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間違ってない、これで良いのだと思えた。今年リリースしたアルバムROTH BART BARON、Haim、a flood of circleの作品は、私に大きな影響を与えてくれたのである。自分は、特別な存在だと肯定してくれるような前向きになれる気持ち、女性として、もっとそのままで強く凛々しくあって良いのだと勇気づけられた。
今年は、コロナ禍によって、以前にも増して不安になったが、その気持ちを吹き飛ばしてくれたのが、この3作品である。コロナ以前、昨年から構想されていたが、現在の私達の灰色の気持ちに寄り添い、ポジティヴになれる曲で救ってくれたのだ。
この3作品を通して、何が起きようとも変わらず、進化したすばらしい音楽を作り出す人間の強さを知った。そして、この世界全体の苦しい状況を変えてくれると信じている。希望も見えてくるのだ。辛いことではなく、楽しい状況を思い出させて自分を取り戻せるのである。だからこそ、コロナなんかに負けない人間の強さを証明する作品かもしれない。(櫻井千里)
今年は過去やルーツを整理整頓する意味合いの作品が多かった印象。Khotinは大量にストックしていたデモから制作、Four Tetは自身の軌跡を辿るかのように初期の名義を冠したトラックや幼い頃の母親との時間をリファレンスしたであろうトラックを収録。そして2年ぶりに活動を再開したKlloは過去作のガラージュの要素を新たな手段で提示してみせた。つまり、この3作品はいずれも過去を見直すことで構築されたアルバムだ。
思えばBLMもBlackの被差別の歴史を振り返り未来に向けて整頓する運動で、フェミニズム的な反応の増加にも同様の背景があるだろう。それらにまつわる楽曲も多くリリースされたが、いろいろと限界が来ていたのかもしれない。
すべての事象が網のように絡まり影響し合う世界で、誰もが外的要因に翻弄されていると自覚せざるを得なかったこの一年。そんな中、ただ過去を振り返るだけではなく整理整頓する、言い換えると自分を構成する重要な要素を選び出し、なにかしらの形にまとめる。これは今後の道標を流動的な自分の外ではなく、いままで積み上げてきた自分の内に図らずも求めているということではないか。(佐藤 遥)
DTMの市民権がより明確になった年になった感じる。スタジオの設備が無くとも、個人で制作を行うことができ、国外のミュージシャン、エンジニアとも多様なコラボレーションを産み出している作品も多い。結果として作品の強度が増し各国の音楽ファンに広く受け入れられている。また、多様な音楽をコラージュの様に繋ぎ合わせ特定の一つのジャンルに形容し難く、スタジオセッションで制作された楽曲よりもジャンルに縛られない自由な作品が多い点はおもしろい。GRIMESと冥丁はその代表格だろう。
そこに加えて、インターネットコミュニティを活かし制作を行ったのがDos Monosである。音源公開前に収録曲のCP上の制作画面を公開し、有志によるリミックス(=2次創作)を公募、そこで発表されたリミックスをさらに実際の楽曲に合わせて3次創作しリリースするというスピード感と発想は、一人一人が個でありながらもインターネットを仲介し横繋ぎになるという、DTMに未開の可能性やアプローチがある事を証明した。
具体的な作品の内容には反映されて無いものの、ROTH BART BARONはクラウドファンディングを定着させ、ファンコミュニティもインターネット上で展開してみせた。この状況下で果敢なDIY精神を貫き活動を行う姿勢にも感銘を受けた。(中村 亮介)
SpotifyでNew Releaceのプレイリストを聴いても、ギター・ロックが流れてくることは本当に少ない。2006年にArctic Monkeysがファースト・アルバムをリリースして以降、ロックの衰退ははじまり、2010年代を代表するロックバンドはこれといって思い浮かばない。ヒップホップやダンスミュージックが主流となった現代において、ロックとギターは日陰の時代が続いている。そんな中、この3組は時代に抗うようにギターを掻き鳴らす。Machine Gun Kellyのポップ・パンクへの回帰。Circa Wavesの疾走感がありながらも爽やかなギター・サウンド。Fontaines.d.c.の1960年代サウンドを彷彿とさせるサイケデリック・ロックは、いまの音楽市場に反抗するようであり現代のトレンドと戦っている。ただ、Fontaines.d.c. はUKチャートで2位。Machine Gun Kellyは全米Billboard200でチャート1位を獲得しており、徐々に結果も出しつつある。今年はThe 1975も健闘し、長らくロックを牽引してきたアメリカ、イギリスも新たなロック・スターやギター・ヒーローの誕生を求めているに違いない。(久保卓也)
