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Mon essai わたしのエッセイ3

シナリオ・センター大阪校

シナリオ・センター大阪校



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 目 次

  Bring happiness             上野文子
  寿司コンプリートへの道          桑田真吾
  蛇の道は蛇                 円窓宮緒
  縁は異なものチョイ難なもの        吉田酔女
  その扉                    はな

Bring happiness             上野文子

「文ちゃーん!」
 振り返ると私が角を曲がるまで、家の前で母が私を見送っている。更に母は、両手を肘で曲げ広げて、掌をぱっと開き、まるでガマガエルがバタバタと歩くように手を動かし、その後、右手を拝むように出して首と共に左右に振る。このブロックサインが出されるのは、まぁ私が大人になっても殆ど毎日のことだった。これは「歩き方が蟹股になっているから直してスマートに歩いていきなさい。」という監督からのサインだった。

 こちらの期待値を遥かに超えた過剰サービス精神の大判振る舞いを容赦なく早朝から母はしてくるのだった。

 ある時、母とお菓子を作ろうと思ったがベーキングパウダーが足らなかった。母に買い物を頼んだが、待てど暮らせど帰って来ない。一品材料を買うだけなのに……。夕焼けと共に母が帰ってきたと思ったら、かごに山ほど、溢れんばかりの買い物をして意気揚々と自転車を漕いで帰宅した。お菓子を作ることを忘れたのか、お菓子もいっぱい買ってきて、「美味しそうなのが、いっぱいあったのよ!」すっかり遅くなったからもう、お菓子作りは、いいかなと思ったりもし、母の買ってきたお菓子を食べることにしたが、その時も確か3種類ものベーキングパウダーがテーブルに置かれていた。

 友人が遊びにくれば、次から次へと食事を出す。もうダメと友人の目が言っている。まるで串カツコース、こちらからストップと言わない限り、延々と何かが出てくる。いやストップといっても「そんなぁ、遠慮しないでね!」と満面の笑みで容赦なく料理やフルーツが出てきたこともある。「いや、もう、ほんとに……」遠い目をしている来客を何人見てきたことだろう。おもてなし好きにも程がある。

 小学生の頃の私の誕生日会。当時、プレゼントを持って行っても持って行かなくてもどっちでも良かったような、楽しいだけの、ごく普通の大阪の下町の子供の誕生日会。うちはクラスの女子全員を呼んでその日は子供のパラダイスだった。BGMはピンクレディーのカセットテープを回す。いつもより、ほんの少しだけ背伸びした、ささやかな料理を母が作ってくれた。ケーキ作りも買ったばかりのガスオーブンのいい実験台になったに違いない。デコレーションに、どこで見つけてきたか、当時見慣れない仁丹のようなアラザンやチョコスプレーが生クリームの上にトッピング。当時、バタークリームのケーキしか食べたことが無かったから、異次元の食べ物に昭和の子供達は胸躍らせた。ふいに数人の男子も勝手に来たりしたが、手狭な我が家に母は笑顔で通した。私は子供ながらに、こんな普通の家に来て本当に楽しいものだろうか? と客観視していたが、皆が楽しそうなら、まぁ、良いかと思っていた。きっと当時、集まれる場の提供だけでも楽しかったのだろう。

 図工で空き箱がいるから、今度持って来るように。そう先生に言われて来週までに欲しいと母に言っておくと、当日の朝、恐ろしい量の空き箱が玄関に積まれていた。小学生の女子が運ぶのは誰がどう見ても無理だ。母に問うと、決まってこういうのだ。「忘れる人の分も持って行ってあげなさい」登校班で笑われるほど、入れ子にもならない箱をかさ高く持っていく。母の読み通り、忘れる人というのは一定数必ず、居るもので、毎回、感謝されるのだ。「文子ちゃん、それ、どうしたん?」朝から会う子会う子に言われる。ある時は花だ。花を持って行かされる日は、とにかく気恥ずかしかった。学校では当然のように花係になった。特に花が好きな訳ではなかったが、ただ実感していたのは誕生日会の時同様、私のきまり悪さをよそに、母の行いを周りの人達がとても喜んでいるということだった。

