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見知らぬ手足が
吊革をにぎり
歩道を蹴って
見慣れた朝にわたしを運んだ
*
バスの一番後ろの座席に
こどもが座っていた
誰も見たことのない、けれどわたしはよく知っている
夜から帰りそびれたこどもが今も
*
地下鉄の下にも
轟音を立てて水が流れている
この世のすべてから無傷のまま
土偶を押し流している
*
真夏の列車はぐんぐん速い
窓には
開けたばかりの箱のような青い
空がある
*
鋼鉄のさんまの腹
腹わたには黒い火薬
スーパーマーケットに
光る空爆
*
コスモスの群落
花びらを寄せて ひとは
何ひとつとして
交換できない
*
自転車のペダル
が 夜道を曳いている
流星のような
美しい足首
*
老人ホームに
母捨てに行く
背負うこともなく
きっとタクシーで となりに座って
*
一匹の犬が鼻を鳴らした
赤絨毯のなかに
黴を探しているようなしぐさで
彼は人間の辞書を引いていたのだ
*
この空をどれだけ剥げば
ほんとうの空となるのか
カレンダーのような
ひらべったいうそ
*
寝起き
鳥たちが鳴きながら青空を撒いている 時は
どこでさわいでいるのか
私の知らぬ周波数で
*
この樹を見つけ
この樹に生まれた
白梅は背負ってきたのだ
生まれる前の記憶をすべて
*
蛾を焼く
燃える電気の喉口が腫れている
誰かが土の下から呼ぶ声がする
コンビニの常夜灯が蛾を焼いている
*
願いとは
ひとの願いとは何か
あたらしく なおあたらしい
天に生まれよと声がする
*
水の通り道
青空を通り抜けて
暗渠をくぐる
記憶のような暗い坂道がある
*
わたしという森をひろげよう
からだじゅうの
穴という穴に
羊歯を植えよう
*
夕陽を見ている
のではなく、夕陽を映す大気を見ている
のではなく、大気のなかにある莫大な空白を見ている
空白とはつねに無言のことである
*
朝が来る
花束のような未来が
畜産試験場
にも生まれている
*
猛ける水のした
町は仰向けにあきらめていた
泣きじゃくる神が
鉄塔に吊るされていた
*
叱られてばかりいる天使だった
その天使には羽根がなかった
人間の顔をしていた
人間の食べ物を売ってくらしていた
*
叱られてばかりいる天使は
腐った太陽のかけらを食べていた
前髪に犬の汗をぶらさげ
人間の食べ物を売っていた
*
まじりけのない垂直がいるのだ
あるとき樹はそう語った
葉を振り落とし
真白の雪をまとって
*
彼岸花
彼岸花
彼岸花
白線で待つ彼岸花
*
梅雨があけると
こどもたちは
町じゅうの水たまりを
ひっぺがして笑い転げていたんだ
*
その場所で ことばは
貨幣のように流通していた
感情と等価に交換され
株価のようなシュプレヒコールを揚げた
パンデミック宿主に降る天のビラ
象の祖母象の母象のわたしアカシアの花のした
この樹に生まれ梅は遠くからやって来た
夕陽そしておやすみの詰まった分厚い空洞
記憶とは 今日もせっせと青空を撒く片足の天使
記憶とは青空を通り抜ける暗い水
赤鳥居が兵隊を生産していた
馬鈴薯が太るとぐわらぐわらと月が走る
あたらしくなおあたらしい天にうまれよと
たいくつなよるは白い怪物をまっている
濁流のはるか上のまた濁流
米びつに米一合短夜を眠る
吹奏楽 三人の少女 「堕落論」
ピカピカのくじらピカピカの波を打つ
蛸の自殺ヒューマニズムの浅ましさ
海は原っぱ海は体育館海のこどもたち
こっかいは幼生のさえずりヨーグルトあじ
蟹の足を放る
五月は島のひとつひとつに緑の帽子かぶせた
街灯の下が夜の夜
湯に浮かぶ誰の腹も満たさない肉
鬼の子が塗り分ける白い人黒い人
海だ時間のかたまりを積んだままの
降りてくる 畜産試験場に燃えさかる船が
ただ無地の未来へ折れ曲がる膝
水は去る 仰向けの町が残る
炊き出しに並ぶそれぞれがみな軍艦
橋を呑む家喰らう水はうたうみなごろしのうた
曼殊沙華ウチら泣き顔のない化け物
永遠は蛾を焼く火音
水猛る泣きじゃくりの神を吊るせと
ぼくはもとより、自分のなかからひとりでにほとばしり出ようとするものだけを、生きようとしてみたにすぎない。どうしてそれが、こんなにむずかしかったのだろう。 ヘルマン・ヘッセ「デミアン」
