───────────────────────
YA小説を書いてみよう部2021
───────────────────────
放課後、昇降口で後輩に声をかけられた。
「あれ、悠太センパイ、こんなところで何してるんですか?」
人懐っこい笑顔を浮かべ、駆け寄ってきたのは、吹奏楽部の藤野日和だ。
「今日、金曜でしょ。音楽室、合唱部が使う日じゃないですか」
藤野たち吹奏楽部とわれらが合唱部は、放課後の音楽室使用権を奪い合う宿敵だ。
片方が音楽室を使っている間、もう片方は空き教室や廊下での練習に甘んじることになるのだが、特に今日みたいなクソ寒い日は、廊下練は地獄の様相を呈する。
藤野の言う通り、本当なら俺は今頃、暖房のきいた音楽室に陣取り、渡り廊下で凍える罪人たちを見下ろして、蜘蛛の糸ごっこに興じているはずだった。
が、今日はそうはいかない。
「もう帰る。合唱部は休み」
「へえ。なんで? 何か用事ですか?」
藤野、グイグイ来る。確かこいつ、仲のいい男の幼馴染がいるとかで、男子生徒に対しても基本ゼロ距離なんだよな。気恥ずかしいとか思わんのかね。いや別にいいんですけど。
俺は一度咳ばらいをし、答える。
「やる気なくて練習サボってたら、一週間部活禁止くらった」
「えっ、本当ですか? シバセン厳しすぎません?」
「ソプラノの中で誰が一番高くスーパーボール跳ねさせられるか競ってたらめっちゃ怒られた」
「悠太センパイ……」
藤野は眉を八の字にし、残念なものを見るときの顔をした。
「しっかり反省しなさい。もう中二でしょ」
「中一のお前に言われたくないんだが」
俺が言うと、藤野はケラケラ笑って去って行った。
ちぇっ。
そりゃ、真面目に練習してなかった俺も悪いよ。でも部活禁止はひどくね?
『悠太、そろそろ大人になれ。今はお前にとって、とても大事な時期なんだぞ。いつまでも逃げてはいられないんだ。いい機会だから、少し休んで、きちんと自分の声と向き合いなさい』
シバセンはそう言ったけど、正直意味わかんねー。
だいたい、最近どうもうまく声が出せないっていうか、前みたいに思った通りに歌えなくて、気合いが入らないんだよな。スランプってやつ?
来るなって言うなら行かんし。別にやめてもいいし。まあやめろとまでは言われてないけど。
あー、イライラする。
なんだか喉がかゆい気がして、俺はマフラーをたくし上げ、鼻まで覆った。
往生際悪く振り返ると、けぶる視界の奥、りんご山が今日もピカピカ光っている。
家に帰ってベッドにダイブ。イヤホンを耳に突っ込み、スマホで動画サイトを開く。
そうそう、合唱部がなくたって、歌う場はあるんだよ。
ネット上での俺の名前は、Uta。
動画サイトにボカロ曲の歌ってみた動画を上げている、いわゆる歌い手だ。
「次は何歌おうかな……」
きっかけは、大学でメディア学を専攻してる兄貴に頼まれたことだった。
動画編集の課題か何かで、兄貴はそこそこ聴けてなるべく安く使える歌声を探してた。
そこで白羽の矢が立ったのが、小学校のころから合唱をやってた、俺。
練習がてら軽い気持ちで歌声を提供したところ、ボーイソプラノが珍しいのか、学科でやけに話題になったらしい。調子に乗ってネットに上げたら、これも評判上々。で、味をしめた兄貴の手により、あれよあれよという間に、歌い手に仕立て上げられていたというわけだ。
だけど、これがまあ、悪くない。
兄貴がバイト代はたいて買ってきたゴツい機材たちに囲まれると、本当にスタジオで歌ってるような気分になるし、ミキシングとかなんとか、俺にはさっぱりわからんけど、自分の声がちゃんと編集されて、きれいな動画になるって、やっぱ感動する。
あと、ボカロ曲ってのがいいよな。
合唱曲って、心の翼がどうだとか愛の光がなんだとか、やたら壮大で謎に抽象的。シバセンは「歌詞を汲み取って!」とか言うけど、いや無理、汲み取れねー。心の翼広げたことねー。
その点、ボカロ曲は物語があってわかりやすいし、かっこいいのが多い。
ま、実際は、著作権がドーノコーノで、許諾なしで音源配布してくれるボカロPの曲が使いやすいっていう事情らしいけど。
なんにせよ、俺にはボカロ曲が合ってる。
俺はもともと声が高いから、女声のボカロの曲でも原キーで普通に歌えてしまう。顔出しこそしないものの、「声がイイ」「高音神」なんてコメントもらうと、そりゃ嬉しい。
必死こいて練習しなくても、そこそこ褒めてもらえる。それなりに再生回数はあるけど、アンチが湧くほどの知名度はない。今ほんと、ちょうどいいんだよな。
それと……。
「あ、marinaさんの新作上がってるじゃん!」
それと、最近気になってるのが、marinaさんっていう歌い手。
舌ったらずな甘い声、ツインテールの女の子のイラスト。アニメみたいな歌声が、ほんと、マジで、めちゃくちゃ可愛い。
俺は音量を上げ、目を閉じて、marinaさんの歌声をじっくり聴く。
この声の感じは、たぶん中学生くらいだろう。実は同い年だったりして。
しかも。
『晴れの国の民なのに、実はきびだんご食べたことない~』
数か月前、いつもは動画アップの告知くらいしかしないmarinaさんのSNSに、うっかりこんなつぶやきを見つけてしまったのだ。
『marinaさん岡山住みなんですか? 俺もです!』
たぎるテンションと勢いでメッセージを送ってしまい、アホほど後悔すること数時間、
『Utaさん、こんにちは。いつも動画拝見してます。ご近所さんですね~』
なんと、marinaさんから返信があり、そのあとも案外、話が弾んじゃったりして。
いやいや、限りなく広いネットの海の中で、偶然近くに住んでる、偶然同い年くらいの、偶然超タイプの声をした女の子とめぐり会うなんてこと、ある?
これはもう、恋ですよ。声と声が繋ぐ恋ですよ!
動画が終わり、俺はガバリと体を起こした。
「何が『大人になれ』だ」
シバセンの言うことなんか聞いてられるか。
そう、今は練習より恋だ! 部活禁止は、そういう啓示なのだ!
俺はたっぷりためらった後、送信ボタンを押す。
『よかったら、今度会えませんか?』
……返信なし。
その晩、夢を見た。
そこは、深い深い、海の底。
暗く渦巻く潮の中で、ときおりサンゴがあやしい燐光を放つ。
息苦しくはない。温かい波に身を任せていると、ゆりかごの中にいるようで、安心する。
ただ、無性に喉がかゆい。
すると、目の前に、海の魔女が現れた。
全身薄い鱗に覆われ、口からぷかぷかと緑の泡を浮かべながら、金の瞳でこっちを見ている。
「彼女に会いたいか?」
その声は不思議な残響をともなって、海底を低く揺らした。
「会わせてやろうか。代わりに大切なものを失うことになるが」
俺は夢中でうなずいた。
「いいんだな? もう戻れないぞ」
魔女は薄く笑い、俺の喉元に、冷たい指先を当てた。
とたんに、目の前で波がうねり、突き上げるように海面に昇っていく。
パチン、と、泡がはじける音がした。
で、朝。
慌てて布団の中を確認するけど、大丈夫だった。一安心して、スマホを手に取る。
わ! marinaさんからメッセージだ!
『二人で会うのは、ちょっと。でも、明日の日曜に、歌のイベントがあるから、そこで会えるかも。お互い顔は知らないけど、声を聞けばわかるよね。詳細はURL送るから、興味あれば』
よっしゃあ!!
俺はベッドの上でガッツポーズをした。
ありがとう、海の魔女。これからはモズクも残さず食べます。
俺は瀬戸内海に向かって合掌した後、鼻歌なんか歌おうとして、そこで、固まる。
「……?」
声が、出ない。
「んんっ、あー、あー……」
何度か咳をし、繰り返し唸ってみるけど、かすれて濁った音しか出ない。特に高音は絶望的だ。何より、発声しようとするだけで喉が痛む。
風邪でも引いたのかな。そう思いかけて、ふと思い当たる。
――代わりに大切なものを失うことになる。
夢の中の、魔女の言葉。
さあっと、血の気が引く。
まさか、あれ、本当だったのか……?
――いいんだな? もう戻れないぞ。
嘘だろ。よりによって、なんで。
慌てて喉に手を当てると、なんだか熱を帯びている気がした。
いやいや、そんなわけない。きっと気のせいだ。ちょっと調子が悪いだけ。
――そろそろ大人になれ。
ああもう、なんだって今、シバセンの言葉を思い出しちゃうんだよ。
体の底から、苦い後悔と焦りが押し寄せてくる。
――いつまでも逃げてはいられないんだ。
やだやだ、やだね。逃げるね、俺は。全力で。
それ以上考えたくなくて、俺はそこで思考をせき止め、丁寧にふたをした。
とにかく今大事なことは、どうやってごまかすかだ。
魔女の呪いで声が出なくなりました、なんて、誰にも言えるわけない。
というわけで、急にだんまりになり、家の中でもマスク姿を貫き通すことにした俺だけど、
「……ま、そういう時期もあるわよね」
「シシュンキって大変なー」
幸か不幸か、母さんも兄貴も、生温かい視線でへらへら笑うばかり。
くそ、くそ。
やさぐれた気持ちでスマホを見やり、そこで、ハッと気づく。
ちょっと待てよ。これ、かなりまずいんじゃないか?
俺とmarinaさんは、お互い、声しか知らない。
せっかくmarinaさんと会えるのに、こんな声じゃ、俺がUtaだってわかってもらえないじゃないか!
どうすればいいか思いつかないまま、翌日、日曜日。
まだ声は戻らない。かろうじて、しわがれた低い声が出るだけだ。
ベッドの上でのたうち回っているうちに、昼。
marinaさんの言っていたイベントは、午後一時からだ。
あああああ、もう!
『岡山駅前まで送って』
俺はメモ帳にそう書き、リビングでテレビを見ていた兄貴に差し出した。
兄貴は眉をひそめる。
「は? なんで。電車使えば?」
そう言われるだろうと思った。
俺はメモ帳に書き殴っては兄貴に見せる。
『津山線ナメるな』
『日曜十二時台発の電車は』
『驚異のゼロ』
『つまり送ってください』
兄貴は、なんだかよくわからないものを食べたらやっぱりなんだかよくわからない味だった、みたいな顔をして、
「……いいけど、代わりに説明しろよ。昨日からお前がなんでそんな面白い感じになってるのか」
揺れる車内でメモ帳に経緯を書き(夢うんぬんは内緒だ。俺にだって羞恥心というものがある)、信号待ちの間に兄貴に見せる。
そして二十分後、岡山駅西口のロータリー。
サイドブレーキを引きながら、兄貴が言うことには。
「悠太、いらんこと言わんから引き返せ。しかるのちにmarinaさんはブロックしろ。お兄ちゃんは弟が会ったこともない他人にフラれるのなんか見たくない。一生ネタにしてしまうだろう」
ええい、うるさい。こうなったら玉砕して泡になる覚悟だ。
俺はマフラーを巻き、車を降りた。
兄貴は助手席の窓を開けると、こっちに身を乗り出して言う。
「ついでだし大学に顔出すわ。五時ごろ迎えに来るから、せいぜい頑張れよ」
俺は黙ってうなずいた。
駅のコンコースを抜けて、階段を早足で下る。
イベントが行われるのは、駅前の大型のショッピングモールだ。さすがは年末の日曜、ずいぶん賑わっている。買い物客の間を縫って進むと、人いきれとともに、たくさんの声が、さざ波のように耳をかすめていった。
「次は本屋に行こう」「この店見ていい?」「急がないと映画始まっちゃうよ」「やあ、木樵さん! 待たせましたか」「私も今着いたところです」「一階に新しいカフェができて」「足疲れた。もう帰ろうよ」「桃さま。クリスマス限定、ホワイトチョコきびだんごをゲットしました」「殊勝である! 来週の茶会が楽しみだ」「やっぱりさっきのセーター買っとくべきだったかなあ……」
高い声、低い声、よく通る声、くぐもった声。世界は声にあふれている。声の出し方なんて、考えなくてもわかるものだと思ってたのにな。小さいころ海で溺れたときみたいに、鼻の奥がツンと痛む。
そのとき、広場の方からマイクのハウリング音が聞こえた。
「みなさーん、こんにちは!」
吹き抜けになった広場に出ると、中央に舞台が作られていた。
舞台の前のパイプ椅子の列は、もう結構埋まってる。俺は急いで端っこの席に腰を下ろした。
ステージの上では、サンタ服に身を包んだお姉さんが、マイクを手に、にっこり営業スマイルを浮かべていた。
「トリトン・クリスマス・ライブにようこそ! えー、このイベントはですね。私たちの所属するトリトンが毎年行っている……」
お姉さんの声を聞きつつ、俺は席に置いてあったチラシをお尻の下から引っ張り出す。
ふむふむ。どうやら、声優事務所主催のライブイベントみたいだ。
え? っていうか、marinaさんって、もう事務所に入ってるってこと? プロじゃん。
しかし、プログラムを見ても、marinaという名前は見当たらない。芸名は違うのかな。
とにもかくにも、声を聞かないことには。
俺は背筋を伸ばし、新人と思しき若い声優さんたちのクリスマスソングを聴き続ける。
だけど……、聴けども聴けども、marinaさんらしき人は現れない。
特徴的な声だし、何より中学生くらいの年なら、すぐにわかるはずだけど。
「えー、では、そういうことで、本日は本当にありがとうございました!」
困惑しているうちに、イベントは締めに入る。
「皆さんメリークリスマス! じゃあねー!」
拍手の音が場を包んだ。
えっ、本当に終わり?
まさか、からかわれたのかな。声を失った代償がこれじゃ、浮かばれんぞ。
観客がいなくなっても、なんとなく諦めきれず、ズルズル居残ってしまう。
早いところ撤収作業に移りたそうなスタッフの圧に耐えきれず、さすがに立ち上がるけど、だからって行く当てがあるわけでもなく……。
未練がましく、舞台の裏に回り込んでみた、そのとき。
「ええ、ええ。そうですね。ちょっと確認取ってみます」
聞き覚えのある声がして、ドクンと胸が跳ねた。
「はーい、お疲れ様です」
この甘ったるいアニメ声。間違いなくmarinaさんだ!
俺は一度深呼吸をして、小柄な後ろ姿に、声をかける。
「……marinaさん?」
永遠みたいな間の後。
振り返ったのは、
「はい?」
確かにmarinaさんの声をした、二十代後半くらいの女性だった。
……えっ、大人?
戸惑う俺の前で、その人は顔をぱあっと明るくした。
「あ、もしかして、Utaくん?」
「ち、違います!」
思わず嘘をついた俺は……他ならぬ自分の口から出た声に、ハッとする。
Utaじゃない。Utaなもんか。こんなかすれた、醜い声。
何か言わなきゃいけないけど、何も言えない。喉がひりついている。
marinaさんは困ったような顔で、
「ええっと。うちの事務所に興味持ってくれたのかな。少し話しますか?」
ステージの縁に並んで腰かけ、渡された名刺を見やる。
エンタテインメントエージェンシー・トリトン
総務部人事課 王子真里奈
「え、事務方なの……なんですか? 声優とか歌手じゃなくて?」
意外すぎて、かすれ声のまま尋ねる。
「よく言われる。こんな声だもんね」
marinaさん、もとい、真里奈さんは、いつもの鼻にかかった高い声で言った。
「昔は目指してたんだけど。私には才能なかったみたい」
小さなころからアニメが大好きで、アニソン歌手になりたかった。
高卒で養成所に入って、事務所にも所属して、毎日必死に練習して。
でも、もらえた仕事といえば、地方CMのテーマソングがいいところ。
「聞いたことない? しんせ~つ、ていね~い、ナギサ不動産~♪」
「いや、ちょっと。わかんないっす」
「だよねえ。あの会社、すぐ潰れちゃったし」
真里奈さんは苦笑した。
「ま、そういうわけで、あるときケリをつけて、サポート役に転向したの。今でも歌の配信はしてるけど、あくまで趣味。歌を仕事にするのは諦めたんだ」
そんな、そんなの。
こんなに可愛い声なのに。歌だって、ものすごくうまいのに。
「悔しくないんですか?」
「んー、まあね」
真里奈さんはあっさり認めた。
そして子どもみたいに足を投げ出し、宙を仰ぐ。
「でも、本気で頑張って頑張って頑張って、それでもダメだったんだから、仕方ない」
挫折を語ってるはずなのに、真里奈さんの顔は澄んだ空みたいに明るくて。
俺もつられて、上を向いた。
「すごいな」
声にならない声でつぶやく。
本気で頑張って頑張って頑張ったことなんて、俺、ないかも。
むしろ、ずっと逃げてきたから。真剣とか必死とか、結果とか責任とか。
あくまで真似ごとなんでって、自分に言い訳しながら、素人配信で生ぬるい賛辞に浸ってるの、気持ちいいもんな。
でも、この温かい海を出ないと、見られない空もあるんだろうな。
猛る波になぶられて、鱗がはがれる痛みに耐えて、一歩ごとに苦い現実を認めて。そうやっていつか、二足歩行で陸に上がっていくことを、大人になるって、言うのかもしれん。
ああ、でも、やだなあ。
陸の重力を思うと、やっぱ怖いよ。いつかは覚悟を決めないといけないとしてもさ。
大人になりたい。なりたくない。引き波と寄せ波の間でゆらゆらしながら、俺は、
本当はわかってるんだ、俺は、もう、
「私さ」
そのとき、声。
視線を下げると、真里奈さんがこっちを真っ直ぐ見ていた。
「好きなんだよね、歌」
大きな瞳に、吸い込まれそうになる。
「Utaもでしょ?」
「え?」
一瞬、思考停止する。
真里奈さんはいたずらっぽく笑い、ステージから降りた。
「うち、高校生以上じゃないと雇えないの。ごめんね。あと、ネットの知り合いに簡単に会おうとか言っちゃダメだよ」
「あ、え……」
俺がUtaだって、とっくにバレてたんだ。
うわ、嘘だろ。恥ずかしすぎる。
俺はただ慌てて、ざばざば目を泳がせながら、赤くなるやら青くなるやら。
真里奈さんは去り際、一度振り返って、
「Uta、声変わりしたんだね」
そう言った。
水面を撫でる日の光みたいな笑顔で。
「その声も大事にしてね」
俺の馬鹿。今の今まで気づかなかったなんて。
いや、本当はずっと気づいてた。でも、気づかないふりをしてた。
声変わりだよ。
魔女の呪いなんかじゃ、なかったんだ。
約束の五時。東口の電気屋の前で、兄貴に拾ってもらう。
「兄貴、カラオケ付き合って」
車に乗り込むや、俺はかすれ声で言った。
「ダメ」
兄貴は左にハンドルを切り、
「声変わり中に大声出すと喉潰れるぞ」
くそ、気づいてやがった。
兄貴は何がおかしいのか、くすくす笑いながら、
「あーあ。もうお前のボーイソプラノで再生回数稼げなくなるな」
なんて言う。
俺は助手席のシートに深く体を沈めた。
本当に、いつまでも逃げてはいられないんだな。悔しいけど。
「兄貴」
「んー?」
「俺、声が低くなっても歌うよ。合唱も続ける」
街は夕闇に沈み、大通りをあざやかなイルミネーションが彩る。
「そっか、頑張れよ」
窓の外を流れる光が、ちかちか瞬いては消えて。
波に揺れる泡みたいだった。
「いい加減、自分の持ち物は自分で管理しろ! そんなんじゃ、いつまでたっても立派な大人になれないぞ!」
そんなこと言われても。
こっちだって、わざと忘れ物してるわけじゃないんだもん!
今日の授業で先生に言われたことに反発しながら歩く帰り道。
――あんた、中学校に上がったんだからちゃんとしないと。
お母さんにも春休み注意されて、私なりに気をつけて過ごしているつもりだけど、結局、忘れ物や落とし物してばかりだった。
提出物も忘れてばっかり。せっかくやっても家に忘れてきちゃうから、無駄に成績が下がる。
ムカムカしながら私は家に帰り、部屋でカバンを開けた。
明日は数学の小テスト。勉強しなくちゃ。
カバンを開いた私は絶望する。
ない!
数学の教科書もノートもない!
学校に取りに行かなきゃ。
「金芽!」
リビングから私を呼ぶ声がした。
「なに? お母さん?」
ブレザーの袖に腕を通しながら、部屋を出る。
「あんた、これ持ってってないでしょ!」
お母さんが私にA4用紙を突きつけた。三者面談の希望日程調査だ。
そういえば、今日持っていけって言われてた!
「ごめん! 明日持って……あ、今から学校行くから先生に渡してくる!」
あーあ。
どうして私ってこんなにポンコツなんだろう。
自分ではしっかり持ち物をいつも確認してるつもりなんだけど。どうしてもスルッと頭から抜けちゃうんだ。
学校に向かうバスの中、窓の外を見ながら悶々と考える。
落ち込んでても仕方ない。
カバンにつけたキーホルダーを握り締める。
大好きな歌い手さんmarinaのキーホルダー。アイコンであるツインテールの女の子が、真っ白なきびだんごを両手で抱えている。地元岡山への愛を込めたデザインとのことだ。去年、発売初日に買ってから、毎日ずっと一緒。
辛いときも、落ち込んだときも、このキーホルダーはいつも私の味方。
落とし物してばっかりの私だけど、これだけは落とさないようにしっかりカバンにくくりつけている。
さっさと忘れ物を取ってきて、家に帰ったら勉強するぞ。
スマートフォンを取り出し、marinaの最新曲を再生。両耳にイヤホンを差し込むと、のびやかな歌声が体の中に流れ込んできた。
「すみません、一年一組の木樵金芽です。教室に忘れ物してしまって、鍵を貸してくださいませんか?」
すぐ近くにいた英語の先生が、私を見て舌打ちした。
「なんだ、また君か。どうぞ」
失礼します、と会釈し、急いで鍵を取り職員室を出る。ピリピリした空気感に耐えられなかった。
最近学校でネズミが大量発生して、先生たちは対応に追われている。だからイライラしているのは無理もない……ないけどさ! 八つ当たりされるのはやっぱりやだ。
まあ、私が忘れ物や落とし物ばっかりしてるのが悪いんだけど。
鍵を開けて教室に入り自分の机を見ると、案の定教科書は机の中に入れっぱなしだった。
でもノートがない。どこかで落としたかな。もしかしたら、誰かが拾ってくれてるかも。
そう思った私は、生徒会室の隣の第二美術室へ向かった。
私が入学した頃は、落とし物は一階の職員室前に置いてあって、持ち主が勝手に取っていくシステムだったけど、二学期に入った頃から、落とし物は生徒会の人が管理する決まりになった。
「あのー」
第二美術室――今は《落とし物室》と呼ばれるようになったその部屋のドアを引き、私は中の人に向かって声をかけた。
「こんにちは」
奥の席に座っている男の子が、私にあいさつする。落ち着き払った声を聞いて一瞬先生かと思ったけど、着ているのは確かにうちの学校のブレザーだった。ネクタイが緑色だから二年生だ。姿勢が良いからか、座っていても身長がとても高く見える。
「数学のノートを落としてしまって……」
生まれてから一度も落とし物したことありません、みたいな顔をしている男の子に向かって、私は自分の失態を告白した。
「そうなんですね。お待ちください」
男の子は、そんな私をバカにする様子はなく、柔らかい微笑みを讃えて手元の棚をガサゴソと漁る。
生徒会が管理するようになるまで、落とし物は廊下に置かれたカゴに誰からも見えるような形で置いてあった。今はそのときとは違って、私の方からは何が届けられているのか見えないようになっている。たぶん、誰かが「それ私の!」なんて嘘をつくのを防止するためだ。
やがて、男の子が棚から二冊のノートを取り出した。
「あなたが落としたのは、こちらの金のノートですか? それとも、こちらの銀のノートですか?」
左右の手でノートを一冊ずつ掲げながら、男の子が私に向かって問いかけた。
「えっと」
金と銀の表紙が、窓から差し込む夕日を受けてキラキラ光っている。すごくきれいだ。どっちか一冊だけでもほんとに私のだったらよかったけど、残念ながらどちらも見覚えがなかった。
「表紙だけではわかりませんよね。一度中身を見てみてください」
そういう問題じゃないんだけど、という私の戸惑いにお構いなく、男の子が金のノートを私に差し出した。
言われるがまま、ノートを開いてみる。表紙の裏に、教科書みたいなきれいな文字で短い説明文が書いてあった。
【このノートを手に入れた中学一年生のあなた! あなたは非常に幸運です! この中には、単元のポイントが最大限わかりやすくまとまっています! このノートをしっかり読み込めば、あなたも間違いなく成績優秀になれるでしょう!】
なんだ、これ。インターネットで見かけるあやしいサプリの広告みたいだ。きっと、持ち主の将来の夢は悪徳商法で大金持ちになることに違いない。
なんてことを考えながら、何気なくページをパラパラとめくってみる。
めくってみて、びっくりした。
そこに書かれていたのは、私たち一年生がちょうど習っている範囲のまとめ。私が授業で全然理解できなかったポイントが、基礎から応用までびっしりまとまっていた。それも、信じられないくらいわかりやすく。適当に開いたページに軽く目を通すだけでも、さらっと内容が頭に入ってくる。
「ちなみに、こちらの銀のノートはどうですか? 両方とも、持ち主がしばらく見つかっていなくて」
男の子が、今度は私に銀のノートを差し出す。私は一度金のノートを閉じて、今度は銀のノートも開いてみた。そこには、計算問題がたくさん。
うへえ、と思いながら、表紙の裏を見てみる。金のノートと同じきれいな文字で文章が書いてあった。
【このノートには、テストで満点を取るために必要な練習問題が網羅されています! なるべく挫折せずに学習できるよう、簡単な問題から少しずつステップアップする構成で作成しました! 一冊解き終える頃には、単元の全ての問題をマスターできていることでしょう!】
こっちもやっぱり、うさんくさい。そう思いつつ、一ページ目を見てみた。
見ただけでも解けそうな、すっごく簡単な穴埋め問題。それから少しずつページをめくっていくと、だんだん教科書の章末問題みたいに難しい問題が増えていく。
単元ごとの問題数はそこまで多くなくて、明日の小テストの範囲なら一時間くらいでサクッと終わりそうな分量だった。
もしも金のノートと銀のノートで勉強したら、一気に成績上がるかも。
「もしかして、両方あなたのでしたか?」
男の子の質問で我に帰る。
「いえ、私が落としたのは、もっとボロボロなグレーの表紙のノートです」
この二冊がほんとに私のだったら、どんなにいいことか!