今年、私が引き寄せられたのは一聴すると“刺激の強い”作品であった。この3枚は、良い音楽を作ろうとするポジティヴさと同時に、アンダーグラウンドを出発点とするような自己表現の強さも兼ね備え、暴力的にすら感じる一面もある。
しかしながら、これらは高い評価もしっかりと獲得している。様々な政治的・社会的な問題を未だ抱える社会に求められたことは間違いないが、彼らのポジションから叫ばれるレベルミュージックとポップネスが高いレベルで昇華できていることも大きい。
さらけ出さずにはいられない程の表現欲求の爆発。政治やジェンダーなど彼らを取り囲む環境について叫び、変えようとする強い熱量。この3枚は、インスタントに気分を変える音楽ではなく、ましてや内省的に閉じこもるわけでもなく、その激情を外の世界へと発信しようとする意思がある。だからこそ、アンダーグラウンドを越境して2020年に光を浴びたのだろう。そしてそれは、私を含むこの時代の人々が、皆どこかで潜在的に強い表現欲求を持っていることの現れでもあるかもしれない。(寺尾 錬)
世界中が同時に同じ困難に直面すると、一体どんなことが起きるのか、そんな社会実証の場にリアルに立たされた特別な一年。だからこそ世界規模で人気を獲得している音楽家の作品に触れることがいつになく意味のあることだったと思う。世界の人々が、今同時に感じている共感の輪の中に自分がいることを見出すことができたし、皆がいいと思うものを素直にいいと思えることを、今年は格別にうれしく感じた。しかも、この3作品は、ともに過去・歴史へ真摯に対峙し、そこから普遍的な価値を見出そうとするアティテュードと、誰もわからないものに立ち向かう緊張感やスリルを伝えていた。ここまで壮大なテーマの作品を、大多数のリスナーと共有できるという大衆音楽の最も良質な側面を、少なくともここ10年で強く感じたことは僕はなかった。(キドウシンペイ)
アーロン・デスナーやボン・イヴェールを招いたテイラー・スウィフト、諸外国、もちろん日本の民俗音楽のエッセンスを盛り込んだ米津玄師、そして多数のコラボレーターを迎えた香取慎吾と、どの作品もクロスオーバーが大きなポイントとして挙げられる。このクロスオーバーは、ここ数年大きく、そして強く広がり続けている、人種や性別などによる分断、格差の是正や融和を求める人々の思いの表れだ。激化しているブラック・ライヴズ・マターなどはまさに、融和を求める意志の噴出だ。
だが皮肉にも、強まった融和を求める動きに反して今年はコロナ禍により身近な人に会うことすら憚られる事となった。しかし、人と直接会えるか否かはあくまで表面的なものでしかないという事実もまた、顕在化したように思う。今回挙げた3作品は制作時期がコロナ禍以前/以後で各々異なっているものの、どの作品の根底にも人を、思いを、そして文化を繋げるという確固たる意志が流れている。世界中が転機を迎えた今年、ビッグ・アーティストがそれぞれ違う視点から、しかし同じ「繋ぐ事」を表現したこの3作品は、今後あらゆる立場の人々が分断を乗り越えていく上で、大きな道標となるはずだ。(松尾 衣里子)
ソーシャルメディアが多数での共有・共感を容易にして久しいが、それよりいま必要なのは個人の解釈・理解ではないか。新しい音楽が世に出れば、リアルタイムに感想や考察を投稿するのは当たり前。反芻はどうした? 消費が加速した社会より、もっと孤独でいたかった私は、一人で楽しめる耳に心地よいダンスミュージックを聴いていた。多すぎる言葉に疲れた耳を癒すには、聴き流せるものの方がむしろ良かった。
アゲインスト・オール・ロジックのテクノを軸にした閉鎖的なエレクトロニックは、入り乱れるノイズの中で安らぎを与えてくれる。カリブーは、急に変化する曲調の中でも一定のグルーヴやテンションが保たれ、ホームリスニングにも最適だ。ディスクロージャーはハウスからテクノへ衣替えしたトラックで、ミニマルな心地よさを手に入れている。