自分自身の血肉になっている、などと書くと大げさですが、私自身を形成しているもの、深く体の中に溶け込んでいると感じるものがある。高校生の時に出会ったヘッセの「デミアン」「クヌルプ」はその最初のものです。「ひとりでにほとばしり出ようとするもの」を「生きる」ことは、とてつもなく難しいことだと、十七歳の私が、これは一生つきまとうだろうと予想した言葉は、案の定それから四十年たっても私につきまとっている。そして何かを「書く」「読む」という行為はそれに真摯に向き合うことでもある。
ある時期、向き合うことに疲れ、詩(詩人)なんて何もかもつまらない、自分の気分や感情を伝えたいだけじゃないか、もしくは、比喩から比喩へ延々と綱渡りしてもっともらしいイメージを紡いでいるだけじゃないか(どちらも半分くらい?は私の思い込みでしたが)と倦んできたときに出会ったのが石原吉郎のエッセイ「望郷と海」でした。シベリア抑留・強制労働時を振り返った人間観察力を感じるこのエッセイ、何度か読み返しています。自省を背景にある種の認識論のようなものを展開したこの詩も、確実に私のなかに入り込んできている詩です。
花であることでしか
拮抗できない外部というものが
なければならぬ
花へおしかぶさる重みを
花のかたちのまま
おしかえす
そのとき花であることは
もはや ひとつの宣言である
ひとつの花でしか
ありえぬ日々をこえて
花でしかついにありえぬために
花の周辺は適確にめざめ
花の輪郭は
鋼鉄のようでなければならぬ
石原吉郎「花であること」
少し話はずれるかも知れませんが、「花」という、自分以外のものをどう認識しているか、どういう位置づけでとらえているのか、について、私たちはしばしば無意識です。ですが、発言や作品などを通じてそれがおもむろにわかってしまうことがあります。本人にもしばしばわからない。最近わかってきたのは、この「位置づけ」は詩歌における「ことばの扱い」にかなり影響する、正確に書くと「(花など自然に対する)作者の立ち位置が時折見える」ということ。完全に理解できているわけではありませんが、芭蕉の「物と我と二つになりてその情誠に至らず、私意のなす作意なり」、荻原井泉水の「自然・自己・自由」というキャッチフレーズ、これらは端的にこの「位置づけ」のことに言及しているのでしょう。
蟬羽衣も微塵となれり夏の海
大いなる布廻す軸か北の空
日光湯葉に蛇の一寸くるむ夢
春は帯のごときものを河で待つ
地の涯に牡牛の尿を燃やす秋
地の底へ散るかもしれず百日紅
竿先の時を延べればとまる蝶
冬の空蟹をひらけば芒(のぎ)ばかり
雨鳥を容れ海上の鐘のまま
安井浩司全句集より
後半四句は、時間と空間の無限の拡がりがあります。とても好きな句です
ばらよ、おおきよらかな矛盾、あまたの瞼の下で、だれの眠りでもないというよろこびよ。
リルケ「墓碑銘」
これらの詩句はどこかでつながっているような気がします。「擬人法」というような単なるテクニカルなことではなく、「思想や認識に下支えされた感覚」という言葉で伝わるでしょうか。凡庸な感想ですが、「誰のねむりでもないというよろこび」を考える(=感じる)ところから詩が始まる、ということ。それから、
まるめろは私のそとにある形 鴇田智哉
この句は主体と客体が表面上分かれていてわかりやすいのですが、すでに主体のなかに自然に客体が組み込まれている、「自分というもののありよう」はそのまま「私」が観測した「世界のありよう」でもある、ということ。いうなれば、詩は自己表出などではなく、何を書こうとも、それ自身が世界の一部、自己の一部である、ということも言えるのではないかと思うのです。
「デミアン」は、人間の奥底に何があるかという主人公の迷いや苦渋に満ちた物語でしたが、「クヌルプ」は、それらすべてあるがまま承認する物語でした。世間を半分捨てて生きた主人公の名前です。
中上健次に「岬」という小説がある。なぜその小説に手を出したのか忘れてしまったのですが、読後の薄暗い高揚感は今もうっすらと覚えています。生きることのどうしようもなさと、そのどうしようもなさが濡れた糸のように日々の感情に絡みついてくる感覚。
この小説、最後は、主人公と妹がセックスする場面で終わります。とても生々しく、泥臭い物語です。
最終章の一節。「獣のように尻をふりたて、なおかつ愛しいと思う自分を、どうすればよいのか、自分のどきどき鳴る心臓を手にとりだして、女の心臓の中にのめり込ませたい、くっつけ、こすりあわせたいと思った。」
中上健次は、若いころ詩を書いていた方らしく、初期の作品にはその匂いが感じられます。後期になると、句読点の極端に少ない、一文がやたら長い文章になってしまうのですけれど。
