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キリストの父と子の平和づくりの礼拝に参加してみてー今日からはあなたも真理とはどういうものか知るようになります

キリストめぐみの家 (代表)平川博達

yoshikawa-shimon-nobuyuki出版



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  この本はタチヨミ版です。

 目 次 ※このエントリを使う場合は「記事非表示」チェックを外してください



キリストの 
 父と子の
  平和づくりの
  礼拝に、参加してみて

はじめにー平和をつくるものは神の子とよばれるー


 しかし、どうでしょうか。

 日本では、愛国心のあるものが、どういう世界平和を作ったでしょうか。

 かつての、第二次世界大戦での日本的な、愛国者」が,一億の日本人が、どういう平和を作ったでしょうか。
 むしろ敗戦、によって、戦勝国のアメリカに指導によって、平和のための憲法をつくるこもできたし、国民ひとりひとりが、「文化的な最低限度の、生きる自由と平等の中で、生きることになったのではなかったか。

 
 しかしどうでしょうか。
 文化的な最低限度の生活保障にしても、いまだに、貧しい、貧困家庭も多く、生活は、それなりに、保証され、世界的な、高度高齢者も多くなりましたが、同時に、「いじめ」もなくならならないままです。

 
2 「ひきこもり」も多くなりました。

  
 つまり、働けないひとが、多くなったわけではなく、人間の「ことば」も、通じなくなった。
神の「ことば」ではなく、人間の「ことば」でさえ伝わらなくなったということです。

 そういう日本人が多くなったわけです。

 なかでも、文化人にしても、愛国的な人ほど、競争意識ばかりが強くなり、弱者への配慮もない、利己的な社会的権力を目指す人が多くなったようです。
 
 そうして、結果的にはいつも、弱者と障碍者が、犠牲にされてきたのではなかったか。
 勝利してきたものは、平和をつくてきたでしょうか。

 いじめもまた、必然的、勝利者が作ってきてきたのではなかったか。

 いっぱしの文化人ほど、人間の「ことば」だけでなく、神の「ことば」も知らないままで、エリート的な有名人も多くなって、そういう競争意識ばかりがつよくなって、権力側の人間になってしまった。

 そういうこともあったのではなかったでしょうか。
 それ故に、イエスというひとは、ことあるごとに、


 ―平和をつくるひとが、神の子と呼ばれるー

 と言われたわけです。

 それでも、いまだに、日本では、勝利者を目指して、我が身だけの栄光を目指してきました。

 
 また同時に、これもまた不思議なことに、人権主義のひとは、なぜかまた、憲法のなかの、一字一句さえ変えない、そういう権力者になってしまったわけです。

 つまり 神を信じても、信じなくても、「自己中」は治らない。
 ということもはっきりしてきたわけです、

 アメリカの民主主義にしても、日本に根づくことはなかったわけです。
 なぜでしょうか。

 はっきり言っておきます。
 それこそが「原罪」というもののなかに、日本民族もまいたからでした。

 聖書的な言い方をすれば、それこそが人生そものが、「的外れ」というもので、それこそが、聖書がいうところの、「罪」というものでした。

 それゆえに、罪人が多すきで、「いじめ」でさえ、罪とは思えなくなったわけです

 それこそが、日本人にはどうしても理解できない、聖書が言うところの「原罪」、というものでした。


 それゆえに、日本的なインテリがいつも、学問の自由を叫んでも、愛国心を叫んでも、その中身の議論はいつも、「言い訳」と「自己正当化」の、「的外れ」の「応酬」となるわけです。

 真理の探究もなく、真実を証明することもなく、だれかを「やっつける」議論しかしない。

 そうして、双方にも、罪意識もなく、相手を攻撃するための、学問の自由であり、自分の罪から一歩も出ない、そういう世界での、自己愛であり、聖書が言うところの神の愛などは、まったくない、隣人愛でさえ、自己愛でしかないわけです。