聴き流せる手軽さと、一人で聴くのに適した内向性。これらは、作家の意図しなかったものも含め、今年の音楽に表出した特色の一つだろう。優れたアートは不安定な社会や不吉なムードを何かしらの形で昇華するものだが、クレイジーにならずに日々の仕事やなにかをやりぬくためには、嵐からの隠れ場所に身を置いてみるのも必要かもしれない。(髙橋 翔哉)
世界の不安定さを表現するかのように、このアルバムもある種、不安定である。収録時間は約1時間20分。収録曲は22曲と大作であり、インストゥルメンタル→歌物というのが基本構成になっている。曲間にインスト曲を挟むことで、場面が切り替わるような印象を受け、全曲聴き終わった際には、映画を見終わったような感覚に陥る。ただ、楽曲がジャンルレスであり統一感がないことが、不安定な一番の理由だ。
リスナーを奮い立たせるようなマシューのシャウト。人々が行進するような、力強いバスドラムが印象的なロック・ナンバー“People”。それとは逆に明るく爽やかな1980'sサウンドとサックス・ソロが印象的な“If Youʼre Too Shy(Let Me Know)”。スローテンポながら、快適な8ビートとクリーンギター、マシューのクリーンヴォーカルが物語の終わりを告げるUKサウンドな“Guys”。この3曲だけでもいかにジャンルレスかが伺える。
曲が進むにつれ様々な表情に変化する本作は、世界中の人々が感じている不安が交錯する2020年を表しているようであり、ある意味、人間味溢れる作品になっている。本作はメディアによって評価はマチマチだが、たとえば5年後、コロナが収束し、人々の暮らしに落ち着きが戻ってきた頃に、再度評価されるべき作品かもしれない。(久保卓也)
前作『Doglel』から約1年ぶりにリリースされたFontains D.C.のセカンド・アルバム。このアルバムを一言で言うなら、“するめアルバム”である。歌ものでもない、派手なギター・リフやギター・ソロがあるわけでもない。最初聴いた時は、どう聴けばいいかわからなかった。ただ、しばらくするとなぜかまた聴きたくなるのだ。アルバム全体を通してシンプルなサウンドだが、曲の中でそれぞれのパートがシンプルなフレーズを重ねていくことによって、独特で強固なバンド・サウンドを築いている。特にベース・リフからはじまり、サイケ・サウンド全開のツイン・ギターが絡みあっていく様が心地よい“Televised Mind”。特に跳ねるドラミングの中、ヴォーカル含め他の楽器はどこか平坦なフレーズで違和感を感じるが、曲が進むにつれ、その違和感を払拭していくかのようにアンサンブルが展開されていく“A Heroʼs Death ”は Fontains D.C.のバンド力の高さを象徴している。Arctic Monkeys以降、UKを代表するロック・バンドは輩出されていない。UK独特のシンプルでサイケデリックなサウンドを継承している彼らを求めていたのかもしれない。(久保卓也)
1980〜1990年代の機材を使った制作、ネット文化発かつクラブで演奏するフィジカルな指向、同世代DTMerとの活動やステージ上での様子などパソコン音楽クラブの魅力は無数にあるが、いちばんは彼らが解釈や理解からすり抜ける物事を音にすることだろう。
人は他人と同じように世界を捉えることはできない。なぜならその手段である身体や主義主張が個人によって異なるからだ。ましてや各自が選択して情報を摂取している現代、一人一人が違う現実を生きていると言ってもいい。そんな社会の中で彼らの音楽は誰の主義主張にも属さず、解釈が届かない人と人の世界の隙間に存在している。
“Breathing”は夜明けに鳥がさえずり、木々が風に揺れ、川が流れる様子を淡々と描出するよう。そして視界が開けていくような“Ventilation”は深夜窓を開けた時、聞こえてくる笑い声や向かいのマンションの一室だけについている灯りを思い出させる。どちらも自分の主義主張から切り離されていて理解するまでもなく通り過ぎてしまう事象、もっと言えば人々の世界の間を埋めている事象だ。つまりそれを伝えるパソコン音楽クラブの作品は遠く離れた私たちそれぞれの世界に重なる部分をもたらす音楽なのではないか。そしてそれでもなお、誰しも自分の世界しか知り得ないという事実が彼らの作品に心を惹きつける。(佐藤 遥)
Khotinはカナダのプロデューサー、Dylan Khotin-Footeのソロ・プロジェクト。制作の軸はアンビエントで、ダウンテンポにも関心を広げた前作の拡張とも思えるこのアルバムは、ずばり「曖昧」だ。
