チャーミアンに捧ぐ
港に入る時も出るときも、また航海中にも
昼夜をわかたず舵を握り、
緊急時には舵を離さず、
二年間の航海を終えると涙した
君は外洋に吹きすさぶ風の音を聞いた
そして、大海原にたたきつける雨音を
ずっと海の歌を聴いてきた
なんと長く!
なんと長く続いたことか!
また出かけようぜ!
目次
第一章 そもそもの始まり
第二章 信じられない、ひどい話
第三章 冒険
第四章 自分の道を見つける
第五章 ハワイが見えた
第六章 最高のスポーツ
第七章 モロカイ島のハンセン病患者
第八章 太陽の家
第九章 ハワイから南太平洋へ
第十章 タイピー
第十一章 自然人
第十二章 歓待
第十三章 ボラボラのストーン・フィッシング
第十四章 アマチュア航海士
第十五章 ソロモン諸島の航海
第十六章 ソロモン諸島独特のピジン語
第十七章 やぶ医者開業
著者あとがき
日本沖で遭遇した台風の話
訳者あとがき
きっかけは、カリフォルニアのグレン・エレンにあるプールにいるときだった。泳ぎ疲れると水から出て砂の上に寝そべり、肌にあたたかな大気を呼吸させつつ日光をあびるというのが、ぼくらの習慣だった。ロスコウはヨット乗りだ。ぼくも多少は船の経験があった。となれば、船について語りあうのは必然だ。
小型の船や小型艇の耐航性について論じ、スローカム船長とスプレー号による彼の三年に及ぶ航海について話しあったりした。
ぼくらは、全長四十フィート(約十二メートル)の小さな船で世界周航するのは別にこわくないと互いに言いはった。また、実際にやってみたいよな、とも。結局、この小型ヨットでの世界一周以上にやりたいことは他にない、ということに落ちついた。
「やろうぜ」と、ぼくらは口をそろえて言った……冗談半分に、だ。
その後で、ぼくはチャーミアンに「本気か」と、そっと聞いてみた。戻ってきた返事は「最高じゃないの」だった。
次にプール脇で砂に寝そべって肌を焼いているとき、ぼくは「やろうぜ」とロスコウに言った。
ぼくは本気だった。やつもそうだった。というのも、やつの返事は「出発はいつにする?」だったからだ。
ぼくは牧場に家を建てているところだった。果樹園やぶどう園も作るつもりでいた。生け垣も植栽しなければならない。やるべきことは山ほどあった。だから、四、五年のうちには出発しようと思っていた。が、それからというもの、この冒険のことが頭から離れなくなってしまった。どうして、すぐに出発しないのか? ぼくらはもう若くはない。ぼくらがいない間、果樹園やぶどう園や生け垣はそのまま育つにまかせておけばいい。戻ってきてからやっても十分だし、家を建てるまでの間は納屋に住んだっていいじゃないか、と。
そういうわけで、この航海は本決まりになり、スナーク号の建造を開始した。スナーク*と命名したのは、他に思いつかなかったからだ。この名前にはどこか謎めいたところがあると思ってくれる人のために、ここで正直に言っておく。
* スナーク号という船名については、『不思議の国のアリス』の作者として知 られているルイス・キャロルの『スナーク狩り』という架空の生物を追いかける探検隊を描いたナンセンス詩から思いついたと、ジャック・ロンドン自身が他で認めている。
友人たちは、ぼくらがなぜそんな航海をするのか、いまだに理解できないでいる。
連中は身震いし、なげき、お手上げだという。ぼくらにとっては航海に出る方が自然なのだと説明はしたのだが無駄だった。ぼくらにとって、乾いた地面にじっとしているより小さな船で海に出て行く方が自然なように、彼らにとっては、小さな船で海に出るくらいなら乾いた地面にじっとしていた方がまし、というわけなのだ。
こういう気持ちの行き違いが生じるのは、互いに自我が強すぎるからだ。自分の価値観から離れて客観的に眺めてみるということができない。「自分にとって一番抵抗のないことが、必ずしも他の人々にとっても抵抗の少ないものというわけではない」ということがわかるほどには、ぼくらは自我を捨てきれない。
彼らには彼らにみあった欲望や好き嫌いの基準があり、それをものさしにして自分以外の者すべての欲望や好き嫌いについて判断する。それは不公平だ。ぼくは連中にそう言った。しかし、彼らは自分の自我に固執し、ぼくの言うことに耳を傾けようとはしない。彼らはぼくのことを頭がいかれたと思っている。逆に、ぼくの方では彼らを哀れんでもいた。ぼくにとっては、いつものことだ。
誰だって、自分と意見が違う相手については、そいつの考え方はどこかおかしいと思いこみがちじゃないか。
突き詰めて言えば、これは「好きだから」という一語に要約できる。
「好き」という感情は、表向きの信条のさらに奥に秘められているもので、人生の核心に組みこまれている。
人は信条なるものを錦の御旗にかかげて、「人間は何をすべきか」について時間をかけてもっともらしく語ったりするのだが、要するに、それは「好きだから」に帰着する。信条なんていつのまにか消えてしまっている。酒飲みは「好きだから」酒を飲むのだ。殉教者は自分の意思で粗末な服を着て罰を受けるのだ。つまり、それが人を酒飲みにしたり、世捨て人にしたりするわけだ。人は「好き」だから名声を追い求め、金を探しまわり、愛やそれとは別の神を求めたりする。信条なんてものは、多くの場合、その人の「好み」を説明する方便にすぎない。
話をスナーク号に戻すと、自分のヨットを自分で操船しながら世界を見てまわる航海をしたいというぼくの思いは、自分がそれを好きかどうかにかかっている。それが自分にとっての価値を決める。
ぼくが一番やりたいのは、ぼく個人にとって成功と思えることだ。これは、世間から拍手喝采を受けるような成功ではなく、自分自身の喜びのために何かを達成するということだ。昔から言われているように、「やった! やったぞ! おれが自分の手でなしとげたんだ!」というやつだ。
とはいえ、ぼく個人にとっての成功は具体的なものでなければならない。ぼくとしては、アメリカで偉大な小説を書くよりは、プールで競争して勝ったり、振り落とそうとする暴れ馬を乗りこなしたりしたいのだ。誰にだって、それぞれ好きなことがあるだろう。ぼくとは逆に、水の中で競争したり馬を乗りこなすことより、偉大な小説を書く方を選ぶ者もいるだろう。それはそれでいい。
ぼくのこれまでの人生で最も誇らしい成功だと思うのは、つまり自分の人生で最高の瞬間というのは、ぼくが十七のときに起きた。ぼくは日本近海で三本マストのスクーナー型の帆船に乗っていた。台風に遭遇し、全員がデッキに出て、ほぼ徹夜で奮闘したのだ。ぼくは朝の七時に寝床から呼び出されて舵を持たされた。帆は一枚も張られていなかった。船はベアポール*で風下に向かっていたのだが、このときぼくらのスクーナーはかなりのスピードで進んでいた。波と波の間は一海里の八分の一(二百メートル強)もあり、白波の頂点は風に吹き飛ばされて宙を舞い、その波しぶきのため二つ以上の波の先を見通すことはできなかった。スクーナーはほとんど手に負えなくなりかけていた。左右に横揺れし、南東と南西の間で不安定に向きを変えていた。大波に船尾が持ち上げられると、ブローチン**しそうにもなった。ブローチンして横倒しになれば、船は乗員もろとも行方不明となり海員保険組合に「消息なし」と報告されていたことだろう。
* ベアポール: ヨットや帆船における荒天対策の一つで、帆をすべて下ろしてしまう。この状態でも、船体やマストに受ける風圧だけで風下に流されていく。
** ブローチン(グ): 荒天で風下に向けて進んでいるとき、風の強さに押されて船が急激に風上に向かって切り上がろうという動作をすること。舵が効かなくなり、そのまま横倒しになることもある。
ぼくは舵輪を握りしめていた。航海士は少し離れてぼくを見ている。彼は、ぼくが若年で嵐に耐えられるだけの強さや神経を持ちあわせていないのでないかと懸念していたのだ。だが、ぼくがスクーナーをうまく操っているのを見た航海士はしばらくすると朝食を食べに下に降りていった。
船首でも船尾でも、いまではぼく以外の乗員全員がデッキ下に降りて朝食をとっていた。船が横倒しになれば、彼らはデッキまで出てこれず一人残らず閉じこめられてしまうだろう。そういう状態で、四十分間、ぼくは一人で舵をとっていた。
海に翻弄されるスクーナーと二十二名の男の命が、いまやぼくの手にかかっているのだ。その間、一度、大波に襲われた。その波が船尾に押し寄せ、迫ってくるのが見えた。何トンもの海水がどっと流れこみ、ぼくを押しつぶそうとする。ぼくは半分おぼれかけた。スクーナーも横倒しになりかけた。
操舵から解放されたのは一時間後だった。ぼくは汗びっしょりで、疲れ果てていた。だが、ぼくはやってのけた! 自分の手で舵を握って大波に対処し、何百トンもある木と鉄の船を操って数百万トンもの風と波をくぐり抜けたのだ。
そのときの喜びは、甲板下にいる二十二人の男達がぼくのやったことを知っているという事実にではなく、ぼくが自分自身でそれをやってのけたというところにあった。当時の仲間の半分以上はもう死んだり所在不明になったりしているが、自分がやってのけたことに対する誇りは、今となっても半分も色あせてはいない。とはいえ、正直に言うと、自分のやったことを知っている人が少しはいてほしいとは思う。その少数の知っている人というのは、ぼくのことが好きで、ぼくの方も好きでなくてはならない。
個人的な成功をおさめると、ぼくは仲間の自分に対する愛情は当然だと感じる。だが、これは自分がやってのけたこと自体から得られる喜びとはまったく別である。この喜びは自分自身のものであり、目撃者がいるか否かには関係ない。ぼくは自分で大変だと思うことを自分自身でやってのけたときには得意満面になる。栄光に包まれる。自分自身に誇りを持っていることが自分でもわかる。これは自然な感情だ。ぼくという存在を作りあげている細胞すべてが、そのことにぞくぞくするほど感激している。これはきわめて自然なことだ。自分が状況にうまく適応できたという満足感の問題でもある。
つまり、ぼくのいう成功とはそういうことだ。
生きているというのは、それだけで成功だと言える。成功とはその程度の鼻息のようなものだ。
で、むずかしいことをやり遂げるということは、厳しく大変な努力が必要とされる環境でうまく調整できたことを意味する。それが困難であればあるほど、成し遂げたときの満足感は大きくなる。
要するに、成功というのはプールの上に突きだした飛び板から前方に飛び出し、体を後方に半回転ひねって頭から水中に飛びこむ者に与えられる報酬である。いったん飛び板から離れてしまえば、環境はすぐに攻撃し厳しい罰を与えようとしてくる。失敗すれば水面にたたきつけられてしまう。むろん、誰だってそんな罰を受けるリスクをおかす必要はない。動かない地面の上で夏の日差しをあびながら、快適で穏やかな環境の水辺にじっとしていることはできる。飛び板から飛びこむ男は、しかし、そんな風に作られていないというだけのことである。空中ですばやく体をひねりながら、岸辺で寝そべっていては体験できない瞬間を生きる。そういうことなのだ。
ぼく自身について言えば、岸辺に座って飛びこむ者を眺めているよりは、ぼく自身が飛びこむ側の人間でいたい。それがスナーク号を建造した理由だ。ぼくはそういう男なのだ。早い話が「好きだから」という一語につきる。
小さなヨットで世界を周航するのは人生で大きな意味を持つ瞬間である。その瞬間をぼくにつきあって目撃してほしい。ここにいるぼくは、ヒトと呼ばれるちっぽけな生物にすぎない。ちょっとだけ元気があり、肉や血液、神経、腱、骨、脳を持ち、百六十七ポンド(約七十五キロ)の重量があり、全身は柔らかくて敏感で、傷つきやすく、過ちをおかすこともあるし、壊れやすくもろい存在でもある。暴れ馬の鼻先を軽く手の甲で打ったりすれば、こっちの手の骨が折れてしまう。水中に五分ももぐっていれば溺死する。空中を二十フィート(約六メートル)も落下すれば体はこわれてしまう。ぼくには体温があるので、ちょっと寒くなると、指や耳やつま先は凍傷で黒ずんで落ちてしまう。逆に温度が少し高くなると、こんどは皮膚には水ぶくれができるし、肉はけいれんし、皮がむけてしなびてしまう。さらに、もっと寒くなったり暑くなったりすれば、ぼくという生物の命の光は消えてしまう。ヘビにかまれ、ほんの一滴の毒が体内に入っただけで、ぼくは動けなくなる──永遠に動けなくなってしまう。ライフルの鉛の弾が頭に撃ちこまれれば、永遠の闇に包みこまれてしまう。
過ちをまぬがれることができず、こわれやすく、鼓動しているゼリー状の生命──それが、ぼくのすべてだ。
ぼく自身について言えば、偉大な自然の力というやつは巨大な脅威、破壊という名のとてつもない巨人(タイタン)だ。ぼくがいま自分の足元で押しつぶしている砂粒ほどにも、自然と言ううやつはぼくに関心を抱かず、感傷的にもならない。そういう怪物であり、破壊者たるギリシャ神話の巨神族なのだ。やつらはぼくにはまったく関心がないし、そういう生物が存在していると知りもしない。無意識かつ無常で、モラルもない。
サイクロンだったり、ハリケーンや雷光、豪雨であったり、潮汐による激流、津波、引き波、さらには海上で発生する竜巻、大荒れの海、引き潮、渦巻きであったりする。地震や火山や、岩場の海岸に轟音とともに寄せてくる波であり、海に浮いている最大の船をも乗りこえていく波であって、人間など押しつぶすか海に押し流して死なせてしまう──こうした無慈悲な怪物たる自然にとっては、人にはジャック・ロンドンと呼ばれ、自分では元気で優秀だと思いこんでいる、神経過敏で弱く、ちっぽけで傷つきやすい生物のことなど知ったことではないのだ。
こうした、巨大で風が吹き荒れる、大自然の力と力が衝突することで生じる迷宮や大混乱の中を、警戒しつつやりすごしているのが、ぼくという存在なのだ。ぼくというちっぽけな生命体は、それに大喜びする。ぼくという小さな生命は、巨神族を当惑させるか自分の役に立たせることに成功する限りは、自分が神になったような気がするし、嵐をものともせず、自分を神のように感じられるのは快感でもある。脈を打ち、限りある生命体にとって、自分を神のように感じるのは、あえて言わせてもらえば、神が自分を神だと感じているよりもはるかに痛快なことなのだ。
ここに海があり、風があり、波がある。
ここに世界中の海があり、風があり、波がある。ここに残忍な環境がある。調整が困難な状況があって、そうしたところで自分の目的を達成することこそが、ぼく自身たる、小さくて震えている、うぬぼれ屋たる存在にとっての喜びなのだ。ぼくは、そういうことが好きなのだ。つまり、ぼくはそういう男なのだ。これはぼくにとって、ぼく独自の形をとったうぬぼれであり、それがすべてなのだ。
スナーク号の航海にはもう一つの側面もあった。ぼくは元気なうちに世界を見てまわりたいし、小さな町や村一つではなく、もっと大きな世界を見ておくべきだとも思っている。
とはいえ、どんな航海にするのか、ほとんど何も決めていなかった。絶対に譲れないのが一つあって、それは最初の寄港地をホノルルにするということだ。一般的なプランはいくつかあるものの、ハワイの次の寄港地については何も考えていなかった。ま、そのときが近づいてから決めようって感じだ。要するに、南の海、つまりサモアとかニュージーランド、タスマニア、オーストラリア、ニューギニア、ボルネオ、スマトラなどを巡り、フィリピン経由で日本まで北上する。それから韓国、中国、インド、紅海、地中海……
その後の航海についてはまだばくぜんとしていて今の段階で説明することはできないが、やりたいことはたくさんあって、ヨーロッパでは国ごとに一カ月から数カ月過ごそうと思っている。
スナーク号は帆走させる。補機としてガソリンエンジンを搭載しはするが、潮流が速いところで風が急にやんだとか、暗礁や浅瀬などの危険な海域での緊急用だ。
スナーク号の艤装としては、いわゆる「ケッチ」になる。ケッチとはヨールとスクーナーを足して二で割ったようなやつだ。
最近ではヨールがクルージングには最高だと実証されている。ケッチはヨールの長所を持っているし、それに加えて、スクーナーの帆走の長所もなんとか取り入れてはいる。とはいえ、こういったことは多少は割り引いて考えなければならない。すべて、ぼくが頭のなかで考えたことだから。ぼくはこれまでケッチでセーリングしたことはない。というか、見たことすらない。ケッチにしようという考えがぼくにはよさそうに思えるってだけだ。実際に海に出るまで待ってくれれば、ケッチ*による航海や帆走についてもっとくわしい話ができるだろう。
* ヨットの船型
ヨール、ケッチ、スクーナーはいずれも比較的小型の二本マストのヨットの艤装(スクーナーは三本の場合もある)を指す。
前ページの写真(スナーク号)で
①メンスル(メインセイル)
②ミズンスル(ミズンセイル)
②フライングジブ
④ジブ
* 現代のヨットでは帆走効率がよく縦長の(アスペクト比が高い)三角形の帆が一般的だが、当時の小型帆船で主流だった帆の形状は三角形の上部を切り取ったような四角形(ガフリグ)である。
ヨールとケッチは後ろのマスト(ミズンマスト)が低く、スクーナーは前のマストが低い。
ヨールとケッチは形が似ているが、ミズンマストの位置が舵軸の前にある(ケッチ)か、後(船尾)にある(ヨール)かで区別する。
ちなみに、小型ヨットで初めて世界一周したジョシュア・スローカムのスプレー号(全長三十七フィート)は、出港したときは一本マストのスループだったが、航海の途中でミズンマストを船尾に追加してヨール型に改造された。
当初の計画では、スナーク号の長さは水船長で四十フィート(約十二メートル)だった。だが、それでは浴室のスペースがとれないので、四十五フィート(約十三・五メートル)にした。最大幅は十五フィート(約五メートル)。甲板上に突き出た船室の屋根にあたるドッグハウスも手でつかんで体を支えるホールドもない。船室の高さは六フィート(約一・八メートル)で、デッキは二つのコンパニオンウェイ(船室入口)とハッチ(開口部)一個を別にすれば連続している。デッキの強度を損なうドッグハウスがないという事実は、外洋で何トンもの海水が音を立てて船上にたたきつけることを思えば、気が少しは安まるんじゃないか。大きくて広々としたコクピットはデッキより低い位置にあり、高い手すりで囲まれ、自動的に排水されるようになっているので、昼夜を問わず荒天が続いても快適だろう。
クルーを募集する予定はない。というか、むしろチャーミアンとロスコウとぼくがクルーだ。ぼくらはすべて自分たちでやるつもりだ。自分の手で地球をぐるっと一周してやろうと思っている。帆走させるにせよ沈没させるにせよ、なんでも自分たちでやってみようというわけだ。むろん、料理担当のコックと給仕係は雇うことになる。火を使って料理したり皿を洗ったりテーブルを整えたりするのはごめんだ。そんなことがしたいんだったら、陸にいたっていいわけだから。それに、ぼくらは見張り当番にも立たなけりゃならないし操船もしなきゃならない。おまけに、食事をまかない、新しい帆や艤装品を買うため、さらにスナーク号が効率よく動いてくれるために不可欠の整備のためにも、その資金を稼ぐため、ぼくは原稿も書かなきゃならない。おまけに牧場だってある。ブドウ園、果樹園、生垣も管理し育てていかなければならない。
浴室を確保するためスナーク号の全長を長くしたとき、浴室だけでそれだけのスペースは必要ないとわかった。それでエンジンを大きくした。七十馬力だ。これにより九ノットで進めると期待できるので、流れが速くて手に負えないところはないんじゃないかな。
ぼくらは川や運河など海以外の淡水域でもたくさんのことをするつもりだ。スナーク号は小さいので、それも可能だろう。運河や川や湖ではマストを倒し、エンジンで進む。中国には多くの運河があるし、揚子江もある。政府の許可が得られたら、そこで何カ月かすごそうと思っている。この政府の許可というやつが、内水面の航海での障害となるだろうが、許可が得られれば、河川での航海に限界はほとんどあるまい。
ナイル川のあるアフリカまで行けたとすれば、ぜひ、あの長大な川を上流までさかのぼってみたい。ドナウ川をウィーンまでさかのぼり、テムズ川をさかのぼってロンドンまで行き、セーヌ川ではパリまでさかのぼっていく。そうして、カルチェラタンの対岸にもやいをとる。舳先(へさき)の係留ロープの先にはノートルダム寺院があり、船尾のロープの先には死体安置所があるってわけだ。
地中海からローヌ川をさかのぼってリヨンまで行き、ソーヌ川に入り、ブルゴーニュ運河を通ってローヌ川からマルヌへ行く。マルヌからセーヌ川に入ってル・アーブルでセーヌ川を抜ける。大西洋を横断して合衆国に着いたら、ハドソン川をさかのぼり、エリー運河を通って五大湖を横断する。シカゴでミシガン湖を離れてイリノイ川やそれと通じている運河経由でミシシッピ川に出る。ミシシッピ川を下ってメキシコ湾へ。そこまで行けば、今度は南米大陸の大河がある。カリフォルニアに戻るころには、地理について、少しは詳しくなっているだろう。
家を建てる人はやっかいな問題に四苦八苦することが多いらしい。だが、そうした試練をむしろ楽しんでいるという人には、スナーク号みたいな船を建造したらどうだい、と助言したい。
船でやっかいな問題っていうのを少し具体的に考えてみよう。
エンジンを例にとると、最適なエンジンの種類は──2サイクルか、3サイクルか、それとも4サイクルがいいのか?
ぼくの舌はいろんな耳慣れない専門用語でもつれてしまう。知らないことだらけでわけがわからなくなる。点火方法について考え始めたら、岩だらけの土地を旅しているみたいに足が痛くなり、疲れきってしまう。開閉式がいいのか火花式がいいのか? 乾電池がいいのか蓄電池を使うべきか? 蓄電池はよさそうだが、そうなると発電機も必要だ。発電機の出力はどれくらいがいいのか? 発電機と蓄電池を装備するのだったら船の照明も電気にしないのはおかしい。となると、照明の数とローソクの本数でまた議論だ。電灯というのはすばらしい考えだが、電灯を使えば、蓄電池も容量の大きいのが必要になるだろう。すると、今度はもっと大きな発電機が必要になる……といった具合だ。
ここまで話が進むと、サーチライトも必要だということにもなる。とても役に立つだろう。だが、サーチライトは電気を大食いする。よって、サーチライトで照らしている間、他の照明はすべて消すことになる。それを解決するには蓄電池と発電機の出力をもっと大きくしたくなるし、それはそれで苦労が増える。ともかくもこの問題に決着がついたところで、「エンジンが壊れたときはどうする?」と誰かが聞いたりする。そこで、ぼくらはひっくり返ってしまう。側灯や羅針盤用の照明や停泊灯もある。ぼくらの命運はそれにかかっている。となると、電気が使えない場合に備えて石油ランプも用意せざるをえない。
このエンジンはとても強力なのだが、これ自体にも問題があった。
ぼくらのように非力な男二人と女一人でアンカーを手で持ち上げたりすれば心臓ばくばくで背骨も折れかねない。そういう力仕事はエンジンにさせればいい──というわけで、エンジンの出力をどうやって前方の錨を巻き上げるウインドラスまで伝達するかという問題が出てくる。そして、こうした問題をすべて解決するために、機関室や調理室、浴室、各人の部屋、キャビンに対するスペースの割当を再検討し、全部やり直すことになる。それで、エンジンを積み替える際、ニューヨークのメーカーに電報を打った。こんな奇妙な文面だ。「トグルジョイントはやめたスラストベアリングに変更、フライホイール前縁から船尾材の面までの距離十六フィート六インチ」
細部にまで神経を使いたいという人であれば、操舵装置を最高のものにしようとあれこれ思案したり、艤装の調整に旧式のラニヤード(ロープ)を使うか金属製のターンバックルを使うかを判断しなければなるまい。羅針盤の架台は船の中央にある舵輪の前に配置すべきか、舵輪の前の一方の側に置くべきか? これは熟練した船乗りの間でも議論のあるところだ。それから、千五百ガロン(約五千六百リットル)ものガソリンをどうするかという問題もある。安全に貯蔵し配管するにはどうしたらよいのか? ガソリン火災が生じた場合、それに最適な消火器はどのタイプなのか? 救命ボートとそれをどこに保管するかという問題もある。
それらが片づいたところで、今度はコックや給仕係をどうするかという、悪夢にもなりかねない問題が待っている。船は小さいし、そこにみんなが押しこまれることになる。これに比べれば、陸のレストランでどんな女の子が給仕してくれるかなど物の数ではない。で、ぼくらはやっと給仕を一人だけ選んだ。やれやれ、この問題はなんとか片づいたと思ったのだが、そいつはなんと恋に落ち、ぼくらの航海に同行することを辞退してしまった。
そんなこんなで、何かと手がかかるのだ。
こういった状況でどうやって航海術を勉強する時間を確保できるというのか──こうした問題に悩まされ、それを解決するための金を工面しなければならないが、こういう状態でどうやって稼げというのか? ロスコウもぼくも航海術のことは何も知らないまま夏が過ぎた。
出発が迫っていた。
が、問題山積みという霧はますます濃くなっていく。しかも金庫は空っぽだ。ともあれ、シーマンシップなる操船術を完璧に身につけるには何年もかかるだろうし、ぼくもロスコウも一応は船を操船した経験を持っている。いま時間の余裕がないわけだから、とりあえず関係する本や教科書を手に入れておいて、サンフランシスコを出てからハワイに到着するまでに航海術を勉強する時間は確保できるだろう。大海原でぶっつけ本番といこう。
スナーク号の航海には、不幸にも、混乱の元凶となる問題がもう一つああった。ロスコウは副航海士というわけだが、あのサイラス・リード・ティード*の信奉者なのだ。サイラス・リード・ティードという人物は、現在一般に受け入れられているのとは別の宇宙観を信じている人で、ロスコウは彼の見解に同意している。
つまり「地球の表面は惑星の外側にあるように思われているが、実はこの球体の内側に凹面のようになって存在していて、人間はその中空の球の内側で暮らしている」なんてことを、なぜか信じこんでいるのだ。となると、ぼくらはスナーク号という一隻の船に乗り合わせて航海する予定なのだが、ぼくとチャーミアンやコックは地球の外側を、ロスコウは地球の内側にあるという世界を旅することになるわけだ。とはいえ、航海が終わるころまでには、ぼくらの心も一つになっているだろう。ぼくは彼を地球の外側の表面を旅させる自信がある。逆にロスコウもぼくに似て頑固で自説をゆずる気はなく、サンフランシスコに戻ってくるまでには、ぼくが地球の内側にいると納得するだろうと確信しているらしい。彼がどうやってぼくに地殻を通り抜けさせるつもりなのか知らないが、ま、いずれにしろ、ロスコウは船乗りとしてすぐれた技能を持ってはいるのだ。
* サイラス・リード・ティード(一八三九年~一九〇八年)は、薬草療法などを用いる非正統の折衷療法を学んだ米国の医師で、地球空洞説(地球の内部は空洞になっていて、そこに宇宙が存在しているという説)を唱え、さらに独自の宇宙観に基づくコレシュ教という新興宗教の開祖ともなった人物。
今ではとても信じられないが、当時、彼の主張を信じる人々は一定数存在し、たとえばジューヌ・ベルヌの『地底旅行』などにも影響を与えている。
追伸──エンジンが来た! エンジンを手に入れたら、次は発電機だ。蓄電池だ。となれば、「なぜ製氷機がないんだ?」ということになる。「熱帯ではパンより氷だろう!」というわけで製氷機を探すはめにもなった! いまやぼくは化学に首を突っ込んで唇が荒れている。心もくじけている。一体全体どうすれば航海術を勉強する時間を見つけられるっていうのか?
「金は惜しまない」と、ぼくはロスコウに言った。「スナーク号はなにもかも最高のものにしようぜ。見てくれなんて、どうだっていい。ぼくとしては、仕上げは無垢の松材で十分だ。建造費には金を使う。スナーク号をどんな船にも負けないくらい頑丈にするんだ。そのためにどれくらい金がかかるかなんて、気にしなくていい。お前は船を頑丈にすることだけを考えてくれ。かかった金はぼくが原稿を書いて稼ぐから」
そうして、実際にそうした……できる限りの努力はした。
努力はしたという表現になったのは、スナーク号がぼくの稼ぎを上まわる速さで金を食っていくからだ。実際問題として、稼ぎの不足分を補うために常に借金を申しこむという状態だった。千ドル借金したはずだったが、いつのまにかそれが二千ドルになり、五千ドルになるという具合だ。ぼくは毎日ずっと仕事をし、稼ぎをこれにつぎこんだ。日曜も働いた。休みなどとりもしなかった。だが、その価値はあった。スナーク号のことを考えるたびに、それだけの努力に価すると思えたからだ。
心やさしい読者には、スナーク号が頑丈なことを知っていてもらいたい。水船長は四十五フィートで、キールの横の舷側に張った厚板は三インチ、他の厚板は二インチ半、甲板材は二インチの厚さがあり、どの板にも継いだところはない。自分でピュージェット・サウンド産の材木を特注したので、よく知っている。
さらに、スナーク号には四つの水密区画がある。つまり、船には三カ所に水を漏らさないバルクヘッド(隔壁)があって、それで分けられているということだ。だから、仮にスナーク号に穴があいて浸水したとしても、その区画に海水が浸水するだけで、残り三つの区画でなんとか船は浮いていられるし、その間に修理もできる。この隔壁にはほかにもいいところがある。最後尾の区画には六個のタンクがあり、一千ガロン(三千七百八十五リットル)のガソリンを入れておくことができる。小型船に大量のガソリンを積んで大海原を進むのは非常に危険なのだが、六個のタンク自体も船の他の部分とは隔離されて密閉した場所に置かれるので、現実問題として危険は非常に小さくなるだろう。
スナーク号は帆船だ。帆走第一で建造されている。とはいえ、補機として七十馬力の強力なエンジンを搭載してもいる。これはすぐれた強力なエンジンだ。いやというほどよく知っている。ニューヨーク市からはるばる運んでくるための運賃もぼくが払ったのだから。しかも、エンジンの上にある甲板にはウインドラスがある。これも最高だ。重さは数百ポンドもあって場所をとるのだが、七十馬力のエンジンを搭載しているのにアンカーを人の手で揚げるなんてありえない──というわけで、ウインドラスを取りつけることになった。ギアやサンフランシスコの鋳造所特製の鋳物を使ってエンジンの出力をウインドラスにも伝達するようになっている。
スナーク号は自分の娯楽のために建造したので、生活を快適にする装備にも金は惜しまなかった。
たとえばバスルームだ。狭くて小さいのは事実だが、陸で風呂に入る際の利便性はすべて備えている。水栓やポンプ、レバー、海水弁などの配置もすっきりとしている。船の建造中、ぼくはベッドに入ってからもこのバスルームのことを考えていた。バスルームの次には救命ボートと上陸用のテンダーをどうするかだ。これは甲板に載せておく。空いたスペースは乗員の運動に使う。体を鍛えておけば生命保険もいらないってわけだ。とはいえ、スナーク号のようにどんなに頑丈な男であっても、よくできた救命ボートは確保しておくのが賢明だ。コストは百五十ドルという話だった。が、請求書の支払をしようとすると、三百九十五ドルに跳ねあがっていた。これで救命ボートにも金を使っていいものを用意しているのがわかるだろう。
スナーク号の美点や長所についてはいくらでも続けることができるが、やめておこう。われながら自慢たらたらになっているし、この話を最後まで読む前に、読者はうんざりしてしまうだろうから。
だが「信じられない、ひどい話」というこの章の見出しを思い出してほしい。スナーク号は一九〇六年十月一日に出帆する予定だった。それができなかった事情というのが「信じられない、ひどい話」というわけなのだ。
出帆しなかった理由は、まだ出来上がっていなかったからだ。確たる原因があったわけではない。十一月一日には完成するという約束だったが、それが十一月十五日になり、十二月一日になった。そう、いつまでたっても完成しないのだ。十二月一日に、チャーミアンとぼくは居心地がよくて清潔なソノマ郡の住まいを出て、謀略が渦巻く都会で暮らすようになった。だが、そんなに長居するつもりはなかった。せいぜい二週間だ。というのも、十二月十五日には出帆するつもりだったのだ。それに、ロスコウが述べていたように、ぼくらは出発前に船のことを知っておくべきだと思ったし、やつの助言で都会に出てきて二週間も生活することにしたのだ。
が、悲しいかな、その二週間が過ぎても、四週間が過ぎても、六週間が過ぎても、八週間が過ぎても、出帆するにはほど遠い状態にあった。どういうことかって? 誰のせいだって? ぼくのせいか? わからない。ぼくの人生で一度きりの前言取り消しだ。説明はできない。できるくらいなら自分でとっくにやっている。ぼくは言葉をあやつる職人だが、なぜスナーク号の準備が整わなかったのか、説明する能力がないことを告白しておく。すでに述べたように、そして、それを繰り返すしかないのだが、これが「信じられない、ひどい話」というわけだ。
八週間が十六週間になったある日、ロスコウがぼくらを元気づけようとこう言った。
「四月一日までに出帆しないとなったら、俺の頭をボールに見立ててサッカーをやっていいぜ」
二週間後、やつは「その試合用に頭をきたえておかなきゃ」と言った。
「気にしないようにしよう」と、チャーミアンとぼくは互いに話し合った。「完成したら出帆する、すばらしい船のことを考えていよう」と。
それで、互いにスナーク号のさまざまな美点や長所を数え上げてそのリハーサルをやった。加えて、また金を借り入れることになった。机に向かっても、だんだん書くのが億劫になってくるし、日曜は執筆を休んで友人たちと山歩きをしていたのだが、それもいさぎよく断念した。ぼくは船を建造しているのだ。いつかは船になるはずだ。大文字でつづると、B・O・A・Tだ。BOATである限り、いくら費用がかかっても、ぼくは気にしない。
おまけに、スナーク号にはもう一つ、自慢せずにはいられない長所がある。船首だ。どんな波も船首をこえてくることはできない。船首が音を立てて海を切り裂いていくのだ。海にいどみ、軽々と波をこえていく。しかも美しい。夢のようなラインだ。これほど美しく祝福されていると同時にすぐれた機能の船首を持つ船があったろうか。嵐だって平気だ。この船首にさわれるというのは、すべての頂点に手が届くということだ。ここを見れば、経費節減なんて思いもよらない。出帆が延期になるたびに、また追加経費が生じるたびに、ぼくらはこのすばらしい船首のことを思って満足した。
スナーク号は小さな船だ。高くても七千ドルだろうと踏んでいたが、その時点では金額も余裕をみていたし、正確だった。ぼくは農作業用の納屋や屋敷を何軒も建てた経験があるし、当初に見積もった経費が超過することがあるのもわかっていた。自分で経験して知っていた。だから、スナーク号の建造費を七千ドルと見積もったのだが、それがなんと三万ドルにも膨れ上がっていた。質問は認めない。本当の話なんだから。ぼくは小切手に署名し、金を工面した。むろん、それについては何も説明しない。何度も言ったように「信じられない、ひどい話」ということで、納得してほしい。
で、やっぱり作業遅延の問題になる。ぼくは四十七種類もの組合の連中や百十五もの会社を相手にした。どの組合もどの会社もだれ一人として約束した時間に物を届けたり作業を終えたものはなかった。が、給料日と集金だけは例外で、一日の遅れもなく正確だった。彼らには決まったものを決まった時間に届けると固く誓わせた。そうした誓約を交わした後では、納品の遅延が三カ月を超えることは少なくなった。そんな調子だったので、チャーミアンとぼくは、スナーク号がどんなにすばらしいか、水は漏れないし、どれほど頑丈かをほめたたえて互いに慰めあったものだ。ぼくらはまた小舟に乗ってスナーク号のまわりを漕ぎまわり、信じられないほど美しい船首をほれぼれと見上げたりもした。
「考えてもみろよ」と、ぼくはチャーミアンに言った。「中国の沖合で嵐に遭遇してヒーブツーしてるとするだろ。で、このすばらしい船首が嵐に突っこんでいくんだ。波は一滴だって船首を乗りこえてはこないだろうな。デッキは羽毛のように乾いたままで、嵐の咆哮(ほうこう)を尻目に、ぼくらは下の船室でのんびりしてるってわけさ」
すると、チャーミアンがぼくの手を情熱的に握って叫んだ。
「すばらしいわ、すべてが──作業が遅れているのも、経費がかさんでいるのも、あれこれ心配事が絶えないのも、なにもかも。本当になんてすてきな船なんでしょ!」
スナーク号の船首を見るたびに、また水密区画のことを思うたびに、ぼくは勇気づけられた。
とはいえ、ほかに誰も勇気づけてくれる者などいやしない。友人たちはスナーク号が出発する日について、あれこれ言いあって賭けをはじめる始末だ。ソノマにある牧場の責任者として残してきたウィジェット氏がまず最初に年内には出発できない方に賭け、一九〇七年の正月に賭けに勝って金を手にした。その後もそうした賭けは繰り返され、金額はすさまじいものになった。友人たちはギャングのようにぼくを取り囲み、ぼくの予定した出帆日をめぐって賭けをした。ぼくは軽率だったし、意地にもなっていた。何度も賭けをし、何度も延期が繰り返された。賭けはすべてぼくの負けで、連中に金を支払った。そうなると、それまで賭けごとなんか見向きもしなかった女の友人たちまで大胆になって、ぼくと賭けを始めた。むろん、それもぼくが負けて支払うはめになった。
「気にしないで」と、チャーミアンがぼくに言った。「あのすばらしい船首と中国の沖でヒーブツーしているところだけを考えましょうよ」
「そうだな」と、ぼくは賭け金を友人たちに払いながら言った。「スナーク号をゴールデンゲートブリッジをくぐった船のなかで最も耐航性のある船にするため手間も金も惜しんでないってことだ──それが遅れている理由なんだ」
一方、編集者や契約している出版社は計画延期の説明をそのつどしつこく求めてきて閉口した。どんなに説明しても、というか自分にすらなぜ遅れているのか説明できないわけだし、それを説明してくれる者もいない。ロスコウですら説明できないのに、連中にどうやって説明しろというのだ? 新聞はぼくを嘲笑しはじめた。「まだだよ、だけど、もうじき」みたいなフレーズを繰り返す「スナーク号の出発の歌」なるものを公表したりしている。
チャーミアンは、船首のことを思い出させては、ぼくを元気づけてくれた。
ある銀行家のところに行って、五千ドルの追加融資も受けた。
とはいえ、遅延については、いいことも一つだけあった。なぜか評論家となっていた友人の一人が、ぼくがこれまでにやってきたこと、これからやろうとしていること、そうしたことすべてを酷評したのだ。友人だと思っていたそいつは、ぼくが航海に出た後にそれを公表するつもりだったらしい。それが実際に発表されたとき、あいにく、ぼくはまだ出発できず、陸にとどまっていた。というわけで、ぼくを酷評した評論家先生は必死でぼくに言い訳するはめになった。
時間はどんどん過ぎていった。一つだけ明白なことがあった。つまり、スナーク号をサンフランシスコで完成させるのは不可能ということだ。建造期間が長引いたため、すでに壊れたり摩耗したりしているところが出始めている。事実、修理するよりも早く壊れていく。スナーク号はジョークの種になっていたし、誰もまじめに考えていなかった、少なくとも作業している連中は。
で、ぼくはこれ以上の作業は中止し、このままの状態でホノルルに出発すると宣言した。そのとたん、船の水漏れが判明し、出帆する前に修理しなければならなくなった。
ぼくとしては、ともかく、なんとしてもスナーク号を水路に移動させたかった。が、そこにたどり着く前に二隻の大きな荷船にはさまれ派手にぶつけられてしまった。水路まで出てみると、海面は広くて水深もあった。で、スナーク号は船尾から沈んで海底の泥に突き刺さってしまった。
厄介な事態になった。
こうなると、造船所ではなく海難救助業者の仕事だ。潮の干満があるので、二十四時間に満潮が二度くる。夜だろうが昼だろうが潮が満ちてくるたびに、二隻の蒸気機関を搭載したタグボートがスナーク号を引っ張った。スナーク号は航路と航路の間に沈み、船尾が着底している。この困った状況にある間に、ぼくらは地元の鋳造所にエンジンからウインドラスまでの動力を伝達する道具や鋳物を作らせた。前述したウインドラスを使ったのは、このときが初めてだ。鋳物には亀裂が入っていたらしく、大きな負荷がかかったところでバラバラに割れ、関連の器具も壊れて役に立たなくなった。ウインドラスが動かなくなり、その後、七十馬力のエンジンが故障した。このエンジンはニューヨークから運んできたものだった。土台となるエンジンベッドもそうだ。この台に傷が一か所あったのだ。というか、あっという間に多くの亀裂が生じて、七十馬力のエンジンは土台から割れてしまった。空中に跳ね上がり、接続部分や締め具をすべて引きちぎって横倒しになってしまった。それでも、スナーク号は水路の間に突き刺さったままで、二隻のタグボートはなんとか曳航しようと無駄な努力を続けていた。
「気にすることないわ」と、チャーミアンが言った。「船は一滴も水が漏れず頑丈だってことを考えましょうよ」
「そうだな」と、ぼくも答えた。「船首も美しいしな」
それで元気を取り戻すと、また作業に取りかかった。壊れたエンジンは、汚れた土台の上に固縛した。動力伝達装置の割れた鋳物や歯車は取り外し、保管しておいた。新しい鋳物を作ったり修理ができるホノルルで、また取り出して使うつもりだった。はっきりとは覚えていないが、スナーク号の外側は一度白く塗っていた。日光の下ではっきり見えるようにするためだ。スナーク号の内部は塗装していなかった。逆に、グリースと、さんざん苦労させられたさまざまな技術者連中のタバコの唾が数インチも塗りこめられていた。気にしないようにしようと、ぼくらは言いあった。グリースや汚物は削り取ることができるし、いずれホノルルに着いたら本格的に修理して塗装することもできるだろう。
奮闘努力した末に、スナーク号は難破状態から引きずりだされ、オークランド市の埠頭に係留された。家から持ってきた衣類一式、本、毛布、各人の私物をすべて馬車で運びこんだ。他のこまごまとしたものもすべてまとめて船に持ちこんだので、船上は大混乱だった──薪に石炭、水と水タンク、野菜、食糧、オイル、救命ボート、テンダー(足船)、友人たち、友人の友人たち、友人だと言い張る連中、乗組員の友人の友人の友人とでもいうほかない人々でごったがえした。おまけに、新聞記者やカメラマン、見知らぬ連中、変人がいたし、きわめつけは埠頭から雲のような炭塵の煙も流れてきた。
日曜の十一時に出帆する予定だった。すでに土曜の午後になっている。埠頭には群衆が集まり、炭塵の煙も濃くなっていく。ぼくはポケットの一つに小切手帳と万年筆、日付スタンプ、吸い取り紙を入れ、別のポケットには一千ドル分の紙幣と金貨を入れていた。債権者が来てもすぐに対応できるし、こまごまとしたものの代金は現金で、大口は小切手で、というわけだった。あとは何カ月も作業を遅らせてくれた百十五もの会社の未払いの勘定書を持ってロスコウがやって来るのを待つだけだ。そうして──
それから、信じられない、ひどい話がまた起きてしまった。
ロスコウが到着する前に別の男がやってきた。合衆国の保安官だ。スナーク号にはまだ未払債務が残っているという申し立てについての通達を、埠頭にいる全員が読めるようにマストに貼りつけたのだ。スナーク号の管理人として小柄な老人を残したまま、保安官自身は去った。これで、スナーク号も、あの美しい船首も、ぼくにはどうしようもなくなった。この小柄な老人が今ではスナーク号の王であり主人なのだ。おまけに、ぼくはこのご老人に管理料として毎日三ドルを支払うてはずになっているらしかった。ついでに言うと、スナーク号を訴えた男の名前も判明した。売主一同とある。債務は二百三十二ドル。この証書にはそれしか書いてない。売主一同だと! いやはや、売主一同だと!
一体全体、売主一同とは誰のことだ?
ぼくは小切手帳を調べてみた。二週間前に五百ドルの小切手をきっていた。別の小切手帳を見ると、スナーク号を建造している何カ月もの間に、ぼくは数千ドルも支払っていた。それなのに、わずかな未収金を回収しようともせず、なぜスナーク号を訴えたりしたのだろう? ぼくは両手をポケットに突っこみ、一方のポケットから小切手帳と日付スタンプとペンを取り出し、別のポケットからは金貨と紙幣を取り出した。このわずかな金の問題を解決する機会は何度もあったし、それに必要な金もあったのだ。なぜ、ぼくに支払うチャンスを与えてくれなかったのだろう? それについての説明はなかった。これがとんでもなくひどい話でなくてなんなのだ。
さらに悪いことに、スナーク号が告発されたのは土曜の午後だった。ぼくは弁護士や代理人をオークランドとサンフランシスコに派遣したが、合衆国の判事はおろか保安官も売主一同氏も売主一同氏の弁護士も見つけられなかった。週末なのでみんな出かけていたのだ。それでスナーク号は日曜の午前十一時になっても出発できなかった。担当の小柄な老人は、どうしても出帆に同意してくれない。チャーミアンとぼくは埠頭の反対側まで歩いていって、スナーク号の美しい船首を眺めて慰めあった。この船が強風や台風にも堂々と立ち向かう様子について考えるようにしたというわけだ。
「ブルジョアのいやがらせさ」と、ぼくはチャーミアンに言った。売主一同氏と連中の訴えのことだ。「商売人ならパニックになるところだが、なに、気にすることはない。大海原に出てしまえば、この問題は終わるからな」
結局、ぼくらが出帆したのは、一九〇七年四月二十三日、火曜日の朝だった。白状すると、出だしからつまずいてしまった。動力伝達装置が壊れているので、アンカーも手で揚げなければならなかったのだ。おまけに、七十馬力のエンジンはスナーク号の船底にバラストとしてしばりつけてある。
だが、それがなんだというのだ?
エンジンはホノルルで修理できるだろうし、船の他の部分は立派なものだ! テンダーのエンジンが動かず、救命ボートはザルのように水漏れするというのは本当だが、それはスナーク号自体ではない。単なる付属品だ。重要なのは、水漏れしないバルクヘッドに継ぎ目の見えない頑丈な厚板、浴室の設備──こういうものがスナーク号なのだ。なによりすごいのは、気品があって風を切り裂く船首だ。
ぼくらはゴールデンゲートブリッジを通過して太平洋に出てから南下した。北東の貿易風を拾えるだろうと思ったのだ。すると、すぐにいろんなことが起こった。雇った若者たちはスナーク号の航海に向いていると思っていたのだが、三分の二は当てがはずれた。スナーク号には三人の若者がいた──エンジニアにコックに給仕だ。ぼくは船酔いを計算に入れるのを忘れていた。コックと給仕の二人はすぐに船酔いで寝台にもぐりこんだまま、一週間というもの、まったく役に立たなかった。そういうわけで、ぼくらは食べるはずだった暖かい食事にはありつけず、船室がきれいに整頓されることもなかった。どんな様子か、わかるだろ?
とはいえ、そんなことはどうでもいい。というのも、まもなく冷凍していた箱詰めのオレンジが溶け出しているのを発見したのだ。リンゴの箱も腐りかけて台なしになっている。木箱のキャベツは届く前に腐敗していたので、すぐに海に捨てなければなかった。灯油がこぼれてニンジンにふりかかり、カブはしぼんで薪のようになっている。ビートもだめだ。コンロのたきつけは枯れた木だったが、燃えやしない。汚れたジャガイモ袋に入れて届けられた石炭は甲板に巻き散らかされ、排水口から押し流されていった。
とはいえ、それがどうしたというのだ?
そんなことは枝葉末節なことにすぎない。ぼくらには船がある。それ自体にまったく問題はない。そうだろ?
ぼくはデッキを行ったり来たりしながら、特注したピュージェット・サウンド産の美しい厚板材に、わずか一分で十四もの継ぎ目を見つけてしまった。おまけに、甲板から水漏れしている。それも大量にだ。ロスコウは寝台でおぼれかけたし、厨房の食料品がダメになったのは言うまでもないが、機関室の工具も使い物にならなくなった。スナーク号の側壁から海水が漏れてきたし、船底でも漏れていた。船を浮かべておくためにポンプで毎日排水しなければならなかった。排水して四時間もすると、厨房の床には船の内底から二フィートもの海水が浸水し、厨房の床に立って冷たい食事にありつこうとすると、船室内で揺れ動く水に膝までつかるはめになった。
そうなると時間とお金をかけた、水密かつ頑丈なコンパートメントの出番なのだが──結局、これが水密ではなかったのだ。浸入した水は空気のように部屋から部屋へと移動した。おまけに、コンパートメントの背後から強いガソリン臭がしてくる。そこに保管していた六個のタンクのうちの一つか複数のタンクから漏れているのではないかと疑った。実際にタンクから漏れていた。それがコンパートメント内に密閉されず出てきたのだ。さらに、ポンプとレバーと海水弁を備えた浴室で問題が起きた。これも最初の二十四時間で故障してしまった。ポンプを動かそうとすると、片手で操作しただけなのに、その力だけで、頑丈なはずの鉄製レバーが折れてしまった。浴室はスナーク号の故障第一号になった。
スナーク号で使用されている鉄は、材質は鉄だとしても、強度はまるでない、へなちょこだと証明された。エンジンベッドのプレートはニューヨークから取り寄せたものだが、ぼろぼろになっていた。サンフランシスコから取り寄せたウインドラスの鋳物や歯車も同様だ。ついには、索具に使われている鍛鉄(たんてつ)までもが、最初に負荷がかかったとき、四方八方にちぎれてしまった。鍛鉄(たんてつ)だぜ。それがマカロニみたいに折れてしまったんだ。
メインセイルのガフ(斜桁)のグースネック*も折れて短くなった。それで、ストーム・トライスルのグースネックと交換した。が、二つ目のグースネックも使い始めて十五分で壊れた。いいかい、これって荒天用のストーム・トライスルのグースネックなんだ。嵐のときに頼りにしなきゃならないやつなんだ。グースネックの部分をぐるぐるに縛りつけてやったので、スナーク号は今ではメインセイルを折れた翼のようにひきづって帆走している。ホノルルでは本物の鉄が手に入ると思う。
* グースネック: 帆の下縁に取りつけるブーム(帆桁)の根元で、マストと組み合わせる部分。
やつらはこうやってぼくらを裏切り、ザルみたいな船で大海原へと送り出してくれたってわけだ。ところが、神様はちゃんとぼくらのことに気を配ってくれていた。凪(なぎ)が続いたのだ。船を浮かせておくために毎日排水ポンプにかかりきりになっていなければならなかったが、船上で使われている大きな鉄のほとんどよりも木のつまようじの方がずっと信頼できるということもわかった。たまにスナーク号の頑丈さと強さがかいま見えたりもしたので、チャーミアンとぼくはスナーク号のすてきな船首をますます信頼するようになった。他にそういうものがなかったのだ。これが、ありえない、とんでもない話のすべてだが、少なくともあの船首だけは期待を裏切らなかったことになる。そうして、ある晩、ヒーブツーを開始した。
どう説明したらいいんだろう?
まずヨットに不案内な人のために説明すると、ヒーブツーっていうのは、強風に備えて縮帆し、帆の展開具合や向きを調整して、船首を風や波の方に向けておく操船術の一つだ。風が強くなりすぎたり波が大きくなりすぎたとき、スナーク号のような船はヒーブツーでしのぐことができる。そうしておけば、船上では何もすることがない。誰も舵を持つ必要はないし、見張りも不要だ。全員が下に行って眠ってもいいし、トランプをやったっていい。
ロスコウにヒーブツーした方がいいかなと声をかけたときは、ちょっとした夏の嵐の半分ほどの風が吹いていた。夜が近づいていた。ぼくはほぼ一日、舵を持っていたし、下にいると船酔いするので、ロスコウ、バート、チャーミアンの全員がデッキに出ずっぱりだった。大きなメインセイルはすでにツーポンリーフ(二段階の縮帆)をしていた。フライングジブとジブは取りこんでいたし、フォアステイスルは縮帆し、ミズンセイルも取りこんだ。この頃になると、フライングジブのブームが波をすくうようになり、折れてしまった。ぼくはヒーブツーするために舵を切った。その瞬間、スナーク号は波の谷間に転がり落ちた。船は波の谷間で揺れ続けた。
ぼくは舵輪を押さえつけた。船は谷間から動こうとしない(心やさしき読者よ、波と波の谷間は、船にとって最も危険な場所なのだ)。スナーク号は谷間から抜け出せず横揺れしているだけだ。風に対して九十度に向けるのが精一杯だ。ぼくは、もう少し風の来る方に船首を向けようとして、ロスコウとバートにメインシートを引きこませた。スナーク号は波の谷間に閉じこめられたまま、左右の舷が交互に下になったり上になったりしている。
とはいえ、またも、信じられない、ひどい事件が鎌首をもたげた。なんとも不可解で、ありえない事態だ。信じたくもない。
メインセイルをツーポンリーフし、ステイスルをワンポンリーフしたのだが、スナーク号はヒーブツーしようとしない。
ぼくらはドラフトが浅くなるようにメインセイルをきつく張ったが、船の向きは少しも変わらない。メインセイルを緩めてみても結果は同じだ。ストームトライスルをミズンに上げて、メインセイルを取りこんでみたが変化はない。スナーク号は波の谷間で横揺れしているばかりだ。美しい船首はどうしても風の来る方向に向いてくれない。
次に、リーフしたステイスルも取りこんだ。スナーク号で展開している帆はミズンマストのストームトライスルだけになった。これで船首が風上の方に向いてくれればよいのだが、そうはならなかった。話を面白くするための下心丸見えの筋書きと思うかもしれないが、実際にそうだったのだから仕方がない。どうやってもうまくいかなかった。信じたくはないのだが、これが現実だ。頭で考えたことを言っているのではなくて、実際に見たことを言っているのだ。
というわけで、心やさしき読者よ、小さな船に乗り、大海原の波の谷間で翻弄され続け、トライスルを船尾に上げても船が風に立ってくれない場合、君ならどうする?
* ヒーブツー:荒天時の対処法の一つ。
一本マストでジブ(前帆)とメインセイル(主帆)を持つ一般的なヨットでは、ジブを裏帆にし、メインセイルはそのままで少し緩め、舵輪または舵柄(ティラー)を風下側に固定する──タッキングして船首が風軸をこえたところで、ジブが風下側に移らないようにジブシートを固定したまま、舵輪/舵柄だけ風下側に切った状態にする──と、船にかかる力のバランスがとれ、風に対して斜めになった状態で安定する。
スナーク号のような二本マストのケッチ/ヨールでは、メインセイルを下し、ジブとミズンスルで同様の状態にしたりもするが、船の艤装やキールの形状などによって船の反応は微妙に異なるので、船ごとに微調整が必要になる。
シーアンカーを取り出せって?
いまやったところだ。
特許を受けた沈まないと保証つきのものを特注して用意していたのだ。シーアンカーとは、巨大な帆布製の円錐形の袋で、その口を広げるために鋼鉄の輪がついている。ぼくらはロープの一端をシーアンカーに結び、もう一方をスナーク号の船首に結びつけた。そうしておいてからシーアンカーを海に投下した。すると、すぐに沈んでしまった。引き綱をつけていたので、それを引いて回収し、浮き代わりに大きな木片をつけてから、もう一度放りこんだ。こんどは浮いた。船首に結んだロープがぴんと張った。ミズンマストのトライスルには船首を風上に向けようとする性質があるが、それなのにスナーク号はシーアンカーを引きづって進もうとする。波の谷間でシーアンカーが船尾にまわってしまい、それを引きずる形になって具合が悪い。ぼくらはトライスルを下し、もっと大きなミズンセイルを上げてから、平らになるようぴんと張った。するとスナーク号は波の谷間で挙動不審になり、やたらシーアンカーを船尾の方向に引きずりまわしてしまう。
ぼくの言うことを信じてないな。自分でも信じられないのだから仕方がないが、ぼくは見たままを話しているだけなのだ。
さて、ここで問題だ。だれか、ヒーブツーしたがらない帆船の話を聞いたことがあるかい? シーアンカーを使っても駄目だった船の話さ。ぼくの短い経験でも、そういう話は聞いたことがない。
ぼくは甲板に立ち、信じられない、とんでもない船、つまり、どうしてもヒーブツーしてくれないスナーク号をぼうぜんとして眺めているだけだった。
嵐の夜で、とぎれとぎれに月光が差しこんでくる。空気は湿っていて、風上の方には雨を伴う突風の兆しがあった。大海原の波の谷間で冷たく無慈悲な月光を浴びて、スナーク号はやたら横揺れしている。ぼくらはシーアンカーを取りこみ、ミズンセイルも下し、縮帆したステイスルを上げてから、スナーク号を風下に向けて帆走させた。そうしておいて下に降りた。暖かい食事が待っているというわけではなかった。キャビンの床は水びたしだし、コックと給仕は自分の寝床で死んだようになっている。ぼくらはいつでも起きだせるように服を着たまま寝床に倒れこみ、船底にたまったビルジ(水)が調理室の床から膝の高さにまで達してピチャピチャいう音を聞いていた。
サンフランシスコのボヘミアン・クラブには、何人かのベテランのヨット乗りのうるさがたがいた。なぜ知っているかといえば、スナーク号の建造中に連中がケチをつけたと聞いたからだ。スナーク号には一つだけ致命的な問題があるということだった。これに関しては連中みんなの意見が一致していた。
具体的には、スナーク号は風下への帆走(ランニング)では使い物にならないということらしかった。経験豊かな彼らによれば、スナーク号はあらゆる点で申し分ないが、強風の吹きすさぶ大海原でランニングさせることは無理だろう、というのだ。
「ラインズだ」と、連中はもったいぶって説明した。「欠点は船型だ。単純に、あれじゃランニングできるわけがない。それだけだ」
スナーク号にあのボヘミアン・クラブのうるさがたのベテランが乗っていて、強風が吹きあれたあの夜の走りを体験してくれていたら、連中が口をそろえた致命的という判断はくつがえったはずだ。ランニングだって? それについてはスナーク号は完璧にやってのけたぜ。連中は、ランニングって言ったっけ? スナーク号はバウからのシーアンカーを引きづったまま、締めこんだミズンで風下に走ってくれたぜ。
ランニングは無理だって?