 ある時、母が言った。「私、足らないというのが大嫌いなのよ。」

 母の母(私の祖母)は母が6歳の時、虫垂炎で亡くなった。
その後、来た継母は連れ子と小さな母を区別したという。
自分だけ浴衣を作ってもらえなかった。洗濯をしてもらえなかった。おやつが欲しくて、こっそり砂糖を舐めたら「うちには頭の黒いネズミがいるようだ。」皮肉をいわれた。『薩摩おごじょ』らしい大きな丸い目から涙をポロポロと流し、私達に話したことがあった。母は、自分がした辛い思いを絶対周りの人にはさせまいと、幼な心に決意し、分け隔てなく十二分に与える人になったのかもしれない。

 それ以来、私達は、全て「有難う。」と素直に受け入れることにした。

 道でギターを弾き歌う人がいれば、「上手ね~!」とギターケースにお札を入れる。旅先で砂糖キビを売る人がいれば「全部頂くわ」と全部買う。安価なものならまだ良いが、うちはそんな資産家ではないから、冷や汗を掻きながら、やんわりと止めて歩くのは私の仕事になっていた。
 しかし、母が私にくれた最大の財産は、このサービス精神の大盤振る舞い『こちらから人に与えること』かもしれない。

 私は、いつもバッグの中にあれやこれやと自分が使わない物も誰かの為に入れてしまう。それが誰かというのも特には無く、架空の人物なのだ。しまいには、お花の先生等になってしまい、おまけに『おもてなし花ごはんの会』等という料理の会までやってしまい、こうして振り返ると母とは違う道を来たつもりが、まだまだ監督の掌にいるようでなんとも言えない。

 出来る範囲で出来ることをしてあげる。シンプルなお手本がいつも傍にあった。そして時には無理の無い背伸びもして、ほんの少しのスペシャルも楽しんでみる。

 今の母は、私のことが、わからない日もあるけれど、いつ会っても大きな瞳をくるくるさせて少女のような笑顔で毎日暮らしている。

寿司コンプリートへの道      桑田真吾


 食べ物の好き嫌いは誰しもあるものです。ほとんどは育った環境に左右されるのではないでしょうか。特に母親の対応は大きい影響をもたらします。

 私の母は自身が偏食だったせいか、一人息子の私に対する食のしつけは緩かったように思います。今から思えば、食卓に並んでいたメニューは母の好みを反映していて、相当偏っていました。魚より肉が多めで、刺身が出た記憶がないのです。私が小学生だった昭和四十年代には回転寿司はまだなく、いわゆる立ち寿司は子供連れでは入りづらい雰囲気がありました。寿司ははれの日に出前で食べるものでした。正月やお盆に親戚が集まるとテーブルの真ん中には丸い寿司桶が鎮座していました。その中で私が食べることができたのは、卵と鰻、せいぜい頑張ってイカぐらいでした。生魚は食わず嫌いで手が出ませんでした。タイやヒラメなど白身が食べられるようになったのが、たぶん高校生の頃でした。

 大学に入って酒も飲める年齢になると、友人たちと外食の機会が増えました。あるとき、学生でも入れる大衆的な寿司店に友人とふたりで行きました。その男は私より年は一つ下だったのですが、恵まれた食環境の家庭に育ったのでしょう。ようやくレパートリーに加えた白身魚を軸に単調な注文を繰り返す私の隣で、なじみのないすしネタを次々に注文しました。彼は最後に、楽しみにとっておいたという風に「ウニ」と声高らかに注文しました。オレンジ色の物体Xとしか見えないものを口に運びつつ、怪訝そうに見る私に、
「ウニを食べないなんて人生の損」
 と言い放ったのです。私は年下の友人への意地もあって二貫のウニの残り一つを口に放り込みました。かまなくても広がるまろやかな磯の香りと経験したことのないうま味に驚きました。以来、ウニは私の好物になりました。