解像度の低い音に、光を具現化したような音、エフェクトによる残響が重なり合いドリーミー。数曲聴けば少し不思議な夢と、ぼんやりとした現実とをゆらゆら行き来しているよう。だがそれだけではない。粗いスネアと繰り返されるフレーズが心地いい“Ivory Tower”はメロディが縺れる不安な瞬間が何度もあるが、いつの間にかそれが心地よさになっている。ダイヤルトーンで始まる“WEM Lagoon Jump”、ここまでと同様ドリーミーだと思っていると、突然電子音か人の声かわからない不気味な音が割り込んでくる。かと思えば徐々に不気味さが溶け込んでゆく。
そう、この作品では夢 / 現実、心地いい / 不安、電子音 / 人間の声、ドリーミー / 不気味、いくつもの境界が滲んでいるのだ。たしかにジャケットに写る二人の境界も、背景の境界も曖昧だ。目先のわかりやすさばかりを求め、何かと線を引き分断してしまいがちだが、曖昧なものは曖昧なまま受け入れればいいということなのだろう。(佐藤 遥)
いつの時代も世間の度肝を抜き続けてきたディランだが、本作のシン グル第1弾として「Murder Most Foul」が、コロナ禍で突然配信リリースされ、17分にも及ぶ大作だったにもかかわらず、キャリア初のビルボード1位を記録したことは、逆に世間がディランを驚かせた出来事だった。
アルバムは、ここ10年以上続いているアメリカン・ルーツ・ミュージックの探索の旅とともにあり、トラディショナルなカントリーやブルースがフォーマットになっているが、やはり、本作をもっとも象徴する曲は“Murder Most Foul”だろう。美しいストリングスとピアノに乗せ、ポエトリーリーディングを思わせる、1960年代のアメリカの熱と幻想を訥々と語り続ける曲だが、ここでのディランの声はいつになく優しい。まるで自ら聞き手一人一人に手を差しのべ語りかけるようだ。
だが、これは、人間の邪悪さは決して消えず、過ちは必ず繰り返すという、いくつもの時代の変遷を生き抜いてきたディランが発する警鐘に違いない。自分を納得させるために神や歴史を都合よく利用するのもいいが、気をつけろと。そんな露悪する人間の性を冷静に認めたうえで、自分のできることをすればいいのだと聴こえる。時代とともに、ディランの歌の意味もきっと変るだろうし、これも自分が受け取ったほんの一部の解釈に過ぎないが、世界中がパラダイムシフトした2020年、多くの人がディランの歌によって、一人一人がそれぞれの問いを発することで繋がれたという幸運もあったのだ。(キドウシンペイ)
サプライズ・リリースとなった通算4作目のアルバムのタイトル、”Shore”=岸辺。遥か遠くから差し込む光と、穏やかな波のしぶきを切り取った岸辺のアートワークからも想像できるとおり、「生と死の際」をテーマにしたFleet Foxes史上最もコンセプチュアルなアルバム。そして、ナイジェリアやブラジル出身のアーティスト、Grizzly Bearのメンバーら多くのゲスト・ミュージシャンを迎えた今作は、Fleet Foxesにとっての新しいワールドミュージックの提示でもある。
新しいワールド・ミュージック… つまり、万物共通のテーマでもある、生と死を、ロビンはここで表現しようとしたのではないだろうか。この根源的なテーマをあらゆる人があらゆる時代・場所で解釈して意味づけしてきた。本作から感じるのは、一神的な思想ではなく、むしろアミニズム的な物語で、森羅万象すべての生命との過去からの繋がりかたの提示であり、本作はそのような意味でやはりワールドミュージックなのだと思う。“Sunblind”では多くの故人となったミュージシャンの名を挙げ、“A long Way Past The Past”では、”僕たちは一直線上にいるわけではない”と個として存在意義を語る。それは、此岸と彼岸という生死の違いを受け止めながら、どんな生き方も祝福されるべきなんだとポジティヴなメッセージがある。生き方の違いも生死もひっくるめて、きっと僕らはどこかで繋がっているのであり、過去からの復元と再構築こそが、未来を少しずつつくっていくことに他ならないと歌っているように聴こえる。(キドウシンペイ)
本作はあいみょんのファイティングポーズだ。冒頭の20秒を聴いただけで伝わってくるその「戦う姿勢」に、思わず笑みが零れる。