ぼくがこの原稿を書いている時点で、ぼくらは北東の貿易風を受けて六ノットで風下に帆走しているところだ。ランニングでは、きわめて規則正しい波にうまく乗っている。舵は誰も握っていないし、舵輪を縛ってもいないが、スポーク半分ほどのウェザーヘルムをこなせるよう当て舵*はしてある。正確に言うと、風が北東から吹いていて、スナーク号のミズンは巻き取り、メインセイルは右舷側に出し、ジブシートは一杯に締めこんでいる。スナーク号の進路は南南西だ。とはいえ、四十年もの海の経験がありながら、操舵せずに風下帆走できる船はないと思いこんでいる連中もいるのだ。あの連中がこの原稿を読んだら、ぼくを嘘つきと呼ぶだろう。スローカム船長が世界一周したスプレー号についてぼくと同じことを言ったときも、連中はそう呼んだのだ。
* ウェザーヘルムと当て舵: ウェザーヘルムは、帆走で船が自然に風上方向に切り上がろうとする傾向のことで、逆はリーヘルム。この場面では、船が自然に風上に向かおうとするのを抑えて狙った方向に進ませるため、舵輪を少し風下に向く側にまわしておく。これを当て舵という。
追伸 この航海を終えてカリフォルニアに戻ったとき、スナーク号の水線長は四十五フィートではなく四十三フィートだとわかった。これは、造船所がテープラインまたは二フィート・ルールの条件を教えてくれなかったためだ。
スナーク号を将来どうするかについては、まだ決めていない。
わからない。
ぼくにお金か信用があれば、ちゃんとヒーブツーできるような船をもう一隻建造したいとは思っている。とはいえ、現状で、ぼくの資金はほぼ尽きている。現在のスナーク号で我慢するか、ヨットをやめるか。
やめることなどできない。
となれば、ぼくはスナーク号を船尾を前にしてヒーブツーさせるようにせざるをえないと思う。それを試してみようと次の嵐を待っているところだ。自分ではうまくいくと思っているのだが、すべては船尾が波にどう反応するかにかかっている。そのうちに、ある朝、中国の近くの海で、年老いた船長が眼前の光景に信じられないように目をこすり、またじっと見つめ直し、風変わりなスナーク号に非常によく似た小さな船が船尾を前にしてヒーブツーして嵐を乗り切っているところを目撃することになるかもしれない。
【帆船の航海記を読むときのヒント】
荒天時の帆船の対処法の基本は、
一、リーフ(縮帆)する。
二、船首を可能な限り風・波の来る方向に向ける。
の二点になる。
メインセイル(セイルはスルと呼ぶこともある)は段階的に帆の面積を減らせるようになっている。
ヨットでは一般に一段目の縮帆をワンポン(ワンポイント)リーフ、さらに小さくする二段目をツーポン(ツーポイント)リーフ(原文ではダブルリーフ)……と呼ぶ。
ステイスルは文字通りはステイ(支索)につける小さな帆のことだが、小型のヨットでは必ずしもステイに取りつけるとは限らない。メインセイルの縮帆では追いつけないほどの強風では、メインセイルを下し、ストームトライスルを上げる。
ジブセイル(前帆)は何枚か用意しておいて、風の強さに応じて小さいものに取り替えることが多いが、以前にはジブも縮帆できるようになっているものがあった(現代のクルージングヨットでは巻き取り式のファーラージブが普及している)。荒天用の特に小さく頑丈なものをストームジブという。
帆をすべて下してミズンセイルだけ上げるのは、現代でも釣り船や小型漁船が船を風に立てるのに使っているスパンカーと同じ原理だ。
船は構造や設計上、船首や船尾からの波には強いが、横から波を受けると、すぐに横倒しになってしまう。そのため、荒天では風や波に対して船腹を向けないようにするのがポイントになる。
シーアンカーは、頑丈な布製のパラシュートのようなもので、これを海中に投下すると、それが抵抗になって船首を風上の方向に引き戻してくれる。現代のヨットの航海記でも、シーアンカーの代わりにロープにタイヤをつけて流したりする様子がよく出てくる。ヒーブツーでもダメなくらい風が強くなってしまうと、帆をすべて下し、シーアンカーを投入する。これが抵抗になって船首が風上方向に向きやすくなる。これをライアハル/ライイングハルという。
シーアンカーは現代の釣り船でもおなじみで、潮に流されるのを遅くしたり船の向きを調整したりするために使用されることもある。
本文にもあるように、ヒーブツーは陸から遠く離れた大海原での荒天対策の代表的な方法だが、船型によって反応が違ってくるので、特に帆が何種類もあり組み合わせも複雑な帆船では、その船に適した方法を見つけるためには試行錯誤が必要になる。
ヒーブツーできないときは、ライアハル、それでもだめなときは、最後の手段として、本文にあるように風を受けて風下に向かって走る(ランニング)しかない。
速度調節や安定確保のため、船尾から長いロープを流したり、ドローグと呼ばれる抵抗物を流して引きづって走ることもある。
いや、冒険や冒険心というものはまだ死んではいない。
蒸気機関やトマス・クック・アンド・サンのような旅行会社ができる世の中であっても、だ。
スナーク号の航海計画が公表されると、年配の男女は言うまでもなく、「放浪気質」のある若い男女が大勢志願してきた。友人たちの少なくとも半ダースは、自分が現在は結婚して家庭を持っていたり、結婚が目前に迫っていたりするのを悔いていた。さらに、旧知のあるカップルの結婚生活は、スナーク号のせいでうまくいかなくなってしまったようだ。
手紙が殺到した。「息苦しい町」で窒息しかけている志願者からだ。二十世紀のユリシーズは、出帆前に応募者に返信するため大量の速記者が必要になりそうだった。いや、たしかに冒険心というものはまだ死に絶えてはいないのだ──少なくとも「ニューヨーク市に住む一面識もない女ですが、このような心からのお願いについて……(中略)……ことは疑いようがありません」というような手紙が届いているうちは。その手紙を読み進めると、この見知らぬ女性の体重は九十ポンド(約四十・五キロ)しかないのだが、スナーク号の給仕を志願しており、「世界の国々を見てみたいと切望」しているのだ。
一人の志願者は、放浪を求める気持ちを「地理学に対する情熱的な愛情」と表現した。別の者は「私はずっと常に移動していたいと思ってきました。だからこうしてあなたに手紙を書いているのです」と書いてよこした。最高なのは、旅に出たくて「足が鳴る」というものだった。
差出人自身は匿名で、友人の名前を示し、その友人が適格者であると推薦しているのも何通かあった。その種の手紙には何か腹黒い思惑があるように感じられて、こっちとしてもその手の問題には深入りしなかった。
二、三の例外を除き、スナーク号のクルーを志願した何百人もの人々はすべて真剣だった。多くは自分の写真を同封していた。九十パーセントはどんな仕事でもいいと言っていたし、九十九パーセントの人が給料などいらないと申し出ていた。
「あなたのスナーク号の航海や」と、一人は書いていた。「それに伴う危険のことを考えると(どんな役割でも)ご一緒することが自分の野心のクライマックスになるでしょう」
野心で思い出したが、「十七歳で野心的」で、手紙の最後に「でもどうかこのぼくの気持ちを新聞や雑誌には書かないでください」と書いてよこした者もいる。それとは別に「死に物狂いで働き、一銭もいりません」と書いた人もいる。そうした人々のほとんどすべては、自分の志望がかなえられたら受取人払で電報を打ってほしいと望んでいた。多くの人が出帆日にはきっと行くと誓っていた。
スナーク号でどんな仕事をするのか、はっきりわかっていない者もいた。
たとえば、ある人は「貴殿および貴殿の船の乗組員の一人として乗船し、スケッチや絵を描いたりすることが可能なのか知りたくて、失礼ながらこの手紙をしたためさせていただきました」と書いてきた。スナーク号のような小さな船でどんな仕事が必要なのか知らず、何人かは「本や小説のために収集された資料を整理するアシスタントとして」お役に立ちたいと書いてよこした。それが多作の作家の流儀というわけだ。
「その仕事の資格があると認めてください」と書いてきた者もいる。「ぼくは孤児で叔父と暮らしていますが、叔父は怒りっぽく革命を目指している社会主義者で、冒険に赤い血をたぎらさないようなやつは生きているだけの布きれみたいなものだと言うのです」
「俺は少し泳げるけど新しい泳法は知りません。でも泳法より大事なことは、水は俺の友達のようなものだということです」と書いてきた男もいる。
志願者がなぜ自分が適格かの理由として、「もしヨットに自分が一人とり残されたとしても、自分の行きたいところにヨットを運ぶことができる」ことを挙げているのもいた。これは次の「私は空荷の漁船を見たことがあります」よりはましだろうか。とはいえ、最高傑作はこれだ。この志願者は自分が世界や人生をいかに深く知っているかを遠まわしにこう伝えてきた。「長く生きてきました。もう二十二歳になります」
それから、単純かつ直截で、素朴で飾りっ気のない、表現の巧みさとは縁のない、本当に航海をしたいんですという手紙を書いてきた少年たちがいた。
こういう人々の志願を断るのが一番つらかった。断るたびに、ぼくは自分がこの若い連中の顔をひっぱたいている気分になった。彼らは本当に真剣に行きたがっていたのだ。
「ぼくは十六だけど年のわりに大きいです」とか、「十七歳ですが、体は大きく健康です」など。「少なくとも自分くらいの体格の平均的な少年くらいの強さはあります」と、明らかに体の弱そうな子が書いている。
「どんな仕事でもかまいません」というのが連中の多くが言っていることだった。金がかからないというところが売りだと思ったのだろうが、一人はこう書いてよこした。「ぼくは太平洋岸までの旅費は自分で払えます。だから、そちらにとっても受け入れやすいのではないでしょうか」と。
「世界周航こそは私がやりたい唯一のことです」と述べた人もいたが、同じ思いの者は数百人はいると思われた。
「ぼくが出発しても、それを気にかけてくれる人もいません」というのは、かわいそうな感じがした。
自分の写真を送ってきて、「私は地味ですが、いつも外見が大事だとは限らないでしょう」というのもいた。
結局、ぼくは次のように書いてきたやつなら大丈夫だろうと確信した。
「十九才ですが、かなり小柄な方なので場所をとりません。でも悪魔のようにタフです」
実をいうと、十三歳だという応募者が一人だけいた。チャーミアンとぼくはその子が一目で気に入ったので、断るときには胸がはりさけそうだった。
志願者の大半が少年だと思ってもらっては困る。逆に、割合でいうと少年は少数派だった。人生のあらゆる段階の人々、つまり老若男女の志願者がいた。内科医、外科医、歯科医も大挙してやってきたし、そんな専門家すべてがどんな役割でもやるつもりだし、自分の専門領域についても無償でいいと申し出てくれた。
経験のあるボーイや料理人、司厨長は言うまでもなく、同行したいという物書きや記者は引きも切らなかった。土木技師たちも航海に熱心だった。チャーミアンにとっての「女性」のお友だちになりたいという志願者もたくさんいた。ぼくの方には個人秘書志願者が殺到した。高校生や大学生たちも航海に出たがっていたし、労働者階級のあらゆる職業から志願者があったが、特に機械工、電気技師、技術者が熱心だった。
ぼくは、辛気くさいオフィスで冒険の呼び声に心をゆさぶられた人々が多かったことに驚いた。さらに、年配で引退した船長たちに海に戻りたいと思っている人が多いということにも驚いた。若者たちは冒険したくてうずうずし、その数も増える一方らしい。いくつかの郡の学校責任者も含まれていた。
父親たちも息子たちも航海に同行したがり、妻のいる多くの男たちも同様だった。
若い女性の速記者は、こう書いてよこした、「私が必要ならすぐに返事をください。タイプライターをかかえて始発列車に乗ります」と。しかし傑作は──自分の妻に対する微妙な心持ちが表されているが――「旅行にご一緒する可能性について質問させていただこうと思っています。二十四歳で、結婚していますが、関係はこじれています。そのような旅こそ私たちが求めていたものなのです」
考えてみれば、平均的な男にとって、あからさまに自薦する手紙を書くのはかなりむずかしいことであるに違いない。手紙をよこした者の一人は、「これはむずかしいです」と、手紙の冒頭ではっきり語っていた。そうして自分の長所を披瀝(ひれき)しようとむなしく努力した後で「自分について書くのはすごくむずかしいです」と繰り返して締めくくっていた。とはいえ、自分を自画自賛する饒舌な者も一人いて、最後に、自分について書くのは非常に楽しかったと述べていた。
「でも想像してみてください。雇った給仕がエンジンを動かせて、故障の際は修理もできるとしたらどうでしょう。交代で舵も持てるし、大工仕事や機械工の仕事もこなせるのです。丈夫で健康だし勤勉でもあるのです。船酔いしたり皿を洗うだけで他に何もできない子供を選ぶつもりはないのでしょう?」
その種の手紙も断りにくいものだった。書いた人は独学で英語を覚えたそうで、米国滞在は二年にすぎず、さらに「生活費を稼ぐために同行したいのではなく、もっと学び見聞を広めたいのです」という。ぼくに手紙を書いた時点で、彼は大手のモーター製造会社の一つで設計者をしていて、海の経験も相当にあり、小型船の操作に人生をささげていた。
「申し分のない地位にいるのですが、自分としては旅行してみたい気持ちの方が強いのです」と、別の一人は書いている。「給料については、自分を見てもらって、一ドルか二ドルの価値だと思われたのであれば、それでかまいません。自分がそれにも値しなければ無給でも結構です。自分の正直さと品性に関しては、今の雇用主を紹介しますので、その人に聞いてみてください。酒もたばこもやりません。正直に言うと、もう少し経験を積んだ上で、少し書き物をしたいと思っています」
「自分はまともだと保証します。他のまじめな連中は退屈だと思っています」と書いてきた男は、たしかにぼくの想像力を刺激したが、彼の申し出を断ったぼくを退屈だと思ったかな、どんな意味で言ったのかなと、ぼくは今でも戸惑っている。
「今より昔の方がよかったですよ」と、経験豊富な船乗りは書いてきた。「とはいえ、それでもずいぶんひどいものではあったんですが」
次のような文章を書いてきた人には自己犠牲の意欲が感じられて痛々しかったので断るしかなかった。
「私には父と母と兄弟姉妹、仲の良い友人、実入りのいい仕事がありますが、それをすべて犠牲にしても、あなたのクルーの一人になりたいのです」
もっと受け入れがたかった別の志願者は、自分にチャンスを与えることがいかに必要かを示そうとした好みのうるさい若者で、「スクーナーや汽船など、ありきたりの船で出かけることは無理です」という。「なぜなら、ありきたりの船乗りたちと一緒に生活しなければならないからです。そういう生活は清潔というわけではないので」
「人間の感情すべての面を体験し」、さらに「料理からスタンフォード大学通学まであらゆることを行ってきた」という二十六歳の若者もいて、応募の手紙を書いている時点では「五万五千エーカー(約二万二千ヘクタール)」の放牧地でカウボーイ」をしているという。それとは対照的に「私には貴方様に検討していただけるような特別なものは何一つありませんが、万に一つも好印象を持たれたとしたら、少し時間をさいて返事を書こうという気になっていただけるかもしれません。ダメだとしても、自分の業界には常に仕事があります。期待はしていませんが希望はしています。お返事をお待ちしています」というのもあった。
「貴殿を知るずっと前に、私は政治経済学と歴史を融合させており、その点で貴殿の結論の多くを具体的に推論していた」と書いてきた人がいたのだが、それ以来ずっと、その人と自分は知的に同類なのかなと頭を抱えている。
ここで、ぼくが受けとった手紙のなかで上出来の短かいものを一つを紹介しておこう。
「航海に関して契約した会社が翻意し、ボートやエンジンなどに通暁した者を必要とされる場合にはご一報ください」。
短いものをもう一つ。
「単刀直入にお聞きしますが、世界周航では給仕の仕事や他の仕事をする者が必要ですか。自分は十九歳で、体重百四十ポンド(約六十三キロ)、アメリカ人です」
「五フィート(百五十センチ)ちょっと」の小柄な男からの手紙はこれだ。
「あなたが夫人と一緒に小さな船で世界一周されるという勇敢な計画の記事を読み、自分自身が計画しているみたいにとてもうれしくなりました。それで、コックか給仕のどちらかになれないか手紙を書いてみようと思ったのですが、ある事情があって、そうしませんでした。それから友人の事業を手伝うため、先月、オークランドからデンバーにやってきたのですが、状態は悪化し、まずいことになっています。でも幸いなことに、あなたは大地震のため出発を延期されました。それで、ついにどちらかの職につけないか申しこむ決心をしたというわけです。身長百五十センチの小男で非常に頑健というのではありませんが、とても健康だし、いろいろなことができます」
「私はあなたのお仲間に風の力をさらに活用する方法を伝授できると思うのですが」と、ある志望者は書いた。「軽風では普通の帆の邪魔にならず、強風のときにはそのすべての力を利用することが可能です。風が非常に強いときには通常の方法で使用される帆は取りこまなければならないかもしれませんが、私の方法ではフルセイルを展開しておけます。この装置を取りつけておけば、船が転覆することはありません」
前記の手紙は一九〇六年四月十六日付で、サンフランシスコで書かれたものだ。二日後の四月十八日に大地震が起きた。それが、ぼくがこの大地震をさらに嫌いになった理由だ。というのは、この手紙を書いてきた人は被災してしまって一緒に行けなくなったからだ。
同志たる社会主義者たちの多くは、ぼくの航海に反対した。その典型的な理由は「社会主義の目的、さらに資本主義に抑圧された何百万もの同胞は、貴殿が生命をかけて奉仕することを要求する権利を持っている。とはいえ、貴殿が航海に固執するのであれば、溺死する寸前、口いっぱいに海水が入ってきたとき、少なくとも我々は反対したということを忘れないでもらいたい」というものだった。
一人の放浪者は「機会があれば異常な光景について、いくらでも話をすることができるのだが」と、何ページも費やして核心をつこうと努力した末に、最後に次のようにしたためた。「これでもまだ自分があなたに手紙を書いている核心には触れていないのですが、あなたが二、三人で五、六十フィートの小舟に乗って世界周航に出かけられるという記事を目にしたので、とりあえずご忠告しておきます。あなたのような才能や経験を持つ人がそのような方法で死を招くことにしかならないようなことをされるとは思いもよりませんでした。一時しのぎはできたとしても、そんな大きさの舟は絶えず揺れているし、あなたやご一緒の人たちはあちこちぶつかってケガをすることでしょう。クッションを当てていたとしても、海では想定外のことが起こるものなのです」
この人のご厚意には感謝するしかない。ありがとう、親切な人。この人には「想定外のこと」を語る資格がある。彼は自分自身について「自分は新米の船員ではなく、あらゆる海や大洋を航海した」と言っているのだ。そして、手紙を次のように締めくくっていた。「人を怒らせるつもりはないが、女性をそんな小舟で湾の外に連れ出そうとするだけでも狂気の沙汰だ」と。
だが、この原稿を書いている時点で、チャーミアンは自室でタイプライターに向かっている。マーチンは夕食をこしらえているし、トチギは食卓を整え、ロスコウとバートはデッキで作業している。スナーク号は誰も舵を持っていないが、波音を立てて時速五ノットで進んでいる。スナーク号にクッション類は積んでいなかった。
「予定されている旅行についての新聞記事を拝見しました。私どもには六名の優秀な若い船乗りがおりますが、そちらで腕ききの乗組員を必要とされているのか知りたいと存じます。全員アメリカ国籍を持ち、海軍を除隊するか商船を降りたばかりの二十歳から二十二歳の若者で、現在はユニオン・アイアン・ワークス社で艤装担当として雇用されていますが、あなたと航海したがっております」──こんな、自分の船がもっと大きかったらと後悔させるような手紙もあった。
そして、チャーミアン以外では世界でただ一人、航海を志願した成人女性がいた。
「もし最適なコックが見つからなかったら私が志願します。私は五十歳で健康ですし、料理も得意なので、スナーク号の乗組員のみなさんのお役に立てます。料理にはとても自信があり、帆船の経験も旅行の経験もあります。一年きりの航海よりは、十年も続くような航海の方が私にはぴったりくるのです。参考までに……」
いつかお金を稼いだあかつきには、志願者が千人いても乗れるような大型船を建造しよう。そうした志願者は船で世界中を航海するための作業すべてをこなさなければならない。でなければ家にいることだ。そうした人々は持っている技術を駆使して船で世界中をまわるだろうと確信している。というのも、冒険や冒険心は死にたえていないからだ。冒険についての一連のやり取りを通して、ぼくは冒険心は死に絶えていないと知ったのだ。
だけど、と友人が異議を唱えた。「航海士も乗せないで、よく航海に出られるな? 航海術なんて知らないんだろ?」
ぼくは、自分が航海術を知らないこと、人生で一度も六分儀をのぞいたことがないこと、天文暦で緯度経度を割り出せるか自信がないことを告白しなければならなかった。連中がロスコウはどうなんだと聞いたとき、ぼくは頭を振った。ロスコウはそのことに腹を立てていた。彼は今度の航海用に持ちこんだ海図に目をやり、対数表の使い方は知っているし、六分儀も何度か手にしたことがあり、その用途も船乗りの必需品であることも知っているというのを根拠に、自分は航海術を知っているという結論を出していた。だが、そうじゃないと、ぼくは今でも言いたい。ロスコウは若いころに東海岸のメイン州からパマナのイスマス経由で西海岸のカリフォルニア州まで海路でやってきたのだが、それが陸が見えないほど離れた唯一の機会だった。航海術を教える学校に通ったことはないし、そういう試験に合格してもいない。まして、大海原を実際に航海したこともなければ、他の航海士から技術を学んだこともないのだ。彼はサンフランシスコ湾のヨット乗りなのだった。湾内ではどこにいても数マイル先に常に陸が見えていて、航海術が必要になることはない。
というわけで、スナーク号は航海士を乗せずに長い航海に出たわけだ。
ぼくらは四月二十三日にゴールデンゲート・ブリッジをくぐり、カモメのように空を飛んでいけば二千百海里先にあるはずのハワイ諸島を目指した。結果よければすべてよし、というわけで、ぼくらは無事に到着した。懸念されたようなたいした問題もなく着いてしまった。つまり、大きな問題になるトラブルらしいトラブルはなかったということだ。
初めから順に言うと、ロスコウは航海術では苦戦した。理論は大丈夫なのだが、それを実地に当てはめるのが初めてだったのだ。スナーク号の航跡が迷走しているのが、それを証明している。スナーク号の航跡はすっきりしていたとは言えない。海図上ではギクシャクした動きになっている。軽風の日に、海図の上ではまるで強風で爆走したみたいに大きく移動していたり、快調に帆走した日にほとんど位置が変わっていなかったりした。とはいえ、時速六ノットで連続して二十四時間航海すれば、百四十海里ほど進んだことになるのは自明だった。海にも曳航(えいこう)測定儀にも問題はなかった。スピードについては目で見ればわかる。
というわけで、大丈夫じゃなかったのは、海図上でスナーク号の位置を決めかねた人間の方だった。ま、そういうことが毎日起きていたというわけではない。が、実際にあったことだ。そして、理論を初めて実地に応用しようとするときには、よくある話というわけだ。
航海術を知っているという意識は、人の心に微妙な影響を与えるらしい。
たいていの航海士は航海術について語るとき、それに対して深い敬意を払うものだ。ぼくらみたいな素人にとって、航海術は奥深く恐れ多く神秘的にさえ思える。が、そうした意識は、航海術に対する航海士の敬虔(けいけん)な態度や仕草(しぐさ)に影響を受けてもいるだろう。率直で無邪気で謙虚な、太陽のように隠しごとをしなかった若者が、航海術を学ぶと、何か知的な偉業をなしとげたみたいに、すぐにもったいぶり尊大になってしまう。ぼくら素人には、なにか聖なる儀式をつかさどる聖職者のような印象を与えた。アマチュアのヨット乗りで航海士を自称するロスコウは、息を殺し、ぼくらにありがたくも聖なるクロノメーターを見るよう促すようになった。というようなわけなので、友人たちは航海士を乗せないぼくらの航海に懸念を感じたのだった。
スナーク号を建造している間、ロスコウとぼくにはこんな合意ができていた。
「教本や計器類を船に積みこんでおく。今のうちに航海術を勉強しておいてくれ、ロスコウ。これから忙しくなるはずだから、ぼくに勉強する暇なんてないと思う。だから、海に出てから、お前が覚えたことをぼくに教えてくれ」と。
ロスコウは喜んだ。前にも書いたように、ロスコウは率直で無邪気で謙虚なやつなのだ。
だが、海に出ると、やつは聖なる儀式をつかさどる風を装うようになり、ぼくが感心したように眺めていると、ちょっとした進路の変化をもったいぶって海図に書きこんだりしたものだ。正午に太陽の高さを測定するとき、やつの姿は神々しく光り輝いていた。船室に降りて行き、観察したデータに基づいて計算し、また甲板に戻ってきて現在地の緯度経度を教えてもくれた。口調も一変し、なんとも厳粛になっている。
とはいえ、問題なのはそういうことではない。
やつは、ぼくらに伝えられない情報をいっぱい抱えるようになったのだ。つまり、スナーク号が海図上でいきなり瞬間移動する距離が大きくなるほど、やつの情報ではその理由を説明できず、位置情報が神聖で不可侵のものとなっていった。ぼくは俺も勉強すべきころあいかなと言ってみたのだが、気のない返事しかせず、決して天測術を教えようとはしなかった。最初に同意したことを守るつもりはさらさらないようだった。
だが、これはロスコウが悪いわけではない。どうしようもないことなのだ。やつは単に先人の航海士たちと同じ道をたどったにすぎない。天測で得られた数値が違っていたとしても、まあ、それは理解できるし許されもすることなのだが、やつは船の現在地を割り出して進むべき方向を決めるということの責任の重さを痛感しつつ、大海原で太陽や星を見て位置を判断する神のような力が自分に備わっているという体験を重ねていたのだ。
ロスコウはそれまでの人生をずっと陸上で過ごしてきた。常に陸が見えていた。絶えず陸地が見えていて、目印となるものがあるため、たまに道に迷ったとしても、地上ではなんとか方向がわかったものだ。しかし、ここは果てしなく広がっている海の上だ。海の向こうには、どこまでも丸く広がる空があるだけだ。この丸い水平線はいつも同じに見える。陸標などありはしない。太陽は東から上って西に沈み、夜には星々がずっとまわっている。つまり、太陽や星を見て「いまいる場所はスミザースビルのジョーンズさんの現金売りの店の西、四と四分の三マイルのところだ」とか、「自分がいまどこにいるかわかっているさ。だって、夜空のこぐま座の位置から推して、ボストンは二番目の角を右に曲がって三マイル先だろうぜ」などと誰が言えようか。
ロスコウが航海士としてやっていたのは、それと同じことなのだ。最初は自分がやってのけたことに驚いてもいたが、それにも少しずつ慣れてきて、畏敬(いけい)の念を起こさせる仕草(しぐさ)で奇跡のような妙技を披露するようになった。広い海面で自分の位置を割り出す行為は儀式となった。ぼくらは奥義を知らず、やつに頼りきっていた。アメリカ大陸からアジアの大陸をつないでいる波だけで、道標など存在しない大海原で、船の進路を教えて面倒を見てやっているという意識が生まれてきているために、やつは自分の方がぼくらよりも優秀だと感じるようになっていったのだ。それで、やつは六分儀を用いて太陽神に敬意を表し、専門書と魔法のような符号表のページを繰り、目盛り誤差、視差、屈折といった呪文をつぶやき、聖杯と呼ばれる祈祷書──つまり海図のことだが──に神秘的な記号を書きつけ、追加し、移動させて、割り出した空白部分を指さして「現在地はここだ」とおごそかに宣言する。
ぼくらがその空白部をのぞき、「位置は?」と聞くと、彼は高貴なアラビア数字で答えるのだ「北緯31度15分47秒、西経133度5分30秒」と。そこで、ぼくは「ほう」と感心することになる。
というわけで、はっきり言っておくが、これはロスコウが悪いのではない。やつは神の領域に近づき、ぼくらを掌に載せて海図上の空白のスペースを進ませてくれたのだ。ぼくはロスコウを尊敬した。この尊敬の念はますます大きく深くなっていったので、やつは「膝まづき、吾をあがめよ」と命じるほどになった。ぼくは自分が甲板に座りこみ大声でそうたたえるべきだとわかってはいた。
だが、ある日、ふと気づいたのだ。
「こいつは神なんかじゃない、ロスコウだ」と。「ぼくと同じ人間だ。こいつにできたのなら、ぼくにもできるだろう。やつは誰に教わったんだっけ。独学だ。じゃあ、ぼくも同じようにすればいい──自分で勉強するんだ」と。そして、そこでロスコウと衝突したのだ。やつはもうスナーク号であがめられる聖職者などではない。ぼくは聖域に侵入し、専門書と魔法の表と祭具、つまり六分儀を渡すよう命じた。
というわけで、ぼくがどうやって天文航法を独学したのか、ここで簡単に説明しておこう。
ある日の午後ずっと、ぼくはコクピットに座り、片手で舵をとりながら、もう一方の手で対数の本をめくって勉強した。それからの二日間、午後の二時間を航海術の理論、とくに子午線高度の勉強にあてた。そのうえで六分儀を手に持ち、器差を補正して太陽の高度を測った。
この観察で得られたデータを元に計算するのは簡単だ。「天測計算表」と「天測暦」で調べるのだ。すべて数学者と天文学者が考え出したものだ。これは、よくご存じの利率表や計算機を使うようなものだ。
神秘はもはや神秘ではなくなった。ぼくは海図の一点を指さし、いまはここにいると宣言した。それは間違っていなかった。というか、ロスコウとぼくがそれぞれ割り出した位置は一海里ほど離れていたのだが、同じ程度には正しかったということだ。やつは自分の位置とぼくの位置の中間にしようかとさえ言ってくれた。ぼくは神秘のベールにつつまれていたものを爆破し消滅させてしまった。
とはいえ、それはやはり奇跡ではあって、ぼくは自分の内に新たな力を感じてぞくぞくしたし、くすぐったくもあった。
ぼくがかつてロスコウに現在の位置をたずねたのと同じように、マーチンがおずおずと、しかし尊敬の念をこめてぼくに現在の位置を聞いてきたとき、ぼくは最高位の聖職者として暗号めいた数字で答えた。マーチンは敬意のこもった「おう」という声をもらしたが、それを聞くとぼくは天にも昇るような高揚感を感じた。チャーミアンに対しても、あらためて、どうだいと自慢したくなった。ぼくのような男と一緒にいるとは、きみはなんて運がいいんだという気にもなった。むろん、そんなことは口にしなかった。
自分がやってみてわかったのは、どうしてもそうなってしまうということだ。ロスコウや他の航海士たちの気持ちがわかった。こういう特別な力を持っているという意識が毒となってぼくにも作用していた。他の男たち、大半の男たちが知らないこと──果てしない大海原で天の啓示を得て進むべき道を指し示すこと──ができるということ、この快感を自分の力として一度味わってしまうと、もうそこから逃れられない。長時間にわたって舵をとりながら、その一方で神秘を勉強しつづけた原動力がこれだった。
その週の終わりには、暗くなってからの測定もできるようになった。夜には北極星の高度を測定し、器差や高度改正などの補正を行って緯度を得た。その緯度は、正午に割り出した位置について進路と速度を勘案して求めた推測位置とも合致した。自慢してるのかって? 悪いが、もう少し自慢を続けさせてくれ。ぼくは九時に次の測定を行うつもりだった。問題点を検討し、どんな一等星が八時半ごろに子午線*を通過するのかを知った。
* 子午線: 赤道と直交し、北極と南極を通る大円。自分のいる場所を通る経線のこと。
この星はアルファクルックス(アクルックス)だとわかった。この星のことは聞いたことがなかったので星図で調べた。南十字星を構成する星の一つだった。船で航海しながら夜空に輝く南十字星を知らなかったとは! なんたる間抜け! われながら信じられない。ぼくは何度も見直して確かめた。その夜は八時から十時までチャーミアンが舵をとってくれた。ぼくは彼女に、よく見てろよ、真南に南十字星が出てくるからと言った。そうして星々が見えるようになると、水平線近くの低い空に南十字星が輝いた。また自慢してるのかって? そうさ。どんな医者でも高僧でも、このときのぼくほどには天狗になれないだろう。
ぼくは聖なる祭具、つまり六分儀を用いてアクルックスを測定し、その高度から自分のいる場所の緯度を割り出した。さらに北極星も測定したが、それも南十字星で得られた値と合致した。自慢かって? そうさ、星のことならぼくに聞いてくれ。星の言うことに耳をすましていると、大海原で自分がどこにいるか教えてくれるのだ。
自慢たらたらだって? そりゃそうさ。ぼくは奇跡を行ったんだからな。本で独学するのがどんなに簡単だったか、もう忘れてしまった。
すべての成果(すばらしい成果でもある)は、ぼくより前に先人たちが成し遂げたものだ。航海術を発見し、それを説明するために「天測表」としてまとめたのは、偉大な先人たち、つまり天文学者と数学者だったことも、もう忘れた。ぼくが覚えているのは、その奇跡がずっと続いたことだけだ──星の声に耳を傾けていると海上の道が指し示された、ということしか覚えていない。チャーミアンは知らなかったし、マーチンも給仕のトチギも知らないことだった。だが、ぼくは連中に教えてやった。ぼくこそ神のメッセージを伝える者なのだ。ぼくは連中と無限の世界のはざまに立ち、天体が告げていることを連中が理解できる普通の言葉に翻訳してやった。ぼくらは天に導かれていたが、空の道標を読むことができるのはぼくだった! そう、ぼくだ! それは、ぼくだ!
そしていま、少し冷静になってみると、天測の仕組みの単純さについてしゃべりすぎたようだ。ロスコウや他の航海士や神秘の衣をまとった人々についても言い過ぎてしまった。というのも、彼らが秘密主義で、自尊心が強く思いあがっているのではないかと懸念していたからだ。
というわけで、いまはこう言いたい。
人並みの頭があり普通の教育を受け、学ぼうという気持ちが少しでもある若者なら、ナビゲーションなど、解説書や海図、計器を手に入れてさえいれば、誰でも独学でマスターできる、と。とはいえ、誤解されないようにつけ加えておくが、シーマンシップはそれとはまったく別のことだ。一日や数日で覚えられるようなものではなく、何年もかかる。また、推定航法で航海するにも長く勉強し実地に訓練することが必要だ。だが、太陽や月、星を測定して航海することは、天文学者や数学者のおかげで、子供でもできる簡単なことになっている。平均的な若者であれば一週間で独習できるだろう。また誤解のないように言っておくと、一週間独学を続けたからといって、それですぐに一万五千トンの蒸気船の責任者として毎時二十ノットで大陸間を航海できるようになるというわけではない。航海には好天もあれば荒天もあるし、晴れの日もあれば曇りの日もある。スケジュールとにらめっこで羅針盤の針を見ながら舵をとり、驚くべき正確さで陸地を見つけなければならない。
何が言いたいかというと、前述したように人並みの若者であれば、航海術について何も知らなくても、頑丈な帆船に乗りこんで大海原を横断することはできるし、一週間もあれば自分の現在位置を海図で示すくらいのことはできるようになるということだ。かなりの精度で子午線を観測し、その観測結果に基づき、十分もあれば簡単な計算をして緯度経度を出すことができる。貨物や乗客を運ぶ必要がなく、予定通りに目的地に到達しなければならないというプレッシャーがなければ、気持ちよくゆっくり進める。自分の航海術に自信が持てず近くに陸があるかもしれない不安にかられたときには一晩中ヒーブツーで停船させて朝を待てばいいだけだ。
数年前、ジョシュア・スローカムは一人で三十七フィートの自分で漁船を改造したヨットに乗って世界をまわった。彼がそのときの航海について、若者には同じように小さな船に乗り、同じような航海をしてほしいと本気で述べていたことが忘れられない。ぼくは彼の言葉をすぐに実行に移すことにして女房も連れ出したというわけなのだ。
小さなヨットの航海からすれば、キャプテン・クックの航海も安直に思えてくるが、それよりも何より、楽しみや喜びに加えて、若者にとってはすばらしい教育にもなる──いや単に外の世界、土地、人々、気候についての教育ではなく、内なる世界の教育、自分自身の教育、自分というもの、自分の心を知る機会にもなる。航海自体が訓練であり修行である。当然ながら、そうした若者はまず自分の限界を知ることになる。次に、これも避けられないが、そうした限界を打ち破っていこうとする。そのような航海から戻ってくると、ひとまわり大きな人間、もっとましな人間になっているというわけだ。スポーツとしては王たる者のやるスポーツだといえる。どういう意味かというと、自分以外に誰も頼るものがなく、自分の手で船を動かし、世界をぐるりとまわって最後には出発点まで戻ってくるわけだが、宇宙を好転する惑星について自問しつつ沈思黙考し、達成できれば、こう叫ぶことになる。「やった、自分の手でやりとげたぞ。自転する地球を航海したんだ。自分はもう導き手の助けを受けなくても航海することができる。他の星に飛んでいくことはできないかもしれないが、この地球では自分自身が主人だ」と。
この文章を書いているとき、ふと顔を上げて海の方を見た。ぼくはオアフ島ワイキキの浜辺にいた。ずっと向こうまで青い空が広がり、低い雲が青緑色の海の上を貿易風に流されていく。近くの海はエメラルド色で、オリーブの葉のような明るい緑だ。その手前に岩礁があり、海水を通して赤い斑点まじりの粘板岩の紫色が見えている。さらに近くになると、もっと明るい緑色と茶褐色の岩礁が交互のしま模様になっていて、生きたサンゴ礁の間に砂地が散在しているのが見えている。こんなすばらしい色の重なりを通して、壮大な波のとどろきが聞こえてくる。
さっきも言ったように、顔を上げると、こんな光景がすべて見えるのだが、砕け散る白い波の向こうに、ふいに黒い人影が立ち上がった。人の姿をした魚あるいは海神かと見まがうものが崩れ波の前面にふいに出現した。波頭は崩れ落ち、そのまま押し寄せて豪勢な波しぶきがあがる。下半身が波しぶきに包まれた瞬間、海神は海にとらえられてしまった。海岸から四分の一マイルほどのところだ。海神とは、サーフボードに乗ったハワイの先住民族、カナカだ。
この文章を書き終えたら、ぼくもあの色彩に満ちたところへ行き、海に飛びこみ、砕け波を蹴散らし、あの海神たちのように海に飲みこまれてしまうだろう。生きるとは、彼らのように生きることではないか。
この色彩豊かな海と、海を飛ぶように進んでいく海神たるカナカの姿は、若者が日の沈む海を超えて西へ、さらに西へと向かうもう一つの理由になるし、日の没する海をこえて西へと進み、再び故国へと至るのだ。
話を元に戻そう。ぼくがすでに航海術に通暁(つうぎょう)しているとは思わないでほしい。ぼくが知っているのは航海術の初歩にすぎない。ぼくにとって、学ぶべきことは非常に多い。スナーク号では、興味の尽きない本が二十冊もぼくを待っている。避けるべき進行方向を海図に記入するための避険線に関するレッキー著の危険角についての本があるし、サムナーの本もある。これは、自分の位置がわからないときに、自分がどこにいて、どこにいないかをはっきり示してくれるものだ。大海原で自分の位置を見つける方法は何十とあり、それを完全にマスターするには何年もかかるだろう。
小さなことで説明すると、スナーク号の動きについて明らかに首をかしげたくなるようなことは何度かあった。たとえば、五月十六日の木曜日、貿易風が吹かなかった。金曜の正午までの二十四時間、ぼくらは推測航法で計算すると二十海里も進んではいない。ところが、この二日間、正午に太陽の高度を観測して割り出したぼくらの位置はこうなっていた。
木曜日 北緯 20度57分9秒
西経152度40分30秒
金曜日 北緯 21度15分33秒
西経154度12分
この二つの位置の差は八十海里ほどもある*。とはいえ、前述したように、ぼくらは二十海里しか進んでいないはずなのだ。数字は確かだ。何度も計算しなおした。間違っていたのは測定値だった。正しい測定をするには、特にスナーク号のような小さな船では練習と技術が必要になる。船がたえず動いていることや観察者の視線が海面に近いことを考えれば、これは責められない。大波で船が持ち上がれば、水平線も大きくずれてくる。
* 海では一般に、距離は海里、速度はノットで表される。
一海里=一八五二メートル、一時間に一海里進む速度が一ノットで、一ノット=時速一・八五二キロメートル。
計算しやすいように一海里を約一八〇〇メートルと考えると、六〇の倍数になり、緯度経度の六〇進法と親和性が高く便利に使える。
ちなみに、地球が完全な球体で一日二四時間で一回転(三六〇度)するのであれば、一時間のズレは経度十五度に相当するが、実際の地球は下半分がふくれた洋ナシ形で、自転の周期も二十四時間+アルファになるため、正確に算出するには補正が必要になる。
しかも、ぼくらの場合には、とくに混乱する要因もあった。
季節の変化に応じて太陽が北回帰線に近づいてくると、太陽の角度も大きくなる。五月中旬の北緯十九度付近では、太陽はほぼ真上にある。弧の角度は八十八度から八十九度の間だ。真上は九十度になる。ほぼ真上にくる太陽と直角になる方向は一つではない。ロスコウはまず太陽から東の水平線までの角度を測ってしまった。正午には太陽は真南の子午線を通過するという事実を無視して、だ。一方、ぼくの方はといえば、太陽からおろす水平線を決めかねて南東から南西にかけてさまよってしまった。何度も言うが、ぼくらは独学なのだ。
その結果として、ぼくが正午の太陽の高さを測定できたとき、船上の時間は十二時二十五分すぎになっていた。二十五分のずれが地球の表面におけるぼくらの位置のずれの原因だった。これは経度でほぼ六度、距離にして三百五十海里に相当する。これでは、スナーク号は時速十五ノット(約二十七キロ)で二十四時間ぶっとおして走り続けたことになってしまう。暴風に吹き飛ばされたのでもなければ説明がつかないが、それはおかしいということに気づかなかった。われながら、なんともおそまつな話だ。東方を見ているロスコウは、まだ十二時になっていないと言っていたし、海面を見て速さは二十ノットと言ったりもしていた。
六分儀で水平線を探すときは太陽を一方の視野に入れておいて水平線を探す。当惑するくらい地平線に近かったり、ときには水平線の上や下だったりもした。太陽高度を測るときに船が動きまわるために東を向いたり西を向いたりもしている。太陽に問題があるわけではない──それはわかっている。というわけで、間違っているのはぼくらの方なのだ。
その日の午後はずっと、ぼくらはコクピットにいて、本を調べたりして何が間違っているのか知ろうとした。その日の観測は失敗だったが、翌日はうまくいった。そうやって学んでいったのだ。
そうやって、だんだん上達していった。
ある日の夕方、折半当直(午後六時からの二時間)のとき、ぼくとチャーミアンは船首付近に座ってトランプを使った二人用ゲームのクリベッジをしていた。たまたま前を見ると、雲のかかった山々が海面から突き出ているのが見えた。ぼくらは陸地が見えたことを喜んだのだが、ぼくはといえば自分の航海術がお粗末だったことに落ちこんだ。かなり知識も増えているはずだった。正午の位置と帆走距離から計算すると、数百海里以内に陸なんかないはずなのだった。それなのに陸が存在している。夜の闇へと沈みつつある西日を受けた陸地が、そこにあった。これが陸であることは間違いない。議論の余地はない。だから、ぼくらの航海術はまったく違っていたことになると思ったのだ。
だが、そういうわけでもなかった。
というのは、ぼくらが見た陸地は太陽の家と呼ばれる、世界でも指折りの死火山、ハレアカラの山頂だったのだ。この山は海抜一万フィート(標高三〇五五メートル)もあり、百海里離れていても見えるのだ。ぼくらは夜どおし時速七ノットで帆走した。朝になっても、この太陽の家はまだ前方に見えていたし、船の側方に見えるようになるまで、さらに数時間かかった。
「あの島はマウイ島だぜ」と、ぼくらは海図と照らし合わせながら語りあった。「次の突き出している島はモロカイ島。あそこには隔離病棟があるんだよな。その次の島はオアフ島だ。ほら、マカプウ岬が見えるぜ。明日はホノルルに着くだろう。ぼくらの航海術も捨てたもんじゃないってことだ」
「海じゃ退屈するなんてことはない」と、ぼくはスナーク号の乗員たちに保証した。「海には生き物がたくさんいる。数も多いし、毎日、新顔が登場してくれるんだ。ゴールデンゲート・ブリッジを通過してすぐ南に向かうとするだろ、そしたらトビウオが飛びこんでくるのさ。フライにして朝飯に食おうぜ。カツオやシイラも捕れるだろうし、バウ・スプリットから丸い顔をしたイルカだって突ける。おまけにサメも──サメは無限にいる」
ぼくらは実際にゴールデンゲート・ブリッジを通過して南へ向かった。カリフォルニアの山々が水平線に没し、太陽は日ごとに暖かくなった。だが、トビウオはおろか、カツオもシイラもいなかった。大海原から生き物が消えていた。ぼくはこれほどまでに見捨てられ荒涼とした海を航海したことはない。これまではいつだって、この緯度あたりまで来るとトビウオに遭遇していたのだ。
「がっかりするな」と、ぼくは言った。「南カリフォルニアの沖まで待ってようぜ。そうすればトビウオがつかまえられるから」
南カリフォルニアの沖、カリフォルニア半島南部、メキシコの海岸の沖合に差しかかったが、トビウオはまったくいなかった。何もいなかった。動いている生物がいないのだ。生物を見ないまま航海日数を重ねていくのは異様としか言いようがない。
「がっかりするなよ」と、ぼくはまた言った。「トビウオが飛びこんでくれば、他の魚もみんなとれるようになるはずだから。トビウオは海にいる他の生き物すべての生命の糧だから、トビウオさえ見かれば、他のもどっと登場するだろうよ」
ハワイに行くにはスナーク号の進路を南西に向けるべきだったが、ぼくはまだ南下を続けた。どうしてもトビウオを見つけたかったのだ。ぎりぎりのところまで南下し、どうしてもハワイに向けなければならないとなったところで、針路を南ではなく真西に向ければいいと思っていた。北緯十九度まで来た。
最初のトビウオを見た。一匹だけだ。ぼくは確かに見た。他の五人は目を皿のようにして、一日中、海を見張っていたというのに何も目撃しなかったらしい。トビウオは非常に少なくて、最初の一匹目を見つけるまで一週間かかった。シイラやカツオ、イルカや他の生物群にいたっては皆無だった。
サメのあの不気味な背びれすら海面には見当たらなかった。バートはバウスプリットの下からステイにぶら下がって海水浴をした。そして泳ぎながら、自分の周囲を流れていくものを観察していた。というわけで、海の生物についてのぼくの面目は丸つぶれだ。
「サメがいるとしたら」と、やつは言ったものだ。「なぜ姿を見せないんだ?」
ぼくは、お前が手を離して流れていけば、連中はすぐにやってくると請け合った。これは、こけおどしだった。自分ですら信じていなかった。こんな状態が二日続いた。三日目に、風が落ちて凪(なぎ)になり、非常に暑くなった。スナーク号は時速一ノットほどで動いている。バートはバウスプリットにぶら下がっていたが、異様な気配を感じたのか、神経質に周囲をきょろきょろ見まわしている。ぼくらは大海原を二千時間も航海してきて、一匹のサメも見なかったが、バートが泳ぐのをやめてから五分もしないうちに、サメの背びれがスナーク号の周囲の海面で円を描いてまわりだした。
だが、そのサメについては何か妙なところがあり、それが気になった。陸の近くにいるはずの種類が、こんな沖合にいるのは変だ。考えれば考えるほど、わからなくなった。しかし、その二時間後に陸地を視認したので、この不可思議な現象の謎が解けた。やつは何もいない深海からではなく、さっき見えた陸地から来ていたのだ。陸地初認の予兆、陸からの使者だったというわけだ。
サンフランシスコを出てから二十七日目に、ハワイのオアフ島に到着した。早朝に潮流に乗ってダイヤモンドヘッドをまわると、ホノルルの全景が飛びこんできた。すると、大海原にふいに生き物があふれ出てきた。
トビウオはきらきら輝きながら編隊となって宙を切り裂いた。五分もしないうちに、それまでの全航海で目撃した数より多くのトビウオを見た。さらに大きな、さまざまな種類の魚たちもしきりに跳ねた。海にも陸にも、いたるところに生命があふれていた。港には帆柱や蒸気船の煙突が見える。ワイキキのビーチにはホテルや海水浴客も見えたし、パンチボウルやタンタラスなど、火山の裾野(すその)の高台にある住宅からは煙が立ち上っていた。
税関のタグボートがぼくらの方に突進してくる。
大量のイルカが舳先(へさき)の下にもぐりこんで跳ねまわっている。港の修理業者の船がやってきて料金を請求し、大きなウミガメが海面に甲羅を出したまま、ぼくらを眺めていたりする。
これほど生命にあふれている海を見たことはなかった。スナーク号の甲板には見知らぬ連中があふれ、聞きなれない声が飛び交っている。
世界中のニュースを満載した今朝の朝刊も持ちこまれていて刺激的だった。ぼくらはスナーク号の記事を偶然に目にした。それによれば「乗員全員が海で行方不明」とされていた。スナーク号は耐航性のない船だということが実証された、とも書いてある。ぼくらがこうした記事を読んでいる間にも、ハレアカラ山の頂上では、スナーク号が無事に到着したことを告げる無線電信の交信がなされているのだった。
これがスナーク号で最初に陸地が見えたときの顛末(てんまつ)だ──なんという陸地初認(ランドホー)だったことか。
ぼくらは二十七日間、何もない大海原にいたので、世の中にこんなに生命が満ちあふれているとは思いもよらなかった。頭がくらくらしてしまい、すぐには、すべてを受け入れられなかった。ぼくらは眠りからさめたリップ・ヴァン・ウィンクル*みたいに、まだ夢を見ているようだった。
* リップ・ヴァン・ウィンクル: 米国の作家ワシントン・アービングが一八二〇年に発表した短編集『スケッチ・ブック』所収の同名短編(眠っているうちに二十年が経過してしまったというオランダ移民の伝承譚)の主人公。
森鴎外が一八八九年(明治二十二年)に「新世界の浦島」と題して訳出している(三年後に刊行された単行本『水沫(みなわ)集』では「新浦島」と改題)。
こちらには波が打ち寄せる青い海があり、はるか水平線をこえて青い空まで続いている。他方で、近づくにつれて隆起したエメラルド色の大波が砕け散り、雪のように白いサンゴの浜辺に舞っていた。ビーチの向こう側はサトウキビを栽培する緑の大農場が山の急峻な斜面へと続いている。その先は荒々しい火山の稜線となっている。
熱帯地方の夕立が激しく降り注ぎ、頂上には貿易風にたなびく途方もなく巨大な雲がかかっている。
いずれにせよ、とても美しい夢ではあった。スナーク号は向きを変え、押し寄せるエメラルド色の波の方に船首を向けた。波に大きく持ち上げられたかと思うと、轟音とともにたたき落とされる。反対側には長く続く淡緑色の岩まじりの砂州が牙をむき出している。恐ろしい光景でもあった。
と、ふいに陸地から多彩なオリーブ・グリーンに満ちあふれた陸地から腕が差し伸べられ、スナーク号をすっぽり抱えこんでくれた。青い空の下で岩礁を抜けると、エメラルド色の波による危険はなかった──何もなかった。あったのは暖かくやわらかな大地と静かな礁湖、日に焼けた現地の子供たちが泳いでいる小さなビーチだけだ。
大海原は姿を消した。スナーク号から錨を落とすと、チェーンがガチャガチャ音を立てて錨鎖孔から出ていき、浅い平らな海底に食いこみ、船は停止した。そこは、現実として受け入れることができないほど美しく、不思議なところだった。この場所は海図ではパールハーバー(真珠湾)と記載されているのだが、ぼくらはドリームハーバー(夢の入り江)と呼んだ。
小さな船がやってきた。ハワイ・ヨットクラブの人たちだ。挨拶と歓迎に来てくれたのだ。心のこもったハワイ流のもてなしだった。この人たちはごく普通の人間、血も涙もある人間で、ぼくらの夢をこわそうとする連中とは違っていた。
ぼくらの記憶にある最後に見た合衆国本土の人間は保安官やうろたえた小金持ちの商売人たちだったりした。煤煙(ばいえん)や炭塵(たんじん)まみれで悪臭ふんぷんとしていて、薄汚れた手でスナーク号をなでまわしては、この航海をやめさせようとしたのだった。しかし、ここでぼくらに会いに来た人々は清潔だった。顔は健康的に日焼けし、札束に目をぎらつかせてはいなかった。というより、彼らはぼくらの夢は現実だと証明しにきてくれたのだ。不愛想だが、しっかりと受けとめてくれた。
そこで、ぼくらは彼らと一緒に穏やかな海から緑豊かな陸地へと向かった。小さな桟橋に上がり、夢はさらに強固なものとなった。二十七日間というもの、ぼくらは海に浮かぶちっぽけなスナーク号に揺られていた。この二十七日間というもの、一瞬たりとも動きがやむことはなかった。この絶え間ない動きが体にしみこんでいた。体も脳も揺れていたが、この小さな桟橋に上がってからも揺れは続いた。
当然のことながら、ぼくらはそれを桟橋のせいにした。よくあるパターンだ。ぼくは桟橋にそっておおまたで歩こうとして海に落ちそうになった。チャーミアンを見ると、彼女の歩き方もひどかった。桟橋は船の甲板と変わりがなかった。持ち上がったかと思うと傾き、うねりを受けて上昇しては沈んだ。手すりなどないので、チャーミアンとぼくは落ちないようにするので精一杯だった。こんな妙な桟橋は初めてだった。確かめようとするのだが、そのたびに横揺れは消えてしまう。ぼくが目をそらしたとたん、すぐにスナーク号みたいに揺れ出す。世界がひっくり返るかと思うくらい派手に揺れた瞬間、長さ二百フィートほどの桟橋は巨大な向かい波に突っこんだ船の甲板のように見えた。
出迎えてくれた人たちの助けを借りて桟橋を渡りきり、ようやく陸に足をおろした。
とはいえ、陸地も桟橋と似たようなものだった。足で踏んだその瞬間、地面は目の届く限り一方に傾き、ゴツゴツした火山の稜線もはっきり見えたし、斜面の上には雲も見えた。大地は不安定で、確固たる地盤がなかった。でなければ、こんなに揺れるわけがない。上陸した足元以外の場所はすべて、現実のものとは思えなかった。夢だった。変化の激しいガスのように、今にも消えてしまいそうだった。おそらく自分の方がおかしいのだろう。めまいがしているのか、食当たりでもしたのだろうか。しかし、チャーミアンを見ると、彼女の歩き方も妙だったし、彼女がふらついて横を歩いていたヨット乗りにぶつかるのが見えた。声をかけると、彼女も「地面が変なのよ」とブツブツ文句を言っている。
ぼくらは広くて立派な芝生の上を、ロイヤルパームの並木のある通りまで歩いた。芝生はずっと続いていた。ぼくらは風格のある巨木の緑陰を歩いた。あたりには小鳥の鳴き声や、風にそよぐ大きなユリや燃えるようなハイビスカスの花の濃厚で暖かい芳香が満ちている。何もなく絶えず揺れている海の上にずっといたぼくらにとって、ほとんどありえないような美しさだった。チャーミアンが手を伸ばしてぼくにしがみつく──言葉では言い表せない美しさに負けないようにするためだろうと思ったのだが、そうではなかった。ぼくは彼女を支えようと足を踏ん張った。が、ぼくらの周囲の花や芝生もよろめいて揺れ始める。地震のようだった。が、周囲に被害はなく一瞬で通りすぎた。こんなに大地が揺れていては、立っているだけでもかなりむずかしい。警戒していたが、何も起こらなかった。だが、注意をそらすと、地面はまたすぐに揺れ始める。周囲の景色すべてが揺れて持ち上がり、あらゆる角度に傾いた。一度さっと振り返ったのだが、ロイヤルパームの堂々とした並木も宙に弧を描いていた。しかし、それを目撃した瞬間に、穏やかな状態に戻った。
それから、とても見晴らしのいいベランダのある瀟洒(しょうしゃ)な建物までやってきた。楽園で悠々自適の生活を送っている人の住居だ。風を入れるために窓もドアも大きく開けてあり、小鳥の鳴き声が聞こえ、あたり一帯にいい香りがただよっている。壁にはタパ布がかけられていた。長椅子には植物を編んだカバーがかけられている。グランドピアノもあった。とはいえ、演奏される音楽はせいぜい子守歌だろう。召使たち──着物を着た日本女性──が音を立てず、蝶のように動きまわっている。すべてが、ありえないほどすばらしかった。ここでは恐ろしい海上にいて、熱帯の灼熱の太陽に焼かれたりすることはない。あまりにもすばらしすぎて、現実のこととは思えなかった。現実ではなく、夢の世界の出来事なのだ。ぼくにはわかっていた。というのも、さっき振り返ったとき、広々とした部屋の隅でグランドピアノが跳ねまわっているのを見たのだ。ぼくは何も言わなかった。というのも、ちょうどそのとき、上品な女性、優美な白い服を着た美しい女主人から歓迎を受けているところだったからだ。女主人はサンダルばきで、ずっと前からの知り合いのように、ぼくらを迎え入れてくれた。
ぼくらはベランダのテーブルについた。蝶のようなメイドに給仕してもらい、見たことのない食べ物やポイと呼ばれるどろどろした汁物をいただいた。
しかし、夢はさめるものだ。
世界は虹色の、まさにはじけようとするシャボン玉のように揺れ動いている。ぼくは緑の草地や風格のある木々やハイビスカスの花を眺めていたのだが、いきなりテーブルが動き出したように感じた。テーブルと、テーブルの向こうにいる女主人が、ベランダが、緋色のハイビスカス、緑の芝生や木々が──すべてが持ち上がり、目の前で傾き、揺れ動き、巨大な波の谷間に沈んでいく。ぼくはひきつったまま椅子に手をやり、しっかりと握った。椅子にしがみつくのと同じように、自分は夢にしがみついているのだなとも感じた。波が押し寄せてきて、おとぎの国を水びたしにするのは驚くべきことではなかったし、自分がスナーク号の舵輪を持っていて、対数の勉強から何気なく顔を上げただけだとも思ってみた。しかし、夢はさめなかった。ぼくは女主人とその夫をそっと見た。彼らはまったく動揺していなかった。テーブルの上の皿も動いてはいない。ハイビスカスも木々も芝生も、そこにあった。何も変わっていなかった。ぼくは飲み物をおかわりした。夢はさらに現実のものとなった。
「紅茶にアイスを入れましょうか」と、女主人がたずねた。
それから、彼女の側のテーブルがゆっくり沈み、ぼくは「はい」と四十五度の角度で見おろしながらこたえた。
「サメと言えば」と、女主人の夫が言った。「ニイハウに一人の男がいたんですがね──」
そして、その瞬間にテーブルが持ち上がって揺れた。ぼくは四十五度の角度で彼を見上げた。
昼食はさらに続いた。チャーミアンがあぶなっかしく歩いている。その様子を見ていられなかったので、まだ座っていられることにほっとした。ところが、いきなり、不可解なおそろしい言葉がこの人たちの唇からもれた。「ああ、やっぱり」と、ぼくは思った。「ここで夢が消えていくんだな」
ぼくは椅子を必死につかもうとした。この桃源郷のかすかな名残りをスナーク号の現実に戻っても忘れないようにしなければ……すべてが揺らめいて夢が消えていくのを感じた。
そのとき、不可解なおそろしい言葉が繰り返された。
それは「マスコミだ」とも聞こえた。
三人の男が芝生を横切ってやってくるのが見えた。なんと、新聞記者だ! ということは、結局、夢だと思いこもうとしていたことは、誰もが認める現実だったのだ。
光り輝く海面の向こうに、錨泊しているスナーク号が見えた。サンフランシスコからハワイまであの船で航海してきたこと、ここがパール・ハーバーであること、さらに、自己紹介して、最初の質問に「そうです。ぼくらはずっと素晴らしい天候に恵まれていたのです」と答えたのを覚えている。
それは、この地球上で自然を相手に行う最高のスポーツだった。
ワイキキビーチでは海がはてしなく広がり、水辺から十五、六メートル足らずのところまで草が生えている。木々も潮の気配が感じられるところに枝を伸ばしている。ぼくはその木陰に腰を下ろし、海の方に顔を向け、波が音をとどろかせて浜辺に打ち寄せては足元に迫ってくるのを見つめていた。半マイルも沖の岩礁では、波が砕け、白い水煙をあげている。ゆっくりとした青緑色のうねりが空に向かって隆起し、巻き波となって寄せてくる。一マイルもの長さの波が、無限の海の軍隊のように、次から次へとやってきては飛沫をとばす。ぼくは座ったまま、いつまでも続く咆哮(ほうこう)に耳を傾け、際限なく続くそうした光景を眺めていた。
その激しさは泡や音に十分に示されていたが、この途方もなく強大な力を前にして、ぼくは自分がちっぽけでもろい存在だと感じている。自分はとても小さいと感じるし、この海に立ち向かうのかと思っただけで、背筋がぞくっとするような不安、ほとんど畏怖(いふ)に近いものを感じた。というのも、長さ一マイルもの雄牛のような口を持つこの怪物は何千トンもの重量がある。それが人が走るより速い速度で海岸まで突進してくるのだ。生き残るチャンスがどれほどあるというのだろうか? そんな機会はありはしない。こっちは委縮させられてしまう。腰をおろし、そうした光景を眺めながら、耳をすます。そうしている分には、草地や木陰はとてもよい場所だ。
遠くで大きな波しぶきが宙に舞い、白い泡まじりの波頭が大きく盛り上がる。そのままオーバーハングしつつ巨大な巻き波となり、と、そこに、ふいに海神のごときものが出現した。黒っぽい人間の頭だ。その人は押し寄せてくる白濁した波頭の前ですっと立ち上がった。
よく日に焼けた肩、胸、腰、手や足──そのすべてがいきなり視野に飛びこんでくる。ついさっきまで、はるかかなたまでの広がりをみせて轟音をとどろかせていた海に、いまはもう人間がいて、しかも立ち上がっているのだ。混沌の極みのような海面で必死に戦っているという風ではない。波にのみこまれることもなく、このパワフルな怪物にもみくちゃにもされず、その上に立ち、さりげなくバランスをとっている。足元は泡立つ波にうずもれているが、水しぶきで見えない足をのぞけば、身体の他の部分はすべて空中に出ている。陽光をあびて輝きながら、波とともに飛ぶように滑っていく。
いわば、ローマ神話の守護神メルクリウス、つまりマーキュリー、褐色のマーキュリーだ。かかとに翼がはえたように、海上をすばやく駆け抜けていく。
とはいえ、実のところは、海に浮かんでいて、波に乗っているのだ。轟音をとどろかせながら押し寄せてくる波は、しかし、その人間を自分の背から振り落とすことはできない。その人はあわてて手を伸ばしたりはせず、落ち着いてバランスをとっている。感情は表に出さず、何らかの奇跡によって深海から彫りだされた彫刻のように、立ち上がったまま微動だにしない。そうして、押し寄せてくる大波に乗ったまま、かかとに翼でもついているように、そのまま陸の方へと飛ぶように滑っていく。嵐のような音を立てて大波が激しく泡立ちながら崩れ、浜辺まで寄せては消えていく。
すると、そこに熱帯の太陽で見事に日焼けした一人のカナカが立っているのだった。彼はほんの少し前には四分の一マイルほども離れたところにいたはずだ。が、「牛の口のような砕け波にかみつき」、そのままそれに乗ってやってきたのだ。
岸辺の木陰に座ったぼくと目が合う。
すばらしい肉体を波に運ばせてきた腕前に誇りを持っているのが見てとれた。カナカ、この地の先住民だ──だが、それ以上に人間だ。波乗りを会得した、生物の長たる人間の一人なのだ。
ぼくは座ったまま、あの運命の日におけるトリストラム*と海との最後の対決に思いをはせる。さらに、カナカはトリストラムがやったことのないことをやってのけたという事実、トリストラムが知らなかった海の喜びを知っているということにも思いが及ぶ。思いはさらに続く。ビーチの涼しい木陰にこうして座っているのはとても気持ちのよいものだが、しかし、自分も生物の王たる人間の一人であり、カナカにできるのであれば、自分にもできるはずだ、と。さあ、行こう。この温暖な地では厄介物でしかない衣服は脱ぎ捨てよう。海に入り、海と格闘するのだ。技を身につけ、かかとに翼をはやし、自分のうちなるパワーで砕け波にいどんで勝利するため、王たる者がすべきこととして波に乗るのだ。
* トリストラム: 十八世紀英国の作家ローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディーの生活と意見』に登場する破天荒な主人公。
というわけで、ぼくはサーフィンを始めるようになった。そこではじめて挑戦し、今も最高のスポーツとして続けている。
とはいえ、まずはこの現象を物理的視点から説明させてもらいたい。
波とは動きが伝播されていくものである。波を構成している水そのものが動いて流れているわけではない。もし水自体が移動しているとすれば、小石を池に投げこむと波紋が円を描いて大きく広がっていく際に、その中心には移動した水の分だけ穴があき、それが大きくなっていくはずだ。そうならないのは、波を構成する水自体はその場から動かないからだ。海の表面を微視的に見ることができれば、何千もの連続した波として伝達されてくる波浪について、同じ水が何千回も上下動を繰り返しているのが見えるだろう。この動きが伝播されて陸の方へ向かう、と想像してみればよい。
水深が浅くなるにつれて、波の下部の方がまず海底にぶつかって止められる。ところが、水は液体であり、波の上部は何にもぶつからず、そのまま動き続けて前へ進もうとする。波の上部は進み続けるのに、波の下方の海底に近い部分はそれより遅れるようになる。そこで何が起きるかというと、波の下部が前進する軍隊から脱落し、波の上部は落伍者を乗りこえて前へ進もうとして隆起し、巻き波となって轟音をとどろかせながら崩れ落ちていく。それがサーフだ。
とはいえ、スムーズな波のうねりから砕け波への変容は、海底が急激に浅くなっている場合を除き、いきなり発生するのではない。浜辺が四分の一マイルから一マイルの間で徐々に浅くなっていると仮定すると、この変容もそれに等しい距離をかけてなされる。そんな海底がワイキキビーチの沖にあって、それがサーフィンに適したすばらしい波を作り出している。サーファーはその崩れかけた波に乗り、そのまま陸の方へと、波が崩れてしまうまでずっと乗り続けていく。
というわけで、実際の波乗りについて話をすると、まず長さ六フィート、幅二フィートの細長い楕円のような形をした平らな板(ボード)を手に入れよう。ソリに乗った小さな子供のようにその上に腹ばいになり、両手でこいで海に出ていく。波が盛り上がりはじめているあたりまで行き、そのままボードの上で静かに待つ。次から次へと波がやってきては、君の前後左右のいたるところで崩れながら、君を置き去りにしたまま陸へと押し寄せていく。波は立ち上がるにつれて勾配が急になってくる。その急激に立ち上がった波の前面で、自分がボードに乗っていると想像してみよう。じっとしていれば、坂を滑り落ちるソリに乗っているように、ボードは君を乗せたまま、その斜面を滑り落ちていくだろう。
「待てよ」と、君は異議を唱える。「波は動いているじゃないか」。
その通り。
だが、波を構成している水そのものが沖から浜辺へと移動しているわけではないのだ。そして、そこに秘密がある。もし君が波の前面を滑りはじめれば、君はそのままその滑り落ち続けていくが、決して海底にぶつかることはない。冗談を言っているわけではない。波の高さはたかだか六フィートにすぎないとしても、君はその分の高さを落下する間に四分の一マイルから半マイルも滑っていくことができる。海底にぶつかることなく、ね。というのも、波は水の動揺や運動の「力」が次々に伝達されているにすぎないからだ。波を構成する水はたえず入れ替わり、新しい水が波と同じ速さで持ち上げられては波の実体を引き受けていく。君は波に対する位置を保ったまま、次々に盛り上がっては波に加わってくる水の上を滑り降りていくことになるわけだ。きっかり波の速さと同じスピードで。波の速さが時速十五マイルなら、君も時速十五マイルで滑っていく。君と浜辺までの間には四分の一マイルほどの海面がある。波が進むにつれて、この海の水が積み重なって波となり、後は重力の作用で下降していく。滑っていく間、水も自分と共にずっと移動していると思うんだったら、滑りながら腕を水に突っこんで漕いでみればよい。君は驚くほど速く水をかかなければならなくなるだろう。というのも、いまそこにある水は、君が前進するのと同じ速さで後方に落ちていくからだ。