 次の親戚の集まりでビールを片手にウニをつまむ私を見て、母は
「あれ、ウニ嫌いじゃなかったの?」
 と言いました。もちろん母はウニが苦手なので手をつけません。いやいや、嫌いじゃなくてチャンスを与えられなかっただけですから、と私は心の中でつぶやきました。
 成人後に私が食べるようになった食材は他にもいろいろあります。幼い時期に苦手な食べ物を無理やり口に入れられたため、さらに受け付けなくなったという人もいるようです。ものは考えようで、新たな食を発見する喜びを長い年月にわたって楽しめたのは、母のおかげかもしれません。

蛇の道は蛇     円窓宮緒

 自分の腹の中には蛇がいる。以前からそう自覚している。腹の蛇が機嫌を悪くすると私自身が荒れ狂う。どうにか抑えようともがいても、いけないとわかっていても、蛇がのたうち暴れだしたらもう止められない。少しはあるはずの、私の理性は吹っ飛び蛇を抑えられなくなる。人に噛みつき、滅茶苦茶に傷つけ、人間関係、自分の居場所、さまざまを破壊してしまえとばかりに暴れる。  
『いてもいいよ』と与えてもらった場所をまた一つ、またひとつ壊していく。人のあたたかさを善意を壊す。自分も壊れる。こんなことしてなんになる。本当に愚かだと思う。そう思うとまた落ち込み荒れてくる。止めたい。どうにかしたい。けれど、そうなってしまう。

 いよいよ疲れて思う。
 みんな、腹の中に蛇はいないの? 
 みんなの腹を探る。

 いる。いる。結構いる。
 あの人にもこの人にも……いる。いる。みんないる。

 全ての人とは言わないけれど、だいたいみんな上手に蛇を飼いならしていると気づく。ただの蛇じゃなくて猛毒を持った蛇に潜ませる人さえいる。そして蛇をちゃんとコントロールしている。飼いならしている。私もそうありたい。そのすべを身につけたい。けれど、いったい、どうすればいいのだろう。
 さらに上を行く人も発見。その人自身が大蛇になっている人。凄みがあり、気迫が漂い、底知れない闇さえ感じさせる人。そういう人は大蛇になっている人。
 自分と対峙する人の中に潜む敵意や邪悪、業さえも、あんぐりと大口開けて飲み込み、消化してびくともせず、『でーん』と生きている。深い深い懐で罪人さえも包める、そんな良い大蛇になりたい。自分の腹の蛇の存在を嘆かず、卑屈にならず、何をも飲み込む覚悟で生きてゆけば大蛇になれるだろうか。今の私は焼き魚のわずかな骨でさえ、ちまちま取り除かないと飲み込めない。修業の道は険しい。

『妖怪ばばぁ』

 夫が私の母をこう呼ぶ。夫は見た目は野獣だが、中身はインコみたいに怖がりだ。不思議なことにこの怖がりインコ、妖怪ばばぁと仲良しコンビを組んでいる。私の腹の蛇に襲われそうになるとインコは妖怪ばばぁの懐に逃げ込む。妖怪の懐はあたたかく安全で、居心地も大層いいらしい。インコは妖怪の肩に留まって長話をしたり、てのひらに乗せてもらって下手な歌など歌いご機嫌だ。蛇を怒らせた己の悪事をひょいと隠し、妖怪の懐で守られているのをいいことに、こっそり私にあっかんべーまでする。いい気なヤツだ。

 妖怪の道は妖怪。妖怪ばばぁに教えを乞うつもりはないけれど、どう生きているかは見ている。都合の悪いことは都合よく忘れ、昨日ぼた餅を食べ、喉に詰まらせかかったというのに、今朝も残りのぼた餅を笑って食べている。
「食べたいから食べたい」
 それが本人の言い分だ。もう、怖いものはなく、どんなことでも笑えるらしい。

