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『パンセ(pensée )』
——やさしい世界観入門
あるとき一人の女生徒が、憂わしげに尋ねた。
「先生、人生の意味は?」
答える代わりに、私は道端に咲いていた小さな草の花を指さした。
「あの花に、意味がないと思うかい?」
少女は必死に首を振った。
——だとしたら、確かに、すべてはそのようにしてあるのだ。
はじめに
昨今凶悪な犯罪事件が報じられるような折りに、「何故人を殺してはいけないのか」という議論が、ときに聞かれることがある。
我が意を得たりとそのような番組にチャンネルを合わせ、そのような雑誌のページを繰った私は、だがしかしたちまち激しい失望に襲われる。
それはそうだろう。そこでは論者たちはきまって「何故人を殺してはいけないのか」その理由を滔々と説くばかりで、誰一人そのことを、私が捕らえるように捕らえている者はいないのである。
私にとってその同じ発問は、丸ごとすなわち、反語であるに他ならない。
「何故人を殺してはいけないのか?
——もちろんそのような理由は、どこにもあるはずもない。
血を流す者は何一つ躊躇うことも、恥じ入ることもない……。」
それが私の世界観から、当然のように導かれた結論なのである。
私にとってはただ常識にすぎないそんな公理に、余人は誰も思い至らないのか、それともただ口にするのを憚っているだけなのか——奇異に思った私は、試みに慣れない哲学や文学の書物を紐解いてみた。
そこには確かに、同じような科白が記されていた。例えばニーチェはすべての道徳を弱者の遠吠えと嘲笑い、ラスコーリニコフは実際に質屋の老婆を殺めさえしたのだ。
だがしかし、彼らの思いもまた、私のそれとは似ても似つかない。
これらの十九世紀の悩める魂にとって、すべての前提は「神の死」であった。今や神はいないのだから、神の威光に守られた道徳もまた意味をなさない、というのがその言い分なのだ。
一方私は、熱烈な神の信者である。そしてそれにもかかわらず、いやむしろだからこそ、この世にはいかなる罪もありえないと考えるのだ。
詳細は本論に譲るが、私の理解は煎じ詰めれば、次のようなものである。
全知で全能の神が罪を憎むというのは、少しも理屈にかなわない。
もし本当に罪を憎んでいるのなら、それは全知で全能であるがゆえに、初めから剣を取る手を思いとどまらせることができる。だとしたら、犯した後にそれを罰するというような、迂遠なやり方が選ばれるはずはないのだ。
そもそも天が下をあまねく統べるものが神だとしたら、そこに現に起きている罪なるものも——破壊も殺人もまた、それによって引き起こされたと考えるのが自然なのだ。
ただそんな神の御業にすぎないものを、造られた有限の存在である私たちは、自らの身を危ぶむあまり、まるで悪魔の所業ように言いなして忌んでいるのだ……。
もちろんこんな物言いが、荒唐無稽に聞こえることを私は知っている。それはただ、今のこの殺人論議の場合だけではない。神とは何か、存在とは何か、人間とは何か、輪廻とは、道徳とは、美とは、——そんな私の慣れ親しんだ世界観の逐一が、世間のそれとはあまりに食い違っていることを、私は今更ながらに思い知らされているのだ。
だとしたら私はやはり、そんな異体の人間の異体の物思いを、書き残しておきたい衝動に駆られずにはいられない。
それは必ずしも、ただ青臭い自己愛からばかりではない。これもまた私の世界観から、特異なものはただ特異であるが故に、存在する価値があると考えるからだ。
もちろん私の文章は高尚な哲学でも、美麗な文学でもない。ただの素人が思いつくがままに綴った、安物の随想録にすぎない。
だがしかし、忘れてはならない。
それにもかかわらず、そんな世界観に包まれて生きる私は、今このうえなく幸せである。
そしてもし、それがそうして幸福の源となりうるのなら、——たとえ子供だましの駄菓子であっても、やはり店先に並べるだけの値打ちは、きっとあるものなのにちがいない……。
二〇一七年三月
著者しるす
01 神
01・01 〈神様?〉
神。
確かにこの国のこの世代にとって、その言葉は最も疎遠なものであるにちがいなかった。
「神」と呼び慣らわされるようなもの。——白い光の衣を纏って、空の上から呼ばうあの者は、あくまでおとぎ話の中に語られる一人物であり、非科学的な、過去の時代の遺物として、笑われるべき仮構にすぎないと感じられるのだ。
だがしかし、忘れてはならない。
神とはけっして、そのようなものではない。少なくとも、そうでなくてはならない、ということはない。
神の本質を、簡潔に定義するならば。
「神」とは、つまりは「宇宙を動かす根本原理」の謂いだった。
そしてその正体の考察が形而上の哲学であり、またその結論を噛み砕いて宣べ伝えるのが、宗教であるということにすぎない。
もし白い衣の神を戴くとしたら、それはあくまでそれらの宗教の、彼らの見解だった。
もしそんな結論を笑止と感じるとしたら、それではあなた自身にとっては、それはどのようなものなのか?
もちろんあなたはけっして、それを神とは呼ばないかもしれない。そんな抹香臭い名前を嫌って、ただ「法則」やら「空(くう)」やらの言葉で、分析して終わったのだ。
だがしかし、それはあくまでが呼び名の違いにすぎない。あなたの向き合っているものもまた、他の誰とも同じそれだった。
そうだった。もし神の定義が、「宇宙をかつて動かし、今も動かす根本原理」だとしたら、それを「ない」と考えるのはかえって滑稽だろう。
そしてもし、それが「ある」とすれば、それが一体どんな性質の、どのような存在なのか。それを論じることが、無意味であるはずはいのだ。
そんないわば世界の根っこの部分に、目をそらさずに向き合うことは、空っぽで薄っぺらな私たちの生に、きっと何か重しのようなものを与えてくれるにちがいないのだ……。
01・02 〈譬えにて語る〉
「宇宙をかつて動かし、今も動かす根本原理」。私たちが仮に神という名で呼ぶ、そのものの有様を究めることは、もちろん何物にも代え難い意味がある。
確かに過去のあまたの宗教では、神は人になぞらえられた。
それは白い衣を纏って、とどろく声で呼ばう。怒り。愛し。賽銭を収めて祈りを聞き入れる。
そしてそんな荒唐無稽な空想の物語こそが、多くの宗教嫌いの淵源なのにちがいない。
だがしかしひょっとしたら、それもまたそうではないかもしれない。
彼らのこしらえたそんな物語は、本当はただ、あくまで布教のための便法であるにすぎない。
いわば彼らはその教義を、古の時代の民衆に、咀嚼されやすい形に変えて与えたのだ。
あるいはまた、詩人たちが恋人を花になぞらえることが、けっして暗愚ではないように、ただ語りの手法としての、修辞のようなもの。
だとしたら、その字義の向こうに託された本当の教えの姿に思いを致すことができれば、すべては確かにけっしてあなたの思うような非科学の蒙昧とは違う……。
もちろんそんな彼らの教えを、今更繰り返すつもりはない。
もとより私の思い描く神は、彼らのそれとは似ても似つかない。
その有様を私はこれから数百枚の紙数を費やして、少しずつ伝えていかなくてはならないのだ。
ただそのための前提として、いわばあなたの宗教嫌いを解きほぐす準備運動として、ただしばしここに彼らの擁護を買って出よう。
例えばキリスト教にしても、それはそうだった。
その聖書に記された創世の神話。キリストの奇跡の物語。
そこでは確かに神は天なる父と言いなされ。雲の上の御座(みくら)から野太い声で呼び、我が子を人に遣わした……。
だがしかしそれらのすべては、けっしてかの宗教の教義の根幹ではなく、あくまでも語りの手法としての、比喩にすぎないものと捕らえることはできないだろうか。
試みにキリスト自身の言葉を、思い起こしてみるとよい。
他のどんな宗教家の説話にもまして、それらはいかにおびただしい譬えに、満ち満ちていたことか。
本当に、こと民衆に向かって教えを説くときに、イエスが何らかの寓話を、織り成さなかったことはないほどなのだ。
「なんぢらは天国の奥義を知ることを許されたれど、彼らには許されず……このゆえに彼らには譬えにて語る(マタイ伝13章11)」。
確かに、理にうとい民衆の悟りを開くには、抽象の言葉を操るよりは、身近な事物になぞらえるやり方のほうが、ふさわしかったのにちがいないのだ。
そしてもし、イエスの説法がそうだとしたら、聖書の記述全体がきっと同じような壮大な寓意の体系なのだ。
そこではいにしえの、あのおおどかな民話の手法が、そのままに踏襲されていた。
そしてまた往時の民衆もまた、まるで民話を聞くように素直な気持ちで、それらの虚構の物語を受け入れていたのだ。
それはけっして無知蒙昧ということとは違う。
神は六日で世界を造り、七日目に休まれた?
そんな記述を、まさか本当に、額面通りに受け取る者などいない。 たとえそのとき彼らが、その件にいちいち納得して頷いていたとしても、それは神話の叙述の屈折を直観的に理解しながら、その向こうに託されたものに対して、頷いていたものにちがいないのだ。 だとしたらむしろ、そんなアルカイックな絵解きを理解できずに、単に語りの様式にすぎないものを、字句通りに解釈して目くじらを立てる今の私たちの方が、はるかに知的洗練を欠いているとは言えないのだろうか?
もとよりそれは私たちの科学の公理と、いささかも齟齬するものではない。
宇宙学者の説くビッグバンも。星の輪廻も。地球の誕生も。それらのすべてをそっくりそのまま受け入れながら、それはただ「神はそのようにして世界を造った」と言いなしているにすぎないのだ。 いつでももっとも物議を醸す、あの進化の歴史についてもそれはきっとそうだった。
神は人を造りたまえり——だがしかしそんな聖書の叙述も、本当はけっして進化の存在を排除するものではないのだ。
すべてはここでもまたあまりにも詩的な、言葉の綾にすぎなかった。
だとしたら?
「原始の海の生物から幾十億年の進化の時間をかけて、神は人間を造った」。聖書の文言をそんなふうに読み替えることができれば、何のことはないそれはまさしく、私たちの科学の結論そのものなのだ。
それは確かに、ずいぶんと乱暴な譬えのように思えるかもしれない。
だがしかし、それはけっしてそうではないのだ。
それはそうだろう。もし「神」と呼ばれるものがあるとしたら、それはもちろん時空を越えた全能の存在だった。
そんな絶対者の基準から見たときには、幾十億年の時間もただ取るに足らない長さでしかない。
だとしたら、そんな須臾の時間に行われた工程を、聖書がただ素っ気なく「造った」と言い成したとしても少しも不思議ではないのだ。
いわば進化論が人の視点からなした叙述を、聖書は神の視点に置き換えて行った。——ただそれだけのことにすぎないのだ。
そうだった。
猿から人への幾千万年の時間を掛けて、いやそれをいうならアメーバから人へ数十億年の時間を掛けて、それは人を造った。
もちろん私たち「造られたる者」の有限の認識は、そんな雄大な時の流れに、一連の営みを認めることはむずかしい。
だがしかし、永遠に存在するあのもの、「造る者」の破天荒のスケールでは。それは確かに図工室の中の十五分と同じ、たった一つの創造の行為なのだ。
本当に、それはちょうど図工の時間に、少年たちが作る塑像。
そこでは初めから、目鼻立ちまで整った、人の姿ができあがるわけではない。まず粘土の塊を棒状に延ばし、角のようなものが胴体に生え、角がやがて手足となって、最後の最後に人の貌(かんばせ)が刻み込まれる。
そしてそんな製作の過程では、何度もおよそ人ならぬ生き物の姿を現しながら、級友の失笑を買うこともある。
だとしたら我々もまた、そのようにして造られたのだ。
初めは土の固まりにすぎなかったものが捏ね上げられ、確かに科学者たちが突き止めた系統樹に沿って、初めはアメーバの最後は猿の形を現しながら、現在の姿に至ったのだ。
そんなふうにして、確かに「神は人を造った」。だとしたら、聖書のそんな記述は矛盾どころではない、進化論の科学そのものなのだ。——
01・03 〈神を譬わば〉
「宇宙をかつて動かし、今も動かす根本原理」。
その有様を極めるために、そうしてあまたの宗教と哲学が織りなされた。
だがもちろん、それはあくまで彼らの信じる、彼らの神だった。 そしてもしそうだとしたら、私自身の思い描くそれは、一体どのようなものなのか?
もちろんその姿を手短に語ることなどかなわない。
それは私がこれから数百枚の紙数を尽くして、まるで煉瓦を組み上げるように少しずつ現していかねばならぬもの——ただその手始めとして、私もまた彼らと同じように「譬えにて語る」ことによって、そのおぼろげなイメージだけでもかろうじて伝えることはできるかもわからない……。
*
「宇宙をかつて動かし、今も動かす根本原理」。
確かにそれを「神」と言いなすことには、しばしば語弊があった。だがしかしそれを言うなら、そのように呼ばないこともまた同じくらい、誤解を招くかもわからない。
だとしたらやはり、私はここで、あえてその名を用いよう。
もちろん神の定義がそうして「宇宙を動かす根本の原理」である以上、それはまず、すべからく時空を越えた存在でなくてはならない。
それが動かしているのは、けっして今目の前の出来事ばかりではない。
無辺の宇宙のすべてを、かつても動かし、これからも動かすそれは、すべての時空をその内に包含する、絶対の存在でなければならないのだ。
そしてまた、それはすべからく全知の存在でなくてはならない。
天が下のすべての現象に、それは直接にたえず関与している。
そんな濃密な接触を、私たちの言葉に置き変えて、「知る」と呼んだとしても誰も異存はないだろう。
そしてまた、それはすべからく全能の存在でなくてはならない。
これまでの宇宙に起きたすべての事柄は、それによって引き起こされた。そしてこれからそこに起きるだろうすべてのものも、またその力に促されるよりほかはないのだ。
だとしたらそれは確かに、かぎりなく「全能」ということに似ていた……。
そうだった。全知で全能の、時空を越えた絶対的存在。それが誰もが思い描く神の定義だった。だとしたらそんないわば神の公理から出発して、その先には一体どんな思弁が導かれていくのか? 否。その前に手短に譬えれば、それはおおむねどのようなものなのか?
*
全知で全能の、時空を越えた絶対的存在。——
例えば基督者は、それを「父」に譬えた。
確かに、無力な幼子にとって、父親は全知で全能の、超絶の存在のように思えているかもしれない。——だとしたら、誰にでも覚えのあるそんな懐かしい感覚に、訴えることは絶大な効果があった。 だがそれは、あくまでも過去の話だった。
私たちのこの時代では、そうして直接人になぞらえるやり方が、「神」をかえって荒唐無稽な、おとぎ話の人物のように思わせてしまう。
もちろん私は、そんなやり方は選びはしない。
私たちの親しく見知ったものの中から、神をなぞらえるものを探すとしたら、私の知るかぎりそれは、たった一つしかない。
それは「理性」とも呼ばれ、「精神」とも呼ばれる、私たちの内なる機能だった。
そうだった。私たちの理性。
それは確かに、時空を越えていた。それは自在に過去へ遡り、未来を企図し、無辺の彼方の出来事に、思いを致すことも可能だった。
それはまた、意のままにすべてのものを、作り出すことができる、全能の存在だった。私たちが思いを凝らした瞬間に、まるで呪術を用いたかのように、私たちの意識のスクリーンの中に、望みのものの姿がたちどころに現れる。
それはけっして、すでにある物の形が蘇るばかりではない。ときにそこには、かつてこの世にありえなかったような、異形のものが組み立てられ、またときには誰も思わなかった、斬新な物思いを紡ぐこともできる。
だとしたら私たちの理性も、少なくとも私たちの意識のスクリーンの中では、確かに全能の造物主として振る舞うのだ。
またそれは、少なくとも私たちの意識のスクリーンの中では全知だった。
そこに生起するすべての事象は、理性によって臨まれ、知悉されている……。
そんなふうに、私たちの理性は。
あくまでその領分の範囲内で、時空を越え、全知であり、全能であった。
だとしたら、私たちの公理の定める、あの神というものをたとえるのに、これほどふさわしいものはなかっただろう。
もちろん「神」が「理性」そのものだ、と言うつもりはない。
それはあくまでも、私たちの感覚経験を越えた、形而上の存在であり、どうあがいたところで、その姿を直接知ることはありえないのだ。
だがしかし、一種の思考実験のようなものを繰り返し、類推に類推を重ねることによって、ひょっとしたらそのおぼろげなイメージだけは、かろうじてつかみとることができるかもしれない。
それは私たちの理性に似たもの。ただその規模だけが、無限大であるもの。
だとしたら、試みにこんな想像をしてみるがよい。
私たちの意識の、小世界の外苑が次第次第に、——はてしなく引き延ばされ。そしてやがて、拡大した意識のスクリーンが、宇宙の全体と一致する。そのとき私たちは、「神」となるのにちがいない……。
*
そうだった。
神とはいわば、そのような存在なのだ。
ちょうど私たちが思い、浮かべ、夢見るように、この宇宙の全体を思い、浮かべ、夢見るもの。——
もちろんそんな物言いを聞いて、人はこう意義をさしはさむだろう。
私たちの宇宙は堅固な物質から、できあがっているはずだった。それを何か、神が思い浮かべる幻のような言いなすのは、矛盾ではないのか?
そんな物質と呼ばれるものの正体も含めて(第五章)、私が思い抱く「神」の詳細については、これからさらに章を改めて、説き進めていかねばならない。
02 自我
02・01 〈私たちの自我とは?〉
そうだった。
私の考える神は、私たちの理性にたとえられるような何かだった。 私たちの理性が思い、浮かべ、夢見るように、この宇宙の全体を思い、浮かべ、夢見るもの。——
だがしかし、ひょっとしたらそれは、ただの偶然の相似ではない。 ひょっとしたらその二つは本当に、目に見えないどこかでつながっている。否。それを言うならそれらはその実、全く同じ一つのものであって、たまたま今その呼び名と位相を、変えているにすぎないのかもわからない?……
だとしたら、私もここで、しばらく「神」を離れてみたい。
翻って、この私たち自身は、一体どのような存在なのか?
私たちの理性。私たちの精神。目に見える外側の肉体ではない、内側にぼんぼりのように灯った、「我」と呼ばれる意識の正体は? そしてもしそれがそうだとしたら、私の「神」と、それはどうかかわっているのか?
02・02 〈自我の病〉
私たちがそれぞれの内に抱えたこの自我というものの、正体は一体何か。あるいは少なくとも、私たちはそれを、どのように思い描くべきなのか?
その点についてもまた、この国のこの世代の感覚は、とてつもなく偏跛だった。
そうだった。
彼らの多くはおそらくは心の底のどこかで、こんなふうに感じているのだ。
「我」と呼ばれるこのものは、宇宙を統べる座標の、中心に置かれた何かだった。
否。ひょっとしたらそればかりではない。「私」と「そうでないもの」、「内側」と「外側」、——そんな慣れ親しんだ発想に従えば、それは「非我」と宇宙を二分する、はてしなく広大な領域だった。
そしてもし、本当にそれが宇宙の半ばを占めるとすれば、その安危は宇宙そのものの存亡に匹敵する大事だった。
だとしたら彼らが、ただひたすら目先の「我」の幸福だけに、かまけているように見えるのも理なのだ。
もちろんそこには、「他者」と総称される、違った「我」があった。だがそれは彼にとって、あくまでが外の世界を造り上げる、けし粒のような無数の要素の一つにすぎない。「内」のすべてに唯一君臨する、王たる「我」の怪偉とは、もとより比類すべくもない……。
もちろん彼らとて、頭ではそれが違うとわかっている。確かに理屈だけで言うなら、どう見たって「我」もまた、無数のけし粒の一つだった。だがしかし、心の奥底のどこかでは。彼らは間違えなく、そんな圧倒的な感覚に謀られながら、日々を暮らしている……。
だとしたらそれは、この国のこの世代を蝕んだ、忌まわしい自我の病。
その症状は、単に傲慢というばかりではない。
倨傲はまた、孤独の裏返しだった。もし「我」に並び立つ類がないとしたら、そこには語り合う友もまた、本当はないのだった。
また倨傲は、不如意の裏返しだった。王者たる彼らの矜持に、ふさわしいような境遇は、滅多に与えられない。あさましい我執と貪婪のあげくに、訪れるのは栄華でも名声でもなく、たいていは間抜けな貧乏暮らしだった。たとえ奇蹟のような確率で、具足がもたらされたとしても、絶対の存在には望まれるはずの不老不死は、けっして能うことはない。
また倨傲は、殺伐と背中合わせだった。もし「我」が宇宙の半ばを占めるとしたら、それは外の世界と対置され、互いに張り合うような何かだった。いわば宇宙に残された、限りある甘味を奪い合う敵同志。——
そうだった。この自我というものにとっては、境の内側の幸福の総量だけが問題であり、そのためには外側には、むしろ飢渇がある方が自然なのだ。だとしたらそこには、確かにうるおいとは程遠い、殺伐の気がいつでも付き纏っていた……。
それはこの国のこの世代を蝕んだ、忌まわしい自我の病。
確かに遠い過去の時代には、それはけっしてそうではなかった。 例えば、どこかヨーロッパの片隅の鄙びた教会で、祈りを捧げる農夫たち。
彼らにとって、「我」とは神の造った世界の無数の歯車の一つにすぎず、ただその栄光を称えるためだけに、回り続ける何かだった。
だとしたら、たとえ今はの際が訪れたとしても、いたずらに生を愛惜することはない。そうして今しも命を召そうとする、偉大なるものの力を畏こみながら、微笑みのうちに息をひきとることもできたのだ。
こなたの東洋でも、それは同じだった。
そこでは人は、宇宙という大河の水に浮かぶ、小さなうたかたに譬えられた。
もちろんそれは必ずしも壮大な、「宇宙」である必要はない。
それはときにはごく控えめに、「国」であり、「村」であり、「家」であったかもしれない。
いずれにしても「我」と呼ばれるあのものは、あくまでがただ何か大きな全体の一部であり、そんな連なりの上にちょこなんと座しながら、日々を暮らしていたのだ。
だがしかし、いつの日か、——初めは西洋の片隅に兆した時代の夜明けが、たちまち四方の空を払っていった。
そんな近代の黎明に、同時にあの自我崇拝の風土病もまた、否応なく広められたのだ。
それまで世界の片隅に、つつましく控えていたはずの「私」が、いつしかその真ん中に、居すわることを始めた。
それは単に、居場所を変えたばかりではない。そうして世界を統べる、座標の中心に置かれた瞬間から。それはまるであの原始の宇宙のように、無限の拡張を始め、たちまち非我と張り合うばかりの、巨大な領域に育ったのだ……。
02・03 〈自我のイメージ〉
もちろんそれは、本当はけっしてそうではない。
私たちの自我はただ一人世界を睥睨する、倨傲の存在とは違う。けっしてそのようなもので、あってはならないのだ。
だがしかし、だとしたらそれは本当は一体、どのようなものなのか?
