2020年度 法政大学第二高等学校3年生選択B現代文特講を選択した生徒による小説集。
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「そろそろ帰ろっか。」
私の頭を撫でて席から立ち上がった彼は、当たり前のようにお会計まで済ませてくれる。せめて半分出す、って私が財布を出しても
「いいから」とそれを制される。
『じゃあ次は私が出すからね?』ってそう言っても
「はいはい」って軽く流されて結局いつも出させてくれない。
名前を呼べば「なに」って優しい顔で振り返る。…今日、泊まってもいいですか。って、言いたいのに言えないその言葉。
『あの、さ、』となかなか発しない私に彼は、ふ、って笑って
「家まで送る」とまた私の頭を撫でた。
『…ありがとう、』
まだ23時過ぎだよ、って。そんな言葉も言えないまま。…一度だけ、言ったことがある。まだ帰りたくないって。そしたらさ、じゃあ明日も会おう、って。嬉しかったよ。
明日も会えるんだ、って。でも同時に、今日はもう帰ろうって。ヤダなんて言える勇気私にはなくて、その時も頭を撫でてくれた彼に、頷くしか出来なかった。
彼は私よりも1つ歳上で。私が大学1年生だった去年、彼は大学2年生だった。サークルの先輩だった彼に私が一目惚れして。片想いの末、ダメ元で告白したら付き合えた、っていう。幸せすぎる展開。
彼は友達が少ないのに大学内で有名になる程のビジュアルで。その上性格だって優しいし。頭も良いし、料理も出来るし。
…だから、よく私なんかが付き合えてるなって。
時々、怖くなる。彼は優しいから、私の告白断れなかっただけなのかな、なんて。思ったりする。
「…どうしたの?」
突然呼ばれた名前にハッとして顔を上げれば「家、着いたけど」って彼越しに見える私の家。
『…あっ、本当だ。』
ははっ、と笑えば
「大丈夫?」と私の背丈に合わせて少し屈んだ彼に顔を覗かれる。
『全然、大丈夫!』
『ちょっとぼーっとしてて』と言えば
「ならいいけど」って姿勢を戻す彼。
「じゃあ、おやすみ。」
『…うん、おやすみ。』
またね、って手を振って来た道を帰って行く彼の背中を見つめる。
こうやって、家の方向違うのに送ってもらっちゃって申し訳ない、って思うと同時。
わざわざありがとう、と私の胸はときめく。
でも、今日もあっさり帰っちゃったな…なんて。
『…ただいま。』
一人暮らしの家の中に呟けば、当たり前だけど誰も返事はしてくれなくて。
ぱち、と電気をつけても目の前に広がるのは、ザ、一人暮らし!という部屋。
彼の私物なんて一つもない。そんな部屋を見てると、彼氏の服が多くてしまう場所どうしよう!と嬉しそうに話していた友達を思い出す。
…あれ、付き合って結構経つのにまだ私の家に一回しか上がってないのやばい?
逆に私、彼の家に三回くらい上がらせてもらったけど…手出されてないのやばい?
未だにキス止まりの私達。そりゃアピールなんて何度もしたよ。
大胆に、ってわけではないけど。それなりに。それでも手出されてない私って本気でやばい?『…私って、魅力ないのかな、』
そんな事呟いたって答えが返ってくるわけもなく。ただ、不安なその気持ちが大きくなるだけだった。
結局遊びでさあ!と目の前で項垂れる友人。付き合ってた彼氏にお前は本気じゃない、って言われたらしくて。付き合うのに本気じゃないなんて事あるんだ、と驚く。
そしたら、あんたは先輩とどうなの?と急に飛んできた質問。思わず、へ?なんて変な声が出てしまって、だからあの先輩!ってもう一度出された彼の名前。
『どうって?』と聞き返せば、だから不満とかないの?って。『…不満、』
そう呟けば、だって先輩めちゃくちゃカッコいいじゃん、って。その言葉に全力で頷く。
そりゃモテるわけじゃん、ってその言葉にも頷く。
…そういえば彼、誕生日に結構な量のプレゼント持って帰ってきてたかも、なんて思い出す。 これは誰々から貰ったって説明してくれたけど。
その中にバイト先の同期…女性からの物もあったな、って。いやでも彼がせっかく貰ったプレゼントだし。前行った時そのプレゼント使わずに放置されてたし。と、自分に言い聞かせる。
『ないよ、不満なんか。』
首を横に振れば、まぁ先輩大人だしね、って頬杖をつく友人。
『…そうだね、いつも余裕そう。』
いつも、私の頭を撫でて微笑む彼は私よりも全然大人で。そういえば、喧嘩なんかした事ないかも。大人の余裕ってやつを、彼はいつも持ってて。
…歳下の私なんかやっぱり釣り合わないのかも、って。だから手も出してくれないのかな、なんて。そんな事を思う。
友人と別れた帰り道。時間も時間だからか、仕事帰りの人が多くて。
そういえば彼のお店ここら辺って言ってたなって思い出す。
『…あっ、』
まさかのタイミング。目に入ったのは彼。バイト帰りかな?と携帯をいじる彼に、声を掛けようとした時。
『…っ、』
彼の後ろから、わっ!なんて驚かしながら現れた可愛らしい女性。その女性に、彼は軽く笑って。親しげに話し出す。
…バイト先の人?もしかして、誕生日プレゼントくれた同期の人?
…そしたら彼と同い年?なんて。そんな事を考えながら、私の足は自然とその二人がいない方向へと歩き出していた。
私いまどこ向かってるんだろう、って歩きながら思う。でも来た道を引き返す事はしたくなくて。頭に、張り付いたように離れないさっきの光景。
…まだ、彼とあの女の人は一緒にいるのかな、なんて。綺麗な人だったな。お洒落で、でも大人の女性!って感じだったな、って。
思い出せば思い出すほど、胸の奥が重くなる。
『…あ。』そういえば、今日同期と飲み会って言ってたなって、ふと思い出す。じゃあ、あの人まだ一緒に…というか今日はずっと一緒にいるのか。そう思うと、さらにまた胸の奥がずしっ、と重くなった気がした。
…きっと、こういうところが私はまだ子供で。大人なら、あの場に遭遇しても動揺なんか一切しないんだと思う。
『…はぁ、』
溜め息をついたと同時、ブー、と鳴った携帯。もしかして…なんて期待は一瞬。携帯を耳に当てれば、今日サークルで集まるんだけど時間ある?って友人の声。
どうしよう、って悩むけど前回行ってない事を思い出して、『行く』と頷く。
そしたら、お店の場所連絡するから!って切られた電話。すぐに届いた連絡に、あれお店ここからすぐじゃんって、少しだけ行くのが憂鬱じゃなくなる。そのまま携帯を閉じようとすれば、目に入った彼とのトーク履歴。
一応、サークルの集まり行ってきますって連絡しとこうかな、と思ったけどすぐにやめた。
…だって、今日飲み会だし、邪魔しちゃったら嫌だし、なんて。
お店に着けば、もうすでに結構な人数が集まっていた。私に気付いた友人が、こっち!と指差す席に腰を下ろせば何飲む?と聞かれる。
『じゃあ、オレンジジュースで。』
まだ未成年だし、と心で呟けば目の前の先輩が、えっ!ジュース!?なんて驚いた声をあげる。
『…まだ誕生日きてないので。』思わず苦笑すれば、大丈夫だよ!呑みなよ!ってものすごい勢いで勧められるお酒。
こんなサークルだったっけ、なんて思う暇もなく。目の前にドンッ、と置かれたジョッキ。あれ、オレンジジュースは?と辺りを見渡せば、オレンジサワーにしといたから!って
満面の笑みを浮かべる先輩。いや、余計なお世話なんですけど!って口に出すわけにもいかず。やっぱり来なきゃよかったって今更になって後悔。ほらほら!って、もうすでに酔っ払ってるのか知らないけどしつこい先輩にこれ以上断れない私。
…一杯だけ、とジョッキに手を伸ばした、その瞬間
『…ぇ、』
後ろから伸びてきた腕。
「…あっま。」
その腕を目で追えば、甘、なんて言いながらすごい勢いでお酒を飲み干す、彼の姿。
『…なんで、』
思わず固まってしまう私に、あ!彼女ちゃん!?って、彼の後ろから現れたさっきの女の人。
慌てて頭を下げれば、え!彼女!?って今度は男の人が現れる。そしたらサークルの人達も、先輩!って騒ぎ出して。私の頭の中は混乱状態。
「ねえ。」
私を呼ぶ声に顔を上げれば、笑ってない彼と目が合う。そしたら、ぽん、と頭に彼の手が乗って「こいつ、もう帰るから」って、掴まれた腕。私の荷物を持ち上げながら腕を引く彼に、笑顔で手を振る彼の同期らしき人。
そして、待ってください!と驚くサークルの人。
「…なに、酒代?」
そんなサークルの人に彼は、はいって千円札を渡して、お店を後にした。ずっと腕を引かれたまま。着いたのは彼の家で、中に入って扉が閉まったとほぼ同時。
どんっ、と壁についた背中と押さえられた両手。名前を呼ぶ暇もなく、降ってきたキス。
いつもと違うそれに、ついていくのが必死で。唇が離れた頃には、はぁはぁ、なんて少し酸欠状態。
なのに、彼を見上げれば息ひとつ切れてなくて。
…やっぱ、大人の余裕なのかな、って。
「お前さ、」
いつもより冷たい声に思わずびく、と肩を揺らしてしまう。
「…酒、飲もうとしたわけ?」
だって、と言い訳しようとすれば彼と目が合って。少し怒ったその表情に、
『…ごめんなさい、』
言い訳はやめた。
「てか俺、聞いてないんだけど。」
「サークルの集まりあるってこと」
やっぱり怒ってるようなその目に、思わず目を逸らす。そしたら、はぁ、って聞こえる溜め息。
…やばい、呆れられた。そう思った瞬間、鼻の奥がツンとする感覚。思わず込み上げた涙に、溢れるなって堪えながら下唇を噛む。そしたら、
「…切れたら困るでしょ、」って、彼の指が唇にそっと触れた。
『…ごめん、なさいっ、』
まだ、溢れてない涙。でも声は自分でもわかるくらいに震えてて。
「もういいから」って、聞こえた彼の声。
やっぱり、優しさで付き合ってくれてるのかな、なんて。そう思ったら、堪えていたはずの涙がぽろ、と溢れて。
やばい、っていつの間にか解放されていた手で目を擦る。
「ちょっ、擦るなって、」
でもまたすぐに、擦る手を止めるように腕を掴まれて。
ぼろぼろと、拭う事もできない涙がただ溢れる。
「ねえ、」
怖くて、彼の顔が見れない。怒られて怖いわけじゃない。
…飽きられてるかもしれない。こいつ面倒くせぇな、って。嫌われちゃったのかもしれない。それが怖くて、俯く事しかできなくて。
『嫌わ、ないでっ、』
さっきよりも震えてる、情けない声。
「…は、」
『あなたからしたら、私なんてまだ子供かもしれないけど、』
『でも頑張るからっ、』
だからまだ捨てないで、って。重たい台詞をいいながら彼を見上げれば、丸く見開いたその目と目が合って。
『ごめん、』ってやっぱり涙が溢れる。
「まって、」
涙を拭うように彼の手が私の頬に触れる。
「…俺の事大人だって思ってんの?」
その質問に、コクンと頷けば彼は困ったように笑って。
「俺、お前の事になると余裕ないんだわ」って。コツン、とおでこが重なる。
「さっきみたいに他の男いると、うわって思うし。」
「俺がいない大学で変な男に言い寄られてないか心配だし」
ポツリポツリと呟く彼の眉は子犬みたいに下がってて。…かわいい、なんて。
「…なに笑ってんの?」
『え?あ、いや、』
別に、って慌てて目を逸らせば逃すまいと言うように、ちゅ、と小さくキスされる。
「なんなの、お前。」
はぁー、って深い溜め息をつきながらその場にしゃがみ込む彼。そんな彼に目線を合わせるように私もしゃがめば、またぱちっと視線が絡まって。
『…すき、』
ほぼ無意識に溢れたその言葉。そしたら彼は「だからさぁ、」って頭を抱え込む。
「…俺がどんだけ我慢してるか、知らないでしょ。」
『我慢…?』
聞き返した私に、
「そう、我慢」って頷く彼。
「本当はもっと一緒にいたい、ダメ?」
『えっそれって…』
「二十歳になったらいうつもりだったけどこれ」
そう言って渡されたのは彼の家の鍵だった。
『まって、いいの…?』
「もちろん。あなただから渡すんでしょうが」
やっぱり彼の方がどこまでも上手で、どこまでも意地悪な人だった。
これを思い出せるのも、もう時間の問題になるのかな、なんて笑えないようなことを笑って誤魔化せるようにまでなったことに気がつく。
そういえば確かこの間誰かにこの恋に心残りはある?と、聞かれた。
そう聞かれたら、わからない。やり残した事は?と聞かれたら、たくさん出てくるのに。
心残りと言われるとそんなものあるのだろうか、って首を傾げてしまう。
…ただ、思い浮かぶのは彼の顔。
目を覚ますとそこは彼と一緒に住んでいた家で。なんだか不思議と少し懐かしく感じた。
ずっと、自分が住んでいた家のはずなのに。
けど、その理由はすぐにわかった。ドアを開けるため、ドアノブに触れようとすればそれはするっと通り抜けて。
『え…?』
まさかと思ってドアを開けずにそのまま前に進めば、身体ごと。全てドアを通り抜けた。まるで幽霊みたいに。…いや、みたいじゃないのか。一瞬だけフラッシュバックした道路。
気になってしまって家を出てその場所へと向かえば、たくさんの花束やジュースやお菓子。そして手紙。私宛にって。
あぁ、そっか私、って。どこか他人事のようにそれを見て。じゃあ私はこの世に心残りがあるから?って、呑気にそんな事を考えた。
ゆっくりと来た道を戻って家へと帰る。
何も変わってない配置。残っている私のモノ。彼の歯ブラシの隣に並べられたままの私の歯ブラシ。
カーテンの柄だって、彼は違うのがいいって言ってたのに私の趣味のまま。
『めんどくさがり』
きっと、変えるの面倒くさかったのかなって。
ガチャっと聞こえたドアの開く音に思わずビクッとして。近づく足音に何故か緊張した。
『お、かえり、』
目の前に来た彼にそう声をかけても返事はない。けどそれは無視なんかじゃなくて。すっ、と私の横を通り過ぎた彼に悲しくなった。私の事、見えていないんだ。ただいまって、声が聞きたい。けどその願いは届くはずなんかない。
手を洗ってすぐソファーに腰を下ろした彼は本に集中し始めて。
『…今日は、なんていう本?』
彼の隣に腰を下ろして、そう問い掛ける。そして表紙を覗き込めばなんだか難しそうな題名で。相変わらずだな、なんて。真剣に本を読むその横顔に胸がぎゅっとした。
触れられない。返事も返ってこない。
けど許されるなら私は、彼の隣にいたいって。
本を読む彼の隣でそっと目を閉じた。
『…ん、』
目を覚ませば隣にはもう彼はいなくて。けどすぐに、キッチンに立っている彼の背中を見つけた。
『今日のご飯は?』
覗き込むように隣に立てば、私の大好きなペペロンチーノが出来上がっていた。
『美味しいやつだ。』
彼が作るご飯はいつも、美味しかった。
もちろん私が作る時もあったし、頻度としては半々だっけど。でも彼が作ってくれるご飯が私は大好きで。作ってる姿を見るのも、食べる時間も、私は幸せだった。
二枚、取り出されたお皿。ほんの少しだけ彼はそのお皿を見つめて、けどすぐに元の場所へとしまった。
そして「作り過ぎた」なんて呟いて盛り付けて。テレビをつけてから黙々とそれを食べ始めた。
次の日、大学の準備をして家を出る彼にこっそりついて行った。彼は絶対に「こっそりしなくていいのに」そう言いそうだけれども。そうするしか手段はないのだから、今回ばかりは許してね…ごめん。
大学に行けばもしかしたら心残りが見つかるかも、なんて。けど本当は、私と彼が出会った大学に久しぶりに行きたくなっただけ。私にとって大学は、彼との思い出の場所だから。
彼にとってはきっと、ただの大学なのだろうけど。
曖昧な記憶でいつぶりかもわからない大学は、なびく風が以前より冷たくなったところで何も変わってなくて。けど別にそれに対して寂しいとかは感じなかった。
…相変わらず彼が女子から憧れの的なのは、なんだか妬けるけど。
私のヤキモチなんてもう何の意味もなさない。元々あまり、表には出さなかったけど。嫉妬深い女はきっとイヤだろうから。
けど、本当はもっと。もっと、彼は私の彼氏だって。ほら、今だって。彼の元に駆け寄ってくる背の低い可愛い女の子。彼と普通に話せる事が、今はどうしても羨ましくって。
ぽん、と簡単にボディータッチできてしまうそれが、いいなって。そっと、自分の手に視線を落とした。
どこにも触れられない手。名前を呼んでみた、けどやっぱり私の声は、彼に届かない。私には届いているのに。誰かと話す彼の声が、私の耳にはすんなりと入ってくる。
けどそれと同時、周りの声だって入る。
体調大丈夫かな、とか。今フリーって事じゃん、とか。いろいろ。
そしてはっきりと聞こえてきた会話。結局最後まで泣いてなかったよ、って。実はあの子の事そんな好きじゃなかったんじゃない?って。そんな会話。
『…言いたい放題だなあ、』
わかってる。私ばっかりが好きだった事なんて、わかってる。いつも好きと言うのは私の方で。それに対して彼は「うん」とか「はいはい」って、あしらうだけ。
愛されてるなって一回も感じなかったわけじゃない。
ただ、私の一方通行だって感じた回数の方が多くて。
『……私の事、好き?』
一度も聞けなかったこの問いかけを今したところで、答えは聞けない。けど、泣いてなかったって。それってもう答えみたいなもんじゃん。私の事はそうでもなかったって。
…私の身体、お腹は空かないくせに。匂いだって感じないくせに。物にも人にも触れないくせに。なのに、それなのに。
どうして涙だけは溢れてくるの。
懐かしい、とか。いろいろ思い出しながら家のモノを見ているとガチャ、と聞こえたドアの開く音。
〈ただいまー。〉
「お前の家じゃねぇだろ。」
聞こえたのは彼の声だけじゃなくて、颯太くんの声も。
〈学校疲れたー〉とソファーに腰を下ろした颯太くんは、
〈…それ、〉って何かを見つけたようにすぐ立ち上がった。そしてさっき私が見た写真立てを手に取って〈いつの写真?〉って、眉を下げながら彼に問いかけた。
「付き合いたてだから、二年前くらい。」
〈二人ともいい顔してんな。〉
「なんだそれ。」
彼は何も動じてないのに、颯太くんは悲しそうで。胸がぎゅっと痛くなった。
〈…やっぱ、すっげえ可愛いな。〉
「狙うなよ。」
〈お前と絡みなかったら狙ってた。〉
「お前と絡んでてよかったわ。」
まるで、私が生きてるみたいな会話。けど現実はそうじゃなくって。
〈……なぁ。〉
苦しそうな颯太くんの声に彼の手がピクッと一瞬、動いた。
〈もう一ヶ月だぞ。〉
「まだ、だろ。」
一ヶ月経った、って。颯太くんの言葉に彼は「まだ一ヶ月しか経ってねぇんだよ」と。
「たった一ヶ月で、受け入れられるわけがない。」
そう言った彼の声は震えていて、初めて聞く声。
弱々しく、「まだ覚えてんだよ」って。
「アイツの笑顔も、声も、香りも、全部。」
「キスとか、握った手とか、抱き締めた時の感触とか、全部、…全部覚えてんだよ。」
彼は微かに震えた自分の手に視線を落としながら、ぎゅっとそれを握りしめた。
その手を私は、包む事ができない。大丈夫だよ、って、抱き締める事ができない。
「カーテンだって、こんな柄俺の趣味じゃないけど、けどアイツがこれがいいって、」
「だからいつの間にか、俺もこの柄好きになって、」
初めて聞く彼の声に、気持ちに。止まったはずの涙がまたぽろぽろと溢れ出す。
「…この家から、匂いが消えてくんだよ。」
何も変わらない配置。私の部屋はそのままで、寝室にも私の枕や掛け布団は敷いてあって。「アイツの匂いが、どんどん薄れてく、」
そう言った彼は物凄く、苦しそうだった。私の初めて見る、彼の表情。
〈…もう、泣いていいんじゃねぇの?〉
そう言った颯太くんに彼は苦しそうに、けど笑って、
「泣いたら、受け入れたみたいだろ」って。
そう言って、眉を下げて笑った。
「……知らない子供助けてとか、アイツらしいよ。」
〈相当優しかったもんな。〉
「けど自分犠牲になってとか、バカだろ。」
〈ちょっと抜けてたとこあったじゃん。〉
「ちょっとじゃなくて結構な。」
「ふざけんな、」って。
呟いた彼にやっぱり触れられない。触れたいのに、抱き締めたいのに、なのに。
「…ごめん颯太、一人になりたい。」
前髪をぐしゃっとした彼に
〈なんかあったら言えよ〉
って、そう言い残して帰った颯太くん。
「…早く、帰って来いよ、」
『彗悟、』届かない私の声。
いくら手を伸ばしても通り抜けてしまう。
『ごめんっ、彗悟、』
そんな顔、させてごめん。私の事好きだったのかなって、疑ってごめん。
自分の事犠牲にしてごめん。けど、助けたんだよ。私、人助けしたんだよ。凄いじゃんって、頭を撫でてほしい。
好きだよ、と。薄ら聞こえた声に顔を上げれば、目の前には泣いているあいつの姿が見えて。なんで、とか。どういうこと、とか。そんなの思う暇もないくらい。
俺の近くにいてくれる事が嬉しかった。けど伸ばした手はするっと通り抜けて、
『ごめん…っ、』って。
代わりに聞こえたのは震えた声。流れているその涙を拭ってあげられない。
抱き締めてあげられない。頭も撫でれない。あいつに触れる事が、できない。いくら手を伸ばしても、あいつの身体をすり抜けてしまう。
…けど、それでもよかった。触れられなくてもそばにいてくれるなら。
前みたいに隣で、笑ってくれるなら。俺は、それでもいいよ。だから、
「居なくなんなよっ、」
俺の声にあいつはボロボロと涙を溢す。泣くなって。お願いだから、頷いて、笑ってほしい。けど、あいつの口から出るのは
『ごめん…っ、』ってその言葉。
「…謝んなよ、」
『私、好きだよっ、彗悟の事が大好きなの…っ、』
『だから、』と伸びてきた手は俺の頰で止まった。触れられてる感覚はない。
けど傍から見たからまるで触れているように。
『彗悟、私の全てを受け入れて。』
そう言って、涙でぐしゃぐしゃの顔で、あいつは笑った。
『私の事を受け入れて、もう、我慢しないで。』
あいつの言葉はまるで、もう泣いていいよと言っているようで。
『それで、あんな奴いたなって、私の事を思い出にして、』
『…新しい素敵な人と、幸せになって。』
ぽたっと落ちたのはあいつの涙か、それとも、俺の涙か。
「お前ってほんと、人の事ばっかだよな、」とあいつの頬に手を伸ばす。触れられない。涙を拭ってあげる事ができない。
けど、そっと拭ってあげるように、手を伸ばした。
「…そういうとこがずっと、好きだった。」
『彗悟、』
「誰よりも優しくてお人好しで、そのせいで損してもずっと笑顔で」
きっと、俺の片想いから始まった恋。
「俺はそんなお前をずっと見てて、気付いたら好きになってて、」
俺の言葉にぽろぽろと涙を溢しながら目を丸くするあいつ。知らなかっただろ?俺が無意識にお前の事、目で追ってたの。
「俺、お前が彼女って自慢だった。」
けど可愛くて鈍感なあいつだから自分がモテてる事に気付いてなくて。ずっと必死だった。「颯太にも、狙うなよっていつも言ってた。」それくらいに俺は、
「お前が好きなんだよ。」
そう言って笑いかければ
『私だって、同じだよっ、彗悟の事大好きだよっ、』って。
…どんどん、薄くなっていく身体。
それはきっと、あいつがこの世に心残りがなくなったっていう証拠で。居なくなんな、って、言いそうになったこの言葉をぐっと堪えた。
代わりに
「早く生まれ変わって、また俺と付き合ってよ」って。
『うんっ、…けど私の事見つけられなかったら、別の人とくっついてね、』
「なんだそれ。」
「ふはっ」て笑えば、あいつも
『ふふ、』なんて。
『彗悟、』
そっと、引きつけ合うように。触れられない、お互いの唇を重ねた。
求め合うようなそのキスは、涙の味がした。
「愛してる。」
ああ、やっぱり彼は意地悪だった。

春の暖かい風に体が包まれる頃、僕には彼女ができた。彼女はあまり目立たずおとなしい子だったが見た目は可愛らしく部活も頑張っていたりと周りからの評判はよかった。僕自身中学三年の夏頃に一度だけ彼女ができたことはあったがお互いの受験勉強が忙しくて会うことができず、高校が決まった時にはお互いの関係は自然消滅していたので初めてまともに彼女と呼べる相手ができた。初めて彼女を見たときは(この子と付き合ってみたい)と思ったがそれと同時に(俺じゃ無理だ)とも思った。人を惹きつける眼、サラサラと綺麗なロングヘアー、彼女の全てに惚れたがどう考えても全てが普通な僕には釣り合わないと思っていた。しかし毎日LINEで話したり二人で出かけたりするうちに自信がつき無事告白を受け入れてもらえた。僕は心から好きと思える相手と一緒に居られることに今まで感じたことのないほどの幸福感や、今まで感じることのできなかった愛を感じることができた。その後も彼女とは仲を深めていった。お互い部活が忙しくそこまで頻繁にデートはできなかったものの、近くの公園でお互いその日あった出来事を話し合ったりなど青春らしい青春はできていた。彼女がどう思っていたかはわからなかったが僕はそこにも愛を感じていた。付き合って三ヶ月がたった八月の終わり、彼女を僕の家へ招待し僕らは絡み合った。お互いそういった行為は初めてだったが不器用なりに抱き合った。僕たちはクーラーをつけるのも忘れるほどお互いに夢中になっていた。全てを終えた後、僕は照れくさい気持ちを押し込め彼女に自分が好きか聞いてみた。彼女は恥ずかしかったのか下を向きながら頷いたので僕は彼女を抱きしめた。この関係を大切にしなければいけないという思いが僕の中で強くなっていくのがわかった。
外に涼しい風が吹き始め木の葉が色づき始めた頃、それは起こった。僕が部活帰りに下校していると彼女が他の男と歩いているのが見えた。日も落ち暗くなっているのでおそらく一緒に帰っているのだとわかった。最初は何が起こっているのか理解が追いつかなかったが次第にことの重大さを理解し始めた。家に帰ると僕は一目散に彼女に一緒に居た男についてLINEで聞いてみた。彼女いわくその男に相談したいことがあったらしくそのついでに一緒に帰っただけだそうだ(どうして俺じゃないんだ。)。翌日学校でも昨日のことについて聞いてみようと休み時間に彼女のクラスへ行ったりしたが、彼女が見当たらない。校内どこを探してもやはり見当たらない(おかしいな、どこいったんだ、)。結局見つからず帰ってきた僕は中学が同じでクラスでも仲の良い友人に相談してみることにした。
「なぁ最近彼女が他の男と良く一緒にいるみたいなんだけどどう思う?」
「え、まじか、お前の彼女そんなことするやつだっけ」
「いやそんなの一度もない」
「んー気のせいなんじゃね、お前ら二人のことだしあんまわかんねーけどまぁお前にもなんか落ち度があるかもしんねーじゃん」と彼は軽く言っただけだった。(落ち度か、)正直相手が評判のいい女子ということもあり、かなり尽くしてきたと自分の中では思っていた。部活のある日は毎回彼女の家まで送ってあげていたし、休日には彼女が韓流系なものが好きなのもあり二人で新大久保まで出かけていた。過去の彼女との思い出を遡りながら落ち度を探していると、終業のチャイムが鳴り学校での一日が終わった。帰りにもう一度だけ彼女のクラスへ行ってみると彼女が帰りの支度をしていた。声をかけようとした時、彼女がだれかに手を振ってるのが見えた。またあの男だ。そいつとは面識がないので彼が通り過ぎた後彼女へ話しかけた。彼女は何事もなかったように僕に接してきて、今日どこへ行ってたのかを聞いても友達と購買に行っててたまたま入れ違いになっただけだと言った。僕自身納得ができず、あの男と関連づけて問い詰めてみたがそこでお互い感情的になり喧嘩になってしまい結局一人で帰ってしまった(こんなの二股以外の何物でもないだろ)。
不幸というものはかなり突然に起こる。そう教えてもらったあの日。僕はいつも通り彼女と帰っていた。その頃は男のことは一旦こちらが身を引き、忘れ去られようとしていた頃でお互いに仲良くしていた。家に帰ると僕のスマホに一件の通知がきた。それは彼女からのLINEで、彼女は唐突に別れ話を切り出してきた。その瞬間僕の頭は彼女の言葉を処理しきれなかった。僕は必死になぜ別れなければならないのか理由を求め、返信したが彼女は僕の言葉に耳を傾けることなくただひたすら謝るのみだった。それから何度かメッセージを送ったが彼女から返ってくることはなかった。僕は椅子の上で何も考えることなく座り続けた。そして後から悲しみや、怒りの感情がひしひしと立ち込めきて僕は人知れず涙を流し続けた。
(え、なんでどうして)そんなことを思いながら僕は悲しみに暮れた。彼女との思い出を振り返りながら。
私には高校の時に人生で初めての彼氏ができました。彼は容姿は普通でしたが私に対してのアプローチがすごく私も圧倒され付き合いました。とても真面目で部活にも励み、優しかったので私は幸せいっぱいでした。この時までは。
ある日学校終わりに二人で帰っていると、
「最近LINEの返信遅いみたいだけど大丈夫?」と彼が聞いてきました。
「最近勉強が忙しくて、ごめんね、」
「いいけどなるべく早く返信してね、心配しちゃうから」
「う、うん」と私はいきなりのことで驚いてしまいうまく返事ができませんでした。
それからも朝起きたら連絡する、や帰りは必ず二人で帰るなどの約束事が増えてしまい私の自由は無くなりました。ここから彼の束縛はさらにエスカレートしました。
「今日うち空いてるから遊びにおいでよ」そう誘われいくと、私は体を求められました。私は嫌だとは言えずそのまま行為に進みました。彼から聞かれた言葉には自分の気持ちに蓋をし、コクリと頷いてしまいました。
こんなことが起きていく中で私は幸せを感じられなくなってしまいました。なので同じクラスの男子に相談すると相談相手には別れるべきだと言われましたが彼に何を言われるか怖くてなかなか伝えられずにいました。するとある日相談中の光景を彼にみられてしまいました。彼からは問い詰めのLINEが何件もきましたがそれとなくはぐらかすと翌日クラスに乗り込んできました。急いでトイレへ逃げ込み思わず涙が出ました(怖いよ…)。その日の帰りに彼がクラスへきてなぜクラスにいなかったのか聞いてきました。
「何してたの?」
「ちょっと、購買に行ってて、」
「嘘つけ、さっきの男と一緒にいたんだろ?普通に浮気じゃん」
「違うよ!あの子は本当にただの友達で、」
「もう僕のこと嫌いになったんだ。へー、じゃもう僕なんかいらないね」
「ちょ、待って、」こうしてからはその日私を置き去りにし、帰りました。その日、私は彼への好意の感情をなくし別れることを決意しました。
後日彼にLINEで別れてほしいと送り、彼のLINEをブロックしました。その後、彼は他の女性にもアプローチしていましたが、束縛の噂を私の相談相手(いまの彼氏)が流してくれたおかげで被害にあった人は出ませんでした。彼がいまどういう気持ちなのかは知りませんが、私はいま最高に幸せです。

「妹が出来るのよ。」
ある日、お母さんは僕にそう言った。嬉しそうな、でもなんだかちょっと不安そうな、そんな声だった。お母さんは毎日おなかの中の妹に話しかけていた。僕もその日から毎日妹に話しかけた。僕はもう妹と仲良しだ。でも僕は、妹に何もしてあげることができない。できることなら、一緒に遊ぶ約束をしてあげたかった。
お母さんは定期的に病院に行っていた。でも、この日はいつもと違う様子だった。
「最近、下腹部が張るような感覚があるんです。」お母さんは、おなかをさすりながらそう言った。
そのあと、お医者さんは、お母さんにいくつか質問をした。そして、超音波検査をした。検査が終わると、「早産になるかもしれませんね。」とお医者さんは、言った。お母さんは、切迫早産と診断された。早産になりつつあるらしい。切迫早産になると、早産にならないように、赤ちゃんを一日でもお腹にいられるようにする。だから、出産前に、絶対安静にする時期が必要だと言われた。お母さんは、もともと、出産のすぐ前におばあちゃんの家に行って、妹を出産するつもりだった。でも、僕の妹のために、三ヶ月も前におばあちゃんの家に戻ることにした。
お母さんは、おばあちゃんの家が苦手だった。お母さんには、ひとつ歳の離れた妹がいた。僕にとっては、おばちゃんだ。おばちゃんとおばあちゃんは性格がよく似ていて、気が合うらしい。お母さんはそんな二人を、子どもの頃から近くで見ていた。おばちゃんとおばあちゃんの間に、お母さんは入ることが出来なかった。そのときのことを思い出してしまうから、おばあちゃんの家が苦手だ。いつだったか、遅くまで公園で自転車の練習をしていた帰り道に、お母さんがこんな話を話してくれた。
「お姉ちゃんなんだから。」
おばあちゃんはお母さんによく言っていた。そんな時、お母さんは、なんだかさみしくて、ひとりぼっちな気持ちになった。だから、お母さんは僕にこう言った。
「お兄ちゃんなんだから。って、絶対に言わないからね。」
そのかわり、お母さんの口癖は、「お母さんはダメだね。」だった。お母さんがそれを言うときはいつだって少し笑っていた。お母さんは、昔から「自分は自己肯定感がない」と言っていた。自信を持つことが出来ないことだ。僕も初めて自転車の練習をしたとき、なかなかうまく乗れなくて、何度も転んだ。そんな時、「僕って、だめだな。」そう思った。そのとき、お母さんの気持ちが少し分かったような気がした。でも、お母さんは僕が何度転んでも、何度でも助けてくれた。そして、一緒に練習してくれた。初めて補助輪を外して、ひとりで乗れるようになった時、お母さんは手をたたいて喜んでくれた。僕はすごく嬉しかった。なんだか、「自分にもできるんだ。」そんな気持ちになれた。ある時、お母さんは道路に落ちて風に舞っているビニール袋を、悲しい顔でじっとみていた。だからあのとき僕は、乗れるようになったばかりの自転車で、思わずビニール袋を拾いに行ってしまったんだ。お母さんは、僕が自転車に乗れるようになったことをとっても喜んでいてくれたはずなのに、僕はお母さんを泣かせてしまった。お母さんは「だから、私はダメなんだ。」って何度も言いながら泣いていた。その時、僕は思った。「お母さんはダメなんかじゃない。」って伝えなきゃ。だって、僕はお母さんが大好きだし、お母さんの子どもで良かったって、心から思っていたから。
妹が産まれるまでの三ヶ月間、お母さんとおばあちゃんの家で過ごすことになった。おばあちゃんの家に向かう電車の中、お母さんの顔は、ずっと心配そうだった。僕はお母さんに「きっと、大丈夫だよ。」って伝えてあげたかった。まだ、外が明るいうちにおばあちゃんの家についた。お母さんは、ゆっくり息を吸ってから玄関の扉を静かに開けた。ガチャッ!