「ほう、こちらですか?」
男の子がもう一度棚を漁り、一冊のノートを取り出した。グレーの表紙に、黒ペンで大きく「数学!」と書かれている。
私のだ! よかった!
「はい、それです! ありがとうございます!」
金銀のノートとお別れしなきゃいけないのは残念だったけど、自分のノートが戻ってきてほっとした。
「あなたは正直者ですね」
男の子がニコッと笑う。私とひとつかふたつしか年が違わないはずなのに、ずいぶんと大人の余裕を感じる表情だった。
実は、と言って、男の子が言葉を続ける。
「この二冊のノートは、僕が作ったものなんです。ですから、あなたが自分のだと言えば、すぐに嘘だとわかりました」
「そ、そうなんですね!」
男の子の爽やかな笑顔を見ながら、この人なら将来悪徳商法に手を出してもうまくいきそうだなー、なんてことを考える。もちろん口にはしない。
「正直者のあなたには、この金のノートと銀のノートを差し上げましょう」
男の子が、きれいな二冊なノートを手の中で重ね、私に差し出す。
「え、い、いいんですか?」
裏表紙の怪しげな説明書きはともかく、中身はしっかり作り込まれているように見えた。そんなにすんなり人にあげていいものなのかな。
「実は、こういうノートは何冊も作っていて、さっきの質問で嘘をつかなかった人にはときどき差し上げているんです。この二冊はぜひあなたに受け取ってほしい」
「そうですか、ありがとうございます」
よくわからないけど、明日の小テストまでの時間を考えると、このノートが手に入ったらすごく助かりそうだ。お言葉に甘えて受け取ることにした。
《落とし物室》を後にした私は、校舎を出て、ちょうど到着したバスに乗った。
さあ帰ったら急いで勉強しなきゃ。そろそろ三者面談もあるし、これ以上成績を落としてらんない。
……ん?
三者面談?
プリントをカバンに入れっぱなしだということに気がついた。
バスは、容赦なく私を岡山駅まで運んでいく。
お母さんに怒鳴られた後、部屋に戻った私は数学の小テスト対策を始める。
夏休みが明けた頃から、数学が少しずつ難しくなってきた。このままだとまた追試になってしまう。それはごめんだ。焦れば焦るほど余計に勉強には集中できなくて、最近はほんとに調子が悪かった。
でも、今日は違う。
早速、カバンから金のノートと銀のノートを取り出した。この二冊を使って勉強すれば、明日のテストも怖くない気がする。
帰り道に岡山駅前のコンビニで買ったチョコレートをつまんで気合を入れ、まずは金のノートを読み込む。
普段の自分からは考えられないほどサクサク、内容が頭に入ってきた。
「そろそろ授業だぞ、席につけ」
小テスト翌日の二時間目。数学の磯斧先生が、教室に入りながらクラスに指示を出した。チャイムがまだ鳴っていないだけあって、みんななかなか席に着こうとしない。
磯斧先生は、キリッとした目、ちょっとぶっきらぼうな言葉遣いで女子に大人気。私は、いつも怒られてばかりだから正直ちょっと苦手だけど。
ふと教卓に目を向けると、先生が両手で大きな茶封筒を持っているのが見えた。胸がざわつき始める。間違いない、昨日の小テストだ。もう返ってくるんだな……。
「あの、磯斧先生!」
ガヤガヤした教室の中、教卓に進み出た女子生徒がひとり。一学期中間・期末と連続で学年一位の優等生、法螺内さんだ。お母さんが大学の先生、お父さんも結構大きな会社に勤めていて、家がとてもお金持ちだと聞いたことがある。
「来週提出の宿題、もうやっちゃったので出してもいいですか?」
得意げにワークを差し出す法螺内さん。磯斧先生は、そんな法螺内さんの顔には一瞬も目を向けず、草むしりみたいな動作で課題を受け取った。
そのうちチャイムが鳴り、授業が始まった。
「まずは小テストを返却する。呼ばれたら前に出てくるように」
胸のざわざわが大きくなる。また追試だったらどうしよう。一応金のノートと銀のノートを使って復習したけど、ちゃんと集中して勉強できたのはテスト前日だけだし。
「次、木樵。早く」
磯斧先生に名前を呼ばれた私は、慌てて席を立った。
採点されたテスト用紙を恐る恐る受け取る。私の点数は――
なんと、九十六点!
あんなに苦手だった数学で、信じられない得点だ。追試を心配していたのが嘘みたい!
「木樵、やればできるじゃん」
磯斧先生が、短い言葉で褒めてくれた。気のせいじゃなければ、ほんの少しだけ口元に笑みを浮かべていた。
あれ、私、磯斧先生に笑顔を向けられちゃった? こんなに近い距離で! ファンの人たちにバレたら大変! うふふ。
「金芽、すごいね!」
クラスメートのみんなも、私を褒めてくれる。
「うん、ありがとう!」
「テスト前にたくさん勉強したの?」
「塾とか入った?」
「えっと……」
浮かれていた私は、友達の質問にどきっとする。前回赤点の人がいきなり九十点越え。何も知らない友達からすれば、当然の疑問だ。
「うん、まあ、がんばったよ」
私はお茶を濁して、自分の席に戻る。
なんとなく、金のノートと銀のノートのことは、言いたくなかった。
次の週、私はまたノートを落としてしまった。しかも、またまた小テスト前。
再び、私は《落とし物室》を訪れる。
「すみません、社会のノートを落としてしまって」
前と同じ男の子が担当だった。
「あなたが落としたのは、こちらの金のノートでしょうか? それとも、こちらの銀のノートでしょうか?」
落とし物をしたのは決してわざとじゃなかったけど、《落とし物室》に向かう前から、正直ちょっと期待しちゃっていた。
「いいえ、私が落としたのは……」
金のノートと銀のノートを手に入れる方法を、私はもう知っている。
「あなたは正直者ですね」
男の子は、私に二冊のノートをくれた。
「ところで、あなたの名前は?」
男の子が聞いてきた。
「木樵金芽といいます」
その包み込むような笑みに警戒心を解かれた私は、ためらわずに名前を答えた。
「木樵さんですね。僕は和泉神音。よろしく。月・水・金の昼休みと放課後は、僕が《落とし物室》の担当です。よかったら、また来てください」
「あ、はい、よろしくお願いします」
和泉さんに頭を下げて、私はドアを開け廊下へ出る。《落とし物室》にまた来てくださいなんて、よくよく考えたら失礼なのではと後から思ったけど、不思議と嫌な気分にはならなかった。
それから、ノートを落とすたびに、私の金のノートと銀のノートは増えていった。誓って、わざと落としているんじゃあないんだけどね。
それはともかく、金のノートと銀のノートが増えるたび、私の成績は上がっていった。相変わらず提出物は忘れちゃうけど、テストで点数が取れるようになってから、先生たちもあんまり私を怒鳴らなくなった。
そして、和泉さんから初めてノートをもらって一ヶ月と少しくらい過ぎた頃のこと。二学期の中間テストで、私は初めて学年一位を取った!
「お母さん、見て! 中間テストの結果」
順位が発表された日、家に帰るなり「一位」と書かれた紙(帰りのバスに乗る直前、カバンの中にないことに気づいて教室に取りに戻った)をお母さんに見せた。
「すごいじゃない!」
普段ガミガミ言ってばかりのお母さんまで、このときばかりは褒めてくれた。
何か得意なことがひとつできるだけで、周りの人がこんなにも優しくなるんだ。
勉強も運動もそんなにできなくて、ドジでうっかりで怒られてばかりの私の生活が、金のノートと銀のノートのおかげでみるみるうちに明るくなる。
部屋に戻った私は、カバンを机の上に置いて、marinaのキーホルダーと向かい合った。marinaが両手で抱えたフェルトのきびだんごを、指でつまんでみる。ふわふわした感触が気持ちいい。
「私、少しは立派な大人に近づけたのかも」
ほのぼの日常系アニメの主人公みたいな優しい声で、よかったね金芽、なんて言葉が聞こえた気がした。
「木樵さん」
ある日の休み時間、私が自分の席で数学の課題をしていると、右耳から私の名前が飛び込んできた。
「法螺内さん? どうしたの?」
腕を組んで、隙のない表情でこちらを見ている法螺内さん。その声には、普段教室で友達と話しているときの法螺内さんより、いくぶんか棘がある気がした。
法螺内さんの方に体を向けながら、机の中から覗く金色のノートを視界の隅で捉え、慌ててそれを奥に突っ込む。
法螺内さんは私と別の小学校出身だし、仲良しのグループも全然違うから、あんまり話したことがない。私に何の用事だろう。
「おめでとう。すごいじゃない。学年一位」
ああ、そういうことか。
法螺内さんは、この前のテストで学年二位。それも初めてのことで、私が一位を取るまでは法螺内さんがずっとトップだった。
「急に成績上がったからびっくりしたよ。何か塾とか通い始めたの?」
「い、いや、たまたまだよ。法螺内さんこそすごいね。私、この前偶然一位だっただけだからさ。法螺内さんはずっと上位で。二位も十分すごいと思うよ」
法螺内さんの顔が一瞬歪む。それを見て私は、しまった、と思った。最後の一言は明らかに相手を怒らせるものだったと、口にしてから気づいた。
「……なやつにいそふせんせ……渡すもん……」
「え?」
法螺内さんが早口でぼそぼそと何か呟いたけど、よく聞こえなかった。
「ひとりごと! あんたには関係ない!」
ピシャリと言い放つ法螺内さん。思わず私は口をつぐんだ。
「とにかく、十二月の期末テストは負けないから。じゃあ」
法螺内さんが去って、私はまた勉強に戻ろうとする。でも、胸の中がざわついて全然集中できなかった。
――たまたまだよ。
さっきの自分の言葉が頭の中で鳴り響く。
言えなかった。和泉さんがくれた金のノートと銀のノートのこと。
言ってしまったら、私が全然すごくないことがみんなに知られてしまう。
もしかしたら、他の人も金のノートと銀のノートを《落とし物室》にもらいに行くかも。そうしたら、もう私は一位ではいられなくなる。
テストの点数も大してよくない、ただのドジっ子に逆戻りだ。お母さんや先生達にガミガミ言われる日々が戻ってくる。
誰も私を見ていないことを確かめてから、金のノートを机の中から取り出し、さっとカバンにしまった。金色の表紙が、教室の照明を反射してキラリと輝く。光が私の瞳に当たった途端、和泉さんの言葉が頭の中で再生された。
――あなたは正直者ですね。
和泉さんの温かい紅茶みたいな声が、今は泥水となって、体の中を流れている。
私は、和泉さんの気持ちを汚してしまったのかもしれない。
次の日の放課後、私は《落とし物室》へ向かった。今日は和泉さんが当番のはず。
部屋の中から何やら話し声がする。ドアが開けっぱなしだったから、部屋の外まではっきり聞こえてきた。廊下の柱に隠れて聞き耳を立てる。
「あ、はい、私が落としたのは、その金のノートです!」
法螺内さんの声だ。
「あなたは嘘つきですね。これは僕が作ったノートです。あなたのノートはこちらでしょう。さあ、持って帰りなさい」
嘘をついたから没収なんていう絵本の中の女神様のようなことはさすがにしないか、なんてことを思いながら、私は室内のやり取りを聞いていた。
「ケチ!」
安全ピンみたいな鋭い声が聞こえた後、落ち着きのない足音が近づいてきた。
私は法螺内さんに気づかれないか不安になる。もしバレたら、たまたま通りがかったふりをしてやり過ごそう。
ばたんっとドアが勢い良く閉められる音がした。幸い、法螺内さんは私が隠れている柱とは反対方向にスタスタ歩いていった。
法螺内さんの姿が見えなくなってから、私は《落とし物室》の扉を開ける。
「やあ、木樵さん。また何かを落としたのですか?」
今日も和泉さんは朗らかな笑顔で聞いてきた。
「いえ、今日は違うんです」
「おや?」
首をかしげる和泉さんに、私は持ってきた紙袋を差し出す。中に入っているのは、今までもらった大量のノート。
「どうしました?」
「今まで、ありがとうございました。これ、全部返します。もうこれからは、私が落とし物しても金のノートと銀のノートをくれなくて大丈夫です」
「いきなりどうしたんですか?」
初めて見る、和泉さんの戸惑った顔。
「私、自分の力で頑張りたくなって」
「……そうですか」
和泉さんは、下を向いて黙っている。
沈黙が気まずくなって、私が何か声を発しようとすると、
「ほんとうに、それでいいんですね?」
和泉さんが私に問いかけてきた。目から温かみが消えている。
少し声を震わせながらも、私は言葉を返した。
「はい、頑張ってみます」
「僕は知っていますよ」
私の答えが終わるか終わらないかのうちに、和泉さんが言葉をかぶせる。
氷のような冷たい目。普段の和泉さんはそこにはいなかった。
「あなたの能力からして、金のノートがなければ何もできません」
いきなり平手打ちをされたような感覚。
衝撃に思考が固まる。
数秒遅れて、何か熱湯のようなものが喉元に込み上げてきた。
「……何、それ?」
込み上げてきたのは、怒り。
「私のことそんな風に思ってたの?」
先輩に対する敬語も忘れて、生の感情が口から飛び出す。
「ええ。僕は自分の勘には自信があります。言わない方が良かったですか?」
冷静に、私の心に刃を突き立てる和泉さん。
「その様子を見たところ、木樵さん自身もよくわかっているようですね。ノートがなければ自分は無力だと」
「違う!」
間髪入れずに否定する。けど、勢いよく飛び出した言葉は、バレー初心者の力んだサーブみたいに、すこーん、とあらぬ方向へ抜けていった。
「違わないでしょう」
和泉さんは、ちっとも動じずに私を攻撃してくる。
「あなたは、頭は良いかもしれないけど、人として最低」
自分が何を言いたいのか深く考えないまま、とにかく言葉を返した。今は、目の前の人がムカつく、この人に何か言い返したいという気持ちだけがあった。
和泉さんは、何も言わずに目を細める。
「あなたのバカみたいなノート、一生いらないから!」
私は和泉さんに背中を向け、勢い良くドアを開けて廊下へ飛び出した。
その日の帰り道、バスを降りてもなかなかイライラが収まらなくて、両手をグーにしながら早足で歩いていた。
気持ちを落ち着けようと、カバンについているmarinaのキーホルダーに手を伸ばす。
そこに、キーホルダーはなかった。
しまった、落としちゃったか。
でも、カバンにしっかりくくりつけているキーホルダーを落とすなんて、いくら私でも、そんなことある?
変だと思いながらも、私はとりあえず、次の日《落とし物室》へ行ってみることにした。
翌日のお昼休み。
その日は、和泉さんではない別の男子生徒が担当だった。
「あの、キーホルダーを落としてしまったのですが」
「どんなものですか?」
留守電の音声案内みたいな、事務的な口調の人だった。
「きびだんごを持っている女の子のキーホルダーなんですけど」
なんとなく、この人は歌い手さんとか詳しくなさそうだと思って、名前を出さずに説明してみた。
棚の中を少し漁ってから、係の人が言う。
「ここには届いていませんね。もう一度お家など探してみたらどうですか?」
「わかりました」
私はそそくさと出口に向かった。
教室に戻った私は、念のためもう一度自分のロッカーを見てみる。
ない。どうしよう。
大切にしているmarinaのキーホルダー、失くしちゃったかも。教科書やノートと違って小さいから、誰かに拾ってもらえないままほんとにどっかいっちゃいそう。
それにしても、カバンにくくりつけてたものを、どうやって落としたんだろう。
「もう、どこ行っちゃったのかなー」
思わず不安を口に出しながらあたりを探していると、
「木樵さん、どうしたの?」
声がして、私は後ろを振り向いた。
「法螺内さん」
「何か探し物?」
表情から気持ちを読み取ることはできなかったけど、なんとなく、心配して聞いてくれている様子には見えなかった。
「えっと、キーホルダーを落としちゃって」
「へー、どんなの?」
「歌い手さんのmarinaって知ってる? その子がきびだんご持ってるやつなんだけど」
「あーもしかして、これのこと?」
法螺内さんがブレザーのポケットに右手を入れる。すぐにでてきたその手には、ツインテールの女の子が握り締められていた。
「あ、それ! 拾ってくれたの? ありがとう!」
無我夢中で手を伸ばしたけど、
「だーめ」
法螺内さんは私にそれを渡すことなく、背中に隠した。
「それ私のだよ、返して」
「どうしよっかなー」
いじわるな目で私を見つめる法螺内さん。
「そんなに怒ることないでしょ。こんなだっさいキーホルダーごときで」
「なんだって?」
「そんなに大事ならね、目を離さない方がいいよ。いじわるな人がカバンから外して盗んじゃうかもしれないでしょ。あ、例えばの話ね」
法螺内さんの心底楽しそうな顔を見て、私は全てを理解した。
「ねえ、どうしてこんなことするの? 私、法螺内さんに何かした? もしそうなら謝らせて」
「いい子ぶらないで」
何が言いたいのかわからずに戸惑う私を睨みつけ、法螺内さんが続ける。
「だって、あなた、卑怯者なんだから」
「卑怯者?」
「《落とし物室》で金のノートもらって、それで勉強してるんでしょ」
バレてたか。あのとき机の中から覗いていた金の表紙から勘付かれたのかも。
「何もしてなくないじゃない。嘘つき」
自分だってもらおうとしてたくせに、という反論は、心の中で留めておいた。
「あなたのテストの点数が上がったのは、金のノートのおかげなんでしょ? 自分の力じゃないよね」
「もう使ってないから。次のテストからは自分の力だよ」
やっとのことで、私はそれだけ言い返す。
そんなことより、
「返してよ、私のキーホルダー」
私の関心は、法螺内さんの背中の方にあった。
「ふーん、そんなに大事なんだ」
法螺内さんは右手を前に戻し、キーホルダーをくるくる振り回して弄び始めた。今すぐぶん殴ってやりたい気持ちを、ぐっと堪える。
「期末テストで私に勝ったら、返してあげる。言っとくけど私、医学部生の家庭教師をつけ始めたの。絶対負けないから」
私に一瞥をくれてから、法螺内さんが教室を出る。
私はむかっ腹を立てるのと同時に、絶望的な気持ちになった。
法螺内さんはもともと私なんかよりもずっと勉強できるし、それに家庭教師がついたなんて。私が勝てるわけがない。いったいどうすれば。
ふと、先生のデスクに目を向けた。教室施錠用の南京錠がポツンと置かれている。錆びついた金色を見て、私は不本意な解決策を思いついた。
ここはひとつ、和泉さんにお願いして、またノートをもらうしかないか。
私は、自分のノートを全部、校庭に落とした。わざと。
翌日の昼休み、私は《落とし物室》へと向かった。
和泉さんが、いた。
「あの、ノートを落としてしまったのですが」
いつもなら、ここで私に身に覚えのない二冊のノートを見せてくれるところだ。
ところが、
「あなたが落としたのはこの五冊ですね」
和泉さんが手際よく取り出したのは、昨日私が落としたノートたち。
「名前を書いておいて良かったですね」
それは、落とし物係としてごくごく自然な振る舞いだった。
「あ、えっと」
「今回は金のノートも銀のノートも用意していませんよ」
思い切って正直にお願いしようとした私に先んじる和泉さん。
「だって、自分でできるんでしょう?」
何も言い返せなかった。
前に私に言われたことに怒っているとか、そういう別の感情もあっての態度な気もしたけど、とにかく、和泉さんの言うことにはぐうの音も出なかった。
「そうですね……。私、自分でそう言ったんですもんね」
それだけ言って私は、和泉さんの言葉を待たずに、《落とし物室》を出た。
期末テストの五日前。
既に試験範囲を終えた数学の授業は、先に進むのではなく自習の時間になった。
自習だって言われてるのにおしゃべりに興じては先生に注意されるクラスメートもたくさん。普段なら私もついつい友達と喋っちゃうこともあったけど、今回はそんなことをしている暇はなかった。
なんとしてもキーホルダーを取り返さなくちゃ。そう思って机に向かうけれど、なかなか勉強がうまく進まない。
休み時間になり、のどが渇いた私は冷水機に向かう。教室を出る直前、
「オッケー、任せて」
今一番聞きたくない声が、左耳から侵入してきた。
「難しそうに見える問題でもね、まず『何がxか』を考えるんだよ」
得意げに数学の応用問題を解説をする法螺内さん。窓際の席だから、廊下に出てからもしばらく声が聞こえた。
私がつまづいている間に、法螺内さんはもう人に教える段階にまでたどり着いている。
その声をこれ以上が耳に入らないように、私は早足で冷水機へと向かった。
ペダルを押し、水を飲む。
蛇口からは勢い良く、私の目からはポタポタと、それぞれ水が溢れ出た。
その日の放課後、私は教室に残って勉強していた。
法螺内さんに勝てる見込みなんて全然なかったけど、最後まで頑張らなきゃいけない、とは思っていたから。
それでもやっぱり、数学の応用問題も、社会や理科の細かい単語も頭に入らない。赤点とかはないだろうけど、法螺内さんに勝つなんてできっこなさそう。
放課後しばらく経つと、節電のため暖房が切られる。寒さでますます手が動かなくなり、私はどんどん惨めな気持ちになった。
そのうち、下校のチャイムが鳴った。
家に帰るため、ロッカーからカバンを取る。
すとん、と何かが私の足元に落ちた。
カバンの上に置かれていたらしいそれを、拾ってみた。
見覚えのないノート。誰かが間違って入れたのかな?