 そういう状況のなかで、いまだに、生きるほかない日本人に、どういう平和が作られてきたでしょうか。
 北朝鮮を軽蔑する日本的な愛国者にしても、社会主義を擁護してきた、学者にしても、同じ日本のなかでの、身近な人との平和一つ作れないで、目先の自己愛しか知らない、偽善者たちの、真理の探究を目指すもの、日本的な愛国心を、ごり押しをする、屁理屈の主義主張が、まかり通ってきたわけです。
 
 ほんとうの平和の作り方とは、どういうものか。
 ほんとうの、人権主義とはどういうものか、そういうことを、キリストの父と子の、礼拝のなかで検証してみたいと思います。

 参考にしてみてください。キリスト親子の礼拝のなかに、どういう真理の応答があったのか。是非、参考にしてみてください



















   






第一章 真理とは、どういうものであったか




 1 聖書によれば

   真理をするためにも、
   天地を創造した神を知ることを、知識のはじめとしなさい。

 ということでした。

 すべての学問のはじめは、
 天地創造の神を知ることである。

 その神からの「真理」を知ることから、新しい人生も始めるべきである。

 ということでした。


 いかがでしょうか。

 おもえば、日本民族は、これまで、天地創造の神について、どこまで知ってきたでしょうか。

 同時に、真理というものを、どこまで知ってきたでしょうか。
 学問もまた、真理の探究のためにある、と言ってきた日本的な科学者たちに、どういう真理が明らかになったでしょうか。

 科学者ではない、日本的な文化人に、芸術家に、作家に、小説家に、どういう真理が、明らかになったでしょうか。


 ー天地創造の神は、

  わたしこそが、はじめのはじめにあった、
  エホバであるー

 といってきました。

 そしてそのエホバという神は、マリヤという女性から生まれる子について、いいました。


 ーマリヤよ、あなたから生まれようとしている、子を、
  イエスと名付けなさい。

  イエスこそが、神の「ことば」となって、すべてのものを明らかにするからー


 と言われました。



 2 イエスご自身の証言というもの

 そのイエスというひとがのちに、成人してから、

 「私イエスこそが、真理であり、
  門である。
  永遠の「いのち」である。

 といったわけです。

 果たしてどうでしょうか。

 人間イエスというひとは、

 -私という、「人の子イエス」が、真理そのものであるー


 などといったのです。

 信じられますか。
 そういう証言が、果たして、真実となるでしょうか。

 真理というものは、いつの時代でも、天地創造の神そのものを意味していました。 

 ところがイエスというひとは、

 -私イエスこそが、人の子である。
  真理そのいものであるから、
  わたしのもとに来なさいー

 と言われたわけです。

 どうでしょうか。
 だれが、そういう「ことば」を信じるでしょうか。天地創造の神だけ信じてきたをユダヤ教徒には、到底、信じることはできませんでした。

 それゆえに、ユダヤ教を信じてきたユダヤ教徒の指導者たちは、なんども会議を開いて、イエスという人を、十字架につけることにした、というのです。



 3 果たして、ユダヤ教の指導者たちが正しかったか


 さて、考えてみてください。

 いかがでしたか。 
 キリスト教徒は、いまだに、ユダヤ教の指導者には抗議するわけです。

 イエスというひとこそが、ほんとうの、キリストであり、救い主であったのだ。
 といまだに主張していますが、ユダヤ教徒は、いいます。


 -天地創造の神が、ご自分を現したのは、キリスト教徒ではなく、ユダヤ民族に先縫い現れたのではなかったかー

 確かに、天地創造の神が、ご自分を現したときは、ユダヤ民族が先でした。その神が、ユダヤ民族に、」

 -わたしのほかに神としてはならないー

 といってきました。
 ところが、なぜか、イエスとい人が生まれてからが、

 -私イエスことが真理である。
  天の神の子であったー

 などというようになったわけです。


 果たして、イエスという人は今でも、真理そのものでしょうか。

 それとも、ユダヤ人こそが、天地創造の神によって、先に、見出されていたのでしょうか。
 やはりユダヤ民族のほうが正しかったのでしょうか。
 それとも、キリスト教徒のほうに、言い分があったのでしょうか。