それにしても思うのは、「セックス」にまつわることは世間ではいつからタブーになったのでしょうか。(少なくとも私にはそう感じられます。)「キリスト教的世界観が浸透したから」のように言われているのですが、世間に流布している言説はそのまま信じていいかどうか躊躇することが多いです。風俗史や民俗学を紐解く必要があるのでしょうが、そういう歴史は派手で心地よい言説の影に埋もれることも多いのもまた事実なのでしょう。
かといえば、都市圏で電車通勤の方は想像できると思いますが、電車の中吊り広告の(性という話題に関して)品のないことないこと。この落差は不思議です。これは日本だけの現象なのでしょうか。
あるときのこと。ある詩人が若い女性詩人に、もっと性を書けと、官能を書けと発言していたのを読んで、思わずあきれてしまったことがあります。セクハラだということ以前に、性=セックス=官能、というとても短絡的な発想に。セックス=官能だなんて、セックスした(する)ときの感情ってそんな単純でAVのあおり文句のようなものだったのですか、と聞き返したくなる。と思いながら、もしかしたら、この発言は「年若」の「異性」への嫉妬という感情が何かしら屈折して出てきたものではないのか、私の胃の底にひとかけらでもその「嫉妬」という感情がないとは言えないな、などと考えています。
どうしてこんなにも不安で
心が勝手に生きのびるのか
ひとりで虫のように映画をみて
布の上に異国の女を追って汗ばむ昼下がり
悪夢にも遠い夢のなか
水平線に舟は浮かび・消える
あんなにもおびただしい量を男と女が
臭いいのちを分泌しあったというのに
(中略)
おれを返せ! 嫉妬がいくつも車窓に光る
裸の悔恨のほかおれには何もなかった
愛へ向かう希いの重みと深さが
陰湿なちからをやしない
塩からい脳髄の海が割れて
核心から蒼白い液に氷解していく
どうしてこんなにも不安で
おびただしい量が易々と闇に溶けていくのに
求愛の顔がさらに歪むのか
こんな風景を見ながらおれの生も枯れていく
おれの孤独の原野に 射精のごとく
奇怪な幻よ走れ
岡田隆彦「おびただしい量」
ここでの「陰湿なちから」という言葉は、中上健次の小説を思い起こします。そして、いのちとはどうしようもなく「臭い」もので、だからこそいとおしくも不安でもあることを、この詩は深く納得させてくれます。
最近、俳人の津沢マサ子のエッセイを読んだのですが、「わび」「さび」にかこつけた人生訓的なものや趣味臭溢れる俳句というジャンルに対する嫌悪感を語っており、気持ちはわかる、と思ってしまいました。妙に澄ました、無菌的な、付け合わせにちょっと見栄えのいい植物やら天体やら哲学やら比喩を添えた俳句のことでしょう。そうではない、生々しさ、泥臭さを持った俳句を最後に挙げてみます。
風俗店を貫くエレベーターの寒
春灯し嘔吐の後の口を吸ふ
薄氷や十六歳で客を取る
花冷えの白き陶器に嘘をつぐ
泣き止まぬ女を捨てて作り滝
ふくらはぎ少し濡らして白躑躅
北大路翼「天使の涎」より
金で得る幸福を女は季節の花のよう単純に咲きたいのです
思ったほどの感傷もなく子を堕してからの松の芯に陽
結婚に過去をもっている夫ときに侘しく葉のかげ枇杷の実の色づきし
三好米子(「ペガサスの時代」りばてい文庫より)
まぐはひははかなきものといはめども七日経ぬればわれこひにけり 吉野秀雄
「なんかちがう」そう思ってしまうことがある。
感情や気分を、そのまま思想や、社会の『ある普遍性』へとすぐさま敷衍してしまって本当にいいのだろうかと。
筑紫哲也というジャーナリストがいました。テレビニュースでの活舌の悪さを非難する方もいましたが、私は好きでした。この方がある日、こんなことを言ったのです。「詩や文学を引用して『何か正しいことを言ってやった』ような気分になることは、ジャーナリズムではない」と。最近、これはことジャーナリズムに限らないのではないかと思うようになりました。
金子みすずの詩「わたしと小鳥とすずと」は、社会の多様性を肯定しようと促すCMになりました。つまり、「みんな違ってみんないい」のだ、と。
「人それぞれ」という言葉は、人それぞれ意見は違うのだから皆肯定すべきだ、という「一般性」にすぐさま還元されてしまうような気がします。人それぞれ個別の背景を考察すべきだ(その上で多様性を認める)、とする考えには向かいません。両者は全く異なるものです。後者のほうがとても大事なことのように思うのですが。