新品の十円玉みたいな銅色に輝く表紙。
何かに導かれるように中を開け、表紙の裏を見る。見慣れた、教科書みたいな整った文字で、文章が書かれていた。
【このノートでは勉強の仕方、単元の理解の仕方を解説します。金のノートのように読むだけで全てが理解できるものではありません。また、銀のノートのように要領よくまとまった問題もありません。成績を上げることができるかは、このノートを拾ったあなたがどう使うかにかかっています】
ページをパラパラめくると、教科書の例題が穴埋めで載っている。説明書きの通り、金のノートのように一瞬見れば内容が頭に入ってくるようなわかりやすさはなかった。
それでも、教科書を読み込むためのヒントにはなりそうだ。
「よし」
ノートを閉じ、荷物をまとめて教室を出る。
このノートを作ったのが誰で、どうして私のロッカーにあったのか。そんなことは考えるまでもなかった。
ノートをくれた人のためにも、頑張ろう。
私は早歩きで校舎を出る。
少しの隙間時間も惜しくて、バスの中で銅のノートを開いて読み込んだ。
「約束したよね。返してよ、キーホルダー」
テスト最終日の放課後、教室前の廊下で、法螺内さんを呼び止めて迫った。
法螺内さんは、悔しそうに唇を噛み締めている。
銅のノートを使った勉強は、金のノートと銀のノートを使うよりもとても難しかった。自分で教科書の要点を噛み砕いて整理するのはほんとうにくたびれる作業で、途中で何度投げ出したくなったか覚えていない。
それでも、私は絶対に結果を出したかったから、テストまで必死に頑張った。
金のノートと銀のノートを使ったときとは違う、自分の力で勉強した、実力がついたという実感があった。
今度こそ私は、自分の力で学年一位を取れたんだ。
もう、法螺内さんに文句は言わせない。
「返してほしかったらテストで勝てって言っただけでしょ? 勝ったら返すなんて言ってないし」
屁理屈のお手本みたいな言い訳!
「それはないでしょ! 返してよ、どこにあるの?」
法螺内さんは答えない。
「バカね。騙される方が悪いのよ」
悔しいけど、法螺内さんが口を割らないことには、私は何もできない。
思わず唇を噛み締めたそのとき、
「いいえ、返してもらいますよ」
後ろから声が聞こえた。
振り返ると、目線の高さに飛び込んできたのは、緑色のネクタイ。
「和泉さん!」
「お久しぶりです、木樵さん」
和泉さんはちらりとだけ私を見てそう言うと、法螺内さんをまっすぐ見据えた。
「あなた、生徒会落とし物係の……」
法螺内さんが、不審そうな顔で和泉さんを見ながら言う。
「法螺内さん、磯斧先生によく思われたいという気持ちは尊重しますが、不正はよくないと思いますよ」
「なんの話?」
法螺内さんが、首をかしげる。私も何がなんだかわからなくて、とりあえず和泉さんの次の行動を待った。まず、磯斧先生がどうの、というところからついていけない。和泉さんの情報網は一体どうなっているんだ。
「これ、あなたの落とし物ですよね」
和泉さんが、法螺内さんに黄色い付箋を突きつける。
どこか見覚えのある文字で、こんな文章が書かれていた。
【法螺内さん
約束していた通り、期末テストの出題内容です。
LESSON7を中心に出題します。canの文章は並び替えで出しますので、解けるようにしておいてください。また、授業でスペルの注意点について話した単語は、スペルを書いてもらいます。それ以外は、英単語を見て日本語訳を答える問題を出しています。それでは、頑張ってくださいね】
呪いをかけられたみたいに、その場で固まる法螺内さん。
法螺内さんと英語の先生の間にどういう約束(、、)があったのかわからないけど、ともかくそのメモは、法螺内さんの不正を示す動かぬ証拠だった。
「そ、それ、返しなさいよ!」
「では、木樵さんにキーホルダーを返すことですね。そうしたら、メモもあなたに返しましょう」
大きく舌打ちをした後、法螺内さんがカバンからmarinaのキーホルダーを出した。私はすぐにそれを法螺内さんの手から奪い、胸元に引き寄せる。ほぼ同時に、法螺内さんが和泉さんの手から付箋をひったくった。
法螺内さんが早歩きで去った後、廊下には私と和泉さんのふたりだけになった。
「和泉さん、あのときは、ごめんなさい。私、ひどいこと言っちゃって」
「いや、あの日は、先に木樵さんを傷つけたのは僕だったから」
和泉さんが、気まずそうに目を伏せた。
「そして、ありがとうございます。これ、和泉さんが作ってくれたんでしょう?」
私はカバンから銅のノートを取り出し、和泉さんに見せる。
和泉さんは、困ったような表情を見せた後、おもむろに切り出した。
「そんなことより、僕は木樵さんにちゃんと謝らなければいけません」
なんだろう。私は、和泉さんの言葉を待つ。
「木樵さん、確か途中まで帰り道が僕と一緒でしたよね」
「あ、はい」
そういえば、筆箱を落としたときだったかなんだかに、その話をした気がする。
「よかったら、帰りながらじっくり話がしたいです」
そうして和泉さんと私は、一緒に階段へと向かった。
「あの日、木樵さんに、金のノートがなければあなたは何もできないなんて言いましたけど、あれは嘘でした」
駅に向かうバスの中、重たそうに唇を動かしながら、さっきの話の続きを始める和泉さん。
「逆でした。僕には、木樵さんはいずれひとりでも勉強できるようになるという確信がありました」
「そ、そうなんですか?」
「そもそも、僕がノートを配っている相手は木樵さんだけではありません。《落とし物室》を訪れた人のうち、自分の落とし物について正直に申告した人には、ときどき金のノートと銀のノートを差し上げています。でも、大抵の人は結局自分で手を動かして勉強しないから、ノートがあったって無意味でした。そのなかで、ノートを使って実際に勉強したのは木樵さんだけだったんです。だから、木樵さんにはいずれ金や銀のノートなんか必要なくなると、僕にはわかっていました」
和泉さんは、慎重に言葉を選びながら話している様子だった。話し方は普段よりもとてもゆっくりで、途切れ途切れ。
言葉の隙間の沈黙ごと、私は耳を傾けた。
「僕は、それが怖かったんです」
やっとの思いで絞り出すような口調で、和泉さんが続ける。
「木樵さんが自分で勉強できるようになってしまったら、もう僕を必要としてくれなくなったら、って」
窓の向こう側に高い建物が増えてきて、目的地が近いことがわかる。
「僕は、木樵さんに自立してほしくなかったんだ」
ばつが悪そうな和泉さんの声。
その言葉を聞いていると、私は、なんだかすっごく、
「うれしくなっちゃった」
「え?」
和泉さんが、不意をつかれた様子で私を見つめる。
「確かに和泉さんは、私にずっと自分を頼ってほしいと思って、ひどいこと言ったのかもしれません。でも――」
駅の建物が見えて、バスが徐々に減速し始めた。
「私だって、自分の足で立てるかもしれない。金のノートも銀のノートもなしで。そんな風に今私が思えるのは、和泉さんのおかげです」
ぐーんと横にまっすぐ伸びた、長い長い岡山駅の建物。電車に乗って遠くに行かなくたって、駅を見ているだけで世界の広さを感じる。
私も、あの駅みたいにまっすぐたくましい人になれるかな。
「岡山駅、岡山駅」
アナウンスを聞いた私たちは、バスから降りる支度をする。座席を一度振り返って、忘れ物がないことを確認。財布もスマホもちゃんとカバンの中にある。
「あの、和泉さん」
「なんでしょう?」
階段を降りると、そこはさむーい外の世界。暖かいエアコンの空気は、バスと一緒に遠くへ過ぎ去った。
十二月の冷たい風に体をこわばらせながら、私は話を続ける。
「私、もう勉強は自分の力でやるし、落とし物も、なるべくしないように頑張ります。和泉さんや《落とし物室》に頼りっきりの自分は卒業しますけど」
駅前のイルミネーションがキラキラ輝いている。桃色の優しい光を見ていると、真冬の空気がほわっと暖まる気がした。
「これからも、何にも困ってないときも、《落とし物室》にお話ししに行ってもいいですか?」
ふいに、私の右手が何かに包まれるのを感じた。
それが和泉さんの手だとわかって、何も言わずにそっと握り返す。
私たちは、正直者だった。
おむすびは、本当に転がったのだろうか?
転がされたのではないだろうか?
これは一人の少年の存在によって発現した、おむすびのもう一つの物語である。
「まただ……」
翔平は丸く練られた団子状の物を拾った。
チッ。
足元でハツカネズミのハイイロが心配そうに翔平を見上げる。
「おまえ、間違っても食うなよ。これ食ったら、死んじゃうんだから」
翔平は回収した毒団子を透明なビニール袋に入れると、あたりを見回した。他にも毒団子が撒かれているかもしれないからだ。
チチッ。チチチッ。
慣れた調子でハイイロが翔平の肩に登った。
「あはは、こらくすぐったいだろ」
ハイイロの細いヒゲが翔平の首をなでる。
あたりには他にも、同じ毒団子が点在していた。
今日は期末テスト最終日の日だった。教科が少なく早じまいだったおかげで、翔平はいつもより早くここに来ることができた。中学校の生徒たちは既に徒歩やバスで学校を後にし始めている。しかも華の金曜日。日没の早い凍てついた冬にも関わらず、まだ外は明るく、テストが終わった解放感も相まって翔平は浮足立っていた。
放課後に翔平が来るのは、決まって学校の裏山、序武図山だ。通称、りんご山。ここには、翔平が中学へ入学したときからハツカネズミが住んでいた。
彼らには知能があると思わせるような聡明な行動が見られ、そのうちの何匹かは翔平の友達だった。
ハイイロ、シズク、シッポ。
翔平の中学校は私立の中高一貫で、山を切り開いて作られていた。裏山は自然な状態がそのまま残って整備されていないところも多い。徒歩通学の生徒たちは、そんな山の麓から心の折れそうな坂道を毎日登校している。翔平も徒歩のため、ひいひい言う自分をしり目に、悠々と坂道を登っていくバスの中でいちゃつくカップルを見かけると、心の中で悪態をつくのであった。
その分、翔平にとっては贅沢なくらいの自然がすぐそこにあった。クラスの人と話すよりも、ハイイロやシズクとじゃれていた方が心が落ち着く。
「ハイイロ、シズクたちは?」
ハイイロの名前の由来は、見た目のまま、全身が明るい灰色だからだ。翔平は最初彼を見つけたとき、灰色のインク溜まりが木の根元に落ちているのかと思ったほどである。
シズクはお腹の毛や背中の毛に、白っぽい模様があって、それが水滴のように見えるから、シズク。
彼らは同じ巣の中に住んでいて、すっかり気を許した翔平が巣の近くに来るのが分かると、巣から飛び出して翔平に会いに来てくれるのだった。
だがしかし、最近のハイイロたちはどこか元気がないようだ。
原因はほぼ間違いなく先ほど拾った毒団子で、どうやら学校の先生が本格的にネズミたちの駆除に乗り出しているらしい。
チチッ。
ハイイロが肩から下りて、巣に戻っていった。それから間もなく、ハイイロとシズク、それからシッポが巣から顔を出した。
「シッポ! 久しぶり、生きててよかった」
シッポは、翔平が知るネズミの中で一番しっぽがすらりと長い。
しばらく姿を見せていなかったシッポが翔平の差し出した手に乗ったのを確認し、翔平は忘れられていなかったことに嬉しさを感じた。
「今日はみんなの大好きなこれ。園芸部の友達がくれたんだ」
翔平は学生カバンから一本のさつまいもを出して、地面に置いた。
「十一月に収穫したやつを、寝かせておいたんだって。ふつうに食べるより、うまいらしい」
三匹は目の色を変えてさつまいもに飛びついた。
これも最近の変化で、シズクなんか、前まで餌の選り好みまでしていたのに(さつまいもは、真ん中の膨らんだ部分だけ食べて端っこなんかは残していたはずだ)今は上手にかじって巣に持ち帰ろうとしている。シズクが世話をしている子どもたちがいるのだろうか。
きっとまだ翔平も知らないネズミたちが巣の中にはたくさんいるはずだ。
翔平は先ほど拾った毒団子の袋を取り出し、袋の外側から中身をすり潰してみた。
ハツカネズミの好きな穀物類と、ペースト状の殺鼠剤が練り込まれている。
彼らは警戒心が強いから、見るからに怪しいこういった類の餌はまず初見では食べないだろうが、飢餓の様子が見られ始めた現状、いつ手をつけてもおかしくないだろう。
おそらく彼らも自分たちを殺そうとしている存在のことは認知していて、より警戒心を高めている。
翔平はフェンス越しに学校を見る。
――たぶん、学校の敷地内で目撃されてしまったのだろう。
ネズミが害虫として煙たがられることはなんとなく知っている。だから学校の取り組みを一様に責めることはできない。
――せめて、ネズミたちの住処を安全なところに移動できたらな……。
チチッ。
ハイイロが再び翔平の肩まで登って、すぐ降りる。それから行ったことのない道へ出て、翔平を振り向く。その後をシッポが続く。
――来いって言ってるのかな?
チチチッ。チチッ。
翔平がついてくるのを確認して、二匹はずんずんと進んでいった。
裏山は運動部がランニングするような場所以外は雑木林のまま、あまり整備されていない。ところどころ人や動物が踏みしめて道のようになっているが、中学校の人たちでも立ち入ることがあまりないような場所だ。日中なのに薄暗いところもあるし、あまりにも遠くに行くようなら、日が落ちる前に引き返した方がいい。
二匹の進む方向を見やると、ふと視界の上にちかちかとした白い光が見えた。よく見ると、そのつぶつぶとした発光は、冬に夜景を彩るあの電球の光だった。
「…………イルミネーション?」
近づくと、そこは古い民家だった。その瓦屋根の上に、白い電球で形作られた大きなりんごの形のオブジェがどっしりと載っている。よく見ると、かじられた形になるように一部がへこんでいる。翔平はぴんときた。
――学校から見えていた、りんごのイルミネーションはこの家だったのか!
冬になってから、学校から見える裏山にりんごのイルミネーションが出現し、翔平のクラスでもそれが話題になっていたのだ。上級生によると去年や一昨年もあったらしい。
民家の前には軽自動車一台がやっと通れるくらいの細さの道が作られていた。
翔平が、あの道を下ればそんなに長くかからずに山道を降り切れるだろう、などと考えていると、ふと民家の裏から、少し腰の曲がった、白髪のおばあさんが姿を現した。
こちらに気づくと、おばあさんは、口を開け、目を見開いた。
翔平は肩口に登って来ていたハイイロとシッポをとっさに隠す。
「あんたたち、なにしに来たんだい。肝試しにはまだちょっと早いんじゃないかい」
「あ、す、すみません。散歩してたら家があったので、びっくりして」
翔平は、ネズミたちがいることをばれていないはずなのに、あんたたち、と複数形で呼んだおばあさんにびっくりして、思わずあたりを見回した。
「……散歩かい? こんな山道を?」
そのとき、ハイイロがぴょい、と降り、おばあさんに向かって走り出した。
「あっ」
――おいばか!
そのまま、おばあさんの足元をくるくると回る。
しかし予想外にも、おばあさんは動じずにハイイロを掬い上げて手に乗せた。
「こんな外じゃ寒いだろう。中へお入り」
「あ、いや、あの……はい。ありがとうございます」
――山に住んでいるくらいだし、ネズミにも慣れているのかな。
不審がられなかったことに少しの安堵を覚えながら、翔平はおそるおそるおばあさんの後を追った。
おばあさんの家に入れてもらうと、土間と、博物館でしか見かけないようないろりがあった。
「お上がりなさい」
おばあさんは緑茶と、丸いお餅のようなお菓子を出してくれた。
「これはおだんご……ですか?」
「きびだんごだよ。あんた、この辺の人間なら食べたことあるだろう」
「これが本物の!」
翔平は確かに生まれたときからこの地域に住んでいるものの、実はこの地発祥のきびだんごを食べたことがなかった。翔平の知るきびだんごは、駄菓子屋に売っている、棒状でオブラートに包まれているねっちりした食感の茶色い餅菓子だけだったのだ。
初めて見る名産品は、つまんだら落っこちそうなくらい柔らかくて、口に入れると砂糖より優しい甘さがふんわり広がった。
「うまいだろう」
「うまいです」
「おまえたちにもやろうね」
おばあさんがハイイロとシッポのそばにきびだんごを置くと、二匹は、先ほどさつまいもをお腹いっぱい食べたはずなのに、勢いよくきびだんごにがっついた。
「それで? あんたは偶然ここに来たわけじゃないんだろう」
翔平はここまで来た経緯を話した。学校の裏山にネズミたちの巣があること。普段からネズミたちと慣れ親しんでいること。最近巣の近くに、殺鼠剤入りの毒団子が撒かれていること。ハイイロたちの後をついてきたら、ここに来たこと。
おばあさんは、にっ、と笑って頷いた。金歯がきらりと光る。
「今のままだと、この子たちの身が危ないね。実は、わたしの夫……あんたにとっちゃただのおじいさんだけども、おじいさんは、ここらじゃ有名な生物学者なんだ。あれなら、なんとかしてくれるかもしれない」
――生物学者!
「でも、とーっても気難しい人でね。もう、わたしみたいなばあさんの言うことなんぞ、とんと聞かんのだよ」
「ぼくからお願いしましょうか?」
「子どもの言うことなんぞもーっと聞かんぞ」
そう言いながら、おばあさんが箪笥の二番目の引き出しから出したのは、先日最新版がテレビで紹介されていた電子腕時計と、最近よくあるBluetoothで接続するタイプのワイヤレスイヤホンだった。
「こ、これは?」
「見ての通り、時計と耳栓さ」
「嘘つけ! 最新機器じゃないか」
翔平は驚きのあまり敬語を忘れてしまったが、おばあさんは気にしないようだ。
「おや、これが最新型だとよく知っているじゃないか。わたしの部屋も覗いていくかい」
おばあさんは翔平の返事も聞かずにふすまを開ける。
「うわあ!」
長い机に、大きなモニターが二台と、薄型のノートパソコン、MacBook Airが鎮座していた。また、高そうなマイクと、リップノイズを防止するポップガードも設置してある。しかもなにやら怪しいグラフがデスクトップに表示されていて、一、二秒に一回更新されている。
「おばあさん、何者なの! ゲーム実況者みたい」
「なに、ただの老いぼれの趣味さね」
「上のりんごのイルミネーションも、おばあさんが作ったの?」
おばあさんはかぶりを振って、遠い目をした。
「いや、あれは娘が設置していったんだよ。体の弱い孫を喜ばせようとしてね。今は広島にいるみたいだけれど、随分帰ってきていないからそのままになっているんだよ」
――あんな大きなオブジェ、おばあさんやおじいさんだけじゃどうにもできないもんな。
おばあさんは空気を変えるようにぱんっと手を叩いた。
「さあ今日は帰りなさい。明日は学校休みだろう。明日の朝、それを持ってまたここに来なさい」
日も暮れてきた頃、言われるままに翔平はおばあさんの家を追い出された。
一段と冷え込んだ次の日の朝、翔平がおばあさんの家に行くと、おじいさんがちょうど家を出るところだった。迷彩服を着て、双眼鏡を首から下げている。
おじいさんを見送るおばあさんが、木陰から覗く翔平を見つけて手招きする。
「おばあさん、おじいさんは巣に行ったの?」
「わたしたちの言うことは聞かんと、昨日言っただろう」
「えっ……じゃあ、どうやって」
「昨日渡したイヤホンは持ってきたね。接続テストも済んでる。そのイヤホンはわたしが改造して、無線の役割を持たせてある。あんたは、あのおじいさんの後を追いかけて、おじいさんの動向を都度わたしに報告すること」
昨日いろりの前で正座をしていたおばあさんと、イヤホンを改造するおばあさんがいまいち結びつかない翔平であった。
「おじいさんを尾行するってこと?」
「そう。で、おじいさんが巣に行くように、あんたが仕向けるんだよ」
「ぼっ! ぼくが?」
思いもよらない提案に思わずたじろぐ。
「第一、巣に案内したところでおじいさんになにができるんだよ!」
「しっ。声がでかい。あんたとわたしで手を組んで怪しいことをしていると分かったら、おじいさんはきっとかんかんに怒って、計画はパーじゃ。決しておじいさんには見つからないようにすること! ……それからこれ、おやつね。待機時間に食べなさい」
おばあさんの無茶振りで、翔平はまたも追い出されるようにおばあさんの家を後にした。
――どうしよう。尾行しろって、言われても……。
チチチッ。チチッ。
「ハイイロ!」
足元で灰色の絵の具が動いた。肩口まで駆け上がってくる。
『ハイイロ、ねえ……分かった、昨日わたしの足元に来た、灰色毛のネズミだね』
「ひっ」
翔平はもう少しで大きな声を出すところだった。耳につけたイヤホンから、おばあさんの声が聞こえてきたのだ。こちらの声も筒抜けらしい。
『おじいさんの服にはGPSがつけてある。おじいさんになにかあれば、こちらから伝えるから、あんたはなるべく身を隠しながら先回りをしなさい』
おじいさんの後をつけると、おじいさんは地面に落ちている動物のフンを観察したり、寝床らしき枯れ木の集まった場所の写真を撮ったりしていた。
『日差しが出て気温が上がってくる頃におじいさんはお昼ご飯を食べるんだよ。わたしが渡したおむすびには仕掛けがしてある。翔平、さっき渡したおやつをそっと、ゆっくり開けてみてくれるかの』
翔平は、おばあさんに言われるままにそっと包みを開けてみた。
すると、なんと表面に油の塗られた、焼きおにぎりが出てきた。油で手がつるつるになって、危うく落としそうになった。
「おばあさん、これがおやつなの?」
『いいから、中を割ってみなさい』
「……うわあ」
中を割ってみると、昨日お茶請けに食べたきびだんごが、具の代わりにそのまま入っている。とても美味しそうには見えない絵面だ。
「おにぎりの中に、きびだんごが入ってる……」
『おにぎりじゃなくて、おむすびさね』
「なにが違うの?」
『全然違うよ』
翔平は、肩口で目を輝かせているハイイロにそのおやつを少しあげた。
『おじいさんのお昼ご飯にも、まったく同じおむすびを二つ入れている。おじいさんが休憩を始めたら、あんたおじいさんから目を離さないようにしなさい』
玄米ときびでできたおにぎ——おむすびは、人間のというより、ハイイロたちハツカネズミの好物だ。
――これをネズミたちに渡すのかな? でも、知らない人間の食べ物なんて、警戒心が強いからきっと食べないぞ……。
翔平が疑心暗鬼になってきたところで、おじいさんが切り株に座って休憩を始めた。
翔平は木陰から、小声で話す。
「ねえ、おじいさん昼ご飯食べるみたい」
『らじゃ』
おじいさんは観察記録をなにやらメモ帳にまとめた後、おむすびの包みを取り出した。
そして、包みを開けた瞬間。
「あっ」
声を上げたおじいさんの手から、油でつるりと滑ったおむすびが勢いよく飛び出した。
「やいやい、おむすび待てやーい」
飛び出したおむすびは、坂道を転がっていった。
翔平は、おむすびを追いかけるおじいさんを追いかけた。しかし斜面といっても、さすがにたかが知れている。
――転がったところで、すぐ行き止まるだろう。
そう思った翔平だったが、なぜかおむすびの勢いは劣ることなく、むしろ増していった。
「おばあさん! おむすび、止まらないんだけど! なんで?」
足音を立てないように、おじいさんを追いかける翔平は思わずおばあさんにヘルプを求めた。
『斜面をよく見てみい。昨日、わたしが水を撒いておいたんじゃ。あんたの言っていた、ネズミの巣のところまでね。朝になって凍ったのが、この時間帯に溶け出してつるつるになっているんだよ』
よく見ると、確かに地面がきらきらと光っていて、おじいさんも滑りそうになっている。
『あんたはおじいさんを追いかけてないで、先回りをしなさい。おじいさんじゃなくて、おむすびを見張るんだよ』
翔平はきらきらの地面を探し、先に急斜面を降りる。そして、カーブがあるところでおむすびを待った。
斜面を転がり落ちてくるおむすび。
カーブに差し掛かったとき、おむすびは勢い余っておばあさんの作ったコースを飛び出した。
――あっ!