その有様を正しく伝えるために、私は再びまたここに三つの譬えを記しておきたい。
それはまず第一に、連山のイメージだった。
そうだった。
峰の頂きに立つとき、なるほど人は絶対的に孤独である。彼方にはもちろんあまたの峰が望め、そこには人影さえ認めることができるかもしれない。だがそれらの間には、広大な虚空が仕切っていて、彼の立つ百米四方の台地は、あくまでも隔絶した、閉じられた空間のようにさえ思えている。
だがしかし、それはそうではないのだった。
確かにそれは、今は目に見ることはできない。だが本当は、彼の踏み締める足元には、うずたかい土が山となって積まれ、緩やかな裾野を広げながら、そのふもとでは彼方の峰々とも、あますところなく連なっている。
否。それは本当は、「連なって」いるのではない。
その実それらは、そもそもの初めから同じ一つのもの——大地と呼ばれるあの同じ一つの存在なのだった。
それらの一つ一つが互いにどんなに隔り、似つかぬものに見えようとも。その実かれもこれもそれの隆起が生んだ、さまざまな形であるにすぎない。
同じ一つの大いなる存在が、——生と力の無窮の根源が、たまたまそれぞれの位相の中で、それぞれの姿を表したもの……。
だとしたらもちろん、それらは別の何かではない。それらもまた同じ「私」、少なくとも「私たち」と呼び慣わされるべき何かなのだった。
あちらの頂きに立つとき、世界は一体どう見えているのか。
もちろんそれはただ推し量るだけで、本当に知ることなどかなわない。あくまでも人は、与えられたこの眺望の中を、生きていくしかほかに術はないのだった。
だがそうして、無数の「私」の無数の生を、ただ予感するだけでも、もはや孤独に陥ることはなくなるであろう。
もちろん、乗り越えられるのは、ただ孤独ばかりではない。
我執も失望も、——否。彼がこの峰に息耐えた後にも、無数の「私」たちが無数の眺望を伴いながら、彼方の峰に生き続けていくとしたら。そこには誰もが長く待ち望んではたせなかったあの「永生」さえ、手に入れることができるのかもわからない……。
*
それはまた、たとえば水溜まりにも似た、何かだった。
雨上がりの野辺に、それぞれの姿で打ち捨てられた水溜まりは、それぞれの形に囚われて、逃れることは永遠にかなわないように見える。
もちろん同じ草むらには、本当は無数のそれらがあるにはちがいなかった。
だがしかし、そんな「私」を繋ぐものは、何もないのだ。そればかりかそこでは、互いを知ることすらないままに、ただ時ばかりが流れていくようだった。
だとしたら確かに、補縛は完全であり、孤独は絶望的であるように思える。
だがしかし、それは本当は、そうではないのだ。
そうしてそこに雨となって降る以前には、それは——それらはきっと、海だったのだ。
そのころ我と彼を隔てるものは何もなく、ただ一つの水に連なって、南の島に打ち寄せていた。
いや、それを言うなら七つの海さえ、何一つ仕切るものはない。それらはただ、はてしない水の嵩となって、無限の力と豊かさを内に秘めながら、そこに湛えられていたのだ。
それはけっして、かつて海であったばかりではない。
今のこの水溜まりの姿も、また本当は仮の姿にすぎず、いつの日にかもちろん、跡形もなくそれが干上がるときがある。
そして「私」にとっては、それは死と思え、そうして滅び行かねならない「我」のはかなさに、きっと震えおののくことだろう。
だがしかし、それはそうではないのだ。それは本当は終りではなく、新しい変転の生の始まりだった。
確かに、そうして地を離(さか)ったそれらは、蒸気となって空に上がり、大きな白い雲を作る。
そこでは再び、彼と我は区別をなくして、渾然一体の総和であることを始めるのだ。
だとしたら、そうしてそれらが、やがてまたかつてのように、あの海に還る日もまた遠くはないのにちがいない……。
そしてもし、それがかつてそうであり、これから先もきっとそうであるとしたら。
どうして今もまた、それが海である、と言いえないのだろうか? 確かに今、砕けた鏡のように、散り散りに野辺に撒かれた水溜まりは、一見海には似つかない。それぞれのくぼみに囚われた、水と水とを繋ぐものは、どこにも見当たらない。限りなく矮小で、孤独な存在?
だがしかし、子細に目を凝らして見れば、それはそうではないのだった。
水の面に映った景色は、確かに切り取られた、空の断片でしかなかった。だがしかし、ジグゾーパズルの要領でそれらを繋いでいけば、確かにそこには、一枚の蒼穹ができあがるにちがいないのだった。
だとしたら、もう一度改めて、雨上がりの野辺を眺めてみるがよい。
そのとき人は、それまでばらばらに思えたものが、その実何か大いなる全体の、部分であったことに気付くだろう。それぞれの水の形の中に囚われて、限りなく個別に存在しながら、それらは極めて逆説的に、同時にそのままの姿で総和として、——海として存在しているのだった。
確かに、もし海というものが、本当に変幻自在の水によって、作られているものだとしたら。そうして草地の隙間によって隔てられ、まだらに広がった海というものが、あったとしても少しも不思議はないのだ……。
*
それはまた、いわば無数の眼球にも、譬えることができた。
そうだった。例えば私たちの双の眼を、考えてみるがよい。
少なくとも物理的には、二つは相渉ることのない、個別の塊だった。
いわば右目は左目の存在に初めから気付かないか、気付いていたとしても、「我」が少しも与かり知らぬ、「他者」として認識されている。
それぞれはただ、それぞれの虹彩を通じて、それぞれの世界を映しているだけだ?——だがしかし、本当はそれは、そうではないのだ。
それぞれの目には、——「我」には窺い知らぬ奥処で、その実二つは、目に見えない細い糸で繋がっていて。その糸の行き先で、互いの映しだす世界は、たえず重ねられ、統合され、補正されている。
だとしたら、そのものの次元から眺めれば、——たえず重ね、統合し、補正するものの視座から眺めれば、別個と思えていたものはその実ただ同じ一つのものの、二つの機関であるにすぎない。それはけっして「我」と「彼」とではなく、同じ一つの「私」、少なくとも「私たち」と呼び慣わされるべき何かなのだ。
互いに無縁のように見えながら、その実同じ一つのものの、別個の機関にすぎないもの。
だとしたらそんな眼球のようなものが、ただ二つではなく幾億と、無数にちりばめられた姿を想像してみたまえ。
それこそがこの、宇宙の姿なのだ。
もちろんそれぞれの眼球は、その眼窩の中に嵌め込まれたまま、抜け出すことはかなわない。——私たちの意識は、肉体の檻に囚われて、ただそれぞれが映しだす世界の中で、それぞれの生を生きるしかないのだ。
だかしかし、本当は窺い知れぬ奥処で、それらの意識と意識は繋がっていて。
見えない糸の先のそのものは、そうしてすべてを統合しながら、宇宙の全体を映し、宇宙の全体を生きているのだ。
だとしたらここでもまた、そのものの超越の次元から見れば。一つ一つの人の意識は、その実ただ同じ一つのもの無数の機関であるにすぎない。そこには「我」と「彼」の区別はなく、同じ一つの「私」、少なくとも「私たち」と呼び慣わされるべき何かなのだ……。
02・04 〈神と自我と〉
私の思い描く「我」とは、確かにそのようなものだった。
それはちょうど連山のように。野辺の水のように。そしてまた数多の眼球のように。
その一つ一つは世界の片隅に寄寓する、けし粒のような存在。だがしかし、互いが互いと連なることで、それらは同時にはてしなく巨大な、総和を作り上げている……。
そうだった。それぞれが見守る、ちっぽけ生のドラマを合わせあうことで、それでもそれらは結果として、世界の全体を夢見ていた。それはいわば、宇宙をすっぽりと覆った無辺際の意識の、無数の局部にすぎないもの……。
宇宙をすっぽりと覆った無辺際の意識——だがしかしもちろんそれこそは、私の考えるあの「神」であるに他ならなかった。
だとしたら言い換えれば、「我」とは神の局部であり、「神」とは同時にすべての私たちであるような何かなのだ。
そしてもし神が「私」であるとすれば、それを知り、それに思いを重ねることもまた、けっして難事ではないのににちがいない。
そうだった。
私たちが閉じこもる、この狭苦しい自我の穴蔵を抜けて。
その向こうから眺めたとき、世界は一体どのように見えているのか?
神を知るということは、きっとそのようなことなのだ。
その向こうから眺めたとき、世界は一体どのように見えているのか——もちろんそれは、ただ推し量るしか、知る術ない。だがしかし、そうして予感によって手に入れた視座から、先刻まで見えていた世界の姿は、確実に正されていく。
否。それはただ、正されるのとは違う。そうして得られた新しい眺望を、まるで右目が左目と合わせるように、一つ一つ重ね合わせていく。そのたびにそこには、それまでは想像だにできなかった豊かな奥行きが、加えられていくのだ。だとしたら、そんな作業のはてには、けっして人にはかなうはずもなかった、神々しい観照の境地に辿り着くことも、また可能になるのかもしれない。
もちろんそのときは、あのすべての懊悩が、すっかり止んでいるのにちがいない。あなぐらにの中だけにかまける我執も、殺伐の争いも——。
たとえばそこでは、訪れるかもしれないどんな災厄も、安んじて受け入れられてしまう。
そうだった。
そんなふうに外側の、超越の次元から眺めたとき、不幸と呼ばれるものもまた、本当は少しも取るに足らないものだった。
それはただ「自我」と呼ばれるあの境界の、内側だけの出来事だった。だとしたら、たとえそこにどれだけ負の要素が満ちようとも、——たとえ破滅が訪れようとも、外側の世界の全体には少しも関わりのない、些細な秩序の綻びにすぎないのだ。
むしろそこに、宇宙という名の壮大なドラマが繰られるためには。ドラマの筋書きには愉快な起伏があり、役者たちの半分くらいには、やはり悲劇の運命が準備されている方が自然なのだ……。
03 修行
03・01 〈言葉ではなく〉
宇宙をかつて動かし、今も動かす根本原理。
ちょうど私たちが思い、浮かべ、夢見るように、この宇宙の全体を思い、浮かべ、夢見るもの。
「我」とはそれの局部であり、それはまた同時にすべての私たちであるような何か。——
私の思い描く神とは、確かにそのようなものだった。
もちろんかくまでに微妙な、形而上の主題を語るとき、言葉はしばしば無力だった。
そこでは初めから何も伝わらないか 伝わったとしてもせいぜい、眉に唾つけて伺うというだけに終わってしまう。
もとより神とは、そうして説き、証されるものとは違った。
それは私たちの生のただ中を、いつしか訪れるもの。
例えば泣き明かした夜明けの、朝日に輝く葉露の中に、気づいたらそれはいた。——
だがしかし、そんな神秘の体験をただ待ち続けるだけではなく、自ら進んで神を知る手立てがもしあるとすれば。
それはやはりあの「行」というものに、よるしかないのかもしれない。
確かにおよそあらゆる宗教において、修行と呼ばれるものが工夫され、尊ばれてきた。
それはいわば、私たちの人生に降り立つはずの啓示の瞬間を、擬似的に体験するための仕掛けのようなもの。
そんな仕掛けを用いることで、私たちは言葉にも理屈にもよらず、ただ直覚において神を知り、神に思いを重ねることができるのだ。
だとしたら、私もまたここで、しばし言葉を離れよう。
私の思い描く神を伝えるたつきとして、いたずらに饒舌な説法によるのではなく。ただ人の心にごく自然のうちにそれが訪れ、眼を開くことを促すために。
そのためには一体、どのような修練が、積まれなくてはならないのか?
そんな思案のためにこの一章を割くことは、けっして無駄にはならないだろう。
03・02 〈神を知るたつき〉
それは本当は、薄汚れたとたん屋根の並ぶ住宅街でも、型にはまったように植え込みが配された、公園でもかまわないのだ。
だがしかし、修行の取っ付きということで言うなら、やはり自然の中の、絵的な趣のある眺めのほうが、はるかにくみしやすいだろう。
ともかくもそんな風景を前にしたら、まずはいつもと同じように、漫然と辺りを見回すのだ。
そしてそれから、ゆっくりと目を閉じる。
一秒。二秒。瞼の裏の残像がすっかり消えたのを確認したら、今度はそこに自分自身の意思の力で、先刻まで見えていたものを、思い起こして浮かべてみる。
もしそこに風景の何一つ蘇らなかったとしたら、先刻までの私たちは、見ていたようでその実、何一つ認識してはいなかった。——身体の器官としての眼球は働いていても、精神の機能は少しも、関知していなかったことになる。
そんな場合には、恥じ入りながら再び瞼を開き、今度こそしっかりと目の前を睨みつけた後で、同じ実験を繰り返すのだ。
もちろん今度は、風景のあらましが、——その輪郭や色彩の案分が、おおむね再現できたのにちがいない。
だがもちろん、訓練は間違ってもそこで終わりではない。
もしそれが神を知る修行だとしたら、当然のことながら、先にはもっとはてしない苦行の道程が待ち構えているのだ。
そうだった。大まかな見取り図だけでは、少しも十分ではない。 それぞれの樹木の枝の、本数や位置までが正確に写実され、——否。それを言うなら一枚一枚の葉の、葉脈の図柄までもが、まるでルーぺを覗くかのように精密に、把握されるのでなければ足りないのだ。
しかもそうして倍率と、解像の度合いを増しながら、同時に画角は四直角のすべてを収めていなければならない……。
もちろんそんな文字通りの神業は、本当はけっしてかなわない。
人間の認識に、限度というものがある以上、どんなに訓練を繰り返したところで、なしとげられるものではありえないのだ。
だがしかし少なくとも、それができたと錯覚される程の段階にまで、知覚を研ぎ澄ましていく。
そうだった。たとえそれが、独り合点の思いこみにすぎないとしても。確かに、そんなふうに実感できた瞬間に、私たちはきっとこう口にするのにちがいない。
「これこそが神の認識なのだ」と。
*
確かに、そんな修行を根気よく積み重ねていくことは、きっと神を知るたつきとなった。
そしてそれはけっして風景のような、視覚の情報ばかりではない。
私たちが習い覚えた、あらゆる知識についても、おそらく同じような作業を施すことができた。
それは書物と呼ばれるほどの、大それたものでなくともかまわない。例えば高校の教科書程度の、入門書があれば十分なのだ。
試みに生物の、テキストを紐解いてみるがよい。
そこには思わず息を飲むような、畏敬すべき造化の妙が、滔々と説かれていた。
壮大な進化の歴史が、いかに限りない生物の様態を生み出したか。 受粉や生殖の多岐の方式が、それぞれの環境に応じて、使い分けられるさま。
もっと顕微鏡的に言うなら、遺伝子の螺旋の一捻りが、生命現象をいとも容易に支配してしまう魔法の仕掛け……。
だがしかし、それらはそうして、学ばれるだけでは足りないのだ。ただ空念仏として、左脳の引き出しにしまわれるだけでは、そんなものはけっして叡智とは言えはしない。
だとしたら、ここでもまた、眼を閉じるべきなのだ。
瞼の裏に、それらのすべてを思い描くように努めてみる。
姿のあるものはその姿を、ないものもまたその直覚的なイメージを、まるで眼に見るように浮かべてみる。
眼の前の庭の植木が。先刻から部屋の中を飛び回っている銀蠅が。あるいは直接の視界を越えた、地球上の生きとし生けるものが、そのようにして——書物に説かれた通りにそこに在るさまを、はっきりとした手応えで感知できたとき。
そのときに私たちは、また再び、こう口にするのにちがいない。 「これこそが神の認識なのだ」と。
生物の次は、物理だった。
ビッグバンの始まりやら、宇宙の膨脹やら。恒星の誕生から、超新星の爆発まで。否。それを言うなら、もっとミクロの宇宙というのもあって、そこでは極小の原子の核の回りを、まるで惑星のようにいくつもの電子が巡っていると言う……。
だとしたらここでもまた眼を閉じて、私たちを取り巻く世界のすべてが、私たちのこの肉体さえもが、そうであるさまを思い浮かべる。
まるで神の秘法を教える万陀羅の図ように、大小無数の円環の連なりが、無窮の宇宙を造り上げている、——そんな絵姿を、まるで眼で見るような、明確なイメージで捕らえたとき。
そのときに私たちは、また再び、こう口にするのにちがいない。 「これこそが神の認識なのだ」と。
そしてまた、人類の地誌やら歴史やら。
私たちが今あるこの時、この場所だけではない。地球上のどんな片隅に、どんな人間の暮らしが送られているのか。どんな過去の出来事が、人間たちの今を形作ったのか。
そしてそれらの、時間と空間の大きなうねりの上に、今のこの私たちが泡沫のように浮かんでいる。——そんな己を越えた何かとの連なりを、単に理屈としてではなく、瞼の裏のイメージとして、巨細に捕らえたとき。
そのときに私たちは、また再び、こう口にするのにちがいない。 「これこそが神の認識なのだ」と。
*
そんなふうに眼を閉じて、目の前の風景と習い覚えた知識のすべてを、瞼の裏に思い浮かべる。
そんな修行をたえまなく続けることは、確かに神を知り、神に思いを重ねるたつきとなった。
眼を閉じて、——だがもちろん、それはあくまでも修行の第一歩の、方便であるにすぎない。
確かに、ちょうど結跏趺坐の座禅者が半眼の態勢を取るように、そうして視覚の猥雑な情報を排除してしまう方が、世界の真理の本源を見据えるのは、かえってはるかに容易なのだ。
それが証拠に、眼を開いた瞬間に、たいていは達したはずの悟りから、たちまち転げ落ちてしまう。
そのときには、瞼の裏にあったはずのすべての叡智は雲散霧消して、眼に映るのは従前と少しも変わらない、風景の曖昧な形象ばかりなのだ。
だとしたらそこから先に第二の、本当の修行の段階が始まるのだ。 眼を閉じて、思い浮かべ、眼を開き。眼を閉じて、思い浮かべ、眼を開き。
そのようにして、眼を開いた後にもなお、瞼の裏にあったすべてのものが、目の前の事物の向こうにそのまま透かし見られるまで。 ただそれだけの教程で、どれだけの時間がかかるのかわからない。
だがしかし、確かにそのことがかなった瞬間に、私たちは初めて神々しいまでの光に包まれた宇宙の実相を、覗き見ることを許されるのだ。
もちろん、そうして顕れたはずの真理の姿も、初めはたいていものの五分で費えてしまう。
だがやがて、五分の保持が一時間になり。一時間が一日になり。ついには常住に、見開いたまま眼の前に、それを見続けることがかなうようになる。
それこそはきっと、修行の果てに訪れた、あの最後の境地だった。
本当に、そのときに私たちは、無窮の宇宙のその細部にまで思いを重ねながら、私たち自身の日常を生きることを始める。
だとしたらそれは確かに、「神になった」ということと、少しも変わりはしないのだ。——
03・03 〈科学〉
そうして目の前にある風景の、すべてに意識を重ねること。
あるいは学び取られた知識の一つ一つに、あまさず思いを致すこと。
そんな訓練は確かに神を知り、神に連なるためのたつきとなった。
もちろんそれが風景なら、文字通り目の前のどこでもかまわない。それはきっと最も手頃な、修行の道具だった。
だがしかし知識を学ぶためには、そこには万巻の書物があった。
そのより多くをひもとき、学者たちの——とりわけ科学者たちの言葉の、逐一に耳を傾ける。
そんな思いが強ければ強いほど、それだけ一層世界と宇宙の有様を学び、だとしたらやはりそれだけ一層深く、神を知ることを許されるのだ……。
*
確かに科学を学ぶことは、いつだって神に至る、最大の道だった。
言い古された言葉を用いるなら、いわば造化の妙を思うことで、その力と栄光への、賛美の気持がいや増すのだ。——
もちろん私の語る神は、あの民話の中の、伝説の人物とは違う。
だがしかし、それがあくまで「世界をかつて造り、今も動かす根本の原理」と定義された以上。その世界の有様を学ぶことは、確かに神を知り、神に思いを重ねる手立てとなるのにちがいない。
例えば、宇宙の発端のビッグバン。
その始まりの、ゼロの時間に。それまでは影さえなかった宇宙は、文字通り「無」から生まれた。
無限小の空間に押し込められた、無限大のエネルギーが、そのとき突然堰を切って爆裂したのだ。
そんな
る力は、単に原始の宇宙に、手荒い誕生を与えたばかりではない。幾百億年の時間を経て、今もなお私たちの宇宙を外へ、外へと、永遠の伸張に駆り立てている……。
そんなふうに、いわば現代の、創世の神話を聞き知らされて。誰もが新たな、畏敬の気持ちを覚えるのだ。
