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【簡易目次】
二六、今宮神社
二七、大石神社
二八、岡崎神社
二九、勧修寺
三〇、上御霊神社
三一、祇王寺
三二、吉祥院天満宮
三三、鞍馬寺
三四、くろ谷
三五、建勲神社
三六、広隆寺
三七、御香宮
三八、相国寺
三九、城南宮
四〇、泉涌寺
四一、大徳寺
四二、東寺
四三、南禅寺
四四、毘沙門堂
四五、妙心寺
四六、妙満寺
四七、山科神社
四八、鹿苑寺
四九、六波羅蜜寺
五〇、わら天神
二六 今宮神社
今宮神社前停
例祭以上に、スサノヲを祀る「やすらい祭」が、京都三大奇祭の一つとして知られています。他の二つ、鞍馬の火祭は叡山電車の混雑が激しく、広隆寺の牛祭は休止中となっていますので、京都の奇祭としては最も代表的と言えるかもしれません。
そもそも遷都以前よりこの地にはスサノヲを祀る祠があったとされており、これは大徳寺の元となった雲林院と同一視されることもありますが、いずれにしろ、これは現在の今宮神社の摂社厄神社として続いています。平安前期には、疫病の流行と怨霊信仰とはしばしば結びつき、御霊会が実施されました。『日本紀略』によれば、正暦五(994)年には、疫病の流行に対し、朝廷は木工寮修理職より神輿二基を船岡山に置き、雅楽奉納などを実施した後、難波江へ流したとされています。これはのちに「紫野御霊会」と呼ばれ、今宮祭の起源と言われます。
その少し後、長保三(1001)年の疫病の際には、船岡山のふもとに今宮社が建立され、ここにて紫野御霊会が催されることとなり、やがてこれが後に今宮神社の例祭となります。神社の「今宮」とは、同じくスサノヲを祀り御霊会を実施する祇園感神(八坂神社)の「現代版」という趣旨です。また、今宮神社例祭(紫野御霊会/今宮社御霊会)の実施日は五月九日で、同一五日の葵祭と近く、その際列はあたかも同路頭の儀の分流であるかのようにも見えると言っていいでしょう。
京都では比較的マイナーな、町衆向けの神社ですが、その後も応仁の乱などを除き、安泰が続きます。江戸期に入り、西陣の八百屋の娘「お玉」が三代将軍家光の側室となり、五代将軍綱吉の生母、桂昌院となったことから、「玉の輿」という言葉が生まれたと言われています。桂昌院はその縁から今宮神社やその氏子地域に当たる西陣の振興に注力します。
さて、今宮神社摂社厄神社スサノヲを祭神とするやすらい祭は、本来その性格からすれば、祇園祭の洛北版、と言えばそれで済むはずですが、実際には、「動く美術館」と言われ、日本三大祭として観光客も多数呼び、よりゆったりとした祇園祭に比べ、こちらはやはり奇祭としての側面が目立ちます。
そもそもの起こりも不明で、久寿元(1154)年には、『百錬抄』四月条によると、「近日、京中児女備風流調鼓笛、参紫野社、世号之夜須礼、有勅禁止」とあり、周辺の町衆が華美な風流を始め、禁止の勅令が出されたとのことです。しかし鎌倉初期には三月一〇日の献花祭を名目に定着、『四季物語』によると勅使も派遣されていたとのことです。
個人的に、この祭をして奇祭と呼ばしめる特徴は、際列に風流傘の他、鬼たちが加わることや、祇園祭以上にスサノヲを前面に出していることではないかと思っています。
祇園祭の粽には「蘇民将来之子孫也」と書かれていることで知られていますが、これの意味を知って買う者も今ではほとんどいないと思われます。蘇民将来伝説は、スサノヲが、見方によっては荒神のような行為をしていますので、後に延暦寺・仏教との結びつきを強めた祇園社としても、そのような行為の箇所は、「本当は怖いグリム童話」の手法で削除され、祇園祭においても、本来の趣旨であった御霊会や、八坂の祭神がスサノヲであること、いえ、そもそも祇園祭が八坂の例祭であることすらも、忘れられつつある時下にあります。やすらい祭はそのような忘れられた主役、スサノヲの伝承が比較的表に出ており、人形なども用意されます。
また、祭列には鬼たちが加わっています。地方の祭、神田祭やだんじりなどであれば、その暴れっぷりを称えたり、死傷者の発生も意に介さずと言ったところで、このような祭はもはや神霊の喜ぶところではなく、これらはまさに悪鬼とそれを称える者たちの祭という本性を顕わにしています。
京都ではそのような悪質な祭はありません。しかし鬼が祭列に加わっています。鬼であるにもかかわらず、祭列のメンバーの一員として大人しく並んではいます。とはいえやはり鬼は鬼なので、そのような形相のモノが疫病を表すものとして混じっているということ、これがやすらい祭が京都の奇祭の代表ともいわれる所以ではないかと指摘できるでしょう。
二七 大石神社
大石神社前停
阪神高速道路京都線のうち、鴨川東ICから、稲荷山トンネルを抜け、山科ICに至る区間は近年一般道に格下げされました。鴨川西・鴨川東ICは実質的には『十条河原町IC』で、いわゆる碁盤の目の南東に当たり、ここから京都駅や四条方面へも至近距離です。
このため、クルマ中心の交通整備はもはや殆ど不要、それよりも公共交通の整備に軸を置くことが求められています。但し道路とはいえそこにはバスやトラックなど公共交通も含むので、これらの整備の必要性がゼロになったというわけでもありません。
個人的には、東山通の五条坂直進は地下化が要るでしょう。また四条通の四条烏丸―四条河原町間については、四条烏丸上ルより北向きに出入りし、四条河原町下ルより北向きに出入りするなどの道路整備が必要と感じている次第です。
さて、これらの公共交通改善案はひとまず置くとして、大石神社は、思いもよらない重要拠点となりました。即ち、無料の稲荷山トンネルを利用すれば、京都駅八条口からわずか一五分で大石神社前に到着できることとなりました。
もともと、京都盆地と滋賀県との間にある、醍醐盆地(?)とでも呼ぶべき箇所は、地下鉄東西線のカバーするエリアでした。とはいえ地下鉄によるカバーではやや不便ということもありました。
このため、西側の西野地域、小栗栖地域や、北側の大宅地域や醍醐寺地域は、引き続き京阪バスが活躍することとなっています。
とりわけ西側の地域は、山科駅への地下鉄・JRを経由することなく、直接五条通こと国道一号線を経由し、バスが四条河原町まで赴きます。また、稲荷山トンネルの一般道化に伴い、京都駅へもバスが主体となっています。
この稲荷山トンネルの出口が大石神社前となりました。そのため大石神社前は、山科西野地区から京都駅への重要な拠点停留所となりました。
とはいえ京阪バスも、どのような路線が乗客の需要にあっているかを試行錯誤しています。あろうことか、京都駅八条口から稲荷山トンネル、大石神社前を経由したのち北上、五条坂(お西本廟最寄り)から、烏丸七条を経由しているにもかかわらず、京都駅前を無視するダイヤなどが一時ひかれましたが、クルマ社会へのアンチ、また公共交通の守護者として京都駅の存在は途方もありません。修学旅行、訪日外国人など、ここはもはや人口の単純換算から見ても、おおよそ三割以上が上乗せされるメインの都市であります。『京都駅無視』という人間レベルでの愚行はすぐに中止となりました。
今京都駅八条口から稲荷山トンネルへのバスは、京阪鳥羽街道駅前を経由した後、おおよそ醍醐寺方面に抜けていますが、これは是非、他の系統と合流し、また地下鉄駅である、地下鉄小野駅前を経由してほしいと思っています。
さて、稲荷山トンネル無料化に伴い、近年急速に知名度が上がっている大石神社に話を戻しましょう。この『大石』とは『大石内蔵助』、即ち赤穂浪士の代表の名です。ここは大石を祭神とし赤穂浪士を祀る場所です。また創建も昭和一〇年であり、近代創建の部類に属します。
まずは、忠臣蔵について、私の個人的な所感を述べましょう。
浅野氏の攻撃について。吉良氏は何の身の覚えもない、とのことです。また、浅野氏側も、事前に計画していたことではなく、突発的であったとの資料が多数です。実はうつ病には幻聴があります。うつ病による幻聴はほぼ全ては自分のマイナス評価に対してのものです。ただただ笑われた、というのであれば、この幻聴による可能性が高いでしょう。
実際に吉良氏が浅野氏の前で、他者とともに笑ったのは、浅野氏とは全く無関係な、例えば、『昨日の食事がおいしかった』と言うレベルでしょう。
また浅野氏への切腹=死罪という綱吉の決定も何もおかしくはありません。吉良氏はこの時高家として、勅使接待総責任者という大役を務めていました。また、綱吉も尊皇の意思の深い将軍でした。
このような中、関東江戸に、京都からわざわざ勅使が慶賀として江戸城に来てやっているのです。二条城の構造を見てもわかる通り、上座は勅使、下座は将軍が座ります。勅使が来る場合、時代劇によくみられるような「面を上げよ」と言うのは、この場合将軍ではなく勅使であり、将軍は「恐悦至極」といいながら初めて勅使に頭を上げます。初期はともかく江戸中期、綱吉は尊皇の心がそもそもあり、文化政治を推進する綱吉にとっても、頭を下げての朝廷勅使謁見は重要事項でした。
その勅使の接待役責任者たる吉良が江戸城内で斬られるのです。紫衣事件どころではありません。『本朝勅使接待責任役を江戸で斬る?』と、朝廷側はこのままでは激怒です。綱吉からすれば大慌てです。また綱吉も親朝廷派です、「幕府は朝廷に対して何もやましいことはございません」と言わねばなりません。と忠臣蔵事件は起こるべきして起こった、武士が死罪にされている、にも関わらず、当時としては最低限の選択であったといえるでしょう。
現在大石神社の鎮座する場所は、山科西野にあり、赤穂の大石神社と二大拠点となっています。赤穂はまだしも、山科の創建は最近のことで、1935年です。これも、近代、現代へと続く、京都の、首都か否かを問わない、日本の文化発信拠点としての流れの一つと言えるでしょう。
当時浪曲師をしていた吉田大和之丞(二代目吉良奈良丸)なるものが、大石内蔵助が元禄一四から一五(1701~1702)年に隠棲していた場所に彼の鎮魂社建立を発願し、京都府などもこれに応じて建立されました。そしてわずか二年後の昭和一二(1937)年には府社となりました。当時の山科地域の人々による信仰がいかに篤かったかを示す貴重な社寺であると言えるでしょう。
二八 岡崎神社
岡崎神社停
大元は平安遷都に際し桓武天皇が四方に建てた社と言われ、東天王と呼ばれ、西の須賀神社と対比されます。ちなみに桓武天皇は他にも、将軍塚、大将軍八神社など、京都の方位に関わる社寺を多く建てています。
現在地にはもともと東光寺という寺院があり、岡崎神社はその鎮守社となりました。はじめは北白川の周辺にありましたが、弘仁年間(810-824)に消失、貞観十一(869)年に現在地に遷座します。なお、この地に乗兎が多かったことから、兎が神使とされています。
またここは祇園感神こと八坂神社のルーツでもあります。播磨国明石に垂迹した牛頭天王スサノヲは、まず現在でも八坂同様スサノヲ総本社を名乗る書写山に移り、そこからこの東光寺に入り、元慶(877-885)年間に祇園に向かったとされています。
治承二(1178)には高倉天皇の中宮の御産の幣帛を賜っ縁により、安産祈願の信仰も集めます。
中世には東光寺ともども興隆しますが、応仁の乱による東光寺消失によりついに東光寺は廃寺となり、この鎮守社のみが残ることとなり、その後も幾度か焼亡するもののÞ現在に至っています。
二九 勧修寺
【宮門跡】【真言宗山階派大本山】
小野駅
地名としては「かんしゅうじ」として知られていますが、寺院の名称は「かじゅうじ」です。
『勧修寺縁起』などによれば、昌泰三(900)年(昌泰の変、即ち道真左遷の前年)、若くして死去した生母藤原胤子の追善供養のため、母形の出であった宮道氏の邸宅跡を寺院としたものです。山科神社の創建や、醍醐寺下醍醐の整備など、醍醐天皇は山科・醍醐地域に縁の深い人物ですが、それは彼の出自と関係しています。
醍醐天皇の母方の祖母、藤原列子は宮道氏という家の出身です。聞きなれない苗字ですが、これは宇治郡司の家柄です。郡司が天皇の家系に関わるというのは異例のことですが、これについて、『今昔物語集』の巻第二二の第七に逸話が残っています。
藤原氏のうち、後に勧修寺家と呼ばれる一家に、藤原高藤という若い男性がいました。承和六(839)年頃のことと思われますが、彼が醍醐山方面に鷹狩りに出かけたところ、天候が崩れ雷雨となり、彼は山中をさ迷った後、止む無く、偶然見つけた宇治郡司、宮道弥益(みやじのいやます)の家にたどり着き、そしてそこで一夜を借りることとなりました。
その時たまたま目に入った、当時一三歳前後と言われる弥の益娘列子に一目ぼれし、そのまま情事に至りました。そして自らの太刀を渡し、「再び会いに来るので、それまでの間、他の男性に気を許さないでほしい」と言い残して高藤は宮道家を後にしました。
ところが帰宅後、高藤の身を案じていた父良門は、彼に今後の鷹狩りの禁止を命じ、そのため高藤は宮道家に赴くことができなくなってしまいました。
転機が訪れたのは六年後のことでした。良門が死去し、高藤は若くして家長となるのです。彼はすぐに宮道家を訪れ、弥益らの歓迎を受け、また六年前の出会いが元で生まれた娘、胤子と出会います。その胤子は宇多天皇の女御となり、醍醐天皇を生みます。このため宮道家は郡司でありながら天皇の曾祖父となり、異例の出世を遂げることとなります。ハッピーエンドの純愛としてこの話は今昔物語集に掲載されることとなり、永く語り継がれることとなりました。
また出自の低さをカバーするための祈りが発生し、そのため、勧修寺の他、山科神社、醍醐寺下醍醐など、今日でも錚々たるものを含め、幾つかの社寺が建立されました。
ちなみに勧修とは、高藤の諡号です。また今も、とりわけ初夏の蓮や菖蒲で知られる氷室池は、創建当時からのものです。
なおこの池を含める一帯が『池庭』として『勧修寺庭園』と呼ばれています。但し日本庭園は、室町期以降に発展を遂げたため、それ以前のものは相対的にはみすぼらしく見えてしまいます。この氷室池も、初夏の名所として知られているものの、水流がさほどないため濁っています。室町期以前にあっては、そもそも人工池を置くこと自体が大きな整備となっていたのでこれについては仕方のないところでしょう。なお池に、楼閣風の観音堂があり、風景のポイントとなっていますが、これは昭和初期の創建です。