 いずれにしても、のちのユダヤ人たちは,ローマ帝国との闘いに敗れて、祖国を失って、世界を放浪するものとなりました。

 そうして第二次世界大戦のときには、そのころの、ドイツのヒトラーによって、ユダヤ民族を、世界から廃絶するためのユダヤ人狩りに、出くわすことになりました。


 そうして、あっという間に、アウシュビッツのような,強制収容所に運ばれて、ガス室の中に送り込まれて、何百万のユダヤ人が、殺されています。


 それもまた、ユダヤ人のなかの、ユダヤ教の指導者たちが、イエスとい人を、十字架につけた罪の、報い、ということでしょうか。

 


 4 罪と罰の原則こそが、ほんとうの真理なのでしょうか


 罪を犯せば、殺されることになる。

 ということ。
 それこそが、天地創造の神が、決められた、罪と罰の鉄則なのでしょうか。


 思えば確かに、罪と罰の原則なら、日本人にしても、認めてきました。
 なかでも、だれかを罰するときには、罪の報いは死である、と信じてきて、地獄に落ちるものは、例外もなく、罪人でした。

 しかしどうでしょうか。

 それでも、 日本人もまた、勝てば官軍といって、戦争でも、経済的な競争でも、負け
たほうが、負い目を背負うことになりました。


 そうして、金もなく、障碍者としていきるようになれば、敗者として生きることが、あたり前と見されるようになったわけです。

 しかし、イエスという人にとっての、神といえば、その方こそが、天地創造の神様でした。
 その神を、エホバと呼んでいて、その神を、
 「天の神様」と呼んでいました。
  
 その神だけが、唯一絶対の、神であり、その神の子こそが、真理そのものであった、というのです。 

 信じられますか。
 しかも、その神の子イエスというひとが、いってきたわけです。

 
 -わたしこそが、神の子であり、真理そのものである。
  わたしには罪を許す権能もあります。
  わたしだけが、罪を許すこともできます。-


 などといい始めて、弟子たち。に向かって
 あなたがたは、お互いの罪を「許し合うもの」となりなさい。
 
 そのときから、罪を犯しても、いかなる罪でも、許し合うことで、世界を平和にしなさい。
 というようになったわけです。


 信じられますか。
 ほんとうに、どういう罪でも、被害者が加害者の罪を許せば、天地創造の神に対する罪でも、許されるようになったのでしょうか。

























第二章 人間は善人か、それとも、
    生まれながらの罪人か、悪人か。



 1 アダムとイブの犯した罪というもの

 
 聖書の話によると、天地創造の神が、初めて人間をつくったとき、まずアダムという人を作ったそうです。

 しかし、人は、ひとりでいるのは、よくない。
 とおもって、そのあと、イブという女性を作ったそうです。

 天地創造の神は、そこで、ようやく満足をして、ふたりには、子孫を増やしてほしい、ということで、神は、

 -産めよ、増やせよ。地に満ちよー


 といったそうです。

 つまり神は、初めから「ひとりぼっち」がいやだったわけです。
 にぎやかが、好きだったわけです。

 多くの人があつまって、生きる喜びを楽しんでほしい、と望んできた、というのです。

 しかしどうでしょうか。
 日本人にしても、「いじめる人」も多くなりました。
 「ひとりぼっちも多くなります。
 
 そうして、「ひきこもり」も多くなったというのです。
 そこで天地創造の神は、一つの「戒め」を作りました。


 -あなたががたは、何を食べてもいいか、
  善悪を知る木の実だけは、食べてはいけませんよー

 といいました。

 人間にとっての罪とは、善悪を知る木の実とは、よわいものをいじめる「善悪」を知る木の実を食べることでした。
 誰かを、仲間外れにすることでした。

 そうして、戦争を始めることでした。
 じめることが、世界を戦争にすることだ。

 といってきました。


 2 善悪を知る知恵の木の実は、どういうものであったか

 さて、どうでしょうか。
 善悪を知ることは、善でしょうか。
 それとも、悪でしょうか。


 善悪と知ることで、ひとは、悪を選んだでしょうか。
 それとも、善を選んできたでしょうか。


 哀しいことに、日本の有識者にしても、善と悪を知って、善を選んできたでしょうか。
 それとも、悪を選んできたでしょうか。
 
 はっきりしていることは、アインシュタインほどの天才的な平和的な科学者にしても、ヒトラ―の時代には、ユダヤ人であったことで、ユダヤ人狩りにであったこともあって、アメリカに亡命したあとで、原子爆弾を、一日も早く創造することを目指していた、といいます。