また例えば、遺伝子に組みこまれた、暗号のプログラム。
幾百万と連なった、DNAの塩基の一つ一つが、生物たちの形質と行動の、それぞれの部位を司どっている。
種の有り様が規定されるのも、個の差異が作られるのも、すべてはその設計に従うのだ。
だとしたら、ここでもやはり私たちは、そんな精密な図面を無数に引いた偉大なる手のことを、思わずにはいない。
また例えば木の葉の色や、枝の形に自らを擬す、動物たちの自衛の知恵。
あるいはまた甘美な色や香りで、虫たちを謀って受粉する、花々の企み……。
だとしたら、だとしたらここでもやはり私たちは、狡智を授けたあのものを思わずにはいない。——
*
もちろん人は言うだろう。
それらのすべては、その実けっして何か神々しい、奇跡のようなものとは違う。
例えばビッグバンにしたって、起きていることは少しもこの世のものならぬ、妖異などではない。
それもまたきっと私たちの日常の経験と、同じ物理の法則に従う、同じ物理の現象であるにすぎない。だとしたら、それがただの数式の組み合わせとして、教科書に載せられる日も確かにそう遠くはないのだ、と。
もちろんそれは、おそらくその通りだった。
だがしかしそれにもかかわらず、そのことは創世のドラマの荘厳を、いささかも損なうものではないのだ。
そもそも私が奇蹟と呼びなすものは、けっして解明不能の背理のことを言うのではない。むしろその逆に、あれほどまでに想像を絶する驚異が、あれほどまでにありふれた物理の法則に従ったまま、いともたやすくなされてしまうこと——そのことこそがきっと神秘であり、奇跡であるのにちがいない。
そうだった。もしも目の前の大いなる業が、少しも例外ではないとしたら。それを当たり前のように生み出した、仕組みの方が偉大なのだ。あるいはまた、そのような仕組みを造り上げたあのものが。——
*
人はまた言うであろう。
例えば生物たちのあの霊妙な仕組み——それについてもまた、科学者たちのあざやかな種明かしがあった。
いわく遺伝子の複製には、いつでもなにがしかの確率で、突然の変異の危険がつきまとう。
もちろん劣った変異なら、それはすなわち事故であり、失敗であり、たちまち自然淘汰の洗礼を受けて間引かれてしまう。
だがしかしときにはその逆の、望ましい変異というものが起きて。それだけより逞しく、弱肉強食の戦いを生き残るものが現れる。
そればかりではない。そんな初めは小さな改良にすぎなかったものが、幾世代も繰返されることで煮詰まって、やがて新たな種となり、「進化」となって結実するのだ。
私たちが眼にしているものも、きっとそれだった。
それはけっして、何か謎めいた、神秘の力の賜物ではない。ただいわば小さな偶然の変異が、世代を重ねて累乗されることで、とてつもなく大きな偶然を、——奇蹟と錯覚されるこんな類いまれな形を生み出したのだ……。
だがしかし、忘れてはならない。
そんな科学の教えも、その実いささかも「神」の存在を拒むものとはなりえない。
否。それを言うなら、多くの科学者たちは、また敬虔な神の信者だった。ダーウィンにしたって、かつては神父となることを志したクリスチャンだったのだ。
もし彼らの物言いにいささかも神秘の陰が見あたらないとすれば、それはただ科学の中立のために、言葉を選んだということにすぎない。
偶然と偶然の積み重ねが、造化の妙を作りあげた。——そう声高に主張しながら、同時に彼らはその「偶然」を「神の手」と言い換えることに、少しも異を唱えてはないのだ。
そうだった。あらゆる形而上の主題について、形而下の科学の営みは、けっして「否」ではありえない。それはあくまでただ中立であり、保留であるにすぎない。
科学者たちの突きつけたすべての事実を、素直に受け入れたその先に、——そこに神を見ようと見まいと、それはあくまで私たち一人一人の生き様であり、もとより科学の少しも与り知らぬところなのだ。
だとしたら、多くの科学者がそうであったように、私たちもまたそこにそれを認めよう。
それはそうだろう。
壮麗な宇宙の大伽藍。目を奪う自然の驚異。そしてとりわけ生物たちの霊妙な仕組み。
そんなすばらしい賜物のすべてが、本当に無作為の偶然によって与えられたと考えるのは、あまりにも「虫がよすぎる」のだ。
もちろん偶然と偶然が重なれば、どんな微小な確率も、いつか必ず具現する。それはその通りだった。だとしたら造化の奇跡またそのようにしてもたらされた——そんな言い分だって、あながち成り立たないとはかぎらない。
だがしかし、私たちの健全な感覚の反応は、そんな強弁にたちまち否を叫ぶ。
確かにそれが、理論上そうでありうるということと、実際にそうであるということの間には、ほとんど無限の隔たりがある。
これほどまでにあざやかな巧みを前にしたとき、それはけっしてそうではない。むしろ素直に、すべてを作り上げたものの手を讃える方が、自然なのだ……。
偶然と偶然が重なれば、どんな微小な確率も、いつか必ず具現する。——確かに、それが理屈だった。
やみくもに絵筆を走らせていれば、いつかはモナリザが描き上がる。その確率がどんなに微小であろうとも、けっしてゼロではない以上、そのような論法も十分に成り立つのだ……。
だがしかし、もちろん実際には、それはそうではない。実際にはすべてのモナリザは、画家の内なる思いに動機付けられ、その明快な意匠に従って輪郭され、修正され、絵の具を重ねられたのだ……。
同じように、造化の妙と呼ばれるものもまた、けっして無作為の偶然の結果ではない。あくまで絵筆を執ったあのものによって企図され、構築された造形なのにちがいない。
あの生物たちの霊妙な仕組みもまた、けっして盲目の進化のはてに、たまたまに辿り着いたものとは違う。
順序はまったく、その逆だった。まず初めに今の形が目論まれ、構図と仕様が準備されて、すべての作業はその後に着手された。
すべての工程は、ただ初めの青写真のままに従って、一直線にここに導かれた。——それはもちろん科学者たちの説く通り、突然変異と淘汰を繰り返す、何億年にも及ぶ進化の歴史を通して……。
*
そうだった。
だとしたら確かに、そうして科学を究めることは、けっして神に背を向ける冷ややかな懐疑とは違う。
むしろその逆に、それは神を知り神に連なるための、この上のない修行となるのにちがいない。
宇宙の始まりのビッグバン。生物たちの霊妙な仕組み。偶然という名の神の手が、作り上げた造化の妙。——科学の語るそんなすべての物語に、たえず耳を傾け、思いを重ね続けること。
そんなはてない行の先には、確かにけっして言葉に尽くせぬ「神」の奥義が、覗けているのにちがいないのだ……。
04 輪廻
04・01 〈輪廻?〉
この国のこの世代にとって、それは確かに、笑うべき作り事だった。
輪廻。——そんな言葉を聞いてきまって思い浮かべるのは、英雄武将が生まれ変わるお手軽の物語。あるいは前世の因縁を種(ねた)にする、うさん臭い宗教の類い。
そのすべては、合理主義に慣れ親しんだ精神がおよそ受け入れることのかなわない、子供だましと感じられるのだ。
そしてそれも、むべなるかな。
この国のこの世代にとって、「我」とは世界の中心で「非我」と世界を二分する、重々しい存在だった。
否。たとえそんな特権的な、威光は認めないとしても。少なくと「個」の一つ一つは、この世に二つと同じもののない、希少な存在だった。
それはそうだろう。
私たちの「我」を形成した、さまざまな要因。遺伝。環境。経験。記憶……。
それらのどの一つをとっても、確かに私たちだけの、独自のものにちがいなかった。このようにして生まれ、このようにして生きた者だけが、唯一獲得したとてつもなく特異なもの……。
それらの特異なものの、奇蹟のようなバランスの上に結ばれた私たちの自我は、だとしたらやはり、かけがえのない尊厳を担う何かだった。
それが例えば生まれ変わりのような形で、まるでとかげの尻尾のように、とぎれてはまた再生する?——そんなふうに考えるのは、確かにあまりにも、荒唐無稽な想像なのにちがいないのだ。
だがしかし、もし「我」が、そうでないとしたら?
それがあの、宇宙を夢見る「神」の意識の、ただの局部であるにすぎないとしたら。
私たちの「自我」の向こうに、無数の同じそれらがあり、なおかつ私たちが死に絶えたその後にも、あり続けるとしたら。
だとしたら、——だとしたら確かに、そこに輪廻ということが起きたとしても、少しも不思議はないのだ……。
04・02 〈非人称の自我〉
確かに私たちの自我が遺伝と、環境と、経験と、記憶の因子だけから成り立つと前提するなら。
もちろんそれは、この世にただ一つしかない。他の何にも代わることのできない稀有の存在であり、輪廻というようなことは、起こるべくもないたわごとだった。
だがしかし、それは本当にそうなのか?
それらの因子に規定されることのない、いわば目鼻を持つ前の自我の原型のようなものを、想定することはできないのか?
例えば記憶喪失の、病者の場合なら。
自分が何者で、なにゆえにそこにいるのかを、少しも理解してはいない。
だがしかしそれにもかかわらず、彼は我を我と呼び、我として振る舞い続けるだろう。
だとしたら過去の素性に支配されない、いわば非人称の自我意識のようなものが、そこには確かにあった。
あるいは、ネオンの街を徘徊する、千鳥足の人物も。
否。そんな特別な場合ばかりではない。
例えば誰もが経験する、朝の目覚め。寝ぼけ眼を開いた瞬間の私たちは、昼間の私たちとは違う。
あれほど辛かったはずの昨日の出来事も、そこからはすっぽりと抜け落ちている。
そればかりではない。生まれてこの方の記憶の、すべての集積も。担っていたはずの関わりや、務めや、思いのすべても、——否。それを言うなら自分自身の名前だって、その当座にはまだ、忘れているにちがいないのだ。
もちろんほんの数秒の後には、白紙だった心の電圧が上り、すべては蘇る。
無数の情報が、これもまた無数の脈絡で連結される。そのようにして、あの例のおなじみの状況が、再び自分を取り巻くことを始めるのだ。
それは確かに、私たちの誰もが日々に経験する、不思議な心の空隙……。
だとしたら今、こう自問してみるがよい。
その間には、——すべてを思い出す前には、本当に「私」はそこにいなかったのか?
もちろんあの、通り名で呼ばれる昼間の自分は、すっかり失われていた。
だがしかし、そうしてすべてを剥ぎ取られながらも、そこには確かに「私」がいた。我を我として意識しながら、生きることに努める非人称の自我意識。そんなもう一人の自分は、その間も絶えることなく、続いていたのではなかったか?
*
だとしたらそれは、きっとこんなふうに、考えることができる。
私たちの自我の意識には、本当は二つの階層がある。
一つはもちろん、個人としての意識だった。
それは環境と経験と記憶によって、規定されたもの。この世に唯一の、特異の存在としてそれ自身を自覚しながら、砦の存続と、整合のために努めるもの。
だが一方、そんな個人意識の根底にはもっと大雑把な、いわば生命意識とでも、呼ぶべきようなものがあるのだ。
それは自我の細目には、少しもこだわることない。ただ漠然と、我を我として意識する存在。
過去と未来の、いかなる流れにも意を用いずに、ただこの瞬間を、次の瞬間に乗り継ぐことだけに努めている。それはいわば、ほのかにともった生命の、炎のようなもの。
だとしたらそれは、確かに「魂」と言い換えてもいいような、何かだった……。
もちろん平生は、それらを見分けることなどかなわない。二つの意識が隙間なく一つに合わさって、私たちの自我の認知を作り上げているのだ。
だがしかし、例えば朝の寝覚めや、泥酔のとき。
私たちの個の意識が、いわば油断してうまいを貪る間に、確かにそのもう一つの自分が、姿を垣間見せるのだ。
その間もそれは、少しも休むことなく、私たちの心の奥底に灯り続けている。
否。それを言うなら、表層の「個」の意識が育つよりもずっと以前から、——私たちがこの世に生を受けた瞬間から、それはそこに宿っていた。いわば命の息吹のようなものなのだ。
だとしたら、それはただ「もう一つの」自分であるばかりではない。ひょっとしたら「本当の」自分であるかもしれないもの……。
そうだった。
いわば私たちの表層の意識は、一張羅の赤シャツだった。
お気に入りの着慣れた赤シャツを、いつしか当の本人さえ、自分自身の姿と思いこんでいる。
だがしかし、もちろんすべては錯覚だった。
彼もまた、一日に一度は服を脱いで、くつろぐことがある。
そのときになって初めて、その向こうにあった裸の肉の存在を、思い出すことを強いられるのだ。
だとしたら、確かにこの肉塊こそが、本当の自分だった。
先刻まで纏っていたものは、——着つつなれにしそれがいかに愛着されていようとも、しょせんは外側を包む、布切れにすぎないものなのだ……。
*
表層の、個人の意識の向こう側に息衝く、深層の意識。
記憶も経験も、すべてを剥ぎ取られたところで、ただ我を我として意識する本当の自分。
そんな非人称の生命の意識が、この世界の至る所にばらまかれていた。
「私」と「あなた」。「彼」と「彼女」。
否。ひょっとしたらそれは、けっして人間ばかりではない、無数の「それら」たちも……。
その一つ一つの姿は、もちろんそっくり相似していた。
何しろ個人の仮面を脱ぎ捨てたそこには、もはや何の顔もない。どれもがただ、同じように燃え立つ生命の炎。どんな色にも染まる前の、いわば無地の魂……。
そのうえそれらは、単に形が等しい、というばかりではない。
その実それらを分けるものなど、初めから何一つない。たまたま今それが彼方にあり、これが此方にある、——ただそれだけの、本当は全く同じ、一連なりの存在なのかもわからない。
そしてもし、そうだとしたら。
それらの間にはきっと、一種の互換の関係のようなものが、成り立っているのにちがいない。
「これ」であったものが「あれ」となり、「あれ」であったものが「これ」となる。そんな入れ代わりが起きたとしても、確かに少しもおかしくはないのだ。
否。それはただ、可能であるばかりではない。
そのようなことは、もう実際に、そこかしこで起こっていた。
それは例えば、舞台の上の役者たち。その瞬間彼らは、普段の自分のすべてを忘れ、芝居の中の人物になりきっている。
そのときには旧い記憶や、環境から抜け出たあの無地のままの魂が、新しいそれらの中に、すっぽりと入り込んでいるのだ……。
もちろんそれは、ただ舞台の上だけのことだ。
だがしかし、もしそれがそこで起きるとしたら。
同じような仕組みで、同じような現象が、どこにでも起きないともかぎらないのだ。
そればかりではない。「これ」であったものが一旦滅びたように見えた後、もう一度新しい「あれ」となって再生する、そんな生まれ変わりも。
だとしたら、——だとしたら本当に、輪廻ということが起きたとしても、少しも不思議はないのだ……。
04・03〈だとしたら〉
そうだった。
そんな非人称の自我のようなものが、この世界の至る所にばらまかれ、そこにはいつでも一種の互換の関係が成り立っていた。
そればかりではない。
もしもそれらが、——私たちの魂の根源が、そうして互いに連なった、一つの総体であるとしたら。
本当の「死」のようなものは、もはやそこには起こりえない。
私たちのそれぞれの生が、たとえ終わりを迎えて滅し去ったとしても、大いなるそのものにとっては、それはけっしてそうではないのだ。
それはただその無数の生の相の一つを、手仕舞にしたということにすぎず、すぐまたその後にも別の新しい生の相を、一から映し出すことを始めるのだ。
それはちょうど、植物たちの命と似ていた。
今年もまた、去年と同じ枝が、新しい花をつける。
だとしたら去年の花は、「死んだ」のとは違う。
そうして同じ生命の根が、冬を越してまたそこに芽吹いたのだとしたら、それは「生まれ変わった」ということと、一体どう違うのだろうか?
だとしたら本当に、輪廻ということが起きたとしても、少しも不思議はないのだ……。
*
そしてもしそうだとしたら、私たちの死の恐怖は、たちどころに消え去ってしまう。
そうだった。
私たちの、生まれてこの方の経験と、記憶の積み重ね。確かにそれは、この世にただ一つしかない、掛け替えのないものだった。
だとしたら、私たちのあの表層の自我が、その喪失を哀惜するのはもちろん当然だった。
だがしかし、私たちのもう一つの自我は、——個人の皮を剥いだ奥底の、ただ我を我として意識する魂においては、それはそうではないのだ。
何の目鼻も持たない無地の魂は、もはや少しも、特異な存在などではない。そっくり同じものが、この世の至る所にばらまかれていた。
それはそれであると同時に、それらのすべてでもある。——そんな不思議な条件のもとでは、己れの喪失もまた、少しも危惧するに値しないのだ。
確かに、それ自身が滅した後にも、瓜二つのそれらが、無数にそこにあり続ける。
そのうえまたその後には、同じように瓜二つの新しいそれらが、無数に生まれ続けるだろう……。
だとしたら、ちょうど跡取り息子に恵まれた老父のように、それは安心して、最後の時を迎えることができるにちがいない。——
*
そんなふうに、もし輪廻ということがあるとしたら、死の恐怖はたちどころに消え果てる。
それはまたちょうど、植木いじりをする老人の場合と同じだった。
死を間近に予感しながら、老人たちの表情はやさしく凪いでいる。——それはきっと、彼らが植物たちの姿の中に、いわば転生の雛型を見つけて。あの大いなる命の流れの存在を、理屈抜きで感じ取っているからだ……。
そればかりではない。
そこではすべての常識が、ものの見事に覆される。
例えば「人生の一回性」。一回きりの人生だから、——私たちが呟き続けたそんな呪文も、また効力を失うのだ。
一回きりの人生だから、精一杯生きなければ?——だかしかし、もし輪廻があるとしたら、そんな前提もたちまち崩れさる。
確かに、もしそうでないとしたら。もし生まれ変わりということがあるとしたら。
もっとずっと、肩の力を抜いた生き方だって、きっと可能になるのにちがいない……。
そこでは我執もまた、いとも容易に乗り越えられる。
何しろ今のこの人生は、いわば数ある着替えのうちの、一つでしかない。それがどんなにお気に入りの服装であろうとも、かつてのように狂おしいまでの恋着に、苦しむことはなくなるのだ。
確かに、輪廻ということを知った瞬間に、内側の幸福だけにかまける妄念は、すっかりとやまる。
そのとき人は、初めて「外」に目を向ける。
やがて自分も、生まれ変わるであろう世界のすみずみを、あまねく見渡しながら。
その全体と、全体の中での自分というものについて、たえず思いをめぐらすことを始めるだろう。
そうだった。
そこではもはや、幸福は最大の関心事ではなくなる。
確かに、もし一回きりの命だとしたら、惨めなままの一生は、耐え難い事態だった。
だがもしも輪廻ということがあって、無限の生が繰り返されるとしたら、幸せは別に「次」でもよいのだ。
目の前のこの人生が、どんなに報われぬ、割に合わないものでもかまわない。愚痴一つこぼさずに、今は自分に与えられた役柄を演じ切る。そんな覚悟も、そこには生まれるにちがいない。
確かに、思い出してみるがよい。
どんな芝居の場合だって、幸福な役柄などは、そういくつも設けてはいない。たいていはたった一人の主人公の、ハッピーエンドの筋書きのために、無数のそうでない役者たちが、引き立て役となる。
およそ「美」の要諦が、「対照」というものにある以上、そんな構成もやむをえぬことなのだ。——
だがしかし、もし輪廻ということがあるのなら、それもまた少しも不条理ではありえない。
自分にもまたいつか先の世に、薔薇色の幸福が巡ってくるとしたら、それでもかまわないのだ。
華麗な舞台を回らせるただの油臭い歯車として、今のこの一生を終えたとしても、それも別段、間尺に合わなくもない……。
04・04 〈流れに浮かぶうたかた〉
確かにそんなふうに、輪廻ということが起きたとしても、少しも不思議はないのだ……。
もちろん、そこに実際に起きていることは、世に語られた有様とはずいぶんと違う。
過去の時代の誰かが、そっくりそのまま、今の時代の誰かに成り代わる。いにしえの英雄の生まれ変わり。前世の罪障。——
そのようなものは、あくまでも安直な、おとぎ話の筋立てであるにすぎない。
現実の輪廻はけっして、そのように一対一が対応する、単純な仕組みとは違った。
だがしかし、もしそうだとしたら、それは一体どのようなものなのか?