ところで現代に生きる私たちには気がかりなことがあります。それは純愛の年齢です。この純愛がなければ宮道家の取り立てや、醍醐天皇による社寺の創建などもなかったでしょう。
ところが現代では、当時の列子の年齢での性行為は犯罪となり、白眼視の対象になります。これは、その年齢では間違いの比率が高いからでしょう。とはいえこのような平安の過去の出来事からもわかる通り、優れた純愛というものも有り得るのです。このため私などは、若年層の性行為について、家裁介入などを条件とした刑の緩和を提唱しています。
さて、その後南北朝時代に、後伏見天皇第七皇子の寛胤法親王が第一五世長吏となって以来、勧修寺は幕末に至るまで宮門跡となりました。
桃山時代、秀吉による伏見街道整備に伴い境内が縮小され、その際に氷室池も今のサイズになりました。
現在残る本堂、書院、宸殿などは主に天和二(1682)年、霊元天皇の皇子済深法親王が第二九世長吏となった頃前後のもので、これは彼が、東大寺再建の功により、霊元天皇や、明正天皇から内裏の建物を下賜、移築されたものです。原則として内部拝観はできません。
また書院の南側に、樹齢約七五〇年と言われるハイビャクシンが植えられていますが、このハイビャクシンの庭も『平庭』と呼ばれ、前述の『勧修寺庭園』を構成しています。そしてその中に、徳川光圀が寄進したと言われる、独特の形をした『勧修寺型燈籠』が据えられています。
近代以降、真言宗は分派・合同の動きが複雑化します。山階派については、明治四〇(1907)年に独立し、第二次大戦中に一旦全真言宗が統合されたものの、戦後再び山階派となっています。
三〇 上御霊神社
鞍馬口駅
正式名称は御霊神社です。下御霊神社に対応して上御霊神社の通称で知られます。
平安遷都以前、この地には出雲氏の氏寺であった上出雲寺がありました。
怨霊を祀った時期は諸説ありますが、早い説では、延暦一三(七九四)年に早良親王を祀ったと言われています。貞観五(八六三)年五月、神泉苑にて御霊会が開催されますが、この時に慰霊されたのは、祟道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原夫人(藤原吉子)、観察使(藤原仲成)、橘逸勢、文屋宮田麻呂の六所御霊でした。この六所が祀られ、またこの御霊会をもって上下御霊神社の創祀と言われています。
この後、伊予親王、藤原仲成の二柱は、その失脚が、より平安遷都を為した桓武天皇の即位に影響を与えた井上皇太后と他戸親王に代わります。両名の失脚には、当時の最高権威であった藤原百川が関わっていたとも言われています。
皇太子を他戸親王から、桓武天皇こと山部親王にしたところで、藤原百川の権威自体はさほど変わらないので、これは単純に、藤原百川が、山部親王の実力を見込んでとのこととも考えられますが、だからといって策謀により相手を失脚させてしまっていては、彼にも引け目が生まれるというものでしょう。
その一方、藤原百川が、特に藤原氏に益をもたらすものでもない、実力重視の謀策を為したことで、桓武天皇は歴代でもまれに見る親政となり、その権力も盤石で、それにより、藤原百川当人の想像を上回る業績として、長岡、平安遷都や、東北討伐などが実施できた、という見方もできるでしょう。
和気清麻呂は、御所の西側に護王神社として、また忠臣として祀られていますが、結果論の側面が強いものの、藤原百川の策謀も、平安遷都への影響は否定できません。だからこそ、その被害者であった他戸親王らが新規に上御霊神社の祭神になったとも言えます。
ちなみに平野神社の主祭神である『今木神』とは、桓武天皇の生母である高野新笠、さらには高野氏こと和氏の氏神です。元が渡来系ではありますが、和氏がさほど活躍していないことと、出自との関係はさほどのものとは必ずしも言えるものでもありません。
平野神社は明神社の第五位、稲荷、春日よりも上位とされました。明神上七社のうち、唯一、洛中の町中にあることからか、さほどの規模でもありませんが、その社格は、近代社格制度の列格序列にまで引き継がれることとなりました。
また後年には、火雷神と、吉備大臣(吉備真備)が追加され、八所御霊が成立しました。火雷神は菅原道真の比定説が強いです。吉備真備は唯一、政争により波乱な状況には巻き込まれたものの、おおよそ安泰な死去を迎えています。追加の二柱は、政争に巻き込まれた、学者出身者と見られます。
さて、この上下御霊社は、中世前半、鎌倉期の頃までは寺院でした。即ち前掲の出雲寺の名称を引き継ぎ、それぞれは上出雲寺、下出雲寺の御霊堂という堂宇の一つに過ぎませんでした。
出雲寺が次第に衰微していく中、八所御霊を祀る御霊堂の存在が注目されるようになり、至徳元(一三八四)年の神階格上げ(正一位)の頃から、徐々に御霊堂より御霊神社の名が定着していきます。寺院の境内社なのか、神社の神宮寺なのかという識別は、直ちにはっきり変更したのではなく、徐々に変化していったという点は、神仏習合の一例と言えるでしょう。
文正二(一四六七)年、失脚した管領畠山政長がこの社の境内に布陣し、それを畠山義就が攻め、上御霊神社の戦いが勃発し、このことからこの社は応仁の乱の発祥の地とされています。祭神が怨霊であることなどが関係し、安土桃山の織豊政権のみならず、室町幕府も早い段階からこの社の再建に携わっていました。
江戸期にも、皇室から庶民に至るまで、幅広い信仰を集めており、現在の社殿は、宝暦五(一七五五)年の内裏内侍所の下賜移築です。下御霊社の項目で述べますが、あちらへは霊元天皇が二度にわたって行幸しています。
また文化人らもこの社を多く訪問していますが、とりわけ、松尾芭蕉が門人らとともに元禄三(一六九〇)年歳末にこの社に招かれたときの句、『半日は神を友にや年忘れ』が物議を醸す内容として知られています。ここに祀られているのは怨霊たちですが、芭蕉は彼らを友と表現しています。鎮魂なのか何なのかと諸説がありますが、有力なのは、特に深い意味はなく、半日近く、年の瀬の宴に招かれたことへのお礼でしかないというものです。
三一 祇王寺
嵯峨嵐山駅
もともと平安時代末期、法然の弟子念仏房良鎮が、この地に往生院という寺院を送検していました。
摂家の代表的寺院と知られる二尊院にもほど近い、『平家物語』でも著名な祇王と仏御前に関する舞台こそがこの地です。
当時、白拍子という、女性による男装の舞が流行しました。この元は、巫女が神の言葉を託宣する際に、時として性別の変更も伴ったことが関係していると言われています。とはいえ完全に男装というわけにもいかず、白の直垂や水干、立烏帽子、白鞘巻といった、白ずくしでした。昨今でいうなれば、ボーイッシュな女性のアニメキャラクター、といったところでしょうか。
『平家物語』及び『源平盛衰記』などによると、おおよそ平清盛が権勢を振るっていた頃に、白拍子祇王は彼の寵愛を受け、白拍子の代表的存在となり、妹祇女、母刀自(とじ)とともに、清盛の西八条の屋敷に約三年の間居住します。
その後、新たな白拍子のスター、仏御前が登場し、清盛の屋敷に押しかけをします。最初は清盛は断っていましたが、祇王が仏御前を不憫に思い、清盛に、彼女の舞いを見るよう促します。
すると、やはり仏御前の舞いは、清盛の心を奪ってしまいました。そして仏御前を屋敷に留め置きたいとの心から、祇王たちを追い出してしまいました。
一方仏御前にも、そのような目に遭わせてしまった祇王たちへの懺悔の気持ちが現れていたのではと思われます。それを見た清盛は、落ち込んでいる仏御前には、祇王を会わせれば、と考えたのか、『仏御前が退屈しているので』という理由で祇王を再度呼び、自らも再度祇王の舞いを観賞します。
これについて、呼び出しの理由とは異なり清盛も祇王の舞いを見ていることから、清盛が改心し、再度祇王を呼び戻したのでは、との見方もできるでしょう。しかし祇王はこの呼び出しについて、『後任のための舞いだった』、『かつてよりも身分の低い待合室だった』などのこともあり、遺憾に思い、往生院に隠棲します。このときに祇王が二一、祇女一九、刀自四五と言われています。
さてその半年後には、この三名の尼に、四人目、なんとあの仏御前が加わります。仏御前の参加のきっかけは、清盛に捨てられたといったものではありません。祇王の身を『明日は我が身』と感じてのことでした。
このため祇王自身も、「自分たちの出家には、世、とりわけ仏御前や、それを寵愛した清盛への恨みなどもある。一方仏御前はそのような恨みがない。自分たちよりも優れた求道者です」と彼女を受け入れ、四人目の往生院の尼として迎えたとのことでした。
女人の尼による隠棲、にもかかわらず、それは後々かえって優れたこととして評価された寺院として、この右京嵯峨野の正反対側に、左京大原に、寂光院という小寺院があります。こちらは清盛の子で、安徳天皇の国母建礼門院徳子が平家滅亡後に隠棲したところですが、ここは『平家物語』のクライマックスとして、後白河法皇がお忍びで訪問したところでもあります。
その後、彼女たちが隠棲した祇王寺こと往生院は、中世には廃れます。江戸期の資料として、『山城名勝志』や『山城名勝巡行志』には、浄土宗の尼寺として祇王寺のことが旧跡として記されています。
その後祇王寺には中興の祖と言った類も現れませんでしたが、神仏分離がなされ、また東京奠都により、今後は社寺や庭園の数多も次々と東京に建立されるものと思われましたが、なんとその近代に入ったときに、かの祇王寺は復興されました。
ちなみに近現代にあっても、小川治兵衛らの活躍により、近代、そして現代も、京都では次々と文化施設の作成は進み続けています。こうなるともはや、先進国であるがゆえに、『権威主義を先進的と思う』現代日本・奠都東京は、文化そのものを否定する風潮を世界標準の風潮と嘯きながら垂れ流し続けるといった次第です。
話を近現代以降の祇王寺に戻しましょう。1895年、確かに京都の権力者といえば権力者ですが、もはや地方官にすぎない第三代京都府知事北垣国道が私費によって寄進した茶室を本堂とし、祇王寺は再建されます。その後真言宗大覚寺派の寺院となり、水薬師寺の六条智鏡尼が住職を兼ねました。
六条氏の没後、1935年からは、東京新橋の名芸者高岡智照が出家、智照尼として入寺、参拝者の増加や庭園の整備などもあり、1962年の拝観料徴収に至ります。
左京大原の寂光院は付近に三千院があるため、あちらも今は多くの参拝者が訪れていますが、この祇王寺も嵯峨嵐山の社寺探訪にはちょうどよい位置にあり、参拝者が絶えません。隠棲の地であったはずが隆盛してしまったという、京都恒例のパターンが、ここでも見受けられます。
三二 吉祥院天満宮
西大路駅
菅原道真の曾祖父に当たる、土師古人(はぜのふるひと)の代、平安京遷都に当たり、土師氏は現在の吉祥院周辺を拠点としました。次いで、祖父菅原清公のとき、土師氏は菅原氏に改姓しました。彼が遣唐使として船舶を利用した際、強風に遭遇しますが、吉祥天女が彼を救ったと言われています。このため、年代・由緒には諸説がありますが、清公、ないしは道真の父是善が自邸に吉祥天女を祀りますが、これがのちに周辺地の氏神となっていきます。
洛陽二五天神の一であり、市内にいくつかある道真生誕の地の候補の一つでもありますが、延喜三(903)年に道真が太宰府で死去したとき、即ち彼の祟りとされる諸事が発生する以前から彼を祀っていたともされます。
道真の祟りとされる諸事が発生した後の承平四(934)年、朱雀天皇の勅願により、先述の天女と合わせ、本格的に天神も祀られることとなります。一方『扶桑略記』ではそれより大幅に遅れ、治暦二(1066)に天神堂が造営されたとあります。いずれにしろ造営後は勅祭などもなされ興隆しますが、天正年間(1573~92)頃には衰微し、吉祥天女と天神こと道真の二神合わせての吉祥院周辺の氏神となっています。
三三 鞍馬寺
鞍馬駅
草創期を伝える資料として、寺院に伝わる『鞍馬蓋寺縁起(あんばがいじえんぎ)』によると、鑑真とともに訪日した高弟らのうち最も若かった鑑禎が、宝亀元(七七〇)年、草案を結び、仏教の四天王のうち、北方を守護する毘沙門天を安置したことが開山であるとのことです。
そもそも、鑑禎は夢枕にて、山城の北方に霊山があると告げられ、その山を尋ねます。その道中、金の鞍をつけた白馬を山上に目にします。それが鞍馬山です。彼がその山に入ると、鬼に襲われかけますが、倒木に助けられます。その翌日、倒木の在ったところに毘沙門天の像があったため、彼はそれを祀ったとのことです。
但し、鑑禎は同資料にしか登場しませんので、信憑性がやや低くなります。他の資料によると、延暦一五(七九六)年、造東寺長官であった藤原伊勢人が、観音を祀る寺院を発願し、ある日見た夢に従い、鑑禎同様、白馬を追い鞍馬山にたどり着くと、そこには毘沙門天を祀る草庵がありました。伊勢人は、「観音を信仰しているのになぜ毘沙門天が祀られているのか」と訝しがると、その夜の夢に童子が現れ、「観音も、毘沙門天も、名前が異なっているだけで、元は同じである」と告げました。そのため伊勢人は千手観音を作り、鑑禎のものと思われる毘沙門天とともにここに祀り、これを鞍馬寺の草創としました。
その後、宗派が変わります。寛平(八八九—八九七)年間には東寺の峯延が入寺し、真言宗となります。また、天慶三(九四〇)年には、宮中から由岐大明神が遷座され、由岐神社となり、鞍馬寺の鎮守社となります。さらに、延暦寺の重怡(じゅうい)が入り、保延(一一三五—一一四〇)年間には天台宗となります。寛喜元(一二二九)年、天台宗青蓮院の座主が鞍馬寺検校を兼任します。これ以降は、多少の中断はあったものの、鞍馬寺は天台宗青蓮院の末寺となる時期が続きます。
平安期から貴賤の信仰を集めており、『枕草子』の「近うて遠きもの」には、鞍馬寺の九十九折りの参道が挙げられています。
鞍馬寺の信仰に転機が訪れたのは、現代に入ってからの一九四九年です。この年から鞍馬寺は、天台宗を離れ単立となり、名称も蔵馬弘教となります。古寺院が単立化することは珍しいことではありませんが、鞍馬寺の場合、旧来の信仰からの逸脱が目立ち、天台宗からの分離した古社寺とはいえ、内容は新興宗教にも近くなります。