 もちろん、それは、ヒトラ―より前に、原子爆弾をつくって、悪魔のようなヒトラ―を撲滅するためでした。

 世界の平和のために、ということでしたが、そのため、日本人が真っ先に、そのころは。アメリカの敵国であった日本の広島と長崎が、アメリカの手によって、ふたつの原子爆弾が落とされました。
 アインシュタインほどの、良識的な科学者ではあっても、自分の「いのち」を救うためには、日本民族を犠牲にすることもできたわけです。
 
 善悪を知る木の実を食べたことで、結果的には、悪を選んだわけです。
 それゆえに、天地創造の神は、戦地創造のはじめから、新しい人類を創造したはじめに、アダムイブとイブに、


 -あなたがたは、何を食べてもいいが、

  善悪を知る知恵の木の実だけは食べてはいけない。
  あれを食べると、死ぬことになるからー

 といっていたわけです。

 信じられますか。
 善悪を知っても、人間は、いつも、善だけを選ぶことはない。
 誰かを助けるためには、だれかを犠牲にする。

 だから、あなたたは、

 -わたしエホバだけを神にしなさい-。

 他の神々をつくってはいけない。
 信じてもいけない。

 善悪を知る学問的な真理でさえ、それは、ほんとうの真理ではない。
 
 ほんとうの、真理を知りたれば、神の子、イエスだけを真理としなさい。
 というわけです。
 


 3 なぜイエス・キリストだけが真理だというのか

 
 繰り返します。
 イエスというひとが、たしかに、ご自分の口でいわれました、

 -私こそが真理であり、
  天国に門であり、
  永遠の「いのち」そものであるー


 と、弟子のひとにもいってきました。

 しかしどうでしょうか。

 真理とは、天地創造の神そのものであったのではなかったか。
 それとも、天地創造の神の子、イエス・キリストが、真理そのものであったのでしょうか。

 しかも日本民族は、いまだに、イエスというひとを神の子だとは信じていません。そうして、イエスという人を信じてきたアメリカとイギリスを、敵国にして、ヒトラ―の国を同盟国として、第二次世界大戦をつくってきました。

 日本人もまた、天地創造の神の「ことば」を無視して、昭和天皇を「現人神」にして、善玉ではなく、悪玉のヒトラ―を信じて、日本民族にして世界大戦まで、作ってきたわけです。

 ユダヤ民族もまた、善悪の木の実を食べて、イエスという人を殺して、平和ではなく、戦争を作ってきたわけです。
 これこそが、歴史的な真実というものでした。言い開きのできない、天地創造の神と、その神の子イエスに逆らってきた、罪の罰を受けることになった、というものでした。


 信じられますか。
 それほその大罪な罪を犯してきたのが、ユダヤ民族であり、日本民族でもあったわけです。



 4 許されざる罪とは、どういうものだったか

 
 そういうわけで、改めで、再度いうほかありません。
 昨今でも、どうでしょうか。
 日本人はいまだに、原罪というものさえ、認めないのです。
 
 なぜでしょうか。

 原罪を認めないひとは、自分の心と体が犯した罪なども、心から、自分の犯した罪さえ認めないないわけです。
 それ故に、かつての総理大臣のように、国民に向かってウソをついても、「うそ」そのものを罪とは認めないわけです。

 よくて言い訳をするだけではないでしょうか。

 そういう、自分の犯した罪にそこまで、無頓着になれば、人間関係は、どうなるのでしょう。
 ともに、真実のない、¥罪の中で、生きることになります。そういう人間関係の中で生きるようになれば、平和どころが、いつも戦争になかで生きることになります。