そして、小さな声で言った。
「ただいま。」
「いらっしゃい。待ってたわよ。」
おばあちゃんが玄関まで迎えに来てくれた。僕がおばあちゃんの家に来るのは二度目だ。
おばあちゃんは、おじいちゃんが死んでから、隣町に一人で暮らしていた。おばあちゃんは、僕のためにアンパンマンのお皿とお茶碗をずっと用意してくれていた。僕の隣には、大きいアンパンマンが座っていた。僕はアンパンマンが大好きだった。ばいきんまんと戦って、何度でも生き返って、みんなを助けるヒーローだから。僕のところにも、バタ子さんやジャムおじさんが来てくれたらいいのに。いつもそう思っていた。麦茶を飲みながら、お母さんとおばあちゃんは話している。でも二人の会話はなんだかぎこちない。本当は二人がお互いのことをとても心配していることを、僕は知っていた。
次の日、おばあちゃんは早起きをしてキッチンで、忙しくしていた。僕も何か手伝いたい。そう思っているうちに、とっても懐かしい匂いがしてきた。「ピーッ」ご飯も炊けたみたいだ。ちょうど、お母さんが起きてきた。お母さんも、みそ汁の匂いで起きたに違いない。おばあちゃんは、お母さんが起きてきたのを確認すると、みそ汁に卵を落とし入れた。おばあちゃんは、お母さんの好きなものをちゃんと覚えていた。その姿は、まるで僕に朝ご飯を準備してくれるときのお母さんと一緒だった。
「いただきます。」
お母さんは卵入りのみそ汁を一口飲んで、「美味しい。」そう言った。昨日、玄関を開けた時と同じくらいに、小さい声だった。でも、その声がちゃんとおばあちゃんにも聞こえていたことを僕は知っていた。朝ご飯を食べている間、二人の間に会話はなかった。でも、ご飯を食べ終えた二人の顔は昨日より穏やかになっているように思えた。お母さんがふと窓の外を見た。庭にプランターがひとつポツンと置いてあった。そこには、ミニトマトとマリーゴールドが植えられていた。お母さんも毎年おうちでミニトマトを育てていた。
「私も育てるんだけど、今年はなかなか元気に育ってくれなくて。」お母さんが、独り言のようにつぶやいた。少しの静けさの後、
「ミニトマトとマリーゴールド、一緒に育てるといいって聞いたから。」お母さんと同じようにおばあちゃんがそうつぶやいた。
マリーゴールドはお母さんが大好きな花だ。お母さんは、よく僕にマリーゴールドの花言葉を教えてくれた。僕の隣にもいつもお母さんがマリーゴールドを置いてくれている。僕はもう一つ花言葉があることを最近知った。それを知ったとき、僕は泣きたいくらい悲しかった。それでも僕は笑っていた。僕が笑ってなかったら、お母さんが悲しむと思ったから。
その日は、とても暑い日だった。おばあちゃんが付き添って、お母さんは病院へ向かった。
とうとう、僕の妹が生まれる。おばあちゃんはお母さんの出産に立ち会い、手をずっと握っていた。僕は、期待と不安な気持ちで、その瞬間を待っていた。お母さんも、おばあちゃんも、助産師さんも、みんな汗がびっしょりだ。
「あと、もう一息!」
助産師さんが、お母さんを励ました。
「おぎゃー!」
僕の妹の泣き声はとても大きかった。みんな、疲れ切った顔をしていたが、僕の妹だけは、やたらと元気だった。お母さんとおばあちゃんは、ほほ笑み合いながら目に涙を浮かべていた。僕は妹にそっとつぶやいた。
「生まれてきてくれて、ありがとう。」
「もしもし、お母さん? 明日、十時には駅に着くから。」
あれから、三年。娘は可愛い女の子に成長した。目元は、お兄ちゃんにそっくりだ。明日は実家の近くの神社で「七五三のお祝い」を予定している。
「明日は、晴れると良いんだけど。」
天気予報は晴れだったはずなのに、朝から降っている雨は止む気配がない。記念撮影のために、久しぶりにカメラを準備していると、新生児のころの娘の写真が出てきた。整理するつもりだったのに、写真を見返すことに夢中になってしまう。懐かしい写真を見ていると、当時のことが鮮明に思い出され、思わず娘に話しかけた。
「どうして、あんなに早く生まれてこようとしたの? 心配で、心配で…。あの時は、どうなるかと思ったよ。でも、良かった。予定日まで頑張ってくれたから。」娘を妊娠中、私は切迫早産だと診断された。出産直前に里帰りする予定が、三か月も早まり娘を出産したのだった。
「それはね、お母さんに早く会いたいと思ったからだよ。」夢中でてるてる坊主を作っていた娘が突然真剣な顔でそう言った。
「それにね、お兄ちゃんに頼まれたから。お母さんにだいすきだって、お母さんの子どもでよかったって、伝えてほしいって。」
娘の言ったことが、私の頭の中を駆け巡る。大きな鉄の塊が私の胸を押しつぶすような感覚になる。塊が私の胸を通り過ぎた瞬間、二つの瞳から、涙がとめどなく溢れ出た。一度溢れたその涙を、私はもう止めることが出来なかった。私は娘を抱きしめた。そして、娘の目元に優しく触れた。さっきまで降っていた雨は止み、窓の外には雲一つない青空が広がっていた。
今年のミニトマトも、真っ赤な実をつけて元気に育っている。隣には鮮やかなオレンジのマリーゴールドが咲いている。マリーゴールドの花言葉は「変わらぬ愛と悲しみ」…。
あれから、娘にもう一度あの時の言葉について聞いてみても、何も覚えてないという。あれっきり、あの真剣な顔も見ていない。あの出来事は、私しか知らない唯一無二の瞬間となった。でも決して幻想などではない。あの時の娘の言葉は私の心に温かな火を灯してくれた。そして今でも、私を照らし続けてくれている。
「私は、決してダメではない。」大好きだと言ってくれる息子と娘がいる。
私はマリーゴールドの入った花瓶の水を新しく入れ替え、息子の隣にそっと置いた。

『ピコン』
「おっ。」
几帳面に整えられた部屋で、突然スピーカーの人工知能が反応した。
『家の外に誰かいます。』
「…えっ?」
『二〇分ほど前から、家の周囲を彷徨いています。』
怪訝な表情をしている男は、少し黙ってから尋ねた。
「誰が?」
『すみません。わかりません。』
家の中なのにも関わらず、やたら厚着な男は尋ねる。
「猫とかじゃないの?」
『いいえ、小動物のサイズではありません。もっと大きいです。』
「…。カメラで見てみてよ」
『すみません、できません。センサーのみが反応しています。』
少し時間を置いてから人工知能は質問した。
『警察に通報しますか?』
男はソワソワしながら言った。
「待って、もしかしたら友達かもしれない。」
『いつもの田中さんでしょうか。』
「あー、あいつがサプライズで来てるのかな…」
『ですが、誕生日は二週間後ですよ。』
「そっかあ、確かに…」
首を傾げながら男は尋ねる。
「試しに外のライト点けてみて。」
『はい。ライトを点灯します。』
「どう?様子は?」
『まだ近くにいます。』
「誰だ…?」
『ベランダの窓の方向に近づいています。』
男は傾げていた首を上げ、締め切ったカーテンの方をじっと見つめる。緊張した面持ちで、何かを待つように。
『気づかれないように、覗いてみてはどうでしょう。』
「いいや、やめとく。」男は小声で言った。
『田中さんにメッセージを送ってみてはどうでしょう。』
「あー、でもこんな時間に送って、もし違かったら申し訳ないし…」
『それもそうですね。』
男は訝しげな顔で足元を眺めている。
しばらくしてから、人工知能の方から喋り出した。
『不審者が移動しています。』
少し食い気味に、興奮した口調で尋ねる。
「どっちの方?」
『車の方向に移動しています。』
男は少し考えてから嬉しそうな顔で叫んだ。
「ドライブレコーダー!」
『ドライブレコーダーに接続します。』
人工知能は黙り込み、解析に勤しんでいる。
やがて、男は興奮気味で尋ねる。
「どうだった?」
目は見開き、血走っている。
『あなたは誰ですか。』
「どういうことだ。」
自分で言うのもあれかもしれないが、私は几帳面だ。自分だけのこの我が家が、少しでも汚れているとすぐ掃除してしまうし、毎朝必ず我が家の中に異変がないかを確認するために早起きするほどだ。そんな日々に異変が生じた。
「家の電気が点けっぱなしだ」
夜遅くに家に着いた私は、あまりにも分かりやすい失態に絶望した。辛すぎる現実に、家の前を気違いのように徘徊してしまった。
パッと、突然ライトがついた。センサーで点くライトだろう。そのライトに照らされ、新たな失態を発見してしまった。
「待って、ベランダの鍵も開いてる。」
もう無理だ。毎朝必ず外気を直で浴びたい私は、必ずベランダの鍵を開ける。その時に鍵を締め忘れたのだ。加速する絶望感、ここで私は妄想に逃避した。
「もしかしたら不審者が侵入しているのかもしれない。」
妄想に溶け込む為、家の周囲を隅々まで探索した。心のどこかに、こんなことをしても無駄だと知っている自分がいる。けれどそんな奴の言うことは無視して『自分』のやりたいことをやっている。なぜだろうか、いや、そんなことはどうでもいい。そういえば、最近嫌なことがたくさんあった。自分は普通のことをしているだけなのに、人からは変な目で見られたり、知らない人に自分の家までの道のりを訊かれたり。とりあえず道のりは教えたが、自分はその家の主ではなく、隣人だと言うことにしておいた。隣はアパートだし分かるまい。夜に帰るから気のせいかもしれないが、後ろから視線を感じたりもしていた。正直あれはとても不気味だった。まあせいぜい野良猫の類だろう。こんなことを考えながら探索が終わった。おそらく異常はない。私はいつも以上に投げやりになっていたが、ここで一番確認すべき物を忘れていた。そう、先日納車したばかりの、一目惚れして購入した外車だ。今まで貯めてきた貯金をほぼ全て使い、最新の機能を色々搭載した。まだ機能の設定を完全に終えてはいないが、いつでも乗り回せる状態だ。それを急いで確認するも、とくに異状はない。
「なんだ、流石にそれはないか」
変な『自分』を殺し、安心しきった私は、玄関の扉を開け、冗談まじりで叫んだ。
「ただいま! 誰かいる?」
そこは、何かがいつもと違う家だった。

すぅーはぁー。すぅーはぁー。
じわっと汗をかくのを感じる。脚が痺れてじんじんしてきた。隣の寝室からパチっと電気を消す音が聞こえると、訪れた静寂。聞こえるのはうるさい自分の心臓と深呼吸の音だけ。
田村夕、40歳は床に置いた”こうかんにっき”と幼き頃の自分の拙い字で表紙に書かれたノートに正座をして真っ直ぐに向き合っている。開こうと心を決めてから約30分、腕が震えて一向にページをめくれないのである。ノートに被さっていたホコリを見ればどれほどの年月、私がこの日記を開く勇気を持てなかったのかが嫌でも良くわかってしまう。
母の葬式で私が幼い頃から母に代わって育ててくれた叔母の美智代さんから渡された一冊の交換日記。私を身籠ったことを知った夫から捨てられ、私を産んだとともに重病を患い退院することなく静かに死んでいった母が私へ残した唯一のもの。なんで私の幼い頃の交換日記なんかを母が持っていたのだろう、そもそも保育園の頃から変わっているだとか気持ち悪い、男の子らしくないだとかいう理由で除け者にされていた私と日記を交換してくれた友達なんていなかったと記憶しているのに。
面会に制限が伴うほど病気が重かった母、ろくに会話もしたことがなかったし、母の日のための宿題が学校から出た際には
「僕にはお父さんもいないし、お母さんのこともお母さんだと思ってない!」
とやっと許可が降りた面会の機会に大泣きして美智代おばさんの似顔絵を提出したこともあった。
母が亡くなってからも特に悲しんだり向き合ったりもせず、もちろんこのノートを開く勇気を持つこともなく長いこと過ぎた。
怖かった。嫌だった。母との思い出がほとんどない私にとって、母を感じさせてくれるものがこんな汚れた安っぽいノートになってしまうことや、辛くて毎日を泣いて過ごした幼少期を思い出してしまうことが。でも変わらなければならない理由ができた今、自分で片を付けないといけないんだ。そう決心して最初のページを開いた。
「きょうはじぶんの名まえの田をかんじでならった。あとさむかった。しゅくだいであそべなかったからあしたはいっぱいあそびたい。」
「かんじおぼえたね。きょうはさむかったね。あしたはあったかいといいな。しゅくだいであそべなかったからあしたはいっぱいあそべるといいね。」
その日の出来事を全部書いたうえで律儀に自分に対して返事を書いている当時の自分がなんだか可愛くてさっきの緊張感も忘れてクスクス笑いながらページを先に進めると明らかに5、6歳頃の自分の字ではない筆跡で
「夕ちゃんこんにちは。わたしは夕ちゃんのおともだちです。たくさん夕ちゃんのことをおしえてください。」という文が。
そうだ。思い出した。なんで忘れていたんだろう。会ったこともないけれど一番の私の親友だったケイちゃん。初めて誰かと日記を交換できて飛び跳ねて喜びながら美智代おばさんに報告したんだったな。初めて自分のことを男の子、お母さんがいない子というフィルターなしでありのままの田村夕として接して悩みを聞いてくれた彼女との思い出がブワァと溢れ出てきた。
「ケイちゃんはおままごとであそぶのがすきですか。夕はすきです。みんなはすきじゃないみたいだけど。」
「わたしも好きです。夕ちゃんもすきなんだね。みんなって学校のおともだちのことですか。夕ちゃんがおままごとをすきなのははずかしいことじゃなくてすてきなことだと思うよ。」
「きょうはいつもの男子たちに夕は男なのに女みたいできもちわるいっていわれたからかなしかった。」
「夕ちゃんが男の子でも女の子でも夕ちゃんであることにかわりはないよ。わたしは夕ちゃんが夕ちゃんだからだいすきです。」
彼女と交換日記を始めてからの私は前よりも少し明るくなったし、何を言われても(でもケイちゃんはありのままの私が好きなんだもん。)と思いながら泣くことをやめた。そんな私をいじめるのもつまらなくなったのか上級生になるころにはうるさかった男子たちから何も言われなくなったし、ちょっとのお友達もできた。
でも学校の同級生でケイなんて名前の子はいなかったし、家の外に日記を出した覚えもないよな…。そもそもどうやって返事が返ってきたっけ。と過去の記憶を辿りながら最後のページに手をかけた。
そこには生まれたての私と母の初めて見たツーショットの写真の裏にケイちゃんと同じ筆跡で「田村夕、どんなときもあなたらしく強く生きなさい。」と書かれていた。びっくりしてそれまでのページを読み返すと、所々小さく濡れてしわくちゃになっている部分やインクが滲んでいる部分を見つけた。
お母さん、ずっと私と同じ気持ちだったんだね。ほんとは寂しかったよ。夕ちゃんって呼んでほしかったんだよ。素直になれなくて隠してたけどお母さんの前で”私”って言ってみたり、スカートを履いてみたりしたかったんだよ。
なんにもないと思っていた母との思い出。でも今日の私が笑顔で自分の好きな服を着て、好きだと思える人と一緒に過ごせて、そんな自分が素敵だと思えるのは母がケイちゃんの言葉として私を支え、励ましてくれていたからだ。
向かい側の家の犬の遠吠えにふと窓の外に目をやると、朝焼けとともに温かな光が私を照らしていた。ずっと感じてみたかった母親のぬくもり。目を閉じて少し微笑んでみた。
「おはよう。いよいよ桃百が家族の一員になる日がやってくるね。11時に家を出て施設に迎えに行こう。」
隣の部屋から起きてきた夫の日向が寝癖をいじりながら少しかすれた声で優しく私に言う。そんな彼を愛おしく思いながらゆっくりとコーヒーの準備に取り掛かろうと腰を上げる。いつもの一日の始まり。でも昨日までとは違って見える鮮やかな空を見上げる。
お母さん。私、母になるよ。

はじめは雲一つない晴天だった。
「また屋上で『アポロ』聴いてんの?」
屋上にある梯子を上りながら彼女は僕の元に来た。
そんなことを僕に尋ねるのは彼女しか居ない。
「ねー!聞いてんの?もう!」
そう言って彼女は寝ている僕の頬をパチパチと叩いた。
「痛いって!叩くなよ、」僕はイヤホンを片耳だけ外しながら答えた。
「あんたが返事しないからでしょ! 授業はサボるわ、人の話は聞かないわ、最悪じゃない!」青いセーラー服をなびかせている彼女は僕を見下ろして言った。
「君には関係ないだろう」
「またそう言って! 友達ひとりも居なくなっても知らないんだから!」
彼女は頬を膨らませながら言った。
今日はイチゴ柄か、なんて思いながら僕は彼女を見つめていた。
いつのまにか、巨大な灰色の雲が空を覆い隠そうとしていた。
「聴いてたよ。『アポロ』」僕は答えた。
「『アポロ』のどこが好きなの」
僕の顔を覗きこむようにして彼女が言った。
「別に好きな訳じゃないよ」
「ふーん。宇宙とかロケットに興味があるのかと思った。」
僕はドキッとした。
「まあ、本当に興味あるんだったら、こんなとこでサボってなんかいないでしょうけど」
まだ彼女は僕が授業をサボタージュしていたことを許してくれていないみたいだった。
「先生、探してたよ。あんたのこと。」
僕は黙って聞き流した。
「先生のところ行ってあげなよ、あんなに親身にやってくれる人なかなかいないよ?」
「そんなことは誰も頼んでない」僕は先生が苦手だった。
「また、偏屈言って、お前はじいさんか!」
彼女は笑った。
普段の彼女はもっと渇いた笑い方をする。本当は笑っていないような。きっと彼女のこんなところを見ることができるのは僕だけなのかもしれない。
「もしさ、私がこの世界から消えたら、あんたは完全にひとりぼっちになっちゃうね。」
彼女は唐突にそう呟いた。
「そうなったらところで、別に僕は、君に出会う前の元の世界に戻るだけだよ。」
「そっか、」
日差しが強くて、僕はその時の彼女の顔が見えなかった。
「今何時?」
「多分、一時。」
「じゃあ、私は部活に行くから。」
「うん。」
陸上部の部長を務める彼女はいつも優等生だった。彼女の周りにはいつも誰かが一緒にいたし、先生からの信頼も厚かった。それなのに彼女はここには居なかった。僕をひとりぼっちにするのは彼女だけだった。
イヤホンから流れる音楽を遮ぎるかのように強く風が吹いていた。台風が近づいているのだろうか。
天気は嫌な雨になりそうだった。このまま屋上に居たら風邪をひいてしまうかもしれない。でも、そしたら彼女から心配してもらえるかもしれない、なんて思った。
そして、頭のてっぺんからつま先まで目が眩むような電気信号が走った。
「任務終了だ。お疲れ様。」
大柄で筋肉の盛り上がった逞しい男が僕の顔を覗き込んでいた。
「もう終わりですか。意外と早いんですね。」僕は頭に取り付けられていた吸盤型の機械を外した。
「あまり長い間眠っているのは、肉体的にも精神的にも良くないからな。」
「そうですか。」僕は水の入ったコップを受け取り、一気にそれを飲み干した。僕は喉が渇いていたようだ。
「次の任務に行く前によく休むといい。上部にもそう伝えておくよ。」
「ありがとうございます。あの、これは実体なんですか、それとも夢ですか。」
「今君が見て来たものは、実際に起こったことでもあるし、本当に君が体験したことでもある。君の頭の中でな。だからといって、それが現実ではないとは言い切れない。なぜなら、君はここには居なかったからな。」僕はそのベッド以外に何も置いていない無機質な部屋を後にした。
なんだか、身体がひどく重く感じた。本当に僕の身体なんだろうか。錆びついた自転車を無理矢理動かしているようだった。
「よう。お前はあの任務から戻って来れたんだな。」薄暗い廊下の向こう側から茶髪の男が話しかけてきた。
「それはどういう意味だい。」
「どういう意味かって、そのままだろ。こっちに戻って来れたんだなって話。」
なんでもめんどくさそうに話すのが彼の特徴であることを僕は知っている。
「昏睡状態のヤツがほとんどらしいぜ。こんなやばい任務なのにお前、知らなかったのか。」
そう言われるとそうだったかもしれない。なんで僕は覚えていないのだろうか。
「よく覚えていないけど、会わなきゃいけない人がいるんだ。髪の長いセーラー服の女の子なんだけど、知らない?」
「セーラー服なんていつの時代の話だよ。着てるヤツ見たことなんかないぜ。」
確かに、周りを見回してみても、誰一人としてそんな人はいなかった。なぜ、僕はセーラー服なんて言ったのだろう。
「でも会いたいんだ。彼女に。そういえば、ここはどこだい?」
「何言ってんだよ、金星だよ、金星。お前、頭がどっかやられてるな。大丈夫か。俺はもう行くからな。じゃあ。」
「ああ。」
光が上の方から入ってくる。ここは地下らしい。僕は空へとつながる階段を探した。
廊下の端には梯子がかかっていた。気をつけて登らないと壊れてしまいそうな古びた梯子だった。
マンホールのような穴から這い出ると空は満天の星空で、遠くの方にある青く澄んだ地球が見えた。
僕はそれを地球だと知っているし、どう見てもそれは地球であるのに、それを見たのは初めてだった。
なんとも言えない違和感がそこにあった。
僕は埃っぽい地面に寝っ転がった。
なんだか、ここに居たら彼女に会える気がした。そして、この違和感の正体が分かるような気がした。
どこからともなく、音楽が流れてきた。聞き覚えのある懐かしい歌だった。何かを思い出せそうだった。だめだ。いちごが食べたいぐらいしか思い付かなかった。甘いものも欲しい。
いちごにチョコレートをかけて食べたい。
いちごのチョコでもいいかもな。
風は強く吹いていた。
「ねぇ、待った?」
僕を見下ろす彼女は今日もいちご柄であった。

人生は一冊の本なのではないか。いつも、ふと考えてしまう。生まれた時から、自分の行動や選択が一つずつ記録されていて、たった一つの物語が出来上がる。もしかしたら印象的な場面には挿し絵が入っているかもしれない。とにかく人それぞれ自分なりの物語を紡いでいき、最後には命を落とし、本を閉じる。偉人たちの過去の栄光が本として今も残っているのだから、この想像もあながち間違っていないのではないかと思う。
そう考えてみると、こうして今俺が歩いている街並みを簡単に文字に起こせるように感じる。そうだな、まず太陽が眩しい。夏だから仕方がないが、日差しが俺の体を切り裂くようにその光を浴びせてくる。その上、蝉の悲鳴が至る所から聞こえてくるのだから、たまったものじゃない。まあ、この殺人級の暑さに蝉も苦しんでいるのだろう。心なしか木々たちも喉の渇きを主張しているような気がした。他に視界に映っているものと言ったら、人の少ない公園と、そのベンチに佇む一人の少女くらいだろうか。どうやら、考え事をしているうちにいつの間にか目的地に着いていたらしい。夏の空気を胸一杯に吸い込んで、深呼吸をひとつ。暑さに奪われた体力も自然と回復し、少女のもとに向かう。
「あーやっと来た。おはよう! 遅いよ龍二!」
俺の存在に気付いた彼女は、腕をぶんぶん振りながら歩み寄ってくる。こういう時、すぐに謝らないと後々面倒になるのは経験上分かっている。
「あー悪かったって。少し考え事してたらついつい遅れちゃってな。栞と俺は長い付き合いだろ? 今日のところは大目に見てくれよ」
俺と栞は幼稚園からの幼馴染で、ざっと十年程の付き合いになる。だからこそ気が緩んで遅刻してしまうというわけだ。今日は月に一度のショッピングの日。朝早くから待ち合わせて一日中街を練り歩くわけだが、そんな日に遅刻するなど普通なら論外だろう。俺がされたら一日中根にもつ自信がある。そのため、まだ不機嫌そうな彼女に、一応一言かけておくことにした。
「ほら、栞のこと信頼してる証拠だよ。こいつなら絶対許してくれる! ってな」信頼のまなざしをまっすぐに彼女に向ける。それでも彼女は微妙そうな表情を浮かべて、
「うーん、そういうことじゃないと思うんだよなぁ」と、ジト目で反論した。
いまいち納得していない様子の彼女の手を取り、二人でショッピングモールへと向かう。
その途中、ふいに「今日の服、どう?」と聞かれたので、少し距離を置いて全身を眺める。
普段は派手な服を好む彼女が、その日だけ真っ白なワンピースを着ているのを見て、なぜか心を動かされたのを覚えている。表情で答えを促してくるので、
「まあ、いいんじゃないか?」と、曖昧に答えた。
夏の騒がしい景色の中に、くっきりと存在を主張する眩しい白。あの白は俺の記憶に鮮明に残るほどに、あまりにも美しかった。その時見せた彼女の笑顔を思い出させるからかもしれない。もし俺の人生が本ならここには挿し絵が入ることだろう。そんなくだらないことを考えながら、二人並んで歩を進めた。
いつの間にか煩わしい太陽は夜の闇に引っ込んでいた。闇の中、上機嫌に体を揺らしている彼女の横で大量の荷物に苦しめられているのが今の俺だ。午前中の余裕はどこに行ったのだろうか、千切れそうな両腕に何とか荷物を引っ掛けて運んでいる。店に入るたびに荷物が増えていく絶望感は、まだ記憶に新しい。苦痛に顔を歪める俺を追い越して軽やかなステップを見せつけてくる彼女に、
「なぁ栞、少しくらい荷物持ってくれてもいいんじゃないか?」と声をかける。小さなカバン一つしか持っていないのだから、少しくらいこの苦労を分け合ってくれてもいいのではないか。プライドなんかを気にしている余裕はなかった。俺のヘルプコールを受けた彼女は露骨に嫌そうな表情を浮かべて、
「やだよ、私、今頭痛いもん」と食い気味に主張する。昼ごろから少し具合が悪そうなのは気が付いていたが、さっきまでの上機嫌さを見てしまうと正直あまり納得がいかない。それからというもの、やたらとわざとらしい頭痛アピールが続いたことから、彼女には荷物を持つという選択肢は存在していないことは明らかだった。俺は大きめのため息をついて、先を行く彼女に着いていくことにした。すると、
「ねぇ、龍二ってなんか夢とかないの?」何の前置きもない突拍子のない質問が飛んでくる。実に彼女らしい聞き方だが、それにしても脈絡がなさすぎる。それもこれも夜の仕業だ。夜になると、ふとしんみりとした気持ちになって、気軽に踏み込んだ話ができてしまう。所謂、深夜テンションというやつだろう。何も答えないわけにもいかないので、
「さぁ、まだ考え中かな。趣味はあるけど、いざ仕事にすると思うとね」と、テンプレートな返答を選んだ。俺にはゲームや読書、映画、カラオケなどと色々趣味はあるが、それを仕事にしている未来が全く想像できない。少し前まで目標を持って頑張っていたことはあったが、それももう諦めてしまった。仕事とプライベートは別にしたい人をよく見かけるが、俺もきっとそうなのだろう。強いて言えばそんな自由さこそが夢なのかもしれない。そんなことを考えながら、彼女の様子を窺う。俺の返答に納得していないのか、少し思案しているようだ。あれだけ豊かだった表情も、今は考え込んだまま固定されてしまっている。今の彼女に先程の機嫌の良さもわざとらしさも残っていない。そこにあるのは静寂のみだった。不安そうに顔色を窺う俺に気付いたのか、
「あぁ、ごめん。ちょっと頭がまた痛くなっちゃってさ。でももう大丈夫だから、心配掛けてごめんね。それにしても、龍二にはまだ夢ないのかー。まったく早く見つけてくれないと困るなぁ。私、養ってもらえないじゃん」と、彼女は早口でまくしたてる。明らかに正常ではなかった。相当頭痛が激しいのだろう、言動がめちゃくちゃなうえに顔色も悪い。さすがに心配なので、
「本当に大丈夫か? そこらへんで少し休んでもいいんだぞ」と、提案する。そこらへんといってもここは何もない住宅街なので、休憩するには大通りに出る必要がある。帰り道からは外れてしまうが、それでも彼女には休憩が必要だろうというのが俺の判断だった。狭い道では息も詰まるから、大通りに出るだけでもリフレッシュくらいにはなるはずだ。なにより、荷物を抱えた俺には彼女を助けることができないからこそ、この場所で倒れられるわけにはいかなかったのだ。
「ううん、大丈夫だよ! 余裕余裕!」と言って、彼女は真っすぐ走りだした。元気さを表現するつもりなのだろうか、その無邪気さに思わずクスリと笑ってしまった。彼女はぐんぐんスピードを上げていく。一つ先の十字路を駆け足で突き抜け、二つ目の十字路に差し掛かった時だった。眩しい光が彼女の半身を焦がし、突如現れた黒い影に攫われる。耳をつんざくような悲鳴とブレーキ音が夜の街に鳴り響いた。感覚が狂う。荷物の重荷など気にならないほどに心が重い。どれだけの間立ちつくしていたかわからない。わずか一分、いや永遠にさえ感じた。少しずつ感覚が戻り、現実に戻されていくのを肌で感じる。その瞬間、俺は叫びながら彼女が消えた先へと駆ける。荷物を捨てたにもかかわらず、相変わらず足取りは重いままだ。いくら走ってもたどり着かない、彼女との距離は遠く、もう追いつくことはできないのかもしれない。それでも俺は足を止めない。漸く冴えてきた頭で状況は飲み込めているはずだ。二つ目の十字路に立つ。視線をずらせばそこにはいつもの彼女がいる。叫びすぎて喉が痛い、全力で走って足が痛い、なぜか胸が痛い、痛い。彼女を呼ぶ。
「し、栞ッ!」
その視線の先は非現実だった。いつも読んでいる本の世界。集まる野次馬と一台のトラック、俺の日常を一面の赤が塗り替える。歪む視界の中、いつもどおりの彼女を探すが見当たらない。どこに行ってしまったのだろうか。騒ぎに続々と群がる野次の中に彼女の姿を探す。その時、こちらを見つめる一人の女性と目があった。その女性は真っ赤なワンピースに身を包み、こちらを寂しげに見ているような気がした。大切な彼女の笑顔が呼び起こされる。俺の中の彼女が赤く染まる、もうあの白は見つからない。俺の知っている彼女はもういない。俺はそれを受け入れられるのか。嫌だ、嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
心が壊れる。もう栞はいない。そっと目を伏せ、本を閉じる。人生は一冊の本なのではないか。それが本当ならもう俺は目覚めることはないだろう。彼女という目印を失ったのだから。
本がゆっくりと開き、眩しい光が俺の視界を覆う。その光に慣れた頃、漸く自分の置かれた状況を理解することができた。見知らぬ天井に、窓の外に広がる見慣れない風景。ただ、自分が寝ている無機質なベッドやそれに取りつけられたナースコールのボタンから、なんとなくここが病院だということがわかった。きっと、あの後、気を失ってからここに運ばれてきたのだろう。ふと、気を失う前のことを思い出し、頭の中が真っ白になる。なぜ目を覚ましてしまったのだろう。いつまでも懲りずに、また目頭が熱くなり、涙で視界が歪む。気持ちの整理はつかないまま、ぎこちない動きで涙を拭うと、視界がクリアになる。その瞬間この病室を、始めて認識することができたように感じた。真っ白なシーツに真っ白なカーテン、ベッドの横には花瓶が置かれていた。周りに人はいない、ただ一人ベッドの上で眠っていたらしい。心を落ちつかせ、一息ついたその時、視界の端で何かが動く。その正体を確かめる為、無意識に目線で追いかけるとそこに彼女は居た。あの印象深い白いワンピースが目に留まる。いてはいけないはずの、遠く離れてしまったはずの彼女が確かにそこには存在した。彼女は俺をまっすぐに見据えると、やわらかくほほ笑みかけた。花瓶に挿された百合の花が黄色く染まり、こちらを悲しそうに見つめている。
「栞…?」
真っ白なワンピースに包まれた彼女は、軽やかな動きで傍の椅子に腰かける。静かに儚げな表情を浮かべる彼女はどこか遠い存在のようで、その存在を確かめようと必死に手を伸ばすも、その手は光を掴むことしか叶わなかった。静寂の中、時が流れる。彼女がどんな存在なのか、現在どんな状況なのか、それを理解するのに言葉は必要なかった。彼女の呼吸が沈黙を破り、そのままゆっくりと口を開く。
「ごめんね龍二。急にいなくなっちゃって。」彼女は苦しそうに笑いながら、その瞳を涙で濡らす。その声色には様々な感情が入り混じっており、彼女自身も事実を受け入れきれていないようだった。それでも彼女は、ゆっくり一言ずつ言葉を紡いでいく。
「私ね、最後に龍二に言っておきたいことがあるんだ。大事な大事な夢の話」その瞳を涙で輝かせ、まっすぐに俺を見つめる。表情は真剣だが、その振る舞いからは緊張が見て取れた。少し体を震わせ、彼女は続ける。
