spine
jacket

───────────────────────



RomanesqueBulb
ー戦鬼伝×神宮団外伝ー

【サンプル版】

鈴奈



───────────────────────




 世は苦しみにまみれたり
 世は哀しみにまみれたり
 真理はしゅのお言葉にあり
 誓うはけがれし世の滅び
 我が血も肉も心も生も
 全ては尊き主のために
 我が存在は、我が主のために




 誓いの言葉を唱え終えると、黒づくめの子どもは、右手中指に長い口づけをした。
 そっと唇を離すと、中指に埋もれた赤い宝石から蕾が萌え、小さな頭部に細い羊の角が生えた。
 目を上げて、仮面越しに見えたものは、黒く、赤い目をした巨大な狐たちだった。
 こんな小さな子どもに何ができよう。ばらばらにして喰ってしまおう。私は足を、私は腕を。
 十数匹の愉快な耳打ちなど、子どもの凍りきった瞳には滑稽にしか映るまい。
「お話は、終わりましたか」
 夢のような声が、森の冷たさに響き渡った。同時に、群れの半分が、力なく崩れ落ちた。子どもの手には青い光の球がやわらかく浮いていた。その球がくずおれた仲間の魂であると、生き残りたちはすぐに察した。だが奴らは、怯え、悲しみ、憤ることはない。ただの子どもの戯れだ。鋭い爪の一振りで、とっとと命を散らしてしまおう。口角を醜くゆがませて、奴らは一斉に飛びかかった。
 子どもの手に浮く青い球から糸が伸び、背後の大樹の枝に絡まる。その糸に寄せられて浮いた体は、長い爪を見事に回避した。そして、腰に隠していた黒い小刀ナイフを握り、大樹の幹を蹴ると、閃光のごとくほんの一瞬で、奴らのうなじをさっくりと斬ったのだった。
 しかし、仕留め損ねた一匹が悔しそうに赤い目を燃やした。牙を剥いて、着地した子どもの背後を襲う。子どもは振り向くと、青い球を薙刀に変え、牙を受けた。力で屈服させようと、獣が乱暴に力を込める。子どもはそよ風のように力を抜き、薙刀を華麗に一回まわすと、態勢を崩した狐の背中に薙刀の刃を打ち付けて、その反動でひらりと宙に浮いた。長い羽織が、漆黒の羽のように広がる。たちまち、薙刀が槍に変わり、ついに、その心臓を貫いた。
 十数の体は砂になって溶け、子どもの右手中指の宝石に飲み込まれていく。
 肩で息をしながら、子どもは、拍手の音を見た。
「見事です。身のこなしも、武器を変える時機も、昨日の教えが活かされていますね。瞬発力もついてきました。やはり、あなたは素晴らしい。この調子で力をつければ、鬼神様も喜んでくださいますよ」
 子どもは「はい」と言いながら、息を整える。
 あとは、体力さえつけば上出来である。だが私は、そういったことは言わない。
 私はこの子どもに、とことんやさしくしてやるのである。