*
それはちょうど、あの物質の世界の出来事と同じだった。
試みに私たちの肉体を、思い浮かべてみるとよい。
肉体を形作っている物質の素材は、もちろんそのすべてが「外」に由来していた。
それは私たちの口にした食物であり、またその以前には、別の「何か」であったもの……。
だとしたら、それも確かに、輪廻であるにちがいなかった。
だがしかし、もちろんそれは、一対一の輪廻ではない。
私たちのよって来るその「何か」とは、けっして一つだけのものではない。
いわば無数のそれらを、かつて散り散りに作っていた素材が、今新しく寄り集まったのだ。
そうだった。
そのようにして、この宇宙のすべての物質は、たえずその組み合わせを、——その相を変えて輪廻しながら、永遠にあり続ける。
私たちのこの身体は、そんな物質世界の輪廻の相の、一つであるにすぎない。
集散と離合を繰り返すそれらの因子が、たまたま今の、この組み合わせに結ぼれたもの。——
だとしたら、そこに起きていることは、 一対一の生まれ変りとは違う。
過去の宇宙のすべてが、私たちもまたその一部に他ならない、今の宇宙に成り代わる。そんないわば、全体対全体の、壮大な生々流転のドラマなのだ……。
*
だとしたら、きっとそれとちょうど同じことが、あの精神の次元にもまた起こっているのだ。
そうだった。
個の面(おもて)を脱ぎ捨てた、私たちの根源の魂。
その一つ一つは、ただ姿が等しいばかりではない。窺い知れないぬ奥処ですべてが互いに繋がっていて、何かとてつもなく巨大な、総体を作り上げていた。
そうしてできあががった、いわば意識宇宙とでも言うべきもの。——だとしたらそこにはやはりまた、きっと物質の宇宙と同じような構造と属性が、領しているのにちがいない。
たとえば物質の宇宙は、永遠だった。
それ自体は絶えることも、また減じることも、けっしてない。ただその組み合わせが生む無数の相の変化のために、一つ一つの物体があるいは生じ、あるいは滅するように見えているのだ。
それと同じように、意識の宇宙もまたその全体は、不易の存在だった。
私たちの一つ一つの魂は、なるほど死を迎える。だがそれもまた、大いなるそのものの、流転の姿であるにすぎない。
一つの魂が滅びた後には、その先のどこかに、それと寸分違わぬ同じ魂が、ただ位置だけを変えて結ぼほれる。ただそれだけのことなのだ……。
だとしたら、確かにそれは、流れに浮かぶうたかただった。
すべてのうたかたは、なるほどはかなく、弾けては消える。だがしかし、川の流れのそのものは途絶えることも、衰えることもない。——
私たちの命もまた、そんな永遠の、大いなる流れの上にあった。
命のうたかたの、一つが弾けたとしても。その流れのどこかに、すぐまた別の、新しいそれが結ばれるのだ。
また別の、新しいそれ?——
否。それらの二つの姿が、誰の目にもそっくり同じ、一つのうたかた映る以上。それは「輪廻した」ということと、一体どう違うのだろう?
もちろんそこには、これとそれとの、一対一の関係は見当たらない。
消えたうたかたは、一旦流れに帰る。そしてその、川の流れの全体から、再び新しいそれが生まれるのだ。
だとしたらそれは、やはりあの全体対全体の輪廻。——
無数の泡を浮かべた今のこの川の流れが、また別の無数の泡を浮かべた、新しい流れに生まれ変わる。
そんな壮大な生々流転のドラマが、きっとそこにもまた起こっているのだ……。
04・05 〈そして再び、神〉
そうだった。
個の面を脱ぎ捨てた非人称の自我。私たちの根源の魂。
それらは窺い知れぬ奥処で、すべてが互いに繋がりながら、壮大な意識宇宙を作り上げていた。
私たちの一つ一つの魂が死に絶えたその後も、そんな意識の総体はそこにあり続け、彼方に同じもう一つの魂を生み出していく。
それはちょうど、無数のうたかたが生滅を繰り返す河の流れのように、たえずその相を変えて輪廻しながら、永遠に夢見続ける大いなる意識の流れ。——
それは確かに、かつて私が、神と呼んだものと同じだった。
無辺の宇宙をすっぽり内に包み込みながら、同時にそのすべての細部を夢見る、あの「神」と。——
もちろんそんな究極の意識は、けっして私たちと離れた別のところに、存在するものではない。
私たちの意識とは、つまりはそれの局部だった。それは私たち一人一人の人生のドラマを、たえず収奪し共有しながら、いわば私たちの意識を通じて、そうして宇宙の全体を夢見ているのだ。
もちろん神である以上、それは永遠でなければならない。
そしてもしそうだとしたら、神の一部である私たちもまた、きっと同じなのだ。
私たちもまた、やはり永遠に、そこにあり続ける。ちょうど河の流れに浮かぶうたかたのように、あの全体対全体の、霊妙な輪廻を通じて。——
そう思えば確かに、すべてのpending苦悩はたちどころに消えはてる。
輪廻ということを思えば、死の恐怖も、我執も、すべてのおぼつかなさはたちまち乗り越えられ。
ただ庭木をいじる老人のような和みが、心を領するにちがいない……。
05 現実
05・01 〈現実?〉
そうだった。
ちょうど私たちが思い、浮かべ、夢見るように、この宇宙の全体を思い、浮かべ、夢見る無辺際の意識。
たえずその相を変えて輪廻しながら、それ自体は初めも終りもなく、永遠に流れ続けるもの。
私たちの意識そのものが、その一部であるような何か。——
それが私の思い描く「神」だった。
言い換えればこの宇宙は、神の浮かべる刻一刻の想念だった。 その意識のスクリーンの上に幻燈され、繰られていく、絵巻にすぎぬもの……。
*
もちろん、人は問うだろう。
私たちの宇宙とは、堅固な物質でできあががった、「現実」ではなかったのか?
そのすべてを、何か不確かでおぼつかない「想念」のように呼ばわるのは、少しも理にかなわない、と。
だが、否。「現実」と「想念」のそんな小賢しい線引きは、あくまでも「人」のなしたる区別だった。
全知で全能の、——絶対の「神」の次元では、それはけっしてそうではない。
両者を分けるものなど、本当はどこにもありはしないのだ……。
*
「人」のする区別とは、例えばきっと、このようなものだった。
——いわく「想念」とは、ただ心の内に提起された、可能性であるにすぎない。
その多くは、私たちの能力の不足のために、実現できずに葬られてしまう。
あるいはまた、たとえその一つ一つは、実現が可能であったとしても、すべてが同時に並び立つことはない。
一つの道が選ばれれば、それと齟齬するような多くの選択は、そのまま見送られて終わってしまう。私たちの存在そのものが、こうして有限のものである以上、それは当然の理だった。
そしてそんなふうに、いわば無数の「想念」が、篩に掛けられることで。最後に残って成就したものだけが、「現実」となるのだ……。
だがしかし、その実そんな区別は、あくまでも私たちが、——無力で矮小な人間たちが設けた、便法であるにすぎない。
少なくとも、超絶の神の次元においては、それはけっしてそうではないのだ。
確かに、それがそもそも全能の存在である以上、「神」にとっては初めから、かなわぬ思いなどというものはありえない。
あらゆる可能性が、思い抱かれた瞬間に、たちどころ成就してしまう。
言い換えるなら、神が思い抱くことが、すなわち成就なのだ。
そればかりではない。
もし神が無限の器を持つとしたら。互いに矛盾するはずの選択でさえ、そのそれぞれが同時に選ばれて、生まれ出ることができるのだ。
だとしたら本当に、そこには想念と現実の、区別など少しもない。 夢が同時にうつつであり、うつつが同時に夢であるような、不思議な次元が確かにあるのだ……。
05・02 〈たとえば?〉
そんな超絶の「神」と、その「宇宙」の不可思議な有様。
なかんずく私たちの馴染みきった、この「現実」というものと、それは一体どのように関わっているのか?
そのあまりにも深遠な真理を説き明かすために、私はここでもまた、二つばかりの譬えを用いておきたい。
*
例えば無数の枝道を、思い描いてもらいたい。
私たちの住む宇宙は、確かにそんな網の目の姿をしていた。——否。そんな言い方が唐突に聞こえるなら、少なくとも私たちの生きるこの人生には、いつでもそうして分岐の構造が成り立っていた。
そうだった。今もまた私たちの行く手には、いくつもの分かれ道が待ち構えている。
もちろん初めは、それはあくまで「未来」と呼ばれる、模糊とした可能性にすぎない。
今はまだ私たちの立つ四辻だけが、私たちの「現実」だった。その先にあるすべてのことは、ただ「想念」の世界の一つとして、認識されているのだ。
だがやがて、道の一つが選択される。
そこに私たちが足を踏み下ろした瞬間に、「未来」が「現在(いま)」となり、先刻まで想念であったものが、たちまち現実に変じるのだ。
もちろん選ばれるのは、ただの一つだった。
その一つが現実となるのとほとんど同時に、かつては等しく私たちの前にあったいくつもの道が、そうでないものと呼ばれ、——非現実の仮想として片付けられてしまうのだ。
それはちょうど、先刻までの四辻が、過去の思い出となって、葬られるように……。
そしてもしそうだとしたら、現実と想念の境は、確かにほんの紙一重だった。
私たちが今、たまたま身を置いたこの道が、現実となり。そうでないすべてのものは、たまたま過去と呼ばれ、未来と呼ばれ、仮想と呼ばれ、——いずれも想念の世界に属する何かとなる。
ただそれだけで、両者を本質的に分けるものなど、何一つありはしないのだ。
それはそうだろう。
誰がどう見たって、目の前の分かれ道はどれもが何の変哲もない、同じ田舎道だった。それを言うなら、きっと私たちが後にしたすべての行路もまた、似たような無数の小枝の一本にすぎない。互いの間に、何か絶対的な次元の違いなど、ありようもないのだ。
ただそれらに、通りすがりの行人たちが、時々に別の呼び名を付ける以外は。——
だとしたら本当に、すべての区別は、ただ「人」のなしたる便宜にすぎない。
もしも「人」とは違う、無限の存在があるとしたら。
そのものの目にはやはり、すべては違うように、映っているにちがいない。
そうだった。
私たちの選べる道は、確かにただの一本だった。
だがそれは、あくまで「人」の存在の、限界であるにすぎない。 もし私たちとは違う無限の存在が、——「神」があるとしたら、すべての道を同時に選びとることも、また可能なはずだった。
それはここに身を置きながら、同時にすべてのそこにもまた、身を置いている。
いやそれを言うなら、神には過去と未来の区別もなく、あの四辻に立ちながら、すでにそれらの分かれ道の果ての果てまでに、あまねく在ることができるのだ。
だとしたらやはり、そのものにとって、すべての想念はすなわち現実だった。
夢が同時にうつつであり、うつつが同時に夢であるような、不思議な次元が確かにあるのだ。
*
それはまた、例えばあのスロットマシンというものに、譬えることができた。
そうだった。
選択のボタンを押す前の、スロットマシンの画面を思い描いてもらいたい。
そこでは急速に回るドラムの絵柄が互いにつながって、一つの色彩の奔流に変じている。それはあらゆる位相が、渦を巻いてある混沌。——
もちろん私たちの目は、そこに「何か」を認めることはできない。
そこにあるかもしれないものは、実在とか現実とかいった、確かな手応えを伴うものではない。
曖昧で、つかみどころのないの流体。せいぜいが、やがて現実の素材となるための、膠質のようなもの。
だとしたら、それもやはり「在るもの」とは区別された、ただ「在りうべきもの」、——想念と呼び慣らわされた、あの虚の存在だったにちがいない。
もちろん人は、そのような不確定に、いつまでも耐えることはできない。
やがて選択のボタンが押され、ただ一つだけの、絵柄の組み合わせが現れる。
今度こそそれは、くっきりとした描線で輪郭された、移ろわぬも
の。
重厚な質感を伴って視界をえぐり、どこか抵いがたい威厳すら帯びたもの。
そんな堅固な現実を、ようやく手に入れたことに満足して。人はその余の絵柄のことなど、ただ「そうでないもの」として、片付けて終わるのだ……。
だがしかし、それは本当はそうではない。
絵柄のすべては、もちろん曖昧な、虚の像などではありえない。今では目に入らぬどこかで、それでもそれらは相変わらず、確実に存在を続けていた。
もし私たちにそれが見えないとしたら、それはあくまで私たちの認識の、限界ゆえにすぎないのだ。
否。それを言うなら、そもそもの初めから、それはそうだった。
選択のボタンを押す前の、あのスロットマシンの画面もまた。あらゆる絵柄が渦を巻くそこには、本当はけっして何もなかったのではなく、その逆にすべてがそこにあったのだ。
ただこれもまた、私たちの認識の限界ゆえに、私たちはそこに何一つ認めることができなかった。
もしもそこに「人」とは違う、超絶の存在というものがあったとしたら、——そのものの全知の目は、同じ色彩の渦の中に、確かにすべての絵柄が同時に在るのを認めただろう。
そうだった。
確定のボタンを押すこと。たった一つの現実だけを、「実」として選びとること。
それはただ、人のなしたる便宜だった。私たちの有限の認識には、すべてを同時に捕らえ切ることなど、確かにかないはしないのだ。
だがしかし、全知のものにとっては、それはそうではない。
ドラムはずっと、回ったままで構わない。——否。そのようにして、無数の可能性がないまぜられて、流転するもの。ひょっとしたらそれこそが、あの「神」というものにとっての、宇宙の姿そのものなのだ……。
もちろんそれは、私たちの選びとった、この小宇宙とは違う。
私たちが、選ばなかったもの。ありうべからざる想念として、捨て去ったすべての可能性。
その実それらは、けっして消え果てたわけではない。私たちのそれとは違うまた別の存在——また別の小宇宙として、きっと彼方のどこかに在り続けているにちがいない。
そしてまた、もしそうだとしたら。
そこにはそれらすべての、——無数の小宇宙をその中に飲み込んだ、もう一段上の宇宙がきっとなければならない……。
それは今度こそ、本当に無辺の、大いなる神の宇宙。
そこでは何一つ、矛盾とされるものはない。
すべての可能性が、思い抱かれると同時に肯われ、成就してしまう。
想念と現実を、分けるものなど何もない。
夢が同時にうつつであり、うつつが同時に夢であるような、不思議な次元が、そこには確かにあるのだ……。
05・03 〈夢の中の人物〉
それはちょうど、あの選ばれなかった分かれ道。
スロットマシンの、裏側の絵柄。
私たちの住む宇宙とは違う、無数の宇宙が確かにそこにはあった。
もちろんすべては、私たちがただの想念として、——虚の存在として片づけたもの。だがしかしそれにもかかわらず、それらはけっして「偽」ではない、本当の存在なのだ。
だとしたらそれは、数学で言うあの虚の数というものと、同じだった。
二乗が負となるその次元は、私たちの感覚的な体験と齟齬するがゆえに、「虚」と呼びなされた。だがしかし、それはけっしてないものとは違う。
むしろ理論の整合から考えて、そこにあるにちがいないもの。少なくとも、そこにあるべきと判断されたもの。
いわば感覚のくびきを離れた、理性の作用だけに助けを借りて、数学者たちがようやく突き止めた、まぎれもない真の存在なのだ。
それは確かに、「異」であったとしても、けっして「偽」ではない。
ただいわば、私たちの狭量が、海の向こうの存在を異国と呼んで、疎じているのにすぎない。
彼方にも同じ姿の人間たちが暮らし、その目からは私たちこそが「異」であることも、すっかり忘れて……。
そうだった。
私たちの個我。——それはあの、無辺の宇宙を夢見る神の意識の、局部にすぎないような何かだった。
いわば神の大宇宙の、その無数の位相の中で、ただ一つに囚われたきり、それはけっして抜け出ることはかなわない。——
だとしたら確かに、そんな幽閉の身にとっては、いつしか牢獄の中の空間だけが、つぶさに実感され始める。
この目の前の、ただ一つの宇宙だけを「実」とし。「物質」という特別な称号さえ授けて、聖化することを始めるのだ。
だがしかし、それは本当は、けっしてそうではない。
私たちの住むこの世界と、その余のすべての世界とは、その実ただ内と外というだけの、等価な存在だった。
もしこれが「実」であるとしたら、それらもまた同じように「実」であるとして、認められなければならない。
そしてもしその逆に、それらをただの仮想にすぎないものと蔑むのなら、——私たちのこれもまた、きっとそうなのだ。
私たちが「実」とし、「物質」と呼んで聖化したこの宇宙、——本当はそれもまた、あの神の夢見る宇宙の一つだった。
たまたま私たちが、そこに身を置いたというだけの、神の夢見る同じ無数の想念の中の、一つにすぎないもの……。
私たちもまた。——
そうだった。私たちもまたそんなふうに、宇宙という名の夢幻劇の只中にいた。
確かに自律の意識で夢見ながら、同時に神によって夢見られる、いわば夢の中の人物。
もちろん、夢の中の人物は、夢を夢と呼ばいはしない。
少なくともこの私たちにとって、同じ舞台の役者たちは、まぎれもない実在だった。芝居の背景もまた、確かに本物の野山のように思いなされる。
だがしかし、それは本当は、そうではないのだ。
それらの役者も、背景も。それを言うならこの自分自身もまた、本当は幻にすぎなかった。
宇宙という名の夢幻劇の、無数の筋書きの一つに、ただ仮想されてそこにあるもの。——
ただそのことに、夢の中の私たちは、けっして気付こうとしない……。
05・04 〈幾億万個の宇宙〉
そんなふうに、私たちのこの宇宙の外には私たちとは違う、だがしかし同じくらい本物の宇宙が、数限りなく散らばっていた。
数限りない——そうだった。
そんな気の遠くなるような、宇宙のスケールをイメージするために、ここに一つ簡単な、思考の実験を行ってみたい。
*
それはとてつもなく、奇異に聞こえるかもしれない。
だがしかし、もしも解析の目から見るならば。
確かに宇宙の様態は、ただ0と1との組み合わせで、記述することができた。
例えば、夜も更けた一人の部屋。
グラスの酒を飲み干したきり、もはや誰にもおやすみのコールを入れることもなく、おもむろにベッドにもぐりこむ。——
そんなありふれた日常の一コマも、きっと三つの成分に、分けて捕らえることができる。
すなわち飲み干したグラスの酒に関しては、「そうである」の1が当てられる。
その逆に、電話のコールについては「そうでない」の0が。続いて就寝の項目では、再び1が選ばれる。
そのようにしてできあがった、101の三桁の数字が、今夜の自分を表すコードとなるのだ……。
もちろんそれは、あくまでが一つの例えだった。
話はただ、今日の夜更けの一コマだけにとどまらない。宇宙の全体を実際に表記するには、確かにもっと無数の項目建てが必要だった。
当然数字の桁は、はてしなく増え続ける。——だがしかし、忘れてはならない。
その場合にもなお、それぞれの数字自体は、相変わらず0か1かの、二つの可能性しかないのだ。
そうだった。
いわば2進法の数字の、無限の桁の連鎖。
それがこの宇宙の表現だった。
それは本当は、いささかも繁瑣な体系などではない。
ただ単純なものが単純に結び付いて、その挙げ句に見掛けだけの複雑の印象を、与えているにすぎないのだ……。
*
いわば2進法の数字の、無限の桁の連鎖。——
だがしかし、私たちはまた、忘れてはならない。
そのような数字の連鎖は、もちろんただ一通りだけではありえない。
0と1との出現には、本当は無数のパターンがあった。ただ私たちが、そのうちの一つだけを、たまたま選び取っているにすぎないのだ。
そうだった。
それぞれの桁に当てられた、0と1の識別。
だかしかし、それは本当は、その逆の数字でも構わないのだ。
「そうである」の代わりに「そうでない」が選ばれ、「そうでない」の代わりに「そうであるが」選ばれる。
たとえばあの、夜更けの部屋の場合で言うなら、私たちは別段グラスの酒を飲み干さず、誰かと電話で話した後で、夜更かしをしても差しつかえなかった。
だとしたらそこには、いわば010の連鎖が、出現したのだ。——
否。それを言うなら確かに、本当は3つの項目について、8通りのすべての組み合わせがありえたのだ……。
そんなふうに、すべての桁について必ず2通りの様態があり、またその次の桁でも、同じことが繰り返される。
だとしたら、もし宇宙の全体で見るなら。
そこには確かに、2の累乗を繰り返した、とてつもない数の組み合わせがあるのだ。
そして私たちは、たまたまその中の一つの連鎖を、選び取っているのにすぎない……。
*
もちろん、私たちの理屈はこうだった。
「そうでない」と「そうである」は、実際には同時に、並び立つことはできない。
一つの桁の中には、あくまで0と1の数字の、一つしか許容されはしないのだ。
だとしたら、私たちがその一方を選ぶとき、同時にもう一方は、もはやこの世にはないただの「非現実」として、葬られてしまう。
それが再び語られることがあるとしても、もはやそれは、生者としてではありえない。「仮定」と呼ばれ、「想念」と名付けられる、いわば彼岸の国から彷徨い出た、亡霊のようなもの……。
そんな葬りの儀式が、——同じような確定の作業が次の桁、また次の桁というふうに、しらみつぶしに行われていく。
そのようにして無数の数字をあの世に葬りながら、最後に現れた数の連鎖、——それが私たちの住む、この宇宙の有様なのだ。
それはけっして、たまたまの気まぐれで抜き取られた、小枝の一つとは違う。
無数のそうでない様態を仮構として斥けながら、はてしない淘汰をただ一つ生き抜いた、掛け替えのない何か。私たちにとっての唯一無二の、本物の現実だった。
だとしたらそこにあてがわれた、無限の桁を持つ数列は、きっとその聖別の徽しだった。
確かにその並びには、まるで魔法陣のような、不思議な霊力がある。
間違ってもそれは、無造作に乱発された、数字の一つではない。コンベアから吐き出される商品に、次々と打刻されるような、製造番号とは違う……。
*
確かにそれが、私たちの理屈だった。
だがしかし、そんな言い分には、その実明らかな思い上がりが含まれている。
葬りながら確定する?