 妖怪になるのも悪くない。でもやっぱり私は蛇だ。蛇と共に生きる。

 私は私の生きる道を探す。

縁は異なものチョイ難なもの     吉田酔女

「きょう、ジムに行く?」
 朝九時、Hさんから電話がかかってきた。
「十二時半に着くように行くので、十二時過ぎにバス停で待っててもらったら」
「お父さんのお昼があるし、どうしようかなあ」
「お父さんなんてほっときなさいよ」
 ハハハ、と豪快に笑ってHさんは電話を切った。小柄な、七十を過ぎの老女とは思えない言動だった。
 Hさんとは同じジムの会員で、一年くらい前に知り合った。人気者のスタッフ兼インストラクターだったK君が、転職してジムを去っていくという。最終のレッスンとなる腰痛改善トレーニングに、最後尾で参加した。プールの一レーンで行われたレッスンの列は二列で、もう一方の最後尾がHさんだった。Hさんが「○○に住んでるの?」と訊ねてきた。「えっ、××ですよ」ということからよくよく話してみると、路線バスが走る大通りをはさんで、バス停が一駅違い、という近さだった。これほど近くに住む人とジムで知り合ったのは初めてだ。二人の住んでいる所からジムへは車で二十分近くかかり、「遠いところから」と言われることもある。
知り合った頃は、Hさんも車でジム通いをしていたが、事故を起こし、ご主人から運転を禁止されて、新車を贖ってもらえないという。バスを乗り継いでジムに通うのは大変だ、というので、六十代半ばだがまだまだ乗り続けている私の車が当てにされた。
 棟梁だというご主人のお昼は用意できたのかなあ、そうだ、コンビニによって行きたいからもうちょっと早く出よう。時計の針は十一時半、Hさんに電話してみると、バス停で十一時から待っているという。え? えっ! なにぃ!  なんで! お父さんのお昼はどうなったのよ! 私は十二時過ぎって言ったよ! Hさんは私の叫びに一切耳を貸さず、
「バスは今行ったとこやし」
 と動じない。根負けした私は、
「わかりました、今から行きます!」
 と答え、「もう!」と怒りながら車を出した。ジムの正面玄関で転がるように降りるHさんを見送り、地下駐車場へ行く。午後一時からのプールのレッスンが終わると、私はそそくさと服をまとい車を回す。二時間無料の駐車券を得るために、その都度車を動かすのだ。私とすれ違いにプールへ行ったHさんは、「十二時からのヨガに入れたわ!」とご満悦だった。お風呂で半身浴をしていると、Hさんが上機嫌で湯船に入ってきた。
 車を回す苦労など全く念頭になく、レッスンを楽しんでいるHさん。なんだか割に合わないなあ、せめて行きと帰りのどちらかにしてほしいもんだ、なんて思っていたら、一週間ほどしてHさんをプールで見かけた。習字に行く日だったので、「ごめんね」と断って帰った。次に見かけたのはお風呂場の脱衣場だった。声をかけるとHさんはにやりと笑い、私がすでにお風呂を終えていることを知ると、
「ちゃちゃっと洗ってくるから」と言う。
「あ、いや、別に、ごゆっくり」
 と応じたが、化粧室で髪を乾かし、帰る準備を整えてもHさんは現れない。脱衣場は無人で、お風呂場を覗くと湯船でおしゃべりしている人が居る。え? まさか?
「Hさん?」
 だった!
「あと十五分で駐車場の時間になりますから!」
 私は人目も憚らず大声を出し、お風呂の扉をピシャっと締めた。「しゃべってんじゃないよ!」と毒づき、「『ごゆっくり』なんて言った私が悪かった!」と自分を呪う。
大好きな大好きなK君が最後の最後に結んでくれた縁、近所に知り合いができるとは心強い、縁は異なもの有難いもの、だけど、だけど、ちょっと難儀だわ。

その扉         はな

 扉の向こうの彼女を見た。そこには私の知らないもう一人の彼女がいた。誰にも、もう一人の私がいるのかなと思った。

 ある人の扉を少し覗いた。その人の名は、みどりさん。柔らかな空気感のある人である。友人は少なくていいと、普段は自宅でガーデニングを楽しんでいる。
 そのみどりさんが呟いた。
「私も自由に外に出たいわ」と……。別に隔離されているわけではない。
 みどりさんのご主人は大手企業の役員、子ども達もそれぞれ独立し、人がうらやむご身分である。それでも不満はあるらしい。
「私、離婚をしたいと思ってもね。できないのよ」と冗談めいて言う。そして、あくせく働く兼業主婦の私に、
「あなたは、きっとお仕事が好きなのね」と優しく笑った。
 みどりさんは、ご主人に対してもなかなか手厳しい。
「あれで、会社では勤まっているのかしら……。私が家を守っているから安心して働けるのね」
 それも一理はある。私は、ならば外に出て代わりに働いてみたら如何と言った。が、返事はなかった。
 最近、そのみどりさんに元気がない。
「年のせいかしら、眠りが浅くて、時々眩暈もしたりしてね、もう何もしたくないわ」と、言う事が多くなった。
 丁度私も定年を迎えたので、私達は二人で趣味探しを始めた。
 ある日、みどりさんは言った。
「楽器の練習を、始めようかしら」
 そして自ら教室を見つけて来た。教室までは電車とバスを乗り継ぎ、バスを降りてからも登り坂を暫く歩くようだ。
 かなりお気に召した様子である。きっと物静かで、知的な初老の先生に巡りあったのだろうと想像していた。
 だが、みどりさんの差し出したスマホ動画は、私を仰天させた。思わず私は、その画面を二度見した。
 そこには、白磁の如き輝くお顔の、若きイケメンが微笑んでいるではないか。
 イケメンの彼は楽器について熱く語る。後ろには高価な楽器が、ずらりと並ぶ。その一つを取り今度は歌い出した。
 みどりさんは、優しく続けた。
「私たちは枯れていくのに、この子はエネルギーに溢れているわねぇ」
「この楽器でこんなに幅広い音色を出すなんて、私の求めていたものに近いわ」と、
 寡黙なみどりさんは消えていた。
「この若い先生と、私。どう話して良いのかしら。ねぇ……困ったわ」と。
 みどりさんは、家族以外の若い人と、話す経験がなかった。
 なおも続いた。
「やっと解かったわ、夫が、若い女の子に興味をもつ気持ちがね」と。概ね男性は、老いも若きもそうなのだけど……。
 その後、みどりさんは、早々に楽器を購入した。もちろん初心者用ではなく、桁違いの楽器の購入である。音楽教室のレッスン料も高い。その上、グループレッスンではなく、個人レッスンを選択している。
「楽器のレッスン料は、こんなものよ」
「個人レッスンの方が、他人と合わせなくていいのよ」
「時間も延長しようかと思うの」と、さらりと言った。この行動が出来るのは、みどりさん。あのご主人の賜物なのです。
 あれから、みどりさんは一段と明るくなった。そして、もう何もしたくないとの声も聞かれなくなった。
 みどりさんは、白髪混じりの緩やかなウェーブを、風に揺らしながら今日も練習に勤しんでいる。眠っていた右脳の潜在能力がフル稼働しているかも知れない。
 みどりさんは扉を開けたようだ。やる気を起こしたきっかけは、もちろんイケメン君にある。が、前に踏み出したのは、みどりさん自身である。
 そうか! 扉の向こうには、もう一人の私なんていなかったのだ。どちらも私。その事に、今、私はやっと気がついた。
「夫に感謝しているわ」と最近みどりさんは私にそう言った。それは良かった。
 私は、年金だけが頼りなので、みどりさんの様な行動はできない。だが、私の身の丈にあった行動を起こす事はできる。
 まだ知らない私を見つける事は出来るはずだ。
 幾つになっても、私だけの新たな扉を見つけられれば、それは、最高に幸せな人生かと思う。
 私の扉、その扉が、今日も私を待っている。

Mon essai わたしのエッセイ3

2021年4月2日 発行 初版

著  者:シナリオ・センター大阪校
発  行:シナリオ・センター大阪校

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