大ブレイク後に制作される作品にはヒット曲と、新録曲も大衆性の強いものが詰め込まれる印象が強く、無論今作もそうなると思っていた。しかし、違う。このアルバムには浮ついた空気がなく、どこか醒めてすらいる。収録曲の大半は2~3年前に作ったものをベースとしているそうなので、まだ今のような狂騒に巻き込まれる前の作品だったと思えば納得だ。しかし、少し前に作られた曲であるという事実以上に、今のあいみょんのモードが影響しているのだろう。
冒頭「鐘のなる方へは行かない」(“鐘”は“金”とかかっているそうだ)と高らか宣言した彼女は、アルバムの最後にマイナー調のメロディに乗せ、もう一度「生きてゆく術は人それぞれ/だから 私はいつも風まかせ」と語りかける。この2曲だけでも、誰かに手渡す「みんなの」アルバムを作る事を選ばなかったのだとわかる。どれだけ多くの人に受け入れられ求められても、作品の手綱は離さない。近年、自分らしく生きる事の価値がますます上がっているが、一方アーティストは今も、自分ではなく「誰かが喜ぶもの」を作る事を求められる。このアルバムであいみょんはその矛盾に抗ったように、私には思えるのだ。(松尾 衣里子)
1年前にみんなが思い描いていた2020年は、こういうものだったと思う。今年の初日にリリースされた香取慎吾の『20200101』は、タイトルの通りワイワイ楽しい1枚だ。
ダンスチューンが軸になってはいるが、多数迎えたコラボ相手のキャリアや活動するフィールドはそれぞれ大きく異なる。コラボとは言うが曲提供程度だろうと思っていた。しかし、香取は随所でコラボ相手に曲の主導権を委ね、音楽を通した会話を繰り広げる。聴き込むごとに、今年開催されるはずだったオリンピック、そして繰り広げられるはずだった多様な人々の交流を表現しているようにも思えてくる。
しかし、ひたすらに明るくポップなアルバムかと思いきや、1曲目、「Prologue」の序盤で歌われる「色んなことをやりすごすために/生まれたのかと勘違うくらい」を始めとして、ネガティブな感情を経て、前を向き直すという内容の歌詞が随所で登場する。ともすれば後ろ向きになりがちな「誰か」へ向けたものであると同時に「SMAP後」の自分を鼓舞するために書かれたものだと思うのが自然だろう。だが、同曲終盤の「どんな夜も 日が昇れば 懐かしいと言える 未来 自分次第」という一説は、コロナ後にまた別の意味を帯びてくるだろうと思わずにはいられない。
本作で描かれた2020年は幻想だったのかも知れない。だが、現実の2020年に存在した人々の葛藤、そしてまた光差す未来へと向かうための希望もまた、この作品には詰め込まれているのだ。(松尾 衣里子)
『At The Beginning』は、2020年日本に生まれた1981年英国のアルバムだ。既に多く指摘されているように、本作はゴシック・ロックの系譜に位置づけられるかもしれない。しかしここで特筆すべきなのは、彼らが1980年前後のポストパンク / ニューウェイヴの実験性や音楽的な広がりに、大いにインスパイアされているということだ。
“New York”では、小林がかつて眉毛を全剃りにしたほどリスペクトする、ジャパンのミック・カーンを召喚したフレットレス・ベースが暴れ出す。”楽園”でギターの弦をヴァイオリンのように弓で擦った音は、P.I.L.の『フラワーズ・オブ・ロマンス』を連想する。スーサイドのカヴァーを披露した前作『ANGELS』以降、この1980年前後のポストパンク/ニューウェイヴというのが、新たな彼らのモードの一つとなっている。
ジャパン、P.I.L.、スーサイドは、近年の音楽や映画で一大トレンドとなっている80年代リヴァイヴァルの中でも、比較的スポットの当たりにくい存在だったように思う。THE NOVEMBERSはこれらのバンドを参照することで、現状の凝り固まったロック・バンドのクリシェを大胆に壊している。そして、歴史上もっとも音楽が多彩化していた1981年の景色のような、日本の音楽シーンに対する「オルタナティヴ」の道を模索している。(髙橋 翔哉)
900曲以上に及ぶ膨大なアイデアのストックから生まれた本作は、前作からの5年間を強引に44分間にまとめたような、様々な曲調が「突然」切り替わるアルバムだ。制作期間に身内の死を経験したダン・スナイスは、あらゆる出来事は予期せず突然に起こることを作品に反映させたという。