否。それはあくまでも、私たちの錯覚だった。
ただ「人」であるにすぎない私たちに、そのような神異の業は、そもそもかなわない。何かを葬り去るような特別な呪力など、少しも授かってはいないのだ。
消しはてたと思ったそれらは、その実ただ、視界の外に出ただけだった。きっとその先のどこかで、それらは相変わらず同じ姿で、在り続けているのにちがいない。
そればかりではない。
ひょっとしたら、追い立てられたのは、けっしてそれらではない。
むしろその逆に、閉め出され、斥けられたのは、この私たちの方ではなかったのか?
そうだった。
「そうである」世界と、「そうでない」世界。有限の私たちの存在は、その二つながらに、同時に住むことはできない。
だとしたら私たちは、ただこのようなこちら側の世界だけに、たえず否応なく、追い込まれているのかもわからない……。
確かにおそらくは、それが本当の種明かしだった。
そしてもし、そのように考えるなら。
選択であり、確定である思えたものは、本当は悲しむべき限局であり、幽閉であるにすぎない。
もちろんそうして、私たちを放逐したその後も、それらは在り続ける。
私たちを迎えることで、こちら側が「現実」となったように、私たちを斥けることでその逆の「現実」となって成就しながら……。
確かにそんな、その逆の現実が、必ず彼方にある。——
それはちょうど、あの物質の世界に、正と負の均衡が必要なように。
そこでもまた同じように、「そうである」正の現実の裏には、きっと「そうでない」もう一つの負の現実が、存在しなくてはならない。
私たちが1の数字を選ぶとき、必ず他の誰かが、もう一つの0の数字を選び取って、持ち去っている……。
そればかりではない。ここでは「正」と「負」の呼び名でさえ、あくまでも便宜であるにすぎない。
いわばこちらを正とすれば、あちらが負となり。その逆にあちらが正とすれば、これらが負と呼ばれるだけで、そこにはいかなる絶対の序列もありえない。
本当はそのどちらも、まったく等価な、存在の二つの様態なのだ。
そうだった。
私たちの窺い知れぬ彼方に、そんなマイナスの存在が、確かにあった。
私たちがこうして、酒を飲み干すとき。裏側のそこでは、もう一人の私たちが、グラスには手も付けずに、夜を徹している。
そして私たちは、飲み干す自分を現実と呼び、彼方を仮想と呼ぶ。それはちょうど、「彼」もまたきっと、飲まない自分を現実と呼び、此方を仮想と呼んでいるように。——
*
もう一度繰り返そう。
世界を作り上げる、無数の選択の項目。
その一つ一つには、必ず二通りの現実が対応する。
だとしたら、確かに宇宙の全体で言うなら、その無限大乗の組み合わせが存在した。
それは単に、ありうるというだけでない。それらは実際に、そこにあるのだ。
私たちのこの宇宙が、そのうちの一つにすぎないような、無数の種類の宇宙が本当にある。そしてそのいくつかでは、きっと双子の「私」が、私たちとは少しずつ違う人生を送っているのにちがいない。——
そんな考えは、有限の人間の認識には、もちろん耐えられない。 だがしかし、神の視座においては、確かに物事はそのように起こっているのだ。
幾億の宇宙を飲み込んで、なお余りある、あの絶対の神の視座では。——
そしてその、彼方の宇宙のどこかでは、確かにもう一人の自分が、死んだはずの恋人と結ばれている。——きっとそんなかすかの予感のようなものが、ときに私たちの胸を、あれほど強く締め付けるのだ……。
06 善と悪と
06・01 〈だとしたら?〉
宇宙の全体を動かす、根本の原理。
私たちの意識がその局部にすぎないような巨大な意識が、幾億万個の彼方の宇宙をひっくるめた、壮大なドラマを夢見ている。
確かにそれが、私たちの思い描く「神」だった。
だがしかし、もしそうだとしたら?
だとしたら、あれほどまでにそこに満ち満ちた「悪」と「破壊」とは、一体何なのか。
そしてまた翻って、私たちがたえず称揚するあの「善」とは、一体どのようなものなのか?
そんな緊要の問題に答えるために、私は続いてここにまた、一章を割いておきたい。
06・02 〈ラスクリニコフ〉
もし神というものがないとしたら、そこにはいかなる罪もまた、ないのかもしれない。——
「罪と罰」のラスクリニコフが質屋の老婆を殺し、ニーチェの狂人が神の死を触れ回った十九世紀。
彼らの突きつけたそんな問いかけは、確かに激しい衝撃をもって迎えられなければならなかった。
それはそうだろう。
あるいは「法」と呼ばれ、あるいはまた「倫理」とも、「道徳」とも名乗ったもの。
時々に姿こそ違え、そんな人の世の掟の、本旨はいつも同じだった。
殺すなかれ。毀つなかれ。盗むなかれ。——それらの筆頭には、必ずそんな戒律が、記されていたのにちがいなかった。
もちろん掟の効力に、異議を挟む者など、ついぞありはしなかった。
すべては疑う余地のない公理であり、その是非を争うなどは、初めから思いもよらぬことだったのだ。
だがしかし、今やラスクリニコフは老婆の胸を抉った。何一つ良心のとがめもなく、むしろ彼自身の冷徹な哲学に従って。
だとしたら確かに、ひょっとしたら、それはそうではないかもしれない。
絶対の真理として疑わなかった、それらのすべてのものも、本当は何の裏付けもない。ただの盲信に、すぎなかったのかもわからない……。
——そんな恐ろしい事実に、誰もが今さらながらに気付かされたのだ。
*
そんな衝撃の命題を前にして、進むべき道は、もちろん一様ではありえなかった。
例えばある者は、哲人たちの憂鬱を、そっくりそのまま引き受けた。
もし神というものがないとしたら、そこにはいかなる罪もまた、ないのかもしれない——そんな索漠たるニヒリズムを抱えたまま、生き続ける覚悟を固めたのだ……。
またある者は、頑なに否を叫んだ。むしろ再び意を強くして、神への道を行くことを選んだのだ。
確かに、そんな恐ろしい結論を避けるためには、台座の上の存在が、どうしても必要と思われた。
神があるとしたら、そこにはやはり罪と罰があるのだ、と……。
また幾たりかは、その逆にあえて神を離れて、別の道を探そうとした。
いかなる信仰の裏付けもない、新しい倫理を模索したのだ。
いわば神がないとしても、そこにはなお罪があり、罰があるのだ……。
だがしかし、それもまたずいぶんと、不思議なことだ。
それはそうだろう。
そうして三者三様の道を行きながら、彼らの誰一人、もう一つの別の可能性に、思いを巡らす者はなかった。
神のありやなしや。罪のありやなしや。——そんなただ、二つずつの組み合わせにすぎないところで。どういうわけか第四の、最後の可能性にだけは、けっして目を向けようとしなかったのだ。
それはまるで、何か無意識の禁忌が、彼らの目を避らしめたかのように……。
*
だがしかし、それこそがきっと、私たちの探していた何かだった。
見当はずれの部屋の四隅を、ほじくりかえしたその挙げ句に。本当は目の前の、机の上にあった探し物。
それはひょっとしたら、世界のすべての謎を、たちどころに解き明かす秘法。
だがしかし、ゴルゴンの首のように恐ろしく、パンドラの箱のように危ういそれは、だからこそ今の今まで、魔法に守られてそこにあった……。
確かにそれこそが本当の、すべての答えだった。
そうだった。
神のありやなしや。罪のありやなしや。
その四通りの組み合わせのうちで、虚心に眺めれば、正解はもちろんこの最後の一つしかありえない。
「もし神があるとしても」、「そこには罪はない」。
否。ひょっとしたら、そればかりではない。
極言するならば、きっと神があるからこそ。そこにはいかなる罪も、ありえるはずはないのだ。——
06・03 〈幼子のごとく〉
もし神があったとしても、そこには「罪」はない。
否。
極言するならば、きっと神があるからこそ、そこにはいかなる罪も、ありえるはずはないのだ。——
そんな言い方は、ずいぶんと奇を衒ったものに、聞こえるかもしれない。
だがその実、そこにはいささかの逆説も、含まれてなどいない。 むしろすべては、最も素朴で、真っ直ぐな問い掛けから導かれた、だとしたらあまりにも当然の結論なのだ。
それはちょうど、子供たちの投げ掛ける、あの「どうして?」と同じだった。
どうして夕日は、赤くて大きいの? どうして時計は、右回りなの? どうして女の人の、髪は長いの?
そうして執拗に質問を繰り返す子供の心は、もちろんわずかばかりの僻もない。
ただ彼らがそうして、膝を揺すって問い詰めるたびに、大人たちが慣れ親しんできた、あの「常識」というものもまた、揺さぶられるのだった。
私たちの思い込みが、ただ冒すべからざる公理のように、祭り上げていたもの。
確かにそのほとんどは、そうして改めて問い直してみれば、けっしてそうではなかった……。
だとしたらきっと、ちょうどそれと同じようなことが、私たちの議論にも起こっているのだ。
もう一度繰り返そう。
人の世の定める、すべての掟。時々に姿こそ違え、それらの本旨はいつだって同じだった。
殺すなかれ。毀つなかれ。——そして少なくとも、神というものがある限り、それもまた当然のことのように思われた……。
だがしかし、ここでもやはり、子供たちはこう問うであろう。
どうして、殺してはいけないの? なぜ神様は、壊すのがいけないと言うの?
もちろん母親は、あのお決まりの台詞を引いて、言い含めようとする。
世の中のすべてのものは、神様がその手で、一つずつお作りになったの。とても大切で、愛しいものなの。
だからその中のどれかが、壊れたら悲しいのよ。
それはちょうど大事にしている人形に傷がついたら、とても悲しく感じるように、——だがしかし、最初は自信に満ち満ちた、そんな優しい説得の口調も、やがてたちまち凍て付いてしまう。
それはそうだろう。
子供たちはけっして、それだけの理屈で、引き下がりはしない。きっと矢継ぎ早に、こんなふうに畳み掛けてくるのだ。
だけど神様には、すごい力があるのではなかったの? そんな力があるのなら、壊れたらすぐに直せばいいのじゃない?
不意を突かれた母親に、もはや返す言葉はない。
確かに、子供たちのそんな理屈を、笑ってはならない。
それはただ、頑是ない蒙昧とは違う。その実ここで理があるのは、もちろん子供たちの方なのだ。
私たちが当然と決め付けて、点検を怠ってきたもの——あの「常識」というものの不備を、彼らの素朴な眼差しが、ここでもまた目敏く見つけ出したのだ。
確かにそんな、一見乱暴とも思える発想で、私たちの固陋な思い込みを突き崩す。
そんな彼らのやり方は、いつだって大人たちの教師だった。
本当に、因習の獄を抜けて、この幼子のごとくならずんば、真理の道に入ることは、誰にもかなわない……。
*
そうだった。
神について、そしてまた道徳について。
生まれてこのかた聞かされてきた「常識」を忘れ、ただ虚心に眺めるなら。
確かにすべては、少年の指摘の通りなのだ。
もちろんここまでもまた、思い出すべきなのは、私たちのあの初めの公理だった。
もし神というものがあるとしたら、それはすべからく全知で、全能のものでなくてはならない。——
そしてもしそうだとしたら、それが破壊を罪するというのには、あきらかな撞着がある。
それはそうだろう。
もし全能の神が、本当に毀つことを厭うとしたら。確かにそれは、少年の言う通り、犯した者を懲らすよりは、速やかに修復する方を選ぶだろう。
まず人の世に法を授けて、しかる後に破戒を罰する?——そんな迂遠な仕方が、好まれるいわれはないのだ。
損なわれたものは、その瞬間にもたちまち、繕われるだろう。——
否。そればかりではない。
そもそもそれは、すべてが行われる前に、武器を取る手を止どまらせることだって、できたはずなのだ。
本当に、もし全知で全能なものがあるとしたら、もとより天が下に、それの望まぬことの、起こりうる道理はなかった。
だとしたら、現にそれがそこに行われている以上は、殺めることも毀つことも、けっして「罪」ではない。
人の目にはどう映ろうとも、それは神が嘉した、少なくとも認容した、営みであるのにちがいないのだ……。
この世のすべては、神に作られたがゆえに、神の愛着を担う?——あるいはそんな論法にもまた、あきらかな矛盾が含まれていた。
なるほど私たち人間なら、それはそうだろう。
自らの手で造り上げたものは、たっぷりの苦労が注ぎ込まれた、掛け替えのない作品だった。だとしたらそれを、このうえもなく愛しいものと感じるのは当然なのだ。
だがしかし、もちろん神においては、それはそうではない。
神が宇宙を作るとき、それは人が何かを拵えるように、苦心の挙げ句に造り上げたわけはない。
全能であるそのものにとって、宇宙の万物さえ、手もなく生み出すことが可能なのだ。
そのうえそれは、ただ一度きりにとどまらない。いつでも。幾度でも。まるで粘土細工にでも興じるように、意のままに捏ねては潰し、また練り上げながら。——
だとしたら今もまた、ひょっとしたら私たちとは違うどこかに、またひとつ別の宇宙が、生み出されているのかもしれない……。
宇宙の丸ごと全部ですらで、それはそうなのだ。
ましてやその中の一つの星、その星の上の一つ一つの生き物、——そんなものをしつらえるのは、いとも造作なかった。
だとしたら、それらを毀ち殺めることを、どうして神が禁じたりするだろうか?
宇宙がそれほどまでにあっけなく、生みだしうるものだとしたら。いや現に、無数のそれらが、生まれているとしたら。神が破壊を厭ういわれは、もとよりない。
それらは、あらゆる愛着の前提である掛け替えのなさを、決定的に欠いていた。
それらが失われたとして、代わりは後から、いくらでも見付けることができるのだ……。
06・04 〈悪魔?〉
すべてをたちどころに造りうる神は、少しも破壊を厭いはしない。——
それは確かに、余りにも単純で、明快な結論だった。
だがしかし、ひょっとしたらそれは、まだ真実ではない。
本当の「真実」を知るためには。
私たちはまだ幾重にも禁忌を脱ぎ捨てて、さらにへ深淵へ、深淵へと、下り降りていかなければならないにちがいなかった……。
そうだった。
確かに神は、少しも破壊を厭いはしない。——だがしかし、それはけっして、「何か別のもののなす破壊を、神は意に介さない」ということとは違う。
むしろその逆に、神はその自らの手で、それを行っていた。
それはそうだろう。
思い出してもみるがよい。そもそも神とは、宇宙のすべてを司る原理のことだった。
だとしたらもちろん、天が下で起こりうることで、それよってなされぬものなど、もとよりあるべくもないのだ。
たとえ他の何かが執り行なうように見えたとしても。その向こうで糸を引き、操っているのは、いつだってあのものであるのにちがいない。
だとしたら、破壊もまた、きっとそうだった。
あれほどまでにそこに満ち満ちた「破壊」と「悪」もまた、この宇宙の事象の一つである以上、やはり神の司る業だった。
それが現にそこに行われている以上、毀つのも殺めるのもまた、他の何でもない、当のあのものでなければならない……。
*
神は少しも厭うことなく、自らの手で進んで毀ち、殺めている。——
もちろん人は問うであろう。
破壊と創造はそもそも相反する、二つの営みではなかったか。
それなのにどうして、創造主である神が、そうして好んで破壊を行わねばならないのか?
だがしかし、忘れてはならない。
時空を越えた超絶の次元では、物事はいつでも、私たちには計りしれないやり方で起こっている。
そこでは破壊と創造は、けっして相容れない、別のものではありえないのだ。
それはそうだろう。
造られたものにも、時が来ればやがて、朽ち果てるときが訪れる。そしてまた、瓦礫の後にも必ず、新しい何かが造られるのではなかったか?
もちろん、人間たちの限りある認識では、そのすべてを見届けることはできない。
だがしかし、永遠の時間を飲み込んだ「神」にとっては、確かに破壊と創造は互いに巡っては繰り返す、一連なりの営みなのだ。
もちろん神は、宇宙の造物主だった。
だがしかし、それはけっしてかつて遠い昔に、一回きりで宇宙を造ったわけではない。
その実神は、今この瞬間にもまた、刻々と新しいそれを造っているのだ。
いわば未来永劫に連なる、宇宙という名の絵巻物。その新しいページを、たえず繰り続けること、——神の「創造」とは、きっとそういうことなのだ。
そしてもちろん、そうして新しい宇宙が造られるためには、旧い宇宙は毀たれなければならない。
だとしたら確かに、造ることも毀つことも。生み出すことも殺めることも。
そんな神の次元においては、あくまで表裏一体をなした、同じ「創造」の営みなのだ。
そうだった。
ここでは問わない、何らかの目的のために。
神は宇宙のすべてを、造りながら毀ち、毀ちながら造っている。
それはまるで捏ねては潰し、また練り上げる粘土細工のように。——
もちろんそこでは造るのも神なら、毀つのもまた、同じ神だった。 生かすのも神なら、殺めるものもまた神であり、だとしたらそれをことさらに罪とするいわれなど、もとよりどこにもありはしないのだ……。
*
そうだった。
「破壊」と呼び慣わされるものも、超絶の神の次元では同じ「創造」の、一過程であるにすぎない。
それもまた少しも、忌まわしいものではない。むしろ高らかに称えられるべき、天の御業なのだ。
だがしかし「造られたるもの」にすぎない、人間たちの限られた認識は、そんな理にさえ少しも気付こうとしない。
終わりある我が身を哀惜し、守ろうとかまけるあまり、我が身を損なうものを悪とする。破壊を罪と呼んでそしり、その逆に秩序を善となして、讃えようとするのだ……。
もちろんときには、人も破壊の向こうに、ある種の神秘の存在を認めることがある。
国を滅ぼす災異や、疫病や、戦を前にしたとき。そこにどうしても、何か畏怖すべき力の作用を、感じ取らないわけにはいかない。
それはもちろんあの超絶の、大いなる力、——だとしたらそのとき、「真理」は彼らのすぐ側にあった。
宇宙を造り、日々に新しい命を育むあのものが、今しもこの荒らぶる業をなしている。そのものにとっては造ることも、毀つことも、少しも区別はない。宇宙を転変へと駆り立てる、同じ一つの動力にすぎないのだ……。
だがしかし、そうして「真理」をあと一歩にしながら、彼らの多くはまた頑なに、目を閉ざしてしまう。
そうだった。
そうして破壊にたずさわる、大いなる力を認めながら、彼らはそれを「悪魔」と名付けて、区別しようとした。
天が下のすべての営みに、真っ二つに線引きをして。愛と平和と創造の領域を司るものを、ただ神として崇め、そうでないものを悪魔と呼び変えて、忌み嫌ったのだ。
広大無辺の宇宙を舞台として、そんな神と悪魔の、永遠の相剋が繰り広げられる。
善と悪とが、秩序と破壊とが、ちょうど光と影のようにあざなわれてそこにあるのは、それゆえなのだ、と。——
だが、否。
すべてはもちろん、子供騙しの説話にすぎなかった。
本当は宇宙を司る原理に、そんな二様のあるはずもない。創造も破壊も、その実統一の摂理によって企図された、同じ一つの営みなのだ。
そうだった。
宇宙のすべてを司る原理、——いわば「天」なるあのものは、かつて宇宙を造ったばかりではない。今もなお、たえず旧い宇宙を否定しながら、新しい宇宙を生み出している。
だとしたら、先刻までの宇宙にとって破壊であるものが、今度の宇宙にとっては創造である、——そんな裏表の関係が、いつでも存在するのだ。
創造も破壊も、すべては相対の、呼び名の違いにすぎない。
本当にそこにあるのは、偉大なる手が繰り続ける、あの刻々の宇宙の展開……。
ただそれだけなのだ。
だがしかし人間たちは、——限りある「造られたる者たち」は、そんな絶対の視座に、思いを重ねることがかなわない。
そこではいつでも動物的な、保身のための本能が作用する。
我身に益するものを味方として迎え、損なうものを敵として退ける。——そんなおなじみの発想が、やがて私たちの天上への理解をも、蝕んでいくのだ。
つまりは、あの大いなる力が私たちを生み、守るとき。私たちはそれを「神」と呼んで、感謝を捧げる。
そしてそれが毀ち、殺めるときには、「悪魔」と呼んで呪うことを始めるのだ。
だがしかし、もちろんそれは錯覚だった。
すべてはただ私たちの無知が、変幻自在の天の百面相に、謀られているだけにすぎない。
「天」のときどきの微笑みを神と思いなし、渋面を悪魔と取り違える。
本当はそのどちらも、同じ天の持つ、二つの顔にすぎないのに……。
*
国を滅ぼす災異や、戦や、疫病。
否。それを言うならきっと、罪人たちにその刃を取らせるのも。
すべてはその実、称うべき神の御業なのだ。
私たちが破壊と呼び、悪と名付けて呪ったもの。
そしてまた、善と名付けて讃えたもの。
だがしかし、天上の神の台座から俯瞰すれば、すべての区別は意味を失ってしまう。
無窮の時空を統べるそれは、破壊も創造も、生も死も、「神」と「悪魔」の呼び名さえ、そっくりそのまま飲み込んでしまう。
ここでは論じないある目的のために、それは造りながらかつ毀ち、毀ちながらかつ造り、——そのようにして宇宙の転変を、日々に現出しているのだ。
ひょっとしたらすべては、無限の時間を持て余したそれが、おそらくはその無聊を紛らすために興ずる、宇宙と言う名のゲーム?
