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この本はタチヨミ版です。
これまで武田信玄と正室三条夫人と言うと真っ先に彼らの長男義信の起こした義信事件が想像され。
そこから彼らは不仲な夫婦か、あるいは正室三条夫人は信玄からそんなに愛されず、信玄の寵愛も後に武田家当主となる武田勝頼生母諏訪御料人の方にばかり注がれたかのように考えられやすい。
また、この義信事件と勝頼の武田家の家督継承もそうした信玄と正室三条夫人の関係や信玄の側室諏訪御料人への寵愛も原因の一つであるかのように関連付けて考えられる傾向も強い。
そして信玄に関してはその正室三条夫人との関係よりも勝頼生母である諏訪御料人との関係ばかりが研究者も含め、いまだに大勢の人々から注目されやすい。
一方、信玄と三条夫人との関係についてはほとんど注目されることがないままである。
しかし、実際にはこの信玄と三条夫人の結婚は甲斐や信玄や武田家に学問・文化・仏教、また政治的にも非常に多くの収穫をもたらしたものであった。
例えば共に高い教養を備え、学問・文化ヘの関心も高く、共に仏教への深い信仰も共有していた彼ら夫婦の協力の成果が後の信玄が「甲府五山」として選定する、妙心寺派の寺院であり。
更にそれらの寺院が甲斐の学問・文化・仏教の中心として発展した事である。
当時の禅僧というのは宗教の師としだけではなく、学問の師であり、高い教養を備えた文化人としての側面や役割も持っていた。
だから信玄の「甲府五山」の選定も仏教政策としてだけではなく、学問・文化政策でもあったのである。
三条夫人の葬儀の追悼文の中でも実際の信玄夫婦は仏教の深い信仰を介し、大変に仲睦まじい夫婦であったこと、こんな彼らの関係が甲斐の学問・文化・仏教の発展に大きな収穫をもたらしたことも示唆されている。
それにも関わらず、特に長年の三条夫人の不当な存在の軽視や低い評価も大きく関係し、信玄夫妻の関係が甲斐にもたらした、これらの成果についてもほとんど注目され、なおかつ正当に評価されることもほとんどない。
相変わらず、信玄と三条夫人の夫婦関係や三条夫人の存在については義信事件からばかり捉えようとする傾向も根強い。
それと関連して、これも全く文献的な根拠もないまま、数多くの歴史小説やドラマで流され続けた、武田信玄正室三条夫人の公家の家柄を鼻にかける、高慢で嫉妬深い悪女という印象も完全に払拭されたのかも疑問である。
こうした不当と思われる三条夫人に対する否定的な見方にもこちらも戦国の不仲夫婦として有名な徳川家康と築山殿夫婦、そして彼らの長男信康が武田氏との内通を疑われて築山殿と共に家康から死に追い込まれているのと同質の事件として義信事件を捉えようとし。
やはり、信玄と三条夫人も同様の険悪な夫婦関係だと想像したり、三条夫人もこうして共に父親に背いて失脚している息子を持つ生母である三条夫人などはどうせ築山殿のような悪女だったのだろう。
このような想像が長年の間、専らであった。
こうした大勢の人々の信玄夫婦に対する認識も大きく改善されているとも思えない。
そうした様子もいまだに武田信玄と三条夫人夫婦について肯定的・積極的な意味での注目が集まらない状況がそれを物語っている。
それから私自身は家康と築山殿の夫婦関係、そして家康と信康の父子関係、
これらをそのまま信玄と三条夫人の夫婦関係、そして信玄と義信の父子関係と同様のものとして見ることには疑問を感じている。
詳細については後の義信事件の真相についての解明を試みている章で述べたい。
それからここまで特に武田信玄正室三条夫人が実際にはけして諏訪御料人に気圧されることなどもなく、最後まで信玄の妻妾の中では第一位の女性として形式上も実質的にも確固とした位置を占め続けていたと思われるのにも関わらず。
