っても具体的な解決方法を見つけているわけじゃない。焦ってどうにかなる問題でもないけど、次の機会までに何とかしないといけないと思うと嫌でも焦ってしまう。緋奈子の隣に入り込むことが出来なくて、脱ぎ捨てた服を着ながら「飲みもん買ってくる」と告げて部屋を出た。いつの間にか残暑は消え失せ、半袖では肌寒い空気になっていた。

「最近、七瀬先生の元気がないみたいなんですが」
 授業前に職員室で理科のプリントを整理していると、ひとりコーヒーを飲んでいる安井先生に声を掛けられた。緋奈子との関係は他の職員の先生方にも明かしていて、時折こういったことを聞かれることがある。
「亀井先生、なにかご存じではないですか?」
 ズッとコーヒーをすすり真っ直ぐにこちらを見据えてくる安井先生の目は既に何かを見透かしているように見える。時計を見ると、授業開始まで二十分ほどあった。
「実は……ちょっと喧嘩と言うか、すこし揉めてまして……」
「ほぉ、またこれは珍しいですね。亀井先生が七瀬先生を怒らせてしまったのですか?」
「まぁ、はい……」
 プリントを机に置き、安井先生の方に向き直って答える。あれから既に三日経っていたが解決策がなにも思い浮かばず、藁にも縋る思いだった。
「はははっ、その様子だとだいぶ悩んでるみたいですね。これまで七瀬先生とお付き合いさせていただいてきた感じ、そうそうのことではあそこまで落ち込まれることはないと思いますが」
「そうですね……ただ今回はなんていうか、僕のせいで破局の危機に瀕している感じで……でも、どうにも解決策が見つからないんです」
「ふん……それはかなり、重大ですね。もしや亀井先生が浮気でもと思いましたが、その口ぶりからするにそれとは別の、大きな問題ですか……」
「ですね……」
 ズズッ、とコーヒーを口に運ぶ安井先生は眉間にしわを寄せていて、結構真剣に考えてくれているようだった。
「答えにくかったら言わなくても大丈夫ですが……夜の営みにまつわるお話でしょうか」
 えっ、と思わず声をあげてしまった。その時点で肯定してしまったようなものだ。
「……正直に言うと、勃たなくて。三回ほど失敗してて、緋奈子を怒らせてしまったんです」
 職員室の外には少しづつ生徒が集まってきている。自然と小声になっていた。
「勃起不全ですか」
「いえ……特定のジャンルというか、一応反応するものはあって……ただ、それが緋奈子の前だと全然……」
「ほぉ、なら解決するのは簡単なんじゃないですか?」
 えっ。二度目の声は先ほどより小さいながらも、大きな驚きを伴っていた。解決が、簡単?
「簡単です。情事の前にそのジャンルのビデオを観たり、行為の時にそのシーンを思い浮かべたらいいんですよ」
「……それは」
 確かに、なにもしないよりは圧倒的にいいかもしれない。
「けどそれは、緋奈子の気持ちを踏みにじるというか、ずるいというか、その……」
「亀井先生」
 ピシャリと、小声だが力強く言葉を遮られる。その目は真っ直ぐに僕のことを見つめていた。
「厳しいことを言うようですが、あなたは既に、彼女の気持ちを踏みにじっているようなものです。ずるいのがなんですか、ずるくたっていいじゃあないですか。あなたがちゃんと七瀬さんのことを考えているなら、それくらいの罪悪感、背負ってみてくださいよ」
 もう授業の時間ですよ。固まっている僕をそっと促す安井先生の顔には、いつもの笑みが浮かんでいる。
「……ありがとう、ございます」
 感謝の言葉を口にして理科のプリントを手に教室に向かう。扉を開けると、太志と梨々香がなにか言い争っていて、その横で文が困った顔で笑っている。幹太はいつものように教科書を開いて読んでいる。こころなしか、その口元が少し緩んでいるように見えた。
「……よーし、静かにして。授業始めるからー」
 声を掛けると太志と梨々香は文句を言いつつも準備を始め、文も椅子を自分の机まで戻す。プリントを配り始めた時には先ほどまでの喧噪は無くなり、四人とも真剣に問題を解き始めた。

 太志、幹太、梨々香が帰った後、文がまたいつものようにわからない問題の質問にやってきた。隣の教室から漏れてくる緋奈子の声を聞きながら、文の質問に答えていく。黙々と問題を解く彼女の姿を、出来るだけ目に入れないようにした。

 シャワーに入った緋奈子を確認して、スマホでいつもの動画を再生している。これまでとは若干違う緊張がありながらもペニスは勃起していて、今日はうまくいくだろうという確信があった。
 緋奈子が浴室から出てきた音を聞いてスマホを片付け、部屋の電気を暗くする。心臓が高鳴り、呼吸が少し浅くなってきた。落ち着け、と自分に言い聞かせる。
「……出たで」
「……うん」
「……今まであたしの裸見てもなんもならんかったのに、なんでもう準備出来てんの。変態やん」
「……かもしれんわ」
「あほ」
 黄色い照明に目が慣れてきて、緋奈子が泣いているのがわかった。
「あほ。あほ。あほ」
「……うん」
 泣き崩れる緋奈子のもとに寄り、そっと抱きしめた。まだ体は温かく、髪も少し湿っている。僕と同じシャンプーを使ったはずなのに、とてもいい匂いに感じた。
「あほ……ほんま、あぐっ、あほ」
「……うん」
 三十分ほどして緋奈子が泣き止んだ後ふたりでベッドに入り、そこからまた数分緋奈子が泣いてしまって、その後ようやく、ようやく僕たちはセックスした。結局緋奈子はずっと泣いていて、その間も僕の頭の片隅には動画のシーンが流れていたけど、とにかくようやく、僕たちは仲直りができた。

「先生さよなら!」
 教室から勢いよく出ていく太志と、小走りで追いかける幹太。その後に梨々香が出ていく。
「りぃちゃん、ちょっと待って」
 教科書を片付ける文が梨々香の背中に声を掛ける。
「今日は一緒に帰れるから、帰ろ」
「ほんま? めっちゃ久しぶりやん! 帰ろー!」
 カバンを手に持った文が梨々香のもとに駆け寄っていく。
「せんせーばいばーい」
「さよならー」
「ん、気ぃつけてな」
 教室の外でふたりを見送ると、ちょうど授業のために隣の教室に入ろうとしている緋奈子と目が合った。すぐに教室に入ってしまったが、その横顔は満面の笑みに見えた。

                                       了

ずるくなんてなかった

 発行 

著  者:山本彰
発  行:京都芸術大学文芸表現学科

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