* * *

 この子どもの父となり、半年が経った。
 この子は実に優秀で、教えたことはなんでもすぐに飲み込み、完璧にやり遂げてしまう。その上、氷のような心を持っていて、ひどく残忍である。だが、残忍という価値観も、それが良いことか悪いことかといった価値観も持ち合わせていない。実に素晴らしい、理想的な子どもであった。
 ところが私はどうも、この子に我が教えが浸透しているかが不安なのである。
この子は、風呂に入ろうとしない。戦いを終えて帰宅すると、私はこの子に一番湯を譲ってやる。しかし何十分経っても、水の音が聞こえてこない。洗面所の扉を開けると、隅の方で膝を抱え、本を読んでいるのだ。私がやさしく、
「疲れたでしょう。体を温めて、疲れをとりましょう」
と声をかけると、「はい」と言って本を閉じる。しかしさっと湯をかぶると、すぐに出てきてしまう。私が父となるまでは石鹸を使ったことがなかったらしく、不慣れなのかもしれないが、私は石鹸の使い方も、身だしなみを整えることの意味も教えた。それでも半年間、ずっとこうである。
 私は呆れた気持ちを笑顔の仮面で隠し、
「あなたはとても美しい子どもなのですから、常に美しくありなさい。美しくあれば、何をしても、人間は疑いの眼差しを向けてきませんからね」
と、髪と体を洗ってやって、ついでに髪も乾かしてやる。そうして鏡を見てみると、その子はいつも人形のようにぼんやりして「はやく本が読みたい」という顔をしているのだ。なんとも煮えきらない。そんなことを半年間、ずっとやっている。
 もう一つ。この子は、眠ろうとしない。私が父となるまで、夜は森に捨てられていた上、日中はこの豪邸の三階の隅にある半畳の便所がこの子の牢獄だったために、寝台で眠ることはおろか、寝転がって眠ることも、そもそも夜に眠るということさえも知らなかったのだろうが、十八畳の部屋と寝台を与え、横たわり方や眠ることの意味を教えてもなお、眠ろうとしない。眠りを促す香を焚いても効果はない。「おやすみなさい」と電気を消しても、暗がりの中で膝を抱え、字を追う始末。私は、一時間おきに見に行ってやさしく促すのだが、それでもその子は、本だらけの寝台に上がることはおろか、本だらけの床に横たわって眠ることもしないのだ。
「暗がりで本を読むと、目が悪くなってしまいますよ。あなたの体はあなたのものであり、あなたのものではありません。いつか鬼神様に捧げるべきものなのですから、ひとつの欠陥もないように過ごさなければなりませんよ」
 このように何か説けば「はい」と言って素直に本を閉じるのだが、また見に行くと、やはり本を開いているのである。そうして私はまた言葉を考えて、本を閉じさせる。そうして、また一時間後に同じことを繰り返す。半年間、毎日、ずっとである。
 先述したが、この子どもは、その他の教えはすんなり聞く。素直なさがであることは間違いない。
 ただ、この子は、本を読みたいのだ。心がひどく枯渇しているがために、心動く物語を求めているのだ。からからになった喉が、水を求めるごとく。本を読むことがこの子にとっての食事であり、生きる方法なのだ。だからこれは、ただ単にこの子の特殊な生理現象なのだと、そう思っていた。
 この子が読む本を、開くまでは。