さあ波に乗ってみよう。規則には常に例外がある。波を構成する水自体が前へ進むのではないというのは本当だ。ボードと自分がいわゆる海の水の間で受け渡しされて順に先に送られていくという現象は存在する。走っていてつまづくと体が前に投げだされるように、立ち上がって勢いあまって巻き波になりかけた水は、なおも前進しようとする。崩れ落ちる波の下敷きになってしまったら、ものすごい力で打ち倒されて海中にしずめられ、窒息し、三十秒ほども口をぱくぱくやるはめにもなる。波の頂点にある水は下の方にある水の上に乗っかっている。が、下の方の波が海底にぶつかり動きが止まってしまっても、上の方の水はそのまま前進しようとする。下の波はもう支えることができない。となると、上の方の波の下には空気しかないことになり、水は重力の力で落下していく。と同時に下にあった遅れた波とは切り離されて前方へ投げだされる。この点が、サーフボードに乗るのとソリで斜面をおとなしく滑り降りるのとの違いだ。実際には巨人たるタイタンの手でつかまれて、浜辺に投げ飛ばされるような感じで、それが続いていく。
ぼくは涼しい木陰を出た。海水パンツをはき、サーフボートをかかえた。ぼくには小さすぎたが、だれも何も言わないし、気づいてもいない。ぼくは、浅いところで、カナカの少年たちに加わった。そのあたりは波も小さくて、いわば波乗りの幼稚園といったところか。
少年たちをじっと観察する。よさそうな波が来ると、彼らはさっとボードに腹ばいになり、足を必死にばたばたさせ、そのくだけ波に乗って岸までいく。ぼくも真似をしてやってみた。観察し、同じようにやってみた。が、まるでうまくいかない。波はあっというまに通り過ぎてしまい、ぼくだけとり残されてしまう。何度も、何度も、やってみた。連中の倍ほども足をばたばたさせたが失敗した。周囲には半ダースほどの子供がいた。みんな、いい波がくるとボードに飛び乗り、川を行き来する蒸気船のように足を動かして行ってしまい、ぼくだけみっともなく残される。
ぼくは丸一時間もやってみた。どうしても波に乗って岸に向かうことはできなかった。そうこうするうちに、一人の友人がやってきた。何かわくわくするようなものを求めて世界各地を旅行している男だ。名をアレクサンダー・ヒューム・フォードという。そして、彼はワイキキでそれを見つけた。オーストラリアに行く途中で、波乗りがどんなものか体験しようと一週間ほど立ち寄ったつもりが、そのとりこになってしまったのだ。彼はひと月もの間、毎日波乗りをしていたが、飽きた様子はなかった。その彼が厳かにこう言った。「そのボードから降りなよ」と。
「すぐに捨てな。自分が何に乗ろうとしているかわかってるのか。そのボードの鼻先が海底に刺さったら、脳天かち割られるだろうよ。ほら、俺のボードを使えよ。これが大人用のサイズってやつだ」
ぼくは知識を前にすると、いつも謙虚になる。フォードには知識があった。彼はぼくにボードの正しい乗り方の手本を見せてくれた。それから、いい波が来るまで待ち、いまだというときに、ぼくを押し出してくれた。波に乗って宙を飛んでいるように感じるのは、すばらしい瞬間だった。そう、ぼくは三十メートルほども突っ走って浜辺にまで達したのだ。ボードを持って、フォードのところに戻る。このサーフボードは大きくて、厚さ数インチ、重さは七十五ポンド(三十四キロ)もあった。彼はいろいろ教えてくれた。彼自身は誰にも教わっていなかった。数週間かけて自分で苦労しながら学んだことを、ぼくに一時間足らずで教えてくれたのだ。ぼくの代わりに練習してくれていたようなものだ。そして、この半時間ほどの間に、ぼくも波に乗ることができるようになった。何度も何度もやってみた。フォードはそのたびに褒めてくれ、助言してくれた。たとえば、ボードのもっと前の方に乗れ、ただし、あまり前すぎないようにしろ、などと。だが、ぼくはそれよりずっと前の方まで行ってしまった。というのは、陸に近づいたとき、ボードが海底に突き刺さって急停止してしまってトンボ返りし、同時に自分の体も投げ出されてしまったのだ。ぼくの体は木くずのように宙に舞い、あわれにも崩れ落ちてくる波の下敷きになってしまった。フォードがいなかったら、脳天をたたき割られていただろう。
「こういう危険も、このスポーツの一部なんだ」と、フォードは言った。
ワイキキを去るまでに彼自身もそういう目に会うかもしれない。そうなれば、常にスリルを追い求めている彼の思いも満たされることにはなるわけだ。
人殺しは自殺より悪いと、ぼくは固く信じているのだが、相手が女性の場合は特にそうだ。ぼくはあやうく人を殺しかけ、その寸前にフォードが救ってくれたことになる。
「自分の足を舵だと思ってみろよ」と、彼は言った。「両足をよせて、それで方向を決めるんだ」
それを聞いた数分後、ぼくは砕け波に突っこんでいった。そのまま波に乗ってビーチの方へ接近していく。
いきなり真正面に、仰向けになって浮かんでいる女性が出現した。
乗っている波をどうやって止めろというのか? その女性はじっと動かない。サーフボードの重さは七十五ポンドあるし、ぼくの体重は百六十五ポンド(約七十五キロ)だ。両方を合計した重量の物体が時速十五マイルで突進していく。ボードとぼくはミサイルのように突っこんでいく。この気の毒な女性の柔らかい肉体に加わる衝撃の大きさを計算するのは物理学にまかせるしかない。
そのとき、ぼくは保護者たるフォードの「足で舵を切れ」という言葉を思い出した。足で向きを変えてみようと思った。両足を踏ん張って全力で向きを変えようとした。ボードは波の頂点で横向きになると同時に、切り立った崖のように垂直にもなった。いろんなことが同時に起きた。波はぼくをひっくり返すと、軽くポンポンとたたくようにして行ってしまったが、軽くたたかれただけで、ぼくはボードから落ち、波にもみくちゃにされ、引きづりこまれて海底に激突し、何度も横転した。やっとのことで海面に顔を突き出して息をし、なんとか歩けるようになったのだが、目の前にその女性が立っていた。ぼくは自分がヒーローになったような気がした。彼女の命を救ったのだ。
すると、彼女はぼくを見てげらげら笑った。恐怖にかられたヒステリックな笑いというのではなかった。自分が危機一髪だったとは、夢にも思っていないのだ。ともかく、彼女を救ったのはぼくではなくフォードだった。ヒーローのような気になる必要はないと、ぼくは自分で自分をなぐさめた。それに、なによりも足でボードをあやつれるというのに感激した。ぼくはさらに練習し、自分でコースを選び、泳いでいる人を避けながら進めるようになっていった。くずれる波の下に突き落とされるのではなく、波の上に乗り続けることができるようになったのだ。
「明日」と、フォードが言った。「もっと大きな波が立つところに連れてってやるよ」
ぼくは彼が指さした沖に目をやった。さっきまで乗っていた波がさざ波にしかみえないような大波が水けむりをあげていた。この最高のスポーツをやる資格が自分にもあると思っていなかったら、どう返事をしていたのかわからない。が、ぼくはさりげなくこう答えた。「いいぜ、明日、挑戦してみよう」
ワイキキビーチに押し寄せる波は、ハワイ諸島すべての岸辺を洗っている波と同じだ。とくに水泳には最高だ。寒さで歯をがちがちいわせることもなく、一日中でも泳いでいられるほど暖かいし、適度な冷たさもある。太陽や星々の下で、つまり、昼でも夜でも、真冬でも真夏でも、暖かすぎず冷たすぎず、常に一定のちょうどいい温度なのだ。すばらしい太古の海そのものであり、けがれのない水晶のように澄みきっている。こういう海が身近にあるということを思えば、カナカの人々が水泳競技で優秀なのも当然だ。
翌朝、フォードがやってきた。ぼくは彼と一緒に、このすばらしい海に飛びこんだ。サーフボードにまたがるか、その上に腹ばいになり、カナカの年少の子たちが遊んでいるサーフィンの幼稚園を抜けて、さらに沖へと漕ぎ出ていく。まもなく、大きな波しぶきがあがっているところに出た。次々と押し寄せる波と格闘し、沖に向けて漕いでいくだけでも一苦労だ。波のパワーは強烈だし、それに負けないためには自分をよく知っている必要がある。つまり、押しつぶそうとする波との闘いで、相手のスキをつく狡猾さも必要になるということだ──冷酷で無慈悲なパワーと知性との闘いでもある。
少しだがコツはつかめた。
波が頭上におおいかぶさってくる瞬間、エメラルド色の波の膜を通して日光が見える。そこで、頭を下げてボードを全力でつかむ。と、波の一撃がくる。浜辺にいる見物人には、ぼくが消えたように見えるだろう。実際には、ボードとぼくは巻き波のなかをくぐって反対側の波の谷間に出るのだ。体の弱い人や気が小さな人には、ちょっとお勧めできない。波は重く、押し寄せてくる波の衝撃は砂あらしに巻きこまれたかのようだ。ときには次々と間をおかずに襲ってくる半ダースもの大波に四苦八苦することもある。じっとおとなしく陸にいたらよかったなと後悔したり、陸にとどまっているべきである理由が身にしみてわかったりもする。
沖で水しぶきとともに波が襲ってくるところで、第三の男、フリースがぼくらに加わった。一つの波をやりすごして海面に出る。頭をふって海水を振り払い、次にどんな波が来るかと前方に目を凝らすと、フリースが波に乗り、ボード上に立ったのが見えた。この若者はさりげなくバランスをとっているが、たくましく日焼けしていた。ぼくらは彼の乗った波をやりすごした。フォードが彼に声をかけた。彼は乗っていた波から降りて、ボードが波にのみこまれないようにして、ぼくらの方に漕いできた。フォードと一緒になって、ぼくに手本を示してくれた。
ぼくがとくにフリースから学んだことの一つは、たまにやってくる例外的に大きな波への対処の仕方だ。そういう波は本当に強烈なので、ボード上にいてぶつかったりしたら無事ではすまない。だが、フリースはぼくに手本を示してくれた。そういう波が自分の方にやってくるのが見えたときはいつでも、ボードの後方から海中にすべりおり、両手を頭上にあげてボードをつかむのだ。こういう波ではよくあることだが、波は手からボードをもぎとってサーファーをぶんなぐろうとする。ところが、こうしておくと、波の一撃と自分の頭の間には一フィートの水のクッションができるので衝撃がやわらぐ。その波をやりすごしたら、ボードによじのぼってまた漕ぐのだ。ぼくは、ボードと体がぶつかってひどいケガをした人を何人も知っている。
波に乗ったり波と闘ったりすることでぼくが学んだ方法の一つは、下手に抵抗しないということだ。なぐりかかってくる相手は、こちらから身をかわすに限る。顔面をひっぱたこうとする波があれば、その下にもぐりこんでしまえばいい。足から先に海に飛びこみ、波には頭上を通過させるのだ。決して身構えたりしない。リラックスしよう。体を引きちぎられかけたら、こっちが一歩譲ればいい。引き波につかまって、海の底で沖に持っていかれようとしたら、それに逆らってはいけない。逆らったところで、引き波の方が強いに決まってるのだから、おぼれてしまう。逆らわず、流れにそって泳いでいけば、体が受ける力が弱くなったように感じられる。
そうやって流れに身をまかせていれば体を押さえつけられることもないし、海面に向かって少しずつ浮上していくこともできる。海面に出てしまえば、少なくとも溺れる心配はなくなる。
波乗りをおぼえたければ、泳ぎも達者でなければならないし、海にもぐるのにもなれていなければならない。それができたとして、あと必要になるのは体の頑健さと常識だ。
大波のパワーは想像を絶する。めちゃくちゃにかきまわされるし、人間とボードは何百フィートも引き離されてしまう。サーファーたるもの、自分の身は自分で守らなければならない。救助に駆けつけてくれるサーファーがどんなに大勢いたとしても、それには頼れない。フォードやフリースがいてくれるという安心感のためか、大波にもまれたら、まず自分で泳いで脱出しなければならないということを、ぼくはつい忘れてしまう。
そのときのことを思い出してみる。
大波がやって来た。この二人はそれに乗ってはるか遠くまで行ってしまった。彼らが戻ってくるまでの間、ぼくは何十回となく溺れかけた。
サーフィンではサーフボードに乗って波の前面をすべりおりるわけだが、そのためには、まず自分から仕向けなければならない。ボードとサーファーは、波が追いついてくるまで、陸に向かってかなりの速さで自分から進んでいかなければならない。つまり、波がやってくるのが見えたら、ボードに乗って向きを変えて波に尻を向け、全力で海岸にむかって漕ぐ。いわゆる風車みたいに腕をぐるぐるまわして漕ぐのだ。波の直前でスパートする。ボードに十分なスピードがついていれば、波がそれをさらに加速してくれる。そうして、四分の一マイルもの長さの滑走が始まることになる。
沖ではじめて大波に乗れたときのことは決して忘れない。波が来るのが見えた。向きを変え、必死でパドリングした。腕がちぎれるかと思えるほどだ。ボードのスピードはどんどん増していく。自分の背後で何が起きているのか、わからない。風車みたいに漕いでいるときに振り返ったりはできない。波が盛り上がり、シューシューという音や波のくずれる音が聞こえる。ボードが持ち上がり、放り投げられるように突進しはじめる。はじめのうちは何が起きたのか、さっぱりわからない。目を開けても何も見えない。白い波しぶきに埋もれているのだ。だが、そんなことは気にならない。波をとらえたときの至福ともいえる喜びだけを感じた。三十秒ほどで、物が見えるようになり、息もできるようになった。ボードの鼻先三フィートほどが空中に突き出しているのが見える。体重を前にかけるようにしてボードの先端を下げる。そのとき、ぼくは荒々しく動いている波のど真ん中で静止していたのだった。海岸が見えた。ビーチの海水浴客たちもはっきり見えた。とはいえ、その波で四分の一マイルもサーフィンできたわけではない。ボードが波に突き刺さらないよう重心を後ろに移動させようとしたのだが、体重を戻しすぎて波の背面に落っこちてしまったのだ。
サーフィンをはじめて二日目だった。自分がとても誇らしかった。四時間もサーフィンをして、終わったときには、明日もまた来よう、ボードに立って見せるぞと思っていた。
だが、その思いは先延ばしになってしまった。翌日にはずっとベッドに寝ていたのだ。
病気ではない。どうにも動けなくて寝たきりだったのだ。ハワイの海のすばらしさを語ろうとして、ハワイの素晴らしい太陽のことを言いそびれてしまった。とにもかくにも熱帯の太陽だ。六月初旬で、頭上に太陽があった。狡猾で二枚舌なやつだ。
ぼくは人生で初めて、自分が日焼けしたことに気がつかなかった。両腕、両肩、背中は以前にも何度も日焼けしていて、いわば免疫はできていた。だが、下半身はそうじゃなかった。そして、サーフィンに熱中していた四時間というもの、足裏をハワイの太陽にまともにさらしてしまっていたのだ。裏側が太陽にさらされていたことは、サーフィンを終えてビーチに戻るまで気がつかなかった。日焼けすると、はじめのうちは熱を感じるだけだが、それがひどくなると水ぶくれができる。それに、皮膚にしわがよると関節も曲がらなくなる。それが翌日ずっと寝ていた理由だ。歩けなかったのだ。
今日こうして原稿をベッドで書いているのはそのためだ。こうやってサーフィンができない状態におかれるより、サーフィンをやっている方がずっと楽だ。明日になれば、そう、明日になれば、またあのすばらしい海に入って、フォードやフリースと一緒にサーフボードの上に立ってみせる。明日がだめなら、その翌日か、またその翌日に。
ぼくは一つだけ決心した。自分が足に翼をつけて海の上を飛ぶようにサーフィンできるようになるまで、日焼けして皮のむけたマーキュリーになるまで、スナーク号でホノルルを出帆することはない、と。
スナーク号がモロカイ島の風上側の沿岸をホノルルに向かって帆走していたとき、ぼくは海図を見て、低く横たわった半島とその向こうに見えている高さが二千フィートから四千フィートはありそうな一連の断崖を指さして、こう言った。「あそこが地獄だ。地球上で最も呪われた地だ」と。
その一カ月後に自分自身が地上で最も呪われたその地の海岸に立ち、八百人ものハンセン病患者と一緒になって楽しんでいると知ったら、衝撃を受けたはずだ。
楽しむのは不謹慎だという人もいるだろうが、それは正しくない。
とはいえ、ぼくとしては、あの人たちの中に自分がいるという状況は、少し前までだったら考えられなかったことではある。それまでと今とでは、この病気の患者に対する感じ方がまったく違っている。実際に楽しかったからだ。
たとえば、独立記念日の七月四日の午後、ハンセン病患者たちは皆、競技場に集まっていた。ぼくはレースの様子を写真に撮るため、監督官や医者たちから離れたところにいた。
面白いレースだった。自分のひいきの騎手をめぐって対抗心がめらめらとわいてくるのだ。三頭の馬が入場した。それぞれ中国人、ハワイの原住民、ポルトガル人の少年が乗っていた。騎手は三人ともハンセン病患者だった。審判も観客も同様だ。レースはトラックを二周する。まず中国人とハワイの原住民が抜け出した。二人は首の差だ。ポルトガルの少年は二百フィートも後方に置いていかれている。一周しても、距離はほぼそのままだ。二週目の半分あたりで、中国人の騎手が一馬身ほど原住民の騎手より前に出た。同時に、ポルトガルの少年も差を詰めてくる。が、追いつけそうにはなかった。観客の応援に熱が入る。ハンセン病患者たちは皆、競馬が大好きなのだ。
ポルトガルの少年が追い上げる。ぼくも声を張り上げる。
ホームストレッチにさしかかった。ポルトガルの少年がハワイの原住民を抜いた。雷鳴のようなひづめの音、三頭の馬の競り合い、ムチをふるう騎手。観客は一人残らず声を張り上げて叫んでいる。差はじりじり縮まってくる。ポルトガルの少年が追いつき、追いこした。そう、追いこして、中国人を頭一つリードして勝ったのだ。
ぼくはハンセン病患者の輪の中に飛びこんだ。彼らは歓声をあげ、帽子を投げ飛ばし、つかれたように踊りまわった。ぼくも同じだ。帽子を振りまわし、有頂天になって叫んでいた。
「なんてこった、あの子が勝ったぜ! あの子が勝ったんだぜ!」
客観的に分析してみよう。
ぼくはいわゆる「モロカイの恐怖」*なるものの一つを確かに目にしているのだった。そしてそれは、世間に広まっているような状況が真実であるとすれば、ぼくの行為は屈託がないというか、無邪気すぎて、恥ずべきことでもあっただろう。それを否定はしない。
* モロカイの恐怖: 当時、ハンセン病は不治の病とされ、各国で国家政策として患者を隔離する措置がとられた。ハワイ諸島ではモロカイ島にハンセン病患者の療養所が設置され、患者がそこに集められて隔離された。当時の新聞紙上には、憶測を含めて「ハンセン病患者の悲惨さ」を伝える記事があふれていた。
日本でも患者は特定の療養所に生涯を通じて隔離された。それが違憲であったとして国の損害賠償責任を認めた熊本地裁の判決が出たのは、ジャック・ロンドンのモロカイ島滞在(一九〇九年)から百年ほど経った二〇〇一年のことである。
次の競技はロバのレースだった。こいつも、とても面白かった。ビリだったロバが優勝したのだ。話を複雑にしているのは、騎手は自分の持ち馬ならぬ持ちロバに乗っているわけではないということだ。
どういうことかというと、騎手たちは互いに別の騎手のロバに乗っていて、他人のロバに乗りながら、他の騎手が乗っている自分のロバと競争するのだ。当然のことながら、ロバを所有している者たちは、レース用に提供するロバについては、とても遅いのを選んだり、極端に御しがたいのを参加させたりするわけだ。
あるロバは、騎手がかかとで腹をけると、脚をすぼめてる座りこむよう訓練されていた。その場でぐるぐるまわろうとするロバもいれば、コースを外れたがるロバもいたし、柵ごしに頭を外に突き出して足をとめてしまうのもいた。参加したロバすべてがそんな具合だった。
トラックを半周したところで、一頭のロバが騎手に抵抗しはじめた。残りのロバすべてに追いこされても、まだもめている。ところが、結局のところ、そのロバは騎手を振り落とし、なんと一着になったのだ。千人ほどのハンセン病患者全員が腹をかかえて笑った。そのときぼくと同じ場所にいた連中は誰もがそれを楽しんでいた。
というような出来事はすべて、巷間(こうかん)うわさされているモロカイ島の恐怖なるものが存在しないことを述べるための前振りだ。
この居住地については、センセーショナルにあおりたがるマスコミや事実を見ようとしない扇動主義者たちによって繰り返し書きたてられている。むろん、ハンセン病はハンセン病であるし、おそろしい病気ではある。だが、モロカイ島について書かれた話は誇張されすぎていて、ハンセン病患者たちも、治療に身をささげている人たちも、正しく扱われてはいないのだ。
具体的な例を述べよう。
ある新聞記者がいた。この居住区に足を踏み入れたこともないくせに、監督官のマクベイ氏について、自分の目で見てきたように、こう描写した。
「草ぶきの小屋で、床についたマクベイを飢えたハンセン病患者たちが取り囲み、夜ごと、飯をくれと責め立てている」と。
この身の毛もよだつような記事は全米で報道され、それを読んで憤然として抗議し改善を求める多くの社説が書かれたものだ。
ところで、今ぼくはこのマクベイ氏の草ぶきの小屋なるところに五日間も寝泊まりしているのだが、まず小屋は草ぶきではなく木造家屋だし、だいたいこの居住地のどこにも草ぶきの家などない。ハンセン病患者の声は聞こえてくるが、それは飯をくれというようなものではなく、合唱のようにリズミカルで、バイオリンやギター、ウクレレ、バンジョーといった弦楽器の伴奏がついている。他にも、ハンセン病患者のブラスバンドや二つある合唱団の歌声など、いろんな音が聞こえてくる。五人組のすばらしい歌声も聞こえたが、記事や本に書かれているのとは異なり、その歌声は、ホノルルへの出張から戻ったマクベイ氏のために、患者のグリークラブが歌っているセレナーデなのだ。
ハンセン病の接触による伝染性は想像されているほどではない。
ぼくは妻同伴でこの居住地に一週間滞在した。感染するという不安はまったくなかった。ぼくらは長手袋もはめなかったし、患者から離れていようともしなかった。逆に、余計なことは何も考えず自由に動き、彼らと一緒にいた。ここを去るときには、顔と名前でその人の病歴もわかるようになっていた。清潔にしてさえいれば、予防措置としては十分のようだ。医師や監督官など患者以外の者は、患者と接した後で自分の家に戻るときに消毒用の石鹸で顔と手を洗い、上着を着替えるだけだ。
とはいえ、ハンセン病患者との接触は避けるべきだという声も根強い。
この病気についてはほとんど知られていないため、ハンセン病患者の隔離措置は厳守されている。過去にはハンセン病は恐ろしいものとされ、ぞっとするような治療が行われたが、そういったものは不要であるし残酷でもある。ハンセン病をめぐって人口に膾炙(かいしゃ)した誤解のいくつかを一掃するため、ぼくはハンセン病患者と患者以外の者との関係について、自分がモロカイ島で観察したことを述べておきたい。
到着した朝、チャーミアンとぼくはカラウパパ・ライフル・クラブの射撃大会に参加した。そこで、この疾病にまつわる苦痛と、それが緩和されていく民主主義的兆候を目撃することになった。
このクラブは、マクベイ氏が寄贈したカップをめぐる賞品つきの大会を創設したばかりだった。マクベイ氏や研修医のグッドヒュー医師、ホールマン医師もクラブの会員だった(両医師とも奥さんと一緒に居住地に住んでいる)。射撃ブースでぼくらのまわりにいる者は全員が患者だ。患者も患者以外の者も同じ銃を使用し、限られた空間で肩を並べていた。患者の多くはハワイの原住民だった。ベンチでぼくの隣に座っているのはノルウェー人だった。真正面の砂の上に立っているのは南北戦争で南部連合国軍側で戦ったアメリカ人で、いまはもう退役していた。彼は六十五歳だが、腕はまだ鈍っていなかった。大柄なハワイの警察官たち、患者たち、カーキ色の軍服姿の連中が射撃をした。ポルトガル人もいれば中国人もいた。居住地で働いている患者以外の現地人もまじっていた。
午後、チャーミアンとぼくはパリと呼ばれる二千フィートもある崖に登って居住地を眺めたのだが、監督官や医師も、病人も病人じゃない人も入り混じって野球の試合に興じていた。
中世のヨーロッパでは、ハンセン病はおそろしい病気とされ、患者はひどく誤解された扱いを受けた。当時、ハンセン病患者は法的にも政治的にも死んだものとみなされた。患者は葬列のように教会に連れていかれ、そこで礼拝をつかさどる聖職者が患者のための模擬葬儀を挙行する。読経のあとで土をすくって患者の胸に落とす。生きたまま死者となるのだ。
この厳しい処置の大半は不要なものだった。
が、それによって一つのことがわかる。ハンセン病は、十字軍の兵士たちが帰還してくるまで、ヨーロッパでは知られていなかった。そしてそこから少しずつ広がり、ある時点で一気に拡大したのだ。
これは明らかに接触で罹患する病だった。接触伝染病だ。と同時に、隔離すれば根絶できるということも明らかだった。当時のハンセン病患者の扱いはひどく、醜悪なものであったが、隔離効果が知られるようになると、それを手段として用いることでハンセン病の撲滅が可能となった。
ハワイ諸島では現在、こうした隔離政策によりハンセン病は減少している。
だが、モロカイ島に患者を隔離することは、イエロージャーナリズムが扇情的に書きまくっているような、恐ろしい悪夢なのではない。そもそも、ハンセン病患者は家族から無慈悲に引き裂かれてなどいないのだ。病気が疑われた者は、衛生局からホノルルのカリヒにある施設に来るようにと呼び出しがある。料金や経費はすべて公費でまかなわれる。
そこで、まず衛生局の細菌学の専門家による顕微鏡検査を受ける。ハンセン菌が見つかると、患者は五名の検査医からなる審査会による審査を受ける。ここでハンセン病と判明すれば、病名が告げられ、衛生局が正式に確認し、患者はモロカイ島に送られる。状況に応じて徹底した検査が行われるが、患者には自分を担当する医師を選ぶ権利がある。
ハンセン病と宣告された後でも、すぐにモロカイ島に送り込まれるわけではない。何週間か何カ月かの猶予が与えられ、カリヒに滞在している間に、商売などを清算したり話をつけたりすることになる。モロカイ島では、親戚や商売の代理人などの面会も認められるが、患者の家で食べたり寝たりすることは認められない。そのため、訪問者用の「清潔」な住宅が確保されている。
衛生局のピンカム局長とカリヒを訪れたとき、ぼくは罹患した疑いのある人に対する徹底した検査について説明を受けた。
このときの疑いのある人は七十歳になるハワイの原住民で、三十四年間、ホノルルで印刷会社の印刷工として働いていた。専門家がハンセン病だと診断したが、審査会は判断に迷っていて、その日に全員がカリヒに集合して別の検査をしたというわけだった。
モロカイ島では、宣告されたハンセン病患者は再検査を受ける権利があり、患者はそのために頻繁にホノルルに戻っている。ぼくがモロカイ島に渡るときに乗った蒸気船には、そうやって戻った患者が二人乗っていた。どちらも若い女性で、一人は自分の所有する財産を整理するためにホノルルに行っていて、もう一人は病気の母親に会うためだった。二人ともカリヒに一カ月滞在していた。
モロカイ島の居住地は新鮮な北東貿易風が吹き抜ける島の風上側にあるため、気候はホノルルよりずっと快適だ。景色もすばらしい。一方には青い海があり、他方にはパリと呼ばれる断崖がそびえていて、そこここに美しい渓谷がある。いたるところ緑の牧場が広がり、患者たちの所有する何百頭もの馬が放牧されている。馬車や荷馬車、二輪の軽量馬車を持つ患者もいる。カラウパパの小さな港には何艘かの漁船と小型蒸気船が係留されている。どれも患者が所有し操船している。むろん、海上でも境界が決められていて、船で行ける範囲は限定されているが、それ以外に制限はない。獲れた魚は衛生局に売り、代金は自分の稼ぎになる。ぼくが滞在していた間、一晩の稼ぎが四千ポンドにもなったことがある。
漁をする者がいるように、農業をする者もいる。あらゆる事業が行われている。
生っ粋のハワイ人の患者は塗装業の親方だ。八人を雇い、衛生局から建物の塗装を請け負っている。カラウパパ・ライフル・クラブに入会していて、ぼくも会ったことがあるのだが、ぼくなんかよりずっと立派な身なりをしていた。同じような境遇の男がもう一人いて、こっちは大工の棟梁だ。衛生局が運営している店舗の他にも民間の小さな店があり、商売っ気のある者が経営している。監督補佐のワイアマン氏は立派な教育を受けた有能な人物だが、生っ粋のハワイっ子で患者でもある。バートレット氏はいまはこうした店の主人だが、米国人で、この病気にかかる前はホノルルで商売をしていた。
この人たちの稼ぎはすべて自分のものになる。働けない者は地域で面倒を見てくれる。食べ物や住むところ、衣服が与えられ、治療も受けられる。衛生局は農業経営も行っていた。地元向けの畜産や酪農で、働きたい者には全員、適正賃金の雇用が提供される。とはいえ、この隔離された地域で全員が労働を強制されているわけではない。子供や老人、肢体不自由者には住居も病院も確保されている。
リー少佐はインターアイランド汽船会社の造船技師を長く務めた米国人だ。ぼくが会ったときは、蒸気を使う新しいタイプのクリーニング屋で働いていた。機械の据え付けで忙しそうだった。その後も彼とはよく会ったが、ある日、ぼくにこう言った。
「おれたちがここでどうやって生きているのか、ちゃんと伝えてくれよ。お願いだから、ありのままを書いてくれよな。あんたは、みんながおぞましくも腐敗した生き地獄と思いこんでいるところに足を踏み入れちまったんだ。おれたちだって誤解されたままでいるのはいやだし、感情を持った人間なんだ。ここでどう暮らしているのか、本当のことを世の中の連中に伝えてくれ」
ぼくがこの居住地で会った人々は、男も女も、口をそろえて同じような感情を吐露した。これまで事実に反する嘘をまじえて誇張して伝えられている報道に、患者自身が憤慨していた。
彼らが病気にかかっているのは事実だが、ハンセン病患者たちは自分の置かれた境遇で生活を楽しんでいる。居住地は二つの村に別れ、田舎風の家や海沿いの家が数多くあり、ほぼ千人が暮らしている。教会は六つもある。キリスト教青年会の建物や集会場もあれば、演奏会場や競技場、野球場、射撃場、スポーツジムもある。多くのグリークラブが活動し、吹奏楽団も二つある。
「ここではみんな満足しているので」と、ピンカム氏がぼくに言った。「ショットガンでも追い払うことはできないでしょうな」
そのことは、後でぼく自身が確認した。
この年の一月、病気の再検査のためホノルルに行くことになった十一名の患者が、それを拒否してひどく抵抗したのだ。彼らは行くのを嫌がった。検査で菌の陰性化が判明すれば自由にどこでも行けるようになるのだが、自由になりたくないのかと聞かれると、全員が「モロカイ島に戻りたい」と答えたのだ。
かつてハンセン菌が発見される前、さまざまな、まったく異なる病気で苦しんでいる男女が少数ではあったがハンセン病と判断されて、モロカイ島に送られてきた。それから何年も経て、細菌学者が、彼らはもはやハンセン病にかかっていないし、そもそもその病気ではなかったと宣言したとき、彼らは逆に狼狽した。モロカイ島から外に出されるのを嫌がり、衛生局から仕事をもらって、そのまま居住地にとどまったのだ。現在、看守を務めているのはそのうちの一人である。ハンセン病ではないと宣言された彼は、島外に送られないように、有給で看守の仕事を引き受けたのだった。
この原稿を書いている時点で、知っている靴磨きがホノルルに一人いる。アフリカ系アメリカ人だ。マクベイ氏がぼくに語ってくれたところによれば、まだ細菌検査が行われるようになるずっと前に、彼はハンセン病患者としてモロカイ島に送られてきたのだった。彼は病室でも血気盛んで、悪さばかりしていた。長い間、そういうちょっとしたいたずらが繰り返されていたのだが、ある日、彼は検査でハンセン病ではないと宣告された。
「なんとまあ!」
マクベイ氏は笑いだした。
「ということは、君を厄介払いできるってことだ! 次の蒸気船で島を出してやろう。君は自由の身だ!」
しかし、この黒人は行きたがらなかった。すぐにハンセン病の末期段階にある老婦人と結婚し、衛生局に、病気の妻を介護するため引き続き滞在する許可を与えてくれるよう嘆願したという。自分ほど妻の世話ができる者は他にいない、と泣きついたのだ。
しかし、衛生局の連中にとっても彼の魂胆はお見通しというわけで、彼は蒸気船に乗せられて自由の身となった。だが、彼はモロカイ島に舞い戻ってきた。モロカイ島の風下側に上陸すると、夜にまぎれて崖側から忍びこみ、居住地にある自宅にもぐりこんだのだ。彼は逮捕され、裁判で不法侵入のかどで有罪を宣告され、少額だが罰金も科せられ、蒸気船で退去させられた。こんど不法侵入したら罰金百ドルに加えて、ホノルルの刑務所行きだと警告された。というわけで、このたびマクベイ氏がホノルルにやってくると、この靴磨きは氏の靴を磨きながらこう言った。
「ねえ、先生。あの楽しかった家がなくなっちまいましたよ。ああ、なつかしいなあ」
それから内緒話でもするように声をひそめて、こう言った。
「ねえ、先生。また戻れませんかね? 戻れるように手配してもらえませんか?」
彼はモロカイ島に九年も住んでいた。それ以前もそれ以後も、この島での暮らしほど楽しい時はなかったという。
ハンセン病自体に対する不安については、居住地では、ハンセン病患者も患者以外の人々も、そういう気配は見せなかった。ハンセン病に対する激しい恐怖は、ハンセン病患者を見たことがない人々や、この病気について何も知らない人々の心の中にあるのだ。
ワイキキのホテルで、ぼくが居住地を訪問する料金の支払をしていると、ある女性がそのことに心底驚いていた。話をしてみると、彼女は生まれも育ちもホノルルなのだが、ハンセン病患者を自分の目で見たことがないという。ぼくはアメリカ本土で暮らしていたが、米本土ではハンセン病患者の隔離はゆるくて、ぼくは大都市の通りで何度も患者を見たことがある。
ハンセン病は恐ろしいものだし、それから逃れるのがむずかしいのは事実だが、この病気や伝染性については、ぼくには多少なりとも知識があった。
ハワイに滞在する残りの日々をどうすごそうかと考えているとき、結核療養所を訪問するよりはハンセン病療養所のあるモロカイ島ですごしてみようと思ったのだ。
米本土の都会や田舎の貧しい人々のための病院や外国の似たような施設でも、モロカイ島で目撃するような光景を目にすることはできる。が、もっとひどい状態だ。残りの人生をモロカイ島で暮らすか、ロンドンのイーストエンドや、ニューヨークのイーストサイド、シカゴのストックヤードで暮らすか選択をしなければならないとしたら、ぼくはちゅうちょせずモロカイ島を選ぶだろう。イーストエンドやイーストサイドのような堕落と貧困に満ちた土地で五年もすごすくらいなら、モロカイ島で一年をすごすほうがいい。
モロカイ島では、人々は楽しそうだ。そこで目にした七月四日の祝日の様子を、ぼくは決して忘れない。
朝六時、報道やうわさ話では「身の毛もよだつ」とされている人々が外に出てくる。着飾って(自分の所有する)馬やラバ、ロバにまたがり、居住地中を跳ねまわるのだ。
二組のブラスバンドも出ていた。三、四十人ものパウを着た者たちもいた。すべてハワイ人の女性で、この民族衣装を上手に着こなしている。馬に乗るのもうまく、二、三頭ずつだったり集団だったりで、そこらじゅうを駆けまわっている。
午後、チャーミアンとぼくは審判席に立ち、乗馬の技術やパウを着た衣装に賞を贈呈した。周囲にいるのはすべてハンセン病患者で、頭や首や肩に花冠や花のリースをつけて楽しそうだ。丘の上や草原には派手に着飾った男女が見え隠れし、飾り立てた馬を走らせたり、着飾った騎手たちが歌ったり笑ったりしている。ぼくは審判台に立ち、こうした様子をすべて目にしたが、そのとき思い出したのは、キューバのハバナにあるハンセン病の病院だ。そこには二百人ほどのハンセン病患者や囚人がいて、四方を壁に囲まれた場所で死ぬまで閉じこめられていた。ぼくは数多くの土地を知っているが、ずっと住む場所を選ぶとなったら、モロカイ島にするだろう。
夕方、患者の集会所の一つに行った。集まった聴衆を前にして、合唱団のコンテストがあった。夜になり、最後はダンスになった。ぼくはホノルルのスラム街に住むハワイ人を見たことがあるのだが、再検査のため居住地から連れてこられた患者たちが口をそろえて「モロカイ島に戻りたい!」と叫ぶ理由がよくわかる。
ひとつ確かなのは、居住地の患者は、ここ以外の場所で世を忍んで生活している患者よりはるかに恵まれているということだ。そういう患者は他人と交わることもなく、病気が露見しないか、少しずつ確実に悪くなっているのではないかと不安を抱えて生きている。
ハンセン病の進行は一定していない。この病気になると体がむしばまれるが、潜伏期間はさまざまだ。五年や十年、四十年も症状が悪化せず、元気に生活できることもある。とはいえ、まれに最初の兆候で死に至る場合もある。腕のいい外科医が必要だが、隠れている患者には医者も呼びようがない。たとえば、最初の兆候として足の甲に穿孔性(せんこうせい)潰瘍(かいよう)ができる場合がある。それが骨にまで達すると壊死(えし)が起きる。患者が隠れていれば手術を受けられない。壊死は足の骨まで広がってしまい、短時間に壊疽(えそ)や他の合併症で死亡することもある。そんな患者がモロカイ島にいたとすれば、外科医が足の手術を行って潰瘍を切除し、骨を消毒し、病気の進行を完全にとめてしまう。手術後ひと月もすれば、患者は馬にも乗れるようになるし、徒競走をしたり波打ち際で泳いだり、マウンテンアップルを探して谷間の急な坂を歩けるようにもなる。すでに述べたように、この病気は潜伏期間に差があって、五年、十年あるいは四十年も症状が出ないこともある。
かつてハンセン病の恐怖とされていたものは、手術で消毒をしなかった時代、グッドヒュー博士やホルマン博士のような医師たちがこの居住地に住みこむようになる以前にまでさかのぼることになる。
ゴッドヒュー博士はこの地で先駆的な役割を果たした外科医で、彼の気高い精神と功績はいくら賞賛しても賞賛しすぎることはない。
ある日の午前、ぼくは手術室で彼の執刀する三件の手術に立ち会った。そのうちの二人は新しく連れてこられた男性で、ぼくと同じ蒸気船で到着した。いずれの場合も、病気にやられたのは一か所だけだ。一人はくるぶしにかなり進行した潰瘍ができ、もう一人は脇の下に似たような進行した症状が出ていた。二人とも居住地外にいたので治療を受けておらず、かなり進行していた。
どちらの患者の場合も、グッドヒュー博士はすぐに症状の進行を完全にとめ、この二人は四週間もすると元気になり、病気にかかる前のように丈夫になった。この二人が読者諸君やぼくと違うのは、彼らの病気は潜伏して将来のいつか再発する可能性があるということだけで、それ以外に違いはない。
ハンセン病は人類の歴史と同じくらい古い。文字による最古の記録にも出てくる。そして、病気の解明となると、現在でもなお当時と比べてあまり進歩していない。昔からとくに接触伝染性があることはよく知られていて、患者は隔離すべきとされてきた。昔と今との違いは、患者はもっと厳格に隔離され、人間らしく扱われて治療されているということだ。
ハンセン病自体はやはり大変な病気だし、まだ解明されていないことも多い。あらゆる国の医師や専門家の報告を読むと、この病気の不可解な特徴が明らかになってくる。こうしたハンセン病の専門家たちは、病気のどの段階についても「わからない」という点で口をそろえている。かつては軽々しく独断的に一般化されていたこともあるが、現在ではもう一般化して言われることはない。実施されたすべての調査から引き出しうる唯一可能な一般化は、ハンセン病は接触伝染性があるということだけだ。
とはいえ、この伝染性そのものは強くないということも、ほとんど知られていない。ハンセン菌そのものは専門家により分離されていて、ハンセン病か否かは細菌検査で判定できる。だが、この病原菌が患者でない人間の体にどうやって入りこむのかは、まだわかっていない。潜伏している期間の長さもわかっていない。あらゆる種類の動物にハンセン菌を植菌しようとした試みも失敗つづきだ。
この病気と闘うための血清を発見しようという努力も成功していない。専門家のあらゆる努力にもかかららず、まだ手がかりも治療法も見つかっていない。ときどき原因が解明され治療法が見つかったと希望の炎が燃えさかることもあるが、そのたびに失敗という闇に吹き消されてしまう。
ある医者は、ハンセン病の原因は長期にわたって魚を食べたためだと主張し、自説を大々的にふりかざした。とはいえ、それもインドの高地の医師が「自分の地域の住民にもハンセン病にかかっている者がいるのだが、それはなぜか」と問うまでだった。そのインドの高地に住む住人は先祖代々魚を食べたことがなかったからだ。患者を一種の油や薬物で治療し、治癒したと発表した人もいた。が、五年後、十年後、四十年後に再発した。治癒したという主張は、この潜伏した状態を治癒したと勘違いしていたことになる。確かなのは、本当に治ったという事例はまだない、ということだ。
ハンセン病には弱い接触感染性がある。が、どうやって伝染するのだろうか?
あるオーストリアの医師は、自分と助手たちにハンセン菌を植えつけてみた。が、失敗した。だが、断定するまでにはいたらない。有名なハワイの殺人者の例があるからだ。こいつはハンセン菌を植えつけることに同意したため死刑判決が終身刑に減刑された。菌を植えつけてまもなく症状が出て、ハンセン病者としてモロカイ島で死んだ。
とはいえ、これで結論が出たわけではない。
というのも、植菌された当時、彼の家族の何人かがこの病気でモロカイ島に収容されていたためだ。この家族から感染した可能性もあり、この殺人犯は、正式に植菌された頃にはすでに罹患していて潜伏期間だったとも考えられるのだ。
患者の体を清めるためモロカイ島に赴任したダミエン神父という立派な聖職者のケースもある。神父がどうやって罹患したのかについては諸説あるが、本当のところは誰にもわからない。本人も知らなかった。だが、彼が島を訪れるたびに、現在も居住地に住んでいるある女性がたずねてきていたことは確かだ。その女性は長くそこに住んでいて、五度結婚している。が、夫はいずれの場合もハンセン病患者で、彼らの子を産んでいた。そして、その女性は、現在にいたるまで、この病気になってなどいないのだ。
ハンセン病の謎はまだ解明されていない。この病気についての知識が深まれば治癒する可能性も大きくなる。ハンセン病の感染性は弱いため、有効な血清が発見されれば、この病気は地球上から消えることになるだろう。そうなれば、この病気との闘いは長くはかからず急展開を見せると思われる。とはいえ、その一方で、どうすれば血清やそれ以外の思いもよらない治療法が発見されるのか。それが急務の問題なのだ。
現在、インドだけで、隔離されていないハンセン病患者が五十万人も存在していると推定されている。図書館や大学など、カーネギーやロックフェラーの寄付金の恩恵を受けている研究は多いが、そうした寄付金はどこに行っているのだろうか? たとえばモロカイ島のハンセン病患者の居住地には届いているのだろうか?
まったくわからない。居住地の住民は運命に翻弄されている。彼らはこの不可解な自然の法則の身代わりとされ、他の人々がこのおぞましい病気にかからないように隔離されいるわけだが、なぜ彼らがこの病気にかかったのか、どうようにしてかかったのかについては皆目わからないのだ。
単に患者のためだけでなく、将来の世代のために、ハンセン病治療や血清研究のため、あるいは医学界がハンセン菌を根絶させることができる思いもよらない発見のために、そうした寄付金はハンセン病治療のまともで科学的な研究にも投入してもらいたいものだ。お金を寄付したり思いやりで手を差し伸べるのには、それにふさわしい場所というものがある。
たえず動きまわる精霊のように、海や陸の絶景や自然の驚異や美を求めて、大勢の人々が地球上を旅している。ヨーロッパはそういう人々であふれている。フロリダや西インド諸島、ピラミッドやカナディアンロッキーやアメリカのロッキー山脈でも出会うことがある。とはいえ、そういった人々は、この太陽の家では絶滅した恐竜のように稀だ。
ハレアカラは「太陽の家」という意味のハワイの言葉だ。壮大な景観の地で、マウイ島にあるのだが、これを眺めてみようという観光客は少ない。現地まで自分の足で行ってみようという人はもっと少ない。ほぼゼロだ。
だが、自然の美や驚異を求める自然愛好家であれば、ハレアカラ火山では、他のどこにもまさるとも劣らない、すごいものが見られると、あえて言っておこう。
サンフランシスコからホノルルまでは、汽船に乗れば六日で着く。マウイには、ホノルルから一晩の船旅で着いてしまう。さらに六時間もあれば、海抜一万三十二フィート(約三〇五五メートル)の太陽の家の入口まで行ける。これは少し急いだらの話だが。しかし、普通の観光客はそこまでは来ない。というわけで、ハレアカラ山の斜面では人のいない壮大なパノラマが展開されているわけだ。
ぼくらは観光客じゃないので、スナーク号でハレアカラまで行った。この怪物のような山の斜面には、五万エーカー(約二百平方キロ)ほどの牛の牧場があり、ぼくらは高度二千フィートで一晩すごした。翌朝、ブーツをはき、馬に乗って、カウボーイや荷馬と一緒にウクレレまで登った。ウクレレという名の山荘で、標高五千五百フィート(約千六百七十メートル)のところにある。気候は温暖だが、夜には毛布が必要だし、居間の暖炉には火が焚いてある。
ところで、ウクレレというのは、ハワイ語で「ジャンプするノミ」のことだが、ギターを小さくしたようなハワイの楽器でもある。この山荘は楽器の方にちなんで命名されたのだろう。ぼくらは急いでいるわけではないので、その日をウクレレですごし、高度と気圧計について知ったかぶりの議論をし、論拠を証明する必要があるときには気圧計を振りまわしたりした。ぼくらの持っている気圧計は、いままで見たなかで最高に優雅で頑丈なツールだ。
また、ぼくらは山に自生しているラズベリーを摘んだりもした。ニワトリの卵か、それより大きなやつだ。ぼくらのいるところから四千五百フィート上にあるハレアカラの山頂まで牧草におおわれた溶岩の斜面が続いている。その光景を眺めたり、足元に広がる、明るい陽光をあびた雲の激しいせめぎあいを眼下に見てすごした。
このはてしない雲のせめぎあいは毎日続いている。
ウキウキウと呼ばれる貿易風が北東から吹きこんできて、ハレアカラ山にぶつかる。ハレアカラという火山はとても巨大で標高も高いため、貿易風はこの山を迂回(うかい)することになる。そのため、ハレアカラの風下側では、貿易風はまったく吹いていない。それどころか、北東の貿易風とは反対方向の風が吹いている。この風はナウルと呼ばれている。ウキウキウとナウルは昼夜を問わずぶつかりあい、優勢になったり劣勢になったり、脇にそれたり曲がったり、渦を巻くかと思えば、旋回したり、よじれたりしている。この風と風がぶつかりあう様子は、そこで湧き出た雲同志のせめぎあいとして見ることができる。
この山岳の周囲に雲が押し寄せ、ぶつかりあっているのだ。ときには、ウキウキウが強い突風となって、ハレアカラ山頂にかかる巨大な雲を吹き払ってしまうこともある。ナウルがそれをうまく利用して新しい雲の戦隊を編成し、古くからの永遠の好敵手を打ち負かしてしまうこともある。ウキウキウが山の東側に巨大な雲を送りこみ、側面からまわりこむ。しかし、ナウルは風下側の隠れ家から、側面の雲を集めては引きこみ、ねじったり引きずったりして編隊を整え、山の西側周辺からウキウキウに対抗する。その間ずっと、海まで続く斜面の高所が主戦場で、その上空でもその下方でも、ウキウキウとナウルはたえず雲同志の小競り合いを繰り返している。そうした雲が木々の間や渓谷を抜けて地面に広がり、いきなり互いに襲いかかったりもする。ウキウキウとナウルがふいに巨大な積雲を作り出し、あちらこちらでの小競り合いを飲みこみ、上空高く舞い上がって、何千フィートもの垂直に伸びた巨大な渦を作ることもある。
とはいえ、主たる戦闘が続くのはハレアカラ火山の西側斜面である。ここで、ナウルの雲は最大になり、圧倒的な勝利をおさめる。ウキウキウは午後遅くになるにつれて弱くなる。貿易風にはそういう傾向があり、反対側から吹いてくるナウルのために吹き払われてしまい、結局はナウルの方が卓越するようになる。ナウルは終日、雲を集めては送り出しているのだ。午後が進むと、はっきりとした積雲ができ、先端は鋭さを増し、長さ数マイル、幅一マイル、厚さ数百フィートにも達する。この巻雲が少しずつ前進してウキウキウとの戦闘に参加してくるため、ウキウキウは急速に弱まって雲散霧消してしまう。
しかし、いつも簡単に白旗をあげているわけではない。
ウキウキウが荒れ狂い、無限ともいえる北東風の支援を受けて雲が次々に誕生し、ナウルの積雲を一気に半マイルも撃退し、西マウイの方まで一掃してしまうこともある。この二つの勢力が入り混じり、その結果として一つの巨大な垂直にのびた渦ができ、それが空高く何千フィートも積み重なって、ぐるぐるまわることもある。ウキウキウの本流が雲を低く密集させ、地面近くからナウルの下部にもぐりこむように前進させる。ナウルの巨大な中央部はその一撃を受けて上昇するものの、通常は押し寄せてきた雲を押し返して粉砕してしまう。そうして、その間ずっと、あちこちで小競り合いをしていた迷い雲や切り離された雲が木々や谷間を抜けて草地を進み、いきなり出くわして互いに驚くことになる。
はるか上空では、沈みゆく太陽の穏やかだがものさびしい光をあびたハレアカラ山が、この雲の衝突を見おろしている。そうやって夜を迎える。
だが、朝になると、貿易風はまた勢いを取り戻し、強い風を集めたウキウキウがナウルの雲を押し戻し、敗走させる。来る日も来る日も、そんな雲のせめぎあいが続く。ここハレアカラ山の斜面では、ウキウキウとナウルが永遠に競いあっているのだ。
朝になり、ブーツをはき、馬に乗り、カウボーイと荷馬を伴って頂上に向けて出発する。荷馬は五ガロンの袋を左右に振り分けて合計二十ガロンの水を運ぶ。
クレーターの縁から数マイル北東の地域は世界のどこよりも大量の降水があるのだが、クレーターの内側は干上がっているので水は貴重なのだ。上方に続く道は無数の溶岩流をこえて続いている。道の痕跡など残ってはいない。が、十三頭の馬はこれまで見たことがないほど見事に歩を進めた。馬たちはシロイワヤギのように着実かつ冷静に垂直な場所を上ったり下ったりしたが、一頭も落ちたりためらったりはしなかった。
人里離れた山に登る人々がみな体験する、よく知られている、奇妙な錯覚というものがある。
高く登るほど広範囲の景色が見えるようになるのは当然だが、なぜか、はるかかなたにある水平線が今登っている坂の向こうに見えるのだ。この錯覚は特にハレアカラ火山で知られている。というのも、古い火山が海から直接にそびえていて、周囲に壁もなければ地続きのエリアもないからだ。
そのため、ハレアカラ火山のおそろしいほどの斜面を一気に登っていくと、ハレアカラ火山自体も自分たちも周囲にあるものすべてが、深い奈落の底に向かって沈みこんでいるような気がしてくる。自分たちより上に水平線があるように思えてしかたがない。海は水平線から自分たちの方へと下ってきているように見える。
高度を上げるにつれて、自分たちが沈みこんでいき、はるか頭上に空と海が出会う水平線があって、そこまで急激な登り勾配が続いているように感じられる。
薄気味が悪く、とても現実のものとも思えない。
北極海の水が地球の中心に流れこんでいるという、地球空洞説を唱えたジョン・クリーブス・シムズの穴や、ジュール・ベルヌの小説の主人公が地球の中心に向かって旅したときに通った火山のようだという思いが脳裏をよぎった。
そうこうしているうちに、とうとうこの巨大な山の頂上に達した。
頂上は、宇宙に存在する大きな穴の中心に逆さにして置いた円錐形のじょうごの底のようだった。ぼくらの頭上はるかで、水平線が天となってぐるりと取り囲み、山の頂上があるはずのところは、ぼくらのはるか下方にあり、そこに深くくぼんだ巨大なクレーターとなっている太陽の家があった。クレーターの壁は延々と二十三マイルも続いている。ぼくらはほぼ垂直な西側の壁の端に立っていた。クレーターの底はさらに半マイルほども下にあるのだった。底部は溶岩流が噴出した噴石丘になっている。燃えさかる炎が消えたのがつい昨日のように、今も赤く、露出したばかりで、浸食されていないようにも見えた。この墳石丘は小さいもので高さ四百フィート、大きいもので九百フィートあり、よくある砂丘のようにも見えるのだが、できたときの激しさはすさまじいものだったろう。深さ数千フィートもある二本の割れ目がクレータの縁に生じてもいる。ウキウキウがこの切れ目から貿易風の雲を進入させようと無駄な努力をしている。割れ目からうまく入りこんだとしても、クレーターが熱いため薄い大気に消散してしまい、どこにもたどり着けないのだ。
広大だが、わびしくて荒涼とした、けわしくて人を寄せつけない──それでも魅了されずにはいない──といった景観だった。ぼくらは火と地震の由来する場所を見おろした。眼前に地球のあばら骨がむきだしになっている。天地創造のときから、自然はここで作られてきたのだ、と思わせるようなところだ。
あちこちに、原始の地球のころの岩でできた巨大な堰(せき)があり、地球という鉢から溶けた岩石が一直線に流れ出て、ついさっき冷えてかたまったばかりというように見える。とても現実のものとは思えない。自分の目が信じられない。
顔を上げると、頭上はるかに(実際には、自分たちより低いところに)ウキウキウとナウルによる雲のせめぎあいが展開されている。奈落のような斜面を目で登っていくと、雲のせめぎあいのさらに上空に、ラナイ島とモロカイ島が浮かんでいる。クレーターの南東方向には、やはり上にあるように見えるのだが、青緑色の海があった。その向こうにハワイの海岸に押し寄せる白い波が見えている。貿易風による雲の列の先に、八十マイルほど離れた空のかなたに、冠雪した巨大なマウナケア山とマウナロア山の頂上が天の壁よりさらに上方にそびえている。
伝説によれば、はるか昔、現在の西マウイにマウイという名の男が住んでいた。
男の母親はヒナと呼ばれていたが、木の皮でカパと呼ばれる布を作っていた。作るのはいつも夜だ。昼間はカパを天日に干して乾燥させなければならないからだ。
来る日も来る日も朝になると、母親は苦労して木の皮でこしらえた布を日光に当てた。しかし、太陽は速足で通りすぎてしまうため、すぐに夜になり、しまいこまなければならなかった。というのも、当時は昼の時間が今より短かったからだ。
マウイは母親のむくわれない努力を見ていて気の毒に思い、どうにかしてやろうと決意した。むろん、カパを吊るしたり、とりこむのを手伝うということではない。もっと根本的な解決を求めた。つまり、太陽の運行をもっと遅くしようとしたのだ。
おそらく、彼はハワイで最初の天文学者だった。島の各地で太陽を観察した。そこで得た結論は、太陽はハレアカラ火山の真上を通るということだった。ヨシュア*と違って、彼は神に助けを求めなかった。大量のココナッツを集め、繊維を編んで丈夫なヒモを作り、現代のハレアカラのカウボーイがするように一方の端に輪をこしらえた。それから太陽の家に登り、寝ながら待った。太陽が顔を出し、いつもの道を一気に駆け抜けようとするとき、この勇敢な若者は太陽から出ている最も強く最も幅広い光束に投げ縄をかけた。
* ヨシュア: 旧約聖書のヨシュア記で知られるユダヤ人の指導者。
太陽の速度はいくぶんか遅くなり、太陽の光束はちぎれて短くなった。それでも彼はロープを投げては光束をちぎりとり続けたので、とうとう太陽がこらえきれず、なぜそんなことをするのかと問うた。マウイは講和の条件を示した。太陽はそれを受け入れ、以後、もっとゆっくり運行することに同意した。
というわけで、ヒナはカパ布を乾かすのに十分な時間を確保できるようになったが、これが今の方が当時より昼間の時間が長くなっている理由なのだ。この言い伝えは現代の天文学の教えとも一致している。
かつて島で放牧されていた牛を夜間に囲っておくために使われていた石囲いの中で ビーフジャーキーとかためのポイで昼食をとった。
半マイルほどクレーターの縁を迂回(うかい)してから、火口の中へと降りていく。火口底は二千五百フィート(約七百五十メートル)下にあり、そこに向かう急な斜面に火山灰が降り積もっていた。馬は足をすべらせそうになったり、ずり落ちそうになったりもしたが、足どりはしっかりしている。黒っぽい火山灰の表面が馬のひずめで踏み割られると、黄土色の酸性の粉塵がはげしく舞い上がって雲のようになった。運よく見つけた風穴の入口まで、平坦なところはギャロップで駆けていく。火山灰の雲に包まれながらも降下は続いた。噴石丘のある一帯では灰が風に舞った。噴石丘はレンガ色をしている。古いものはバラ色だったり、紫色がかった黒だったりした。荒れた海の大波のような無数の溶岩流をこえ、くねくねと曲がった道を進んでいく。
いつしか火口壁が頭上はるかに高くそそりたっていた。溶岩流はかちかちに固まっている。荒海の波のようにノコギリの歯状になっていて、えらく難儀した。どちらの側にもぎざぎさした壁や噴気孔があり、すばらしい景観を形成している。
ぼくらがたどっている踏み跡は昔できた底なしの穴に向かっているのだが、一番新しい溶岩流がそれに沿って七マイルも続いていた。
クレーターの一番低い端にある、オラーパとコーリアの木が茂る小さな林でキャンプをした。千五百フィート(約五百メートル)もの垂直に切り立った火口壁の根元で、クレーターの縁から少し離れたところだ。ここには馬が食べる牧草はあるのだが、水はなかった。それで、ぼくらはまず道からそれて溶岩流を一マイルほども横切り、水の存在が知られているクレーターの壁のくぼみのところまで行った。が、水たまりはカラだった。そこであきらめず、岩の割れ目を五十フィート(約十五メートル)ほども登ると、ドラム缶八本分ほどの水たまりが見つかった。手桶でくみ出す。この貴重な水は岩を伝って下の水たまりに滴り落ちている。そこに馬が集まってくる。カウボーイたちはそれを追い返すので忙しかった。というのも、狭くて一度に一頭しか飲めないからだ。
それから壁の根元ぞいにキャンプ地まで戻った。野生のヤギの群れが集まってくる。騒々しい。テントを立て、ライフルをぶっぱなした。食事のメニューはビーフジャーキーとポイに子ヤギの焼き肉だ。
火口の上空、ぼくらの真上に、ウキウキウに吹き流されてきた雲海が広がっていた。この雲の海はたえず頂上にさしかかり、それを乗りこえて進もうとしている。だが、月はずっと見えていて、雲に隠されることはなかった。というのも、火口の上空にさしかかった雲は、火口からの熱で消えてしまうからだ。月あかりの下でのたき火に魅せられたのか、クレーターに住み着いている牛がぼくらをのぞきにくる。下草にたまった露くらいしかなくて、水はほとんど飲んでいないはずなのに、よく肥えていた。テントのおかげで、夜露をしのげる寝室が確保できた。疲れを知らないカウボーイたちが歌うフラの歌を聞きながら、眠りについた。連中にはたしかに勇敢な先祖のマウイの血が脈々と流れている。
太陽の家をカメラで再現することはできない。撮影した写真が嘘をつくわけではないが、すべての真実を語っているわけでもないからだ。コオラウ・ギャップと呼ばれる割れ目があって、それは網膜に映ったとおり忠実に再現されているものの、写真ではどうしても、あの圧倒的なスケール感が伝わってこない。こうした壁は写真では高さ数百フィートにしか見えないが、実際は数千フィートもあるのだ。そしてそこから侵入してくるクサビ状になった雲は、割れ目の幅いっぱいに一マイル半も広がっている。しかも、この割れ目の向こうには本物の海があるのだ。噴石丘の表面や火山灰の外見は形が崩れて色もないように見えるが、実際は赤レンガ色、赤褐色、バラ色と色彩も変化に富んでいる。言葉ではうまく表現できない。もどかしい。火口壁は二千フィートもの高さがあると言葉で表現すれば、ちょうど二千フィートの高さということになるが、こうした火口壁には、単なる統計上の数字をこえた、圧倒的な量感がある。
太陽は九千三百万マイル離れたかなたにある。が、われわれのようにいずれ死んでしまうちっぽけな存在にとっては、実感では、隣の郡の方が太陽などより遠くにある気がする。こうした人間の脳の弱点は太陽に対しては極端になるが、太陽の家に対しても同様だ。ハレアカラ火山を何か別の代替品を用いて伝えることはできない。美や驚異という、人の魂に向けてのメッセージがここから発せられているからだ。コーリコリはカフルイから六時間のところにある。カフルイはホノルルから一晩船に揺られれば行ける。ホノルルは読者諸君がいるサンフランシスコからほんの六日のところにある。
ぼくらは火口壁を登り、ちょっと無理かなと思われるところまで馬を乗り入れた。岩を落下させたり、野生のヤギを撃ったりした。ぼくはヤギは狙わなかった。しょっちゅう岩を落下させていたからだ。
ある場所のことは今でも忘れない。そこでは、馬ほどの大きさの岩を落下させてしまった。ぐらぐらしていて簡単に転がりだしたが、途中でとまりかけた。と、その岩は二百フィート(約六十メートル)も宙を舞った。火山礫の斜面にぶつかり、くだけたり割れたりしながら小さくなっていく。驚いたジャック・ラビットが猛ダッシュで黄色の砂塵をまきあげながら逃げていっていた。だれかが「岩がとまったぞ」と言ったのだが、割れて小さくなっただけだった。つまり、岩は転がりながら割れていき、上からは見えないほど小さくなってしまったのだ。それほど遠くまで転がって行ってしまったというわけだ。とはいえ、まだ転がっているのが見えると言う者もいる──ぼくだ。あの岩はいまもまだ転がりつづけていると、ぼくは信じている。
クレーターですごした最後の日、ウキウキウが強くなった。ナウルを押し返し、太陽の家を雲でおおいつくしたので、ぼくらも雲に飲みこまれてしまった。
ぼくらの雨量計は、テントの小さな穴の下に置いた半リットルほどの容量のカップだ。この嵐の夜に雨水でカップが一杯になり、毛布の上にまでこぼれてきたので、それ以上は降雨量を測定できなかった。雨量計は使えなくなったし、もうここにとどまっている理由もない、というわけで、ぼくらは夜明けの湿っぽい薄暗がりのなかでキャンプを撤収し、溶岩が流れた跡をたどって、東にあるカウポ・ギャップへと向かった。火口縁にできた巨大な割れ目から雲がわいているところだ。
東マウイは、はるかな昔、カウポ・ギャップを流れて落ちていった膨大な溶岩流そのものでできていた。この溶岩流の上を進んだのだが、海抜六千五百フィート(約二千メートル)の高地から、あるかないかの道をたどりながら、ゆっくり降りていく。これは馬にとっても一日仕事だった。危険な場所なので、安全を確保するため、急がず、あわてず歩を進める。そうやって平坦地に出ると、馬がいきなり駆けだした。道がまた悪くなって駆けられなくなるまで、馬をとめようとしても無駄だった。いつとまるのかは、馬自身が判断した。馬たちはそうやって来る日も来る日もきつい労働をしてきたのだ。ぼくらが眠っている夜に草を探して食べてもいた。
そうやって苦労しながら、その日は二十八マイルも進み、仔馬の群れのようにハナに駆けこんだ。ハレアカラ火山の風下側の乾いた土地で育った馬が何頭かいて、蹄鉄(ていてつ)をつけたことのない馬も含まれていた。その馬は一日ずっと蹄鉄をつけず、背中には人間という余計な重量物を乗せて、ぎざぎざした溶岩の上を進んだのだったが、その馬のひづめは蹄鉄をつけた馬のひづめよりも状態がよかった。
カウポ・ギャップと呼ばれる山塊の割れ目が海に落ちこんでいるヴィエイラスとハナとの間を通過するのに半日かかった。
が、そこで見た景色は、一週間、いや一カ月かける価値があるほどすばらしかった。荒々しくも美しい。
とはいえ、ハナとホノマヌ渓谷の間にあるゴム園の向こうに広がっている不思議な世界に比べれば、色は淡く、規模も小さかった。
そのすばらしい土地はハレアカラ火山の風上側にあるのだが、そこを踏破するのに二日もかかった。地元の人々は「ディッチ・カントリー(水路の国)」と呼んでいる。あまり魅力的な名前とは言えないが、その呼び方しかないのだ。観光でここまで来た人はだれもいないし、ぼくら以外にそれについて知っているよそ者もいない。仕事でやってくる一握りの男たちを別にすれば、だれもマウイのこのディッチ・カントリーのことは聞いたことがない。
とはいえ、水路は水路であるし、泥だらけだし、ここを横切るのは面白くもなく、景色も単調だろうと思われるのだが、どうしてどうして、このナヒク・ディッチはそんじょそこらの用水路とは違うのだ。
ハレアカラ火山の風上側は切り立った断崖になっていて、そうした断崖から無数の水流が奔流となって海まで流れ落ちている。海までの間に大小無数の滝ができている。ここの降水量は世界のどこよりも多く、一九〇四年の降水量は四百二十インチ(約一万ミリ)だった。水はサトウキビの栽培に不可欠だが、サトウキビ栽培で得られる砂糖がハワイの屋台骨を支えているのだ。ナヒク・ディッチと呼ばれる水路は、単なる一本の用水路ではなく、網状の水路になっていた。水は地下を流れ、山峡を飛びこえるときだけ出現する。目もくらむような峡谷の上空高く放出されて対岸の山肌に飛びこんでいく。このすばらしい水路が「ディッチ」と呼ばれているのだが、これはクレオパトラの金色に輝く豪華船を貨車と呼ぶようなもので、その真の魅力を示してはいない。
この水路の国では、馬車が通れるような道はない。ディッチが造られる前、あるいは掘削される前には、馬が通れる道すらなかった。肥沃な土壌にふりそそぐ年間何百インチもの降水と熱帯の日差しを受けて、植物が流れに沿って生い茂るジャングルを作り出しているのだ。徒歩でここを切り開きながら進むとすれば一日に一マイルくらいは進めるだろうが、一週間もすれば疲労困憊してしまう。自分が切り開いてきた道が植物に覆い隠されてしまう前に戻りたいと思えば、はってでも戻らなければならないだろう。オーショネッシーはこのジャングルと渓谷を征服した勇気ある技師だった。彼がこの水路と馬の通れる道を造ってくれたのだ。コンクリートと石で、世界的にも注目に値する灌水施設を造り上げた。小川や水の流れるところから地下水路で水が主水路まで運ばれてくる。降水量が非常に多いとき、余分な水は無数の放水路から海へと流れこんでいく。
馬の通れる道といっても、それほど広いわけではない。
これを造った技師のように、道そのものが何にでも果敢に挑んでいる。ディッチ(水路)は山塊を突き抜け、乗りこえ、峡谷を飛びこえたりしている。馬の道──これからはトレイルと呼ぶ──も、この水路をうまく利用していて、その上を横切ったりしている。この無造作に作られたトレイルは、平気で断崖を上り下りしているし、壁を掘削してできた狭い通路を抜けると、轟音をたてて白い水煙とともに落下している滝の裏側や滝の下に出たりする。頭上は数百フィートもの切り立たった断崖で、足元はと見れば千フィートもの深い谷になっていたりするのだ。ぼくらが乗っているすばらしい馬たちも、トレイルと同様に、そんなことにはおかまいなしだ。足元は雨ですべりやすくなっているのだが、馬の自由にさせておくと、当然のように後ろ足をすべらせたりしながらも駆けていこうとする。
このナヒク・ディッチのトレイルについては、豪胆かつ沈着冷静な人にしか勧められない。同行しているカウボーイの一人は、ぼくらが宿泊した牧場では一番の勇者だと思われていた。生まれてからずっと、このハレアカラ火山のけわしい西斜面で馬に乗ってすごしてきたのだ。その彼がまず馬をとめた。他の者も当然のことながら前進をやめた。
というのも、彼は牛小屋に野生の雄牛が迷いこんでいたら、平気でそれに立ち向かうような勇猛果敢な男だったからだ。彼にはそういう評判があった。
とはいえ、彼はそれまで、このナヒク・ディッチに馬を乗り入れたことがなかった。そうして、彼の名声はここで失われた。髪の毛が逆立つような最初の水路で、それに沿った道は細くて手すりもなかった。頭上で滝が轟音をたてているし、真下には別の滝があって、奔流が何段にもなって落ちている。一帯に水しぶきが舞い上がり、轟音が振動とともに伝わってくる──というようなところで、この勇者たるカウボーイは馬から降り、おれには女房も子供もいると言い訳しつつ、馬を引きながら歩いて渡ったのだ。
水路が地下深くもぐっているところはともかく、峡谷で唯一救いになるのは断崖があること、そして断崖で唯一救いになるのは峡谷にあるということだ。ぼくらは一度に一頭ずつ、もろくて流されてしまいそうな、左右に揺れる原始的な丸木橋を渡った。白状すると、ぼくははじめてそういう場所に馬で乗り入れるとき、最初のうちはあぶみから足を浮かせていた。垂直な断崖にあぶみが接触しそうになると、意識して足を谷側に寄せ、今度はその足が千フィートも落ちこんでいる谷につき出ているのを見てしまうと山側に寄せたりしていた。「最初のうちは」と断ったが、すぐになれてきた。クレーターの中ですぐに大きさの感覚が麻痺してしまったように、ナヒク・ディッチでも同じことが起きた。
そのうち、ぼくらは深い谷についても心配しなくなった。とほうもない高さと深さが延々と繰り返されているところでは、そういう高さも深さも普通に存在するものとして受け入れるようになった。そうして、馬上から切り立った崖下を見たとき、四、五百フィートだと普通だなと思うし、スリルがあるとも感じなくなってしまうのだ。トレイルにも馬にも無頓着になったぼくらは、目もくらむような高いところを通ったり、落ちこんでいる滝を迂回(うかい)したり突き抜けたりして進んでいった。
とはいえ、なんという乗馬体験だろうか!