鞍馬は前掲の通り、毘沙門天、観音菩薩、そして、古くからのこの地域の民間信仰である天狗への信仰によって成り立っていました。鞍馬の天狗は全国の天狗のボスであり、また、能においても、鞍馬天狗の演目で、源義経との親交があります。それを以前から祀っていたのが奥の院でした。
また、毘沙門天は北方の守護です。四方の神などである「天」は、仏や菩薩より低い存在と言われてきましたが、北方守護の毘沙門天は、次第に仏並みの扱いを受けるようになりました。鞍馬寺の宝物殿においても各種のポーズや表情をした毘沙門天像があり、製作時期と合わせさまざまな解釈ができます。
これと千手観音を合わせた三仏を『尊天』と呼称する辺りから、新興宗教めいた内容になり始めます。そして、もともとは古くからの民間信仰であった天狗のいる奥の院ですが、これがヒンズー教のサナト・クマーラに比定されることになります。
さらに、サナト・クマーラについて一八世紀に西洋で流行した、宗教なのかオカルトなのかわからない、神智学というものにより、サナト・クマーラは、一八五〇万年前に、地球にやってきた金星人であるとされていることが影響し、奥の院で祀っている、尊天の三神のうちの一つは『魔王』と呼ばれるものであり、それは六五〇万年前に金星からやってきたものとされました。数字がおよそ三分の一程度に短縮されています。
またこの神智学による影響、即ち、鞍馬には六五〇万年前に金星から来た魔王が鎮座している、という信仰が、近代以前のものであれば面白かったのですが、そうではなく、戦後の単立化によるものです。そしてこの『魔王』は、民間信仰として親しみのある、鞍馬にいる天狗のボスとは別ではなく、同天狗の伝承にあれこれ付加したものです。こうなってくると鞍馬にいる親しみのある妖怪である天狗が、かえって少し遠い存在に感じられてしまうというのは、私だけではないでしょう。
三四 くろ谷
【浄土宗大本山】
岡崎道停
浄土宗の機関としてトップは『総本山』の知恩院ですが、その下に七つの『大本山』があります。ここもその一つです。
承安五(1175)年、それまで比叡山の黒谷(くろだに)にいた法然は浄土宗開宗を決意し下山、この地にあった岩に横たわり休憩しました。すると法然の夢の中で、その石から紫色の雲が現れ、京都の西の空を金色に光らせました。法然は今の知恩院のある場所に至るまでの間に市内を転々としますが、ここもその一つです。先の由来により法然はこの地にも草庵を結んでいます。
ちなみに法然が休みを取った石は紫雲石として今も残っています。また法然はここにて『池の水 ひとの心に 似たりけり 濁り澄むこと定めなければ』との御詠歌を残しています。また加えて、くろ谷では一枚起請文という簡潔な文章を所蔵しています。これは法然が死の直前に遺言として語った言葉で、弟子の源智に託されたものですが、あまりに浄土宗の極意をつかんでいるため尊重されています。但しその完成度の高さから、法然の遺言というには否定説も数多く言われている次第です。
ここはそもそも比叡山の管轄する岡崎白河の禅房と呼ばれていたところで、叡空が入滅する際、法然に、比叡山中の黒谷と共に与えたところでした。岡崎白河の禅房もこうして黒谷と呼ばれるようになりますが、区別の際はそれぞれ旧黒谷、新黒谷などと呼ばれることもありました。後に法然の弟子信空がこれら黒谷を譲り受けたため、ここは信空の派の拠点となります。
寺名はその後に五世恵顗(えがい)が、法然の伝承から紫雲山光明寺と名付け、さらに八世運空が、後光厳天皇に円頓戒(えんどんかい・天台宗において重要な僧となるための大乗菩薩戒)を授けたことにより、『金戒』の二文字を賜りそれを冠するようになりました。
高台にそびえる山門には、法然が初めて布教をした地であることから、後小松天皇宸筆の『浄土真宗最初門』の額がかかっています、よく言われるトリビアですが、ここでの真宗とは別の宗派の真宗のことではありません。
また御影堂の脇には、熊谷直実の『鎧かけの松』があります。熊谷直実(蓮生(れんじょう))は一の谷にて当時一七歳の平敦盛を打ち取ったのちこの地で出家し、その松に来ていた鎧を掛けたという伝承が残っています。
さて江戸期に入ると、徳川家が浄土宗であった縁から、知恩院同様、第二第三の幕府拠点二条城として城郭めいた構造に改造されます。それが活かされるのが幕末期で、それまでの京都所司代の上位機関として、文久二(1862)年に京都守護職が設置され、会津藩主松平容保が任命され、その本陣がここくろ谷とされました。藩兵一〇〇〇名を一年交代で配置するとしたものの人手が足りず、新選組が京都守護職御預かりとなりました。このくろ谷にて、鳥羽伏見の戦いらで戦死した会津藩士らが今も祀られています。
三五 建勲神社
【別格官弊社】
建勲神社前停
通称は「けんくんさん」、まず知られていないであろう正式名称は「たけいさおじんじゃ」です。明治維新の際、それまで廃帝とされていた天皇などが新規に天皇としてカウントされたり、流罪、怨霊などになったとされていた天皇のために官幣大社が新たに各地に創建されたりしたほか、史上の偉人なども別格官弊社として新たに祀られることとなりました。
「信長をまつる神社はどこか」と言われても、即答できる人はあまりいないと思われます。その一方で、落ち着いた佇まいの桜の名所と知られる建勲神社の祭神が信長であると知る人も、それと同じくらいにはいないように思われます。
あの神社の佇まいから、近年とりわけゲームなどで、宇宙映画のキャラクターのような容貌さえしている信長らしさはまず感じられず、『平安京の目印となった船岡山に信長を祀ること』でパワーがどうのこうのというのは的外れで、その信長の気迫を神社・船岡山は完全に抑え込んでいるようにも見えます。
一方、信長を祀る神社が知られていないということは、人々から智力が失われつつあることの証左でもあるといえるでしょう。あれほどゲームでは取り扱われているくらいですから。
近代初期、信長の神社は、当初(明治三(1870))年、子孫の領地であった山形県天童市と、東京の彼らの屋敷に指定されましたが、これはすぐに撤回され、明治一三(1880)年、京都の船岡山に変更、また、翌明治一四(1881)年には信長の子信忠も合祀となりました。
明治初期、江藤新平による、両京最新公共交通直結、大典京都執行などを担保とする東京奠都の実行のすぐ後から、明治維新政権、具体的には、明治帝、三条太政大臣、岩倉右大臣らは、東京十社を撤回、京都御所の保管など、早くも是正の動きを見せていました。公にはできないものの、失敗の危険を彼らは薄々感じていたようで、船岡山信長勧請も、その一環という見方もできそうです。
とはいえこれは、船岡山の景観とはあまりに似つかわしくなく、信長の船岡山勧請による、最初から始まっていた、後に応仁の乱を招くこととなった室町時代の逆でしかない、危険な東京一極集中に対しては、焼け石に水にしかなっていないようです。
三六 広隆寺
【国宝建造物:桂宮院】
太秦広隆寺駅
京都の右京方面は平安遷都以前から渡来系の漢民族秦氏の主力な所在地でした。最も社格が高い松尾大社は明神の第四位です。
京都の方位神としては、今やスサノヲを祀り、祇園祭の主催である祇園の八坂神社がもっともよく知られていますが、東の八坂は明神社としてはさほどの上位ではなく(また名称である『八坂』も近代に入ってから神仏分離の際に付近の通りである八坂通から取ったもので、それ以前はスサノヲの牛頭天王との習合から『祇園感神院』などと呼ばれていました)『北の賀茂、西の松尾』の方が強力な神威を持っていました。
さて松尾大社の他、梅宮大社、蚕ノ社なども秦氏に縁のある神社ですが、この広隆寺も秦氏に縁の深い寺院です。由来として代表的なものは『日本書紀』より、推古天皇一一(603)年、聖徳太子が保存者を募ったところ、秦川勝が名乗り出て建立した、あるいは、承和五(838)年成立の『広隆寺縁起』、寛平二(890年)年頃成立の『広隆寺資財交替実録帳』などでは、年聖徳太子の死去(推古天皇三〇年(622年))に際し秦川勝が下賜されたとあり、この二説にどういう関係があるのかは明らかとなっていません。但し広隆寺そのものは、平安遷都前に北区北野にあった北野廃寺がその前身であると比定されています。北野廃寺からは七世紀前半の出土品が多く、この時期の創建の可能性が高く、平安遷都に伴い現在の地に移転したようです。聖徳太子建立七大寺の一つとされますが、名称である「広隆」とは、秦川勝の実名で、そこからとったものです。
京都でもトップクラスの古寺である広隆寺ですが、承和三(836)年、久安六(1150)年と焼亡してしており、永万元(1165)年に二度目の落慶がなされています。講堂はこの時に原型ができており、比較的珍しい京都周辺の建造物ですが、永禄(1558-1570)年間に改造されるなどし、原型は外見を留めておらず、国指定重文ではあるものの、国宝とはなっていません。
また寺には資料として貞観一五(873)年に成立した『広隆寺縁起資財帳』と、その約二〇年後に成立した『広隆寺資財交替実録帳』が伝わっています。後者は前者の変更箇所などをまとめたもので、また前者が欠失した箇所の補完も兼ねており、当時の広隆寺の状況を知る資料としてともに国宝に指定されています。
さて広隆寺はあの有名な弥勒菩薩半跏像で知られます。国宝第一号というノミネートでのも知られますが、この際には他にもいくつかの国宝が一括指定されていますので、この弥勒菩薩半跏像だけが国宝第一号というわけではありません。
実はこの弥勒菩薩半跏像は二体あります。それぞれ『宝冠弥勒』、『宝髻(ほうけい)弥勒(泣き弥勒)』として呼ばれています。『宝冠弥勒』は著名な、指を曲げ思惟している像で、国内では殆ど見られないアカマツを素材としており、作風も新羅の影響が強いものです。このためこちらは七世紀頃に新羅で制作された、新羅の神聖な木を基に日本で制作されたなど多様な仮説が広がっています。
また、この宝冠弥勒は、ドイツの哲学者ヤスパースから、『人間実存の最高の姿』と称賛されたと言われています。今日であれば、「実存最高の姿」なるものは、少し前の多くの創作のドラマやアニメのシーンでもよく見られるのでは、とも私は思います。
弥勒は時間を司る菩薩です。このため、時間を止めてしまうなど、人間から見ればそれは仏どころか悪魔の所業で、これは大日如来が打ち消すのではと私は考えています。「浄土」を深く考えてみればそうなるでしょう。
しかし浄土は浅く考えれば、10円玉でお馴染みの、宇治の平等院のような光景も想起できます。浄土教はそのような浅い方の仏の世界のことを説いたもので、これは西方にあると言われていたものの、実際には私たちが心の中で想像する世界です。
宝冠弥勒はその浅い方の浄土を構築することに苦悶し、そしてその手法が決まったときの喜びを顕しているとも言われています。それはまさしく、理想の世界の王者の表情と言えるでしょう。但し、実際には時間を止めてしまうので、それは魔王の表情になってしまうのですが。
もう一方の『宝髻(ほうけい)弥勒』(もちろんこちらも国宝)は、国内の飛鳥時代の仏像彫刻としては一般的なクスノキを素材としています。宝冠弥勒とは異なり、暗い表情で『泣き弥勒』と呼ばれています。但し厳密には聖徳太子から秦氏に渡った仏像がこの二体の弥勒菩薩半跏像であるとは資料からは断定できません。
また、平安時代以降、広隆寺の本尊は、弥勒『菩薩』から、それよりグレードの高い薬師『如来』に移行しました。この薬師如来像も秘仏ですが、貞観六(864)年に、秦氏の出身である道昌が、清和天皇の病気の治癒祈願に成功したお礼として、西山の願徳寺から譲り受けたもので、さらにその前は延暦一六(797)年に向日神社に祀られていたものと言われています。
なお、道昌は広隆寺中興の祖とも言われています。承和三年の火災から、薬師如来の移動までは約三〇年が経過しており、社寺の焼亡の期間としてさほど長いというわけでもありませんが、自己の出身である秦氏の寺院が焼亡したままであることを遺憾に感じた道昌は、天皇の加持祈祷の礼としては少々強引な内容である、他所の寺院の譲り受けによって広隆寺を再興させた者です。
さらにその後の本尊は聖徳太子となりました。広隆寺の本堂は上宮王院太子殿と呼ばれます。現存のものは享保一五(1730)年です。
さて、真言宗、天台宗ではそれぞれ、一月、四月に勅使が天皇の着衣を持参し派遣され、これを依代にして、両宗派でそれぞれの全派が東寺、延暦寺に集い、御修法がなされますが、ここ広隆寺では、歴代天皇が即位礼に使用した黄櫨染御袍を、平安期以降、本尊であるこの聖徳太子像に着せるという習わしがあります。堂内の厨子に、原則秘仏、年に一度開扉の聖徳太子像が祀られています。
また、国宝建造物として、境内に、桂宮院という建物があります。由来によると、この建物こそが、広隆寺の元であるというところまで遡ります。
推古天皇一二(604)年、聖徳太子は霊夢にて、楓の林に囲まれ、そこには巨大な桂の枯木があり、その元に五百羅漢が集い読経をしていたというものを見ます。太子がそのことを家臣らに告げたところ、秦川勝が、それは自分の地、葛野の林では、と問いかけます。太子が実際に京都西方の葛野に赴くと、そこには確かに枯れた桂木があり、そこに蜂が群れていましたが、太子には蜂の飛ぶ音が読経に聞こえたため、ここに一宇を建立するよう彼は秦に命じたということです。現在の桂宮院は建長三(1251)年頃の建立とされ、こちらも国宝となっています。
また広隆寺は、鞍馬火祭、今宮やすらい祭と並ぶ京都三大奇祭の一つ、牛祭の執行場所でもあります。ひとまずは、新暦の一〇月一二日を催行日としています。
『広隆寺大略縁起』によると、長和元年九月、恵心僧都が広隆寺にて声明を行っていたところ、仏教の神である摩多羅神から、「この法会は末法まで絶やしてはならない」との夢のお告げがあり、そのため恵心は、摩多羅の祭文を書き、境内社である大酒神社神主を牛に乗せ、これを読み歩かせたというものです。神人が牛に乗っているということから奇祭と呼ばれます。しかし残念なことに、この奇祭は三大奇祭にノミネートされてはいますが、近年は右京区の中心部まで牛を調達することが難しくなったなどのことがあり、長らく催行されていません。
三七 御香宮神社(ごこうぐう/ごこうのみや)
桃山駅/伏見桃山駅/桃山御陵前駅