 私は、鬼である。
 約四七〇年前、愛する夫に裏切られた鬼神様が、憎しみにまみれた御魂を解き放たれて、魂の欠片を妖怪と人間とにお宿しになられた。魂の欠片を頂戴した者どもはそれぞれ「鬼」と「鬼人おにびと」になった。
 私は鬼神様の魂を色濃く継いだ四鬼しきが一体、水鬼すいきとして生まれた。すなわち、鬼神様の思想を継承し、理想を果たすことが私の存在理由である。
 鬼神様はおっしゃった。
「人間は身勝手で、他の種族を犠牲にしてまでも、自分たちの幸せを優先する生き物だ」と。
 そして、「愛は憎しみと苦しみを生む。ゆえにこの世は憎しみと苦しみにまみれている」と。
 だから、「世界は滅びるべきなのだ」と。まったくおっしゃる通りである。
 鬼神様の理想を果たすため、私は「神宮団じんぐうだん」という組織をつくった。そして、鬼神様が完全に復活できるよう、世界を滅ぼすことができるよう、邪魔な陰陽師どもを潰し、供物となる鬼人たちを集めた。鬼神様のおっしゃる通り、人間は鬼人を奇異なものとし、蔑み、絶望に堕としてきた。そのため、人間やこの世界を憎む鬼人は、五万といた。私が声をかけずとも、人が人を呼び、約四七〇年、神宮団はおよそ五〇名の団員を維持し続けた。それでいて、なかなか鬼神様を復活させられないことが、我が最大の憂いであった。鬼神様は転生を繰り返しになられるので、命を終えても必ずその後、新たなお姿でお生まれになる。何度か巡り合えたことはあったのだが、その際に捧げた供物では足りず、世界を滅ぼすお力を取り戻されていない。この世の全ての鬼や鬼人の魂を奉納すれば、きっとすぐにでも世界を滅ぼすことができるであろうに。しかし四鬼が一体の私にも、他の四鬼にも、そのような力はない。火を司る火鬼であっても、まち半分を燃やし尽くすのが最大火力である。何か良い案はないものか。
ある夜のことであった。鈴虫が秋の冷たさをはじめて連れてきた日であった。
 江戸市第五地区一帯から、季節外れの青い蛍が浮かび上がったのが見えた。そして一斉に、一か所めがけ、星のように流れていくではないか。私にはその青い蛍が動物の魂であることが分かった。江戸市は十六の地区に分かれている。つまり、この市の十六分の一の動物たちの魂が抜き出たということだ。鬼か、鬼人か。いずれにしても、これは使える力である。私はすぐに、第五地区へ向かった。
 第五地区は、大都会江戸市のはずれにある森林地帯であり、金持ちの別荘が並ぶ土地であった。
 私はとある私有地の森の中で、角の生えた小さな子どもが一人、膝を抱えているのをみつけた。子どもは、青く輝く分厚い三角錐の中にいた。この三角錐が動物たちの魂でできていることは、一目瞭然であった。
 私は戦慄した。こんな、七歳ほどの小さな子どもが、この市の十六分の一の動物たちの魂を抜き出し、自由自在に扱っているとは。
 加えて、私は昂奮した。
 子どもの周りには、鼠ほどの小さな鬼の体が転がっている。つまりこの子は、自分の力が生き物の魂を抜き出す力であることも、その魂を自由に物体化できることも自覚しているのだ。それでいて、物おじせずに、自分のために使っているのだ。
 四七〇年、様々な鬼人に会ってきたが、これほどまで倫理観が壊れ、残酷を残酷と思わぬ鬼人がいただろうか。愛も慈悲も知らぬ、氷のような鬼人がいただろうか。
 素晴らしい。ぜひとも欲しい。
 この子どもにさらなる力をつければ、早いうちに市一つ分の魂は抜き取れよう。いずれは市の二つや三つ、そうして日本中の魂を抜き取るのも夢ではない。
 加えて、愛も慈悲もない心。まさに、鬼神様の理想。神宮団員の鏡となろう。
 私は喉から手が出る思いで、子どもに見入った。汚れた服に包まれた貧相な体は、不幸の匂いが漂っていた。月明りに射されても光の宿らぬ凍りついた瞳は、たいそう美しかった。
 その子は、朝日が昇るとともに、動物たちの魂を解き放ち、鬼の魂だけ適当な小石にして放り投げ、おぼつかない足取りで歩いて行った。そっとついていくと、豪邸の裏口にたどり着いた。三十分ほどそこで立ち尽くしていると、豪邸の中から中年の女が現れ、鉄柵を開けた。子どもが中へ入ると、女は二、三歩後ずさり、畏怖の眼で子どもを睨んだ。そして棘のような声で、「とっとと支度をしなさい」と吐き捨て、逃げるように黒い扉の中へ入っていった。
 後日、私はその子どもを調べ上げ、江戸市第一病院の跡取り息子であることを知った。一人息子であるがために、鬼人であっても手放さずにいるのだろう。さらっていこうと思ったが、厄介なことになりそうだ。そうとなったらこの家の人間たちに暗示をかけるか、いっそ、殺してしまうかの二択だろう。私は四七〇年、鬼人や人間の体をとっかえひっかえして人の世に溶け込み生きてきた。そろそろこの肉体も限界である。この家の人間の体をもらってしまえばいいのではないだろうか。
 私は、何日も検討を重ねた。我々神宮団員は、意味のないことは決してしない。無駄な行動は尾を残し、致命傷になりかねないからだ。最善の方法を精選し尽くす。それが私の方針だった。
 ところが、ある時から、子どもの姿が見えなくなった。まさか、と危惧したが、朝早く学校へ向かう姿は見られた。夜に家から出ることがなくなっただけである。私は一つの可能性を胸に抱き、昂揚した。
 三日後の晩、私は試しに豪邸の玄関扉を叩いた。私の予想は当たった。子どもは自らの両親の魂を抜き取り、自由を獲得していたのである。両親の魂をいびつな岩に変え、粗雑に転がして。
 嗚呼、素晴らしい! 私は、心の芯から震撼した。
 そして、決意した。この子に信仰を植え付け、残忍なままに成長させることを。
 私はこの子の父親の死体を被り、関係上、父子となった。しかし赤の他人なわけだから、信仰を植え付けようにも、戦いを教え込もうにも、まずはなつかせなければなるまい。なつかせるためには、信頼を得ること。信頼は相手が望むものを与えることで獲得できる。そして、不幸な子どもが一番に望むのは、やさしさである。
 そういうわけで、とことんこの子にやさしくしてきた。前述のように叱りもせず、甲斐甲斐しく世話をやいてやるし、美味しい食事もつくってやっている。綺麗な服も、本も、高級な菓子も、何もかも与えている。