いたるところで、水がふりそそいでくる。ぼくらは雲の上や雲の下を、さらには雲の中を馬に乗ってつき進んだ。ときどき日が差し、眼下に口を開けた峡谷や火口縁の高さ何千フィートもある鋒が照らしだされたりした。道を曲がるたびに、一つの滝、あるいは一ダースもの滝が空中に何百フィートも弧を描いて流れ落ちている光景が目に飛びこんでくる。キーナ渓谷で最初の宿営をしたのだが、そこから見えるだけで滝の数は三十二もあった。この荒野では、植物も繁茂していた。コアとコレアの森があったし、キャンドルナッツの木もあった。オヒアアイと呼ばれる木もあった。これは赤いマウンテンアップルの実をつけていた。豊潤で果汁が多く、食べるとうまかった。野生のバナナもいたるところで育っていて、峡谷の両側にしがみついている。トレイルのいたるところで、熟した果実の大きな房が落ちて道をふさいでいた。
森の向こうには樹海が広がっている。
多種多様なつる性植物が、あるものは一番上の枝から茎を軽やかに宙に伸ばし、あるものは巨大なヘビのように木々にまきついていた。エイエイと呼ばれるツル性植物はとにかく何にでも登っていき、太い茎を揺らして枝から枝へ、木から木へと伸びていっては、自分が巻きつくことで当の木々を支えているといった格好だった。樹海を見あげると、頭上はるかに木生シダが群葉を広げ、レフアの木が誇らしげに赤い花を咲かせている。ツル性植物の下では、数は少ないが、米国本土では温室でしかお目にかかれないような珍しい暖色系の奇妙な模様をした植物が育っていた。
つまり、マウイ島のディッチ・カントリー自体が巨大な温室のようなものなのだ。
なじみのある多種多様なシダ類が繁茂し、小さなクジャクシダのようなアジアンタム属のシダ類から、もっと大きくて繁殖力旺盛なビカクシダなど、あまりなじみのないものまで、さまざまな種が入り乱れていた。このビカクシダは林業作業者にとっては厄介きわまりなくて、さまざまにからみあっては巨大化し、五、六フィートの厚さで数エーカーもの広さをおおいつくしてしまう。
二度とできないような体験だった。
これが二日続き、やっとジャングルを抜けて普通の起伏のある土地に出た。実際に荷馬車が通った道をたどり、ギャロップで駆けて牧場まで帰り着いた。こんなにも長くて厳しい旅の最後に馬を駆けさせるのは残酷だとわかっていたが、抑えようと必死にたずなをしめても無駄だった。ここハレアカラで育った馬は、そういうものなのだ。
牧場では、牛追いが行われ、焼き印をつけたり、馬を調教したりする楽しい行事があった。頭上ではウキウキウとナウルが激しくせめぎあい、そのまたはるか上方には、陽光をあびた壮大なハレアカラ火山の頂上がそびえていた。
サンドイッチ諸島(ハワイ諸島の旧称)からタヒチへ──貿易風にさからうことなるこの航海は過酷だ。捕鯨船の者たちは、サンドイッチ諸島からタヒチへ向かうというコース選定には懐疑的である。ブルース船長は、目的地に向かう前に、まず風が吹き出しているところまで北よりに進むべきだと述べている。船長が一八三七年十一月に航海したときには、南下していっても赤道付近で風が変化することはなく、なんとか東に向かおうとしたが、どうしてもできなかったという。
南太平洋を帆走で周航するコースの選定については、誰もがこう言うし、それが定説になっている。疲労しているであろう航海者にとって、この長い航海でこれほど役立つ助言はない。
ハワイから、タヒチよりさらに八百海里ほど北東にあるマルケサス諸島までの航海についても同じことが言えるが、条件はさらに悪くなる。
そういうコース選定が推奨されない理由として、ぼくは風上に向かう航海が続くと船も人も疲弊(ひへい)してしまうからだと思っているが、これは本当に大変なことなのだ。
だが、無理だと言われて尻尾を巻くようなスナーク号ではない。というより、ぼくらは出発するまで、帆走でのコース選定についての指南書をほとんど読んだことがなかった。
十月七日にハワイのヒロを出帆し、十二月六日にマルケサス諸島のヌク・ヒバ島に着いた。カラスが飛ぶように一直線に行ければ二千海里の距離だが、実際には到着までに四千海里以上を走破するはめになった。二点間の最短距離が直線とは限らないということが、今回も証明されたわけだ。まっすぐマルケサス諸島を目指していたら、ずっと風上航が続くのでジグザグに進むしかなくて五、六千海里も帆走することになっていたかもしれない。
ぼくらが決意していたことが一つあった。
それは、西経百三十度より西で赤道をこえるようなことは決してしない、ということだ。
その地点より西で赤道をこえると、南東貿易風のためにマルケサス諸島の風下側に流されてしまう。どんなに頑張っても、そこから風上にのぼっていくのはむずかしい。また、赤道海流もあなどれない。場所によっては、一日に十二海里から七十五海里もの速さで西に流れている。いったん目的地の風下に流されてしまえば、この海流が牙をむいてくる。にっちもさっちもいかなくなってしまう。だから、西経百三十度より西で赤道をこえるわけにはいかないのだ。
とはいえ、南東貿易風は赤道の五、六度北あたりからあるとも予測されているので、つまり、そのあたりで南東か南南東の風が吹いているとすれば、ぼくらは南南西に向かわざるをえなくなるので、赤道の北側ですでに南東貿易風が吹いているとすれば、少なくとも西経百二十八度に達するまでは東に向かう必要があるのだ。
ぼくは、七十馬力のガソリンエンジンが「例によって動かない」と説明するのを忘れていた。だから、風に頼るしかない。進水時もこのエンジンは動かなかった。
ここでエンジンの話をしておくと、照明や扇風機、ポンプを動かすはずだった五馬力のエンジンも故障していた。ぼくの脳裏には、魅力的な本のタイトルがちらついている。いつかそれにまつわる本を書き、タイトルは『三台のガソリンエンジンと妻一人との世界一周』にする。とはいえ、そんな本を書くことはないだろうとは思う。というのは、スナーク号のエンジンで骨を折ってくれたサンフランシスコやホノルル、ヒロの若い紳士諸君の気分を害するおそれがあるからね。
航海計画は、机上のプランとしては簡単そうだ。
現在、ぼくらはハワイのヒロにいて、目的地は西経百二十八度だ。北東貿易風が吹いているため、最初のうちは二点間を結ぶ直線を進むことができるだろうし、強いて風上ぎりぎりに船をのぼらせることもあるまい。しかし、貿易風で大きな問題の一つは、その風がどこから吹きはじめ、どの方向に吹いているのかがわからない、ということだ*。ぼくらはヒロの港を出てすぐに北東貿易風をつかまえたが、この風は頼りなくてすぐに東よりになってしまった。おまけに、大河のように西に向かって力強く流れている北赤道海流がある。小さな船で逆風と逆波を乗りこえて風上に進もうとしたところで、いくらも進めない。
* 海流や貿易風は、強さ/速さや位置を含めて、ほぼ安定しているが、常に同じというわけではなく、局地的にみると変動している。
赤道付近では北側で北東貿易風、南側で南東貿易風が卓越し、それにはさまれたところは両者が収束するように見えるところから熱帯収束帯(低圧帯)とされ、一般に風が弱く、赤道無風帯(ドルドラム)としてヨット航海記にもよく出てくる。季節によって太陽の位置が変わると、この収束帯も南北に移動する。
帆をすべてピンと張りつめた。船は風下側に傾き、波にたたきつけられ、波しぶきをあげながらも、何とか進もうとする。波をこえるたびにそれを繰り返す。船が進みはじめたと思っても、すぐに山のような波におそわれて止まってしまう。
スナーク号は小さいので、貿易風や強力な北赤道海流に逆らって東進しようとしても、どうしても南よりにしか進めない。真南に向かうことだけは避けたが、日ごとに東に進める距離が減ってくる。
十月十一日は東に四十海里進んだが、十月十二日は十五海里になり、十三日はゼロだった。帆走してはいるのだが、経度上は東にはまったく進めていない。
十月十四日、三十海里*、十月十五日、二十三海里。十月十六日、十一海里。十月十七日になると西の方向に四海里押し戻される。
こういった調子で、一週間に百十五海里だけ東に進めた。平均すると一日に十六海里になる。ヒロから西経百二十八度までは経度で二十七度、距離に換算すると約千六百海里もある。一日に十六海里のペースだと、この距離を走破するのに百日かかってしまう。しかも、ぼくらの目的としている西経百二十八度は、北緯五度での話だ。マルケサス諸島のヌクヒバ島は南緯九度で、そこからさらに十二度も西にあるのだ!
「ばっかじゃねえの」という人もいるかもしれないが、そもそも人間とは、ばかなこと、むだなことをする生き物なのだ。
すべきことは一つだけ──北東貿易風の南側に抜けて、変向風のところまでいく。それだけだ。
ブルース船長がこの海域で風が変化する場所を見つけられなかったのも、「右舷から風を受けても左舷から風を受けても東には行けなかった」のは本当だ。一定方向の風しか吹かない貿易風帯のようなところではなく、風向が変わりやすいエリアに遭遇できるか否か──ぼくらはブルース船長より運に恵まれるよう祈った。
変向風は貿易風と赤道無風帯の間にあるとされる。
が、赤道無風帯で温められて上昇する大気の動きに影響される。高層では貿易風と反対方向に流れていて、それが海面まで降りてくると、変向風として認識されるわけだ。この風は貿易風と赤道無風帯の間にくさび状に入りこんでいて、その風の吹くエリアでは、日によっても季節によっても風向が変化する。
ぼくらはこの変向風を北緯十一度で見つけ、北緯十一度から離れないよう慎重に進んだ。それより南は赤道無風帯になっている。これより北には北東貿易風がある。
来る日も来る日もスナーク号はずっと北緯十一度のラインと平行に進んだ。変向風が観察されるエリアでは、本当に風が変化した。真向いから軽風が吹いてくると思っていたら、風がなくなり、凪(なぎ)の海で丸二日も漂ったりした。そうしているうちに、また真正面から風が吹いてきて、それが三時間も続くと、また丸二日間は無風になる、といった調子だ。そうして──ついに、西から風が吹き出した。強い。かなり強く、スナーク号はしぶきをあげて飛ぶように走り、後方には長い航跡が一直線にのびていった。
風下帆走用の巨大なスピンネーカーを揚げる準備をしていると、半時間もしないうちに、風は息切れし、消えてしまった。またも無風だ。ぼくらは五分もいい風が吹くと、そのつど楽観的になるのだが、すべて裏切られた。どの風も同じように消えてしまうのだ。
だが、例外もあった。
定常的な風が吹かない場所でずっと待っていると、何かが起きるのだ。ぼくらは食糧も水もたっぷり積んでいたので、じっくり待つことができた。
十月二十六日には実際に東に百三海里も進めたのだが、それについては後で何日も議論をした。ぼくらは南からの強風をつかまえた。その風は八時間吹き続けてくれたので、その日の二十四時間で東に七十一海里も進むことができた。風がなくなったと思ったら、今度は真逆の北の方向から吹いてきて、さらに東に進むことができた。
長い間、このコースを選択する帆船はいなかった。そのため、太平洋のこの地域では、ぼくら以外の船には出会わなかった。ぼくらは六十日間もこのコースを帆走したのだが、水平線上に他の帆影や蒸気船の煙は見なかった。この見捨てられた世界では、動けなくなった船がどれほど長く漂流していても、救助の手がさしのべられることはないだろう。救助の手がのびてくる唯一の機会があるとすれば、それはスナーク号のような船からだろう。ぼくらは水路誌をろくに読みもしないでコースを決めていたので、こんな行き当たりばったりの船と偶然に遭遇するようなことでもなければ出会うチャンスはあるまい。
人が甲板に立って水平線を眺めたとすれば、見える範囲は自分の目から水平線まで、直線距離にして三海里半になる。
つまり、自分を中心にして直径七海里の円の範囲の海である。ぼくらはその円の中心にいて、たえずある方向に移動しているため、そのつど新しく円形の海面を見渡していることになるのだが、すべての円で風景は同じように見えた。樹木の生い茂った小島もなければ、灰色の岬が見えてくることもなかった。はてしなく広がる丸い水平線の向こうに陽光をあびて光っている白い帆も見えなかった。この広大な円の縁から雲がわき出ては、上昇し、流れ、通りすぎ、反対側の縁の下に消えてくばかりだ。
【帆船の航海記を読むときのヒント】
* 地球はほぼ球体なので六〇進法(度・分・秒)と相性がよく、距離の一海里(一八五二m)は六〇のほぼ倍数(一八〇〇)とみなせるので、船上での計算では、キロメートルより海里の方が直感的にわかりやすい(船酔い気味の頭でも「比較的」楽に計算できる)。
覚えておくと便利なのは、
経度一五度 = 時差一時間
赤道での経度一度の距離 = 六〇海里
速度一ノット = 一時間に一海里進む(= 時速一・八キロ)
風速(時速)一ノット = 風速(毎秒)〇・五メートル
また、ノットで表示された速度をキロメートルに直すには、
二倍して一割を引く。
一〇ノット = 時速一八キロメートル
** 風と海流は、ヨットや帆船による外洋航海に大きく影響する。
日本でヨットといえば『大平洋独りぼっち』の堀江謙一氏の「大阪からサンフランシスコに向かう太平洋横断」が頭に浮かぶ。
とはいえ、日本からアメリカへ行くよりも、逆にアメリカから日本に来る方がずっと早いし楽だとされている。
というのは、北米大陸西岸の港を出てから南下し、ほぼ東から西に吹いている北東貿易風帯に入ってしまえば、風速七、八メートル~十メートルの安定した追い風で日本近海まで来ることができるからだ。
おまけに北赤道海流も東から西に流れているので(台風や嵐に遭遇した場合は別として)、ある意味、動く歩道に乗っているようなものである。
逆に、日本から米大陸へ向かう場合、風向や風速にむらがあり、なかなか安定した風にめぐまれず、黒潮を利用して距離を稼いでも、そのままだと北上しすぎて低気圧の墓場といわれる北太平洋まで持っていかれかねない……
ヨットは、原則として、風下方向には自由にコースを選んで帆走できるが、風の吹いてくる方向(風上)にはダイレクトに進むことができないため、ジグザグにタッキングしながら(帆船風にいうと「間切り」ながら)進むことになる。その角度は一般的なヨットで四十五度前後とされている(ヨットによって、またその時の海況によって差がある)。
いまどきのレース艇は三十度くらいまでは上れるようだが、それにつれて速度が落ちてくるため、スピードと角度のどちらを優先するかもまた悩ましい問題になる。
この四五度という角度でジグザグに帆走したとすれば、中学の数学で習う三平方の定理を使った計算により、帆走距離は約一・四倍(ひとよひとよに ひとみごろ)になる──というように、セーリングにはベクトルや三角比の初歩的な計算がついてまわる。
とはいえ、スナーク号は船型や艤装から推測すると、風上への上り性能はせいぜい五十度くらいだろうから、本文にもあるように、貿易風にさからって東に向かうのは簡単ではない。
にもかかわらず、貿易風の風下にある島へと目的地を変更せず、意固地に東へ東へと向かうところがジャック・ロンドンらしいといえばいえる。
*** 海の真ん中では見渡す限り、三六〇度すべて水平線が広がっている。その水平線までの距離は、目標物の標高と観察者の目の高さによって変わってくる。
その距離は「光達距離」として示される。
灯台の設計で光がどこまで届くかは重要な問題で、理想的な条件下で光が見える距離を「光学的光達距離」という。
現実には、眼高(海面から観察者の目までの高さ)と灯高(海面から灯台のライトまでの高さ)で簡易的に計算できる地理的光達距離が用いられる。
眼高(h 単位:メートル)と灯高(H 単位:メートル)の平方根の和に、係数2・083をかけると地理的光達距離が計算できる(出てきた数値の単位は「海里」)。
水平線を高さゼロ(H=0)とし、スナーク号から見える範囲が本文のとおり直径七海里として、この式から逆算すると、スナーク号での眼高は約二・八mになる。
海面からヨットの甲板まで一m、測定者の身長を一・八mくらいと仮定すれば、ジャック・ロンドンの計算はほぼ正確だとわかる。つまり、文系の作家があてずっぽうに書いているのではなく、ちゃんと航海法を勉強したということがわかる。
この計算式を応用すれば、海をわたって目指す島のてっぺんが見えたときに、その島までの距離が計算できることになる。
島の最高峰の標高が千メートルで、眼高がスナーク号と同じだとすれば、その島までの距離が六十七海里になったときに島のてっぺんが見えはじめる。
長距離の航海記でよくある「島が見えたぞ」という感動的な陸地初認(ランドホー)は、毎日天測で位置をだしている航海士や船長には、少なくとも前日に天測により現在位置を割り出した時点で、いまの針路と速度を維持すれば翌日の何時ごろに島が見えてくるか、ほぼ正確に予測できる。
帆船による大航海時代には、これを神がかり的な「魔法」として演出したがる航海士も多かったらしい。
何週間もたつうちに、世界は色あせていった。
ついには、七人の魂を乗せて広大な海面を漂っているスナーク号という小さな世界以外の他の世界の意味が薄れていった。世界についてのぼくらの記憶、あの偉大な世界は、ぼくらがスナーク号の船上で誕生する前に生きていた以前の生命体としてみた夢のようなものになった。
新鮮な果物がなくなった後、ぼくらは父親が自分の少年時代の消えたリンゴについて話すのを聞いたように、あの世界のことを話したりした。人間は習慣の生き物であり、スナーク号船上のぼくらはスナーク号という習慣に慣れていった。当然のことながら、船と船上生活すべてが重大なものとなり、それが乱されるといらいらし、攻撃的になったりした。
あの偉大な世界が復活してくる気配はなかった。時計は時間を告げるが、訪問者はなかった。食事のゲストも来ない。電報もなければ、耳ざわりな電話が私生活に割りこんでくることもなかった。ぼくらには守るべき約束はなく、乗るべき汽車もなく、朝刊もなかった。そのため、自分以外の五十億もの人間に起きている出来事を知ろうとして時間を無駄にすることもなかった。
とはいえ、退屈していたわけではない。ぼくらのささやかな世界の出来事は規律に従ったものでなければならなかったし、あの陸上の世界とは違って、ぼくら船上の世界はそれ自体が大洋という広大な空間を旅していかねばならない。混乱しとまどうような出来事もあったが、この巨大な地球そのものに影響するほどの摩擦はなく、無風の空間を進んでいった。ときには、次に何が起きるのかわからないこともあった。刺激も変化も十二分にあった。いまは午前四時だ。これから、ぼくは舵を握っているハーマンに交代だと告げにいく。
「東北東」と、ハーマンはぼくに針路を伝達した。「方向は八ポイントずれてるんだが、舵がきかないんだ」
小さな驚き。こんな無風状態で舵のきく船など存在しない。
「ちょっと前まで風があったんだ──たぶん、また吹いてくるだろう」と、ハーマンは希望的観測を述べて、寝床のある船室に向かった。
ミズンセイルを引き下げて、しっかりたたんでおく。
夜になると、風がなくなり、うねりだけが残っていた。索具がマストに当たる嫌な音もしなくなり、空気を震わせる不気味な音もしなくなった。大きなメインセイルはまだ張ったままだ。ステイスルやジブ、フライングジブも展開している。船がうねりでゆれるたびに、シートがムチのようにしなって音をたてた。満天の星だった。ぼくは幸運を祈って、ハーマンとは反対の方向に舵をいっぱいに切り、背中をもたれかけて星を見上げた。他に何もすることがない。広漠とした凪(なぎ)の海で揺れているだけの帆船の上では、風が吹かなければ何もすることがない。
それから、ほほにかすかな風を感じた。が、ほんとにかすかで、すぐに消えてしまった。さらに次の風を感じた。さらにその次の風が感じられ、ついには本物と思える風が吹き出した。
スナーク号の帆がどれほどその風を感じたのかはわからないが、それを感じたのは間違いなくて、なんとか船が動き出した。というのも、羅針盤の針がゆっくり回転したからだ。実際には、針が回転しているわけではない。羅針盤の針はアルコールで密閉された容器の中に浮かんだデリケートな装置で、地球の磁力にとらえられて動かないため、向きを変えたのはスナーク号の方だ。
というわけで、スナーク号は本来の進路に戻った。風の息が大きくなる。スナーク号は風の圧力を感じるようになり、実際に風を受けて少し傾いた。
頭上をちぎれ雲が流れていく。
星が雲に隠れだした。
暗黒の壁のようなものがこっちに接近してきて最後の星が見えなくなってしまうと、この闇は手の届くいたるところにあるように感じられた。闇の方に顔を向けると、かすかに風が感じられる。その風はとぎれることがなくなり、ミズンセイルをたたんでいてよかったと思った。
おっと!
強い突風があった!
スナーク号は風下側の舷が海水をすくうほど傾き、太平洋の水がどっと入りこんできた。突風が四、五回続き、ぼくはジブとフライングジブを下そうかと思った。海は生気に満ち、風はますます強く頻繁になり、空中にしぶきが舞うようになった。こうなると風上に向かおうとしても無理だ。暗黒の壁は腕を伸ばせば届くところにある。ぼくはそれを凝視し、スナーク号にたたきつけてくる風の強さを身体で感じて知ろうとした。
風上には何か不吉な脅威となるものがあり、ぼくは、ずっと長く見つめていればわかるだろうと感じた。
が、無駄な感覚だった。突風がやんだ合間に、ぼくは舵を離れてキャビンのコンパニオンウェイまで走っていき、マッチで灯りをつけて気圧計を確認した。「二九・九〇」を指している。この敏感な計器は索具が低い音を立てている騒ぎに気づいていない。舵のところに戻ったところで、次の突風が吹いてきた。これまでで一番強い風だ。とはいえ、横方向の風なので、スナーク号は進路を保ったまま東進する。悪くはない。
ジブとフライングジブがぼくを悩ませていた。この帆を取りこみたかった。そうすれば風に対処しやすくなるし危険も減らせる。風は音をたて、雨もパラパラと散弾銃のように降ってくる。全員を招集すべきときだと思ったが、次の瞬間には、それをすこし延ばした。おそらく風はこれでやむだろうし、全員を起こしても無駄になりそうだった。それなら今のまま眠らせていた方がいい。ぼくはスナーク号をそのまま走らせ、闇から抜け出そうと、闇とは直角の方向に船首を向けたが、風の音とともに大雨になった。それから例の暗闇を除いて、すべてが平穏になった。全員を起こさなくてよかったと思った。
風がやんだと思ったら波が高くなった。もう白波がたっている。
船はコルクのように持ち上げられては放り投げられた。
そうして、闇の中から、それまでより強い風が吹いてくる。
風上方向の闇の中に何があるのか知っていたらと思う!
スナーク号は嵐に遭遇した。
風下側の舷が海水をすくう。風の音はますます大きく激しくなってくる。
こうなれば寝ている連中を起こすしかない。ようし、総員に招集をかけるぞと決意した。と、雨が激しく振り出し、風が弱まったので、ぼくは招集をかけなかった。
とはいえ、闇の中で風の咆哮(ほうこう)を聞きながら一人ぼっちで舵を握っていると心細くなる。緊迫感が増してくるなかで、仲間たちは眠っているし、すべてはぼく一人の手にゆだねられている。さらに突風か吹きつのるにつれて、海が荒れてくるにつれて、水しぶきがコクピットに飛びこんでくるにつれて、ぼくとしてはそうした責任に尻ごみしたくなる。海水は奇妙に暖かく感じられ、海面は幽霊のようなリン光をすかして見えている。縮帆するために総員招集をかけるべきときなのだろう。
連中をなぜ寝かせておくのか。こんな状況で、ぐっすり眠っているクルーを起こすことに良心の呵責を感じるとは愚かでしかない──ぼくの理性は心にそう異議をとなえる。
心が言う、「あいつらは寝かせておいてやろうや」と。
そうだ。だが、その判断をくつがえすのもぼく自身の理性なのだ。理性がその判断をくつがえす。そうして、その全員をたたき起こす命令を出そうとすると突風がやんでしまう。
現実の航海で、ただ体を休ませたいという配慮がシーマンシップに入りこむ余地はない。ぼくは考えた末にそう結論づけた。
で、次の一連の突風について検討したが、連中を招集するまでのことはないと判断するに至った。結局のところ、スナーク号が吹きつける強風に耐えることができるか否かを判断しつつ、もっと強い風が吹いたときにと、招集を先延ばししているのもぼくの理性なのだった。
日光が灰色と紫がかった雲のベールを通して射しこみ、海面は頻発する激しい豪雨にたたきつけられてフラットになったまま泡立っている。雨が降り風が吹きすさぶ海面のうねりとうねりの谷間を白い水しぶきが満たし、海面はさらに平らになったが、海は前にもまして激しく襲いかかろうと、風と波が収まるのを待っていた。男どもが起きて甲板に出てきた。なかでもハーマンは、ぼくが風をとらえたのを見てニヤッと笑った。ぼくは舵をウォレンに預け、船室に降りかけた。厨房の煙突が波に流されそうになっていて、それをつかまえようと立ち止まった。ぼくは裸足だった。つま先で何にでもしがみつけるようにきたえていた。が、甲板がふいに海水に洗われたため、しがみつくべき手すり自体が水面下になってしまい、ぼくは尻餅をついてしまった。ハーマンは、それを見て、なぜその場所に座ることにしたのかと、妙に落ち着いた口調でたずねた。
すると、次のうねりでやつも不意打ちをくらって尻餅をついた。
スナーク号は大きく傾き、手すりはまた海水をすくった。ハーマンとぼくは貴重な煙突をつかんだまま、風下舷の排水口のところまで流された。それからやっと船室に降りて着替えたのだが、そこで満足の笑みを浮かべた──スナーク号が東進しているのだ。
いや、まったく退屈するなんてことはなかった。
ぼくらは西経百二十六度まで苦労して東進し、そこから変向風に別れを告げ、赤道無風帯を横切って南へと向かった。ここではその名の通りに無風のときが多く、たまに風が吹くと、そのたびにそれを利用して何時間もかけて数マイル進んでは喜んでいた。
とはいえ、そんなある日、一ダースものスコールがあり、それ以上の雨雲にも囲まれた。スコールのたびに、スナーク号は横倒しになりかける。スコールの直撃を受けることもあれば、雨雲の縁がかすめて通過することもあったが、どこでどんな風に襲ってくるか、皆目わからなかった。スコールは雨を伴う突風だが、天の半分をおおってしまうようなスコールが発生し、そこから風が吹き下ろしてくる。が、たぶん、ぼくらのところで二つに分かれたのだろう。その風は船には被害を与えず、両舷に分かれて通り過ぎて行った。そうした一方、何の影響もなさそうな、雨も風もたいしたことがなさそうなやつが、いきなり巨大化して大雨を降らせ、強烈な風で押し倒そうとすることもあった。また、一海里も風下後方にあったやつが、いつのまにか背後から忍び寄ってきていることもあった。
再びスコールが二つに分かれてスナーク号の両側を通りすぎようとしている。手を伸ばせば届きそうなところを、だ。強風には数時間もするとなれてくるが、スコールは違っていた。千回目のスコールでも、はじめてのスコールと同じくらいに興味深い。というより、もっと面白く感じられる。スコールの面白さがわからないうちは素人だ。千回もスコールを経験すると、スコールに敬意を払うようになる。スコールとはどういうものかがわかってくるからだ。
一番どきどきするような出来事が起きたのは赤道無風帯においてだった。
十一月二十日、ぼくらはちょっとした手違いで、残っていた真水の半分を失ってしまった。ハワイのヒロを出発してから四十三日目だったので、残っている水も多くはなかった。その半分を失うというのは破滅的だ。割当量から推して、残りの水で二十日は持つだろう。とはいえ、場所は赤道無風帯である。南東の貿易風がどこにあるのか、どこから吹き出しているのかすらわからない状態だ。
水をくみだすポンプには直ちにカギをかけ、一日に一回だけ割当分の水をくみだすようにした。一人当たり一クォート(一リットル弱)の水を割り当て、料理に八クォート使った。そのときの心理状態をみてみると、最初に水が不足していることがわかるとすぐに、喉のかわきにひどく悩まされるようになった。ぼくについて言えば、人生でこんなに喉のかわきを覚えたことはない。割り当てられたわずかな水は一息で飲んでしまえそうだったし、そうしないようにちびちび飲むには強い意志が必要だった。それはぼくだけじゃない。誰もが水のことを話し、水のことを思い、眠っているときも水のことを夢に見た。窮地を脱するため近くに水を補給できるような島がないか海図を調べた。が、そんな島はなかった。マルケサス諸島が一番近かったが、赤道を超えた向こう側、赤道無風帯を超えた先にあるのだ。そう簡単にはいかない。
ぼくらは北緯三度にいた。マルケサス諸島は南緯九度、経度で十四度も西にある。距離にして一千海里を超えるのだ。熱帯で風がなく、うだるように暑い大海原で苦境に陥っている一握りの生物、それがぼくらだった。
ぼくらはメインとミズン二本のマストの間にロープを渡し、雨が降ったら前方に雨水を集められるように、大きな天幕を、後ろを高くして張った。海上ではあちこちでスコールが通り過ぎていった。ぼくらは、このスコールの動向を一日中ずっと、右舷も左舷も前方も後方も見張った。しかし、近づいて雨を降らしてくれるスコールはなかった。
午後になり、大きなスコールがやって来た。海一面に広がり、接近してくる。ものすごい量の雨水が海水に流れこんでいるのが見えた。ぼくらは天幕に注目してずっと待った。ウォレン、マーチン、ハーマンは生気を取り戻している。連中は一団となって索具を持ち、うねりにリズムを合わせながら、スコールを見つめた。
緊張と不安、そして切望の念が全身から感じられた。
彼らの脇には乾いた空っぽの天幕があった。
だが、スコールは無慈悲にも半分に割れ、一方はスナーク号の前方を他方は後方を風下へと去っていき、彼らの動きはまた気の抜けたものになった。
とはいえ、その夜、雨が降った。
水が少ないと思うとかえって喉の渇きを強く感じるものだが、自分の割当分の水をすぐに飲んでしまっていたマーチンは、天幕の下縁に陣取って大口をあけ、これまで見たことがない勢いで雨水をがぶ飲みした。貴重な水がバケツや桶を満たし、二時間もすると、百二十ガロンもの水が蓄えられた。奇妙なことに、それからマスケサス諸島までの航海ではずっと降雨はなかった。あのスコールがなかったらポンプは施錠したままで、残っているガソリンを燃やして蒸留水を作るしかなかっただろう。
魚も釣った。魚を探す必要はなかった。船の周囲にいくらでもいたからだ。三インチの鋼の釣り針を頑丈なロープの端に結び、白い布きれを餌代わりにつけておくと、それだけで十ポンドから二十五ポンドの重さのカツオが釣れた。カツオはトビウオを餌にしていて、うまそうに見える布きれに針がついているとは思いもしないのだろう。引きも強烈で、針にかかると、釣った本人があっけにとられるくらいの勢いで走りだす。おまけに、カツオは獰猛(どうもう)な肉食系の魚らしく、一匹がかかった瞬間、仲間のカツオがそいつに襲いかかるのだ。船上に吊り上げられたカツオには茶碗ほどの大きさの食いちぎられた跡があったことも一度や二度ではなかった。
何千匹ものカツオの群れが、昼夜を問わず、三週間以上も船についてきた。スナーク号のおかげで、すばらしい漁を堪能できた。やつらは海上を半海里ほどの幅になって千五百海里もの距離を帯状についてきた。
カツオはスナーク号の両舷に並行して泳ぎながらトビウオに襲いかかる。なんとかかわして空中を飛翔しているトビウオを後方から追跡し、スナーク号を追いこしていく。後方には、砕け波の前の海面下をゆっくり泳いでいる無数の銀色の魚影が見えた。カツオたちは満腹になると船や帆の陰に入ってのんびり泳ぎながら、ほてった体を冷やしているのだった。
となると、かわいそうなのはトビウオだ! カツオやシイラに追いかけられ、生きたまま食われてしまうので、空中に飛び出すしかない。が、そこでも海鳥に急襲されて海に戻るはめになる。この世界に気の休まるところはない。
トビウオが空中を飛翔するのは、別に遊んでいるわけじゃない。生死がかかっている。ぼくらは一日に何千回も顔を上げては、そこで演じられている悲劇を目撃した。一羽の海鳥が旋回している。下を見ると、イルカが背びれを海面につき出して突進していく。その鼻先には海中から空中に飛び出したばかりの、糸を引く銀色の筋が見える。今にも息づかいが聞こえそうだ。パニック、本能の指示、生存の欲求にかられた、きらきらした精妙な有機体の飛翔。
海鳥が一匹のトビウオをとらえそこなった。
すると、そのトビウオはまた凧(たこ)のように向かい風を受けて高度を上げ、半円を描きながら風下の方へと滑空していく。その下では、イルカの通過した跡が泡だっている。イルカは頭上の餌を追跡しながら、大きな目で、朝食となるはずの自分以外の生命体が流れるように滑空していくのをじっと凝視している。イルカはそこまで高く飛び上がれないが、そのトビウオが海鳥に食われなければ遅かれ早かれ海に戻るしかないことを、これまでの経験から知っているのだ。そうなれば朝食にありつける。ぼくらはこの哀れな翼を持った魚に同情した。
これほど欲望がむきだしの血にまみれた大量の殺戮(さつりく)を見るのは悲しかった。それからも、夜に当直をしていると、あわれでちっぽけなトビウオがメインセイルに当たって落下してきたりした。甲板で跳ねていたりもする。ぼくらはすぐに拾い上げ、イルカやカツオのようにむさぼり食った。朝食というわけだ。トビウオはとてもうまい。こんなうまい肉を食べている捕食魚の体がなぜこれほどうまい肉にならないのか不思議でならない。おそらく、イルカやカツオは餌を捕えるためにものすごいスピードで泳ぐので筋繊維が粗いのだろう。とはいえ、トビウオも高速で移動しているのではあるが。
細いロープに鎖のサルカンと大きな釣り針の仕掛けには、ときどきサメがかかった。サメは水先案内をしてくれる。邪魔になったりもする。いろんな形で船を利用しようとする生き物でもある。
サメには人食いザメとしておなじみのやつが何種類かいるが、トラのような目に十二列のカミソリのように鋭い歯を持っている。ところで、ぼくらはスナーク号ではたくさんの魚を食べたが、焼いてトマト・ドレッシングにつけこんだサメの肉に比肩できるものはないという点で、ぼくらの意見は一致した。凪(なぎ)のときには、日本人のコックが「へいけ」と呼ぶ魚(マダイ)を釣った。また、スプーンで作った針を百ヤードほどの糸につけてトローリングしていると、長さ三フィート以上で直径三インチほどのヘビのような魚が釣れたこともある。アゴには四本の牙があった。ぼくらが船上で食べたうちでは、こいつが最高にうまかった。肉も香りもすばらしかった。
食料貯蔵庫に追加したもので最も歓迎されたのは、アオウミガメだ。重さは優に百ポンド(約四十五キロ)はあり、ステーキにしてもスープやシチューにしても、テーブルに並ぶと、ぼくらの食欲を刺激してくれた。最後には絶品のカレーになったが、全員が飯を食いすぎてしまったほどだ。
このウミガメは船の風上にいた。大きなシイラの群れに囲まれた海面で眠っているようにのんびり浮かんでいた。一番近い島からでも一千海里は離れている大海原での話だ。ぼくらはスナーク号の向きを変え、ウミガメのところへ戻った。ハーマンが銛(もり)を頭と首に打ちこんだ。船上に引き上げると、無数のコバンザメが甲羅にしがみついていた。カメの足が出ているくぼみから大きなカニが何匹かはい出てきた。ウミガメを見つけたら即座にスナーク号を差し向けて捕獲することで、すぐに全員の意見が一致した。
とはいえ、大海原の王様たる魚といえばシイラだ。シイラほど体色が変化するものはない。海で泳いでいるときは上品な淡い青色がかっているが、体色の変化で奇跡を見せてくれる。この魚の色の変化に匹敵するものは何もない。あるときは緑系の色――ペール・グリーン、ディープ・グリーン、蛍光色のグリーンに見えるし、あるときは青系の色――ディープ・ブルー、エレクトリック・ブルーなど青系のすべての波長の色になることもある。釣り針にかかると、ゴールドから黄色味が増していき、やがて全身が完全な金色になる。甲板に上げると、波長を変えながら、ありえないほど青系、緑系、黄系の色へと変化しつつ、いきなり幽霊のように白っぽくなる。体の中央に明るいブルーの点があり、それがマスのような斑点に見えてくる。その後、白からすべての色を再現しつつ、最終的には真珠層のような光沢のある色になるのだ。
釣りが好きな人にシイラはおすすめだ。釣りの対象としてこれほどすばらしい魚はいない。むろん、リールと竿に細い糸が必要だ。それにオショーネシーの七番のターポンフックを結び、餌としてトビウオを丸ごとつける。カツオと同様、シイラの餌はトビウオだ。稲妻のように襲いかかってくる。まずリールが悲鳴のような音を立て、糸が煙を出しながら船と直角の方向に出ていくのが見えるだろう。糸が足りるかなと長さを心配するまでもなく、何度か続けて空中にジャンプする。四フィートはあるのがはっきりするので、船に引き上げるまで最高のゲーム・フィッシングが堪能できる。針にかかると、必ず金色に変色する。一連のジャンプは針を外そうとするためだが、跳ね上がるたびに、去勢されていない雄の馬のように金色に輝く体をくねらせる。釣った方としては、これほどきらびやかな魚を見れば心臓がどきどきするし、そうならないとすれば、君の心は鉄でできているか心がすり切れているにちがいない。
糸をゆるませるな!
ゆるんでしまうと、跳ねたときに針が外れて二十フィート先で逃げてしまう。ゆるめるな。そうすれば、やつはまた海中を走り、ジャンプを続けることになるだろう。なおも糸が全部出てしまうのではないかと不安になる。リールに六百フィートの糸を巻いていたとしても、九百フィート巻いていたらなと思い始めるわけだ。糸が切れないよう細心の注意を払って操っていれば、一時間もの大興奮のはてに、この魚をギャフに引っかけることができる。そんな風にしてスナーク号の船上に引き上げたやつを測ると四フィート七インチ(約百四十センチ)もあった。
ハーマンの釣り方はもっと散文的だ。竿を使わず手に糸を持ち、サメの肉を使う。糸は太いが、それでも切れてバラすことがある。ある日、一匹のシイラがハーマン自作のルアーをくわえたまま逃げたことがある。ルアーにはオショーネシーの針が四本もつけてあった。一時間もしないうちに、その同じシイラが別の釣り竿にかかったのだが、四本の針はついたままだったので無事に回収できた。シイラはひと月以上もスナーク号の周囲にいた。それ以降は姿を消した。
そうやって日がすぎていった。することがたくさんあったので、退屈はしなかった。することがないときは海の景色や雲を眺めていたが、これがまたすばらしくて、まったく飽きなかった。
夜明けは、ほぼ天頂まで弧を描いている虹の下から太陽が昇ってくる。まったく燃えているように荘厳だった。日没では、天頂までの青い空を背景に、太陽がバラ色の光に包まれた川を残しつつ紫色の海に沈んでいく。反対側は、昼間は日光が海の深いところまで射しこんでいるため青く穏やかで、波一つなかった。後方では、風があるときには白っぽいトルコ石のような泡だつ航跡ができている。スナーク号が波を乗りこえて上下するたびに船体が作り出す引き波だ。夜には、この航跡は夜光虫で輝いた。クラゲのようなプランクトンがスナーク号が通った跡を示しているのだ。彗星のように長く波うつ星雲の尻尾がずっと観察できた。
海面下でカツオが通過したためにかきまわされて興奮した無数の夜光虫が発光していたりもする*。また、スナーク号のいずれの側でも、海面下の闇の中で、さらに大きなリン光を発する生命体が電球のように点滅していた。これは、そんなことには無頓着なカツオがスナーク号のバウスプリットの鼻先で獲物を捕らえようとしてプランクトンと衝突し、発光させているのだった。
* いわゆる夜光虫は海洋性プランクトンで、刺激に反応して発光する(ルシフェリン-ルシフェラーゼ反応)。夜の海に青白く光る夜光虫はロマンチックだが、これが大発生すると赤潮として漁業に被害が出ることもある。
ぼくらは東へ東へと進み、赤道無風帯を通過して南下したところで南西からのいい風を捕まえた。この風では詰め開きで風上に向かえば、はるか西にあるマルケサス諸島にもたどりつける。
だが、翌十一月二十六日、火曜日、すごいスコールが襲来し、風がいきなり南東に変化した。ついに貿易風に出会ったのだ。それからはスコールも無風地帯もなく、好天に恵まれ、いい風も吹いてくれた。速度計も元気よく回転している。シートをゆるめて、スピンネーカーとメインセイルを両舷に展開した。よく風を受けてはらんだ。貿易風はどんどん後ろにまわり、北東から吹いてくるまでになった。その間、ぼくらは安定して南西へと進んだ。こういう状態が十日続いた。
そうして十二月六日の午前五時、真っ正面の「あるべきところに」陸地を見た。
ウアフカ島の風下を通ってヌクヒバ島の南端をかわす。
その夜、激しいスコールに見舞われ、墨を流したような闇夜になったが、狭いタイオハエ湾にあるはずの泊地へと進路を探りながら進んだ。錨を投下すると、崖の上の野生の山羊が一斉に鳴き出した。強い花の香りがただよってくる。太平洋を横断しつつ南下するこの長い航海がやっと終わったのだ。ハワイを出発してマルケサス諸島*に到着するまで、人の気配のないこの大海原を横断するのに六十日かかった。水平線から他の船の帆が見えることはまったくなかった。
* マルケサス諸島: 現在はマルキーズ諸島と呼ばれることもあるが、タヒチを代表とする、広い意味のフランス領ポリネシア。
ウアフカの東の方は、あっという間にスナーク号に追いついてきた夕方の豪雨でまったく見えなかった。
小さなスナーク号は、スピンネーカーに南東の貿易風を一杯にはらませて快適に進んでいる。ヌクヒバの南東の端にあるマーチン岬が真横にあった。
コントローラ湾が大きな口を開けていた。ぼくらはその広い入口から逃げるように通り過ぎようとした。南東からのたたきつけるような波とうねりの中で、コロンビア川のサケ釣り船のスプリットスルのように、帆の形をしたものがひるまず風上を向いているのが見えた。
「あれ、何だと思う?」と、ぼくは舵を握っているハーマンに聞いた。
「漁船かな」と、彼はじっくり見てから答えた。
だが、海図では、その場所に「セイル岩」と書かれてあった。
とはいえ、ぼくらはその岩よりも、コントローラー湾の奥の方が気になった。その大きな湾に三つあるはずの内湾を必死で探す。
中央の湾曲部に、夜明けの薄明かりを通して陸深く入りこんでいる谷の斜面がぼんやり見えた。ぼくらは何度も海図と見比べて、中央の湾の奥にある谷が開けていて、それがタイピー渓谷だと判断した。
海図には「タイピ Taipi」と記入されている。それが正しいのだが、ぼくとしては「タイピー Typee」を使いたいし、この後もずっとタイピーという言葉を使うつもりだ。
というのも、子供のころ、ハーマン・メルヴィルの小説『タイピー』を読んだことがあり、そこに描かれた世界にずっとあこがれていたからだ*。
* ハーマン・メルヴィル(一八一九年~一八九一年)は海洋文学の最高峰でもある『白鯨』の作者。
捕鯨船に乗り組んだことがあり、船乗り時代の体験を元にマルケサス諸島を舞台にした『タイピー』を著している。ジャック・ロンドンはメルヴィルと自分に共通点が多いと感じて愛読していた。
いや単なる夢ではなく、子供心に、大きくなったら自分も行くんだと強く思っていた島なのだ。そうして、ぼくはこうやってタイピーまではるばる航海をしてきたわけだった。
世界の不思議というものが、ぼくの小さな心にしみこんでいる。そうした不思議に導かれるように、ぼくは多くの土地を訪れた。そうした記憶が色あせてしまうことは決してない。あれから長い年月が経ったが、ぼくはタイピーを忘れてはいなかった。
北太平洋で七ヶ月ほど漁船に乗り組んでからサンフランシスコに戻ったとき、ぼくは機が熟したと思った。その頃、ブリッグ型帆船のガリラヤ号がマルケサス諸島に向かうことになっていた。この帆船の乗組員はすでに確保されていた。しかし、資格なんてものは持ち合わせていないが船乗りとしての腕に自信を持っていたぼくは、メルヴィルに敬意を表してタイピーに巡礼するため、この腕利きの船乗りを雇ってみませんか、なんなら給仕としてでもかまいませんよ、と売りこんでみた。採用されれば、むろん、ガリラヤ号はマルケサス諸島で勝手に下船したぼくを乗せずに出帆することになるわけだったが。
というのも、ぼくはその地で小説の主人公のようにうるわしのファヤウェイやコリコリを探すつもりだったのだ。正直言うと、ガリラヤ号の船長は、ぼくがマルケサス諸島で船を降りて職務放棄するつもりだということに気づいたのではないかと疑っている。給仕の方も人手は足りていたのだろう。で、結局、そのときは雇ってもらえなかった。
それから、いろんな計画や業績や失敗に満ちた怒涛(どとう)のような日々がぼくに訪れることになった。だが、タイピーを忘れたことはなかったし、だから、今こうしてここにいるわけなのだった。
ぼくはこの霧に包まれた島の輪郭をじっと眺めた。
雨が激しくなった。
スナーク号はどしゃぶりの中を入江に向かって突き進んでいく。前方の視界が一瞬開けた。そのとき、ちらっと見えたセンティネル・ロックの磁針方位をとった。あたり一面に打ち寄せる波も見えていたが、それもやがて雨と闇にかき消されてしまった。
波の砕ける音を頼りに、すぐに舵をきれるようにして、ぼくらはまっすぐ奥へと進んだ。方位磁石だけを頼りに進むほかなかった。センティネル・ロックを見落とせば、タイオハエ湾も見落とすことになる。そうなると、一晩中、スナーク号を風上に向けて漂泊させるしかなくなるだろう。広大な太平洋を六十日もかけて航海してきて疲れ切っている船乗りにとって、陸地に飢え、果物に飢え、長年のあこがれであるタイピー渓谷を見てみたいと願っていた船乗りにとって、さらにもう一晩船にいなければならないというのは、あまりうれしいことではない。
と、いきなり、怒号のような音とともに、雨の中、真正面にセンティネル・ロックが出現した。風雨でメインセイルとスピンネーカーはパンパンだったが、ぼくらはなんとか進路を変えた。この岩礁の風下側にまわりこむと風が落ち、無風となり、うねりだけが残った。それからまた、風がタイオハエ湾の方から吹きつけてきた。スピンネーカーを取りこみ、ミズンセイルを上げた。ほぼ正面からの風で、詰め開きでスナーク号は少しずつ前進した。測深鉛を投げて水深を測りつつ、今はもう廃墟となった砦に設置されているはずの赤い灯火が見えないかと探した。それが泊地への道しるべになるのだ。
風は弱く、気まぐれだった。東風と思えば西になり、北から吹いたと思えば南風になったりした。どっちの側からも、目には見えないが岩場に打ち寄せる波の音が聞こえてくる。ぼんやり見える崖の方から、野生の山羊の鳴く声が聞こえた。おんぼろの汽車のような音をたててスコールが通り過ぎるころには、ぼんやりと星が見えだした。二時間後、さらに一海里ほど湾に入りこんだところで、ぼくらは錨を落とした。水深は十一尋(ひろ、約二十メートル)*だった。ついにタイオハエに着いたのだ。
* 尋(ひろ)は水深を測る単位。一尋は六フィート(約一・八メートル)。
朝になり、目がさめると、ぼくらはおとぎ話の世界にいた。スナーク号は、巨大な円形競技場のようになった、外洋から切り離された穏やかな湾に浮かんでいた。見上げるように高い岩壁はツタにおおわれ、海からそのままそそりたっている。はるか東の方に、その壁面をこえて続いている踏みかためられた小道が見える。
「トビーがタイピーから逃げ出すときに通った道だ!」と、ぼくらは叫んだ。
上陸したのは、それからまもなくだったが、長旅を終えるには、さらに丸一日も馬に乗っていなければならなかった。二ヶ月も海にいて、その間はずっとはだしだったし、船は運動できるほど広くもなかったため、革靴をはいて歩く練習などはしていなかった。おまけに、陸に上がったとたんに足もとが揺れて吐き気がしてくるしまつで、それに慣れるまで待ってから、目もくらむような崖ぞいの道を山羊のような馬に乗って進んだ。
ちょっと行っては休憩し、植物が繁茂したジャングルをはって進んだ。そうやっているうちに、緑のコケにおおわれた人物像らしきものを目撃することになった。
そこには、ドイツ人の貿易商人とノルウェー人の船長がいた。
像の重さをはかり、半分に切ったら価値がどれくらい落ちるかなどと思案していた。
彼らは罰当たりにもその古い像にナイフを当てて、どれくらい固いのか、コケの厚みがどれくらいなのかを調べたりしている。やがて、二人はその像を立てるように命じた。自分で船まで苦労して運ばなくてすむようにした。つまり、十九人の先住民に木枠をこしらえさせ、像をその枠の中に吊るした状態で船まで運ばせたのだ。
いまごろは、南太平洋のハッチをきつく締めた船の中にあって、波を切り裂きながらホーン岬に向かって進んでいることだろう。
こういった像はアメリカにも多少は持ちこまれているが、ぼくがこの原稿を書いている脇でほほえんでいる小さな像をのぞき、異教徒のすぐれた偶像はすべて安住の地となるヨーロッパに向かった。この先、スナーク号が難破したりしなければ、今ぼくの手元にあるこの像は死ぬまでぼくの周囲にあってほほえんでいるはずだ。つまり、最終的に勝利を収めるのは、この像なのだ。ぼくが死んで塵になるときも、この像は相変わらず微笑していることだろう。
話を元にもどすと、島でぼくらはある儀式に参加することになった。かつて捕鯨船から逃げ出して住み着いたハワイ人の船乗りがいたのだが、その息子が、十四匹のブタをすべて焼いて村人を招待するというもので、マルケサス諸島生まれの母親の死をいたむものだった。そこに、タイミングよくぼくらが到着したものだから、神の使者となっている原住民の少女が迎え入れてくれたのだ。
彼女は大きな岩の上に立ち、ぼくらがやってきたことで儀式が完璧なものになったと、歌うように語った。その情報は、船が到着するたびに決まって示されることではあった。
とはいえ、彼女が声音を変えると、座っているものはほとんどいなくなった。一同ははげしい興奮にかられていた。彼女の叫び声は激しく甲高くなり、遠くの方からも、それに応じる男たちの声が聞こえてくる。その声は風の音にまざり、信じられないほど凶暴になって、血と戦闘のにおいさえ感じさせる、荒々しくも野蛮な詠唱となっていった。それから、熱帯の樹木の陰から、ふんどし以外は裸の男たちが登場し、たけだけしい行進を見せてくれた。連中は、テンポの遅い深いしわがれ声で勝利と高揚した叫び声を発しつつ、ゆっくり進んだ。若者たちは肩に何かわからないものをのせて運んでいく。かなり重そうだったが、緑の葉で包んであるため、中身は見えなかった。
実は、包みの中には丸々と太ったブタが焼いて入れてあった。男たちは昔の風習をなぞって「長いブタ」を宿営地まで運んでいるのだった。長いブタとは、人肉に対するポリネシア語の婉曲的表現で、彼らは人食い人種の子孫であり、村長(むらおさ)は王の息子なのだ。祖父たちがかつて殺した敵の死体を運んでいた頃と同じように、戦利品にみたてたブタを食卓に運んでいるのだ。運搬している連中は、ときおり勝利の雄叫びをあげ、敵をののしり、食ってやると大声を発したりする。そのたびに行列はとまった。今から二世代前、メルヴィルは実際に殺されたハッパー族の戦士たちの死体がヤシの葉に包まれて宴(うたげ)に運ばれていくのを目撃した。またそれとは別の機会に、やはり宴(うたげ)の地で「奇妙な木彫りの容器を目撃」している。よく見ると、「人骨が散乱していた。骨にはまだ肉が残っていて、ぬるぬるとしていて、肉片もあちこちにこびりついていた」と書いている。
おことわり
本章には現代の倫理基準に照らして適切とはいいがたい表現が出てきますが、その点を現代風(あいまい)にすると、それが通奏低音として重要な意味を持っているハーマン・メルヴィルの『タイピー』の理解をさまたげることになり、同作に対するオマージュでもある本章の意味が薄れてしまうと判断したため、著者の意図を尊重し、可能な範囲で忠実に訳出してあります。
カニバリズム(食人の風習)は、自分たちは高度に文明化されたと信じている人々からは信じがたい作り話とみなされることが多い。それは、自分にも野蛮な祖先がいて、かつて同じような行為をしていたのだという考えを嫌悪しているためなのかもしれない。キャプテン・クック*も、そうしたことには懐疑的だった―――ある日、ニュージーランドの港で実際に自分の目で見るまでは。一人の原住民がたまたま物売りのため彼の船に上がってきたのだが、見事に日に焼けた人間の頭を持ちこんだのだ。
クックの命令で肉片が切りとられた。
それを原住民に手渡すと、そいつはそれをがつがつ食った。控えめに言っても、キャプテン・クックは徹底した経験主義者だった。
* キャプテン・クック(一七二八年~一七七九年)は、十八世紀イギリスの海軍士官(最終的に勅任艦長)にして希代の探検家。
英国・王立協会から「金星が太陽の表面を通過する様子を観測する」ために海外に派遣されたのを手はじめに、計三度の航海で、北はベーリング海峡から南は南極海まで、広大な太平洋のほとんど(特に南太平洋)を走破した。
ニュージーランドやタスマニア島、グレートバリアリーフを含む数多くの地理的発見を行い、測量や海図製作でも多大な功績を残した。三度目の航海中、ハワイ諸島において原住民とのトラブルで殺害された。
ともかく、その行為により、彼は科学がぜひともつきとめるべき一つの事実を提供したことになる。というのも、後年、マウイの族長の一人が、自分の体内にはキャプテン・クックの偉大な足先が入っていると言い張ったため名誉毀損の罪に問われるという奇妙な訴訟が起きることになるのだが、その当時、キャプテン・クックは、そこから数千海里も離れた島々に似たような人々が存在しているとは夢想だにしていなかったことだろう。
原告は、その老族長の肉体そのものがキャプテン・クックという偉大な航海者の墓となっているわけではない(彼の肉を食してはいない)ということを立証することはできず、訴えは棄却されたそうだ。
それから長い年月を経ているし、長いブタを食するというようなことを目撃する機会はないだろうと思っていたのだが、少なくともぼくは、形状は楕円で、奇妙な彫りこみがなされた、百年も前に二人の船長の血を飲むのに使われていた、マルケサス諸島の正真正銘、本物のヒョウタンで作った椀をここに持っている。
この船長のうちの一人は卑劣なやつだった。ポンコツの捕鯨船を白いペンキで塗り直して、マルケサスの村長(むらおさ)に新艇として売りつけたのだ。その船長が自分の船に乗って逃げてしまうと、買ったばかりの捕鯨船はすぐにばらばらになった。と、しばらくして、逃げた船長の船が、こともあろうに、その島で難破した。マルケサスの村長は金の払い戻しとか値引きという概念は知らなかったが、本能的に正当な要求を行った。つまり、自然界における収支決算ともいうべき根源的な概念を持っていて、だました男を食って帳尻をあわせたのだ。
タイピーの夜明けは涼しい。
ぼくらは、なりは小さいが言うことをきこうとしない牡馬(ぼば)にまたがって出発した。が、馬たちは背に乗せた弱々しい人間や大きなすべりやすい石、ぐらぐらする岩、大きく口をあけている峡谷にはまったく無関心だった。前足で地面をかき、おたけびをあげ、互いにかみつき喧嘩しあっている。道はバウの木が密生したジャングルを抜けて、古くからの道へとつながっていた。
道のどちらの側にも、かつての集落跡があった。こんもり茂った草木ごしに、高さ六フィートから八フィート、幅と奥行きは何ヤードもありそうな、石壁と石を積み上げた頑丈そうな土台が見えた。大きな石を積み上げた基礎の上に、かつて家が存在していたらしかった。しかし、今では家も人間もいなくなってしまっていて、その石組みの基礎には巨木が根を張り、ジャングルを上から睥睨(へいげい)していた。こうした建物の土台はパエパエと呼ばれている。メルヴィルは小説では耳で聞いた通りにピーピスと書いている。
マルケサスに現在住んでいる世代には、これほどまでに大きな石を持ち上げて積み重ねていくエネルギーはない。そうしようという気もない。歩きまわると、たくさんのパエパエがあった。が、どれも今は使用されてはいなかった。一度か二度、ぼくらが谷を上流へとさか上っていくにつれて、普通は大地に張りついたような小さな草ぶき小屋の上にのしかかるように、堂々としたパエパエが見えてきたことがあった。大きさの比較でいえば、ケオプス*のピラミッドの広大な土台の上に造られた投票ブースといったところか。純粋なマルケサス人は減っているし、タイオハエの状況から判断すると、集落が消滅しないですんでいる理由の一つは、新しい血が注ぎこまれているからだ。今や純粋なマルケサス人の方が珍しいらしい。
* ケオプスはギリシャ語。一般にはクフとして知られている古代エジプトの王。
誰もが混血のように見えるし、何十ものさまざまな人種の血がまじりあっているようだ。十九名の有能な働き手はすべてタイオハエで商売をしていて、ココナツの実を乾燥させたコプラを船に積みこむために集まっていた。イギリスやアメリカ、デンマーク、ドイツ、フランス、コルシカ島、スペイン、ポルトガル、中国、ハワイ、ポリネシア、タヒチ、イースター島といったところの人々の血が流れている。人の数より人種の数の方が多く、そういう名残りもある。人間はどこか病気がちで、よろめき、あえいでいる。
この温暖でおだやかな気候はまさに地上の楽園というべきもので、極端な温度になることはない。大気には芳香がただよい、オゾンを運んでくる南東の貿易風のおかげで、汚染もされていない。
だが、気管支ぜんそくや肺結核、結核が植物のように蔓延(まんえん)していた。どこでも、わずかに残った草ぶき小屋からは、肺を悪くした苦しそうな咳や疲れきったうめき声が聞こえてくる。それ以外にもおそろしい病気も広がっていた。
一番怖いのは肺をやられることだ。「奔馬性」と呼ばれる急速に進行する肺結核がある。これはおそろしいもので、どんなに頑健な男でも、二ヶ月もすると、死装束を着たガイコツのようになってしまう。
谷間の居住地で住人が死にたえたところでは、ゆたかな土壌はまた密林に戻る。それが谷から谷へと広がっていく。メルヴィルの時代には、ハパア(彼はハッパーと綴っていた)には強健で好戦的な人々が住んでいた。それから一世代たっても二百人がいた。今は無人で、荒涼とした熱帯の荒れ地になっている。
ぼくらは谷を上へ上へとのぼって行った。ぼくらの乗った蹄鉄(ていてつ)をつけていない馬は、いまにも崩れ落ちそうな小道を進んでいく。この道は放棄されたパエパエやとどまるところを知らず拡大しているジャングルを出たり入ったりしながら、ずっと続いていた。
ハワイ以来おなじみになった赤いマウンテン・アップルが見えたので、先住民の一人に木に登ってとってもらった。すると、彼はさらにココナツの木に登った。ぼくはジャマイカやハワイでココナツの果汁を飲んだことがある。が、ここマルケサス産のものを飲むまで、これがこんなにうまいものだとは知らなかった。ところどころ、野生のライムやオレンジも実っていた──土地を耕して植えた人間よりもずっと長く荒野で生き続けている偉大な木々だ。
ぼくらは馬に乗り、黄色い花粉をつけた桂皮が繁茂している、無限にも思えるやぶの海を進んでいった。
ともかくも馬の背中にしがみついてはいるのだから、馬に乗っているとは言えるだろう。
この茂みは香りが強くて、ススメバチが住み着いていた。なんというハチだろうか! 黄色くて巨大なやつで、小さなカナリアの倍くらいの大きさはあった。二インチもの長さの脚を後方に流した状態で、矢のように飛んでいく。牡馬がいきなり前脚で立つ格好で、後ろ脚を空に向けて蹴りあげる。つきだした脚を引っこめると、乱暴に前方にジャンプし、それから元の位置にもどった。なんのことはない。馬の皮膚は分厚いのだが、スズメバチの針に刺されたのだ。
と、二頭目、三頭目の馬も、さらにはすべての馬が急峻な崖の上で前脚立ちになって跳ねまわる。
ビシャ! 猛烈なやつがぼくのほほを突き刺す。
また来た! 首を刺された。
ぼくは最後尾にいたので、他の連中よりたくさん刺された。退却するのは無理だった。馬たちは前方に突進する。危険で安全が約束されていない道を駆けていく。ぼくの乗った馬がチャーミアンの馬を追いこすとき、この繊細な生物が絶好のタイミングでまた刺されたものだから、そいつは後脚のひずめでぼくの馬とぼくを蹴った。ぼくは馬が鋼鉄の靴をはいていなかった幸運に感謝した。さらに刺されたときは、サドルから半分立ち上がった。ぼくは他の連中より多く刺されたし、それは馬の方も同じだった。が、痛みと恐怖はぼくの方が大きかっただろう。
「あっちいけ、じゃまするな!」と、ぼくは自分のまわりにいる翼を持った毒蛇を帽子ではたきおとしながら叫んだ。
道の片側はほぼ垂直の壁だ。反対側は崖で、下の方まで落ちこんでいる。
この状態から逃れる唯一の方法は、この道をそのまま進むしかなかった。
馬の脚が丈夫なことは奇跡だった。前方に向かって突進し、抜きつ抜かれつで全速力で走り、駆け、つまづき、飛び上がり、よじ登り、スズメバチが体にとまるたびに空に向かって脚を蹴り上げた。
やがて、ぼくらはひと息つけるようになり、何カ所刺されたか数えあった。こんなことは一度や二度じゃなかった。何度も何度もあった。妙な言い方になるが、だからといって慣れたりすることはなかった。ぼく個人としては、ヤブにさしかかるたびに死にものぐるいで暴れまくって走り抜けたのだ。そう、タイオハエからタイピーまでの巡礼では、退屈で途中であくびをかみ殺すということは絶対にない。
スズメバチに悩まされないところまで、やっとの思いで登った。ぼくらの不屈の精神が勝ったのではなく、単に生息域より高い場所にきたというだけだ。
周囲は、見渡す限り脊梁(せきりょう)山脈の荒々しい峰々が貿易風の雲に向かってつきだしていた。はるか下の方に見える穏やかなタイオハエ湾には、スナーク号が小さなオモチャのように浮かんでいた。正面には内陸まで入りこんでいるコントローラー湾が見える。タイピーは、ぼくらがいまいるところから千フィートも下にあった。
「天国の庭園が眼前に広がっているようだ。これほどうっとりする光景を見たことがない」と、この渓谷をはじめて見たメルヴィルは述べた。彼は手入れされていた時代の庭園を見たのだ。
ぼくらが見たときには荒れ地そのものだった。彼が見た百列ものパンの木など、どこにもない。見えるのはジャングルだけだ。密林以外に何もない。例外は二軒の草ぶき小屋と、原始からの緑の絨毯(じゅうたん)をかぶって育っているココナッツ林だ。
メルヴィルのいうティはどこにあるのだろう? 若い男だけの、女人禁制の宮殿――メルヴィルが若い将来の村長(むらおさ)候補たちとたむろしていたあの建物――はどこにあるのだろう?
ほこりをかぶったまま眠っている、勇ましかった昔を思い出すために保管されていた半ダースもの聖なる盾はどこにあるのか?