翔平の目の前で跳ねたおむすびは、その勢いのまま、暗い穴の中にすっぽりと入ってしまった。
「しまった! まだネズミの穴は先なのに」
翔平は、先ほど自分のおむすびをハイイロと分けてしまったことを後悔した。代わりに転がせるおむすびがないということなのだ。
しかし後ろを振り返っても、まだおじいさんが追いつく様子はまだない。
――なんの動物の住処だろう。
アナグマの巣にも見えるし、キツネかもしれなかったし、あるいはその古巣でタヌキが住み着いているかもしれない。一番怖いのは人間を襲うイノシシだが、さすがに巣穴で見分けることはできなかった。
「おむすび待てやーい」
おじいさんの声がしてくる。
――ええい、一か八かだ!
翔平は巣穴に手を突っ込んだ。指先に、おむすびの感触。
おむすびを掴んで取り出した翔平は、ついでに少し握り直してからおばあさん特製つるつるコースにおむすびを投げ、転がした。
翔平がかがんで身を隠したと同時におじいさんがカーブを曲がって、下へ降りて行った。
「あ、あぶねー」
ほっ、と一息をつくと、おばあさんが耳元でこれ、と一喝する。
『一息ついてる場合じゃないよ。早く巣まで先回りせんか。ほれ急ぎな、ほっ、ほっ』
おばあさんは、走るときの掛け声のような声音で翔平を急かした。
「おばあさん、人使いが荒いや……」
翔平はまた急斜面を下った。
もうこの辺は、見知った土地だ。いよいよおじいさんが巣に近づいてくる。
チッ。チチチチッ。
巣の近くに出ると、ハイイロが翔平から飛び降りて、おむすびの方にかけていった。
「ハイイロ!」
転がるおむすびが見えた。しかし勢いがだんだん落ちてきたようで、翔平が転がしたときよりゆっくりになっている。
――もしかしたら、巣に着く前に拾われてしまうかもしれない。
チチチチッチチッ!
翔平が焦って出ようとしたときに、ハイイロの声がした。見ると、サッカーのようにおむすびに触って転がしてくれている。
「あっこら! わしのおむすびじゃぞ!」
ハイイロを見つけたおじいさんが、その後を追いかける。
「待て、はあはあ、待てーい!」
息を切らしたおじいさんが巣の前に着くのと、ハイイロとおむすびが勢いよく巣に入るのは同時だった。
「あーっ! わしのおむすびが……」
巣を覗きながら、がっくりと肩を落とすおじいさん。そこへ、翔平も聞いたことのある音楽が聴こえてきた。
〜♪♪♪〜♪♪〜♪♪♪♪〜〜
「ん……?」
おじいさんもびっくりした様子で、あたりをきょろきょろと見回す。
――この曲は、『リンダリンダ』……?
どう探しても、その曲はネズミの穴の中から合唱で聴こえているようだ。
「ハツカネズミたちが、『リンダリンダ』を歌っておる。これは……愉快、愉快!」
曲のアップテンポな部分に差し掛かったときに、おじいさんは身体をくねくねしたり、首を振ったりして踊り出した。そしてついに。
「リンダリンダー!」
両足で高くジャンプしたおじいさんは、その勢いで巣穴にごろりと落ちていってしまった。
「お、おじいさん! ちょっとおばあさん! おじいさんが巣穴に落ちちゃったよ! どうしたらいいの!」
翔平は焦っておばあさんを呼んだ。しかしおばあさんはのんびりした口調でこう答える。
『無事に入ったかい。じゃあ、わたしたちの仕事は終わりだよ。うちに戻ってきなさい』
――そんなあ! ネズミたちの巣穴が、壊れちゃったりしたらどうするんだ!
翔平はイヤホンをつけ直そうと手で触った。しかし油でつるつるになっていた翔平の手で触られたイヤホンは、ワイヤレスなのが災いし、耳からつるりと地面に落ちてしまった。
そしてイヤホンはそのままおばあさん特製つるつるコースを滑って、なんと巣の中に。
「あ、しまった……待ってく、うぐっ!」
翔平は追いかけようとし、おばあさん特製つるつるコースで足を滑らせた。つるりと尻もちをついた翔平も、そのままお尻から巣の中に落っこちてしまった。
「あいたたた……いってえ……」
翔平は巣に落ちて、ぶつけたひじとお尻をさすった。
と、目の前に人影が。見上げるとそこにはおじいさんがいた。しかも、おじいさんの手には翔平の落としたイヤホンが。
――しまった。
翔平は顔を引きつらせた。この状況をなんと説明すればよいのだろう。
おじいさんはそんな翔平をじっと見て、翔平のもう片耳についたイヤホンと、手に持ったイヤホンを見比べ、静かに頷いた。
「えっと、そ、その……すみません……」
とりあえず謝るというのは、あまりよくない翔平のくせである。
おじいさんは無言でイヤホンを翔平に返した。翔平がどう話を続けようかと焦っていると。
「お久しぶりです」
おじいさんと翔平の背後で声がした。
振り返ると、そこには白髭の伸びた老ネズミがいた。
「えっ?」
翔平はうろたえる。
――ネズミがしゃべった!
老ネズミは深々と頭を下げた。
「……えーっと……誰じゃったかのー」
「「えっ?」」
今度は、翔平と老ネズミの声が重なった。老ネズミは狼狽している。
「おじいさあん。忘れないでください。おじいさんがわたしに、言葉を教えてくれたんじゃないですか」
「……はっはっは。なーんちゃって。まさかこんなところにいたとはなあ。元気にしていたかい、シロヒゲ」
シロヒゲと呼ばれたその老ネズミはまた、深々と頭を下げた。
「おじいさんが、ネズミに、言葉を教えた?」
――そういえば、おばあさんに最初に会ったとき、おじいさんは有名な生物学者だって……。
「なーに、わしとシロヒゲは若い頃からの友でな。昔彼の巣穴が荒らされてしまってから、とんと見かけなくなってしもうたんだが、こんなに近くにいたとは驚いた」
おじいさんも翔平のように、ネズミと仲がよかったのだ。
シロヒゲは、翔平にもまた地面に頭をぺったりとつけて、お辞儀をした。
「翔平さん、うちの子たちがいつもお世話になっています。今日はごちそうをどうもありがとう」
チチッ。
「ハイイロ!」
その言葉と同時に、ハイイロと、続いてシズクとシッポも巣の奥の暗がりから飛び出してきた。
「ふたりも。ご飯はちゃんと食べられたのか」
チチチッ。チチチッ。
「今日はお二人のおかげで、久々に子どもたちがお腹をいっぱいにできました」
「……なにか事情がありそうじゃな」
おじいさんはシロヒゲの言葉になにかを勘づいたようだった。
「実は、近くの建物を運動場に利用し始めてから、巣の周りの食べ物が減り、代わりに毒団子が多く撒かれて、困っているのです」
近くの建物とは、間違いなく翔平の学校のことだろう。
おじいさんは、腰に手を当ててなるほど、と呟き、勢いよく腕をまくった。
「よし、このじいさんがいい引っ越し先をいくつか知っている。案内しよう!」
こうして、おばあさんの狙い通り、翔平の願いは無事に叶えられたのだった。
翔平は、新居の案内を済ませたおじいさんと一緒に、おばあさんの待つ家へ戻った。
おじいさんと翔平が一緒に戻ってきたのを見て、おばあさんはびっくりした様子だった。
「あんた、ばれちまったのかい」
「あ……はい、あの、おじいさん、これぼくがお願いしたことなんです。おばあさんを叱らないであげてください」
翔平はおずおずとおじいさんを見上げた。
するとおじいさんはきょとんとした顔をする。
「なんのことかね?」
「え……いやその、おじいさんがとても厳しい方だとは聞いていて……でもその……」
「わしが厳しい?」
きょとんとした顔をおばあさんに向けるおじいさん。その顔を見て、おばあさんが吹き出した。
「あはは、ははは」
おじいさんはその笑い声ではっとして、翔平に向き直った。
「まーったくもう! 翔平くん、いいかね、わしはばあさんの言うことを聞かなかったことなんてそうそうないよ。素直に言ってくれたら、わざわざこんなことをしなくても、ネズミたちの引っ越しに協力したのに!」
笑い上戸なおばあさんの声が、がはは、がははと響く。
「え、だって言ったら絶対協力してくれないって……」
「このいたずら好きのばあさんの言った、冗談だよ! この人は、そうやって悪いことを考えるのが上手なんじゃ」
笑っていたおばあさんが涙を拭う。
「あんたの神妙な顔、笑いを堪えるのが大変だったよ。それに、一緒に穴に入っちまったというのに、今の今まで、おじいさんが怖い人だって信じてるしねえ」
おじいさんは鼻を掻いた。
「それにのう、わしは翔平くんが落としたイヤホンを見て、確信したよ。こりゃ、またばあさんなにかを仕込んだな、とねえ」
穴に入った後にイヤホンを返されたときだ。
おばあさんはまた高笑いをした。メカにやたら詳しくて、笑い上戸な、変わった人なのだ。
「悪い大人に騙されないように、気をつけることさね! あー、笑った。笑った」
「そ……そんなあ」
翔平は力が抜けて、その場に座り込んでしまった。
「翔平くん、大丈夫かい。一息ついたことだし、おばあさんにきびだんごでも、ごちそうしてもらい」
おじいさんが手を差し伸べてくれる。
「きびだんご入りのおむすびに、油を塗っておこうかねえ」
そう言っておばあさんはばちっ、と片目をつぶった。
「ふつうのきびだんごでお願いします!」
翔平がそう言うと、家にはおばあさんの笑い声が再び、軽やかに響いた。
廊下の角を曲がった瞬間、正面から誰かにぶつかられて尻餅をついた。手をついたリノリウムの床は冷たくて、そんなところに十二月って季節を感じる。
放課後の校舎はにぎやかで、私たちの衝突を気に留める人は誰もいなかった。私と同じように尻餅をつき、おまけに抱えていたらしいファイルを辺りに巻き散らかしたのは、〝ウサギ先輩〟と呼ばれている二年生の男子生徒だ。
「本当にごめんなさい! 怪我してない?」
「してない、です」
「廊下を曲がるときくらいブレーキかけなきゃだよね、本当にごめんね」
廊下を曲がるとき以外もブレーキは必要なのでは、と思ったけど口にはしなかった。
ウサギ先輩はペコペコ謝りながら、這いつくばるようにしてファイルをかき集める。私も手伝った方がいいのかなと思った頃には、先輩はファイルを拾い終わっていた。
地毛だと噂の明るい茶髪、長い手脚は細くてすらっとしてて、男の人だけど美人という単語がよく似合う。いわゆるイケメンのウサギ先輩だけど、生徒会の仕事が忙しいのか放課後や休み時間に忙しなく走り回っていていつも落ち着きがなく、イケメン感は台無し。「ウサギ先輩」などとみんなから呼ばれているのもそのためだ。先輩の宇津木(うつぎ)って苗字の方が、あだ名よりも知名度が低い。
「大丈夫? 立てる?」
ウサギ先輩は、私がゆっくりと立ち上がって制服のスカートを払ったのを見ると、ホッとしたように自分も立ち上がった。
「じゃあ、気をつけてね!」
そして、やっぱり走って去っていく。気をつけるべきは私ではなく、先輩の方では。
突然の出来事にぼうっとして、でもすぐに重たい気持ちを思い出して嘆息した。
ついさっき、職員室で担任の姉崎先生と話してきたばかりだった。
――クラスには馴染めてきた? うちの高校、基本的に部活か同好会に所属するのが必須だからさ。そっちもそろそろ考えてみてよ。
私がクラスに馴染めていないことを知っていて、「馴染めてきた?」とわざわざ訊いてくるのはいかがなものか。先生に悪気がないのはわかってるけどさ。
この学校に転校してもうすぐ三週間。高一の十一月の終わりという、転校するにはあまりに微妙な時期だった。当然、こんな時期に転校なんて訳アリなわけで。親の離婚なんてイマドキ珍しくもなんともないだろうけど、訊かれたらと思うとどうしても面倒な気持ちが勝って、クラスメイトとつい距離ができてしまう。
先生には部活動の一覧を渡され、好きに見学していいって言われた。文化部なら、西棟と呼ばれている古い建物に部室が集まっているから、行ってみたらとも。
見学したところでさーと内心ぐちぐち思いながら、ふと足元を見て気がついた。
チェーンのついた、小さな時計が落ちていた。
懐中時計ってほど立派なものじゃないけど、文字盤では秒針がゆっくりと回っている。
放課後の学校はにぎやかだけど、一階の職員室の近くのこの廊下はあまり通りすがる生徒もいない。それこそ、さっきのウサギ先輩くらいで……。
ウサギ先輩の、落としもの?
時計を拾い上げた。届けた方がいいかな。
ウサギ先輩が去っていった廊下の奥を見やる。生徒会室があっちの方にあるのかも。
廊下を戻って職員室を通り過ぎ、さらに進んだ壁の一部に、急にぽっかり開いた空間が現れて思わず足を止めた。
階段だ。それも、地下へと続いている。
【フルスコア】
この学校は中高一貫の歴史ある私立校。私の一年二組の教室がある校舎は新しいけど、敷地内には古い建物もいくつもあった。地下室くらいあってもおかしくない。
地下へと続く階段は、ほわっと橙色の光を放つ裸電球に照らし出されていた。階下までは見えない。好奇心が勝って数段下りてみた、そのとき。
上履きのゴムが滑って、前のめりに身体のバランスを崩した。
身体が宙に浮く。私は無様に落下して階下に叩きつけられ、あわや大怪我――なんてことには、ならなかった。
私の身体はくるりと三回転宙返り、そしてしゅたっと床に膝をついて綺麗に着地。
ボーテ! 満点!
……って、今の何!?
ちょっとポカンとしてから、たった今自分が落ちた階段を見上げた。
体育は得意じゃないし、屈伸しても床に指先がつかないくらい身体が硬いのに。あんな風に華麗に着地しちゃうなんて、私のポテンシャル実は無限大!?
……まぁ、とりあえず。怪我しなくて、よかったってことで。
そばの壁に掴まり立ち上がる。地下一階には細長い通路があり、照明は仄暗く奥の方は見えない。
壁に触れていた指先が、古びたプレートに当たった。
《西棟↓》
どうやらこの地下通路、文化部の部室があるという西棟に繋がっているらしい。生徒会って文化部扱い? でも、西棟に行けるのならちょうどいいかも。部活の見学しましたって、先生に報告できるし。
ゆっくりと通路を歩きだした。狭い通路の壁は、あちこちにぺたぺた貼られた貼り紙だらけ。手書きものものもあれば、プリントアウトされた整った文字のものもある。
『金のノートと銀のノートどちらがお好き?』『リンダリンダ』『ネズミに注意』
『休日はいのちのたび博物館へ』『ここは地球の中心、岡山』『一マイルは一・六キロ』
貼り紙の文字を目で追いながら、細くてくねくねした通路を歩いて歩いて、とうとう突き当たりに到着。上りの階段があり、ゆっくり上っていくと。
唐突に視界が開けた。
中央に螺旋階段がある、広々とした円形のスペース。私以外には誰もおらず、ガランとしている。緩いカーブを描くクリーム色の壁に囲まれていて、等間隔にドアがいくつも並んでいた。ここは一階のはずだけど、出口はパッと見ではわからない。螺旋階段の中央は吹き抜けで、見上げると二階や三階にも同じようなドア。天井は高く塔のようになっていて、最上階が何階になるのか判別できない。
あのドア、一つ一つが部室なのかな……。
不審者に思われたりしないか少々不安に思いつつ、壁に沿ってゆっくり歩いていくと、近くのドアが開いていた。人の話し声がする。そっと近づき、私は中の様子を窺った。
【名前を呼べない彼の者】
その部屋は、普通の教室の三分の一くらいの広さだった。細長い机を囲み、十人ほどの生徒たちが真剣な顔で議論をかわしている。
「彼の者は一日の七割を寝て過ごしているという」「彼の者の耳は一八〇度回るそうだ」「デジタル世界はどうして彼の者で溢れてしまうのか」
彼の者って誰だろう……という疑問も去ることながら。
なんでみんな、猫耳をつけてるんだろう。
よく見れば、部室の壁は猫の写真だらけ。机の上にもたくさんの猫の写真や本などが広げられている。彼の者って、猫のこと?
「――何か用かね?」
ついまじまじと見ていたら、入口から一番近いところに座っていた猫耳男子が声をかけてきた。ほかの猫耳部員たちも一斉にこちらをふり向く。
「す、すみません! 声が聞こえて、その」
「我々の有意義な議論が耳に入ってしまったというのも仕方ない。君も参加するかい?」
「えっとその……ここは、ディベート部、とかなんですか?」
猫耳部員たちは顔を見合わせ、声を揃えて「にゃはっ」と笑った。みんな仲よし?
「我々が、そんな枠に捕らわれた集団に見えるのかね?」
あ、これ多分、関わっちゃダメなヤツだ。
「失礼しました。それじゃ、私はこれで……」
回れ右しようとしたのに、「遠慮は要らない、さぁどうぞ」と猫耳男子に引っぱられ、椅子に座らされてしまった。猫耳がないのは私一人、よそ者感がヤバい。
「君は彼の者についてどう思う?」
「彼の者……っていうのは、その」
壁や机上の写真を見て、質問してきた猫耳男子に目をやった。猫耳男子はうずうずした様子で私の答えを待っている。
「えっと、はい、かわいいと、思います」
「飼えるものなら飼ってみたい?」
今度は別の女子の猫耳部員が身を乗り出して訊いてきた。
「まぁ……でも、生きものを飼うのってその、難しいですし」
「飼えない理由は難しいから?」とは、また別の部員。
「あとはそうですね、親の許可も要りますし」
「それだけ?」「それだけ?」「それだけ?」
部員たちが畳みかけるように訊いてきて、居心地の悪さのあまり問い返した。
「猫を飼えない理由って、ほかにあるんですか?」
そう、口にした瞬間。
あちこちから悲鳴が起こった。
部員たちは猫耳を押さえたり両手で顔を覆ったりして悶え始める。突然始まった地獄のような光景に、私も椅子から腰を浮かせた。
「貴様、なぜここに入ってきた!」
自分が私を中に引き入れたくせに、猫耳男子にすごい形相で詰め寄られる。
「ここは、彼の者を愛しく思いながらも、触れられない者たちの集まりだというのに!」
いつの間にか、悲鳴を上げていた猫耳部員たちは、花粉症のようにくしゃみをしたり目を赤くしたり、はたまた痒そうに手脚を掻いていたりする。この症状は……。
「猫アレルギー?」
「それ以上その名を口にするなぁぁぁぁあ!」
腕を掴まれ引っぱられ、突き飛ばされるように部室を追い出された私の背後で、ドアがピシャリと閉められた。
私は悪くない、とは思えど。なんか、悪いことをしちゃった気分……。
それにしても、愛しく思いながらも名前を挙げただけでアレルギー反応が出るなんて。
不憫だ。
【パッションピンク1】
猫アレルギーの会を追い出され、カーブを描く廊下の途中で立ち尽くす。視界に映るドアはどこもきっちりと閉まっていた。どうせならもうちょっとまともな部の見学をしたいけど、ノックしてまでドアを開けたいかと問われるとものすごく微妙だ。また猫耳の集団とかに交ざりたくない。
「――あれ、有川さん?」
ふいに名前を呼ばれてふり返った。廊下の奥からこちらにやって来るのは、肩に届くふわりとした猫っ毛の、同じクラスの根古千紗だった。なぜかパッションピンクのハイソックスを穿いている。あんなソックスだったっけ……?
根古さんは席が近く、転校初日から何かにつけて話しかけたり気を遣ってくれたりしていた。根古さんが私と仲よくなろうとしてくれているのはひしひしと伝わってきたけど、私はあまりうまく会話できず、最後はいつも悪いことをしている気分になってしまう。
「根古さん、何してるの?」
根古さんは茶道部の所属。西棟に部室があるのかも。
「何かしてるような、してないような?」
根古さんはそう答えると、その目を三日月の形にしてふふっと笑んだ。こんな風に笑う子だったっけ。
「有川さんこそ、何してるの?」
「私はその……部活の見学、と」
スカートのポケットに入れていた、時計のことを思い出した。
「ウサギ先輩、見なかった? 先輩の落としもの、拾ったんだけど……」
「あぁ、ウサギ先輩。ウサギ先輩か。ウサギ先輩ね」
「ウサギ先輩」を三回もくり返してから、根古さんは猫アレルギーの会の部室とは反対の廊下を指差した。
「あっちで見たよ。三番目のドア」
そして、礼を伝える間もなく根古さんはあっさり去っていく。そりゃ、仲よしでもなんでもないし。わかっていたはずの事実なのに、少し心細く感じてしまった私は勝手だ。
ハイソックスのパッションピンクが、尾を引くようにいつまでも視界に残った。
【電卓おばあちゃん】
フロアは円形で、つまり壁はぐるりと一周繋がっている。根古さんの言う「三番目」はどこから数えて三番目なのかと疑問に思ったけど、予想外にすぐに見つけられた。
ドアに『三番目』って貼り紙がある。
何このわかりやすさ。罠? トラップ? なにかのフラグ?
おまけに、部室のはずなのに、どのドアにも部活や同好会の名前がわかるようなプレートなどがなくて嫌な予感しかしない。とはいえ、根古さんが教えてくれたんだし……。微妙な距離感のクラスメイトだからこそ、親切を無下にするのも気が引ける。
しょうがない。気を取り直し、小さく深呼吸してからノックした。
「誰?」と内側からドアが開き、顔を見せた人物に心の内で「ビンゴ!」と叫ぶ。
探していたウサギ先輩だった。
「あの、私、時計を――」
「いいところに来た! 早く見つけてくれ」
「何をですか?」
「電卓に決まってるだろう! 会計報告に必要なんだ! なんでこんなことに!」
ヒステリックな声を上げたウサギ先輩に強引に腕を引っぱられ、その部室に踏み込むなり息を呑んだ。
中は最低限の照明しかないのか薄暗く、小さな古書店のように背の高いスチールラックがずらりと並んでいて圧倒される。でも何より驚いたのは、ラックにぎっしり詰め込まれている大小様々、色とりどりの電卓。ちょっとバランスを崩したら雪崩を起こしそう。ここはなんなんだろう。電卓同好会?
「ほら、早く電卓を探してくれ」
「なんで私が」
「君はぼくの助手じゃないか。なんでも何もないだろう!」
温厚なイメージだったのに、目の前にいるウサギ先輩は机に爪でも立てそうなくらいカリカリしてて怖い。ウサギ先輩は私をぐいぐいと部室の奥に押しやり、自分はドアにもたれて苛立たしそうに足を鳴らす。
「ぼうっとするな!」
先輩はイライラしてるしなんだか怖いし、大人しく従うことにした。
とはいえ、どんな電卓をご所望なのかはさっぱりだ。ひとまず、手近なところにあった綺麗なミントグリーンの電卓を手に取ってみた。
「これとかどうですか? 綺麗な色ですよ?」
「ふざけてないでもっと真剣に探せ!」
顔を赤くして怒られた。横暴すぎる。
カリカリヒステリーな先輩から離れ、棚の隙間を縫って部室の奥に進んでいくと。
奥に、キーボードのように並べた電卓のキーをバチバチ叩いている老婆がいた。
老婆の前には、パソコンのディスプレイみたいに壁にびっしりと貼られた電卓もある。そんな老婆の周囲の電卓はどれも仄かに青白い光を放っていて、まるでその一角だけが秘密作戦の司令室のような雰囲気を醸し出していた。
どう考えても生徒には見えないし、電卓同好会の顧問……?