その上、特にこれまでの数多くの武田信玄関連の歴史小説や映画やドラマなどの中での特徴的な描写として、いかにもまことしやかに信玄の妻妾の中ではこの側室で勝頼生母の諏訪御料人が最も注目するべき、重要な女性であるかのような描き方ではあるが。
だが実際のこの諏訪御料人の同時代の関連の文献や記録も極端に乏しく、そのように信玄から最も寵愛を受けていた愛妾であると思わせるような内容もこれらの中からは一切確認ができない。
むしろ史実上の彼女のその存在感は希薄である。
武田勝頼生母である諏訪御料人の存在を信玄の妻妾の中で特別に強調して最も注目するべき存在として扱っているのは後世の江戸時代に成立した軍記物語である「甲陽軍鑑」のみである。
このように実際の武田信玄正室三条夫人と側室諏訪御料人の存在と現在の一般的な扱いや評価と間には見逃す事のできない、大きなズレが生じている。
そしてこれだけ長い間、こうした信玄側室で勝頼生母である諏訪御料人ばかりが注目され、正室の三条夫人の方が軽視・過小評価され続けるのも。
それもこれも全ては武田氏研究や数多くの武田信玄関連のフィクションで活用されやすい、「甲陽軍鑑」がそのような誤まった認識に基づき、武田信玄正室三条夫を扱っているのが大きな原因だと考えられる。
だからそうした「甲陽軍鑑」の様々な偏向やその問題点について、これから私は具体的に指摘していきたい。
とにかく、「甲陽軍鑑」やそれを下敷きにした数多くの武田信玄関連のフィクションの流布した、こうした一方的で不正確と思われる、三条夫人と諏訪御料人についてのイメージ。
そしてそのような「甲陽軍鑑」ばかりに基づいて考察しようとする、今までの武田氏研究のあり方が武田信玄正室三条夫人に及ぼしたマイナスの影響は甚大なものであり。
それがいまだに彼女についての正当な評価を困難にさせている、大きな要因である事実は改めてここで強調しておきたい。
それからこの点についても私としてはぜひ強調しておきたい
武田信玄は代表的な戦国武将であり、人気・注目度も高い戦国武将の一人である。
ところがその正室であり、武田信玄正室として少なからぬ重要な役割を担っていたはずだと思われる、三条夫人に対する人々の関心は不当なくらいに低いものである。
まず、彼女が個別に関心を抱かれたり、個別に本格的な脚光が当たる事もない。
武田信玄に関する女性と言えばいまだに信玄側室であり、武田勝頼生母である諏訪御料人にばかり多くの人々の興味・関心が集まる傾向である。
そしてこうした不遇な存在のままである信玄正室三条夫人についてのその一般的な見方自体も不遇なものである。
夫の信玄の寵愛は彼女よりも諏訪御料人にばかり注がれ、その上、三条夫人の長男の義信は父信玄と対立してやがては謀反事件を起こして失脚、そして武田家当主の生母の地位は武田勝頼生母である信玄側室の諏訪御料人に奪われた不幸な武田信玄正室というような一言で簡単に総括されて済まされてしまっている。
そして本来ならば信玄に関わる女性の中ではまさに正室として第一位の存在であり、もっと重要視されて然るべき存在の三条夫人であるのにも関わらず。
このように諏訪御料人に比べてずっと三条夫人の方は軽視される状況が続いてしまっている。
だが私は三条夫人の存在やその生涯はそんな粗雑な総括で済まされてしまって良いような生涯や存在ではないとも強く感じている。
武田信玄にとって三条夫人との結婚は甲斐や武田家の学問・文化・仏教、政治や軍事面においても大きな利益をもたらしたものである。
ところがそれと反して、「甲陽軍鑑」の中では明らかに諏訪御料人と勝頼が厚遇され、一方、三条夫人と義信には冷淡である。
それもこれも、おそらく、現実にもこの「甲陽軍鑑」は実際のその存在以上に勝頼や諏訪御料人の存在に権威を付与しており。