そんなテーマとアプローチのシンクロは、見事に本作を通して一貫している。”ライク・アイ・ラヴ・ユー”では前作『アワ・ラヴ』で獲得した繊細な歌詞が You と I の間の揺れる関係性を表現するのと同時に、ピッチの震えたギターやシンセが鳴っている。また、かつての過剰なヴォーカルエフェクトは消え、音空間の「陶酔感」は後退し、音数を絞ったプロダクションが生む緊張感は、ダンの細い声を際立たせ、彼の言葉に耳を傾けさせる。
アルバムの冒頭1分半”シスター”──囁くような声で、アナタに直接語りかける。「シスター、僕は変わると約束するよ / 変わりたいなら約束を破るしかない」「ブラザー、あなたは変わらなければならない / 物事が変化しているのに気付いているはずだ」。ジェンダーを含めた多くの価値観を巡る議論が複雑化する時代、カリブーが『サドゥンリー』で証明しているのは、「対話」こそが目の前の現実を生きるヒントになりうる、ということである。(髙橋 翔哉)
前作『2012 - 2017』ではソウル・ヴォーカルをサンプリングしたミドル・テンポのハウスを展開していたが、本作『2017 - 2019』では前作の桃源郷のようなムードは消え去り、精神にひりひりと切迫するような緊張感だけが存在する、テクノもインダストリアルもIDMも飲み込んだ異形のクラブ・ミュージックに変貌している。
アルバム6曲目“Deeeeeeefers”では、16分のリズムを執拗に刻むビートが、踊る軸足の輪郭をぼやけさせトリップ感を生み出す。それは同時に、どこにも着地することのできない不安感を煽る。予測できない曲展開の中でビートは目まぐるしく変化し、ノイズは暴力的に不快なまでに増幅される。アルバムを通して曲間には空白がなく、ノイズやアンビエンスとともに次曲へなだれ込む。
事件が無限に散在するような時間の流れは、すべてが高速で変わり続ける、不穏な新時代のサウンドトラックだ。一方で、出来ることならばいつまでもこのノイズの中に浸っていたいという心地よさも感じる。“Defer”とは、”徴兵の(一時的な)延期”を意味する。ジャケットに写る軍人のように、全く予測できない未来を先延ばしにして、怯えながらこわばったダンスを続けるしかないのだろうか。(髙橋 翔哉)
今作は前作「Art Angels」のカラフルな曲目と比べるとモロクロで内省的な作品となった。
中でも「DARKSIDE (with潘PAN)」はアルバムを象徴するような楽曲だと感じる。暴力的ほど連発される重低音とボーカルの無機質さが印象に残る。一曲を通してGRIMESのボーカルパートは”不安に魂を蝕まれて、もう身体は動かない”という一節を繰り返すのみで、台湾人ラッパーの潘PANの躍動感溢れるラップパートとの対比でよりGRIMESの闇落ち具合が際立つ。この曲のレコーディングはシベリアの爆弾シェルターで行われている。精神的な不安定さは、銃撃戦や爆弾の爆発に怯えるような切迫感と似ているという事なのだろうか。そう考えると、連発される重低音が戦場の爆発音とも捉えることが出来る。アルバム全体に漂う死のイメージは特にこの曲に集約されている様に感じた。サウンドもクラブミュージック、HIP HOP、ゴシック・ロックなど、ごちゃ混ぜで正しくカオスだ。
今作で一番ポップで可愛いサウンドの曲「My Name Is Dark」でさえも、デスメタルバンド顔負けのシャウトで苛立ちを爆発させている。このアルバムに描かれている閉塞感こそが2020年らしさだと思う。(中村 亮介)
2018年度のpitchforkのベスト・エクスペリメンタル・アルバムにデビュー作が選出され注目を集めた広島在住のアーティストのLost Japanese Moodをテーマとした3作目。
今作について特筆したいのはコラージュの様なサウンドからイメージ出来る風景の豊かさだろう。和楽器、わらべ歌を繋ぎ合わせたサウンドからは江戸末期・明治時代の西洋文化の影響を強く受け始めた時代を連想させる。しかし、今作のテーマはノスタルジーなどでは無く、あくまでも2020年に発表された現代音楽であるという点だ。「花魁I・II」に見られる横ノリの曲はDJがクラブで流しても違和感無くリスナーに受け入れられるだろう。また、アルバム全体を通してホワイトノイズを使用しているのは、当時の録音テープを再生するとザラついたノイズが聴こえるはずだと言う、現代的なアプローチであることの意識からだ。
つまり、海外リスナーの持つ虚構のJapanese Moodに媚びた音楽を描いているのでは無く、日本人も現在の視点で当時のムードを閲覧できる、リアリティのある質感を記録した歴史資料としての音楽という観点が非常に新鮮で且つ現代的だ。まるで、冥丁は音楽で当時の時代性や風景の保管を試みる博物館の支配人のようでもある。(中村 亮介)