人類の敵と戦うような鬼気迫るその様子をじっと見つめていたら、老婆は椅子をくるりと回転させた。
「何か用かい?」
深い皺の奥からギョロリと向けられた充血した目に、つい内臓がビクリと震えた。ウサギ先輩の百倍おっかない。
「お、おじゃましてすみません! せ、生徒会で使うらしい、電卓を、探してて……!」
「ほう。それなら」
老婆は電卓が並んだ机の下からおもむろに何かを取り出すと、片手で差し出してくる。
「これを持っていくといい」
林檎のマークがついたMacBook。電卓じゃない。
でも老婆は用は済んだと言わんばかり、すでに私に背を向けていて、世界の危機を救うために再び電卓を叩き始めていた。もう話しかけられる雰囲気じゃない。
電卓じゃなかったけど、まぁ電卓機能はあるだろうし、何よりせっかく秘密のミッション中にくれたもの。私はMacBookをウサギ先輩に渡した。
「そうだよこれこれ! よくやった!」
ウサギ先輩は満足そうに頷くと、跳ねるような足取りで部室を出ていった。
電卓じゃないじゃん……!
それから、時計のことを思い出して私も慌てて部室を駆け出た。
ウサギ先輩の姿はもうなかった。
【パッションピンク2】
時計は返せなかったし、MacBookおばあちゃんにドキドキしたしで、どっと疲れてしまった。喉も渇いてきた気がする。
自販機を探して歩いていたら、螺旋階段の影にしゃがみ込み、スマホを見ている根古さんに遭遇した。ハイソックスのパッションピンクが、視界のすみでチカチカする。
「あ、有川さん」
私に気がつくと、根古さんは十年来の友人のように親しげに問うた。
「ウサギ先輩は見つかった?」
「まぁ……」
根古さんのスマホは何やら動画を再生していて、小さな音量で歌が流れていた。画面には目がパッチリしたアニメっぽい男女のイラストが表示されていて、時折歌詞らしい文字がすいすいと現れては消えていく。私の視線に気がつき、根古さんが説明してくれた。
「このUtaって子の声が好きなんだ」
ボカロの動画かと思ったけど、生身の人間が歌っているものだったらしい。少女……じゃなくて、高めの少年の声? 根古さんって、こういうの好きなんだ。全然知らなかった。……まぁ、根古さんも私の好きなものとか趣味、何も知らないだろうけど。
「そうなんだ」って応えようとしたら、声が掠れた。冬だし乾燥しているのもあって、本格的に喉がパリパリしてきた。
「この辺りに、自販機とかないかな? 喉が渇いちゃって」
すると、根古さんは、近くの部室のドアを指差した。
「それなら、あそこに行くといいよ」
私だって学ぶ生きものだ。きっとまた変な部活に違いないと思い動けずにいたら、根古さんは立ち上がり、すたすたと歩いていってドアを勢いよく全開にした。
そして、「一名さまご来店でーす」とファミレスの店員みたいな声をかけ、私を中に押し込んだ。
【岡山銘菓】
ドアの中は、和室になっていた。
大きなちゃぶ台のようなテーブルを、男子四人が正座して囲っている。
男子のうち三人は高校の制服姿。なのに残る一人は袴姿で、その頭はまげを結っていた。まげなんて初めて見たよ。
「何者だ?」
まげを結った男子を背中に庇うようにし、制服姿の男子の一人が私の前に立ち塞がる。まるで時代劇みたいな芝居がかった口調と仕草。
けどその男子の肩を叩き、「まぁまぁ犬飼」とまげ男子がなだめる。
「せっかくの客人だ、もてなそうじゃないか」
「ですが桃さま――」
「そこの客人、名はなんという?」
まげ男子、桃さまは礼儀正しい人だった。なのでこちらも背筋を伸ばし、「有川です」と名乗る。
「有川か。ぜひ我々の茶会に招待されよ」
大きなちゃぶ台には、大小様々な急須と湯呑みが所狭しと並んでいる。和風ティーパーティ? 湯呑みはともかく、どう考えても急須は多すぎる。
「じゃあ、おじゃまします」
ペコリと頭を下げて上履きを脱ぎ、畳に上がった。犬飼と呼ばれた男子が不承不承といった様子ながらも、私に席を空けてくれる。
格好はともかく今のところ会話のキャッチボールもできているし、今度こそまともな部活であってほしい。ついでにお茶もいただきたい。
桃さまは私に空の湯呑みを一つ寄越すと、メンバーの紹介をしてくれた。
制服姿の男子は、私の左から順に犬飼、猿田、雉子山というそう。
「まずは茶だな」
桃さまは「さま」づけもされているし、どうやら四人の中で一番偉い人のようだ。何部かわからないが部長なのかもしれない。そんな偉い人自ら急須を向けてくれたので、ありがたく湯呑みを前に出した。
そんな私に、男子たちは口火を切ったように話し始める。
「我々は今、茶を飲みながら話し合っていたのだ」
「若返りの効果がある、長寿の薬があるという噂を耳にしてな」
「鬼がその薬の存在を知る前に、なんとかせねばと思っているのだが」
「婆さまが情報収集中、焦ることなかれ」
婆さまって、もしかしてMacBookおばあちゃん?
なんて、よくわからない会話に耳を傾けていたら。
――ポトリ。
桃さまが差し向けてくれた急須の細い注ぎ口から、どう見てもお茶などの液体ではない、何かが出てきた。
ポトリ、ポトリ、ポトリ。
半透明の餅のようなひと口大の何かが注ぎ入れられ、湯呑みの中で山を作っていく。
ポトリ、ポトリ、ポトリポトリポトリポトリポトリポトリポトリポトリ……。
無限に吐き出される餅のような何かは湯呑みからちゃぶ台に溢れた。餅吐き出し機と化した急須を手にした桃さまは、でも楽しそうな表情のまま。何これ怖い。
「も、もう結構です……!」
「遠慮するな」と白い歯を見せて笑う桃さまから身を引き、目の前の餅の山を指差した。
「というか、これはなんですか?」
桃さまの太い眉毛がピクリと動き、急須の餅が止まった。直後、犬飼、猿田、雉子山が立ち上がって「無礼者!」と揃って声を上げる。
「桃さま特製のきび団子だぞ!」「安政三年からある岡山銘菓だ!」「それでも岡山県民か!」
確かに、岡山県民として日が浅いのは認めるけども。きび団子、湯呑みで飲むものじゃなくない?
納得いかない気持ちでいたら、顔を赤くした桃さまに急須の注ぎ口を口に押しつけられた。きび団子を流し込まれそうになり、私は飛び退き慌ててその部室から逃げ出した。
【パッションピンク3】
喉の渇きが癒やされるどころか、きび団子で窒息させられるところだった。もうこんなところ嫌だ、帰りたいと思っていたら、パッションピンクが視界に入った。
「根古さん、出口を教えてください」
この西棟で唯一の知り合いである根古さんに、すがるように頼む。でも根古さんはどこかとぼけたような雰囲気で、「んー」とかわいらしく首を傾け、そして螺旋階段の上の方を指差す。
「出たいなら、ハートの姫さまに許可をもらわないと」
桃さまに遭遇したばかりなのだ。またしても「さま」づけの誰かに会わなきゃいけないなんて怖すぎて、ぶんぶんと首を横にふる。
「ほかの方法を希望します!」
「でも、ウサギ先輩の時計もまだ返せてないんでしょ? 落としものを届けないなんて、《落としもの室》の主に処刑されちゃうよ?」
おまけに、すごく物騒なことを言われた。《落としもの室》って何?
「ほらほら早く!」
根古さんは私の希望を聞く気はさらさらなさそう。友だちなのに、なんて都合がいいことはもちろん言えないし。
根古さんに背中を押され、諦めた私は螺旋階段を上っていった。
【一マイル】
学校にあるとは思えないくらい、塔は高かった。上っても上っても階段は途切れず、回る景色はくり返す。渇いていた喉はパリパリどころかバリバリ、すっかり息も絶え絶え。
そうして、どれくらい階段を上っただろう。
ふいに階段が途切れて辺りを見回すと、私はロの字型の机のまん中、だだっ広い会議室に立っていた。ドームのような丸い天井、床は大理石のようにピカピカでつるつる。机にはずらりと生徒たちが着いていて、皆一様に睨むように私を見ていた。
「……私の話を中断させるなんて、どれだけ立派なご意見をお持ちなのかしら?」
会議室の一番奥に、紅白歌合戦名物の演歌歌手の衣装のような、赤白黒の縦縞でフリルだらけの巨大なドレスに身を包んだ女子生徒がいた。レンズの大きな黒縁メガネ、全校集会で見たことがある顔だ。生徒会長の鳩野(はとの)姫香(ひめか)先輩。長い髪は豪勢に盛られてアップになってるし、なんであんな格好をしてるんだろ。
「あ、姫さま、こいつです! こいつのせいでぼくはこの会議に遅刻したんです!」
私を「こいつ」呼ばわりしたのは、机の一角でMacBookを広げたウサギ先輩だった。MacBook、私が渡してあげたのに!
でもその言葉で、鳩野先輩こそがハートの姫さまであることがわかった。ほかに選択肢もない、私は意を決して口を開く。
「あの、会議をじゃましたのは、ごめんなさい。でも私、西棟から出たくて」
「塔から出たい? 私の許可もナシに?」
「だから許可をもらいたくて――」
「許可はもらうもの? あげるもの? 作るもの? なくすもの?」
私の答えを待たず、鳩野先輩は早口で続けた。
「そもそも今日の議題はなんだったかしら?」
「各部の活動実績と予算です」とすかさずウサギ先輩が答える。
「各部の活動実績と! 予算!」
鳩野先輩は叫ぶようにくり返すと、黒縁メガネを外して床に叩きつけ壊した。
「それは重要……重要でない……重要……重要でない……?」
そして、「あなたは誰?」と訊いてくる。
「一年二組、有川香織です」
すると、「それは重要でない」と即座に断じられた。だったら名乗らせるな。
「それより私は今、重要なことに気がついた!」
鳩野先輩は、大仰な手ぶりでこう声高に言い放つ。
「身長一・六キロ以上の者は、この塔から追い出さないといけない!」
鳩野先輩の目は私に向いていた。私の身長は一五九センチで、もちろん一・六キロもない。あ、でも、塔から追い出してくれるなら都合がいいかも。
「はい、私の身長は一・六キロです」
「正直でよろしい」と鳩野先輩がにこりとし、それに笑い返した直後。
宣告された。
「この者の罪は証明された! よって、首をはねよ!」
そんなの聞いてない。
「困ります!」
「大丈夫、予算は十分にあるから」
頼むから会話のキャッチボールをさせて!
私は踵を返して螺旋階段に駆け戻った。知らない土地に引っ越して、クラスには馴染めてなくて、渋々部活の見学をしたかっただけなのに首をはねられる、なんて冗談じゃない!
けど、会議室にいた生徒たちが群がるように一斉に追いかけてきた。私なんて所詮は鈍足の運動音痴、すぐに追いつかれ、後ろから制服のブレザーを引っぱられて。
足を踏み外した。
【パッションピンクじゃない】
「――川さん、有川さん」
軽く肩を揺すぶられ、ハッと目蓋を開いた。
視界いっぱいに、根古さんの顔。
「気がついてよかったぁ……」
背中に段を感じる。そう、私は螺旋階段で足を滑らせて……。
橙色の裸電球が根古さんの顔の後ろにあった。吹き抜けだった螺旋階段とは、なんだか様子が違う。
「ここ、どこ?」
「地下倉庫の階段だよ」
根古さんに手を借りて起き上がった。私は職員室の近くにある、地下倉庫へと続く階段の途中で倒れていた。階段の下にあるのは倉庫だけで、通路なんてない。
「足を滑らせたのかな?」
ということは。三回転宙返り、夢だったってことか……残念……。
「保健室に行く?」
「大丈夫、だと思う」
背中やお尻はじんじんと痛む。だけど、痛みを安堵が上回った。
普通に、会話のキャッチボールができてる。
目の前にいるのは、私のよく知る根古さん。
ホッとしすぎて、いつもだったら躊躇ってしまう素直な言葉がつるりと口から出た。
「心配してくれて、ありがとう」
「当たり前だよ」
にっこり笑ってくれた根古さんは、白いハイソックスを穿いていた。
そして、私のスカートのポケットに、ウサギ先輩の時計はなかった。
階段でどれだけ寝ていたのか、気がつけば外はすっかり暗くなっていて下校時刻、部活動を見学するような時間もなく、私は根古さんと一緒に昇降口を出た。
「西棟? ほら、あれだよ。あの四階建ての建物」
西棟について訊くと、根古さんは指差して教えてくれた。それは直方体のように四角く、どう見ても中に螺旋階段がある塔のような建物ではなかった。
「私は職員室に用があったからだけど。有川さん、なんであんなところにいたの?」
「部活の見学に行けって、姉崎先生に言われて……」
「あそこ、渡り廊下で西棟に繋がってるもんね。それなら、今度私が案内しようか?」
夢の中の根古さんは、西棟に詳しかった。現実の根古さんは、どんな風に案内してくれるんだろう。
「ありがとう。お願いできたら、嬉しい」
迷惑じゃないかなって気持ちが一瞬過ぎったけど、根古さんは笑ってくれた。
外に出ると冬の凜とした空気ですぐに耳が冷え、私は顔を半ばまで埋めるようにマフラーを巻き直した。そして、ふと校舎の向こう、裏山の方を見て気がつく。
「あれ、なんだろう?」
裏山の一角に、林檎の形の白い光がある。イルミネーション……?
「よくわからないんだよね。りんご山だからなのかな?」
「あの裏山、りんご山っていうんだ?」
「正式名称は序(じょ)武図(ぶず)山。山小屋があって、おばあさんが住んでるって噂だよ」
「あんなところに?」
「ねー。詳しいことは私も知らないけど」
MacBookおばあちゃんみたいな人が住んでるのかも。
「根古さんさ、パッションピンクのハイソックスって、持ってたりする?」
「何それ?」
「実は夢の中で……」
私は、夢に見た西棟の話をポツポツとしていった。根古さんは「それでそれで?」と興味深そうに先を促したり、「何それウケる」と笑ってくれたりして、私までつられて笑顔になる。
こんな風に誰かと話すのが楽しいなんて、ずっと忘れてた。
いつか、私の家の話も聞いてもらえるだろうか。
夢の中の根古さんは歌の動画を観ていたと話したら、根古さんは目をパチクリとさせた。
「Utaのチャンネル、私、登録してるよ。有川さんに話したっけ?」
私も根古さんと同じように目を瞬いて、ハッとして学校の方をふり返る。
西棟はすっかり夜の闇に沈んでいて、その輪郭はもうわからなかった。
きびだんご、食べてみた~い。
でも、きびだんごってちょっと食べにくそう。
きびだんごを食べてるって、周りの人に知られたら、恥ずかしいかも。
と思ったあなたに朗報です!
おにぎり巻ききびだんご、爆誕!!!
なんだこれ?
親のノートパソコンを二度見した。テーブルの隅に寄せたときにどこかに触れてしまったらしく、スクリーンセーバーだった画面に、パッと広告動画が出てきたのだった。
肉巻きのおにぎりならわかる。
おにぎり巻きって? それってつまり、きびだんごが具になっているおにぎりと違うの? え? きびだんごって具にしてうまいものなの? いいやそれより、きびだんごを食べたい人っているの?
三重に謎だった。
「お母さん」
イスにそっくり返って寝落ちしている母親の肩をそっと叩く。
「もう朝だけど、少し布団で寝たほうがいいよ。冷凍チャーハンの残り、おれが食っていいよね?」
これならだれにも気づかれないで、食事と一緒にきびだんごが食べられます。
「ああ、真我か……。やっちまった。もう朝か。首、イタタタ。わ、なんだこの広告、じゃまくさ」
「仕事、そんなに忙しいの?」
「うーん……ちょっとね」
ゆうべと同じ冷凍チャーハンを電子レンジで温めて、お母さんの向かい側に座る。お母さんは肩をごきごきならしながら、またノートパソコンになにかを打ち込んでいる。
話しかけたらじゃまになるかな。
口のなかをやけどしないよう息をふうふうかけて冷ましながら、おれは黙ってチャーハンを食べ始める。
三分もかからずに食べ終わって、皿を持って席を立つ。コップに水をくんで立ち飲みしていると、お母さんが言った。
「ごめーん。きょうも朝ご飯の用意できてないから、冷凍チャーハン食べていいよ」
「いま食べ終わったよ。もう冷食のストックは終わりね」
「そうだったか。ごめん」
「いいよ。忙しいんでしょ?」
「まあね。そう言えば、あれ、どうなった? グッドルッキングな転校生」
「どうでもないよ。隣の席になったからって、用がなければしゃべらないでしょ。女子にはなんか話しかけづらいし、それに、ちょっと変わってる子なんだよ」
「情けないなあ、息子よ。岡山県だっけ? 関西から神奈川に来たなら、勝手が違って多少浮いてしまうこともあるでしょう。転校って大変なんだから、気がついたときは真我がフォローしてやりなよ」
「わかってるよ」
母親との会話終了。今朝はしゃべったほうかもしれない。
「トランプってどう思う?」
隣の席になった転校生の鶴機さんが、おれにはじめて話しかけてきたときの言葉だ。
「どうって……。最近あんまりしないよね」
「磯樺くんはバイデン派か。ふーん」
世界の政治にはまだ興味がないけれど、アメリカの元大統領の名前だってことぐらいは覚えている。
「ちょ、ちょっと待って。みんなで遊ぶほうのトランプのことかと思った」
「いいよ、いいよ、磯樺くんのことはもうわかったから、気にしないで。Kアマンとか興味あるかと思ったんだけど」
なんだそれ?
まあ、とにかく、そういうタイプの女子なのだ。変わっているという言い方が悪口みたいに聞こえるのなら、頭がよすぎる感じって言ったら大丈夫かな。
グッドルッキングと頭がよすぎる感じが重なると、女子も男子も近づきがたい。何日経ってもクラスになじめていないのだけど、本人がそれを気にしている様子もない。でも、内心は違うのだろうか……。
今朝、お母さんにフォローしてやりなと言われたからするわけでもないけど、おはようのついでにちょっと話しかけてみた。
「鶴機さん、岡山って桃太郎とかが有名って本当?」
「そゆことになってるね。桃太郎、駅前にいるし」
駅前? ちょっと意味がわからないが、そこはスルーして続けよう。
「桃太郎が有名なら、きびだんごって、食べたことあるの?」
「あるよ。お土産屋さんでよく売っているよ」
鶴機さんに、ネットに出ていた「おにぎり巻ききびだんご」のことを知っているか聞いてみようかとふと思った。でも、おれより先に鶴機さんが次の話をし始めた。
「じゃあ、特別に教えてあげる。あのね。桃太郎がなぜ異種族を手なずけられたのか」
鶴機さんが急に声をひそめて言った。その瞬間、ディズニーアニメのような悪巧みの顔になっている。きれいなのに、そんな顔、できるんだ? 予想外の変化に、おれはノリ良く話を合わせることができなかった。
「き、きびだんごをあげたからでしょう。小さいころに絵本で読んだよ。つまじろうの絵本だけど」
「つまじろうって、通信教材のつまじろう?」
おれがそうと肯くと、鶴機さんはやれやれ、という態度で言った。
「毒されたものだな」
反応に迷う。会話終了でいいか。でも、ここでやめたらおれが気分を害したみたいにならないか。よし、話を変えよう。
「鶴機さんて、ペット飼ってる?」
「うん。ルンバ」
ルンバ? 犬の名前かな?
おれが確かめる前に、鶴機さんは話をもどした。
「急募、鬼ヶ島の鬼退治同行スタッフ。もしこれが、時給千円のアルバイトだったとしたら、猿と犬と雉子はついてったでしょうか?」
時給千円が高いのか安いのか、中学生のおれにはよくわからない。
黙っていると、鶴機さんは続けた。
「じゃあ、時給三千円なら磯樺くんは行く? でもね、たとえ時給をつり上げたところで、集まってくるやつらというのはね、しょせんカネへの忠誠心しか持たないの。鬼がもっと高い時給を出したら、すぐに寝返るかもしれないでしょ? だから桃太郎はカネを払わず、きびだんごを使ったんだよ。ぼっけぇおいしい本物のきびだんごならついてくるもの。家来が欲しいなら、きびだんごを支給するに限るのです」
うーん。よくわからない。けど、おれの理解の範囲で反応した。
「きびだんごって、そんなにおいしいの?」
「むかしはそうだったんだよ。現代の惚れ薬みたいなもんだよね。少なくとも、桃太郎のきびだんごはそうだったって、Kアマンの人たちが書いてるもん。人の心をつかみたければ、胃袋をつかめって『おにたのぼうし』さんもつぶやいてたよ」
そこで朝のチャイムがなって、話が終わった。
鶴機さんに「おにぎり巻ききびだんご」について聞けたのは、数週間後だ。
きっかけは、その前日に、お母さんが通販で箱買いした雑穀米の素が届いたから。
仕事が忙しくて、育ち盛りの息子に冷凍食品ばかり食べさせて申し訳ないという親御心だったようだけど、どうやら米を研いで雑穀米を炊くのは、おれの担当のようだった。
パッケージに書かれた十六種類の雑穀のなかに「もちきび」という言葉を見つけた。これってきびだんごのきびかもしれない、と、おれは忘れかけていたあの変なネット広告を思い出したのだ。
雨の昼休み。
雨降りでは校庭サッカーで暴れるわけにもいかず、体育館も図書館もいつにも増して密状態で、鬱憤晴らしのできそうな場所がなかった。散歩のつもりで校内をうろついていたおれは、同じように手持ち無沙汰で廊下にいた鶴機さんと行きあった。
無視するのもなんだし、なにか言わなきゃと思い、おれは話した。
「鶴機さんは『おにぎり巻ききびだんご』って知ってる?」
そのとたん、鶴機さんの顔がこわばった。
「きびだんごおむすびのこと?」
「同じものかもしれない。でも、ネット広告では『おにぎり巻ききびだんご』だった」
「気をつけて。それはつまじろうの陰謀だから」
鶴機さんはなぜかつまじろうが嫌いらしい。
「陰謀って?」
「磯樺くん、『おむすびころりん』ってお話知ってるよね?」
「おじいさんがお弁当のおにぎりを落とすやつだ」
「おむすびだよ。やっぱ毒されてる。やつらは、『おむすびころりん』を『おにぎりころりん』にこっそり変えようとしているんだ。Kアマンの人たちの言うことには、つまじろうたちは、おにぎり思想を広めて人類を洗脳しようとしているんだって。で、そうか、とうとうきびだんごにも目をつけたんだね。磯樺くん、もう二度となんとか巻ききびだんごなんて言わないで。きびだんごおむすびが正真正銘の言い方だからね」
「はあ……」
おれはどう反応したらいいのかわからなかった。
「それはそうと、きびだんごって、なんか、すごいんだね」
「桃太郎レシピのきびだんごなら、思いのままだよ。なんてったって、ひとつ食べさせれば、猿や犬や雉子まで思いのままに家来にできるんだから」
「麻薬みたいだね」
「そうなの。だからKアマンの人たちは世界にはびこる陰謀を明るみに出すために戦っているの」
「へ、へえー。すごいね。鶴機さんに聞いてよかった」
鶴機さんは、とても嬉しそうに笑った。やっと心が通じ合ったみたいに、おれの肩をばんばん叩く。それだけでなく、グッドルッキングな顔をぐっと近づけてきて言った。
「わかってくれて嬉しい。ふふふ」
女の子の息がおれの顔にかかる。エア・キスみたいでくらくらした。だっておれ、清純な中学生だもの。そんなことされたら、好きになっちゃうだろうが。
鶴機さんと話をするには、多少の予備知識が必要だ。母親が風呂に入っているあいだ、おれはノートパソコンを勝手に借りて、Kアマンのことを調べることにした。おれのポンコツスマホでは保護者フィルターが働いて検索に出てこなかったのだ。
親パソコンの検索にヒットした内容は、恐るべきものだった。
『Kアマンとは?