 それなのにこの子どもは、エドワード・ゴーリーの『うろんな客』を読んでいたのだ。

 私はこの子の父親に成り代わり、平日は江戸市第一病院の副院長を勤めている。この子も学校があるから、休日は一緒に過ごし、なんとかなつかせようとしているのだが、この子どもは、本を読んでばかりいた。私はやむなく、この子の部屋で、散らかった本を整理しながら、ぽつぽつと言葉を交わすことにしたのだが、ふと、その絵本を手に取ってしまったのだ。

 とある一家のもとに、カギ鼻頭の妙な生き物がやってくる。その生き物は壁に鼻をくっつけたまま立ち尽くしたり、朝食に出された食事を皿まで食べたり、癇癪かんしゃくを起こして人のものを隠したりとわけの分からぬことばかりする。そうして十七年経っても、一向にいなくなる気配がない――。

 私は白黒のがさがさした絵柄に気味の悪い感じを覚え、そしていやに不安になった。
 もしかしてこの子は、私を「うろんな客」だと思っているのではないか、と。
 人間の思想の塊に触れることをいとい、私は本を読まずに生きてきた。だからこれは私の疑惧が起こしたまったくあてにならない持論なのだが――本というのは、読み手の心を映す鏡のようなものではないだろうか。共感して心の支えとしたり、新たな見方を得て困難から脱け出ようとしたりして、心なしに、自分の心境や状況と類似した本を選ぶものなのではないだろうか。
 私は、その子の手の中を見た。安部公房の『水中都市』があった。実に温かそうな頬をしながら頁をめくっている。だが、いやに心がざわついて、私はその物語のあらすじを求めた。
その子は頁をめくる指を止め、中指で唇を押し上げながら、ゆっくりと語った。

 主人公は、自分のことが嫌でたまらない男であった。そんな男のもとに、突如死んだはずの父親がやってくる。父親は日に日に病気が進行して体が腫れ上がっていき、ついにジュゴンほどの膨らみとなると、皮が剥けて、魚の姿になる。父親は男に襲いかかり、男は友人の助けを得て逃げる。すると、世界は水中都市になっていた。彼らは泳ぎながら魚の姿をした父親から逃げきるも、途中で父親は警察を食い殺してしまう。男は、父親である魚を、警察を殺すために飼育していたのだという冤罪をかけられ、指名手配の身になってしまう――。

「読みますか? 僕はもう五回読みましたから」
「五回? 何故そんなに繰り返し読んでいるのです?」
「分からないところがあるんです。男が、指名手配をされた時、『どうしてこんなことになるんだ!』って言うんですけど、それに対して友人の間木が『君が現実を愛しているからさ』って答えるんです。それがよく分からなくって。あと、最後のところで、男は水中都市の風景を一生懸命理解しようと眺めるんですけど、眺めながら、強い悲しみを抱いているんです。『この悲しみは、おれだけにしか分からない』、そういう一文でこの物語は終わるんです。それもよく分からなくって、読み返していたんです」
 私は本を受け取ると、軽く冒頭を眺めた。この子は二週間前に小学三年生に進級したばかりであるが、九歳の子どもが読むような文体ではなかった。私は笑みをつくろって、
「分からないことを一生懸命に考えるとは、大変素晴らしい姿勢ですね。ですが、人生経験が少ないゆえに、いくら考えても答えが出ないこともあります。また大人になって読めば、答えが見つかるかもしれませんよ。新しい本を買ってあげましょう」
と、機嫌を取りながら、さりげなくこの本を永遠に没収した。
 自らの目で読んでみると、あの子が疑問に思っていた部分は、私への印象とは関連しない部分ではあった。しかし私は、やはりそうかと思った。あの子が「父」や私自身に戸惑い、不審を抱き、心の奥底で恐れてもいるということが、はっきりしてしまったような気がした。