流れの急な小川からは、未婚や既婚の女たちがタパ布をたたく音が聞こえてくることもなかった。
老ナルヘヨが作っていた小屋はどこにあるのか? 丈の高いココナツの木に登って地面から九十フィートのところでたばこを吸っていた案内人に聞いてみたが無駄だった。
そこからさらに密林の中を通って曲がりくねった道をくだっていく。頭上には樹木がアーチ状に枝を伸ばしている。巨大な蝶が音もなく漂うように飛んでいた。こん棒やヤリを手にして、入れ墨を入れた野蛮人が道を守っているということもなかった。
ぼくらは小川を渡るときだけ、好きなところを歩くことができた。このすばらしい渓谷には、タブーもなければ聖なるものも無慈悲なものも存在しなかった。いや、タブーはまだあった。ぼくらが何人かの気の毒な現地の女に近づきすぎると、ぼくらは警告を受け阻止された。無理もない。彼女たちはハンセン病の患者だったからだ。ぼくらに警告した男はといえば、象皮病に苦しんでいた。さらに全員が肺の病気に苦しんでいる。
タイピーの谷には死が充満し、部族で生き残った連中は、この部族で最後となる苦痛に満ちた息をしているのだった。
たしかに、この戦いでは、強者が勝利したのではなかった。
というのは、かつてタイピーの人々はとても強かったのだ。ハッパーの連中より強く、タイオハエの連中より強く、ヌクヒヴァのすべての部族より強かった。「タイピー」や「タイピ」という言葉は、本来は人肉を食う人を意味した。マルケサスの人々は他の部族も含めてすべて人肉を食べていたのだが、そのなかでも、タイピーの連中は並外れて人肉を食うということらしい。ヌクヒヴァだけでなく、タイピーの連中は勇敢で残忍だという評判は広がっていた。マルケサス諸島のすべてにおいて、タイピーという呼び名は恐怖につながった。だれもタイピーを征服することはできなかった。マルケサスを領有したフランスの艦隊も、タイピーだけは手をつけず放置しておいたほどだ。
フリゲート艦エセックスの船長ポーターがかつてこの谷に侵攻したことがある。配下の水兵や海軍兵士に加えて、ハッパーとタイオハエの戦士二千人がかり出された。彼らはこの谷に攻めこんだ。が、猛烈な抵抗に遭って退却をよぎなくされ、ボートや戦闘用カヌーに乗って逃げかえったのだ。
南太平洋の島々の住民すべてのうちで、マルケサス諸島の人々が最強で、最も美しいとみなされている。メルヴィルは彼らについて「とくに体の強さと美しさに強い印象を受けた……姿態の美という点では、これまでに見たどの民族よりもすぐれている。体に自然にできた傷のようなものはないか探してみたが、酒宴に参加している群衆の誰一人として美形でないものはなかった。完全な状態をそこなうシミ一つないように見えた。彼らが肉体的にすぐれているという意味は、単に異形なところがないというだけではなく、ほとんどすべてが彫刻家のモデルにもなれそうなくらいだった」と述べている。
マルケサス諸島を発見したメンダーニャ*も、先住民は驚くほど美しいと形容している。メンダーニャの航海を記録したフィゲロアは彼らについて「肌の色はほとんど白く、均整のとれた美しい体をしていた」と述べている。キャプテン・クックは、マルケサス人について南太平洋で光輝いている島民と呼んだ。彼らは「ほぼ全員が長身で、六フィート(約百八十センチ)以下の者はまずいない」と。
* アルバロ・デ・メンダーニャ・デ・ネイラ(一五四二年~一五九五年)。スペイン出身の南米ペルーを拠点にした探検家。
インディオに伝わる黄金伝説を信じて南太平洋を探検する途中で、マルケサス諸島にも上陸した。
ソロモン諸島への入植なども試みて失敗している。同諸島の一部ともなっているサンタクルーズ諸島で死亡。先住民との戦いで殺されたともマラリアで病死したとも言われている。
ところが、今では、この強さと美しさは消えてしまっていた。タイピー渓谷は、ハンセン病や象皮病、結核に苦しめられている何十人もの悲惨な境遇にある人々の住む地となっていた。メルヴィルは、近くにある小さなホオウミの谷をのぞき、当時の人口について二千人と推定していた。気候は申し分なく、健康的なことでは世界のどこにも引けをとらない、このすばらしい楽園で、今や生命は腐りはてようとしている。
肉体的にすばらしいだけでなく、タイピーの人々は純血だった。この島の大気には本来、ぼくらの住む世界に充満している病原菌や細菌など病気をもたらす微生物は含まれていなかった。そこに白人たちが船でやってきて、さまざまな病原菌が持ちこまれた。そのため、タイピーの人々はめちゃめちゃにされ、次々に倒れていった。
こうした状況について考えていくと、白人は不純物と腐敗の上に繁栄しているのだという結論をだしたくなる。
とはいえ、これを自然淘汰で説明することは可能だ。
ぼくら白人は、微生物との戦いで何千世代にもわたり生き残ってきた人々の子孫なのだ、と。
つまり、こうした病原菌という敵に弱い体で生まれてきた者はすぐに死んでしまい、耐性を持った者だけが生き残っているというわけだ。
いま生きているぼくらは、たちの悪い病原菌が蔓延した世界に最もよく適応し免疫ができているということになる。かわいそうなマルケサス人は、そういう自然淘汰の洗礼を受けていなかった。彼らには免疫がなかった。そして敵を食べるという風習を持っていた者たちが、今は顕微鏡でしか見えないほど微細な敵にむしばまれているということになる。この戦いでは、勇猛果敢に突進してヤリを投げるといったことはできない。一方で、かつて数十万人いたとされるマルケサス人で現在までに生き残った人々は、有機毒の煮えたぎるような風呂に飛びこむことを再生と呼べるのであれば、生まれ変わり再生した新しい種として生存の土台を築いていく可能性もある。
ぼくらは昼食のため馬をおりた。いがみあう馬同士を離すのも一苦労だった。ぼくの馬は背中を何カ所か新たにかまれていた。そこではサンドフライというブユみたいなやつに悩まされた。ぼくらはバナナと缶詰の肉を口に押しこみ、ココナツミルクで勢いよく流しこんだ。
見るべきものはほとんど何もなかった。かつて人間が切り開いたところは再生した密林に浸食され飲みこまれつつあった。あちこちに建物の土台が見えたが、碑などはなく、文字が彫られているわけでもなく、過去の証(あかし)となる手がかりもなかった。あるのは、かつて手作業で造られるか削られるかした、ありふれた石ころだけだ。それにもほこりが積もっていた。土台の内部から大きな木が育っていた。人間の痕跡を消そうとして、かつては住居の基礎となっていた石を割り、散逸させて、原始の混沌が出現しかけているのだった。
ぼくらは密林での探索を放棄し、サンドフライを避けようと小川を探した。だが無駄だった! 泳ごうとすれば、まず服を脱がなければならない。サンドフライはちゃんとそのことを知っていて、とんでもない数のサンドフライが土手で待ち伏せしていた。
島の言葉ではナウナウと呼ぶ。英語では今ということだが、その名前の通り、過去や未来の話ではなく、今この瞬間に自分の肌の上にいるというのが問題なのだ。賭けてもいいが、ウマル・ハイヤームだって、このタイピー渓谷にいて『ルバイヤート』を書くなんてことは絶対にできなかったはずだ。心理的に不可能だ。
ぼくは、川岸が崖になっているところで服を脱ぐという戦略的な誤りをおかしてしまった。川には飛びこめた。が、そこからはすぐに岸に戻るというわけにはいかない。川から上がって服を着るには、服を脱ぎすてたところまで百ヤードほども歩いて行かなければならない。一歩踏み出したとたん、何万というナウナウが飛びかかってくる。二歩目には、空が暗転した。その後どうなったか覚えていない。脱いだ服のところまで戻ったときには、頭がおかしくなっていた。ここでも戦術的な誤りをおかしてしまった。ナウナウに対処する鉄則は一つしかない。やつらをたたいてはだめなのだ。他にどんなことをしてもいいが、絶対にたたきつぶしてはだめだ。たちが悪くて、たたきつぶされる瞬間に、やつらは毒を獲物の体に注入してしまう。親指と人差し指でそっとつまみ、皮膚から吻(くちさき)を引きはがすようにするべきなのだ。歯を抜くような感じだが、むずかしいのは、引きはがされる前にすばやく突き刺そうとする。だから、たたきつぶしてしたとしても、体にはすでに毒が入りこんでしまっている。
そうした一連の体験は一週間ほど前の出来事だ。ところが、ぼくは今も、あわれにも放置されたあげくに回復しつつある天然痘患者みたいな状態にある。
ホオウミは小さな谷で、タイピー渓谷とは低い尾根で分けられている。ぼくらは言うことをきかない馬にさんざん手こずった末に、尾根のこちら側から出発した。一マイルほど進んだところで、ウォレンの馬がよりによってこの細い道で一番危険なところを選んだものだから、ぼくらは五分ほどはらはらさせられた。タイピー渓谷の入口あたりまで行くと、かつてメルヴィルが逃げだした浜辺が下の方に見えた。その当時、そこには捕鯨船のキャッチャーボートが停泊していたのだ。タブー視されたカナカ人のカラコエエがその海辺に立ち、とらわれた水夫たるメルヴィルを引き取るべく交渉していたのだった。
メルヴィルはその場所でファヤウェイと別れの抱擁をし、ボートに向かって突進した。その先の方には、モウモウをはじめとする追っ手たちがメルヴィルを乗せて逃げるボートを阻止しようと泳ぎだした場所があった。追っ手の連中は船縁をつかんだが、その手首にボートをこいでいた連中のナイフが振り下ろされた。親玉のモウモウはといえば、メルヴィルの手にしたボートフックの一撃をのどにくらった。
ぼくらはホオウミまで馬に乗って行った。ここもタイピーに属するので、メルヴィルはここの住人にはしょっちゅう会っていたのに、あまりに近いので、彼はここにこんな谷が存在するとは思ってもいなかったようだ。
ぼくらはそのときと同じ、放棄されたパエパエを通った。海に近づくにつれて、たくさんのココヤシやパンノキやタロ芋畑、それに一ダースほどの草ぶきの家が見えた。
そうした家の一つで、夜をすごすことになった。すぐに宴が始まった。子豚を殺して熱した石にのせて焼き、鶏はココナツミルクのシチューの具になった。ぼくは料理をしていた一人に頼んで特に丈の高いココヤシの木に登ってもらった。実がなっている木のてっぺんは地上からゆうに百二十五フィート(約三十八メートル)*はあった。頼んだ男はすたすた登っていく。両手で木を抱え、足裏を幹にぴたりとつけ、腰にはジャックナイフを差した格好で、上まですいすいと登っていった。この木には足がかりになるようなものはないし、ロープも使わなかった。百二十五フィートもの高さの木にさっと登って、てっぺんから実を落とす。こんな芸当は誰もができるわけじゃない。
* 一般にココヤシの樹高は、高いもので三十メートルとされるが、原文のまま訳出。ココヤシの実がココナツ。
というか、ここにいる連中の大半は、今にも死にそうに咳をしていた。たえずぐちを言ったりうめき声をあげている女もいた。ひどく肺をやられているのだ。男女どちらにも完全に純粋なマルケサス人はほとんどいなかった。大半がフランス人やイギリス人、オランダ人、中国人などとのハーフやクォーターだ。新鮮な血の注入はせいぜい種としての滅亡を遅らせただけだったが、こうした状況を目にすると、はたしてその甲斐があったのか疑問にも思えてくる。
宴会は広いパエパエで開かれた。パエパエは石組みの祭壇のようなものだ。その奥に、ぼくらが眠る予定の住居があった。料理では最初に生魚とポイポイが出てきた。これはタロ芋でつくるハワイのポイより酸味が強かった。マルケサス諸島のポイポイはパンノキの実で作られる。熟した果実の芯をとりのぞいてヒョウタンの器に入れ、石棒ですりつぶす。この段階で葉で包んで地中に埋めておくこともできる。何年も持つ(地中で発酵させることで長期保存が可能になる)。とはいえ、食べるには、さらに処理が必要だ。葉で包んだものを、豚と同じように、熱した石の上に並べて焼くのだ。それから水をまぜて薄くのばす。とけ出すほど柔らかくはせず、人差し指と中指の間にはさんで食べられるくらいにする。知れば知るほど、これはうまくて健康的な食べ物だということがわかってくる。熟したパンノキの実は煮るか焼く! うまい。パンノキとタロ芋という組み合わせは食用野菜の王様だ。パンノキという呼称は明らかに誤りで、食感はどちらかといえばサツマイモに近いが、サツマイモほど粉っぽくもなく甘くもない。
宴(うたげ)は終わった。
タイピー渓谷に月が昇るのが見えた。大気には香油のような、かすかに花の香りが漂っている。魔法のような夜だった。
葉を揺らすそよ風すらなく、死んだように静かだ。ひと休みすると、あまりの美しさに、痛いほど悲しい気がした。はるか遠く、浜辺に寄せる波音がかすかに聞こえてくる。ベッドなどはなかった。ぼくらは眠くなると地面の柔らかいところに横になって寝た。近くに一人の女性が寝ていた。苦しそうにうめいている。ぼくらのまわりでは、死にかけた島人たちの咳が一晩中とぎれることなく聞こえていた。
ぼくがはじめて彼に会ったのはサンフランシスコのマーケット・ストリートだった。
霧雨の降る午後、彼は膝までしかない丈の短いズボンをはき、シャツの袖をまくって、ぬかるんだ歩道を裸足ですたすた大股で歩いていた。足の動きは二十人もの浮浪児が興奮して飛び跳ねているようだった。この男が通ると、何千人もの人が好奇の目で振り返った。ぼくもその一人だ。
これほど見事に日焼けした男は見たことがない。皮がむけていなければブロンドっぽい感じだったろうが、全身くまなく日焼けしている。長く黄色い髪も日に焼けていたし、ヒゲもそうだ。カミソリをあてたこともないようだった。黄褐色、というか金色がかった黄褐色の肌が陽光をあびて輝いていた。イエスとは別の予言者が「世界を救う」というメッセージをたずさえて街にやってきたのかと思ったほどだ。
数週間後、ぼくは友人何人かとサンフランシスコ湾を見晴らすパイドモントの丘にあるバンガローにいた。
「あいつを見つけたぜ、あいつをさ」と、友人たちが大声で言った。「木の上にいたんだ。ケガはしていない。手づかみで食うんだ。会いに来いよ」
それで、ぼくは一緒に丘の上まで行って、ユーカリの林の中にある掘っ立て小屋で、街で見かけた例の日焼けした予言者風の男に会ったのだ。
彼はすぐにぼくらの方にやって来た。ぐるぐるまわったりトンボ返りしたりしながらだ。
握手はしなかった。彼は挨拶がわりに曲芸をやってのけた。さらに宙返りもやってみせてくれた。準備運動がわりに体がやわらかくなるまでヘビのように体をしなやかにひねらせてから、腰を折り、ひざはそろえたまま、足をまっすぐ伸ばし、両掌で刺青をたたく。体を回転させ、つま先立ちしてくるくるまわりながら踊り、酔っぱらったサルのように跳ねまわった。
生きている喜びがあふれ、顔を輝かせている。彼のうたう歌には歌詞がなかったが、ぼくはとても幸福な気分になった。
彼は体をずっと動かしながら、いろいろ変化をつけて一晩中歌っていた。
「あきれたね! バカだよ! 森で変なやつに会っちまった!」と、ぼくは思った。
とはいえ、尊敬すべきバカであることは、彼みずからが証明してみせた。
トンボ返りしたりぐるぐる回転している間、彼は世界を救うことになるであろうメッセージを届けていたとも言える。
どういうことかというと、彼の行動には二重の意味があった。まず、現代社会で苦しんでいる人々に、自分のように衣服を脱ぎすて、山や谷で自由気ままに振る舞いたまえ、と言っているのだ。次に、読み書きがうまくできないため困窮している人々がいるこの世界で、発音とつづりを同じにして言語の習得を楽にする表音式のスペルを採用したらどうか、というのである。
ぼくはふと、都会の人々が大挙して裸足で自然の中に入っていくことで、大きな社会問題が解決されるのが見えるような気がした。と同時に、散弾銃の音や牧場の犬たちの吠える声がひびき、怒った農夫が熊手をふりかざして威嚇する様子も目に浮かんだ。
それから何年か経ったある天気のよい朝、貿易風によるうねりが押し寄せて波しぶきがあがっている岩礁にできた狭い開口部から、スナーク号はゆっくりとタヒチのパペーテ港に入っていったのだった。
一隻のボートがこっちにやってくる。検疫を示す黄色の旗を掲げていた。医者が乗っているのだろう。しかし、そのボートの後方には小さなアウトリガーカヌー*もいて、ぼくらを当惑させた。そっちは赤い旗を揚げている。赤い旗は危険を示すのだが、何か船にとって危険なものが海中に隠れているのではないかと不安になったので、最近難破した船が沈んでいないか、航路を示すブイや標識が流されてしまってはいないかと、ぼくは双眼鏡片手に探したものだ。
* アウトリガーカヌーは南太平洋で発達したカヌーの一種で、細長いカヌーが転覆しないように片側あるいは両側につきだした腕木の先にアマなどとよばれる細い浮力体がつけてある。一般的なカヌーのようにパドルでこいだり帆走したりすることができる。
まもなく医者がスナーク号に乗りこんできた。ぼくらの健康状態を調べた後で、スナーク号に生きたネズミは一匹もいないことを保証してくれた*。
* 現代のヨットの航海でも入国時は「船舶衛生管理証明書」が必要になる。
赤い旗についてたずねると、「ああ、あれはダーリングの旗ですよ」という答えだった。
ダーリングとはアーネスト・ダーリング、つまり、サンフランシスコで出会っていた例の変人のことだ。赤い旗は兄弟の印で、ぼくらを歓迎してくれたのだった。
「よお、ジャック」と、彼が叫んだ。「ようこそ、チャーミアン!」
あっという間にカヌーで近づいてくる。そう、あのパイドモントの丘で会った黄褐色の予言者がそこにいた。
彼はスナーク号の舷側にカヌーを寄せた。この赤い腰巻き姿の太陽神は、桃源郷の贈り物を持ってきてくれたのだ。金色のハチミツの瓶、太陽と土壌のめぐみをたっぷり受けて黄金色に輝く大きなマンゴーにバナナ、パイナップルにライム、果汁たっぷりのオレンジなどが一杯詰められたカゴを両手に抱えている。南太平洋の空の下で、ぼくはこの自然人たるダーリングとこうして再会した。
タヒチは世界で最も美しい場所の一つである。
正直で信頼できる男女もいるし、泥棒も強盗も嘘つきも住んでいる。人間の闇の部分には感染力があって、タヒチのすばらしい美しさが台なしにされてしまうので、ぼくは、タヒチそのものについてではなく、この自然人について書こうと思う。
彼は少なくとも人を楽しませてくれるし、健全だ。彼から発せられる生気はとても穏やかで甘美なもので、何も害はない。搾取する大金持ちの資本家は別にして、人の気持ちを傷つけることもしない。
「この赤い旗にはどんな意味があるんだ?」と、ぼくは聞いた。
「社会主義さ、もちろん」
「そんなことは知っている」と、ぼくは続けた。「それをお前が持っているということに、どんな意味があるんだ、と聞いてるわけさ」
「これにはメッセージがこめられていると知ったからさ」
「アメリカからタヒチまでわざわざ持ってきたのか?」と、ぼくはあきれながら言った。
「そうとも」と、彼は簡単に答えた。
後でわかったことだが、彼の性格もその答えと同じように単純なのだった。
ぼくらは投錨し、足舟を海面に下ろして海岸に向かった。自然人も同行した。やれやれ、とぼくは思った。これから、こいつに死ぬほど質問攻めにあうのかな、と。
だが、それはぼくのとんでもない勘違いだった。ぼくは馬を手に入れ、あちこち乗りまわしたが、この自然人はぼくのそばに近寄っては来なかった。招待されるまでおとなしく待っているのだ。その一方で、彼はスナーク号の書斎にある大量の科学の本に喜んでいた。後で知ったことだが、大量の小説もあることにはショックを受けていた。この自然人は小説を読んだりして時間を浪費したりはしないのだ。
一週間かそこら経ってから、ちょっと気がひけたぼくは、彼をダウンタウンのホテルでのディナーに招待した。不慣れなコットンの上着を窮屈そうに着てきたので、服は脱げよと言うと、彼はにっこり笑い、喜び勇んで脱ぎすてた。目の粗い漁網の切れ端をまとっているだけで、腰から肩にかけて黄金色の皮膚が露わになった。衣装といえば、赤い腰巻きだけだ。その夜とタヒチ滞在中の出来事で彼がどういう人間かがわかって、ぼくらは友人になった。
「じゃあ、あんたも本を書いてるわけだ」と、彼は言った。
ぼくは苦心して朝の分の執筆を終えたところだった。
「俺も本を書いてんだよ」と、彼は告げた。
おいおい、こいつの書いた物の面倒までみなきゃなんないわけかよ、とぼくは思った。イラッとした。文壇ごっこをするためにはるばる南太平洋まできたわけじゃないのだ。
「これが俺の書いてる本なのさ」と、握ったこぶしで大きな音をたてて胸をたたきながら、彼は言った。「アフリカのジャングルのゴリラは、音が一マイルも離れたところで聞こえるまで胸をたたくんだってよ」
「分厚い胸だ」と、ぼくはほめた。「ゴリラもうらやましがるだろうよ」
それからまもなく、ぼくはアーネスト・ダーリングの書いたすばらしい本の詳細を知った。
十二年前、彼は死に瀕していた。体重は九十ポンド(約四十キロ)しかなく、衰弱し、話すこともできなかった。医者たちもさじを投げた。開業医だった父親もあきらめていた。他の医師に意見を求めたりもしたものの、望みはないということだった。教師として、そして大学生として、勉強のしすぎで二度も続けて肺炎になり、衰弱してしまったのだ。日ごとに体力が失われていく。与えられた固形物からは栄養を吸収できず、粒や粉状にしても胃が受けつけなくなった。体が衰えただけでなく、精神的にもまいってしまい、神経も張りつめていた。
病気なのだが、彼としては薬はうんざりだった。人間もそうだ。人の話し声もかんにさわった。注目されると、ひどく興奮した。どうせ死ぬのだから、悩んだりいらいらしたりしないで屋外で死にたいと思った。胃にもたれる固形物や薬をやめ、いらいらさせるおせっかいな連中がいなければ、死ぬことはないのではないかという思いが、ふと忍び寄ってくる。
それで、やせて骨と皮だけになったアーネスト・ダーリングは、生気もなく死にかけたままよろよろと歩いた。
人や住宅地には背を向け、オレゴン州ポートランドの市街地から雑木林を通り抜け、五マイルも足を引きづって歩いた。むろん、頭がおかしくなっていた。狂気が彼を死の床から引きずり出したのだ。
とはいえ、森では、ダーリングは自分が求めていたものが休息だと知った。もうビフテキや豚肉で悩ませる者はいない。脈をとって疲れ切った神経をさかなでしたり、弱った胃に錠剤や粉末を飲ませて苦しめようとする医者もいなかった。症状は改善した。輝く太陽が、あたたかく降り注いでいた。
太陽の光こそ万能の薬だ、と彼は感じた。疲弊した体全体が太陽を求めているように思えた。彼は服を脱ぎ捨て、日光浴をした。気分がよくなった。たしかに効果があった。苦痛にさいなまれたこの数ヶ月間ではじめて安息を得た。
症状がよくなると、起き上がれるようになった。そうして、彼は気がついた。自分という存在は、はばたいたり、さえずったりしている小鳥や、鳴き交わしたり遊んだりしているリスのようなものなのだ、と。健康で、元気にあふれ、幸福そうで、心配事もなさそうな存在をうらやましく思った。自分の置かれた条件と小鳥やリスの置かれた条件とを比較すると、自分が病気になるのは必然でもあったのだ。となれば、自分は病弱で死にかけているのに、小鳥やリスはなぜあれほどにも元気なのかと疑問を呈せずにはいられなかった。小鳥やリスは自然のままに生きているが、自分は自然に反して生きている。生きようと思えば自然に帰らなければならない、という結論が導かれるのは自明だった。
森の中にただ一人いて、彼は自分の問題にけりをつけ、実地に応用しはじめた。
服を脱ぎ捨て、跳んだり、はねたり、四つんばいになって走ったり、木に登ったりした。要するに、めちゃくちゃに体を動かしたのだ。そして、いつも太陽を浴びていた。彼は動物たちをまねた。乾いた葉や草で寝るための巣を作り、早秋の雨をしのぐため寝床には樹皮をかぶせた。
「これはいい運動になるぜ」と、彼は両腕で体側を強くたたきながら言ったことがある。「おんどりを見てやってみたんだ」
またそれとは別の機会に、彼がココナツミルクを音をたてて飲んだので、ぼくが注意すると、彼は雌牛だってこんな風に水を飲むし、そこには何か意味があるはずだ、と抗弁した。実際にやってみて、体にいいとわかったので、何か飲むときはそういう流儀でしかやらないのだ。
リスは果物と木の実を食べて生きているとも言った。果物と木の実にパンだけの食事をはじめて、彼は健康をとりもどした。体重も増えた。三ヶ月間、彼は森の中で原始の生活を続け、それからオレゴンの激しい雨でそうした生活を断念し、人間の住むところに戻ってきた。三ヶ月と経たないうちに、二度の肺炎から生き延びた九十ポンドの生存者は、野外でオレゴンの冬をすごす十分な体力を回復させていた。
彼は多くのことをやりとげたが、意に沿わないこともあった。父親の家に戻らざるをえなかったのだ。
そこで野外の大気を胸一杯に吸いこんでいた体で、また閉ざされた部屋の中で暮らすようになり、彼は三度目の肺炎にかかった。前にもまして衰弱した。死者のように横たわり、立つことも話すこともできず、いらいらして疲れきっていたので、他の者の言うことにも耳を傾ける余裕はなかった。自分の意思でできる唯一の行為は、指を耳に突っこんで、話しかけられる言葉を一つも聞きたくはないと仕草で示すことだった。精神疾患の専門家が呼ばれた。頭がおかしいと診断され、余命一ヶ月はあるまいと宣告された。
精神疾患の専門家の一人が、彼をターボル山の療養所に運んだ。
彼が無害だとわかると、そこでは好きにさせてくれた。何を食べろなどという指示はなされなかったので、彼は果物と木の実、それにオリーブオイルやピーナツバター、バナナを中心にした食事を再開した。体力が回復するにつれて、自分の望む生活をしようと心に決めた。他の連中と同じように社会の慣習に従って暮らしていたら死んでしまうと思ったのだ。まだ死にたくはなかった。この自然人が誕生するにあたって、死の恐怖はもっとも強い要素の一つだった。生きるために、自然の産物と屋外と日光が必要だった。
オレゴン州の冬は自然に戻りたいと願う者には魅力的ではない。それで、ダーリングは適した土地を探した。自転車に乗り、太陽のふりそそぐ南をめざした。スタンフォード大学に一年在学した。ここで、裸に近い格好での受講を大学当局に認めてもらい、リスのいる森で学んだ、生きるための原則をできるだけ適用しながら勉強し、苦労しつつ自分の道を切り開いていった。
好きな勉強方法は、大学の裏山に登り、服を脱いで草の上に寝そべり、日光浴しながら健康になると同時に知識の海に没入することだった。
とはいえ、カリフォルニアの中部であっても冬はある。自然人の適地探求はさらに進められた。彼はロサンゼルスや南カリフォルニアもためしてみたが、何度か逮捕され、精神鑑定を受けさせられた。
というのも、彼の生き方は同時代の人々の暮らし方とはまったく違っていたからだ。彼はハワイにも行ってみた。そこでは精神異常扱いはされなかったものの、強制退去させられた。正確には強制退去ではなかった。刑務所に一年もぶちこまれる可能性があって、彼らは彼に自分で選択するようにと言った。刑務所に入るというのは、野外で日光をあびたいと願っているこの自然人にとっては死ぬも同然だったので退去を選んだのだ。ハワイ当局を責めることはできない。ダーリングは好ましからざる国民だった。協調性のない者は好ましくない、というわけだ。異議を唱えるべきは、ダーリングが素朴な生活という自分の哲学で行った行動について、好ましからざる人物という、ハワイ当局が彼に対して下した裁定の正当性だ。
そういった経緯の末に、ダーリングは、自然な生活にふさわしいだけでなく、自分が好ましからざる人物とされたりしないような土地を探し求めた。そして、それをタヒチに見つけたのだ。
楽園中の楽園。噂通りの楽園。
ここで彼は自分の思うとおりの生活を送っている。
身につけるものといえば、腰巻と漁網でこしらえた袖なしのシャツだけだ。裸での体重は百六十五ポンド(約七十五キロ)。健康状態は申し分ない。一時は駄目になったと思われた視力もすばらしくよくなっている。現実に三度の肺炎で痛めつけられた肺が回復しただけでなく、以前よりも強靱になった。
彼と話をしているとき、彼が蚊を殺した様子について、ぼくは決して忘れないだろう。
この血を吸う虫が彼の背中で両肩の間にとまった。彼は会話の流れを切らず、よどみなく話をしながら、握り締めた拳を背中の方にまわして肩の間にいた蚊をたたきつぶした。彼の体はバス・ドラムのような音をたてた。馬が厩舎の材木を蹴っているような音だった。
「アフリカのジャングルにいるゴリラは、一マイル先からでも聞こえるように胸をたたくんだ」と、ふいに彼が言った。ぞっとするような音をさせて胸に入れた悪魔の入墨をたたく。
ある日、彼はスナーク号の船室の壁にボクシングのグローブが吊るされているのに気づき、すぐに目を輝かせた。
「ボクシングやるのか?」と、ぼくはきいた。
「スタンフォード大の頃はボクシングを教えてたんだぜ」という返事だった。
ぼくらはすぐに裸になって、グローブをはめた。
バン!
ゴリラのような長い腕が一閃し、グローブがぼくの鼻に当たった。
ドス!
彼が姿勢を低くして、ぼくの側頭部にパンチを当てたので、あやうく横だおしになるところだった。その一発でできた腫れは一週間もひかなかった。ぼくは左のパンチをしゃがんでかわすと、彼の胃袋に右を一発お見舞いした。ものすごく効いた。ぼくの全体重をのせたパンチで、彼の上体は前かがみになった。ぼくはパンチをあびせながら、彼が倒れるだろうと思った。
彼は破顔して言った。「いいパンチだ」
と、次の瞬間、ぼくは嵐のように繰り出されるフック、ジョルト、アッパーカットをあびせられ、防戦一方になった。が、チャンスとみるや、こっちもみぞおちめがけてパンチを繰り出した。当たった。自然人は両腕をだらんと下げて、あえぎながら、ふいに座りこんだ。
「大丈夫だと思うが」と、彼は言った。「ちょっと待った」
彼は三十秒もしないうちに立ち上がると、お返しとばかり、こっちのみぞおちにもフックをぶちこんでくれた。息がつまり、ぼくは両手をだらりと下げたまま、彼のときよりも少し早く崩れ落ちた。
こうして述べていることはすべて、ぼくがボクシングをした相手が八年前には九十ポンド(約四十キロ)そこそこの体重しかなく、医者や精神鑑定の専門家にオレゴン州ポートランドの部屋に閉じこめられたあわれなやつではなくなっていたということの証拠だ。アーネスト・ダーリングはここでの生活で見違えるほど元気になり、その体験を経た体そのものが彼が書いた本というわけだった。
ハワイでは長期にわたり優良な移住者を必要としている。多くの時間やアイディア、資金を投入して適した人材を移住させているが、まだ十分ではない。にもかかわらず、ハワイはこの自然人を追放した。チャンスを与えなかったのだ。
というわけで、ハワイの誇り高き精神とやらに対抗し、この機会に、ぼくとしてはハワイがこの自然人を追放したことで失ったものについて書いてみようと思う。彼はタヒチに到着すると、自分が食べる食い物を栽培するための土地を探した。しかし、そういう土地、つまり安く手に入る土地を見つけるのはむずかしかった。
彼は金持ちというわけではなかったからだ。
急峻な山岳地帯を何週間も歩きまわり、小さな谷がいくつか点在する山を見つけた。八十エーカー(約三十二ヘクタール)ほどの密林で、誰かの財産として登記されてはいないようだった。政府の役人は、土地について、彼が所有すると宣言してから異議申し立てがなく三十年経過すれば、その土地は彼の所有物になると教えてくれた。
彼はすぐに作業に取りかかった。
その場所は耕作に適してはいなかった。そんな高地で農業をしようという者など、それまで誰もいなかった。密林だし、野生化したブタや無数のネズミが走りまわっている。パペーテや海の眺めはすばらしかった。が、だからといって、それが何かの役に立つというわけでもない。
まず、農園にする土地までの道を作るだけで何週間もかかった。植えた作物は、芽が出たとたん、かたっぱしからブタやネズミに食われた。彼はブタを撃ち、ネズミには罠(わな)をしかけた。つかまえたネズミは二週間で千五百匹にもなった。必要な物資は何でも自分の背中にかついで運んだ。荷馬のように荷物を担ぎ上げる作業は、たいてい夜にやった。
徐々に成果がでてきた。
草壁の家も建てた。火山性の肥沃な土壌で、ジャングルを開拓し、ジャングルの動物たちと闘い、五百本のココナツの木、五百本のパパイヤの木、三百本のマンゴーの木を植えた。野菜も作った。ツタや灌木もあれば、パンノキやアボカドの木もたくさんあった。谷の源流から水を引き、効率のいい灌漑設備を考案した。谷から谷へとさまざまな高低差のある場所に水路を掘った。こうして細長い谷間は植物園になった。かつて灼熱の太陽が密林を干上がらせ裸の土がむき出しとなっていた尾根筋の不毛な峠には樹木や灌木が生い茂り、花が咲き乱れた。この自然人は自給自足した上に、今ではパペーテの都市部の住民に作物を売る裕福な農業者となっていた。
その後、政府の役人が所有者はいないとしていた土地に、実際には所有者がいて証書類や登記も存在することが判明した。
それが事実とすれば、苦労して得たものを失うことになりかねない。
入植した時点で、その土地には価値がなかった。大地主の所有者は、この自然人が開拓したことは知らなかった。両者の間で適正価格での合意が成立し、ダーリングは正式に登記された権利証書を手にしたというわけだった。
とはいえ、その後も痛烈な打撃を受けてはいた。
市場に出入りする道が封鎖されたのだ。
彼がこしらえた道には三重の有刺鉄線の柵が張られて通れなくなった。
これは社会制度の不条理としてよくある人間社会の混乱の一つだ。こうした背景には、ロサンゼルスの精神障害に関する委員会がこの自然人を引きずりだし、ハワイがこの自然人を追放したのと同様の、伝統を重んじる人々の意向が働いている。
自己満足している者たちが、自分とまったく違う価値観を持った男を理解するのは無理だった。役人連中が、こうした伝統主義者たちの行為を黙認していたことは明らかなようだ。というのは、今にいたるまで、この自然人が作った道は閉ざされたままだからだ。何も講じられていない。それについては何もしないという暗黙の、断固たる意思があちらこちらに存在している。だが、この自然人は踊ったり歌ったりして自分流を貫いている。夜もおちおち寝ずに対策を考えて悩んだりはせず、そういうことは邪魔したい連中の好きにさせておいた。そんなことを恨んだりするほど暇ではないのだ。自分がこの世に存在するのは幸せになるためだと信じている彼には、他人を訴えたりして無駄にする時間は一秒もなかった。
農園に向かう道は封鎖されている。地面に余裕がないため、新しい道を作ることもできない。
政府は、彼が通ることができる道を、野生化したブタが山に登るための急峻な獣道(けものみち)に限定した。ぼくは彼と一緒にその獣道を登った。よじ登るために足だけでなく両手も使わなければならなかった。野生化したブタの獣道は、エンジニアが蒸気機関や鉄製ワイヤーで作る道ほど立派ではない。だが、この自然人は何も気にかけてはいなかった。この穏やかな男の道徳では、誰かに悪さをされたら、自分の方は善行でお返しするのだ。となれば、どっちが幸福なのか論じるまでもあるまい。
「うっとうしい連中の道のことなんか気にするな」と、彼はぼくに言った。
岩棚によじ登ったところで息を切らし、休憩しようと腰をおろしていたときだ。
「そのうち飛行機を手にいれて黙らせてやるよ。飛行場用に平らな場所を作ってるんだが、あんたが次に来るときには飛行機で俺んちの玄関の前まで来れるようになってるぜ」
そう、この自然人は、アフリカのジャングルで胸をたたいているゴリラの真似をするだけじゃなくて、奇抜な発想もするのだ。この自然人は空中飛行についても一家言持っていた。
「だからさ」と、彼は語を継ぐ。「空を飛ぶのは不可能じゃない。それができたとしたら、と想像して見ろよ。意思の力で地面から離れるんだ。考えても見ろよ。天文学者は俺たちの太陽系は死につつあると言っているだろ。とんでもないことが起きない限り、地球の温度はどんどん下がっていって生物は生きられなくなるんだ。でも、かまわない。そうなる頃には人類すべてが空を飛べるようになっていて、この滅びゆく惑星を捨てて、どこか住みやすい世界を探しに行くんだ。どうすれば空中飛行できるのかって? 進歩は早いぜ。そうさ。俺は何度も跳び上がっているが、実際に自分が少しずつ身軽になってきている気がするよ」
狂ってるのか、こいつ、とぼくは思った。
「むろん」と、彼は続けた。「これは俺の理論にすぎなくて、人類の輝かしい未来をあれこれ考えるのが好きなんだ。空を飛ぶことはできないかもしれないが、できるかもしれないと思いたいんだよ」*
* ライト兄弟が自作の飛行機で初めて空を飛んだのは一九〇三年である。ジャック・ロンドンがスナーク号を建造して航海に出たのはそのわずか四年後の一九〇七年で、「機械が空を飛ぶはずがない」と主張する専門家も多くいた時代である。
そうした時代に、南太平洋の孤島の密林に住みながら自家用飛行機や宇宙旅行を論じているのだから、周囲から頭のおかしな変人扱いされるのも無理はない。
それにしても、ジャック・ロンドンの行くところ、ユニークな人間に遭遇することが多い。これは単なる偶然ではなく、常にそういうアンテナを張りめぐらせていて、捉えたものを自分の色メガネで見ないようにしているためだろう。
ある日の夕方、彼があくびをしたので、眠る時間はどれくらいなのか聞いてみた。
「七時間」という返事だった。「だが十年後には六時間にし、二十年後には五時間だけにするつもりだ。つまり、十年ごとに一時間ずつ減らしていこうってわけさ」
「じゃあ百歳になったら、まったく寝ないというのか?」
「そう、そのとおり。俺は百歳になったら寝る必要もなくなると思ってるんだ。それに、そのころはもう宙に浮いて暮らしているはずさ。植物にも空中で育ってるのがあるだろ」
「だが、そんなことできたやつなんかいないだろ?」
彼は頭を振った。
「そんなやつのことは俺も聞いたことがない。ま、これは、俺独自の理論ってやつでね、宙に浮いて暮らすのは気持ちよさそうだとは思わないか? むろん不可能かもしれないが、無理というわけじゃない。あんたも知っているように、俺は夢想家ってタイプじゃないだろ。現実を忘れたことはないんだ。未来に思いをはせるときには、いつも戻り道がわかるように紐(ひも)をつけておくのさ」
この自然人は冗談めかして言っているのだろうが、いずれにしても単純明快な生活をしてはいる。衣装持ちじゃないので洗濯代はたいしてかからないし、自分の農園でとれた果実を売って暮らしているが、労賃については自分では一日五セントと見積もっている。いまのところ市場への道が封鎖され、社会主義も広めなきゃというので街に家があるが、街での生活費は家賃を含めると一日二十五セントになる。こうした経費の支払にあてるため、中国人向けの夜間学校も経営していた。
この自然人は理屈にこり固まったやつじゃない。菜食主義者だが、肉しかないのであれば肉も食うし、牢屋や船上では木の実や果物だけでもやっていける。とはいえ、日焼けをのぞいて、何か具体的な行動計画を持っているというのでもなかった。
「投錨しても、錨がきかずに走錨することがあるだろ。つまり、人の心は無限で底なしの海みたいなもので、犬の檻とは違うんだ」と、彼は語を継いだ。「要するに、俺はいつも走錨してるんだ。俺は人類の健康と進歩を願いつつ生きていて、そっちの方向に走錨するようにしてるってわけだ。この二つは俺には同じことなんだよ。錨がきいて一カ所に閉じこめられなかったから俺は救われたんだ。俺は錨で死の床につなぎとめられたりはしなかった。俺はヤブの中まで錨を引きずっていって、医者連中から逃れたのさ。健康を取り戻し、強くなったところで、人々に自然に帰ろうと呼びかけたんだが、だれも聞く耳を持たなかった。それで、汽船に乗ってタヒチまでやってきたんだ。俺に社会主義を教えてくれたのは操舵手だったな。人間が自然に帰って生きていくには、経済的に平等じゃなきゃだめだってね。それで、俺はまた錨を引きずっていきながら、共同体を作ろうとしているわけさ。それが実現すれば、自然の中で暮らすことも簡単になるだろうよ」
「昨夜、夢を見たんだ」と、彼は思い出しながら続けた。顔が少しずつ輝いてくる。「自然の生活をしたいという二十五人の男女がカリフォルニアから汽船で到着するんだ。それで俺は連中と一緒に野ブタの獣道を農園まで登りはじめたんだよ」
ああ、日光浴が好きな自然人のアーネスト・ダーリングよ、ぼくは君や君の気ままな暮らしをうらやましく思ったことが何度もある。今でも、踊りながら階段を上ったりベランダでおどけた仕草をしていたり、崖から海に飛びこんだりしているのが見えるような気がする。
目を輝やかせ、陽光をあびた体は光に包まれ、「アフリカのジャングルのゴリラは、自分の胸をたたく音が一マイル離れたところで聞こえるまで胸をたたくんだ」と言いながら、胸をたたく音がぼくの耳の奥で鳴り響いている。
そうして思い出すのはいつも、別れを告げた最後の日の君だ。
スナーク号は再び外海に向けて、波がくだけている岩礁の間を抜けようとしていた。ぼくは海岸にいる人々に手を振った。とくに、ちっぽけなアウトリガーカヌーの上に直立している、赤いふんどし姿の、日に焼けた太陽神のような男に対して友情と愛情をこめて別れを告げたのだった。
よそ者が到着すると、誰もがわれさきに駆け寄り、自分の友人として自分の住まいに連れて行こうとする。そして地区の住民から最大級のもてなしを受ける。上座に座らされ最高のごちそうがふるまわれる。
ポリネシア人の研究
スナーク号はライアテア島ではウツロア村の沖合いに錨泊した。前夜に着いたときは暗くなっていたので、ぼくらは朝から上陸する準備をしていた。
早朝、ぼくは小さなアウトリガーカヌーが礁湖を飛ぶようにやってくるに気がついた。普通ではちょっと考えられない巨大なスプリットスルを揚げている。カヌー自体は棺桶のような形をした丸木舟で、長さ十四フィート(約四・二メートル)、幅十二インチ(約三十センチ)、深さ二十四インチ(約六十センチ)ほどだ。両端がとがっているのを除けば、船というにはほど遠い。舷側は垂直になっているし、アウトリガーがなければすぐにひっくり返ってしまうだろう。ちゃんと縦になって浮かんでいられるのはアウトリガーのおかげだ。
帆について、ちょっと考えられない巨大なセイルと言ったが、たしかにそうなのだ。実際に自分の目で見ない限り、とても信じられないだろう。というか、見たって目を疑うしかない。帆を揚げた状態でのブームの長さに衝撃を受けてしまう。帆の上の方がとんでもなくでかいのだ。あまりにも大きいので、普通の風が吹いただけでスプリット(斜桁)はそのパワーを支えきれないだろう。帆を支えている帆桁の一端はカヌーに固定されているが、もう一端は海面上に飛び出していて、張り綱で支えてある。セイルの下縁はメインシートで下に引かれているが、帆の上縁はスプリットに固定されている*。
* 帆の形状はクラブクロウ(カニのハサミ状)と思われる。ちょっと考えられない巨大な帆とは、上部が大きい逆三角形の帆がついていることを指す。
原著の白黒写真では全体がよくわからないが、参考までに、こちらに同じ大平洋にあるポンペイ島(カロリン諸島)のプラウと呼ばれるセーリング・カヌーの写真を掲載しておく。
単なるボートではないし、単なるカヌーでもなく、セーリングに特化したマシンというべきか。操作している男は自分の体重をうまく使って強心臓で帆走させているが、心臓の強さの方がまさっているのだろう。このカヌーが風下から風上へ向かうのと村の方へ風下帆走するのを見ていたが、一人きりの乗員は、風上に切り上がっていくときはアウトリガーの外側の方に身を乗り出し、風が強くなるとうまく風を逃がしていた。
「ようし決めた」と、ぼくは宣言した。「あのカヌーに乗るまでライアテアを出ないぞ」
数分後、ウォレンがコンパニオンウェイからぼくを呼んだ。
「あんたが言ってたカヌーがまた来たぜ」
ぼくは甲板に飛び出し、持ち主に挨拶した。長身痩躯のポリネシア人で、無邪気な顔をしている。澄んだきらきらした眼をして、頭も良さそうだった。赤い腰巻きに麦わら帽子という格好だ。両手には贈り物を持っていた。魚一匹とひと抱えの野菜類、それに何個かの巨大なヤムイモ。そのすべてが微笑(これがポリネシアの島々での通貨だ)と何回ものマウルール(タヒチ語で「ありがとう」)で受け渡しされる。ぼくは、そのカヌーに乗って見たいと身振り手振りをまじえて伝えてみた。
彼の顔は喜びに輝いた。
タハアとひとこと言い、同時に三マイルほど離れた島の、高くて雲がかかった山頂にカヌーを向けた。タハア島だ。
いい風が吹いてはいたが、戻りは風上航になるし、ここにきてタハア島に行きたいとは思わなかった。ぼくはライアテアへの手紙をことづかってきていたし、役人にも会わなきゃならず、下の船室には上陸する準備をしているチャーミアンもいる。ぼくは何度も身振りで礁湖でちょっと帆走してみたいだけだという希望を伝えた。彼の顔にはすぐに失望した表情が浮かんだが、微笑して承諾してくれた。
「ちょっとセーリングしよう」と、ぼくは下のチャーミアンを呼んだ。「でも水着を着ろよ。ぬれるから」
現実とは思えない。夢だった。
カヌーは海面を猛スピードで滑走している。タイハイイが操船している間、ぼくはアウトリガーに身を乗りだして、風でカヌーが持ち上がるのを体重で抑えた。風が強くなると、彼もアウトリガーに身を乗りだし、同時に足でメインシートを押さえこみ、両手で大きな舵を操作した。
「タック用意!」と、彼が叫ぶ。
帆から風が抜けていくとき、バランスをとるため、ぼくは慎重に体重を内側に移動させた。
「タック!」と叫ぶと、彼はカヌーを風上に向けた。
ぼくはカヌーから横につきだしている腕木に乗って反対側の海面上に移動した。反対舷で風を受けてまた帆走する。
「オーライ」と、タイハイイが言った。
タック用意、タック、オーライという三つの言葉がタイハイイの知っている英語だった。それで、彼はアメリカ人の船長のいる船にカナカ人の船乗りとして乗り組んでいたことがあったのではないかと、ぼくは思った。
風がとぎれ、また次の風が吹いてくるまでの間、ぼくは彼に対して繰り返し「船乗り」という言葉を口にしてみた。フランス語でも言ってみた。海という言葉も水夫という言葉も通じなかった。ぼくのフランス語の発音が悪いのか、他の理由からか、反応しないのだ。で、ぼくは勝手に自分の想像は当たっていることにした。
最後に、近くの島々の名前を言ってみたところ、うんうんと、それには反応した。ぼくの質問がタヒチに及ぶと、彼はその意味がわかったようだった。彼がどういう風に考えているのか、ほとんど手に取るようにわかったし、彼が思案する様子を見ているのは楽しかった。彼ははっきりとうなづいた。そう、タヒチに行ったことがあるのだ。しかも、ティケハウ、ランギロア、ファカラヴァなどの島々の名前についても自分から口にした。それはツアモツまで行ったことがある証拠だ。貿易船のスクーナーにでも乗り組んでいたのだろう。
少し帆走してスナーク号に戻ると、彼は身振り手振りでスナーク号の目的地を聞いてきた。サモア、フィジー、ニューギニア、フランス、イギリス、カリフォルニアと、航海予定の順に言うと、彼は「サモア」と口にし、自分も行きたいと身振りで示した。船には君を乗せるだけのスペースがないと説明するのはむずかしかった。「舟が小さいから」という理由をフランス語で言って納得してもらった。彼は微笑したが、その後に失望した表情を浮かべた。とはいえ、すぐにタハアに来るようまた招待してくれた。
チャーミアンとぼくは互いに顔を見合わせた。セーリングで高揚した気分がまだ残っていたぼくらは、ライアテア宛の手紙や訪ねる予定だった役人のことはすっかり忘れてしまった。靴にシャツ、ズボン、たばこ、マッチ、読むべき本をあわててビスケットの缶に詰めてゴム生地の布で包み、カヌーに乗った。
「いつごろ迎えに行こうか?」と、ウォレンが声をかけた。
帆に風をはらんでタハア島に向かいかけていた。ぼくはすでにアウトリガーに身を乗り出している。
「わからない」と、ぼくは答えた。「戻るときにはできるだけ近くまで来るよ」
そうして、ぼくらはスナーク号を離れた。風が強くなった。追い風を受けて帆走した。カヌーの乾舷は二インチ半(約七~八センチ)しかないので、小さな波でも舷側をこえて入ってくる。水くみが必要だった。水くみはバヒネの仕事だ。バヒネとはタヒチ語で女性を指す。カヌーに女性はチャーミアンしかいないので、彼女の役割になった。
タイハイイとぼくは二人ともアウトリガーに乗り出していて、カヌー本体の水くみはできなかった。カヌーがひっくり返らないようにするだけで手一杯だった。それで、チャーミアンが単純な形の木椀で海水をすくいだしたのだが、見事な手ぎわでかいだしてしまうので、航程のほぼ半分は手を休めてのんびりしていた。
ライアテアとタハアは、周囲をサンゴ礁に囲まれた同じ海域にあるユニークな島だ。
どちらも火山島で、山稜には凹凸があり、山頂は尖塔(せんとう)のように屹立(きつりつ)している。ライアテア島は周囲三十マイル、タハア島は十五マイルある。となれば、それをぐるりと取り囲んでいるサンゴ礁の大きさも想像できるだろう。二つの島の間には一、二マイルの砂州が伸びていて、美しい礁湖となっていた。広大な太平洋からの波が、長さ一マイルか半マイルも一直線になってサンゴ礁に押し寄せている。サンゴ礁を乗りこえ、無数の水しぶきとなって降りそそぐ。もろいサンゴでできた岩礁はその衝撃に耐えて島を守っていた。その外側には頑丈な船が難破して浮かんでいた。サンゴ礁の内側は波もなく穏やかで、ぼくらが乗っているような乾舷が二インチほどのカヌーでも帆走できるのだ。
ぼくらは海面をすべるように飛んでいった。
しかも、なんという海だろう!
わき水のように透明で、最高級の水晶のように透きとおっている。しかも、さまざまな色の壮大なショーが展開され、どこの虹よりもすばらしい見事な虹もかかっていた。
カヌーはいまや赤紫の海面を飛ぶように走っていた。ヒスイを思わせる深緑色はトルコ石の色に変わり、その深い青緑は鮮やかなエメラルド色に変化した。海底がまた白いサンゴ砂になると、まばゆいばかりに白く輝き、奇怪なウミウシも出現する。あるときは、すばらしいサンゴの庭の上にいた。そこでは、色とりどりの魚が遊び、海のチョウチョがひらひら舞っているようだ。と思うまもなく、次の瞬間には、ぼくらはサンゴの魔法の庭にいた。その次の瞬間には、ぼくらは深い海峡の濃い海面を突っ走っていた。トビウオの群れが銀色に輝きながら飛翔している。さらにまた次の瞬間には、ぼくらはまた生きているサンゴの庭の上にいて、それぞれがさっき見たばかりのサンゴよりすばらしいのだ。頭上には熱帯の空がひろがり、ふわふわした雲が貿易風に流されながら浮かんでいる。柔らかいかたまりの雲は水平線のはるか上方まで積み重なっている。
ふと気がつくとタハア島の近くまで来ていた。
タハアはター、ハー、アーと同じ強勢で発音する。
タイハイイはチャーミアンの水くみの達者なことに満足し微笑を浮かべている。岸から二十フィートほどになったところでカヌーが浅い海底につかえたので、ぼくらはカヌーから海に降りた。足の下が妙にやわらかだった。大きなウミウシがまるまり、ぼくらの足の下で身をよじっていた。小さなタコを踏みつけたときは、それにもましてグニャッという感じがして、すぐにわかった。
浜辺に近づいてみると、ココナツとバナナの林の中に、竹でできた草ぶきの屋根を持つ高床式のタイハイイの家があった。家から奥さんが出てきた。やせた小柄な女性で、親切そうな目をしていた。北米のインディアンの血筋でないとすれば、蒙古系かなと思われる特徴があった。「ビハウラだよ」と、タイハイイが紹介した。ビハウラと呼んだが、英語のスペルがどうかなどと考えながら発音したわけではない。ビハウラは一音節ごとに鋭く強調され、ビー・アー・ウー・ラーと聞こえた。
彼女はチャーミアンの手をとり、家の中へ導いた。後に残されたタイハイイとぼくも後からついていく。そこで、彼らが所有しているものはすべてぼくらのものだと伝えられた。身振り手振りだったが、それは間違いない。
与えるという行為について言えば、ヒダルゴウと呼ばれるスペインの下級貴族ほど気前のよいものはない。とはいうものの、ぼくは本当に気前のいいヒダルゴウに実際におめにかかったことは、ここに来るまでほとんどなかった。
ぼくとチャーミアンはすぐに、彼らの所有物をあえてほめないようにしようと心がけた。というのは、ぼくらが特定のものをほめると、それはすぐにぼくらへの贈り物になってしまうからだ。
二人の女性は女同士で服について話をしたり互いの服を手にとったりしている。タイハイイとぼくは男同士というわけで、ダブルカヌーに乗って四十フィートの竿でカツオを釣る仕掛けを手はじめに、釣りの道具や野生化したブタの狩猟について話をした。
チャーミアンが編み籠をほめる。ポリネシアで見た最高の籠だ、と。すると、それは彼女のものになった。ぼくは真珠貝で作ったカツオ釣りの針をほめたが、それはぼくのものになった。チャーミアンはワラを編んだヒモの編み目に魅了された。一巻きで三十フィートはあり、どんなデザインの帽子も思いのままに作れる量だ。するとそのヒモ一巻が彼女に進呈された。ぼくは昔の石器時代にまで起源をさかのぼれるようなポイを作る臼をじっと見つめていたが、それはぼくに進呈された。チャーミアンはポイ用のカヌーのような形をした木椀を感心して眺めていた。木に四本の脚まで彫りこんである。それも彼女のものになった。ぼくはひょうたんで作った大きな置物をつい二度見してしまったが、それもぼくのものになった。それで、チャーミアンとぼくは相談し、もう何もほめないようにしようと決めたというわけだ。
そういう品に価値がないというのではない。ぼくらがもらってしまうにはもったいなさすぎると感じたからだ。そして、スナーク号に積んであるもので何かお返しになるものはないか頭をひねった。こうしたポリネシアの贈り物をする風習に比べれば、クリスマスの贈り物など、頭をなやますほどの問題ではない。
ぼくらは夕食ができるまで、すずしいポーチで、ビハウラが編んだ最高のマットの上に座っていた。同時に村人たちにも会った。二、三人連れや集団でやって来たりしたが、握手をし、タヒチ語で「イオアラナ」と挨拶した。正確な発音はヨー・ラー・ナーだ。男たちはがっしりした体躯に腰巻き姿で、シャツを着ていない者もいた。女たちはそろってアブーと呼ばれる布で肩から足下までをおおっていた。優美なエプロンのようなものだ。見ていて悲しくなったのは、象皮病に苦しんでいる者が何人かいたことだ。すばらしいプロポーションの魅力的な女性がいて、相当の美人だったが、片方の腕の太さがもう一方の腕の四倍、いや十二倍もあるのだ。彼女の横には六フィートの男が立っている。筋肉質で、よく日焼けし、申し分のない体をしているが、足やふくらはぎが象の足のようにむくんでいる。
南太平洋の象皮病の原因について確かなことはまだわからないらしい*。汚染された水を飲んだからだという説もあるし、蚊にかまれて感染したという説もある。元々の素質に加えて環境に順化する過程でそうなったという第三の説もある。とはいえ、誰もそれをひどく気にかけてはいない。
* 象皮病: 寄生虫(フィラリア類)による感染症の一種で、蚊が媒介する。
皮膚や皮下組織が増殖して硬化するため、体の一部が肥大化し、象の皮膚のようになることからこう呼ばれている。江戸時代には日本でも流行し、西郷隆盛もかかっていたとされる。
南太平洋では、どこに行っても似たような病気が広がっている可能性がある。南太平洋を航海する者にとっては現地の水を飲まなければならないときもあるが、逆に必ず蚊にさされるとも限らない。
とはいえ、そういうことをこわがって予防措置を講じても役には立たない。海で泳ごうとして、はだしでビーチを走れば、そこはその少し前に象皮病の患者が歩いたところかもしれないのだ。自分の家にとじこもっていても、食卓に並ぶ新鮮な食物すべてが、肉や魚や鶏や野菜が汚染されている可能性だってある。パペーテの公設市場では、ハンセン病とわかっている患者二人が歩いていたりした。魚や果物、肉、野菜などの日常の食品がどういう経路でその市場に到着したのかは、神のみぞ知る、である。
南太平洋の航海を楽しむ唯一の方法は、どういうことにも無頓着を決めこんで心配したりせず、「自分はまばゆいばかりの幸運の星の下に生まれてきたのだ」と、クリスチャン・サイエンスの信者のように固く信じることだ。
象皮病に苦しんでいる女性がココナツの果肉から果汁を素手でしぼり出すところを見たとしても、しぼりだす手のことは忘れて飲みほし、なんてうまいんだ、と感心することだ。さらに、象皮病やハンセン病のような病気は接触感染するのではないらしいということも忘れないようにしよう。
異常に肥大し変形した手足を持つラロトンガ島の女性がぼくらに飲ませるココナツ・クリームを準備し、タイハイイとビハウラが料理をしている調理場に行くのを目撃した。そのクリームは乾物類の箱に載せて、室内でぼくらに供された。主人達はぼくらが食べ終わるのを待っている。それから自分たちのテーブルを広げた。それも、ぼくらに供された!
ぼくらはたしかに歓待されていた。まず、見事な魚が出た。釣り上げるのに何時間もかかったもので、水で薄めたライムジュースにつけこんであった。それからローストチキンが出た。おそろしく甘いココナツが二個、飲用に供された。イチゴのような風味で口に入れるととろけるバナナもあったし、アメリカ人の先祖がプディングを作ろうとしたことを後悔するほどにうまいバナナのポイもあった。煮たヤムイモやタロイモ、大きすぎず小さすぎず切り分けた、多汁で赤い色をした、調理済みのバナナもあった。ぼくらはその豊富さにびっくりした。
が、子ブタがまるまる一匹、かまどで焼かれて運ばれてきたのには仰天した。
これはポリネシアで最高に贅沢な食事なのだ。その後にコーヒーが出された。黒くて、うまく、タハア島の丘で栽培された現地産のコーヒーだった。
ぼくはまたタイハイイの釣り道具に魅了された。釣りに行く約束をし、チャーミアンとぼくは今夜はここに泊まることにした。タイハイイがサモアの話を持ち出し、舟が小さいからというこちらの言い訳がまた彼を失望させたが、彼は顔には出さず笑顔を浮かべていた。ぼくらが次に行く予定にしていたのはボラボラ島だ。さほど遠くないが、ボラボラ島とライアテア島との間には小型船が就航している。それでぼくはタイハイイに、スナーク号でボラボラ島まで行かないかと言ってみた。彼の妻がボラボラ生まれで、そこに実家もあるとわかったので、彼女も誘ってみた。すると彼女の方が、ぜひ実家に泊まるようにと、逆にぼくらを招待してくれた。その日は月曜だった。火曜に釣りに行き、ライアテアに戻る。水曜にぼくらはタハア島まで来て、島から一マイルほどのところでタイハイイとビハウラを拾ってボラボラ島へ行くことにした。こうしたことすべてを決め、それ以外の話もした。だが、タイハイイが知っている英語は三語だけだし、チャーミアンとぼくが知っているタヒチ語は一ダースほどだ。それに加えて、ぼくら四人全員が理解できるフランス語が一ダースくらいあった。むろん、こうした多言語が入り交じった会話はすらすらとは進まなかったが、メモ帳と鉛筆、チャーミアンがメモ帳の裏に描いた時計の文字盤と身振り手振りで、何とかうまくやれた。
夜になって最初に気づいたのは、寝床が少しかしいだ、ということだ。
そっとうかがっていると、家に来ていた客たちが柔らかいマットを抱えて退去していく。タイハイイとビハウラも同じように姿を消した。家は大きなワンルームのような状態になったが、それがぼくらに丸ごと提供され、家の主人たちはどこか他の場所に寝に行ってしまった。つまり、この城がぼくらのために提供されたのだ。
ここで言いたいのは、ぼくは世界のいろんな場所でいろんな人々から歓待された経験があるが、このタハア島の褐色の肌のカップルから受けた歓待に匹敵するものはないということだ。なんでもほめるとそれをくれたとか、見返りを求めない気風とか、気前がいいとかを言っているのではない。そうではなくて、礼儀正しさだったり、思慮深さだったり、分別だったりという、相手を理解した上で示される心からの共感、といったことを言っているのだ。
彼らは自分たちの道徳に従って義務としてやったのではなく、ぼくらがしてほしいと思っていることを理解した上で、それを行っている。しかも、その判断は当たっていた。出会って数日のうちに、彼らが自分で考えてやってくれた、こまごまとした多くのことをいちいち数え上げることはできないが、ぼくがこれまでの人生で受けたもてなしや歓待は、どれをとっても、この二人のもてなしや歓待ほどではなかったし、それに匹敵するものでもなかった、とだけ言わせてもらえば十分だ。
最もすばらしいと思えるのは、そうしたことが教育されて身についたものではなく、複雑な社会の理想によるのでもなく、心からほとばしりでた、飾り気のない、自然な発露によるものだったということなのだ。
翌朝、ぼくら、つまりタイハイイ、チャーミアンとぼくは棺桶の形をしたカヌーで釣りに行った。このときは例の巨大な帆は持っていかなかった。この小さな舟で帆走と釣りを同時にはできないからだ。
数マイル離れた、岩礁の内側にある海峡の深さ二十尋(ひろ)ほどのところで、タイハイイは針に餌をつけた。餌はタコの切り身で、錘(おもり)は石だ。タコはまだ生きていて、カヌーの底でくねくね動いている。投入した釣り糸は九本。それぞれの釣り糸には竹の浮きがつけてあり、海面に浮かんでいる。魚がかかると、竹の一端が海中に引きづりこまれる。当然のことながら竹は縦になって反対側が空中に突き出して、ピクピク動いたりはげしく揺れたりして、ぼくらに早く引き上げるよう促すのだ。竹の浮きが次々に合図を送ってくるので、パドルで漕ぎつつ、そのたびに歓声やら叫び声をあげて大急ぎで引き上げると、長さ二フィートから三フィートのきらきらと輝く見事な獲物が深いところから上がってきた。
東の方にあやしげな雨雲が立ち上り、貿易風帯の明るい空を着実にこちらに迫ってくる。ぼくらは家のあるところから三マイルほど風下側にいた。最初の突風が吹き、白波が立った。やがて雨も降りはじめた。熱帯特有のスコールで、空のあちらこちらに青空が見えているが、雨雲の下になると、いきなり土砂降りになった。チャーミアンは水着を着ていたが、ぼくはパジャマ姿だったし、タイハイイは腰巻きだけだ。浜ではビハウラが待っていて、母親が泥遊びしていたおてんばな幼い娘に対するように、チャーミアンを家の中に連れて行った。
服を着替えていると、カイカイを調理している乾いた煙が静かに立ち上ってきた。カイカイというのは「食べ物」とか「食べる」という意味のポリネシア語で、太平洋の広大な地域で幅広く使われているが、これがむしろ語源に近い形だろう。マルケサス諸島やラロトンガ、マナヒキ、ニウエ、ファカアフォ、トンガ、ニュージーランド、ヴァテではカイと言っていた。タヒチでは「食べる」はアムに変化し、ハワイやサモアではアイに、バウではカナに、ニウアではカイナに、ノンゴネではカカに、ニューカレドニアではキに変化していた。
とはいえ、発音や表記が異なっていても、雨に濡れながらずっとパドルを漕いできた身には、この言葉の響きはここちよかった。ぼくらはまたも上座に座らされて、ごちそう責めにあった。後悔、先に立たずである。
スナーク号に戻るための準備をしていると、東の空がまたも暗くなり、別のスコールが襲ってきた。
だが、今度は雨が少なくて風だけだった。何時間もうなりをあげてヤシの林を吹きすさび、もろい竹の住居を引きちぎり、吹き倒し、揺さぶっていった。外洋に面した岩礁では、大海原のうねりが押し寄せ、そのたびに雷鳴のような轟音が響く。砂州の内側の礁湖は保護されているのだが、白波が立ち、ハイハイイの腕を持ってしても、細いカヌーで進むことはできなかった。
スコールは日没までには通り過ぎた。しかし、カヌーで戻るにはまだ波が高かった。それで、ぼくはタイハイイにライアテアまで船を出してくれる人を見つけてもらった。運賃は計二ドルと一チリ。チリは米国の通貨で九十セントに相当する。タイハイイとビハウラが大急ぎで用意した贈り物を運ぶのに村人の半数が必要だった。籠に入れた鶏、下ごしらえして緑の葉で包んだ魚、見事な金色のバナナの房、オレンジとライム、アリゲーターピア(バターフルーツとも呼ばれるアボカド)がこぼれんばかりに詰めこまれた、葉を編んだ籠、ヤムイモ、タロイモ、ココナツの入った巨大な籠、最後に大量の木の枝や幹――これはスナーク号で使う薪用だ。
その船のところまで行く途中、タハアで唯一の白人男性に会った。ニューイングランド出身のジョージ・ルフキン氏、八十六歳!