 しかし、昭和天皇だけは、ご自分の罪を認めました。

 その昭和天皇の犯した罪とは、二つありました。


 その一つが、ご自分を「現人神」となって、公然と、全知全能の神となって、第二次世界を引きおこしたことでした。
 これほどの罪がどこにあったでしょうか。


 天地創造の神エホバでもなかったのに、天地創造の神を、貶め毛、自分が天地創造の神の座に座ったことでした。

 そしてもうひとつの罪が、国民をも公然と、世界大戦の中に誘惑した罪のことでした。
 天地創造の神を貶める罪を犯したことでした。
 そうして、最後には、広島と長崎が ,原子爆弾を受けたことでした。

 これほどの罪がどこにあったでしょうか。
 確かに、日本国民の大半は、昭和天皇の罪を糾弾することはありませんでした。

 なぜだったか。
 昭和天皇が、国民が昭和天皇の罪の糾弾をする前に、国民の前で、対二次世界大戦の責任をとって、まずは、戦争の終結のために、行動に出ました。
 そして、自分は神ではなかった、あくまでも人間であった、という「人間宣言」まで公表して、自分の死ん死ぬ覚悟までしたからでした。


 つまり天地創造の神と日本国民の前で、自分の罪を認めたわけで、昭和天皇は、戦勝国の総大将であった、マッカーサー元帥の前でも、」

 「自分は、どうなってもいいから
  国民の罪を許してほしい」

 といったそうです。

 信じますか。
 信じられますか。


 























第三章 罪を許す神と、
    どういう罪も許さない神との違いについて




 1 天地創造の神にとっての罪とは

 ユダヤ人にとっての罪とは、いつも的外れである心を意味していました、
 そのときの「的」とは、天地創造の神のことを意味していました。


 つまり、天地創造の神から、一歩でも外れることが罪というものでした。
 それ故に、イエスというひとはいつも、

 ーわたしと天の神は、いつも「ひとつである」-


 という言い方をしてきました。
 イエスというひとは。

 -天地創造の神を、天の神であり、天の父であるー


 といってきました。

 その天地創造も神と人間イエスはいつも、「ひとりであった」というわけです。

 信じられますか。


 そして、イエス様こそが、いつも、天の神とは「ひとつ」であったから、イエスという人を信じないものは、天の神も、天地創造の神を信じてこなかったから、そうい者こそが、罪人である。

 というようになったわけです。

 たとえば、第二次世界大戦のときのように、昭和天皇が、現人神を名乗るようになったときには、そういうときの昭和天皇も、その昭和天皇を信じで世界大戦を引き起こした民族こそが、アメリカやイギリスの目には、罪人だ、ということになったわけです。

 しかも、結果的には、昭和天皇もまた、罪人というこになったから、原子爆弾によって、裁かれたのだ。
 天地創造の神も、キリストも、罪人となった、的外れとなった日本民族に罰を与えるために、原子爆弾を利用したのだ、ということになったわけです


 すべては、そのころも昭和天皇も、日本民族も、天地創造の神を知ることもなく、イエス・キリストを信じることもなく、罪人となって世界を放浪していたので、罰が当たったのだ、というわけです。

 信じられますか。



 2 しかし、イエス・キリストは、
   イエス・キリストは、昭和天皇の罪も
   日本民族の罪も許した、というのです。


 さあどうでしょうか。
 日本民族にとっての真理とは、天地創造の神に対して罪尾を犯したものは、当然、罰を犯すことになっていました。

 -罪の報いは死であるー

 ということになっていました。

 特に軍部のほうは、そのように罪と罰のことを考えて、いつまでたっても、敗戦を認めませんでした。

 そうして国民に対して、最後のひとりになっても、戦うのだ。
 戦争にまければ、捕虜になっても、敵国アメリカとイギリスに殺されることになることになる。

 だから、最後まで、日本民族よ、一億総玉砕になっても、戦うのだ、
 と言って、若い兵隊たちには、つみに、敵艦を目指して、帰りの燃料さえ積み込ませないで、突撃命令まで出すようになったわけです。