 私が第一に気がかりになったのは、私の教えを、私の見えない所できちんと守っているかどうかであった。
 神宮団は使命の円滑な遂行のため、世間から隠れて動いている。神宮団という名前すら、誰にも知られてはならない。そのために、ほとんどの神宮団員が本部のある屋敷周辺の集落に住まい、その地域から外へ出ない。全身を黒に染め、仮面を被るのも、なるべく人に見られないよう、夜に隠れるためである。あの子にもそれは教え込んでいる。知られないために、怪しがられないために、催眠の効力のある香を纏わせ、鬼人であることを隠しているし、人に信頼されるような在り方や接し方も教えた。
 身だしなみは美しく、言葉遣いは美しく、人当たりはやわらかく。
 そして、笑顔の仮面で自分を隠しなさい、と。
 前述の三つは私の前でもできている。しかし、この子は私の前で笑顔を見せない。まさか、学校でも能面づらをして、一人ぽつんとしているのではないか。子どもというのは、そういうずれた子どもにあれこれと噂を乗せるものである。何が糸口になるか、分かったものではない。
いてもたってもいられなくなった私は、担任に電話し、学校での様子を尋ねた。
『授業はしっかり集中して聞いてくださいますし、休み時間はずっと難しい本を読んでいらっしゃいます。将来が期待できますよ』
「そうですか。ご学友とは会話をしたり、遊んだりしておりますでしょうか」
『そうですね、どちらかというと本を読んでいらっしゃる姿の方が印象的でして……』
「表情はいかがですか。きちんと笑ってご学友とお話していますか。何か、ご学友に白い目で見られるようなことはないでしょうか」
『ええ、担任の目からそのようなことはないと思っていますが……。もしお時間がございましたら、今週末の授業参観にお越しください』
 私はその時、はじめて、授業参観があることを知った。二週間前に案内が出されていたようだが、あの子どもはどういうわけか、私に一切そういった案内を出していなかったのだ。実の親へもそうだったのだろうか、習慣がないだけだろうか、それとも……。
 いずれにしても、知らなかったことを相手に悟られ、私は大恥をかいたのだ。叱りつけてやりたい気持ちを押し込めるのは、実に気分が悪いものである。

 大病院の副院長という身分は案外優遇されるものであった。おまけに、妻が亡くなったと言って息子を優先する姿を見せると、同情も信頼も得られ、思いのほか自由に動くことができた。
 私は、我が子どもの授業参観に出かけた。授業参観に行くと伝えた時はいつもの無表情で、他人事のように、「はい」と言っていたが、いざ私が教室に入ると、あからさまにそわそわしだした。三十人近い大人の中にいる私を、私だけを、何度も振り返っては見つめてくる。頬をふっくらとさせ、丸くなった瞳を蛍光灯で光らせて。
 近くにいた少年がこの子の挙動のおかしさに気付き、「あれ、天野の父さん?」と私に向かって指をさすと、周りの少女らが、「わあ、素敵!」「ハンサム!」などと、はしたなく私に寄ってきた。
「雫くんのお父さんって、お医者さんでしょ? うちのパパもよ!」
「うちのパパも! でも、忙しくていつも来られないの。今日は、お休み?」
 私は、「ええ」と愛想笑いをした。
「この子のために、午後だけお休みをいただいたのですよ」
 少女らは、「いいなぁ!」と口を揃えた。我が子どもはその間、じっと私を見つめていたが、近くの少年に、「天野の父さん、身長高いな!」と言われ、「ええ。一八〇センチくらいあると思います」と答えた。私の教えたやわらかな仮面笑いに、少しだけ、温かさを加えて。
 その時点で私は少し安心していたのだが、授業が始まるとその安心は心の底に足を着いた。級友三十名に加え、保護者も三、四十名いる中で、堂々と、なおかつ、やわらかな物腰で自分の考えを発表し、加えて級友たちにこそこそ質問を受け、穏やかに答える姿も見られた。普通の人間の小学生として、きちんと溶け込んでいた。