本人によれば、四十九歳のときにゴールドラッシュでエルドラドに行ったという。カリフォルニアのツゥーレアの近くの牧場に短期滞在したこともあるらしい。そうした短期の不在をのぞけば、この六十数年間をソシエテ諸島で過ごしてきたようだ。
医者に余命三ヶ月と宣告されてから南太平洋に戻り、八十六歳になる今日まで生きてきたが、余命宣告した当の医者たちはとっくに死んでしまった、と含み笑いを浮かべている。彼もフィーフィーをわずらっていた。現地の言葉で象皮病を指し、フェイフェイと発音する。この病気にかかったのは四半世紀前だ。死ぬまで直ることはないだろう。
親類縁者はいないのか、と聞いた。隣にいた六十歳ほどの快活な女性が娘だった。「この娘だけさ」と、彼は悲しげに言った。「娘の子は死んじまった。ほかにはもう誰もいない」
頼んだ船は小さかった。一本マストで前帆と主帆を持つスループ型の帆船でもあったが、タイハイイのカヌーと並べると、さすがに巨大に見えた。
礁湖に出ると、強風を伴うスコールに襲われた。
この船は、スナーク号に比べると想像上の小人国の船のように小さかったものの、どっしりしていて安定感があった。乗組員の腕もよかった。タイハイイとビハウラも見送りにやってきた。ビハウラも腕のいい船乗りだとわかった。この船には十分なバラストが積んであったので、とにかく安定していた。スコールに襲われた際も、そのままフルセイルで帆走した。暗くなり始めていた。礁湖にはところどころサンゴが群生していて、ぼくらはその上を進んだ。スコールが激しくなってきたところで、タックしようと船首を風上に向け、サンゴの群生地を迂回(うかい)した。コースも短縮されるし、海底まで一フィートもなかったからだ。反対舷に風を受ける前に船は「死んだ」状態になった。風に吹き倒されかけたのだ。ジブシートとメインシートを緩めると、船は起き上がったものの風に立ってしまった。風上を向いたところで、それ以上は向きを変えることができず、船の勢いがとまってしまった。三度試みて、そのつど横倒しになりかけた。シートを緩めて風を逃がしつつ、三度目にやっとのことで風軸をこえて反対舷で風を受けることができた。
次にタックするまでの間にすっかり暗くなった。そのころには、ぼくらはスナーク号の風上側に出ていた。スコールは居丈高な音を響かせている。メインを下ろし、小さなジブだけにした。スナーク号は二本の錨をがっしりきかせていたが、ぼくらを乗せた船はそこを通り過ぎてしまい、もっと岸よりのサンゴに座礁してしまった。スナーク号から一番長いロープを繰り出してもらって一時間ほど四苦八苦したあげくに船を引き出すことに成功し、無事にスナーク号の船尾につないだ。
で、約束した日、ぼくらはボラボラに向けて出帆したのだが、風が弱く、タイハイイとビハウラがぼくらと会う予定だったところまでエンジンをかけて機走した。サンゴ礁に囲まれた陸地まで来て友人たちを探したが見つからない。気配もなかった。
「待てないぜ」と、ぼくは言った。「この風じゃ暗くなるまでにボラボラには着けないだろうし、必要以上にガソリンは使いたくないしな」
そう、南太平洋ではガソリンが問題なのだ。次にいつ手に入るか、誰にもわからない。
と、そのとき、タイハイイが木々の間から姿を現して岸辺までやってきた。
シャツを脱ぎ、それを激しく振った。ビハウラはまだ用意ができていないようだった。乗船してきたタイハイイは、この陸地に沿って彼の家の対岸まで行かなければならないと伝えた。サンゴ礁を抜けるときには彼が舵を握った。すべて通り抜けるまで、要所でうまく導いてくれた。歓迎する叫び声が浜辺から聞こえてきた。ビハウラが何人かの村人の助けを得て二隻のカヌーに荷物を載せてやってきた。甲板には、ヤムイモやタロイモ、フェイス、パンノキ、ココナツ、オレンジ、ライム、パイナップル、スイカ、アボカド、ザクロ、魚がところ狭しと積み上げられ、コッコ、コッコと鳴いたり卵を産んだりするニワトリもいれば、いまにも屠殺(とさつ)されるんじゃないかと不安にかられてブーブーと鼻をならしている生きたブタもいた。
月あかりの下で、ボラボラ島のリーフの間を通っている危険な航路を抜け、ヴァイタペ村の沖会いに投錨した。ビハウラは主婦らしく心配症で、相手の迎える準備が整う前にぼくらが到着してしまわないよう、上陸をぎりぎりまで遅らせた。彼女とタイハイイがボートで小さな突堤まで行った。その間、静かな礁湖に音楽や歌声が流れていた。ボラボラ島の人々はとても陽気だった。ソシエテ諸島ではどこもそうだった。
チャーミアンとぼくは海岸まで行って見物し、忘れ去られた墓所のそばにある村の共有地で、花冠をつけたり花で飾り立てた若者や娘たちが踊っているのを見た。髪には不思議な光を帯びた花を差し、それが月明かりに光っている。浜辺には、長さ七十フィートの巨大な楕円形をした草の家があり、そこで村の長老たちが賛美歌のような歌をうたっていた。彼らも陽気で花冠をつけており、ぼくらを迷える羊のように家の中へと迎え入れてくれた。
翌朝早く、タイハイイがスナーク号までやってきた。捕らえた新鮮な魚をヒモに通して持っている。その日の宴(うたげ)に招待しにきてくれたのだ。
食事に行く途中、ぼくらは祝いの歌がうたわれる家に立ち寄った。同じ顔ぶれの長老たちが、昨夜は見なかった若者や娘たちと一緒に歌をうたっていた。様子から判断すると、祭りの準備をしているようだ。果物や野菜が山のように積み上げられ、周囲にはココナツの繊維を編んだヒモをつけられたニワトリもたくさんいた。何曲か歌った後で、男の一人が立ち上がって話をした。その話はぼくらに向けられたもので、まったくちんぷんかんぷんだったが、山のように積み上げられた食べ物はぼくらと何か関係があるということだけはわかった。
「これぜんぶ私たちにくれるっていうの?」と、チャーミアンがささやいた。
「ありえない」と、ぼくも小声で返した。「くれる理由なんかないだろ? それに船には積む場所もないし、十分の一も食べきれやしない。あまらせても腐るだけだしな。祭に招待するって言ってくれてんだろ。いずれにしても、ぜんぶくれるなんてありえないよ」
とはいえ、ぼくらはここでもまた最高の歓待を受けることになった。
話をしていた男は身振り手振りで、山のように積み上げられたすべての品々は間違えようもなく、ぼくらへの贈り物だと伝えたのだ。
なんとも困ったことになった。寝室が一部屋しかないところに、友人が白いゾウをくれると言っているようなものだ。スナーク号は小さいし、すでにタハア島でもらった品々を満載しているのだ。ここでまたこんなにもらってしまうと、もうどうしようもなくなってしまう。ぼくらは赤面しながら、片言の言葉でマルルーと言った。タヒチ語でありがとうという意味だ。すばらしいという意味のヌイという言葉も繰り返して感謝の気持ちを伝えた。
同時に、身振り手振りをまじえて、これほどの贈り物を受け取るわけにはいかないとも伝えたが、これは礼儀に反することだった。歌をうたっていた人々はがっかりした様子を見せた。明らかに裏切られたという感じだった。で、その晩、ぼくらはタイハイイの助けを借りて妥協し、ニワトリを一羽とバナナを一房、それにタロイモなどを少しだけもらうことにした。
とはいえ、歓待を逃れるすべはなかった。
ぼくはすでに現地の人から一ダースものニワトリを買っていたのだが、翌日、その人が十三羽のニワトリを届けに来たとき、カヌーにそれとは別に果物を満載して持ってきてくれたのだ。フランス人の商店経営者はザクロをプレゼントしてくれたし、立派な馬も貸してくれた。憲兵も同様に大切にしている馬を貸してくれた。誰もが花を贈ってくれた。貯蔵庫に入りきらないため、スナーク号は花屋や八百屋の店先のような状態になった。いたるところ花だらけだ。歌い手たちが乗船してくると、娘たちはぼくらに歓迎のキスをしてくれた。乗組員は船長から給仕にいたるまで、ボラボラの娘に心を奪われてしまった。タイハイイはぼくらのために大物釣りのプランを立ててくれた。漕ぎ手として一ダースもの屈強な男たちが乗った双胴のカヌーで出かけるのだ。魚が釣れなかったので、ほっとした。でなければ、スナーク号は係留したまま積み荷の重さで沈没しかねなかった。
そうやって日々がすぎていった。歓迎はおさまる気配もなかった。
出発する日、カヌーが次から次へとやってきた。タイハイイは、キュウリやたくさんの実がついたパパイヤの若木を持ってきた。しかも、小さな双胴のカヌーに、ぼくのために釣り具一式を積んできてくれた。タハア島の時と同じように、果物や野菜もたっぷり持ってきた。ビハウラはチャーミアンにいろんな特別な贈り物を持ってきてくれた。絹綿(きぬわた)の枕や扇、飾りマットなどだ。住民たちも果物や花やニワトリを運んできたが、ビハウラはそれに生きた子豚をプラスした。会ったのかすらおぼえてすらいない人々も船の手すりから身を乗り出して、釣り竿や釣り糸や真珠貝で作った釣り針をくれた。
スナーク号が帆をあげて礁湖を進んでいくとき、船尾には小舟を曳航していた。これはタイハイイ用ではなくて、ビハウラがタハア島に戻るためのものだ。その小舟を切りはなすと、東に向かって遠ざかっていった。スナーク号は船首を西に向けた。タイハイイはコクピットにひざまづき、無言で祈りをとなえている。頬を涙がつたっていた。一週間後、マーチンが機会を見つけて現像した写真をプリントし、何枚かをタイハイイに見せた。すると、この褐色の肌をしたポリネシアの男は、最愛のビハウラの顔写真に号泣した。
とはいえ、いかんせん歓迎でもらった品数が多すぎる! 大変な量だ。船上で作業しようとしても果物が通路をふさいでしまっている。どこもかしこも果物だらけで、スナーク号にも足船にもあふれていた。天幕をかぶせていたが、それを張っているロープに重みがかかり、きしんだ音をたてている。
しかし、貿易風の吹く海面に出ると、積み荷が減り始めた。横揺れするたびに、バナナの房やココナツ、籠に入れたライムが振り落とされるのだ。金色の大量のライムが風下側の排水口まで流されていった。ヤムイモを入れた大きな籠が破れ、パイナップルやザクロはごろごろ転がっている。ニワトリは自由の身になり、いたるところにいた。天幕の上で寝たり、前帆用のブームにとまって羽をばたばたさせたり鳴いたりしている。スピンネーカーを揚げるためのポールを止まり木にして器用にバランスをとっているのもいた。このニワトリたちは野鶏で、飛ぶのになれていた。つかまえようとすると、海上に飛び出し、ぐるりと旋回して船に戻ってくる。戻ってこないのもいた。そうした混乱のさなか、見張っているものが誰もいなくて自由に動けるようになった子豚が足をすべらせて海に落ちてしまった。
『よそ者が到着すると、誰もがわれさきに駆け寄って友人として自分の住まいに連れて行こうとする。そこでは地区の住民から最大級のもてなしを受ける。上座に座らされ最高のごちそうがふるまわれる』
午前五時、ホラ貝が吹き鳴らされた。浜辺のいたるところから、昔の戦闘におけるトキの声のような不気味な音が聞こえてくる。漁師たちに起床し準備するよう促しているのだ。
スナーク号にいたぼくらも目が覚めてしまった。うるさいくらいホラ貝が吹き鳴らされているものだから眠ってなんかいられない。ぼくらも石を使った追いこみ漁に同行するのだが、準備はほとんどしていなかった。
タウタイ・タオラというのが、この石を使った漁の名称だ。タウタイは「釣り道具」、タオラは「投げられた」という意味で、タウタイ・タオラという風に組み合わせると「石を使った釣り」になる。投げる道具というのが石だからである。石を使った釣りというのは、いわゆるフィッシングではなく、ウサギ狩りや牛追いのように、実際には魚を追い立てていく漁だ。ウサギ狩りや牛追いでは追う方も追われる方も同じ地面にいるが、魚の追いこみ漁では、人間は息をするため海面上にいなければならない。とはいえ、水中の魚を追い立てるのに、水深が百フィートあっても問題はない。人間は海面にいて魚を追いこんでいく。
具体的なやり方はこうだ。
カヌーを百フィートから二百フィートずつ離して一列に並べる。カヌーの船首には男がいて、重さ数ポンドの石をふりかざしている。石には短いロープが結びつけてある。その石を海面にたたきつける。引き上げては、またたたきつける。何度も繰り返す。それぞれのカヌーの船尾には別の漕ぎ手がいて、カヌーは隊列を組み、同じペースで前進する。カヌーの列が一、二マイル離れた先に想定したラインまで達すると、両端にいたカヌーが急いで円を描くように距離をせばめていき、海岸にまで達する。カヌーを並べてつくった半円は海岸に向かって小さくなっていく。浜辺では、女たちが海に入り、列を作って立っている。足がずらりと並んで柵のようになり、逃げようとする魚を阻止するわけだ。円が十分に小さくなると同時に、一隻のカヌーが浜から飛び出し、ココナツの葉で作った間仕切りのようなものを海中に沈め、円に沿ってぐるぐるまわる。それが人の足でできた柵の効果を高めることになる。むろん、この漁はいつも、礁湖にできた砂州の内側で行われる。
「スバラシイ」と、立ち会っていた憲兵が身ぶり手ぶりで表現しながらフランス語で言っていた。
小魚からサメまで、さまざまな大きさの何千という魚が囲いこまれることもある。追いこまれた魚は海上に飛び上がり、そのまま海岸の砂の上に落ちてくる仕組みだ。
これはよくできた魚の捕獲方法の一つで、食糧確保のための退屈な漁というよりは、ちょっとした野外のお祭りだ。
ボラボラでは、こんな漁を兼ねたお祭り騒ぎが月に一度の割で行われ、昔から受け継がれている風習になっている。
これを誰が創始したのかについては不明だが、ずっと行われているのだという。針も網もヤリも使わない、こんな簡単な漁を誰が思いついたのだろうと思わずにはいられない。
その男については、一つだけわかることがある。保守的な部族の連中には、バカで伝統を重んじない、突飛な空想をする男だとみなされていたに違いないということだ。そいつが直面した困難は、手始めに一人か二人の資金提供者を見つけなければならない現代の発明家が直面する問題よりずっと大きかっただろう。
大昔にこの漁を思いついたやつは、部族の連中の協力が得られなければ自分のアイディアを試すことすらできないので、まず自分に協力してくれるよう全員を説得しなければならなかったはずだ。頭の固い連中を集めて、この原始的な島で夜ごと寄り合いを開いても、皆はやつを愚か者とか奇人とか変人と呼び、この田舎者めとバカにしたんじゃなかろうか。自分のアイディアを実際にためしてみるのに必要な人間を確保するまでに、どれほど罵倒され、どれくらい苦労したかは、天のみぞ知るだ。
とはいえ、その新しいやり方はうまくいった。試験に合格した──魚が捕れた! そうなってみると、だれもが、最初からうまくいくと思っていたよと言いだしたりしたんだろうなということも想像がつく。
友達になったタイハイイとビハウラがぼくらに敬意を表してこの漁に誘ってくれたのだが、二人は迎えに来るからと約束をしていた。甲板の方から呼ぶ声が聞こえたとき、ぼくらは下の船室にいた。すぐにコンパニオンウェイまで行って外を眺めた。ぼくらが乗るというポリネシアの舟を見て圧倒された。横木でつながれた長い双胴のカヌーで、舟全体が花やゴールドの草で飾られている。花の冠をつけた十二名の女たちがパドルを持ち、カヌーそれぞれの最後尾には舵をとる男がいた。みんな赤い腰巻姿で、金や赤、オレンジの花で飾りたてている。どこもかしこも花だらけ。花、花、花できりがない。いたるところ色彩が爆発している。カヌーの船首に渡した板の上ではタイハイイとビハウラが踊っていた。全員が声をそろえて歓迎の歌をうたってくれている。
彼らはスナーク号のまわりを三周してから、チャーミアンとぼくを乗せるためにスナーク号に横づけし、それから釣り場へと向かった。そこは五マイルほども風上にあり、そこまで漕いでいく。
「ボラボラではだれもが陽気だ」という言葉がソシエテ諸島全体に伝わっているが、ぼくらはそれを実際に体験した。漕ぎながら、カヌーの歌、サメの歌、釣りの歌をうたう。漕ぎながら声をそろえてうたう。
ときどき、マオ! という叫び声があがる。
と、全員が必死に漕ぐ。
マオとはサメのことで、この海のタイガーとでもいうべきやつが出現したとなれば、住民たちはまっしぐらに浜へと戻っていく。ちっぽけなカヌーがひっくり返って食われる危険があるとわかっているからだ。むろん、ぼくらの場合はサメが実際に出たのではなく、サメに追われているときのように必死に漕がせるためだ。「ホエ! ホエ!」という叫び声もあった。ホエは漕げという意味で、パドルはそれまでにもまして激しく海を泡立てた。
渡した板の上ではタイハイイとビハウラが踊っている。手拍子に歌やコーラスも加わる。パドルでカヌーの両舷をたたいてリズムをとったりもした。一人の少女がパドルを下に置き、プラットフォームに飛び乗ってフラダンスを踊った。踊りながら左右に体を揺らし、前屈みになり、ぼくらの頬に歓迎のキスをした。
歌には宗教的なものもあり、それは特に美しく、男たちの深い低音に女たちのアルトやかすかなソプラノがまじって、オルガンを思わせるような音の組み合わせになった。実際に「カナカのオルガン」というのが、この地域の歌の別名でもある。その一方で、詠唱やバラードは非常に荒々しく、キリスト教が伝えられる以前のものだ。
そんな風に歌ったり踊ったり漕いだりしながら、この陽気なポリネシア人たちはぼくらを釣りに連れて行ってくれたのだった。ボラボラ島を統治しているフランス人の憲兵も家族同伴で、自分の持つダブルカヌーでぼくらについてきた。漕いでいるのは囚人だ。このフランス人は憲兵で、統治者というだけでなく看守でもあるのだ。そして、この陽気な土地では、誰かが釣りにいくときは皆が行くのだ。
ぼくらのまわりには、アウトリガーをつけたカヌーの一団がいた。あるポイントでは、大型の帆走カヌーが姿を現し、ぼくらに挨拶し、追い風を受け、優雅に帆走していた。不安定なアウトリガー上でバランスを取りながら、若い三人の男たちが太鼓を激しくたたき、ぼくらに敬意を示してくれた。
次のポイントはそこからさらに一マイルほど先にあったが、そこでも出会いが用意されていた。そこにはウォレンとマーチンが乗ってきた船がいて注目を集めていた。
ボラボラ島の人々は、その船の動力の仕組みが理解できないようだった。
カヌーを砂浜に引き揚げ、全員が浜にあがってココナツを飲み、歌い、踊る。近くの住家から歩いてやってきた大勢の人々がそれに加わる。花の冠をかぶった女性たちが二人ずつ手をつないで砂浜を歩いてやってくるのが見えたが、とてもかわいらしかった。
「いつも大きな獲物がかかるんだ」と、ヨーロッパとアジアの血をひくアリコットが言った。「しまいには海が魚であふれるんだぜ。おもしろいよ。もちろん獲れた魚は全部あんたのものだ」
「全部?」と、ぼくはうめいた。
スナーク号はすでに、気前よく贈ってもらった品々、カヌーで運んできてくれた果物、野菜、ブタ、ニワトリを満載しているのだ。
「そうだよ。最後の一匹まで」と、アリコットが答えた。「ほら、まわりを取り囲んでしまったら、あんたが客人の栄誉として、まず最初の一匹をモリで仕留めなきゃなんない。そういう習慣なんだ。それから、みんなが中に入って捕まえた魚を砂浜まで運ぶんだ。魚の山ができるぜ。長老の一人が、それをすべてあんたらに捧げるという演説をぶつことになっている。全部もらう必要はない。あんたは立ち上がって自分がほしい魚を選んで残りは返すんだ。すると、みんなが、あんたは気前がいいってほめるわけさ」
「だけど、ぼくが全部もらうって言ったらどうなるんだ?」
「そんなことには決してならない」というのが返事だった。「贈り贈られるっていうのが誰にも染みこんでいるから」
現地人の牧師が釣りがうまくいくよう祈りをはじめると、皆、かぶりものをとった。次に漁労長とでもいう立場のリーダーがカヌーを割り当て、場所を指示した。皆、カヌーに乗りこんで出発する。
とはいえ、女たちは、ビハウラとチャーミアンを除けば、誰もカヌーには乗らなかった。かつて女たちも刺青を入れていたそうだが、この漁では女たちは後に残り、水中に並んで足で魚をとめる柵になる役割だ。
浜には大型のダブルカヌーが残されていた。ぼくらは割り当てられた舟に乗った。カヌーの半数は風下の方へ漕いでいく。ぼくらは残りの半数と共に一マイルほど風上へ向かい、そこで岩礁に達した。両者の中央にリーダーのカヌーがあった。リーダーが立ち上がる。体格のいい老人で、手に旗を持っている。カヌーの位置を指示し、ホラ貝が吹きならされ、その合図で、二手に分かれたカヌーが整列する。
準備が整うのを見て、彼は旗を右に振った。そっち側のカヌーすべてで石が投げられ、一斉に水しぶきがあがる。投げた石をたぐりよせる。石が水面下に沈むか沈まないかのうちに、間髪を入れず、旗が左に振られた。すると左側の海面で、すべての石が一斉に海面を打った。それが繰り返される。投げては引き上げ、右で投げては左で投げる。旗が振られるたびに、礁湖の海面に長く白いしぶきの線が描かれていく。同時にパドルを漕いでカヌーを前へ進める。こっちでやっているのと同じことが、一マイル以上離れた反対側でも行われていた。
ぼくの乗った舟の舳先では、タイハイイがリーダーを凝視しつつ他の連中と調子をあわせて石を操っていた。一度、石がロープから外れて落ちた。その瞬間、タイハイイはそれを追って海に飛びこんだ。石が海底に達するかしないかのうちに拾い上げて、舟の横の海面に浮き上がった。近くのカヌーでも同じようなことが何度か起きるのを目撃したが、いずれも投げ手自身が石を追いかけて飛びこみ、すぐに回収して戻ってきた。
岩礁の端に近いラインの両側でカヌーのスピードが増す。それに対し、浜に近い方では速度をおさえている。二手に分かれていたカヌーの列は少しずつ円形になっていく。すべては、油断なく目を光らせているリーダーの監督下で行われた。
そうしてできたカヌーの輪が縮まりはじめる。かわいそうに、驚いた魚たちは海面をざわつかせながら猛スピードで浜の方へ向かった。アフリカの象狩りだって、同じような方法で、丈の高い草むらにしゃがんだり木の背後に隠れたりしているちっぽけな人間がたてる奇妙な物音に驚かされてジャングルから駆りたてられるのだ。
人が並んでつくった足の柵はすでにできあがっていた。礁湖の穏やかな海面に、女たちの頭が長い線を描いているのが見えた。浜辺の近くに残っている者もいたが、それは例外で、背の高い女ほど沖側に出る形で、ほとんど全員が首まで海中につかっていた。
カヌーの輪はさらに狭められ、カヌー同士が触れあうほどになった。
そこで一呼吸あった。
長いカヌーが浜から飛び出してきて、輪に沿って進む。懸命に漕いでいる。船尾で、一人の男がココナツの葉を編んだ、長く連続した幕のようなものを投げ入れていく。カヌーはもう不要になったので、男たちも海に飛びこみ、魚が逃げないように足で柵をつくった。幕は幕であって網ではないので、魚は逃げようとすれば逃げられるはずだ。だからこそ足で幕を激しく動かし、両手では海面をたたいて白濁させ、奇声を上げる必要があるのだろう。輪が縮められていくにつれて、魚は大混乱に陥る。
とはいえ、今回は海面上に飛び出したり足にぶつかってくる魚はいなかった。しまいに漁労長自身が輪の内側に飛びこみ、あちこちを探って歩いた。が、一匹の魚も浮いてはこず、飛び上がって砂浜に落ちるのもいなかった。一匹のイワシもいない。小魚もいなければ、オタマジャクシのようなものすらいなかった。
あの大漁祈願に何か不都合があったに違いない。あるいは誰かがぶつぶつ文句を言っていたように、風がいつものように斜め後ろから吹いてなかったので、魚はどこか別のところにいたのだろう。いずれにしても、追い立てるべき魚の姿がまったくないのだ。
「こんな失敗も五回に一回はあるよ」と、アリコットがぼくらをなぐさめた。
そう、ぼくらがボラボラ島までやってきたのは、この石の漁のためだったし、その五回のうちの一回に遭遇したというのも、ぼくらの運だったわけだ。事前福引のようなものだったら逆になっていたはずだ。悲観論を言っているのではないし、世の中はこうしたものだという開き直りでもない。これは、ただ単に一日努力して徒労に終わったときに多くの漁師が抱く感情にすぎない。
世の中にはたくさんの船長がいる。信頼できる立派なキャプテンがいるのも承知している。
それは十分に承知しているが、スナーク号の船長となると話は別だ。
ぼくの経験では、小型船で一人の船長の面倒をみるのは、赤ん坊二人の世話をするより手がかかる。むろん、これは想定の範囲だ。優秀な人材にはそれに応じた立場というものがあるし、一万五千トンの船を操船できるのに、スナーク号のような十トンそこそこの小舟の船長の仕事を選ぶなんて人がいるはずもない。
スナーク号では海辺で航海士を募集した。そんなことで集められる人材が役立たずなのは当たり前だ。二週間も大海原にある島をめがけて航海したあげく、見つけられずにそのまま戻ってきて、目当ての島は住民もろとも沈んでしまったと報告したり、海の仕事につきたいという渇望だけが先走って仕事にありつく前にお払い箱になるような連中ばかりだ。
スナーク号では、これまでに三名の船長を雇った。神のご加護か、四人目はもういらない。
最初の船長役*は年をとりすぎて、帆桁をマストに固定するブームジョーの寸法を船大工に伝えることもできなかった。もうろくしていて、まったく使いものにならないのだ。バケツで海水をくんでスナーク号の甲板に流すよう乗組員に命じることすらしなかった。錨泊していた十二日間というもの、熱帯の太陽の下でほったらかしになった甲板はかわききってしまい、張ったばかりの甲板をコーキングし直すのに百三十五ドルもかかった。
* この人物は文脈から推して第一章に出てくるロスコウと思われる。彼はハワイ到着以降は登場しない。具体的に記載されてはいないが、スナーク号の航海ではジャック・ロンドンとチャーミアン夫妻以外の乗組員は実際に入れ替わりが激しいようだ。小さな船に何日間も一緒に乗っていると、なにかと人間関係に問題が生じがちなのだろう。このあたりの事情は現代のヨット航海記でも同じで、友人同士であっても途中で仲違いする例は多い。
二人目の船長は怒ってばかりいた。生まれながらの怒りん坊なのだ。
「パパはいつも怒っている」と、血のつながっていない息子が言っていた。
三人目の船長は底意地が悪く、性格がねじ曲がっていた。真実は言わず正直でもなかった。フェアプレーや公平な扱いというものにはほど遠く、あやうくスナーク号はリングゴールド島で座礁しかけた。
この三人目で最後の船長を放逐(ほうちく)したぼくは、また自分でやることにした。
素人ながらまたも航海士に復帰したのだが、それはフィジー諸島のスバでのことだった。
それについては、サンフランシスコを出たときの話として以前に書いたことがある。そのときは、スナーク号は海図上でのこととはいえ、いきなり大跳躍をしてしまったのだ。
何が起きたのか理解できるまで大変だった。
要するに、現在位置を正確に測定できず、海図上で船を二千百海里も先に進めてしまっていたのだ。
ぼくは航海術については何も知らなかったが、とはいえ、何時間かかけて本を読み、六分儀を三十分ほど使って練習しただけで、太陽の南中高度の観測でスナーク号の緯度と経度を知ることができるようにはなった。
等高度経度法*という簡単な方法を使った。
これは精度が落ちるし、安全な方法とも言えないのだが、ぼくの雇った船長はそれで航海しようとしていたのだ。その方法は避けるべきだとぼくに教えてくれる人がいるとすれば、それは彼しかいなかったのだが、そう教えてはくれなかった。スナーク号はそれでもなんとかハワイまでたどりついた。条件に恵まれていたのだ。太陽は北よりで、ほぼ真上にあった。経度を確かめるためにクロノメーター**を使う観測方法について、ぼくはそれまで聞いたことがなかった。いや、聞いたことはあったが、最初の船長はそれについてはあいまいにしか語らなかったし、練習で一、二度やってみて、その後はやらなかったのだ。
* 等高度経度法: ロランやGPSなどの電子機器がない時代に六分儀を使用して太陽の南中高度を知るための簡便な位置測定法の一つ。
方位磁石で太陽が南にあるときが「南中時」となるが、それでは大雑把すぎる(誤差が大きすぎる)ので、正午前後に太陽高度を複数回測定する。
現在いる場所で、昼前にまず太陽の高さを測定しておく。しばらく時間が経過して(太陽がさらに高くなり、また降りてきて)太陽の高度がさきほど測った高度と同じになる時間を確認し、この二つの時間の中央を南中(太陽が真南に来た)とみなす。
** クロノメーターは、航海で位置を確認するために必要なきわめて正確な時計のこと。十八世紀のイギリスでは、海上で正確な位置を測定する方法を見つけた者に報償を与える経度法という法律まで制定され、小型で正確なクロノメーターを作った時計職人ジョン・ハリソンに賞が与えられた。
フィジーで、自分のクロノメーターを別の二つのクロノメーターと比べる機会があった。
その二週間ほど前、サモアのパゴパゴで、ぼくはスナーク号のクロノメーターとアメリカの巡洋艦アナポリス号のクロノメーターを比べてみるよう船長に依頼しておいた。船長はやったと言ったが、むろんやってはいなかった。しかも、差はコンマ数秒にすぎなかったと抜かしたのだ。この時計はすばらしいと大げさに絶賛までした。
繰り返しになるが、船長がすばらしいと言ったのは、恥知らずの嘘っぱちだったのだ。
その十四日後、ぼくはスバでオーストラリアの蒸気船アトゥア号のクロノメーターと比較した。
ぼくらの時計の方が三十一秒も進んでいた。三十一秒を地球の表面を円弧にみたてて距離に換算すると、七と四分の一海里(約十三・五キロ)になる。つまり、もし夜中に西に向けて航海していたとして、夕方にクロノメーターを使って位置を確認してから、水平線の見えない夜間は船の進行方向と速度で推測するデッドレコニング法で現在位置を推定し、陸地から七マイル沖にいると思ったら、なぜかまさにその瞬間に岩礁にぶつかるということになる。
その後、ぼくは自分のクロノメーターをウーレイ船長のクロノメータと比べてみた。ウーレイ船長はスバの港長で、週に三度、正午に銃を撃って時刻を知らせてくれた。それによれば、ぼくのクロノメーターは五十九秒も進んでいた。つまり、西に航海していて岩礁から十五マイルも沖にいると思っていたら当の岩礁に激突してしまったという事態にもなるわけだ。
クロノメーターの誤差については、時間を三十一秒プラスして読みとることで妥協し、ニューへブリデス諸島のタンナ島へ向かった。
闇夜に陸地を探しながら進むので、ウーレイ船長のクロノメーターに基づいてスナーク号の位置が七海里ずれていることを念頭においておくことにした。タンナ島はフィジーから西南西に約六百海里のところにあり、これくらいの距離だったら、ぼくレベルの航海術でも正確に到着できると思っていたし、実際にも無事に着いたのだが、まず出くわしたトラブルについて話を聞いてほしい。
航海術といっても、そうむずかしいわけではない。ぼくはいつも自分の航海術には満足していた。
とはいえ、ガソリン・エンジン三台と妻一人を抱えて世界一周するとなると、エンジンにはガソリンを補給し続けなければならないし、女房には真珠や火山を見せたりしなければならず、とにかく忙しいので、航海術を勉強する時間などない。しかも、そうした科学の勉強を緯度や経度が変わらない陸上の動かない家でするのならともかく、昼も夜も陸を探しながら動いている船上でやるとなると、まったく予想もしていない悪条件下で陸地を見つけだすはめになったりするのだ。
まず羅針盤で進路を設定する必要がある。
ぼくらは一九〇八年六月六日土曜の午後にフィジー諸島のスバを出た。
ヴィティ・レヴ島とムベンガ島の間の狭くて岩礁だらけの航路を通過するころには暗くなった。前方には外洋が広がっている。ちょうど行きたい方向の西南西二十海里ほどのところに突き出ている小さなヴァツ・レイル島を別にすれば、予定した針路に邪魔になるものはない。むろん、その島の八海里から十海里ほど北を通過するよう進路をとれば楽にかわせそうだった。
闇夜で、追い風を受けて帆走している。
当直で舵を持つ者には、ヴァツ・レイル島をかわす進路をとるよう命じなければならないのだが、どの角度にすればいいのか?
ぼくは航海術の本のページをめくった。「真航路」という記載があった。これだ! 真航路にすればいいんだ。本にはこう書いてあった。
真航路とは、海図上で、船の位置と目的地を結んだ直線と子午線(経線)のなす角(真方位)である。
知りたかったのはこれだ。スナーク号の現在地は、ヴィティ・レヴ島とムベンガ島の間にある航路の西側の入口だ。とりあえず目指す場所は、海図上でヴァツ・レイル島から北に十海里の地点である。ぼくは海図上のその場所にディバイダ*の針を突き刺し、そこから平行定規を使って真航路が南西になると割り出した。で、その方位を舵の担当者に告げれば、スナーク号は外洋で問題なく進んでいけるわけだ。
* ディバイダ: 海図で距離を測る道具。製図用のコンパスのような形をしているが両先端とも針がついている。
しかし、そう簡単にはいかなかった。ぼくは続きを読み、航海者にとって永遠の友となるべき信頼できる羅針儀が常に真北を指すとは限らないことを知ってしまったのだ。
北の位置が変わるのである。
方位磁石は真北より東側を指すこともあれば西を指すこともある。場合によっては北に背を向けて南を指すこともある。これを偏差*と呼ぶが、地球上でスナーク号のいる場所では、それは羅針盤の針が示している方角からさらに東に九度四十分の方向になるという。つまり、舵をとる者には、それを考慮した方位を進路として伝えなければならないのだ。
* 海図にはその場所の偏差と年々変化していく割合が記載されている。
こう書いてある。
補正した磁針航路(方位)は、真航路に偏差を加減して得られる。
というわけで、羅針盤が真北より九度四十分も東の方を指すのであれば、仮に真南に行きたいとすれば、羅針盤が示す方向から九度四十分ずらした方向に船を向けるべきなのだが、そうなると方位磁石の北は北でなくなってしまう。いまは南西に向かうべきなので、羅針盤のその方角から進行方向に向かって左に九度四十分を加えて補正した磁針方位を割り出した。
これで外洋に出ても道に迷わないはずである。
だが、まだ問題があった!
補正した磁針方位がそのままコンパスコースになるわけではないのだ。別の小さな悪魔が船の針路を誤らせてヴァツ・レイル島の岩礁にぶつけさせようと手ぐすねを引いて待っている。この小さな悪魔の名を自差という。
こう書いてある。
コンパスコースとは舵をとる針路のことで、これは補正した磁針方位に自差を加減して得られる。
自差とは、船に搭載している羅針盤の針の指す方向が船上の鉄の配置に影響されてずれてしまうことだ。これは船ごとに癖があってそれぞれで違ってくる。スナーク号では、標準として使用する方位磁石の自差を示したカードを用意していて、それを見ながら補正した磁針航路に自差の分を加減して進むべき方位を導き出している。
が、それだけではすまなかった。スナーク号で標準として使用する方位磁石は、船室への入口のコンパニオンウェイの中央に設置されていて、操舵用の方位磁石は船尾のコクピットで舵輪のそばにあった。操舵用の方位磁石が「西微南四分の三南」を指しているとき、標準の方位磁石の方は、そこから「西二分の一北」にずれた方向を指していた。標準の方位磁石の指す方向が操舵用方位磁石の角度とは違っているのだ。ぼくはスナーク号の向かう方向を標準の方位磁石の指す方向から「西微南四分の三南」に向かうようにした。そうすると、操舵用方位磁石では「南西微西になる」*。
* 方位(方角)を示す場合、東西南北の三六〇度を十六分割して、北から時計回りに北北東、北東、東北東、東と二二・五度ずつに区切っていく。それをさらに細かくしたものを微で示し、さらにそれを四分割して四分の一南といった表現を加える。現代では北を〇度、東を九〇度、南を一八〇度、西を二七〇度という風に度で示すのが一般的。
進路を決めるための針路の設定とは、こうした一連の単純な操作でできている。面倒なのは、そうした正しい手順をずっと続けていかなければならないということなのだ。でないと、快適な夜間航海中に「前方に岩!」と誰かが叫ぶのを聞いたり、サメがうようよしている海に飛びこんで海岸まで泳いでいくはめになったりする。
方位磁石は油断がならない。北以外のあらゆる方向を指して船乗りをだまそうとするのだ。だから空の方角や太陽の方向を知ろうとしても、所定の時間に所定の場所にあるべきものがなかったりする。これが太陽となると大問題で、少なくともぼくの場合は問題になってしまった。
自分が地球上のどこにいるのかを知ろうとすると、まず、きっかりその時間に太陽がどこにあるのかを知らなければならない。いわば太陽は人間にとってのタイムキーパーなのだが、これが時間通りに動いてくれないのだ。それを知ったとき、ぼくは呆然となり、宇宙は疑問だらけになってしまった。万有引力やエネルギー保存のような不変の法則すら信用できなくなり、妙ちくりんなことを目撃しても驚かないよう心づもりまでした。
たとえば、方位磁石が間違った方向を指すと、太陽の軌道も定まらなくなってしまい、互いの関係が失われて意味がなくなってしまう。永久運動だって可能になるし、ぼくははじめてスナーク号に乗船したやり手の代理人から永久機関と評判のキーリーという発明家のモーターを買おうかなという気になったくらいだ。
日の出と日の入りは年に三百六十五回ずつだが、地球は本当は一年に三百六十六回ほど自転していると知ったときには、ぼくは自分が何者であるかすら疑ってかかるようになってしまった。
これが太陽の流儀なのだ。とても不規則で、人間が太陽の時間を記録する時計を考案するなど無理な話だ。
太陽は加速したり減速したりするので、それに応じた時計を作ることはできない。太陽の運行は予定より早くなることもあれば遅くなることもある。天空を移動するときに、あるはずの位置にいようとして加速して速度制限を破ることもある。早くなりすぎても速度を落として調整したりはしないので、その結果として、やはり位置がずれてしまう。実際、太陽が偶然にも所定の位置にあるというのは、一年のうち四日だけだ。残りの三百六十一日は予定より早かったり遅かったりしている。太陽にくらべれば人間はきちんとしていて、正確な時を刻むための時計を作った。さらに、太陽が予定よりもどれくらい早いのか、あるいは遅れているのかまで計算した。誇り高い太陽の実際の位置と、控えめに言っても太陽が本来あるべき位置との差は均時差*と呼ばれている。海上で自船の位置を割り出そうとする航海士は、まずクロノメーターを見て太陽があるはずの場所をグリニッジ標準時に基づいて確認する。それから、その場所に均時差を適用し、太陽があるべきだがない場所を割り出す。この後者の位置を、他のいくつかの位置と合わせれば、海のないカンザス州出身の男でも現在地を知ることは可能になる。
* 均時差: 真太陽時(目に見える実際の太陽)と平均した計算上の太陽の時間との差。
スナーク号は六月六日土曜日にフィジーを出帆し、翌日の日曜には大海原に出て陸は見えなくなった。
ぼくはクロノメーターで時間を調べて経度を計算し、子午線観測で太陽の高度から緯度を求めた。午前中にクロノメーターで時間を調べて太陽の位置を確認したが、この午前の天測では、太陽の高度は水平線から二十一度だった。天測暦を見て六月七日当日の太陽が一分二十六秒遅れていることと、一時間に十四・六七秒の割で遅れを取り戻しつつあるのを知った。つまり、クロノメーターでは、太陽の高度を測定した正確な時間はグリニッジで八時二十五分過ぎだったのだが、この日付から均時差を補正するのは小学生でもできる計算だ。
だが、残念ながら、ぼくは小学生ですらなかった。
正午にグリニッジで太陽が一分二十六秒遅れているのは明白だ。測定時間が午前十一時だったとすれば、太陽はそれから一分二十六秒プラス十四・六七秒遅れだったことになる。午前十時だとすれば、十四・六七秒の二倍を加えればよい。で、実際には午前八時二十五分だったので、三と二分の一かける十四・六七秒を加えなければならない。これははっきりしているのだが、仮に午前八時二十五分ではなく午後八時二十五分だったとすると、八と二分の一かける十四・六七秒を、今度は足すのではなく「引かなければ」ならない。また、正午であれば、太陽は予定の時間より一分二十六秒遅れていて、一時間に十四・六七秒ずつ挽回していくのであれば、午後八時二十五分には正午のときよりも本来の時間に近くなってくる。
ここまでは問題ない。
が、クロノメーターの八時二十五分というのは午前なのか、それとも午後なのか? ぼくはスナーク号の時計を見た。八時九分を指している。朝食を終えたばかりで午前のはずだ。だからスナーク号の船上では午前八時だった。クロノメーターの八時はグリニッジの時間に設定してあるので、スナーク号の八時とは別の八時のはずである。となると、どういう八時なのだろう? 今朝の八時ではありえないと、ぼくは論理的に考えた。となれば今日の夕方の八時か昨夜の八時にちがいない。
自分の頭が底なし沼に入りこんで混乱するのはこの時だ。
ぼくらは今、東経にいる、とぼくは理性的に考える。だからグリニッジより時間は進んでいるはずだ。もしぼくらがグリニッジより遅れているのであれば、今日は昨日ということになる。グリニッジより早いのであれば、昨日が今日であり、昨日が今日ならば、いまの昼間は今日なのだろうか! それとも明日なのだろうか? そんなバカな! だが、これで正確なはずだ。ぼくは午前八時二十五分に太陽高度を測定した。グリニッジにいれば昨夜の夕食を終えたところのはずだ。
「では昨日に対して均時差を補正しよう」と、ぼくの論理脳が言った。
「だけど、今日は今日だぜ」と、ぼくの融通のきかない頭が主張する。「昨日じゃなくて今日に対して太陽を補正しなきゃ」
「だけど、今日は昨日なんだ」と、ぼくの論理脳が言い張る。
「わかってるさ、そんなこと」と、ぼくの固い頭が語を継ぐ。「もしぼくがグリニッジにいるのであれば、ぼくは昨日にいる。グリニッジでは奇妙なことが起こるんだ。だが、ぼくは自分が今ここにいるということを知っている。で、今日は六月七日だし、ぼくはここで太陽を補正しなければならない。今、今日、六月七日でね」
「ばかなことを!」と、ぼくの論理脳が反論した。「レッキーの本によれば──」
「レッキーの言うことなんか気にするなよ」と、ぼくの現実的な頭がさえぎる。「天測暦になんて書いてあるか見てみよう。天測暦は、今日六月七日には、太陽は一分二十六秒遅れており、一時間に十四・六七秒の割で追いついてくる。昨日の六月六日には太陽は一分三十六秒遅れで、一時間に十五・六六秒の割で追いあげていく。わかっただろ、今日の太陽を昨日の時間表で補正しようとするのはバカのすることだって」
「愚か者め!」
「間抜けめ!」
こうした激しい自問自答が続いて頭はくらくらするし、ぼくは今日がいつなのかもわからなくなった。
スバのハーバーマスターが別れ際に言った忠告を思い出す。
「東経では航海暦*から前日の値をとるんだよ」
* 航海暦については、日本では天文暦と呼ぶことが多い。天文略歴は日本近海用の簡略版。
新しい考えが浮かんだ。
ぼくは日曜と土曜の均時差を修正した。二つを別々に計算して結果を比べると、なんと○・四秒の差しかなかった。ぼくは生まれ変わった。堂々巡りの袋小路から抜け出す道を見つけたのだ。スナーク号はぼくの体や経験をかろうじて支えるほどの大きさしかない。〇・四秒を距離に換算すると一海里の十分の一にすぎず、わずか二百メートルほどではないか!*
* 一海里は一八五二メートルなので、その十分の一は二百メートルほどではあるが、距離の計算では、経度の差だけにとらわれているとミスがでる。
それから十分間ほどは幸せだった。偶然に航海士のための次のような箴言を知るまでは。
グリニッジ時の方が遅ければ
東経
グリニッジ時の方が早ければ
西経*
* 現在はこういう言い方はあまりせず、西経か東経かは、グリニッジ時に対して単純にプラスかマイナスか(足すか引くか)と考えるのが一般的。規準は、自分のいるところではなく、あくまでもグリニッジにあるということを大前提にして計算すると迷わない。
ふむふむ!
スナーク号の時間はグリニッジ時より遅くなっている。グリニッジで八時二十五分のとき、スナーク号の船上ではまだ八時九分だった。「グリニッジ時の方が早ければ西経」なのだ。西経にいることは間違いない。
「ばっかじゃねえの!」と、ぼくの頭の固い方が叫んだ。「あんたがいるところは午前八時九分で、グリニッジは午後八時二十五分だろ」
「むろんそうだ」と、ぼくの理性が答える。「正確に言うと、午後八時二十五分は二十時二十五分だ。つまり、八時九分よりは確かに早い。議論の余地はない。西経にいるんだ」
すると、ぼくの頭の固い方が勝ち誇る。
「ぼくらはフィジーのスバから出帆したんじゃなかったっけ?」と。
理性が同意する。
「スバは東経だったろ?」
またも理性がうなづく。
「そこからぼくらは西に向かったんだろ(つまり東経側の半球を進んだ)? とすれば、東経から出ているはずがない。ぼくらは東経にいるんだ」
「グリニッジ時の方が早ければ西経」と、ぼくの理性が繰り返す。「二十時二十五分は八時九分より進んでるわけだ」
「わかったわかった」と、ぼくは口論に割り込む。「まず太陽を観測しよう。話はそれからだ」
それから測定作業をすませる。割り出した経度は西経一八四度だった。
「ほらね」と、理性が鼻で笑う。
ぼくはあぜんとした。頭の固い方も同じで、しばらくは呆然としていた。そうしてやっと宣言した。
「西経一八四度なんてありえない、そんなの東経にもない。経度は一八〇度までだって知ってるだろ」
こうなると、頭の固い方は緊張に耐えきれずに倒れ、理性は間抜け同然に沈黙した。ぼくはといえば、希望を失い、目はうつろで、中国の海岸に向かって航海しているのか、それともパナマのダリエン湾に向かっているのだろうかと思い惑って歩きまわるしかなかった。
やがて自分の意識のどこからともなく、こう言うかすかな声が聞こえた。
「経度はぐるっとまわって三六〇度だ。三六〇度から西経一八四度を引くと、東経一七六度になるんじゃないか」
「単純すぎるだろ」と、頭が固く融通のきかない方が異議をとなえる。論理にたけた理性も抗議する。「そんなルールはない」
「ルールなんてくそ食らえだ!」と、ぼくは叫ぶ。「ぼくはここにいるじゃないか」
「自明のことさ」と、ぼくは後を継ぐ。「西経一八四度は東経と四度だけ重複してるってことなんだ。それにぼくらはずっと東経にいたんだ。フィジーから出発したが、フィジーは東経だ。海図に現在位置を入れて、推測航法で証明してみせるさ」
こうしたこと以外にもトラブルや疑問がぼくを待ち構えていた。
たとえば、こういう問題だ。
南半球で、太陽が北にあるとき、クロノメーターを使った天測を早朝に行うことができる。ぼくは午前八時に観測した。この観測で必要な要素の一つは緯度だ。正午に子午線南中時を観測すれば緯度がわかるのだが、午前八時に観測で位置を出すには午前八時の緯度が必要になるのは言うまでもない。むろん、スナーク号が時速六ノットで真西に進んでいるのであれば、四時間後も緯度は変化しない。真南に進んでいれば、緯度は二十四海里の距離分だけ変化する。この場合は十二時の緯度から簡単な足し算か引き算で午前八時の緯度が得られる。だが、スナーク号が南西に航海しているとしたらどうだろう。そこでトラバース表の出番だ*。
* トラバース表: 航海で針路と緯度がわかれば目的地までの距離がわかるようにした表。
二点間の距離は簡単な三角関数で計算できるが、その計算結果を一覧表形式にまとめたもの。
具体的な話をしよう。
午前八時、ぼくは観測を行った。同時に、航海記録に書いてある帆走距離もメモした。正午の十二時に太陽を観測して緯度を求めた。ここでも航海記録のデータをメモした。
それによれば、スナーク号は八時の地点からは二十四海里進んでいた。針路は「西四分の三南」である。ぼくは四分の三ポイントのコースを記載したページの距離欄の表一で、航海距離を示す二十四のところを見た。表の反対側の二つの欄では、スナーク号が南に三・五海里進み、西には二十三・七海里進んだことになっている。これがわかれば、午前八時の自分の居場所を知るのは簡単だ。緯度については正午の緯度から三・五海里を引けばよい。要素はすべて出そろったので、ぼくは経度にとりかかった。
求めるのは午前八時の経度だ。八時から正午まで二十三・七海里西に進んだことになっている。
とすれば、正午の経度はどうなるのか?
ぼくは所定の手順に従ってトラバース表の二を見た。手順に従って表を見ていくと、四時間の経度の差を距離に換算すると二十五海里になるとわかった。
またもやがく然となってしまう。
机に向かって決められた手順で何度調べても、測定した経度の差は二十五海里になってしまう。お手上げだ。後は寛容なる読者の手にゆだねよう。もし君が斜めに二十四海里の距離を航海し、緯度の計算で(南北に)三・五海里進んだとする。そのとき、どうすれば経度で(東西に)二十五海里も進むことができるのだろうか?
仮に緯度は変化させずに真西に二十四海里進んだとしても、いったいどうすれば東西方向に二十五海里も進めるというのだろうか?
人間が論理的に考える存在である限り、帆走した総距離プラス一海里もの経度を進むことが、どうすれば可能になるのだろうか?
使ったトラバース表は定評のあるもので、ほかならぬバウディッチの本だ。航海術の規則がそうであるように、計算に使うルールは単純だ。ぼくが間違ったということではない。この問題で一時間も悩んでしまった。進んだ距離は二十四海里のはずなのに、どうしても緯度で三・五海里、経度で二十五海里も進んだ計算になるのだ。最悪なのは、誰も助けてくれる者がいないということだ。チャーミアンもマーティンも、航海術の知識はぼくとどっこいどっこいだ。しかも、その間もスナーク号はずっとニューへブリディーズ諸島のタナ島に向かって進んでいる。何とかしなければならなかった。
その思いつきがどうやって浮かんできたのかわからないのだが、インスピレーションとでもいうのだろうか。ふとひらめいた。南に向かうことが緯度をかせぐことになるのであれば、西に向かうことは経度をかせぐことになるはずではないか? 西に進むのをいちいち経度に変換しなければならない理由は何だろう?
すると、ぐっと視界が開けてきた。
赤道では経度一度は距離にして六十海里である。極地では一点に集まっている。とすれば、ぼくが北極に到達するまでに経度百八十度を航海する必要があるところにいて、グリニッジの天文学者が経度ゼロを北極点までそのまま北上したとすれば、ぼくらが数千海里離れていたとしても互いに北極に向かって出発し握手をすることができるはずだ。
話を元に戻すと、経度一度の幅は赤道で六十海里の距離になるのだが、同じ経度一度でも、北極ではそんな幅は存在しない。となれば、北極と赤道の間のどこかに幅が半海里のところや一海里のところがあるだろうし、十海里や三十海里、六十海里のところもあるはずだ。
すべてがまた明白になった。スナーク号は南緯十九度にいた。この場所の地球は赤道ほど大きくないのだ。だから、南緯十九度で西進すると、一海里ごとに経度で一分を超えてしまう。経度一度は六十海里で、一度は六十分だが、この六十分は赤道付近においてのみ六十海里の距離になる。ジョージ・フランシス・トレイン*はジュール・ベルヌの記録を破った。しかし、ジョージ・フランシス・トレインの記録を破りたい者がいれば、誰にでも可能だ。高速蒸気船に乗ってホーン岬と同じ緯度をそのまま真東に進むだけでいい。高緯度では地球の経線間の距離はぐっと縮まっているし、避けなければならない陸地もない。その蒸気船が十六ノットを維持していれば、わずか四十日で地球一周できるだろう。
* ジョージ・フランシス・トレイン(一八二九年~一九〇四年): 高速のクリッパー型帆船による外洋航路や大陸横断鉄道の開発を行ったアメリカの実業家。
ジュール・ベルヌの『八十日間世界一周』は彼の世界旅行にヒントを得ており、主人公のフィリアス・フォッグのモデルはトレインだとされる。
なお、時系列で整理すると、ベルヌの本の出版はトレインの旅行が話題になった数年後である。
しかし、まだ問題はある。
六月十日水曜日の夕方、正午に観測した位置と、その後の実際の速度と針路から午後八時の位置を推定した。その上で、スナーク号をニューヘブリディーズ諸島の最東端にあるフトゥナ島に向けた。この島は円錐型の火山で深海から標高二千フィートまで隆起している。この島から十キロほど北を通過するよう針路を変更したのだ。それから毎朝四時から六時まで操舵を担当するコックのワダに声をかけた。
「ワダさん、明朝のワッチは、しっかり見張っててよ。風上側に陸が見えるはずだから」
それからぼくは寝床に入った。賽(さい)は投げられたのだ。ぼくの航海士としての信用は危険にさらされていた。想像してほしい、夜明けに陸なんか見えなかったときのことを。そのとき、航海士としてのぼくの立場はどうなる? ぼくらはどこにいることになるのだろう? どうやって自分の位置を見つければいい? どうやって島を見つければいい? スナーク号が幽霊のような姿で、島を探して何もない大海原を何ヶ月も放浪している様子が目に浮かぶ。食料は食いつくし、ぼくらはげっそりとやせ衰え、その顔には互いに相手を食いたいという願望が浮かんでいるのだ。
ぼくは自分の眠りが「……ひばりの鳴き声が聞こえてくる、夏の空のように」と、詩にうたわれているようなものではなかったことを告白しておく。
というより「無言の闇に目を覚まし」て、バルクヘッドがきしむ音やスナーク号が時速六ノットで着実に進んでいく波きり音を聞いていた。ぼくはミスをしなかったか計算を何度もやり直した。しまいには頭がぼうっとしてきて、なにもかもミスだらけに思えてきた。
自分の天文観測がすべて間違っていて、フトゥナ島まで六十海里ではなく、わずか六海里しかなかったらどうなるだろう? どっちの場合でも針路が違っているかもしれないし、スナーク号はまっすぐフトゥナ島そのものに向かっているかもしれない。スナーク号はいまにもフトゥナ島に激突するんじゃなかろうか。そう思うと、いてもたってもいられず飛び起きたい衝動にかられる。が、かろうじて我慢した。いまにもぶつかるんじゃないかと、その瞬間を、今か今かとどきどきしながら待つしかなかった。
ひどい悪夢で目がさめた。地震の方がよほどましなくらいで、請求書を持った男が一晩中ぼくを追いかけまわすのだ。しかも相手は攻撃的で、チャーミアンは相手にするなと絶えずぼくを抑えている。しかし、仕舞いには、しつこい借金取りの夢からチャーミアンの姿が消えた。チャンスだ。堂々と立ち向かおう。歩道や通りを勇んで歩いていると、相手はもう結構と叫んだ。ぼくは「あの請求書はどうなったんだ?」と聞いた。自信を取り戻し、全額を払ってやるつもりだった。すると、その男はぼくを見て「ぜんぶ間違いだった」と、うめくように言った。「請求書は隣の家のだった」と。
借金取りの問題はそれで解決した。もう夢には現れなかった。ぼくの方はといえば、目がさめて寝床に座ったまま、この夢を思い返し、心底ほっとした。
午前三時だった。甲板に出てみた。ラパ島出身のヘンリーが舵を持っていた。
航海日誌に目を通す。四十二海里走破していた。スナーク号の六ノットという速度は落ちていなかったし、フトゥナ島に衝突してもいなかった。五時半すぎに、また甲板に出てみた。舵を握っていたのはワダで、まだ島影は見えないと言った。ぼくはコクピットの縁に腰かけて、十五分ほど疑心暗鬼にかられていた。そのうちに陸が見えてきた。小さな山頂だけだったが、予測した場所に予測した時間通りに、舳先(へさき)の風上方向の海面に出現した。六時には、フトゥナ島の美しい円錐形をした火山がはっきり見えてきた。八時、島は正横にきた。六分儀で距離を測った*。九・三海里離れていた。どうやら十海里という試験には合格したようだ!
* 六分儀は水平線からの天体の高度を測るものだが、土木測量でも用いられているように、標高のわかっている島(山)の高さを測定すると、簡単な三角関数の計算でそこまでの距離もわかる。
さらに、南にはアトナム島が海から突き出し、北にはアニワ島、正面にはタンナ島があった。タンナ島を見誤る可能性はない。火山の煙が空高く立ち上っているからだ。四十海里離れていたが、ずっと六ノットの速度を維持していたので、午後にはさらに接近した。が、見えるのは山ばかり。もやもかかっていたし、海岸線に進入できそうな開口部があるとは思えなかった。
ぼくはポート・レゾリューションを探した。
港として機能しなくなったとは聞いていたが、泊地にできればと準備をしていたのだ。火山性の地震のため、過去四十年間に海底が隆起し、かつて大型船が錨泊していたあたりは、最近の報告では、スナーク号くらいの船でやっと停泊できるくらいの広さと水深しかないという。最後の報告以降に、港が完全に封鎖されてしまうような天変地異でもあったのだろうか。
海岸に切れ目はない。
接近してみると、貿易風を受けて押し寄せた波が岩場に砕け散っている。双眼鏡で離れたところまで調べてみたが、進入口は見つからない。
ぼくはフトゥナ島とアニワ島の方位をとって海図に記入した。二本の方位を示す線の交わるところがスナーク号の位置になる。そこから、平行定規を使い、スナーク号の位置からポート・レゾリューションまでを結ぶ線を引いてみた。この線の方位角を偏差と自差で補正して甲板へ出た。が、その針路が示す方向に目をやっても、海岸に打ち寄せる波はどこまでも続いていて、切れ目は見えない。船を海岸から二百メートルまで近づけたので、ラパ島出身のクルーが不安がっている。
「ここに港はないよ」と、彼は頭を振りながら言った。
ぼくはコースを変え、海岸と平行に走らせた。舵はチャーミアンが握っている。マーティンはエンジンのところで、いつでも始動できるよう待機していた。いきなり狭い開口部が見えた。双眼鏡で調べると、そこにだけ波が入りこんでいる。ラパ島出身のヘンリーは当惑しているようだった。タハア出身のタイハイイも同様だ。
「通路なんてないよ」と、ヘンリーが言った。「あそこまで行ったら座礁するよ、必ず」
白状すると、ぼくもそう思った。だが、進入口のところで白波が切れていないか探しながら、そのまま走らせた。
すると、そこに、あった。
狭いが、そこだけ海面が平らだった。チャーミアンは舵を切り、進入口に向けた。マーティンはエンジンを始動させた。他の全員で帆をとりこんだ。
湾曲部に交易商人の一軒家が見えた。百ヤードほど離れた海岸では間欠泉が海水を噴き出している。小さな岬をまわると、左手に伝道所が見えてくる。
「三尋(ひろ)」と、ヒモの先に鉛をつけた手用測鉛(ハンドレッド)で水深を測っていたワダが言った。
「三尋」、「二尋」と、すぐに続く。
チャーミアンが舵を切り、マーチンはエンジンを止め、スナーク号は投錨した。錨はがらがら音を立てて三尋の海底に落ちた。
ほっとするまもなく、大勢の黒人が姿を見せ、船に乗りこんできた。ニコニコした野性味丸出しの連中で、髪は縮れ、困惑したような目をし、切り込みを入れた耳には安全ピンと粘土の輪をつけている。それ以外は素っ裸だ。その夜、全員が寝ているときに、ぼくはそっと甲板に出た。そして静かな風景を満足して眺めた。
そう、満足して、だ──自分の航海術に。
「一緒に来ないか」と、ヤンセン船長がソロモン諸島最大の島、ガダルカナル島のペンドュフリンで、ぼくらを誘ってくれた。
チャーミアンとぼくは互いに顔を見合わせ、三十秒ほど無言で話し合った。それから二人同時にうなづいた。
これが、ぼくらが物事を決めるやり方だ。最後のコンデンスミルクの缶をひっくり返したときに泣かずにすむ、うまい方法だと思っている。ぼくらはこのところ缶詰ばかり食べている。心は物質に左右されるというが、ぼくらは当然いろんな缶詰に左右されている。
「拳銃一丁とライフル二丁も持ってきたほうがいいな」とヤンセン船長が言った。「俺は船に五丁のライフルを積んでる。モーゼル銃には弾を入れてないけどな。予備はあるかい?」
ぼくらも船にはライフルを積んでいた。モーゼル銃の薬包もだ。スナーク号でコックと給仕をしてくれているワダとナカタもそれぞれ持っている。
ワダとナカタはちょっとおじけづいていた。控えめに言っても乗り気ではなく、ナカタは臆病風に吹かれているのが顔色にも見てとれる。
ソロモン諸島で彼らはきつい洗礼を受けていた。最初の地ではソロモン病とでもいうべき痛みに苦しめられた。ぼくらも苦しんだのだが、この二人の日本人の場合はとくにひどかった。二人には昇汞(しょうこう)*で手当てをしたが、この痛みはやっかいだった。ひどい潰瘍になってしまうのだ。蚊に刺されただけで傷口や掻(か)いたところに毒がたまり、はれてくる。この潰瘍はすぐに拡大する。すごい早さで皮膚や筋肉をむしばんでいく。一日目は針の先ほどだった傷が二日目には十セント硬貨ほどになり、一週間後には一ドル硬貨でも隠せないほどの大きさになった。
* 昇汞(しょうこう): 塩化第二水銀ともいう。かつては消毒液などとしても使用された。毒性が強いので、現在は治療には使用されていない。
この痛みよりひどかったのは、この二人の日本人がかかった熱帯性マラリアだ。それぞれ何度も倒れたし、身体も衰弱した。多少は回復してくると、スナーク号の端の方で身を寄せ合い、はるかかなたの日本の方角を望郷の念をこめて眺めていた。
とはいえ、最悪なのは、彼らが今は、マライタ島の原始の海岸沿いに人を運ぶミノタ号の船上にいるということだ。二人のうちでもワダの方がおじけづいている。自分は二度と日本を見ることはできないと思いこみ、暗く希望のない目をして、ぼくらのライフルと弾薬がミノタ号に積みこまれるのを見ていた。彼はミノタ号とマライタ島への航海がどんなものなのか知っているのだ。
この船が六ヵ月前にマライタ島の海岸で捕らえられたこと、船長が斧で切り殺されたこと、を。
そのすてきな未開の島では、それ以前にも二人の船長が犠牲になっていた。ペンデュフリン農園で働いていたマライタ島の少年が赤痢で死に、別の船長もマライタ島で犠牲になっていた。そのことについても彼は知っている。ぼくらの荷物は狭い船長室にしまいこんである。意気揚々と乗りこんできた野蛮な連中が武器の斧でドアにつけた傷跡も彼は見てしまった。最後につけ加えると、調理室のコンロには配管すらなかった。略奪されたのだ。
ミノタ号はチーク材で作られたオーストラリアのヨットだった。
二本マストの後ろのマストが低いケッチ型の小型帆船で、長くて細身で、深いフィンキールを持ち、未開の地を航海するというよりは港内でレースをするのに適した設計だ。
チャーミアンとぼくが乗船すると、船には人があふれていた。船の乗組員は代理を含めて十五人。それに二十人以上の「帰省する」少年たちがいた。農園で働いていて自分の村に戻るのだ。
見た目からすると、連中は確かに首狩り族だった。鉛筆ほどの大きさの骨と木製の千枚通しのようなもので鼻に穴を開けている。多くは鼻柱に穴を開け、亀の甲羅や固い針金に通したビーズを吊していた。さらに唇から鼻にかけての曲線に沿って穴をいくつも開けた者までいる。連中の耳には、それぞれ二つから一ダースほどの穴が開いていた。直径三インチの木栓でも通るくらいの大きさがあり、土で作ったパイプやそれに類するものをつけている。実際に穴が多すぎて、飾りの数が不足していた。翌日、マライタ島に接近すると、ぼくらはライフルを取り出し、ちゃんと使えるか確かめたのだが、空になった薬莢(やっきょう)をめぐる争奪戦が展開され、こうした乗客の耳の穴の飾りになった。
ライフルを実際に使うような場面に備えて、ぼくらは有刺鉄線の柵を設置した。ミノタ号は甲板にドッグハウス*がなく平らで、外周を六インチの高さの手すりで囲ってあるので、乗りこみにくい。その手すりの上に真鍮製の支柱をねじ止めし、さらに二列の鉄条網を船尾からぐるっと一周させて船尾まで張り巡らせた。
* ドッグハウス: 甲板下の船室の高さを確保するため甲板に突き出た部分。犬小屋に見立ててこう呼ぶ。
野蛮な連中から保護するという点では非常にうまくいったが、船に乗っている側の立場としては、およそ快適とはいえない。航海中にミノタ号が波の上下に合わせて大きく揺れるからだ。有刺鉄線を張った風下側の手すりまで滑り落ちるのは好きになれない。滑り落ちたくないと風上側の手すりにつかまろうとしても、そっちにも有刺鉄線がある。どっちも嫌だし、船の傾きもさまざまで、滑りやすい平らな甲板上にいるときに船が四十五度傾いたりもした。ソロモン諸島の航海の楽しさがわかってもらえるだろうか?