それはそうかもしれない。あるいは、そうではないかもしれない。
いずれにしてもそれは、ここでは論じないある目的のために、造りながらかつ毀ち、毀ちながらかつ造っている。
本当に、まるで粘土細工にでも興じるように、意のままに捏ねては潰し、また練り上げながら——。
そしてもし、そうだとしたら。
確かに、この世に起こる何一つ、悪であるものはない。
すべては「かくあれかし」と肯われる、神の御業だった……。
07 殺すなかれ
07・01 〈掟〉
超絶の神の次元では、破壊も創造も、同じ一つの営みにすぎない。
それは捏ねては潰し、また練り上げながら、刻々の新しい宇宙のドラマを現出している。
毀ち殺めることを、それが禁じるいわれなど、どこにもありはしないのだ……。
そしてもし、そうだとしたら?
私たちが信じてきた掟。法。道徳。
すべてはけっして、「神」ではない。ただ「人」のもの。
殺すなかれ。毀つなかれ。——そんなふうに戒めあいながら、破壊を恐れているのは、当のこの私たちなのだ。
そうだった。
神はけっして、毀損を厭わない。
全能の「造りたるもの」にとって、「造られたるもの」の代わりはいくらでもあった。それを愛惜するような構造は、もとよりはありはしないのだ。
だがしかし、当の「造られたるもの」にとっては、それはそうではない。
そこでは己れは己れであるがゆえに、他の何ものも取って代わることはできない、至上の重みと、恋着を担ったものに感じられる。
いわば「造られたるもの」にとっては、やどかりのようにあてがわれた、この住家の中だけがすべてだった。
それは自我の甲羅の、内側だけにひたすらかまける、限りある存在。
だとしたらそこでは、もちろん第一の命題は、何よりその命を長らえることだった。
そこにはいつでも動物的な、防御のための本能が作用する。
我身に益するものを、味方として迎え、損なうものを敵として退ける。
自己の破壊につながるようなことがあれば、それは何をおいてもまず、排撃されなければならないのだ。——
人間たちが掟を定めたのも、またきっとそのためだった。
殺すなかれ。毀つなかれ。盗むなかれ。——ときには厳めしい口調で語られる禁戒も、その本質は同じだった。
ただそうして、互いに制しあうことで。それらの蛮行が、巡り巡って我が身に及ぶことを、防いでいるというのにすぎない。
だとしたらそれはやはり、あの動物たちの護身の行動と、少しも変りはしない。
ただそれはあくまでも、こ洒落た「文明」の衣を纏った、ずいぶんと体のよい姿で……。
*
そうだった。
敵の攻撃を受けた動物は、当然の本能から、身を守る。逃げ隠れるものもあれば、あるいは応戦し、逆襲さえ試みる。
遠い昔の原始のジャングルで、人間たちもまたそんな血みどろの格闘を続けていたのだ。
もちろん立ち向かわねばならなかったのは、牙を向く獣ばかりではなかった。部族と部族がせめぎあい、身内にもいさかいと狼藉の、絶えることはなかった。
だかやがて、人間はジャングルを抜け、「文明」が生み出された。
そこでは、生存のためのすべての過程が、新しい洗練の段階を迎えたのだ。
例えば、獲物探しの日々は、農耕の知恵によって乗り越えられた。 あるいは人は邑を作り、社会を作った。そうして力を結びあうことで、野獣たちとの戦いもまた、いとも容易になったにちがいない。
そこではまた、人間同志のいさかいを収めるために、掟が定められた。
殺めるなかれ。毀つなかれ。盗むなかれ……。
破戒はもちろん、容赦のない刑罰で迎えらた。
その執行も、もはや個人のものではありえない。社会という名の、いわば無限に加算された力のベクトルに、すべてが委ねられ、厳重な処断が行われたのだ。
だとしたら、そんな禁戒のシステムの、威力は凄まじかった。その日からは、襲う者はいわば覚悟を決めて、襲わねばならなかった。——
そんなふうに「文明」のもとで、人間たちの生活の様相は一変していた。
だがしかし、忘れてはならない。
すべての変化は、ただあくまでが、手法の洗練にすぎない。行われていることの本質は、シャングルの中の千古の昔と、何一つ異なるものではないのだ。
例えばそこに定められた、あの掟というものもまた、ジャングルの動物の護身の行動と少しも変わらない。
それはそうだろう。殺めるなかれ律法も、その根底にあるのはただ、単純な牽制の原理だった。
己の傷つくことを恐れるがために、互いに傷付けることを戒めあう、——だとしたらそれは確かに、唸り声をあげて威嚇しあう、獣たちのふるまいと、いささかも変わることはないのだ……。
それはあくまでも護身の目的のための、手段にすぎないもの。
例えば動物たちは、我が身を守るために、様々な工夫をする。身をあなぐらに潜め、木の上に巣を設け、仲間を見張りに立てる……。
そのようにして、人類もまた社会を作り、掟を定めた。
そして確かに、それらはすばらしい知恵だった。動物たちの他のどんな工夫よりも、はるかに秀抜な仕組みであったにちがいない。
だがしかし、忘れてはならない。それにもかかわらず、それらは他の何とも同じ、ただ生き残りのための方便にすぎない。
だとしたら、ちょうどあなぐらに身を潜める動物に何の「大義」もないように。それらもまたいささかの権威さえ、纏ってはいないのだ。
07・02 〈洗脳〉
「殺すなかれ」の「道徳」も。「倫理」も。
あくまでが人間たちのかりそめの便宜のための、取り決めであるにすぎない。
それはけっして、何か絶対的な、永遠の真理のようなものとは違う。
それはまた譬えるなら、あの交通の法規の場合と少しも変わらない。
確かに、右側通行を互いに遵守することで、事故は抑制された。身をよけるために費やされた、膨大な労力もまた、そこでは不要となったのだ。
だとしたらもちろん、それはこのうえもなくすばらしいシステムだった。
だがしかしそれにもかかわらず、そこにはいささかの絶対の価値も、神聖さもありえない。
本当に、もし右側通行を人の道と説き、神の道とはやす輩があったとしたら、——もはやそんな戯れ言を、誰も笑って取り合おうとはしないだろう……。
*
そうだった。
毀ち、殺めることが、許すべからざる大罪であること。
私たちがこれまで、疑う余地もなく受け入れてきたそれらの戒律も、本当はけっしてそうではない。
それはちょうど、私たちの日常を統べる、あのあまたの「常識」と同じだった。
確かに、まるで不可侵の公理のように祭り上げられたそれらを、正しいとする根拠は、本当はどこにもない。
そればかりか、そもそもその真偽など、ついぞ検証されたこともなかったのだ。
そこでは私たちの確信の、よって来るところは、その実ただ一つだった。
それはあの幼い日々に、あるいは母親の膝元で、あるいは学校の教室で、語り聞かされたすべてのこと。
それらの美しいおとぎ話が、私たちの無意識を、今でも強固に支配している。
いわばそれらの呪縛に、目をふたがれて。あくまで一つの措定にすぎないものを、揺るぎない普遍の真理のように、盲信しているのだ。
私たちがそのようにして授かってきた「教育」というもの。
それは哀れな狂信者の被った「洗脳」と、少しも違わない。
両者を分けるものは、その実ただ数の原理にすぎない。少数者の教育は、それが異端であるがゆえに洗脳と呼ばれ、多数派の洗脳は、それが正統であるがゆえに、教育と呼び慣らわす……。
そうだった。
毀ち、殺めることが、許すべからざる大罪であること。
それはけっして、何か合理的な思弁によって、裏打ちされた理念ではない。ただ初めから、疑う余地のない公理として、あてがわれるままに受け入れられてきた。
だとしたらそんな、自問の不在自体が、何よりも洗脳の証だった。
それらについて熱っぽく語るとき、もちろん私たちにはいささかの邪心もない。澄んだ瞳に星を宿した、汚れを知らぬ眼、——だがしかし、そんな表情もまた、洗脳の大きな徴なのだ。
それはいわば、頑なに閉ざした心の扉の向こうで、人工の青空を拝する者たち。——
*
とてつもなく大掛かりな、それでいて最も隠微な洗脳の仕組みに謀られて、私たちはただそのように思い込んだ。
単なる方便にすぎないものを、あるべき規範とし、神の定めとさえ言いなしたのだ。
確かに、そんな崇高の装いによって、「掟」はより強力に、私たちのすべてを縛ることができた。
それはそうだろう。それがあくまで道具にすぎないのなら、網の目をくぐる者も現れる。
だがもしも、それが人の道であると言うのなら、誰もが独りを慎むだろう。ましてや神の教えなら、暗がりの部屋の逐一さえ、お見通しなのにちがいないのだ……。
本当に、そんな詐術を用いることで、それは私たちの心の奥処を支配し、思いのままに操ってきた。ときには法と呼ばれ、ときには道徳と呼ばれ、ときには倫理と呼ばれながら。——
そこではもはや、剣を取る手をすくませるのは、その先に待つ刑罰への考慮ばかりではない。
それはあるいは神への畏怖であり、あるいは良心の呵責であり。あるいはそのどれでもなく、自らの意志によって、進んで遵守を行うことも、けっしてまれではないのだ。
だとしたら確かに、今や掟の機能は、完全なものとなった。
だがそれはけっして、絶対の真理が自ずから放つ、威光のようなものとは違う。
すべてはただあの洗脳という、忌まわしい刷り込みの過程によって。——
07・03 〈「聖」なるもの〉
確かにそれらは、けっして絶対の、真理のようなものとは違う。
例えば私は今、あらためて問い掛けてみる。人を殺めることは、どうして許すべからざる罪なのか?
もちろん誰もが、初めは笑って答えるだろう。そんな蛮行を放置すれば、すべての秩序は失なわれる。人の社会はたちまち、崩れ去ってしまうだろう、と……。
だがしかし、私はさらに、こう畳み掛ける。だとしたら、その人の社会というものは、なにゆえに崩れ去ってはならないのか?
つまりはもし、それが目的のための手段と言うのなら、今度はその目的そのものの価値が、証されなければならないからだ。
答えに窮した彼らは、きっとこう矛先を転じるのだ。
人を殺めることを、もしも認めるとしたら。巡り巡って、自分自身の命にもまた、危害が及ぶことになる。そんな事態を、あなたとてけっして、望みはしないだろう……。
確かに、それはそうだった。誰もみすみすと、死ぬことを選びはしない。もし襲う者が現れたら、自分もまた全力を振り絞って応戦し、身を守ろうとするだろう。
だがしかし、それはけっして倫理でも、正義のためでもない。ただ一個の動物としての、当然の保身の本能。生き延びることへの盲目的な願望が、そうなさしめるのだ。
もちろん自分とて、あるいは敵を心に憎むだろう。だがそれも、あくまでも私怨であるにすぎない。言われているようなご大層な義憤に、震えおののくようなことは、もとより少しもありえない……。
だとしたら、それはやはり神聖とも、大義というのとも違う。
もちろん掟の存在自体は、いささかも否定されるものではない。すべての私たちの保身のために、そして社会の存続のために、それは絶対に必要な便宜だった。
殺人には斬罪を、私通には笞刑を、窃盗には禁獄を定めたのも、きっとすべては当然の成り行きだったろう。
だが同時に、それはあくまで便宜であり、成り行きでしかない何かだった。私たちの自由の意志の選択に、絶対の服従を強要するような不可侵の権威など、けっして持ち合わせてはないのだ。
つまりはもしそれにもかかわらず犯す者が現れたら——死罪を恐れず剣を取る者が現れたら、もはや掟はなすすべもない。
その先禁じることも、命じることも、難ずることもできずに。命知らずのツァラトゥストラの傲岸に、ひれ伏さなければならないのは、いつでもそれらの掟の方なのだ。
*
私たちの自由の意志の選択、——そうだった。
この世界にばらまかれた、無数の生ける魂。
その一つ一つは、確かにそれぞれの形に結ぼれながら、そこにあった。
それはいわば私たちの外側の、あの大宇宙にかぎりなく相似した、もう一つの内なる宇宙なのだ。
例えばそれは、同じように無限だった。ちっぽけなこの肉体の、内側に確かに閉ざされながら。きわめて逆説的に、そこには無辺際の奥行きと、広がりがあった……。
また例えば、それは同じように多様だった。私たちが浮かべる刻一刻の思いの豊かさは、宇宙の万象の変化にも、十分に匹敵するにちがいない……。
それはまた、例えば同じように自律だった。ちょうど外の宇宙をあの物理の法則が統べるように、私たちの内側には、私たちだけの特別な論理と、定式が領している。外見には背理や、非道のように思える行いも、その内側の論理に照らせば、いつだって見事なまでの整合を保っているのだ……。
だとしたらそれはやはり、私たちの内側の、もう一つの別の宇宙。——
もちろん「外」の宇宙は、「内」を包んでいた。
だがしかし、それにもかかわらず二つの間には、支配と隷属の関係はない。
「内」と「外」とは、あくまでも存在の位置の違いにすぎず、いささかたりともその優劣を、示すものではないのだ。
そしてもし、そうだとしたら。——
外の宇宙の、主は知らない。少なくともこの内側の宇宙では、私たちの自由の意志こそが、すべてを統括する主だった。
否、そればかりではない。私たちの認識が切り取った、大宇宙のこの断面の中で、——つまりは「私たちの人生」という、この孤独な舞台の上で。それはまた何者の指図も受けることはない、終の原理として振舞うのだ。
そこにもし聖なるものがあるとしたら、それは私たち自身の内なる想いであり、その余のいかなる権威も、けっして及ぶものではない。
それは例えば、あの「掟」もそうだった。
ときには法と呼ばれ、ときには道徳と呼ばれ、ときには倫理と呼ばれるそれらもまた。その実この不可侵の魂の聖域にまで、踏み込むことはありえない。
その治めるところは、せいぜい私たちの住まう「場」に限られていた。いわばただ私たちの実存の、公約数的な部分を束ね、仕切るためにだけ、そんな制御の機構が作られたのだ。
例えばあらゆる破戒には、それぞれの刑罰が処方された。殺人には斬罪が、私通には笞刑が、窃盗には禁獄が。
だがしかしそれにもかかわらず、それらのどの一つとして、私たちの内なる意志の働きまでを、縛るものではありえない。
「掟」はそうして、あらゆる行為に結果を定めながら、あとはただ私たちの選択を待ち続けている。
あなたはそれゆえに守るのか。それとも、それにもかかわらず犯すのか。——そんな「それから先」の、私たちの判断にまで、それけっして口を挾みはしないのだ。
そしてそのようにして、聖なるものの威光は守られた、——私たちの自由の意志の尊厳が、全うされたのだ……。
07・04 〈礫(つぶて)〉
そうだった。
私たち自身の護身のために、そして社会の存続のために、人は掟を定めた。
もちろんすべては、当然の成り行きだった。だがしかしそれにもかかわらず、それらは絶対の服従を強要する、正義のようなものとは違う。
いわばそれは、きっと当為の領域ではない。むしろ力学の領域に属するような、何かなのだ。
力学。——
確かにあの物理学の法則は、自然界のあらゆる事象に、因果の関係を定める。
例えば放擲には落下が、加熱には燃焼が、衝突には反発が当てられる。そればかりかその速さや、角度や温度までもが、詳細な数式で定められるのだ。
だがしかし、それはあくまでも、単純な因果の対応にすぎない。 そこにはもちろん、いささかの当為の含みもない。それがゆえに何かを禁じることも、それがゆえに何かを命じることも、けっしてありはしないのだ。
ちょうどそれと同じように、私たちの「掟」もまた、いわば人間世界の力学だった。
私たちのあらゆる行為の選択に、それは結果を定める。例えば殺人には斬罪を、私通には笞刑を、窃盗には禁獄を。
もちろんそのことに、異を唱える者などどこにもない。すべてはただ、当然の取り決めだった。
だがしかしそれにもかかわらず、ここでもまたそれはあくまでも力学的な、因果の対応にすぎない。
それはただ「そうである」ことを教えるだけで、けっして「そうであるべき」ことを、諭しているわけではないのだ。
掟はそれゆえに何かを禁じることも、何かを命じることもない。
誰かを難じることも、憎むことも。——
もちろんたいていの凡徒なら、突き付けられた刑罰に怖じて、刃を取る手もすくんでしまう。
それだけでも、すでに抑止の目的は、十分に適えられたのだ。
だがときには、——それにもかかわらず、結果のすべてを引き受けながら、向かおうとする者が現れる。
そんな強者たちの、自由の意志の尊厳にまで、「法」はけっして口をはさみはしない……。
確かに、岩の壁に当たった礫は、たちまち弾き返される。
それは当たり前の、自然の理だった。「造りたるもの」の定めたあの物質界の法則が、そのような衝突にはそのような反発を、処方しているのだ。
だがしかし、忘れてはならない。
ここでもまた、すべては単純な因果の連鎖にすぎず、そこにはいささかの禁止の含みも、命令の文脈も伴うものではないのだ。
礫が壁に向かうことを、戒めるものなど何一つない。まして礫が食らう痛撃は、けっして神罰や、祟りのようなものではありえない……。
そうだった。そんな力学の法則を前にして、だとしたらどのように振る舞うべきか、——それはあくまでも、いわば礫自身の選択に、委ねられているのだ。
それゆえに衝突を忌避するのなら、それも礫の判断だった。
だがしかし、その逆にそれにもかかわらず、あえて壁に向かったとしても。そのことで指弾されるいわれなど、やはりどこにもありはしないのだ……。
07・04 〈覚悟して渡れ〉
そんなふうにして法もまた、あらゆる行為に結果を定める。
殺人には斬罪を、私通には笞刑を、窃盗には禁獄という代価をあてがったのだ。
だがしかし同時に、それはまた何一つ禁じても、命じてもいない。 そんないわば、人間社会の力学を突き付けられて。その先にどう振舞うべきかは、あくまでも私たちの自由の意志の判断に、委ねられているのだ。
だとしたらやはり、すべては何か絶対の服従を要求する、当為のようなものとは違う。
もしそのように思えるとしたら、それはただ私たちの被った、あの忌まわしい洗脳のおかげなのだ……。
*
だとしたら、それはまた例えば、あの信号機の標識と同じだった。
青・黄・赤のその表示を、私たちはいつだって、こう受け取ってきた。「進め」。「注意せよ」。「止まれ」。
そして確かに、横断歩道の片隅で、まるっきり羊のように従順に待ち続けたのだ。
それはもちろん、誰もがあの小学校の教室で教わった通りに。——
だがしかし、それは本当はそうではない。けっしてそうであるべきではないのだ。
そうだった。もう一度繰り返そう。
少なくとも私たちの精神の、この内側の領分では、私たちの意志だけが絶対の主だった。それに向かって命じ、禁じることなど、何者にもかないはしないのだ。
進め? 注意せよ? 止まれ? ——否。だとしたらそれもまたきっと、そうして命じ、禁じるものとは違う。
あくまでもすべての前提は、私たちの「自由」だった。渡らば渡れ。もしあなたに渡る意志があるなら、何人ももう押し止めることはできない。——
そんな絶対の、自由の前提の上で。ただ法は、その先に必ず待ち構えている危険と処罰の存在を、教えているにすぎないのだ。
だとしたらそこでは、あの信号機の三つの標識は、いつでもこう読み替えられるべきなのだ。
「安心して渡れ」。「注意して渡れ」。そして「覚悟して渡れ」。——
*
「覚悟して渡れ」。
そうだった。確かにそれが、すべての人の掟の本質だった。
ただ来るべき結果だけを定めながら。それは同時に、何一つ命じてはいない。その先のすべては、あくまでも私たちの内なる意志の選択に、委ねたままなのだ。
例えばそれは、剣を握る手に赤い信号を点す。そんな行為が、必ず死罪をもって報いられることを、教えるために。
だがしかし、それはもちろん制止とは違う。「殺すなかれ」の禁戒は、そこにはけっして聞かれはしないのだ。
それはただ、耳元でこう囁く。
刺さば刺せ。その結果我が身に招くはずの、すべての災厄までも承知の上で、すべてを丸ごと引き受ける覚悟があるのなら。
殺さば殺せ。だがしかし、覚悟して殺せ。——
覚悟して渡れ。覚悟して殺せ。——
もちろんそんな科白だけで、たいていの凡徒なら、たちまち尻込みをしてしまう。
誰も赤信号の道路を縫ってまで、先を急ぎはしない。いわんや命と引き替えに仇を討つだけの、肝など少しも座っていないのだ。
だがしかし、ごくまれに、本当にそんな強者が現れる。
それは確かに、ツァラトストラの孤高の器。すべての戒律を踏み超えて、善悪の彼岸に住む巨人……。
身を捨てて赴く勇者は、そのとき胸を張って、きっとこう言い切るにちがいない。
もとより、刺し違える覚悟はできている。それが仇の首を取るためなら、自ら斬(ざん)に会うのもむしろ望むところ、少しも辞しはしない。——
そんな確信犯を前にしたら、「法」はもはや顔色なかった。
そうだった。
それはただ、あらゆる行為の逸脱に警告を発する。覚悟して渡れ。覚悟して殺せ。——
その先にきっと来るはずの刑罰を、そうして目の前に突き付けることで、ひたすら自重を促すために。
だがしかし、もしもすべての承知の上で、それでも犯そうとする不逞の輩が現れたら。
それはもはや手に負えぬ、「法」には何の、なす術もないのだ……。
08 美
08・01 〈宇宙の目的?〉
だとしたら、この宇宙の目的とは、一体何なのか?——
確かに神を知る者なら、誰もが一度は、そんなふうに思いめぐらす。
それは格別、高遠な大義である必要はない。もし神がこの世を造ったとしたならば、少なくともそこには、たとえ気紛れな動機だけでも、必ずあったにはちがいない。
そしてもし、それが神のものであるなら。その動機を「宇宙の目的」と呼び慣らわすことに、誰も異存はないはずだった……。
そんなふうに、誰もが宇宙の目的を、探し求めてきた。
過去のあらゆる宗教が。そしてまた過去のあらゆる哲学が。——
もちろん彼らの答えは、例えば「善」であり、「愛」であった。あるいはときには、「創造」と「秩序」とが、そうであるとされた。
だが、否。
私たちは今、気付いているのだ。それはけっして、そうではありえない。
彼らのそんな説法の、矛盾はすでに述べた通りだった。
全能である神の目的が、「善」であり「秩序」であるとしたら、その逆の状態である「悪」と「破壊」は、とうの昔にこの世から姿を消しているはずだ。
だとしたら、それらが現にそこにある以上、宇宙の目的はけっしてそうではないのだ……。
*
そうだった。
神と宇宙に思いを致すとき、私たちはたえず、あの最初の公理に立ち返らなければならない。
すなわち、もし神というものがあるとしたら、それは必ず全知で全能のものでなくてはならない……。
そしてもし、そうだとしたら。神が仮に何かを意図したとして、その意図はたちどころに適えられてしまう。
そこでは、目的が未然の形で存するのは、ほんの須臾の間にすぎない。それはおおむね已然と、成就の姿をして在った。
目的が手段を間に介した彼方にある、——そんな私たちの慣れ親しんだ発想は、そこでは笑止な見当外れなのだ……。
もちろんあらゆる小事に関しても、それはそうだった。
だが同時に、もし宇宙の存在の全体に、本当に根源の目的があるとして。
それもまた同じように、神の心に抱かれた瞬間に、成就してしまうのにちがいない。
確かに「善」や「秩序」は、けっしてそうではない。その逆の「悪」と「破壊」が現にそこにある以上、それらを神の願いであるとみなすことはできないからだ。
だがしかし、そればかりではない。同じような背理法は、あらゆる大義について当てはめることができた。それらが現に成就していない以上、それはけっして宇宙の目的ではない。——
そんなふうに、探し物はけっして見つかりはしない。私たちがそれを、あくまで外側のどこかに、求め続けている限りは。
外側のどこかに、——そうだった。そもそも間違っているのは、そんな私たちのやり方だった。
宇宙の目的が、その存在と切り離された遠いどこかに、あると考えること。およそ何であれ、未然の形の大義がそこにあって、宇宙をそのために作られた手段と捕らえること。
そんな発想自体が、まず最初に斥けねばならない矛盾なのだ。
確かにそれは、けっしてそうではありえない。
超絶の神の次元では、すべての願いはたちまち適えられる。それがあくまで、すべての前提だった。だとしたら、もしも宇宙に、目的というものがあるとして。それもまた已然の形で、すでにその存在の内側に、成就していなければならない……。
その内側に。——
そんな言い方は、ずいぶんと奇異なものに聞こえるかもしれない。 だがしかし、それは確かにそうなのだ。
宇宙の存在の内側に、そもそもの初めから備わった何か。
そのためにすべては造られ、すべてが造られた瞬間に、それはたちまち成就してそこにあった。——宇宙の目的とは、確かにそのようなものだった。
それを一体、どんな言葉で呼ぶかは知らない。だがしかし、それはいつでもそんな、宇宙の本体と不可分の何かなのだ。
そしてもし、そうだとしたら?