例えると、「一般性」とは海の表面上の波のようなものですが、「普遍性」とは水の分子のようなもの。個に分け入って初めて、すべての物質に内在することが見えてくる。前者は「スローガン」にはなりますが、社会の多様性を考えるきっかけにはとうていなっていないように思うのです。人は、つまり私も、自分に見えるものしか見ません、また、自分に都合のいいように解釈します。ですから、金子みすずのこの詩を、何かの啓示や人間の真実ででもあるかのように「利用」することに私は躊躇します。たしかに「文学を利用してしまう」ことも「ひとの心」ではありますが、そこには大きな落とし穴があるように思うのです。これは、良い悪いの倫理の問題ではなく「落とし穴」を見続けることこそが重要かな、と。
現在、中島みゆきの「ファイト!」も企業CMになっています。サビの「たたかう君のうたを たたかわない奴らが笑うだろう ファイト!」は、これを聞いた人が、「たたかう君」に見立てる応援歌になりますが、そっと肩をたたいて励まし励まされる心地よさに酔っているだけでは、こういうフレーズを見逃すことになります。
あたし中卒やからね仕事をもらわれへんのやと書いた
女の子の手紙の文字はとがりながらふるえている
あたし男だったらよかったわ力づくで男の思うままに
ならずにすんだだけあたし男に生まれればよかったわ
読み手側の危うさを感じることもありますが、書き手側の危うさのようなものを感じるものもあります。
人間は
火を焚く動物だった
だから火を焚くことができれば それでもう人間なんだ
火を焚きなさい
人間の原初の火を焚きなさい
やがてお前達が大きくなって虚栄の市へと出かけて行き
必要なものと 必要でないものの見分けがつかなくなり
自分の価値を見失ってしまった時
きっとお前達は 思い出すだろう
すっぽりと夜につつまれて
オレンジ色の神秘の炎を見詰めた日々のことを
山尾三省 「火を焚きなさい」部分
ここでは、人間の生を「虚栄の市」と「原初」という単純な二項対立の構図にしてしまっています。ここには、自然や原初というものをただ賛美するものにしてしまった人間中心主義的な世界観しか感じられず、虚栄の市すなわち資本主義・貨幣経済をくぐってきた人間の懊悩の否定にしか向いていないように思うのです。そして、里山で生活してきた方にしては、植物や動物そのものの生のダイナミズム、人間が暮らすために利用・破壊した植物、食べるために殺した動物、に対する視線が圧倒的にないのです。――これらを「罪」だとは私も思っていません。しかし、人間が暮らすうえで日常的になしてきたことを無視するのは、「人間の本然を語ろうとしている詩としては」あまりにも無頓着ではないか。生きる(=殺す、食べる)ことの欲望を醜いもののように描く行き過ぎた精神主義への大きな嫌悪が私のなかにはあります。
以前、マヤ民族の生き残りの人々の生活を描いたドキュメンタリーを読んだことがあるのですが、食と住を自前でカバーしながら、「衣」、及び「食」のための道具に関しては「労働」の対価としての「金」によって得ていることに、文明と非文明なんてそんな単純なことではないのだ、と思ったことがあります。
この詩人に対する不満は、同じく里山生活をしている東千茅氏の「人類堆肥化計画」が、私よりもよっぽど当を得た批評をしておりとても共感します。
初山河一句をもってうちくだく 長谷川櫂
たとえば、この句には現実の「山河」も何もなく、ただ作者の気概というか自意識があるだけです。それを好むことは別に構わないのですが、この「山河」をリアルだ、と感じてしまうことは、「(作者の)ことば」と「実体」を、安易にイコールで結んでしまうことに、無自覚であるような気がするのです。
個人詩誌「午前」第8号をお届けします。
おととしの秋から、三十年振りに暮らす長野県松本市は、北・東・西を山で囲まれている。身近が山で囲まれているということは、当然川も多い。田畑のためであろう用水も多い。通勤や買い物で車を走らせると、必然的にいくつも橋を渡ることになる。水はいつもそこに、土はいつもそこにある。そんな単純で当たり前の地理を、初めてのことのように発見している。
2021年4月30日 久坂夕爾
2021年4月30日 発行 初版
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