考えすぎないで、自分の心に従おう。ダニエルがアルバムのコンセプトをこのように、あえて語った本作は、彼女達(3姉妹)の今、過去の想いを素直に表現している。その想いを自然に受け取れ、さまざまな気持ちにさせてくれる作品である。中でも、5曲目“Gasoline”、10曲目“I've Been Down”が胸に染み、熱くなった。
特に“Gasoline”は、ブルージーなギターとドラムが溶け合うようなサウンドが心地良いのである。そして、悲しい気持ち、やりきれない想いなどをガソリンに例えて、頼ろうとしているのに人間味があり、誰でも共感出来るであろう。しかし、歌詞では「悲しいことに過去を見ることはできないの」と歌っている。一見、もう過去を見られない程に悲しみが深い気がするが、私には、逆に過去が見られないからこそ、希望を見出せるのではないかと思う。
この2曲は、リリース当初にYou Tubeにて配信されたLIVE SHOWでは、最後に続けて演奏されている。ダニエルのドラムのプレイと共に歌っている姿に女性としての自信、意志の強さと心から感じたことを素直に歌にして楽しんでいる様子に、私は周りとかを気にしすぎず、自分をもっと愛そうと、前向きにさせてくれるのである。時には、悲観的になることもあるが。
「物事をあまり深く考えすぎない、大変な状況でも楽しもうとしている」彼女達の変わらない想いは、コロナの影響でも決して揺らぐことはなく、2020年を支えてくれる最高傑作だ。(櫻井千里)
「君が最初に見つけたひかり」この言葉から元の自分に戻れる気がした。それは、4曲目の“ひかりの螺旋”の歌詞である。秋に発表された本作は、タイトルに入っている「祝祭」という言葉が印象的だが、今年を象徴するコロナ禍以前から決まっていたという。
しかし、静かな誰もいない森に居るかのような一曲目“Voice(s)”からMVでは、緑溢れる中で三船が何かを伝えているような“極彩 | I G L (S)”からも、この2020年を生き抜く私達に、まだまだ希望を失ってはいけないと語りかけているようだ。
全曲、今年の最高傑作であると言いたいが、特に冒頭で述べた元の自分に戻れた4曲目“ひかりの螺旋”は、私達一人一人は大切で特別な存在なのだと思わせてくれるのである。コロナ後は、東京でレコーディングし、音を合わせる喜びを感じていたが、この曲は、北海道のスタジオで録音したという。ストリングスと三船の歌声で孤独を包み込んでくれるのだ。また、コロナのピーク時期には、メンタルをやられてしまい、東京を離れていたという彼が作り出す楽曲なのだから、そこから感じたものが大いに影響しているのだろう。
だからこそ、私たちが悩んだり、日常の変わりゆく中で流されて、忘れかけていた気持ちを思い出させてくれる曲なのである。歌詞が傷ついたあなたを助けてくれるだろう。
そして、この『極彩色の祝祭』で乾杯して祝おう。感情を自由にさせてくれる作品である。(櫻井千里)
イヴ・トゥモアの最新作には、セクシーな衝動が渦巻く。1曲目の“Gospel For A New Century”から早速「お前のことを愛している」なんて言葉が恥ずかしげもなく発せられる。這い寄るような不穏さも含む歌声に反して、アルバムを通してもストレートな表現が続くが、特にロック的なソロを奏でるギターが時折現れるのは、その熱量に呼応しているからだろう。
加えてそのMVである。特殊メイクを施した彼は、ギレルモ・デルトロ作品のクリーチャーの如き異形の姿で体をくねらす。グロテスクでエロティックな世界観はもはや(ダーク)ファンタジーだ。一方で、昨年発表の“Noid”のPVでは「白人警官に押さえつけられる黒人(=本人)」を繰り返し写しており、社会問題に対して危機感を備えたアーティストであることも間違いない。
本作は、そんな人種を含む諸問題の当事者である彼が、直接的な抗議ではなく、イヴ自身の内的な衝動に身を委ねた証の作品なのではないだろうか。しかし、それは単なる逃避とは異なる。2020年という時代をタフに生き抜く術として、あるがままに自分をさらけ出し、愛を叫ぶことが通用するのか。美しさだけではない、湧き上がるままの「愛」で試しているかのようだ。(寺尾 錬)