「シグレさん」

 帰りの車中、車の扉が閉まると、この子はそっと私を呼んだ。この子は自分の父親を「父」と呼んだことがなかったため、父の皮を被る私を、私の名でそのまま呼ぶ。他人の目がある所では父と呼ばせるが、自家用車の運転手は神宮団の者なので問題ない。
 私は、隣のつむじをちらりと見下ろした。いつもは窓にぴったり頬をくっつけているが、今日はこぶし一つ分空け、私と並んでいた。
「授業参観、来てくれて……嬉しかったです」
 私を見ずに、しかしとてもやわらかい声で言った。一音一音、気持ちを確かめながら言葉を紡いでいるようだった。私は、「嬉しい」という言葉に、興味を抱いた。
「嬉しいとは、何故嬉しかったのです?」
「えっと……」
 中指で唇をなぞり、少しだけ考える。
「クラスに三十人くらいいる中で、僕だけを見ていてくれるということが、なんだか、特別な気がして……」
 私はその言葉を聞いて、合点がいった。この子が『水中都市』を繰り返し読んでいたのは、もう一つ理由があったのだ。
 主人公は自分のことが嫌でたまらない男であった。なんとかして自分でなくなろうとしていた。自分に価値を見出せないところに、この子どもは無意識に共感し、救いを求めていたのだ。そうだとするならば、『うろんな客』も、無意味で邪魔なカギ鼻頭を自分と重ね合わせていたのかもしれない。
 私は、ふっと笑った。この子の本当に欲しいものが、しかと分かったのである。
「あなたが特別であるのは、なにも今日のあの瞬間だけではありません。あなたは特別な存在なのです。この世にただ一人、我々神宮団に、鬼神様にとって必要な、とても特別な、ただ一人の存在なのです」
 我が子どもは私から目をそらすと、赤い唇を甘く結んだ。
 一向に私の前で笑わなかったこの子が、はじめて私の言葉で笑った瞬間であった。
 私は、深く息をついた。
 この子は今日、何の本を読むだろう。

* * *

 どんなに素晴らしい一日になろうと、戦闘訓練と鬼狩りは欠かさない。この子に力を蓄えさせるため、果ては鬼神様のためである。
 今日の鬼は、この子にとってひどく強かった。腕力も体力も不十分な子どもが、相撲取り級の肉体をした人型の鬼三体に敵うはずもない。しかし、やはりこの子は優秀だ。大量に集めた生き物の魂をピアノ線に変えて木々に張り巡らせ、誘い込んで八つ裂きにした。
 さほど時間はかからなかったが、全速力で駆け抜けたことや、その間何度かこぶしをふるわれ盾で払っていたこともあり、いつも以上に息が上がっていた。一人で立ち上がることができないと言いたげに、苦しそうな細い目で私を見上げ、私の右手に両手で縋りついた。

 家に帰る頃には回復していたが、やはり今日も、何分経っても水の音はしなかった。いつも通り洗面所の隅で本を読んでいるのだろう。そう思って洗面所の扉を開いたが、その子はいなかった。
 部屋を覗くと、寝台に横たわり、読書灯を頼りに本を読んでいた。私に促されずに寝台に横たわったのははじめてのことだった。相当疲れていたのだろう。それにしても、神宮団の黒装束を着たまま寝転がっているのはあまり感心しなかった。皺がついてしまうことも気になるが、何より、あらゆる所に隠し武器が仕込まれているから危険なのである。
「せめて羽織を脱いで、帯皮ベルトは外した方が良いですよ。誤って体に傷がついたら大変です」
「はい」
と言いながら、その声は上の空であった。赤い表紙の重たげな本を天に掲げ、読み入っていた。
「今日は何を読んでいるのですか」
表紙を見ると、『DIE UNENDLICHE GESCHICHTE』とあった。日本では『はてしない物語』と呼ばれる、ミヒャエル・エンデのファンタジィ小説である。

 バスチアンという少年は、級友たちにいじめをうけていた。ある時、いじめっ子に追われ、古本屋に逃げ込んだバスチアンは、「はてしない物語」という本をみつけ、盗み出す。そしてその物語の世界に入り込み、冒険を繰り広げていく――。