インターネット上のカルト集団。根拠のない陰謀論を掲げ、悪の秘密結社が存在していると信じている。反つまじろう、反おにぎり、反リンゴ、トランプ支持、魔改造などが特徴』
まさか、隣の席の女の子が、カルトに染まっていたとは。きょうのくらくらで、鶴機さんともう少し仲良くなってみたいと思ってしまったおれには、ショックな現実だった。
親が風呂から出る音がして、おれはパソコンを終了した。
「ね、真我。明日の朝のお米、仕掛けておいて」
頼まれごとは慣れている。反発するともめるので、おれは家でもわりと素直だ。米びつから米を出しながら、聞く。
「雑穀、混ぜたほうがいい?」
「まかせる」
いいかげんだな。
米を研いだあとに雑穀米の素を入れようとして手を滑らせ、流しに少しこぼしてしまった。
細かなつぶつぶは拾えそうにない。もったいないけど流すしかない。わずかに色や形の違う粒、このなかのどれかがもちきびということか……。
「お母さん、桃太郎レシピのきびだんごって、どうやって作るのかな。ひとつ食べさせれば、思いのままに家来にできるんだって」
「きびだんごなら、きびの粉で作るんじゃないの? クックパッドかクラシルでも見てごらん」
「お母さん、Kアマンって知ってる?」
「へー、真我がKアマンを知っているなんて、中学生にも知られるようになってきたのね。アングラな創作系パフォーマンス集団でしょ?」
「違うよ。カルト集団ってやつみたいだよ」
「あはは、カルトと言えばカルトかもねえ……。リテラシーがないと信じちゃうか」
お母さんは笑いとばして、バスローブ姿のままでパソコン作業を始めた。
自分の子どもの話ぐらい、笑ってないでちゃんと聞けよ。クラスの女の子の人生がかかっているんだ。
もしも特別なレシピできびだんごを作れたら、人を思いのままにできるんだろうか。もしそうだったら、おれは鶴機さんをKアマンのカルトの洗脳から解いてあげたい。
もちきびなら、雑穀米の素に混ざっている。もちきびだって、きびの仲間だ。もしかしたら、もしかするんじゃないか。
あわ、ひえ、もちきび、アマランサス、キヌア、コーリャン……。
スマホ検索で調べた情報で、それぞれの形状や特徴を覚えた。
そうして、おれは夜な夜な、雑穀米の素からもちきびだけを選り分けていった。
あの雨の日以来、鶴機さんはおれによく話しかけてくるようになった。Kアマンの連中のツイッター情報を信じきっているところは閉口するしかない。けど、女の子と話をすると、なんとなく気持ちが明るくなって、おれにとっても学校が前よりも楽しい場所のように感じられる。
もし鶴機さんの洗脳を解くことができたら、お祝い宮ヶ瀬湖に行こう。宮ヶ瀬湖では毎年冬のあいだ、クリスマス・イルミネーションをやっている。
鶴機さんは、岡山にもクリスマス・イルミネーションをやっているところがあると言っていた。横浜とか東京住みの人が見たらおしゃれじゃないって言うだろうけど、ああ言うほうが岡山らしくていいと思ってるんだよね……。そんな話をおれにしてくれた。観光客向けの桃太郎モチーフの桃色の電飾もあるんだとか。
微妙さで言えば、宮ヶ瀬湖も負けてないのではないか。小学生のころ、単身赴任から帰ってきたお父さんとお母さんと三人で行ったときの記憶だけれど、あのイルミネーションは、人がまばらで歩きやすくて、売店の五平餅がうまかったから印象がよい。
冬休みに一度くらいなら、バスで遠出をしてもいいと思う。遠い町から転校してきた女の子に、神奈川県を案内してあげるくらい、やってもいいだろう。デートみたいになるけども……。
ちまちまときびの選り分けをしていると、つい妄想が膨らんでしまう。
問題は、きびだんごのレシピだ。桃太郎レシピの情報は、親のパソコンを使って検索しても出てこなかった。それはそうだろう。だれでも作れてしまったら、不本意に家来になってしまう被害者が続出してしまって、とうの昔に社会問題になっていること間違いなしだ。
やはり、そのようなものは何者かに隠されているのだ。
夜中に目が覚めた。雑穀米によく合うカレーを食べ過ぎて、喉が渇いたせいだった。
明かりがついている。またお母さんは寝落ちしたんだろうか。そっとダイニングに入っていくと、姿はない。パソコンのスクリーンセーバーがのんびり動いていた。
コンビニでも行ったのか? お母さんが夜中にこっそり缶酎ハイを飲んでいることは知っている。大人になると、いろいろつらいことがあるんだろう。堂々と飲んでもいいのに隠したいようだから、おれは知らないふりをしてきた。
パソコンに軽く触れると、画面が変わった。ツイッターの画面だ。
お母さんにツイッターを見る習慣があるとは知らなかった。いいや、見ていただけではないようだ。画面はどうも投稿文が書き終わった状態のままらしい。投稿の送信が済んだと思って、このまま出かけたのかもしれない。
ほんのいたずら心で、読んでみた。
『おむすびを守れ。つまじろうの陰謀は必ず潰える。明日は記念すべき魔改造の夜』
アカウント名は『おにたのぼうし@Kアマン神奈川支部』だ。
自分の目が信じられなかった。
なんだよそれ。自分の母親がKアマン? 神奈川支部? そんな馬鹿な。
離ればなれの両親のために、おれはずっと、いろんなことをがまんしてきたんだ。仕事で毎日忙しいのではなかったのか。証拠を突きつけて母親を問いただしたところで、正直に言うはずはないだろう。こんな裏切りがあるのだろうか。
おれは、おれはどうしたらいい?
次の瞬間、ノートパソコンを床に払い落とし、思い切り踏みつけていた。何度も何度も。
おれは、塞ぎ込んだ。
人間不信に陥り、鶴機さんに合わせる顔がない。
今夜は、魔改造の夜。そもそも魔改造の夜ってなんなんだ?
鶴機さんに聞く勇気もない。Kアマンの信奉者である鶴機さんは、きっと記念すべき魔改造の夜に参加するつもりだろう。そう考えただけでも恐ろしすぎる。
おれは勇気を出して、うつむいたまま、隣の席の鶴機さんに言ってみた。
「今夜は絶対にどこにも出かけないで」
返事はなかった。
目だけ動かしてみると、ほかの女の子と会話中で、おれの声が届いてなかった。
内容がたあいのないペット談義だったことが唯一の救いだ。おれと鶴機さんが話をするようになると、クラスの女子らも鶴機さんに話しかけやすくなったようなのだ。
突っ伏したまま、耳をそばだてた。
鶴機さんのペットの名前は、ネイピアとオイラーというらしい。あれ、前に聞いたときにはルンバって言ってなかったかな? 犬種か? 二頭のペットを連れての引っ越しは、大変だったのではないかなあ。
友だちと話す声を聞く限り、鶴機さんはごくふつうの中学生の女の子だ。そんな子に陰謀論を教え込んで洗脳するなんて、ひどすぎる。
おれのなかにKアマンへの憎しみが湧き上がる。
もう桃太郎レシピのきびだんごを作ろうなんて悠長なことはしていられなかった。
おれが、鶴機さんを守るしかない。今夜の、魔改造の夜への参加を、おれは全力で阻止するのだ!
おれは下校する鶴機さんを尾行して、家の場所を突き止めた。鶴機家は古めかしい戸建ての住宅だった。オートロックのマンションの上階だったら地上から内部を探ることは不可能だが、路地に面した一軒家だったので、鶴機さんの部屋らしき窓が推測できた。
あたりは薄暗くなり始めている。冬の日暮れはあっという間だ。
かろうじてまだ西空に薄い夕焼けの色が残る時間に、鶴機さんが家から出てきた。
監視がバレないように、おれは身を隠す。
塾か? いいや、なにかに話しかけている。ペットの散歩のようだ。
しかし、ガガガ、ジジジと、機械のような雑音がする。
遠目にも犬ではなさそうだ。
まさか、まさかと思いながら、おれは好奇心を抑えきれずに、鶴機さんの前に躍り出た。
「鶴機さん、それは!?」
「あれえ、磯樺くん、こんばんは。ネイピアとオイラーもこんばんは、できる?」
「犬種だと思ってた。まさか本物のルンバだと思わなかったよ。しかも……しかもそれ、魔改造?」
「魔改造なんて言わないで。この子たちは愛し合っているから、いつでも幸せでいられるようにしてあげているの」
鶴機さんは二台のお掃除ロボットのルンバに、犬につけるようなリードをつけていた。そして、二台は交尾中のカブトガニのように半分重なってくっついていた。この状態で走行させるなんて、無理がある。
「この子たちはこうしているほうが幸せなんだから」
ネイピアとオイラーは、ガガガ、ジジジと一層大きな悲鳴を上げた。絶対、嫌がっている。
「離してあげようよ。二台がどんなふうにくっついているか、ちょっと見てもいい?」
「だ、だめ! 秘め事をじゃましたらかわいそう。引っ越すときにわたしにプレゼントしてくれたお隣の亀田兄様から、そう言われているの。だって、だってね、愛し合っている二人は、ひとときも離れてはいけないと思うの! わたしだったら、絶対に離れたくない。離れたくなんかなかったのに!」
ガガ! ジジ!
ネイピアとオイラーは力を振り絞ってなにかを訴えるようにもんどり打ってでたらめに動きだし、リードが本体に絡まっていく。
「ネイピア、オイラー、やめなさい! いったいどうしちゃったの?」
「貸して」
おれは鶴機さんの手からリードを取り上げると、ネイピアとオイラーをひっくり返して、絡まっているリードを取り除き、不自然な場所に貼られた怪しげな粘着テープを引き剥がした。すると……。
《ピンポーン! タスケテ クダサイ》《ピポ! ジユウニ シテクダサイ》
ルンバがしゃべった!
おれのしたお節介は間違ってなかったのだ。
「やめて、磯樺くん、やめて。二人を引き離さないで!」
街灯の下で連結部分を見ると、ボディーに開けられた穴に針金を通して固定されているとわかった。こんな杜撰な形で結合されていたなんて、愛への冒涜ではないか。ほかの部分も、工具を使わなくても外せそうだ。
「鶴機さん、落ち着いて。四六時中くっついて、そばにいることが、あ、愛とは限らないのではないかな」
愛なんて言葉、口に出すのは恥ずかしかったけど、言わなきゃ伝わらないから言った。すると鶴機さんは言い返した。
「離れたら、それきりいなくなっちゃうかもしれないよ」
「離さないってことは、相手を支配したいだけで、愛する気持ちとは違うでしょう。あ、愛とは、相手を思って、その人を信じて自由にすることなんだと思う。うちの父親はずっと単身赴任だけど、なんとかなっているよ」
「噓よ。自由にしたら勝手なことをしていなくなるんだから」
「自由にしていてこそ、愛があるところにもどってくる。そういうものだよ」
「そんなの、信じない。それは愛される自信がある人だけが言うことよ。離れたらいけないんだもの。本当に好きだったら、絶対にずっとそばにいさせてくれるはずだもの……」
だれのことを考えているのか、鶴機さんはしゃがんでめそめそ泣き始めた。学校で見る大人びた鶴機さんとは別人で、小さい女の子みたいだった。転校するとき、悲しい別れをしてきたのかもしれない。鶴機さんはその傷が癒えてないんだ。
おれはそんなことを考えながら、どっちの名がどっちかわからないが、ネイピアとオイラーを自由にした。
《ピポーン! ジユウニ ナリマシタ》《ピポパポ! アリガトウ ゴザイマス》
二台のルンバは自身の状態を確かめるようにその場でぐるぐる回転した。起動音は落ち着いている。
さて、次は鶴機さんだ。
軽く肩に触れてみようか。突然湧いてきたスケベ心にドギマギしながら迷っていると、鶴機さんが消え入りそうな声でつぶやいた。
「翔平くんに、会いたいよ……」
ズキン、と胸がうずいた。
好きな人、いたのか。なんだよ。
《ピポパポ! オンガエシ プログラムヲ カイシ シマス》《PUIPUI! モルンバ プログラム サドウ シマス!》《フロウフシ コースニ ゴショウタイ カイシ シマス》《ピンポーン! コチラニ ミギアシヲ ノセテ クダサイ》《ピンポーン! コチラニ ヒダリアシヲ ノセテ クダサイ》
いきなりネイピアとオイラーが騒ぎ出した。けっこうな大音量で、おれはビビッた。
《PUIPUI! タスケテ クレタ》《オレイヲ シマス PUIPUI!》《ピンポーン! コチラニ ミギアシヲ……》
ルンバの電源を切ろうとしても切れない。騒がしい音を止めたくて、おれは言われるまま二台のルンバに足を乗せてみた。意外なことに、やわらかい。突然、タオル地に変質した? それに、小動物の温かさもある。こんなもふもふを踏んづけて大丈夫なのか?
《PUIPUI! ロック シマシタ》《PUIPUI! ロック シマシタ》
えっ!? と思うまもなく、おれの体が二台のやわらかルンバごと宙に浮かんだ。
ネイピアとオイラーはドローンなんかより高性能の空飛ぶもふもふ円盤にメタモルフォーゼし、青い火を噴いておれをどこかに運んで行こうとしていた。
「わー、待て、待ってくれ。落ちたら死ぬぞこれ」
《PUIPUI! オチマセン》《ゲキツイ サレナイ カギリ》
「痛てて、股がさける、離れるな。うわ、風圧で目が、息が……」
《PUIPUI! メヲ ホゴシテ クダサイ》《カラダヲ クッキョク サセテ クウキノ テイコウヲ ヘラシテ クダサイ》
両手で目をおおい、膝を曲げて縮こまって、「かごめかごめ」の中の人のようにした。それ以降、おれの記憶はあいまいだ。
ひとつだけ覚えているのは、上空からイルミネーションを見たことだ。右足のルンバが何者かに撃墜され、きりもみ状態で墜落していくとき、《PUIPUI~! PUIPUI~!》の悲鳴と聞きながら、町の光から離れた山間の黒い闇のなかに、天国の入り口のような白い明かりが見えた気がする……。
数日後、失踪中のおれが保護されたのは、はるか遠くの岡山県内にある序武図山の山頂付近だった。
「少年Aの令和の神隠し事件」として、ほんの数時間だけ情報がネットを駆け巡った。しかし、もうそれはどこにも残されていない。理由はわからない。おれの予想では、Kアマンの連中があちこちに手を回して、情報を削除したのだと思う。
母親は泣いていた。心配させてしまって申し訳ない気持ちもあるが、おれはなにも悪くない。それに、母親がKアマンの一味であると知った以上、もう以前のように心を開くことも、やさしい息子でいることもできなかった。「趣味の創作サークルはすっぱりやめた」と言われても、そんな言葉を信じられるはずかない。Kアマンがただの創作サークルだとしたら、相当悪質じゃないか。
父親はあきれていた。母親のパソコンを壊したのは良くなかったと思うが、後悔のないよう正直に生きろと何度もメールしてきた。おれは嘘など言ってない。おれよりも、あんたの妻に言うことがあるんじゃないか。そもそも、あんたがおれたちと一緒に住んでないのは、本当に単身赴任のせいだけなのか。
二週間の検査入院を終えて学校に復帰すると、鶴機さんは不登校になっていた。世間は、おれが失踪前に鶴機さんになにかをやらかしたと思っているらしく、そのショックでひきこもってしまったというストーリーができていた。そのせいで、おれが身の潔白を表すために鶴機さんに会いたいと何度言っても、会わせてもらうことができなかった。
あの日、ルンバがおれにどういう恩返しをしようとしたのかは、わからずじまいだ。
ただ、母親は、おれの失踪騒ぎ以降、掃除をしなくても毎日家の床がざらつかず、むしろつるつるになっていることを不思議がっている。
右のルンバが撃墜されたほかに、うっすらとおれの記憶にあるのは、チチチ、チチチというかわいらしい音。それから、なにかの液体を飲まされたことだ。不老不死の薬? さすがにそれはないだろう。山で意識をなくしていたおれを助けてくれたアップルウォッチのおばあさんが、水を口に含ませてくれたのだと思っていたが、後で聞いたらおばあさんは飲ませてないという。
しかし、あれから季節が巡り、春の健康診断をしたときに、おれは理解した。
モルンバ・プログラムを仕込んだ何者かか、撃墜した何者かに、変な薬を飲まされたに違いない。そのせいで、おれは一足早く高校生の体にさせられてしまったようだ。なぜなら、この一年でおれは十二センチも背が伸びたのだ。それゆえに夜中に膝などの激痛に悩まされ、さんざんだった。
一年で十二センチということは、十年続けば一メートル二十センチだ。そんなことが自然におきるはずかない。この計算であと八十年生きたら、おれの身長は九メートル八十センチを越えてしまう。そうなったら、おれはどれだけ天井の高い家を建てればいいんだ。
そんな不安をネットに書き込むと、親切な人が教えてくれる。
『きみのは、たぶん、ただの成長期』『長くても二年でペースは落ちるよ』
そんなふうにレスポンスをつけるやつは、おれの事情なんてなにも知らない。
だれの理解も得られないまま、夏が来て、秋が過ぎた。そして、クリスマスの色にあふれた冬の町のなかで、おれは一年ぶりに、鶴機さんに、ばったり会った。
不登校のままフリースクール生になっていた鶴機さんは、相変わらずグッドルッキングで、ありがたいことに、おれを見てもふつうにあいさつをしてくれた。
近々、保護者公認で、十代メイクのユーチューバーになるのだそうだ。
最近になって、年上の彼氏ができたそうだ。
それと同時に、Kアマンは卒業したのだそうだ。
「なんであんなこと信じていたんだろう」と、大人びた目つきで笑っていた。
おれがその役をやりたかったんだけどね。
だがしかし、おれは知っている。やつらは巧妙に社会に紛れ込み、確実に存在しているのだ。桃太郎レシピのきびだんごのようなものを利用して、闇の組織を形成している。鶴機さんは卒業なんかでなく、単に、真実を知ることを諦めたのだ。
ちなみに鶴機さんが会いたかった「翔平くん」というのは、別の家で暮らすことになったモルモットの名前だそうだ。
小さな誤解が、その後の人生を大きく変えることがある。
Kアマンの陰謀論なんて信じてはいけない。一般的な人間の認識はそれだ。しかし、真実を追いかけるものには、必ずや次の真実が見えてくるものだ。
おれは最近、ある通販広告を見て、Kアマンと対峙する第二の存在が、再び密かにうごめきだしていると確信した。
一口食べるとぐっすり眠れるリンゴはいかが?
おにぎりで巻いてあるから、寝付きはソフトです。こんな眠リンゴを待っていました!
おにぎり巻き眠リンゴ、爆誕!!!
ぐあんぐあん。なんだか、体が浮いているような、変な心地がする。
「ばあちゃん! 来週高志おじさんが『いのちのたび博物館』に連れて行ってくれるって! 新幹線でビューンて行くんだって! しかもその後、『スペースワールド』にも行くんだ! すっげえよ! 俺、楽しみすぎて叫びながら家の周り走れそう!」
「よかったねぇ倫斗。お金、忘れずに藤野さんにちゃんと渡すんだよ。迷惑もかけないように」
「わかってるって! 俺もう小学四年生だよ! 高学年だよ! 大丈夫って!」
ああ、これは夢だ。それも、小学生の時の記憶がそのまま現れている。
目を輝かせ、意気揚々としゃべる俺……浦島倫斗に対して、ばあちゃんはなだめるように落ち着いていた。
「俺、でっかい恐竜とか化石とか見るの楽しみ!! あと、ジェットコースターに乗るのも! ああ、早く来週にならないかなぁ」
「本当によかったねぇ。ちゃんといい子にしてるんだよ」
「うん!!」
満面の笑みで、元気よく返事をしていた。
「はっ」
視界が突然、一面見慣れた天井になる。
「いい夢だったな……」
本当に俺は優しくされていたのだと、改めて思う。
幼稚園児の頃、両親が他界した。二人で買い物に行っている間に、交通事故に遭ったらしい。その時たまたま幼馴染の日和と遊んでいた俺は無事だった。そのままばあちゃんが世話をすると言って俺を預かった。なので、物心ついた時から、ばあちゃんと二人きりだった。でも、別にこのことを不幸と思ったことはない。ばあちゃんが優しく育ててくれたのはもちろん、日和の両親……高志おじさんや、春香おばさんが気にかけてくれていた。
だからあの時も、旅行に連れて行ってくれた。
「倫斗! 起きなさい。ご飯できたよ」
「はぁい」
ベッドから降りて、リビングへと行く。
「おはよう~」
「おはよう倫斗」
机の上には、卵焼きと味噌汁とご飯が並べられている。
「じゃあ、いただきます」
椅子に座り、がつがつと食べていく。
「いいね。そうやって元気よく食べてもらえると、私も嬉しい」
「まぁ、元気が取り柄だから」
「私なんて最近買い物に出かけただけで息切れがしちゃって」
「まぁ、ばあちゃんは普段運動してないし、そんなもんだよ」
ご飯を頬張り、水を飲む。
「そうかしら。まぁでも、もっと長生きして、倫斗の結婚式に行きたいなぁ」
「気が早いって」
まだ中一だし彼女もいないのに、何を言ってるんだと笑ってしまう。
「いやいや、そのために頑張らなくちゃって思ってるの。ほら、藤野さんとこのお嬢さんと早く……」
「いや、日和とはそんなじゃないから!」
慌てて否定する。気恥ずかしさからか、頬も火照っていく。
「ふふ。倫斗は面白いねぇ」
「……全然面白くない」
口をとがらせ、残っていた卵焼きを全部頬張った。「あふっ、あふっ」と水を急いで飲む。
「そんなに焦らなくても、誰も取って食べやしないよ」
ばあちゃんはそう言ってカラカラと笑った。
「じゃあ、いってきま~す」
「いってらっしゃい。気をつけるんだよ」
見送られ、家を出る。空気に触れると手がかじかむが、日は照り、風も穏やかだった。
「ふ~んふふ~んふふ~ん」
鼻歌を口ずさみながら歩く。植木がそよそよと揺れる。あの木、何の木なんだろ。日和に聞いたら教えてくれるかな、あいつ理科得意だし。……そんなこともぼんやりと考えていた。
「あ……あ……」
あたりを見渡す。植木、民家……。すると、電柱の陰に、何者かが蹲っている。
「えっ。ちょ……だ、大丈夫ですか?」
急いで駆け寄る。顔を覗き込むと、しわが刻まれており、白い髭が生えていた。
「い、今から救急車呼ぶので!」
すぐさま、その場を離れようとしたその時だった。
老人がジャージの裾をグイッと掴む。
「……いい、呼ばなくて……いい」
「……え?」
「ちょっと、薬の、効果が、切れた、だけ……」
隣で老人はぜえぜえと息をしている。
「……お願いが、ある。さっき、コンビニに、行ったん、だけど、トイレに、財布を忘れてしまって……。そこに、薬も、入って、る。それを、取りに、行って、ほしい……」
「そんなことしてる場合じゃないでしょう。救急車呼ぶので、ちょっと待ってくださ……」
「やめろと言ってるだろうが」
さっきまで苦しそうに話していたのに、力強い声を出され、ビクッとしてしまう。
「ゲ、ゲホッ、ゲホッ……とにかく、薬を……ゲホッ」
さっきのは、力を振り絞って出した声だったのだろう。むせながら、一語一語を吐き出す。
「薬……薬さえあれば……」
「……わかりました。薬を取りに行けばいいんですか?」
この人は、どうにもこうにも救急車を呼んでほしくないらしい。こんなに苦しそうなのに、本当に変な人だ。
「ああ……そこから南に曲がってすぐのところ……ゲホッ」
「わかりました。取りに行きます」
立ち上がって、コンビニへと急いだ。
「はい、これ。財布です」
財布はすぐに見つかった。
老人は震える手で中を開ける。
「薬……薬……」
さっきから呪文のように唱えている「薬」、一体どんなものなのだろう。なんか怪しいものなのか?
だんだん不安になっていると、老人は白い錠剤を手にし、ゴクリと飲み込んだ。
「ああ、ありがとう、これで当分は大丈夫だ……」
老人はにこりと笑った。
「いや、薬の効きがどんどん短くなっててね……。すっかり油断していたよ。気が抜けてコンビニに置き忘れる失態までしちゃって、本当に恥ずかしいかぎりだ」
さっきまで苦しそうにしていたのが嘘みたいになめらかに話す。まだ、服用したばかりなのに、もう効いているのか……?