本作で気になる点は、前作以上に「スペイン語」で歌われていることを意識させられる点だ。それはアルカの出身地である南米・ベネズエラの母国語であり、特にリードトラックの「mequetrefe」でその躍動ぶりを堪能できる。暴力的なビートのスクラップ&ビルドに加えて、弾けるようなその発音と言葉の乱れ打ち。ジェットコースターのようなスリルに圧倒される。
前作のセルフタイトルアルバム「arca」でも官能的かつオペラティックにスペイン語が用いられてはいたが、アグレッシブでポップな方向性に舵を切った本作の方が明らかに化学反応を起こしている。その理由は本作がポジティブな作品にほかならないからだ。
そのアートワークやビジュアルからも、もはやジェンダーという枠組みを飛び越えて「自己」というものに対して衝撃を与えようとしていることが伺える。それが内向的なものでなく、リスナーにもオープンに訴えかけようとしているからこそ、あるがままの母国語=スペイン語がアルカ=アレハンドロ・ゲルシという人物をピュアに表現し、私たちの感情を揺さぶるのだろう。
そんな挑戦的な試みさえ楽しんでいるのが音楽で伝わってくる、2020年に生まれたのは最先端の自己表現だ。(寺尾 錬)
10年代に日本の音楽界で一世を風靡したブラックミュージックの潮流だとか、単純に顔が良くて声も良くてピアノも上手いだとか。藤井風というシンガーがこれほど多くの人々を惹きつける理由はそこではない。彼の魅力の本質はずばり「ギャップ」に在る。
その名を一躍世に知らしめたデビューシングル『何なんw』。アルバムにも収録された本作がここまで支持されるのは、その魅力の本質が最も如実に表れているからだ。歌詞に散りばめられ曲題にも据えられた、彼の生まれ育った岡山県里庄町の言葉。しかし音だけで楽曲を聴けば、軽やかなピアノやハネのリズムに織り込まれたチャーミングな方言はお洒落なスキャットにしか聞こえない。曲を耳で聞いた後に目で視認した時の衝撃こそ、この楽曲が最も大勢を惹きつける瞬間ではないだろうか。
上記のような洗練されたキャッチーなサウンドと、田舎特有の緩やかな空気感を纏った飄々とした姿勢。それらだけに焦点を当て「名は体を表す、まさに風のような人」なんて表現をよく目にするがとんでもない。この『HELP EVER HURT NEVER』で、彼は自身の価値観の土壌に強く根を張り巡らせる様々な哲学観を歌っている。ハイヤーセルフの探求、執着からの解放、「足るを知る」の精神、幸福な死の為の生。軽妙な音楽に乗せられた、23歳の青年が掲げるにはあまりにも重すぎるテーマ。それがあってこその彼は「風たる人」なのだ。異質な物の共存により生まれるギャップ。これが彼の、引いては彼の1st Full Albumとなった今作の最たる推し所と言っても過言ではないだろう。(曽我美なつめ)
本作までのKing Gnuというバンドの歩みは、ある種非常に明快な物語となっている。自分達の音楽で動物のヌーのように群れを成し、群衆の王として音楽シーンを切り開く、とSrv. VinchからKing Gnuへ改名。『Tokyo Rendez-Vous』で自らのトーキョー・ニュー・ミクスチャー・スタイルを確立・主張し、『Sympa』=同胞を集い。そして集結した仲間たちと『Ceremony』=祭典を開催した、というわけだ。
彼らの音楽を支持し集った、ヌーの群れ達のお祭りの象徴となった本作。しかしこの作品の最も印象的な点は、その祭典が只のバカ騒ぎではなくどこか終末感を思わせる雰囲気を纏っている部分にある。奇しくもこの作品がリリースされた2020年1月以降、世界中を瞬く間に覆ったコロナショックによって、そのムードはより色濃くこの作品に漂うことともなってしまったのかもしれないが。
終末感の象徴となるのは、何よりも常田がKing Gnuの解散をイメージして書いた曲である『壇上』だろう。その後アルバムの流れが祭典の終幕を告げる『閉会式』へと続くことによって、より一層この華やかな式典や、それと同時に彼らの活躍が永遠のものではないことを大勢が感じ取ったに違いない。名実共に日本のメジャーシーンに金字塔を打ち立て、きっとまだまだこれから高みへ上っていくであろう彼らは、それと同時にいつか来る自分達の最後をも見据えている「盛者必衰の理を表す」。平家物語の時代からある日本人の精神性を受け継ぐような姿勢もまた、どこまでも日本・トーキョーの音楽家である彼ららしい矜持のように思う。(曽我美なつめ)
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