一方、三条夫人と義信の方はその権威を低下させられていることになっているのだろう。
こうした私の理解に基づき、最終的に私は次のような通説とは異なる最終的な結論にも達した。
従来の武田氏研究でも諏訪御料人が武田勝頼生母であることばかりが三条夫人が武田信玄正室であることの方よりも重視され、注目される傾向であったが。
当然ながら信玄の妻妾としても側室諏訪御料人の方が正室三条夫人よりも重視され、注目される傾向も昔から根強い。
しかし、そのような見方や印象も全ては「甲陽軍鑑」の不正確で偏向した彼女達についての扱いがもたらしたものであり。
実際には諏訪御料人が武田勝頼生母であることよりも三条夫人が武田信玄正室であることの方が遥かに重要な様々な意味がある。
そして信玄の妻妾の中ではまさに最上位の存在であったと考えられる、正室三条夫人こそが最も注目される必要のある重要な女性である。
そしてこの「甲陽軍鑑」の中で諏訪御料人や勝頼の存在が大きく権威付けされて、彼らの存在ばかりが強調されている分だけ、相対的に三条夫人や義信側は低い扱いや評価になりがちという傾向も見逃せない。
現実にも長年の間、この「甲陽軍鑑」の内容のみに大きな信頼を置いている、数多くの武田氏関連の研究や武田信玄関連の歴史小説やドラマの中での彼らの扱いが明らかにそうした様子を見せている。
これも重要な点であり、さらに根本的な問題として、この「甲陽軍鑑」が偉大な武田信玄の賞賛、彼の存在の巨大化をしていることがそのまま、三条夫人や義信の存在を矮小化して貶め、反対に自然と諏訪御料人と勝頼の存在を持ち上げる結果となっていることとも密接に関連している点も否定はできないと私は感じている。
そしてそのためには嫡男義信の起こした事件により、信玄が彼を東光寺に幽閉という処置、そして信玄から嫡子の義信の方ではなく、庶子の勝頼による武田家相続という、信玄から勝頼への武田家相続。
おそらく、これらのことを絶対的に正当化することもまた「甲陽軍鑑」の編纂者小幡景憲にとっては不可欠なのだろう。
だから「甲陽軍鑑」の中での扱われ方により、実際以上に権威付けされた勝頼と諏訪御料人の存在というのも小幡景憲にとってはこれらの目的のためには必要不可欠な要素なのである。
本書が長年、不当に軽視され、過小評価されてきた武田信玄正室三条夫人の正当な評価のきっかけに繋がることを期待したい。
天文五年七月に武田信虎嫡男の晴信と結婚する三条夫人の家の転法輪三条家とは摂関家の次に位置する清華七家の一つであり、最終官位は太政大臣にまで昇進する事ができる。
公家の中でも名門中の名門である。
天文五年に武田信虎嫡男である晴信と三条公頼次女の三条夫人との結婚が決まった時、この時、公頼はこの時点では権中納言であった。
公頼は天文十年に右大臣、天文十五年に左大臣に昇進している。
三条家は笛と装束の家だと伝えられている。質素倹約を家風としていたと言われている。
また、三条家は大変に仏教に対する信仰心が篤い家風でもあったという。
実際にもその家系には多くの僧侶を輩出している。
そしてこのように三条夫人はこれまた仏教を深く信仰した事で有名な戦国武将である信玄に嫁ぎ、また、その妹である如春尼も本願寺の宗主である顕如に嫁ぐなど。
このように様々な形で三条家と仏教との深い関わりが感じられる。
それから長谷川等伯の「日尭上人」で描かれた本法寺の住職の日尭上人は三条夫人の父公頼のかなり年下の弟、異母弟だと考えられる人物である。
つまり、三条夫人にとっては父方の叔父である。
その日尭上人の姿もいかにも典型的な公家顔という印象で、面長の端正で上品な顔立ちである。
その家名の転法輪の謂れはと言うと転法輪には仏の教えを説くという意味があり、また邸が三条仏所の近くにあった事が謂れではないかとも考えられている。
いずれにしても、仏教との関わりが深かった家のようである。
三条夫人が武田家に嫁いでくる時に持参したと伝えられている木彫りの釈迦如来座像も現存している。
だが三条家も特に公家の名門である、清華七家の一つと言えど当時の公家の例に洩れず、財政は苦しかったようである。
当時の京は応仁の乱の後の荒廃で、収入源である荘園を横領されたり、焼かれたりしてその生活は苦しいものであった。また、火付けや盗賊などが横行し、世情も不安定であった。
三条西隆の記した日記『実隆公記』によると長享三年の二月には三条西実隆の隣家であった、これもまた三条家の分家である正親町三条家の築地が夜盗によって掘られる・夜盗の一団が松岩寺に乱入し、僧侶を殺し、ここに泊まっていた西園寺家息女の衣装を剥ぎ取るなどの事件が頻発した。
大永七年の七月には細川高国と柳本賢治の合戦で戦場になった京都は荒れに荒れた。
そして十二月十日には、三好元長の兵が浄土寺に乱入し、十一日には柳本の兵が通玄寺に侵入、そこにいた伊勢備中守貞辰の女房衆を略奪し、橘辻の二位の局の邸宅も、暴兵達の略奪を受けるといった有様だった。
このような情勢の中、洛中の人々の不安は頂点に達し、正親町実胤・甘露寺伊長・勧修寺尚顕、そして三条夫人の祖父転法輪三条実香の様に自邸を飛び出し、一時内裏に避難してその中に小屋を建てて住む者も現われた。
これらの記述から当時の京の荒廃振りが伺える。
当時の京はけして華やかと呼べるような場所ではなくなっていたのである。
三条夫人が少女時代を過ごしたのはこのような世相の時であった。
戦国大名と公家の姫との結婚は当時そう珍しい事ではなかった。
駿河の今川氏親も中御門宣胤の娘寿桂尼を正室に迎え、周防の大内義隆や越前の朝倉義景もそれぞれ、万里小路秀房の娘貞子、近衛前久の娘を正室に迎えている。( 近衛前久の娘は後妻)
武田信虎の嫡男で三条夫人と同年齢の武田晴信と三条夫人の縁談は駿河の今川義元が斡旋したと言われている。
しかし、まだ義元は十八歳と若年であり、実質的には寿桂尼と雪斎等が中心となって進めたのではないだろうか。
天文五年の三月十七日に今川家当主であった今川氏輝が死去した。
氏輝は今川家の家督は同母の弟で当時出家し善徳寺の僧となっていた栴岳承芳( 後の今川義元) に譲ると遺言していた。
しかし、その後今川家重臣の福島氏が今川氏親側室だった自分の娘の産んだ玄広恵探を擁立し兵を挙げ、家督争いの合戦が勃発した。( 花倉の乱)
この時、今川家家臣の大半は正室の寿桂尼の子承芳を支持し、武田信虎も承芳を支持したという。
このため寿桂尼の今まで今川家と敵対していた信虎および武田家に対する印象が良くなり、今川家による、晴信と三条夫人の縁談の斡旋に繋がったという。
三条夫人の父三条公頼は三人の娘達をいずれも公家以外の人々に嫁がせており、しかもその婿達も管領細川晴元・武田晴信・本願寺の門主顕如という、錚々たる顔ぶれである。
この三姉妹がいずれも当時の戦国の政治情勢に大きな影響を与えた人物達に嫁いでいるのは偶然とは思い難い。
これはよほど三条公頼は時流を読むのに長けた人物だったせいであると考えられる。
また、この武田晴信と三条夫人との結婚はこのように天皇からの勅命という形にはなってはいるが。
三条公頼の三人の娘達の結婚相手の選択眼が際立って優れていることからも。
彼自身による、この縁談についての朝廷に対する積極的な働きかけもあったのではないだろうか。
晴信の結婚相手として自分の次女を推薦という形で。
タチヨミ版はここまでとなります。
2021年4月4日 発行 初版
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