 私が題名を口にすると、貢から目を離さず、
「読めるんですね」
と言った。
「私というより、この体が読めるのです。医者ですからね」
「そうなんですね。たしかに、この本も辞書もうちの書庫にあったものです。きっとシグレさんの体の人も、これを読んでいたんでしょうね」
 その子の傍らに、独逸ドイツ語の辞書が置いてあることに、私は気が付いた。
「少し見せてください」
 本を受け取って見ると、本文も独逸ドイツ語で書かれていた。子どもというものは、まったく恐ろしいものだ。軽く読んでいると、欠伸あくびの息が漏れ聞こえた。
「あなたが眠たそうにするのははじめてですね。さあ、お着替えなさい。読書灯を消しましょう」
「お風呂はいいんですか?」
「今日は特別です。明日はお休みですから、明日の朝に入れば良いでしょう」
「じゃあ、もう少しだけ読んで寝ます」
 返してほしそうにじっと見つめるので、私は少し悩んで、寝台に腰かけた。
「では、私が読みましょう。私が読み終えたら、着替えて寝るのですよ。そうしないと、あなたはいつまでも読んでしまうでしょうから」
 しかし私が読み始めようとすると、この子は体を起き上がらせて頁を覗き込んだ。影が落ち、黒い文字が暗闇に溶けてしまった。
「疲れているでしょう。先ほどのように寝転がってお聞きなさい」
「音だけだと、よく分からないんです。一度日本語版は読んだけど、原文でどう表現されているか知りたいので、文も目で追いたいんです」
 私はしばし悩み、やむを得ず、枕に頭をつけた。天に本を掲げると、この子も私の隣に寝そべって、本を覗き込んだ。

「……»Was zeigt ein Spiegel, der sich in einem Spiegel spiegelt? Weißt du das, Goldäugige Gebieterin der Wünsche?« Die Kindliche Kaiserin schwieg eine Weile und der Alte schrieb zugleich auf, dass sie schwieg. Dann sagte sie leise:»Ich barauche deine Hilfe.«…………」

 途中、この子はもぞもぞ動いた。何をするのかと思いながら読んでいると、私の二の腕にわずかな重みが乗りかかった。目を移すと、私の腕に、小さな頭が乗っていた。
「ここ」
 少し戻ったところを、小さな指がなぞった。

Das Gesicht des Mannes sah aus wie die Rinde eines uralten Baumes, so durchpflügt war es von Furchen.Sein Bart war weiß und lang und seine Augen lagen so tief in dunklen Höhlen, dass sie nicht zu sehen waren.Er trug eine blaue Mönchskutte mit einer Kapuze über dem Kopf und hielt in der Hand einen Schreibstift, mit dem er in demBuch schrieb.Er blickte nicht auf. ……………………………

「シグレさんがうちにはじめて来たとき、ちょうどこれの日本語版を読んでたんです。あの時のシグレさん、この『さすらい山の古老』に似てました」
「さすらい山の古老」というのは、物語の中で『はてしない物語』を記す者であり、中途まで語っては冒頭まで戻ることを繰り返す、『はてしない物語』をその名たらしめる者らしい。この子が示した部分には、「太古の老木の樹皮を思わせる深い皺が無数に刻まれ、両眼は深いくぼみの奥にあり、頭に頭巾を被っている」とある。
 たしかに私は、そういう格好だった。だが、可笑しげな微笑を含む声に、小馬鹿にされたような気持ちになる。ぐっと唾を飲み込んで、私は訊いた。
「では、今は何に似ていますか」
「うぅん」と唸りながら、長い上下のまつ毛が重なった。
「なんでしょう。思いつかないです。またいろいろ読んで、探しておきますね」
「ええ。楽しみにしていましょう」
 私が読み聞かせを再開しても、この子はもう、瞼を開けなかった。声をひそめると、小さく、穏やかな寝息が聞こえた。沈黙しても催促はなく、私はゆっくり慎重に、腕を引き抜いた。そして、羽織を脱がせ、帯皮ベルトを外してやると、毛布をかけて、読書灯を消した。
 窓からやわく、月光が射す。実に美しく、無垢な子どもの寝顔が浮かび上がった。
「おやすみなさい」
 そう言い残し、私は取っ手に指をかけた。私も今日は、数か月ぶりにしっかり眠ることができそうだ。

 ――だが。

 もぞり、という音とともに、その子は再び動き出した。
 本に手を伸ばし、しおりを頼りに続きの頁を開く。
 月光に照らされ、瞳の奥が透明に澄んだ。

 まったく、目にも手にもあまる子だ。
 こちらもろくに眠れない。

RomanesqueBulb-戦鬼伝×神宮団外伝-【サンプル】

2020年11月21日 発行 初版

著  者:鈴奈
イラスト:瓜うりた
コンセプトアート:BUZZ
キャラクターデザイン:さらまんだ
装丁:兎月ルナ

bb_B_00166393
bcck: http://bccks.jp/bcck/00166393/info
user: http://bccks.jp/user/147698
format:#002t

Powered by BCCKS

株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp

jacket