 日本人はそのように、同じ日本人に対しても、罪を許すことなど、考えたこともなかったわけです。


 3 元安倍総理の罪とはどういうものであったか

 
 いまこそ、前安倍総理の罪について、参考にしてみてください

 安倍総理は、北朝鮮に拉致された、日本国民を、救い出すための、平和工作をすることなく、元総理の小泉総理のように、来た朝鮮に出向いて、ひとりでも多くの、拉致されていた人を救いだすために、北朝鮮に出向いだこともありませんでした。自分は日本的愛国主義者であるあというわけに、「桜を見る会」までつくって、いました。

 しかもそのときの費用にしても、公職選挙法に違反していた、というではありません。
 そうして、阿部政権の時の法務大臣までは、夫婦そろって、選挙法違反の容疑でつかまり、逮捕寸前のようです。

 そういうことです。日本人は、第二次世界大戦のときには、昭和天皇もまた。天地創造の神と国民のままえに、大きな罪を犯していたのでしが、戦後、ようやく、復興して、国民のほうも、生きる権利に目覚めてきたときに、前安倍総理が、平和どころが、核兵器すがって、平和をつくろうとしてきたわけです。

 なんとまあ、日本人の好んだきた、「お花見」による、「桜の会」まで作って、公職選挙法まで犯して、拉致家族の人を、救うことなどすっかり忘れて、「桜の会」まで作って、ニセの平和づくりをしてきたわけです。

 こまったことになっています。

 

 4 日本人が犯してきた学者の罪というもの

 
 そういうことです。
 政治家の悪には、慣れっこになってきましたが、なぜか、ほかの文化人にしても、どういう平和を作ってきたでしょうか。

 女性のジャーナリストにしても、どうでしょうか。
 ほんとうの平和を作ってきたでしょうか。

 大学の女性教師にしても、どうでしょうか。
 どういう平和を作ってきたでしょうか。

 女性の権利の向上を目指すことはいいのですが、ほんとうの真理というものを知ることもなく、魂の真理というものだけではなく、自分の心さえ、どこにあるのが、脳になかにあるのか、心臓になかにあるのか、胃腸なのなかにあるのか。

 そういうことさえ、はっきりさせるさせることこなく、女性の権利ばかりを主張してきたのではなかったか。

 もちろん男性的な愛国心の強い、ジャーナリストにしても、どうでしょうか。
 彼女らの愛国心は、どうでしょうか。
  
 拉致問題にしても、北朝鮮問題にしても、どういう平和づくりをしてきたでしょうか。北朝鮮にしてきた日本民族の愛国心の間違いを、しっかり反省をしたうえでの愛国者でしょうか。




















第四章 これからの日本的な愛国心は、世界を救えるか



 1 昨今の夫婦の愛はどうでしょうか。

 哀しいことに、結婚を避けてきた愛国者も多くなったようです。
 インテリでありたいために、わが子になるはずの子さえ、捨てて、日本の教育を「論じる」ような、そういう大学教授にうえてきました。

 なかには、それでも、男女の愛だけは、大事にしてきた、という人も多くなったようです。
 そういう愛は、かつては、不倫というものでしたが、そういう不倫愛でさえ整理しないままで子育てを放棄して、子育ては、ほかの女性に任せて、社会問題を解決してきた女教師も多くなりました。