伏見区の中心は、京阪特急の停車する丹波橋でも中書島でもなく、その間に一つある伏見桃山駅で、ここの北側に、メインストリートである大手筋の踏切があります。この踏切を東に進み、高架の近鉄桃山御陵前駅をくぐると、国道24号線までの間に、大鳥居があります。巨大で、大手筋の車道にわざわざ土台を設けていることなどから、明治天皇陵の鳥居と勘違いされることもありますが、これはその先の左側に道路に沿って表門を設けている御香宮の鳥居です。つまり鳥居と門とが直角になっています。
少し脱線すると、近鉄京都線こと旧奈良電の澱川橋梁は、その特殊な経歴から橋げたのない巨大なアーチ橋で、有形文化財となっています。特殊な経歴とは、昭和天皇の御所での即位に建設を間に合わせたく、また、伏見の酒に影響するため地下線にはできず、橋梁は、当時の陸軍の演習に影響するため橋げたナシとなったもので、橋げたのない区間はここが日本一です。
鉄橋の北側にその下に、宇治川に沿って京阪宇治線、また、上には外環状線の高架橋があります。この高架橋は観月橋では二重になっている観月橋の下側と交差します。また観月橋下側は京阪宇治線と踏切交差しています。
さて、有形文化財となってはいますが、近鉄のこの澱川橋梁の区間は、駅と歩道橋が欲しいと感じています。近鉄電車から京阪の特急停車駅である中書島駅へのアクセスや、向島北側地域の利便性の関係からです。
話を元に戻しましょう。御香宮は、創建に関わる由緒が二つあり詳細は不明です。「山州名跡志」によれば、「御香水在鳥居東傍伝上古此所ニ清泉涌出ス。其水香シクシテ四方ニ薫ス。病者服スレハ忽愈。願者ハ本懐ヲ満ツ。然レバ即称当宮云御香宮也」とあり、貞観四(863)年九月、この地に湧き水が出て、病気回復に役立ったことから、御香宮の名がついたとのことです。また「所載延喜式御諸(みもろの)神社是也」とあり、延喜式によるところの旧御諸神社であるとのことです。
どこの文献にも載ってはいませんが、貞観期に湧き水が出た、ということで私がすぐに思い当たるのは石清水八幡宮です。八幡の宇佐から男山への遷移の神託は貞観元(859)年になされており、この方向は裏鬼門として、八幡こと応神天皇が遷移しました。
石清水八幡宮の由緒と、御香宮神社の由緒には共通点が多いです。御香宮の主祭神は応神天皇の母、神劫皇后です。神劫皇后を祀る神社の総本社は九州の香椎宮で、そこから勧請された、神劫皇后を祀る神社には香の文字が付けられることが多いです。このため、政治的に、都の裏鬼門に当たる方向に石清水を置き、その補完として、それまでそこにあった式内小社に神劫皇后を勧請し改称したとも考えられますが、湧き水の件は後付けではなくむしろ先で、また、ここに湧き水が出たからこそ、石清水八幡宮の補完的役割を任させた御香宮神社が成立した、と考える方が自然に感じられます。
一方、伏見はそもそも桓武天皇陵のある場所です。ここに後々明治天皇陵が追加されることとなりますが、湧き水はやはり後付けで、応神天皇の守る裏鬼門の方向で、桓武天皇陵のある場所をとくに重視し、ここに神劫皇后を勧請した、とも考察できそうです。なお湧き水自体は在ります。
さて、大枠のもう一つの説は、ここは元式内御諸神社ではなく、最初から御香宮だったというものです。「菟芸泥赴」によれば、「筑前国糟屋郡におはしましける香椎の明神を勧請申ける」とのみあり、ここが最初から御香宮の名称であったとしています。なおその創建の時期については不明です。
室町期に入り、御香宮神社は伏見荘の鎮守社となり、会合の場として利用されるようにもなります。
三八 相国寺
【五山】【臨済宗相国寺派大本山】
今出川駅
御所の北側に、法堂を中心とした閑静な区域がありますが、それが相国寺です。京都五山第二位ですが、林下の大徳寺や妙心寺にあるような三門と仏殿は再建されていないのでありません。また、それらのような数多の塔頭区域もありません。重要文化財である法堂を除けば、単なる大きな公園と間違えられてしまうかもしれません。
ですが、実はあの金閣寺、銀閣寺も、この相国寺の山外塔頭でしかないのです。また、総建期には、七重の塔などがあり、その敷地もさらに広大なものでした。また、北山、東山両文化の中枢であるため、宝物館は承天閣美術館と言い、両文化における文物、具体的には、頂相を含めた絵画、書、茶道具などが結集しています。
また、五山第二位でありながら、実質的には、今は廃絶となっているここの塔頭鹿苑院が、五山の統制機関の僧録の住院となり、鹿苑僧録と呼ばれ、臨済宗の実質的な最高首脳府でありました。
永徳二(1382)年、足利義満は、花の御所の東側に、自身の修養用の小さな寺院の建立を発願します。ですが、将軍義満は時の権力者であり、地方の反乱などを平定する一方で、文化への造詣が深く、当時の禅僧や歌人、能者などとの交流が多数ありました。その中に、春屋妙葩(しゅんおくみょうは)や義堂義信らがいましたが、彼らの進言により、等持寺(現中京区)に代わる足利家の菩提寺として、天龍寺に匹敵する大規模な禅寺とし、これを京都の中心に建立することとなりました。なおその後、足利家の菩提寺は等持院になっています。
禅僧らの進言を軽く受け入れることから察するに、権力者であるはずの義満が、文化人らと接するときは、比較的フレンドリーであったのではないでしょうか。地方の反乱を平定する戦争も時に有り得た義満にとって、京都での文化人らとの交流の時間は、心の安らぐ時間であったのかもしれません。
この辺りは、同じく天下を平定し、文化人らと接した秀吉と対比されてもいいでしょう。秀吉の場合、生涯の大半が戦闘であったこともあってか、文化人を気取り、醍醐の花見などを催したりしてはいましたが、大徳寺の山門の上に、下駄をはいた自身の木像を設置した千利休に自害を命じるなど、義満と比べるとしょせんそれは外面だけのものだったと言えるでしょう。
さて相国寺の建立に話を戻します。その規模の壮大さから、『玉塵』によれば、町衆の間では、「ミヤコニハ、ヒノ木スギノ木ツキハテテ、ナゲキテツクル相国寺カナ」と皮肉られたとのことです。
翌年には、義堂の進言により、寺名の正式名称が「相国承天禅寺」になります。相国とは、明における左大臣、現代の首相のことです。このため、寺名には相反する二通りの解釈ができます。相国とは足利将軍、とくに義満のことですが、彼が天、即ち自然の神々と、生き神である天皇から承った禅寺という意味であれば、それは尊王となります。一方、これは帝位簒奪の意味にも取れます。
なお開山は、亡き夢窓疎石の勧請開山、第二代が存命の春屋妙葩とされます。義満は春屋に初代開山となるよう勧めましたが、春屋はこれを固辞したうえで、彼に「夢窓の勧請開山であれば喜んでそのあとを継ぎたい」と伝えました。この辺りからも、義満と、彼を取り巻く京都の文化人たちは、互いに良好な関係を築いており、そこには地方鎮圧の覇者としての将軍義満の顔は見られないと言えます。
至徳二(1385)年には、義堂を導師とし落慶供養がなされ、翌三年、南禅寺が五山別格とされ、相国寺は五山第二位とされます。また、着工から一〇年後の明徳三(1392)年、五山の実質的なトップとしての体裁を整えた供養が再度壮大になされることとなります。
第二位とはいえ実質的には第一位であり、臨済宗を統括する機関として僧録を設置、春屋が初代僧録となり、以後、相国寺の塔頭である鹿苑院(現在は廃絶)の塔主(たっす)がこの僧録の地位を受け継ぎ、通称を鹿苑僧録と呼ばれることとなります。これは江戸期に入り、相国寺鹿苑院から移動、南禅寺の金地院崇伝の職となり、以降は金地院が引き継いでいくこととなります。
それからわずか二年後の応永元(1394)年、火災により相国寺は全焼してしまいます。この辺りも方広寺の沿革と似ていますが、仏像に対し「自らの身も守れないとは」と憤った秀吉に対し、義満には取り立てての記録はありません。いずれにしても義満は直ちに再建に着手し、応永三(1397)年には再び堂宇が完成及び仏殿供養がなされます。
さらに続く応永六(1400)年、白河天皇が法勝寺にかつて建てた八角九重塔の高さ約八二メートルを上回る、約一〇九メートルもの七重大塔が完工します。それは、大正時代に建てられることとなる日立鉱山の大煙突の高さ約一五六メートルができるまで、日本史上高さ日本一の記録を持ち続けるものとなります。この塔もわずか四年後の応永一〇(1403)年には落雷により焼失し、後の金閣寺こと北山山荘に場所を移して再建されたものの、義満没後の応永二三(1416)年に再び落雷により焼失、三代目の塔が相国寺の元の場所にて再建され、応仁の乱に際してもこの塔だけが残されたものの、その後の文明二(1470)年に落雷により焼失、その後の再建はなく、資料不足などから現代の再建も難しく、江戸期に再建された東寺五重塔が京都及び日本で最も著名な塔の地位を取ることとなります。
その後も火災などで幾度も消失を繰り返しますが、現存している、慶長一〇(1605)年建立の法堂が現代にも続く相国寺の代表的な建造物となります。冒頭に述べた通り、金閣寺、銀閣寺両寺を山外塔頭とし、承天閣美術館を併設する相国寺は、室町期の文化の中心地であり、また、それを伝え継ぐ中心地でもあると言えるでしょう。
三九 城南宮
竹田駅
由緒は不明です。明治になってから、式内社真幡寸(まはたき)神社に否定され、戦後しばらくまでその名称でした。北の賀茂(明神第三位)、西の松尾(明神第四位)、東の感神(八坂、明神下社)などと比べると社格は低いです。一般的に神社は集落のメモリアルホール的性格を帯びることが多く、方位神も多いですが、城南宮は社格の低さも相まって、その性格をより一層強めており、方徐の神として知られています。
平安遷都に際し、国常立(くにとこたち)尊を、八千戈(やちほこ)神、息長帯日売(おきながたらしひめ)命を合祀したと言われています。平安後期、応徳三(1086)年以降、白河、鳥羽両天皇によって、鳥羽離宮が造営されると、その鎮守として離宮内に祀られたとも言われています。例祭は「鳥羽城南寺明神御霊会」と呼ばれ、神仏習合となっており、両天皇も臨幸し、流鏑馬などを観覧したとのことです。
鎌倉期、後鳥羽上皇もここでたびたび和歌会を催しました。建仁元(1201)年には「五月日城南寺歌合社頭祝言、後鳥羽院、つたへくる秋の山へのしめの内に、祈るかひある天の下哉、城南寺にて祈雨御会に社頭祝、後京極、民の戸も神の恵にうるふらし、都の南みや居せしより」と「山城名勝志」にあります。翌建仁二(1202)年五月二六日にも城南寺影供和歌会は催され、後鳥羽院の他、、左大臣藤原良経、天台座主慈円、内大臣源通親、鴨長明、藤原定家ら、そうそうたるメンバーが集っています。
また、承久の乱に際して後鳥羽院は、城南寺の流鏑馬汰へと偽装し、周辺諸国の武士を募っています。乱後城南寺は鳥羽離宮とともに衰微荒廃しますが、鎌倉幕府滅亡後の建武四(1337)年以降城南宮の再興が計られます。
江戸期にも城南神宮として周辺住民の鎮守となり、幕末文久三(1863)年には孝明天皇が、石清水八幡宮親拝行幸の際にここにも親拝、また、慶応四(1868)年の鳥羽・伏見の戦いでは、ここが薩摩藩の本営とされました。
明治一〇(1877)年、式内の真幡寸神社に比定されその名称に改称となりますが、昭和
四三(1968)年には城南宮に復帰され、真幡寸神社は摂社とされます。また楽水苑(後述)
平安の庭を活用し、昭和四五(1970)年以降、春秋には曲水宴が復活されます。
境内にある神苑楽水苑は昭和三五(1960)年にできたものです。源氏物語に登場する約百種類の植物からなる春の山と、平安、室町、桃山、離宮の、五つの箇所から成ります。松尾大社の神苑や、知恩院の友禅苑も戦後昭和製です。平成期には、梅小路公園の朱雀の庭や、青蓮院の青龍殿などが作られています。近代はもちろんのこと、現代にあっても京都各地での文化興隆は進行し続けていることがわかります。
さてここの鳥居は通常の鳥居とやや異なり、饅頭型の石の土台があったり、神功皇后の旗印にちなんだ、日、月、星からなる神紋の金具が取り付けられていたりしており、城南宮鳥居と呼ばれています。
四〇 泉涌寺
【御寺】【真言宗泉涌寺派本山】
泉涌寺道停
現代、「泉涌寺」と聞いて、「あ、あのお寺でしょ」と答えられる者は、右翼などであっても殆どいないのではないでしょうか。ここは「御寺(みてら)」、皇室の菩提寺です。鎌倉時代の後堀川天皇、四条天皇、また江戸時代の後水尾天皇から孝明天皇までの陵墓を擁し、皇嗣さんの親王時代には、毎年同寺を護る会の総裁として参拝、また、上皇さんも天皇時代、最初の一〇年間だけでも平均2,3年に一回は参拝している寺院です。
東大路通を泉涌寺道で右折すると、京都によくある、双方通行の、古い家から新築までがごちゃごちゃとしている、あまり路面や歩道が整備されていない通りになります。よもやこの道を、高頻度で御料車などが通っているなどとは思われないでしょう。
各地で御料車は最上級の国道などを通り、沿道から各県民の歓迎を受け、皇室はそれになるべく応えることになるのですが、この道はそんな気遣いなどは不要、いつもの道としてゆるりとしてほしい、と言っているかのようでもあります。
住宅街を抜けると東山の山麓ですが、その境界には門があります。門をくぐり山内に入ると、ようやく、大きい神社などで見かける、鬱蒼と茂る林木と、その中の、やたら広い砂利の道となり、皇室関連施設としての雰囲気が出てきます。そのまま正面に向かい、仏殿の脇から入ることもできるのですが、砂利道を右に曲がり、やや坂を上ると、そこに正面玄関である大門があります。大門から正面を見ると一直線に、仏殿と、釈迦の歯を安置していると言われる舎利殿とが西向きに並んでいますが、大門の手前の坂を上った分だけ、大門から仏殿までは下り坂となっています。仏堂を見下ろすというスタイルもまたここの特徴の一つです。
さて舎利殿の奥には、庫裏などがありますが、ここも入場可能です。昨今、経済成長に答える形で、皇室関連施設の一般公開がなされ、議論を呼びましたが、実はその前から、ここは皇室が高頻度で利用する施設を、他の施設の一般公開以上のエリアまで普段から公開しています。