「さっきは伝えられなかったんだけどさ、龍二、夢ないって言ってたじゃん。でもさ、夢ってそんなに難しく考えなくていいと思うんだ。やっぱり好きなことを仕事にした方がいいんじゃないかな。龍二には趣味がいっぱいあるでしょ?」彼女の言葉が胸に刺さる。それでも俺にはその未来が想像できない。だからこそ彼女に言い放つ。
「それでも、俺には分かんないよ。今好きなことも、仕事にしてしまったら嫌いになるかもしれないだろ。それが嫌なんだよ。だから趣味のままで大切にしたいんだ」彼女の表情は変わらず、その瞳の輝きを俺に浴びせてくる。彼女の真剣さが身に沁みる。空気を切り裂くように、彼女は俺に語りかける。
「私、知ってるんだ。龍二が前まで小説を書いていたこと。いっつも色々なことを考えて、それを形にしていたこと。だから私が今ここにいるんだよ。」彼女が言ったことは紛れもない事実だった。普段から風景を文字に起こしてみたり、想像したことを物語に仕立ててみようと努力したこともある。しかし、いつも納得のいくものが書けずに諦めてしまっていた。あれから、もうしばらく書けていない。もう諦めた夢を、心の中の傷口を抉られたような気がした。その痛みに耐えきれず、彼女に感情をぶつける。
「それがなんだよ。俺には才能が無かった、面白いものも書けなかった。そんな夢とっくに諦めたんだよ。もう俺の傍にはいないのに、そんな分かったようなこと言うなよ」すっと心が冷えていくのを感じた。言葉を紡ぎ終えた後、ただ自分が間違えたということだけを肌で感じた。彼女の優しさを受け止めることができなかった。罪悪感が心を侵食していく。彼女の顔を見るのが怖い、そもそもまだ彼女はそこにいてくれているのだろうか。俯く俺に彼女は、さっきと変わらない優しい声色で語りかける。
「小説を書くのが難しいってことは私もわかるよ。面白いものってなるとなおさらね。でも、それが理由で諦めたんならもったいないよ。評価なんて気にしなくていい、龍二が好きなものを形にすれば絶対に良い物語ができるよ。」暖かい。彼女がくれた言葉が、夢を諦めて冷え切った心を溶かしてくれた。顔を上げると、満面の笑みを浮かべた彼女と視線が重なる。彼女の優しさに包まれ、涙が溢れる。
「ほんとうに、本当に俺に出来るかな」そんな俺の質問に、彼女は力強く頷く。
「当たり前じゃん。私は龍二の『好き』を信じてるよ」俺の背中を押してくれたような気がした。顔を上げ、何度流したかわからない涙を拭い、彼女の瞳を見つめて言う。
「俺さ、また書いてみるよ。つまらなくたっていい、俺が好きなものを最後まで形にしてみようと思う。だからその時は、最初に栞に見てほしい」俺の言葉を聞いた彼女は少し驚いた表情をするも、すぐに元の笑顔を浮かべた。
「もちろん。私に見せに来てよ、楽しみにしてるからさ」そう言うと、彼女はゆっくりと立ち上がり、花瓶の傍に寄ると黄色い百合に手を触れた。すると百合の花が白に染まっていく。
「それじゃあもうそろそろ行くね。私、龍二の夢が叶ったら向こうで自慢しちゃうから。『この本、幼馴染が書いたんだ!』って誇っちゃうからね!」そう言って今までで一番の笑顔を俺に向けた。もう泣く必要はない、彼女との別れには笑顔こそがぴったりだと、心の底からそう思った。
「ありがとな、栞。約束、絶対に守るよ」俺は笑顔でそう告げた。
「うん。待ってるからね。」百合の花が白に染まりきると、突然、病室が白に包まれた。もう白の判別はつかない、彼女の姿も白に飲み込まれてしまう。その瞬間、頭の中に声が響いた。
「龍二、私はずっとそばにいるよ!」声が遠のく。世界が白に染まりきったその瞬間、世界は色を取り戻し、病室の風景が広がる。まっすぐに、さっきまで彼女がいた場所を見つめる。澄んだ空気を吸い込み、深呼吸をひとつ。言葉の一つ一つを彼女に届けるように丁寧に紡ぐ。
「栞、今度はちゃんと俺の『好き』を形にしてみるよ。だから最初は、君のことを書く。
君が誇れるような物語を書くから、待っててくれよな」
人生は一冊の本なのではないか。それは正しかった。夢を認識したあの瞬間、確かに俺の物語の新たなページが開かれた。彼女はもういない。それでも栞が俺の中から消えることはない。いつだって俺を正しい場所に導く目印になってくれる。だから、俺の物語が終わるその時まで、俺は君とこの物語を書き続けよう。

平凡な毎日。代わり映えのない日々。そんな私の生活に色がついたのはいつからだっただろうか。
仕事帰りの渋谷の街中。檸檬堂を片手に横たわっている赤髪の男がいる。やばい人だ。そう思ってスルーしようとした。でも私の中の善意の心が引き止めた。
「すいませーん。大丈夫ですか? こんなところで寝てたら風邪引きますよ。」
肩を軽く叩きながらそう声をかける。
「俺は歌手だ!」
右手を夜空に掲げて急に立ち上がる。なにこの人。酔ってんのかな。
「早く帰ったほうがいいですよ。それでは。」そう言って立ち去ろうとする。
「なあなぁ俺のこと見たことないん?」
「ないです。失礼します。」
彼のことなんて見たことがなかった。冗談で歌手だなんて言っているのだろう。そう思って帰路についた。
ベッドに入って眠ろうとする。でもさっきの彼のことが頭にちらついて眠れない。あんまりはっきり顔は見えなかったけど、赤髪で関西弁だったからインパクトが強かった。
歌に自信があるのかな? それとも歌手を目指してるとか? そんなことを考えているうちにいつのまにか眠っていた。
いつも通り朝七時に起きて、八時に家を出る。働いて夜の九時に帰る。毎日毎日同じことの繰り返しだ。友達もあんまりいないし、これと言った趣味もないから日々淡々と過ごしている。特に大きな楽しみはないし、変わったこともないので、つまらないと言えばつまらない毎日だ。でもありがたいことに仕事はうまくいっているし充実している。
だから、仕事をしているうちに赤髪の彼のことなんて忘れていた。忘れていたはずだった。
「え。」思わず声が漏れてしまった。あの男が、檸檬堂を片手に道端に座っている。びっくりした。もう会うことなんてないと思っていたのに。
「お姉さんまた会ったね。こういうのって運命って言うんかなあ。」
「なに言ってるんですか。酔いすぎですよ。」
「あははははは!」
この人笑い上戸になるの? うるさいな。
「早く帰ってくださいね。」そう言ってその場を立ち去る。心臓がドキドキしていた。本当にびっくりした。まさかまた会うなんて。いつもあの辺で飲んでいるのだろうか。そういえば運命って言われたな。私はそんなもの信じないけど。信じたこともない。
学生のときからそうだ。運命とかそういう恋愛事にまるで興味がなかった。周りの子が色めき立っていても、それをぼんやり眺めていただけだし、特別仲のいい男友達もいなかった。そんなこんなであっというまに社会人になってしまった。
だから運命なんて言われたらびっくりしてしまう。信じているわけではないけど、また会えるのかなって心のどこかで思ってしまう。次会ったら名前を聞こうと決めた。
「あ。」今日もいた。まさか三日連続で会うなんて思わなかった。今日は道の端っこに座っている。変わらず右手には檸檬堂が握られているけど。
「お姉さーん。また会ったなぁ。」そう言いながらにこにこしている。
私は意を決して聞く。
「あなたのお名前はなんなんですか。」
急に真面目な顔つきになって
「お姉さんほんまに俺のこと知らないんやね? 俺もまだまだやなぁ。お姉さんが俺のことどこかで知ってくれるまでは内緒や。」と言ってきた。
「教えてくれないんですね。じゃあ帰ります。さようなら。」
名前くらい教えてくれたっていいのに。やっぱり歌手っていうのは冗談なのかな。
なんだかんだ言ってそれから毎日彼と顔を合わせるようになった。彼は名前以外のことはなんでも教えてくれた。中学を卒業してすぐに歌手になるために上京してきたこと。休みの日は家でゲームをしてること。年齢は秘密だけど誕生日は六月六日で血液型はA型。好きな食べ物は納豆とグミ。好きな動物はフラミンゴ。好きなアイスはいちご。あとは、なんだっけ。いつもすごい喋り倒してくるから正直ついていけないし、あんまり頭に入ってこないけど、それでも楽しいと感じるのは確かだった。私はそんなに喋り上手じゃないし、聞いている方が好きだから、いっしょにいて楽だった。
ふと気づいた。彼は自分の話はたくさんしてくるけど、私のことについては何も聞いてこない。ただの喋り相手なのかな。ちょっとくらい興味もってくれてもいいのに。まあべつにいいんだけど。仲良くなりたいなんて思ってないし。頭ではそう思ってるはずなのに、やっぱりどこかモヤモヤしている自分がいる。
今日も彼がいた。でもいつもとはなんか違う。右手にはいつも持っている檸檬堂がない。そして立っている。
「おねえさん今から飲みに行かん?」と言われ、戸惑いつつも
「いいですよ。」と言ってしまう。
今日もいつも変わりなくひたすら彼がしゃべり続けている。気になったことがあったので思い切って聞く。
「なんで私のことお姉さんって呼ぶんですか?同い年くらいに見えるし、なんなら私のほうが年下な気がするんですけど。」
「あははははは!」
「もう酔ってるんですか?」
「たしかにそうやなぁ。名前聞くの忘れとったわ。お姉さん名前なんて言うん?」
急に聞かれたのでドキッとする。
「…和田です。」
「で?」
「はい?」
「下の名前はなんて言うん?」
「葉月です。和田葉月。」
「葉月ちゃん! これからはーちゃんって呼ぶわな!」
「まあ、いいですけど。私はまだ教えてもらえないんですか?」
「もっともっと有名になってビッグになれたら教えたるわ。はーちゃんが俺のことどこかで知ってくれたらそれがいちばん嬉しい。」
「はぁ。」
なんて答えたらいいかわからなくて戸惑ってしまう。
「そういえばはーちゃんはいくつなん?」
「秘密です。」
「なんやそれ!」
「あなたが教えてくれたら教えてあげます。」
「それはずるいなぁ。」
「なんでですか。名前も年も教えてくれないのに、私だけ教えなきゃいけないほうがずるいです。」
会話を交わしていくうちに、彼のことをもっと知りたいと思った。
「それもそやな。じゃあいくつに見える?」
「二十八。」
「まじか。うれし。俺三十やで。それで、はーちゃんはいくつなん?」
「二十七です。やっぱり私のほうが年下じゃないですか。なんでお姉さんって呼んでたんですか? そんなに老けて見えます?」
「なんか大人っぽく見えたから。はーちゃんはクールな感じなんやね。」
あ、否定しないんだ。これがバカ正直ってやつなのか。
「ふふっ。」
つい笑ってしまった。
「なんか俺おもしろいこと言った? あ! はーちゃんの笑ってるとこ初めて見た。そっちのほうがええよ。笑ってるほうがかわいい。」
不覚にもドキッとしてしまった。
「私、あんまり感情が顔に出ないんです。だから、心では楽しいって感じてても顔に出ないので、つまらなそうに見えたりするみたいで友達があんまりいないんですよ。誤解を生みやすいタイプなんです。」
「そーなんや。俺も友達少ないで。俺めっちゃ気分屋で、人のことけっこう振り回しちゃう。治そうとは思うんだけど、今の俺を受け入れてくれる人たちだけいればいいかなって思ってる。」にこにこしながらそう言う。
「あ! あと関西人なのにおもんないってよく言われる。静かなときはすごい静かだからかな。関西人はみんなおもろいと思ったら大間違いや。」
「そうなんですね。すごく明るい方なのかと思ってました。」
「それがぜんぜんちゃうねん。実はめっちゃ根暗。」そう言っていつもみたいにうるさいくらい声をあげて笑ってる。つられて私も自然と笑顔になっていた。
あっという間に時間が過ぎた。久しぶりに笑って、久しぶりに楽しいと思ったかもしれない。
「俺いつもこの辺にいるから、また飲もうや。ばいばいはーちゃん。」
「はい。ありがとうございました。楽しかったです。」
ちゃんと本心だった。いつもは一人で飲みに行くか、家で飲むかだったから、人と飲むのがこんなに楽しいなんて思ってなかった。彼のこともだいぶ知れた気がする。白い月に照らされながら、まるで自分がいるところだけ世界が違うようだと思った。それは多分、さっきまで彼といたからなんだろうけど。
それからいつのまにか、毎日仕事終わりに彼と飲むのが日課になっていた。でもお店で飲んだのはこの前だけで、いつも檸檬堂を飲みながらふらふら歩いている。なんでいつも檸檬堂なんだろう。好きなのかな。私も好きだからいいんだけど。
「はーちゃんは普段何のお仕事してるん?」
彼のほうから何かを聞いてくるなんてめずらしいと思った。
「広告代理店で働いてます。」
「へぇー。かっこええなぁ。俺は歌の世界しか知らんから、そういうお仕事、すごくかっこいいと思う。」
「私からしたら歌の世界のほうが何倍もかっこいいと思いますよ。」
「そうかなぁ。」と言ってなにやらにやにやしている。
「なんでそんなにやにやしてるんですか。」
「はーちゃんにかっこいいって言われた!」
ん? そんなこと一言も言ってないぞ。会話が噛み合ってない気がする。
「私そんなこと言ってませんよ。あなたがかっこいいんじゃなくて、歌の世界がかっこいいって言ってるんです。」
「なんや! 勘違いしてもうたわ。」
やっぱりこの人おもしろいな。彼は盛大な欠伸をしながら、満足げににこにこしている。
「そろそろ帰りましょう。」そう言って別れる。
傍から見たら、すごく不思議な関係だろう。相手の名前も知らないなんて、普通だったらありえないことだ。でもそんなこと気にならないくらい、楽しかった。時間を忘れられた。
奇妙な関係が始まって三ヶ月がたとうとしていた。ちょうどその日、仕事でミスをしてしまってめずらしく落ち込んでいた。だから彼がいつものところにいるのはわかっていたけど、今日は話す気分になれなかったから何も言わずにスルーしようとした。
「はーちゃーん。」
背後から声が聞こえる。申し訳ないけど聞こえないふりをした。早く帰って早く寝たかった。
「はーちゃん?」
気づいたら彼は私の前に立っていて、下から覗き込むように声をかけてきた。
「ごめんなさい。今日はちょっと早く帰りたいんで。」そう言って彼を避けようとする。
「はーちゃんお疲れさんやね。ごめんやけど話したいことがあるからちょっとだけ話、聞いてくれん?」
「…いいですよ。」つい了承してしまった。
「実は俺、ただ歌ってるだけじゃなくて、歌詞も書いてて。今日は新しく書いた曲をはーちゃんに見てもらいたくて。これ、家ついたらでいいから見てみてくれん?」
「わかりました。」
渡された紙を握りしめて家に帰った。
正直その歌詞はすごかった。あんなにいつもへらへらしているのに、こんなすごい歌詞が書けるなんてびっくりした。
「we can trust me everyday we can feel me everywhere 誰にも真似できない 世界は君を中心に回ってるんだ だから今を生きろ 逃げてもいい たった今だけ生きろ」
これが作曲されたらどれだけすごい曲になるんだろう。歌詞を見ただけでもなんだか救われた気がする。自然と彼が歌手だってことを受け入れ始めていた。
「これ、見ました。すごいよかったです。なんだか、救われた気がします。私の悩みなんてちっぽけなものなんだなって思いました。」後日、そう言って彼に紙を返した。
「よかった。これを聴いた人が元気になってくれたら嬉しいと思って書いたんや。俺は生きることが一番大切だと思ってる。だから、逃げてもいいと思うし、逃げたら負けだとかよく言うけど、俺はぜんぜんそんなことないって思ってる。」
いつもとは違った真面目な顔つきで話している。
「素敵ですね。私もそう思います。」
「はーちゃんはよく笑うようになったなぁ。」
笑っているつもりはなかったのに。
「私、笑ってますか?」
「うん。前はもっときつい顔してた。」
この人は…やっぱりバカ正直だ。
「たぶん、あなたのおかげです。あなたと出会って、この歌詞を見て、少し変われた気がします。」
「うれしいなぁ。そうやって俺のおかげで元気になってくれたりとか、頑張ってくれる人がいてくれるから俺も頑張ろうって思えるねん。こちらこそありがとうね。」
だんだん距離が縮まった気がしていた。曲ができたら聞かせてもらおうと思っていた。
当たり前のように、今日もあの場所に彼がいると思っていた。
なのに、なんで。なんで、いないの。毎日、今までと同じ時間に同じ場所を通っているのに、彼がいない。いなくなってしまった。まるであの頃が夢だったかのようだ。最初は、お仕事が忙しくて会えなくなっただけかと思っていた。でも、会えなくなってからもう一ヶ月もたった。会えなくなるなら言ってくれればよかったのに。いつものように別れて、それっきりになってしまった。
彼がいない。心に穴が開いたみたいだった。会えなくなっても毎日同じ時間に起きて、会社に行く。彼がいなくても生活に変化はない。意外と大丈夫なのかも。でも、やっぱりつまらない。彼がいないと楽しいと思えることがない。
下を向いて歩いていた。すると、聞き覚えのある声が聞こえた気がして、顔を上げる。そこには、彼がいた。ビルの大型ビジョンの中で彼が歌っていた。間違いなく、赤髪の、あの彼だった。あのとき見せてもらった、あの歌詞が耳に入ってくる。素敵な曲だった。聞いた瞬間、すぐに彼の歌声を好きになった。いつも話していた様子からはまったくわからなかったけど、画面越しからでもすごいオーラが伝わってくる。この人は、すごい人だったんだ。
「私、あなたが誰かわかりましたよ。」
誰にも聞こえないくらい小さな声でそうつぶやく。
それからというもの、私の生活には必ず彼の歌声があった。仕事に行くときも、帰るときも、必ず彼の歌を聞いていた。会えなくなっても、彼の歌を聞いていれば、すぐそばに彼がいるようだった。
彼のことを調べていくうちに、いろいろなことがわかった。もちろん名前もわかったけど、それ以外のことについても知ることができた。たくさんのファンがいること。彼の歌声に救われている人がたくさんいること。作詞だけじゃなくて、歌いながらダンスもしていること。
出身や、好きな食べ物についても書いてあった。でも、檸檬堂が好きなことだけは調べてもどこにも書いていなかった。もしかしたら、これは私だけが知っていることなのかもしれない。少しだけ、嬉しかった。誰も知らない彼を私だけが知っている。彼と出会ったのはちゃんと現実だったことを実感できた。
そう思いながらいつもの変わらない帰り道の途中で、見覚えのある人が立っていた。赤い髪の男で、右手には檸檬堂を持っている。彼だった。
「はーちゃん久しぶりやなぁ。急に忙しくなってしまってごめんなぁ。」
「いえ。謝る必要なんてないです。私、あなたが誰かわかりました。」
「そっか。俺のこと知ってくれたんやね。嬉しいなぁ。これからもっと有名になれるよう頑張るつもりや!」
いつもの笑顔をこちらに向けてくる。
「私、あなたのこと、想太くんのこと、好きになりました。想太くんのこと大好きな人はたくさんいます。私もその中の一人になりました。」笑顔でこう言う。
「はーちゃんにそんなこと言ってもらえる日が来るなんて思ってなかったから嬉しい。ありがとう。」
「好きになっちゃったんです。だから、もう会えません。こうやって会うの、やめます。想太くんが、どれだけすごい人なのかわかっちゃったから。」
不思議と笑みがこぼれる。最後に言うことは決まってるから。
「俺は大丈夫やで? これからどんどん忙しくなるかもしれんけど、こうやって会えるときは会いたい。」
「安心してください。これからは、私が想太くんに会いに行きます。どこへでも飛んでいきます。そのために頑張ります。だからここではもう会わないけど、また会えます。必ず。」よし、言ってやったぞ。
「そうなん? いまいちようわからんけど、また会えるならそれでええよ!」
あれ、伝わらなかったかな。でもいいや。
「はい。では、また。」そう言って笑顔のまま彼のもとを去る。
彼は見えなくなるまでばかみたいに手を大きくぶんぶん振っていた。
寂しい気持ちは全くなかった。目標ができたから。今まではなんとなく働いて、なんとなく生きているだけだった。そんな生活を変えられそうだった。想太くんのために仕事を頑張ろうと思えた。頑張って、想太くんに会いに行く。そう思っただけで一気に充実した生活が送れそうだった。
それからというもの、私が私じゃないみたいになった。毎日が楽しかった。想太くんの歌声を聞いていれば、仕事に行くのも楽しかった。前よりも社交的になったし、想太くんファンの子と仲良くなった。その子とは最近よく会うし、よく飲みに行く。だいたい想太くんの話しかしないんだけど。自分で言うのもなんだけど、人間味が出てきたような気がする。もちろん、想太くんと、あそこで出会って毎日のように飲んでいたことは誰にも言っていない。その友達にも言っていない。私だけの、大切で一生忘れられない、忘れてはいけない思い出だと思っている。
毎日があっという間に過ぎていき、想太くんと最後に会ったときから一年がたっていた。よく考えたら、最初名前も知らなかった人を好きになるなんておかしな話だ。想太くんに会いたいと思っている人は数えられないくらいいるだろう。だから少し申し訳ない気持ちにもなる。でもあそこで出会ってなかったら、想太くんの存在を知ることはきっとなかったし、こうやって誰かを追いかける楽しさを知ることもなかった。
今、彼は私の目の前に立っている。
右手には檸檬堂ではなく、マイクを持って。あの時私だけに向けられていたあの笑顔を、会場にいる全員にふりまいている。あ、今目があった。私に笑いかけてくれた気がする。こんなにもたくさんの人がいる中で、私を見つけ出してくれたのかもしれない。
「想太くん、私を変えてくれてありがとう。」とつぶやいた声は、大歓声の中に吸い込まれていった。
「清野晴己様の今後の活躍を心よりお祈り申し上げます。」
よれよれのシャツが乾きにくい時期、じめじめとした電車。いつも届くメールの最後にはこう書いてある。僕は体育会やサークルを引っ張ってきたみたいなリーダーシップは持ち合わせていないし、一年間インターンをするために大学休学しますみたいな積極性と度胸を持てなかった。少しだけ海外に留学したけど、大学のプログラムだったから…。だから、自己分析するのが本当に難しい。未だに長所の欄には僕の納得のいくものが書けてない。自分が長所だ!と思っていても周囲の人が絶対に違うっていうだろうし。今日のチームは4人、トップバッターは日本語、中国語、英語が話せるトリリンガルで、あの熱海での地域活性化の活動をしていたらしい。ハイスペック! 質疑応答にもあんな風に自分の思っていることをすらすら言えるなんていいなぁ。はぁ、僕は…。ん、この感覚。どこかで感じたことある。確か、中学…いや、小学生の時だったっけ。
「前田くん、黄色バッチわすれてるよ!?」
ぼくのこの合図がかかると、ぼく達は集団登校の列からぬけ出して、バッチを取りに帰る。いつも、前田くんが「明日はきっとわすれへんから!やればできる!」って自分自身をはげまして、学校に続く秋桜が咲き溢れる道を猛ダッシュするんだ。クラスにかけこむとなんだかザワザワしてた。今日、転入生が来るらしいってうわさがあるらしい。チャイムと同時に入ってきた先生の後ろには…男の子! わお、全身服が緑、緑色のランドセル、黒色の…バッチ?。かなりのインパクト…。ぼくの学校には転入生が来るたびに学年中がその子をクラスまで見に行くっていう慣習があるから、すぐに学年、いや学校中に知れわたって、次の日には、いつもならギリギリ間に合うぼくたちが、クラスに入れないくらい、ろう下に人だかりができていた。男の子は自己しょう介の後、一言もしゃべらなかった。だから、みんな「うちゅう人の子どもなんやよ、きっと」とか、「まほうにかけられたんとちゃうん」とか好き勝手言ってて、とにかく一週間くらいはその男の子の話題で持ちきりだった。
だいぶ時間が経って、みんなの話題が違うことに移っても、男の子は一言もしゃべらずに一人でいた。話しかけてみたいけど怖いし、周りの人たちどんな目でみてくるか怖いからぼくもみんなと同じように近づかなかった。ある日、急に前田くんがその男の子と話す、少しでもいいから絶対に声を聞くって言いだした。すごい勇気だなぁ…。ぼくも前田君と一緒なら話したいと思って、後ろについていった。最初は3人で話してる感じになっていたけど、男の子はただうなずいてただけだった。けど、どんどん寒くなるにつれて、リクはゆっくり考えて自分から話すようになっていったんだ! 冬休みに物語をかこうっていう宿題があって、リクの物語を読んだ前田くんが、リクの物語を勝手にコンクールに出しちゃったんだよね。で、次の日から、前田くんは全身オレンジ色の服を着て登校し始めたんだ! 前田君って本当にすごいやつだよね…。ぼくはさすがにそこまでの勇気はなくて、普通の服を着た。
新しいクラス、二人と同じだった!! 新しい担任の先生は、30才後半くらいの目がきりっとてて、すごくきびしい女の先生。新しい先生は特に前田くんとリクに対してすごくきびしい。「みんなと同じ服装にしなさい」から始まって、みんながうるさくても二人にしか注意をしないんだ。
夏至?の今日、一年ぶりにぼくたちのクラスに転校生がきた。その転入生は普通の女の子で、リクほどのインパクトはなかったから、次の日にはあの慣習は終わってて、猛ダッシュしたあとのぼくたちも遅刻しなかった。前田くんとリクと過ごす時間はぼくが知らなかった新しいことの連続で、すごく楽しかった。昨日二人に折りたたみがさのきれいなたたみ方を教えてもらったんだ。朝起きたらどしゃ降りで、お母さんに普通の青いかさにしなさいって言われたけど、せっかくだし、折りたたみがさで学校へ行った。チャイムぎりぎりでクラスに入ると、少しザワザワしていた。きいたら、レインボーのかさを差して学校に来た転入生のことを誰かが騒ぎ立てて泣かせてしまったらしい。呼ばれて飛んできた先生も「次からは普通の桃色の傘で来なさい。」って転入生に言ってた。なんで普通のかさじゃないといけないんだろう。そう思った時にはもう声に出てた。頭真っ白になっちゃったけど、なんとか、ぼくも今日は折りたたみがさで来ているけど、どうして普通のかさじゃないといけないのかっていう理由を先生にきいた。そしたら、前田くんもリクも続けて言ってくれて、気づいたら、クラスのほとんどが先生を問いつめていた。転入生はかんげきしてて、ぼくは間違っていないんだとみんなが言ってくれているようでうれしかった。
質疑応答の時間。さっきから、出身地とか宗教とかまったく関係ないことを質問されて少し困り気味なトップバッター。今度は何歳まで働けるかという質問。これはまだわかるかもしれない。今は転職の時代だから、働ける期間を訊いて判断したいんだろう。こういう場合ってどう答えるのが正解なのだろう。お。35歳以内か…。向上心の塊だ…
「そうですよね。女だから結婚したら仕事続けなくていいですからね。」
「ちょっと待ってください」僕は咄嗟に声を出した。それから何かたくさん喋った気がしたけど、まったく覚えてない。緊張していたのだろう。あの感覚が懐かしかった。
帰る道の風は心地が良かった。あの時、その場にいたチーム全員が揃って断ったらしい。僕の考えは間違ってない。実家に帰り、探し出したリクの入賞祝いに撮った集合写真はみんなとってもカラフルだった。
東京
ダイヤモンドになりたい
青い珊瑚が集まる
それを迎え入れる
東京
ダイヤモンドになれたら
メダル持って帰るから
それを送り出す
お帰りと言いたくて
ただいまと言って欲しくて
どこからでもわかるように
ネオンサイン光らせてる
プレイリストの一番目。耳馴染みのいいキャッチーなメロディーが好みだった。
昨日、この曲を歌っているバンドのメンバーが死んだ。自殺だった。才能に溢れていると評されていたのに、彼女は自殺した。美しい容姿を持っていても、どれほど有名であったとしても、人は自ら死を選ぶことがある。どうして彼女は自殺を選んだのか。誹謗中傷? うつ病? 思考の行き詰まり? 否、その質問自体が愚問である。そんなことは当人にしか分からないことで、いくらわたしたちが考えたって答えに辿り着くことはできないのだろう。けれど、わたしは彼女の気持ちがなんとなくわかるような気がした。それは具体的な理由がある訳ではなく、ただなんとなく。わたしの“なんとなく”なんて、彼女が思い悩んでいたことに比べたら、ちっぽけなものなのかもしれない。それでも、ただなんとなく、毎日飲んだくれている父親に嫌気がさして、ただなんとなく、家でも学校でも自分の居場所を見つけられなくて、ただなんとなく、生きづらくて、ただなんとなく、死にたいと思ってしまう。学校が再開してからも永遠に続くオンラインの授業にも、山積みになっていく課題にも、もう、疲れてしまった。世間は普段通りの生活に戻り始めているのに、わたしだけ時間が止まっているみたいで、わたしだけが置いて行かれているみたいだった。こんなご時世、わたしのような学生だって大勢いるのだから、思い込みだと分かってはいるのだけれど、週1で大学に通って、週4でバイトに行って、溜まった授業を受けて、休日は増え続ける課題をこなして…。そうして機械みたいな生活を送っていくうちに、いつの間にか心まで機械みたいになってしまったのだろうか。
タイムカードを押し、覇気のないお疲れ様でしたの声を背中に感じながら、暖簾をくぐる。プレイリストの一番目。イヤホンを耳に突っ込んで、ただぼんやりと、遠くの方から聴こえるギターの音に耳を傾けた。東京は今日も鮮やかなネオンが街を彩っている。
講義の日に限っていつも雨だ。今日もまた雨。自分の機嫌は自分で取る。気づけばそれができなくなって、負の連鎖が続く日々だった。そんなわたしにとって、雨は気を重たくするのには十分すぎる要因だった。足元にはいくつもの水溜まりができていて、そこに写ったわたしの顔は、この世の不幸を一身に背負ってます、みたいな顔をしていて、思わず苦笑いした。最寄り駅に向かう途中、信号待ちで顔を上げた。すると、信号を渡った先に見覚えのない看板を見つけた。遠くてよく見えないけれど、変わり映えしない景色の中に突然現れた看板に、何故だか惹き付けられた。いつからあったのだろう。新しくできたお店に気づかないほど、わたしは下を向いて歩いていたのだろうか。なんだかその看板のお店が気になって、信号が青に変わるまでの数秒間、少しだけ足踏みしてしまった。そして、信号が青に変わった瞬間、早歩きで看板の元に向かった。横断歩道を渡ってその看板に辿り着くまで、なんだかわくわくした。心が躍るような、そんな感覚になった。どこか浮ついた心で看板を見上げると、“lumière”と筆記体で記されていた。ルミエル…、気づけば、ぽつり、と口に出していた。何語なのだろう。当然、朝9時にオープンしている筈もなく、“CLOSE”の文字が扉にぶらさがっていた。洋風な外装と、少し見える店内の様子からすれば、そこはどうやらスイーツ専門店のようだった。どんな人が働いているのだろう。どんなスイーツが置いてあるのか、よりも先に思い浮かんだのは、そんなことだった。店内の時計がちらりと見えて、電車の時間が迫っていることに気がついた。慌てて駅の方へと足を踏み出せば、その拍子に水溜まりの水がパシャリと跳ねて、足にかかったけれど、あまり気にならなかった。
たった100分の授業の為だけに100分以上かけて大学に通うことにもそろそろ慣れそうだ。100分の対面授業が終わった後すぐにオンラインの授業があり、対面授業が終わってからも、空き教室で授業を受ける。勿論、非効率だとは思うけれど、嘆いたって仕方ない。払っている学費との等価交換ができているかどうか、なんて考えたって埒が明かない。
講義終了のチャイムが鳴った。今日は驚くくらいにあっという間だった、ような気がする。開いていたMacBookを閉じ、机の上に散らばった文房具たちをリュックに詰め込んで、急いで教室を出た。相変わらずの雨も不思議と朝よりは嫌じゃなかった。
駅の雑踏をくぐり抜ければ、すぐ近くにあのスイーツ専門店がある。逸る気持ちを抑えつつ、足早に人混みをかき分けて行く。そして、今朝ぶりの“lumière”にわたしはまた心を躍らせた。“OPEN”の文字がぶらさがった洋風な扉。その扉を押し開けると、カランカランと可愛らしい音が鳴った。
「いらっしゃいませ」
鈴の可愛らしい音と同時に聞こえてきた声は耳馴染みのいいテノール。…テノール?