 そういう親子の愛はどうなのでしょうか。
 現実の子育てを放棄した、そういうときの教育者の「心」は、どこにあるのでしょうか。

 おなかになかにあるのでしょうか。
 
 胸の中でしょうか。
 それとも脳のなかにあったのでしょうか。


 2 心の居場所というもの

  
 自分心が、脳のなかにあると信じてきたひとは、どうでしょうか。
 そうときの脳は、どういうなっていたでしょうか。

 不倫の時だけ働く脳とは、どういう脳でしょうか。

 子育てを放棄して、インテリの女性となった母親の愛とは、どういうものでしょうか。
 なかには、そういう女性のなかんじ、品格を教えてきた、女性教師も現れました。

 お育てを嫌って、女性解放を訴えてきたひともいます。

 そういう人は、いいって言ってきました。

 女は人間を産む機械ではないと。
 しっかり、わが子でさえ、親を選ぶ権利があるのだ。

 子育てに向いてはいなう女性は、社会で働けばいいのだ。
 親にだって、わが子を選ぶ権利がある、というのです。

 いかがでしょうか。

 そういう女性にとっては、どうでしょうか。
 親子の愛でさえ、期待もできないようです。

 聖書がいってきたような、

 -善悪を知る木の実を食べたものは、やはり、不倫に走ることになるー



 というのでしょうか。

 女性の権利を訴える女性が増えれあひれるほど、子育てそのものも苦痛にになるというのでしょうか。
 心そのものが、居場所を失って、あっるものは、お腹のなかに、ある者には、胸のなかにいて、あるいはな、脳のなかで。うろうそするようになって、神経症になってしまうのでしょうか。

 それゆえに、診療内科も多くなるのでしょうか。

 「生きこもり」も多くなったののでしょうか。」


 3 弱者を救うことは、善か悪か

 そうして、「いじめ」も多くなり、中学生になってから、不登校も多くなり、学校の教師にしても、校長にしても、「ひきこもりを隠す」ようになったのでしょうか。

 しかも、昨今では、小学生の教師でありながら、小学生に、「わいせつ」になった、というのですが、これもまた真実でしょうか。

 日本では、愛といえば、男女の愛でした。

 神の愛などは、そういう愛を作品にしてきた作家にしても、ごく一部でした。

 ましてや日本では、原罪認めないのです。
 仏教の「お坊さん」にしても、認め最も戒律の厳しい、宗派にしても、不倫の愛こそが、神の愛である、などという人も多くなった、というではありませんか。

 
 4 イエスの父と子の愛はどうだろうか



 さて、天地創造の神は、言いました。


 -わたしのほかに神としてはならないー

 といってきました。


 そして、その時の神こそが、エホバという、唯一絶対の神でした。
 そしてその神の子である、イエスというひとだけが、

 -わたしが真理であり、門であり、「いのち」であるー

 といってきましたが、イエスというひとの弟子たちこそが、


 -神は愛であるー


 というようになりました。

 神は真理であるとは言いませんでした。

 神は愛である、と言い切りました。

 なぜでしょうか。天地創造の神こそが、愛であった、というのです。

 イエスとひとは、わたしは、真理ものものである、といったのですが、こうなってきまうと、どうなるのでしょうか。
 
 真理こそが愛そのものである、というのです。

 信じられますか。つまり、天地創造の神の子そのもにが、真理である、といってきたのに、その真理そのものが、愛そのものであったというのです。


 信じられますか。

 つまり、そのときの愛とは、男女の愛ではなかったのです。天地創造の真理ことが愛であったというのです。善悪を知る木の実ではなかったわけです。

 のちになって、弟子たちがいいました。

 -我が身を捨てて、生きる愛こそが、神の愛であるー

 というようになったわけです。


 そうして、イエスといひとだけは、神の愛であった。男女の愛は、限りなく相手から奪う愛であったが、イエスこそが、天地創造の神の真理は、「いのち」を奪う愛ではなく、新しい「命」を与える愛であった、というのです。


第五章 イエス・キリストへの礼拝こそが、神の愛であった



 1 神の愛への礼拝といいうもの

 2 聖霊に対する礼拝につい


 3 三位一体の神への礼拝について




 4 もっとの理想的な礼拝について


 



  タチヨミ版はここまでとなります。


キリストの父と子の平和づくりの礼拝に参加してみてー今日からはあなたも真理とはどういうものか知るようになります

2020年11月21日 発行 初版

著  者:キリストめぐみの家 (代表)平川博達
発  行:yoshikawa-shimon-nobuyuki出版

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現在にところ、7000ページ程の原稿があります。発行した本もありますが、書籍化はまだしていません。  盲学校、知的障害者などの学校の教師の後伝道者になり、今は執筆をつづけています。

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