「薬の効き目、早いですね」
「ああ、いやまだ完全には効いてないけど」
老人がカバンから名刺を取り出した。
「助けてくれてありがとう。私は亀田、という者です。お礼というのもなんだけど……特別に、長寿実験に参加してみない?」
この人、本当にヤバい人だ。
もう、あんまり関わらない方がいいのかもしれない。
「あ、いや、興味ないんで」
「君の優しさのおかげで助かったから、特別に教えようと思うんだけど、私、長寿実験の責任者で。長生きするための薬とかを開発してるんだ。今飲んだ薬も、その薬。決して怪しいものではないから」
心の中で怪しいと思っていたことを見透かされたのか、そんなことを言われる。
「とにかく、考えておいて。これも、渡しておくから」
実験所のパンフレットを渡される。これだけ見たら普通のようだが……でも、やっぱりなんだかヤバそう。
そもそも、長寿実験ってなんだ。薬飲むだけで長生きできるなら今頃みんなそうしているだろう。
「ありがとうございます。では、学校があるんで」
「ちょっとでも興味があれば電話してみて」
にっこりと笑う老人に背を向け、振り返らずに走り去った。
「……こえ~」
ボソッと呟き、学校へ急いだ。
「倫斗が無断欠席なんて珍しいな」
同じ部員の玲央に肩をポンと叩かれる。バスケ部の朝練にはもちろん間に合わなかった。学校には間に合ったから、最悪の事態は免れたけれど。
「あ~絶対走り込みさせられるよなぁ。俺も普通に練習したいのに」
「そんなの、休んだお前が悪いんだろ」
本当、朝から災難だった。具合が悪そうな人を助けただけなのにこんなことになるなんて。
「なぁ、長寿実験ってどんなものだと思う?」
「……はぁ? なんだよ急に」
「あ、いや、実は今朝遅れたのは……」
玲央に事情を話す。
「そんなことがあったのか~。そりゃ大変だったな」
「なんか怪しい薬を開発してるとか、長寿実験とか、本当に馬鹿げてて笑っちゃうよな~」
そう笑い飛ばす。
しかし、玲央は神妙な面持ちで倫斗を見ていた。
「長寿実験かわからないけど、老化研究に動物が使われるとかなら聞いたことがある」
「えっ」
「確かハダカデバネズミはガンにならないとかで、実験対象にされることもあるみたいだ。長生きするためにはどうしたらいいか、遺伝学的素因とかを調べたりするらしい」
「……へぇ」
なんだかよくわからない言葉を並べられ、少し圧倒される。
「お前、そんなことよく知ってるな」
「ああ。俺、従兄弟が病気になったことがあって。長生きしてほしいなって思っていろいろ調べていた時期があったんだ」
今はもう元気なんだけどな、と付け加える。
「俺、あんまりそういう経験ないからなぁ」
「は? お前確かご両親が交通事故で亡くなったんじゃなかったっけ」
「ん~。まぁそうなんだけど、すごいちっちゃかったから覚えてないんだよな。物心ついた時にはばあちゃんと二人きりだったし。参観日とか運動会に来てくれるのも、ばあちゃんだし。そんなばあちゃんもずっと元気だから、なんかこう死ぬこととかあんま考えたことないな」
「そんなもんなのか~」
「まぁ、ばあちゃんだけじゃなくて、日和んとこもすごい俺のこと気にかけてくれたりしたから、恵まれてるなって思う」
「おっ。愛しの日和ちゃんか」
「だからそんなんじゃないって」
慌てて否定するが、玲央はニヤニヤと笑っている。
「いいと思うけどな、お前ら。さっさと付き合えよ」
「いやいや、例え俺が好きでも、日和はもっとかっこいい男が好きだと思うし」
「おっ。倫斗はまんざらでもないわけだ」
「いやそういうんじゃないってば」
赤面しながら早口でそう言っているのに、玲央はむしろそのことを面白がるようにへらへらしている。
……ったく。困ったもんだよ。
窓から柔らかな日が差し込み、教室の中を照らしていった。
「日和」
「ごめん待った?」
「ううん、今来たばっかりだから」
登校は朝練の関係もあって別々に行くことが多い。けれど下校時は同じ時間に部活が終わるので、こうして一緒に帰ったりする。
日和のスクールバッグには、お揃いのアンモナイトのストラップがかかっている。ああ、楽しかったな。もう三年前になるのか。博物館と遊園地両方楽しむなんて、本当に贅沢なことだったな……。
「新人戦どう?」
「うーん。俺は今回も補欠だろうなぁ」
「まぁ補欠だろうとなんだろうと全力で取り組んでいたら問題ないよ」
フフッとはにかむ。
「私もアンサンブル出られないかもしれないな~」
「まぁまだ一年だしそんなもんだよな」
「先輩たちがどうしても出るからね」
もう十二月だからか、日が落ちるのが早い。紫色の空と地平線に沿うように赤く染まっている夕日。写真におさめたいなぁと見るたびに思う。
「それより、噂で聞いたけど、倫斗朝練休んだんだって?」
「……ああ。ちょっと道端で蹲ってた人がいて。その人助けてたら遅れちゃってさ」
「え! そんな理由なら先生に言えばよかったんじゃないの」
「まぁ、その人自身そんな大したことじゃなかったから、別にいいんだよ。おかげさまで部活はずっと校舎を外周だったけど」
「そうだったんだ……。まぁでも体力ついてよかったんじゃないの」
「よかった……よかったのか?」
「フフッ。ポジティブシンキング大事」
「いやそれポジティブシンキングなのか…?」
ハハハと笑い合う。ピンと張った冷たく澄んだ空気が、そこだけ緩く温まっていくような気がした。
「明日、私は部活半日だけど、倫斗は?」
「俺も明日は半日だなぁ」
「おっ。久しぶりに市内行かない? 私冬服買いたいし」
「いいね。じゃあ、十四時に待ち合わせしようか」
「うん! 楽しみにしてるね!」
日和はパァァッと花が咲いたように笑う。その表情を見ると、こっちまで笑顔になりそうだった。
「ただいま~」
るんるんと靴を脱ぎ、ジャージを脱いで私服に着替える。
「ばあちゃん、明日部活行った後、日和と市内行くから~」
そう話す。
しかし、返事はない。
「ばあちゃん?」
そういえば、「ただいま」と言えば必ず「おかえり」と返ってるのに、今日は「ただいま」が家の中で響いただけだった。
寝ているんだろうか。
「ばあちゃん~」
居間やトイレ、風呂場を覗いても、いない。どこか出かけているのだろうか。
「ばあちゃ……」
ハッと息をのむ。
ばあちゃんは、いた。台所に。鍋は火がついたまま。包丁は床に落ちている。
「ばあちゃん……! ばあちゃん!」
床でぐったりと倒れているばあちゃんをゆする。ばあちゃん、ばあちゃん……。呼びかけるが、反応はない。
「ばあちゃん!」
力のかぎり叫ぶ。
コトコトと鍋が煮える音がした。
心筋梗塞だったらしい。
昨日まで、普通だったのに。普通に料理をして、普通に話して、笑って……。
何も変わらずいつも通りに過ごしていたはずなのに……。
「ばあちゃん……」
骨になってしまったばあちゃんをぎゅっと抱きしめる。
当たり前だと思っていた日々。そんなことが、こんな一瞬でなくなってしまうなんて。
「もっと……長生きしてほしかった」
そう呟くと、頬につぅーっと一筋の雫が伝った。自分の体が半分なくなってしまったような、そんな感じがする。
死んでほしくなかった。生きていてほしかった。
途端に「死」というものが自分の中で縁どられていった。それまで漠然と曖昧なものだったのに。死んでしまうということが、こんなにも悲しく、苦しいことだなんて。
日常が、こんなにも大切だということに、全く気付いていなかった。
もう俺は、一人。ばあちゃんだけが家族と呼べる人だった。そう思うと、体が削れていくようだった。
運動会に張り切ってお弁当を作ってくれる人も、参観日に後ろでにこにこ笑ってくれる人も、もういない。
ばあちゃんは、死んでしまった。
「私、長寿実験の責任者で。長生きするための薬とかを開発してるんだ」
前に助けた老人が言った言葉を思い出す。
長寿実験。あの時は怪しいとしか思っていなかったけれど。こうした日常を奪う「死」を、少しでも遠ざけることができるのならば、どんなにいいことだろう。
もう誰も、死んでほしくなんかない。
ばあちゃんは、もういない。でも。日和や、日和の両親、玲央、先生……。
大切な人は、まだいる。少しでも、その人たちが長生きできたら、どんなにいいだろう。
……もう、こんな思いをするのはこりごりだ。
その実験に携わって、長生きできる世の中になれば。
気が付くと、カバンの中をごそごそと探していた。
「……これ」
亀田と書かれている名刺。そこには電話番号も載っていた。
もう、迷いはなかった。
「もしもし、あの、浦島倫斗というものです。こないだ、長寿実験について紹介を受けたのですが、詳しくお話聞けませんか」
シンとした部屋の中で、自分の声が力強く響いた。
電話して、数日後に亀田に会えた。
その姿を見て、驚いた。
「えっと……亀田さん、ですか?」
前に助けたときと風貌が全く異なっていた。肌はハリがあり、白髪交じりだった髪の毛が真っ黒になっていた。一言で言うと、ものすごく若返っていた。
「そうだよ。あの時は助けてくれてありがとうね」
「あ、なんというか、指定していた服装だったのでわかったのですが、あまりにも見た目が違いすぎて、違う人かと……」
「ははは。薬の効果で若返っているからね」
長寿実験はどうやら本当に長生きできるものなのだろう。こんなにも若返っているから、間違いない。心の中で、そう確信する。
近くにあったカフェに入り、実験の概要を説明された。
「まず、実験施設がある広島に来てもらう。そこで衣食住は確保されるから、生活に不自由はない。平日の門限は二十二時で、それ以降の時間帯に帰ってくる場合は事前に申請してくれたら大丈夫だから。土日は基本施設にいてもらうけど、外泊するときは、外泊届を出してくれれば。面会の時は受付で申請してくれたら三時間まで会って構わないよ」
「あの……実験の費用っていくらくらいかかったりしますか」
「ああ。被験者だからもちろんかからないよ」
お金の面が一番心配だったので、ほっとする。広島にある学校で部活をするにしても二十二時を過ぎることはないだろうし、外泊も頻繁にはしないだろうし、面会するにしてもそんな長時間することもないだろう。
「ところで、保護者の方に了承は得ているのかな……?」
「あ、はい。一応。これ」
一枚の紙を差し出す。
ばあちゃんには、一人兄がいた。俺から見ると伯祖父だ。
ばあちゃんが亡くなってからは、伯祖父が身元引受人になってくれた。
けれど、伯祖父は自分のことで手一杯で、俺のことなど気にもかけてなかった。
身元引受人になったのも、仕方なしという感じだったのだろう。
「長寿実験? よくわからんが、俺に迷惑がかからないなら別にどうでもいい」
「……出ていくことになると思いますが」
「ふん。お前の面倒を見なくていいのなら、こっちとしてはありがたい。さっさとやってくればいい」
まぁ、これまでもほとんど面識なかった人だし、そんな風に突き放されても、何も思わなかった。むしろ被験者に簡単になれてラッキーなぐらいだ。
「倫斗。広島に行くって、本当なの」
「ん。マジマジ。実験に参加するからさ。広島に本拠地があるみたいで、そこで暮らしながら被験者として過ごすんだよ」
「その、実験って一体なに」
「いや、俺もまだ詳しくはよくわかってないけど、なんか薬飲んだり注射したり。長生きするための実験で、俺も長生きできるかもなぁって」
「なんでそんなよくわかってないものに参加しようと思ったの。私になんの相談もなしに」
「……相談って。なんで日和にいちいち聞かなきゃいけないんだよ。小さい子供じゃないんだから。そもそも、別に俺ら家族とかじゃないし」
日和はムッとし、口をつぐんだ。
「まぁこの地を去るのは名残惜しいけど、そんな遠いわけじゃないし。まぁ、会える時は会えるだろ」
「……そういう問題じゃ、ないけど」
「心配ないって。本当に結構しっかりした長寿実験の施設っぽかったからさ」
「……」
「もう同意書とかいろんな書類にはサインしたから、三学期から向こうで暮らすことになる! 面会もできるから、時々遊びに来てよな」
「……言われなくても行くわバカ」
日和は終始不機嫌そうだった。
……日和は帰れば優しい家族が待っている。でも、俺には誰もいない。たまたま、運が悪かっただけで、こんなことになってしまうなんて。
……やっぱり長寿実験はしなくちゃいけない。こんな思い、するもんじゃない。
心からそう思った。
*
コンコン。
「面会希望の方が来られました。藤野日和さんという方です」
はぁい、今行きます、と声を発して立ち上がる。
窓から日が差し込み、部屋が青白く光る。洗面台の蛇口が閉まり切ってないのか、ぴちょんぴちょんと雫が落ちる音がする。
「おっと、忘れとった。あぶね」
机の上に置いていた錠剤を口の中に放りこみ、ドアノブを握って外へと出る。
面会室に向かうと、アクリル板を隔てて日和はもう座っていた。
「久しぶり、倫斗」
「ああ。おひさ」
「どう、学校は慣れた?」
「ん~。ぼちぼちかな」
当たり障りのない返事をし、ニコッと笑う。
「にしても、本当に牢屋みたいじゃん。ずっと狭い部屋の中一人で過ごしてるんでしょ」
「まぁ、でも料理はおいしいし、牢屋というより寮みたいな感じかな」
「へ~。食堂とかあるの?」
「いや、この施設の人がご飯を部屋まで運んでくる」
「牢屋じゃん」
なんだよ違うって~とケラケラ笑う。
ハーフアップで髪をまとめ、桃色のワンピースを着ている日和は、数か月会ってないだけなのに、なんだか大人びて見えた。ボストンバッグには、あの時の化石のキーホルダーがついている。
「にしても、こんな面会室で会うんじゃなくて、外泊もできるんでしょ? その方が気兼ねなく話せそうだけど」
「外泊届、出すの結構ダルいんだよ。それに月に三~四回しかできないし。面会だと一回三時間までだけど、直前に言うのでもいいし」
「うわ。いよいよもって牢屋だ」
「だから違うって」
アハハと声を上げる。
「バスケ部はどう? もうすぐ二年生になるし、試合とか出れそう?」
「うーん、それは無理かもしれん。相変わらず万年補欠だし。それに部活自体も岡山より緩くて土日に練習ないし。まぁ、土日に自由がない俺としてはちょうどよかったんだけどな」
「……そう」
「日和はどうなん? 部活」
「今は公民館の演奏会に向けて練習中だけど……。別にいつもと変わらない日々かなぁ……」
「ふーん」
そう言うと、シーンとなる。さっきまで笑い飛ばしていたのが、嘘みたいに。
「……何か部活で嫌なことでもあったの?」
「え?」
「あ、いや、なんか静かになったからさ」
慌てて言うと、日和は寂しそうに笑う。
「いや、倫斗、万年補欠って岡山の頃から言ってたけど、なんだかんだ全力で部活に取り組んでたじゃん。土日の練習も、朝練も、休まず行って、がむしゃらにやっていたというかさ」
「……まぁ、確かに部活は頑張ってはいたけど」
「でも、なんか今はそんな感じしないから、なんだかなぁって、ちょっと思っただけ」
そう言うと、下を向いた。
別に部活に対してやる気がなくなったわけではないけど、土日の練習がなくてラッキーとは思っていたので、日和の言っていることは間違いない。
「まぁでも、平日は部活やってるから。それに、岡山の頃だって毎回朝練とかあったわけじゃないし」
「そう……」
日和は返事すると、もの悲し気に微笑んだ。
*
「早く大人になりたいな~」
日和は、よくこんなことを言っていた。
小学生のころなんて、誰だって早く大人になりたいと思う。それが普通だ。
「俺も、早く大人になりたい」
「倫斗が大人? ちっさいデブのオッサンになりそう」
「なんだよ。日和だって豚みたいなおばさんになるかもしれないだろ」
「うわっ。失礼なやつだな」
「いやお前が言い出したんだろう」
そう言って、笑い合ってた日々。
「百五十四センチです」
施設の職員が紙にメモしていく。
……身長、全然伸びないな。
なんだか成長が中一の段階でピタリと止まってしまったようだった。長寿実験を受けているから当然かもしれないが、背がなかなか伸びないというのは、男としてはつらい。
「坂田くん、状態としては良好だね。このまま実験を続けたら、きっといいものになると思うよ」
亀田はにっこりしている。
……いいものに、なる、か。それは俺自身が長生きできるようになるという意味なのか、被験者としていいサンプルになるということなのか……。いいサンプルになってみんなが長生きできるようになれば、俺としては嬉しいけれども。
そんなことを思いながら、部屋に戻る。
毎週土曜日にある身体検査。薬や注射を打って異常がないか確認するだけとわかっているけれど、身長を測るたびに、「俺はずっとこのままなんだろうか」と考えてしまう。
机に置いた錠剤を見つめる。この薬が、世に出回ることになったら、みんなも長生きできるんだろうか。それとも、ただ見た目とか全く変化せず、成長を止めてしまうものなのか。
コンコン。
「面会希望の方が来られました。藤野日和さんという方です」
「はぁい。今行きます」
立ち上がって、ドアを開けた。
「倫斗、久しぶり」
「久しぶりっていっても一か月前には会ってるんじゃん」
「まぁ、そうなんだけどさ」
ポニーテールにチュールスカート。すらっとした体形は、もう「少女」と呼べるものではなくなっていた。
「……日和、また身長伸びた?」
「あ、うん。百六十センチになったよ」
……身長も、もう結構前から負けている。中一の頃は、俺の方が高かったのに。
「どう、高校。楽しい?」
「まぁ、平凡な日々を過ごしているよ。帰宅部だから、最近放課後は自習室で勉強してる」
「えら! 私は勉強よりも楽器吹いてる方が楽しいから、そういうの尊敬しちゃうな」
偉いも何も、高校の部活は遠征とかもあって施設の規則に触れそうだからやらなかっただけ。別に勉強のためなんかではない。
「日和、なんか、どんどん大人っぽくなっていくな」
「え?」
「ほら、きれいになっていくというか」
日和はきょとんとし、こちらを見つめる。
「俺はほら、ずっと中学生のままだし、変わらないけど、日和はいい方向に成長してるというか……。うまく言えないけど」
言葉につまってしまう。
「日和、彼氏は作らないの」
「……え?」
「日和なら、いっぱい男が寄ってくるだろ。男の一人や二人、付き合いたいって」
「……いないよ、そんな人」
「嘘だ。絶対いる」
ニタニタと笑って日和を見るが、ただ黙って下を向いている。
……なんか俺まずいこと聞いちゃったか? もしかして恋愛でいろいろあったのか?
内心焦っていると、日和が口を開いた。
「倫斗って、なんか本当変わらないよね。中学生の頃からさ。まぁ別にいいんだけど」
「えっ」
「今日も、お土産持ってきたから。お母さんとお父さんからはクッキー、私からはきびだんごね。また施設の職員さんに渡すから、後で受け取っていて」
「お、さんきゅ」
「じゃ、今日はもう帰るから」
「……お、おお」
日和はガタンと立ち上がる。
「お、おじさんとおばさんにもよろしく言っといててくれよ」
「うん」
そう返事すると、カツカツとヒールの音を鳴らして部屋を出ていった。
「本当変わらないよね」
確かにその通りだ。
俺は何にも変わっていない。
このままでいいんだろうか。
机の上に置いてある化石のキーホルダー。
……俺は、この化石と同じだ。時が経っても、ずっとそのままだ。
大切な人たちを失いたくないと始めたこの実験。
……本当に、この実験は意味があるんだろうか。
……大切な人を、死から遠ざけることが、できるんだろうか。
……俺は。
「失礼します。朝ごはんを持ってきました」
「あ、ありがとうございます」
ドアの前から朝ごはんが載ったトレーを差し出される。そうか、もう朝ごはんの時間か。受け取るが、なんだかさっきまで考えていたことが頭にこびりついて離れない。
「……あ、あの」
「はい」
「被験者をやめる時って、どうすればいいんですか。そもそも、辞められるんですか」
ハッとする。
突然、何を言ってるんだ俺は、と心の中で叫ぶ。こんなこと職員の人に言ったところでどうにもならないだろうに。
「あ、いや、その、なんとなく思っただけで、別にそんな深い意味はなくて」
「……結論から言うと、やめられません」
「えっ」
名札に「音日目」とある女性職員。しっかりと心の中を見透かすように俺を見ている。
「正確に言うと、ここを出たりすることは可能です。手続きを踏めば、元に戻れます」
「……そ、そうですよ、ね?」
「でも、その薬を投与されている以上は……。元の、成長や老化をする体には戻れません」
「……」
元には、もう戻れない。
簡単にポイっとやめられるものだとは思っていなかったけれど、ショックを受けていることに気が付く。やっぱり、俺は化石、なのか。
すると音日目さんが近づいてきて、耳元で囁いた。
「ここでは、話せないこともあります。今日登校するふりをしてどこかカフェでお茶しませんか。実験についてお伝えしたいことがあるので」
新手のナンパのようだった。そして、断る理由はどこにもない。
「……わかりました」
そう言い、急いで朝ごはんを食べる。
「すみません。時間を作ってくださって、ありがとうございます」
「いや、音日目さん。俺の方こそ、ありがとうございます……」
ずずず……とブラックコーヒーをすする。
「では、単刀直入に言います。本当のことを言うと元に戻れる可能性はゼロではありません」
「え」
「ただ、これにはいくつか条件がありまして……」
ポケットから錠剤を一つ差し出す。
「この薬……『たまて』を飲めば、元に戻れる可能性はあります」
「え……」
「『たまて』は、私たちが責任者から秘密裏に開発してきた薬です」
力強く、その言葉を発す。
「一部の職員は、責任者……亀田のことをよく思っていません。私もその中の一人です」
衝撃的な一言だった。
職員の人たちは亀田のことを尊敬しているように見えた。皆、そうだと思っていた。
「そんな……じゃあなんであなたは職員として働いているのですか」
「亀田から離れるためです」
「……は?」
「私の娘は被験者として施設の中にいます。娘を被験者にさせたのは、体が弱くて学校などを休みがちだったから。これが全ての間違いでした」
音日目さんがマドラーで紅茶をかき混ぜていく。
「あれは長寿実験というより、老化を抑えているだけにすぎないのです」
ああ……とうなずく。
それは前からうすうす思っていたことだった。「健康体でいる」というよりも、「成長や老化を止めている」という感じがしていた。けれど、どういうものかよくわかってない節があったので深く考えないようにしていた。
「亀田は若い姿のままですが、年齢は六十を超えています。臓器なども若いのできれいです。ただ……」
ごくり、と唾を飲み込む。
「完全に、薬の依存症になっています」
ひゅるり、と背中に冷たいものが落ちる。
亀田は薬物依存症。
……ということは。
「……その薬、依存性があるということ、ですか」
「そういうことになります」
視界が、グラッと揺れる。
「え、じゃあ俺も、依存症になっている、ということ……?」
「ちょっと待ってください。まだ、話には続きがあります」
落ち着いた態度で、言い放つ。
「この薬を飲むと老化が抑えられます。しかし、急に服用をやめてしまうと途端に離脱症状が起きます。震え、呼吸が乱れ、体が急激に老化し、最悪の場合、死に至ります」
「……そんな」
「普通の状態には、もう戻れないのです。亀田はずっと若い姿のまま生きたいがために、たくさんの人を実験台にし、薬を開発してきた。あいつは本当に、どうしようもないやつだ」
俺は、今までずっと、みんなが、少しでも長生きできたらと、被験者になった。
そのつもり、だった。
でも、実際はみんなのためではない。
「……亀田のための実験だったのですか」
「そういうことになります」
手がわなわなと震え、歯ぎしりをする。
「そんな……そんなことがあっていいのか」
「私たちがそのことに気が付いた時にはもう、娘も薬なしでは生きていけない体になっていました。娘も体は若いけれど、病弱のまま。だから」
彼女が、息を吸う。
「ここで働きながら薬の秘密を探り、『たまて』を開発しました。これを飲むと、元の年齢の姿に戻り、離脱症状も出なくなります」
……元の姿に戻れる薬、『たまて』。
それは、喉から手が出るほどほしいものだった。
「それ、ください。今すぐ飲みたいです」
「焦らなくても、この薬はあなたに差し上げます。ただ……」
無表情のまま続ける。
「この薬、臨床試験は行われていません」
「……え?」
「モルモットを使った試験は行いました。でも、人間に対しては行っていません」
「……そ、それって」
「あなたが第一号になります」
一瞬でも期待した自分がバカみたいだった。
「俺を使って試験しようってことか」
「まぁ、そういうことになりますね」
「あんた、亀田と同じことしようとしてるじゃないか」
「人聞きの悪い。亀田は自分のためですが、私は娘のためです」
「なんだよそれ。学校サボって損した」
ガタッと席を立ち上がる。
「いいんですか、『たまて』持ってかないんですか」
「……」
「娘のためと言いましたが、あなたのためでもありますよ。ずっとこのまま一生被験者のままでいいはずないでしょう」
バッと『たまて』をひったくる。
「……ありがとうございました」
ボソッと呟き、テーブルに背を向けて歩き出した。
無言のまま、『たまて』を光にかざす。
……別に、元に戻る必要なんてないんじゃないか。
……このまま、成長しない若い体のまま、過ごしても別にどうってことはない。寝る場所や、食べることに苦労する必要はない。実験体だから自由はないかもしれないけど、岡山に帰ったって、家には冷たい伯祖父しかいない。
……何の問題もないんじゃないか。
確かに、みんなに長生きしてほしいと思っていた。死んでほしくないと思っていた。その願いはもう絶対に叶えられない。でも、俺自身は薬さえ投与されていれば、ずっとこうして生きていける。
『たまて』をポケットにしまう。
「早く大人になりたいな~」
日和と笑い合っていたあの頃。
早く大人になりたいと願い、口に出していたあの頃。
「今じゃこんな様子なのにな……」
最低限の設備しかない真っ白な部屋。ボソッと呟き、『たまて』ではない、例のカプセルの錠剤を取り出す。
「俺、なんで大人になりたかったんだろう」
錠剤を口に入れ、配給されたペットボトルの水を流し込む。
「日和……」
俺はこのままでいいんだろうか。
机の上にある日和がお土産でくれたきびだんご。パッケージにかかれた桃太郎がにこにこ笑っている。
「日和……」
またその名前を呟き、拳にギュッと力をこめる。
その瞬間、ペットボトルがカタンと音を立てて落ちていった。
コンコン。
あれからベッドの上でボーっと横になっていた。はぁいと返事をする。
「面会です。藤野春香さんという方です」
「……え。日和じゃなくて?」
「はい。春香さんです」
春香は、日和のお母さん……とてもよくしてくれていた、あのおばさんだ。
忙しいからか、面会には日和と一緒に来ることはなかった。でも、いつもお土産や手紙をくれていた。
「あ、はい。今行きます」
なぜ、おばさんが。
「お久しぶり。倫斗くん」
「お久しぶりです」
目の前のおばさんは昔に比べると、顔のしわが増え、白髪も交っているように見える。
「でも、おばさんが来てくださるなんて珍しい……。どうしたんですか急に」
「ああ。倫斗くん。実はね……」
おばさんが言いにくそうに口を開く。
「日和、今入院してて」
「え」
途端に、体からサーっと何かが引いていくのを感じる。手がわなわなと震える。
「にゅ、入院。入院って……」
「序武図病院に入院したの。今日が手術で、しばらく面会に来れないからってこれ渡すように言われて……」
おばさんの手元には、あの、いつものきびだんごがあった。
ガタッ。
「ちょ、ちょっと倫斗くん」
「すみません、おばさん、失礼します」
面会室を出て、自分の部屋にあるぶかぶかなコートを取る。そして玄関へと向かう。
今日は平日だし、まだ時間も十八時だから外へは出られるはずだ。
序武図病院は、確か岡山の序武図山の近くにある、それなりに大きな病院だ。
……日和が入院。それも大きな病院に。しかも、手術って。
こないだ会った時落ち込んでいたのは、もしかして病気のせいだったのか……?