もしも宇宙の目的が、その本体そのものと、けっして切り離すことができないとしたら? だとしたらそれは、きっとこんなふうに言い換えても、変わらなかったろう。
そうだった。宇宙の目的とは、宇宙という存在のそのものだった。
すべてが生み出された瞬間に、そもそもの初めからそこにあった、宇宙というあの総体、——それはその実何か外側の、別の目的のために造られた、手段ではない。
その逆に、宇宙の存在のそのものが、——それがそこにそうして在ること自体が、そっくりそのまますべての理由であり、動機なのだ……。
*
そんなふうに、宇宙のその存在は、けっして何か他の目的のための、手段ではない。
それがそこに、そうして在ること自体が、そのまま神の意図であり、願いだった。——
だがしかし、そんな世界のあり方に、あえて名前を付けるとしたら、それは一体何だったろう?
他の何のためでもない。この世界の森羅万象の生起を、神はただありのままの姿で嘉し、いつくしみ、興じている……。
確かに、そんな物言いは、どこか聞き覚えのある、なつかしい科白だった。だとしたら、それは一体何だったろう?
繰り返すうちに、ある一つの言葉が、私たちの頭をよぎる。
「美」。——
そうだった。
彼方の目的のためでなく、それ自体の存在のために、そこに在るもの。
今あるがままの姿のために、認められ、称えられるもの。
もしも私たちの、慣れ親しんだ言葉の中から探すなら。確かに「美」こそが、そんな絶対的な肯定と観照の、謂いだったのにちがいない。
だとしたら?
もしも一言で言うなら、宇宙の目的は、「美」なのだ。
他の何のためでもない。それはただ今の姿のままで、すでに輝いてそこにあった。
その美しさこそが、きっと宇宙の目的なのだ。
おそらくはそうして、神の眼に愛でられるために。
それは造られ、そして確かに、そこにあった……。
08・02 〈美の原理〉
宇宙の目的は、他の何でもない。
宇宙の存在そのものが、そっくりそのままその理由であり、動機だった。
この世界のすべてを、神はただありのままの姿で嘉し、いつくしみ、興じている。——
そんな世界のあり方を、私たちは仮に、「美」という言葉で名付けた。
もちろんそれは、ただ相似であるにすぎない。
神が意匠とするところの「美」は、私たちのそれとそっくり同じではありえない。はるかにもっと窺いしれないやり方で、世界を統べているのにちがいない。
だとしたら、そんな美の有様を究めることに、意味のなかろうはずもない。
それどころか神を知り、宇宙を思うために、それは必ずなくてはならない作業であるのにちがいない。——
*
私たちの営みを司る、様々な原理。
もちろんその第一は、あの個体維持の原理だった。
すべての動物たちと同じように、人もまた身を守り、命を長らえるために眠り、食らう。
あの「性」と呼ばれるものでさえ、それはそうだった。
そこでは霊妙な複製の仕組みによって、限りあるはずの個の命に、かろうじて永生のようなものが与えられた……。
もちろん、このただ一つだけで、すべては捕らえ切らない。
例えばときに、命さえなげうつ自己犠牲。それは個体の維持と明らかに矛盾した、埒外の現象だった。
だとしたらやはり、そこにはただの個の原理とは違う、もう一つの別の座標の軸があって、二つが互いに交差しあいながら、私たちの行動を規定しているのだ。
それはいわば、「類」の原理だった。
ここでもまたすべての動物たちと同じように、ヒトにとっても、その群の存続は至上の命題だった。
私たちの属する村と、国と、ひいては人類というその種族。
個体自身の命にかかわらず、そんな「類」の全体を維持することは、ときにすべてに優先する原理となるのだ……。
そうだった。
一つには個体維持の原理。また一つには類の維持の原理。
その二つの座標を対置することで、私たちの営みの、ほとんどが把捉できた。
食らうこと。眠ること。交わること。
そればかりではない。私たちの経済も、政治も、文化も、戦も……。
あの倫理道徳と呼ばれるものでさえ、既に論じた通りだった。
それは何よりも類の維持を優先しながら、ひいては個体の存続をも保証する、実に巧妙な仕掛けだった。
確かに、この二つの座標を対置することで、私たちの営みのほとんどは把捉できる。——
そのほとんどは、——だがしかし、もちろんそこにもたった一つ、そうでないものがあった。
それがあの「美」と呼ばれる、不思議な代物だった。
*
美。
それはけっして、選ばれた芸術家がかかずらわう、高遠な存在ではない。
例えば我々の誰もが、美しい異性に引かれ、その欣求に人生のエネルギーを費やすのだ……。
もちろんそれが、ただ「性」であるなら、それはあの個の原理だった。
だがしかし、その実それはそうではない。
求められるのは、ただ「異性」であるだけでは足りはしない。いつだって、より「美しい」異性なのだ。
そしてそれは、ただ恋愛ばかりではない。
草花のたたずまい。山の偉容。空の色合い。そこにもまた私たちは、同じような感動を見付けはしないだろうか。
だとしたらそれは、やはりすべての動物たちとは、あまりにも違う。つまりはあの二つの原理だけでは、けっして捕え切れない何かだった。
個体の維持とも、類の存続とも違う。もう一つの別の座標の軸が、そこにはきっとある。その軸の形作る、いわば新しい次元が、人間の営みの別の範疇を司っている、——そう考えなけば何一つ、説明しきれはしないのだ。
それはいわば、「美」の次元。——だがしかし、この「美」と呼ばれるものの、正体は一体何なのだろう?
個体の維持と類の保持。すでにその二つの座標軸が、動物たちの——動物としての人間の側面の、すべてを司っていた。
だとしたら、そうでない別の次元というのは、一体何を意味しうるのか?
答えはもちろん、たった一つだった。
確かに、それがどんなに独り善がりに聞こえようとも。私は今、圧倒的な確信をもって、こう言い切ることができる。
それはこそは「神」の次元なのだ、と。——
この新しい座標の軸の頂点に、「神」が座る。
いわば「神」に近いものを、人は「美」と感じて希求する。
その磁力が、ただ「動物」とは違う、もう一つの人間の側面に作用しているのだ……。
そうだった。ここにもう一度だけ、繰り返しておこう。
宇宙を造る、神なるものがあるとしたら。その為し能うことは、きっと私たちの知る理性の働きと、同じだった。
それどころかそれは、ひょっとしたら人間たちの魂が、そっくりそのままその局部であるような、何かなのだ。——
だとしたら。言い換えれば「人」は、少なくともその精神の機能において、確かに神の似姿だった。そればかりではない。あるいはときには、神そのものでさえあった。
いわば半ばは、造られた獣でありながら、同時にまた半ばは造る神でもあるような、混血児(あいのこ)の存在。地に這いながら天を想う逆説。そんな不思議な二律背反が、いつでも私たちを支配していた。
合板の片面は、すでにご存じの通りだ。
それは食らうこと。眠ること。交わること。
そして戦も、政(まつりごと)も、そしてあの道徳でさえ、その本質は獣たちの営みと変わらなかった。
そのすべては「個」と「類」を維持する、あの二つの原理で説明できた。——そしてもし、そうだとしたら? そこに捕らえることのできない「美」の営みとは、一体何なのか?
確かに答えは、もはやただ一つだった。
そうして「個」と「類」の二つの座標の軸が、地を這う人間たちの、次元を規定しているとしたら。だとしたら、もう一つのそうでない軸は、もちろん垂直に、——天に向かって伸びていなければならない。
天に向かって、——もちろんその先の、座標の頂点に座っているのは、「神」だった。
そうだった。「美」と呼び慣らわされるあのものは、つまりはただ神々しさの、謂いにすぎなかった。
いわば神に近いものを、私たちの誰もが美と感じて、希求する。
ただの「動物」とは違う、もう一つの人間の側面に、そうして天の磁力が作用する、——私たちもまた半ば神であるがゆえに、これほどまでに「美」に焦がれ、突き動かされるのにちがいない……。
*
そんなふうに、私たちの半ばを動かす美の原理とは、その実神の原理だった。
だとしたら、それはまた同時にこの宇宙の全体を、窺い知れない玄妙なやり方で、統べているものなのにちがいない。
そう思えば、その有様を究めることは、確かにはかりしれない意味があった。
もちろん私たちが思う美と、神の次元のそれとは、必ずしもすべてが同じではない。
だとしたらそれは、一体どのように同じであり、どのように同じでないのか?
そもそもそ私たちの呼び慣らわす美とは、どのようなものだったのか? ひるがえって絶対の神の次元において、それはどのようなものと変わるのか?
そんな美の本質を究めることは、きっと神を知り、宇宙を説き明かすために、なくてはならない鍵なのにちがいない……。
08・03 〈神の「美」〉
私たちを動かす美の原理は、同時に宇宙のすべてを動かす神の原理でもあった。
そしてもしそうだとしたら、そんな神の次元の、いわば括弧付きの「美」とは、正確にはどのようなものなのか?
その本質のありかについて、確かに今しばらくの考察が必要だった。
それは私たちの慣れ親しんだ美なるものと、そっくりそのまま等しいのか? それともそれは、たまたま同じ言葉で呼ばれただけで、まったく別の何かなのか? ——だが、否。ひょっとしたら、それはそのどちらでもない。
それはそうだろう。
そもそもの初めから、この美という言葉は、とてつもなく微妙で、あいまいな言葉だった。
私たちの慣れ親しんだ、美なるもの? だがしかし、私たちがそう呼ぶとき、その意味するところは、けっして一様ではない。
ある者は、素朴な春の花の淡紅を思い描き、またある者は、身の毛もよだつ猟奇の中にそれを認めた。
どれもが同じ一言で括られながら、その内訳にはその実、私たちの見知った様々な美の品目が含まれていて。それらが時々に、巧みに使い分けられてきたのにちがいないだ。
だとしたら?
それらの数多の美の種類のうちの、いくつかはもちろん、ただ人間たちだけのためのものだった。
だがしかし、また同時にそのいくつかは、私たちの探す神の「美」に、かぎりなく近い。——そんな風に考えることはできないのだろうか?
つまりは、その余のどこかを探すまでもない。私たちの求める神の美とは、すでに私たちの見知ったそれらの中に、初めからひそかに身を潜めていた……。
*
確かに、そうして同じ一言で括られながら、美なるものの概念の内実は、ときによってあまりにも様々だった。
それはただ、個人差というだけではない。
同じ一人の人間の中でさえも、その美の認識は、年齢の段階を追って、大きく変化していく。
例えば幼児の場合で言うなら、その「きれい」はきまって、きらきらの金か、鮮やかな紅の色というような、きわめて単純なものばかりだった。
それはただ、視覚だけに限らない。子供たちの甘美もまた、あるいは砂糖菓子の味わいであり、あるいは子守歌の安らかさ、そしてまた、ふかふかの毛氈の肌触り……。
つまるところ彼らにとっての美とは、何か特別の、神秘の性質ではない。
それはただ身体的なここちよさを、抽象しただけのもの。例えばそこには、春の日だまりでうまいをしたというような、幸福の原体験があって、それを想い起こさせる事物の中に、美を認めているにすぎない。
だとしたら、それはきっと、動物たちの場合と少しも変わらない。
例えば闇を恐れ、光に引かれる動物たちは、それゆえにすべての耀うものを快となす。
あるいはまた別の動物は、花蜜の連想から、すべてのかぐわしさに喜びを見いだすのにちがいない。
子供たちもまた、ちょうどそれと同じだった。
もし彼らのそれを、美と呼ぶとしても。それはあくまでも、身体の愉楽に由来する、きわめて動物的な美であった。
少なくともそれは、動物である人間たちの美、——だとしたらもちろん、私たちの探し求める神の「美」は、そこにはありえない。 そんなものの姿をいくら究めたところで、見えてくるのはただ、動物たちの喜怒哀楽でしかないのだ……。
だがしかし、私たちの抱く美の概念は、けっしていつまでも、そんな原始的なイメージにとどまりはしない。
年を重ねるごとに、誰もがやがて学ぶのだ。
美しいのはけっして、そのようなものばかりではない。
例えば薄墨色や、例えばゲルニカの構図。安楽とは少しも縁のないそれらの中にも、確かに崇高な感動がある。——
あるいはまた、打楽器の迫力に酔いしれ。岩肌の粗い手触りに、俊厳を感じ。辛味や酸味すら、好んで求めることを始める……。
もちろんそれらのどの一つとして、もはや身体的な快をもたらすものではありえない。だとしたら確かに、これまでとは違う、新しい美の範疇がそこにはあった。
そしてもし、かつてのそれが、「動物である」人間たちの美であったとしたら? だとしたらやはり、これは神のものだった。少なくとも、探し求めていた神の「美」の手掛かりは、きっとここらにあるのに違いない……。
*
確かに私たちの抱く美の概念は、年を重ねるごとに、深化していく。
例えば薄墨色や、ゲルニカの構図。——もちろん常人の場合なら、たいていはそのあたりが打ち止めだった。
だがしかし、ときに私たちのいくたりかは、大胆にもさらにその先の未知の領域にまで、触手を延ばしていく。
彼らはやがて学ぶのだ。美しいのはまたけっして、そのようなものばかりではない……。
その先の、扉の向こうに覗くもう一つの、新しい美の世界。
それははもはや、単に「快ではない」というばかりではない。身体的には明らかに不快で、危険で、破滅ですらあるかもしれないもの。
それは例えば、蠅のたかった死体の絵図。硫黄の臭い。あるいは口に飛び込んだ、砂の味。
そしてまた、耳をつんざく女の悲鳴さえ、よしと感じてしまう、禁断の美の境地なのだ……。
もちろん世間的な基準で言うなら、そんな嗜好は単に逸脱であり、狂気であるにすぎない。
たとえ百歩譲って、それを美と呼んだとしても。そこにあるのはただ、忌まわしい美意識の退廃であって、けっして何か思わせぶりな、境地のようなものではありえない……。
だかしかし、それは本当にそうなのだろうか?
思い出して欲しい。
そうして悪趣味とおぼしきものに、眉をしかめるとき。それらを不快となし、破滅と誹るものは、その実あくまでが「動物である」私たちの、本能であるにすぎない。
あの絶対の神の視座から見たとき、それはけっしてそうではないのだ。
そうだった。
全能の神が造った世界に、本当に負の存在など、生まれえない。たとえ生まれたとしても、たちどころにかき消されてしまう。
少なくとも超絶の神にとって、今そこになお在り続けるものは、あくまでもすべてが望ましい、正の存在なのだ。
それはもちろん、蠅のたかった死体も。硫黄の臭いも……。
だとしたら確かに、それらを美とすることに、何の矛盾もないのにちがいなかった。——
蠅のたかった死体の絵図も。硫黄の臭いも。耳をつんざく女の悲鳴も。——
確かに、それらもまたきっと、美と呼びなされるべき何かだった。
だとしたら逸脱であり、狂気であると思えたものは、けっしてそうではない。むしろそれは選ばれた、少数の人間だけが扉の向こうに見つけた、新しい美の姿なのだ。
それはずいぶんと奇異な、逆説のように聞こえるかもしれない。 だがしかし、確かにそれはそうなのだ。
それは確かに、動物である人間たちの怯懦を捨てて、その認識の限界を抜けた彼らが、初めて目にした禁断の輝き。——
そしてもし、そうだとしたら?