おまけに、すべって有刺鉄線まで落ちていくことで受ける罰は単なるひっかき傷にはとどまらない──ということも忘れてはならない。そうした傷は必ずやひどい潰瘍になってしまうのだ。
注意していても有刺鉄線からは逃れられない証拠がある。
ある晴れた朝、ぼくらは斜め後ろからの風を受けてマライタ島の海岸沿いに進んでいた。風はやや強く、海は安定していたが波が立ちはじめた。一人の黒人の少年が舵をとっていた。ヤンセン船長とヤコブセン航海士、チャーミアンとぼくは甲板で朝食をとっていた。三つの異常に大きな波がおそってきた。舵を握っていた少年は頭が真っ白になってしまった。その三度とも、ミノタ号の甲板は波に洗われた。ぼくらの朝食は風下側の手すりを乗りこえて流れ去った。ナイフやフォークも排水口に消えた。船尾にいた少年の一人が落水し、引き上げられた。ぼくらの勇猛な艇長は有刺鉄線にはさまれ、体の半分が船外に落ちかけていた。その後の航海では、ぼくらは原始共産制よろしく、残っていた食器を使いまわしたのだった。
ユージニー号ではもっとひどい目にあった。というのも、ぼくら四人にスプーンが一つしかなかったからだ。とはいえ、ユージニー号については別の機会に譲ろう。
最初に入港したのはマライタ島の西岸にあるスウーだった。ソロモン諸島は縁海(えんかい)*で、島々や環礁に囲まれた閉ざされた海域にある。暗い夜には灯火もなく、暗礁が牙をむく。
* 縁海(えんかい): 大陸の周辺にあり、島などで不完全に閉ざされた海域。日本海などもそれにあたる。ちなみに大陸だけに囲まれている海域は地中海と呼ばれる。
固有名詞化しているヨーロッパとアフリカにはさまれた地中海以外に、カリブ海や北極海も海の分類では「地中海」になる。
地球の海は、地理学的には、太平洋/大西洋/インド洋の三大洋と、縁海および地中海を合わせた付属海からなる。
潮流も複雑に変化するので、この海峡を航海するのは非常にむずかしい。ソロモン諸島の北西端から南東端までの海岸線は一千マイルもあるのに、灯台が一つもない。その上、海図に描かれている陸地も正確ではない。スウーがその例だ。マライタ島の海図では、この地点の海岸はまっすぐの連続した線として描かれている。だが、ミノタ号はこの連続した直線を超えて進み、今は深さ二十尋(ひろ)の湾に浮かんでいる。陸地があるとされたところは深い入り江だったのだ。ここまで帆走してきて、丸い鏡のような湾に投錨した。マングローブが近くまで迫っている。ヤンセン船長はこの泊地が好きではなかった。彼が初めてここに来たころ、スウーは危険な場所として悪名をはせていた。攻撃されて逃げようとしても、風がなければどうしようもないし、上陸用のボートで沖に漕ぎ出そうとしても奇襲されてしまう。ひと悶着あれば、罠(わな)にかかったも同然なのだ。
「ミノタ号で上陸することになったらどうしますか」と、ぼくは聞いてみた。
「上陸なんかしないよ」というのが、ヤンセン船長の答えだった。
「だけど、万一そうなったら?」と、ぼくも簡単にはあきらめない。
彼はしばらく考えてから、拳銃を腰につけようとしている航海士から上陸用ボートに乗りこもうとしているクルーに視線を移した。それぞれライフルを所持している。
「ボートに乗り移って、とっとと逃げ出すさ」と、船長はたっぷり時間をかけてから答えた。
しまいに、いざというときマライタ島出身のクルーは信用しきれないのだと説明した。ここの連中は船が難破でもしたら自分の財産になると思ってるし、スナイダーのライフルも持っている。おまけに、ミノタ号にはスウーに「帰省する」一ダースもの少年たちが乗っているのだ。攻撃を受けたら、彼らが故郷の友人や親戚に味方するのは間違いない、と。
上陸用ボートの最初の仕事は、帰省客と交易品を詰めた箱を海岸まで運ぶことだった。これで危険要素の一つが取りのぞかれるはずだ。
この作業中に一隻のカヌーがやってきた。
三人の裸の男が乗っている。裸と言ったが、事実そのままだ。服らしきものは何も身に着けていない。鼻の輪や耳飾り、貝殻の腕輪を服として数えなければ、だが。
カヌーに乗っているボスは高齢の村長(むらおさ)で隻眼(せきがん)だった。友好的という噂だが、とても汚くて、船底の付着物を落とすために使うスクレーパーでこすっても、その垢(あか)を削り落とすことはできないだろう。彼が何をしに来たかというと、船長に対し、誰も上陸させるなと警告するためだった。この老人は夜にもまた同じ警告を繰り返した。
働き手を募集するため、ボートが浜との間を往復したが、成果はなかった。森には武装した現地人がたくさんいて、求人担当の者と話をしたそうにしていた。しかし、年俸六ポンドでプランテーションでの三年間の労働に応じる者はいなかった。島の連中はぼくらが上陸するのではないかと懸念していた。二日目に、湾の先端の浜で火をたいて煙を立ちのぼらせた。これは慣例となった求人の合図で、そのためにボートが派遣された。だが、徒労に終わった。浜には誰もやってこなかったし、こっちの船では誰も上陸しなかった。その少し後で、ぼくらは大勢の現地人が浜辺をうろついているのを目撃した。
こうやって姿を見せている連中の他に、森の中にどれだけの人間が隠れているのかはわからない。原始の姿をとどめている密林の奥まで見通すことはできないからだ。
午後になると、ヤンセン船長、チャーミアンとぼくは、ダイナマイトを使う漁に出かけた。ボートに乗った者はそれぞれ十九世紀末に英国で開発された軍用小銃のリー・エンフィールド銃を持っていた。求人担当の現地人の「ジョニー」は一斉攻撃に備えてウィンチェスターライフルも所持していた。ぼくらはボートを漕ぎ、無人に見える海岸に向かった。手前で向きを変え、船尾を先にして近づく。万一の攻撃に備えて、すぐに陸から遠ざかれるようにするためだ。マライタ島に滞在している間、ぼくはボートが船首から上陸するのを一度も見なかった。実際問題として、求人で寄港する船の場合、ボートを二隻積載し、上陸するのはそのうちの一隻だけだ。むろん武装している。もう一隻は数十メートル離れたところにいて、一隻目を「援護」するのだ。とはいえ、ミノタ号は小さかったので、上陸用ボートは一隻しかなかった。
ぼくらは浜に近づいた。さらに船尾から接近したとき、魚の群れが見えた。ダイナマイトに火をつけて投げ入れる。爆発が起き、大量の魚が海面から飛び出してくる。同時に、森の方もさわがしくなった。現地の裸の連中が二十人ほども、弓矢や槍(やり)、リー・エンフィールド銃より古い型のスナイドル銃を抱えて飛び出してくる。同時に、ぼくらのボートの乗組員もライフルを構えた。こうして両者がにらみあった状態で対峙し、ぼくらの側の手のすいた少年たちが魚を取ろうと海に飛びこんだ。
スウでは成果がないまま三日がすぎた。
ミノタ号から呼びかけた求人に応じる者はなく、ミノタ号の乗組員で森の連中の犠牲になる者もなかった。本当のことを言うと、一人だけ犠牲になっといえないこともない。ワダが熱で寝こんでしまったのだ。
ぼくらはボートに乗ってランガランガの海岸に沿って進んでみた。ここは海辺の大きな村で、礁湖に作られている。文字通り途方もない努力によって作り上げられた砂州で、好戦的な連中から逃れるために作られた人工島である。ミノタ号が半年前にこの礁湖の海岸で襲撃され、当時の船長が野蛮な連中に殺されていた。
狭い入口から進入すると、一隻のカヌーがやってきて、軍艦が三つの村を焼き払い、ブタを三十匹ほど殺し、赤ん坊一人を溺れさせ、この日の朝、立ち去ったばかりだと知らせた。ルイス艦長が指揮をとるカンブリアン号だった。
艦長とは日露戦争のときに朝鮮で会ったことがある。それ以来だ。日露戦争の後も何度かすれ違ってはいるのだが、実際に出会うことはなかった。スナーク号でフィジーのスバに入港したときも、カンブリアン号は入れ替わりに出港していくところだった。ニューヘブリディーズ諸島のヴィラでは、一日違いで行き違いになった。サント島の沖では夜間にすれちがった。カンブリアン号がツラギ島に到着した日、ぼくらは十二マイル離れたペンデュフリンを出たところだった。そして、このランガランガでも数時間の差ですれ違ったわけだ。
カンブリアン号はミノタ号の船長殺害の容疑者を処罰するために来たらしい。目的を達したか否かについては、後で伝道者のアボット氏がぼくらのボートにやって来たときにわかった。
村々は焼き払われ、ブタが殺された。村人は逃げて無事だった。ミノタ号から奪われた旗や道具は取り戻せたものの、殺した連中は捕まらなかった。赤ん坊の溺死は誤解から生じたものだった。ビヌのジョニー村長は軍の上陸部隊を森の連中のところに案内するのを断わり、村人に道案内させることもしなかった。ルイス艦長は当然のごとく立腹し、ジョニー村長に、拒否すれば村を焼き払う、それだけの罪に値すると言った。
ジョニーが操るカタコトのピジン英語に「値する」という語彙は含まれていなかった。
村長は、道案内すれば焼き払われずにすむとは思わず、いずれにしても村が焼かれてしまうと思いこんでしまったのだ。
* ピジン英語は南太平洋の西側一帯で話される現地語なまりの英語全般を指す。
地域ごとに呼び方が違っていて、ここでは beche-de-mer というフランス語(ナマコという意味)が使われている。ナマコ漁が行われているニューギニア周辺のピジン英語は特にこう呼ばれる。
住民たちは大慌てで逃げ出した。そのとき赤ん坊が海に落ちてしまったのだ。
一方、ジョニー村長はアボット氏のところへ駆けつけた。伝道師にソブリン金貨十四枚を握らせ、カンブリア号に行ってルイス艦長をその金で説得してほしいと頼んだという話だ。
ところが、事実としては、ジョニー村長の村は焼かれなかったし、ルイス艦長がソブリン金貨を受けとることもなかった。
というのは、村長は後になってミノタ号に乗船してきたのだが、ぼくは村長がその金貨をちゃんと持っているのを目撃したからだ。
ジョニー村長は、上陸部隊を案内しなかったのは大きな腫れ物ができていたからだと釈明しつつ、その金貨を見せてくれた。とはいえ、本人は認めようとはしなかったが、そうしなかった本当の理由は、森の野蛮な連中の仕返しを恐れたのだ。村長や彼の村の人間が海軍を案内したなどということになれば、カンブリアン号が抜錨したとたん、すぐに血なまぐさい報復を受けると思ったのだ。
ソロモン諸島ではよくあることだが、船上でのジョニーの仕事は、たばこと交換で、上陸用ボートの帆柱やメインスル、ジブを取り戻すことだった。
その日も遅くなって、村長(むらおさ)のビリーが船にやってきて、マストとブームを返し、たばこを受け取った。こうした道具はヤンセン船長がミノタ号での前の航海で取り戻したボートの備品である。この上陸用ボートはイザベル島のメリンゲ農園の所有物だった。十一人の契約労働者とマライタ島の男たち、森の住人たちが農園からの逃走をはかった時に盗んだものだ。
連中は森の民だったので、海についても海に浮かぶボートについても何も知らなかった。それで海の民であるサン・クリストバルの出身者二人を誘い、一緒に逃げようと説得した。サン・クリストバルの住人にとっても渡りに船だった。
とはいえ、彼らはもっとよく知っておくべきだった。盗んだボートを無事にマライタまで導いてやったところで、用済みになった二人は殺された。ヤンセン船長が取り戻したボートと道具が、そのときのものなのだ。
ソロモン諸島まではるばる航海してきたというのに、ここではぼくらにもいろんな問題が生じた。
チャーミアンの誇り高き精神もついに失墜し、ほこりにまみれてしまった。
それは、ランガランガの人工島の、家も見えない浜辺で起きた。
ここで、ぼくらは何百人もの物怖じしない裸の男女や子供たちに囲まれた。あちらこちらと歩きまわり、いろんな景色を眺めた。
ぼくらは銃を携帯し、いつでも出発できるよう船尾を浜に着け、オールをこぐばかりにした状態で、完全武装の乗組員をボートに待機させていた。とはいえ、問題を起こしたらどうなるかという教訓を軍艦が示していった直後だったので、トラブルは生じなかった。
ぼくらはいろんなところを歩きまわり、何でも見てまわったが、最後に浅い河口を渡る橋の役目をしている、大木の切り株のところに出た。黒人たちはぼくらの前で壁を作り、通行を阻止した。ぼくらは制止される理由を知ろうとした。黒人たちは、ぼくらには渡ってよいと言った。そこに誤解があったのだが、ぼくらはその通りに進んだ。すると、事情が明白になった。ヤンセン船長とぼくは男なので進んでもよいが、メアリーがその橋を渡ることは認められない、というのだ。
「メアリー」はピジン英語で女性を指す。つまり、メアリーとはチャーミアンのことだった。女は橋にとってのタンボ、現地の言葉でタブーとされていた。
ぼくはむかついた!
ついに、ぼくが自分の男らしさを証明するべきときがきたと思ったほどだ。とはいえ、ぼくは優遇される側にいるので文句は言えない。チャーミアンは歩きまわることは認められたものの、橋を渡るのは許されず、彼女はボートに戻るしかなかった。
その後に起きたことについても、あえて言っておこう。
ショックのあまり熱が出るというのは、ソロモン諸島ではよくあることで、チャーミアンは通行を拒否されてから半時間もたたないうちに発熱してミノタ号へと大急ぎで運ばれた。毛布にくるまり、キニーネを処方された。ワダとナカタがどういうショックで発熱を引き起こしたのかは知らないが、彼らも熱でダウンした。ソロモン諸島がもっと健康的な場所になるよう祈るばかりだ。
さらに、この発熱のさなかに、チャーミアンはソロモン痛にも襲われた*。通行拒否は、すでに限界に達していた彼女を倒した最後のワラ、最後の一撃だったのだ。スナーク号では、彼女をのぞいて皆がこの病気にかかった。ぼくは潰瘍がひどくて、くるぶしのところから足を切らなきゃならないのではないかと思っていたほどだ。ヘンリーとタイハイイ、それにタヒチの船乗りたちも、その多くがひどい潰瘍に悩んでいた。ワダは自分にできた潰瘍の数を二十個単位で数えることができた。ナカタの潰瘍は数は少ないものの、大きさが三インチもあった。マーチンは潰瘍の根が伸びていって脛骨(けいこつ)が壊死(えし)しはじめていると思いこんでいた。
* ソロモン痛: 症状から推測すると、いわゆる「風土性トレポネーマ症」(別名、イチゴ腫)という細菌感染症のようだ。
だが、チャーミアンはそれまで、そういうものとは無縁だった。彼女はずっと無事だったので、ぼくらの間ではむしろ小馬鹿にされていたくらいだ。ある日など、彼女は、やっぱり根が純粋無垢だと病気もよりつかないのねと、ぼくにささやいたりもした。
ぼくらは彼女をのぞいて全員が病気にかかっていて、彼女だけがそうではなかったのだが、ともかくも、その彼女も罹患(りかん)した。潰瘍は一ドル銀貨ほどの大きさだったが、純粋無垢な血液のおかげか、数週間の苦しみをへて治癒した。
彼女は昇汞(しょうこう)が効くと信じていた。マーチンは効くのはヨードホルムだと言い張った。ヘンリーは薄めていないライムジュースを使った。ぼくはといえば、昇汞(しょうこう)がなかなか効いてこないときには、包帯を過酸化水素水に浸して代用した。ホウ酸をくれたソロモン諸島の白人もいたし、ライゾールという消毒剤がいいという者もいた。万能薬と称するものも持っていたが、あまり効き目はなかった。それが効くのはカリフォルニアでの話だ。ぼくは、ソロモン諸島のこの病気にカリフォルニアでかかってみろよと言いたい。効くわけないんだから。
ぼくらはランガランガから礁湖をさらに進んだ。マングローブの生い茂った沼沢地で、航路はミノタ号よりちょっとだけ幅があるかなというくらいだ。海沿いのカロカ村とアウキ村を通り過ぎた。ベネチアを作った人々と同じように、ここの海の民はもともと本土から避難してきた人々だ。虐殺を逃れてきたのだ。森で生活するには弱すぎるので、砂州を島にしてしまった。食料は海の幸に頼らざるをえず、しだいに海の民になっていく。
やがて魚や貝を捕る方法を覚え、針や釣り糸、網や漁労用の仕掛けも作り出した。体つきもカヌーに適したものに変わっていった。歩きまわるのが苦手だが、いつもカヌーに乗っているので、腕は太くなり、肩幅も広かった。
一方、腰まわりは小さく、足はかぼそかった。海の恵みを受けて豊かになり、岸辺で森の奥の連中とも交易を行っている。
とはいえ、この海の民と森の民との間には、はてしない反目があった。実際には取引の市が開かれる日だけ停戦になる。市は普通は週に二回開かれる。森の民と海の民の女たちが物々交換を行う。その間、森では百ヤードほど離れたところに武装した森の男たちが隠れていたし、海の方でも男たちがカヌーに乗って待機していた。市のある日に停戦協定が破られることはめったにない。森の民も魚が好きだし、海の民も土地が狭い人工島では育てられない野菜をほしがっていた。
ランガランガから三十マイルほど進んだところで、ハッサカンナ島と本土との間にある航路に出た。
ここで夜になり風も落ちたので、ボートを漕いでミノタ号を曳航した。懸命に漕いだが、潮の流れが逆だった。真夜中に、航路のど真ん中でユージニー号と遭遇した。大型のスクーナーで、この船も同じように人集めをしていたが、やはりボートで曳航されていた。指揮をとっているのはケラー船長で、二十二歳のがっしりした若いドイツ人だった。交歓のためミノタ号に乗船してきたので、マライタ島の最新情報を交換しあった。船長の方は運にも恵まれ、フィウ村で二十人も集めていた。
そこに滞在しているときに、いつものように殺し合いがあったそうだ。殺された少年は、いわゆる海で生きるようになった森の民だった。つまり、半分は森の民で海育ちだが、島には住んでいないという連中だ。彼が働いている農園に、三人の森の民がやってきた。彼らは友好的にふるまっていたが、しばらくして、カイカイをくれと言った。カイカイとは食い物のことである。それで、彼は火をおこし、タロイモを煮た。鍋をのぞきこんだとき、森の民の一人が銃で頭を撃った。男は火の中に倒れた。三人組はすかさず槍で腹を突き、切り裂いた。
「ひどいもんだよ」、とケラー船長はいった。「オレが殺されるとしたら、スナイドル銃で撃たれるのだけはごめんだね。パッと広がってさ、頭に馬車が通り抜けられるくらいの穴が開いちまうんだから」
マライタ島に関してぼくが聞いた別の人殺しは、老人の殺害だった。
森の民の重鎮がなくなったのだが、自然死だった。しかし、森の民で、自然死を信じる者などいない。いままで自然死というものが存在しなかったからだ。死ぬというのは、銃で撃たれるか、斧でなぐり殺されるか、槍で突かれるかしかないのだ。それ以外の方法で誰かが死んだとなると、呪い殺されたということになる。
ボスが自然死したとき、部族の連中はある家族にその罪をきせた。罰としてその一族の誰を殺すかは重要ではなかったので、一人暮らしの老人が選ばれた。その人なら簡単に殺せるだろうからだ。その老人はスナイドル銃を持っていなかったし、盲目だった。老人は自分がどんな目に遭うかを悟ると、矢を大量に集めた。スナイドル銃を手にした三人の勇敢な戦士が彼を夜襲した。戦いは一晩中続いた。森を何かが移動する音や何か鳴る音がすると、老人はすかさずそっちの方向に矢を射た。朝になり、最後の矢がつきたところで、この三人の英雄は老人に忍び寄って頭を吹き飛ばした。
夜が明けても、ぼくらはまだ航路でうろうろしていた。へとへとに疲れてしまったので、この航路はあきらめて、広い海に出た。バッサカンナ経由で目的地のマルに向かって帆走した。
マルの泊地は非常によかったが、陸とむき出しの岩礁との間にあるため、入るのは簡単、出るのは厄介という場所だった。風上に進むには南東の貿易風が必要だった。砂州のところは幅が広かったが、水深は浅く、常に潮が流れている。
マルに住んでいる伝道者のクライフィールド氏が自分のボートで岸ぞいをやってきた。細身の繊細そうな人で、職務には情熱を抱いていた。分別があり実際家でもあって、神にとっては本物の二十世紀の使者といったところである。マライタ島のこの地にやってきたとき、約束の任期は六ヶ月だったんですよ、と彼は言った。その期間をぶじに生き延びると、氏は期間延長に同意した。それから六年が経過していたが、まだ滞在を続けている。とはいえ、氏は自分がまだこれから六ヶ月以上も住むのかについては確信を持っていなかった。マライタ島で、氏の前任の布教者は三人いたが、そのうちの二人は任期満了前に熱病で死んだし、三人目は帰国の途中で難破した。
「どの殺人について話をしてるんですか?」と、ふいにクライフィールド氏がヤンセン船長に聞いた。どうも会話がちぐはぐだった。
ヤンセン船長が説明する。
「ああ、それは私が話しているのとちがいます」と、クライフィールド氏が言った。「昔の話ですよ、二週間も前のね」
チャーミアンにもとうとうランガランガでソロモン病の潰瘍ができてしまい、そのことで彼女一人だけ無事ってのは許せないと思っていたぼくはひそかににんまりしたのだが、そういう自分の性格を後悔するはめになったのが、ここマルでだった。
それについては、クライフィールド氏にも間接的な責任がある。氏はぼくらにニワトリをくれた。ぼくはライフルを持って茂みに入っていった。そこでニワトリの首を落とすつもりだった。それはうまくいったのだが、ぼくは木につまづき、むこうずねをすりむいた。その結果、ソロモン病の潰瘍が三カ所にできてしまったのだ。これでぼくの潰瘍は計五カ所になった。
ヤンセン船長とナカタはガリガリにもかかった。ガリガリとは、文字通り、かゆいかゆいという意味だ。だが、ぼくらにしてみれば、それを訳す必要もなかった。船長とナカタが体をくねくねとくねらせる仕草を見ていれば、それだけでわかるからだ。
いやもう、ソロモン諸島は昔ほど健康的なところではなくなっている。ぼくはイザベル島でこの原稿を書いているのだが、なぜこの島に来たのかというと、潮の干満を利用してスナーク号の船底を露出させて船底の銅板の汚れを落とすためだ。
今朝、ぼくは何度目かの発熱が終わったところだ。とはいえ、また一日すれば熱が出るだろう。チャーミアンの発熱の間隔は二週間だった。ワダの体も熱でぼろぼろだった。昨夜、彼は肺炎の症状がすべて出た。タヒチ出身の頑丈な大男、ヘンリーはこの前の発熱から回復したばかりで、去年の小さくて酸っぱいリンゴのように甲板をごろごろしていた。ヘンリーもタイハイイもソロモン病の潰瘍が広がっていた。連中はそれに加えてガリガリも併発した。これはポイズン・オークやツタウルシのような植物によるかぶれだ。
それだけじゃない。何日も前に、チャーミアンとマーティン、それにぼくとで小さな島での鳩撃ちに出かけたのだが、それ以来ずっと苦しみが続いている。その小島では、マーチンもサメを追いかけていてサンゴの縁で足裏を切った。少なくとも、本人はそう言っているのだが、ぼくの見るところ理由は別にある。とはいえ、そのサンゴによる傷もすべて潰瘍になった。前回の発熱の前に、ぼくの潰瘍は消えたが、また新しいのが三つできている。
それにしても、かわいそうなのはナカタだ! 三週間もの間、座ることもできなかった。昨日はじめて座ったのだが、ほんの十五分がやっとだった。あと一カ月もすればガリガリも直りますよと、カラ元気を出している。ガリガリは、ひどくかきむしったものだから、そこからさらに潰瘍が広がっている。さらにさらに、彼は七度目の発熱で寝こんでしまった。ぼくが王様だったら、敵に対する最も残虐な処罰としてソロモン病に罹患させるよう命じるだろう。とはいえ、王様であってもなくても、そんな残酷なことはしてはいけないと思い直した。
港内での帆走用に建造された小型の細長いヨットで農園の労働者を募集するのはお勧めできない。
甲板には募集した労働者とその家族があふれている。メインキャビンでは連中がすし詰めになっている。夜になると、そこで眠るのだ。ぼくらの小さな船室への唯一の入口がこのメインキャビンを通っているので、ぼくらは彼らを押しのけるか、またいで出入りした。それだけじゃない。全員が悪性の皮膚病にかかっている。白癬にかかっている者もいれば、ブクアにかかっている者もいた。ブクアは野菜に寄生し皮膚から侵入して食い荒らす虫が原因だ。このかゆさは、とてもがまんできない。これにかかるとかきむしるので、こまかな乾いた皮膚片が空中に飛び散ってしまう。さらに、イチゴ腫もあれば他の皮膚病をわずらっている者も大勢いる。乗船してくる男たちは足にソロモン病の潰瘍があり、それがとても大きいので、つま先立ちしなければ歩けなかったり、足に穴があき、拳が骨のところまですっぽりと入ってしまいそうなくらいひどいのもいた。敗血症もよくある病気で、ヤンセン船長も鞘(さや)入りのナイフと帆を縫う針でどんどん手術していた。症状がどんなに絶望的であっても、切り開いて洗浄した後、彼は堅パンを水にひたして湿布とし、その上からたたいていた。ぼくらは特にひどい場合には隅の方にに引っこんで昇汞(しょうこう)をふりかけた。ミノタ号の船上では、そうやって機をのがさず「快適なふりをして」生活しつつ、食べて眠った。
もう一つの人工島のスアヴァで、チャーミアンは二度目の災難にあった。
スアヴァで一番の大物だという男(つまり、スアヴァで最高の偉い人)が船に乗ってきた。
だが、そいつは最初、ヤンセン船長に、自分の高貴な身を包みかくす布が必要だと使者を送ってきた。その間、船に横づけしたカヌーから出ようとはしなかった。この高貴な人の胸には垢が半インチほどの厚さでこびりついていた。その下の層の汚れは十年から二十年は経っていそうだった。この貴人はまた使者を船によこした。使者はスアヴァの大君の意向として、ヤンセン船長やぼくに握手する栄誉を与え、ステッキや取引用のたばこをもらってやってもよいが、名門たる自分の立場では女ふぜいと握手をすることは、とうていできかねる、という。かわいそうなチャーミアン! マライタ島での女性蔑視の体験から、彼女はすっかり生まれ変わっていた。表向きはおそろしく従順で謙虚になっている。ぼくらが文明世界に戻って歩道を歩くとき、彼女が一ヤードほど後ろからうつむいてついてきても驚きはしない。
スアヴァでは、そうたいしたことは起きなかった。地元出身のコックのビチュが職務放棄して逃げたり、ミノタ号が走錨したりしただけだ。激しい風雨にも襲われた。航海士のヤコブセンとワダが発熱して病に倒れた。ぼくらの潰瘍はひどくなり拡大した。
船にいたゴキブリは七月四日の独立記念日と戴冠式のパレードを一緒にしたような賑わいで歩きまわっている。きまって深夜に狭い船室に出没した。長さは二、三インチあった。何百匹もいて、それがぼくらの体の上をはいまわる。捕まえようとすると、固い床からパッと飛び上がり、ハチドリのように羽ばたいて移動した。スナーク号にいるゴキブリよりも、ずっと大きかった。スナーク号のゴキブリはまだ幼くて、成長しきれていないのかもしれない。
また、スナーク号にはムカデもいた。長さが六インチもある大きなやつだ。ときどき見かけて殺したが、たいていはチャーミアンの寝床にいた。ぼくは二度かまれた。卑怯にも、どちらも眠っているときだった。
とはいえ、かわいそうなのはマーチンで、運に見放されていた。病気で三週間も寝ていたのだが、やっと起き上がれるようになったものの、一日で元に戻ってしまった。冒険航海に出てみようなどと夢にも思わない人はやはり賢明だと、ときどき思ったりもする。
この後、ぼくらはマルに戻り、七人の労働者を集めた。錨を上げて、出口に向かった。
ここは危険な場所だ。風が急変し、荒々しい岩礁に押し寄せている流れも強くなった。そこをかわして外海に出ようというまぎわに、風向が四十五度も変化した。ミノタ号はそれに合わせてタッキングしようとしたが失敗した。ツラギで錨を二個も失っていたので、残った一つを投錨した。チェーンが出て行き、サンゴにしっかり食いこむ。ミノタ号の細長いキールが海底に当たった。メインのトップマストが大きく揺れ、それから激しく振動する。頭上に落ちてくるんじゃないかと思うほどだった。急に停止してチェーンがゆるんだところに、大波が押し寄せてきて船にぶつかった。チェーンが切れた。それが残った唯一の錨だった。ミノタ号はぐるりと向きを変えると、そのまま船首から砕け散る波に突進していった。
ひどい混乱が起きた。
農園の労働者として採用された連中は甲板の下にいたが、全員が森の民で、海をおそれていたので、パニックになって甲板に飛び出してきて、てんでに駆けだした。
と同時に、船の乗組員もライフルをとりに走った。彼らはマライタの海岸で起きたことを知っていた。片手は船のために、片手は原住民と戦うために、というわけだ。実際には彼らが片手で何につかまっていたのか、ぼくは知らない。ミノタ号は波に持ち上げられ、転がされ、サンゴにぶつけられるので、ともかく振り落とされないよう何かにつかまっている必要があった。森の民は索具にぶらさがっていた。トップマストをしっかり見張っておくという発想はないようだった。乗組員たちは上陸用ボートで漕ぎ出し、ミノタ号がさらに岩礁の方に流されないよう、無駄と知りつつ懸命に曳航しようとした。
その一方、ヤンセン船長と、発熱で青白い顔をして衰弱していた航海士は、バラスト代わりに船底に放り込んであった壊れた錨をまた使えるようにするべくストックを取りつけようとしていた。コールフェイルド氏が仲間の少年たちとボートで駆けつけてくれた。
ミノタ号が座礁した当初、周囲にカヌーはいなかった。
しかし、青空を旋回するコンドルのように、あらゆるところからカヌーがやってきた。乗組員たちはいつでもライフルを撃てるよう構え、それ以上近づくと殺すぞと警告する。連中は百フィート(約三十メートル)の距離を保っている。波が打ち寄せる危険な場所だが、黒っぽく不気味な姿で列をなし、パドルを漕ぎつつカヌーの位置を維持している。浜辺の方も、山から降りてきた森の民ですし詰め状態だった。手に手に槍やスナイドル銃を持ち、弓やこん棒で武装している。事態を複雑にしたのは、農園の労働者募集に応じた十人以上の連中が、たばこや交易品など船上のすべてを略奪しようと浜辺で待ち構えている、まさにその森の民の出身だったということだ。
ミノタ号は手を抜かずに建造されていた。
こういうことは、船が岩礁に乗り上げたようなときにものを言う。
船がどれほどの力に耐えたかについては、座礁して最初の二十四時間に二本の錨鎖がちぎれ、八本の太いロープが切れたという事実でもわかるだろう。乗組員たちは海に飛びこんでは錨を探して新しいロープを結びつける作業に忙殺された。ロープで補強した鎖が切れたりもした。それでも、まだ耐えていた。キールや船底を守るため、海岸から三本の大木を運んで船の下に押しこんだ。太い幹がずたずたになって裂けてしまい、それを固縛していたロープもぼろぼろになった。船は何度もドシンドシンとぶつけられたが、持ちこたえた。
だが、ぼくらはアイバンホー号より幸運だった。アイバンホー号は大型のスクーナーで労働者募集に使われていたのだが、数カ月前にマライタ島の海岸に乗り上げてしまい、たちまち原住民による略奪にあったのだ。船長と乗組員はボートで脱出に成功したものの、森の民と海の民が持ち運べるものをすべて運び出してしまった。
土砂降りの雨が続き、目もあけていられないほどの強風がミノタ号をおそう。海は大荒れになってきた。五マイルほど風上にユージニー号が錨泊している。が、途中に岬があって視界がさえぎられているため、ミノタ号のトラブルに気づくはずもなかった。
ヤンセン船長の提案で、ぼくはケラー船長宛に、余分に錨があれば持ってきてもらえないかという手紙を書いた。しかし、その手紙を運んでやろうというカヌーは一隻もなかった。半ケースのタバコをやると言ったのだが、連中はニヤッと笑うだけで、またすぐ離れてしまうのだ。半ケースのタバコといえば三ポンドの価値がある。風や波は高かったが、その手紙を運ぶほんの二時間ほどの手間をかけるだけで、農園で半年も汗水流してやっと手にする賃金に相当する価値のあるものを受けとれるというのに。
ぼくはコールフェイルド氏がボートで錨を運んでいるところまで、なんとかカヌーを漕いでいった。彼ならぼくらより原住民に対する影響力があるだろうと思ったのだ。氏は周囲のカヌーを自分のところに呼び集めた。二十人ぐらいが近づいてきて、半ケース分のタバコをやるという話に耳を傾けた。皆、無言だった。
「君たちが何を考えているのか、私にはわかる」と、伝道師は語りかける。「座礁したあの船にはたくさんのタバコが積んであるはずだから、それをごっそりいただこうと思ってるんだろう。だがね、船にはライフルもたくさんあるんだよ。タバコどころか銃弾をくらうことになるぞ」
やっとのことで、小さなカヌーに乗った男がその手紙を運んでくれることになり、一人で出発した。救助を待つ間も、ミノタ号では作業が続けられた。水タンクを空にし、円材や帆、バラストを陸に運ぶ。ミノタ号が揺れるたびに船上で悲鳴があがる。
交易品を詰めた箱やブーム、八十ポンドもある鉄のバラストが一方の舷からもう一方の舷へと飛び交うたびに、二十人もの男たちが押しつぶされないよう逃げまわった。この船はおだやかな港内での帆走用に建造された華奢なヨットだったのに! かわいそうに、甲板も動索もぼろぼろになっていた。
甲板の下では、何もかもがひっくり返っていた。船室の床にはバラストを取り出すための穴が開けられていたし、錆の浮いたビルジが船底でびちゃびちゃはねている。ライムを入れた樽が、調理中のシチューからこぼれた団子のように、小麦粉をぶちまけた海水にプカプカ浮かんでいる。奥の船室では、ナカタがライフルと弾薬を守っていた。
手紙を持った連絡係が出発してから三時間がたった。
激しい風雨をついて、一隻のボートが巨大な帆を揚げてやってきた。ケラー船長だった。雨と波しぶきでずぶ濡れになっていたが、ベルトには拳銃を差し、ボートの乗組員は完全武装している。ボート中央には錨とロープが山のように積みこまれていた。突風も顔負けの迅速さだった。白人が同胞の救助に来てくれたのだ。
ハゲタカのようにじっと待っていたカヌーの列が乱れ、来たときと同じようにあっという間に消えてしまった。
結局、一人の死者も出なかった。これでボートは三隻になったので、二隻がミノタ号と海岸との間を往復し、もう一隻が錨を担当した。切れたロープを補修し、失った錨を回収した。その日の午後遅く、話し合った末に、船の乗組員の数と採用した地元の労働者が十人になったことを考慮して、ぼくらは乗組員の武装を解いた。それで、両手を自由に使って船の作業に専念できるようになった。ライフルはコールフェイルド氏の手伝い五人に預けた。
壊れた船室では、伝道師と彼により改宗した地元の少年たちがミノタ号を救ってくれるよう神に祈っていた。印象的な光景だった。一点の曇りもなく信じて祈っている丸腰の男の背後で、元は野蛮だった連中がライフルを持ち、アーメンと唱えているのだ。
船室の壁が揺れる。船が持ち上がり、波が寄せるたびにサンゴにぶつかる。甲板からは吐いたり疲労困憊した声や、目的も腕力もある連中が別の流儀で祈ったりする大きな声が聞こえてきたりしている。
その夜、コールフェイルド氏は警告を発した。ぼくらが募集した労働者の一人に、貝の貨幣で五十ファザムとブタ四十匹の賞金がかかっているというのだ。
船の略奪に失敗した森の民は、その男の首を狙うことにしたらしい。いったん殺し合いが始まってしまうと、いつ終わるのかはわからない。それで、ヤンセン船長は武装したボートで浜辺まで行った。ウギというボートの乗組員の一人が立ち上がり、船長に代わって話をし、夜間にカヌーを見つけたら鉛弾を撃ちこんで沈めてしまうぞと警告した。ウギは宣戦布告したわけだ。そうして、次のように締めくくった。「おまえらがオレの船長を殺したら、オレは船長の血を飲んで一緒に死んでやる!」
森の民は腹いせに無人の宣教師館を燃やして森に引き上げていった。翌日、ユージニー号がやってきて投錨した。ミノタ号は三日と二晩の間、座礁していた。それからやっと離礁し、穏やかな海面に錨を降ろした。ぼくらは全員がそこでミノタ号に別れを告げてユージニー号に乗り移り、フロリダ島に向けて出発した。
原注
スナーク号のぼくらだけに異常に病人が多かったわけではないことを指摘しておくため、ここでユージニー号の航海日誌から、ソロモン諸島の航海の例とみなしてよいものを引用しておこう。
ウラバ、木曜、一九〇八年三月十二日
朝、ボートで上陸。二つの荷を入手。ゾウゲヤシの実とコプラ四千個。船長は熱病で寝こんでいる。
ウラバ、金曜、一九〇八年三月十三日
森の民から堅果一トン半を購入。航海士と船長は熱病で伏している。
ウラバ、土曜、一九〇八年三月十四日
正午、揚錨し、東南東の微風でンゴランゴラへ向かう。水深八尋(ひろ)で錨泊。海底は貝とサンゴまじり。航海士、熱病で寝たまま。
ンゴランゴラ、日曜、一九〇八年三月十五日
夜明けに、ボーイのバグアが赤痢のため死んだことが判明。罹患して十四日ほどだった。日没時、南西から激しいスコール(二つ目の錨を用意した)。スコールは一時間三十分続いた。
海上、月曜、一九〇八年三月十六日
午前四時にシキアナに向け針路を設定。風が落ちた。夜間、激しいスコール。船長ともう一人が赤痢に罹患。
海上、火曜、一九〇八年三月十七日
船長と二名の乗組員が赤痢で寝こむ。航海士は熱病。
海上、水曜、一九〇八年三月十八日
波が高い。風下側の舷はずっと海水に洗われている。縮帆したメインセイルに、ステイスルとインナージブで帆走。船長ほか三名が赤痢。航海士は熱病。
海上、木曜、一九〇八年三月十四日
視界が悪く何も見えない。常に強風が吹いている。ポンプが詰まったのでバケツで排水。船長と五名のボーイが赤痢で寝こむ。
海上、金曜、一九〇八年三月二十日
夜、ハリケーンなみのスコール。船長と六名が赤痢。
海上、土曜、一九〇八年三月二十一日
シキアナから戻る。終日、スコール。豪雨と高波。船長と元気だった乗組員が赤痢。航海士は熱病。
といった具合だ。ユージニー号の航海日誌では、来る日も来る日もこんな調子で、船上のほとんどの者が病に倒れている。唯一の変化は三月三十一日で、この日は、それまでとは逆に航海士が赤痢に倒れ、船長が熱病で寝こんだ。
白人の交易商人の数が多く、エリアが広いこと、原住民の言語や方言が二十以上もある──ということになれば、交易商人たちは、まったく新しい、科学的とはいえないものの、完全に実用に適した言葉を作り出すものだ。
そうやって実際に作り出された言葉の例として、北米太平洋岸のブリティッシュ・コロンビアやアラスカ、ノースウェスト地域で使われているチヌーク語がある。アフリカのクルメン族の言葉や極東のピジン英語、南太平洋西部のピジン語もそれに該当する。
このピジン語というやつ、広い意味でピジン英語と呼ばれることが多いが、この地の言葉は、いわゆるピジン英語とは明確に異なっている。どれほど違うのかについては、中国の伝統的な量詞(ピーシー)が使用されない、という事実を指摘しておけば十分だろう。
たとえば船長が現地人のボスを船室に呼ぶ必要があり、そのボスが甲板にいるとする。船長は中国人の接客係にこう指示する。
「ヘイ、ボーイ、ユー、ゴウトゥ、トップサイド、キャッチー、ワン・ピーシー・キング(おい、君、上まで行ってボスを連れてきてくれ)」
接客係がニューヘブリディーズ諸島かソロモン諸島出身だったら、その指示はこうなる。
「ヘイ、ユーフェラ、ボーイ、ゴウ、ルックン、アイ、ビロング、ユー、アロング・デッキ、ブリングン、ミー、フェラ、ワン、ビッグ、フェラ、マースター、ビロング、ブラックマン(おい、そこの君、甲板まで探しに行って、私のところに黒人の大将を連れてきてくれ)」
初期の開拓者たちの後にメラネシアを航海した最初の白人たち、ナマコ漁の漁師や白檀(びゃくだん)の交易商人、真珠取り、労働者を集めてまわる者たちがこのピジン語を発明した。たとえば、ソロモン諸島では、二十もの言語や方言が話されている。交易商人たちがそうした方言を覚えようとしても無理である。
というのも、行く先々で言葉が違うし、それが二十もあるのだ。共通の言語が必要だ。子供でもおぼえられる、単純で、実際に使う現地の人々の理解度に合わせて語彙を制限した言語が。
交易商人たちは理詰めでそういうものを案出したのではない。ピジン語は条件と状況の産物である。機能が器官に優先している。ピジン語が誕生する前から、まず統一されたメラネシアの言語の必要性があったのだ。ピジン語はまったく偶然の産物だった。しかも、言語は必要性から生まれるという事実に裏づけされたピジン語の由来は、エスペラント*の信奉者にとっても大いに参考になるだろう。
* エスペラントは、ポーランドの眼科医で言語学者のL・L・ザメンホフが世界共通の言語をめざして作った人工の言葉。文法は単純明快で、スナーク号の航海の二十年ほど前に発表されたばかりの最新の人工言語だった。
二十一世紀の現代から見ると、なぜ当初予想されたほど普及しなかったのかのヒントがここにあるかもしれない。つまり頭脳明晰な人が考え出した論理的で合理的な言語が必ずしも人間にとって現実に必要な言葉になるとは限らない、ということだ。
語彙が限定されるため、一つ一つの言葉に多くの意味が割り当てられることになる。
ピジン語でフェラ(やつ)は、一人を指す場合もあるし、可能なあらゆる結びつきで使用されることもある。よく使われるもう一つの言葉は「ビロング(属する)」である。単独では使わず、すべて他との関係で使用される。ほしいものは、別のものとの関係で示される。未発達の語彙では表現も素朴になる。雨が降り続くことは、レイン、ヒー、ストップ(雨、いる)と表現される。サン、ヒー、カムアップ(日、上がる)は誤解の余地がないが、語句の構造自体は変えず、一万通りもの異なる意味を伝えることが可能だ。
たとえば現地の人が君に、海に魚がいるのを知らせようとする場合、「フィッシュ、ヒー、ストップ(魚、いる)」と言うのだ。イザベル島での取引の最中に、ぼくはこの用法の利便性を悟った。
ぼくはペアの大きな(三フィートもある)クラムシェルを二、三個ほしかったのだが、殻の中の肉は別にいらなかった。もっと小さいクラムの肉でクラムチャウダーを作りたかったのだ。それで、ぼくの原住民への依頼は最終的にはこうなった。
「ユーフェラ、クラム――カイカイ、ヒー、ノーストップ、ヒーウォークアバウト。ユーフェラ、ブリング、ミーフェラ、スモールフェラ、クラム――カイカイ、ヒー、ストップ(君、クラム――食べ物、いらない、肉はよそに行く。君、持ってくる、ぼくに、小さいクラム――食べるやつ、いる)」
カイカイとは、食い物、肉、食事を指すポリネシア語だ。だが、この言葉は白檀の交易商人によってメラネシアに持ちこまれたのか、ポリネシア人が西に流されて伝わったのかは、よくわからない。ウォークアバウト(歩きまわる)という表現は、ちょっと変わった使い方をされる。ソロモン諸島の船乗りにブームを扱うよう命じると、彼は「ザッツフェラ、ブーム、ヒー、ウォークアバウト、ツーマッチ(あいつ、ブーム、うごきまわる、ひどく)」と言うのだ。そして船乗りが海岸での自由を求める場合、ウォークアバウトするのは自分だと述べる。船乗りが船酔いすると、彼は自分の状態について「ベリー、ビロング、ミー、ウォークアバウト、ツーマッチ(胃、オレの、むかむか、とても)」と説明するだろう。
ところで、ツーマッチは、元の英語と異なり、ピジン語では何か過剰なことを示すのではない。単に一番上だということを指す。
ある村までの距離を原住民にたずねると、答えは「近い(クローズアップ)」「ちょっと遠い(ロングウェイ、リトルビット)」「だいぶ遠い(ロングウェイ、ビッグ」か「とても遠い(ロングウェイ、ツーマッチ)のどれかになる。とても遠いは、村まで歩いては行けないというのではなく、村が「だいぶ遠い」場合よりもさらに歩かなければならない、という意味である。
ガモンは、嘘をつく、誇張する、冗談を言うという意味だ。
メアリーは女性。女性はメアリー。女はすべてメアリーという風になるが、このメアリーについてはっきりしているのは、かつてやってきた最初の白人の冒険者が現地の女性を気まぐれにメアリーと呼んだことによる。
ピジン語には、似たような成り立ちを持つ語句が他にもたくさんある。
白人の男たちはみな船乗りだったため、転覆(キャプサイズ)や叫ぶ(シングアウト)という言葉がもたらされた。メラネシア人のコックに食器を洗った後の水を捨てろと言っても通じない。そういう場合は、食器を転覆させろと言えばよい。シングアウトは叫ぶ、大声で呼ぶ、単に話すということを指す。原住民のキリスト教信者は神がエデンの園でアダムを呼んだのではなく、神はアダムにシングアウトした、となる。
サヴイ(わかる)やキャッチイ(つかまえる)は、ピジン英語がそのまま持ちこまれた唯一の言葉だ。人々は色黒なのでピカニニイ(黒人の子供)という言葉もあるが、変わった使い方をする。カヌーに乗った原住民からニワトリを買おうとすると、その原住民はぼくに「ピカニニイ、仲間といるの、やめてほしいのか」と聞いてくる。そうして、ひとつかみの卵を見せてくれたのでやっとその意味がわかった。マイロード(おやまあ)は、とても大事だということを示す感嘆の言葉として英本国から来たのだろう。パドル、櫂、オールはウォッシーと呼ばれる。ウォッシーも動詞として使う。
ここに、サンタアンナで現地人の交易商人のピーターが口述した、雇用主宛の手紙がある。スクーナーの船長のハリーがその手紙を書いてやったのだが、ピーターは二文目が終わったところでやめさせた。手紙のそれから後は、ピーター自身の言う通りに筆記された。というのは、ピーターはハリーがひどいでたらめを書いているのではないかと疑い、自分が本社に行く必要性について率直に語ろうとしたのだ。
サンタアンナにて
「交易業者のピーターは御社のために十二ヶ月間働いていますが、まだ支払いを受けておりません。彼は十二ポンドほしいと言っています」(ここで、ピーターの口述を筆記したものに変わる)。「ハリーはいつもでたらめをいう、ひどく。わたし、ほしい、ビスケット六缶、米四袋、ブラマカウ二十四缶。わたし、好き、ライフル二丁も。わたし、ボートで見張ってる。行く場所で悪いやつに会う。そいつは食べようとする、わたしを」
ピータ
ブラマカウは牛肉の缶詰だ。この言葉は、交易業者がメラネシアから持ちこんだ英語をサモア流にくずしたものだ。クック船長や初期の航海者たちは種や植物、家畜を原住民にもたらした。そういう航海者の一人が雄牛と雌牛を上陸させたのがサモアだった。「これが雄牛(ブル)と(アンド)雌牛(カウ)だ」と、彼はサモア人に言った。彼らは動物の種類を言ったのだろうと誤解し、それから現在まで、生きた肉牛や缶詰の牛肉はブラマカウと呼ばれている。
ソロモン島民はフェンスと発音できない。それで、ピジン語ではフェニスとなる。ストアはシットアで、箱(ボックス)はボッキスだ。衣装箱も箱(ボッキス)で、ベルが取りつけられていて、開けると警戒音が鳴るものがある。そういう仕組みの箱は単なるボッキスではなく、ボッキス・ビロング・ベル(ベルのついた箱)と呼ばれる。
「フライト(恐怖)は、ピジン語でこわいだ。
原住民がびくびくしているので、どうしたんだと聞くと、こういう返事が戻ってくる。
「ミー、フライト、アロングユー、ツーマッチ(わたし、こわい、あなた、とても)」
嵐や原野、幽霊の出る場所をこわがることもある。クロス(十字架)は、あらゆる形の怒りになる。男は不機嫌なときクロスとなる。また、彼らが君の頭を切り落として食っちまおうと狙っているときもクロスだ。
プランテーションで三年も出稼ぎで働いていた男が、マライタ島の自分の村にもどることになった。彼は派手なピカピカした服で着飾った。頭にはシルクハットをのせている。更紗やビーズ、ネズミイルカの歯、たばこを詰めた衣装箱も持っていた。
投錨後すぐに村人たちが乗船してきた。
この農園帰りの男は、不安げに親戚たちを探した。が、誰もいなかった。原住民の一人が彼の口からパイプを抜き取った。もう一人はビーズの首かざりを奪った。三人目は派手な腰巻きをはぎ取り、四人目はシルクハットを自分の頭にのせたまま返さなかった。最後に、連中の一人が三年間の労働の報酬である彼の衣装箱を抱え上げて、船に横づけしていたカヌーに放り投げた。
「あいつはお前の仲間なのか?」と、船長が略奪している連中を指さし、出稼ぎ男にたずねる。
「いや、ちがう」という返事。
「じゃあ、なんでこんなところであの箱を下ろさせるんだ?」と、船長は憤然として言った。
出稼ぎ男は「わたし、あいつに話しかけ、ボッキスをとるなというと、あいつ、わたしに怒る」と言った。
つまり、そんなことをしたら、相手が自分を殺す、というのだ。クロスは、洪水を発生させた神は人間に対してクロスして(怒って)いた、という風に使う。
「ワッツネイム(名前は?)」は、ピジン語で最もやっかいだ。
意味は言い方で変化する。「何の商売?」の場合もあれば、「こんな無礼なことをして、どういうつもりだ?」となることもある。何がほしいんだ、何を探してるんだ、ちゃんと見張ってろ、説明してくれ、など数百通りもある。夜中に原住民を家の外に呼び出すと、相手は「ワッツネイム、ユー・シングアウト、アロング・ミー?(なんでそんな大声でオレを呼ぶんだ?)」と詰問することだろう。
ブーゲンビル島の農園にいるドイツ人たちはこうした言葉に苦労しているらしい。現地の労働者を働かせるためにピジン語を学ばざるをえないのだが、ドイツ人にとって、ピジン語は非科学的である上に、数カ国語が混在しているし、勉強しようにも教科書なんて存在しないのだ。他の白人農園主や交易商人にとっては、きまじめなドイツ人たちが、まわりくどく、文法や辞書もない言語の習得に真剣に取り組んでいる様子はおかしくもあるらしい。
数年前、ソロモン諸島の非常に多くの住民がクイーンズランドの砂糖農園での労働に雇われたことがある。宣教師はキリスト教に改宗した労働者の一人に立ち上がるよううながし、到着したばかりのソロモン諸島人たちに教えを垂れるよう勧めた。すると、その男は話のテーマとして人類の堕落を取り上げたのだが、その講話はいまでは南太平洋の島々で古典となっている。こんな感じだ。
きみたちソロモン諸島人たち、白人ではないきみたち、わたしの仲間たちよ、これから白人について話をしよう。
はるかな昔、白人には住むところがなかった。ボスである神様も白人で、その人が白人をつくりだしたんだ。このボスの神様は、大きな楽園をつくった。とてもいいことをした。その楽園では、たくさんのヤムイモがとれた。たくさんのココナツ、たくさんのタロイモ、たくさんのクマラ(サツマイモ)。どれもこれもとてもおいしい。
このボスの神様は白人で、仲間の男を一人つくり、自分の楽園にすまわせた。その男をアダムと呼ぶと、その名前になった。アダムを楽園につれていって、こう言った。「この楽園はおまえのものだ」と。そうして、この男アダムが歩きまわるのを見ていた。その男アダムはずっと同じ病気にかかっていた。何も食べないのだ。ただ歩きまわるばかりなので、ボスの神様にはわけがわからなかった。偉大なボスは白人で、頭をかき、こう言った。
「なんだ? この男アダムが何をしたいのか、さっぱりわからない」
「そうして神様は頭をかきむしり、また言った。「わかったぞ。こいつはメアリーがほしいんだ」と。それで、神様はアダムを眠らせておいて骨を一本とり、それからメアリーをつくった。その人間メアリーをイブと呼んだ。イブをアダムのところに連れて行き、「仲よくしなさい。この楽園はきみたち二人のものだ」と言った。この木はきみたちには悪さをするから避けなさい。この木にはリンゴがなるんだ」
アダムとイブの二人は楽園でくらした。とても楽しくすごしていた。ところが、ある日、イブがアダムのところに来て、こう言った。
「ねえ、二人でこのリンゴを食べましょうよ」
アダムは言った。「だめだ」
するとイブは「あんた、なんであたしにいじわるするのよ?」と言った。
アダムは「おれ、おまえは大好きだけど、神様はこわいよ」
すると、イブが言った。「嘘ばっかり! それがどうしたってのさ? 神様だって、いつもあたしたちを見張ってるわけじゃない、神様はあんたをだましたんだ」
だが、アダムは言った。「いやだ」
だけど、イブは語り続けた。このメアリーはこのクイーンズランドの男にずっと話しかけ、彼をこまらせた。アダムはもううんざりだった。それで「わかったよ」と答えた。そうして、この二人はリンゴを食べた。食べ終わると、なんとまあ、おそろしい地獄が出現し、二人は森に隠れた。
すると、神様が楽園にやってきて「アダム!」と呼んだ。アダムは返事をしなかった。ひどくこわかった。
すると、なんと! 神様は「アダム!」と怒鳴った。
アダムは言った。「お呼びですか?」
神様は言った。「何度も呼んだんだぞ」
アダムは言った。「ぐっすり寝こんでたので」
すると、神様は言った。「おまえ、このリンゴを食べただろ」
アダムは言った。「いいえ、めっそうもない」
神様は言った。「なぜ私に嘘をつく? おまえは食べたんだ」
すると、アダムは言った。「はい、食べました」
すると、ボスの神様は、アダムとイブの二人をひどく叱って、こう言った。「お前たち二人はもう私とは縁がきれた。このボッキス(箱)を持って森へ行き地獄に落ちろ」
それで、アダムとイブの二人は森に入っていった。神様は楽園をぐるっと取りかこむ柵をこしらえた。その柵を仲間の一人にゆだね、マスケット銃を与えて、こう言った。
「この二人、アダムとイブを見つけたら、ぶっぱなせ」
スナーク号に乗ってサンフランシスコから出帆したとき、ぼくは病気については、山国のスイスに海軍があるとしてその司令長官が海について知っているのと同じくらいの知識しかなかった。というわけで、ここで、これから熱帯地方に出かけようと思っている人に助言させてほしい。一流の薬局――なんでも知っている専門家を雇っている薬局に行って、事情を説明するのだ。相手の言うことを注意深くメモし、お勧めの薬品の一覧表を書いてもらい、代価全額分の小切手を切って渡す、だ。
ぼくは自分もそうすべきだったと痛感している。
ぼくはもっと賢明であるべきだったし、いまとなっては、小型船の船長がよく使う、できあいの、自分で処置できる、誰でも使える救急箱を買っておけばよかったともつくづく思う。そういう救急箱に入っているビンにはそれぞれ番号が振ってあって、救急箱のふたの内側には簡単な指示が書いてある。整理番号と歯痛、天然痘、胃痛、コレラ、リウマチといった具合に、病気のリストに応じた薬がそろえてあるのだ。そうなれば、尊敬すべき船長がするように、ぼくもそれを使うことができたかもしれない。三番が空になったら一番や二番をまぜるとか、七番がすべてなくなったら、乗組員には四番と三番を処方し、三番がなくなったら五番と二番を使うといった具合にだ。
これまでは、昇汞(しょうこう、塩化第二水銀)を例外として(これは外科手術での消毒薬としておすすめできるが、まだその目的で使ったことはない)、実際に持参した薬箱は役に立たなかった。役に立たないどころか、もっと悪かった。というのは収納に場所をとるからだ。
手術器具があれば話は別だ。
まだ本格的に使ったことはないが、場所を占めるからといって後悔なんかしない。それがあると思うだけで安心する。生命保険みたいなもので、生きるか死ぬかという土壇場では役に立つ。むろん医療器具があっても、ぼくは使い方を知らないし、外科手術についても無知なので、直りそうな症例でも一ダースものインチキ療法を行ったりもすることになるだろう。だが、悪魔が来ているときにはそうせざるを得ないし、陸から千海里も離れていて、一番近い港まで二十日もかかるところまで悪魔がやって来るとして、スナーク号のぼくらはそれについて誰かから警告を受けることもないのだ。
ぼくは歯の処置については何も知らなかったが、友人が鉗子(かんし)や似たような道具を持たせてくれた。ホノルルでは、歯科の本も手に入れた。また、この亜熱帯の島で、頭を押さえておいて痛みを生じさせずにすばやく抜歯してやったこともある。こうした備えがあったので、ぼくは自分から望んでということはないものの、自分なりのやり方で歯の問題に取り組む用意はできていた。
あれはマルケサス諸島のヌクヒバでのことだった。ぼくが最初に治療したのは、小柄な中国人の老人だった。ぼくは武者ぶるいで体が震えた。ベテランのふりをしようとしたが、心臓はどきどきするし、腕も震えた。そうなって当然ではあった。中国人の老人はぼくの嘘にだまされなかった。彼もぼくと同じくらい驚いていて、震えはもっとひどかった。彼の恐怖がぼくに伝染し、忘れていた畏怖の念というものを思い出させた。だが、老人が逃げだそうとしたら、落ち着きと理性が戻ってくるまで彼を押さえつけただろう。
ぼくは彼の歯を抜こうとしていた。また、マーチンもぼくが抜歯するところを写真に撮りたがっていた。同様に、チャーミアンもカメラを持っていた。それでぼくらは連れだって歩きだした。ぼくらはスティーヴンソン*がカスコ号でマルケサスに来たときのクラブハウスだったところで足をとめた。
* ロバート・ルイス・スティーヴンソン(一八五〇年~一八九四年)は、『宝島』や『ジキル博士とハイド氏』などの著作で知られる一九世紀英国の作家。自分の健康問題などもあり、四十歳で家族とともに南太平洋のサモア諸島に移り住み、その四年後に同地で没した。
彼が何時間も過ごしていたベランダは、光線の具合があまりよくなかった。写真撮影には、という意味だ。
ぼくは庭に入りこんだ。片手に椅子を持ち、もう片手にはいろんな鉗子(かんし)を携えて。
みっともないが、膝はがたがた震えていた。
かわいそうな中国人の老人はちゃんとついてきた。彼も震えている。チャーミアンとマーティンはぼくらの背後で、コダックのカメラを構えている。ココヤシの間を縫って進み、アボカドの木の下までやってきた。マーティンによれば、写真の撮影にはうってつけの場所ということだった。
ぼくは老人の歯を診て、自分が五ヶ月前に引っこ抜いた歯について何も覚えていないことを再認識した。
歯根は一本だっけ? 二本、あるいは三本だったっけ? ひどく傷んでいるように見えるほうに残っているのを何と言うんだっけ? 歯ぐきの奥深くまで歯をがっちりはさまなければならないということだけは覚えていたので、歯には歯根がいくつあるのかを知っておく必要があった。ぼくは建物に戻り、本で歯のことを調べた。中国人の犯罪者がひざまづいて首をはねられるのを待っている写真を見たことがあるが、このかわいそうな年老いた犠牲者も同じに見えた。
「逃げないよう押さえてろよ」と、ぼくはマーティンに言った。「この歯を抜きたいんだ」
「わかってるさ」と、彼はカメラを抱えたまま自信ありげに答えた。「オレもその写真を撮りたいんだ」
ここにきて、ぼくはこの中国人が気の毒になった。本に抜歯方法は載っていなかった。が、あるページにすべての歯を示した図があり、それには歯根が歯がアゴにどう並んでいるかが描かれていた。鉗子(かんし)が手渡される。七対あった。
が、どれを使えばよいのかわからない。
ぼくはミスはしたくなかった。鉗子(かんし)をひっくりかえすとガチャガチャ鳴った。哀れな犠牲者から力が抜け、ぼんやりと峡谷が黄緑色になるのを眺めている。老人は太陽について苦情を言った。しかし、写真を撮影するには必要だし、それくらいは我慢してもらわなければならない。ぼくは鉗子(かんし)を歯に当てた。患者はガタガタ震え、気力もなえたようだった。
「用意はいいか」と、ぼくはマーティンに言った。
「いいぜ」と彼は答えた。
ぐいと引き抜く。
やった!
歯はゆるゆるで、すぐに抜けた。鉗子(かんし)にはさんだまま高くかかげた。
「もどしてくれよ、頼むからもどして」と、マーチンが懇願した。「速すぎて撮り損なっちまった」
抜いた歯を元に戻してもう一度、引っこ抜く間、かわいそうな老中国人はじっと座っていた。マーティンがシャッターを押す。一件落着だ。
自慢たらたらだって? 鼻持ちならないって?
歯根が三つもある歯をはじめて抜いたんだぜ。このときのぼくほど誇らしい気持ちになった狩人はいないだろう。なんと言われても、ぼくはやったんだ! できたんだよ! 自分の手で鉗子を使って抜歯したんだ。死人の頭蓋骨を使って練習で抜いたんじゃないんだ。
次の患者はタヒチ人の船乗りだった。小柄な男で、昼も夜もたえず歯痛に悩まされ、もうぐったりしていた。
ぼくはまず歯茎を切開した。切開の仕方は知らなかったが、見よう見まねってやつだ。ひっこ抜くのに時間もかかったし、力も必要だった。その男は立派だった。うめいたり、ぶつぶつ愚痴をこぼしたりしているので、卒倒するんじゃないかと思っていたのだが、口を大きく開いて協力してくれ、なんとか抜歯することができた。
それからのぼくは、何でも来いって気分になっていた。ワーテルローで敗北する前のナポレオンの心境だ。そうして、そのときが来た。
そいつは名前をトミといった。こいつは悪評ふんぷんで、図体のでかい野蛮人だった。しょっちゅう暴力沙汰を起こしている。とくに女房を二人も殴り殺しているのだ。父親も母親も裸の食人種だ。そいつがぼくの前に座り、ぼくは鉗子(かんし)をやつの口に入れたのだが、座ったままでも、ぼくの背丈くらいの高さがあった。大男で暴力好きで、ぶくぶく太っているので、ぼくは信用しなかった。チャーミアンがやつの片腕をとり、ウォレンがもう片方の腕をつかんだ。そこから綱引きが始まった。鉗子(かんし)が歯に近づくと、口を閉じようとする。また両腕を持ち上げ、抜歯しようとするぼくの手をつかむ。ぼくは作業を続けようとし、やつはやめさせようとする。チャーミアンとウォレンは腕をつかんだままだ。全員がもみあった。
一対三のレスリングだ。ぼくは痛んだ歯を鉗子(かんし)ではさんでいる。それはたしかに反則ではあったんだが、そういうハンデがあったにもかからわず、やつはぼくらを振り切ってしまった。鉗子(かんし)はつるりと外れて上顎の歯に当たり、神経をさかなでするようないやな音がした。口から鉗子(かんし)がはずれると、やつは飛び上がり、血に飢えたような雄叫びをあげた。ぼくら三人は後ずさりする。なぐり殺されるんじゃないかと恐れた。だが、大声でうなっている血に飢えた野蛮人は、また椅子に座り直した。両手で頭をかかえ、うめき声をあげ続け、こっちの言い訳を聞こうとはしない。
痛くない抜歯の名人というのは、ぼく自身の単なる思いこみにすぎなくて、プライドはあっという間に消えてしまった。その歯が抜けるか自信がなくなってしまい、袖の下でも渡して話をつけようかとまで思ったほどだ。だが、そうするのは名人としてのプライドに反するので、ぼくは抜歯はせずに、彼をそのまま帰した。鉗子(かんし)で歯をつかんだものの抜くのに失敗したのは、このときだけだ。
それ以来、ぼくは抜歯に失敗したことはない。つい先日も、風上にある島まで自発的に三日間の航海をやって女性伝道師の歯を抜いてあげたくらいだ。スナーク号の航海が終了する頃までには、ぼくはブリッジをつけたり金歯をかぶせたりといったこともやっているのではないかと期待している。
イチゴ腫かどうかについては、ぼくにはわからなかった。
フィジーの医者はそうだと言ったし、ソロモン諸島の伝道者はそうじゃないと言った。いずれにしても、ぼくとしては、きわめて不快な症状だということは断言できる。
タヒチでフランス人を乗せたのだが、それがその船乗り一人だけだったのは幸運だった。というのは、海に出ると、彼がひどい皮膚病に悩まされているとわかったからだ。スナーク号はとても小さいので、彼が家族連れだったらとても乗せておく余裕はなかった。とはいえ、ともかくどこかに上陸するまで、彼を看病するのは必然的にぼくの責任になった。医学書を読みあさって処置したのだが、その後では、いつも徹底的に消毒液を使って洗ったものだ。ツルイラ島に到着すると、港の医者は彼に対して検疫を宣言し、上陸を拒否した。面倒を抱えこみたくないというのがみえみえだった。
サモアの首都アピアで、やっとのことでニュージーランド行きの蒸気船に乗せてやった。アピアでは、ぼくは蚊にひどく食われ、そこをかきむしった。それまでも千回は食われていただろう。それで、サバイイ島に到着したときには、足の甲のへこんだところに小さな傷ができていた。すりむいたことと、熱い溶岩を超えたときにあびた酸煙のせいだろうと思った。軟膏を塗ると直るだろうとも思っていた。だが、軟膏は効かなかったばかりか、赤くはれ上がって、新たに皮膚がはがれ、傷は大きくなった。こういうことを何度も繰り返した。新しい皮膚ができるたびに、炎症が起こり、傷は大きくなっていく。
ぼくは当惑し、こわくもなった。これまでの人生で、ぼくの皮膚の再生能力は高かったのだが、ここではどうしても直らない。それどころか、日ごとに皮膚が浸食され、毒素が皮膚の奥深く入りこみ、筋肉まで犯されるようになった。
その頃、スナーク号はフィジーに向けて航海していた。ぼくはあのフランス人の船乗りのことを思い出し、そのときはじめて本気でヤバイと思ったのだ。他にも四つの傷、というより潰瘍ができていて、痛くて夜も眠れなかった。ともかくスナーク号でフィジーまで行き、着いたらすぐにオーストラリア行きの蒸気船に乗って、そこで医者に診てもらうという計画を立てた。
そうこうしている間も、ぼくはしろうと医者として最善をつくした。船に積みこんだすべての医学書を読みあさったが、自分の味わっている苦痛にぴったりの症状は一行どころか一語も見つけられなかった。
この問題に関しては、ぼくは分別をわきまえていた。
この潰瘍は悪性かつ非常に活発で、ぼくを食いつくそうとしている。有機的な腐食毒がうごめいているのだ。ぼくは自分で結論を二つだした。第一、この毒を破壊する化学物質を見つけること。第二、この潰瘍は外側から治癒できないので、内側から直さなければならないこと。この毒は昇汞(しょうこう)で処置しようと決めた。病名そのものも気に入らなかった。毒をもって毒を制するしかあるまい!