昨今の皇室関連施設の通年公開にあって、もっとも皇室の利用とニアミスしているのは、仙洞御所の参観ではないでしょうか。実は仙洞御所を参観しようとすると、そのついでに、隣接する大宮御所の玄関や前庭を経由するのです。大宮御所とは皇太后(現:上皇后)の居住地を示す一般名詞ですが、京都御苑内の施設のうち、給仕設備が充実しているのがここしかないため、実質的に、大宮御所は皇室が奠都時代にあって遷洛時に使用する施設となっています。但し大宮御所の御殿はカーテンで仕切られ、内部までは見えません。とはいえ、大宮御所の庭園も仙洞御所の参観コースに入っています。
さて一方の泉涌寺において、皇室が居住する空間である御座所には、こちらは、部屋そのもののカーペットを踏んではいけないものの、建物に入れ、またその手前の廊下や縁側を歩くことができ、室内も解放されていますので、撮影は禁止ですが丸見えです。通年公開の議論があったとき、泉涌寺御座所を知っていた私としては、不敬云々は、今更何を、と言った感覚で見ていました。
ちなみにその御座所の天皇用の部屋ですが、ニュータウンしか知らない方には珍しく見えるかもしれませんが、四条高倉に大正製の実家がある私としては、それとあまり変わりありません。床は畳からカーペットに変えてありますが、違い棚、掛け軸、動物などが描かれている襖などがあります。また、「玉座」として、高さ二〇センチ、四方一メートル程度の、移動可能な畳があります。個人的には、座り心地からしてもあれは儀式用で、ずっとあそこに着座するにはやや難があるように見えました。なおその御座所は庭に面しており、そこに小規模ながらも御座所庭園という小さな庭があります。これも皇室に極めて関わりが深い庭であるとは、説明しなければ京都の他の寺院の庭とはすぐには見分けがつかないかと思われます。
さて、孝明天皇陵などは登ることができますが、その他の歴代天皇の陵墓があるエリアは立ち入り禁止で、遥拝所から遥拝することとなります。なぜかネットではその陵墓の画像もありましたが、第一印象が、通常の霊園と変わらない、といったことです。
江戸期なども入っていますので、皇室の権限が揺らいでいたと見ることもできますが、一方江戸期にあっても幕府はしばしば皇室の権威を借りていたため、これは皇室の質素さを示すものとしてみることもできるでしょう。
さて、では、なぜこの寺院が皇室の菩提寺となったのかも含めて、沿革をたどってみることにします。
そもそもこの寺院は創建からして謎でした。寺伝では、天長年間(824-834)に空海が草庵を結んで法輪寺と名付けていたとも、また、正徳元年刊の『山城名勝志』には、左大臣藤原緒嗣が神修に帰依して建立したともあります。
いずれにしろその後しばらくは荒廃しており、実質的な開祖として、俊芿(しゅんじょう)という僧が鎌倉前期に現れます。この寺は源平の争乱などにより、宇都宮信房という御家人の手に渡っていましたが、彼が俊芿に寄進し、自らも道賢として出家します。俊芿は渡宋の経験もあり、天台、真言、禅、浄土の四宗兼学の思想を持っていました。彼は泉涌寺の再興を企図し、今は国宝となっている、「泉涌寺勧縁疏」を執筆、喜捨を請う内容で、文章も優れており、これを後鳥羽上皇に献上します。後鳥羽上皇の失脚後も、摂関の九条道家や、鎌倉の北条泰時などの庇護により、泉涌寺は興隆していきます。
現代にあっても泉涌寺は、真言宗本山ではあるものの、四宗兼学の教えを重視しており、禅宗や浄土宗の経典も読まれるとのことです。
鎌倉仏教の興隆に伴い、平安仏教との軋轢が発生したため、時の権力者、後鳥羽上皇や北条政子、北条泰時らは四宗兼学の俊芿に注目、彼から受戒され、貞応三(1224)年、御堀川天皇により勅願寺とされます。さらに仁治三(1242)年、一二歳で夭折した四条天皇について、彼は俊芿の生まれ変わりだったとのうわさが流れ、この関係で四条天皇、御堀川天皇はここで葬儀が執行され、また陵墓もここに築かれます。
その後、宗派同士の対立も薄まり、四宗兼学の泉涌寺の役割もうすれたのですが、南北朝の混乱期にあって、後光厳天皇は泉涌寺舎利殿の仏牙舎利に帰依し、遺言にあって、鎌倉期の四条・御堀川天皇らのように、泉涌寺にて葬儀を執行するよう命じます。
このため、南北朝期以降、歴代天皇の葬儀は全て泉涌寺での執行となり、江戸期には、陵墓も全て泉涌寺の裏となりました。
近代の神仏分離以降、とくに昭和天皇が神道への配慮からか二度しか参拝しなかったこと、また、平成期には上皇が多数参拝するものの今度は京都の社寺自体の知名度が下がっていることから、この寺が皇室菩提寺であることはあまり知られていません。この由緒は、四宗兼学というスタイルから、鎌倉前期や南北朝期などの混乱期にあって、時の権力者らに重宝され、徐々に皇室との距離が近づいて行ったことにあります。
そして現代、神仏の再度の融和を目指して近畿にできた神仏霊場会にあって、会長は、明神第二位の二所宗廟でありながら例祭が放生会という仏教行事である石清水の宮司でしたが、副会長に泉涌寺の長老が選出されたことなども、この寺院の沿革を見ればわかると思います。
ですが昨今はその経緯も含めて風化が甚だ顕著です。優れた建造物は、奠都風の往々しいCMなどとは関係のない、気づかぬところにある、ということをこの寺院は示しているかのようです。
いま一つ、私にそれを感じさせたのは、泉涌寺の沿革だけではありません。ここの塔頭の一つに、善能寺というものがあり、これは宮内庁事務所の裏側にあり、また、洛陽三三観音のひとつにもなっています。
弘仁一四(823)年空海の開基と伝わりますが詳細は不明、当初は八条猪熊にあったものの、天文一四(1545)、御奈良天皇の勅命により泉涌寺の塔頭となりました。いざこの塔頭に行ってみると、小さなお堂と、枯山水、池泉庭園が揃っており、しばしここで休憩を取ったのですが、何十分経っても誰も現れません。木の葉が風で揺れているだけです。
堂宇の他、日本庭園を代表する二種類が揃っており、優れた眺望の寺院塔頭であるにも関わらず、その光景を一人で独占できる状態となり、思わぬ隠れ家となりました。これも思わぬところに実はある「地上の星」の一つと言える場所ではないかと深く感じさせられた次第です。
四一 大徳寺
【臨済宗大徳寺派大本山】【特別名勝】【国指定名勝】【国宝建造物】
大徳寺停
禅寺の創建としては比較的新しく、鎌倉幕府末期の正中二(1325)年ですが、創建者大燈国師宗峰妙超の影響を受けてか、しばしば反権威の出来事が発生し、そのため、広大な範囲にある数多くの塔頭が、四箇所(龍源院、瑞峯院、大仙院、高桐院)を除いて拝観謝絶であるにもかかわらず、エピソードの多い寺院です。
国指定名勝は孤篷庵、真珠庵、特別名勝かつ拝観可能は大仙院です。なお大仙院は、レアなケースですが、庭園撮影禁止となっていますのでご注意ください。また、本坊方丈、玄関、唐門が国宝建造物です。
もともとは淳和天皇の離宮「雲林亭」があったところで、その後、常康親王が仁明天皇の崩御に伴い出家し、ここを寺院に改め、遍昭僧正が元慶寺の別院雲林院としましたが、時代が経つにつれここは寂れていきます。
後、鎌倉時代後期に宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)が現れ、播磨より出家、天台、禅と学び、南浦紹明(なんぽじょうみょう)に師事、南浦のもつ峻烈な気風を受け継ぎ、禅宗の中でもとりわけ厳格な修法を旨としました。
宗峰は開山堂の建立は禁じましたが、頂相の製作は許可しました。国宝指定の彼の頂相の中には、弟子に向けた賛が書かれているものもありますが、その中には次のようなものもあります、「私はこのように人びとから憎まれる容貌をしているが、見よ、広大な天の果てにかかる月が一つ、それが私だ」と。この賛は時代を超えて人々から愛されてきました、現代独自の風潮のみが、これを中二等と言って嘲笑しそうですが。
さて、少し話を逸らしますと、浄土宗や真宗などではそのような修法は不要とされています。一方、神道とも最も習合している修験道などは厳しい修法が求められます。これについてはどちらもあくまでも「手段」に過ぎません。後の大徳寺には一休宗純も住持となっており、また、宗峰と親交のあった、俗人であり仏道修行などとは無縁の地位にあった花園上皇も、宗峰から、「あなたは既に悟りを得ている」と言われています。
一方宗峰個人は、あくまで自分のためとして、他から言われるような厳修を好み、五条大橋の下で乞食とともに托鉢を実施するなど、京域にありながらにして、修験道にも近いことをしていました。
その様子に帰依した甥の赤松則村により、正和四(1315)もしくは元応元(1319)年宗峰は雲林院の周辺に一宇を寄進されます。これが大徳寺の始まりです。元享三(1323)年頃より花園上皇が彼に帰依(「花園天皇宸記」)し、正中二(1325)年閏一月、内裏に宗峰は招かれ、ここに彼はおいて旧仏教との論争に参加しこれを論破(「大灯国師行状」)、花園上との親交はさらに深まり、同年七月、大徳寺を祈願所とする院宣を発布しています。
赤松氏による寄進の後も、宗峰は大徳寺には殆ど寝泊まりをしていなかったらしく、宗峰に会いたいと願った花園上皇は五条大橋の下などを探し回りますが、すぐには乞食の中から宗峰を探し出すことができませんでした。そこで、宗峰の好物が真桑瓜であると知り、鴨川周辺の貧者ら全員に瓜を配給し、ようやく宗峰と出会うことが出来たそうです。
この後二人は頻繁に禅問答を交わし、親交を深めていきます。例えば、天皇が「仏法、不思議、王法と対坐す」と述べ、宗峰はこれに対し、「王法、不思議、仏法と対坐す」と答えるといった具合です。
現代であればおそらく、播磨の中二などと言われ嘲笑の対象になりそうな人物に、上皇が対座し禅問答を用いて語り合うというのは、この時代貴賤を問わず人々は現代とは異なり理を求めていたという証例と言えそうです。
花園上皇に続き後醍醐天皇も彼に帰依、隠岐から帰洛後の元弘三(1333)年八月、ここを勅願寺指定とし、『本朝無双禅苑』と呼び(「後醍醐天皇宸翰置文」)、京都五山の第一位とされます。
翌建武元(1334)年、建武の新政により、花園上皇の持明院統が崩壊となったとき、彼は宗峰に、「あなたに会っておよそ二〇年、あなたは辛苦してきましたが、今のように興隆を迎えても、あなたは何も変わっていません。一方、私は逆に贅沢な衣服や食事がなくなってしまいました、このような私にはもはや、塵もけがれもありません」と語り、これに対し宗峰は、「上皇は既に悟りを開いている」と答えました。この回答は上皇どころか、彼の政敵であった後醍醐天皇も喜ばせたと言われています。宗峰は次のような意味の遺偈を残しています。即ち、「釈迦も祖師も貫き通すような鋭い名剣を常に磨いてきた。この世からあの世に向かうにあたって、虚空が牙を歯噛みするように」と。このような威風が大徳寺の禅風に影響を与えていきます。
建武の新政は長くは続かず、室町幕府の成立に伴い、後醍醐天皇と親交のあった大徳寺は至徳三(1386)年に五山十刹の第九位とされます。一方の大徳寺は、幕府の庇護が微妙にある程度の寺院では、権威のみに執着し教義も乱れがちになると考えたのか、永享三(1431)年十刹を辞退し、林下寺院となります。
林下寺院となったこと、加えて応仁の乱の荒廃に際し、文明五(1473)年の後土御門天皇の綸旨により、禅宗どころか仏教史にその行状の知れ渡る一休宗純を住持に迎えたことで、大徳寺は宗教界のみならず、堺の商人ら、女人、連歌師、田楽法師などの新たな時代に台頭を始めた、経済、文化などの側面からも重要な拠点になっていきます。
一休宗純の交流は他方に渡っており、真宗中興の祖蓮如はよく知られていますが、他にも堺の商人、とくに尾和宗臨や、茶道の祖村田珠光、画家曾我蛇足、連歌師山崎宗鑑、猿楽師金春禅竹らがいました。村田珠光の一休参禅を受け、点茶法を行うものは大徳寺派下に参禅することが慣例化し、堺、博多の商人などを中心に参禅が相次ぎ、彼らにより多くの塔頭に茶室や庭園が設けられていき、大徳寺の「茶づら」との異称を持つこととなりました。
一休没後、彼を慕う堺の商人らの支援によって建てられた塔頭の一、真珠庵の僧侶は、住持でありながら、その地位に固執しなかった一休の遺風を汲み、大徳寺全体の法要の際、常に末席に座るという慣例ができました。これも後々、大徳寺が独自の禅風を築く影響の一つになっていったと言えるでしょう。
宗教上の、林下の巨大な禅寺であるのみならず、経済、文化界の拠点として大徳寺は興隆していきましたが、さらにそこから、大徳寺は政治的にも様々なかかわりを持っていくこととなります。もともと大徳寺にしばしば参禅していた、茶道の創始者千利休は、本能寺の変の後、秀吉に、信長の葬儀を大徳寺にて実施するよう勧言、これが実現され、信長の菩提寺として、総見院という塔頭が一つ追加されます。
なお脱線ですが、大徳寺の南側の船岡山にある建勲神社は、桜の名所で、小高い丘の上にあるため、落ち着いておりかつ風光明媚な神社で知られていますが、実はここは、明治に入ってから創建された、祭神を信長とする別格官弊社です。この神社は、そうと聞かない限り、なかなか信長のイメージに結びつかないところですし、また、これについて言及している資料はなかなかありませんが、付近の大徳寺に信長の菩提所があることが、船岡山が信長を祀る神社に選ばれた可能性もありそうです。なお、天皇経験者ではない人物神が祭神ですので、別格官弊社となっています。
さて、秀吉が大徳寺に対しそうした措置を取ったため、配下の武将たちがこぞって大徳寺に塔頭などを建て始めます。秀吉以前からの商人らと、彼らにより昨今、殆どが拝観謝絶であるにもかかわらず、塔頭の多くに、茶道と結びついた優れた庭園などができました。
例えば、拝観可能な大仙院の枯山水は特別名勝にまでなっていますが、ここには次のような逸話があります。この枯山水を見て、秀吉は利休に、「何か面白いことをせよ」と無茶ぶりをするのですが、それを聞いた利休は、花瓶を用意し、それを枯山水に置き、その上から水をかけたと言われており、それを見た秀吉が「風流なり」と喜んだと言われています。
日本庭園は、大別すると水が引かれ、とりわけそれが池と化したものを中心とし、その周囲に植物や、自然の魚や鳥などを呼び、また散策のコースがおおよそ決まっている「池泉(回遊式)庭園」と、禅宗の影響を受けた、石と砂などで何かを表現する枯山水とに分かれ、それは水の有無というところが大きな違いとなりますが、利休の行為はあえてその境界を破ることで、これを見た秀吉の評価とは、先見性のあったものなのか、それとも子どもじみた行為なのか、それは評価の割れるところでしょう。
しかし信長の葬儀から七年後の天正一七(1589)年、思いがけない事件が発生します。利休はこの年、三門を楼閣に建て替えますが、寺院からの勧めもあったのか、その楼内に自身の下駄履きの木像を設置しました。これが問題となりました。楼門は貴賤を問わず寺院を参拝する際必ず通る箇所で、それは秀吉とて例外ではありません。その上に自身の下駄履きの像を置いたことで、利休は秀吉の怒りを買い、自害を命じられるに至りました。
江戸期に入っても、大徳寺の反権威志向は続きます。寛永四(1627)年、江戸幕府は元和元(1615)年発布の諸宗本山諸法度違反として、同法度発布以降に、幕府の認可なく勅許を得た、妙心寺、大徳寺、知恩院などへの紫衣、入山出世などの無効を宣告、これに対し翌寛永五(1628)年、大徳寺の沢庵宗彭(たくあんそうほう)らが連署で抗議、このため沢庵らは出羽の上山などへ流罪とされ、また、昭和天皇に次いで第二位の在位期間を誇る後水尾天皇もこれに抗議し譲位します。この後幕府は大徳寺への統制をやや弱め、三年後には沢庵を赦免、沢庵は江戸に入り、品川に東海寺を建立、関東方面への禅宗の基盤を築きます。また大徳寺に現存する法堂、方丈などは寛永一三(1636)年、本堂は寛文(1666)五年の造営で、紫衣事件以後も同寺は興隆し続けます。明治に入り上知となり、一部塔頭の統廃合などがなされますが、引き続き広大な境内を有したまま現代に至っています。
四二 東寺
【東寺真言宗総本山】【国宝建造物】
東寺駅
創建時より変わっていない、金堂、講堂、食堂の一直線の建物、真言宗の代表として後七日御修法を執行する灌頂院、『教王護国寺』という、皇室すら一目置かざるを得ない別称、木造としては国内で最も高い五重塔、記憶遺産として、経済、社会情勢の研究に欠かせない百合文書など、ネタには尽きることなく、またそのため、この随想にあっても、然るべきページ数が必要となる寺院です。
南北朝期に成立した東寺の記録書『東宝記』によると、延暦一五(796)年、藤原伊勢人が造東寺長官に任じられたとしており、『帝王編年記』などにも同様の記述があります。一方『日本後記』では延暦二三(804)年に多治比真人家継が造東寺次官に任じられたとありますが、他の史料の多くにはこれより前、平安遷都直後からの造営の記録があります。
弘仁一四(823)年、東寺は空海に勅賜されます。空海は遣唐使の期間を二〇年からわずか二年に短縮するなど、違法であっても自由奔放なことをする僧でしたが、嵯峨天皇との親交も深く、そのため、高野山に続いて賜った東寺において、自分の思想を花開かせました。
著名な五重塔の位置もその一つです。飛鳥、白鳳、奈良、平安と時代が下がるにつれて、寺院の伽藍の中心は次第に、仏の舎利を収める塔から、仏像を収める金堂へと変わっていきますが、この東寺もその影響を受けています。東寺五重塔は寺院の南東にあります。この配置であれば、南西にも塔があるはずですがそれはなく、代わりに真言宗の儀式を執り行う、灌頂院という建物が設置されています。ちなみに、東寺、しかもその南東ということもあり、「京都の人は、東京に出かけて帰ってきたときに、東寺を眺める」とときどき言われますが、その南東とは九条大宮ですから、東海道新幹線から見えるのは、京都駅を九州方面に発車して後のこととなります。
また、講堂は、木製の仏像が絵画の曼荼羅と同じ配置で立ち並ぶ、立体曼荼羅で有名です。なおこの立体曼荼羅の配置は東寺独特のもので、様々な論争があるものの、複数の曼荼羅を参考にした、空海のオリジナルと言われています。
さて、空海の時代から、天皇本人に向かって祈願する御修法(みしほ)という行事が始まります。承和元(834)年から御所で始まり、後に御所に真言院が建造され、中断もあったものの、長らくそこで実施されていました。この御修法ですが、明治の神仏分離を契機に大きく変わります。祈願の対象は天皇本人ではなく着衣を依り代とし、これを御衣と呼称していましたが、実施場所も御所が困難となりました。
そこで真言宗各派が見出した御修法の実施場所が東寺の灌頂院でした。正月に東京の皇居にて神道式で前半の御修法が実施された後に七日間実施されるため御七日御修法と呼ばれますが、これは真言宗各派の最重要行事で、各派の代表が揃います。この各派の中には、鎌倉時代以降大半の天皇の陵墓の場となり、皇族の参拝が高頻度である東山泉涌寺の泉涌寺派や、川崎、成田、高尾などの関東を統括しており、しばしば中国のように烏合の衆と揶揄される、東山七条の智積院の智山派なども含まれます。
七日間の最終日、即ち結日には、御衣を回収するため勅使が来、儀式が終わるまでは隣の小子房に待機します。この小子房とは、その名称から来るイメージとは異なり、泉涌寺の御座所同様、皇室専用の区域で、現在のものは昭和初期の建造です。終了後、モーニングやドレス姿の勅使は、迎えに上がった各派の代表らや御衣を入れる櫃とともにこの小子房から隣の灌頂院に向かいますが、両建物は繋がっていないため、一旦外に出ないといけません。そのため、東寺小子房の勅使門は、勅使門の中でも、定期的に使用が認められる比較的珍しい勅使門となっています。
また、明治の神仏分離はかえって興味深い現象を生み出しました。一月に南の東寺で御修法を実施することと、初夏の五月に北、明神第三位の上賀茂神社で勅祭筆頭の葵祭を実施すること、また、春の四月に鬼門の延暦寺で御修法を実施することと、秋の九月に明神二位、二所宗廟、裏鬼門の石清水八幡宮で勅祭旧石清水放生会を実施することとが、偶然にも一種の連携のようになりました。
さて、話を平安時代に戻します。空海の入寺により、東寺は興隆したものの、その後はやや衰微していきます。これを再度興隆させたのが、平安末期から鎌倉初期にかけての文覚です。文治五(1189)年、文覚は後白河法皇から東寺修理の許可を得ます。法皇の死後は源頼朝がこれを認めます。頼朝の死後修理事業は中断されるものの、嘉禎元(1235)年、再度認められます。
また、そのやや前、天福元(1233)年一〇月、空海の木像が仏師康勝により製作されます。この空海像は、延応二(1240)年三月二一日の空海の忌日に、不動堂の一部に移され、そこが新たに御影堂として独立します。これに伴い、それまで毎月二一日に灌頂院で行われていた御影供もこちらで行われるようになります。お供えを持ってくるという性格上、市も合わせて立つわけですが、このため、時代を下がるにつれて、この市は弘法さんとして知られるようになりました。近鉄の急行電車は現代では東寺は停車駅ですが、通過していたかつても、弘法さんの日には臨時停車していたとのことです。
鎌倉仏教の場合、時代を追うにつれて、宗派を強調する必要性からか、開祖を祀る御影堂が、各種の仏堂よりも規模が大きくなる傾向があり、東本願寺の御影堂などは木造建造物として日本一の規模となっていますが、真言宗の東寺の御影堂は五重塔や、金堂、講堂などと比べればさほどのものでもありません。とはいえ、ここが空海信仰の拠点ともなっていきます。また、不動明王は真言宗の最重要仏である大日如来と同一視されますが、そこのお堂と開祖の堂とを一体としているため、開祖と仏とを同一視する信仰もあったと考えられます。
さて、それ以後は京都の主要寺院としての地位を確立していきます。後醍醐天皇が元弘三(1333)に遷洛した際、初めに入ったのは東寺でした。一方、足利尊氏も、光厳上皇を灌頂院を仙洞御所として南朝方と戦いました。
一方、東寺境内はしばしば土一揆の拠点にもされました。この関係で、文明一八(1486)年、創建以来の大規模な火災に遭いました。なお講堂の立体曼荼羅のうち消失は六体で、残り一五体は運び出され無事でした。講堂はやはり東寺にとって金堂よりも重要な建造物のようで、羅災から一一年後の明応六(1497)年には再建されました。一方金堂の方は、慶長八(1603)年、豊臣秀頼によっての再建となりました。ちなみに、五重塔については、創建以来四度消失しており、現在のものは寛永二一(1644)、徳川家光の寄進による再建となります。
さて、東寺には、教王護国寺という異称もあります。金閣寺の鹿苑寺金閣や、銀閣寺の慈照寺銀閣などと同様、こちらが正式名称とも言われますが、歴史的にはここは東寺が正式名称、教王護国寺は異称と見た方がよいでしょう。公文書において教王護国寺の名称が出現するのは鎌倉時代以降です。もっとも、歴代の天皇、上皇も教王護国寺という、皇室に対してすらいわば上から目線のこの名称を好んで使っています。
ちなみに現代にあっては、宗派としての登録は東寺真言宗ですが、この東寺の登録は教王護国寺となっています。これに追随し、寺院内の国宝や重文の数々も須らく教王護国寺を冠して登録されています。
さて、東寺は世界文化遺産であると同時に、世界記憶遺産の元保管者でもあります、それが『東寺百合文書』です。この『東寺百合文書』を含め、東寺に残る史料の総称を『東寺文書』と呼びます。またそれとは別に、狭義での『東寺文書』と呼ばれるものもこれに含まれます。
この『東寺文書』ですが、東寺の経済活動に関するもので、また中古から近世に至るまでのものの殆どが現存しています。被災は長保二(1000)年の火災程度です。とくに中世の経済・社会史を知る上で、これを引用していない論文を見つけるのが難しいというほどの重要史料です。
狭義の『東寺文書』とは、東寺の西院御影堂にて保管された、とくに重要な文書です。後宇多天皇、後醍醐天皇の宸輪など約七〇〇通から成っています。
一方東寺百合文書は、校倉造の宝蔵にて保管された文書です。東寺百合文書は現在、府立京都学・歴彩館に保管されています。
この重要性は近世、江戸時代からすでに注目されており、貞享二(1685)年、加賀藩主前田綱紀が東寺文書の書写を実施した謝礼として、この収納用に、いろは歌(ラストは「京」で終わりますのでこれもつけます)の平仮名、カタカナをつけた九四箱の桐箱を送ったことから、概算一〇〇箱の箱に入った文書ということで、ここから東寺百合文書の名がつきました。その後も松平定信や、明治政府などがこれに注目しますが、本格的な編纂は戦後に入ってからで、一九八〇年、現代に入ってようやく刊行の日の目を浴びることとなり、一九九七年に国宝に指定、二〇一五年に世界記憶遺産に認定されることとなりました。
四三 南禅寺
【臨済宗南禅寺派大本山】【方丈】
南禅寺・永観堂道停
もともとこの岡崎東部のエリアは『神仙佳境』とよばれる霊地で、御嵯峨上皇が文永元(1264)年に造営した離宮、禅林寺殿がありました。禅林寺とは、付近の永観堂のことです。禅林寺殿は御嵯峨上皇の死後弘安一〇(1287)年に増築され、新たにできた「上御所」と、従来からの「下御所」とに分かれ、このうち「上御所」にできた持仏堂を南禅院と称しました。現在、水路閣をくぐったところにある塔頭南禅院はその後身です。
後嵯峨天皇は兄後深草天皇、弟亀山天皇、二人の天皇を子としています。後嵯峨上皇が、後深草天皇よりも亀山天皇を寵愛したため、正元元(1259)年、後深草天皇より践祚し、亀山天皇が即位、これが鎌倉時代後期の両統迭立の原因となります。
亀山天皇の時代は元弘の時期です。武家政権である鎌倉幕府の敷かれていた時代にあって、朝廷への後世への扱いは、「ただ祈っていただけ」と、とりわけ東日本を中心に乏しいものとなりがちです。
とはいえその祈りの内容は凄まじいものです。二度目の元弘が終わった後、亀山天皇は、その子後宇多天皇に譲位しますが、上皇となった彼は自ら伊勢や熊野に参拝、また、彼か、後宇多天皇のいずれかが、伊勢に「身を以って国難に代える祈願」をしています。
また亀山上皇は、筥崎宮に「敵国降伏」の宸筆を送りますが、これが現代に至るまで筥崎宮で一番目立つ神門の扁額となっています。一方内政面においても、「厳密乃沙汰」、「徳政興行」と呼ばれる評価を残しています。
ところが、彼の兄、後深草上皇が建治元(1275)年、出家の意向を示すと、鎌倉幕府は持明院統の衰退を懸念し、妥協案として後深草上皇の子伏見天皇の立太子を推し、これが実施され、弘安一〇(1287)年、伏見天皇が即位し、院政の地位も後深草上皇のものとなります。
このときにはまだ両統迭立の初期であり、その機運もあったもののそれは不透明さも高く、亀山上皇は正応二(1289)年、禅林寺殿にて出家します。
ところが、彼が禅林寺殿に入った前後の正応の始め頃から、夜な夜なそこに妖怪変化の類が跋扈したということです。それは藤原氏の禅の氏寺とすることを目論み、東福寺を建立した九条道家の子であり、三井寺の長吏で、『駒僧正(こまのそうじょう)』と号した名僧道智の怨霊をボスとしたモノたちでした。道智にも伝説があり、彼は晩年、夜を厭い、この地に隠棲し、文永三(1266)年、空を飛ぶ白馬に跨り空に昇ったと言われています。
亀山法皇はこの妖怪跋扈に狼狽し、まずは律宗の叡尊に祈祷を命じますが、とくに効果がありませんでした。そこで東福寺三世の無関普門を呼んだところ、普門が何もすることもなく、道智や妖怪たちは立ち去ったとのことです。
道智が九条家と東福寺に配慮し去ったとも、普門は座っているだけで祈祷並みの力を持っているとも言えますが、優れた禅の老僧ですから、奇怪な容貌の可能性もあり、それが理由で妖怪たちが慄いたという者もいます。なおこの道智ですが、鎮魂を込めて、今でも南禅寺では回向の際にその名を呼ばれます。
ちなみにその回向での他の名、特に神社は、伊勢、石清水、賀茂と、中世、そして現代に至るまで、さも当然の如く明神上七社や三社の影響を受けています。これは逆に言えば、明神上七社や三社が、東京奠都時代にあってはあまりにその名を忘れ去られており、それも現代の荒廃の遠因の重要な一つとなっているのではとも考えられるでしょう。
さて、亀山法皇は普門に感銘を受け、禅林寺殿をして、普門を開山に迎え、日本初の、勅願開基による禅寺の建立を決意します。正応四(1291)年の普門没後は彼の弟子規庵祖円が建立に尽力します。そのため南禅寺では祖円も「創建開山」としています。
永仁元(1293)年に仏殿が完成、ついで諸堂が整い、永仁七(1290)年、竜安山禅林禅寺として建立します。
これに伴い亀山法皇は自ら『禅林禅寺起願事』を執筆し、その中で、「十方住持」、即ち、法脈に捉われることなく、優れた僧を住持とすることを定めます。また寺名も瑞龍山太平興国南禅禅寺となり、このときに今の通称の南禅寺となります。
また『禅林禅寺起願事』には、彼の寺院建立となったことへの心情なども述べられています。亀山法皇は徳治で知られていましたが、兄の後深草上皇に院政の地位を奪われてしまいました。
とは言え彼はそのことについて恨みめいたことなどは語っていません。自分は天下人となったがなお満足できず仏門に入ったと述べています。それは強がりなのか本心なのかはわからないところです。
いずれにしろ亀山法皇は政治の世界から離れた、いわば代償として、南禅寺の興隆に熱意を注ぎます。同書には、「我が子孫は我が思うところを知り、南禅寺を護れ、南禅寺の興廃は我が天から見ている」といった趣旨のことまで書かれてあります。
あらためて、亀山法皇は、上皇時代にも徳治としての評判がありましたが、出家し法皇となった後も、十方住持を定めるなど、法皇として優れた業績を残したことになります。このため、室町期にあっても、夢窓疎石や虎関師錬、春屋妙葩を、さらに江戸期にあっても、金地院崇伝などを輩出します。また、本朝初の皇統開基の禅寺であることが、後々の他の禅寺にも影響を与えることとなり、南禅寺は京都五山の別格、臨済禅として最高の地位に就くこととなります。
但し、名高い十方住持にも、普門が東福寺の出身であったことから、摂関家の禅寺である東福寺の影響を削ぐ目的もあったと言えます。
建武の親政期、後醍醐天皇は五山選定に当たり、南禅寺を五山第一とします。続く室町期、足利義満は、春屋妙葩らの勧めもあり広大な相国寺を建立しました。義満はこれを五山第一とすることを望みましたが、ここで既に五山であり、皇統亀山法皇が開基の南禅寺が既に五山であり、このままでは対立するという懸案がありました。
ここで義満は妙案を実施します。即ち南禅寺を五山のさらに上位、「別格」とすることです。これにより、相国寺を第一位としたまま、南禅寺が臨済禅の最高位という地位を維持できることとなりました。この辺りからも義満の奇抜さが感じ取れると言えます。
また相国寺の塔頭鹿苑院に、僧録職が設けられ、ここが臨済宗の首脳部となりましたが、江戸時代初期、これは南禅寺の塔頭金地院に移動となりました。それはもちろん、金地院崇伝によるものです。
また、現在国宝建造物となっている方丈は、江戸初期に女院御所の御対面御殿を移築したものです。
さて、江戸中期、並木五瓶著『金門五山桐(きんもんござんのきり)』の「楼門五山桐」の中で、石川五右衛門が、南禅寺の三門に登り、「絶景かな、絶景かな」と述べるシーンを描写します。
なお時代の錯誤があり、三門が再建されたのは寛永五(1628)年のことで、当時の人々は、それがフィクションであることを比較的容易に見抜いていました。それは時代が下り、また首都より人々の倫理が廃れていくにつれ、史実扱いとなりました。
明治初期には琵琶湖疏水が建設されますが、その際、京都市内北東方面への分線も設けれました。そのうちの一つは南禅寺境内を水路閣で通るもので、この場所がドラマなどでしばしば取り上げられ、京都の著名な風景の一つとなっています。
なお南禅寺の水路閣の水路はその後、京都の微妙な坂を逆上し、西田幾多郎にちなんだ、桜、紅葉とも、2キロ近くに渡って楽しめる哲学の道の水路となっています。
四四 毘沙門堂
【宮門跡】
山科駅
正式名称は護法山安国院出雲寺と言います。出雲寺の由緒は、遡ると、大宝三(703)年に行基が、今の上京区の上御霊神社の付近に創建したとまで言われています。出雲寺は後に廃れますが、今でもこの地は「出雲路」の名が残っています。
平安後期には他にも、平家ゆかりの寺院で廃れたものが京都近辺にいくつかありましたが、そのうち、右京区の平等寺、上京区の尊重寺、左京区の護法寺の3つが、平親範によって集められ、この三つとさらに出雲寺とを合わせて、出雲路に再興し、最澄作と伝わる毘沙門像を本尊とします。
応仁元(1467)年、応仁の乱によって焼亡しますが、わずか2年後の文明元(1469)年には再建されます。しかしこれも元亀二(1571)年焼亡します。
新たな再建は江戸初期となります。それは家康の側近、天海によって着手され、現在の山科の地に移転となりました。
江戸幕府が再建などに関与し、その際、有事の際の幕府側の拠点とすることを企図された寺院と言えば、知恩院とくろ谷(金戒光明寺)が挙げられます。実際に機能したのは金戒光明寺です。幕末、ここに、京都所司代の上に京都守護職が置かれ、会津藩がそれを任されます。また新選組がそれに「御預かり」という形で組み込まれもします。
知恩院、くろ谷はどちらも京都の東側にあります。そこへ向かう途中に山科があります。天海は出雲寺・毘沙門堂をも、幕府の有事の際の要塞とすることを目論んでいたのかもしれません。
しかし創建の途中で彼は没し、事業は弟子の公海によって引き継がれ、寛文五(1665)年に落慶します。
また後西天皇皇子公弁法親王は、公海の元で延宝二(1674)年に受戒しますが、その後延宝六(1678)年親王宣下を受け、毘沙門堂の住持となり、このときから毘沙門堂は宮門跡となります。
彼は日光輪王寺、寛永寺、天台座主などを歴任したのち、晩年の正徳五(1715)年に毘沙門堂に帰ってきますが、このときに現在の勅使門、宸殿などの『門跡セット』が下賜され、小規模な寺院でありながら、同時に宮門跡としての整備もなされたこととなります。
四五 妙心寺
【臨済宗妙心寺派大本山】【国指定名勝:方丈庭園】【国宝建造物:梵鐘】
花園駅
あらためて述べますと、五山のランク付けがあり、幕府との関係も深い臨済宗寺院を叢林、禅林と言い、それにはカウントされない寺院を林下と言います。その林下でありながら規模の大きさで知られるのが大徳寺と妙心寺でしょう。とくに妙心寺は、臨済宗寺院全国約六千のうちの約三千五百と、一派で全体の半数以上を占めており、石畳に塔頭寺院の塀が連なる光景は、大徳寺同様、近世からほとんど変わっていません。
話は大徳寺の宗峰妙超と花園上皇との親交に始まります。「仏法不思議、王法と対坐す」、「王法不思議、仏法と対坐す」との会話を交わす、歴代皇室でも傑出した仏教の庇護者でもありました。大徳寺の興隆は、宗峰妙超に帰依する熱心な在家の仏教信者、花園上皇に依るところが大きいです。
そして実は、大徳寺と双璧を為す妙心寺も花園上皇を開基としています。上皇は、宗峰妙超の死に際し、「自分は今後、誰に教えを乞えばいいのか」と尋ねたところ、宗峰妙超は、美濃の山奥で修業をしている開山慧玄を指名しました。このため勅使らが開山慧玄を探し出します。彼は修行の日々にこだわっていましたが、師宗峰妙超と、院宣があっては逆らうことも出来ず、花園上皇の離宮を寺院に変え、妙心寺の開山となり、大徳寺に並ぶ、厳格な禅の寺院を建立しました。
宗峰妙超も、賀茂川にて修行をしていて、乞食と見分けがつかないと言われていましたが、その弟子開山慧玄も厳格です。そもそもこの現代にあっても、彼のプロフィールが殆ど不明なのです。
さて一般に、中世以降の運営は戦国期を除き安定と言われている寺院らの中では、妙心寺はレアで、足利義満への反旗を翻した九州大内氏との関係が深かったため、応永六(1399)年、妙心寺はいったん廃絶となり、その寺領は、青蓮院住持の子義円(後の足利義教)に託されます。義円に託された寺領は南禅寺の廷用宗器に与えられ、彼はここを臥雲寺と改称します。
それから約三〇年後、廷用は南禅寺の根外宗利に与えられますが、彼は尾張の日峰宗舜にこれを与えます。日峰は妙心寺の再興に取り組み、同寺中興の祖とされています。
応仁の乱に際しても妙心寺は強い危機感を抱き、住持雪江宗深が復興に尽力します。雪江は住持の任期を三年間と定め、彼の四人の弟子に交代でこれを務めることを規定します。このため現在に至るまで妙心寺はどの寺もこの四名の派に所属しています。
さらに雪江は寺院運営にあたっても個性が光ります。彼は米銭納下帳の制度を設け、都寺(つうす)、監寺(かんす)、納所(なっしょ)、侍真、維那(いのう)の五役を設け、この五役の連署を会計に必要とさせました。
京都の禅寺には、○○面とのあだ名がありますが、ストレートにつけられたのはここ妙心寺の「算盤面」がトップでしょう。臨済宗妙心寺派の現在の大規模さは、このときに始まった会計制度が主因と言われていますが、これは禅寺らしい発展であると言えるでしょう。
一方同じ大徳寺は、林下であることから敷居を低くし、堺の商人らのサロンの役割を担い、それによって発展したことから「茶面」と呼ばれています。また、五山文学の中心地であった建仁寺は『学問面』と呼ばれています。ストレートはこの辺りまでで、南禅寺の武家面、東福寺の伽藍面、相国寺の声明面は後付けの印象も受けます。
また同寺は創建以来、妙心寺そのものが大徳寺の塔頭的な存在でしたが、永正年間(1504-21)に山名宗全の子で、細川勝元の養子鄧林宗棟が一七世として、従来の慣例を破って直接奉勅を受け入寺したことで、大徳寺からは独立します。
さて妙心寺は、室町期に足利義満と対立したという経歴や、少なくとも「茶面」よりは禅宗の一般的なイメージに近い(もちろん茶面も禅の重要な一側面です)、厳格な「算盤面」であったため、時々の権力に対しても、屈託なく行動する側面が多いです。
方広寺鐘銘事件では、家康は大阪での戦乱の前に、周到に、各寺院らに鐘銘の問題を諮問しました。実は時の天皇や摂関などの文字を挟むことも、戦国期にあっても公家社会では祝辞と見なされていました。
しかしこの時代はあまりに信用できるものの少ない時代です。そうなると、通常の信頼関係から成り立つ民主主義以前、権威主義も有り得ます。このため家康の諮問に際しては、事実上殆どの寺院が家康の意向に賛同しましたが、このとき、妙心寺の一〇五世海山元珠だけが豊臣側を擁護しました。
また寛永六(1629)年の紫衣事件では、流罪となったのは沢庵宗彭らが有名ですが、妙心寺からも東源慧等などが流罪となっています。なおこの事件は江戸初期における朝幕間最大の事件に挙げられますが、その影響の大きさから、三年後寛永九(1632)には全て大赦、また、厳格な教えを説く沢庵に家光は帰依、さらにその9年後の寛永一八(1641)、彼らへの紫衣許可が出されています。
四六 妙満寺
【顕本法華宗総本山】
木野駅
日蓮宗自体は宗派の分類が複雑で知られます。江戸期だけでも一三宗派あり、これらを判別することはなかなか容易ではありません。大別されるものもあれば、独自の成長の激しいものもあります。
この妙満寺創建の日什(にちじゅう)の宗派もまた、独自成長の激しい部類に属すると言っていいでしょう。この宗派は顕本法華宗といいます。
日什も天台宗の僧侶でしたが、日蓮宗に傾倒し、また晩年には独自の教学を打ち立て、永徳元(1381)年六八歳の時に後円融天皇より『洛中弘法の綸旨』を受け、二年後の永徳三( 1383)年、六条坊門に法華堂を建立します。
この法華堂が妙満寺の草創で、康応元(1389)年、日什の晩年に改称されています。本能寺もそうですが、日蓮宗寺院は焼失と移転が多いです。
応永二(1395)年の火災の後、綾小路東洞院に移転、応仁の乱の後は、四条堀川に移転、さらに、天文五(1536)年の天文法華の乱により、堺に避難、天文一一(1542)年の、御奈良天皇による法華宗帰洛綸旨により四条堀川に戻り、秀吉により、天正一一(1583)年、寺町二条に移転します。
日什の宗派である顕本法華宗は、複雑な日蓮宗の中でもマイナーな部類(それでもたくさんあります)であると同時に、日蓮宗の強硬ともされる、不受不施派の代表でもあります。よくよく考えれば、不受/不施の関係からも、次第に仏法への理解が進むわけで、不受不施派というのは日蓮宗にあっても強硬派です。
しかもその姿勢は、幕府、朝廷に対しても変わりません。不受不施派の存在がはっきりとしたのは、文禄四(1595)年、秀吉が、方広寺大仏殿供養のために、宗派を問わず千名の僧侶らに供養を命じたことに対し、これへの不参加を決めたことで、このときの代表は妙満寺ではなく、妙覚寺の日奥でした。
家康は高頻度に、不受不施派と他の宗派らとを論争させます。慶長一三(1608)年にはこの妙満寺の日経も江戸城に呼ばれ、増上寺側と対論となりますが論破され、翌慶長一四(1609)年にはいわゆる慶長法難と呼ばれる事象により日経は極刑となります。
とはいえこの後、不受不施の姿勢は変わらないものの、日奧赦免、妙満寺の寺院の安堵など、キリシタンに比べれば緩やかな措置がなされます。不受不施派自体が、そもそもトラブルを招きやすい教義ではありましたが、一方で、その品格などは市井の人々からも一定の尊厳を受けていたことなどもこれには考えられるでしょう。
皮肉にも、妙満寺にとってのその後の大きな考察事は、江戸期のとっくに終わった戦後に出現します。それが左京区木野への移転でした。
とはいえ、松永貞徳作の「雪・月・花」の各庭のうちの「雪の庭」もきちんと移築されています。今ではすっかり、木野の名所となっています。
戦後初期、たとえ寺町二条の妙満寺が木野に移転するとあっても、京都の人々はそれに異論を唱えませんでした。人間性を見失った現代東京人らとは異なり、どこであろうと信仰する、その心を、絶望的な今はともかく、当時の京都人らは持ち合わせていたといえるでしょう。
四七 山科神社
【名神大社】
大石神社前停
寛平九(897)年、宇多天皇の勅願による創建と言われています。昨今皇籍の少なさが議論に登ることが多いですが、宇多天皇はいったん臣籍降下をしている天皇、またその子醍醐天皇は、宇多天皇が臣籍降下をしているときに生まれたので、最初から臣下であった天皇です。
この時期は宇多天皇による寛平の治として評価が高いことで知られていますが、寛平九年はその次の醍醐天皇が即位した年です。翌寛平一〇年四月、元号は昌泰に改元されます。
さて、延喜の治とは醍醐天皇の治世を評価した言葉ですが、聖代の瑕と言われる道真左遷事件は昌泰の変との名称があります。道真ももちろん優れた政治家でしたが、延喜の治とは実は道真失脚後、醍醐天皇と藤原時平によって進められた案件が多数であることに留意が必要でしょう。
それはさておき、山科神社の創建は、醍醐天皇の即位と関係しています。醍醐天皇は宇多天皇の臣籍降下時期に誕生しましたが、彼の母方の祖母は宮道列子(みやじのれっし)という人です。宮道氏というのは当時醍醐地域周辺にいた氏族で、後継である醍醐天皇の治世の安定を願い、その氏への氏神として創建されたと思われます。
祭神は日本武尊とその子稚武王(わかたけのみこと)の二柱で、醍醐天皇期の延長五(927)年成立の延喜式神名帳でも、わずか三〇年前の創建であるにも関わらず名神大社に列格しています。
宮道氏と醍醐天皇に絡む社寺は近隣にもあり、勧修寺(寺名はかじゅうじ、地名はかんしゅうじ)は、昌泰三(900)年宮道氏の邸宅を寺院としたものです。また醍醐寺上醍醐は当時修験道の霊場でしたが、宮道氏との関わりもあってか、醍醐天皇により下醍醐が整備されています。
その後は宮道氏の衰退により、氏神から、産土神としての性格を強めていきます。中世になると、『東西上の三岩屋』の一つ、西岩屋となります。なお東岩屋とは、現在は別の神社となっている、大宅の岩屋神社ですが、上岩屋は現在では不詳となっています。
なお『上岩屋』と呼ばれるべきは地下鉄東野駅の辺りかと思われますが、ここは山科本願寺、現在は東西真宗の山科別院がそれぞれ置かれているところでもあります。
いずれにせよ、地方神との性格を強めて以降は、先に古くからあった山科の東方の岩屋神社との結びつきが合わせて強まり、岩屋神社の名となり、旧及び現岩屋神社は東岩屋、さらには岩屋神社の奥の院との扱いになっていた時期もあり、西岩屋は近世には『西岩屋大明神』『(山科地域の)一の宮』との称名もありました。
とは言え創建当初、天皇の祖母の出身地の氏神として、名神大社に列せられたこの神社も、近代にはほぼ産土神となったことを裏付けるように、村社となりました。また岩屋神社の名は東岩屋の側が取り、また、あちらは村社より上位の郷社となり、こちらは創建当初の名称である山科神社となりました。
三二 金閣寺
【特別名勝】
金閣寺道停
「金閣寺」の名称として、国指定特別名勝ともなっていますが、実は寺院の名称としては二重に違っています。まず鹿苑寺自体が、慈照寺と同様、臨済五山の第三位、烏丸今出川にある「相国寺」の山外塔頭です。さらに、その「鹿苑寺」の境内にある建物の一つである、「金閣」というのがあの三層金箔の建物となります。もちろんこれは豆知識のような類のもので、いちいち気にしなくても構いません。智恵を深く知ることは何も悪いことではありませんし、それをネガティブな意味で、オタク等と侮蔑することが近年の主流となっていますが、これには断固とした態度が必要でしょう。
一方、無知な者ほど、知った知識で、自分の防衛を図りたがります。このような知識は、聞かれたときにでも説明すればいいもので、いちいち細部まで人の間違いを指摘するのも、また、それが正常な人間関係などと吹聴するのも適切ではなく、これは単なる過剰防衛に過ぎないでしょう。
山号は北山(ほくざん)、開基は義満で、その法号、鹿苑院殿にちなんでいます。なお、鹿苑というのは、釈迦が最初に説法を始めた鹿たちの集う鹿野にもちなんでいます。
この京都盆地北東にはもともと、元仁元(1224)年西園寺公経(きんつね)が西園寺を建立していました。西園寺家は藤原北家閑院流公実(きんざね)の子通孝(みちすえ)を初代とし、その曽孫公経は、頼朝の妹婿一条能保(よしやす)の娘を妻とし、幕府との関係も良好でした。このため彼は承久の乱に際しその情報を鎌倉に流しました。その影響で彼は、幕府と朝廷を取り次ぐ役目を重視され、太政大臣にもなり、後嵯峨天皇など、孫が次々と天皇になる状況が発生しました。
また、住居を、尾張の土地と交換し、この北山の地に引っ越し、それを広大な寺院としました。
ところが時代が下り、建武の新政の際、西園寺公宗が、後醍醐天皇の暗殺を計画しこれが発覚、彼が逮捕、処刑されたのち、西園寺は荒廃していきます。
ちなみに、近代に、桂園時代と呼ばれる安定期を桂太郎とともに築いた西園寺公望はその子孫です。他の元老が次々と死去していく中、大正時代末期以降、戦前に彼は最後の元老となります。もちろん、既に元老としての実権は喪失しています。元老の役目として、次期首相候補の奏上がありますが、これも形式的なものでしかありませんでした。
公望自身が桂と交互に首相を務めていた頃、日露戦争の前年である1903年四月、元老の伊藤、山県と、首相桂、外相小村の四名は、山県が建てた京都岡崎の無鄰菴にて無鄰菴会議を開催していましたが、この顔ぶれからも、首相と外相とが、元老らの補佐でしかなかったことがわかります。
ちなみに無鄰菴会議では、日ロ交渉に際し、あらためて満韓交換論で臨むことが確認されましたが、同年八月の交渉では、ロシア側が「南北朝鮮論」を提唱し両者は決裂、翌年の日露戦争に発展します。
さて、同じ南北朝でもこちらは日本国内の室町時代、明徳三(1392)年、両朝合一を成し遂げ、明徳五(1394)年には将軍を引退し、いわば院政の地を探していた義満は、この西園寺に目を付け、この地を河内と交換し、その改築を試みます。
元の西園寺の記録が少ないため、どのような規模だったのかは不明ですが、もはや改築どころか、一からの新築のレベルであり、寺号も、西園寺から鹿苑寺への改称ではなく、西園寺は廃絶という形になっています。そしてここに応永四(1397)年、義満の院政の地、北山殿、後の鹿苑寺が完成します。このときに出来た金閣についてはひとまず後述します。
応永一五(1408)年に義満は死去、その後、将軍義持は一時ここに入るものの翌応永一六(1409)年には北山殿の一部を破却し三条坊門殿に移ります。その後は義満の妻、北山院日野康子の居所となり、応永二六(1419)年に北山院が死去した後は、舎利殿を除く建物は解体、南禅寺、建仁寺などに移築寄贈となり、翌応永二七(1420)年より義満の遺言により北山殿は禅寺鹿苑寺となります。
舎利殿は応仁の乱の戦火を免れました。また、その他、不動堂、方丈などの伽藍も江戸時代に徐々に再建されていきました。ところが戦後まもない一九五〇年、舎利殿は放火により焼失します。国、府、寄付金など当時の金額にして約三千万円が集められ、一九五五年に舎利殿は再建、現在に至ります。
さて、鹿苑寺舎利殿こと金閣は、資料の殆どが、その建築上の構造や、さらにはその思想的背景などについて論じており、これは他の社寺の紹介と比べても傑出しています。あのような建物である以上、これはやむを得ないことかもしれません。私もここでは、沿革ではありませんが、その構造や思想背景などについて紹介してみます。
舎利殿こと金閣は、一部では、パチンコの名称に使われるなど、けばけばしいイメージがつきまとっていますが、実物はそのような類のものではありません。まず周囲も、雄大な緑の北山を借景としており、また手前に鏡湖池(きょうこち)と、その中に岩石を配しており、落ち着いた佇まいとなっています。
続いて金閣そのものも、落ち着いた雰囲気を感じさせる造りとなっています。その最大の理由は、三層構造のうち、一層部分には金箔が張られていないことにあると言えるでしょう。
あらためて各層を見ます。まず初層は「法水院(ほうすいいん)」と呼ばれる、公家の邸宅でみられる寝殿造り風で、縁側が設けられています。
二層は「潮音洞(ちょうおんどう)」と呼ばれ、武家屋敷風とも、寺院風とも言われます。また三層は禅寺風で、「究竟頂(くっきょうちょう)」と呼ばれます。
初層と二層の間には屋根がなく、また、二層、三層には、反りの緩やかな杮葺きの屋根が設けられています。これらの屋根の造りや、金箔の張り方などが、イメージとは異なる、落ち着いた佇まいを見せ、金箔と調和し、屋根の上にいる鳳凰も合わせ、けばけばしさのない、禅寺でありながら、浄土に近いイメージを創り出していると言えます。
さて内部ですが、まず初層には、釈迦像と、義満像とが並んでいます。ここから様々なことが論じられますが、その例は、公家の建物である寝殿造りに自らの像を置いたことで、足利将軍でありながら、自らは公家も兼任しているという義満の自負、また、釈迦像と並べたことで、自らも法の守護者であることのPRであると言えそうです。
二層には、中央に岩屋観音という観音がおり、その四方には四天王が配されています。武家屋敷風であることからして、ここは武家による四方の守護を、また、それを初層の上に置いたことで、武家の公家に対する優位を示しているとも言えそうです。また三層は、今はありませんが、義満当時には、阿弥陀三尊と、二五菩薩があったと言われています。これほどの数が配置されていたということは、東寺の立体曼荼羅を想起させ、地上の安穏を祈る場所として重視されていたと言えそうです。
さて、その舎利殿から眺める鏡湖池は、平等院同様、舎利殿を映し出すこともあります。また鏡湖池には、各地の大名らが寄進した岩石が配されていますが、これを、海に囲まれた日本列島に比することもできると言えるでしょう。ちなみにその岩石群の先頭部分にあるのは細川石であり、これは幕府を支える管領としての細川家の立場を示しているのではないかとも言えそうです。
四九 六波羅蜜寺
清水五条駅
「六波羅蜜」というのは仏教用語で、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六つの徳を指しますが、これは後からつけられた名称で、開山の空也は西光寺と名付けていました。また土地自体が『六原』で、これはさらに元は『霊原』とも、あげくは『髑髏が原』とも言われ、この辺りは、近隣にあり、よく混同される六道珍皇寺の縁起同様、葬儀の地でありました。
空也は醍醐天皇の皇胤とも言われていますが、彼は奈良時代の行基とよく比較されるように、市聖と呼ばれ、市井にて主に浄土教を説き、また土木工事なども積極的に実施していました。
天暦五(九五一)年の疫病の流行に際し、村上天皇は悪病退散の勅命を出します。これに対し空也は、十一面観音を制作し、これを荷車に乗せ市中を巡るとともに、梅と昆布の入った茶(のちに明恵が伝えた茶とは異なります)を病人に飲ませ、疫病を収束させたと言われています。これが、六波羅蜜寺が正月三日に授与する皇服(おうぷく)茶として今に伝わっています。またこの十一面観音像が、後に建立されるこの寺院の本尊となります。
同寺の宝物館には、とりわけ著名で、国宝になっていてもおかしくない彫刻が二つあります。それが空也像と伝平清盛像です。うち空也像は、口から六体の小さな阿弥陀仏を出していることがよく知られていますが、その他にも、肩から金鼓を下げ、それを鳴らす撞木を持ち、左手で鹿の角のついた杖を突きつつ、目は半開きで、草鞋で土を踏みしめているなど、これは空也の迫真の姿勢が伝わってくるものです。
加えて空也は、鳥辺山周辺の無縁仏への火葬などもしていて、彼にとって六原は重要な活動場所でもありました。彼は、金泥の大般若経六〇〇巻の書写し、この地にそれを祀ることを発願し、およそ一〇年をかけて成し遂げ、応和三(九六三)年、寺院を建立しこれを奉納しました。この寺院が六波羅蜜寺の全身で、彼の弟子中信が六波羅蜜寺に改称し、また宗派を天台宗としました。
さて平安末期には、この地は平家の拠点とされました。平正盛が近隣に阿弥陀堂(現・常光院を建立したのをきっかけに、平家関連の建物がおよそ五千はできたと言われています。平清盛をして六波羅入道と呼称したのもこれが原因です。しかしそれも、鴨長明の方丈記が示す通り、平家都落ちに際し、六波羅蜜寺本堂を除き焼亡となり、その跡地に六波羅探題ができます。
前述の伝平清盛像ですが、人により見方も大きく変わるようです。清盛自身が権力者であったため、経典を手にする彼は虚ろな表情であるといった見方、あるいはその逆に、経典を手にし、権力者のイメージとはかけ離れた、とても穏やかな表情、といったものなどです。これについては見た人の主観によるものです。
中世に入っても焼失件数は多かったものの、応仁の乱を免れました。このため、鎌倉期
建立の千本釈迦堂には遅れるものの、本堂は南北朝期の一三六三年建立です。彫刻群もそうですが、本堂も重文ではありますが、実質国宝クラスです。
桃山期の文禄四(一五九五)年、東山七条にある智積院を総本山とする真言宗智山派(当時は新義真言宗)に改宗となりました。その後、江戸期は今よりも大きな敷地の寺院でありましたが、近代に入り縮小、今では路地に囲まれ、本堂の全景撮影は困難となっています。
五〇 わら天神
わら天神停
創建年は不詳です。元々より北山の住民らの氏神として、北山の神が祀られており、類聚国史によると、天長五(828)年に、淳和天皇が除災のためにここに勅使を派遣しています。
さて、その三年後の天長八(831)年八月、山城、河内に各三宇ずつ、氷室(古代における、地下水などを利用した冷凍貯蔵庫。施設数が限られており、宮内省主水司などが管理していました)が設置されることになり、そのうちの一つがこの地にできることになりました。
このときに、夫役として加賀から移住した者が、加賀に鎮座する菅生石部神社(敷地天神)の菅生石部神の母とされている、木花開耶姫命を勧請し、北山の社の隣にその社を建立しました。
後、応永四(1397)年、足利義満の北山殿造営に際し、両社を合祀し現在地に遷座、名称を敷地神社としました。実は現代でもここの正式名称は敷地神社ですが、京都では恒例、正式名称よりも通称の方が圧倒的に有名になった神社で、敷地神社という名称はまず知られていません。
北山の神はとりわけ安産信仰が強く、安産御守として藁の授与がなされており、その藁に節があれば男児、なければ女児が誕生すると言われていますが、この伝承による通称『わら天神』が、西大路通りという市バスが高頻度で運行する通のバス停の名称ともなっています。圧倒的に知られているのはそちら、わら天神の方です。
2021年2月16日 発行 初版
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※ 改行多数のため、ツイプロ及びブログメッセージボードをご参照ください。 〇ツイプロ:http://twpf.jp/sigure_pc 〇ブログメッセージボード: http://blog.livedoor.jp/t_finepc/ ※ アイコンの拾い物のつばさちゃんとしいねちゃんはそれぞれ珠洲ちゃんと美濃くんの外見イメージキャラです。