わたしを迎えたのは小柄な女性…ではなく、180センチは優に超えているだろうと見える男性だった。グレーのキャスケットにグレーのコックシャツ、ネイビーのパンツにネイビーの腰がけエプロン。シックなモノトーンで統一された制服は彼のスタイルを際立たせているように見えた。きゅっとアイラインを引いたような目尻が特徴的な奥二重の目元と、綺麗に整えられた眉、少し尖った耳に空いたピアスホール。別にスイーツ専門店の店員が男性であることは珍しくはないだろう。けれど、目の前の彼はスイーツを販売するには少々…いや、かなり厳つい気がする。勝手に小柄な女性をイメージしていたために、わたしは鳩が豆鉄砲を食らったみたいな顔をしていたのだろう。目の前の彼は不思議そうにわたしを見つめる。
「…お客様?」
「…え、あ、すみません、あの…」
「はい?」
言葉が出てこなくて、思わず吃ってしまうわたしに、目の前の彼は目を丸くして首を傾げた。
「ルミエル…」
「え?」
「ルミエルって、そこに書いてあって…」
そこまで言ってはっとした。わたしは何を言っているのだろう。動揺するあまり脈略のないことを口走ってしまっていた。やってしまった…とひとり反省していると、彼はああ! と合点がいったような声を上げた。
「リュミエール。リュミエールって読むんです、あれ」
「リュミエール…?」
「そう、フランス語。光って意味で、なんかいいなって」
そう言って彼は目を細めて笑った。その表情は第一印象とは打って変わって、なんだか柔らかな印象だった。目元からしか表情は読み取れないけれど、なんとなく、見た目とは違った性格なのかもしれないと思った。
「へえ…なんか、素敵ですね」
「そうですか?妹には反対されたけど、」
「え、なんでですか?」
「フランス語とかお兄ちゃんらしくない! 形から入ってる感じがなんかダサい! ってね」
妹の真似をしているのか、声を高くして、手振りまでつけて彼は言う。それがなんだかお茶目で笑ってしまった。
「でも形から入ることも時には大事ですよね、きっと」
「俺もそう思う。今妹いないからいいけど、聞いてたら絶対怒られるんだろうなあ?」
「妹さんとお店やられてるんですか?」
「そうそう、だから外装と内装は全部妹の趣味。俺はやだって言ったんだけど」
「お互い譲歩し合ってるんですね」
まあね~なんて、目の前の彼は得意げに言う。会話の中で敬語が自然に外れていったのは、彼の懐っこい人柄のせいなのだろうか。
「…あ、それおりお客様、ご注文は何になさいますか?」
彼はわざとらしく改まって、声をワントーン上げてわたしに言った。
「や、それがまだ決めてなくて…」
わたしがそう言うと、またわざとらしく彼は言った。
「ではごゆっくりご覧になってください。お決まりになりましたらまたお声かけください」
「はい…」
わたしの返事を聞いて満足げに微笑むと、彼はしゃがみ込んで、スイーツの品出しを始めた。大きな身体でちまちまと丁寧にスイーツを並べている姿はなんだか可愛らしかった。改めて店内を見渡すと、水色ベースの壁紙がいかにもスイーツ専門店、といった雰囲気で、決して広いわけではないけれど、イートインスペースが店内の隅に4席ほどあり、ショーケースにはわたしが知っている名前のスイーツから、知らない名前のスイーツまで、様々な種類のスイーツが並んでいて、その中にあるスイーツはどれもきらきらして見えて魅力的だった。
「あの、これにします」
数あるスイーツの中からわたしが選んだのはシンプルなチョコケーキだった。わたしがチョコケーキを指さすと彼は少し嬉しそうに目元を緩ませた。
「お、決まった? それ俺のおすすめ」
「そうなんですか? チョコ好きなんですよね、わたし」
「え! 俺も!」
どうやら彼はテンションが上がったりすると声が高くなるタイプらしい。いらっしゃいませ、の声よりもワントーン以上高い声で彼は嬉しそうに続けた。
「俺チョコ好きすぎて毎日食べてるもん。俺の身体は半分以上チョコでできてるって言っても過言じゃない」
そう言った彼は何故だか自慢げだった。それがなんだか可愛らしく思えてくすりと笑えば、ねえ馬鹿にしてるでしょ、と不満そうに彼は言う。ちまちまとスイーツを並べている姿や、チョコが大好きだと嬉しそうに話す姿は、少々厳つめの見た目からは想像もつかない。見た目と行動がちぐはぐで、第一印象は怖かったものの、纏っている雰囲気は柔らかい。数分前に出会ったとは思えないほどリラックスして会話のキャッチボールができているように思える。こんなことは初めてで、とても不思議な感覚だった。そのとき、カランカラン、と可愛らしい鈴の音が再び鳴った。
「いらっしゃいませ」
さっきと同じテノールがわたしの鼓膜を震わせる。彼は入店して来たお客に声を掛けると、またわたしに視線を戻した。
「持ち運び時間はどれくらいですか?」
「あ、30分くらいです」
「かしこまりました」
鈴の音を皮切りに他人行儀に戻ってしまった。他人行儀、と言ってもわたしと彼が他人であることには変わりはないのだけれど、なんだか寂しいと思ってしまった。彼は手際よく箱にケーキと保冷剤を入れるとわたしに向き直った。
「ありがとうございます。またのご来店お待ちしております」
カウンター越しに商品を渡され、それを受け取れば、一礼した彼に見送られる。背を向けて扉を開けるとき、なんとなく、彼を振り返ってみた。すると、彼は目を細めて笑い、わたしに向かって小さく手を振った。じんわりと心が温かくなるような感覚がした。わたしも小さく彼に手を振り返すと、今度こそ店を出た。
リュミエール。光。たしかに、そこはわたしにとって光が当たる温かい場所に思えた。
電気もついていない家に帰ると、ほっとするのと同時に虚無感に襲われる。父が家にいなくてよかった、と思ってしまう自分に嫌悪感を抱くからだ。最近は父も仕事が再開したらしく、家にいることが少なくなった。そのことに酷く安堵している自分がいる。父が家にいると、リビングのソファーを占領して自分が観たい映画をテレビに映しながら、顔が真っ赤になるまでお酒を飲んで、ろくに後片付けもせず、眠くなったら寝る、といった具合でやりたい放題なのだ。母は自粛後すぐに仕事が再開し、毎日忙しなく働いている。そんな母からしたら、家でのんびりお酒ばかり飲んでいる父は相当鼻についたのだろう。何度も何度も言い合いをしているのを見た。元々良好とは言えなかった家族の関係が、この期間でまた悪化した。酔っ払って暴力を振るったりすることはないけれど、酔っ払って欲のままに行動する姿は、決して父親が見せるべき背中ではないと思った。なんだかそんな父が情けなくて仕方なかった。
キッチンの電気も付けずに、リュミエールで買ったチョコケーキを冷蔵庫にしまう。ドリンクホルダーに隙間なく入れられた缶ビールは見ないふりをした。なんだか電気をつけることすら億劫で、家に帰った途端に重くなる身体を引きずって脱衣所に向かった。
ベッドに倒れ込むように横になり、今日一日の出来事を思い返していた。いつもは憂鬱な講義も今日は大して憂鬱じゃなかった。そういえば、朝はあんなに降っていた雨もリュミエールから出たときはもう止んでいた。そんなことを思い返していると、玄関の鍵がガチャと開く音がした。母はさっき帰ってきて明日の夕食の支度をキッチンでしているはず。ということは、この足音の正体は父である。ドン!とか、バン!とか、壁にぶつかる激しい音を立てながら足音が近付いてくる。ああ、今日も飲んで来たのか、なんてぼんやりと頭の片隅で考えながらイヤホンを耳にはめた。プレイリストの一番目。あの曲が流れ出す。
“ダイヤモンドになりたい”
そう歌った彼女はどんな気持ちだったのだろう。微睡みの中思い浮かんだのは、柔らかく微笑む彼の顔だった。
けたたましく鳴る目覚ましの音で目が覚めた。夢のようだったあの日から、もう5日が経ち、気づけば土曜日。夢のような日でも地獄のような日でも、平等に太陽は登るんだなあ、なんて他人事のように考えていた。もうあの日の出来事は、夢を見ていたのだと考えようか。そうしたら上手くいかない現実とのギャップに苦しまなくても済むのではないか。そんなことを思うまでに、わたしはあの日の出来事を美化したいらしかった。と、同時にもう一度彼に会いたいと思う自分がいた。チョコケーキはちょうどいい甘さで、口に入れた瞬間にとろけて、すごく美味しかった。わたしの好みの味だったということ彼に伝えたい。けれど、何故だかわたしは、もう一度足を運ぶことを躊躇していた。身支度を終え、溜まった課題をこなしながら、どこか浮ついたままの心でぼんやりあの店のことを考えていた。
ある程度課題が終わったのは夕方頃だった。18時からバイトのため、それまで少し猶予がある。時間を持て余しているのも勿体ないしいいよね、と何故か心の中で言い訳をしながら、わたしはもう一度、リュミエールに足を運ぼうと決めた。
洋風の扉を押し開ければ、カランカラン、と可愛らしい鈴の音が鳴る。そしてそれに続くのは「いらっしゃいませ」という心地よいテノール。声の持ち主はわたしを見るなり、あ! と声を上げた。
「ようやく来てくれた」
彼が言い放った言葉は予想外ではたまた面食らってしまう。
「ようやく?」
「そう、ようやく! チョコケーキどうだったかな~って気になってさ。俺いつ来てくれるんだろうって超ソワソワしちゃった」
そう言って彼は柔らかく微笑んだ。その笑顔はわたしの心をじんわりと温かくする。チョコケーキの感想を聞きたかっただけなのかもしれない。それでも、彼がわたしを待っていてくれた。それだけでわたしはなんだか報われたような気がした。
「チョコケーキ、めちゃめちゃ美味しかったです」
「でしょ! 俺の自信作だから!」
どこがどう美味しかっただとか、わたしはこういうところが好きだとか、色々考えてきたのにも関わらず、口をついて出た言葉は至ってシンプルだった。それでも彼はとても嬉しそうに目を細めて笑った。それがわたしには嬉しくてまたチョコケーキ買いに来ますね、と言って踵を返そうとすれば、彼は目を丸くした。
「え、もう帰る?」
「え、いや、まだちょっと時間はありますけど…」
「じゃあもうちょっといいじゃん」
「はい…」
ひとつ、気づいたことがある。彼は自分のペースに人を巻き込むことが得意みたいだ。本当はすぐに帰ろうと思っていたけれど、気づけばわたしも彼のペースに呑まれていた。
「何してたの?」
「へ?」
「ここ来るまでの間さ、何してたの?」
「何してたって、大したことはしてないですけど……」
月曜日。いつも通り憂鬱な心持ちで100分間の授業のためだけに学校に行った帰り道、リュミエールに寄った。その時間はわたしにとって宝物のようなかけがえのない時間になった。
火曜日。夕方からバイトでそれまでの時間で、オンライン授業を受けて、その後バイトに行って帰ってきてから、また授業のアーカイブを見て、倒れ込むようにベッドに横になった。そのすぐ後に父が帰ってきた音がして、それからは耳にイヤホンをはめて音を遮断して眠った。
水曜日から金曜日もほぼ同じように過ごした。
土曜日。こうしてまたリュミエールに来た。
そんなわたしの平凡な1週間を掻い摘んで話すと、うんうんと相槌を打ちながら聞いてくれていた。わたしの心にしこりのように残っている父のこと、なんだか生きづらいと感じてしまうこと。そんな個人的な悩みまで、出会ったばかりのわたしの話を彼は真剣に聞いてくれた。
「俺が大学生の頃なんてそんなに深く考えてなかったもんなあ。遊んでなんぼって感じで。だから沢山考えられてて純粋にすごいなって俺は思うよ。そうやってさ、誰かに話してみなよ。ちょっとは楽になんじゃない? もちろん俺に言ってくれてもいいけどさ。自分の中だけで考えてるとわーってなっちゃうじゃん?」
彼のその言葉でなんだか少し心が軽くなったような気がした。もちろん、問題の根本は解決していない。それでも、誰かに話を聞いてもらうというのはこんなにも心を軽くしてくれるものなのだと初めて知った。
「すみません、こんな話して…」
「全然いいよ。俺で良かったらいつでも話してくれていいから。てか、引き止めといてなんなんだけど、用事あるんだよね? 時間、平気?」
壁掛け時計を指さして彼は言った。時計を見れば、短針が5と6の間を指していた。
「あ、そろそろバイトの時間なのでもう帰ります。なんかすいません…何も買わずに冷やかしみたいになっちゃって…」
「全然いいって。また冷やかしに来てよ」
そう言って彼は目を細めて笑った。わたしは彼のその表情を見ると何故だか心が温かくなるようだった。
わたしはじゃあまた、と会釈をして扉を開けた。すると、待って、と引き留められて、振り返ると彼が言った。
「バイト頑張って! 行ってらっしゃい!」
“行ってらっしゃい”その言葉を心の中で何度も反芻した。母も父も仕事で忙しく、しばらく言われていなかった。“行ってらっしゃい”その言葉だけでこんなにも温かな気持ちになるのだと知った。そのとき、ふとあの曲を思い出した。自殺を選んでしまった彼女にも話を聞いてくれる相手がいたのなら。“おかえり”や“行ってらっしゃい”を言ってくれる相手がいたのなら。もし、そうだったとしたら彼女は自殺を選ばずに済んだのではないか。なんて、たらればを並べたって仕方ないのだけれど、そんなことを考えてしまった。
イヤホンを耳にはめて、足を踏み出した。プレイリストの一番目。あの曲が流れ出す。ダイヤモンドにはなれなくても、誰かが照らしてくれる。なんとなくわたしの中にあった希死念慮はいつの間にか消えていた。振り返れば、リュミエールの看板に巻き付けられたネオンライトが煌々と光っていた。2020年の東京は色々なことがあって、憂鬱で。それでもその光は、いつでもわたしを照らしてくれているような気がした。
僕は推理小説が嫌いだ。
正確に言えば僕のような推理小説家が嫌いだ。四六時中いかなる時でも人を殺す方法を考えてるような人間の書いた小説がなぜ持て囃されているのか僕には理解できない。
そもそも推理小説家というのは殺人犯側の人間なのだ。物語の主人公のような正義感の強い崇高な名探偵側の人間ではなく、復讐心に満ち溢れた利己主義的な殺人犯の思考を文に綴っているのが推理小説家なのだ。全ての推理小説家がこんな人間ばかり、とまでは言わないが少なくとも僕はそんな人間だ。合法的に殺人を犯し、人殺しの快楽に浸りながら金を貰う。やってることは殺し屋となんの遜色も無い、にも関わらず人は「天才推理作家」だの「秀逸なトリック」だのと持て囃し、賞賛する。トリックなんて言い換えれば「バレない殺人の仕方」であって決して神聖視されていいようなものでは無い筈なのだ。
僕は推理作家を名乗り、そこそこのお金を貰っている身だが、やはりこの殺人指南書が売れるような世界はおかしいと思っている。同時にそんな作品を生み出せてしまう僕自身もおかしいと自覚している。
こんな推理小説に嫌悪感を抱いてる僕だが小説は好きだ、色んな世界を生み出し、複雑な感情を描き、多くの人を導く。そんな小説というものが好きで僕は小説家を目指した。理想を描きたくて、綺麗な世界を作りたくて、誰かの憧れになりたくて、それでも僕には才能が無かった。誰かの未来や世界を作り出せるような小説や、僕の好きな恋愛小説は書けなかった。恋情や駆け引きだったり、とにかく人の感情を想像し書き出すなんてことが僕には出来なかった。それでも小説を書きたかった、小説の世界に入ってみたかった。足掻いて足掻いて才能に抗った結果、僕は血にまみれた小説を生み出した。あの推理作家としての僕の処女作を書いた時、自分が何を考えていたか覚えてない。きっと色んな考えや感情が錯綜していたのだろう、あの時から僕の中の小説家を目指す好青年だった僕は死に、ペンと紙で人を殺す連続殺人犯の僕が生まれた。
小説家としての才能が無かったことへの憂さ晴らしとして人を殺し始めた自分のことは今でも嫌いだ。さらに言えば金のために今でも惰性で嫌いな推理小説を書いている自分はもっと嫌いだ。だから僕は誰からも好かれる事はないと思っていた。しかしそんな僕の考えを彼女は覆した。僕の脳みそに染み付いた思想を洗い流すかのように彼女の言葉は僕の心臓を揺れ動かした。
作品に対してでは無く、僕自身に向けられた好意。その言葉が純粋な気持ちなのかそれともそれ以外の何かなのか分からずに今でも頭の中で反芻している。その言葉に対する最適解を見つけ出すためなのか、僕は未だに答えが出せていない。
それに僕は彼女を憎んでいる、彼女から過去に嫌がらせを受けたからとか鬱陶しいからとか、そんな理由ではない。
では何故僕は彼女を憎んでいるのか、非常に幼稚で簡単な事だ。彼女は僕が望んでも抗ってももがいても手に入れられなかったものを持っているから、彼女の名前は樋口希、日本じゃ人気の恋愛小説家だ。
「そういえばなんだけど」
ここが図書館であるにも関わらず樋口は迷惑1歩手前のボリュームで話し出す。
「この前出版されてた君の新作、ネットでも話題になってたよ。あんな斬新かつ精巧なトリック見たことがないって」
「そうか、まぁ確かにチーズを使って人を殺せるだなんて誰も思っちゃいないだろうからな」
作品に対して向けられた賛辞は有難く受け取っておく。
樋口は僕の新作が出る度にこうして僕の元に足繁く通って感想を聞かせてくれる。それ自体は嬉しいことだが、互いに同じ小説家ということを除けば僕と樋口は対極の人間なのだ。そんなキラキラしたような人間から真っ直ぐな目で見られることのこそばゆさをわかって欲しい。
「そういう樋口だって、今度映画化されるんだろ。これで何作目の映像化だ?」
自分でも棘のある言い方だったと思う。嫌味をこめて言ったのだから当然なのだがこんな幼稚な僕の賛辞に対しても樋口は、
「これで何作目なのかなぁ、あんまり覚えてないんだよね」
全く気にも留めていないようで楽しそうに会話を続ける。この女に嫌味は通じないのだろう。
「普通嫌でも覚えるだろ、案外無頓着なんだな。」
僕も人のことをとやかく言えるほどではないのだが続ける。
「これで4作目だ。もう少し自分の作品に興味をもってあげろよ」
「知ってたのに聞いたの? 私がお説教されただけじゃん」
このまま会話を続けてもよかったがこのままではこの図書館に来た意味がなくなってしまうのと、ぶー垂れる樋口がうるさいのでこれ以上はやめておく。それにこのまましゃべり続ければ僕は嫌味程度ではおさまらないほどの雑言を樋口に投げかけ続けてしまうだろう。
樋口は僕の憧れだった。僕が小説家を目指して試行錯誤していた頃、彼女はすでに第一作目を発表し世間からの注目を浴びていた。もともと恋愛小説が大好きだった僕からすれば彼女は目指すべき道しるべに他ならなかった。しかし僕が推理小説家になってから僕の中の彼女は憎むべき敵に姿を変えてしまった。勿論彼女は悪くない。僕の汚い人間性が悪いのだ。それを頭でわかってなお、心の核の部分では彼女のことを疎ましく思ってしまう。樋口希のファンとして見ていた今までと違って、小説家という彼女と同じステージに立った今の僕から見える景色は違って当然だった。
「君はすごいよね、あれだけいっぱい書いてるのにまだアイデアが尽きないんだもん、ポンポンでてくるじゃん」
人を自販機みたいに言いやがって。そう返そうとしたけど周りの迷惑になりそうだから黙って目の前の本のページをめくる。
「私ほんとはね、君みたいな推理小説家になりたかったんだ。」
僕はやはり何も返さなかった。さっきのように周りのことを考えての沈黙ではなく意図的に僕は口を閉ざした。
「君の精巧で作りこまれた芸術みたいな作品をね、作ってみたかった。」
人気の小説家に自分の作品を、自分の才能を褒められてる。こんな嬉しいことはないだろう。それでも僕は何も言わなかった。言えなかった。
「君のその才能がうらやましい。私が持っていなかったその力を存分に使ってる君を尊敬してる」
もう読んでいた本の内容は頭に入ってこなかった。彼女の言葉一つ一つが着々と僕の口腔に蓋をしていった。
「だから私は君に…」
言い終わる前に席を立った。これ以上黙って聴いてられるほど僕は出来た人間ではない。僕が願っても抗っても得られなかった才能を持った彼女があろうことか僕が最も嫌う僕の才能を欲しがっていることに嫌悪した。しかしそれよりも僕は彼女を憎むことしかできない自分に嫌気がさした。彼女も僕と同じなのだ。欲しがっても手に入れられなかった力を持った人間が目の前にいる。それだけならば僕と彼女はまったく同じ境遇にいる。それでも彼女は僕のことを尊敬してると言った。僕のことを好いてくれた。だけど僕は彼女を呪った。憎み妬み、彼女を憧れの人から敵に変化させてしまった。立場も境遇もまるきり同じだったのにもかかわらずお互いがお互いを見る目は雲泥の差だった。
「そんな良いものじゃないよ、推理小説も僕自身も。」
腹のうちにある色んな感情を抑えてひねり出てきた捨て台詞を吐いて僕は本を棚に戻した。彼女はキョトンとしていたがふと笑って、
「君が言うならそうなのかもね」
と言いながら本に栞をはさんだ。彼女の笑みがどんな意味を持っていたか僕には分からなかった。
いつもは新作を書くとなっても慌てることはなく、いつも通りふらふらとしていればアイデアが浮かびそれに合わせて構成を練るだけなのでそんなに苦労はしないで書くことができる。シリーズものならトリックを考えるだけでいいのだから尚更苦労はない。
だけど今回ばかりは悩みに悩んでいる。図書館での彼女とのやり取りが邪魔をして思うように手が動かない。なぜ彼女は僕のようになりたいと願ったのか。「推理小説家になりたい」ではなく僕のような推理小説家になりたいと彼女は言った。彼女と接するようになってから日は浅いがあの言葉がお世辞や社交辞令のようなものではないことくらいわかる。
考えれば考えるほど嫌気がさしてくる。彼女は僕を尊敬してくれている、なのに僕は彼女を憎んでいる。表面上は普通の小説家仲間を装っているが、いつこの化けの皮がはがれて嫉妬にまみれた怪物が顕わになってしまってもおかしくはない。この差はどうして生じてしまったのだろう。受けてきた教育だろうか、生まれ育った環境だろうか。いや、恐らくそんな簡単なものじゃないだろう。これは僕らが自我を持った時からの問題なのだ。人の才能を見てどう思うのか、この問いに対する解答例の最たるものを形にしたものが僕ら二人だったのだ。そう考えてしまえばもうどうしようもない。彼女はああいう人間で僕はこんな人間なんだ。羨望による尊敬と嫉妬は対極であり紙一重なのだ。
気づけば時計は深夜2時を差していた。
「今日はもういいか」
こんな行き場のない苛立ちを抱えたまま僕は小説を書く気にはなれなかった。少し頭を冷やしてから眠ってしまおう。僕は寝巻の上から上着を羽織って外へ出た。
近場をふらふら歩いてすぐに帰ろうと思っていたはずがいつの間にか相当な時間歩いていたようだ。
最初は心地よく感じていた夜風が冷たく、辛いものになり始めても僕は足を止められなかった。苛立ちがおさまらない。こんな幼稚な自分が悔しくて情けなくてたまらない。いつまでも大人になれない自分を振り払うように僕はペースを上げた。
彼女は僕を尊敬してくれている。
その事実が僕を追い詰める。彼女を妬み憎み、そしてそんな自分に対して自己嫌悪する。負のスパイラルにどんどんとはまっていく。僕は歩くスピードを上げた。
彼女は僕にないものを持ってる、僕も彼女にないものを持ってる。
この相互関係がより一層僕の人間性の低さを露呈させていく。僕はさらに歩くスピードを上げた。
彼女がいなければ僕はどうなっていただろうか。
きっとこんな真剣に自分や小説と向き合うことはなかっただろう。そしてこんなに苦しむことはなかっただろう。僕は冷徹な殺人鬼でいれたはずだ。気づけば僕は走り出していた。変えようのない事実に対する嫌悪感と得体のしれない焦燥感を消し去りたかった。早く楽になりたかった、だから走った。走って走って考えに考えて、僕は妙案を思いついてしまった。奇策か愚策かどうかは分からない。ただこんな考えに至ってしまった自分を恐ろしく思う。立ち止まりこの妙案についてあれこれ考える僕からあふれ出てくる汗は走った為に出てくるものなのか、それとも自分に対しての恐怖心からくる冷や汗なのか分からないが恐らく後者だろう。
「もうなにも考えるな、案は出ただろう。後は実行するだけだ。大丈夫いつも通りやればいいんだ」
そう自分に言い聞かせるようにして僕は再び走り出した。目的地なく走っていたさっきまでとは違う。急いで家に向かう。僕の理性はこの猟奇的な発想と狂気的な才能を止めることはできなかった。
家につき自室に駆け込み呼吸が整うのを待たずに僕はパソコンのwordソフトを立ち上げた。
上着を脱ぐこともせずそのまま執筆に没頭した。プロットも筋書きもいらない。手が勝手に動き続けた。睡魔も焦燥感も不安感も忘れて夢中で書いた。周りがすっかり明るくなり太陽が真上にきた時、僕の狂気の発想は実現されてしまっていた。苛立ちの種を、自己嫌悪の原因を、比較対象にしてしまう彼女を、生きるための障害を取り除くように。才能という力で、小説という武器で僕は彼女を殺したのだ。
疲れ果てた僕はあの小説を書き終えた直後に担当編集へデータを渡した。そのあとのやり取りはなにも覚えてないがどうやらあれは滞りなく出版されたらしい。
僕はどうやっても殺人鬼のままだった。気に入らない人間を殺すことでしか快楽を得られない、邪魔なものやしがらみは殺して消してしまう、僕は文字通り鬼になってしまっていた。物語で人を殺しても現実は何も変わらないことくらい僕が一番わかっている。それでも不安や焦りを消し去るにはこれしかなかった。結局僕のこの殺しの才能は自分を守るため身についた物だったのだ。
この作品が発売されてから彼女は僕の前に姿を表さなかった。いつもならば新作が出れば真っ先に僕のもとへやってくる彼女が。恐らく気づいたのだろう、僕が彼女を殺したことに。殺されるとわかっている状況に自ら足を踏み入れるような人間が存在しないように自分を殺した人間の前に普通姿は現さないだろう。これでよかったのだ。この小説を書いた二つの理由が達成されたのだ。僕のなかから得体のしれない不安は消え、僕の前から彼女は消えた。すべきことを成し遂げた僕にはもう何も残っていなかった。
あの小説が出版されてから数か月が経った。僕は相変わらず小説を書き、講義を受け、食って寝てと自堕落な生活をしている。今の僕は死ぬのが嫌だから生きているというような状態だ。生きている意味も特にない。小説も今となっては生活の手段でしかない。何かを考えることも悩むことも悔やむこともなくなった。そのせいか僕の小説の売り上げも落ちてきているみたいだ。それを聞いて落ち込むことなんてなかったが、生活できなくなるのはさすがに困る。何かインスピレーションを掻き立ててくれるものはないか。ぼーっと窓の外を眺めてみる。見るからに過ごしやすそうな天気だった。せっかくならばと、僕はしばらく外を出歩くことにした。
一年に数回あるか無いかの「ずっとこの気温でいいのに」な心地よさを感じながら街をふらふらと歩き回った。コンビニに立ち寄り、本屋で立ち読みをし、適当に時間をつぶした。時刻は午後16時30分過ぎ、そろそろ帰ろうと思った時、出入り口近くの平積みコーナーの見出しがふと目に入った。樋口希の本だった。見たところ聞いたことのないタイトルだったため恐らく新作だろう。
「いつの間に新作が、、、」
僕は積まれた本の2段目くらいから一冊抜き出し、しばらく考えてからその本を購入した。丁寧にブックカバーをかけてもらったその本を持って帰る道中僕は無意識に袋を力強く握りしめていた。
部屋に戻って早速本を開いてみる。物語の内容は小説家を目指す二人の男女の恋愛模様を描いたものだった。その男女はヒロインの態度、主人公のセリフからも分かるように明らかに僕と樋口を想起させるような人物像で描かれていた。そして物語は進み、やがてヒロインの才能に嫉妬した主人公はヒロインを手に掛けようとする。
「そうか、やっぱり樋口は気づいてたのか」
僕が樋口をどんな風に見ていたか、僕が新作で樋口希を殺したことを彼女は気づいていた。
全てを見透かされこうして作品として形にされた僕は劣等感を感じていた。僕にはもう続きを読み進める気力はない。それでもページをめくる手は止まらなかった。僕の目は無意識に彼女が綴った文章を追いかけていた。僕はこの小説に何を求めているのか自分でも分からなかった。だがここで読むのをやめてはいけないと本能で感じ取った。物語のヒロインが紙越しに何か伝えようとしているようだった。物語は終盤に差し掛かり、ついに殺意を抱えた主人公とヒロインが対峙する。僕はもうこの物語を読者として見てはいられなかった。僕はまぎれもなくこの物語の当事者だ。しかしここはあくまでも彼女の作り出した世界だ。この先がどうなるかは分からない。僕は殺意に身を任せ彼女を殺してしまった。そんな嫉妬の化け物の僕に対していったいどんな言葉を投げかけてくるのだろうか。僕は彼女の言葉を待った。自己嫌悪と劣等感と悔しさと情けなさをぐちゃぐちゃに混ぜこんだ殺意を抱え迫ってくる僕に向かってヒロインはこう告げた。
「あなたは私に無いものを持ってる。私もあなたが持ってないものを持ってる。だから私はあなたと一緒にいたい。あなたの持ってるものを身近に感じていたい。あなたのもってる苦しみも一緒に感じられるような関係でいたい。とらえ方や考え方が違うだけで一緒にいられなくなるほど神様は人間を不自由な生き物に作ってはいないと思うの。でももしこの世に神様がいなかったら、私はあなたに殺されてもかまわない。」
そこまで読んで僕は本を閉じていた。これ以上先を読む必要はない。この物語の主人公がほんとに僕の生き写しであるのならこの物語の結末も、この後の主人公の動向も、心情も容易に想像できる。僕はパソコンを立ち上げて椅子に座った。見慣れた画面をしばらく眺めた後、ゆっくりと文字を打ち始める。
そうだ、本来小説家とはこうあるべきだったのだ。文才はそれがどんな形であれ人を殺すためにあるものでも、自分が楽になるために行使するためのものでもない。人の苦しみを想像し形にすること、共感してあげること、寄り添うことで誰かを救う。それが小説家の存在意義なのだ。