ぼくは腐食毒に犯されているのだ。だから、別の腐食毒で処置しようというわけだ。
数日後、ぼくは昇汞(しょうこう)を、過酸化水素を浸透させた包帯に代えた。驚くべきことに、フィジーに到着するまでに、五つの潰瘍のうち四つが治癒し、残った一つはエンドウ豆ほどの大きさもなくなっていた。
イチゴ腫の治療に関しては、ぼくはいまでは十分な資格があると感じている。この疾患については、それなりに配慮するようになった。だが、スナーク号の残りの連中はそうじゃなかった。
彼らの場合、百聞は一見にしかず、は当てはまらない。全員がぼくの苦境を見ていた。ぼくが虚弱体質で凡庸だからあんな病気にかかるのだ、自分は体力もあるし、あんな毒にやられるほどヤワじゃないと、連中はひそかに思っていた。ニューヘブリディーズ諸島のポート・レゾリューションで、マーティンは裸足で藪を歩きまわって船に戻ってきたが、むこうずねには切り傷や擦り傷がたくさんできていた。
「もっと気をつけたほうがいいぞ」と、ぼくは彼に警告した。「昇汞(しょうこう)を調合してやるから、傷口を洗っとけよ。後で痛むよりいいだろ」
だが、マーティンは小馬鹿にしたように笑っただけだ。何も言わなかったが、ぼくには、やつがオレは他の連中とは違うんだ、二日もあれば傷は治る、と思っているのがわかった。他の連中というのは、ほかでもないぼくのことだ。彼はまた、自分の体質と高い治癒能力についての記事も読んでくれた。聞き終えると、ぼくはひどく自分がみじめに感じられた。体質という点では、ぼくは明らかに他の連中とは違っていたからだ。
ある日、ボーイのナカタがアイロンをかけようとして誤って自分の足をアイロン台代わりに使ってしまい、ふくらはぎに長さ三インチ、幅が半インチのやけどを負ったことがある。ぼくが自分のひどい体験から昇汞(しょうこう)を塗るよう勧めると、彼も苦笑いし、最高の微笑を浮かべて拒否した。ぼくの血筋では問題であっても、ポートアーサーに関係する*誇り高き日本人にしてみれば、こんな病原菌なんか屁でもないと、上品かつ穏やかにぼくに教えてくれたわけだった。
* ポートアーサー: アヘン戦争で英国軍艦が寄港したことに由来する中国・旅順の呼称。日清戦争当時、日本は旅順を占領し軍港としていた。
コックのワダはボートで上陸する際に、ボートから飛び降り、押し寄せる波からボートを守ろうとして貝殻やサンゴで足を切ってしまった。ぼくは例によって昇汞(しょうこう)を塗るよう勧めた。が、またしても奥ゆかしい微笑でやんわり拒否された。自分の血筋はロシアを打ち負かし*、いつの日にかアメリカをも打ち破ろうかというものであり、そんなちっぽけな傷すら治せないのであれば、メンツもまるつぶれで切腹も辞さない、といった誇りを抱いていると知らされた。
* スナーク号の航海に出発する数年前に起きた日露戦争(一九〇四年~一九〇五年)で日本が勝利したことを指す。ジャック・ロンドン自身もこの戦争の取材で来日し、スパイ容疑で日本の警察に逮捕されたりもしている。
というわけで、しろうと医師としてのぼくは、自分の傷を治してみせたのにもかかわらず、自分の船においてすら、まるで信用がなかった。他の乗組員たちは、ケガの原因や昇汞(しょうこう)を用いる治療に関しては、ぼくをある種の偏執狂者だとみなすようになっていた。自分の血筋が純血ではないからといって、ほかの誰もがそうだと考えるべき理由はない、というわけだ。それからは、ぼくも、こうした提案はしなくなった。ぼくの味方は時間と病原菌で、いずれそれがはっきりするときまで、ぼくにできるのは待つことしかなかった。
数日後、「この傷にはなんか変なところがあると思うんだ」と、マーティンがおずおずと切り出した。ぼくは起き上がりもせず無視してやった。彼は「傷口を洗ってやれば、よくなると思うんだ」ともつけ加える。
さらに二日が過ぎた。が、傷はそのままだ。ぼくは、マーティンが自分の足全体にお湯をかけているのを見た。
「お湯じゃねえよ」と、彼は憤然として言った。「やぶ医者のくれる薬より効くと思うぜ。これで朝になれば、よくなってるさ」
だが、朝になっても、彼は顔をしかめている。勝利のときが近づいているのをぼくは知った。
その日も遅くなって、「その薬をちょっとためしてみようかな」と、彼が言ったのだ。「効くと思ってるわけじゃないんだが」と、彼はあいまいに語をにごす。「ともかく、ためしてみようと思うんだ」
その次には、誇り高き日本人の血を引く二人がひどい苦痛に耐えかねてやってきた。
ぼくとしては、悪の報いに徳をもって応じた。つまり、二人に同情しつつ、どういう治療をすべきかを事細かに説明してやったのだ。ナカタはだまって指示に従った。彼の傷は日ごとに小さくなった。ワダは関心が薄く、治りも遅かった。
とはいえ、マーティンはまだ疑っていた。すぐには治療をしなかった。同じ処方が誰にでも有効であるということにはならず、彼自身については、昇汞(しょうこう)は何の効果もなかった。おまけに、それが唯一の正しい治療であると、ぼくにわかるはずもないのだった。ぼくには経験がなかったし、自分に使ったときはたまたまうまくいったのだが、それだけでは、どんなときも治癒するという証明にはならない。偶然もあるからだ。この傷を治する治療は疑いもなく存在するし、本物の医者にかかったときに、その処方が何なのか、それでどうなるかがわかるということなのだろう。
ぼくらがソロモン諸島に到着したのは、そんなときだった。ぼくら病人に、治療や療養について何かを示してくれる医者は存在しなかった。ぼくは人生で初めて、人間というものがどんなに虚弱でデリケートなのかを身をもって知った。
スナーク号の最初の泊地はサンタアンナ島のポート・メアリーだった。一人の白人の貿易業者がやってきた。名前をトム・バトラーといい、どんなに丈夫な男でもソロモン諸島ではどうなってしまうかを見事に示していた。彼は自分の捕鯨船で横になったまま死にかけていた。顔には笑顔一つなく、知性も感じられなくなっている。骸骨(がいこつ)のような陰気な顔をして、笑うことを忘れているようだった。ひどいイチゴ腫もわずらっていた。
ぼくらは彼を引きずってきてスナーク号に乗せた。健康状態はよく、しばらくは発熱もないんだと、彼は言った。腕をのぞけば何も問題はなく体調は悪くなかった。問題はその腕で、どうやら麻痺しているようだった。
彼は苦笑しながらも、麻痺については否定した。以前にわずらったことがあるが、もう回復したというのだ。
サンタアンナ島の原住民によくある病気だと言いながら、動かない腕をだらりと下げたまま、体を支えられ、船室に通じるコンパニオンウェイのステップをよろよろと降りていった。これまでにも少なからぬ数のハンセン病患者や象皮病患者をスナーク号に乗せたことがあったが、これまで遭遇したこともないほどぞっとする怖さを感じさせる客だった。
マーティンがイチゴ種についてぼくに聞いてきた。知っておくべき理由があったからだ。彼の腕や足の傷、傷の真ん中のただれた潰瘍を見て罹患の有無を判断できるのであれば、やつには確かにわかるはずだった。イチゴ種には慣れていくもんだ、とトム・バトラーは言った。体の奥深くに侵入するまでそう深刻というわけではない。ところが、そいつはやがて動脈の壁を攻撃するようになり、動脈が破裂すると死に至ることになる。最近も何人かの原住民が浜辺でそんな風にして死んでいた。
とはいえ、その何が問題なのか? イチゴ種でなければ──ソロモン諸島では──まったく別の話になる。
ぼくはこのときから、マーティンが自分の傷について、どんどん関心を深めていっているのに気がついた。治療薬としては昇汞(しょうこう)がよく用いられるが、会話のはしばしから、マーティンは健全な気候のカンザスへの望郷の念が強まっているようだった。チャーミアンとぼくは、カリフォルニアの方がまだちょっとましだと思っていた。ヘンリーはラパ島に着くまで愚痴ばかりこぼしていたし、タイハイイはボラボラ島ではずっと危険な状態だった。ワダとナカタは日本の歌をうたっていた。
ある夕方、スナーク号がウギ島の南端を周航しながら信頼できる泊地を探していたとき、サン・クリストバルの海岸に向かっていた英国国教会の伝道者ドリュー氏の乗る捕鯨船が接近してきて停船した。一緒に食事をしようというのだ。マーティンはミイラのように足に赤十字の包帯をぐるぐる巻いていたので、そこからイチゴ種についての話になった。マーティンのものもソロモン諸島でよくあるイチゴ種だと、ドリュー氏は断言した。白人はみんなそれにかかるんだ、と。
「あなたもなったことがあるのですか?」と、マーティンは英国国教会の伝道師もこんな病気にかかることがあるのかとショックを受けた様子で聞いた。
ドリュー氏はうなづき、かかっただけじゃなく、今も何人か治療している最中ですよと、つけ加える。
「治療には何を使ってるんですか?」と、マーティンが勢いこんでたずねた。
ぼくもその答を聞きたくてたまらなかった。回答しだいで、ぼくの医者としての立場が見直されるか、権威失墜してしまうか、のどちらかなのだ。
ぼくが面目を失うだろうとマーティンは信じているようだった。ところが、氏の返事は──なんと、すばらしい回答だったことか!
「昇汞(しょうこう)ですよ」と、ドリュー氏が言った。
その瞬間、ぼくはマーティンの信頼を勝ち得たと確信した。ぼくがやつの歯を抜いてやろうかと提案したら、即座に同意してくれるほどに。
ソロモン諸島の白人はみなイチゴ種にかかっている。切り傷やすり傷が新しくできると、現実問題として、それがイチゴ種になった。ぼくが会った人は誰でもかかっていたし、十人中九人までは完治していない。だが、一人だけ例外がいた。ソロモン諸島に来て五カ月になるという若者だった。着いて十日後に発熱で倒れ、それ以来しょっちゅう熱を出すものの、イチゴ種にはまったくかかったことがないという。
スナーク号では、チャーミアンをのぞく全員がイチゴ種にかかった。チャーミアンは、日本人やカンザス出身者と同じように、自分だけはかからないと信じこんでいた。自分は純血だから免疫があると説明し、日がたつにつれて、ますます純血を強調するようになった。ぼく個人としては、世界を周航しているスナーク号で男は重労働を強いられているが、女は力仕事を免除されており、その結果として切り傷やすり傷のできることが少なくて感染を免れているのだと思っている。むろん、彼女にそのことは告げなかった。そんな身もふたもないことを言ってプライドを傷つけるつもりはなかった。
素人医者ではあっても、この病気については彼女より知っているし、時間がぼくの味方だ。だが、残念なことに、彼女のむこうずねにできた小さく魅力的なイチゴ種の処置では、ぼくは時間の使い方を間違った。すぐに消毒薬を塗ってやったので、イチゴ種とはっきりする前に治癒してしまったのだ。またしても、ぼくは自分の船で医者としての信用を得る機会を逸したことになる。もっと悪いことに、彼女が自分もついにイチゴ種にかかったと思いかけたのに、イチゴ種とはっきりする前に治ってしまったので、それ以来、彼女の自分の純血性についての確信はかつてないほど強まった。
ぼくは航海術の本に逃避し、この件についてはもう口を出さなかった。それはマライタ島の海岸に沿って航海していたときだった。
「君のかかとの裏側にあるのは何だい?」と、ぼくは聞いた。
「なんでもないわ」と、彼女は答えた。
「そうかい」と、ぼくは言った。「でも、やっぱり昇汞(しょうこう)を塗っといたらどう。あと二、三週間もしたら死を招くような傷になるかもしれないぜ。純血とか先祖の歴史とか、そういうのはちょっとこっちに置いといて、ともかくイチゴ種についてどう思ってるんだい」
彼女のイチゴ種の大きさは一ドル硬貨くらいで、丸三週間かかって治癒した。チャーミアンはその傷のために歩けないときもあった。彼女の話を聞いていると、イチゴ種のうちで、かかとの裏側にできたのが一番痛いようだ。ぼくの場合、そこにできたことはないので、イチゴ種では足の甲のへこんだところが一番痛い場所だという結論に至っていたのだが、それについてはマーティンに判断をまかせることにした。彼はぼくらの両方に反対で、本当に痛い場所はむこうずねだと言い張っていたからだ。競馬が人気なのも当然だ、と。
だが、しばらくすると、イチゴ種にもなれてきた。この文章を書いている時点で、ぼくは腕に五つ、むこうずねに三つのイチゴ種があった。チャーミアンは右足の甲の両側に一つずつできている。タイハイイは自分のイチゴ種に半狂乱だ。マーティンのむこうずねにできた最後のやつは、それ以前のイチゴ種を侵食し圧倒していた。ナカタにもいくつかできていたが、彼は無造作に皮膚をはぎとったりしている。ソロモン諸島でのスナーク号の歴史は、初期の冒険者たちから連綿と続いている、すべての船が体験するものだった。「水路誌」から引用してみよう。
ソロモン諸島に相当の期間を滞在する船舶の乗組員は、傷や擦過傷が悪性潰瘍に変化するのを知ることになる。
水路誌では、発熱に関する問題もやっかいだとされている。
新しく到着した者たちは、遅かれ早かれ、発熱に苦しむことになる。原住民も同じ症状を呈する。一八九七年、白人五十人のうち九名が死亡するにいたった。
そうした死には偶発的なものもあった。
スナーク号では、ナカタが最初に発熱し倒れた。ペンデュフリンでのことだ。ワダとヘンリーがそれに続いた。その次はチャーミアンだ。ぼくは二カ月なんとかしのいだが、結局は倒れてしまった。その数日後、マーティンも続いた。
ぼくら七人のうち、発熱しなかったのはタイハイイだけだったが、彼は熱よりも故郷に戻りたいという望郷の念にかられていた。ナカタは例によって治療に関する指示を忠実に守り、三度目の発熱がおさまるころまでには、この病気にかかっても二時間ほど汗をかき、キニーネを三、四十粒も飲むと、それから二十四時間後には、十分とはいえないまでもまずまずの回復をみせるまでになった。
だが、ワダとヘンリーは患者として扱いにくかった。まず、ワダはひどくおじけづいていた。もう自分の運はつきて、ソロモン諸島に骨をうずめることになる、と思いこんでいた。自分の人生はつまらなかったと、くよくよしていた。彼はペンデュフリンで赤痢にかかり、さらに不運なことに、一人の犠牲者が、棺でもなく地面に埋葬されるのでもなく、ブリキ板に乗せられて運び出されるのを目撃してしまったのだ。誰もが発熱し、誰もが赤痢にかかった。皆、いろんな病気にかかった。死は日常的に存在した。今日でなければ明日、というわけで、ワダはとうとう死ぬ日がやってきたと信じきっていた。
ワダは潰瘍には無頓着で、昇汞(しょうこう)をかけるのを忘れたり、むやみにかきむしったりしたので、潰瘍が体全体に広がってしまっていた。発熱時も指示に従わず、その結果、一日で十分に治るはずのところが五日間も寝たきりになったりした。ヘンリーも同じようにひどい状態だった。キニーネははっきりと拒絶した。その理由というのが、ずっと前に熱をだしたときに医者がくれた薬とぼくが出した錠剤の大きさと色が違っているからというのだった。といったようなわけで、ヘンリーもワダと同じ道をたどった。
しかし、ぼくはこの二人をだまし、彼らに必要な治療を施した。つまり信仰療法ってやつだ。
二人は自分がまもなく死ぬということをとても恐れていた。
ぼくは大量のキニーネを二人に無理やり飲ませて体温を測った。このとき薬箱にあった体温計を初めて使ったのだが、何の役にも立たないとすぐにわかった。それなりの商品ではあるのだが、現実の役には立たない。つまり、この二人の患者に体温計の数字をそのまま告げたら、二人はやっぱりなと思い、そのまま死んでいただろう。彼らの体温は華氏百五度(摂氏四十度)もあったのだ。
ぼくは二人に体温計を使い、ほっとしたように体温は華氏九十四度(摂氏三十五度弱)だよと、笑顔で知らせた。それから、またキニーネを飲ませ、気分が悪かったり体がだるかったりするのはキニーネのせいで、じきによくなると告げたのだ。すると、二人ともよくなった。ワダは自分は死ぬと思いこんでいたが、そうはならず回復した。人が誤った思いこみで死ぬことがあるとすれば、逆に誤った思いこみをさせて生き続けさせるということがあってもよいのではないだろうか?
スナーク号での体験に基づくと、気概とか絶対に生き残るという意思の強さという点では白人に軍配があがりそうだ。スナーク号の二人の日本人のうちの一人と、二人のタヒチ島人は恐怖にかられていたので、背中をたたいて激励し、無理にでも生き抜くようしむけてやらなければならなかった。チャーミアンとマーティンは苦痛もどこか楽しんでいたし、自分のことはさておき、冷静に自分の生き方を信じていた。ワダとヘンリーはもう死ぬと思いこみ、タイハイイにいたってはもう葬式するしかないという雰囲気で、悲しげに祈り、何時間も叫んだりしていた。その一方で、マーティンは悪態をつきながらも回復し、チャーミアンは苦痛にうめきながらも、治ったらあれもやりたいこれもやりたいと計画を立てたりしている。
チャーミアンは菜食主義者と衛生学者に育てられた。彼女を育てた叔母のネッタは健康によい気候の地域に住んでいて、薬なんてものを信用していなかった。チャーミアンもそうだ。おまけに薬と彼女の相性も悪かった。治したい病気そのものより薬の副作用の方がひどかったりした。
とはいえ、彼女はキニーネの効能については耳を傾け、病気になるよりはましだとして受け入れた。その結果、痛みは他の連中ほどひどくなかったし、苦しむ期間も短く、発熱の頻度も少なかった。そんなとき、ぼくらは伝道師のコーフィールド氏と出会ったのだが、氏の前任者二人はソロモン諸島で暮らすようになって半年もたたないうちに死んでいた。彼らと同様に、氏もまた同毒療法*なるものをかたく信じていたのだが、自分が発熱すると逆症療法**とキニーネに頼るようになり、熱に苦しめられながらも福音の伝道に努めているのだった。
* 同毒療法(ホメオパシー): 治療しようとする病気の症状をわざと発生させることで病気を直そうという治療法。
** 逆症療法(アロパシー): 熱が出たら解熱剤を処方するなど、病気の症状と反対の状態を作り出そうという治療。対症療法と呼ばれることもある。
それにしてもかわいそうなのはワダだ! チャーミアンとぼくが彼を人食い人種のいるマライタ島への航海に連れて行ったことが、コックだった彼を打ち負かす最後の一撃になってしまった。
ぼくらが乗せてもらったヨットは小さくて、船長は半年前に殺されていた。カイカイとは食べることを意味するが、ワダは自分は食べられるのだと思いこんでいた。ぼくらは重武装し、警戒を怠らなかった。河口の真水で体を洗うときは、黒人のボーイたちがライフルを構えて歩哨に立ってくれた。ぼくらは英国の軍艦が船長殺害の報復として村々を砲撃し焼き払うところに遭遇した。首に賞金をかけられたおたずね者の原住民たちがぼくらの船に逃げこもうとしたりもした。陸上では人殺しが闊歩していた。ぼくらは予想もしないところで人なつこい原住民の差し迫った攻撃に対する警告を受けることになった。
ぼくらの船にはマライタ島の原住民が二人乗っていたが、彼らはいつでも島の連中の見方になって寝返りそうだった。おまけに、ぼくらの乗った船は座礁してしまった。船を守ろうと懸命の努力をする一方で、片手にライフルを抱え、略奪しようとカヌーに乗ってやってくる連中に警告した。
こうしたことすべてがワダには激しすぎたのだ。
彼は頭がおかしくなり、とうとうイザベル島でスナーク号から下船してしまった。熱が小康状態のとき、豪雨の最中だし肺炎にかかるおそれがあるというのを押し切って上陸した。彼が人食い人種に食われず、病気と高熱を克服できたのであれば、さらに合理的に判断して幸運に恵まれていたのであれば、ともかくもどこか近くの島へ、近くといっても六週間から八週間はかかるのだが、そういう近くの島に逃げおおせているかもしれない。ぼくは彼の歯を二本も引っこ抜いてやったのに、ぼくの処方する薬はまったく信用していなかった。
スナーク号は何カ月間も病院のようになっている。正直に言うと、ぼくらはそういう状態になれてきてはいる。メリンゲ礁湖では、干潮を利用してスナーク号を干潟にわざと乗り上げて船底の銅板の汚れを落としたりした。岸のプランテーションにいた三人の白人の男は皆、熱で倒れてしまい、海に入って作業できるのは一人だけだった。この原稿を書いている時点で、ぼくらはイサベル島の北東付近の海域で現在どこにいるのかわからなくなり、ロード・ホウ島を探そうと無駄な努力をしている最中だ。
ロード・ホウ島はマストに登らなければ見えないような低い環礁なのだ。
クロノメーターは壊れてしまった。太陽は姿を見せないし、夜も星を観察をすることはできない。来る日も来る日もスコールや雨だけだ。コックが蒸発してしまったので、ナカタはコックとボーイの両方を兼務しようとしたものの、熱を出して寝こんでいる。マーティンは熱がおさまったと思うとまた発熱した。チャーミアンは定期的に発熱するのだが、手帳の予定を見ながら次の発熱がいつ来るか予測しようとしている。ヘンリーは期待しつつキニーネをのみ始めた。ぼくの場合、いきなり発作に襲われたので、自分が倒れたときのことは覚えていない。船で最後の小麦粉を、小麦粉がないという何人かの白人男に間違ってくれてやったりもした。
いつ陸にたどり着けるのかわからない。そういう状態で、ソロモン諸島の病気は悪くなる一方だ。昇汞(しょうこう)についても、うっかり陸のペンドュフリンに置き忘れたし、過酸化水素は使い切っている。それで、ぼくは今はホウ酸と消毒薬、消炎剤で実験しているところだ。いずれにしても、ぼくが尊敬される医者になりきれないとすれば、それは治療の経験が不足したためだということにはなるまい。
追伸 というようなことを書いてから、さらに二週間がすぎた。タイハイイはスナーク号で唯一病気にかかっていなかったのだが、ぼくらの誰よりも高熱が出て、もう十日も寝こんでいる。体温は華氏百四度(摂氏四十度)を何度も繰り返し、脈拍は百十五もある。
再伸 タスマン環礁とマニング海峡の間の海にいる。
タイハイイの病気は、マラリア熱では最悪の合併症である黒水熱になってしまった。医学書によれば外部感染によるものらしい。熱を下げようとしているのだが、彼が気力をなくしてしまっているため、こっちも途方に暮れている。精神の病に関しては治療経験がほとんどない。スナーク号の短い航海で、精神錯乱はこれで二人目だ。
再々伸 いつか、ぼくは本を書くつもりだ(専門家向けにね)。タイトルは『病院船スナーク号の世界一周』。
船に乗せていたペットはまだ逃げだしていない。メリンゲ礁湖からはアイリッシュテリアと白いオウムを一匹ずつ乗せた。テリアはキャビン入口の階段から落ちて後ろ足を引きづるようになったが、また落ちて、こんどは前足も痛めてしまった。現時点では残った二本の足で歩きまわっている。幸運なことに、大丈夫だった足はそれぞれ反対側についているので、なんとか動けている。オウムはキャビンの天窓にぶつかって死んでしまった。これがスナーク号の葬式第一号となった。
鳥といえば、ペットじゃないニワトリは病人用のスープになったりしているのだが、何羽かは船から飛び出しておぼれ死んでしまった。丈夫で繁殖しているのはゴキブリだけだ。やつらは病気や事故とは無縁で、日ごとに巨大化し凶暴になって、ぼくらの手や足の爪を眠っている間にかじるようになった。
再々伸
チャーミアンが発熱を伴う別の発作をおこした。マーティンはふさぎこんでいたが、馬専門の獣医のところでイチゴ種を診てもらい硫酸銅の治療を受けた。ぼく自身は航海術や病気の治療、短編の執筆に忙殺されている。体調がいいというわけではない。乗組員の精神錯乱を別にして、ぼくとしても事態は最悪で、航海を続けることはもう限界だった。次の蒸気船でオーストラリアへ行き、手術を受けることになるだろう。
苦痛の種はいろいろ抱えているが、自分にとって新種でまだ慣れていない疾病について書いておこう。この一週間というもの、ぼくの両手には浮腫ができ、ふくれあがっている。握りこぶしをつくろうとすると痛みがある。ロープを引こうとすると、とても痛い。悪化したた霜焼けみたいな感じだ。また両手の皮がすごい勢いではげ落ち、その下の新しい皮膚は固く厚くなってきている。
医学書を見ても、この病気についての記載はない。何なのか、だれも知らないのだ。
再々伸 まあ、とにもかくにもクロノメーターは修理した。
この八日間というものスコールと雨がずっと続き、ほとんど漂泊していたのだが、昼に一部だが太陽を観察することができた。それで緯度を計算し、推測航法でロード・ホウのある緯度をめざした。この時点で、ぼくは経度の観測を行ってクロノメーターのテストを行い、三分ほどの誤差があるのに気づいた。一分は十五マイルに相当する*ので、合計した誤差は推測できる。ロード・ホウでは何度も観測を繰り返してクロノメーターの精度を確かめた。このクロノメーターは一日に一秒の十分の七ずつずれていることがわかった。一年前にハワイを出帆したときも、この同じクロノメーターには一秒の十分の七の誤差があった。この誤差は毎日積み重なっているはずだ。ロード・ホウでの観測で証明されたように誤差の割合に変化はないので、時間のずれは三分どころではないはずだが、太陽の影響下にある何がいきなり針の進みを変化させて三分まで調整したのだろうか?
* 緯度の一分は一海里に相当する。経度の一分は赤道から南北にどれほど離れているかによって異なるが、十五マイルというのは著者の勘違いと思われる。。
そんなことがありうるのか?
時計の専門家はそんなことはないと言うだろう。が、ぼくとしては、そういう連中はソロモン諸島で時計を作ったり精度を調べたりしたことがないからだと言いたい。ぼくの見立てでは、気候のせいでそうなるのだ。ともかく、ぼくは精神の異常やマーティンのイチゴ種の治療には失敗したが、クロノメーターの修理には成功した。
再々伸 マーティンが治療に焼きミョウバンをためしている。熱はさらにひどくなった。
再々伸 マニング海峡とパヴヴ諸島の間にいる。
ヘンリーはリューマチで背中の痛みが増した。僕の腕では十カ所の皮膚がはげ落ち、十一個目がはげかかっている。タイハイイはますます頭がおかしくなり、自分を殺さないよう昼夜を問わず神に祈っている。ナカタとぼくはまたもや発熱で痩せてきた。最新情報として、昨夜、ナカタは食中毒の発作を起こし、ぼくは半ば徹夜で看病した。
スナーク号は水線長四十三フィート(約十三m)で全長は五十五フィート(約十六・七m)、船幅十五フィート(約四・六m)、喫水が七フィート八インチ(約二・三m)だ。二本マストのケッチで、帆はフライングジブにジブ、フォアステイスル、メインスル、ミズン、スピンネーカーがある。
船室の高さは六フィート(約一・八m)で、甲板は手すりで囲まれたところと平らで何もないところに分かれている。水密区画は四つ。七十馬力の補助ガソリンエンジンを動かすのに、一マイル当たり約二十ドルの経費がかかる。五馬力のエンジンは故障していなければポンプを動かしてくれるが、サーチライトの電源にも二度ほどなってくれた。船載の十四フィート(約四・二m)のボートのエンジンはたまには動くようだが、ぼくが乗ろうとすると決まって動かない。
だが、スナーク号は帆船だ。どこへでも帆走で行く。
二年間航海したが、岩や暗礁、浅瀬で座礁したことはない。船内にバラストは積んでいない。鉄製のキールは五トンの重量があり、喫水は深く乾舷(海面から甲板までの高さ)も高い。非常に頑丈だ。フルセイルで熱帯のスコールに遭遇すると舷縁も甲板も波に何度も洗われるが、粘り腰があって転覆するまでには至らない。操船は容易だ。舵から手を放しても、風上航だろうが真横からの風だろうが、昼夜を問わず、きっちり走ってくれる。斜め後方からの風では、帆をきちんと調節しておきさえすれば方向のずれは二点内に収まるし、真追っ手の風では勝手に操舵させておいても三点とずれることはない*。
* 帆船時代の船舶では、三六〇度の全方位を三十二等分したものを一点(十一度十五分)としていた。二点は二十二度三〇分、三点は三十三度四十五分になる。
沿岸航海では風向は変わりやすいが、外洋では同じ方向から安定した風が吹いていることが多く、しかも、スナーク号は船底の前後方向にキールが伸びたロングキールで、舵から手を放しても同じ進路を保つ傾向が強いため、こういうことが可能になる。
キールが縦に細長い現代風のヨットでも似たようなことはできるが、こううまくはいかない。その代わり、ウインドベーンやオートパイロットなど、便利な自動操舵装置が開発され利用されている。
スナーク号は途中まではサンフランシスコで建造された。キールの鋳造にとりかかろうとした日の朝、あの大地震が起きた*。そこで混乱が生じた。建造は六カ月も遅延し、ぼくはスナーク号をほぼがらんどうのまま、エンジンを船底にくくりつけ、材料は甲板に固縛した状態でハワイまで回航して仕上げをした。サンフランシスコにとどまって完成させようとしていたら、今も進水できていなかっただろう。完成する前から、コストは当初の予定の四倍にもふくれあがった。
* 大地震: 一九〇六年四月十八日のサンフランシスコ地震。マグニチュード七・八の地震で、かつてないほどの大きな被害が出た。
スナーク号は最初からツキがなかった。サンフランシスコでは訴訟を起こされ、ハワイでその請求書は詐欺だと抗弁した。さらに、ソロモン諸島では検疫違反を理由に罰金を課せられた。いろんなしがらみにとらわれた新聞は真実を書かなかった。役立たずの船長を解雇すると、やつがぼろぼろになるまでぼくが暴力をふるったと報道された。一人の若い乗組員が学業を続けるため帰国すると、ぼくは常にウルフ・ラーセン*みたいな暴君で、とんでもない乱暴者なので、乗組員はみな長続きしないと報じられた。実際に殴ったのは一度だけだ。船長がコックを乱暴に扱ったからだ。この船長は経歴を詐称して乗りこんできたとわかったので、フィジーで解雇した。チャーミアンとぼくは運動をかねてボクシングをしたが、どちらも誰かを本気で殴ったことなどない。
* ウルフ・ラーセンは、ジャック・ロンドンの海洋冒険を描いた大作『海の狼』の主人公で、帆船ゴースト号を暴力で支配する船長である。
この航海は、自分たちの楽しみのために発想したものだ。
スナーク号を建造したのはぼくだし、費用はすべてぼくが支払った。ぼくはある雑誌と三万五千語の航海記を書く契約を結んだ。稿料はそれまで書いていた原稿と同じだ。
雑誌はすぐに、ぼくを世界一周に派遣すると宣伝した。潤沢な資金を持つ雑誌だった。仕事でスナーク号と取引をした誰もが、この雑誌なら負担してくれるだろうと、三倍の値段を吹っかけた。あげく、南太平洋の島々にまでこの神話が伝わっていて、ぼくはそれに応じた割高の料金を払った。
航海を終えた今でも、「雑誌が経費を払い、ジャック・ロンドンはこの航海でひと財産つくった」と誰もが信じこんでいる。ああいう派手な宣伝の後では、航海すべてを自分の楽しみのためだけにやったのだと理解してもらうのは難しい。
ぼくはオーストラリアで入院した、病院で五週間すごした。それからホテルで五カ月も療養した。
悩みの種だった両手の病気は、オーストラリアの専門家の手にも終えなかった。医学文献にも記載されていないのだ。こんな症例はどこにも報告されていない。症状は両手から両足にひろがっていき、子供同然に、まったく力が出せなくなることもあった。大きさで言うと、通常の二倍くらいにふくれたりもした。同時に七カ所で皮膚が死んで皮がむけた。足指の爪の厚みが二十四時間で長さと同じくらいにもなった。それをヤスリで削り落としても、また二十四時間すると、内側から前と同じ厚さの爪が生えてきた。
オーストラリアの専門家たちは、この病気は非寄生性で、慎重に扱わなければならないということで意見は一致したが、いっこうに改善しないので、そのまま航海を続けることはできなかった。続けたとしても、ぼくは寝床に力なく寝たきりで、両手で何かを握ることもできず、小さな揺れる船を動きまわることもできなかっただろう。
船はたくさんあるし、航海もたくさん行われているが、自分の両手や足の爪には代替品がないのだと、ぼくは自分に言い聞かせるしかなかった。気候のよいカリフォルニアに戻れば、ずっと落ち着いていられるとも考えて、納得し、こうして戻ってきたわけだ。
戻ってきてから、ぼくはすっかり回復した。
そして、自分の何が問題だったのかがわかった。
合衆国陸軍のチャールズE・ウッドラフ中佐の書いた『熱帯の太陽光が白人に与える影響』という本にめぐりあったことで、それがわかったのだ。
その後、ぼくはウッドラフ中佐にも会い、中佐も同じような症状に見舞われたことを知った。中佐自身は陸軍軍医で、フィリピンで同じような病気になったときに七名の陸軍軍医に診てもらっている。が、オーストラリアの専門家と同じようにサジを投げられてしまった。簡単に言うと、ぼくは熱帯の太陽光線による組織破壊性の疾患にかかりやすい傾向があったのだ。X線の照射を何度も受けるみたいに、ぼくの体は紫外線に痛めつけられてしまったのだ。
ちなみに航海を放棄せざるを得なかった別の病気について述べると、その一つは正常人の病気、ヨーロッパのハンセン病、聖書のハンセン病など、さまざまな呼び方をされているものだ。
本当のハンセン病とは違い、この不可解な病気については何もわかっていない。自然治癒した例は記録されているものの、この症例を治癒させたと言う医者はどこにも存在しない。
治療方法がわからないのも無理もない。なぜこの病気にかかるのか自体がわかっていないのだ。薬を使用しなくても、ただカリフォルニアの気候に満たされた環境にいただけで、ぼくの銀色がかった皮膚は消えてしまった。医者がぼくに対して持っていた唯一の希望が自然治癒の可能性だったが、ぼくはそのとおりに治ってしまった。
最後に、航海という名の試練について述べておこう。
この航海は、ぼくにとっても誰にとっても十分に楽しいものだったと言える。とはいえ、それを証言するには、ぼくらよりも適任者がいる。最初から最後まで同行した一人の女性だ。病院で、カリフォルニアに戻らなければならないとチャーミアンに告げると、彼女の眼には涙があふれた。幸福な楽しい航海を放棄するしかないと知ると、彼女は二日間ショックに打ちのめされた。
グレン・エレン(カリフォルニア州)にて
一九一一年四月七日
『野生の呼び声』や『海の狼』など数多くのベストセラーを書いたアメリカの作家ジャック・ロンドンは、複雑な家庭環境で育ち、家も貧しかったため、日本の小中学校にあたる公立学校(八年制)は出たものの、上の学校に進学することはできず、缶詰工場で働いたりカキの密漁を行ったりしたあげく、北太平洋でアザラシ漁に従事する遠洋漁船に乗り組んだ。このとき、日本の土(小笠原諸島と横浜)も踏んでいる。
そのときの体験をエッセイにまとめ、サンフランシスコの地方新聞(コール紙、後のエグザミナー紙)のコンテストに応募したのがこの作品で、みごと一等を射止めた。十七歳のときである。
これが十年後には時代の寵児ともてはやされることになる作家の、初めて活字になり金を稼いだ作品である。小説ではないが、言葉の本当の意味で、ジャック・ロンドンの処女作といってよい。
過酷な自然と人間とのかかわりを描き、将来の人気作家の片鱗を十分に感じさせてくれる。
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朝直の四点鍾だから午前六時だった。ちょうど朝食を終えたころ、甲板で当直していた者には停船の準備、他の者は全員、実際に漁猟を行うボートのそばで待機せよという命令がなされた。
「取り舵! 取り舵いっぱい!」と、航海士が叫んだ。「トップスル、展開! フライングジブ、取りこみ! ジブは風上で裏帆。フォアスル、下ろせ!」
ぼくらの乗ったスクーナー型帆船のソフィー・サザランド号は日本の北海道・襟裳(えりも)岬の沖でヒーブツー(停船)した。一八九三年四月十日のことだ。
それから喧噪と混乱があった。六隻のボートに対し十八人の男たちが配置されていた。ボートを吊り下げるためのフックをかける者もいれば、固縛してあるロープをほどく者もいた。操舵手は方位磁石と波よけを持ってきた。漕ぎ手は弁当箱を手にしている。射手は二、三丁の散弾銃、一丁のライフル、それに重い弾薬箱をかつぎ、足元がふらついていた。そうした荷物はすべてすぐにオイルスキンや手袋と一緒にボートに収納された。
航海士が最後の号令を発し、ぼくらは出発した。いい猟場を確保するため、三人で三対のオールを漕いで進む。ぼくらのボートは風上側にいたので、他のボートより長い距離を漕がなければならなかった。まもなく風下側から順に一番目、二番目、三番目のボートが帆を上げ、追い風を受けて南下するか、横風を受けて西に向かった。母船のスクーナーは散っていくボートの風下へと移動する。万一のトラブルに備え、ボートが風を受ける状態で母船に戻れるようにするためだ。
美しい朝だった。
だが、ぼくらのボートの操舵手は昇ってくる太陽を眺め、不吉なものを目にしたように頭を振り、予言するようにつぶやいた。
「朝焼けか。こりゃ荒れてくるな」
太陽は怒っているように見えたし、斜め後方の明るい「縮れっ毛」のような雲も赤く染まって不気味だった。が、それも間もなく消えた。
ずっと北の方には、襟裳(えりも)岬が深海から立ち上がった巨大な怪物の恐ろしい頭のように黒い影となって見えている。まだ溶けきっていない冬の雪が、陽光をあびて白くきらきらと輝き、そこから軽風が海の方に吹きおろしてくる。巨大なカモメが羽ばたきしながら海面をバタバタと半マイルほども走り、風を受けてゆっくり上昇していく。バタバタする足音が聞こえなくなるとすぐに、キョウジョシギの群れが飛び立った。ヒューヒューと風切り音を鳴らして風上方向へと飛び去っていく。そっちの方向ではクジラの大きな群れが遊んでいた。潮を吹く音が蒸気機関の煙を吐く音のように伝わってくる。ツノメドリの鋭く切り裂くような鳴き声が耳をつんざく。
ぼくらの前方にいた半ダースほどのアザラシの群れにとってはそれが警告になった。ブリーチングで完全に海面から宙に飛び出したりしながら、アザラシたちは遠ざかっていった。
ぼくらの頭上を一羽のカモメがゆっくり大きな円を描いて飛んでいた。母船の船首楼では、故郷の家を思い出させるように、イエスズメが屋根にとまり、おびえたりもせず、頭を一方にかしげて楽しそうにさえずっていた。漁猟用のボートはやがてアザラシの群れに侵入した。バン! バン! 風下の方から銃声が聞こえてくる。
風は少しずつ強くなってくる。午後三時までに、ぼくらのボートは半ダースのアザラシを捕まえた。まだ猟を続けるか母船に戻るか相談していると、本船に戻れという合図の旗がスクーナーのミズンマストに揚がった。風が強くなり、気圧も下がってきたので、航海士はボートの安全を懸念したのだろう。
ぼくらはワンポイントリーフ(一段目の縮帆)をして、追い風を受けて戻った。操舵手は歯を食いしばるように舵柄を両手でしっかり握っている。目には警戒の色が浮かんでいた──ボートが波の頂点まで持ち上がると、前方にスクーナーが見えた。別の波のときはメインシート越しに見えた。ぼくらの後方の海面は波立って黒っぽくなっている。突風かボートを転覆させるような大きな崩れ波が迫っているのだ。
波はお祭り騒ぎのようにはしゃいだり踊ったりしながらも高さを維持して次々に迫ってくる。あっちでもこっちでも、いたるところ延々と大きな波が続いていた。緑の海面が脈打つように盛り上がっては、牛乳をこぼしたように白濁した波しぶきをあげて崩れ、他には何も見えなくなる。だが、それも一瞬のことで、すぐに次の波が出現した。波は太陽から伸びた光の道をたどってくる。見渡す限り大きい波や小さい波が立っていて、溶けた銀のような飛沫やしぶきが飛び散った。濃い緑色だった海は色を失い、まぶしいほどの銀色の洪水が押し寄せ、何も見えなくなった。大しけだ。前方の暗い海面が盛り上がっては砕け落ち、また押し寄せてくる。差しこんでいたきらめく銀の光は太陽とともに姿を消した。西や北西の方からすごい勢いでわき上がった黒雲にさえぎられてしまったのだ。嵐の前ぶれだった。
ぼくらはまもなく母船のスクーナーにたどり着いた。船に戻ったのは、ぼくらが最後だった。大急ぎでアザラシの皮をはぎ、ボートと甲板を洗い流し、船首楼の船室に降りていって暖をとった。体を拭(ふ)き、服を着替えた。熱い夕食がたっぷり用意されていた。スクーナーは帆を張りっぱなしでアザラシの群れを追い、朝までに七十五海里ほども南下していたので、この二日間の狩りで自分たちの居場所もよくわからなくなっていた。
船では午後八時から真夜中までが最初の見張り当番だ。
まもなく風はゲールほどにも強くなってきた。航海士は船尾甲板で行きつ戻りつしながら、今夜はろくに眠れないだろうと予想していた。トップスルはすぐに下ろして固縛された。フライングジブも下ろしてぐるぐる巻きにした。そのころまでには、うねりはさらに大きくなり、ときどき波が甲板に崩れ落ちては積載したボートに激しくぶつかった。
六点鍾(午後十一時)には、全員起きて荒天対策をするよう号令が出た。この作業に八点鍾(深夜十二時)までかかった。
ぼくは深夜当直と交代し、役目から解放された。下の船室に戻ったのはぼくが一番遅かった。スパンカーを巻きとっていたからだ。下の船室では新米の「レンガ積みくん」を除いて全員寝ていた。この新米くんは肺の病気で死にかけていた。海がひどく荒れ、船首楼でもランプの淡い光がちらついたり揺れ動いたりして、黄色のオイルスキンについた水滴に光が当たると黄金のはちみつのように見えた。いたるところでランプの作り出す黒い影が駆けまわっている。船の上方では、棺桶のような船橋のかなたから降下してきた影が甲板から甲板へと走りまわり、洞窟の入口で待ち伏せしているドラゴンのようにも見えた。エレボス*のような闇だった。
* エレボス: ギリシャ神話の地下の闇を意味する原初の神。
たまに一瞬さっと光が差し、スクーナーがいつもよりひどく傾斜しているのが照らしだされたりもした。その光が消えると、それまでよりもっと闇が濃くなり漆黒となった。索具を通り抜ける風がうなりをあげ、列車が鉄橋を渡るときの轟音のようでもあり、浜に寄せる波のようでもあった。波が船首右舷に大きな音をたてて激突し、梁(はり)を引き裂かんばかりの勢いで砕け散った。船首楼では木の柱や厚板がバラバラになるんじゃないかと思うほどだった。柱や支柱、隔壁がギーギーときしみ、ミシミシと音を立て、揺れ動く寝床で死にかけている男のうめき声をかき消した。
フォアマストが動くたびにマストと甲板の張り板がこすれて木の粉が降り注ぎ、その音が荒れ狂う嵐の音に混じって聞こえてくる。海水がちょっとした滝のように船橋や船首楼から流れ落ち、濡れたオイルスキンの継ぎ目から入ってきては床に流れ落ち、船尾の排水口に消えていった。
深夜当直の二点鍾、陸の言葉で言えば午前一時に、船首楼に命令が響いた。「総員甲板に集合。縮帆せよ!」
寝ぼけ眼の船乗り連中は寝床から転がり出て服を着てオイルスキンをはおり、長靴をはいて甲板に出た。こんな命令が出るのは寒くて荒れ狂った嵐の夜だと決まっている。ぼくは顔をゆがめて自分に文句を言う。「ジャックよ、農場を売って船乗りになるなんて狂気の沙汰だったろ?」
風の力を痛感させられるのは甲板にいるときだ。とくに船首楼から出てきた後は身にしみてそれがわかる。風が壁のように立ちふさがり、揺れ動く甲板では動くこともできず、突風に息をすることすらままならない。スクーナーはジブとフォアスル、メインスルだけを張って停船し、漂泊していた。ぼくらは前に進んでフォアスルを下ろし、しっかり縛りつけた。
闇夜で、きつい作業だった。
嵐の分厚い黒雲が空を覆っているので星も月も見えなかったが、自然の慈悲とでもいうのか、海面の動きに合わせて柔らかい光が発せられていた。強大な波それぞれがすべて、無数の微小生物の発する燐光で輝き、その炎の大洪水にぼくらは圧倒された。波の頂きはますます高く、ますます薄くなり、曲線を描いて高くそびえると、やがて崩れていく。轟音とともに舷墻(げんしょう)*に落ちてくだけ散り、柔らかな光の塊と何トンもの海水が船乗りたちをあらゆる方向に押し流し、くぼんだ場所などに残ったものは割れた光の小さな点となって揺れ動いているが、また次の波で押し流され、新しいものと入れ替わっていく。ときどき、いくつかの波が次々に音を立てて船に崩れ落ちてきて舷墻(げんしょう)まで水浸しになるが、やがて風下側の排水口から流れ出ていく。
**舷墻(げんしょう): ブルワーク。舷側の波よけ/転落防止用の低い柵のようなもの。
メインスルを縮帆するため、ぼくらは一段リーフしたジブで強風を受けて風下に走らざるを得なかった。その時までには海はとんでもない大荒れになっていたので、もはやヒーブツーすらできる状態ではなかった。ぼくらはゴミや水しぶきの集中砲火をあびながら飛ぶように走った。風は左右に振れ、船尾からの巨大な波に横倒しになりかけたりした。
夜が明けてくると、ジブを取りこみ、帆は一枚残らず巻き取った。船はかなり速く流れていたが、船首が波の背に突っこむことはなかった。が、船体中央部では波がくだけて荒れ狂っていた。雨について言えば、降雨はほとんどなかったものの、風が強くて大気には水しぶきが充満し、飛沫が交差した道路を突っ走るように、そしてナイフで顔を切り裂くように飛び交っているため、百ヤード先も見えなかった。
海は暗い鉛色で、長くゆっくりした壮大な巻き波となり、風によって泡が積み重なってできた流体の山のようになった。スクーナーの動きは吐き気をもよおすほど激しかった。山にでも登るように波に当たると船はほとんど行き足を止め、巨大なうねりの頂点に達すると、そこからいきなり左右に傾くのだ。息をのみ、口を開けている断崖におびえたように、一瞬、動きをとめる。それから、いきなり雪崩のように前方に滑り落ちていく。波の背で千個もの破壊槌で打ち砕かれるような衝撃を受け、船首の揚錨架は白濁した泡の海に突っこみ、海水が錨鎖孔を通ったり手すりを乗りこえたりして、あらゆる方向から──前方からも後方からも、右からも左からも甲板に流れこんでくる。
風が落ち始めた。
十時までには、船をまたヒーブツーに戻そうかというまでになった。
一隻の汽船、二隻のスクーナー、最小限の帆だけ張った四本マストのバーケンティン型帆船とすれ違い、十一時には、スパンカーとジブを揚げてヒーブツーした。さらに一時間もすると、はるか西のアザラシの猟場に戻るため、全帆を展開し、風上へと向かった。
甲板下の船室では、二人の男が「レンガ積みくん」の体を布で包んで縫っていた。水葬の準備である。嵐とともに「レンガ積みくん」の魂も消え去った。
(了)
帆船用語について
スクーナー型帆船: 二本以上のマストを持ち、後方のマストが前側のマストと同じかそれより高いタイプの縦帆を持つ帆船。
オイルスキン: いわゆるカッパのこと。布地に油を塗って防水性を高めたことから、特に海で使われるカッパはいまでもこう呼ばれることがある。
ミズンマスト: メインマストの後ろ側にあるマスト。
七十五海里: 約百四十キロメートル(一海里は一八五二メートル)。
ゲール: 風力は風速に応じて階級化されており、現在でも、約二百年前に提唱されたビューフォート風力階級がほぼそのまま使われている(気象庁の風力階級も同じ)。
ゲール(疾強風)は風速一七・二メートル~二○・七メートル。
むろん、この作品ではそれほど厳密な意味で使われてはいないが、気象庁の台風の基準が風速十七メートルなので、どれくらいの風なのかを知る目安にはなる。
バーケンティン型帆船: マストが三本以上の大型帆船で、フォアマストに横帆を持ち、他のマストには縦帆を持つ。
横帆は、ごく単純化すると、日本の千石船のような横向きの帆桁をつけた四角形の帆で、縦帆はいわゆるヨットの三角形の帆のように前縁を固定されたものをいう。
点鍾: 船の当直(ワッチ)で時間を知らせるために鳴らされる鐘。時代や地域によって異なるが、一般には、一回の当直が四時間続き、鐘は三十分毎に鳴らされる。
この鐘(時鐘、タイムベル)は、一点鍾(カーン)、二点鍾(カンカーン)から八点鍾(カンカーンを四回)まであり、四時間ごとに繰り返される。
ファーストワッチ(初夜直: 午後八時~午後十二時)、
ミドルワッチ(夜半直: 深夜零時~午前四時)、
モーニングワッチ(朝直: 午前四時~午前八時)、
と続いていくので、単に四点鍾というだけでは、前後の文脈がわからないと午後十時なのか、午前二時なのか、午前六時なのか判断できない。
ヒーブツー: 船を止めることを意味するが、帆船やヨットの荒天対策としては最も確実で一般的な方法でもある。
具体的には、マストより前の帆(ジブ)を風上側に張って(裏帆にして)前進する力を止める。船は風に対して斜め前を向いた格好で停船し、ゆっくり風下に流れていく。
一般的なヨットではちょうどタッキングでジブを返すのが早すぎて失敗し船足が止まった状態を意図的に作り出し、メインシートを緩めてセイルから風を抜き、舵を風下側に切っておく。
風上に向かっているときはすぐにその状態に入れるが、帆船ではマストや帆の数も多く、艤装も多岐にわたるため、縮帆や荒天対策の手順や方法もバリエーションが多い。
風力がさらに強くなると、ヒーブツーでは対処できなくなる。
その段階になると、すべての帆を下ろして漂泊するか、マストなどに当たる風だけか、小さな帆だけを揚げて風下に走ることになる。
時代背景
現在でもゼニガタアザラシのウォッチングは北海道の観光資源になっているほどで、襟裳岬周辺は世界有数のアザラシの生息地として知られていた。
二十一世紀の現代では、捕鯨やアザラシ漁は資源保護や動物保護の観点から批判されることも多いが、当時はアメリカやカナダの重要な産業の一つでもあった。
本書はアメリカの作家ジャック・ロンドン(一八七六年~一九一六年)が三十一歳になった一九〇七年、ケッチ型帆船のスナーク号で南太平洋を航海したときの記録 The Cruise of the Snark の全訳である。
この航海は当初、数年をかけた世界一周を予定していたが、本書を読みすすめるとおわかりのように、南太平洋でさまざまな風土病や感染症などの疾病に作家自身を含めた乗組員のほとんどが苦しめられ、オーストラリアに到着したところで航海を断念している。
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作家にはイマジネーションを駆使して想像力豊かな物語をつむぎだしていくタイプと、逆に自分で見たり聞いたりした実体験に基づいて物語を構築していくタイプの作家がいる。
ジャック・ロンドンは後者である。
彼をとりまく生活や環境の変化が生み出される作品に大きな影響を与えている。
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ジャック・ロンドンは一八七六年、サンフランシスコで生まれた。
母親はフローラ・ウェルマン。父親は占星術の「教授」と呼ばれていたウィリアム・チェーニイだと「されて」いる。
二人はフローラが妊娠した当時、同棲していたが結婚はしてはおらず、フローラの自殺未遂をきっかけに、チェーニイが「フローラをはらませて捨てた」と新聞紙上でセンセーショナルに書きたてられたことから、二人は別れ、チェーニイは同地を離れている。
後年、二十一歳になったジャック・ロンドンはチェーニイに対し「自分の父親ではないか」と手紙で問い合わせている。チェーニイはフローラと同棲していたことは認めたものの、自分はインポテンツで彼女は複数の男性と交際していたと、父親であることを否定した。
ジャックを出産したフローラはまもなく、妻と死別し二人の娘を抱えていたジョン・ロンドンと結婚した。ジャックの出生時のファーストネームはジョンだったが、義理の父親と同じになるため、ジャックと改名された。
義父のジョン・ロンドンは仕事を転々とし、やがて一家でサンフランシスコからオークランドに移って食料品店をはじめた。それなりに繁盛していたらしい。妻のフローラの勧めで共同経営者をつのって業務を拡大し新規出店したところ、その共同経営者が店舗や商品を勝手に売り払って現金だけを持って遁走したことにより破産するはめになった。
一家はアラメダ、サンマテオ、リバモアと、カリフォルニア州内を転々とし、一八八一年、サンフランシスコ郊外の農場に居をかまえた。
生活が多少安定してくると、ジャックは読書に熱中するようになり、これは生涯続いた。
やがて、一家は農場をやめてオークランドに転居した。そこで、公立図書館という、無料で本が借りられる、本好きには天国のような施設の存在を知ったことから、ジャックの読書熱にも拍車がかかった。
義父のジョンは堅実な農民タイプで、実直に仕事をこなし、地に足をつけた生活を送る性格だったが、チェーニイの影響で占星術にこっていた実母のフローラは、生活が安定するときまってそれに物足りなさを感じるような人だった。一攫千金をねらって馬の飼育や養鶏などの事業に夫を駆りだしては失敗し、一家は事業運営と破産、転居を繰り返しながら貧困の底に沈んでいく。
ジャックは父親が失業した十一歳の頃から、新聞配達をしたり、氷屋の配達やボウリング場のピンを立てる仕事などをやって家計を助けた。
冒険物語を読むことで、現実を逃避することができた。
そして、サンフランシスコ湾に面したオークランドの岸辺には捕鯨船や牡蠣(かき)の密漁船、そうした密漁の監視船、商業や交易のためのさまざまな帆船や大型の平底船などが入り混じって碇泊していた。
冒険物語を実現してくれる海がそこにあった。
ジャックはヨットクラブの周辺をうろついては雑用を引き受けて小遣い稼ぎをしたり、小さな舟の操船、とくに帆の扱い方などを習ったりした。
十三歳で公立学校を卒業する。
彼は答辞を読むことになっていたが、卒業式に着ていけるような服を持っていなかったので欠席した。進学は断念した。
一年ほどは半端仕事で小銭を稼ぎ、ためたお金で小さなボロ舟を手に入れてサンフランシスコ湾内で自己満足の冒険航海を楽しんでいたりもしたが、父親のジョンが列車にはねられて重傷を負ったことから、定職を求めて缶詰工場に勤めた。朝から晩まで長時間、低賃金で働いた。
このころ、サンフランシスコ湾では牡蠣(かき)泥棒が横行していた。夜の闇にまぎれて養殖されている牡蠣(かき)を盗み、市場で売りさばくのだ。自分の船さえ持っていれば一晩で大金を稼げると聞いたジャックは、子供の頃の乳母で、およそ家庭的とはいえない母親の代わりに、ジャックを実の子供のように育ててくれた黒人女性から金を借り、牡蠣(かき)の密猟者の一人から小さな帆船を譲り受けた。
最初の略奪で、缶詰工場での三カ月分の報酬を一晩で稼ぐことができた。
それからの一年ほどは密漁と酒と喧嘩の日々が続く。船を買ったときの借金もすべて返済し、家族の生活も支えた。
が、儲けがあっても酒に消えていき、喧嘩で死にかけたり、密漁仲間とのいざこざで自分の船を沈められたりもした。アーヴィング・ストーンによるジャック・ロンドンの伝記『馬に乗った水夫 A Sailor on Horseback』によれば、「あいつは一年後には生きちゃいないな」と仲間に言われるほど、すさんだ生活を送っていた。
そうした生活を続ける一方で、満たされない心を埋めるようにまた本を読むようになった。キップリングやメルヴィル、バーナード・ショーなどである。
そんなとき、酔っぱらって桟橋から海に落ち、岸から遠くへ流され、死を覚悟したものの、なんとか陸に泳ぎつくという体験もしている。
やがて、盗んだ牡蠣(かき)を市場に持っていく途中で州警察の取り締まりに会い、密漁なんかやめて逆に密漁の監視をやらないかという勧誘を受けた。捕らえた違反者が支払う罰金の半額を報酬として受けとれるという条件だった。
犯罪者の心理や手口や行動については、犯罪者以上によく知る者はいないというわけだ。そこで、密漁から密漁の監視へと百八十度の方向転換をすることになった。
ジャック・ロンドンは今度は密猟監視官代理として数多くの現場に踏みこみ、相手と命がけの戦いをし、ずるがしこい人間や高潔で誠実な人間など、さまざまな人間同士の本音のぶつかりあいを体験することになる。
そうした生活が一年ほど続き、彼はさらに大きな世界を見てみたいと思うようになり、北太平洋を航海する漁船に乗り組むことにした。
一八九三年、アザラシ漁に出るソフィー・サザランド号で北太平洋を半年ほどの長期にわたり航海した。このとき日本の小笠原諸島や横浜にも上陸し、北海道沖で台風に見舞われている。
その航海から戻ってからまもなく、『日本沖で遭遇した台風の話』を書き、サンフランシスコの地方新聞、コール紙(さまざまな吸収・合併を経て、現在はサンフランシスコ・エグザミナー)のエッセイ・コンテストに応募し、一等に入選した。十七歳のときである。ちなみに、このコンテストの二等と三等は名門スタンフォード大とカリフォルニア大バークレー校の学生で、ジャックは公立学校で日本の中学二年に相当する八年生までの教育しか受けていなかった。
賞金は二十五ドル。
これが、それから十年後に大ベストセラー『野生の呼び声』を発表して当代随一の人気作家となるジャック・ロンドンの、活字になってお金をかせいだ最初の文章となる。
とはいえ、エッセイ一篇で作家になれるはずもない。
当時はひどい不景気で仕事も少なくて、発電所での石炭運びの仕事にやっとありついたが、自分が採用されたためにそれまでその仕事をしていた者が解雇され、家族をかかえた一人が自殺したことから、その仕事もやめて、失業者のワシントンへのデモ行進に参加したりもしている。
十九歳になった年、ジョン・ロンドンの娘、つまり血のつながっていない義理の姉の援助で高校に入学するが、なかなか学校生活になじめずに中退する。また一念発起して勉強し、カリフォルニア州立大バークレー校に入学するものの、生活苦もあって一学期で退学といったことを繰り返す。
クリーニング屋で働く一方で、作家になろうと短編を書いては雑誌に送ったりもした。ことごとく没だった。
このころ、アラスカのクロンダイクで金鉱脈が発見され、ゴールドラッシュが起きる。
ジャックは義姉の夫とともにアラスカへと向かう。旅費は義姉が自宅を抵当に入れて作ってくれた。が、アラスカ・クロンダイクでは壊血病にかかり二カ月足らずで舞い戻るはめになった。
金の採掘には失敗した。
とはいえ、アラスカの大地と自然という、作家ジャック・ロンドンの誕生へとつながる文学の金鉱脈ともいうべきものを探り当てて帰ってきたのだった。
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アラスカから戻ってきたジャックはクリーニング屋や窓ふきなどで生活費を稼ぎながら、作家になるべく短編を書いては雑誌に送り続けた。相変わらず没続きだったが、アラスカに材をとった短編がぽつぽつと採用されて雑誌に掲載されるようになり、アラスカ物の短編を集めた最初の短編集『狼の息子』が一九〇〇年四月に出版されて好評価を得た。二十四歳のときだ。
その二年後に最初の長編『雪原の娘』、その翌年に『野生の呼び声』やルポルタージュ『どん底の人々』を出版。さらに翌年には骨太の海洋冒険小説『海の狼』を出版し、あれよあれよという間に(二十代後半で)当代随一のベストセラー作家になっていく。
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ジャック・ロンドンが帆船スナーク号を建造して世界一周(結果的には南太平洋周航)に出かけるのは一九〇七年、三十一歳のときである。その前年に『白い牙』を書き上げており、航海後に出版された自伝的な『マーティン・イーデン』は執筆中だったが、ある意味、その時点において、ジャック・ロンドンの代表作ともいえる作品群はほぼ書き終えていた。
オーストラリアでスナーク号を売った彼は、病気が癒(い)えると、妻のチャーミアンとナカタを伴って南米に旅行したりして翌年の七月に米国に帰国した。
それからの彼は、出版社に前借りしていた莫大な借金を返すため、原稿を書きまくることになる。
あいかわらずの人気で、世界を見渡してみても当時の作家としてはトップクラスの印税を稼いでいた。しかし貧しい少年時代の反動か、社会主義に肩入れする一方、自宅で盛大なパーティーを開いたり、ウルフ・ハウスと呼ばれる二十六部屋の大豪邸を建てるなど、金遣いもけた違いで、手元にお金はほとんど残らなかったと言われている。ウルフ・ハウスという名の豪邸も竣工はしたものの、ジャックとチャーミアンが実際に移り住む前に原因不明の火事で焼失している。
スナーク号の航海後も、ジャック・ロンドンの書く作品はよく売れたが、それに反比例するように、作品の質は落ちていく。創作力が枯渇し書きたいテーマがなくなっても、借金を抱えた作家は書き続けなければならない。書きさえすれば「名前」で本は売れていく。
というわけで、若い作家志望者から短編のプロットを買い上げて作品に仕上げて自作として発表したりもしている。
後年にアメリカの作家として初めてノーベル文学賞を受賞することになる若き二十五歳のシンクレア・スミスもそうした作家志望者の一人で、合計二十七本の短編のアイディアをジャックに売ることに成功している。当時、無名で困窮していたシンクレア・スミスの方からプロットを買ってくれるよう依頼する手紙を書き、才能あふれる未来の大作家とイマジネーションが枯渇した現代の大作家の利害が一致したわけだった。
「シンクレア・ルイス様 提供したいプロットは他にまだあるかい?」という書き出しで、シンクレア・ルイスが提供した「庭の恐怖 The Terror of Garden」(に基づくジャックの短編)がサタデー・イブニング・ポスト紙に掲載される旨を伝えている。
一九一六年一一月、ジャック・ロンドンはカリフォルニアのグレン・エレンにある自分の農場で死亡した。四十歳だった。
死亡診断書には尿毒症と記載された。看取った医者の証言によれば、モルヒネを大量摂取した自殺の可能性も示唆されている。
本書については、読みやすさを考慮し、長い段落には適宜改行を入れた。
また、必要に応じて図を挿入し、帆船での航海を理解するために必要な最小限の訳注(*)をつけてある。
原著に掲載されている白黒写真は紙数の都合等で割愛したが、出版社のウェブサイトの「立ち読みコーナー」ですべての写真を閲覧可能。
底本: The Cruise of the Snark by Jack London
(一九一九年刊行のマクミラン版を完全復刻した二〇〇〇年のドーヴァー版)
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ジャック・ロンドンの主な作品(発行年は原著の出版年)
狼の息子 Son of the Wolf 1900年、短編集
雪原の娘 A Daughter of the Snows 1902年、小説
野生の呼び声 The Call of the Wild 1903年、小説
どん底の人びと The People of the Abyss 1903年、ルポルタージュ
海の狼 The Sea-Wolf 1904年、小説
白い牙 White Fang 1906年、小説
アメリカ浮浪記 The Road 1907年、ノンフィクション
鉄の踵 The Iron Heel 1908年、小説
マーティン・イーデン Martin Eden 1909年、自伝的小説
南海物語 South Sea Tales 1911年、短編集
赤死病 The Scarlet Plague 1912年*
* ほぼ百年後の現代のコロナ禍を予見したようなSF小説
この他にも、おびただしい数の短編がある。
ジャック・ロンドンの生涯について知るには
『馬に乗った水夫』 A Sailor on Horseback アーヴィング・ストーン著 1977年
『地球を駆け抜けたカリフォルニア作家 写真版ジャック・ロンドンの生涯』 A Pictorial Life of Jack London ラス・キングマン著 1979年
『作品に反映されているジャック・ロンドンの生涯』 The Life of Jack London as Reflected in his Works (未訳) マレー・ランバーグ著 2008年
電子版 スナーク号の航海
著者 ジャック・ロンドン
訳者 明瀬和弘
発行日 二〇二〇年一一月一〇日
ISBN 978-4-908086-08-3
発行所 エイティエル出版
https://atl-publishing.com/
2020年11月10日 発行 初版
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