もしそうだとしたら、やはりそれこそが探し求めた、神の「美」だった。
少なくとも、「美」に到るその手掛かりは、きっとそこらにあるのにちがいない……。
08・04 〈多様性——そして豊饒〉
そうだった。
もう一度繰り返そう。
宇宙の目的とは、宇宙という存在のそのものだった。
他の何のためでもない。この世界の森羅万象の生起を、神はただありのままの姿で嘉し、いつくしみ、興じている……。
そしてもちろん、そんな絶対的な肯定と観照こそが、ここに「美」と呼んで名付けたものなのにちがいない。
そしてもしそうだとしたら、それは私たちのしがみつく動物的な美しさとは、確かに大きく違っていた。
造られたる人間たちの感覚ではただ不快であり、醜であるもの——蠅のたかった死体の絵図も、硫黄の臭いも、そこではそっくりそのままの姿で肯われ、愛でられなければならない。
いわば美と醜との瑣末な区別を越えて、すべてを一つに飲み込んだ、もう一つ上の「美」の次元が、きっとあるのにちがいない。
それはちょうど、かつてのあの、道徳の議論と同じだった。
いわく、破壊を悪となす道徳は、所詮は有限の人間たちの、護身のための言い分だった。
無窮なる神の視座では、それはそうではない。破壊もまた創造と表裏をなす、宇宙の生成流転の、同じ一つの原理でしかないのだ……。
ちょうどそれと同じように。
美と醜も、快と不快も、あくまでが人間たちの呼び名であるにすぎない。
絶対の神の視座では、すべては等しくかけがえのない重みを担いながら、ただ同じ一つの原理に束ねられる。
造られたるものの眼には矛盾であり、対立でしかなかったそれらが、その実光と影のように相補しあって、世界の多様な彩りを造り上げている……。
そんな深遠な「美」の次元が、そこにはきっとあるのだ。
*
矛盾であり、対立であると思えたものが、その実光と影のように相補しあって、世界の多様な彩りを造り上げている。——
そうだった。
「多様性」。
すべてを解く鍵は、おそらくはその言葉にあった。
私たちの探し求めた超絶の、神の次元の「美」。それはおそらく、そうして数多であることの彩りを喜ぶ、もう一つの美だった。
確かに、無限に異種なるものが配されたとき、そこに生まれる起伏と濃淡のリズムは、必ず目を楽しませる。そんないわば、多様性の美……。
それはもちろん、あののっぺらぼうの安逸の美とは違う。幼子たちが愛した桃色や砂糖菓子の甘味が、やがてゲルニカの構図の蠱惑に取って代わられる——そんな次第の変化の中で、私たちもまた習い覚えた、もう一つの新しい感覚だった。
そしてやがては、蠅のたかった死体の姿さえ。それが世界の豊饒の因子であるがゆえに、よしとしてしまう、あの絶対的な肯定の境地……。
それこそがきっと、本物の、超絶の神の「美」なのだ。
多様性——そして豊饒。
確かにそれが、すべてのキーワードだった。
宇宙を造り、今も動かすあの神なるもの。
もしそこにいささかでも目的があるとすれば、それは他の何でもない。宇宙のそのものがそこに見せる、百花繚乱の絵姿こそが、その意図であり、願いだった。
言い換えれば、宇宙の目的は「美」だった。神はそのために宇宙を造り、その豊饒と多産の原理は、私たちのはかりしれないやり方で、今もなお宇宙のすべてを統べている……。
もしそこにいささかでも目的があるとすれば、それは他の何でもない。宇宙のそのものがそこに見せる百花繚乱の絵姿こそが、その意図であり、願いだった。
そこではもちろん、何一つ異とされることはない。
だとしたらやはり、それはすべての矛盾をそっくりそのまま飲み込んでしまう、統合と調和の原理だった。
確かに、この「美」の眼差しのもとでは、すべての対立が相和すことを始める。
男と女が。天と地が。夜と昼が。光と闇が。
かつて私たちにそう見えていた、美と醜さえも。
互いに手を取り合って踊り、歌い、謳えるものとなるのだ。
そこではもはや、すべての存在が許容され、よしとされる。
もし忌避されるものがありうるとしたら、それは多様と反意である、「単調」と「退屈」だけだったろう。
だがしかし、それとてもまた、「多様」と対照される引き立て役としてそこにあるなら、かえって歓迎されてしまう。
そんな超越の次元が、きっとあるのだ……。
09 だとしたら?
09・01 〈演劇〉
そんな豊饒と多様性の「美」のために、神はかつて宇宙を造り、今でもそれを造り続けている。——
そうだった。
もしも神がこの宇宙を造ったとしたら、その意図するところは何なのか?——神を知り、神を思う誰もが、かつてそんな宇宙の目的を訝った。
確かに、そこに何かの目的を見いだすには、目の前のこの世界はあまりに混沌として見えた。
「善」を目的と考えるには、そこはあまりにも悪が満ち満ち、「秩序」をそれとするには、あまりにもしばしば破壊が行われた。
だとしたら、そんな二律背反を前にして、ある者は悪魔についてのあのまやかしの中に逃げ込み、またある者は、目的についてのすべての考えを捨てて、ニヒリズムの索漠に耐えるしかなかったのだ……。
だが、否。今やそれは、そうではないのだ。
そんな善と悪との、秩序と破壊との、無数の矛盾を飲み込んで。それでもなおかつ、豊饒と多様を悦ぶ「美」の目的が、確かにそこにはあった。
宇宙が繰り広げる、この百花繚乱の絵姿こそが神の願いであり、その森羅万象の生起を、神はただありのままの姿で嘉し、いつくしみ、興じている……。
*
それはいわば、宇宙という名の大伽藍で演じられる、壮大な野外劇。
そこでは無数に配された役者たちが、それぞれの持ち場で、ただ思い思いの台詞を語っている。
ある者は天使の翼を身につけ、ある者は死に神の衣装を纏い、あるいは喜劇が、あるいは悲劇とおぼしきものが行われる。
そうして彼方と此方の、少しも相渉ることのない舞台に、何か共通の演目を認めることは難しい。
だとしたら、これはやはり混沌なのか?
壮大な芝居のように思えたものは、その実ただの祭りの賑わいのようなものにすぎず、そこには本当は何の主題も、意味さえも隠れてはいないのか?
だが、否。それこそが確かに、あの「美」と「豊饒」のドラマなのだ。
統一の筋立てなど、見つからないのも宜なるかな。そんな無秩序なまでの「多様性」が、かえってすべての主題だった。
数多の人物たちが演じる、数多の物語。その仕草と表情の尽きせぬ味わい。天使と死に神の、悲劇と喜劇の不条理な対置。——そうしてすべての因子と、矛盾を渾然と飲み込んで。舞台の上に繰られた多産な彩りこそが、確かに芝居の意味であり、魅力であるのにちがいない……。
確かに、すべてはそうして、演劇に譬えることができた。
芝居の書き手は、もちろん宇宙をつくったあのものだった。
悠久の大河のドラマの、その粗筋は言わずもがな。無数の役者の科白の逐一まで、何一つ神の意匠ならざるものはなかった。
それはただ、台本の中身ばかりではない。舞台の上の演出も、書き割りの配置も、音楽の間奏も。どれもがやはり同じ一つの手によって、操られたものなのにちがいない……。
そしてもしそうだとしたら、そんな芝居を見守る観客は、一体誰なのか?
舞台の向こうの桟敷に端座して、息を呑んでこちらを見つめるもの。あるいはときに笑い、ときに喝采しながら喜ぶもの。——だが、否。もちろんそれもまた、けっして他の何でもない、同じ「神」なのだった。
この逆説の芝居では、そうして作り手が同時に客となった。
それはただ、自ら興じるためにかつてそれを造った、というばかりではない。
現に今もまた、舞台のこちらでそれを造りながら、同時に舞台のあちらからすべてを眺めている、——そんなだまし絵のような超絶の構造が、そこにはあるのだ……。
09・02 〈だとしたら?〉
確かに、すべてはそうして、演劇に譬えることができた。
だがしかし、もしそうだとしたら、——もしすべてが演劇だとしたら、一体この私たち自身は、その何なのか?
それはもちろん、役者ということだった。宇宙という名の野外劇に配された、その無数の役者たち、——確かに、劇の主題が「豊饒」であり「多様性」である以上、舞台の上の頭数は、そうして多ければ多いほど嬉しいのだ。
私たちの生きるこの人生は、壮大な宇宙のドラマの、それぞれの一幕だった。それを演じることはすなわち、ドラマの全体の豊饒の美を増し、それを生きることは、きっと目に見えないどこかで、宇宙まるごとの輝きにつながっている……。
確かに、そんなふうに考えれば、私たちの懊悩の多くは乗り越えられる。
例えば私たちの人生は、ときにあまりに災厄に満ちていた。こうしてただ、苦悶の日々に耐え続けることに、もはや何の意味もないように思える。——だがしかし、もしもすべてが舞台の上の出来事だとしたら、それはそうではない。
もとより芝居に、涙は付き物だった。そこに宇宙という名の、豊饒のドラマが繰られるためには、その筋書きの半分は、むしろ悲劇の筋書きである方が自然なのだ。
だとしたら、何のためらいも、疑問も要らない。役者はただ誇らかに、その悲劇の役所を演じきるべきなのだ……。
あるいは私たちの人生は、しばしばあまりに凡庸だった。何一つ輝きのない日々を、これ以上繰り返すことに、はたしてどれだけの値打ちがあるのか?——だがしかし、そうしてすべてが演劇であるとしたら、望まれぬ役者など、もとより一人もありはしない。二枚目の、主役ばかりではない。端役の地味な演技もまた、無数に芝居を守り立てていた。
そればかりではない。
主役の物語の中では、確かにそうして端役を演じながら、役者は同時にまたもう一つの、彼自身の物語を演じている。
いわば「端役の人生」という、そのもう一つの筋書きの中では、もちろん今度は彼こそが、その主役だった。
そして先刻まで確かに主役であった者は、そこではその実、もはやただの端役であるにすぎない、——そんな共役の関係が、いつでも成り立っているのだ……。
09・03 〈もう一人の自分〉
否。
そもそもこの芝居の主題が「多様性」である以上、本当は主役など、どこにもありはしない。むしろ舞台に配された無数の役者たちの、そのすべてが初めから主役なのだ……。
そうだった。そうしてすべてを演劇と考えるなら、凡庸の人生にも悲嘆の一生にも、確かに何かしらの意味があった。
ちょうど道端に咲く草の花にも「意味」があるように、何一つ豊饒の美の重みを担わぬものはないのだ。
だがしかし、それもずいぶんと不思議なことだ。
確かにすべての私たちが、豊饒の美を彩る、かけがいのない役割を担っている。
辛苦の一生も、悲劇を楽しむ観客の目を喜ばせ、凡庸の一生もまた、舞台の多様な彩りを造る者には、欠かせない対照となった。
だがしかし、それはその当の役者自身にとっては、一体どうなのだろうか?
ただそうして観客たちの目を喜ばせ、作り手の素材となるために、ひたすら演じ続ける役者自身にも、——辛苦と凡庸の一生に耐える私たちの心にもまた、平安が訪れることがあるのだろうか?
*
それはもちろん、その通りだった。
少なくとも、そこには同じような幸福が、満ちているべきなのだ。
それはそうだろう。そもそもがあの私たちの、神についての理解を思い出して欲しい。
いわく神とは、私たちの自我の意識が、その局部にすぎないような何かだった。
だとしたら、私たちが神に思いを重ねることは、もちろんけっして難しくない。そのための手立てもまた、いくらもあったにちがいない。
つまりはそこでは、舞台で演じる役者である私たちが、同時に芝居の書き手となり、舞台を見つめる観客となる。そのようにして、役者が自ら悲劇の役柄を楽しむことも、また可能になるのだ。
あるいはそんな、神についての禅問答を嫌う者は、ただあの「もう一人の自分」というものを、考えてもらえばよい。
そうだった。誰にでも覚えがあるだろう。
私たちの心の内に住まい、たえず語りかける、あのもう一人の自分。
ときに私たちを叱り、励まし、慰撫し。またときには聖霊の、ときには悪魔の声となって私たちを誘うもの。
あるいはまた、鏡の向こうに映った苦み走った男の肖像に、ときにほくそ笑むのもきっと、このもう一人の自分だった。
それは確かに、人生のドラマを必死で生き抜く私たちを、一歩退いた舞台の袖から見つめる何か。
だとしたらその「何か」を、「自分」と呼んだとき。私たちもまた彼方の、新しい次元への手掛かりを、手に入れることができたのだ。
それは舞台の上の役者たちが、同時に芝居の書き手となり、観客となる、あの超絶の次元。
造りたるものと造られたるものが思いを重ね、見る者と見られる者がひそかに合一する、——そんな宇宙の神秘を解き明かす魔法の鍵は、確かにそこらにあった。
確かに、そんな手掛かりを辿っていくことで、誰もが神と宇宙の奥義に近付くことができた。
例えば、どん底の不幸に喘ぎながら、同時に悲劇のヒロインを気取るあの少女。——彼女もまた心の中に、この「もう一人の自分」を、魁偉なまでに育てていた。
それはもはや、慰撫し、励ますばかりではない。むしろ憂いに満ちたその横顔を娯しみ、喝采さえするのだ。
確かに、そうしていったん演出家の、——観客の眼から眺めてしまえば、目の前の苦悩は苦悩であることをやめる。
軽薄な喜劇の筋立てよりは、今のこの涙の結末の方がはるかに麗しく、それゆえに望ましいものに感じられる。
そんな逆説の仕組みが、そこにはあった。
あるいはまた、心の中にたえず自伝を綴り続ける、早熟の文学少年。
「——昭和四十六年。私立A中学入学。このころ芥川に文学に傾倒し、初めての短編を記す。」
そしてそれは、そんな人生のあらすじばかりではない。今日一日の一挙手一投足に及ぶまで、何か作家気取りの口上を、伴わぬものはなかったのだ。
「駅に向かう道はいつになく遠く、道ばたのひいらぎが物憂げに風に揺れていた……。」
もちろんそれもまた、あの「もう一人の自分」のしわざだった。 それはそうして、人生のトータルを、——日々の一こまを過ごす自分自身を、まるで作中の人物を見るように冷ややかに、遠くから眺めている。
もちろんそこにもまた、あの魔法があった。
それはそうだろう。
そうして私小説の一節に組み込まれてしまえば、単調で退屈な日々の暮らしも、思わせぶりの文脈の中で、不思議な輝きを放ち始める……。
*
そんな彼らのやり方を、何か特別な気質のように、笑ってはならない。
なるほど彼らは、あの「もう一人の自分」を、奇形のように魁偉に育てていた。
だがしかし、それはただの例外というのとは違う。むしろ私たちの誰もが、きっと見習わなくてはならないような何かなのだ。
そうだった。
そうして一歩退いた中空から、自分自身を見つめ直すことで。悲嘆の人生も、退屈の日々も、たちまち心楽しい芝居の一幕のように映り始める。
涙を喜びに変え、じゃり石を宝石に変じる魔法の仕掛けが、確かにそこにはあった。
だとしたらやはり、私たちもまた多かれ少なかれ、彼らに学ぶべきなのだ。
心の内のもう一人の自分に思いを重ね、その視座からすべてを見つめ直す。——それはけっして、例えば偉大な聖者のためだけの、格別の境地ではない。
もしその気になりさえすれば、私たちもまたあの少年少女と同じように自在に操ることができる。そんなごく当たり前の、心の機構なのだ。
確かに、そのようにして私たちもまた、抜け出すことが可能になる。
牢獄のように私たちを捕らえた、この存在の小箱を抜けて。その向こうの「もう一人の自分」となって、自在に宙に遊ぶことがかなうようになるのだ。
それまでの演ずる者は、そのときには造り、眺める者となる。 舞台の上に繰られた苦悶の人生も、退屈の日々も、そのときにはたちまち新しい意味と、輝きを帯びて見え始めるのにちがいない。
だがしかし、もちろん本当の超越は、さらにその先にあった。
それはそうだろう。
舞台の上で演ずる者は、本当はけっして、私たち一人だけではない。そこでは無数の同じような役者たちが、——無数の造られたる者たちが、それぞれの芝居を演じていた。
そしてまた、造り、眺めるものは、本当はそれらのすべての役者の芝居を、——壮大な宇宙の野外劇のすべての筋書きを、同時に記しているにちがいないのだ。
だとしたら?
私たちの誰もが、予感していた「もう一人の自分」。とりわけ悲劇のヒロインを気取る少女が、自伝を綴る少年が、慣れ親しんだあのもの。
それは確かに、「自分」と呼ばれるだけ徹底的に、私たちのこの人生にかかずらっていた。だがそれは同時に、「造り、眺めるもの」である以上、少なくともその向こうのどこかで、それらのすべてともまた、関わっていなくてはならないのだ。
つまりはもし本当に、「もう一人の自分」に思いを重ねることができたなら。そこに俯瞰されるのは、このたった一つの、自分だけの人生ではない。
個我という名の、存在の小箱を抜けたそこでは、すべての役者のすべての筋書きが、——否、それを言うなら千変万化の宇宙のすべての姿が、無限に開豁なパノラマとなって、映っていなければならない。
だとしたら、それはやはり「神」ということなのだ。
私たちの心の奥底で、私たちを見つめる「もう一人の自分」。
そうして私たちを眺め、動かすそれは、同時にすべての私たちを眺め、動かすものでなければならない。
それはもちろん、かつて造られたるすべてのものを造り、今もまた造り続ける、あの根源の力。——。
そのことに気づいた瞬間に、私たちは宇宙のすべてを解き明かす、奥義を知ることができるのだ。
私たちの心の中の「もう一人の自分」は、その実宇宙のすべてを見つめる「神」と同じだった。少なくとも、そのすぐ向こうのどこかに、「神」はいた。
そしてもしそうだとしたら、——「神」が私たちの心の奥処と通じる何かだとしたら、それに思いを重ねることもまた、けっして難事ではないにちがいない。
確かに、本当の超越はそこにあった。
私たちが心の奥処の、「もう一人の自分」に気づいたとき。そしてその向こうの、「神」に思いを重ねたとき。
獣のように地を這って生きる私たちの魂は、初めて天翔ることを学ぶ。
そのときには、眼下に見えるのはただちっぽけな、自分自身の姿だけではありえない。先刻までは自分がその中に埋もれていた、大地の絵巻がそっくりそのまま、一望に納められるのだ。
もちろんそこに描かれたのは、あの悪と破壊に満ちた世界であり、無益な営みを繰り返す、歴史であるにすぎないかもしれない。
だがしかし、いったん造られたるものの次元を離れて、そうして彼方の眼から眺めたとき。すべてはもはや、同じようには映らなかった。
悪であり、破壊であると思えたものは、その実新しい創造の始まりにすぎなかった。
退屈であり、無意味であると思えたものも、また豊饒の野外劇のかけがえのない因子なのだ。
そのことに気づいた瞬間に、すべては彩りを変える。
それまでは暗鬱にくすんで見えた世界が、今ではそのままの姿で、「美」の薄衣を纏って輝いていた。
憂いにふたいだ私たちの心もまた、今では天が下のすべてを、あるがままに受け容れることがかなうのだ。
それは確かに、まるで神がその宇宙を嘉し、いつくしむように。——
*
そうだった。
心の中の「もう一人の自分」に思いを重ね、舞台の上を生きる自分自身の姿を、同時に天上の、彼方の眼から見つめ直すこと。
そんな逆説の体験と思えたものは、その実ただの雛形にすぎなかった。
その先には、宇宙を造るあのものに思いを重ね、造られたるすべてのものの姿をいつくしむ、——そんな本当の、超越の境地があった。
そのときこそ、造られたるものは初めて、造るものとなる。
人が神を知り、神と一つになる法悦の瞬間が、待ちかまえていたのだ。
だとしたら、原始の宗教で、鏡が聖なるものとされたのもむべなるかな。
確かに、およそ人が鏡というものを手に入れるまで、生きとし生けるものに、自らの姿を眺めることなど、けっして適わなかった。
それらはただ造られ、生かされ、見られるものであることに安んじて、日々の生をついばんでいたのだ。
ただ人だけが、水の面に映る不思議の像に心を奪われ、鏡の仕組みを作り出した。
あの鏡の仕組みを。——そしてそのときから、人はその心の中に、「自らを眺めるもの」を育てていった。それはただ容る、というばかりではない。鏡の前に立たない多くの時間にも、人はたえずどこかで、自分自身の有様を意識することを始めたのだ。
だがそれは同時に、彼が新しい領域へ、片足を踏み入れたことでもあった。造られ、生かされ、見られるものの次元から、あの造り、生かし、見るものの次元へ。——
だとしたら、人が眺めるのはもはや、そんな自分自身の姿だけではない。
道端に咲く草の花を、空の青を、風の音を、——いわばすべての造化の妙を心の鏡に映して、いつくしむことを始めたのだ。
それはまるで、すべてを造ったあのものが、眺めるように。
それは確かに、神を知ることに等しい、聖なる瞬間だった。
そうだった。
宇宙をかつて造り、今も動かすあの根源の力。この宇宙の全体を思い、浮かべ、夢見る無辺際の意識。
そんな私たちの「神」に思いを重ねることは、だとしたら本当は、けっして難事ではない。
ただ心の中の鏡を、磨き続けること。そして自分自身を、——道端に咲く草の花を、空の青を、あるがままの姿で映し、眺めること。
ただそれだけだった。
ただそれだけで、私たちは知ることができる。
造られたる者にすぎない私たちの精神(こころ)が、その実すべてを造ったあのものの局部であるような、そんな逆説の仕組みを。
そして、そのときには。——
そのときには確かに、舞台の上の役者は同時に観客となり、演出家となる。
見られる者が見る者となり、造られた者が造る者となる超絶の次元を、私たちもまた手に入れることができるのだ。
そのときにはまた、私たちのすべての苦悩は、乗り越えられる。
呻吟の人生も、退屈の日々も、すべては壮大な宇宙の野外劇の、掛け替えのない一幕なのだ。
そしてまたそのときには、——そのときには、造られものたちのあのちっぽけな考慮は、たちまち失われる。
善と悪の区別も、殺すなかれの戒律も忘れて。
悪も破壊もひっくるめた、本当の豊饒の美を賞でることもまた、可能になるのにちがいない……。
パンセ
著者 鬼沢哲朗
*本書は(株)ボイジャーのRomancerで作成されました。
2021年3月10日 発行 初版
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