僕はもう嫌というほど苦しみを味わった。嫉妬にかられて友人を一人殺してしまった。あの空虚感は僕を人間から遠ざけた。
樋口はそんな僕の苦しみを知り、寄り添ってくれた。だから彼女は自分の持っている力を使って僕を救おうとしてくれた。だから今度は僕の番だ。僕が彼女の苦しみに寄り添えるような作品を書こう。
何も迷うことは無かった。脳が想像し、両手が創造する。その流れはあまりにもスムーズで止めようが無かった。
僕は生まれて初めて自分の才能に感謝した。
休日の過ごし方を如何に満喫するか、学生から社会人まで、もしかすると生まれてから死ぬまでの命題では無いだろうか。
思い出してみて欲しい、お母さんのお腹の中からおぎゃあと生まれてきてから数年間は毎日が休日、everydayがholidayだったのだ。
信じられない。
齢十七の小僧がこんなことを言うのは「まだまだ甘いな小僧が」なんてお叱りを受けてしまいそうな気もするが、言い切らせてもらうと7日間というもしかするとこの話を書ききってしまうほどの長さの時間の内のたった1日の休日のためだけに人間は生きている(人によってはもう少し長かったりするだろうけれど)。
そんな人生において最も重要といっても過言でもない休日の下らない出来事を紹介させてもらおう。
その週は雨が酷く外に出ることがどうしようもないほどの苦痛であったのだが、なんともまあ都合の良いことに偶々その週の唯一の休日である日曜日だけが晴れていた。
普通ならそんな日は外に出て何かをするべきなのだろうけれどその日の私はてんで外に出るという気分になれなくて、家に籠もって人類の叡智であるインターネットにお世話になろうと思っていた。
予定とは往々にしてあっけなく崩れ去る物である。
緑色の淵で覆われ白い吹き出しに中に「線」を意味する外国語が刻まれた、時には天使だったりとんでもない悪魔になったりする例のアレが、私にとんでもない知らせをよこしてきやがった。
「暖かいのでカフェライドでもいかがですか?」何を言っているんだこいつは。一見、天気が良いから自転車に乗ろうと誘っているだけのこの20文字、競技から身を引き自堕落な生活を送っていた自分にとって、悪魔からの通達なのは間違いなかった。
「こんな悪魔の言葉には耳を貸してなるものか、とにかく今は寝ているふりをしてやり過ごそう。」と思ったものの、このまま自転車に乗らないでいると丸々と肥えていってしまうのではないかと思い、その日は結局家を出ることにした。
久しぶりに自転車に乗ったわけなのだが正直めちゃくちゃ辛かった。意気揚々と毎日自転車に乗り100km近く走っていたころの自分はとうの昔にいなくなってしまっていたらしい。
ひいこら言いながらも甲州街道をだいたい25km近く走りぬいて、なんだかんだで集合場所にたどり着くことができた。
現役の自転車乗りたちに引きずり回されること約30分、多摩川の河川敷の東京側を下って二子玉川のあたりにあるという自分を誘ってきた練習仲間が最近知ったという店に着いた。
何だかとてもおしゃれな雰囲気で自転車に乗る時のパツパツの格好で店に入るのはいささか憚られる気がした。「うわー、凄い所に連れてこられたな。」と思ったのだが、どうやら様子がおかしい。看板に「カスタム工務店」と書いてあるのである。いや何で工務店がこんなにおしゃれなんだよ。と思っていると「あ、ここじゃないわ」と言われ数百メートル移動した。
“本日おやすみさせていただきます。”
その日は自分含めて全部で5人いたが、全員唖然。かのガイウス・ユリウス・カエサルが「ブルータス、お前もか」と言った時の気持ちがなんだかわかりそうな気がした。
結局その日はポンペイウス劇場(カスタム工務店付近)から6kmほど進んだカフェに行くことになったのだが、そこでもコーヒー豆11種類の中から3種類の淹れ方を選ばなければならないという難題に直面する事となったが、これはなんとなく語呂がよかった「グアテマラ エルインヘルト ウノ」を「エアロペックス」という淹れ方をホットで頼み、おすすめされたオレンジピールの入ったチョコーレートパウンドケーキを食べることにした。今までの全てが報われた気がして人生で一番おいしかったコーヒーを楽しんでその日は解散。
しかし、よくない事という物は決まって局所的に引きおこるもので、帰っている途中に雨が降ってきた。家を出たときは半そで短パンでも十分な気温だったのに日も暮れ気温は14℃くらいだった。町中の人は上着を羽織り傘をさして歩いているのに対して、半そで短パンに自転車。ただただ恥ずかしかった。
色々あったけれど今思うと割と充実していたのかもしれない。
最近また誘われているのだが、勉強しないといけないからと言って断っている。試験が終わったら今度は覚悟を決めてから行ってみようと思う。
「次のニュースです。今日新たに新型アストウイルスの感染による男性の死亡が確認されました。これにより、新型アストウイルス感染での死亡者は100人を超えることになりました。」
「もう100人以上亡くなってるんだな。すごい勢いだ。」ソファに腰掛けながらお菓子を食べている亮太が言った。新型アストウイルスが国内で初めて確認されたのは今から約1ヶ月ほど前のことである。突如現れたこのウイルスは致死率80%という驚異の数字で全世界の人々を恐怖へと貶めた。また、感染した人が生き残った例がほとんど無いため、このウイルスについてのデータがあまりなく、研究も滞っている。そのため、感染後の症状や、感染力などの詳細についてはまだ明らかになっていない。SNSでデマの情報が流されたり、テレビで偏見に基づかれた意見が流されたりすることにより、世間では次第にアストウイルス感染者に対する風当たりが強くなっていった。
国内でアストウイルスが確認されてから私たちの日常は一気に変わった。外出の際は政府の許可が必要となり、特別な理由がない限り外出は禁止となった。窓から外を覗いてみても人は見当たらない。車や電車も走っていないので町がとても静かに感じる。「いつまでこんな生活が続くんだろう。」亮太が独り言のようにぼそっと言った。「どうだろうね。早く収まってくれないとあんたとずっと同じ家で暮らすことになっちゃうよ。」明日香が怪訝な顔で答えた。「俺だってお前と同じ家で暮らすなんて勘弁して欲しいよ。」すかさず亮太も答えた。亮太と明日香が同じ家で暮らすことになったのは2週間前のことである。亮太の両親は海外出張に行っていた。ちょうどその間に国内で初めてのアストウイルスが確認されたため、亮太の両親は帰国することができなくなってしまった。家に1人で残されてしまった亮太は祖母の家に行こうと考え、政府に事情を話して外出の申請をしようとしたが、祖母の家は遠いため、移動時に危険が伴うと判断され、一番家が近く、幼馴染である明日香の家でしばらく暮らすように言われた。「まさかお前と同じ家で暮らす日が来るとはな。」亮太が言った。「私だってあんたがうちに来るなんて聞いてないわよ。とにかく、私の部屋には勝手に入らないでよ。」明日香が強い口調で言った。2人は幼稚園のころからの友達で昔はよく一緒に遊んでいた。しかし、中学に入って以来、いつの間にかお互いに避け合うようになり、次第に仲が悪くなっていった。「冷蔵庫からジュース取ってきて。」明日香がテレビを見ながら言った。「どんだけ人のことこき使うんだよ。今日4回目だぞ。」亮太が重そうな腰を上げながら答えた。「仕方ないでしょ、喉が乾くんだから。私の家にいるからには私のお願いは聞いてもらうからね。」明日香はすました顔で答えた。それから2週間がたった頃、政府から1本の電話が入った。亮太の両親が帰国できることになったのである。亮太は自分の家に戻れることになった。明日香の家から出ていく前日、亮太は明日香の部屋で荷物の整理をしていた。そこにジュースを片手にやって来た明日香が言った。「やっと出てってくれるのね。ほんとに長いことこの家にいたね。」「こんなに長くいることになるとはな。おばさんとおじさんには本当に感謝してるよ。」亮太がかばんに荷物を押し込みながら答えた。「私にも感謝しなさいよ。1番長くいたのは私でしょ。」「まぁね。久しぶりに沢山話せてよかったよ。またなんかあったらよろしくな。」こうして亮太は自分の家に戻ることになった。
亮太が自分の家に戻ってから1週間が経とうとしていたある日、亮太は昼前まで寝ていた。起きてから下の階のリビングへ降りると、父と母がテレビを囲んでいた。「こんな時間に面白いテレビなんてやってたっけ?」寝癖のついた髪の毛を触りながら亮太が言った。すると母が、「アストウイルス感染者へのインタビューがやってるの。」と答えた。どうやら、アストウイルス感染後に生き残った人がアナウンサーからの質問に答えているらしい。インタビューの内容はウイルスの症状に関する話題に移った。「感染後の症状は明らかにされていませんが、具体的にどのような症状がみられましたか?」「初めは喉がよく乾き、乾燥したような感じでした。」それを聞いた亮太はパンを食べる手が止まった。そして、すぐに電話のところへ行き、明日香の家に電話をかけた。電話には明日香のお母さんが出た。「亮太君がかけてくるなんて珍しいね。どうかしたの?」「おばさんお久しぶりです。明日香に変わってもらえますか?」亮太は焦りながら言った。「ごめんね。明日香は少し体調が悪いみたいで寝てるの。起きたらかけさせるから待っててね。」「すぐに明日香を連れて病院に行ってください!」亮太は思わず叫んだ。亮太のいつもと違う様子に戸惑いながらも、明日香のお母さんは「わかった。」とだけ言って電話をきった。それから何日も亮太は寝れない日が続いた。感染者へのインタビューでの時に感染後の症状で喉が乾くと聞いた時に亮太は明日香がずっと喉が乾いていたことを思い出したのだった。数日後、亮太は外が騒がしいことに気づき窓から外を覗いてみると、明日香の家の前にトラックが停まっていた。それはどうやら引越し業者のようだった。新型アストウイルスに感染してしまうと差別や誹謗中傷の的になってしまうので、感染後にはすぐに遠くの場所へ引っ越すというのはよくある話だった。このことで亮太は明日香がアストウイルスに感染していたのだと確信した。その後、明日香の家族たちがどこに引っ越したのかや、明日香が感染後にどうなったのかを知る人はどこにもいなかった。致死率80%ということもあり、誰もが明日香の死を覚悟していた。しかし、亮太だけは明日香が生きていると信じてくれていたと思う。
それから5年が経った今、新型アストウイルスは収束へと向かい、本来の生活へと戻っている。私はこの物語を書き終え次第生まれ故郷に行き、私の命の恩人に会いにいく予定である。
朝、突然の寒気に襲われて目を覚ます。寝ぼけていてもすぐに分かった。どういうわけかパジャマを着ていない、パンツ一丁というやつだった。一気に目が冴えたので、床に散らばったパジャマを着直し、ベッドから起き上がる。
「また朝から最悪だよ。」
そう、実はこれが初めてというわけではない。ここ最近になってずっとだ。なぜか異様に寝相が悪い。この前はベッドで寝たと思っていたのに起きたらソファーの上だったこともある。原因はよくわからない。何か悪い夢を見ていたような気がして思い返してみても何も思い出せない。いくら考えてみても皆目見当もつかなかった。まあ最近は学校も忙しくなってきているし、きっと疲れているのだろう。そう自分に言い聞かせて、僕は朝の支度にとりかかった。
支度が半分くらい済んだところで、僕はふと大事なことを思い出した。全速力で制服に着替え、家を飛び出す。朝、彼女と一緒に学校へ行く約束をしていたのだった。携帯を見てみると大量の着信で埋め尽くされていた。
息切れで死にそうになりながらも待ち合わせ場所に着くと彼女が待ってくれていた。もちろんその表情は穏やかではない。
「なんか言うことないわけ?二十分も一人で待ったんだけど?」
「ごめん、朝お腹壊しててさ。」
「言い訳はいいから、どうせ寝坊でしょ? 早くいかないと遅刻付けられるよ。弘樹くん進級危ないんでしょ。」
「ほんとにごめん、この埋め合わせは必ずする。」
「じゃあ今週末は何かおごってもらうからね。」
そんな他愛のない会話をしているうちに、あっという間に学校に着いた。
「じゃあ、また放課後。」
「うん、放課後ね。」
そういって別れる。というのも僕たちの通っている学校は男女で棟が分かれているので、放課後まで彼女に会うことが難しい。そもそも僕たちが付き合えていること自体奇跡に等しい。それくらい男女の交流が少ないのだ。
彼女、茜と初めて会ったのは高一の春だった。たまたま帰り道が同じになり会話したのがきっかけで友達になり、そこから遊びに行ったりするうちに気づいたら付き合うことになっていた。最初は人生初の彼女に舞い上がって気を使ってしまうことも多かったが、二年も一緒にいるとお互いの内面もわかってきて、今ではいい意味で気を使わない。僕にとって茜はかけがえのない存在だった。
あっという間に一週間が過ぎた。茜との約束の週末、二人で買い物に行くことになった。とはいっても僕は別に欲しいものは無く、茜の買い物に付き合う感じだ。いくつもの店を転々として、どんどん袋が増えていく。そして一通り欲しいものが買えたのか、買い物はひとまず切り上げて近くのカフェに入ることになった。
「ここのカフェ、私めっちゃ行きたかったの。」
「ふーん。」
「ねえ全然興味ないじゃん。」
「ごめんごめん、ちょっと眠くてさ。」
いつも通りの他愛ない会話が続いた。もっとも今更別にそんな話すことがあるわけでもない。悪い意味ではなくてそれだけ毎日一緒にいる時間が長いということだ。お互いにそれを分かっていたし、特に不満もなかった。
そして長かった休日は終わりを告げようとしていた。改札を抜けたあたりで少し止まって話をする。
「今日は付き合ってくれてありがとね。」
「いや、こちらこそ。楽しかった。」
「ほんとー? 弘樹くん、なんかずっと上の空だったじゃん。」
「いやーなんか無性に眠くてさ。」
「大丈夫ー? 何か悩みなら聞くからね。」
「ありがと。いやほんとそういうんじゃないから、安心して。」
「なら良し、じゃあねー」
「うん、バイバイ。」
そういうと茜は僕とは逆方面のホームへ消えていった。
一人になると急にあれこれ考えてしまう。ついさっき茜に言われたことが頭にフラッシュバックしてきた。最近の悩みと言ったら原因不明の眠気、そして最近の謎の寝相の悪さだ。僕は何か病気なんじゃないか。そんなことを考えているうちに、最寄り駅に着いていた。
家に帰るといっそう激しい眠気が襲ってくる。僕はいつもよりも早く寝る準備を整えて、早めに布団に入った。
どれくらいたっただろうか。外はもうすっかり明るくなっていた。時計に目をやると午前十一時を指している。我ながらよく寝た、なんてことを考えながら、リビングへ降りた。リビングに降りると姉がテレビを見ている。なんてことない日曜日の風景だ。しかし一つの疑問が頭をよぎる。
「姉ちゃん、バイトじゃなかったっけ?」
「あーなんか、バイト先の近くで事件? 起きたみたいでいきなり休みになったのー」
それを聞いてすぐに茜の顔が思い浮かぶ、姉のバイト先の近くといったら茜の家の近くでもあるのだ。そう思ってすぐに電話をかけてみたが出ない。まだ寝ているのだろうか、それなら安心である。
すると、姉がテレビの方を指して言った。
「これだよーその事件。」
僕はすぐにテレビに目をやった。そしてその瞬間、一気に体から血の気が引いていくのを感じた。
「きょう未明、区内の住宅街で女性が倒れているのが見つかり、先ほど搬送先の病院で死亡が確認されました。死亡した女性はH区に住む田中茜さん、十八歳とみられており、警察は殺人事件とみて捜査を進めています。」
理解が追い付かなかった。たしかに茜が何者かに殺されたというニュースだった。昨日一日中一緒にいた人が死んだだなんて、全く実感がわかなかった。
気づくと僕は、家を飛び出していた。本当なのか行って確かめたい、その一心で事件現場に向かった。現場近くに着くと大量の規制線が張られていて、警察以外にたくさんの野次馬が押しかけていた。野次馬の網を潜り抜け、少し前に出ると見知った顔が目に留まった。僕の父親である。父は刑事をしていて、もれなくこの事件の捜査にも関わっているようだった。少し遅れて父の方もこちらに気づく。
「おい弘樹、なにしてる。なんでこんなところにいるんだ。」
「細かいことはいいから入れて。」
「無理に決まってるだろ。早く帰りなさい。」
そんな父の静止には耳もくれず規制線を潜り抜けると何人かの警察官に囲まれた。
「おい、一般人は立ち入り禁止だ。」
「危ないから離れていろ。」
僕は警察に無理やりつかまれてつまみ出されそうになる。すると父がとっさに
「息子なんです、お弁当を届けに来てくれたみたいで。ほら、弘樹こっちに来なさい。」といって、僕を物陰に連れて行った。
「離せよ父さん。」
「どうしたんだ弘樹、仕事の邪魔をしないでくれ。」
「殺された女の人、あの人、僕の彼女なんだ。僕にも協力させてよ。」
父もあまり理解が追い付かないといった顔をしていた。
「それは本当か? なにかこの事件に心当たりはないか?」
心当たりなんてあるはずもない。そう思いながらも思い返してみると、一つ引っかかるものがあった。少し前のことだ。いつものように茜と一緒に下校していると、茜がふとこんなことを言い出した。
「最近、一人でいると視線を感じるの。」
「やばいじゃん、ストーカーってやつ?」
「わからない、特に夜に多いの。」
茜は極度の怖がりだった。一緒にホラー映画を見に行ったあとなんて、一人が怖いと言ってそこから一週間毎日夜に電話をかけてきたりしていた。この話を聞いた時も正直何かのきっかけでいつもの怖がりが発動しているだけだと思っていた。しかし、今思えば本当に誰かに狙われていたのかもしれない。強い後悔の念に苛まれながらも、僕は父に茜が言っていたことを詳しく話した。
「なるほど、茜ちゃんをつけていた怪しい人間か、わかった。その件も視野に入れて調べてみる。」
「頼んだよ、父さん。それで僕も、」
言い終わるよりも前に父にさえぎられる。
「確かに、自分の大切な人の命が奪われているんだ。お前の気持ちも痛いほどわかる。」
「じゃあ、いいの?」
「でもな、ここからはプロの仕事だ。素人のお前を危険にさらすことは出来ない。あとは父さんたちに任せろ、必ず犯人を捕まえてみせる。」
そう言うと父はまた現場に戻っていった。
自分はなんて愚かで、そして無力なのだろうか、大切な人を失ってもなおなにもすることが出来ない自分の無力さに、ただ打ちひしがれるしかなかった。
けれど、警察の捜査は待っていられない。こうなったら自分一人でもこの事件について調べてみよう。そう思えるようになったのは事件発生から丸一日がたったころだった。
そうとなれば、まずは聞き込みからだろう。僕は現場近くの家や店に、事件当時のことについてや、怪しい人物についても聞いて回った。
調べていくうちに、いくつか良い証言を得ることが出来た。中でも重要そうだったのが現場近くに住む女性からの証言だった。
「事件のちょっと前にコンビニに行ったんだけど。たった十分足らずだったのに、その間に同じ怪しい男に四回もあったの。ちょうどあんたと同じか少し大きいくらいの背丈だったわ。それでたしか黒い服を着てた。」
事件の時間あたりに現場付近をうろつく怪しい男。犯人はこいつで間違いない。そう確信した。この男について何か他に情報はないか、僕はより一層聞き込みを強化した。
しかし、それ以降は微妙な証言ばかりで、女性の証言以上のものは得られなかった。もう事件発生から四日が経とうとしている。このままで終わってしまうのか。僕は途方に暮れながら現場から少し離れたところにある喫茶店に入った。一度頭を整理してみたら何かわかるかもしれない。
コーヒーを飲みながら聞き込みで得た情報を整理していると、ある主婦同士の会話が耳に入ってきた。
「最近越してきた吉田さん、彼は絶対やばいわ。この間夜あったんだけど、何度も同じ道を行き来したりしてるのよ。」
「この前なんて、回収日でもないのに真っ黒い袋をゴミ捨て場に捨ててたの。死体でも入ってるんじゃないかしら。本当に不気味。」
聞き込みで女性が言っていた男に違いない。そう思うと、すぐにその主婦たちに話を聞きに行った。
「その男について詳しく教えてくれませんか。」
聞いてみるとその男は事件現場近くのアパートに最近越してきたようだった。さらに重要な点が、男はやせ形で身長180㎝前後だというのだ。これは僕の身長とほぼ同じ、女性の言っていた証言とぴったりだった。この男で間違いない。再びそう確信した僕は、真っ先に父に連絡した。
「茜の事件、犯人が分かったかもしれない。聞き込みで現場の近くに最近越してきた怪しい男がいるってわかったんだ。」
「お前、父さんたちに任せろとあれほど。」
「ごめん、でもいてもたってもいられなくて。」
「まあ、わかった。それはたしかに貴重な証言だ。そいつについても調べてみる。」
数秒の沈黙のあと、父はこう続けた。
「父さんには、はなからお前を止める権利はない。ただ、命を投げ出すようなことはしないでくれ。お前まで死んでしまったら残された俺たち、なにより茜ちゃんはどう思う。」
「ごめん父さん。たしかに、気を付ける。」
「ここまできたら絶対に捕まえるぞ。」
「うん。」
父の言葉で決心がついた僕は、そこから学校終わりに毎日、その男の張り込みを行った。男はあまり外には出ないタイプということで、自宅アパート付近を張り込み場所とした。必ず確実な証拠をつかむ。その思いでいっぱいだった。
張り込み開始から三日くらいが経過しただろうか、その時は突然訪れた。男がついに自宅アパートから出てきたのだ。この機会を逃がすわけにはいかない。僕はすぐに男に話しかけた。
「少し、話を聞かせてもらえませんか。」
「なんだよ、今忙しいんだ。」
男は怪訝そうな顔で言った。
「すぐに終わります。最近、この近くであった事件を知っていますか。」
「ああ、もちろん。物騒な事件だよな。」
「事件当日、あなたどこで何をしていましたか。」
「おいまて、俺を疑ってるのか? その日は一日中家にいたよ。」
「そんなはずはない、事件当時、現場付近であなたを見たという証言もある。」
「人違いだろ、急いでるんだ、他をあたってくれ。」
「今からでも遅くない、警察に行きましょう。正直に話してください。」
男の表情が一気に曇った。
「いい加減にしろこのクソガキ!」
そう言い放つと男はとっさに僕を突き飛ばし、家に入っていった。
自分の中で男に対する憎しみが最高潮に達した。この男は間違いなくクロだ。すぐに父に連絡をしようとした瞬間、逆に父の方から電話がかかってきた。
「弘樹、今どこにいる?」
「父さん、例の男のアパートの前に来てる。さっき男と直接話した。絶対あいつが犯人だ。早く来て。」
「もちろん、今から向かう。そこで待っていてくれ。」
そう言うと電話は切れた。ついに逮捕だ。これで茜も少しは浮かばれるのだろうか。
しばらくして、父は同僚とともにアパートの前に到着した。
「父さん、男はあの部屋だ。早く捕まえよう。」
「その必要はない。」
父は今まで見たこともない、寂しい表情を浮かべながらこう続けた。
「弘樹、お前に逮捕状が出ている。」
「え?」
「四時三十分、殺人の容疑で逮捕する。」
「どういうこと?」
全くもって理解が出来なかった。事件の時は家で寝ていたし、第一に僕が茜を殺すわけがない。動機も全くない。何かの間違いだとしか思えなかった。
「現場の痕跡から弘樹、お前のDNAが検出された。詳しくは警察署で聞かせてもらう。早く車に乗れ。」
「何かの間違いだよ。あの男はその時間アリバイがなかったんだ。証言でもあの男が犯人で間違いない。」
「詳しくは署で聞く。いいから早く乗れ。」
僕に弁解の余地は残されていないようだった。頭の整理は全くついていなかったが、半強制的に車に乗せられ、警察署に着いた。署に着くとすぐに取り調べを受けることになったが、本当に何も知らない僕は何を聞かれてもわからないと答えるしかない。
取り調べが始まってどれくらいが経っただろうか、これ以上の取り調べは無駄だとして、精神鑑定に回されることになった。拘置所で鑑定結果を待つ間も頭の中はめちゃくちゃなままだった。僕が茜を殺すはずがなかったからだ。きっと何かの間違いだろう。そう自分を落ち着かせていないとどうにかなってしまいそうだった。
そしてついに精神鑑定の結果が出たようだ。医師は僕にこう告げた。
「解離性同一性障害、いわゆる多重人格です。」
僕の頭はパンク寸前だった。僕が眠っていると思っていた時間に、僕の中のもう一人の『僕』が目を覚まして行動していたというのだ。朝起きた時に毎回のように違和感を覚えたのも、日中の異常な眠気もそのためだった。
ただ、それらが分かっても一つ分からないことがあった。なぜ『僕』は茜を殺したのだろうか。医師に尋ねてみてもわからないと答えるだけだった。
精神鑑定の結果などが加味され、情状酌量の余地ありとして、少年院には入らずひとまず精神病院へ入院することが決まった。
入院初日、医師からの説明を受ける。
「この病気はまだ実態が完全にはわかっていません。こちらも常に注視しますので、もう一つの人格とうまく付き合っていけるように目指しましょう。」
もう一つの人格とうまく付き合っていくだなんてできるはずがなかった。茜のことを殺したやつとうまくやっていけるわけがない。また周りの大切な人を奪われてしまうかもしれない。そんな奴が僕の中に潜んでいるのだ、そう思うと気が狂いそうになった。
病室に戻った僕は『僕』に聞いてみた。
「なあ、お前は何で茜を殺したんだ。答えろ。」
何か答えが返ってくるはずもない。僕は深く深呼吸をした。
「もうこれ以上、大切な人を失いたくない。僕はお前を絶対に許さないからな。」
そう『僕』に言い放ち、僕は首に縄をかけた。
ブルースリーのヌンチャクになりたい。私がまだ幼稚園に通っていた頃にお遊戯会で言った台詞らしい。当時の私は小さくて、その台詞の真意も分からなかった(分かろうともしてなかったと思う)。しかしそれは私の周りに異様に巻き付いて離さなかった。それはきっとこれからも同じで、私の心の奥底でずっと私のことを見張っているのだろう。そんな気がする。
春に入って少し経った頃、この学校では決まって授業参観が行われる。私の担当する小学三年生はこの時期「将来なりたいもの」について発表する。そして決まってその授業(この学校では「総合」と呼ばれている)を目当てに保護者が大勢登校してくるのだ。
私は雲行きが怪しくなる空を見上げながら、チャイムの鳴り終わりと同時に立ち上がった。
「本日はご足労いただきありがとうございます。今回の授業を通して子供たちの成長を感じていただけたら、大変嬉しく思います」
善人を演じたような台詞を述べ、授業に入る。窓際の一番前から指名していき、家で書いてきてもらった「将来のゆめ」のプリントを一人ずつ読ませた。
恥ずかしがって小さな声で話す子もいれば、「俺は野球選手になる」と声を大にして宣言している子もいた。しかしどれも私の心には響いてこなかった。この授業は果たして意味があるのだろうか。そう思いながら私は次に発表する「古澤さん」を指名した。
古澤さんは人見知りで、あまり友達と喋っているところを見たことがない。今日も発表するのに時間がかかるのではないかと予測していたが、彼女は意外にすっと立ち上がった。
「私はびようしになりたいです。私はパパや先生みたいにきれいな髪の人が好きだからです」
古澤さんの声は普段と同じで小さいままだったものの、その口調から、姿から、佇まいから、自信に満ち溢れている様子が感じ取れた。
私はその瞬間一種の寂しさを覚えると共に、全てが報われたような気がした。どこか曇っていた私の心に一本の光が差し込んだのだ(私にはこれ以上上手く表現することはできない)。
子供というのは単純で、その時だけの感情かもしれない。しかし、だからこそ一つ一つに向ける眼差しは真剣で、大人になるにつれて失っていく向上心というものが盛んなのだ。きっと。
ロングの綺麗な黒髪が特徴だった。私は自分の髪が好きだったし、きっと周りもみんな私の髪が好きだった。
ある日の午後、小さな美容院でひっそりと美容師をしていた祖母は黄色い蝶の髪飾りを指でつつきながら私に言った。
「ほんとうに綺麗な黒髪だね。絶対に染めたりしちゃだめだよ」
そんな気はさらさらないし、今後そうなる予定はないと信じていたため、私はその時の祖母の言葉に頷いた。そしてその日を境に祖母の体調は急激に悪化し、入院生活となり、祖母と話す機会は限られるようになっていった。
私は「古澤さん」と仲が良かった……と思う。彼は明るくてフレンドリーな上、とてもサラサラで綺麗な髪をしていたため、クラスではいつも中心にいる人気者だった。そんな彼の周りを回る惑星の一つが私だった。
そんなある日のこと、古澤さんは学校を休んだ。風邪を引くことや怪我をすることは誰にだってあることだと特に心配などはしていなかった。しかし古澤さんは次の日も来なかった。その次の日も、またその次の日も。
私が久しぶりに古澤さんを目にしたのは、古澤さんが学校を休み始めてから一週間と少しばかり経った頃だった。妙にクラスがざわついていたので、教室に入った瞬間に悟った。古澤さんが来たのだと。
古澤さんの周りには案の定、人が集まっていて私はその波に出遅れた。背伸びをしたり、少し跳ねたりしながらなんとかのぞき込むことに成功したが、その瞬間私は言葉を失った。
そこにいたのは古澤さんじゃなかった。いや、正確には古澤さんとは思えなかったが正しいだろう。
赤い帽子(お気に入りらしくよくかぶっている)を深くかぶり、顔はずっと下を向いたまま机を睨んでいる。いつものような陽気なオーラは微塵も感じられない。上手く言えないけど、表現するならば「廃人」になったかのようだった。
私は人だかりをかき分けて、古澤さんの正面に立った。俯いた顔を下からのぞき込むようにして見た。今にも泣きそうだった。泣いて、叫んで、今にでも消えてなくなりたい。その許可を私に求められている気分にさえなった。そしてそれは私が今までに一度も見たことがない表情だった。
「どうしたの古澤さん。元気がないみたいだけれど」
古澤さんの周りにいた一人の女子がそう話しかけた。古澤さんは何も答えない。きっとこのままでは古澤さんは壊れてしまう。そう思った時にはもう古澤さんの手を取って走り出していた。教室のドアを乱暴にこじ開けて、廊下を目一杯走って、人気のないところに連れ込んだ。
「一体何があったの?」
私は掴んだ手を放さずに問いかけた。それでも頑なに話そうとしない。いつもハキハキとした古澤さんの底の見えない暗さに、私は少しじれったさを覚えた。
「いつまで帽子被ってるのさ!」
私は古澤さんの赤い帽子を強引に剥ぎ取った。古澤さんは一瞬焦ったような素振りを見せたが、すぐに諦めたように俯いた。
その瞬間、私は声を出すことが出来なかった。配慮が足りなかった。なぜ古澤さんが教室についても帽子をずっとかぶっていたのか、理解してあげることが出来なかった。
古澤さんの髪は抜け落ちて疎らになっていた。所々頭皮が目視出来るほどで、とても痛々しい。失ったのだ。取り柄だった明るさも、皆を元気にする笑顔も、人間としての一番の宝物も。
古澤さんは黙ってその場を立ち去った。後に残した涙だけが日に照らされてキラキラといつまでも光っていた。
私の居場所がなくなったのは、それからすぐの事だった。綺麗な髪を持つ私は敵となり、反逆者となった。学校に行っても誰かと話すこともなくなり、笑うこともしなくなった。それからというもの私は自分の髪が少し霞んで見えるようになった。次第にお風呂で丁寧にケアするのも、朝早く起きて手入れするのも面倒になっていった。
あの日、古澤さんから強引に剥ぎ取った赤い帽子はまだ私の手元にある。使い込まれているけれど、とても大切にしていたのが分かる。あれから古澤さんとは一度も話していないが、私は帽子を片手に勇気をもって話しかけた。
「あのこれ、大事にしてたものだよね。返すよ。ごめんね」そう言って私は帽子を古澤さんの机の上に置いた。
すると古澤さんはその帽子を手で勢いよく払いのけた。そして帽子は宙を舞う。
「いらねぇよもう。いらねぇんだよ。失せろよお前も」
私はなんとなく帽子を拾い上げ、埃を払った。そしてそれを教室の後ろの棚にのせると、何も言わずにその場を後にした。帽子をかぶらない古澤さんは、私の目にはすごくすごく醜く映った。
その日の午後、帰り道の途中にある少し高級な美容院に入った。
「初めてのご来店ですか?」そう問われて、私は頷く。祖母のところ以外の美容院など行ったことがなかったため、どのような態度でいればいいのか分からなかった。あるいは声の出し方を忘れてしまっているのかもしれない。普段ならば予約を入れなきゃ入れないほどの人気店らしいが、たまたま空いている時に来た私はラッキーガールらしい(その言葉もどこまで本当か私にはわからない)。
「本日はどのように致しますか?」
私は置いてあったカタログをパラパラとめくり、目についたものに適当に指をさした。
「本当によろしいのですか?」
美容師さんは少し戸惑っているように見えたが、私は構わずやってくれと頷いた。
結構な時間を美容師さんに任せていると、鏡に映った自分のヘアセットが完了していた。
「こんな感じでいかがでしょうか」
「大丈夫です。ありがとうございます」
私が思っていたよりも割高な料金を払い、店を出ようとすると、店の奥からさっきとは別の美容師さんが「お客様、忘れ物ですよ」と駆け寄ってきた。私は髪につけていた黄色い蝶の髪飾りがないことに気が付いた。それは小さい頃に祖母からもらったものでとても大切にしていたもののはずなのに、今はなぜかそんなことどうでもよかった。
「処分してもらって大丈夫です」
「よろしいのですか?」と美容師さんはまた戸惑ったような表情を見せる。
「はい。もういらないので」
ガラスに映る金色でショートな髪の女に自分を重ねられないまま、私は店を出た。
家でも学校でも私の髪は功を奏さなかった。両親にはこっぴどく叱られたし、クラスメイトの私に対する視線は変わらないどころか、より一層きついものになった。古澤さんには誰よりも鋭い目で睨まれたけれど、それでいいと思った。これが正解なんだと自分に言い聞かせた。
私は学校に行くことが少なくなった。決してサボっているわけではない。学校に行こうとすると決まってお腹の調子が悪くなってしまうのだ。
今日は火曜日で、本来ならもう学校に向かっていないとまずい時間なのだけれど、どうやら今日もお腹の調子が悪いらしい。私は学校に休みの電話を入れると外へ出た。足は自然と駅の方向へと向かっていた。謝ろうと思ったんだ、許してもらおうと思ったんだ、きっと。古澤さんが今どこにいるのか、最寄り駅がどこなのか、何にも分からない。ずっと近くにいたのに私は古澤さんのことを何も知らなかったのだ。それでも足は駅へと向かう。まるで何かに導かれているかのように。
駅に着くと、売店でお茶を買った。ホームの椅子に座り、電車が何本も過ぎていくのを黙って見守った。私の前を通る人は私の姿を見て、歩く速度を上げる。ベビーカーの中からは泣き声が聞こえる。つられて私も泣いてしまおうか。そう思った。どうせなら私の髪も全て抜けてしまえばいいのに。
「ちょっとそこ邪魔だよ」
突然声をかけられた私は咄嗟にその場を少し離れる。そこにいたのは白髪がこれでもかってくらい伸びきっていて、ボロボロの服を着て、きつい匂いを放つ、六十代くらいの女性だった。私が座っていた席を横取りし、横の席には小さな鞄を置いている。まるでここが自分の家であるかのように足を目いっぱい伸ばして、誰にでも分かる様子でくつろいでいる。前を通る人たちはさらに歩くスピードを上げた。
「あなたはなぜここにいるのですか?」
私は気が付くとその女性に話しかけていた。女性は一瞬驚いた表情を見せたが、すっと目を閉じて「ここにいたいからさ」と言った。
「お金がないからではなくて?」
あとから思えば随分失礼な言葉だったと思う。だけどこの時の私は相手のことまで考えられる精神状態じゃなかったのだ。
「お金があるからなんだい? 自由になれるのかい? 私はなれなかったよ」そういうとしっしっ! と私を追い払うように手を払った。
自分勝手な人だ。こんな公共の場で陣取られたら、他の人は迷惑でしかない。そんなことは少し考えれば分かるはずだ。それにお金がないよりはある方が自由になれると感じてしまう私は捻くれているのだろうか。私はこの女性の存在が妙に癪に障った。
私は「迷惑なのでどいてください」と言うが、女性はまるで移動する気配がない。私はさらに強めの口調でもう一度言おうとした。
すると、「電車に轢かれて死のうとするやつよりは迷惑じゃないと思うがね」その女性の言葉で私は顔が真っ赤に染まった。まもなく電車が到着するという合図が流れる。遠くで赤ちゃんをあやす母親の声が聞こえる。そして女性は「そういう人間をもう何度も見てきた」と続ける。「それに比べたら私なんて可愛いもんだと思うがね」と。
私は次の電車が到着する前に駅を出た。古澤さんはきっとここには来ないだろう。湿気で汗をかいたお茶を一気に飲み干してそっと捨てた。
夜中に電話の着信音が鳴り響き、私は目が覚めた。電話に出た母親がすぐさま血相を変えたのが分かった。その後、母から病院の名前が出ると、私は祖母に何かあったのだと悟った。
父の運転する車に揺られること十数分。私は複雑な気持ちだった。もちろん祖母にはいつまでも生きていてほしいけれど、今のこの姿では祖母に会いたくないというのが本音だった。
病院に入ると、看護師さんに連れられて私たちは集中治療室の前まで来た。私や家族は祈りながら祖母の帰りを待った。数時間経った後、手術中のランプが消え、一人の医師が外へと出て来た。そして医師は何かの合図のように首を横に振った。それは何を意味するのか言われなくても分かった。ああ、祖母は死んだんだと。
場が落ち着いた後、私は祖母の顔を見た。その瞬間、胸の奥に隠していた罪悪感がドッと溢れ出て止まらなかった。吐きそうになるのを抑えて私は何度も謝った。祖母が「もういいよ」って言ってくれるまで何度も何度も。
帰りの車の中は重い空気が漂っていた。したくもないこれからの話を数分おきに続けている。私は今にも雨が降り出しそうな窓の外を眺め、延々と流れる街灯を目で追っていた。すると、父が今にも消え入りそうな声で呟いた。
「母さんも最後に朋子の髪を切ってやりたかっただろうなぁ」
外は雨が降り出した。延々と続いていたはずの街灯がそこで途切れて見えなくなった。車は家の前に停まり、私は外へ出ようとドアノブに手をかける。窓にうっすらと映った自分の姿はどこか古澤さんと重なって見えた。
私は再び学校に行くようになった。友達はもういないし、楽しみな事も一つもない。それでも私は学校へ向かうようにした。
私が学校に行くようになってから数日後、古澤さんは学校を休んだ。それからというものちょくちょく休みが続くようになり、ついには学校に来なくなった。古澤さんが姿を見せなくなってしばらく経った後、担任の先生から転校したということを告げられた。クラスメイトは一丸となって驚きの声をあげ、もう会えないことを悔やんだ。
私はただ一人教室を端から端まで見渡していた。あの時拾い上げた赤い帽子を探して。しかしそれはどこにも見当たらず、この教室からすっかり姿を消していた。それを知って私は安心した。古澤さんには宝物を取り戻してほしかったから。
(私はどうだろう。無くした宝物を拾えるのだろうか)
隠しきれない不安を抱えながらも、それが何かの引き金となったように私は放課後、美容室へと向かった。
美容室に向かう途中、私は駅に寄り道をした。お茶を買ってホームのベンチに座った。少しの間そこに座っていたけれど古澤さんは来ない。そして、妙に癪に障る女性も現れなかった。私はリュックを隣の席にのせ、足を大胆に広げてお茶を飲んだ。前を通る人たちは皆、私を変な目で見ながら通り過ぎる。私はおかしくなってクスクスと笑う。
駅を出て、通り道にある公園で半分以上残ったお茶を一気に飲み干し、ごみ箱に向かって投げた。それが上手く入って私は小さくガッツポーズをした。喉をしっかり潤わせたことだし、これで美容師さんともしっかり話すことが出来るはず。私は公園を抜けて見覚えのある美容室へと入って行った。
日曜日の夕方、夕日が差し込むリビングで私は家族と向かい合い、真面目な顔で座っていた。そして「私、美容学校に行きたい」ずっと胸の中に秘めていたことの一歩を切り出した。
真剣な顔で話す私を家族はまた真剣な表情で見守った。
「今の学校はどうするんだ」と父親は聞いた。「よく悩んで決めたことなの?」と母親は聞いた。そして私はただ、祖母の後を継いで自分の夢を叶えたいんだと本心を語った。すると家族はそれ以上深く詮索せず、反対することもなかった。思えば私が自分の意見を面と向かって言ったのなんて初めてかもしれない。この時、私は惑星から一つの恒星になれたのだろうか。
私は黒色に戻した自分の髪を触りながら、自分の部屋に戻った。ふと机に飾ってある写真に目がいく。それは一昨年、箱根へ旅行に行った時の写真だった。その写真の中で祖母はこちらを向いて笑っていた。私は少し照れたように指に髪を巻き付けた。
強い人になれなくても強い人の支えになる存在になりたい。就職の面接にはこの台詞を必ず言おうと決めていた。それはずっと昔から私の心の底にあった目標であり、信念だった。
現在私は三十歳を超えた。今では小学校の教師の仕事に就き、ぼちぼちの生活を送っている。自分で言うのもなんだが、子供たちからの評判は悪くない。みんないう事を聞いてくれるし、いい子たちだ。ただ一人不安な子がいる。臆病な性格で少し変わっていて、周りと打ち解けようとしない。だけどこの子も含めたみんなの夢が叶うように私は努力しようと思っている。
授業参観の日、「将来のゆめ」を発表する授業で私は彼女を指名した。黙ったまま発表しないんじゃないか、この場から逃げ出してしまうのではないか。その気持ちがよくわかるだけに、そんな悪い予想ばかり立ててしまっていた。しかし彼女は立ち上がった。そして自信を持って発表した。
「私はびようしになりたいです。私はパパや先生みたいにきれいな髪の人が好きだからです」
自然と涙がこぼれてしまっていた。拍手をする手が止まらなかった。
「先生どうしたの?」
「泣いてるの?」と子供たちから心配の声が上がる。
「あれ、どうしたんだろう私」
本当は気づいてる。なぜ涙が止まらないのか。どうしてこんなにも悔しくて、こんなにも嬉しいのか。
涙を拭い、前を向くと後ろで授業の様子を見ていた男性が赤い帽子を深くかぶり直し、恥ずかしそうに俯いた。
「先生さようなら!」
「はいさようなら」
私は子供たちを校門で見送ると、職員室に戻った。
翌日配る予定のプリントの確認を行いながら、私は自分の指に髪を巻き付ける。ふと子供たちに「先生、長い髪も似合いそう」と言われた時のことを思い出した。また昔みたいに伸ばしてみるのもいいかもしれない。そんなことを考えていると、窓から入ってきた春風が机の上のプリントを床に散らした。それを拾う私の髪に、どこからか紛れ込んだ黄色い蝶々がひらりと止まった。
寒い冬の日。天候は良くはなく、曇り空だ。私はある試験の結果を見ている。私の手元には「42356」と書いてある紙がある。
そして目の前にちょうど今布がめくられて合格者の受験番号がずらりと並んでいるボードがあらわとなった。
「やっと」
無意識に言葉が漏れる。知り合いのいない山梨の大学まで来て特殊な教員の資格を取るためにわざわざ習いに来たことが身になった瞬間だった。
「葵(あお)、受かってた?…」
同じ試験を受けていた同級生が私の顔を覗きながら聞いてくる。
今、私はどんな表情をいているのだろう。よくない表情をしているのは覗いてきた子の、やってしまった、と言うような表情を見て理解した。
「受かってたよ」
心配をかけないように微笑みながら合格報告をする。
「え?」
私が落ちていると思ったのだろう。合格報告をすると一瞬思考が停止したみたい。
「ほんと? ほんとの本当? やった! 私も受かったよ!」
受かったと言う言葉を認識した彼女は私の手をブンブン振りながら喜んでいる。私以外にも受かった人は当然多くいた。喜ばしいことに感じる。
ここから教員になるための実習なども始まるだろう。
夢を叶えるためにはまだまだ課題は多くある。
やると決めたこと。やっと私は蛹から羽を出して飛ぶ準備を始められるのかな。
家族の形はその家族それぞれだろう。子どもを見守りながら自由にさせてあげる家族もあれば、過保護と呼べるほどに心配する家族もある。その逆で全く関わらない家族もまた然り。
その中で私の家族は特殊だろう。母も父もしっかりと私たち兄妹に愛情を注ごうとしている。しかし、父は毎日帰ってくるのが遅く、母は自分がやりたい仕事が子育てでできないことでストレスが貯まっているのか、よく寝ている。だから私が兄の面倒を見ることが多かった。
兄は変わっている。髭はあまり剃らないし、兄が大学生になっていちいち絡んでくる時も「あおちゃん。あのね。」と必ず最初につけて会話を始める。同じ曲を何度も聞くし、私には理解ができない人だ。仕方がないことだ。
それもそうだろう。兄は俗にいう「障がい者」だからだ。症状としてはダウン症の一種らしい。子どもの頃は普通なのではと思っていたが、今ではおかしく感じる。
その影響からか、子どもの頃から私はしっかりしていると言われていた。兄と関わるうちに自然としっかりしなければいけないと思うようになったからなのだろう。
しかし、私の家はある意味この時点で壊れていたのかもしれない。今ではそう感じる。
もう7年も前の話だ。覚えていないことも非常に多い。
私はこの頃中学2年生でしっかりはしていたが、人間がちゃんとできていたわけではなかった。
中学の頃、私が通っていた中学校はおそらくあまり頭の良い学校ではなく、精神的にも幼い学校で、時々喧嘩もおこるし虐められて不登校になった子も何人かいる。
しかし、私にとってはあまり関係のない話だった。これらは私がいるクラスでもないし、関わりもないから。
この頃から男子も女子も変わってきた。男子は一つの大きなグループのようなものを作って行動してたり、アイドルやアニメに興味を持ち始める人も増えていた。女子はスカートを折ったり、メイクなどの話もし始める子もいる。
その中で私は仲の良いグループ4人くらいで集まってそこでワイワイやっていた。メイクやアイドルとかをお勧めされたりしたが、結局ハマるものはなく、そういう人たちともそりが合わなかった。クラスでは静かにしている人というような立ち位置だっただろう。
クラスの引き運は3年通して悪くなかった。仲の良い4人は同じクラスか、2人ずつに分かれて1人になることはなかった。
この頃の私は仲が良い子数人と一緒にいれれば良かった。そのほうが楽だったから。
しかし、兄も同じ中学を卒業してて一部の先生や歳が上の兄弟がいる生徒には知られていた。
だから、兄が同じ中学というのは面倒なことを起こすことが多かった。
「今、お兄さん元気にしてる?」
などの心配される声ならばあまり面倒ではない。しかし、それだけで済むわけはなく
「お前の兄、障害者なんだろ?お前も障害者じゃね?」
というような、相手のことなど何も考えていないようなことを言われることもあった。
こういうこともあってか私は兄が嫌いだった。毎回毎回面倒ごとを持ってくるし、家ではいちいち色々なことをやってあげないといけない。必然的に私の自由な時間は減るし、ただの迷惑だと、そう思っていた。
この日のことは今でも繊細に覚えている。
家で動画を見ていると警察から電話が来た。家には私しかいなかったので電話をとると告げられたのは、兄の死だった。
死因は自殺。大学のあまり人の来ない教室で静かに首をつっていたらしい。実際に私が兄を見たのは死体が家に届いた時であり、首をつっていた姿は見ていない。
私は兄が嫌いだった。面倒ごとを巻き込んでくるし、いちいち色々なことを教えないとできない。苦痛が大きかった。
しかし、死んだと言われてすぐに理解できなかった。
頭の中が真っ白になった。無意識に涙が溢れれてきて声がかすれて足も震えてしまった。
何も考えられないまま警察の言うとおりに両親を呼んだりした。
身近な人が死ぬ。これは両方の祖父母がまだ生きていた私にとっては初めてだった。
私は、何をしていたんだろう。
兄がなぜ自殺したのかはわからない。普通の考えじゃないかもしれない。私は何もわからなくなった。だから学校にも行けなくなった。
父も母も私が学校に行かなくなったことに何も言わない。
私はこのままだとどうなるかわからないと将来を不安に思いながらも人と関わるのができなくなった。
悶々とした感情を抱いて引きこもっている中、学校側からカウンセリングの紹介の手紙が送られてきた。
なぜこのカウンセリングを受けようと思ったかはわからない。このままだといけないという気持ちも大きかったんだと思う。
事前に電話して実際にあって話す日を決めた。
そして、当日の12時を少し過ぎた時間くらいだろうか。私はその場所へ向かった。
家を出て最寄駅から電車に乗り、下北沢のお店が多くある方面とは逆にある住宅街の中にその場所はあった。小さなアパートでその一室を借りているのだろう。
インターホンを鳴らすと中から「はい」と優しそうな声が聞こえてくる。
「こんにちは。先日電話で相談した寺崎です。」
「はい。少しお待ちください。」
インターホンを使った会話を終わらせた後、すぐにアパートの二階のドアが開けれる。
「ここまでいらっしゃってありがとうございます。どうぞお入りください。」
私は会釈した後、階段を上ってその部屋に入った。
部屋はトイレや小部屋の扉がある短い廊下を抜けると、小さなキッチンと書類が並べてある棚、あとはカウンセリングをする場所であろう大きめのテーブルと囲うようにある6つの椅子。そして大きくゆっくりと動いている古時計があった。無駄な物が置かれていないので無駄に緊張することもなく、少し安心した。
「そこに座ってくださいね。今飲み物を用意しますね。お水とお茶どちらがいいですか?」
「お水でお願いします。ありがとうございます。」
お水はよく兄が飲んでいた。ジュースや牛乳とかがあっても必ず水を飲んでいたことを思い出す。
「辛そうな顔をしていますね。なんでも相談してくださいね。」
表情を読み取るのが得意なのだろうか、私が兄を思い出しているときにカウンセリングの方は話を切り出してくれた。
何かを言おうとしても何も話し出すことができない。頭の中がグルグル回って何も考えられなくなる。
「辛いなら、ゆっくりでも大丈夫ですよ。時間はいっぱいありますから。」
相手は優しく話しかけてくれるのがありがたかった。深呼吸をしながら頭の中を整理する。
その間にカウンセラーの方は少し話してくれる。
「私の名前は相沢と言います。複数の小学校、中学校でカウンセラーとして働いています。」
「私は寺崎葵と言います。中学2年です。えっと、今は学校に行けていません。」
「はい」
「学校に行けなくなった理由は一応わかっています。1ヶ月前くらいの頃、兄が自殺してしまって。」
息が止まる。何を言えばいいかわからなくなる。どれだけ時間がたったかわからない。それでも相沢さんは私が話すまでゆっくりと待ってくれる。
「兄は、障がい者で、人と違っていて。理解できなくて。死んだのもなんでか全然わからないのが怖くて。」
ポツリポツリとひび割れたガラスのポットから水が滲み出るように漏れ出す。
カチッカチッとなる古時計の音が早く聞こえる。
「葵さんはお兄さんのことを理解できないものとして見ていたのですか?」
理解できない者。そうかもしれない。普通とは違う障がい者。私は兄に対してそう思ってきたし、他の人もそう思ってきたのではないか。自分だけが思っていることではない普通のこと。
「そっか。葵さんはお兄さんと仲は良かったのですか?」
悪くはないと思っている。私は嫌いと言っても、面倒は見ていたし、兄もよく関わってきていたから。
「亡くなった原因とかはわかっているんですか?」
それがわからない。なぜ兄は自殺なんてしてしまったのか、何を考えていたのかがわからない。どうしてそういう行動をとるのか。
相手の行動が理解できない。それが怖い。
「一度考えてみましたか? お兄さんがどのような気持ちだったのかを。」
考えられるわけがない。だって兄は障がい者だから。自分とは違う。
「それでも、一度考えてみてください。いつもあなたのお兄さんは何を考えていたんでしょう。」
特別な日でもなんでもない。ただの日常で私は兄と会話する機会は多くあった。例えば夕ご飯。兄は帰ってくると毎日夕ご飯は何かを聞いてくる。
なぜ聞いてきたのだろうか。
私がご飯を作っている間に兄は毎日お風呂を沸かしてくれる。その時も毎回「お風呂入れるね。」と言ってからお風呂場へ行く。
お風呂を入れ終わると自分がどこにいるかを必ず言うし、何かするときは何をするって必ず言う。
自分が何かをしていると言う事で、何がしたいのだろうか。
私が兄の立場のときは何故逐一報告するのか。
私だったら相手を心配させないため、かな。そして私が素っ気ない反応をすると確認のようにもう一度必ず聞こえるように言ってきた。
これはちゃんと聞こえてるかわからない、不安になるからかな。
私は、兄をこのようにみてしまっていたのか。
本当にこのような考えだったかは、わからない。完全に理解することなんてできない。
でも、私は兄の気持ち、考えなんて理解しようとしていなかった。理解しようともしないで突き放していた。
他にもいつもの生活を思い出す。兄は必ず大きな声で「行ってきます」と言った。反応がないとリビングのドアを開けてもう一度言った。
他の人だってそうだ。さりげない一つ一つの行動をなぜやるのか、相手の気持ちになって考える。そんなことしてこなかった。
けどこの考えがあっているとは限らない。けど、把握や感じることはできる。より関われば関わるほど。
様々なモノが漏れ出ていたひびが塞がった感覚が心に生まれる。
ふと、周りを見渡した。キッチンにはいくつかの使用済みのコップが置かれていて、テーブルにはお菓子や飲み物などが置かれていることに気づいた。書類が多く並べられていると思った棚も、小説や漫画も一緒に置かれていた。
大きな古時計はカチッカチッと一秒刻みで振り子が小さな音を鳴らしている。
「今、葵さんは何を考えてここにいるのでしょうか。」
より鮮明に相沢さんの声が聞こえてきた。
私は何を考えてこの場所でカウンセリングをしているんだろうか。
「不登校になってしまったけど、また学校に行きたいから。」
しっかりと言葉にすることができた。今までふわふわとしていたものが一つに固まった気がした。
「そうですね。今、学校に行きたいですか?」
「はい。行きたいです。行けると思います。」
「そうですか。もう、大丈夫みたいですね。安心しました。」
相沢さんは微笑みながらそう言うといつの間にか空になっていたコップにお水を注いでくれる。
「あ、ありがとうございます。」
「いえいえ。他に何か相談事はありますか?」
「多分、大丈夫です。私の周りには私をわかってくれる人がいますから。」
カラカラになっていた喉を潤す。そして相沢さんの顔をしっかりと見る。
「今日はありがとうございました。気持ちの整理ができました。」
私は立ち上がって礼をする。
「こちらこそお役に立てて良かったです。他に何かあったら私たちはいつでも相談に乗りますよ。」
「はい。その時は頼らせていただきますね。」
そう言って私のカウンセリングは終わった。
まだ暗くなるのが早い時期でもないのに外に出ると周りはもう真っ暗だった。慌ててスマートフォンを見てみると夜の7時くらいで少し焦った。
そこからは特に何もなく家に帰って次の日の支度をした。最近は母が作っていた夕飯も、母がまだ帰ってきていなかったので私が作った。その時気付いたのだが、お玉や菜箸などボロボロになっていた料理道具が新しくなっていたことだ。
その時、両親は私が不登校になった時何も言ってこなかったが、気を使ってくれてはいたんだなと知った。このことは今でもしっかりと覚えていし、お玉は山梨まで持ってきて愛用している。
母はこの後働き始め、父の仕事はひと段落したようで、早い時間に帰ってくることも多くなった。兄がいない家庭は今までと変わって安定していった。
学校には何事もなかったように登校したのは覚えてるけど、他のことは詳しくは覚えていない。私といつも一緒にいた3人は何も変わらずに関わってくれた。
多分変わったのは私だけなんじゃないかなって今でも感じている。
みんなはしっかりとわかっていた。結局壁を作っていたのは私で、この時が変わるタイミングだったのだろう。
山梨にいる今でも必ず年に2回以上はお墓参りにかならず行っている。もう少し早く私が変わっていたら兄は亡くならなかったかもしれない。しかし、変わったきっかけになったのは兄の死であり、また私が変わっていたとしても兄の死は変わらなかったかもしれない。そんなこと誰にもわからない。
山梨まで来て障がい者のための学校で教師をするための資格をとりに来た判断は間違えていないと思う。私の夢は高校生の時に決めて、それを叶えるためにいまでも頑張っている。
私と同じ学科を選んで資格を受けたみんなと歩きながら私はスマホを開く。
合格報告は私を支えてくれた3人が最初って決めていた。
二十余年、私は勝ち組の人生を送ってきた筈だった。
幼い頃は神童と持て囃され、地域の子供たちは「杵屋くんみたいになりなさい」と言われていたことを知っている。小学校のテストでは一番を取り続け、小学五年生の時には全国模試で一桁の順位を取ったこともあった。
そんな中、初めて経験した挫折は中学受験だった。最難関と謳われた中学に落ち、二番手程度の学校に落ち着いた。だが私は諦めなかった。中高と一心不乱に学問に打ち込み、大学はトップクラスの私大に入学した。
「流石は杵屋さんちの息子さんね」「横浜の杵屋は博学才穎」と周りからは大学に進学した後も誉めそやされ、気がつけば私は二二歳を迎えていた。
全てが誇らしかった。私はエリート道をこれからも歩んでいくと信じて疑わなかった。官庁の公募に応募し、残すは最終選考だけだった。なのに、その官庁には勤めることが叶わなかった。私はまた挫折を経験したのだ。生まれて二度目の挫折は、私の心に大きなひびを入れた。
結局、書類だけ提出していた二流企業に採用され、そこに春から勤めることになった。私はその会社で一番のエリートだった。それは間違いない。周りには眼鏡と筋肉しかいなかったからだ。しかしそれは悪夢の序曲でしかなかったと三年目の春、ようやく気づいた。
「き~~~ね~~~や~~~くぅ~~~ん」
中性脂肪が溜まりに溜まった遠藤課長が、息を切らしながら粘着質な声で私を呼ぶ。この光景は何度目だろうか。百を超えた辺りからは数えるのをやめてしまった。課長がこの声を使うときはいつだって問題の始まりだった。
「なんでしょうか、課長」
努めて冷静に、頭を空にして応答する。それが最善だともう体に染みついてしまったから。エリートであると暗示をかけて。
「杵屋君さぁ、これはとーーってもすばらしいものなんだけどさ、ちょーーっと僕の意向とは逸れてるっていうかね。だから、直してくれないかな今日中に。頼むよ。ああそう、あとこれは追加の仕事だからよろしくね」
「委細承りました、課長」
今回、悪魔から宣告されたのは地獄行きの片道切符だった。何か一言言わなければ気が済まない。だが、私の口からは機械のように冷たい承諾の返事だけが零れ出た。君ならできると、期待されているのが分かってしまったから。
何もかもを諦めて、目の前のデータの羅列に視線を動かす。この会社は所謂ブラック企業なのだと、納得させるために。
ジリリリと列車の発車メロディーが流れだす。ドアの駆動音を内側で聞きながら、時間を確認すれば、これが最終電車だった。まだ火曜だというのに、既に疲労困憊だった。だが仕事はやり切った。昼も夜も何も食べていないが。
車窓からいつもと何も変わらない風景を眺め、憂鬱な気持ちで帰路につく。最寄り駅を降り、しばらく歩くと自宅が見えてくる。築五〇年のボロアパート。こんなものでも、自分の居場所はここだと示してくれているようだった。
ギシギシと音の鳴る階段を上り、二〇五号室の鍵を開けようとして、鍵がかかっていないことに気づいた。そのことに感情が昂ぶる。私にも待っていてくれる人がいることが。なによりも。そう。
「ただいま」
自分の今出せる精一杯の声は掠れていた。それでも声は届いたようで、ガタンと音を立ててから僕の前に天使が舞い降りた。
「おかえりなさい、杵屋くん」
彼女は竹中悠里という。大学の同期で、サークル内で知り合った。現在はライターとして活動しているらしいが、同棲した今でも詳しいことは聞かされていない。物腰が柔らかく、おっとりとした美人で、歌が上手く、彼女に惚れていた奴は多かった。私も気が付くと彼女を目で追っていた。けれど、高嶺の花だと諦めていた。そんな中、ある事件をきっかけにして、二年前から交際を始めた。
悠里とは、半年ほど前から同棲を始めた。悠里が居てくれる事実は私を限りなく安心させた。今日は特に疲れていた。今だけは甘えても許されるだろうか。
「悠里、待たせてごめんな」
いいの、さっきまで作業をしていたから。それよりご飯を作っておいたのだけど食べる?」
「ありがとう、いただくよ。昼から何も食べていないんだ」
「じゃあ温めておくから先にお風呂に入ってきて」
言われたように風呂場へと直行する。疲れと癒しの感情が入り混じっていたからだろう。机の上に見慣れないものがあったが、それが何か分からなかった。
シャワーを浴びながら。悠里がいる。私だけを見ていてくれる。これほど幸せなことがあるだろうか。就職の挫折も、過酷な労働も、悠里がいれば乗り越えられる。そう感じた。
風呂から上がると用意されていたのはシチューだった。
「どうしたんだ、これ」
「どうもこうも、今日はあなたの誕生日じゃない。一時間遅れだけどね」
「覚えていてくれたのか。ありがとう……」
目頭が熱い。私は泣いているのか。わからない。ただ嬉しくて。様々な感情が堰を切って溢れ出す。
「どういたしまして。ケーキも買ってあるのよ。それにほら」
そういって彼女が渡してくれたのは、綺麗にラッピングされた小さな箱だった。
「開けてもいいかい」
こくんと頷く彼女を見て、包みを開く。中から出てきたのは腕時計だった。
「お誕生日おめでとう! あなた、いつも帰ってくるのが遅いじゃない。だから、これで少しでも時間を気にしてくれたらっ」
言い終わらない内に私は彼女を抱きしめていた。鼻孔をシトラスの香りがくすぐる。
「ありがとう……嬉しいよ。大事にする」
声は詰まって上手く伝えられたか分からない。それでも、ただずっとこうしていたかった。
カチカチカチカチ
その後はケーキを食べ、ゆったりした時間が流れていく。時刻は二時を回ろうとしていたが、二人とも寝付けそうになかった。物音はなく、二人だけの静かな時間が流れていた。幸せな時間だった。けれど、そんな空白を埋めるように悠里は突然、告白を始めた。
「私、実は信仰している宗教があるの」
そういって悠里は真っ赤な顔で、言葉を選びながら話し始めた。
「ほら、あなたに一度助けてもらったことがあるでしょう。その時はそれでよかったの。でもどうしても不安がこみ上げてきて……。また何か起きるんじゃないかって思ったの。そんな時にビラを貰って。気になって、日曜の集会に参加してみたの。そしたらそこにいる人たちはみんないい人でね。そこから通うようになって」
悠里はそこで一度言葉を詰まらせた。目は虚空を彷徨い、体は小刻みに震えている。それがたまらなく不安で、彼女の体を抱きしめる。しばらくすると震えは止まり、落ち着くように大きく息を吸っては吐いてを繰り返した。今度は腕をかばうようにしながら、再び真っ赤な顔で言葉を紡ぎだした。
「だから、杵屋君も今度の日曜に一緒に集会に行かない?」
「今、なんと?」
「杵屋君、ずっと忙しそうにしてるでしょう。だから、一度ゆっくり羽を伸ばすのもいいと思うの。……それに、デートも、してないし」
「わかった。なら、日曜は一緒に行こう」
「いいの……?」
「悠里の信じるものは大丈夫だと思うから」
「やった! じゃあ約束だからね」
「あぁ、約束だ」
夜はただ更けていく。人の感情とは無縁に。それでも闇夜の中に、一つの光が空から遠い場所で照らしていた。
カチカチカチガチ
山ほど押し付けられる仕事の束をこなしていく。日曜に悠里とデートが出来る。それだけで課長の猫なで声も、膨大な仕事も乗り越えられた。
残りの日々はあっという間に過ぎ去り、日曜日がやってきた。晴天の空は、今日という日を祝福しているようだった。
「せっかくデートなんだし、家で集合ってのもね」
とは悠里の提案だった。そのため、こうして最寄り駅で待ち合わせをしている。
貰った時計で時刻を確認しながら悠里を待っていると、遠目でもそれとわかる人影が近づいてきた。
「ごめん、待った?」
そういって息を切らしている彼女は、春らしい色が散りばめられた長袖のシャツに、ロングスカートを合わせていた。
「いいや、今来たとこだよ。それよりも、かわいいな」
私は、思ったそのままを口にしていた。普段眺めている長袖長ズボンのラフな格好もかわいいが、新鮮な表情を見せてくれる服装も限りなく愛おしかった。
「ほんと? ありがとっ。杵屋君こそ、時計つけてくれてるんだ」
「彼女からもらったプレゼントだからな」
「照れるからやめて……じ、じゃあ行こ!」
二人手を繋ぎ、改札口へと向かう。電車を乗り継ぎ、やってきたのは何の変哲もない町だった。駅前こそ整備されているが、少し道を歩くと寂れた商店街が広がっていた。
「もう少し行ったところにあるの」
そういわれて辿り着いたのは、郊外の五階建てのビルだった。悠里はベルを鳴らし、名を告げる。そうして、内側から開いたドアをくぐり、階段を上る。扉を開けると、そこには老若男女問わず多くの人がいた。彼らの表情は生き生きとしていた。笑顔で談笑し合う姿を見れば、彼らが幸せであるのだということは一目で分かるだろう。だが、私には彼らの笑顔が、絵を貼り付けられたかのように不気味だった。
「悠里、この人があなたの?」
突然、冷水を一気に浴びたような衝撃が私を襲う。先ほどとは違う恐怖心。遠くから、カツカツとヒール鳴らしてやってくる女性が、先ほどの声の主だと気づくのに時間はかからなかった。
「はいマザー、興味を持ってくれた彼氏です」
「そう。ここは傷ついた翼を癒すにはいい場所よ」
それだけ言うと、悠里より少し年上に見えた女性は去っていった。
「今の方はマザー。ここの教祖で、とってもいい方なの」
満面の笑みを浮かべながら悠里は説明してくれる。その笑顔が眩しくて、私の先ほどの疑問はどこかへ吹き飛んでしまった。
その後行われた集会は、まるで老人会の集まりのようにささやかに終わった。
「これで終わりか?」
「ええ、今日はあなたもいるしこんなものじゃないかしら」
「ここはいい場所だな」
「そう? 気に入ってもらえたならよかったわ」
再び魔性の声がする。マザーは蠱惑的な笑みを浮かべながら、此方へ近寄ってくる。
「今日は貴重な時間をありがとうございました」
努めて冷静に返事をする。課長とは別タイプの人種だが、成すことは同じだ。エリートであれと。呪文を唱えて。
「あなた、仕事で随分と苦労しているみたいね」
「それなりに、でしょうか」
「転職はきっとあなたを救うでしょう」
それだけを言うと、マザーは悠里と話し始めていた。周りをボゥと眺めていると話は終わっていた。マザーは既にどこかに消え、悠里は申し訳なさそうな顔で私を待っていた。
「マザーにお使いを頼まれてしまったの。ごめんなさい、先に帰ってもらっていい?」
「分かった、また後でな」
「うん、また後でね」
悠里を残して一人帰路につく。今日はずっと一緒に居たかったが、あんな顔をされたら断れなかった。
最寄り駅まで鉄路で揺られる間、マザーに言われた言葉を反芻する。
「転職か……」
電車のニュース映像には国会の映像が流れている。大西総理が「雇用の創出を目指した政策を打ち出す」ことを明言した様子が映し出されており、他人事ではなかった。仮に転職をするとして、自分を雇ってくれる場所はあるのだろうか。不安だった。そこにかつてのエリートの姿はなく、ただ虚しさに震える小さな男がいるだけだった。
カチガチカチガチ
結局、悠里が帰ってきたのは私の帰宅から大分経った後だった。
帰ってきた彼女はどこか幸せそうな表情を浮かべていた。何かが満たされているような感覚。私といるときには滅多に見せない表情を浮かべているのがどこか悔しくて、ポロリと言葉を零す。
「マザー、すごかったよ。人を引き付ける力っていうか」
「そうなの。彼女の言うとおりにすると必ず成功するって言われるほどなのよ」
「そうなのか……」
「なにか、言われたの?」
「転職を考えたほうがいいだろうと。困惑、している」
「マザーに言われたのよね。そしたらそれはきっと真実だわ」
「やけに肩を持つんだな、悠里は」
「だって、マザーはあたしを事件から救ってくれた張本人ですもの」
「あの事件の……?」
悠里は二年前、ストーカー被害にあった。その事件に関わりがあった私は、彼女のケアのために一緒にいる時間が長くなった。それからしばらくして、交際に発展した。だがその裏でマザーが関わっていたことは、今初めて彼女の口から明かされた。
「ええ、だから彼女の言うことは絶対なの。だから杵屋君も転職するべきよ」
「悠里がそこまで言うなら転職、考えてみるよ」
「うん、絶対うまくいくよ。杵屋君ならもっといい仕事が見つけられるよ」
悠里はずっと私のことを見てくれていた。その悠里が信じるマザーだ。一度信じるのも悪くはない。それに、あの会社には不満が累積している。ここまで虐げられてきたのを解放するいい機会かもしれない。それに私には悠里がいてくれる。きっと彼女はどんな選択をしてもついてきてくれるだろう。
「……悠里」
「なーに、杵屋君」
「転職することに決めたよ」
「マザーを信じるのね、嬉しい! あたしもできる限りのことはするわ」
「ありがとう……。これからずっと支えてくれますか?」
「ええ、もちろんよ」
私はなんて幸せなのだろうか。支えてくれる人がいる。私の二五年の人生でこんなことは初めてであった。一人なら、きっと転職なんて手段は考えもしなかった。例え思いついても実行しなかっただろう。そばに居てくれる人がただ嬉しくて。「……悠里」振り向いた彼女の唇にそっと口づけをした。
カチカチガチカチ
その後会社には退職願を提出した。引き留めの声はあったが、すべて無視した。私には悠里がいてくれる。それだけで、怖いものなどなかった。
転職先を探しながら、悠里と幸せな日々を送る。朝をコーヒー豆の香りが包み、おはようで一日がはじまる。久方ぶりの自由な時間が過ぎていく。晴れの日は二人で流れる雲を見た。日が落ちれば星を眺め、郷愁に思いを馳せた。雨が降れば、降りしきる雫の音を楽しんだ。すべてのものが美しいと感じた。隣にいてくれる女性が、大切で愛おしかった。この時間が永遠に続けばいいと、そう思った。
カチガチガチガチ
退職した日から二週間後の日曜がやってきた。再び集会が開催されるというので、二人で集会所に訪れていた。
今日の集会は先週とは様子が異なっていた。皆、何かに取りつかれたようで、焦点が合っていなかった。
「悠里、彼はここに入信するのかね」
「マザー、彼はきっとあたしたちと共に生きてくれるでしょう」
隣から聞こえてくる悠里とマザーの会話は成立しているようで、何も生まれていなかった。
耳をすませば、そこら中で道化師の笑い声のような会話だけが成立していた。
隣の部屋からは獣の唸り声のような声が聞こえてきた。
全ての狂乱の中心にいるのは間違いなくマザーだった。
マザーは悠里との会話を終えると一目散に隣室へと入る。
それを追いかけるようにして辿り着いた場所には、何もかもを覆す光景が広がっていた。端的に言おう。そこで行われていたのは集団自傷行為だった。
ガキッゴキッガキッゴキッ
あるものは腕や足をカッターで切りつけていた。あるものは金属バットで己の手足を打ちつけていた。あるものはニッパーで爪を剥がし続けていた。その他、彼らはそこら中にある道具で自傷行為を行っていた。
「なんだ、これは」
零れた言葉は震えていた。
「わからない? これは生を実感しているのよ」
視線を動かした先にはマザーが妖艶な笑みを浮かべて、ただ。そこに。
マザーの手は、脚は、首は、ありとあらゆるところに自傷の痕があった。
余りの惨状に言葉を失っていると、マザーは言葉をなおも繰り出す。
「ここにいる人は皆、生の実感を得られない人ばかりなの。だからこうやって、自分が生きていることを確認し続けるの。あたしや、悠里のように」
そういってマザーは、私の後ろを指さす。
ギギギギギギギ......
そこには、だらんと腕を下げた悠里が居た。シャツは切られ、半袖ほどの長さから見える腕は、切り傷で真っ赤に染まっていた。
私に気づくことなく、一心不乱に傷をつけていく悠里。その表情は恍惚としか形容できなかった。ただ、ただ、恐怖が心を染めていく。
「悠里、これはあなたが望んでいることなのよね」
「もちろんですマザー。あたしは事件の後、マザーと同じようにすることでしか生を実感できなくなったように」
悠里の顔で、悠里の声で、死刑を宣告されたようだった。今まで経験した、どんなものよりもそれは重く、重く私に圧し掛かった。
ガ ガ ガ ギ ギ ギ
「おい、悠里……」
私の言葉は虚無に消えていく。私だけが異端の世界で、たった一人だった。部屋の至る所で、快感に身を委ねる声が聞こえてくる。ここでは彼らが正義で、マジョリティだった。
「目を覚ませ」「帰って来い」
どんな言葉を投げても、悠里の耳には何も聞こえないようだった。何かを呟きながら、ひたすらにカッターを動かし続ける。
「こっちにおいでよ、きねやくん。きもちいいよ」
ようやく拾えた呟きは、私の体温を一気に奪ってしまった。震えていた体はさらに激しく、歯が音を立てる。途切れ途切れに発せられる言葉は、私を見ているようで何もとらえてはいなかった。
ガ ギ ガ ギ
「おかえりなさい、杵屋君」「お誕生日おめでとう」「デートしたい」「ありがとっ」
ここ数日で悠里に言われた言葉がフラッシュバックする。悠里はあの時もこの時も、一番の宝物は得ていなかったと思い知らされた。彼女の浮かべる笑顔は作りものだったから。
彼女が最も幸せに浸れる時間は、私と過ごす時間ではなかったと、わかってしまったから。
「悠里、ここで別れよう。お互いのことは忘れて、自由になろう」
吐き出した言葉は、恐ろしいくらいに冷酷で。周囲の温度が急激に下がったようだった。
「どうして、そんなことゆうの?」
悠里の言葉は、乾いてかすれていた。うまく現実が呑み込めていないみたいだった。そんなことはお構いなしに、本能のままに言葉を使う。
「何も、信じられないから」
ずっと、一緒に居たかった。
「あたしは、あなたのそばで、ささえつづけるの」
ああ、私もそうしてもらいたかった。
「忘れよう、全て」
でも、それはもう叶わないから。
「いやよ。ぜんぶあたしのたからものなのに」
私にはあなたしかいなかったのに。
「大好きでした」
もう、繋いだ手は離れて。
「まっ……」
そのまま、走り出した。
ガチャン
何かが止まった音がした。ふと見た時計は、長針も短針も六を指していた。
捨てよう。今までの思いを、記憶を。エリートだった自分。悠里と過ごした時間。そのすべてを。
「今までありがとう」と短く呟いて、深く何も見えない闇の中から走り出した。
私が彼女と別れてからしばらくした後、マザーと名乗るものを筆頭に集団自殺を引き起こした宗教団体があった。自殺者は三〇名に上るとされており、彼らはお互いに手足首を削ぎ落して死んでいた。この団体では長らく集団自傷が行われ、それが行き過ぎた結果が今回の事件につながったという。しかし一連の死者は全員、この上なく幸福な表情のまま死に絶えたそうだ。
拾い上げた新聞には彼女の写真が載っていた。やつれた中年女性という印象しか残らない、特徴のない顔だった。
「なんだい杵屋。新聞なんて読んで学者気取りか?」
「何でもないですよ、丹波さん。それより、そろそろ仕事に戻りましょうか」
集団自殺の記事と、挫折は三度までと書かれたコラムが載った新聞を屑箱に入れ、立ち上がる。
六時三〇分を指したままの時計を腕に巻いて、歩き出した。
今日十月二十一日は、私が生きる最期の日。別に前から予約していた訳ではない。今決めたのだ。眼を覚ましたその瞬間に。
とりあえずいつものように、朝六時にセッティングした目覚ましのアラームを消した。そしてベットからよいしょの掛け声と共に起き上がり、完全に冷え切っている床に足を預けた。
ふと足元に目をやると、昨晩出したばかりの掛け布団が、ベットの上にいるのが居心地悪かったのか、床に転がっている。
そして私の隣のベットからは、相変わらずに低周波のいびきが発せられ、部屋中に響き渡っている。
夫の守に出会ってもうじき十二年が経つ。
あっという間だと言えばあっという間だったが、長かったと言えば長かった。なんせこの十二年間色々あった。
決して楽な生活ではなかった。
私が守と出会ったのは、私が当時弁護士事務所で働いていた際、そこにクライアントとして守が訪ねてきた時だ。
私が守の案件を担当した。
そして私は守と一緒に過ごしていくうちに、何でもない丸眼鏡を掛けていた守に惹かれていき、私からプロポーズをした。
今考えるといけない恋だった。
二人は出会ってはならなかった。
まさしくあの日から運命の歯車が動き出したであろう。
「おはよう。もう起きたのか。」
守が私の足音で起きたみたいだ。
目を擦りながら、三十年近く愛用している丸眼鏡を徐にかける。
「おはよう。起こしちゃったみたいだね。あなた夜勤明けで大変だったろうに。」
そう言うと守は
「大丈夫だよ。今日の十時からオペの予約が入っているから今起きるよ。」と言って、ベットから起き上がる。
どうやら守は寝巻きに着替えることなく寝たようだ。シャツが皺だらけになっている。
「相当お疲れだったようね。今から朝ご飯の準備しに行きます。」と言って私は寝室のドアノブに手をかけた。
「痛っ!」
静電気だ。ドアノブさえも私を傷みつける。
「大丈夫か?」
守が心配そうにこちらを見つめる。
「大丈夫大丈夫!静電気よ!」と言って、無理に笑ってみせた。
本当は今すぐ死にたかった。
けれど今日一日我慢してみる。もしかすると気が変わるかもしれない……。
キッチンの前に着くと、朝ご飯の献立を考えた。
「今日はハンバーグにサラダにスープにしよう。」
ハンバーグにはいつも隠し味として、麹味噌を入れる。
実家の母の教えだが、今となっては翔くんと茜にとって、おふくろの味と言えるものになった。
翔くんと茜の運動会には決まって麹味噌入りのハンバーグを持っていく。
そうしたらいつもなぜだか徒競走で一番になった。一回翔くんの運動会でハンバーグを持っていくのを忘れた時は、翔くんは徒競走で二番だった。そうしたら運動会から帰ってきて早々
「何でお昼にハンバーグなかったの?」と言ってものすごく泣き喚いていたっけ。
あれはもう八年前か。今はすっかり大人になって、今年は大学受験で忙しくしている。昔は典型的なママっこだった翔くんは、今となっては全く口を利かなくなった。それも元は全部私のせい。
何だか涙が止まらなくなってきた。
止めようとしても止まらない。
全部自分のせいだ。翔くんが私から離れていったのも、守との関係が上手くいかないのも全部私のせいだ。
私なんかこの世から消えて、灰になれば良い。
今握っている包丁がどんどん赤くなっていくように見えた。
このまま死んでしまえば……。
目の前が一瞬真っ白になった。
気づけば私はキッチンの床で茫然と座り込んでいた。
キッチンの床には無数の割れた皿が転がっている。
「何の音だ!」
守の叫ぶ声がした。
「ごめんなさい。何でもないです。今片付けます。」
私は皿を片付けようとした。
「お前大丈夫か?手が血だらけじゃないか。」
自分の手が血だらけになっていたことに、守の言葉で気づいた。
「本当ですね。多分料理をしている時に手を傷つけたのでしょう。」
私は必死になって再び皿を片付けようとした。
「お前疲れていないか。後は僕がやるから。お前はソファで休め。あとこれ。」と言って守は絆創膏を棚から取り出した。
今日はやけに守が優しい。
私は傷口に絆創膏を貼った後、ソファで少し休んだ。
傷口が微かに痛む。これぐらい何とでもない。
ただ私は自分の掌をじっと見つめながら、虚無に近い感情に縛られているのを覚えていた。身体全体が空き箱みたいになって、地球の重力に従うことなく、空中でぷかぷかと浮遊している。誰もそれに気づかない。いや気づいてはくれない。
自分自身で必死になって地に足をかけなければならない。
私はこの現実に耐えられるはずなどなかった。
カーテンの隙間から微かに日光が差す。少し眠ってしまったようだ。
食卓の上には、料理下手な守にしては上出来なくらいの朝食が並んでいた。
そしてそれらの料理を囲むように、固定席に座る茜と守。翔くんは既に制服に着替えていて、不機嫌そうな顔で私たちの方に目をやり、
「朝食はいらん。」と一言吐き捨てて、足早に家を後にした。
「いつもあんな様子だよな」
守は物怪な顔を浮かべて言った。
きっと守は、翔くんが家族に対してあんなに冷たい態度を取るようになった事実を知らないのであろう。いや知る由もないはずだ。
「お前具合大丈夫か?朝飯どうする?」
守が私に尋ねてきた。
「少し寝たら調子良くなってきましたし、あなたが作った朝ご飯いただきますね!」
私は無理にそう言っては、ソファーから起き上がると、守と茜がいるダイニングに向かった。そして椅子に座ろうとした時、
「お母さんどうしたの?手、怪我したの?」茜が心配そうな顔を浮かべながら尋ねる。
「朝ご飯作ってたら、手を切っちゃって…本当お母さんどうしちゃったのかしらね!」
私は自身の惨めさを取り繕うかのように、無理して笑顔を浮かべては、まるで幼い子のように目の前にあるご飯を思いっきり頬張ってみせた。
「お母さん無理しちゃダメよ!疲れている時はしっかり休むこと!」
まだ小学生四年生の茜がやけに大人っぽいことを言う。もしかすると、私が知らぬ間に茜が既に大きくなっていたのかもしれない。茜がこんなにも成長していたことを、今まで私は気づいてあげられなかったとは……本当に親失格だ。
「じゃあ学校行ってくるね!」
茜の明るい声が部屋中に響き渡る。
「忘れ物大丈夫?気をつけて行ってきてね!」
私がそう言うと茜は
「子供じゃないんだからそれぐらい大丈夫です!」と言って家を後にした。
親失格だ。守や翔くんのことで頭がいっぱいで、茜のことを疎かにしてしまっていた。大事な娘の面倒でさえ見てやれない自分が本当に愚かだった。
「ご馳走さま。」
私は具合がまた悪くなり、ソファーで横になろうとした。
「お前具合悪いなら病院行けば?」守が尋ねる。
「病院に行けば治る病気でしたら、とっくに行っています。私が抱えている病気はそう簡単に治らないの!あなた医者なのになぜ分からないの?」
私は思いがけず、守に当たってしまった。
「病気って何?」
守の表情が一瞬にして変わった。
「何でもありません……あなたもう仕事の時間でしょ?早く行かないと遅刻しますよ」
私はつい病気の話を口にしてしまった。
「今日はすぐに帰る。帰ったら話そう。」
そう言って守は家を後にした。
私はここ数ヶ月、まるで体全身のあらゆるスイッチがオフになったかのように、生きる気力を失っていた。そして一週間前、精神科を受診しに行ったところ、極度の鬱病と診断された。
鬱病と診断された日から、私は心なしか死を意識するようになった。私なんかが生きていても皆に迷惑かけるだけだよね。そう思うようになった。
そして今日になって死ぬことを覚悟したのだ。
私はリビングのソファーで茫然としていると、訳もなくダイニングにあるアルコーブに飾ってあったトロフィーが、大きな音を立てながら床に落ちた。
私は慌ててトロフィーの様子を見に行ったが、床に落ちた衝撃からトロフィーには多数の小さな傷ができていた。
私はトロフィーを救い上げると、そこには“一九九三年度 全国ダンス部大会 優勝 花御所高校“という文字が刻まれていた。
「あれはもう二十七年前か…」
私は幼い頃から負けず嫌いな子だった。勉強でもスポーツでも一位を取らなければ気が済まなかった。
きっとその性格は、弁護士である父と警察官である母の教育環境にあったのであろう。私は小さい時から、「誰よりも賢い人間になりなさい」と両親から言われ続けて育ってきた。
両親の教育は本当に厳しいものであったと思う。学校の成績が振るわなかったり、運動会の徒競走で一位を取れなかったりしようものなら
「出来の悪い子ね。あんたなんか生まれてこなくてよかった」と冷たい言葉を浴びせられた。
酷い時は、家に入れさせてくれなかったり、暴力を振るわれたりした。
私が小学校四年生になった時、妹の美琴が生まれた。両親は美琴のことを大変可愛がっていた。美琴は私よりも賢く、スポーツ万能であったため、両親は決まっていつも、
「美琴はお姉ちゃんと違って賢いね。美琴は絶対将来お姉ちゃんみたいにならないようにね。お姉ちゃんは悪いお手本なんだから」と美琴に言い聞かせていた。
高校三年生になり、全国ダンス部大会で優勝した時も両親から「ダンス部のみんなに感謝ね。あなたのおかげで優勝した訳じゃないんだから」と言われた。
私は大学生になって家を出たが、多分生まれてからずっと親に褒められたことは一度もなかったと思う。親の愛情を知らないで育った私は、家族の元から離れて早く大人になるしかなかった。
その後、私は弁護士になり、忙しい毎日を過ごしていた。弁護士としてのキャリアが確立してきた時に、私のクライアントとしてやって来たのが守であった。
守は元妻の香織との間で、翔くんの親権を巡って争っており、私はこの案件を受け持つことになった。
結局は翔くんの親権を守が勝ち取ったのだが、そんな中、私と守はお互いに惹かれあい、将来を誓いあうまでの仲となっていた。しかし私は守との結婚の許しを得に両親の元に行った時、守がバツイチで子連れであることを理由に、守との結婚に大反対された。そんな両親の大反対を押し切り、私は守と結婚した。それから一年が経った頃に茜が生まれ、守と翔くんと茜と家族四人で、幸せな家庭を築いていこうと私は決心した。
ところがそんな幸せな家庭など築くことはできず、むしろ不幸な家庭への一途を辿った。
守と結婚して五年が経った夏、守は睡眠不足が原因で医療ミスを起こし、守の手術を受けた女性が下半身付随となった。その女性とその姉が守に対して医療訴訟を起こし、多額の損害賠償金を支払うよう申し立てた。
守はその時、憔悴しきっており、何をするにも気力が湧かず、ただ茫然と時間が過ぎるのを待つ日々を送っていた。私はそんな守を救い上げようと、この医療訴訟の案件を弁護士事務所の後輩である春と一緒に受け持った。結局は被害者との和解が成立したが、そうは言いつつも、多額の損害賠償金を支払うことになり、生活は困窮した。それだけならまだ良かったのだが、守がこの一件で変わってしまったのだ。
以前は温厚な性格であった守が、この一件で精神的なダメージが大きかったのか、私や子供達に対して酷く暴言や暴力を繰り返すようになった。今となってはだいぶ落ち着いてきたのだが、何か不服なことがあればすぐに乱暴をはたらく。
例えば朝食を作り忘れたり、守が明日着る服を準備するのを忘れてしまおうものなら、私の髪を掴み、身体中にあざができるまで殴り続けるだろう。
私はその時から毎日、守に怯えながら暮らしていた。
そして私は生活が苦になることを承知で弁護士事務所を辞め、家庭に入ることで少しでも守の機嫌を損ねることがないようにした。
しかし守の私に対する暴力は一向に収まらなかった。むしろ守の行動はエスカレートしていき、いつしか守のストレスの吐口に私はなってしまった。
こんな生活望んでいなかったのに……。
私は何度も守と離婚しようと考えたが、子供達のことを考えるとどうしてもそれはできなかった。
私はどうなっても良いから、せめて子供達は守らなければ……。
私はそう気持ちを駆り立たせて生きていた。
そう心に決めた矢先、またしても不幸が起きた。
守の医療訴訟を耳にした守の元妻の香織が、まだ中学生になったばかりの翔くんを誘拐したのだ。私は慌てて、警察に翔くんの捜索願を出した。捜索から三日後、香織の自宅から守が無事に発見されたが、家に帰ってから翔くんは以前と全く違った様子を見せるようになった。
「俺の母は香織さんです。あなたは所詮他人。だからあなたは絶対に俺に触るな。絶対に翔って呼ぶな。」
いずれ翔くんが実母の存在を知ってしまう時が来ることは私は覚悟していたが、まさかこのような形で実母と会ってしまうとは、私はただただ心苦しかった。
香織は翔くんが物心がつく前に、翔くんの前から立ち去ったため、翔くんは実母の存在は知らぬままだった。それに守と香織の親権トラブルの時も、守が翔くんを香織に会わせないようにしていたので、翔くんはきっと香織の姿を知らぬままであったはずだ。
それなのになぜ香織は、まだ中学生になったばかりの翔くんを誘拐して、翔くんに自身が実の母であると言い聞かせ続けたのか。どうしてこんなにも惨いことができるのか。
私は香織に対して憎悪の念を抱いていた。
この一件から私と翔くんの間には一定の距離感ができたと思う。なんせその時から“翔”とは呼ばず”翔くん“と呼ぶようにまでなったくらいだ。呼称が少し変わったぐらいだが、私にとってそれはとても深い意味を要しているのだ。
私は翔くんとの距離感を縮めていこうと努力した。
ところが翔くんの反抗期の時期が重なったり、ある事件がきっかけで、もっと翔くんとの距離感が遠くなってしまった。
それは今年の夏、私が翔くんの部屋の掃除をしていると、戸棚から文通らしきものを見つけた。私は興味本位でそれを開けてみると、そこには風笛先生への手紙が書かれていた。私はその時、体全身の水分が汗や涙となって蒸発していくような感覚に襲われた。翔くんが担任と付き合っていたのだ。担任はまだ二十代で、学校一の美女と噂されていた。翔くんもきっとあの女に騙されているに違いないと私は確信した。そして翔くんが学校から帰って来た時に、そのことについて咎めた。
すると翔くんは今まで一度も見たことないような恐ろしい表情を浮かべ、
「人のもの勝手に見るんじゃねえ!キモい。キモ過ぎる。お前なんか一度も親と思ったことないから。というか親じゃないか」
私はその言葉を聞いた瞬間、心の中でずっと大事に大事に持ち続けてきたものを、一気に奪い去られたような感じがした。
その日から私の心にはぽっかりと穴が空いて、何事に対しても気力が湧かなくなった。まるで体全身が制御不能になって、無理に動かそうとすれば、エラーを発生させてしまうように。
悲しいとか苦しいとかそういった感情など全く生まれて来られなくなって、ただ虚無という感情が私の心を独裁した。
私はずっと右手に持ち続けていた多数の小さな傷が残ったトロフィーを、床に叩きつけ、粉々になるまで破壊し続けた。トロフィーが原型を留めなくなるのもそう時間はかからなかった。そして私はただ粉々になった何の意味も見出せないトロフィーをじっと眺めながら茫然と立ち尽くしていた。
すると私の携帯が突如鳴り出した。私は携帯の画面に目をやると、美琴がインスタグラムに何やら新しい投稿をしたようだ。私は何も期待せず、美琴のインスタグラムを覗くと、そこには笑顔溢れる美琴とその家族たちの写真があった。一縷の涙が私の頬を伝った。まさにその写真は、私がずっと描き続けていた心象風景そのものであった。
親友の真由美と法律事務所の元後輩の春のインスタグラムも覗いたが、そこに映し出される写真は、私がずっと追い求めて続けてきた理想の家族像ばかりだった。
私は携帯の電源を切ると、何か見えない力に引っ張られ、知らぬ間に二階の寝室にたどり着いた。
部屋のカーテンの隙間から日が差し込む。時刻はもう十五時を回っていた。
私は部屋のクローゼットにしまっておいたロープを無造作に取り出し、ステンレスパイプに巻き付けた。そしてロープで作った輪っかの中に、私は何の躊躇もなく自分の頭を預けようとした。その時ポケットから一粒のチョコレートが落ちた。
先週、真由美から貰ったチョコレートを、ポケットの中に入れっぱなしだったのである。私はなぜかそのチョコレートを拾って口にした。私が大好きなカカオの配分量だった。カカオ88%。
それを食べた瞬間、口の中は一気に苦味でいっぱいになるが、後からゆっくりとほんのりとした甘味が苦味を包んでくれる。
ただ幸せな家庭を築きたかっただけなのに……全部自分のせいだ。
私は再びロープで作った輪っかの中に、自分の頭を預けた。そしてロープに全体重をかけた。首が徐々に絞まっていき、息苦しくなってきたのを覚えている。それからは意識を失って何も覚えていない。
暫くして聞き覚えのある低い声が、部屋中に響き渡るのが聞こえた。
そこには何でもない丸眼鏡をかけた守の姿があった。
「遥!死ぬな!遥!僕が悪かった。僕が全部悪かった。全部僕のせいだ。だから死ぬな!」
守が泣き叫んでいる。
「あ…な…た…。」
私は必死に声を出そうと試みたが、声を出す気力がなかった。
「何も喋るな。すぐ救急車が来るから!」
守は応急処置をしながら、緊迫した声で話しかける。
「お前がこんなになってしまうまで、お前の悩みに気づけなかった僕は医者いや、夫いや、人間として最悪だ。しかも僕が原因で、何の罪のないお前に暴力を振り続けてしまった。翔のことだってそうだ。僕の子でもあるのに、何も翔の話に干渉しなかった。だからお前は何も悪くない。悪いのは全部僕だ。どうか死んだりしないでくれ。」
私はぼんやりとした意識の中で、守の眼差しを見つめた。その眼差しは私が恋したあの優しい眼差し。間違えなかった。
「あの時のこと覚えているか? 僕が医療訴訟を抱えていた時。あの時僕もお前みたいに生きる気力を失っていた。死にたいと思っていた。でもお前がそんな僕を救ってくれた。だから今度は僕が君を救う番だ。もう二度と君を傷つけたりしない。もう二度と君を一人ぼっちにはさせない。だからもう一度夫婦を初めからやり直そう。」
守の言葉は私の心に響いた。同時に今まで制御不能だった体全身が一気に活動を再開したような感覚を覚えた。
私は徐に起き上がると、守はそっと私を抱いた。口の中にはまだチョコレートのほのかな甘味が残っていた。
以下、一人一編ずつ選んだ最も良かった小説(自作を除く)の感想を転載する。
●「彼はとても意地悪だ」
・この作品を選んだ理由は、心地よく読むことのできる文体が使われていることと、私たちの世代に共感しやすい主人公の目線で書かれていたからです。倒置法がうまく使われ、文頭に「って」や「と、」が使われていることで、ラップを読んでいるようにテンポよく読むことができました。また文末に同じ表現が連続して使われていて、リズムを生み出していました。私は『With The Beatles』を文体論で論じましたが、その時に感じたリズムと同じようなリズムを感じました。それは、同じような文末表現が使われていたからだと思いました。すらすらと読み進めることのできる文章でした。そして、共感しやすい主人公であることによって、感情移入することができ、最後の結末がより盛り上がる効果を生み出していたと思います。
・私はこの作品が一番素晴らしかったと思った。一番の理由は、他の小説の中で一番感動したからだ。本当に泣きそうになるくらいだった。最初、主人公は慧悟との関係に悩んでいて、その悩みがなくなったため、ハッピーエンドなのかと思ったら実は主人公が死んでしまっていて驚いた。最後はお互いがお互いを想い合う気持ちが分かって感動した。話の展開が素晴らしくて、この短い小説の中でこんなにも感動するとは思わなかった。
●「ぼくの彼女」
・りんごさんの「ぼくの彼女」です。理由はまず男女の目線で分かれて書いてあるところが面白かったです。その中でも、男の子からの視点では女の子は浮気(?)をしていたから別れる。でも女の子からの視点ではその裏でかなりひどい束縛を受けていた。この二つの場面が視点によって分けて描かれていて、実際自分が予想していた終わり方とは全く違う終わり方でした。この技法を使って描けるのが単純に私なら思いつかないことなので感動しました。青春や恋愛でよくある束縛ですが、男の子側がかなりのサイコパスであるように感じることもでき、全て知ったうえでもう一度読むと鳥肌が立ちました。
●「マリーゴールド」
・この作品は本当に素晴らしいと思った。寂しくもあり、温かくもある。この作品を色で例えるとしたら青ともいえるし、オレンジともいえると思った。最初は男の子の視点から始まり、すべてが過去形で語られていることから違和感を感じていたが途中で自転車の事故によってからは亡くなっているのだと知った。彼が自転車でビニールを取りに行ったのも自己肯定感の低い母親の為であり、その息子のまっすぐな母への想いが温かく、そして一層物語の切なさを際立たせていると思った。文中に大きな感動を添えたマリーゴールドをタイトルにしているところが素晴らしいと思った。ただすべてが悲しいわけではなく、母と娘の些細な温かい気持ちや僕に妹が生まれて僕の代わりにお母さんに伝言をしてくれたことなど、人間、家族、命の温かみを伝えてくれる作品だったと思う。
・私は「マリーゴールド」が一番素晴らしいと思った。理由はこの文章は幼い男の子の視点で物語が進んでいくため、難しい言葉や表現が一切ないうえ、文章自体は長くないのに読み手の心を打つ作品だと思ったからである。実は死んでたという作品が多い中で、この作品が一番惹きつけられた。男の子の幼い純粋な心だからこそただ見ているだけしかできないのはつらかっただろうなと思うと泣きそうになった。お母さんの視点に変わるところも、お母さんの気持ちになると切なくて、泣きそうになった。人の心を打つ素晴らしい作品だと思った。
●「檸檬堂」
・どの作品も本当に素晴らしい中でも、この「檸檬堂」はずば抜けて素晴らしかった。確かに、やや青春小説的なジャンル感(憧れの人との偶然の出会いなどは)はあるが、それでも会話文の自然さや、登場人物の魅力ある描き方が素晴らしいと感じたし、単なる憧れ話(ラブコメ的展開)に終結させなかったところが素晴らしい。ほぼ、プロの作家の作品だと言われて読んでも遜色ないレベルであると感じた。とりわけ、タイトルのセンスが素晴らしい。本来ならば、固有の商品名を使うことはしないが敢えて具体的な「檸檬堂」という商品をタイトルに使うことによって、一気にリアリティが加わった。
●「東京メランコリック」
・「東京メランコリック」は本当にすごい作品だと思った。しっかりプロットを組み立てた上で、コロナ禍の現状とリンクさせたうえで書ききったのが素晴らしいと思う。人と人の温かさ、小さな居場所など、今の私たちに足りないものを描いてくれていた。文の書き方も小説に近く、きれいで読みやすかったのも印象的だった。またペンネームも非常にユーモアで、この人の作品をまた読んでみたいと思える作品だった。語彙力が足りず申し訳ないが、本当にすごいと思った。
・好き!とビビっときたのは一つだけ。雰囲気や始まり方が良かった。それは「東京メランコリック」題名は暗そうだけど、明るく終わったところとか、現代に生きる人の話だったところとかが売れそうと思ったしこの曲を聴いてみたいと思った。
・かなり悩みましたが、やはり「東京メランコリック」です。美しい文章表現の裏に隠された作者自身の思い。それが心に響きました。現代の東京とつい先日の事件、とてつもないほどの「いま」と等身大の「自分」をうまく物語に絡ませているような感じがして、その表現力を純粋に美しいと思いました。初めて入ったお店の人と親しくなり語り合う、そんな日常的な風景だけで、非日常に頼らずに思いを文に込めるのはとても難しいことだと思います。心の底からこの作者と話してみたいと、深く興味を抱いた作品がこの「東京メランコリック」でした。
●「煩悶」
・どれも素晴らしい作品で正直、一つを選ぶというのは苦痛であるが、しいて選ぶのであれば、私は「煩悶」を選ぶ。私はこの作品を読んだときに悔しさを感じた。ストーリーも練りこまれていて、表現力の幅も広く、これほど奥が深い作品は、今の私に書くことはできないと思ったからだ。文の構成や作り方もしっかりとしていて、読みやすさも抜群。そしてこの作者が描く表現の仕方は私の好みでこの作者のほかの作品を是非読んでみたいなと思ったからだ。
・一番素晴らしかったと感じたのは「煩悶」だ。主人公とヒロインの個性がしっかりと表わされていると同時に、自分と相手の違いというテーマを表しているからだ。自分の価値観と相手の価値観が違うのを推理小説と恋愛小説で表すのはうまいと思う。独特な文体で印象強く残った。特に主人公がヒロインを小説で殺した後のヒロインの行動が、また小説家らしいもので理解できた。
・自分は「煩悶」が一番好みでした。理由は数ある素晴らしい作品の中でも、頭一つ分抜けて読みやすく、キャラの設定がしっかりと固まっていて頭の中で話している人物がイメージしやすかったのでとても面白く読み進められたからだと思います。
・学生小説家同士の苦悩を描いていて、登場人物が少ないにもかかわらず、展開が面白くて引き込まれた。サスペンスを書くことを殺人としているところがあったようでなかった表現だなと思った。ブラックな話なのかと思ったが最後にしっかり救いのようなものがあるのも良いなと思った。
・僕が今回の作品たちで一番好きになった作品は糸川竜宮さんの「煩悶」です。恋愛小説を書きたいミステリー小説家とミステリー小説を書きたい恋愛小説家の二人が互いに無いところに惹かれ合う姿が独特なワードチョイスと文体で綺麗に描かれていました。物語の中で何人もの人を殺すことにコンプレックスを抱いていたところ彼女に救われ少しずつ自分を肯定できていくのが良かったです。
●「酔芙蓉」
・初めの内容を分かり易く説明してくれたので、内容設定がちゃんとしていて話が入ってきやすかった。文体が一貫していて統一してあったので、とても内容に集中できた。場面ごとにしっかりと情景を詳しく説明してくれたので分かり易かった。ストーリーも予想していたものとは大きく変わってきてとても面白いものだったので感心した。
●「水」
・文体、構成、内容が美しく、小説としての完成度が高いと感じた。扱いづらいであろう「障がい者」という題材を上手く扱い、悪意や善意、登場人物の心情の一つ一つがうまく表現されていて読んでいて作品に寄り添うことができた。またタイトルの「水」や冒頭のシーン、ラストシーンのすべてが秀逸で最初から最後まで楽しむことができた。
●「夢幻の代償」
・私は「夢幻の代償」を一番素晴らしかった作品として選びました。挫折したけれど彼女がいるから仕事頑張れる系の恋愛の物語だろうと思って読み進めていたので、集団自傷行為からの集団自殺に発展した時にはものすごい衝撃を受けました。「嫌なことがあっても、彼女の存在によって、本当の自分を出せていた。しかし、彼女が宗教にはまっていて、主人公といるだけでは、彼女は本当の幸せを感じられていなかったことを主人公が知り、偽の自分しか出せなくなってしまった。」ということを時計の針の秒針で表現していたことが、物語に独特の雰囲気を醸しているなと感じました。宗教をも絡めた独特な世界観と衝撃がどの作品を読んでも忘れられなかったためこの作品を選びました。また、彼女に言われた言葉がフラッシュバックするシーンが心の拠り所にしていた彼女が主人公の心の中からいなくなってしまうことを暗示していると感じ、とても悲しい気持ちになりました。またてっきり、集団自殺の記事を屑箱の中に捨てていたので、主人公の心の中には彼女はもういないと思っていたのですが、彼女がプレゼントしたであろう6時30分を指した時計が出てきたので、主人公は年を重ねた今でも彼女のことを忘れられていないのかなと思いました。
私は、今最後の一歩を踏み出そうとしている。
この一歩を踏み出せば、もう楽になれるのだ。
あなたよりももっと不幸な人はいる。
そんな言葉を、誰かからかけられたことがあった。そして、その通りなのだろうと思う。でも、自分より不幸な人を知ったからといって、私の中に生きる気力が沸いてくるわけはなかった。
ただ疲れたのだ。
自分がこの世界に存在している意味が全く分からないのだ。
誰からも必要となどされていない。自分一人がこの世界から消えたとて、何らの影響もないだろう。
にもかかわらず、ただ食べるためだけに、毎日毎日代わり映えのない景色の中で工場の一部になることに私はもう疲れたのだ。私は、相模原市内の清涼飲料水工場で働いていた。しかし、それも有期雇用だ。来年の三月には契約が切れるが、その先のあてもないし、今更探す気力すらわかない。
しかも、私の担当はただひたすら左から右に流れていく瓶に欠陥がないかを目視するだけの仕事だ。確かに、この仕事だって立派な仕事だし、私が欠陥商品を見つければ、商品のブランドを傷つけずにすむし、もしかしたら、お客様がけがをするのを防げるかもしれない。
しかし、実際には商品安全管理上の規則から「目視」を義務付けられて置かれているだけのポストで、最近の高性能化したAIのスキャンを経て、欠陥品が流れてくることなんてまずない。五年間勤めてきたが、今まで二回しか欠陥品を見つけたことはなかった。
ただただ、朝から晩まで、左から右に流れていく瓶を見ているだけなのだ。
誰か他人に、この仕事をしていることを言ったことはない。だが、同じ工場の別のポストの人間からは、「ただ瓶を眺めているだけなんて楽でうらやましい」などと皮肉交じりに言われる。だが、一度やってみれば分かるが、こんなに精神的に疲れる仕事はない。自分が、工場の一部、いや瓶の一部になったような、人間でなくなったような気持ちでもあり、また誰でもできる仕事だから、代わりはいくらでもいる。自分である必要もない。
それでも、仕事があって給料がもらえるだけましなのかもしれない。でも、私には友達と呼べるような人は誰もいないし、女として生まれたが、容姿に恵まれたわけでもなく、もちろん明るい性格でもない私がただ歳をとり続け、四十歳になった今でも、男性と交際したことすら一度もない。
そんな、何の意味も目的もない人生とも今日でやっとおさらばできる。
今私は、相模原の山奥にある津久井湖の湖上にある橋の欄干にいる。地元の人ならば誰でも知っている自殺の名所だ。今日は日曜日で工場は休みだった。
私は、夕方、人気のない山に向かうバスに乗り、この山奥の橋まで来た。二日前から決めていたのだ。誰からも知られることなく、消えられる場所を探していた。冬の寒さが身にしみるこの時期だったから、日が沈むのはあっという間だった。
時折、通り過ぎる車以外は、この閑散とした湖の畔には人の気配などない。自殺の名所だけあって所々に張り付けられた古びた看板に「悩みがあったら相談ください」「親からもらった命、大切にしよう」などと書かれている。だが、それらの看板のことばは私に何一つ訴えてくるものはないただの文字の羅列だった。きっと、はじめから裕福な環境に生まれ育った金持ちたちが、ロータリークラブやライオンズクラブなどという偽善団体に所属してこんなものを作るのだろう。
私は、欄干を乗り越えて、ちょうど足下に真っ暗な湖面があることを、かすかな水面の月明かりの反射から確認した。
いざ死のうとするとき、人はもっと躊躇するものだと思っていた。もう何もなかった。死への恐怖すらなかった。
そして、私は跳んだ。
その時だった。「走馬灯」というものが本当にあるのだということを知ったのは。橋から湖面までの高さは三十メートルほどだ。着水するまでの時間はわずか二秒余りだったはずだ。
しかし、私にはそれは永久にも近いような長い時間に感じられた。私の脳が、あるいは私の中にある「死んではならない」と思っているわずかな人間性が、私にそのようなものを見せたのかもしれない。
最初の一秒間にみた「走馬灯」は、父親の姿だった。父のことは憎んでいた。今の私の人生を狂わせた男だった。まさか、自分が死ぬ直前にまであいつが顔を出してくるなんて、腹が立った。あいつは、酒を飲むたびにお母さんにきつく当たって、最後は手を上げていた最低の男だ。そして、お母さんは私を置き去りにして、逃げるようにあの男と別れて出て行った。
でも、そんな最低の男が死の間際に出てくるなんて。もしかしたら、心のどこかで父親のことを許そうとしていたのだろうか。父親との思い出は、ろくでもないものしかないと思っていたのに、「走馬灯」に浮かんできたその一瞬の姿は、相模原のジャスコの二階にあったゲームセンターにいる父親の姿だった。ろくに遊びに連れて行ってくれることなんてなかったのに、なぜかそのジャスコの二階にだけは、よく連れて行ってもらっていた。
父親が果たしてどんな人生を送ってきたのかは知らない。興味もなかった。しかし、子どもながらに、この人は何かをあきらめるために、あるいは忘れるために必死なのだと言うことは感じていたような気がする。
まるで、今の私のようだ。血は争えない。
パチンコに連れて行かれることもよくあったが、このジャスコの二階のコイン式のゲームセンターでもよくスロットや競馬のゲームに興じていた。私は、気まぐれにもらうその父親から二、三枚のコインで、じゃんけんゲームをいつもやっていた。あまりコインをせがむと父親の期限が悪くなることを知っていたから、私は真剣勝負で機械とじゃんけんをしていた。そんな私の姿が一瞬のうちに脳裏に浮かび、さらに私の脳裏に浮かんだのは、たった一度だけ競馬で当てたのか、機嫌が良かった父親が当時、出はじめの頃のUFOキャッチャーで、ガメラの敵怪獣のギャオスを取ってくれたことがあったときの姿だった。私がその怪獣を特段好きだったわけではないが、なぜか父親は夢中になって人形を取ってくれた。いつも酔っ払って不機嫌でギャンブル漬けの父親が、その時だけは優しかった。
私は、少し酔って赤くなった父親の手からそのギャオスの人形を受け取って大事に抱えて帰ったことを思い出した。
あの人形はどこへいってしまったのだろうか。
それが、死にゆく私が最初の一秒でみた走馬灯だった。
次の一秒で脳裏を駆け抜けた光景も、なぜそれがあらわれたのかの理由は全く分からない。それは、かつて私がバイトをしていたスーパーにお客としてきていたおばあさんの姿だった。なぜ彼女の姿が浮かんだのかは全く分からない。何しろ、私は彼女の名前すら知らないのだ。
私が高校生の時に、チェーン店でもない小さな八百屋に毛が生えた程度の商店街のスーパーでバイトしていたときの常連のお客さんだった。しかし、その店では鼻つまみの老婆だった。どうやら認知症が進行しているらしく、いつでも店員を困らせているからだった。特に、中年男性の店長が嫌っていて、いつも下っ端アルバイトの私にそのおばあさんの対応を押しつけていた。
私も最初は嫌だったが、彼女はいわゆるクレーマーではなかった。彼女はいつも何かに困っていて、助けを求めているだけだった。理不尽なクレームを言うような客ならば私もうんざりしていたと思うが、そのお婆さんが今何に困っているのかさえ分かれば、次第に私も対応するのが嫌ではなくなっていった。
はじめに彼女が困っていたのは、財布を失くしたことだった。私がレジ打ちをしていて財布がないことに気づいて慌てていたので、レジ打ちを交代し私が対応した。ゆっくり落ち着かせてから、聞き取ると、さっきまで手にぶら下げていた巾着ごと失くしたのだという。私が「最後に持っていたのを覚えているのはいつ?」と聞くと「そう言えば、お手洗いに行くときに持っていたわね」と分かり、一緒にトイレに行って、事なきを得たことがあった。
大したことではなかったのに、彼女はまるで命の恩人にでも感謝するように何度も「ありがとう」と言ってくれた。これまで、大して誰かの役にたったという実感も得たことがなかった私にとっては、歯がゆいようでありながら、満更でもないような気持ちになったことをよく覚えている。
それからというもの、彼女は、見つからない商品を尋ねるときも、今日が何曜日か分からないときも、商品に手が届かないときも、困ったときはわざわざ私を指名してきた。だが認知症が進んでいても、元々育ちのいい人だったのか「いつも大変申し訳ないのだけれど」と言って丁寧に困ったことを私に尋ねてくるので、嫌な気はしなかったし、どの質問も困りごとも私でもすぐに解決できるようなことだった。いつしか、彼女が私に困りごとを言ってくるのを楽しみにすらしていた頃、ぱったりとスーパーに現れなくなってしまったのだった。店長から聞いた噂によると、認知症がひどくなってきたことを嫌がった彼女とは離れて暮らす息子が施設に入れてしまったのだという。
私はその後、高圧的なパートのチーフと揉めてそのスーパーもやめてしまった。
そんな、大したことではない、死のうとする間際まで忘れていたような、そして名前も知らない彼女が私に、困りごとを相談してくれるときの一瞬の姿が、次の二秒目の私の走馬灯に映った情景だった。なぜ彼女が出てきたのだろう。
そして最後の一秒にも満たない時間に私の脳裏に浮かんだのは出ていってしまった母の作ってくれたクリームコロッケの味だった。私が小学二年生の時にいなくなった母はずっと、私に優しかった。ただ一つ、私を置き去りにしていったことを除けば。
母がまだいたころ、料理上手な母の作るクリームコロッケを食べたときの美味しさと幸福感を、三十三年ぶりに思い出したのだった。今考えればあれは冷凍食品を揚げただけだったのかもしれない。でも私にはそれが一番の好物だった。
死のうとする最後の二秒半の間に私の脳裏にその三つの走馬灯が駆け巡った。なぜその三つだったのかは全く分からない。もっと良い思い出もあったような気がするが、人間の脳が最期に見せるものが論理的に決まるわけもない。
だが、その二秒半の私の中を駆け巡った瞬間のフラッシュバックが、瞬時、私の中で何かを変えた。
着水する直前に思った。
生きたい、と。
その思いが、体の動きに伝わったのだろうか、私の体はつま先を水面に向け、両手を頭上にまっすぐ伸ばし上でクロスさせる体位を取ったのだった。着水の衝撃はすさまじかった。だが、想像以上に深い水位の中を突進していったが、意識を失うことはなかった。勢いが弱まると、私は一気に水面まであがって息を吸い込んだ。
やはり、生きよう。そう思った。
何のために生きているのか分からなかった。生きていることは苦痛でしかなかった。
でも理由は分からないが、それでも生きてみようと思った。
水面で私は大の字になって揺蕩いながら、今夜が満月だったことに気付いた。
夏の雨私の涙のかわりかな 杏水
噴水やオレンジ声であふれでる 杏水
梅酒瓶二十歳の私浮かばせて 杏水
初夏の風負けぬ銀輪風を切る 晴喜
梅雨寒に負けぬ情熱今は亡き 晴喜
福島の梅雨曇の中駆け抜ける 晴喜
扇風機地位も名誉も吹き荒らす 統矢
枯草や俯く幼子えんがわで 統矢
流れ星落つる涙に母の声 統矢
青春はいつも空腹旅の夜 海嶺
純白やバラ咲き乱れハート押す 海嶺
さくらんぼ追想ふけて落ちる髪 海嶺
雨降りて水面に映る夏の雲 優宇
気の早いサンダルおろして濡れる足 優宇
卓上の汗かくコップドアの風 優宇
らんらんと蝕むように降りしきる 恒介
光追いたどり着くのは虚無孤独 恒介
校舎よりひどく寂しくうつる人 恒介
桜舞い動きはしない扇風機 凜
雨音や光放った蛍光灯 凜
積雪や短針がさした古時計 凜
深夜二時ふと目を覚まし靴を履く 竜衣
よを籠めて光を求めそらを舞う 竜衣
風が鳴くいつの日にか降り落ちる 竜衣
秋風や足跡残るグラウンド 健
針の音や底残ったアイスティー 健
夕立や足元を見る帰り道 健
春愁ひ雨雫横目にアルバム 奈央
猫の恋もう削れない色鉛筆 奈央
油蝉聞こえずに食うブルーチーズ 奈央
夏祭り空咲き誇る大花火 亮汰
紫陽花の子供駆けづる通学路 亮汰
昼下がり競い始める蝉の声 亮汰
朝の陽の応援席の団扇かな くるみ
机見上げ明易なまぬるい昼 くるみ
若竹や赤子の泣く声妹と くるみ
隣人の雑音かき消す扇風機 隼山樹
夕立あと夜風に吹かれる風呂上り 隼山樹
目覚ましはベランダ鳴らす朝時雨 隼山樹
桜散る私の推しは花開く 琴子
雨降りや傘の下には影ふたつ 琴子
夏の夜自転車止めて空あおぐ 琴子
紫陽花や人の心の揺れ動く 槙人
雪解けや君奏でたるピアノの音 槙人
秋雨や誰一人とも会わぬ道 槙人
絵日記に綴る思ひ出夏の花 雄大
五月雨や雲の切れ間の流れ星 雄大
春風や白のベレーに花ぞ舞ふ 雄大
見上げれば春驟雨の中我一人 亜純
満ちる海心惜しく蜃気楼 亜純
希望抱きふと思い出す若草や 亜純
看板の赤錆びまだ見ぬ初鰹 飛勇
蒼穹や水面にたゆたふ新天地 飛勇
恋焦がれ卯波も高き三浦沖 飛勇
蝿取りやわれ生きる意味考える 明信
花ぬすびと左右にゆれるランドセル 明信
西陽さす団地の廊下鰯の香 明信
私の開講している現代文特講は3年目となった。毎年最後に生徒たちに書いてもらった短編小説を活字にして残している。私はもう、もしかしたら、一般の書籍・小説に飽きてしまい、神保町の古本屋を漁ってマニアックな本を探すことすらにも飽きてしまい、この世に存在しない(しかなった)小説にしか関心がなくなっているのかもしれない。
すなわち、ここに収められている小説は、もしかしたら現代文特講の課題という外圧が無ければ、書かれることのなかった、本来存在しなかった作品かもしれない。そういう意味では、奇跡のような一冊であり、世界中の本屋にも、古本屋にも売っていない貴重な本であると言える。
私は、一期一会で毎年出会う高校3年生の皆に、小説の手ほどきをしながら、その「未だ書かれていない未知数の小説」の存在をそこに感じつつ、それらを読むことができることを楽しみにして、この講座を担当している。きっと、この講座を受講してくれた皆も、自分の中にある未知の自分と出会うことができたのではないだろうか? 高校生の君たちには、これからの人生でさらに年輪を刻み、今では書けないような小説がまた書けるような時が来るだろう。そうしたまだ書かれていない小説のためにも、君たちには小説を書き続けて欲しいと思う。つまり、小説、物語は無数にあって、活字になって読まれているものなど氷山の一角なのだろうと思う。ただ、それを形にするのかしないかの違いで、人は皆小説の中で生きているとも言えるかもしれない。
今年は特に、新型コロナウィルスが世界の形を豹変させる中で、リモート授業での開始であった。こうした世相も大きく小説の中に影響を与えていたように思う。私の愚作も含めて、いずれも明るい作品よりは暗い作品が多かったかもしれない。しかし、そのいずれも暗闇の先の一縷の光を感じさせる作品だったように、その世界をたくましく生きる君たちの姿が浮かび上がる、素晴らしい作品集になったと思う。
二〇二〇年末 宇野明信
2020年12月26日 発行 初版
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1980年生まれ。法政大学第二中・高等学校国語科教諭。
著書
『令和元年度現代文特講小説集』(2019.12)現文特講受講者+宇野 明信著 法政二高現代文特講出版
電子書籍『ドリーム・ランド』(2018.12)筆名:櫻山亜紀 amazon kindle
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