前にテレビか何かで高校生でガンになってしまった子の特集をやっていた。
……日和が、もしそうだとしたら。
ひたすらに走って行く。息が荒くなり、体が火照っていく。
施設を突然飛び出したことに、自分でも驚いていた。でもそれ以上に、胸の中に充満している、タイヤを燃やしてできたような黒々としたモヤに驚いていた。
……なんだ、この気持ち。
日和が、いなくなってしまうかもしれない。当たり前のように俺のもとへ来て、笑っていた日和。くだらないことばかり話しながらも、楽しかった面会。
それだけは絶対に壊れてほしくなかった。
……そうだ。俺が被験者になったのは、日和を守りたかったからだ。
どうしようもなく日和が好きなんだ。
さっきまで、もうこのままでいいだなんて思っていたことが、無性に恥ずかしくなった。
このままで、いいはずなんてない。
「こんな、小さなままの体でいたくないっ。俺は……日和を……守れる大人になりたい!」
走りながら、ポケットに手を突っ込み、『たまて』を取り出す。
「この薬、臨床試験は行われていません」
そんな言葉を思い出す。
……ふん、第一号上等じゃねぇか。もう、こんな被験者、やめてやる。
『たまて』をゴクッと飲み込む。
途端に、体中が沸き上がるように熱くなる。汗が全身から吹き出し、涙で視界もぐちゃぐちゃになる。
「はっ……はっ……」
なんとか広島駅までたどり着き、新幹線に乗り込む。コートのポケットの中にへそくりの万札が一枚あったから、とりあえず岡山行きは乗れそうだ。
「ふぅっ……へっ……」
トイレの中に転がりこみ、蹲って息をする。
「はぁ……はぁ……」
体がしゅうしゅうと音を立てて湯気のようなものが出てくる。
「本当に、元に戻れるんだろうな」
心臓のばくばくした音が頭の中で響く。
三十分くらいそうして座っていた。しばらくすると体から出ていた湯気が消え、汗と涙もおさまった。
「次は岡山です」
トイレを飛び出し、出口へと向かう。
「これなら、走っても苦しくなさそうだ」
駅から序武図山が見える。新幹線を降りて、病院へと急ぐ。
口には鉄の味がした。
風を切るように進んでいく。
「日和っ!」
「……えっ」
日和は、いた。
六階のナースステーションから距離のある四人部屋。編み物をしていたのか、机の上に毛糸が置いてある。
「日和……大丈夫なのか、日和」
「倫斗……だよね?」
「なんで疑問形なんだよ、それより日和……」
「いやだってなんか背がめちゃくちゃ伸びてるし、あのぶかぶかコートもピッタリになってる。声も低くなってて、面影はあるけど成長したというか……」
「俺、被験者やめることにしたんだ、こんな小さな子供のままでいるのも、日和のこと守れないのも嫌で。元の体に戻れる薬を飲んで……そんなことより日和、手術したって、大丈夫なのか、なぁ……」
「……なんかすっごい恥ずかしいことをポロっと言ってることに、気付いてる?」
日和は頬を赤らめ、じっと目を見つめてくる。
「俺が言ったこととかはどうでもいいだろ、こんな大きな病院に急に入院して手術だなんて……」
「前十字靭帯損傷」
「……へ?」
「体育の時にバスケで思い切りジャンプしたの。そしたら着地に失敗して、靭帯切れちゃった。運動音痴なうえに準備運動怠ったからこうなったんだろうね」
「でも、手術って……」
「前十字靭帯って、自然治癒はほぼ無理らしい。別に切れたまんまでも日常生活に支障はないけど、徐々に膝がくずれる場合があるから、念のためにここで手術することにしたの」
「……よかった」
声が漏れる。
「大事に至らなくてよかった。急に、ガンとかそういうヤバイ病気になったのかと思って、もう俺本当に焦って」
「ちょっと、靭帯切ったのだってヤバイ怪我ですけど。軽いみたいに言わないでよね」
ムスッとした表情を見せる。
「おばさんが、すごく言いにくそうに、日和が入院したって言うから」
「まぁ、母さん大げさだからなぁ」
そう言って表情を緩める。
「で、私のこと、これから守ってくれるわけ?」
「えっ」
「さっき私のこと守りたいから被験者やめるって」
「あ、ああ……。いや、やっぱそんなんじゃなくて、背の高い男性に憧れていたからやめることにしたのであって、日和は関係ない」
「何それ。意味不明」
フフッとお互いに笑う。
「でも、被験ってそんな簡単にやめられるものなの? 手続きとか大変そうじゃん」
「大変かもしれないけど、なんとかやめてみせるよ」
「やっぱり無計画だなぁ。ちゃんと考えてから行動してよ」
「わかってるって」
絶対わかってない~と日和は目じりを下げながら言う。
「何か困ったことがあれば、うちの家に相談してね。できるだけ助けるから」
「さんきゅ」
俺は全く後悔していなかった。確かにやめる手続きは大変かもしれないし、伯祖父はちゃんと俺の面倒はみないだろう。
でも、俺は一人じゃない。
日和がいる。
「じゃあ、今から岡山駅まで送ってあげる」
「え、でも安静にしないといけないんじゃ」
「車いす使うから平気平気。駅送るのに外出るくらいじゃたぶん何も言われないと思うし」
そう言って日和はベッドから降り、車いすに乗る。
「じゃ、行こ。倫斗」
「うん」
そうして二人は病院を出た。
「本当によかったのか、日和」
「何が?」
「病院の外に出て」
「そっくりそのままお返しするわ。施設を飛び出したのによかったの。しかも体も中学生じゃなくなってるし、大丈夫なの?」
「ふっ。確かに」
序武図山とは反対方向の、岡山駅へと歩き出す。
「にしても、その化石のストラップ、今度はスマホにつけることにしたんだな」
「あ、うん。懐かしいよね。いのちのたび博物館とスペースワールド」
「……スペースワールド、なくなったんだってな」
「らしいね。博物館はまだあるみたいだけど、どうなるんだろう」
小学生の時、連れて行ってもらった遊園地「スペースワールド」は、つぶれてしまった。アトラクションも充実していたし、楽しいところだったのに。
「時の流れを感じるよね。ずっと一緒なんてないんだなぁって」
化石のストラップが揺れる。
「そうだな……」
息を、吸い込む。
「でも、俺は、日和とずっと一緒にいたい」
「……は?」
車いすから、見上げる。
「何急に」
「さっき、照れてしまって否定したけど、俺は日和を守りたい。これから施設を出るから、そしたら俺とずっと一緒にいてほしい」
日和は口を閉ざし、倫斗を見つめていたが、「ふっ」と吹き出した。
「それって告白ってとってもいいわけ?」
倫斗はこくりとうなずく。
「も~。告白するなら『好きです。付き合ってください』みたいな定番文句を言ってほしかったぁ」
「悪かったな、素直にそう言えなくて」
「別にいいけどさ」
駅の前はチカチカとイルミネーションが灯っている。眩しくて、視界がボヤっとする。
「で、返事は」
「え?」
「告白の、返事」
しばらく黙った後に、口を開いた。
「……守られなくてもいいように強くなるから、二人で助け合お」
「それって……?」
「ま、ダメなわけないよね」
日和は俯き、また口を閉ざす。
「……そっちこそ素直に言えよ」
「悪かったな」
なんだかおかしくなってワハハと笑い合った。
「じゃあ、いったん帰るよ。またな」
「うん。ばいばい」
手を振り、前を向いて歩き出した。
暗い夜を照らすイルミネーションが、二人の姿を輝かせているようだった。
はじめまして、天川栄人です。
二〇二〇年、新型コロナウィルスが猛威を振るい、世界中がめちゃくちゃになりました。悪夢みたいな日々の中に、何か一ついいことがあったとすれば、いろんな大学や団体のシンポジウムやセミナー、講演などを、オンラインで視聴できるようになったことです。どうせひきこもるなら、この間にもりもり勉強してやろうと決めました。
その一環で参加したのが、梨屋さんアレンジのYA小説読書会「YA*cafe」。この読書会のおかげで、改めてYA小説の魅力に気づくことができました。普段は関東で開催される読書会なので、コロナ対策でオンライン開催になっていなければ、関西住まいの私が参加することはなかったでしょう。禍福は糾える縄の如し、ですね。
そして何度か読書会に参加するうちに、読むだけではなく、自分でもYA小説を書いてみたいと思うようになり、「YA小説を書いてみよう部」に入部することにしたのです。
というわけで、アンデルセンの『人魚姫』をテーマに、私なりのYA小説を書いてみました。目標は「中二然とした中二を書く」こと。楽しんでいただけましたら幸いです。
地元岡山への愛を語りすぎた結果、「作中にきびだんごを出す」というトンデモ縛りが発生してしまったのですが、そんなことはものともせず(多くの方がきびだんごを食べたことすらなかったにもかかわらず!)素敵な作品を書き上げてくださった部員の方々には、尊敬の念を禁じえません。自分ひとりでは絶対に思いつかないようなアイディアが次々に出て、みんなの作品がどんどん化けていく過程は、普段ひとりでものを書いている私にとって、非常にスリリングで刺激的な冒険でした。意見交換の合間のおしゃべりも、とっても楽しかったです!
梨屋さん、部員の皆様、本当にありがとうございました。
【宣伝】ライトノベルや児童文庫作品を書いています。
『ノベルダムと本の虫』(角川書店)デビュー作。異世界ビブリオファンタジー。
『悪魔のパズル』シリーズ(集英社みらい文庫)気弱な少年とモフモフ悪魔が頑張るお話。
他にも少女小説など。最新の情報はTwitter:@EightTenkawaにて発信しています。
また、昨年より、岡山県高等学校文化連盟文芸部会主催「高校生文芸道場おかやま」にて、散文部門の講師を担当しています。大人が書くYA小説も素敵ですが、ドンピシャYA世代の創作も支援していけたらいいなと思っています。
こんにちは。凡さんすと申します。この度、初めて「YA小説を書いてみよう部」に参加させていただきました。普段は小説投稿サイト「エブリスタ」で活動しています。
お話を考えるのは、子供の頃から好きでした。小学生の時グループで紙芝居を作る授業でシナリオを担当したり、高校の文化祭では、クラスで上映した映画の脚本を書いたりしていました。
とはいっても、就職活動の際にクリエイター業を選ぶことはせず、新卒で教育系の民間企業に就職しました。日々、テストや課題に苦しむ子供たち(ちょうど金芽のように)のお手伝いをしています。最近の悩みは、物語文の読解を指導している時、ついつい問題そっちのけでお話の展開に引き込まれそうになることです(笑)
という感じで、創作とは直接関係のない仕事をしているのですが、ときどき「お話を書きたい!」という熱が湧いてきては、出勤前や休日の時間を使って、細々と小説を書いています。
そんなある日、ツイッターで梨屋さんの部員募集投稿を見かけました。初めての空間が苦手なので強い不安を覚えましたが、誰かと一緒に小説を書くという体験を通して何か得られるかもしれないと考え、思い切って申し込んでみました。
活動が始まると、皆様創作経験が豊富でプレッシャーもありましたが、温かい雰囲気の中リラックスして参加することができました。部員の皆様からいろんなアドバイスをいただき、なんとか良い作品に仕上げることができたと自負しています。
社会人になっても自分の個性を安心して解放できる場に巡り会えたことをとてもありがたく思っています。三ヶ月間の活動を通して、「創作って楽しい!」という気持ちを、子供の頃よりもますます強く実感できるようになりました。最後に、梨屋さんはじめ「書いてみよう部」の皆様、そしてここまでお読みくださった全ての方々へ感謝を申し上げます!
★宣伝★
「プレゼントが嫌いな私から、お菓子を食べない君へ」
https://estar.jp/novels/25756787
小説投稿サイト「エブリスタ」に投稿した短編青春小説です。人からプレゼントをもらうことが苦手な女の子と、食事のこだわりが強い男の子が、お互いの関わりを通して価値観を広げるお話です。こちらもお読みいただければ嬉しく思います!
上野ヨウと申します。
東京から愛知に引っ越したとき、東京で開催されるYA部にはもう参加できないかなと思っていました。しかしなんとコロナ禍でオンライン開催に。ということで、今期もお世話になりました。
今回の活動を通して、特に嬉しかったことがあります。それは、梨屋さんや部員さんに、低学年向けのお話が向いてそうだ、と言っていただいたことです。私は小学生のとき、あさのあつこさんの『NO.6』という本に出会いました。そして初めて、胸のどきどきが抑えられず本を閉じる、また読み進めては本を閉じる、という経験をしました。そのうち、こんな風に、読んだ誰かをどきどき、わくわく、はらはらさせるような物語を書きたい、と思うようになりました。私はあわよくば、低学年の子たちが小説に興味を持つきっかけになるようなお話が書きたいです。今回は「昔話を現代版にリメイクする」という、考えるだけでも楽しいお題のおかげで、読者をどきどきさせる物語への挑戦をすることができたように思います。私が小学生のころ感じたあのどきどきを、いつか同じような誰かに届けたい! という気持ちで、これからも精進していきたいと思います。
最後になりましたが、梨屋さん、部員の皆さん、本当にお世話になりました。今作はプロの作家さんが多く参加され、私なんかがこの場にいていいのだろうかという気持ちと、私みたいなただのアマチュアもきっと必要だろうという図々しい気持ちの狭間でおむすびを転がしてみました。
素敵な方たちと本を作ることができて本当に楽しかったです。ありがとうございました!
初めましての方もそうでない方もこんにちは、神戸遥真です。ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
今回はお伽噺をYA作品にリメイクするというお題のもと、題材に『不思議の国のアリス』を選びました。ディズニー映画の『不思議の国のアリス』を小学生の頃に観て以来、大好きなお話です。
ストーリーとしては心が震えるとか共感できるとかそういった類いのものではないものの、なんかよくわからない出来事が次々と起こって面白い、みたいな感じですよね。今回なぜか岡山が舞台できび団子を作中に出すという縛りがあったので、ちょっと和な感じも取り入れつつ、YA風味をトッピングするようなお話にしてみました。
あと、随所にほかの部員さんの作品に登場するキーワードやキャラクターも織り交ぜています。細かいところまで楽しんでいただけたら嬉しいです。
コロナ禍と呼ばれる世の中になって一年以上経ち、私自身、生活環境や仕事の仕方にもだいぶ変化がありました。人と会いにくくなった一方、今回のオンラインでの活動のように、遠方の人とおしゃべりしやすくなったりもしました。どうせ家にいるなら、これまで接する機会のあまりなかったツールや技術に触れ、勉強もできればいいなと思います。
そういえば、初めてYA小説を書いてみよう部に参加したときは商業デビュー前だったのですが、おかげさまで作家業を続けることができ、今年で四年目になりました。YA小説を刊行したりもしていますので、よければ名前を覚えてもらえたら嬉しいです。
☆Twitter:https://twitter.com/kobe_haruma/
☆公式サイト:https://www.kobeharuma.com/
二〇一七年、二〇一八年、そして少しあいだが開きましたが、「YA小説を書いてみよう部」の三期目の活動を二〇二一年の春に無事に行うことができました。
その間、SNS有志と『大人も知りたいすごい児童文庫教えます』という児童文庫のブックガイドづくりや日本YA作家クラブのニューズレターの創刊などしていて、気づいたら新型コロナがやってきていて、あれ? あれ? という感じで時間が過ぎていました。
「YA小説を書いてみよう部」をもう一回くらいやってみたいなあという気持ちがあったのですが、こんな時期じゃ集まるのは無理だなあと思っていたのです。それに、二〇一七年のころに比べたら、小説投稿サイトもSNSも成熟していて、「いつか書いてみようと思っているけどきっかけがなくて書いてない」という人は少なくなったと感じていました。だから、そういうコミュニティーとは別に集まる必要はないのかもって。
そんなとき、「じゃがいも料理についてテキトーに話す会をしよう」というゆるいZoom飲みの呼びかけをしたときに、YA部の第一期から参加していた上野さんが遊びに来てくださり、コロナでくさくさしている気晴らしにまた「YA小説を書いてみよう部」があれば参加したいと言ってくださったのです。
え、ほんと? 需要あるん?
そーか、だったら、Zoomでやってみようか。いまはそれどころじゃないでしょって、人が集まらなかったら、やらないでいいだけだし。Zoomで参加できる人に限定されるけど、平日の夜に渋谷に来るという物理的なハードルを考えたら、それだって限定されていることと同じなんだから、コロナだし、web開催でもいいよね……。
ということで、こっそり参加募集をしたのです。過去の参加者にも伝えずにSNSの投稿のみで。普段の読書会の告知などは何度もSNSに投稿するのですが、今回はシンプルに。なんか、大々的に募集してて人が集まらなかったら、かっこ悪いじゃないですか。弱気でした。告知が足りなくてできなかったという逃げ道をつくっていたのでした……。
しかし、しかしです。そんななかでも、集まってくださった部員さん、ありがとうございました! (投稿に気づいてくださり、ありがとうございます!)
今期も、部員の皆さんにとって、なにかの記憶に残る体験になっていたらいいなあ。そして、「YA小説を書いてみよう!」という意欲をきっかけに実験的に生まれた作品が、たくさんの読者さんに届いたら嬉しいです。
大人になっても、好きなことで集まれる場所があったほうが、人生は楽しいですね。
部員さん、そして、この本を読んでくださった読者の皆さん、また、どこかでお会いしたいです。
こんにちは。八辻奏都といいます。
今回初めてこういった会に参加させていただきました。高校にも文芸部はあったけれど、入部はしていませんでした。こうしていろんな方々と、わいわい話しながら物語を作っていくのは、とても新鮮で楽しかったです。
また、すごく刺激になりました。
自分の文章をいろんな方に目を通していただき、「ここがよかった」「ここを直したほうがいいと思う」などなど、普段感想をもらえることがないので、本当に勉強になりました。もともと私はだらだら書く節がありましたが、今回の会で本当にそれを痛感しました。簡潔にまとめ、冗長な文章を書かないよう、これから意識していこうと思います!(頑張れ私)
私の作品は他の方の作品とは違い、「生と死」がテーマなのでシリアスな感じになりました。なんとなく選んだ「浦島太郎」から発想を飛ばし、倫斗や日和たちを書いていきました。
「私、今浦島太郎をベースにYA小説書いてるんだよね。きび団子とイルミネーションを出して、舞台は冬っていうしばりがあってさ」
「おお。すげー。やっぱり、乙姫下剋上物語とか書いてるんでしょ!」
「……へ?」
「イルミネーションは歌舞伎町のネオン街。乙姫は女たちにきび団子を与えて家来にする。その家来を連れて歌舞伎町のキャバクラを襲撃。鬼と呼ばれているナンバー1キャバ嬢倒して、めちゃくちゃ指名されまくる真のナンバー1キャバ嬢を目指す話!」
「……それYA小説としてはあまりに無理があるでしょ……」
職場の同期の物語案は不採用にして、「浦島倫斗」を形づくっていきました(笑)
「浦島倫斗」が、少しでも「よかった」と思ってもらえたら、本望です。
上野 ヨウ 1995年 群馬県生まれ 愛知県在住 会社員
神戸 遥真 1983年 千葉県生まれ 東京都在住 小説家
天川 栄人 1991年 岡山県生まれ 大阪府在住 小説家
梨屋アリエ 1971年 栃木県生まれ 神奈川県在住 児童文学作家
凡 さんす 1996年 沖縄県生まれ 東京都在住 会社員
八辻 奏都 1998年 山口県生まれ 広島県在住 公務員
YA小説を書いてみよう部 アンソロジー小説
『放課後のお伽話 つい今し方、あるところに』
令和3年4月30日発行
著者 上野ヨウ 神戸遥真 天川栄人 梨屋アリエ 凡さんす 八辻奏都
発行者 梨屋アリエ
http://www13.plala.or.jp/aririn/yacafe/
装丁デザイン 上野ヨウ
無断転載厳禁。
ここに収録した作品の著作権は作者にあります。
2021年5月31日 発行 初版
bb_B_00168578
bcck: http://bccks.jp/bcck/00168578/info
user: http://bccks.jp/user/140859
format:#002t
Powered by BCCKS
株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp